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壺齋散人 ジョージ・ゴードン・バイロン:詩の翻訳と解説

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2024/01/15 (Mon) 23:14:07

壺齋散人 ジョージ・ゴードン・バイロン:詩の翻訳と解説
https://poetry.hix05.com/Byron/byron.index.html


ジョージ・ゴードン・バイロンGeorge Gordon Byron (1788-1824) は、イギリスのロマン主義が怒涛のように渦巻いた時代に、常にその渦の中心にいた詩人だった。バイロンは、生前はもとより、19世紀中を通じて、ロマンティシズムのチャンピオンとして受け取られたばかりか、シェイクスピアと並んで、イギリスが生んだ最も偉大な詩人だと考えられていた。

今日ではシェリーやキーツの後塵を拝するようになってしまったバイロンだが、そのユニークで壮大な詩業はやはり超一流の業績といわねばならない。ここではそんなバイロンの代表的な詩を取り上げ、日本語に翻訳したうえで、解説・批評を加える。



彼女の歩く姿の美しいさま She walks in beauty

冷たさが人を包んで :バイロンの宇宙感覚

音楽に寄せて Stanzas for Music

オーガスタに捧げる Stanzas To Augusta

ギリシャの島々 The Isles of Greece:バイロン「ドン・ジュアン」から

もう さまようのはやめよう So we'll go no more a-roving

誰がキーツを殺したか Who killed John Keats

36歳の誕生日 My Thirty-Sixth Year
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バイロン George Gordon Byron :生涯と作品
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ジョージ・ゴードン・バイロンGeorge Gordon Byron (1788-1824) は、イギリスのロマン主義が怒涛のように渦巻いた時代に、常にその渦の中心にいた詩人だった。生前はもとより、19世紀中を通じて、ロマンティシズムのチャンピオンとして受け取られたばかりか、シェイクスピアと並んで、イギリスが生んだ最も偉大な詩人だと考えられていた。今日ではシェリーやキーツの後塵を拝するようになってしまったバイロンだが、そのユニークで壮大な業績はやはり超一流の芸術といわねばならない。

バイロンの伝記やバイロンをテーマにした作品は、それこそ雲霞の如くに書かれてきた。バイロンには、単なる芸術家としてのあり方を越えて、派手な恋愛遍歴やイタリアやギリシャの独立運動へのかかわりなど、人間として興味を引くものに事欠かないところがあり、それが人々の創造力を刺激してきたからである。

バイロンが生きた時代は、前半はナポレオンがヨーロッパ中を騒がしていた時代であり、1815年のナポレオン没落以降は、保守的な空気が社会全体を覆った時代だった。そんな時代雰囲気の中で、バイロンは一世の風雲児として、詩作はもとより実生活においても破天荒な生き方を貫き、その傍ら政治問題にも首を突っ込んだ。

イタリア滞在中、後にイタリア統一運動の中核となるカルボナリ党と深い係わりを持ち、また晩年にはオットマン・トルコからのギリシャ開放の運動にもかかわった。彼はそのギリシャの地ミソロンギにおいて、無念の死を遂げるのである。

バイロンは男爵家の6代目として生まれた。父親は放埓な人物で、バイロンの母親とは金目当てに結婚したといわれるが、バイロンが生まれてまもなく死んだ。バイロンはこの父親から男爵の称号を受け継ぎ、成人後はイギリスの上院議員になった。

母親もまた貴族の家の出身だった。その祖先は国王ジェームズ1世に遡る。母は幼いバイロンをスコットランドで養育し、10歳のときにアバディーンのグラマースクールに、13歳の時にはハーローに入れた。

バイロンは生まれつき足が悪く、それがもとで生涯足を引きずって歩いていた。しかしそのことで深いハンディキャップを蒙ることはなかったようである。天性の美貌と優雅な物腰が身体の不具を帳消しにしたのだろう。

ハーロー時代にバイロンは同窓の少年たちに恋愛に近い感情を抱いた。またハーローを卒業してケンブリッジのトリニティ・カレッジに入ると、ある少年と本格的な同性愛関係を持った。バイロンは完璧な意味での同性愛者ではなかったが、生涯の節々において、若い男性を相手にした同性愛を繰り返すのである。

バイロンの詩作は少年時代から始められた。14歳の時には私家版の詩集を出している。もっともそれらは後生に残るようなものではなかったけれど。

トリニティ・カレッジを卒業すると、バイロンは友人のホブハウスとともに、2年間のヨーロッパ旅行に旅立った。こうした旅行は当時貴族層の間で、青年の通過儀礼として流行っていたものだった。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」のイギリス版といったところだろうか。

当時のヨーロッパ大陸は、ナポレオン戦争で不穏な情勢下にあったため、バイロンたちは船でリスボンに向かい、そこからスペイン、イタリアを経てギリシャまで巡行した。アテネ滞在中には、ニコロ・ジローという少年と同性愛の関係を持っている。

