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2024/11/09 (Sat) 20:42:38
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樋口一葉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E4%B8%80%E8%91%89
樋口一葉 作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person64.html#sakuhin_list_1
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2024/11/09 (Sat) 20:43:38
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闘う女一葉 壺齋散人の樋口一葉論
続壺齋閑話 (2024年11月 9日 08:29)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8069.html
樋口一葉と聞けば大方の日本人は、平安時代の王朝風の女流文学の伝統を受け継ぎ、明治という時代に和文で創作した最後の作家というようなイメージを思い起こすだろう。その作品は、抒情的な雰囲気を以て人間とりわけ女性たちの心理の機微を描いたというふうにみなされる。そういう見立てのもとでは、一葉は明治の時代に源氏物語の世界を再興したと言われがちである。そういう見方を流布したのは森鴎外と幸田露伴であった。鴎外らは、一葉の小説「たけくらべ」が一年にわたる断続的連載を終えて、全編一機に掲載されたのを受けて、雑誌「めさまし草」の文芸批評欄「三人冗語」の場で、一葉の才能を絶賛したのだった。その際にかれらが持ち出した批評の基準が、抒情性とか日本的な美的感性といったものであった。一葉は抒情性の豊かな、日本的な美的感性を表出した作家というふうにカテゴライズされたのである。そうした一葉の見方は、その後の批評の大きな準拠枠となった。いまでも一葉をそうした作家として単純化する見方が支配的である。
しかし一葉の作品を虚心坦懐に読めば、鴎外らの見方が一面的だということに気づく。一葉の小説には、非常に抒情的な要素があることはたしかではあるが、それ以上に、社会的な批判意識が濃厚である。一葉の代表作はいずれも、女の生き方をテーマにしたものだ。一葉の時代の女は、まだまだ徳川時代以前の封建的な因習にとらわれて、非常に窮屈な生き方を強いられていた、窮屈であるとともに、抑圧的でもあった。一葉の描いた女たちは、抑圧されて、その抑圧に抵抗できず、多くの場合、それに屈するような生き方を強いられている。そこに一葉は一葉なりの怒りを感じ、その怒りが小説の基調となった。一葉の小説はなによりも、怒りの文学なのである。
鴎外らが激賞した「たけくらべ」は、一年にわたる連載の過程で、当初の意図を超えて新しい物語に変化している。当初「雛鶏」という題名を与えられたこの小説は、題名通り少年少女たちの成長のプロセスを描くことを意図していたと思われるが、途中から、もっぱら美登里という少女が女としての自分の宿命を受け入れていく過程を描くことにかわっている。美登里にとって女としての宿命とは、吉原の芸妓になることである。美登里の姉も吉原の芸妓であって、彼女らは子供のころから芸妓となるよう定められていたのである。そのことに気づいたとき、美登里は少女から女へと変貌する。そのことに気づかない読者は、美登里の変貌を初潮と結びつけたりしたものだが、初潮はめでたいことではあっても、深刻な出来事ではない。小説の中の美登里は、深刻な出来事に見舞われてショックを受けているのである。
一葉が、「たけくらべ」のテーマを、少年少女の成長物語から女の抑圧された生き方の自覚に変更したのは、一年にわたる連載の間に、彼女の問題意識が変わったからである。一葉は、「たけくらべ」の連載と並行して、「十三夜」「にごり江」そして「わかれ道」を執筆する。「十三夜」は夫の抑圧から逃れようとして逃れられずに妥協する女の話であり、「にごり江」は銘酒屋のバイシュン婦がかつての客に殺される話であり、「わかれ道」はこころならず男の妾になる女の話である。いずれも封建的な因習に押しつぶされる女を描いている。そうした女を描きながら、一葉は明らかに女たちに感情移入し、女たちを抑圧している因習に怒りをあらわしている。その怒りは、因習との一葉なりの闘いであったといえる。そうした闘いを描くうちに一葉は、「たけくらべ」を単なる少年少女の青春物語にしておくことに満足できなくなった。そこで途中から主人公の美登里に封建的な因習の犠牲者という役割を与えることで、一葉なりに、因習との闘いを自覚したのではないか。
