-
1:777
:
2025/04/19 (Sat) 00:36:29
-
ヒトラーはアルゼンチンに逃れていた。
2023年1月16日
https://note.com/cocoa369/n/n03d88f467151
1945 年 6 月 20 日にアルゼンチンに移送されたヒトラーに関する CIA 報告書。
CIA report of Hitler transported to Argentina June 20, 1945.
ヒトラーは第二次世界大戦後も生きていたことが機密解除で判明する!?
2025/4/1
https://kininarukabu.com/archives/29153
アルゼンチン政府が、第二次大戦後、ドイツからアルゼンチンへ逃亡したナチスに関する資料を公開することに決めたようだ。もしかしたらそれにヒトラーの生存に関するものも含まれているかもしれない。
こちらのツイートによればアドルフ・ヒトラーが第二次世界大戦で死なずに、アメリカとその同盟国の助けを得てアルゼンチンに逃亡し、20年生きて、娘を二人育てたようだ。
shortshortnewsが訳文をつけている動画
https://x.com/ShortShort_News/status/1906944513236680754
を以下、文字起こし。
この話を知っている人、このテーマを研究したことがある人は、赤軍が迫る中、アドルフ・ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺しなかったことを知っています。
あれが作り話だったことは誰もが知っていると思います。
ヒトラーがその数週間前にドイツから脱出したことをおそらく理解しているでしょう。滑走路につながるトンネルを使って。滑走から飛行機、複数の潜水艦、Uボートが使われ、アルゼンチンへ送られました。
ヒトラーは第三帝国の多くの関係者とともに、アルゼンチンでさらに20年近く生き延びたのです。
アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領は、第二次世界大戦後ドイツから逃れてアルゼンチンに移住したナチス関係者全員に関する残りの文書をすべて公開するように命じました。
基本的にアルゼンチンは第二の作戦拠点のようなものでした。第三帝国はアルゼンチンとドイツで活動していました。
ヒトラーが1960年代なかばに亡くなるまで、アルゼンチンのバリローチェで余生を送ったことはほとんどの人が知っています。CIAの文書を読めばわかります。FBIの文書にもこの地域でのヒトラーの目撃情報があります。
ヒトラーがアルゼンチンに住んでいる間に二人の子どもをもうけたことは有名です。
文字起こし終わり。
ドイツの元首相メルケル氏はヒトラーの娘という噂があったが、本当なのかもしれない。
↓以下はフォックスニュースの関連記事。
Secret documents on Nazis who fled to Argentina after WWII being declassified
https://www.foxnews.com/world/secret-documents-on-nazis-who-fled-to-argentina-after-wwii-being-declassified
https://kininarukabu.com/archives/29153
▲△▽▼
ヒトラー生存説
ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの協力を受け、イタリアやスペイン、北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。
1945年7月17日、ポツダム会談の席上、スターリンが連合国の首脳たちに「ヒトラーは逃亡した」と伝えられたことが最初とする説もある。
その上、副官のオットー・ギュンシェやハインツ・リンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した側近たちの証言が、それぞれ「拳銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。
戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977(ドイツ語版)」のハインツ・シェッファー (Heinz Schäffer) 艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に公式に否定した。FBIは、ヒトラー自殺に関する捜査を1956年で終了している。
それらの噂の他に、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため103歳で死亡した」という報道(1992年。フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。
その他、東機関(TO諜報機関とも)のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもある。この生存説を主題にした作品の一つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。
ヒトラーの頭蓋骨
俗説の一つに、「晩年のスターリンが『ヒトラーが生存しているのではないか』という噂が立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻した」というエピソードがある。
2009年9月29日、アメリカのコネチカット大学の考古学者ニック・ベラントーニ (Nick Bellantoni) が、それまでヒトラーのものであるとされてきた頭蓋骨を鑑定し、頭蓋骨が女性としての特徴を示したためにDNA鑑定を行ったところ、ヒトラーのものではなく非常に若い女性の頭蓋骨であると結論付けられている。
また、ヒトラーが自殺した時に座っていたソファーの断片に付着した血痕からDNAを抽出することに成功したが、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、同定に至っていない。ただし同年12月8日に先の報道についてロシア連邦保安庁 (FSB) は現存している顎の骨をコネチカット大学が入手したことはないと否定しているとインタファクス通信で報道された。
CIA元極秘文書
2015年11月15日付の英紙デイリー・メール等によると、コロンビアのジャーナリスト、ホセ・カルデナスが1990年代に機密指定解除されたCIA元極秘文書の中にヒトラーに関する資料があることを発見、ツイッターで公開したことでヒトラー生存説が注目を集めている。
同文書にはヒトラーが戦後、コロンビアに逃亡し、元ナチス党員のコミュニティを形成しているという情報が載せられており、1954年にコロンビアのトゥンハで撮影されたとされる写真も同封されているという。そこにはインフォーマントであるフィリッピ・シトロエンとともにヒトラーらしき人物が写っている。
同文書によると、シトロエンは鉄道会社に勤務していた時、トゥンハの“レシデンシエス・コロニアス(殖民住居)”で“長老総統”と呼ばれるヒトラーに酷似した人物を紹介された。トゥンハには元ナチス兵士や党員と思われるドイツ人が多数居住しており、長老総統にナチス式敬礼をしていたという。シトロエンはCIAエージェントに長老総統の写真を見せたが、真剣に取り合ってもらえなかった。
しかし、1955年に「Cimelody-3」というコードネームの男がエージェントに接触し、シトロエンの話は真実であり、今も定期的に長老総統と連絡を取り合っているが、長老総統自身は1955年にコロンビアからアルゼンチンに渡り、すでにトゥンハにはいないと語った。この話に興味を抱いたエージェントは上司に報告したが、「確実な証拠を掴むためには多大な努力を要する」との理由で闇に葬られた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC
▲△▽▼
ヒトラーの逃亡説:本当に南米に逃げ延びたのか? - YouTube
歴史ミステリー探究 未解決な謎を推理考察検証 2024/09/27
https://www.youtube.com/watch?v=3ayl98Cp0gE
今回は「ヒトラーの逃亡説:本当に南米に逃げ延びたのか?」というテーマでお届けします。第二次世界大戦終結後、ヒトラーはベルリンで自殺したと公式に発表されましたが、南米に逃亡したという説が今も根強く語られています。この動画では、戦後に浮上した逃亡説の背景や、アルゼンチンやブラジルでの目撃証言、ナチス幹部たちの実際の南米逃亡事例を掘り下げます。また、DNA鑑定や当時の証拠をもとにした反論や、ポップカルチャーに与えた影響についても検証します。現代に至るまで続くこの逃亡説が、なぜ多くの人々を引きつけ、今も語り継がれているのかを探ります。歴史の真実に迫りつつ、未解決の謎が問いかけるものとは何なのか、一緒に考察してみましょう。
No, declassified CIA documents do not prove that Hitler escaped to Argentina - YouTube
FRANCE 24 English 2025/04/02
日本語字幕表示可能
https://www.youtube.com/watch?v=Z45WZ91u8PI
Argentina's President Javier Milei recently announced that his government would declassify all documents relating to Nazi fugitives who settled in Argentina after World War II. Following this announcement, users are sharing the viral claim that Adolf Hitler peacefully lived out his days in Argentina. We debunk these claims in this edition of Truth or Fake.
Declassified CIA docs reveal Hitler's 'secret escape' after WWII as new Nazi reports set for release - YouTube
panoramic world 2025/04/05
日本語字幕表示可能
https://www.youtube.com/watch?v=MgbB4YJnnAw
Uncover the truth behind one of history's most controversial debates!
In this riveting video, we delve into newly declassified CIA documents that challenge the accepted narrative of Hitler's death at the end of World War II. Explore credible claims and eyewitness accounts suggesting that Hitler may have survived, sparking significant questions about historical truth, accountability, and justice.
Discover the inconsistencies surrounding Hitler and Eva Braun’s reported suicides and the subsequent burning of their remains. Learn about bunker witnesses’ conflicting narratives and alleged sightings of Hitler post-war, fueling conspiracy theories. Dive into the controversial claims by former SS officer CIMELODY-three, who alleges he met Hitler in Colombia in 1955 under an alias.
Did Hitler Escape to Argentina? The CIA Files Revealed - YouTube
Supreme Spy 2025/04/03
日本語字幕表示可能
https://www.youtube.com/watch?v=YnwyMtBKEKc
CHAPTERS:
00:00 - Intro
00:49 - Argentina’s Declassification
07:31 - CIA’s Secret Hunt
14:15 - The Colombian Connection
20:28 - Hitler’s Final Days
27:11 - Beliefs in Hitler’s Escape
34:02 - The Real Nazi Exodus
41:05 - Capture of Adolf Eichmann
43:07 - Capture of Josef Mengele
44:17 - Capture of Eduard Roschmann
46:36 - Capture of Franz Stangl
48:27 - Following the Money Trail
55:16 - The Vatican Connection
1:02:45 - Argentina’s Declassification Efforts
1:08:18 - Impact of Institutional Complicity
1:09:50 - The Real Conspiracy Theory
1:10:06 - The Ratlines: Historical Warnings
Did Adolf Hitler escape his Berlin bunker and live in hiding in Argentina? Newly declassified CIA files and Argentina’s explosive announcement to release Nazi fugitive records are shaking history to its core. These chilling details expose the hidden dangers of post-war secrecy, revealing how Nazi war criminals used secret networks to flee justice. From financial corridors to covert escape routes, the terrifying truth about these operations is finally coming to light.
Dive into an insider’s perspective on the CIA’s investigations, President Milei’s groundbreaking decision, and the shocking connections to Nazi havens in South America. This critical information uncovers a national security nightmare, weaving together conspiracy theories, espionage, and unthinkable historical revelations. Could these files rewrite history, or will the evidence finally silence the rumors about Hitler's fate?
Don’t miss the chance to uncover the secrets behind these classified documents and the haunting legacy of Nazi fugitives. Watch now to explore the truth that has captivated the world.
Behind the Headlines | CIA Files: Did Hitler Escape to Argentina? - YouTube
Revelation TV 2025/04/09
日本語字幕表示可能
https://www.youtube.com/watch?v=AcpaN6HjwCU
In this week’s edition of Behind the Headlines, Simon Barrett and Pastor Regan King discuss the declassified CIA files concerning Adolf Hitler. These files strongly suggest that Hitler did not die by suicide in a Berlin bunker in April 1945, but instead escaped to South America.
Revealed by the Daily Mail, these declassified files could dramatically alter our understanding of history and provide new insights into what happened to Hitler and the upper echelons of the Third Reich after the Second World War,
The files indicate that CIA agents were actively searching for Hitler in South America as late as ten years after his supposed death, believing he was residing in a hotel spa deep in Argentina. In 1955, a photo of an individual resembling Hitler surfaced in Colombia, lending credence to the theory that he escaped death and successfully made it to Argentina via the so-called "rat routes." The recent declassification of Nazi files in Argentina may finally reveal the truth about Hitler's fate.
