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2024/01/24 (Wed) 02:07:19
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ルイス・キャロル(イギリス ダーズベリ 1832年1月27日 - 1898年1月14日)
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ルイス・キャロル _ 不思議の国のアリス(映画ではありません)
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不思議の国のアリス
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鏡の国のアリス
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スナーク狩り
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シルヴィーとブルーノ
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2024/02/21 (Wed) 16:14:07
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イギリス映画「アナザーワールド鏡の国のアリス」 ルイス・キャロルのファンタジー - 続 壺 齋 閑 話
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イギリス映画「アナザーワールド鏡の国のアリス」 ルイス・キャロルのファンタジー
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1998年のイギリス映画「アナザーワールド鏡の国のアリス(Alice through the Looking Glass)」は、ルイス・キャロルのファンタジー小説「鏡の国のアリス」を映画化したもの。テレビ放送のために制作されたが、のちに劇場でも上映された。キャロルの作品のうち、「不思議の国のアリス」は多くの国で映画化されたが、「鏡の国のアリス」そのものを映画化した例は他にはないのではないか。その点、この映画は貴重なものであると言えよう。
筋書きはほぼ原作に沿っているが、一つ大事なところが違っている。原作では少女アリスが鏡の向こう側へスルーして、チェス盤に見立てられた土地を移動し、あちこちで不思議な体験をするのであるが、この映画では、アリスの母親がアリスに本を読んで聞かせている間に、いつのまにか鏡の向こう側へスルーしたということになっている。だからアリスの冒険ではなく、アリスの母親の冒険なのだ。もっとも母親は母親のままではない。いつのまには少女に変身しているのである。この映画の中の母親は、年齢は七歳半の少女なのだ。だが顔つきは母親のままである。
筋書きはあまりにも有名なので、とくに触れることはしない。もっとも愉快なのはツイードルディーとツイードルダム、そしてハンプティダンプティとの出会いで、これは映画の中のハイライトにもなっている。ライオンと一角獣の対決はあまり重視されていない。
見どころは、アリスが次々と繰り出すダジャレなどの言葉遊びだろう。これは原作でももっとも肝心な部分で、キャロルはその言葉遊びを楽しむためにアリスを利用したのだと思われる。カバン語はその最たるもので、ほかにもパラドックスに満ちた言葉遣いが連発される。
その言葉遊びを楽しんで見ていると、小生はフランスの哲学者ジル・ドゥルーズを想起した。ドゥルーズは「意味の論理学」という書物の中でアリスの冒険について熱心に語っているのであるが、それは主としてカバン語などの言葉遊びを、哲学的に考察するというものである。ドゥルーズのその書物が出版されたのは1969年のことであるから、この映画の制作者はそれを読んでいたのであろう。ドゥルーズ同様ことさらに言葉遊びにこだわっている。
この映画の中ではコックニー言葉が多用されている。たとえばイエスタダイといったものだ。言葉遊びをテーマにした映画だから、ロンドン方言も茶化してしまおうというわけか。言葉遊びとのかかわりで、女性器は花びらと呼ばれる。そんな言葉を臆面もなくしゃべらせるのは、アリスが少女ではなく成熟した女性の姿で現れているからだろう。
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2024/04/28 (Sun) 11:33:46
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アリスの冒険について:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
続壺齋閑話 (2024年4月28日 08:11)
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ドゥルーズはルイス・キャロルをナンセンスの名手として推奨する。「意味の論理学」には、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の中からさまざまなタイプのナンセンスが引用され、それらの論理的・文学的意義についての考察がなされている。ドゥルーズがナンセンスを重視するのは、ナンセンスが意味を生産することに着目するからだ。その新たな意味を生産する名手として、ルイス・キャロルに勝るものはいないとドゥルーズは考えるのである。
