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小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』
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2024/09/08 (Sun) 00:17:41
雑記帳
2019年01月19日
小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』
https://sicambre.seesaa.net/article/201901article_37.html
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD-%E7%B9%81%E6%A0%84%E3%81%A8%E8%A1%B0%E4%BA%A1%E3%81%AE600%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F-%E5%BC%98%E5%B9%B8/dp/4121025180
中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年12月に刊行されました。オスマン帝国については、いつか林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』(関連記事)を再読するつもりだったのですが、同書を再読する前に本書を読むことになりました。いつかは同書と本書を続けて再読するつもりです。本書は手軽に読めるオスマン帝国通史として優れていると思いますが、だからといって内容が薄いわけではなく、なかなか濃密です。オスマン帝国の通史となると、近代史の方が史料に恵まれているため、近代史の方が分量は多くなってしまいがちですが、本書は意図的に均等な時間配分にした、とのことです。一般向け通史として、こういう試みも悪くないと思います。
オスマン家は名門というわけではなさそうで、当初はアナトリア半島の諸勢力の一つにすぎませんでした。それが大帝国を築くにあたって、歴代当主個人の能力だけではなく、オスマン家が当初はイスラム教神秘主義(スーフィズム)と提携していたことも大きかったようです。スーフィズムには習合主義(シンクレティズム)的な緩やかなところがあり、キリスト教徒の武力も糾合したところに、オスマン家拡大の一因があったようです。また、イスラム教系諸王朝の統治手法を早くから積極的に導入していたことも、オスマン家拡大の一因だったようです。本書は、これが、アンカラの戦いで滅亡寸前まで追い込まれながら、急速に復興してむしろ領土を拡大していった要因ではないか、と推測しています。
オスマン家の自己認識には多様な側面があったようですが、重要なのはトルコ系遊牧民とイスラム教勢力だったようです。本書は、オスマン家は遊牧民としての性格を早くに失ったものの、オスマン家が自己の権威確立に伝統的なトルコ系の支配者としての正当性を訴えた、と指摘します。また、イスラム教勢力の支配者としての正当性の主張も重要となります。オスマン家は、勢力を拡大するにつれて、当初のシンクレティズム的な側面からイスラム教へと傾倒していきますが、それでも、イスラム法の解釈には正統的ではない側面が多分にあり、依然として緩かったことも指摘しています。広範な地域の多様な人々を統治できたのも、この緩さが大きかったのでしょう。
オスマン家といえば、兄弟殺しで有名ですが、これは当初からの慣例ではなく、コンスタンティノポリスを陥落させたメフメト2世以降のことです。オスマン家の当主争いは激しいもので、読んでいると陰鬱な気分になります。オスマン家の当主に関しては母親の身分が問われず、奴隷身分であることも多かったようです。これは、当主の母親の身分が高いと、外戚として権力を振るう可能性がある、と懸念されていたためでもあるようです。そもそも外戚が存在しないようにしたこと、有力な後継者となり得る兄弟の排除が、オスマン王朝の長期の存在を可能としました。もう一つ重要なのは、高官といえども君主の命で殺される場合が多いことで、奴隷を取り立てて、奴隷身分のまま高官とすることも多かった制度が、王朝交代を阻止した、という側面もあるようです。
オスマン帝国の全盛期は16世紀前半~16世紀中盤のスレイマン1世時代だった、と通俗的には考えられているでしょうが、本書は近年の研究動向にしたがって、18世紀が繁栄の時代だった、と主張しています。ただ、スレイマン1世以降、君主だけではなく、大宰相など中央高官・母后・后妃・宦官長・高位ウラマーなどが主要な政治主体として合従連衡を繰り返すようになり、君主は最大の政治主体ではあるものの、以前のような絶対的権力を掌握することはなくなった、とも指摘されています。17世紀に頻発した廃位もそうした文脈で解され、本書はそうした廃位を清教徒革命や名誉革命に比しています。
オスマン帝国の18世紀の繁栄を終焉させたのは、1768年に始まった露土戦争でした。これ以降、イスラム教の価値観と西洋近代の価値観とのせめぎ合いのなかで、トルコの近代化は進展していきます。均質な国民から構成される国家の形成が時代の潮流となるなか、オスマン帝国では多様な人々を抱えて統合を維持するオスマン主義が志向されました。しかし、ヨーロッパ列強との戦いで領土が縮小していくなか、残った領地であるアナトリア半島ではトルコ人が多数派となっていったこともあり、トルコ民族主義が台頭します。ただ本書は、現代のトルコ共和国につながるトルコ民族主義の本格的な台頭がバルカン戦争以後で、オスマン帝国の末期のことだった、と指摘します。トルコ共和国はオスマン帝国の否定から始まり、世俗主義が採用されましたが、イスラム教の影響力は根強く、現在は親イスラム教政党が長期にわたって政権を掌握しています。本書は、オスマン帝国を否定したトルコ共和国とオスマン帝国との連続性を指摘しており、現代トルコを理解するうえで、オスマン帝国史の理解は不可欠と言えるでしょう。
https://sicambre.seesaa.net/article/201901article_37.html
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