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日本の画家・仏師・彫刻家(生年順)
鞍作 止利 くらつくり の とり(岐阜県飛騨市河合町 飛鳥時代)
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国中 公麻呂 くになか の きみまろ(奈良県 生年不明 - 774年11月11日)
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将軍万福 しょうぐん まんぷく(奈良県 生没年不明、奈良時代)
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康尚 こうしょう(京都 平安時代中期)
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定朝 じょうちょう(京都 生年不明 - 1057年9月2日)
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藤原 隆能 ふじわら の たかよし(京都 平安時代後期)
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覚猷 かくゆう(滋賀県大津市 1053年 - 1140年10月27日)
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康慶 こうけい(奈良県 平安時代末期 - 鎌倉時代初期)
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運慶 うんけい(奈良県、生年不詳 - 1224年1月3日)
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快慶 かいけい(出生地不明、生没年不詳)
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能阿弥 のうあみ(福井県 1397年 - 1471年)
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周文 しゅうぶん(京都 室町時代中期)
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雪舟 せっしゅう(岡山県総社市 1420年- 1506年8月8日)
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相阿弥 そうあみ(京都 生年不明 - 1525年11月12日)
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雪村 せっそん(茨城県 常陸大宮市 1492年 - 1589年)
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夢窓疎石 むそう そせき(三重県 鎌倉時代末 - 室町時代初期)
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土佐 光信 とさ みつのぶ(京都 1434年 - 1525年6月10日)
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千利休 せんの りきゅう(大阪府堺市 1522年 -1591年4月21日)
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狩野 永徳 かのう えいとく(京都 1543年2月16日 - 1590年10月12日)
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本阿弥 光悦 ほんあみ こうえつ(京都 1558年 - 1637年2月27日)
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俵屋 宗達 たわらや そうたつ(出生地不明、生没年不明)
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岩佐 又兵衛 いわさ またべえ(兵庫県 伊丹市 1578年 - 1650年7月20日)
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小堀 遠州 こぼりえんしゅう (滋賀県長浜市 1579年 - 1647年3月12日)
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狩野 探幽(京都 1602年3月7日 - 1674年11月4日)
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土佐 光起 とさ みつおき(大阪府堺 1617年11月21日 - 1691年11月14日)
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菱川 師宣 ひしかわ もろのぶ (千葉県安房郡 1618年 - 1694年7月25日)
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円空 えんくう(岐阜県羽島市 1632年 - 1695年8月24日)
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尾形 光琳 おがた こうりん(京都 1658年 - 1716年7月20日)
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伊藤 若冲 いとう じゃくちゅう(京都 1716年3月1日 - 1800年10月27日)
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木喰 もくじき(山梨県南巨摩郡 身延町 1718年- 1810年7月6日)
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鈴木 春信 すずき はるのぶ(京都 1725年 - 1770年7月7日)
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円山 応挙 まるやま おうきょ(京都府亀岡市曽我部町 1733年6月12日 - 1795年8月31日)
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鳥居 清長 とりい きよなが(東京都中央区日本橋 1752年 - 1815年6月28日)
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喜多川 歌麿 きたがわ うたまろ(出生地不明 1753年 - 1806年10月31日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16831842
葛飾 北斎 かつしか ほくさい(東京都 墨田区 1760年10月31日 - 1849年5月10日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16831845
東洲斎 写楽 とうしゅうさい しゃらく(出生地不明 生没年不詳)
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初代 歌川豊国 うたがわ とよくに(東京都港区芝大門 1769年- 1825年2月24日)
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歌川 国貞 _ 三代目歌川豊国 うたがわ くにさだ(東京都墨田区本所 1786年6月15日- 1865年1月12日)
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歌川 広重 _ 安藤広重 うたがわ ひろしげ(東京都中央区八重洲 1797年 - 1858年10月12日)
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歌川 国芳 うたがわ くによし(東京都 1798年1月1日 - 1861年4月14日)
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月岡 芳年 つきおか よしとし(東京都中央区銀座 1839年4月30日 - 1892年6月9日)
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高村 光雲 たかむら こううん(東京都台東区 1852年3月8日 - 1934年10月10日)
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竹内 栖鳳 たけうち せいほう(京都市中京区 1864年12月20日 - 1942年8月23日)
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黒田 清輝 くろだ せいき(鹿児島市東千石町 1866年8月9日 - 1924年7月15日)
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横山 大観 よこやま たいかん(茨城県水戸市 1868年9月18日 - 1958年2月26日)
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下村 観山 しもむら かんざん(和歌山市 1873年4月10日 - 1930年5月10日)
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上村 松園 うえむら しょうえん(京都府下京区 1875年4月23日 - 1949年8月27日)
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鏑木 清方 かぶらき きよかた(東京都 神田佐久間町 1878年8月31日 - 1972年3月2日)
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青木 繁 あおき しげる(福岡県久留米市 1882年7月13日 - 1911年3月25日)
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高村 光太郎 たかむら こうたろう(東京都台東区 1883年3月13日 - 1956年4月2日)
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竹久 夢二 たけひさ ゆめじ(岡山県瀬戸内市 1884年9月16日 - 1934年9月1日)
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前田 青邨 まえだ せいそん(岐阜県中津川市 1885年1月27日 - 1977年10月27日)
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藤田 嗣治 ふじた つぐはる(東京都新宿区 1886年11月27日 - 1968年1月29日)
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岸田 劉生 きしだ りゅうせい(山口県周南市 1891年6月23日 - 1929年12月20日)
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東郷 青児 とうごう せいじ(鹿児島市稲荷馬場町 1897年4月28日 - 1978年4月25日)
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加藤 唐九郎 かとう とうくろう(愛知県瀬戸市水北町 1897年7月19日 - 1985年12月24日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16831964
伊東 深水 いとう しんすい(東京都江東区 1898年2月4日 - 1972年5月8日)
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蕗谷 虹児 ふきや こうじ(新潟県阿賀野市 1898年12月2日 - 1979年5月6日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16834715
小磯 良平 こいそ りょうへい(兵庫県神戸市 1903年7月25日 - 1988年12月16日)
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棟方 志功 むなかた しこう(青森市 1903年9月5日 - 1975年9月13日)
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東山 魁夷 ひがしやま かいい(神奈川県横浜市 1908年7月8日~1999年5月6日)