▲△▽▼
消えぬヒトラー逃亡説 アルゼンチン政府の機密文書公開表明で再び注目集める
2025/04/14
https://cyzo.jp/society/post_382263/
ナチスドイツの****者アドルフ・ヒトラーが、第2次世界大戦後も長く生きていたとされる説がくすぶり続けている。2020年に公開された米政府の機密文書で、米中央情報局(CIA)が戦後しばらく、ヒトラーの南米での生存情報を追いかけていたことが判明し、国際社会の耳目を集めたが、今年3月、「逃亡説」の舞台となっているアルゼンチンのミレイ大統領が、ナチスドイツに関するすべての機密文書を公開することを表明した。ヒトラーの逃亡を裏付ける証拠はこれまでに存在しておらず、「逃亡説は陰謀論でしかない」との指摘が主流だが、公開されるアルゼンチンの文書に衝撃的な内容が含まれている可能性は捨てきれない。
チャリティー曲「We Are The World」から40年 今、アフリカを苦しめているのは米政権
地下壕で自殺、遺体はソ連軍が発見 歯形などから身元確認される
1945年1月、ソ連軍がポーランドを越えてドイツ東部に進行し、連合軍の爆撃機がドイツの首都ベルリンを空爆した。壊滅的な被害を受ける中、ヒトラーは地下壕に退避した。4月初旬、250万人のソ連兵がベルリンに到達し、ドイツ軍との間で激しい戦闘を繰り広げた。
敗戦を覚悟したヒトラーは4月29日、長く愛人関係にあったエヴァ・ブラウンと結婚し、地下壕で式を挙げた。披露宴は朝食会だったが、直後にイタリアの****者ベニート・ムッソリーニが愛人のクラーラ・ぺタッチとともに、抑圧された群衆によって殺され、ガソリンスタンドに逆さにつるされたとの知らせが入った。
4月30日午後、ヒトラーは地下壕の自室でエヴァとともに自殺した。死因は諸説あるが、英情報局保安部(MI5)は、ヒトラーは銃で自らを撃ち、エヴァは毒薬のカプセルを服用したとしている。
2人の遺体は地下壕入り口近くの庭に運ばれ、ソ連軍の銃声がとどろく中でガソリンをかけられて焼かれた。ただ、部分的にしか焼けず、空爆でできた穴に急いで埋葬された。
その後、遺体はソ連軍によって発見され、歯形などからヒトラーのものだと確認された。遺体は1970年4月、当時のソ連国家保安委員会(KGB)によって最終的に処理された。2000年4月、頭蓋骨などがモスクワのロシア連邦公文書館で報道陣に公開された。
ヒトラーの死から遺体の処理については、「歴史の真実」としてこのように記録されている。
CIAが戦後、南米への逃亡情報を追う 報告書に写真も
ところが、これとは別に、ヒトラーは地下壕から抜け出して南米に逃亡していたという説は戦後、長くくすぶりつづけている。
第2次世界大戦終結からわずか2カ月後には、米情報当局がアルゼンチンの「ヒトラーの隠れ家」を捜索していたのである。その後も10年にわたり、情報提供者と連絡を取り合っていた。
2020年に公表された米政府の機密文書では、当時の米戦争省(1947年9月に解散)が、アルゼンチンのラ・ファルダという町にあるスパホテルに、ヒトラーの隠れ家が存在する可能性があるという情報を米連邦捜査局(FBI)に送った経緯などが記されている。
終戦から2ヵ月後、ヒトラーが自殺したとされてから6カ月後の1945年10月に作成された文書だ。このスパホテルのオーナーはナチスの有力な支持者で、ナチス宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスに資金を提供し、ヒトラーと近い友人になったことなどが記されている。
米国の情報機関によると、ヒトラーはオーナー家族のナチスへの忠誠心を忘れることはなく、オーナー家族がドイツに滞在した際、ヒトラーはこの家族と同じホテルに宿泊していたという。
戦争省はFBIに、第2次世界大戦でドイツが負けるか、ヒトラーがナチスの指導者を追われた場合、アルゼンチンのこのホテルにヒトラーが逃げ隠れることを確信していると伝えた。
また別のCIAの文書には、1954年にコロンビアで友人と隣り合わせで座っているヒトラーとみられる男性の写真が添付されている。
1955年10月3日の報告書には、ヒトラーが南米に密かに移り住んだかどうかを確認するための諜報活動が行われていることが記されている。「CIMELODY-3」と呼ばれる情報提供者が、欧州でヒトラーの指揮下で働きベネズエラに逃亡した人物と話をしていたことなどが明らかにされている。
この人物によると、元ナチス親衛隊のフィリップ・シトロエンという男が、ヒトラーはコロンビアでまだ生きており、毎月連絡を取り、最近写真を撮ったと話していたという。
この人物は1955年9月28日にその写真を盗み出した。写真に写っているヒトラーとされる男は「アドルフ・シュリッテルマヨール」と呼ばれていたという。文書には、元親衛隊らはヒトラーが1955年1月にアルゼンチンに移住したと話していると付け加えられている。
米上院委員会の要請に応じる 歴史語る「第1級」の資料
こうした機密文書の公開で、ヒトラーの南米逃亡説は消滅することなく、くすぶり続けてきた。そんな中、アルゼンチンのミレイ大統領が今年3月、ナチスドイツに関係する機密文書をすべて公開することを明らかにした。
この公開決定は、ナチスの戦争犯罪について調査している米上院司法委員会からの要請に応じたものだった。アルゼンチンには、ナチスと友好的だったファン・ドミンゴ・ペロン大統領の時代に、多数のナチスの戦争犯罪人が秘密裏に逃げ込んでいる。
ヒトラーの「逃亡説」が荒唐無稽なものだとしても、アルゼンチン当局の機密文書は、戦後のナチスの動きを解明するには「第1級」の資料で、文書の公開を国際社会が注目している。
https://cyzo.jp/society/post_382263/
▲△▽▼
【機密解除】ヒトラーは南米に逃げていた!?アルゼンチン政府が“禁断の文書”公開へ
2025.04.08
https://tocana.jp/2025/04/post_279579_entry.html
ナチス・ドイツ無条件降伏の直前に自殺したはずのヒトラーだが、実は死を偽装して南米・アルゼンチンに逃れていたのか――。これから公開される機密文書で終戦後のヒトラーの足取りが解明される可能性が高まっているようだ。
■“ヒトラー逃亡説”が明らかになる可能性
ヒトラーは戦後、南米・アルゼンチンへ逃れていたのか――。
第二次世界大戦末期の1945年4月30日、ヒトラーは夫人のエヴァ・ブラウンとともに自殺を遂げ、遺体は生前の意向に従ってガソリンをかけて燃やされ、連合軍はヒトラーの焼け焦げた遺体を確認したことが報告されている。
その一方で、2020年に公開されたCIA文書には、ヒトラーは死を偽装し南米に逃れていたかどうかを確認するためにCIAの諜報活動が行われていたことが明記されている。
戦後にCIAは実際に南米でヒトラーの足取りを追っており、捜索の過程でヒトラーと見られる人物の写真も入手していたのだ。ヒトラーは見つかっていたのだろうか。
【機密解除】ヒトラーは南米に逃げていた!?アルゼンチン政府が“禁断の文書”公開への画像2
現地のエージェントはコロンビアでヒトラーに似た男性の写真を発見したと報告し、その写真を提供している。
情報提供者によると、ヒトラーと目される男性は「アドルフ・シュリッテルマヨール」と呼ばれており、コロンビアのトゥンハでベンチに座っている写真が入手された。この人物はヒトラーなのだろうか。
CIAが南米でヒトラーを捜索していたことは事実だが、その後の捜索がどうなったのかにつてはよくわかっておらず、文書によればヒトラーの追跡は1955年11月に終了したようにも見える。
【機密解除】ヒトラーは南米に逃げていた!?アルゼンチン政府が“禁断の文書”公開への画像3
画像は「Daily Mail」より
しかしこの度、アルゼンチンからの衝撃的な発表により、この一件は再び注目を集めている。
アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領は3月、第2次世界大戦後に亡命し国に保護されたナチスに関するすべての文書を機密解除するよう政府に命じた。
アルゼンチンは80年前、戦争犯罪の処罰を逃れたナチスの残党たちの移住先にもなっていたのだが、今回これらの文書の公開により、ヒトラーの謎が解明されるかもしれない。
アルゼンチンが大量の古い文書を機密解除する決定を下したことで、南米における国防総省とナチスの関わりについてさらに多くの情報が明らかになる可能性が出てきたといえる。
公開を待つアルゼンチンの文書には、第二次世界大戦の終結前と終戦後にナチスがドイツから逃亡するために使用した秘密の国際逃亡ルートである「ラットライン(ratlines)」への同国の関与が詳細に記されているとみられる。
間もなく機密解除される文書の中に、ヒトラーに関するものが含まれているのかどうか、現時点ではまったく不明だが、驚くべき事実が明らかになる可能性が残されていることには興奮を禁じ得ない。
https://tocana.jp/2025/04/post_279579_entry.html
▲△▽▼
FBIは、ヒトラーが1945年にアルゼンチンに逃げたことを証明する秘密ファイルを静かに機密解除した
2022年12月27日
https://note.com/cocoa369/n/nd0ac3a3a2c25
1945年4月30日、アドルフ・ヒトラーは地下バンカーで自殺した。彼の遺体は後にソビエトによって発見され、特定され、ロシアに急行された。それともそうでしたか?
新たに機密解除されたFBI文書は、政府がヒトラーが生きていて、第二次世界大戦後ずっとアンデス山脈に住んでいることを知っていたことを証明している。
ソ連がずっと嘘をついていて、その歴史が意図的に書き換えられたことは本当に可能ですか?
FBIの文書が公開されるまで、誰もそうは思わなかった。歴史上最も嫌われている男が戦争で引き裂かれたドイツを脱出し、アンデス山脈の美しいふもとで牧歌的で平和な生活を送った可能性があるようです。
インテリジェンスコミュニティは知っていた
最近発表されたFBI文書は、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの自殺が偽造されただけでなく、悪名高いペアが米国のスイスのOSS長官自身、アレン・ダレスの助けを借りた可能性があることを示し始めている。
ロスアングルスからの1つのFBI文書では、同機関はアルゼンチンの海岸を上り、高レベルのナチス当局者を降りる神秘的な潜水艦を十分に認識していたことが明らかになった。さらに驚くべきことは、FBIが彼が実際にアンデス山脈のふもとに住んでいることを知っていたという事実です。
謎の情報提供者は誰ですか?
1945年8月に事務局に宛てたロサンゼルスの手紙で、身元不明の情報提供者が政治亡命のための情報交換に同意した。彼がエージェントに言ったことは驚くべきものだった。
情報提供者はヒトラーがアルゼンチンにいることを知っていただけでなく、ドイツの潜水艦に会った確認された4人の男性の1人でした。どうやら、2隻の潜水艦がアルゼンチンの海岸に着陸し、ヒトラーとエヴァ・ブラウンが2隻目の潜水艦に乗っていたようです。
アルゼンチン政府は、元ドイツの****者を歓迎しただけでなく、彼の隠れ家も支援した。情報提供者は、ヒトラーと彼の党が通過した村に詳細な指示を与えるだけでなく、ヒトラーに関する信頼できる物理的な詳細も伝えました。
明らかな理由から、情報提供者はFBIの書類には決して名前が付けられませんでしたが、彼は一部のエージェントに信じられるほど信頼されていました。
FBIはヒトラーの居場所を隠そうとした
詳細な物理的な説明と指示があっても、FBIはまだこれらの新しいリードをフォローアップしなかった。
最終的に囲む直前にドイツのサブU-530をアルゼンチンの海岸に置いた証拠と、ドイツ当局者が降ろされたという多くの目撃証言があっても、誰も調査しませんでした。
画像をクリックでFBI機密解除文書が見れます
アルゼンチンでのヒトラーの存在を証明するさらに2つのFBI機密解除文書は、ここで見つけることができます。
1963年にアドルフ・シュトルマイヤーという仮名で暮らしているアドルフ・ヒトラーの写真 / 出典:CIA / 全文はこちら
さらに多くの証拠が発見される
アルゼンチンでのヒトラーの居場所の目撃証言を詳述したFBI文書とともに、アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンがそのバンカーで死ななかったことを証明するために、より多くの証拠が明らかになっています。
1945年、ブエノスアイレスの海軍アタッシェは、ヒトラーとエヴァ・ブラウンがアルゼンチンに到着したばかりの可能性が高いとワシントンに知らせた。
これは潜水艦U-530の目撃と一致している。追加の証拠は、アンデス山脈のふもとにあるバイエルンスタイルの邸宅の建設を詳述した新聞記事の形で提供されます。
さらなる証拠は、以前の裕福なドイツ移民によって資金提供されたヒトラーの新しい家の設計と建設について書いた建築家アレハンドロ・ブスティージョの形で来ます。
ヒトラーが逃亡したという反論の余地のない証拠
おそらく、ヒトラーがドイツの陥落を生き延びたという最もダムの証拠はロシアにある。ソビエトによるドイツ占領により、ヒトラーの遺骨はすぐに隠され、ロシアに送られ、二度と見られなかった。
それは、コネチカット州の考古学者ニコラス・ベラトーニが回復した頭蓋骨の断片の1つでDNA検査を行うことを許された2009年までです。
彼が発見したことは、知性と学術コミュニティを通じた反応を引き起こした。DNAはヒトラーと考えられる記録されたサンプルと一致しなかっただけでなく、エヴァ・ブラウンの身近なDNAとも一致しなかった。問題は、ソ連はバンカーで何を発見し、ヒトラーはどこにいるのかということです。
元将軍でドワイト・D大統領でさえ。アイゼンハワーはワシントンに手紙を書いた。
ヒトラーの競争の失踪を懸念していたのはアイゼンハワー将軍だけでなく、スターリンも懸念を表明した。
1945年、スターズ・アンド・ストライプス紙は、当時のアイゼンハワー将軍が、ヒトラーがアルゼンチンに安全かつ快適に暮らす本当の可能性が存在すると信じていると引用した。
更新:次のビデオクリップは、第二次世界大戦のベテラン、2回のパープルハートとブロンズスターと勇気の受信者、オーブリー・テンプルズを特集しています。捕虜として、彼は1945年4月30日、彼とエヴァ・ブラウンがベルリンのバンカーで自殺したと思われる日にヒトラーと対面した。
著者で歴史家のピーター・デビッド・オアは、彼のアカウントを暴こうとして、オーブリーと8回の広範なインタビューを行った。オーブリーがこの懐疑論者の心をどのように変えたか、そしてそうすることで、第二次世界大戦の最終章の歴史を発見してください。その結果、彼は「ヒトラーの逃亡の目撃者」と題した必読の本を書いた。
公式OSS写真は、1944年のアドルフ・ヒトラーの出現の可能性を示しています
ヒトラーが彼を識別せずにそんなに長くは生きられなかったと思う人のために、外観のわずかな変化でも人の全人相を変える可能性があることに注意してください。
画像
最初の写真はアドルフ・ヒトラーの本物の写真で、次の5枚は1944年6月6日にOSSのためにニューヨークのメイクアップアーティストのエディ・センツによって作られました。
たとえ外国で彼と顔を合わせたとしても、2枚目、4枚目、5枚目、または6枚目の写真で彼を認識していたでしょうか?(これらの写真は、整形手術ではなく、顔の毛と散髪の非常に小さな変化のみを表していることを覚えておいてください)。
ヒトラーの逃亡のさらなる証拠は、ここでも見つけることができます:ヒトラーはアルゼンチンに脱出し、古い死にました:FBI文書、頭蓋骨のDNA分析など
それは可能ですか?
新しく発見されたすべての証拠が明らかになると、ヒトラーがドイツから逃げただけでなく、国際諜報機関の助けを借りた可能性も可能であり、可能性さえあります。
公開されたFBI文書は、彼らがアルゼンチンでのヒトラーの存在を認識していただけでなく、それを隠すのにも役立っていた。
OSSが高位のナチス当局が罰から逃れ、捕獲するのを手伝ったのは初めてではないだろう。1960年代にアルゼンチンにいたアドルフ・アイヒマンの物語を見てください。
ヒトラーはアルゼンチンに逃げましたか?
答えはイエスです。このテーマの詳細については、こちらをご覧ください。
ハリー・クーパーの著書「アルゼンチンのヒトラー:ヒトラーのベルリンからの脱出の文書化された真実」を読む
https://note.com/cocoa369/n/nd0ac3a3a2c25
▲△▽▼
▲△▽▼
陰謀論
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14033997
現在、一番陰謀的な陰謀論を拡散しているのは河添恵子さんですね:
(開始20時) 特番「河添恵子さん登場!激論!トランプ大統領の世界戦略と日本」松田政策研究所代表 松田学 × ノンフィクション作家 河添恵子氏
松田政策研究所チャンネル 2025/04/18
https://www.youtube.com/watch?v=2o8gK5UKgBQ
ノンフィクション作家 河添恵子氏
<目次>
〇トランプ関税は世界秩序の再編
〇DSvsTS
〇プーチンロシアのTSに対する見方、ロシアは勝利者
〇MAWA
〇国家債務と米ドル
〇再産業化と中間層の復活
〇所得税の廃止と関税収入主軸
〇新たなブレトンウッズ体制?
〇中国の孫子の兵法
〇エコノミックステートクラフト
〇トランプが中国に仕掛けた罠
〇****スパイとフェイスブック
〇世界監視ツール
〇GAFAとBATH
〇中国による米国農地の買収
〇習近平思想と中国の世界秩序とAI監視社会
〇金融のリセット
調査報道 河添恵子TV / 公式チャンネル - YouTube
https://www.youtube.com/@user-rt9lm1db9d/videos
河添恵子 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B2%B3%E6%B7%BB%E6%81%B5%E5%AD%90
河添恵子【秘密結社? 「イエズス会」とは?」】
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16866759
河添恵子「“悪魔”が支配する壊れた世界 ~ イーロン・マスクのDNA」
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14080646
【河添恵子】酷すぎる...中国人の民度とモラルの低さには驚きました
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14008379
河添恵子 中国共産党の真実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/425.html
河添恵子 中国臓器狩りの真実 人道を超えた臓器売買&移植手術の実態
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/199.html
河添恵子 : 習政権が必死に隠している武漢コロナ・ウイルスの発生源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/602.html
▲△▽▼
保守・右翼が大好きなアホ陰謀論
陰謀論? 闇の支配層『黒い貴族 ヨーロッパ13貴族』とは?