ドゥルーズは、ルイス・キャロルのナンセンス、とくにアリスの語るナンセンスを秘教的な語と名付けている。なぜ「秘教的」というのかよくわからぬが、おまじないに似ているからだろう。おまじないの言葉は秘教と結びついている。言葉に込められている意味が外目にはわからないというのがおまじないの言葉の特徴だ。外目にはわからないものを、秘教的というのはわからぬでもない。
ともあれその秘教的な語をドゥルーズは三つに分類している。その分類は、第7のセリー「秘教的な語」においては、次のようになっている。①縮約したもの。②循環するもの。③分離的なものである。これだけだとどういうことかわからぬので、後に詳細を述べるが、第33のセリー「アリスの冒険について」における分類を見ておこう。そこでは、「(1)<発音できない単音節語>。これは一つのセリーの結合的総合を行う。(2)<フリッツ>もしくは<スナーク>。これは二つのセリーの集中を保証し、その接続的総合を行う。(3)カバン語、<jabberwock>、語=x。これはすでに他の二つのセリーのなかで作用していたものであり、分岐したセリーの分離的総合を行い、それらのセリーを共鳴させ、細分化する」(岡田、宇波訳)。非常にわかりにくい表現であるが、いかにもドゥルーズ的な表現ではある。
さて、「①縮約したもの」とか「(1)発音できない単音節語」と呼ばれるのは、具体的には次のようなものである。「シルヴィーとブルーノ」の中で、Your royal highness のかわりにy'reince という言葉が使われているが、これは命題全体の包括的な意味をただひとつの音節に短縮したものである。それをドゥルーズは「縮約したもの」、「発音できない単音節語」と呼ぶわけである。こうした短縮のケースは日常生活にも見られる。命題を頭文字の組み合わせですますなどである。
「②循環するもの」とは、具体的には「フリッツ」もしくは「スナーク」だと言われる。フリッツ phlitzz は消滅していくものの擬音に似ていることから、味のない食べ物という意味を表すようになった。また、スナーク snark は、snakeとsharkを接続したもので、それが循環的とされるのは、ヘビとサメとの二つのイメージの間を循環するからである。
「③分離的なもの」は「カバン語」と言い換えられる。カバン語とは、一つの語に複数の意味が込められているような語である。ドゥルーズのあげている例でいうと、frumieux=fumant+furuieux となる。これはスナークの場合と同じにうつるが、ドゥルーズは区別している。スナークは二つの意味が循環するのに対して、Frumieux では、二つの意味に分離すると言うのである。
いずれにせよキャロルは秘教的な語を多用することによって、語の意味を新たに生産し、そのことで言語の世界を豊かにできると考えるわけである。言語はわれわれの世界認識を支えるものであるから、それが豊かになることは、人間性が豊かになるとドゥルーズは考えるわけであろう。人間性が豊かになるという発想は、おそらくニーチェから受け継いだものであろう。
ドゥルーズは、キャロルとならんでアントナン・アルトーを高く評価している。そのアルトーはキャロルに辛辣な批判を浴びせていたという。その批判は、「要約するならば、アルトーはルイス・キャロルを倒錯者、それも表層の言葉だけで満足して、深層の言語の真の問題、苦悩・死・生の精神分裂病的問題を感じなかった、小さな倒錯者と考えている。アルトーにとって、キャロルの遊びは幼稚であり、その食べものはあまりに世俗的であり、その糞便嗜好は偽善的で、あまりに上品のように思われた」。
ドゥルーズは、キャロルの言葉遊びを表層でのできごととして捉えていたから、アルトーの指摘は当たっていると思ったものであろう。アルトーは自身分裂病の患者であったから、人間の深層に深い関心をもっていた。だからアルトーのキャロルへの反発は、深層に定位する人間の表層を弄ぶ人間への反感に由来するものであったと思われる。もっともアルトーはキャロルを批判しながら、キャロルのファンタジーをフランス語へ翻訳していた。それも喜びを感じながら。何故喜びを感じたかというと、英語のナンセンスをフランス語のナンセンスに翻訳するとき、フランス語自体がもっている意味のずれを楽しむことができ、その楽しみが喜びをもたらすのであろう。
ともあれ、キャロルとアルトーの関係をドゥルーズは次のように要約している。 「アルトーは、文学において絶対の深層だったただひとりの人であり、彼のいうように、苦しみによって、生きた身体と、この身体の驚くべく言語を発見したただひとりのひとである。アルトーは、今日でもまだ知られていない下層の意味を探していた。しかしキャロルは表層の支配者もしくは測量師のままである。表層は十分に知られていると思われていて探られなかったが、しかしそこに意味の論理学のすべてがある」。
ドゥルーズのアルトーへの関心は、やがてかれを分裂病の研究へと導く。
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