この旅行はバイロンに多大なインスピレーションをもたらした。彼はそれを壮大な長編詩「チャイルド・ハロルド」に結晶させていく。

1811年の7月にイギリスに戻ったバイロンは、その直後に死んだ母親とついに会うことが出来なかった。そのことにバイロンは深い罪悪感のようなものを抱いたようだが、上院議員に任命されるや多いに気をよくし、翌年には議会において処女演説をした。

1812年に出版した「チャイルド・ハロルド」は大成功を収めた。バイロンは一躍時代の寵児となった。そのときのことをバイロン自身後に次のように述べている。

「ある朝目が覚めると、自分は有名人になっていた。」

イギリスに戻ったバイロンの周辺には様々な女性が群がり集まり、バイロンはそれらの女性たちと恋愛遍歴を重ねた。有名なのはキャロライン・ラムとの関係と、異母姉オーガスタへの愛だ。

キャロラインはレディと冠が付いているから上流階級の女だったのだろう。だがあまりにも我が強かったらしく、バイロンはすぐに手を引いた。しかしキャロラインのほうは忘れることが出来ず、しつこくバイロンにつきまとった。恋心が長じてやせ細ったその姿を、バイロンはからかって、「骸骨が僕を追いかけてくる」と叫んだ。

オーガスタはバイロンの父親が母親以外の女性に産ませた子だった。バイロンはこの女性とは長い間付き合いがなかったようだが、再会するとたちまち恋心に似たものを感じたらしい。

オーガスタは軍人と結婚していたが、バイロンと再会したとき、夫とはすでに長い別居状態にあった。そうこうするうち子どもを生んだので、世間ではバイロンが生ませたのだろうと噂を立てた。

女性たちとの戯れにうんざりし始めたバイロンは、身を固めようと思って、キャロラインの従妹アン・イザベラ・ミルバンキと1815年に結婚した。しかしこの結婚はうまくいかなかった。アンは翌年生まれた子を伴って実家に帰ってしまったのである。

女性との相次ぐスキャンダルと妻との破局は、バイロンをめぐる噂に火を注いだ。バイロンはそんなイギリスにいることに我慢がならなくなり、再びホブハウスを伴ってヨーロッパへの旅に出た。それ以来バイロンは二度とイギリスに戻ることはなかった。

1816年の夏、バイロンはスイスのジュネーヴ湖畔に落ち着いた。パーソー・ビッシュ・シェリーも旅先の住居を近くに構えていた。バイロンはこの年下だが覇気のある青年が気に入り、ともに文学について語らった。

シェリーの一行には妻メアリーの従妹クレア・クレアモントがいた。クレアはロンドンでバイロンと関係を持ったことがあり、それをここスイスで復活させたいと目論んでいた。そんなクレアにバイロンは一女を授けてやったが、生涯を一緒に暮らしたいとは思わなかった。

シェリーたちがイギリスへ去った後、バイロンはヴェニスに移った。1817年にはイギリスの所有地が売れて、バイロンは莫大な資産を手にした。そのおかげで、イタリアでの優雅な生活が可能になった。

この頃から1820年頃にかけて、バイロンは「チャイルド・ハロルド」を完成させ、「マンフレッド」や「ベッポー」を出版したほか、「ドン・ジュアン」を書き上げるなど、旺盛な創作力を示した。

女性との恋愛遍歴にも再び火がついた。何人かの女性とラヴ・アフェアを持ったバイロンは、ラヴェンナの侯爵夫人テレサ・ジュチョーロに首っ丈になってしまった。これ以降バイロンはテレサ以外の女性とは付き合っていない。だがバイロンの強奪ともいえる行為にテレサの夫は激怒した。それでテレサとその親族はテレサの夫からの迫害を逃れるために、バイロンとともにリヴォルノまで逃れた。バイロンはそこで友人シェリーの死に立ち会うのである。

イタリアでカルボナリの独立運動にかかわったりするうちに、バイロンは次第に、歴史に残るような偉大な行動にあこがれ、それに向かって駆り立てられるようになった。1823年の4月、ロンドンのギリシャ人組織によって、ギリシャのトルコからの独立運動に導かれたバイロンは、生涯をそれに捧げようと思うようになる。

バイロンは私財を投じてギリシャの独立軍部隊に資金援助を行うとともに、みずからも戦闘に参加すべく、1923年7月にジェノアから船でギリシャに向かった。だが戦争のことには素人のバイロンがどれだけギリシャ人の役に立ったかは疑問だ。そうするうちにバイロンは、翌年2月に熱病にかかり、それがもとで36年の長からざる人生を、ミソロンギの地で終えてしまった。

バイロンはギリシャ独立の恩人として、いまでもギリシャ人たちから深い尊敬の念を寄せられている。
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