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16864643
陰謀論? ヒトラーを狂人化したタヴィストック人間関係研究所の洗脳
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16898993
トランプの真の敵/ディープ・ステートとは何か?
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16878485
チャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「日銀と通貨発行権」の誤解について
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/848.html
アシュケナージ系ユダヤ人の歴史
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14043502
ユダヤ人の Y-DNA _ 日本にはユダヤ人の遺伝子は全く入っていない
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007378
これがチャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「ユダヤ陰謀史観」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/505.html
【トンデモ】 日本のメディアを支配する“フランクフルト学派”の恐怖
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14118106
従軍慰安婦・徴用工強制連行、南京大虐殺は事実なのか?
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14106485
天皇の Y染色体が縄文人と同じ D1b だというのはデマ
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007765
「日航機123便墜落事故」と 「対米従属」に隠された恐ろしい関係
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16850937
-
2:777
:
2025/04/19 (Sat) 01:13:29
-
****者列伝 _ アドルフ・ヒトラー
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/798.html
ヒトラーの共産主義との戦い
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html
【ゆっくり解説】ナチスドイツの経済政策【ヒトラーはドイツ経済を救った?】~しくじり財政破綻~
https://www.youtube.com/watch?v=hsFvF1XxA0k
アドルフ・ヒトラーの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html
ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html
『ヒトラー思想』とは何か
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/347.html
****者の登場と行く末
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/409.html
アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html
天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/361.html
「アドルフ・ヒトラー」は「ユダヤ人」ではなく何の変哲もない一般的な「オーストリア人」
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/634.html
バトルヒストリー _ 独ソ戦
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16878510
【閲覧注意】極度の飢えで食人まで横行…。数百万が犠牲になったレニングラード包囲戦【独ソ戦③】
バトルヒストリー 2024/12/17
https://www.youtube.com/watch?v=PEi0xWjJ00o
アウシュヴィッツ 探訪記
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14128816
ナチスの「人間牧場」 選別した男女に****渉させ、アーリア人を産ませる
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14027543
ナチスのユダヤ人に対する不妊作戦
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14047960
【ロシアに占領された結果】ドイツ捕虜の扱い が悲惨過ぎた
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16828227
アフター・ヒトラー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html
ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html
アドルフ・ヒトラーが愛したワーグナーのゲルマン神話の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html#c1
華麗なる芸術都市の光と闇 “魔の都”ウィーンに響く天才歌手グルベローヴァの美声
これがウィーンの音
http://www.asyura2.com/22/reki8/msg/126.html
ゲルマンの音とはワーグナーが広めた如何にも意味有り気で奥深く感じさせる演奏様式の事
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16895074
ウィーン・オーストリア系演奏家の名盤
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16895481
ブッシュ弦楽四重奏団 _ アドルフ・ブッシュ(1891年8月8日 - 1952年6月9日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14010460
レオポルト・ウラッハ (1902年2月17日 - 1956年5月7日) クラリネット奏者
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14154034
ゲルマン系指揮者の名盤
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16895320
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1886年1月25日 - 1954年11月30日) 指揮者
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14010877
ハンス・クナッパーツブッシュ(1888年3月12日 - 1965年10月25日)指揮者
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14010878
ゲルマン系ピアニスト・オルガニストの名盤
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16896305
ヴィルヘルム・バックハウス(1884年3月26日 - 1969年7月5日)ピアニスト
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14010630
アルベルト・シュヴァイツァー(1875年1月14日 - 1965年9月4日)オルガニスト
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16882620
ヘルムート・ヴァルヒャ(1907年10月27日 – 1991年8月11日)オルガニスト・チェンバロ奏者
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16872552
カール・リヒター(1926年10月15日 - 1981年2月15日)指揮者・オルガニスト・チェンバロ奏者
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14011028
ゲルマン系声楽家の名盤
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16895393
ロッテ・レーマン (1888年2月27日 - 1976年8月26日)女性歌手
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16894515
エリーザベト・シュヴァルツコップ (1915年12月9日 - 2006年8月3日)女性歌手
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16894512
ゲルハルト・ヒュッシュ (1901年2月2日 - 1984年11月21日)名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/913.html
ハンス・ホッター(1909年1月19日 - 2003年12月6日)男性歌手
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16894300
フィッシャー=ディースカウ (1925年5月28日 - 2012年5月18日)男性歌手
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16894517
-
3:777
:
2025/04/19 (Sat) 02:06:32
-
南米パラグアイに移住してアーリア人植民地「新ゲルマニア」を建設しようとしたニーチェの妹エリーザベト
超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1753.html
ニーチェの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html
ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第280話) 超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
■哲学者ニーチェの妹
哲学者ニーチェの人生は波瀾万丈である ・・・ 皮肉に満ちて。
正気の時代は無名で、気が触れると「狂気の哲学者」で有名になり、死して後、「ナチスの予言者」となった。
天才画家ゴッホを彷彿させる切ない人生だが、ゴッホ同様、ニーチェに責任があるわけではない。じつは、ニーチェの名声は彼が正気を失った後、偽造されたものなのである。しかも、偽造したのがニーチェの妹だというから、皮肉な話だ。
とはいえ、偽造されなければ、ニーチェは無名で終わっていた。
偽りの名声か、ありのままの無名か?
まさに、究極の選択だが、ニーチェが生きていたら、きっと、後者を望んだだろう。プラトンなみに理想論と抽象論を愛した人物だから。
では、「ニーチェ」はいかにして偽造されたのか?
ニーチェは、発狂した時点で、哲学者としての寿命は尽きていた。しかも、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェが世に出る術はない。
ところが、その術を提供した人物がいた。ニーチェの実の妹、エリザーベト・ニーチェである。彼女は、兄ニーチェの価値を見抜き、一山当てようともくろんだのである。
エリザーベトは、兄ニーチェの2歳年下で、目がクリっとした愛くるしい女性だった。だが、問題はそこではない。彼女は羊の皮をかぶった怪物だったのである。
■天才プロデューサー
エリザーベトは、商売の天才、まれにみる辣腕プロデューサーだった。しかも、その小さな身体の中には、「鉄の心臓」と「小型原子炉」が秘められていた。それが、揺るぎない信念と無尽蔵のエネルギーを発生し、とてつもない大業を成し遂げたのである。
彼女がプロデュースしたプロジェクトは3つ。
1.哲学の至宝「ニーチェ・ブランド」を確立したこと。
2.南米パラグアイにドイツ人植民地「新ゲルマニア」を建設したこと。
3.ニーチェをナチスのプロパガンダに利用し、ナチスを正当化し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたこと。
一目して、AKB48、テーマパーク、村おこしとは一線を画すことがわかる。すべて、歴史を変えた大プロジェクトなのだから。そのすべてが、愛くるしい一人の女性によって成し遂げられたことに驚かされる。
エリーザベト恐るべし ・・・
そもそも、エリーザベトには、尋常ではない信念があった。人の道にはずれ、利にさとく、日和見的ではあったが、その時々で迷いがみじんもないのだ。
それは信念ではなく、思い込みでは?
ノー!
単純な思い込みではない。
エリーザベトの「望み」は、たいてい、「真実」や「正義」に反するものだったが、彼女の中では完全に一体化していた。つまり、「望み=真実=神の摂理」だから、みんな私に従って当然、と本気で信じていたのである。彼女の「望み」が「真実」なら、変わるはずがないのだが、目先の利益にしたがってコロコロ変わった。ところが、彼女がそれに気付いた形跡はない。自己実現への熱い思いが、真っ当な論理を溶解したのである。
だから、エリーザベトの信念は思い込みではない。本人も気付かないほど巧みに偽装された「真実=信念」なのである。これほどタチの悪い”信念”はないだろう。
とはいえ、「鉄の心臓」が生んだ信念と、「小型原子炉」が発生する無限のエネルギーは、とてつもないものを生み出した。発狂した無名の学者から、哲学史に残る「ニーチェ・ブランド」を創造し、ナチスのプロパガンダに利用し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたのだから。
なるほど ・・・
ニーチェ・ブランドとナチスの予言者はつながった。では、南米パラグアイのドイツ人植民地は?
じつは、この3つには共通項がある。
エリーザベトには3つの信念があった。人の道にはずれた「人種差別(反ユダヤ主義)」と「国粋主義」と「全体主義」である。この3つは、言わずと知れたナチスのテーゼ、だから、エリーザベトがナチスに加担したのも無理はない。
でも、それと、ドイツ人植民地とどんな関係が?
じつは、最初にこの植民地計画を立案したのは、エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターだった。彼は、狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、南米パラグアイに新天地を求めたのである。それに、心から賛同し、率先して計画を推進したのが妻エリーザベトだった。
というわけで、ニーチェ・ブランド、ドイツ人植民地、ナチスの予言者は、すべて、エリーザベトの信念にもとづいている。
話をナチスとニーチェにもどそう。
エリーザベトが、ニーチェ・ブランドをナチスのプロパガンダに利用したのは、ナチスに心酔したからだが、理由はそれだけではない。彼女は利にさとく、商売上手だった。つまり、ソロバンをはじいたのである。
具体的には ・・・
ナチス政権に加担し、その見返りとして、国から資金を引き出し、ニーチェ・ブランドの諸経費にあてる。あっと驚く厚かましいソロバンだが、それが現実に成功したのだから、仰天ものである。
ということで、エリーザベトは、ナチスのイデオロギーをニーチェ哲学で理論武装しようとした。
ところが、一つ問題があった。
ニーチェは、人種差別、国粋主義、全体主義を嫌悪していたのである。つまり、ナチスのイデオロギーとは真逆。
■ニーチェとナチス
ニーチェは人種差別主義者ではなかった。
当時、ドイツのみならず、ヨーロッパ中が反ユダヤ主義に染まっていたが(デンマークは除く)、ニーチェはそれを嫌っていた。
一方、ニーチェがユダヤ教を批判したことは事実である。ただし、彼が批判したのはユダヤ教の教義であって、信者のユダヤ人ではない。実際、ニーチェはユダヤ教だけではなく、キリスト教も同じ論理で批判している。つまり、人種とは何の関係もないのだ。
では、ニーチェはなぜそれほどユダヤ教・キリスト教を嫌ったのか?
ユダヤ教もキリスト教も、現実世界で国家権力に敗北したが、その恨みを晴らすために、精神世界をでっちあげたと考えたのだ。
具体的には ・・・
われわれは国家権力に迫害され、虐殺されたけど、本当に負けたわけじゃない。精神世界、つまり、道徳の観点でみれば、暴力をふるった方が負け。つまり、われわれは本当は勝者なのだ。
負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか?
そこで、ニーチェはこれを「奴隷道徳」とよんで、さげすんだ。弱者を救済するための方便と考えたのである。詭弁を弄して、正当化しようが、根本はひがみとねたみではないか。ニーチェは、このような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。
つまり、ニーチェは、ユダヤ教とキリスト教の道徳的価値観を否定したのであって、ユダヤ人を差別したわけではない。
さらに、ニーチェは、国粋主義も全体主義も嫌悪していた。
国粋主義は民族主義のお仲間である。自分の国や民族は最高で、自分たちさえ良ければ、他はどうなってもいい。たとえ、我々に滅ぼされようとも(いますよね、こんな国や民族)。
一方、全体主義は、個人より国家の利益を優先する。国が戦争が勝つためには国民が何十万、何百万人死のうが関係ない!
ヒドイ ・・・ やっぱり、全体主義は「悪」?
じつはそうでもない。現実は複雑なのだ。
たとえば、戦争は勝ってなんぼ。負けたら「個人」の不幸度は極大化するから。第二次世界大戦で、原爆を落とされ、領土を割譲され、戦後70年経っても悪者呼ばわりされる哀れな日本をみれば、明々白々。
つまり、戦争をやるからには絶対に勝たねばならない。そのためには、全体主義が必要なのである。君どうしたの?体調悪いんなら敵前逃亡してもいいよ、など、個人の都合を優先して、戦争に勝てるわけがないではないか。
しかし、プラトン主義的な理想と抽象の世界にハマったニーチェは、現実世界で有効な全体主義を理解できなかった。というか、国家や組織のような「集合」の力を考えようともしなかった。「個」の力の偉大さを神話のように語り続けたのである。
ニーチェは、民主主義、社会主義、全体主義、国粋主義、民族主義 ・・・ イデオロギーと名のつくものは、すべて否定した。イデオロギーは「大衆=マス=集合」を支配する概念で、「個」の力を削ぐと考えたのだろう。
ニーチェは、人間はかくあるべしと考えた ・・・
健全な欲望、たとえば、権力欲、金銭欲、名誉欲、欲望を押し殺してはならない。それは自然の摂理に反するから。ニーチェは、このような純粋な欲望を「力への意志」とよび、それを秘めた人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。
さらに、ニーチェは「超人」と「ルサンチマン」がせめぎ合う未来も予言した。
ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。
その結果 ・・・
誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。
その瞬間、道徳も崩壊する。
なぜか?
一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるから。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。
神が死んで、道徳が崩壊すれば、よりどころを失ったルサンチマンは滅ぶ。しかし、超人は生きのびる。何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」で、新しい価値観を生み出せるから。
これが、ニーチェの「超人思想」である。
こんな粗野で、暴力的で、背神的な思想をぶち上げ、大胆にも「アルコールとユダヤ教・キリスト教を二大麻薬」と言い切ったのである。
一方、ヒトラーは、第9回ナチス全国党大会で、「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)とキリスト教は二大麻薬」と宣言した。
なんか似ている?
似ているどころではない。
ニーチェの教義は、「力への意志」、「超人」、「背神」 ・・・
「力への意志」は、女流映画監督レニ リーフェンシュタールが撮ったナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」を彷彿させる。さらに、「超人」も「背神」も、ナチスの理念そのもの。力強く、斬新で、カッコイイ、でも、暴力的で危険だ。根っこにあるのは「力への賛美」、「反宗教」 ・・・ ナチスまんまではないか!