一葉が因習に押しつぶされる女をもっぱら描くようになったのは、彼女自身の境遇にもよる。少女時代の一葉は、かならずしもみじめな生き方をしていたわけではなかったので、社会に対して不満をもつことはなかった。萩乃舎は裕福な家庭の子女の集まりであり、その中にあって貧しさにもとづくコンプレックスは感じたようだが、社会を恨むというような気持は持たなかった。ところが父親が死に、経済的に困窮するようになると、一葉は次第に社会的な矛盾に自覚的にならざるを得なかった。自分自身の貧しさを思い知らずにはいなかったし、自分の周辺の貧しい女たちの境遇にも目がゆくようになった。それについては、吉原の近隣で駄菓子屋を開いたこととか、丸山福山町で銘酒屋の女たちと親しく接したということもある。そういう自分の置かれた境遇から、一様は次第に、女が直面している社会的矛盾に自覚的になった。その自覚が一葉に、社会を相手にして闘う姿勢をとらせたといえる。
一葉の転機を画した小説「大つごもり」は女の貧困をテーマにしたものである。その貧困は一葉自身の貧困を下敷きにしたものであった。この小説の中で主人公お峰は、主人の目を盗んで二円の金を盗む。それは彼女の切羽詰まった事情のためである。この小説の中の事件は実は一葉自身の起こした事件を下敷きにしているのである。一葉は中島歌子の塾の下働きのようなことをしていたのだが、その仕事の最中、授業料収入の中から二円をくすねた。一葉自身には、これは毎月もらえるはずの手当であり、決してゆえなく手にしたのではないという気持ちがあったようだが、世間にはそうは見えない。一葉の行為は盗みとしてうけとられて仕方がない面がある。いずれにしても不愉快なこの事件を、一葉は小説の中に取り入れた。どういうつもりだったかは、うかがい知れないが、もし一葉が経済的に切羽つまっていなかったら、そんなことはおこさず、また、小説の題材に取り入れることもなかったであろう。
こんなわけで、一葉の小説の中の社会的な矛盾にかかわる部分については、一葉自身の実生活が大きなかかわりをもっている。自分自身の置かれたみじめな境遇が一葉に社会的な矛盾への自覚を深めさせ、その自覚が、小説の主人公たちを通じて、社会を指弾するような姿勢をとらせたのであろう。
一葉の作家としての事実上の遺作「われから」は、女が置かれた因習的な境遇に、果敢に立ち向かう女を描いている。その女は、自分が父親から受け継いだ財産を、入り婿に奪われる。自然の親子関係からは娘である自分に相続の権利があるはずだが、社会的な因習は、女の権利を認めない。そんな因習に対して主人公のお町は、勝てない闘いだとわかっていながら、果敢に闘いを挑む。そうした女の闘いを一葉は、横山源之助に影響されて思いついたようである。毎日新聞の記者だった横山が一葉を訪ねてきたのは明治29年2月29日のことである。その際に女の生き方について語り合った。横山は一葉を大いに励ましたようである。その励ましに応じるようにして、一葉は果敢に闘う女を前面に出したのだと思われる。
以下、一葉の代表作及び日記を読み解きながら、一葉文学の神髄に迫っていきたい
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8069.html
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2024/11/16 (Sat) 20:11:05
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大つごもり 樋口一葉を読む
続壺齋閑話 (2024年11月16日 08:20)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8079.html#more
樋口一葉の作家としての代表作は「たけくらべ」以下の五編の短編小説であるが、そのうち「大つごもり」は最初に書かれた。明治二十七年(1984)十二月発売の雑誌「文学界」に発表。一葉は満二十二歳であった。
下女として働く若い女(十八歳)の過酷な境遇がテーマである。貧しさのあまり、旦那の家から二円の金を盗む。しかし偶然の女神のはからいで、露見を免れ、当座をしのぐことはできた。しかし、彼女の境遇にはいささかの変化もないから、再び同じことをするはめに陥らないとも限らない、そんな絶望的な境遇が淡々と描かれる。文章に誇張はない。それでいて劇的な展開を感じさせる。一葉はこの作品によって、ついに自分の文学スタイルを確立できたと感じたのではないか。
一葉が小説世界で描いたのは、古い因習によってがんじがらめにされた女たちの過酷な境遇である。また、貧しい境遇の女たちを描いた。一葉自身、貧困な境遇にあえいでいた。しかも病弱である(後に肺結核を発病する)。それでもやけになることはなく、自分の体験をもとにして、独特の小説世界をつくりあげた。「大つごもり」はその転機となった作品である。