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岡本 太郎 おかもと たろう(神奈川県川崎市 1911年2月26日 - 1996年1月7日)
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西村 公朝 にしむら こうちょう(大阪府高槻市 1915年6月4日 - 2003年12月2日)
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水木 しげる みずき しげる(大阪市住吉区 1922年3月8日 - 2015年11月30日)
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山下 清 やました きよし(東京都台東区日本堤 1922年3月10日 - 1971年7月12日)
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加山 又造 かやま またぞう(京都市上京区 1927年9月24日 - 2004年4月6日)
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手塚 治虫 てづか おさむ(大阪府 豊中市 1928年11月3日 - 1989年2月9日)
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平山 郁夫 ひらやま いくお(広島県尾道市瀬戸田町 1930年6月15日 - 2009年12月2日)
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高畑 勲 たかはた いさお(三重県 伊勢市 1935年10月29日 - 2018年4月5日)
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平賀 敬 ひらがけい(東京 1936 - 2000/11/13)
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楳図 かずお うめず かずお(和歌山県 伊都郡高野町 1936年9月3日 - )
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つげ 義春 つげ よしはる(東京都葛飾区 1937年10月30日 - )
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宮崎 駿 みやざき はやお(東京都 1941年1月5日 - )
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安藤 忠雄 あんどう ただお(大阪市港区 1941年9月13日 - )
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花輪 和一 はなわ かずいち(埼玉県 大里郡寄居町 1947年4月17日 - )
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近藤 ようこ こんどう ようこ(新潟市 1957年5月11日 - )
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千住 博 せんじゅ ひろし(東京都杉並区 1958年1月7日 - )
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新海 誠 しんかい まこと(長野県 南佐久郡小海町 1973年2月9日 - )
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2024/01/04 (Thu) 06:10:13
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日本美術史を流れで学ぶ | イロハニアート
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832400
「土器」には人間の美意識が詰まってた!日本美術史を流れで学ぶ(第1回)~縄文・弥生時代の美術編~
https://irohani.art/study/11111/
埴輪は元祖ゆるキャラ?!日本美術史を流れで学ぶ(第2回)~古墳時代の美術編~
https://irohani.art/study/11453/
仏教到来で日本の美術が超進化!日本美術史を流れで学ぶ(第3回)~飛鳥・奈良時代の美術編その1~
https://irohani.art/study/11842/
唐の影響を受けた名作仏像がズラリ!日本美術史を流れで学ぶ(第4回)~飛鳥・奈良時代の美術編その2~
https://irohani.art/study/12452/
なぜ唐風文化が廃れ、日本文化が芽吹いた?日本美術史を流れで学ぶ(第5回)~平安時代の美術編その1~
https://irohani.art/study/12700/
平安時代400年の仏像の変化を作品で見比べ!日本美術史を流れで学ぶ(第6回)~平安時代の美術編その2~
https://irohani.art/study/13521/
平安時代400年で絵画作品はどう変わった?日本美術史を流れで学ぶ(第7回)~平安時代の美術編その3~
https://irohani.art/study/13740/
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ジュウ・ショのサブカル美術マガジン - 美術|ジュウ・ショ(アートライター・カルチャーライター)|note
https://note.com/jusho/m/m5d87b7817204/hashtag/14634
ジュウ・ショさんの記事一覧
https://irohani.art/author/jusho/
STUDYの記事一覧 | イロハニアート
https://irohani.art/study/
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2024/01/05 (Fri) 08:14:32
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縄文時代の美術
https://irohani.art/study/11111/
我々、日本人は意外と気づきませんが、実は「日本」という国は美術文化的に超絶おもろい国です。マクロ的にいうと東洋ですけど、ちょこんと独立した島国であり、大陸の国々と比べて他国からの影響を受けにくい環境でユニークなカルチャーを育んできました。
今でもやっぱりユニークですよね。「わびさび」やら「kawaii」やら「無宗教」やら「和」やら「コンピューター」やら「オタク」やら「オリジナリティ大爆発」といった感じ。ただし「日本文化を守れ!」と意固地になるわけではなく、西洋も東洋も、キリスト教も仏教も、いろんな文化・宗教を柔軟に飲み込む姿勢で成長している……。こんな国、マジでレア。「多様性」という言葉にここまで敏感な国はマジでないですよ。そう、我々はけっこうおもしろい国で、おもしろいアート、クリエイティブを見ながら生活をしているんです。
この連載では、そんな面白おかしい日本の美術史を、極力フランクにおしゃべりする感覚でお届けしていきます。今回はその第1回「縄文・弥生・古墳時代の美術」です。
縄文時代の美術作品
縄文時代は紀元前1万4,000年~10世紀ごろを指します。むっちゃ広いです。縄文時代は1万3,000年くらい続くんです。
なぜ「縄文時代」というのかというと「縄文土器」が出たからです。先に縄で模様付けをした土器が出てきて「これは縄文土器と呼ぼう」となり、「縄文土器が出た時代だから、縄文時代ね」と名付けられました。なんだろう……なんか順序が逆転している気もしますが「縄文土器」はそれほどまでに重要な産物なんですな。
実はけっこう奥が深い縄文土器
じゃあなんでソース顔の縄文人たちは「土器作っちゃお」って思ったのか。それは現代人と同じで調理・貯蔵のためです。そう考えると、私たちが普段フライパンで料理して、ごはんをタッパーに入れてるのはすごく原始的な欲求なんだなぁ、という気がして遥かな気持ちになりません? 1万年以上経って、縄文土器はティファールとなったわけですよ。進化の途中で取っ手を付けて、取っ手がとれるようになったわけですね。
いやまぁ、そんな話はどうでもよいんですけどね(自戒)。縄文土器といえば、我々は学校でこんな感じのものを教わります。
深鉢形土器(火焔型土器) 縄文中期 新潟県十日町市笹山遺跡出土 十日町市博物館蔵 国宝
はい。これです。間違いなくこいつは縄文土器です。なかでも「火焔型土器」と呼ばれます。ただ、実は縄文土器って、これだけじゃない。そりゃ1万3,000年も経過したら、いろいろ進化しました。
年代 時代区分 縄文土器の種類
1万3,000年前ごろ 草創期 丸底土器
9,000年前ごろ 早期 尖底土器
7,000年前ごろ 前期 平底土器
4,500年前ごろ 中期 大型装飾土器
3,500年前ごろ 後期 磨消縄文土器
2,800年前ごろ 晩期 亀ヶ岡式土器
こんな感じで縄文土器は意外と奥が深いんですね。縄で模様が付けられ始めたのが早期のころで、最初は「いや絶対使いにくいやろ」っていう、自立しないコマみたいな形の尖底土器が作られ始めました。そこから学習して底が平らになり、皿などもでき始め、火焔型土器のような派手な装飾になり、だんだん逆に模様が単調になっていき、弥生土器へ……という時系列をたどります。
この中で上の火焔型土器は「大型装飾土器」の時代です。最も派手な時代ですね。今って基本的にろくろでぐるぐるしながら形をつくって模様を描きますよね。だからある程度、決まった形と模様になりますが、見て分かる通り火焔型土器の場合は超自由です。
上の画像とか見てみると、底の部分は土を細長く線状にしたうえで、壁を作ってますよね。これを「紐作り」といいます。こういうウィンナーの食べ方あるよね。
「紐作り」はろくろで作るのに比べて、そのくらいクリエイティブなんですよね。何の知識もない幼稚園児の絵がパワフルなのと一緒で、プリミティブ(原始的)だからこそのアート性が爆発してます。有名なエピソードでいうと、岡本太郎大先生が縄文土器の力強さ、いやらしさを絶賛していました。
https://irohani.art/study/11111/
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2024/01/05 (Fri) 08:15:15
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弥生時代の美術
さて、時代は移り変わって、弥生時代。紀元前300年ごろ~300年ごろの時代です。作り方で言うと、焼き上げの方法が変わりました。弥生土器も縄文土器と同じく「紐作り」ですが、縄文土器が土器の下に草を敷いて焼くことで固めていたのに対して、弥生土器は土でドームを作って焼くようになりました。今の窯の原型です。
縄文土器より高温で焼けるようなった。その結果、縄文土器より丈夫になったという背景があります。
弥生土器の洗練されたデザイン
美術史的にみると弥生土器と縄文土器の大きな違いはデザイン性。もうなんかめっちゃシンプルで洗練されました。
壺 弥生時代(前期)奈良県田原本町 唐古・鍵遺跡出土 東京国立博物館蔵
ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan)
「なんでシンプルになったのか」。その理由は一概には定義づけられません。例えば縄文時代の呪術や信仰といった文化が弥生時代で変わったから模様を付ける必要がなくなった説があります。
また機能的なところでいうと、弥生時代は大陸の人がたくさんやってきます。それで人****発したので、縄文土器のような複雑な形を作るのがめんどくさくなった説もあります。
ただデザインとして「縄文土器が優れていて、弥生土器が劣っている」というわけではありません。デザインの言葉には「Less is More(少ないほうが豊か)」という常識があります。西洋美術史でいうと、20世紀のデザイン学校「バウハウス」に代表されるように、少ないデザインで最大の効果を得るということが、優れているとされることもあります。
そう考えると、派っ手派手な縄文土器を何千年も見てきた当時の人は「いやいや、それあざといから。こっちのほうがかっけぇっしょ」とミニマリスト的に要素を減らしたのかもしれないです。
縄文・弥生時代を舐めちゃいかんぜよ
日本美術史、第1回は縄文・弥生時代の美術、というか土器について紹介しました。縄文土器っておもしろいですよね。ただ調理したり、貯蔵したりするだけなら、別に模様なんて付ける必要ないわけです。しかし土を焼く前に火焔型土器みたいな形にしちゃう。したくなる。ここに人間の美意識が詰まっているような気がします。
もちろん呪術的な意味合いや、もしかしたら機能的デザインの一部だったのかもしれません。しかし数千年前の人類もまた「どうせ作るんなら、カッコよくしようぜ」みたいな感覚があったんじゃないかな、と思います。いま私たちは日常でいろんなクリエイティブやアートに触れ、良くも悪くも“知ってしまった”。しかしほとんど何も知らなかった縄文人が造形したのが、あの形なんですね。この感覚はおもしろいっすよね。だって、絶対使いにくいもん。でも遊びたいんですよね。人間って変!