エリーザベトはココを突いた。
ニーチェの原稿から、文脈を無視して、大衆を惹きつける威勢のいい語句をピックアップし、断片的に散りばめて、ナチスのイデオロギーを正当化したのである。
つまり、エリーザベトにとって、ニーチェの創作物は便利な宣伝の道具にすぎなかった。もちろん、ナチスにとっても。
とはいえ、エリーザベトに悪意はない。彼女の名誉のために一言付け加えなければならない。
エリーザベトは、自己実現のために兄とナチスを利用したが、それに負い目も引け目も感じていなかった。神経が太いのではない。考えがおよばなかったのだ。エリーザベトは、兄ニーチェの哲理を心から崇拝し、それが、ナチスのイデオロギーと一致していると信じ、それを融合させようと真剣にプロデュースしたのである。ニーチェと違い信心深かったエリーザベトは、それが神の摂理だと、信じて疑わなかった。
この世で、もっとも恐ろしいのはこの手の錯覚である。
私利私欲ではなく、立派な大義があり、神の助けがあると信じているから、一切の迷いがなく、無敵なのだ。歴史に残る大業は、この手の錯覚から生まれたものが多い。そもそも、ふつうの信念、ふつうの努力、ふつうのやり方で、大業がなせるわけがないではないか。
というわけで、ニーチェは死して後、ナチスのシンパにされてしまった。それどころか、ナチスのイデオロギーの理論付けに加担させられたのである。ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という、決定的かつ相容れない矛盾があるにもかかわらず。
だからこそ、エリーザベトは偉大なのである(皮肉ではなく)。誰も成し遂げられない難事業を一人でやってのけたのだから。たとえ、それが人の道に反していたとしても。
プロデューサーとは無から有を生み出す魔術師である。場末のステージで歌っていたパッとしないユニットも、名プロデューサーにかかれば、国民的大スターにのしあがる。捏造(ねつぞう)だろうが、でっち上げだろうが、成功して価値を生むようになれば、ホンモノである。これが、プロデューサーの醍醐味だろう。
では、エリーザベトは、いかにして大業を成し遂げたのか?
まずは、原点「ニーチェ・ブランドの確立」から。
■ニーチェ・ブランド
大哲学者フリードリヒ・ニーチェは、勇ましい「超人思想」をぶちあげ、自ら「超人(オーヴァーマン)」たらんとしたが、行き着いたのは狂気の世界だった。
1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま気が触れたのである。
ところが、このとき、ニーチェはまだ無名で、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェは歴史年表から消える。
さて、ここで、名プロデューサー、エリーザベトの登場である。
ニーチェは、発狂後、精神病院に入れられたが、たった半年で医者に見放された。その後、ナウムブルクの実家にもどって自宅療養したが、その頃から名が知られるようになった。新聞が、「ナウムブルクの狂気の哲学者」として書き立てたからである。
ナウムブルクに巣くう精神異常の天才哲学者 ・・・ 大衆の野卑な好奇心を惹き付けるにはうってつけのネタである。次に何が起こるか?
エリーザベトはこのチャンスを見逃さなかった。
まず、彼女が目をつけたのがニーチェの未発表の原稿である。
ナウムブルクの狂気の哲学者、未発表の原稿が発見される!
ブレイク間違いなし ・・・
事実、ニーチェは、発狂した時、膨大な未発表の原稿を残していた。ところが、それは原稿というより、思いつきやアイデアのたぐいで、メモ用紙に殴り書きされていた。何の脈絡もない、断片的な語句 ・・・ これでは出版はおぼつかない。
では、エリーザベトはどうしたのか?
エリーザベトにとって、兄の原稿はチンプンカンプンだった。哲学の素養以前に、思考力に問題があったのだ。のちに、エリーザベトが創設したニーチェ館のメンバーのルドルフ・シュタイナーは、こう言っている。
「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている。昨日は間違いなく赤かったものが、今日は青かったと確信しているのだ」(※1)
見込みなし ・・・
ところが、エリーザベトは典型的な問題解決型人間だった。問題の難しさなどどこ吹く風、問題解決にまっしぐら、解決のためなら手段を選ばず。自分ができなければ、できる人間にやらせればいいのだ。
ニーチェの落書き原稿は、手に負えないものだったが、それを解読できる者が一人だけいた。ニーチェの友人ペーター・ガストである。エリーザベトは、ガストを雇い、ただちに、原稿の編集を命じた。
一方、ナウムブルクの実家に移されたニーチェは、母フランツィスカが面倒を見ることになった。
エリーザベトの凄いのは、この二つを完全に自分の管理下においたことである。
原稿の編集をガストに、ニーチェの身の回りの世話を母フランツィスカに任せ、注意深く管理したのである。
エリーザベトは、
1.未発表の原稿を出版する。
2.ナウムブルクの狂気の哲学者の”悲劇ぶり”を継続的にアピールする。
この二つが、「ニーチェ・ブランド」の両輪であることを見抜いていたのである。
ところが、このような多忙な時期に、エリーザベトはもう一つのプロジェクトをスタートさせる。
南米パラグアイのドイツ人植民地である。
しかも、このプロジェクトは、プロデュースしただけではない。あろうことか、夫と連れだって、自ら辺境の地パラグアイに旅立ったのである。
歴史的大プロジェクトを3つ同時進行させる?
このようなパワーは一体どこから生まれるのか?
「鉄の心臓」と「小型原子炉」 ・・・
兄ニーチェは「超人」を目指して破綻したが、妹のエリーザベトは正真正銘の「超人・オーヴァーマン」だったのである。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第281話) アーリア人植民地計画Ⅰ~人種の純化~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/
■「人種の純化」計画
男が熱く語り、女が大げさに相づちをうつ。愛を語り合う恋人同士ではない。 女は、目が大きく、愛くるしい顔立ちで、名をエリーザベトといった。かの大哲学者ニーチェの妹である。男は、ハンサムで背が高く、名をフェルスターといった。この二人は夫婦で、よからぬ話題で盛り上がっていたのである。
その話題というのが ・・・ 南米パラグアイで、ドイツ人のドイツ人によるドイツ人のための植民地を建設する。 「ドイツ人」を「アーリア人」に読みかえれば、ナチスの「人種の純化」計画そのもの。人の道に外れた危険な計画である。
この計画を最初に思いついたのは夫のフェルスターだった。フェルスターは狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、地球の裏側でドイツ人植民地を建設すると、触れ回っていた。 「南アメリカなら我々の新しいドイツが見つけられる。そこでは、ドイツ人が純粋なドイツ精神を育むことができるのだ。パラグアイの未開の地の真ん中に築かれる『新ゲルマニア』は、いつの日か、大陸全体をおおい尽くす、誉れ高き新しい祖国の核となるであろう」(※1)
抽象的で雲をつかむような話だが、意味するところは重大である。 われわれは、南アメリカで「新ゲルマニア」を建設する。そこは、純粋なドイツ精神が宿る心臓である。その精神は、やがて南アメリカ全土をおおい尽くし、ドイツの第二の祖国となるだろう ・・・ と言っているのだから。
不吉なことに、「新ゲルマニア」は50年後に成立するドイツ第三帝国の世界首都「ゲルマニア」を暗示していた。そして、皮肉なことに、どちらも見果てぬ夢で終わったのである。 とはいえ、「南アメリカ移住」は、この時代、珍しいことではなかった。1880年代前半までに、すでに、数十万人のドイツ人が南アメリカに渡っていたからである。ただし、彼らの動機は「人種の鈍化」のような高邁なイデオロギーではなかった。単に食い詰めていたのである。
1871年、ドイツ帝国(帝政ドイツ)が成立し、ドイツが統一された後も、ひどい不況が続いていた。何千、何万というドイツ人が貧困にあえぎ、移住に望みをつないだのである。さまざまな移民協会が設立され、多くのドイツ人が南アメリカに渡った。 行き先は、たいてい、ブラジルかアルゼンチンだった。すでに、多くのドイツ人が住んでいたからである。ところが、フェルスター夫妻が目指したのは、実績のないパラグアイ。 なんで、よりよってそんな所に? 変わり者だから? たしかに。 でも、それだけではない。じつは、「パラグアイ」がとりわけ突飛というわけではなかったのだ。フェルスターの前にパラグアイに入ったヨーロッパ人がいたのである。
■南アメリカ探検
大航海時代、多くのヨーロッパ人が、一山当てようと、新大陸に押しかけた。ポルトガル人アレヒオ・ガルシアもその一人だった。彼はアメリゴ・ベスプッチの探検の後を継いで、漁夫の利を得ようとしていた。 ベスプッチは「アメリカ大陸の第一発見者」の名誉を巡って、コロンブスと争ったイタリアの航海者である。コロンブスが上陸したのはアメリカ大陸ではなく、周辺海域の小島だった ・・・ それに最初に気づいたのがベスプッチだった。
彼は、「ヨーロッパ人で初めて北アメリカに到達したのはこの私だ」 と主張して譲らなかった。 結果、新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名された。コロンブスの名を冠した「コロンビア」とはならなかったのである。 その後、ベスプッチは、ブラジルの海岸沿いに南下して、のちにラプラタ川と呼ばれる川を発見した。ベスプッチは、この川のどこかを抜ければ、南アメリカ大陸の反対側に出て(太平洋側)、スパイスアイランドに行けると考えた。ところが、ベスプッチは探検を途中で中止してしまった。 そこに目をつけたのが、アレヒオ・ガルシアである。ベスプッチの探検を継承し、手柄を横取りにしようとしたのである。
もし、成功すれば、「ヨーロッパ → 南アメリカ → (太平洋) → スパイスアイランド」の新航路を独占し、莫大な富が得られる。 ガルシアは、スペイン人の水先案内人ファン・ディアス・デ・ソリスを雇い、意気揚々、船出した。1515年の夏、探検隊はラプラタ川の河口に到着した。ベスプッチが探索を中止したあたりである。ガルシアはそこから調査を開始した。 ガルシア隊がマルティン・ガルシア島につくと、チャルア・インディアンの一団がいかにも親切そうに身振り手振りで水先案内人を差し招いた。ファン・ディアス・デ・ソリスは浜にあがった。そして、かわいそうにたちまち食べられてしまった。先導者を失った一行は逃げ去った(※1)。
こうして、ガルシアの目論見は頓挫した。ところが、その後、原住民から、耳寄りの話を聞いた。南米の山奥に財宝ザクザクの帝国があるというのだ。それを奪う方が、新航路を発見して貿易でチマチマ稼ぐより、よほど手っ取り早い。そう考えたガルシアは、早速、行動を開始した。ところで、この財宝ザクザクの帝国だが、かの「インカ帝国」である。 1524年頃、ガルシア隊は、現在のパラグアイの首都アスンシオンに入った。そこで、ガルシアは2000人のインディアン(チルグアノ族)を仲間に引き入れた。その後、川をさかのぼって、インカ帝国のはずれに到着した。そこで、住民を殺して回って、莫大な財宝を手に入れた。こうして、ガルシアは征服に必要な兵力と資金を手に入れたのである。あとは、インカ帝国を征服するのみ。
ところが ・・・ 1525年の暮れのこと、突然、ガルシアに災難が降りかかった。ガルシア隊のインディアンが裏切って、ヨーロッパ人を一人残らず殺したのである。その後、インディアンは遺された財宝を山分けして、何が気に入ったのか、その場所に住みついた。アンスシオン(現在のパラグアイの首都)の北方、150マイルのあたりである。その360年後、ここに、新ゲルマニアが建設がされるのである。 こうして、インカ帝国征服の手柄は、1533年、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロに転がり込んだのである。歴史は、いや、人生は何が起こるかわからない。
ということで、パラグアイに入った最初のヨーロッパ人は、アレヒオ・ガルシア。フェルスターではなかったのである。 ところで、ガルシア隊が全滅したのに、なぜ、最期の状況が分かるのか? ガルシア隊の消息を追った人物がいたから。名をセバスチャン・カボットというスペイン人航海者である。 なんと物好きな? ノー、ノー! お目当てはガルシアが略奪した金銀財宝。 1526年、カボットは4隻の船と600人の部下を引き連れて、パラグアイを北上した。その後、アスンシオンの北方、150マイルあたりで、川岸に住むグアラニー部族と遭遇した。未開の部族で、暮らしぶりも貧乏なのに、どういうわけか、大量の銀を貯えている。 これは怪しい、ガルシアの財宝に違いないと、にらんだカボットは、無慈悲にも財宝を取り上げてしまった。それがよほど嬉しかったのか、記念に、その川をラプラタ川(スペイン語で「銀の川」)と命名した。
ではその後、パラグアイはどうなったのか?
200年間のスペイン植民地をへて、1811年に共和国として独立を宣言した。ところが、その後、歴史上もっとも凄惨な戦争に巻き込まれるのである。
■史上最悪の三国同盟戦争
戦争は、いつの時代も凄惨だ。 史上初の世界戦争、第一次世界大戦では1000万人が戦死した。つづく、第二次世界戦では7000万が犠牲になった。そのうち3000万人が、ドイツとロシアが戦った東部戦線である。しかも、半数が民間人というから、独ソ戦の凄まじさがわかるというものだ。この戦いは、英雄も、超兵器も、胸のすくような戦術もなく、肉切り包丁で斬り合う消耗戦だったのである。 第二次世界大戦は、空爆の被害も突出している。
たとえば、1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾は、広島市の92%の建物を破壊し、20万人の命を奪った。 さらに、ドイツの都市ドレスデンへの無差別爆撃も凄まじい。1945年2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの重爆撃機1000機以上が出撃し、街の85%を破壊した。さらに、ドレスデン市民数万人が即死し、最終的に20万人が死んだ。 ドレスデン生まれの作家エーリヒ・ケストナーはこう書いている。 「あの都市美を創造するのに300年以上の歳月を要したのに、それを荒れ地と化すのには数時間でこと足りた」 驚くべき残虐行為だが、戦争は勝てば官軍、どんな残虐行為も正当化されるのだ。それが最も顕著だったのが第一次、第二次世界大戦だろう。
ただし、”凄惨さ”において、これを凌駕する戦争がある。 1864年~1870年、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟とパラグアイが戦った「三国同盟戦争」である。 この戦争の何が凄惨なのか? 負けた側のパラグアイの死亡率 ・・・ 全人口の50%。 戦争で国民の半分が死んだ?!
