第二次世界大戦の勃発までにニューヨークに上陸したコーリッシュは、当初はコーリッシュ四重奏団の維持に努めようとするも失敗し、ニュー・スクール大学の教員として、講座「演奏(音楽の意味の実現)」を担当する。またオットー・クレンペラーと共同で、学内アンサンブル(室内オーケストラ)を設立し、その最初の演奏会で、バルトークの《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》やストラヴィンスキーの《兵士の物語》、シェーンベルクの《室内交響曲第1番》の米国初演を実現させる。この間に別の室内アンサンブルを準備して、作曲者自身の指揮による《月に憑かれたピエロ》の録音に参加、さらに論文『ベートーヴェンの音楽における速度と性格』("Tempo and Character in Beethoven's Music")を執筆し、米国音楽学会ニューヨーク支部に提出。同論文は、後に学術雑誌『ミュージカル・クォータリー』("Musical Quarterly")誌に掲載された。ちなみにこの論文は、ベートーヴェンのオリジナルのメトロノーム記号の意義を現代に甦らせた、最初の英語論文の一つであった。