https://irohani.art/study/11111/
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2024/01/05 (Fri) 08:17:50
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古墳時代の美術
https://irohani.art/study/11453/
この連載。第1回は縄文・弥生時代の土器について紹介しました。
土器って調理や貯蔵のために作るから、本当はデザインの必要性はない。ないんだけど、縄文土器は驚くほど創造性豊か。今と違ってろくろや窯を使っていないこともあって、とにかく隆起しまくっていて派手でした。でもそこから弥生土器にかけて、だんだんと洗練されていく。それがなんだか「人が作品をつくる源流」というか、アートの根本であるような気がしておもしろいっすよね~。みたいな話でした。
第2回は「古墳時代」の美術作品について紹介していきます。古墳時代になると「焼き物」だけでなく「古墳」「絵画」「装身具」など、創作物がめっちゃ多様化していく。まさに「日本美術の芽吹き」を見ているようでおもしろい時代です。
古墳時代の美術
古墳時代は300年~700年ごろを指します。その名の通り、超巨大な古墳が大量に出現し始めたから古墳時代ですね。安直! 縄文土器が出たから縄文時代みたいな感じです。
まず衝撃なのが「古墳時代に作られた古墳の数」。これ、すごいですよ。全国に古墳は約16万基もあります(2016年 文化庁調査)。コンビニが約5万5,000店(2018年 経済産業省)ですから、コンビニの約3倍くらいの古墳が日本にあるわけですね。
「なぜ古墳を作ったのか」というと、これはもうシンプルに「カッコつけたいから」です。
では誰にとってステータスだったのか、というと「支配者」ですね。当時は地域ごとに豪族が登場し始めた時期なんです。そんな豪族が、死んでもなお「見ろ。俺、こんなにすごかったんだぞ」的な感じで後世まで自分の存在をアピールするために作らせました。
なんだろう、ヴィトンのバッグ持って伊勢丹を歩く、みたいな。スタバを持ってお洒落な街を歩く、みたいな。そんな感じで当時は「デカい墓をつくる」がいちばんのステータスだったわけです。
古墳時代の「占い」への信仰の厚さ
では、こういう豪族が政治的にも支配していたのか、というと微妙に違います。当時は今みたいにきちんとした法律の仕組みなんてない。ちなみに日本初の法律はこのあと奈良時代に出てくる「大宝律令」です。
じゃあ古墳時代はどうやって「あのさ~、今年、米どれくらい植える?」とか「この人って有罪なの? 無罪なの?」とかを決めたかというと「呪術(占い)」でした。
だから当時、占いこそ至高なわけですよ。今だと裁判官や総理大臣が決めていることを全部占いで決めていました。といっても、もちろんがばがばです。論理性皆無です。
例えば裁判は「盟神探湯(くかたち)」というのが主流。これは熱湯に手を浸けて火傷したら嘘つき、無事だったら真実、みたいな手法です。
……いやもう地獄ですよね。もはや刑が執行されてますよね……。どこかで「(あれ~……これ全員火傷してるな……。 意味なくないかコレ?)」とかなりそうですけど、誰も言い出さなかったのかな。というがばがばさです。
まぁ、そこまで呪術のパワーが重視されていたなか「美術作品」が作られるようになるんですね。古墳時代の美術作品は古墳を含めて、お供え物や、壁画など、人を弔う思いから生まれました。
では実際にどのような作品ができたのかを見ていきましょう。
古墳は前期、中期、後期に分かれる
古墳時代最大の美術作品はもちろん「古墳」。建築作品として超貴重で素晴らしいものです。今でもファンが多いですよね。
大仙陵古墳(大阪府堺市堺区大仙町)
Copyright © National Land Image Information (Color Aerial Photographs), Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism
古墳時代の400年間に実は前期、中期、後期と古墳の形も変化していきました。上の画像のような前方後円墳が最も有名ですよね。この形は300~500年末くらいは主流です。
ただし同じ前方後円墳でも、前期はシンプルなモノでしたが、中期は大陸の影響もあって九州地方で古墳壁画が描かれるようになりました。それと、人馬が一緒に入って殉死するみたいなえげつない文化も広まっていたのも特徴的ですね。
しかしそんな前方後円墳も646年に「薄葬令」が発表されてからは、規模がだいぶ小さいものになっていきました。下の写真は「終末期古墳」です。見て。こんなに小っちゃくなりました。
石舞台古墳(奈良県明日香村)
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「薄葬令」とは“ムシゴロシ”でおなじみ「大化の改新」の一環としてできた法令です。「巨大な古墳を作る」とか「人や馬も一緒にお墓に入る」という文化に対して、「いやいやいや、それ意味ないから。冷静に考えたらマジでヤバいことしてるから」と、葬儀を簡素にするようにしたんですね。
つまりここから古墳は作られなくなり、事実上これで古墳時代が終焉となるわけです。
日本美術初の絵画は古墳内の装飾壁画
梶山古墳(鳥取県鳥取市)
Yuniko
先述した通り、古墳時代の中期に、主に九州地方から出てくるのが「装飾古墳」です。
「ちゃんとあの世に行けますように」とか「死後に悪霊に襲われませんように」的な感じで古墳内部に絵を描いたんですね。厳密にいうと弥生時代の銅鐸などにも若干絵を描いた例がありますが、装飾古墳の場合はきちんと絵筆に塗料を付けて描いているのがわかります。
この文化は中国や朝鮮から伝わりました。なので、例えば中国で「月」をあらわすヒキガエルが盛んに描かれてたりします。月と死後の世界を重ねていたんでしょう。
各地で白、黒、青、緑など、カラーリングはほんと多種多様なんですが、「赤(朱)」がむっちゃくちゃ多いです。太陽や血液の色である赤色には「悪霊退散!」的な効果があると今でも信じられてます。神社の鳥居が朱塗りなのもそうですよね。
何はともあれ、この後、現代に至るまでさまざまな傑作が生まれる日本絵画の歴史は、古墳内の壁画からスタートしました。「祈る」という行為は、それくらいのパワーがあったわけです。
古墳の副葬品として焼き物や装身具が進化
再三繰り返しますが、古墳時代の人々は「我が主がちゃんとあの世に行けますように!」って情熱がとにかくすごかった。それだけのために、いろんな作品を“発明”しています。
例えば、みんな大好き「埴輪(はにわ)」ですね。最も主流の円筒埴輪をはじめ、家型埴輪、人物埴輪、動物埴輪など、いろんな埴輪が服装品として古墳に入れられました。人物埴輪はやっぱりかわいい。マジで元祖ゆるキャラなんじゃないか。
埴輪 踊る人々
I, Sailko
馬形埴輪
English Wikipedia user PHG, Public domain, via Wikimedia Commons
これも「魔除け」のために入れられました。先述したように古墳にはもともと人とか馬を入れていたんですが、だんだんとその風潮の異常性に気付き始める。それで埴輪を作りはじめたんじゃないか、という説もあります。
埴輪は当時の技術として創作性がかなり高いです。上の画像のように、馬具なども細部まで再現されています。また松江市で出土した「見返りの鹿埴輪」などは、振り返っている鹿の構図で焼き物が作られています。この単純な構図ではない作品も出てきているのは、当時の人の創作技術の進化が如実に見える例といえるでしょう。
埴輪の機能性だけをみればただの横構図でいいはずですよね。それをあえて「見返り」にするというのは、やはり創作意欲なのか。それとも、故人に対する思い出が関係しているのか。どちらにせよ、一辺倒ではなく工夫が見えるのが素晴らしいですよね。
古墳時代の土器・焼き物
前回の記事で紹介しましたが、縄文・弥生時代の美術作品のスターは「土器」でした。古墳時代にも土器はもちろん引き継がれていきます。縄文から弥生にわたって、だんだんと装飾がシンプルになっていった土器は派生して「土師器(はじき)」となり、古墳時代から平安時代まで、ほぼ変わりない形でつくられます。マジで超ロングセラーです。「納豆」くらいロングセラー。
古墳時代前期の壺(兵庫県立考古博物館蔵)
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一方で、朝鮮半島からの文化の影響を受けて「須恵器」も作られ始めました。
飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館蔵)
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土師器が赤茶色っぽいのに対して、須恵器は灰色なのが特徴です。これは焼き方が違うからです。土師器は野焼きで焼き上げるのですが、須恵器は窯焼きといって窯を密閉して仕上げる方法なんですね。その結果、酸素が少なくなって酸化鉄が還元され、灰色になります。また須恵器はろくろを使ってつくります。
先ほど、絵画の文化が大陸から渡来した、と紹介しましたが、4世紀ごろの日本では大和政権が実権を握っていて朝鮮と積極的に外交していたんですね。それで、大陸から須恵器のほか、鉄器や機織りなどの技術も渡来しました。
その結果、弥生時代後期から古墳時代の美術作品は本当に多様化します。「馬具」「太刀」「装身具」「銅鏡」などが作られるようになりました。これも例に漏れずお墓に一緒に入るのが通例です。
なかでも古墳時代の有名どころといえば、中国由来の「三角縁神獣鏡」でしょう。20cmくらいの鏡で、弥生時代〜古墳時代までに約4,000面以上も出土しています。大ブームです。
三角縁同向式神獣鏡
Tokyo National Museum, Public domain, via Wikimedia Commons
このころには土だけでなく、鏡や鉄などもまた美術作品の素材として用いられ始めたんですね。
しかし、はじめて鏡を見た日本人はどんな顔をしたんだろうか。「これ……水面か……? 水面をつくったんか…?」みたいな感じなんですかね。「え……? 誰……ですか? ねぇ、真似してくるんですけど! ねぇ!」ってパニックになったかもしれませんね。
しかしさぞ神秘的だったんだろうと思います。古墳に一緒に入れたのは、決して「あの世でもちゃんと身だしなみ整えてよね~」という配慮じゃないです。当時の「鏡」は、それまで神秘性があるものだったんですね。
中国・朝鮮の文化が流入してくる古墳時代
ということで、今回は古墳時代の美術についてご紹介しました。中国や朝鮮の文化が一気に流入してきて、国内の美術も多様化するおもしろい時代です。
そのすべてが「祈り」に向けられているのも興味深いですね。西洋美術でも初期は「美術=宗教」という感覚が強いものです。アートの根源は「祈り」であり、創作意欲の原体験でした。
そんな時代を経て、日本美術作品はさらなる広がりを見せていきます。
https://irohani.art/study/11453/
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2024/01/13 (Sat) 22:57:41
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飛鳥時代の美術
https://irohani.art/study/11842/
第3回は今から1,400年前くらいの「飛鳥時代」です。日本にとっては本格的に外国との交流がはじまり、それまで原始的だったものが急に文化的なものになる、おもろい時代となっております。
飛鳥時代に仏教が伝来する
日本史ってみんな「縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良~」って習いましたよね。で、この流れの古墳時代と飛鳥時代のギャップってやばいと思います。
古墳時代以前はいわゆる原始的な人間というか「裸に布一枚で稲を耕す」みたいなイメージだと思いますが、飛鳥時代って突如「大化の改新」が起きたり、急に超立派な服を着た聖徳太子(今は「厩戸王(うまやとおう)」と教えられるらしい)が出てきたりするんですよ。「おい日本人急に進化したな。何があった?」みたいな状態になっちゃいますよね。
そんな進化しまくりな飛鳥時代において、もちろん美術も進化していきます。そんな進化の背景にあったのが、なんといっても中国・朝鮮との交流でした。538年に当時の中国・朝鮮の一部だった百済(くだら)という国の聖明王が当時の天皇・欽明帝に経典と仏像を送っています。
「ほい。これが仏っす。仏マジですごいんすよ。国を守ってくれるんですよ」みたいな感じで紹介したんですね。ここで仏教が伝来したことで、それにまつわる美術作品が大量に生まれました。
飛鳥時代当時の仏像・仏教の衝撃
始めて仏像を見た日本の欽明帝は「仏の相貌(かお)端厳(きらぎら)し」と感想を述べたそうです。「きらきらしい」という言葉は今でもありますが、イメージの通り「輝いている」とか「たいそうイケメンである」みたいな意味。つまりはすごく魅力的に見えたんですね。当時は仏教反対派も生まれましたが、最終的には受け入れる方向で決着しました。
この「日本人と仏との出会い」って、すごいインパクトだったと思うんですよ。それまで日本にも「信仰」の文化はありました。だからこそ古墳を作って弔っていたんですが、「かたち」のないものだったんですね。目に見えないものを長年信じてきた民族だったんです。
これを「アニミズム」といいます。アニミズムでは森羅万象に神様が宿る、みたいな考えなので、今の日本が多神教なのは縄文~古墳時代のアニミズムが関連している、というのが通説なんですね。今でもアレですよね。日本人は自然物に備わる神を信じるところがあると思います。樹齢数百年の屋久杉を抱きしめて「おぉ……パワー感じるわ~……」みたいなね。パワーストーンを財布に入れたらお金貯まるみたいなね。
そんななか、お隣の中国では人間の姿をした金ピカの「仏」という存在がいるわけですよ。この時に日本人は初めて信仰する対象の「かたち」を発見したわけです。だからもう「あ、ありがてぇ~」ってなったんですね。この事件を「仏教公伝」といいます。
だから飛鳥・奈良時代はもう仏にまつわる美術作品が出まくります。では実際にどんな作品が登場したのか。「建築・仏像」「絵画」の2つの軸でみていきましょう。
飛鳥時代の建築
建築といえば、まず思いつくのが601年、聖徳太子によって創建された「法隆寺」でしょう。日本の世界遺産第一号です。柿食ったら鐘が鳴るシステムの寺院です。
法隆寺
Nekosuki
なかには「日本最古の寺院」と思っている方もいるかもしれませんが、実は違います。「現存する日本最古の寺院・木造建築」は法隆寺ですが、作られた年でいうと583年の「飛鳥寺」が最古となっています。鎌倉時代の落雷による火災で大部分を失ってしまったんですけどね。
鞍作止利による人間ぽくない仏像
特に飛鳥寺・法隆寺をはじめ、寺院には仏像を設置するのがお決まりでした。当時は中国・朝鮮からやってきた人や、その技術を受け継ぐ職人によって作られました。なかでもこの時代の仏像づくりの立役者が、日本の仏師第一号「鞍作止利(くらつくりのとり)」さんです。代表作は法隆寺金堂の「釈迦三尊像」でしょう。
法隆寺金堂「釈迦三尊像」
Tori Busshi
彼の作品の特徴としては上下のまぶたが同じ弧を描いている「杏仁形の目」、「やせ型のボディ」「面長の顔」「服や布の皺がシンメトリー」、そして「アルカイック・スマイル」と呼ばれる微笑みです。アルカイック・スマイルは紀元前6世紀ごろの遠く離れたギリシャの彫像にも見られた特徴。ウルトラマンにもアルカイック・スマイルが用いられています。
▼関連記事:西洋美術史を流れで学ぶ(第3回) ~ギリシャ美術編~
https://irohani.art/study/4358/
上記の特徴をひと言で表すと「抽象的で肉感が少ない表現」といえます。これは中国の「神仙思想」の影響を受けているものです。この様式は「止利様式(とりようしき)」と呼ばれます。
止利様式から初唐様式への変遷
しかしこの後、7世紀から8世紀初頭に進むにつれて、止利様式はだんだんと変化していきます。というのも、当時の日本は中国・朝鮮の変化にかなり引っ張られるんですね。特に618年に中国では隋が滅亡して唐が建国されました。
これを見た留学生が日本に帰ってきて「唐って国ができましたで。これ日本も体制強化せんとやばいっすよ」と言って、できたのが天智天皇と藤原鎌足の「大化の改新(645年)」です。その後、日本は百済と組んで唐・新羅(しらぎ)と「白村江の戦い(663年)」をしますが惨敗。「唐、超強えじゃん」となるわけです。しかしその結果、他国との戦いに供えるため戸籍制度などが整えられ、国としては強化されます。が、その後天智天皇と大海人皇子の古代最大の兄弟喧嘩「壬申の乱(672年)」でまた国は真っ二つになり、勝利した大海人皇子は「天武天皇」になる……みたいな、もう唐をけん制しながら自国にも大忙し、みたいな時期なんですね。