イエス。
パラグアイの人口の推移をみれば明らかだ。戦前は52万なのに、戦後は21万人。 ラテンアメリカ、いや、世界史上もっとも凄惨な戦争といっていいだろう。 この戦争は5年で終了したが、その後もゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされた。さらに、パラグアイの領土は戦前の3/4にまで減らされ、イギリスの支配下に組み込まれ、国体も失った。 ところが、さらに深刻な問題があった。軍が壊滅的な損失をこうむり、成人男子のほとんどがいなくなったのである。国や組織を支えるのは、ヒト・モノ・カネ、中でも重要なのは「ヒト」である。パラグアイはそこが欠落していた。これでは、国家再建は難しい。
■未開のパラグアイ
そんな荒廃したパラグアイに人生を賭けたのがフェルスターだった。 一体、なぜ? 未開の土地と住民は、真っ白なホワイトボードのようなもの。人の道に外れた人種差別だろうが、独りよがりのイデオロギーだろうが、はた迷惑な植民地だろうが、思う存分描けるから。
フェルスターは「反ユダヤ」の妄想に取り憑かれていた ・・・ ユダヤ人どもは、ドイツの芸術や道徳を堕落させ、その悪意にみちた陰謀の一環として、出版界まで支配しつつある。自分が書いた本が売れないのも、そのせいだと。 さらに、フェルスターは、宗教改革の創始者マルティン・ルターの言葉を座右の銘にしていた。
「キリスト教徒よ、おぼえておくのだ。悪魔を除けば、本物のユダヤ人ほど残酷で悪辣で暴力的な敵はいないことを」(※1)
つまり、フェルスターは、生死に関わる生活の困難さや不便さよりも、イデオロギーを選んだのである。 しかし ・・・ どう考えても、パラグアイは間違いだった。 パラグアイの暑さは殺人的で、土地は痩せ、穀物も育たない。インフラは皆無で、鉄道はもちろん、道らしい道もない。水道もなく、井戸を掘ってもすぐに枯れ、飲み水にも事欠く。こんな不毛の土地で、文明化されたドイツ人が生きていけるはずがないではないか。
ところが、そんな劣悪な環境でも、鉄の心臓と小型原子炉をもつ超人エリーザベトは平気だった。しかし、夫のフェルスターはそうはいかない。勇ましいのは反ユダヤ主義だけで、あとは”並”だったから。 人間は、身の丈を超えて、大言壮語を吐くのは危険である。行動に移すのはさらに危険である。ヘタをすると命を落とすから。そして、フェルスターもご多分に漏れずそうなった。勇ましい演説とは裏腹に、哀れな最期をとげたのである。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第282話) アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/
■優生学の時代
アーリア人の神話は強力である。
最強の人種にして、文明を担う者、そして、地球の支配者、それがアーリア人 ・・・ だったはずなのに、今では、カスピ海周辺からイランやインドに流れ着いた集団、で落ち着いている。
ではなぜ、それが神話にまで登り詰めたのか?
ことの発端は、19世紀、フランスで出版された書「人種の不平等論」までさかのぼる。この中で、著者アルテュール・ゴビノーは、白人が最も優秀で、とりわけアーリア人が一番で、「支配人種」とまで持ち上げたのである。
さらに、ゴビノーは恐るべき警告を発している。
「黒、黄、白の肌の色の違いは、自然が設定した人種の『壁』、だから温血は禁じるべきである。混血で人種の『壁』が崩壊し、文明が退化するから」
混血で、なぜ文明が退化するかわからないが、「黒、黄」側にしてみれば、心穏やかではない。ところが、これを正当化したのが「優生学」だった。
「優生学」は、19世紀、フランシス・ゴルトンを起源とする気味の悪い学問である。一言でいうと「人間の品種改良」。
本来なら、倫理的な非難をあびてしかるべきなのだが、当時、世を騒がせていた「ダーウィンの進化論」に後押しされた。結果、20世紀初頭に大きな成功をおさめるのである。
というのも ・・・
ダーウィンの進化論のキモは「自然淘汰と適者生存」 ・・・ 弱者が滅び、強者が生き残る、つまり、自然による生物改良。
一方、優生学のキモは「生殖による人間改良」 ・・・ 優秀な人間同士が結婚し、優秀な子孫を残す。つまり、人為的な人間改良。
というわけで、優生学の「人間改良」は進化論の「生物改良」によって理論付けされたのである。こうして、優生学はヨーロッパで広く認知されていく。ところが、その結末は恐ろしいものだった。ナチスドイツが、優生学を盾に、ゲルマン人至上主義、ジェノサイド(民族絶滅)を正当化し、歴史上最大のユダヤ人迫害を引き起こしたのである。
ところが、それも長く続くかなかった。
第二次世界大戦後、アウシュヴィッツをはじめナチスの強制収容所の蛮行が明らかになると、世界は震撼した。結果、優生学はナチスのお仲間にされ、「疑似科学」の烙印までおされたのである。
しかし ・・・
遺伝子とDNAが解明された今、優生学は疑似科学とは言えない。そもそも、優生学のキモ「生殖による人間の品種改良」は古くから行われてきた。支配者や成功者が、自分の娘に頭の良い婿を迎え、優秀な子孫をのこそうとしたのは、その一例である。
実際、IQの高い両親からは、80%の確率で、IQの高い子供が生まれるというデータもある。身長はもっとわかりやすい。突出して背の高い両親からは、ほぼ間違いなく背の高い子供がうまれる。この相関関係は統計学で、因果関係は遺伝学で説明できるので、真実といっていいだろう。
というわけで、人間も生物なのだから、「農作物の品種改良」がアリなら、「人間の品種改良」もアリ ・・・ 倫理的な問題はさておいて。
ただし、優生学が成立したからといって、「ユダヤ人が劣等で、アーリア人が優等」とは限らない。この二つは別の話だから。それどころか、ノーベル賞受賞者とお金持ちにユダヤ人が多いのだから、「ユダヤ人が優等」かもですよ。
ところが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。
■ヴァーグナーの世界
そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。
では、ヴァーグナーは?
夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。
リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。
さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。
そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。
「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」(※1)
さらに、ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中で、公然とヴァーグナーと賛美した。その卑屈な論調に、大きな批判が巻き起こった。一方、ヴァーグナーは大喜びで、「こんな美しい書物は読んだことがない」と絶賛した(あたりまえですね)。
そんなこんなで、ニーチェのヴァーグナーへの入れ込みようはハンパではなかった。1870年7月には、妹のエリーザベトまでトリプシェンの邸宅に引き入れている。しかも、ヴァーグナー家の子供達のベビーシッターとして。なんと、卑屈な!
ところが、エリーザベトは、たちまち、ヴァーグナー・ワールドのとりこになった。
一方、ニーチェのヴァーグナー熱はだんだん冷めていく。その時期、ニーチェは不眠症、頭痛、嘔吐感に悩まされたが、それが原因だったかはわからない。
ではなぜ、ニーチェはヴァーグナーに失望したのか?
エリザーベトは、トリプシェンの邸宅の様子をこう書いている。
「大広間をのぞいてみると、そこには少なくとも40人ほどの楽長、若い音楽家、文筆家たちがヴァーグナーとの面会を待っていた。年配の人たちは低く抑えたような声で語り、若い人々は美しい畏敬の表情で耳を傾けていた」(※1)
卑屈な追従者に囲まれ、それにご満悦のヴァーグナー ・・・ そんな世界が、ニーチェには安っぽく見えたのである。彼はこう書いている。
「まさに身の毛もよだつ人間たちの集まりだ。出来そこないは一人とて欠けてはいない。反ユダヤ主義者さえもだ。哀れなヴァーグナー、なんという境遇に陥ってしまったことか!豚に囲まれている方がまだましだ!」(※1)
一方、エリザーベトはこの安っぽい世界がお気に入りだった。
それにしても、ヴァーグナーのカリスマには驚くばかりだ。音楽を解さない者まで虜にするのだから。じつは、そんな門外漢の取り巻きがもう一人いた。のちにエリザーベトと結婚するベルンハルト・フェルスターである。
■フェルスターの企て
フェルスターは、この頃、ベルリンの学校教師をしていたが、トリプシェンのヴァーグナー・ワールドに入り浸りだった。
ヴァーグナーに取り入って、反ユダヤの援助をとりつけようとしていたのである。ところが、ゼンゼン相手にされない。そこで、ヴァーグナーお気に入りのニーチェ兄妹の妹エリーザベトに近づいたのである。
フェルスターはエリーザベトに「反ユダヤ主義とドイツ人の魂の復活」を熱く語った。彼女はすぐに賛同した。似た者夫婦だったのだろう。ところが、兄ニーチェはそれが気に入らなかった。フェルスターが信奉する人種差別と国粋主義を嫌悪していたから。
ニーチェは、人種と国家を超えた個人主義を尊んだ。なかでも、健全な欲望を実現しようとする人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。これがニーチェの超人思想である。
フェルスターはエリーザベトという同志を得て、ますます自信を深めた。そして、反ユダヤ主義を加速させていく。
1880年11月8日、フェルスターは、ベルリンで事件を起こした。仲間たちと「反ユダヤ」で盛り上がったあと、ユダヤ人と乱闘騒ぎをおこしたのである。フェルスターは逮捕され、90マルクの罰金を払ったが、人種差別主義者たちの間で、大いに株を上げた。
フェルスターの主張は単純だった。
「ユダヤ人はあこぎな商売をして、ドイツ文化を破壊しようとしている」
そして、東ゴート族の法典の一節を付けくわえるのだった。
「祖国を裏切った者は、みな裸の木に吊されるのだ」
フェルスターは、ユダヤ人をおとしめるのに労を惜しまなかった。学校教師をしながら、時間をどうやりくりしたのかわからないが、「反ユダヤ」署名を26万7000もかき集め、嘆願書を添えて首相官邸に持ち込んだのである。
ところが、反応はゼロ。というのも、このとき、ドイツ帝国の首相は名宰相ビスマルク。彼のような合理主義者・現実主義者が、浮ついたイデオロギーに賛同するはずがない。というわけで、フェルスターの努力はムダに終わった。
一方、ニーチェの方は、病状が悪化し、バーゼル大学を辞職せざるをえなくなった。その後、ヨーロッパを放浪しながら、在野の哲学者として活動を続けた。
しかし、ニーチェの哲学は自らを破滅に追い込んだ。彼の哲理は、粗野で暴力的で、神をも怖れない、しかも、水も漏らさぬ論理で、一寸のスキもなくたたみ込んでいく。一瞬の安らぎも許さないのだ。
このような救いのない哲理は、ニーチェの女性観にも反映されている。37歳のとき、彼はこう書いている。
「真の男が求めるものは2つある。危険と遊びだ。それで真の男は女性を求めるのだ、もっとも危険な遊びとして」
ニーチェは街の女と遊んで****に感染したが、もちろん、それを言っているのではない。とすれば、皮肉な話ではないか。
また、このような女性観はニーチェの感情的未熟さをあらわしている。万華鏡のような女性の多様性、多面性を見ようともしないのだから。
話をフェルスターにもどそう。
乱闘騒ぎを起こした2年後の1882年、フェルスターは度を超した人種差別主義が祟って学校を追放される。一方、エリーザベトとの関係は良好だった。人の道に外れた反ユダヤ主義で盛り上がったのだろう。
そして、1880年、フェルスター夫妻にとって決定的な出来事が起こる。二人が信奉するヴァーグナーが「宗教と芸術」のなかで、もってまわった言い方で、こう主張したのである。
「高貴な人種と高貴ならざる人種との混合が、人類最高の特質を損ないつつある。アーリア人種の純粋さを保つことによってのみ、人種の復活は成し遂げられる ・・・ 食糧を供給するのに十分肥沃な『南アメリカ大陸』に人々を移住させることを阻むものは一つもない」(※1)
フェルスターはこれに飛びついた。あのヴァーグナーが南アメリカ大陸移住を正当化してくれたのだ。そもそも、「南アメリカ移住」はフェルスターにとって一石三鳥だった。第一に、ヴァーグナーの忠実な信奉者であることをアピールできる。第二に、ユダヤ人に汚染されたドイツから脱出できる。そして、なにより、フェルスターは失業中だった。
■新ゲルマニア
フェルスター夫妻の南アメリカ移住の目的は恐るべきものだった。アーリア人共和国「新ゲルマニア」の建設、つまり、「人種の純化」にあったのだから。
1883年、フェルスターは南アメリカに旅立った。新ゲルマニアを建設する場所を探すために。出発する前、彼はエリーザベトに2つの約束をした。ドイツに帰ったら結婚すること、栄えある第一次開拓団の共同指導者となって、南アメリカに渡ること。ドラマチックで芝居がかったことが大好きだったエリーザベトは大喜びだった。
一方、 ヴァーグナーは自分のアイデア「南アメリカ移住」を実践するフェルスターに気を許したのか、励ましの電報を打っている。
「ヴァーグナーより一言挨拶を。君の夢に祝辞を贈る。よい旅を」
フェルスターにとって幸先のよいのスタートだった。
その後、フェルスターは2年かけて、南アメリカ大陸中央部を調査した。そして、ついに、「新ゲルマニア」にふさわしい国を見つけた。パラグアイである。理由は、三国同盟戦争で人口が半減していたこと、ユダヤ人に汚されていない未開の地であること。また、パラグアイの移民局も有利な条件で土地を譲渡してくれそうだった。
この間、エリーザベトは、夫にせっせと手紙を書き送っている。
「やがてあなたの旗のもとに、開拓者たちが群がり集まることでしょう。この計画はきっと成功します」
内助の功というか、なんというか、NHKの大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊の妻を彷彿させる。エリーザベトもまた夫をその気にさせる天才だったのだろう(この時まだ結婚していなかったが)。
フェルスターの留守中も、彼女は精力的に働いた。人種差別を鼓舞するパンフレットを配り、「新ゲルマニア」建設の資金と同志を集めたのである。
このような人種差別主義は、ベルリンのような都市部では眉をひそめられたが(表向きは)、ドイツ南部の田舎では受け容れられた。ビアホールで一席ぶつと、泡立つビールを前に、テーブルを叩いて賛同してくれる者がいたのである。彼らはドイツの経済的困窮はユダヤ人のせいで、自分たちを父祖伝来の土地から追い出したのもユダヤ人だと信じていた。
1885年3月、フェルスターはドイツに帰国し、エリーザベトと結婚した。ところが、兄ニーチェは結婚式に出席しなかった。憎むべきフェルスターが、最愛の妹を奪う結婚式を、なぜ祝わなければならないのか!
その後、エリーザベトとフェルスターは国中をまわり、ヴァーグナー協会で、移民協会で、ビアホールで、「新ゲルマニア」を熱く語った。その甲斐あって、移住希望者が100名ほど集まった。それが多いか少ないかはビミョーだが、人気のブラジルやアルゼンチンならいざ知らず、ロクな実績もない未開のパラグアイに、なぜ移住する気になったのか?
