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村山吉廣『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』

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2024/08/03 (Sat) 19:31:03

雑記帳
2024年08月03日
村山吉廣『楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡』
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 講談社学術文庫の一冊として、2019年5月に講談社より刊行されました。本書の親本『楊貴妃 大唐帝国の栄華と暗転』は中公新書の一冊として中央公論新社より1997年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は楊貴妃の伝記ですが、「時代とともに楊貴妃を描く」ことが主題で、楊貴妃が時代にどう位置づけられるのか、という観点から注目して読みました。楊貴妃の日本渡来伝説や、中国と日本の文学における楊貴妃の位置づけも取り上げており、一般向け書籍として日本人読者を意識した内容になっていると思います。

 本書はまず、楊貴妃が玄宗(李隆基)に寵愛されるにいたる唐の情勢を、則天武后(武則天)が台頭するところまでさかのぼって解説します。玄宗は宮廷内の権力争いを勝ち抜きますが、それは「羽林軍」と呼ばれる近衛兵を掌握していたことが大きい、と本書は指摘します。多能多芸で豪邁な玄宗は、積極的に政治改革に乗り出し、玄宗の治世は「開元の治」として日本でもよく知られているように思います。人々も玄宗の治世を寿ぎ、玄宗の誕生日(8月5日)は「千秋節(千秋万歳の意)」として祝われ、後には「天長地久」の句に基づいて「天長節」と呼ばれるようになり、同時代(奈良時代)の日本にも取り入れられて、現代日本では天皇誕生日として祝われています。

 気候も対外関係も安定し、繁栄していた玄宗の治世の719年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に、楊貴妃は生まれました。楊貴妃の幼名は玉環で、父親は蜀州(現在の四川省崇慶県)の民政官である司戸を務めていた楊玄琰です。楊貴妃は成人前に両親を亡くし、叔父の楊玄璬に引き取られました。後に宰相となった楊国忠(楊釗)は楊貴妃の親族(マタイトコ)ですが、楊貴妃の系図には曖昧なところもあるようです。735年、楊貴妃は玄宗の息子である寿王の李瑁の女官となり、実質的には寿王の妃でした。李瑁の母親は玄宗の寵愛を受けていた武恵妃で、皇太子に担ぎ上げる動きもありましたから、地方官の娘だった楊貴妃にとって栄達と言えそうですが、実質的な寿王妃に選ばれた理由は不明で、楊貴妃の類まれな美貌のためだったかもしれない、と本書は推測します。

 740年、楊貴妃は西安郊外の離宮である驪山の温泉宮に召されて玄宗の寵愛を受けることになりましたが、息子の実質的な妃を奪うのはさすがに問題なので、楊貴妃はいったん女道士とされて世俗との縁を切らされ、朝廷で****の太真宮に住まわされ、名は太真と改めさせられたうえで、5年後に玄宗の貴妃とされました(当然、この間も楊貴妃は玄宗に寵愛されていたのでしょうが)。この時、数え年で楊貴妃は22歳、玄宗は56歳でした。楊貴妃を玄宗の後宮に入れるにさいして尽力したのは高力士でした。本書は、当時朝野ともに男女関係は緩やかで、開放的気分があったので、後世に考えられるほど心理的抵抗は強くなかっただろう、と推測します。

 こうして楊貴妃は玄宗に寵愛されるようになり、そのため玄宗は政務が疎かになり、国が乱れた、という語りは(準)同時代からあり、現代でも根強いように思われます。本書も、玄宗が次第に政治に倦きてきたのではいか、と指摘します。楊貴妃が玄宗に寵愛されたのは、単にその美貌だけではなく、頭の回転が速かったこともあるようです。楊貴妃が玄宗に寵愛されると、楊貴妃の一族も玄宗に重用され、強力な派閥を形成します。楊貴妃の一族の権勢は史書に見え、これでは多くの人に恨みを買っても仕方ない、とも思いますが、楊貴妃の一族の振る舞いが当時として常識外れの傲慢なものと言えるのかとなると、断定は躊躇われます。

 こうした状況で755年に起きたのが安史の乱で、本書は安禄山の反乱について、楊国忠が安禄山を追い込み、挑発したところもあるのではないか、と指摘します。戦況が不利と判断した楊国忠は、長安を脱出し、蜀へ落ち延びようと計画します。756年6月13日、玄宗は楊貴妃や楊国忠や高力士たちとともに、長安を脱出しましたが、見捨てられた皇族も少なくありませんでした。安禄山は楊国忠の排除を口実に挙兵し、楊国忠の権勢への反感も広くあったためか、楊国忠とその一味への処断を玄宗に迫る家臣もおり、756年6月14日、楊国忠はトゥプト(吐蕃)からの使者とのやり取りを謀叛の相談と誤解され、兵士に殺害されます。それだけ、楊国忠は兵士からも恨まれていたのでしょう。高力士は楊貴妃を処断するよう玄宗に進言し、逡巡していた玄宗もついに許可し、高力士は楊貴妃を殺害します。

 玄宗が蜀から長安に戻ったのは、757年12月のことでした。すでに安史の乱勃発直後に息子の粛宗が即位し、玄宗は上皇となっており、楊貴妃の殺害を悔いながら過ごしていたようですが、粛宗派の宦官である李輔国の謀略により、玄宗は760年7月には軟禁状態に置かれ、762年4月、死亡しました。息子の粛宗も、父の死から半月も経たずに死亡します。本書は安史の乱の背景として、権力闘争とともに、府兵制の崩壊による唐王朝の軍事力低下を指摘します。安史の乱は、ほぼ同時代に日本にも伝えられていました。
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2024/09/14 (Sat) 14:20:39

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