そんななか、日本は「唐の文化を吸収しながら東アジアに通用する国家を作らないと!となるんです。しかし白村江の戦い以降は日唐の交流は経たれていたため、新羅を介して日本は唐の文化を吸収していきました。
その結果、仏像は止利様式を脱却して「初唐様式」に移行します。初頭様式で有名な作品は山田寺の薬師如来(仏頭)でしょう。
山田寺の薬師如来(仏頭)
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止利様式より若々しくなり、頭がデカくなりました。まぶたも上下均等ではなくなり、より人間らしくなった感じですね。西洋美術もそうですが、国家がビジネスライクになると、戦争が起こり、美術作品がリアリズムに近づく傾向があると思います。ルネサンス期も、第二次産業革命期も同じ傾向がありますね。
この後、初唐から盛唐へ、さらに仏像は進化を遂げていきますが、実は超内容が濃く、校長先生が寝るレベルで長くなっちゃうので、その詳細は次回の記事でご紹介しましょう。
飛鳥時代の絵画
飛鳥・奈良時代は絵画の文化が花開く時期です。古墳時代には抽象的にしか描かれなかった絵画が、仏教のおかげでものすごく具体的に作られるようになります。
というのも当時の絵画は今でいうYouTubeとかTwitterみたいな、情報拡散のメディアとして機能していたんですね。だから日本人になじみがなかった仏教を「仏ってこんな人なんですよ~」と伝える目的で描かれました。
法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」
BENRIDO
法隆寺金堂壁画の「阿弥陀浄土図」です。元ネタはインドのアジャンタ石窟寺院の壁画ともいわれますね。「顔の印影をつけるために隈取りが描かれている点」「同じ太さで描かれている点(鉄線描)」が共通しています。個人的には左右の二人が謎にふてくされてるのがジワジワくる一枚です。
高松塚古墳壁画の「西壁女子群像」
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こちらは高松塚古墳壁画の「西壁女子群像」です。ガールズトークしてますね。スカートが令和の今でも全然古くないくらいかわいくて、マジで素晴らしい。この服装は当時流行っていたファッションだと見られていて、高句麗の古墳壁画にも同じものが見られます。やはり、ファッションに至るまでむっちゃ影響を受けてたんですね。
Old replica before 1945
最後に正倉院の「鳥毛立女屏風」です。こちらは唐で流行していた女性画を日本でも真似て描かれたもので「今の唐ではこんな感じの絵が流行ってたんだぞ」というメッセージを持っています。
実際に当時の唐ではこうしたぽっちゃりした女性の絵が流行っていて、それは実は三大美女の一人・楊貴妃がモデルだったともいわれます。楊貴妃って実はそこそこぽっちゃりだったんですよね。
ただそれが「嫌だ!ぶちゃいくじゃん!」というわけではなくて、当時はまゆ毛もボディもふくよかな女性が美人の代名詞だったわけです。美醜の感覚は人と時代によって大きく左右されてきたわけですね。
史上まれに見る国際色豊かな時代
さて、今回は飛鳥時代の美術をお届けしました。この時代は本格的に他国との交流が始まり、今の日本文化の基礎が築かれた時代といってもよいでしょう。
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【高松塚古墳】極彩色壁画を再現
考古学チャンネル
2024/01/20
https://www.youtube.com/watch?v=l8ucp2UCIYI
【高松塚古墳】極彩色壁画を再現
考古学チャンネルです。この動画は、高松塚古墳の壁画について紹介した動画です。
高松塚古墳は、明日香村の南部、天武・持統天皇陵を始めとした皇族クラスの古墳が集中する一角に築かれています。直径23m、高さ5mの2段築成の円墳です。1972年に発掘調査が行われ、極彩色の壁画が見つかったことで広く知られています。仁徳天皇陵古墳、石舞台古墳と並んで、日本で最も有名な古墳の1つではないでしょうか。
ただ、西壁の女性群像があまりにも有名で、他の壁画についてや、全体の様子、そして完成当時はどのような姿であったのかは、意外に知られていないのではないでしょうか。今回は刊行されている資料から高松塚古墳の壁画を再現してみました。精度はそれなりですので、あくまでもこんな雰囲気なのかという事を知っていただければと思います。
出土遺物には海獣葡萄鏡、ガラス製玉類942個、琥珀製丸玉2個、太刀金具等が出土し、7世紀末~8世紀初めの築造と考えられています。また、飾金具、釘、漆膜破片などの出土から、漆塗りの木棺が収められていたことがわかりました。
被葬者は諸説あり確定していませんが、石槨内からは歯やあごの骨が出土しており、熟年の男性と推測されており、天武天皇の皇子である忍壁皇子や高市皇子といった、天皇に極めて近い皇族とする説や、阿倍御主人(あべのみうし)等の有力官人とする説がありますが、結論は出ていません。
高松塚古墳の、合計16人の男女群像は、何を現わしているのでしょうか。壁画を俯瞰すると、彼等のほとんどは南に向かっており、色々な物を手に持っています。男子が先導し、後続する女性達を待っており、女性達は被葬者の頭の横に寄り添って被葬者を促して南に向かって、少しずつ歩き出すかのように描かれています。これについては、彼等は共に野外の遊興のために外出することで、主人である被葬者を慰めようとしている、出行図とする説や、被葬者が儀礼に向かう際の従者を描いたとする説、天武天皇の即位に関わる儀礼を描いたとする説などがあり、未だ謎のままです。
また、四神、天文図、日月は被葬者の周囲を取り囲んで、安静な永遠の眠りを守っていると考えられます。
このような構図は、中国から東アジアに広く共有された画題で、高松塚古墳がこうした文化的な背景から強い影響を受けている事が伺えます。
高松塚古墳の壁画は、キトラ古墳の壁画と共に、法隆寺金堂壁画と並んで最も古いものです。高松塚古墳の壁画は、当初は現地で保存されていましたが、カビなどの要因による劣化を食い止めることが出来ず、解体されて修復が行われました。現在の技術では現地での保存は困難で、施設で保存されています。そう考えると、1972年の発見まで、このように鮮やかな色彩を保って残ってきたことは、奇跡のように思えます。長く後世に伝えられることを期待したいですね。
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2024/01/13 (Sat) 22:58:34
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奈良時代の美術
https://irohani.art/study/12452/
前回の第3回では飛鳥・奈良時代の美術について紹介しました。
仏教が中国・朝鮮から渡来し、しかもその背景にはインドの影響もあった……みたいな超グローバルな時代。仏像をはじめとする日本文化がどう醸成されたかがよく分かったのではないでしょうか。
前回「日本は唐の影響を受けながら美術作品を作っていったんやで」と紹介しましたが、その結果、具体的にどんな仏像ができたのか。今回は唐の影響を受けまくった奈良時代の仏像を紹介していきましょう。
奈良時代の仏像のキーワードは「写実主義」
まずは簡単におさらいをしておくと、飛鳥時代には渡来系の仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)さんが仏像を作り始めました。法隆寺金堂の「釈迦三尊像」が代表作です。
Tori Busshi
止利様式の特徴は前回紹介しましたが、上下のまぶたが同じ形、やせ型で面長、ちょい微笑んでいる(アルカイック・スマイル)みたいな感じ。服のしわもカッチカチです。ぱっと見、すごく端正なお釈迦さんなんですけど、かっちりし過ぎてて、ちょっと人間らしくないよね~、というのが持ち味でした。
それが奈良時代は唐の影響を受けて、写実的になっていきます。つまり「すんごく人間ぽい」という感じになるんです。例えば腰巻や上衣といった衣類のひだがよりリアルになりますし、体系はふくよかになる。不自然に微笑むこともなくなりました。
この写実的な表現は作り方を工夫することで可能になりました。飛鳥時代って一本の木を彫りまくる「一木造」や、複数の木のパーツを組み合わせる「寄木造」が主流だったんです。つまり基本は「木を直で彫る」っていう。これじゃ、なかなか繊細な表現は難しい……。
そんななかで奈良時代に入ると「塑像」「金銅像」「脱活乾漆像」などの作り方が出てきます。