人間は千差万別、だから、こんな物騒な話にのる者がいるのである。
たとえば、
1.熱烈な反ユダヤ主義者。
2.食いっぱぐれて後がない者。
3.天国の下僕より、地獄の帝王を望む者。
4.単にだまされやすい人たち。
こんな一癖も二癖もある開拓団が、三癖も四癖もあるフェルスター夫妻に率いられ、パラグアイに移住したのである。もちろん、結末は惨憺たるものだった。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第283話) アーリア人植民地計画Ⅲ~パラグアイ移住~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-283/
■出航
1886年2月15日、ボロボロの蒸気船がドイツのハンブルク港を出航した。ドイツ南部で結成された開拓団である。南米パラグアイに移住して、アーリア人植民地「新ゲルマニア」を建設しようというのである。
ここで、「移民団」ではなく「開拓団」と強調したのは理由がある。目的地がブラジルやアルゼンチンのような開拓済みの植民地ではなく、三国同盟戦争で焦土と化したパラグアイだから。何もない新地から町を建設するのである。
事実、この開拓団の意識は高かった。他の植民団のように「食いつなぐ」ためではなく、「アーリア人植民地=人種の純化」というイデオロギーを支えにしていたから。たとえ、それが人の道に外れたものであっても。
開拓団は、14家族100名で構成され、ニーチェの妹エリーザベトとその夫フェルスターが共同指導者に就いた。元々、この計画はフェルスターの独断と偏見の産物だったからである。
開拓団のメンバーのほとんどが、ドイツ南部のザクセンの出身だった。共同指導者のフェルスター夫妻がザクセン出身なので、手っ取り早く、出身地で募集した、わけではない。募集はドイツ全国で行われていた。
ではなぜ、参加者がドイツ南部に集中したのか?
「新ゲルマニア=アーリア人至上主義」をかかげていたから。この時代、ヨーロッパでは反ユダヤ主義が吹き荒れていたが、首都ベルリンはまだ良識が残っていた。だから、公然と反ユダヤを叫ぶことは、分別のないこととされたのである。
ところが、ザクセンは違った。
ドイツが経済的困窮にあるのは、ユダヤ人があこぎな商売をして、ドイツ人から搾取しているから ・・・ が共通認識になっていたのである。実際、ビヤホールで反ユダヤ主義をぶちまけると、酔っ払いが、ビールジョッキの泡を飛ばして、喝采してくれた。
そもそも、ドイツ南部のザクセン(州都:ドレスデン)や、バイエルン(州都:ミュンヘン)は、古くから、反ベルリン(反体制)の意識が強かった。ヒトラー率いるナチスが政界に進出したときも、ミュンヘンでは支持されたが、ベルリンではなかなか票が伸びなかった。つまり、ベルリンが嫌えば、ドイツ南部のバイエルンやザクセンが好む、そんな風潮があったのである。
それに ・・・
ドイツ人にとって、パラグアイは地球の裏側にある未知の国だった。ライフラインも一から手造りという有様で、「文明」の「ぶ」の文字もない。じつは、それまでにも、パラグアイに入植したヨーロッパ人はいた。ところが、ほとんどが命を落とすか、行方不明になっていた。そんな物騒な所に移住するのは、よほど切羽詰まっているか、ものを知らない田舎者である。少なくとも、インテリを自負するベルリン市民ではない。
とはいえ、プライドの高いアーリア人(ザクセン人)がそれを認めるはずがない。
そんな風潮の中、フェルスターが、
「ユダヤ的害悪を廃した共同体をパラグアイでつくろう!」
と言い出したので、うってつけの大義名分ができたのである。
つまり、冒頭の開拓団は全員「アーリア人種基準」で選ばれた人々だった。少なくとも、開拓団員はそう信じていた。
ところで、開拓団は、その後どうなったのか?
■到着
開拓団が乗った船は、蒸気船とは名ばかりの、いつ沈んでもおかしくない老朽船だった。
NewGermania航海は困難をきわめ、さながら大航海時代の奴隷船だった。女子供を含む100人の団員は、虫の食ったビスケットをかじりながら、半分腐った水をすすりながら、食いついないだのである。1ヶ月後、南アメリカのモンテビデオに着岸したときは、全員が疲労困憊だった(鉄人エリーザベトを除いて)。
とはいえ、370年前に、この地に上陸したマゼラン隊にくらべればまだマシだろう。
というのも、マゼラン隊に同行したピガフェッタの航海記によると、
「ビスケットは粉くずになって、虫がわき、水は腐敗していた。牛の皮、オガクズ、ネズミ、何でも食べた。隊員の歯茎が腫れて食べれなくなり、19人が死に、30人が重病になった。健康な者はわずかしかいなかった」
そこまでして、金銀財宝が欲しい?
なんて余裕をかましている人は、いつまでたってもビンボーのまま。いい思いをしたければ、リスクを冒さなくては!(程度にもよるが)
その程度を超えたのがマゼラン隊だった。3年におよぶ大航海を終え、スペインのサン ルカール港に帰還したとき、5隻の船は1隻に、265名の乗員は18名に減っていた。
生還率「7%」!?
しかも、隊長のマゼランも、フィリピンの戦闘で、大岩に直撃され即死していた。だから、新ゲルマニア開拓団の航海などマゼランの世界周航からみればピクニックみたいなもの ・・・ とまでは言わないが、次元が違うのだ。
とはいえ、新ゲルマニア開拓団の苦労もハンパではなかった(現代人からみれば)。
腐ったビスケットと水を飲み込みながら、やっとモンテビデオに着いたのに、そこがゴールではなかったのだ。さらに、小型の蒸気船でパラナ川を北上するのである。夜になると、蚊の大群が襲いかかり、団員の皮膚の下に卵を産み付けた。かゆいのでかくと、皮膚がただれ、腫れ上がる。苛酷な気候に耐えきれず命を落とす子供もいた。
モンテビデオを出航して、5日後の1886年3月15日、開拓団はアスンシオンに着いた。現在のパラグアイの首都である。つまり、ここでやっとパラグアイ。
このとき、フェルスターは43歳、エリーザベトは39歳、「知力×体力×気力」が人生で最も充実する時期である。
じつは、フェルスターの最終目標は、パラグアイ植民地「新ゲルマニア」の建設ではなかった。南アメリカ全土を包含する「アーリア人共和国」の建国 ・・・ 壮年よ大志を抱け!というわけだ。
とはいえ、たった100名でどうやって領土を拡大するのか、を考えた形跡はない。
フェルスターは誇大妄想だった?
あたらずとも遠からずだが、驚くべきことに、計画の成功をフェルスター以上に信じる者がいた。妻のエリーザベトである。
エリーザベトは、開拓団の中で一際目立っていた。小柄な身体で、コマネズミのように動き回る。酷暑なのに、黒ずくめの服装を脱ごうともしない。まさに、鉄の心臓と小型原子炉を内蔵した怪物なのだ。
ところで、アスンシオンに着いた開拓団は、その後、どうなったのか?
足止めを食らって、前に進めなかった。
なぜか?
信じがたいことに、土地の譲渡契約がまだ締結されていなかったのである。
フェルスターが、「新ゲルマニア」に選んだのは、アスンシオンの北150マイルにあるカンポ・カサッシアという地域だった。面積は600平方キロメートルで、今の金沢市ぐらい。とはいえ、三国同盟戦争ですっかり荒廃し、インフラは皆無だった。だから、どう考えても二束三文。
ところが ・・・
地主のソラリンデは、欲をかいて、法外な値段をふっかけてきた。フェルスターは仰天した。土地譲渡の契約がまとまらなければ、開拓団はドイツに引き返すしかない。
そこで、フェルスターは、パラグアイ政府を巻き込むことにした。
余談の許さない交渉が続いたが、ついに、落としどころがみつかった ・・・
1.フェルスターはパラグアイ政府に手付け金2000マルクを支払う。
2.パラグアイ政府は地主ソラリンデに8万マルク払う。
3.ソラリンデはフェルスターに4万エーカーを譲渡する。
本来、フェルスターが払うべき「8万マルク」が「2000マルク」で済んだのだから、フェルスターの一人勝ち?
ノー!
そんなうまい話はない。とんでもない条件がついたのである。2年以内に最低140家族が入植しないと、土地は没収!
ちなみに、このときフェルスター夫妻率いる第一次開拓団は14家族だった。2年で、その10倍の家族が入植する ・・・ 絶対ムリ。とはいえ、実現しなかったら、土地はすべて没収され、入植者から集めた金を返納しなければならない。そうなればフェルスターは破産だ。
ところが、こんな物騒な契約書に、フェルスターは嬉々としてサインした。
なぜか?
2年で140家族なんて楽勝!と思ったのだ。
一体、何を根拠に?
何の根拠もない ・・・ だから、3年後に自殺に追い込まれるのである。
こうして、命と引き替えの契約書が締結された。その後、開拓団はアスンシオンを出発し、パラグアイ川を船でさかのぼった。それから、ウシと牛車で陸路を行き、一週間後に目的地に到着した。新ゲルマニアの予定地カンポ・カサッシアである。
そのカンポ・カサッシアだが、写真で見るかぎり、ジャングル ・・・
■建設
そのジャングルで、新ゲルマニアの建設が始まった。まずは、家とライフライン、中でも優先されたのが、フェルスター夫妻の邸宅だった。1888年3月、大邸宅は完成し、盛大な落成式がおこなわれた。このとき、エリーザベトは42才、アーリア人植民地「新ゲルマニア」の母であり、ゆくゆくは、ドイツ第二の祖国「アーリア人共和国」の女王になるのだ。
得意の絶頂にあったエリーザベトは、ドイツにいる兄ニーチェに手紙を書いた。
「新ゲルマニアには輝ける未来があります。兄さんも早くパラグアイに来てください」
それに対し、ニーチェはこう返信した。
「反ユダヤ主義者は、みんなまとめてパラグアイへ送りだしたらどうだろう?」
フェルスター夫妻の邸宅は完成したが、植民地建設はこれからだった。2年以内に140家族が入植しないと、土地は没収されるのだ。そこで、フェルスターとエリーザベトは、入植者を集めるため、新ゲルマニアを「希望の楽園」として宣伝した。
いわく ・・・
現在、学校は建設中です。牧師を呼ぶための基金の計画も進んでいます。もうすぐ、新ゲルマニアと
-
4:777
:
2025/04/19 (Sat) 02:14:40
-
現在、学校は建設中です。牧師を呼ぶための基金の計画も進んでいます。もうすぐ、新ゲルマニアと外部世界を結ぶ鉄道も開設されます。純朴なパラグアイ人が召使いになるために集まってきます。食べ物は木に成っているので、不自由しません。まるでエデンの園です。
さらに、「早い者勝ち」をあおることも忘れなかった。
いわく ・・・
新ゲルマニアには、すでに、パン屋、靴屋、大工、鍛冶屋、製材所があります。でも、まだチャンスはあります。洋服屋、皮なめし職人、配管工、ビール醸造業者なら大歓迎です。
こんな希望に満ちた話が、ドイツのケムニッツ植民地協会の会長マックス・シューベルトに届けられた。そして、それが、そのまま入植希望者に。
ふつうに考えればキナ臭い話なのに、真に受ける者がいた。
というのも、その後2年間で、40家族がパラグアイに旅立ったのだ。ところが、その1/4が途中で断念し、結果、100の分譲地のうち70が売れ残った。
なぜか?
新ゲルマニアはフェルスター夫妻が言うような「希望の楽園」ではなかった。地上の「地獄」だったのである。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-283/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第284話) アーリア人植民地計画Ⅳ~新ゲルマニア伝説~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-284/
■新ゲルマニアの真実
フェルスター夫妻は、新ゲルマニアを「希望の楽園」と喧伝したが、本当は「地獄」だった。 でも、現地に行けばすぐ分かるのに、なぜそんなウソを?
2年以内に、140家族以上入植しないと、新ゲルマニアの土地が没収されるから。そうなれば、新ゲルマニアは破綻し、フェルスターは破産する。だから、「楽園」と言い切って、入植者を募るしかなかったのである。
いわく ・・・ 気候は快適です、食べ物は木に成っています、純朴なパラグアイ人が召使いになりたがっています、もうすぐ学校と教会ができます、そのうち、鉄道も開通するでしょう ・・・ ようこそ、アーリア人のユートピア「新ゲルマニア」へ! ところが、現実は ・・・ 気候は殺人的で、大地を焦がすような暑さが続く。
かと思えば、突如、バケツをひっくり返したような猛雨が襲う。動物は溺れ死に、柵は跡形もなく押し流される。雨水が天井を突き抜けて、家の中は水浸し ・・・ 一体、どこがユートピアなのだ?
しかも、土壌は粘土質で、耕すのに骨が折れ、作物は育たない。井戸は30メートル以上掘らないと水源に達しない。しかも、水量が少ないのですぐに干上がる。 それに ・・・ 食べ物は木に成っています ・・・ そんな木、どこにあるのだ? 純朴なパラグアイ人が召使いになりたがっています?