お峰という名の若い女が主人公。人使いの荒い家で下女として働いている。そのお峰が旦那の金を盗むはめになったのは、二つの事情が重なったからだ。まず、養父の病気で家族の経済状態が悪化。養父から金の無心をされる。借りた金に利子がつもり、それを払わないととんだことになる、といって二円という金を無心される。お峰は、前借でもしてなんとか都合をつけようと思い、かならず用意するから、大晦日(大つごもり)の日に、七歳になる弟に取りにこさせてくれと言う。
お峰は旦那の女房に金を用立ててくれるように願い出る。意外なことに女房はそれをうけがう。ところが、大つごもりの当日になると、女房は前言を翻して、金を渡してはくれない。そんな折に弟が金の受け取りにくる。お峰は切羽詰まり、なんとかせねばならぬ状況に追い込まれる。これが盗みをするはめになった第二の事情である。
大つごもりの日には、旦那の倅がきていた。倅は、父親に年越しの資金を無心する。その倅が、お峰が旦那の金を抜き取る場面を見ていたかどうかわからぬが、結果としてお峰を救う役割を担うことになる。というのも、お峰が手を付けた札束をそっくり頂戴し、自分がそれをもらったという書置きを残したのだ。それによって旦那ら家のものは、金がなくなったのは倅のせいだと思い、お峰が金を盗んだことは露見せずに済んだのである。
そのことについて、結びのところで次のように書いている。「さらば石之助(倅の名)はお峰が守り本尊なるべし、後のこと知りたや」。後のことを知りたいと言うのは、意味深長な言い方である。二円盗んだことは露見せずに済み、とりあえず無事を得たが、それは一時しのぎというべきもの。養父の家の状況は、二円の金でなんとかなるというものでもなく、いずれまたお峰に金を無心することになるだろう。その時にお峰はどんなふうに振舞えばよいのか。なんら明るい見込みはない。そんなきわどいお峰の境遇を、一葉は突き放したような言い方で表現しているのである。
「大つごもり」を映画化したものとして、今井正の「にごりえ」がある。この映画は、「にごりえ」「十三夜」を含めたオムニバス形式の作品で、久我美子がお峰を演じていた。そのお峰が、盗みが露呈するのではないかと恐れおののくシーンが非常に印象的だった。一葉の小説には、視覚的なイメージはあまり感じられないのだが、それを表現すると久我美子のあのような表情になるのであろう。
まずしいお峰の境遇に、自分自身のまずしい境遇を一葉が重ね合わせていることは、十分に考えられる。
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8079.html#more
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2024/11/23 (Sat) 18:00:26
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樋口一葉「たけくらべ」を読む
続壺齋閑話 (2024年11月23日 08:19)
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8088.html
「たけくらべ」は、樋口一葉が書いた小説の中で最高傑作といってよい。短編小説ではあるが、他の小説にくらべて長いのと、その分筋書きの展開が入り組んでおり、色々な要素が共存している。メインの要素は、江戸から東京になった下町を舞台にして、少年少女を中心とした庶民の生きざまが生き生きと描かれていることと、主人公格の少女美登里の変貌である。美登里は当初男の子顔負けのお転婆娘として描かれていたのが、ある日突然変化する。その変化は、美登里の仲の良い男友達正太郎がびっくりするほど顕著である。正太郎は美登里より二つ年上の十六歳に設定されているが、その正太郎が、美登里がいきなり変わったことに辟易するほどなのである。
たしかに、この小説の最大の読ませどころは、美登里の変貌の部分なのである。その変貌をどうとらえるかで、小説の読み方ががらりと変わってしまう。従来の主流の意見は、美登里が初潮を迎えたことで、女を自覚するようになった。その自覚が美登里に顕著な変化を与えた。美登里は、それまでの性別を感じさせないような活発な女の子から一人の女に生まれ変わった。その女としての自覚が美登里に顕著な変化をもたらした、とするものだった。