● 塑像:骨組みに粘土をつけて彫る
● 金銅像:内側から粘土→蝋(ろう)→粘土の順番で型取りして焼き、蝋が溶けた部分に青銅を流し込んで成形する
● 脱活乾漆像:骨組みに粘土を貼り付けて成形したあと漆に浸した布を貼って成形する。
ただ木を彫るだけでなく、粘土や青銅、布などを駆使することで繊細な表現を可能にしたんですよね。いや、すごい。
初唐~盛唐へ。奈良時代の仏像の世界
奈良時代は平城京遷都の710年~平安京遷都の794年までを指しますが、この時代にはさっき紹介した技法で、いろんな仏像が作られます。ここからは重要作品をみていきましょう。
興福寺西金堂 乾漆十大弟子立像
仏陀は生涯に1250人の弟子がいたといわれますが、そのなかでも特に優秀な10人を「十大弟子」と呼びます。乾漆十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)は、その弟子を彫った乾漆像です。今は6躯が現存しています。
・乾漆十大弟子立像(法相宗大本山 興福寺)
https://www.kohfukuji.com/property/b-0017/
いやまぁインド人なんですけどね。日本に合わせて、顔は日本人になっています。まず表情が豊かですよね。そのうえで衣類のひだがかなりリアルになっています。まさに写実主義。
東大寺法華堂 不空羂索観音像
Ismoon (talk) 15:49, 10 February 2019 (UTC)
奈良時代の仏像!といえば王様・東大寺ですよ。そのなかでも中心に据えられたのが「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」です。脱活乾漆像の表面に金箔を張っています。高さは362cm、目が3つと腕が8本の「三目八臂(さんもくはっぴ)」モチーフの巨大な立像です。
モチーフはもちろん「光」。まず後光(後背)がエグい。そのうえ宝冠や、合掌の手の間にはさまった宝玉など、全体的にきらびやかです。こんなん対面した瞬間に「ははーっ」ですよ。ひれ伏さざるを得ない。
そのうえ身体がガッシリしているのに注目です。ボディビルの掛け声でいうと「キレてる!」でなく「デカい!」みたいな身体になっています。これは唐の開元年間の特徴と通じており、当時日本は唐から影響を受け続けていたことが分かっています。ちなみに日本ではここから平安初期まで、こうしたがっしりした仏像が増えていきます。
この像は、この後の鎌倉の彫像にも影響を与えており、よく「日本の仏像の古典(クラシック)」ともいわれます。
東大寺盧舎那仏像
Mass Ave 975
いわゆる「奈良の大仏」さんですね。752年に完成しました。とはいえ、当時つくったものが今でも現存しているわけではなく、その後の戦国時代で何度か焼損したので、ほとんどは再建されたものです。
なので今の大仏さんをみて「材質」や「表現」をみることで奈良時代の仏像の時代背景がわかる、というわけではないのが前提ですね。
それよりも重要なのは「当時なんでこんな超巨大な仏像をつくったのか」という部分ですね。いまでいうと約4,657億円もかけて260万人雇って、7年かけて仏像を作ったんですよ。令和の今はありえない。こんなことすると、SNSで「#スピリチュアル岸田」みたいなハッシュタグが流行っちゃいます。
当時、盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)を作ったのは聖武天皇ですが、当時の日本はかなり悪い状況でした。まず疫病が流行して政治の中心人物が次々に亡くなった。また飢饉やら地震があり、乱も起きたんですね。そのなかで社会不安が巻き起こっていた最中でした。
今でいうとコロナとオイルショックと東日本大震災が同時期に起きて、九州の知事が「国は何してんだー!」つって東京に攻め込んでくる、みたいな。もう未曽有&阿鼻叫喚みたいな状態です。
そのなかで聖武天皇は「仏やな」と。「仏の力で国を安定させたい」と思ったんですね。それで奈良の大仏さんをつくったり、全国に国分寺と国分尼寺というお寺を作らせたりしたわけです。つまり、奈良時代はそれくらい国は仏教の力を信じていた、ということになります。
大仏開眼会での美術作品
それで752年に盧舎那仏像が完成するわけですが、完成した際に大仏開眼会が開かれました。そのなかで「伎楽(ぎがく)」というパントマイム演劇のような伝統芸能が開催されました。伎楽は飛鳥時代に中国から伝わったものです。
東大寺所蔵の伎楽面30面のうち酔胡従(重要文化財)/
今泉篤男 et al.
これによって中国で作られたお面がいくつか伝わってきたのも注目ポイントです。
なかでも「崑崙(こんろん)」というお面は伎楽内ではかなりゲスな役回りです。モデルは中国の周辺民族になっています。今見ても「こいつは100%悪人やろ」という顔だちでしょうが、このイメージが当時から確立されていたのはおもしろいポイントですよね。
・伎楽面 崑崙(e国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100769&content_part_id=007&langId=ja&webView=null
唐招提寺 鑑真和上像
Tōshōdai-ji, Nara
最後にご存じ鑑真さんの坐像です。鑑真は「唐の文化を日本に伝えたいのです」という一心で、5回の渡航に失敗してもめげずに6回目の渡航で日本に到着して唐の文化を広めました。
この時の渡航には絵画、彫り物、刺繍などの技術者も含まれていたといわれてるのがポイントです。ちなみに、2回目の渡航のときには85人も乗っていたのだといいます。
つまり鑑真によって、唐の後期文化が日本に持ち込まれることで、奈良時代の仏像はまた新しい一面を見せるわけですね。
例えば、飛鳥時代に最盛期を迎え、奈良時代ではあまり用いられなかった「一木造」。鑑真一行はそれまでの木材とは別の「榧(かや)」に直接ノミを入れて彫っていたんですね。この榧材の一木造の仏像は、東大寺を建築していた工人に受け継がれ、平安時代前期に盛り上がることになります。
中国の影響で育った日本文化の源流
さて、こんな感じで奈良時代の美術作品の王道はもう何と言っても仏像です。つくることで救われる。という時代だったからこそ、奥深い作品ができました。
「日本文化」という意味でも、ターニングポイントとなりますね。ここまで唐の影響を受けたカルチャーが日本に浸透していくと、日本文化の源流の一部は中国にあることにあらためて気付きます。個人的には「伎楽」のお面はむっちゃ好きです。この時代から今に至るまで「悪人ぽさ」や「善人ぽさ」という感覚的なデザインは変わっていない。
いやむしろこの当時に生まれた「○○ぽさ」が今の私たちに影響を与えているのでしょう。まさに歴史を知って、今を理解するというおもしろさがありますよね。
さて、そんな徐々に形成されていく日本文化が花開くのが、みんな大好き平安時代。次回は平安時代の美術作品について紹介していきたいと思います。
https://irohani.art/study/12452/
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2024/01/13 (Sat) 23:00:16
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平安時代の美術
https://irohani.art/study/12700/
前回の第3~4回は唐の文化が日本にやってきた奈良時代の美術作品について触れました。今回は、その後の平安時代の美術作品についてご紹介します。
和歌を詠み合う貴族たち、揺れる十二単、源氏物語の恋愛模様……みたいな、もうなんか「ザ・日本文化」というイメージがありますよね。日本美術史のなかでも人気が高い時代です。しかし直前の奈良時代には唐文化が隆盛したのは確かです。では、なぜ平安時代になって日本文化が醸成されていったのか。そのあたりをみていきたいと思います。
平安時代の美術は前期・後期に分かれる
※参考:平安京の復元模型(平安京創生館の展示物),
まず平安時代は一般的に長岡京遷都の784年~平氏陥落の1185年までの400年を指します。ざっくりいうと「鳴くよウグイス」~「いい国つくろう」まで。そのなかでも実は前半は唐の文化が主流でした。いわゆる「国風文化」といわれる日本的な美術が出てくるのは900年代後半あたりからです。
じゃあ何がきっかけで、日本は唐のカルチャーを抜け出して、やまと文化に移行するのか。大きな契機となったのは「遣唐使の廃止」です。奈良時代は20年に一度のペースで遣唐使が唐に渡り「唐っていまこんなんが流行ってるんやで~」と文化を持ち帰ってきていました。