では、パラグアイ人と接触したヨーロッパ人の証言を紹介しよう。
「パラグアイ人は男も女も素っ裸で暮らしている。父が娘を売り、夫は妻を売る。ときには兄が妹を売ったり、食料や物と交換したりする。捕虜を捕らえると、まず、太らせてから食べる。われわれが豚を太らせるのと同じだ。そして、おおむね、彼らは怠惰で仕事が嫌いである」(※1)
家族を売り飛ばし、人肉を食うのが、純朴? 怠惰で仕事が嫌いなのに、召使いになりたがる? ところが ・・・ しばらくすると、ドイツ人はパラグアイ人の悪口を言わなくなった。 「勤勉」なドイツ人がパラグアイ人なみに「怠惰」になったのである。 日中は何もせず、寝て過ごす。暑い時に、ムリして働くと、熱射病にかかるから。つまり、「怠惰」はパラグアイ人が生き残る術だったのである。
というわけで、新ゲルマニアの建設は遅々として進まなかった。2年たっても、水道も道路もなく、住居は不衛生な共同住宅のまま。世界に冠たるドイツ人が、こんな惨めな暮らしをしていたのである。 一体、これのどこが、ユートピアなのだ? もし、これがドイツ本国に知れたら? 誰も新ゲルマニアに来なくなる。 そこで、フェルスターはウソの上塗りをするしかなかったのである。しかし、ウソはいつかばれる。そして、その日がついに来たのである。
■新ゲルマニアの暴露本
1888年、ユリウス・クリングバイルという陰気な男が、妻と二人で新ゲルマニアにやって来た。アーリア人のユートピアで一旗揚げようと。 クリングバイル夫妻は、まず、フェルスター邸を訪れた。偉大な共同指導者フェルスター夫妻に敬意を表するために。
ところが ・・・ クリングバイルは邸宅をみて仰天した。場違いなほど立派なのだ。美しく飾り立てられた壁、豪華な家具、ピアノまである。夕食には上等のワインまで振る舞われた。他の入植者たちのみすぼらしい共同住宅とは大違い。この格差は何を意味するのか? それにもまして落胆したのが、フェルスター夫妻だった。
夫のフェルスターは、落ち着きのない男で、一カ所にじっとしていられない。視線も定まらず、相手の顔を正視することもできない。これが、ドイツで英雄視されているあのベルンハルト・フェルスターなのか? 一方、妻のエリーザベトも負けず劣らず変人だった。 うだるような暑さの中、黒服で身を包み、手と口と足を同時に動かしながら、部屋中をぐるぐる歩き回る。コマネズミみたいで、ひどく滑稽なのだ。 そして、ロクに相手の顔も見ずに、機関銃のようにまくし立てる。植民地が成功していること、分譲地がどんどん売れていること、ゆくゆくは南米大陸をおおうアーリア人共和国になること ・・・ 現実と真逆の空虚な自慢話を、延々と聞かされたのである。
クリングバイル夫妻はウンザリした。こんな所で、一旗揚げようと思った自分たちがバカだった ・・・ そして、ときに、第一印象が未来を予言することがある。このときもそうだった。クリングバイル夫妻は、ささいなことでエリーザベトと大げんかし、植民地を去ったのである。 ところが、帰国した後も、二人は腹の虫がおさまらなかった。そこで、腹いせに暴露本を出すことにした。タイトルは、「ベルンハルト・フェルスターの植民地・新ゲルマニアの真相を暴く」。
いかにも挑発的だが、1889年の暮れに出版されるや、大反響をよんだ。 そして、内容は、タイトルよりはずっと挑発的だった ・・・ アーリア人のアーリア人による植民地などまがい物で、フェルスターは大ペテン師である。夫婦そろって愛国者をきどっているが、じつのところ、貧しい者を食い物にしている大悪党である。実際、自分は、新ゲルマニアの宣伝を真に受けて、とんでもない目にあった。こんな悪事を放置してはならない。政府は、ただちに介入すべきである。 ・・・ 身もふたもない。 もちろん、エリーザベトは黙っていなかった。彼女に好意的だった「バイロイター・ブレッター」紙上でクリングバイルを大いに非難したのである。
さらに、入植者たちに自分と夫を賛美する手紙を書かせた。 いわく ・・・ ベルンハルト・フェルスター(エリーザベトの夫)は誠実で信頼できる人です。また、エリーザベトはクリスマスに子供たちのためにケーキを焼いてくれます(※1)。 ケーキがどうしたというのだ? いまだに、入植者は掘立小屋暮らしだというのに。
この騒動をみて、ケムニッツ植民地協会のマックス・シューベルト会長はフェルスターに疑いを持った。 彼の言っていることは本当なのか? そこで、シューベルトは、真相を見極めるまで、植民地基金を新ゲルマニアに送金しないことにした。 フェルスターにとって、これは命取りだった(比喩ではなく)。すでに、銀行に多額の借金があり、利子の返済すらできなくなったのだ。 フェルスターは大言壮語だが、じつのところ、小心者だった。借金を返すあてもなく、入植者は増えるどころか、減るばかり。このままでは、新ゲルマニアは破綻する。そうなれば、フェルスターも破産だ。
嫌気がさしたフェルスターは、アスンシオン(現在のパラグアイの首都)に近いドイツ人居住区サン・ベルナルディノに移り住んだ。 そして、ホテル「デル・ラーゴ」に引きこもり、酒びたりの毎日。ところが、気が晴れるどころか、酒の量は増えるばかり ・・・ 典型的な「アル中&うつ病」である。 一方のエリーザベトはすこぶる元気だった。逃げ出した夫に、励ましの手紙を書き送るほどだった。
じつは、エリーザベトとフェルスターは似たもの夫婦だった。 神、ヴァーグナー、反ユダヤ主義、ドイツ万歳!そして、自己中 ・・・ ここまでは同じなのだが、違うところもあった。 フェルスターは凡人で、エリーザベトは兄チーチェが言う超人(オーヴァーマン)だったのだ。 実際、フェルスター夫妻をこきおろしたクリングバイルでさえ、こう言っている。 「彼女(エリーザベト)は賞賛すべき人になっただろう。もし、その英雄的な才能をあのような邪悪な目的に使わなかったら」 誉めているのか、けなしているのか? もちろん、誉めているのだ。
■フェルスターの死
1889年6月2日、フェルスターはエリーザベトに手紙を書いた。 「私は苦しんでいる。いつになったら事態は好転するのだろう」 自分を哀れんで、神頼み? 「おまえはもう死んでいる」( 北斗神拳ケンシロウの決め台詞) ・・・ そして、それが現実になった。 翌朝、ホテル・デル・ラーゴの一室で、フェルスターは遺体となって発見されたのである。46年の生涯だった。
ところが、エリーザベトは転んでもタダでは起きなかった。痛ましい夫の死を利用したのである。 いわく ・・・ 「わが夫ベルンハルト・フェルスターは敵の中傷と、植民地に対する責任から、心を病んで死んだのです」 さすがはエリーザベト ・・・ でも事実は違った。 フェルスターは自殺したのである。ストリキニーネとモルヒネの死のカクテルあおいで。これに慌てたのがホテル側である。酒代を踏み倒されたのだから。ホテル側は、酒代を新ゲルマニアの分譲地でチャラにするよう説得され、しぶしぶ受け入れた。
結局、4年たっても、新ゲルマニア事業は進展しなかった。土地の所有権さえ、まだ手にしていないのだ。このままでは、新ゲルマニアは破綻する。新しい経営者が必要だ。 1890年、新ゲルマニア事業は「パラグアイ新ゲルマニア植民地会社」に買い取られることになった。引き受けたのは、ドイツ人、イタリア人、スペイン人、イギリス人、デンマーク人からなるグループである。
ところが、エリーザベトは気に入らなかった。アーリア人のユートピアを、なぜ、外国人にくれてやるのだ! さっそく、エリーザベトはドイツに帰国した。新ゲルマニアを取り戻す資金を集めるために。 エリーザベトは「ベルンハルト・フェルスターの植民地・新ゲルマニア」を編集して、1891年春に出版した。これで、資金と入植者を一網打尽にしようというのである。 この本の中で、エリーザベトはいつものノリで、嘘八百をならべたてた ・・・
「パラグアイの気候は私には天国です。あちらの食べ物はすばらしくかつ安価で、入植者たちはみんな一様に健康で幸福です。じつのところ、パラグアイについて言っておかなければならない最悪のことは、暑さのためにクリームがうまく固まらないということです」
新ゲルマニアを取りもどすためなら、この程度のウソは屁でもなかった。エリーザベトは鉄の心臓と小型原子炉をもった超人なのだ。 1892年8月、エリーザベトは新ゲルマニアに良い知らせをもち帰った。牧師の派遣が決まったのである。 牧師? 牧師が一体何をしてくれるというのだ? 気候を温暖にしてくれる? 穀物の収穫を増やしてくれる? 飲み水を増やしてくれる?
銀行マンが(お金をもって)来てくれるほうがよっぽどマシではないか。 そして ・・・ ここで、大事件が起こる。 新ゲルマニアの内部から裏切り者が出たのである。古参メンバーのフリッツ・ノイマンが、本国のケムニッツ植民地協会にちくったのだ ・・・
「(新ゲルマニアは)水道もなければ、道路もありません。われわれは自然の力によって追い出されてしまいました。小屋も農地も崩壊しています。フェルスターの事業は完全な失敗でした。そもそも、ここに人々を連れてきたことからして罪深いことですが、さらにそのあとにつづくように他の人々を説得したことは犯罪です」(※1)
・・・ 身もふたもない。 この報告を読んだケムニッツ植民地協会のマックス・シューベルト会長はついに決断した。エリーザベトを新ゲルマニアから追放する!
■新ゲルマニアの黄昏
エリーザベトは計算高く、機を見るに敏だった。見込みがないなら、傷口が広がる前に撤収あるのみ!
タイミング良く、兄ニーチェの病状も悪化していた。兄の面倒をみるために、ドイツに帰らなければならない。エリーザベトにとって渡りに船だった。 そうと決めたら、エリーザベトの行動は早かった。家と土地を売っ払い、新ゲルマニアに別れを告げたのである。憤激した入植者の一団が追いかけてきたが、彼女は振り向かなかった。歩いて立ち去ったのである。1893年8月、エリーザベトはアスンシオンを出航し、パラグアイに二度と戻らなかった。
帰国後、1895年1月に、エリーザベトは、こんな弁解がましい記事を寄稿している。 「私には、別の仕事が私の時間とエネルギーを要求しています。たった一人の愛する兄、哲学者ニーチェの世話をすることです。兄の著作を守り、その人生と思想を記述しなければなりません」(※1) この発言は注目に値する。もし、この決断がなかったら、哲学者ニーチェが名声を得ることも、ナチスの教義がニーチェの哲理で正当化されることもなかったのだから。 新ゲルマニアであれだけの失敗をやらかし、ペテン師、大悪党と罵倒されてもどこ吹く風、誰が何を言おうが知ったこっちゃない。それが、鉄の心臓と小型原子炉をもつエリーザベトなのだ。
そもそも、新ゲルマニアは壮大にみえるが、本当は砂上の楼閣だった。イデオロギーという実体のない概念で組み立てられていたのだから。 結局、フェルスターは自殺し、エリーザベトは新しい人生を見つけた。ところが、新ゲルマニアの入植者は未だに地獄から抜け出せない ・・・ 誰がだまして、誰がだまされたかは明らかだ。
とはいえ、フェルスター夫妻は、詐欺師でも大悪党でもなかった。 ただ、自分の欲望に忠実だったのである。自己中と言われれば、それまでだが、ニーチェに言わせれば、己の欲望を直視し実行する「超人(オーヴァーマン)」なのだ。 こうして、新ゲルマニアは空中分解した。南米大陸を支配するアーリア人共和国にも、ドイツの第二の祖国にもならなかったのである。 ところが ・・・ 新ゲルマニア伝説はそれで終わらなかった。
新ゲルマニアは植民地として今も存続しているが、問題はそこではない。ナチスの戦犯ヨーゼフ・メンゲレがからんでいるのだ。 メンゲレは、ナチスドイツのマッドサイエンティストで、「死の天使」として怖れられた。アウシュヴィッツ第2収容所「ビルケナウ強制収容所」の主任医師として、数々の人体実験を行ったのである。
■メンゲレ伝説
メンゲレは、第二次世界大戦後、他のナチス高官同様、南アメリカに逃れた。南アメリカはドイツ人植民地が多く、ドイツ人に寛容だったからである。とくに、パラグアイはドイツとは馴染みが深かった。1888年にドイツ人植民地「新ゲルマニア」が建設され、1932年には、南アメリカ初のナチ党が結成されている。
メンゲレの逃亡は謎が多いが、定説によると ・・・ 1959年、パラグアイの市民権を獲得。その後、ノイローゼになってブラジルの片田舎に移り住み、1979年に水泳中に心臓発作で死亡。遺体は1985年に掘り出されて、国際的な専門家チームによって本人と確認された。 ところが、1991年、専門家の一人がサンパウロのエンブ墓地から掘り出された遺体はメンゲレでないと言いだしたのだ。こうして、メンゲレ伝説はよみがえった。しかし、最期はどうであれ、メンゲレが1980年頃まで生きて、パラグアイとブラジルにいたことは確かだ。であれば、メンゲレが新ゲルマニアにいたとしてもおかしくない。
1991年3月、イギリスの作家ベン マッキンタイアーは、100年前にエリーザベト夫妻が住んだ大邸宅フェルスターホーフの前に立っていた。現在の新ゲルマニアを取材するためである。その集大成が著書「エリーザベト・ニーチェ(※1)」だが、その中に、興味深い証言がある。 証言しているのは、現在の新ゲルマニアに暮らすドイツ人入植者だが、内容は驚くべきものだ。
「私は(新ゲルマニアで)メンゲレを目撃した」
と言っているのだから。もし、それが本当なら、メンゲレ伝説にあらたな一章が加わる。さっそく、その証言を紹介しよう。
【マグダレーナ・フィッシャーの証言】
1950年代に、ブラントと称する男が農機具を売りに植民地にやってきた。その男は医者でもあり、貧しいドイツ人の家族の面倒を見ながら、山の方へよく旅をしていた。子供たちにはとてもやさしかった。しかし、人とはつきあわず、その理由をせんさくする人もいなかった。そして、ブラントは1960年頃から姿を見せなくなった。ブラントの正体(メンゲレ)がわかったのはずっと後になってからだ。
【機械部品店を経営しているヘルマン・シュテルンの証言】
1979年に、フリードリヒ・イルクという男が植民地にやってきた。70才くらいで、髪はグレー、前歯が1本なかった。空軍のパイロットをやっていたそうだ。正真正銘のナチで、ヒトラーは誤解されていたんだ、といつも言っていた。小さな土地をもっていて、そこでせっせと働いていた。やがて、うつ病にとりつかれるようになった。とても神経質な男だった。いつも全然眠らないみたいで、朝方3時、4時でも、彼の小屋にはローソクの火が見えた。医学の本を何百冊ももっていて、いつもそれを読んでいた。 その後、イルクは頭がおかしくなって、アスンシオンの精神病院にいれられた。
1985年7月、イルクは自殺した。 2年後、ヘルマンは、メンゲレの死体発掘の新聞記事をみて、メンゲレの昔の写真を見た。その瞬間、メンゲレがイルクだと確信したという。ヘルマンによれば、イルクは食事のときのナイフの持ち方が独特で、鉛筆のように握っていた。メンゲレもそういう食べ方をしていたという。
もし、これが事実なら、1979年に水泳中に心臓発作で死亡し、埋められたのはメンゲレではない。 注目すべきは、ブラジルで死亡したとされる1979年が、イルクが新ゲルマニアにやって来た年と一致すること。つまり、メンゲレは1979年に、ブラジルで死を偽装し、パラグアイに逃れ、新ゲルマニアで第二の人生を送ろうとしたのかもしれない。 「あの男(イルク)はメンゲレだった。私にはわかるんだ」 とヘルマン・シュテルンは断言する。 マグダレーナ・フィッシャーはブラントがメンゲレだと言い、ヘルマン・シュテルンはイルクがメンゲレだと言う。だれもが自分なりのメンゲレ伝説をもっているわけだ。
ところで、彼らは新ゲルマニアの創始者、フェルスター夫妻のことを覚えているのだろうか? 世代は代わったが、伝説は語り継がれているという。 フェルスターは尊大な男だった。一方、エリーザベトは勇敢な女性だった。それに美しかった。彼女の魅力はおそろしく耐久力があることだった。 というわけで ・・・ 現在の新ゲルマニアでも、エリーザベトは鉄の心臓と小型原子炉を持った超人として語り継がれている。そして、新ゲルマニア伝説とはエリーザベト伝説のことなのである。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-284/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第285話) エリーザベト伝説Ⅰ~ニーチェブランドの創作者~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-285/
■第二の人生
パラグアイのドイツ人植民地「新ゲルマニア」は崩壊寸前だった。
植民地の悲惨な状況が暴露され、入植する者がいなくなり、創設者のフェルスター夫妻でさえ植民地を去ったのだから。妻のエリーザベトは故郷のドイツへ、夫のベルンハルトは黄泉の国へと。もっとも、エリーザベトの場合は、去ったのではなく、追放されたのだが。
ところが、エリーザベトは落ち込まなかった。第二の人生を見つけたのである。兄ニーチェの著書を独占販売して金儲け!