それに対して佐多稲子が異議をとなえ、ちょっとした論争に発展した。佐多にとっては、美登里の変わりようは尋常ではないのである。「美登里のこの変りようは初潮に原因があると解釈されている。それですむなら『たけくらべ』の良さは単なる少年少女の成長の記に終わると云えないであろうか」と佐多は言って、それですむのだったら、「たけくらべ」はただの少女小説に過ぎなくなると言っている。佐多の直観では、この小説はそんない浅はかなものではない。当時、つまり明治になって間もない時代における、一部の少女たちの厳しい境遇を暗示している。美登里を憂鬱にさせたのは、初潮のショックなどではなく、自分の身の上に花魁の姉大巻と同じ境遇が起ることを自覚したことによるのであると佐多は言うのだ。十四歳の美登里の身にも、芸者として生きるように強制するものが迫ってきた。その切迫感が美登里を憂鬱にした。
評者の中には、美登里は廓の中でじっさいに身を売ったのではないかと推測するものもあり、その現実的な可能性などを忖度するものもあった。初めて身を売ることを、関西では水揚げと言い、関東では初店と言うそうだ。その初店の行事が、廓の中で行われ、その行事にともなって美登里は体を売ったのではないか、そう推測するような見方も提出されたりするが、小説の書き方としては、なにも体を売る場面をことこまかく書く必要はない。それとなく匂わせるだけでよいのであって、一葉の筆はどうも、美登里の身に体を売ることに通じるような何事かが起り、それが美登里の気持ちを乱れさせたと匂わせていると受け取れる。
ともあれ、廓から戻ってきた美登里の様子は、佐多の言うとおり尋常ではない。彼女は自分の身の上を恥じるようになり、そのため仲のよかった正太郎をはじめとして人と会うのが怖くなった。人の自分に向けられる目に、侮蔑を感じるようにもなった。ただの初潮くらいで、人の侮蔑の対象になるわけはない。そうなるのは、彼女が人をはばかるような境遇になるからだ。つまり売女の境遇である。とはいえ、明治の初め頃には、売女の境遇は現在ほど屈辱的であったわけではない。じっさい、美登里の姉は廓の中では売れっ子の花魁なのであり、そんな姉を美登里は誇りにしてもいる。だから、自分が姉と同じ境遇になるのは、絶望的なこととはいえない。そこをわかっているから美登里の母親は、「怪しき笑顏をして少し經てば愈なほりませう、いつでも極りの我まゝ樣さん、嘸お友達とも喧嘩しませうな、眞實ほんにやり切れぬ孃さまではある」などと平然と言ってのけるのである。最初はショッキングだろうが、そのうち姉のように慣れてくるだろうと楽観している。美登里の両親は、姉娘を売る際に、美登里も将来売ることを条件に周旋屋の厄介になったといういきさつがある。こんなひどい親がかつてはいたようである。
佐多の意見に強く反論した前田愛は、たけくらべにおける緑の変貌は初潮で説明できると強調した。だが前田の反論は、些末な技術的な指摘がほとんどで、肝心の美登里の気持ちがわかっているとはいえない。女の子にとって初潮は、たしかに照れくさいものではあろうが、しかし人目をはばかるような恥ずかしいものとは言えない。そこのところを前田は軽視しているようである。美登里の変貌を初潮のせいにしたがるのは、この小説を少年・少女の成長の物語として受けとめたいとする、主に男を中心とした読者の偏見のせいではないか、と思いたくなる。もっとも女の読者の中にも、瀬戸内寂聴のように初潮説を支持するものもいるにはいるが。
この小説が少年・少女の成長の物語になっていることもたしかなことで、その成長ぶりが、当時の東京の下町の環境を舞台に描かれる。舞台は吉原の西側に隣接する地域で、小説では大音寺前と呼ばれている。少年・少女たちは、おのれの親の身分に応じて二つのグループに分かれる。経済的に豊かな層は公立小学校に子どもを行かせ、貧しいほう私立小学校に行かせる。その二つのグループが睨み合いをするのは、よくあること。美登里は私立学校、正太郎は公立学校で、この二つは本来対立関係にあるのだが、美登里と正太郎は仲が良い。正太郎は美登里に恋心をいだいているほどだ。十六歳ともなれば、恋をしてもおかしくない年頃だ。ともあれ、対立するグループの男女がむつましくするのは、ロメオとジュリエットを思わせる。
かくして、小説はこの二つのグループの対立を、祭りや年中行事をからめながら、情緒豊かに描くのである。その描き方には一葉の筆の闊達さがうかがえる。一葉は、この小説の舞台に一時住んでいたことがあり、その折に、地域の人々の生きざまのようなものにも接したことであろう。
なお、この小説は、最初の三巻が明治28年1月に発行された「文学界」に掲載され、その後併せて七回にわたって分載され、明治29年1月発行の「文学界」で完結した。その間に、「にごりえ」「十三夜」「わかれみち」が書かれている。そんなわけでこの小説には、一葉自身の作家としての成熟のプロセスが反映されていると考えられる。書き始めは少年少女のたけくらべの物語であったものが、途中から美登里の女としての深刻な変化が主題になるのである。そこに我々読者は、一葉自身の中に生じた変化を読み取ることができるのではないか。
https://blog2.hix05.com/2024/11/post-8088.html