当時の唐は超大国ですので、もう日本人は「マネしたい!かっこいい!」みたいな気概に満ちていたんですね。今でも日本人は海外に強い憧れがあると思いますが、これは島国独特のカルチャーなのかも。
※参考:遣唐使船(貨幣博物館蔵),
PHGCOM, anonymous Japanese painter 8-9th century
しかし平安時代は400年もあるのに、804年と838年の2回しか遣唐使は渡唐していません。
その主な理由は以下です。
● 唐の政治体系を学び終えた
● 唐が弱体化して憧れではなくなった
まず「もう、唐のいいところは吸収し終わったわ」という点ですね。いわゆる碁盤の目のように作られた平安京の完成(794年)は唐の都を真似たものでした。「平安京もできたし、もうええか」という雰囲気が流れていたんですね。
また「もう唐って古くね?」という、ものすごく根本的な問題もありました。実際8世紀に入ると、唐はもうボロボロで、めちゃめちゃ内乱が起こっていたんですよね。そんななか日本でも「唐ってお手本にする価値あるか?」というムードが流れたわけです。
それで894年、学問の神様・菅原道真が宇多天皇に「もう遣唐使いいでしょ」と意見したことで廃止となりました。その10年後、実際に唐は滅亡することとなります。
「遣唐使の廃止=日本での唐人気の終了」ではない
これが唐文化から国風文化に切り替わった直接的な要因といわれています。ただ誤解したくないのは遣唐使が廃止になった後も、まだ唐の舶来品は日本で人気だったんですよ。
ただ「捉え方」が変わったんですね。つまりかつては「すげぇ、あの大国・唐のものだ。真似しなきゃ」という憧れだったんです。それが「唐を目指さなくてもいいけど、見慣れてるし、かっこいいし……うんまぁ欲しいわ」くらいのテンションになったという感じ。理想から消化に変わりました。
「新撰万葉集」「古今和歌集」の編纂からみる国風文化への遷移
そんな唐風文化から国風文化への移ろいを表しているのが9世紀末の「新撰万葉集」、10世紀初唐の「古今和歌集」です。
平安時代前期には天皇の指令で「漢詩文集を作ろうぜ」となりました。それで「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」といった漢詩文集ができた。しかしそれが、和歌で編まれた「新撰万葉集」「古今和歌集」に変わったわけですね。
これは象徴的な変遷ですよ。「奈良時代から国外ばっか見てたけど、そろそろ準備できたし国内に目を向けていこうぜ」という気概が感じられます。そのほか同時期には「諸説不同記」「日本国見在書目録」といった書籍が刊行されています。こうした国全体の「外から内へ」の意識変化が、やまと文化を醸成していくことになります。
政治や文化の基礎が完成し「これで日本は国外でも通用する環境を構築できるぜ」という“自信”が国内文化の醸成に向かわせたのかもしれません。
https://irohani.art/study/12700/
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平安時代400年の仏像の変化を作品で見比べ!
https://irohani.art/study/13521/
前回の第5回では平安時代の美術作品がどう変わったのかをお伝えしました。超絶ざっくり書くと、前期(784~800年代後半)までは、唐の影響をゴリゴリに受けていたんだけど、後期(900年~1100年代)は国風文化が芽生えるようになったよ~、って話です。
今回はそんな平安時代の作品の変遷をより分かりやすくするため、実際に前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。
仏像でみる平安時代前期と後期の違い
まずは仏像にフォーカスして平安時代前期・後期の美術作品から紹介してみます。まずは唐の影響をがっつり受けていた前期。特に8世紀~9世紀前半の桓武・嵯峨・仁明天皇の時代には唐風美術がめっちゃ盛り上がりました。このころの美術作品のキーワードは「密教」です。
平安時代前期の仏像
「密教」とはインド発祥の仏教の一つ。シンプルにいうと「言葉だけじゃわからない激ムズな教えだけど、理解できたら生きてる間に仏になれるよ」と説いたものです。空海が真言宗を、最澄が天台宗を日本に伝えました。ちなみに対義語は「顕教」、これは言葉でわかる仏教の教えをいいます。
そんな「密教」にまつわる美術作品が「曼荼羅」です。平安時代前期には密教由来の曼荼羅が多く作られました。曼荼羅とはシンメトリーの構図で「〇」を描き、そのなかにさまざまな仏様を描いたものです。特に日本では神護寺の「高雄曼荼羅(紫綾金銀泥絵両界曼荼羅図)」(※)が有名な作品です。
※編集部注:高雄曼荼羅は6年間の修復を経て、2024年4月から奈良国立博物館で開催される特別展「空海 KUKAI ―密教のルーツとマンダラ世界」にて一般公開予定。
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/special_exhibition/202404_kukai/
他には「伝真言院曼荼羅(両界曼荼羅図)」も有名ですね。彩色された曼荼羅では最古のものです。
国宝 両界曼荼羅図 胎蔵界曼荼羅,
Tō-ji
ちなみに今の時代でいうと、さくらももこさんのイラストなんか、すんごく曼荼羅ぽいモチーフのものが多かったりします。今でもデザインとして機能するほどキレイな構図ですね。曼荼羅は今でも、おしゃれな町のシーシャ屋さんとかにほぼ100%飾られてますんで、見本が気になる人はシーシャを吸いにいってください。
空海はそんな曼荼羅を絵から出して、仏像にしました。こうした密教の仏像は「インド由来の新しい仏の形」なのがポイントです。つまりインドの神様をモチーフにすることで仏像の表現の幅が広がっていくわけです。
というのも、インドの神様ってむっちゃユニークなんですよ。超かっこいい。なんか、ウルトラマンの怪獣みたいな……。腕が4本生えてたり、顔が4つあったりするんですよ。よく「多面多臂像(ためんたひぞう)」といいますが、平安時代にはインドから唐を経由して日本に流れ着いた「なにこれ怖っ……」と言っちゃう異形の像が増えてきました。美術的にはかなり斬新な表現だったわけですね。
そんな密教美術の最高傑作といわれるのが「観心寺如意輪観音像」です。腕が6本あります。
9世紀ごろ, 図:飛鳥園 編
そこから仏像全体の表現が進化していきます。ただの人物像ではなく、演出を加えたものが出てくるようになりました。例えば法華寺の「十一面観音像」は後光のように蓮の葉などを並べた、珍しい表現をしています。こうした密教像によって仏像のバリエーションは増えていきました。
・ 十一面観音菩薩立像(法華寺公式ホームページ)
https://hokkejimonzeki.or.jp/about/honzon/
個人的にはこのインド由来の異形的な表現は、今の日本のアニメ文化などに通ずるところもあるのかもしれない……と拡大解釈したくなったりしますね。
平安時代後期の仏像
これが後期にどう変わっていくのか。まず時代背景をいうと、実は900年代後半になると、唐では仏教排斥がおこなわれます。それで唐の呉越国は「やばい、仏教なくなっちゃう……そうだ。日本で盛り上げよう」と日本に浄土教を広めるわけです。「祈れば極楽浄土にいけまっせ」という教えですね。
その結果、900年代末~1000年代にかけて浄土教が広まり、1053年には藤原頼通が10円玉でおなじみ平等院鳳凰堂を建立します。庭園を含めて極楽浄土の光景を再現したものです。
Photo by Martin Falbisoner
それとともに、前回の記事でお伝えしたように「唐を見習おうぜ」という動きは鈍くなっていき、反対に「日本ならではの作品を確立しなきゃ」という考え方が国全体に広がっていきました。つまり浄土教など、海外由来の文化を取り入れつつ、日本独自の方向性と合致させていく考えだったわけです。
この時代に現れたのが天才仏師が康尚と弟子・定朝。彼らが作った国産の仏像は平安貴族的に大ヒットします。「これぞ浄土教の心安らかなメンタル状態を具現化している傑作だ」とウケまくるんです。
定朝(11世紀), 図鑑:福山恒夫 森暢 編
上は定朝の「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」。華やかでありながら凹凸が少なく平面的なのが特徴で、ひと言でいうと「めっちゃ穏やか」なんですね。これが平安貴族の美意識にフィットしました。そしてその背景には心の安定を求める仏教の教えがあった、という感じです。