兄の名声で金儲け? このバチ当たりが!
・・・ ではなく、事実はその逆。
じつは、現在に到るニーチェの名声は、妹エリーザベトのおかげだったのである。もし、エリーザベトがいなかったら、ニーチェは無名の学者で終わっていただろう。ニーチェが発狂した時点で、主要な著書はまだ発表されていなかったから。もっとも、その場合、「ナチスの協力者」という汚名を着せられることもなかったが。
それにしても、エリーザベトの頭の切りかえの早さ、変わり身の早さはどうだろう。
人生をかけたプロジェクトが失敗し、夫が自殺したのに、落ち込むこともなく、新しいプロジェクトに、打ち込めるのだから。一体どんな神経をしているのだ?
と、悪口をいう前に、彼女を見習うべし!
彼女の辞書には、後悔、悩み、ストレスなど、金にならない単語は登録されていないのだから、と、誉めているのか、けなしているのか、自分でもわからない。
というわけで、エリーザベトは、第二の人生に胸を膨らませて、ドイツに帰国した。彼女が、ナウムブルクの実家に帰ると、ニーチェは以前より大人しくなっていた。大声をあげることも、暴れたりすることもない。一日中、黙って、宙を見すえているのだ。
ところが、エリーザベトは、この”痛ましい姿”をお金に替えることを思いついた。
兄の心の病で金儲け?
あさましい! と責める前に、一体どうやって?
天才哲学者、狂気の世界へ、波瀾万丈の人生 ・・・
でも、そんなベタなやり方でうまくいく?
同情で気を惹いても、一過性の話題で終わるのは見えている。大衆は、飛びつきやすく、飽きやすいものだから。
ところが、エリーザベトはこの難儀なプロジェクトを成功させた。驚くべき手法で。
■ニーチェ・ブランド
エリーザベトの兄ニーチェは優れた哲学者だったが、自分が構築した哲理に押し潰されてしまった。勇ましい「超人思想」をぶち上げ、自ら実践した結果、心の病にとりつかれたのである。しかも、最も重い統合失調症に。老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま発狂したというから、ことは深刻だ。
ところが、エリーザベトはその「痛ましい姿」を「超人」に昇華させたのである。
どうやって?
「狂人=弱者」→「狂人=普通じゃない=超越的存在=超人」
目の覚めるようなコペルニクス的転回だ ・・・
でも、そんなカンタンにいく?
それが、うまくいくのだ。
じつは、狂人を超人にすり替えるのは難しいことではない。常識と論理を捨てればいいのだ。そもそも、正攻法で考えても、答えは見つからないから。
ではどうすればいい?
「神話」にすればいい。神話なら、なんでもアリだから。
ただ、エリーザベトが、論理的に考えて、この手法にたどり着いたとは思えない。そもそも、「自分が神話を作っている」ことにも気付かなかっただろう。彼女は筋道立てて考えるということができない。つまり、行動した結果、「ニーチェ神話」ができあがっていたのである。バカにしているのではない。天才だと言っているのだ。
じつは、天才エリーザベトには協力者がいた。彼女の側近のルドルフ・シュタイナーである。彼は詩人であり、詐欺師でもあったが、その才能を用いて、ニーチェをこう讃えた。
「ニーチェが、ひだのある白い部屋着に身を包んで横たわり、濃い眉の下の深くくぼんだ目を見開いて、バラモンのように凝視し、問いかけるような謎に満ちた顔をして、思索家らしい頭を獅子のように威厳に満ちて傾けるのを見れば、だれしも、この男が死ぬなどということはなありえない、この男の目は永遠に人類の上に注がれることだろう、という感じがするのだった」(※1)
だまされていはいけない。ここに書かれているのは、自分の身の回りの世話さえできない廃人なのだ。それが、シュタイナーの呪文にかかると、バラモン、獅子 ・・・ 超人?!
これほど見事に人をだませるのは、詐欺師しかいないだろう。
これが、言葉の力、宣伝の力、プロデュースというものなのである。
ところが、詐欺師、いや、協力者は他にもいたのだ。ニーチェの信奉者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は、慎重に言葉を選びながら、シュタイナーの主張を増幅させた。いわく、
「彼はソファーで眠っていた。その巨大な頭を右に傾けて垂れ、胸に沈めていた。まるで、重すぎて首では支えきれないかのようだった ・・・ 病人とか狂人というよりも死人のようだ」
そして、驚くべきことに、協力者は音楽界にもいたのである。
1896年、音楽家リヒャルト・シュトラウスが、ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」をモチーフに交響曲を書いたのである。曲名もそのまま、「ツァラトゥストラはかく語りき」。この楽曲は、スタンリー・キューブリックのSF映画のカリスマ「2001年宇宙の旅」に使われ、一躍有名になった。
こうして、ニーチェは正気を失った後、急速に名声を得ていく。もちろん、すべて、エリーザベトのおかげ。ニーチェは自分の身の回りのことさえできないのだから。
ここで、エリーザベトの名誉のため少しフォローしておこう。このままでは腹黒い守銭奴で終わりそうなので。
じつは、エリーザベトは腹黒い守銭奴ではなかった。彼女は、兄ニーチェが有名になるのを心底望んでいたのである。兄ニーチェを心から尊敬し、偉大な哲学者、預言者だとかたく信じていたから。だから、複雑な守銭奴なのである(フォローになったかな)。
とはいえ、エリーザベトは自分を有名にすることも忘れなかった。彼女はこう言い切っている。
「フリッツ(フリードリヒ・ニーチェのこと)には、どこかたぐいまれなところがあることを幼いときから見て取り、その確信を口にした、たった一人の女の肉親が、妹のこの私なのである」(※1)
さらに ・・・
エリーザベトは、ニーチェ本の編集にまで口を出した。
ちょっと待った、彼女は哲学を理解できるの?
ムリ。
エリーザベトの側近のルドルフ・シュタイナーによれば、
「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている」(※1)
やっぱり、ムリ。
ところが、エリーザベトの編集付きのニーチェ本は評判がよかった。というか、飛ぶように売れたのである。エリーザベトは哲学の素養も論理的思考も持ち合わせていなかったが、セリフのセンスだけは抜群だったのだ。
たとえば ・・・
新ゲルマニアはまがいもので、それを喧伝するフェルスター夫妻はペテン師だと、非難されたとき、エリーザベトは反論したが、返す刀で、反ユダヤ同盟を一刀両断にしている。反ユダヤ同盟は、夫のフェルスターと同じ反ユダヤ主義なのに、夫に資金援助をしなかったからである。
そのときのエリーザベトのセリフがふるっている。
「おお、反ユダヤ主義のみなさん、恥知らずにも、あなた方のもっとも理想的な指導者の一人を見捨てることが、あなた方の誠実さですか、勇敢さですか ・・・」(※1)
エリーザベトは哲学や論理は苦手でも、大衆をたぶらかす言霊(ことだま)には精通していたのである。
■エリーザベトの野望
狂人を超人に仕立て上げ、話題性を高め、本の販売数を増やして一儲けする ・・・ エリーザベトの野望はそんなものではなかった。もっと、大きな野望があったのである。
「ニーチェ・ブランド」の確立。
そのための最初のステップが「ニーチェ資料館」の設立だった。この資料館をニーチェ・ブランドの象徴にすえて、露出を増やし、有名にして、書籍以外の商売をもくろんだのである。
具体的には、ニーチェの著作(ワンソース)を、多角的に活用して、書籍以外の形態で収入を得る。これは、現在のデジタルコンテンツの最先端手法で、「ワンソース・マルチ展開」とよばれている。
つまり、エリーザベトは、100年未来の最先端手法を駆使していたのである。プロデューサーの訓練も受けていないのに、どうやって閃いたのだろう。
1894年2月2日、ナウムブルクの実家で「ニーチェ資料館」が開館した。ニーチェの著書、手紙、そのほか、ニーチェにまつわるあらゆるものが詰め込まれた。ここに来れば、ニーチェ・ワールドが堪能できるわけだ。
1897年4月20日、ニーチェの身の回りの世話をしていた母フランツィスカが他界した。エリーザベトは、これを機に、兄とニーチェ資料館をヴァイマルに移そうと考えた。ヴァイマルは、ドイツ古典研究の中心であり、ゲーテー、シラー、リストなど著名な文化人を輩出している。だから、ニーチェにふさわしい町だと考えたのである。
とはいえ、ヴァイマルで新しい資料館を開館するには大金が必要だ。それはどうしたのか?
ニーチェを崇拝する友人で、お金持ちのメータ・フォン・ザーリスが出した。そのお金で、ヴァイマルを見渡す丘の上にある豪壮なジルバーブリック館を買い取り、資料館に改造したのである。一階には、ニーチェの著書、手紙、日記、絵画が展示された ・・・ ところが、その横に、パラグアイ時代のエリーザベトにまつわる品々、ベルハンルト・フェルスターの胸像まで展示された。ニーチェ資料館、それとも、エリーザベト資料館?
ヴァイマルに新しいニーチェ資料館(ジルバーブリック館)が開館すると、ヨーロッパ中の知識人が押しかけた。悲劇の天才哲学者ニーチェの世界を堪能しようと。こうして、ニーチェの知名度は増し、著書は難解な哲学書にもかかわらず、売れ続けた。ニーチェの健康が悪化すると、さらに名声は高まり、本の販売数もうなぎのぼりだった。すべて、エリーザベトの思惑通り。
そして、いよいよ「ワンソース・マルチ展開」の大攻勢が始まる。
1898年10月に、アルノルト・クラーマーが「椅子にすわる病めるニーチェ」と題する彫像を製作した。もちろん、アートとして。それを見たエリーザベトは閃いた。これで一儲けできる!
クラーマーの彫像をテンプレートにして、サイズの違うレプリカを製造・販売したのである。居間や書斎に飾れば、最強の知的オブジェになるし、いっぱしの哲学者気分にもひたれる。実際、このレプリカは飛ぶように売れた。エリーザベトの商売上手には脱帽だ。
1900年8月25日、ニーチェは風邪をこじらせて、あっけなく死んだ、まだ、55歳だった。
エリーザベトはこの機会を逃さなかった。「ニーチェの死」が下火になる前に、ジルバーブリック館を大改装し、「ヴァイマルにニーチェあり!」を大々的にPRしたのである。
ところが、エリーザベトの野望はこんなものではなかった。
この頃、毎年、バイロイトでワーグナー歌劇祭(バイロイト音楽祭)が開催され、多くの知識人が訪れていた。そのため、バイロイトはドイツ文化の中心の感があった。
そこで、エリーザベトは「ニーチェのヴァイマル」を得意の宣伝でピカピカに飾り立て、「ワーグナーのバイロイト」を蹴落として、ドイツ文化の中心にすえようとしたのである。
■力への意志
さらに ・・・
エリーザベトは、ニーチェの著書を売るだけでは満足しなかった。なんと、ニーチェの未完の書まで出版したのである。
ニーチェは死んでいるのに、どうやって?
じつは、ニーチェのメモを理解できる人物が一人だけいた。ニーチェの信奉者で、親友のペーター・ガストである。そこで、エリーザベトはガストを再雇用した。
ガストは、ニーチェが書いたり、棄てたりした、試行錯誤の産物を継ぎはぎして、一冊の本を創りあげた(恐ろしいことにエリーザベトの指示に従って)。この怪しげな本は「権力への意志」と命名され、1901年にドイツで出版された。そして、ニーチェの代表作の一つになったのである。
しかし、忘れてはいけない。ニーチェは「権力への意志」という本は書いていない。書いたのはエリーザベトとその仲間なのだ。
とはいえ、この本がニーチェの哲理から大きく逸脱しているとは思えない。
なぜなら、エリーザベトにそんな創造力はないから。
この本に登場する「力への意志」は、ニーチェ哲学の根本をなす概念で、人間が高みを目指す力の源を意味している。この言葉は、ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」に初めて登場し、超人思想やルサンチマンの土台となった。
というわけで、エリーザベトは、ニーチェの未完の書までお金に替えたのである。まるで、ギリシア神話のミダース王ではないか。触ったものすべてを黄金に変えるのだから!
こうして、ニーチェが死んだ後も、エリーザベトはこの世の春だった。ニーチェの著作で実入りはいいし、寄付を申し出る奇特な金持ちも後を絶たなかったから。
その中の一人が、スウェーデンの銀行家エルネスト・ティールだった。ある日、彼からエリーザベトに一通の手紙が届いた。寄付の申し出なのだが、金額がハンパではない。彼はニーチェの熱烈な崇拝者だったのである。
エリーザベトにとって、願ったり叶ったり、ところが、一つ問題があった。エルネスト・ティールはユダヤ人だったのである。エリーザベトは極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたからと、わざわざ、遠路パラグアイまで行って、アーリア人植民地を建設したのだから。
そんなわけで、ユダヤ人から寄付は受け取れません! ・・・ なら、いさぎよかったのだが、そうはならなかった。1907年9月、エリーザベトは30万ライヒスマルクを受け取ったのである。その後も、エリーザベトは、お金が必要になると、ティールに無心するのだった。それでも、ティールは文句一つ言わず、お金を出し続けた。30年間の寄付の総額は数十万マルク。もちろん、エリーザベトは、気がとがめることもなく、すべてを使い切った。
なんという女 ・・・ いや、待てよ、むしろ、いさぎよいのではないか?
「ニーチェ・ブランド」という大義ために、偏屈な人種差別を我慢したのだから。
ノンノン、そうではない。
エリーザベトの反ユダヤ主義は、単に日和見的なものだったのだ。後に、エリーザベトはこのユダヤ人富豪が大好きになり、家族ぐるみで付き合うようになったのだから。
《つづく》
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-285/