これは「定朝様式」ともいわれ、あえていうと「貴族にウケるモデル」ができたという感じなんですね。なのでその後に出てきた仏師も定朝のような「華やか」なスタイルを継承していきました。モデルができたので大量につくれるようになり、1100年代には「蓮華王院本堂千体千手観音像」というとんでもないものもできています。
Nara National Museum 奈良帝室博物館 (Showa 8 - 1933)
これらのどっしりと構えた安定感のある構図は、実は平安時代より前の奈良時代などの表現にも共通しています。まさに温故知新。日本独自のスタイルを確立していったんですね。
https://irohani.art/study/13521/
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平安時代400年で絵画作品はどう変わった?日本美術史を流れで学ぶ(第7回)~平安時代の美術編その3~
https://irohani.art/study/13740/
平安時代って超長いんですよね。400年も続くんです。当然、美術作品もいろんな変遷を遂げていきます。前回は仏像でしたが、今回は「絵画作品はどう変わったのか」についてご紹介。前期と後期で作品例を挙げながら見ていこうと思います。
平安時代前期(唐代絵画)から後期(大和文化の成立)へ
前回の記事で平安初期には中国的な規範が取り入れられ、後半から日本の文化があらわれてくることを紹介しました。前半はアジアにおいて唐がめっちゃ強国だった。それで日本も遣唐使を派遣してめっちゃ前向きに吸収するんですが、だんだん唐が弱体化したのと真似し終わった感もあって、むしろ日本独自の文化を発見していく流れに変わっていくんですね。
平安時代前期には前回の記事でもご紹介した「曼荼羅」がよく描かれるようになります。前回の記事では真言宗の空海が持ってきた密教由来のものを紹介しました。これが「根本曼荼羅」というものです。
巨勢公忠(こせの きんただ)や飛鳥部常則(あすかべ の つねのり)といった国内の絵師は、こうした根本曼荼羅を独自に吸収して描くようになるんですね。こうした国内の曼荼羅は根本曼荼羅と比べて、立体感が薄くのっぺりしています。また描線も柔らかい。こうした表現が日本文化の醸成につながっていきます。
もちろんベースには唐の表現様式があるんです。そのうえで「立体感を減らす」「一点にフォーカスするのではなく、広い視点を持たせる」などの特徴を持たせる表現にアップデートしていったんですね。その結果、ダイナミックでなく素朴で穏やかな形になっていきます。これが大和文化、ひいては日本文化の特徴として育っていくんです。
平安時代後期のやまと絵の特徴
そんなこんなで成立していくのが、よくある「やまと絵」といわれる日本文化独自の表現です。ちなみにやまと絵が盛り上がるにつれて、それまでの唐代絵画は「唐絵」といわれ、明確に差別化されていきました。
この違いは分かりにくいのは平安時代の絵画あるあるです。唐絵は唐の故事を基礎にしたもの、やまと絵は国内の貴族たちを描いたもの、という分かりやすい背景の違いはあるものの表現技法としての違いは微妙です。
そこで試しに自然を描いた「山水表現」でやまと絵と唐絵を見比べてみましょう。
奈良国立博物館Webサイトより引用
こちらが正倉院に伝わる「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶(かえですおうぞめらでんそうのびわ)」に描かれた唐絵の『騎象奏楽図(きぞうそうがくず)』です。琵琶に描かれているので画面は小さいんですが、見事に奥ゆきを描いていてダイナミックで超かっこいいですよね。
では比較してやまと絵ではどうなのか。国宝の『神護寺山水屏風』をみてみましょう。
Public domain, via Wikimedia Commons
同じく、遠くに山々を臨む構図なのですが、立体感は薄れ、人物や建物によって遠近感を演出するというよりは、大きな自然物の中にちょこっと登場している。画面全体で物語を描いているようなさりげない感じが出ています。
絵巻物ブームの到来
平安時代後期には絵巻物がめっちゃ盛り上がるのも特徴。これまでの一枚絵ではなく、紙・絹をつなげたものに絵を描くことでストーリーを見せるものです。日本由来と思われることもありますが、これも実は中国で先に生まれた様式となっています。
例えば有名どころでいうと「四大絵巻」と称されるのが『源氏物語絵巻』『伴大納言絵巻』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』ですね。『伴大納言絵巻』は866年に起きた応天門の変をめぐる大納言・伴善男の陰謀と失脚までの物語を描いています。
Tokiwa Mitsunaga, Public domain, via Wikimedia Commons
そもそも絵巻物が流行る前から唐絵もやまと絵も何らかのテーマを持っていたんです。ある種の「ドラマ」を一枚の絵で見せる、というのが主流だったわけです。
現代人の我々のイメージに合わせるならば「101回目のプロポーズ」というタイトルで「武田鉄矢がトラックの前に飛び出すシーン」を画面に描くみたいな……。でもそれ以外の場面が描かれないと想像で補うしかないですよね。そこがおもしろいんですけど、あんまりキャッチーではない。
その点、絵巻物はかなりストーリーを補填しやすい形だったんだと思います。なんとなくストーリーの流れがわかりますし、実は説明文が別で付いているケースも多くあります。
コミカライズの原点ともいえる?
絵巻物ブームが起きていたのは現代日本のマンガ文化にも通ずるところがあるんじゃないか、とも考えられますよね。例えば先ほどの『伴大納言絵巻』の内容の一部は『宇治拾遺物語』巻第十にも文章として描かれています。
また『源氏物語絵巻』はもちろん、紫式部のベストセラー『源氏物語』を絵巻にしたものです。本を読んで頭のなかで構築したストーリーを絵で見せるという手法は最近のコミカライズに近い感覚もあると思います。
ここ20年くらいでコンテンツは一気にマルチメディア化しましたし、それがヒット作の教科書になりました。ライトノベル原作の作品がマンガになり、アニメになり、実写映画になり、舞台になり、音声コンテンツになり、声優によるコンサートが開かれる。
平安時代には小説『源氏物語』が絵巻物になっているのは、正にマルチメディア化の先取りで、すごくおもしろいです。日本人のオタクカルチャーにも通ずる部分があるのかなぁなんて思ったりします。
マンガの源流・信貴山縁起絵巻、鳥獣人物戯画
四代絵巻のうち2つ紹介したのでせっかくだから残り2つのおもしろいところも紹介しちゃいましょう。まず『信貴山縁起絵巻』ですが、実はむちゃくちゃファンタジーです。
いろんな奇跡を起こす「命蓮」という修行僧が主人公の3巻のお話になっています。1巻では命蓮が空に飛ばした鉄鉢が、山麓の長者の倉を持ち上げ信貴山上まで運んでしまう。という衝撃的なシーンで始まったりします。
Chōgosonshi-ji, Public domain, via Wikimedia Commons
この絵が冒頭の「鉢に乗って空を飛んでいく倉」を描いたものなんですが、躍動感があって笑えるんですよね。簡素な線で少しオーバーに描く感じが、割と現代のマンガに近いという話は有名です。確かに他の作品と比べると、線のタッチも人物描写も軽々としていて楽しいです。
その点、日本最古のマンガとも呼ばれるのが『鳥獣人物戯画』です。作者は鳥羽僧正(とばそうじょう)といわれています。そこそこ偉い方なのに変な絵巻ばっかり描くんですよこの人……。「放屁合戦」とか。興味がある方は調べてみてください。
Toba Sōjō, Public domain, via Wikimedia Commons
鳥獣人物戯画は見ていてかわいくてユーモラスですよね。それまでの技法とはまったく違う。完全に笑わせにきている。この画風は当時「鳴呼絵(おこえ)」といわれていました。
「おこ」とは「バカらしい」という意味です。バカらしい絵という見られ方だったんですよね。ちなみに鳴呼絵は「戯画」となり「漫画」に変わっていきます。手塚治虫以降は「マンガ」という呼ばれ方になっていく。このあたりのお話は江戸時代、明治時代でしましょう。
先ほどの山水表現で紹介した柔らかいタッチ、平面な絵は雅な文化として日本に根付きましたが、この絵巻物の文化も外せないでしょう。キャッチーなコンテンツが大好きな現代の日本文化の萌芽といっていいと思います。
いろんなキーワードが盛りだくさんの平安美術
さて、2回にわたって平安時代の日本文化を紹介しました。長い長い平安時代は本当にいろんなキーワードがありますよね。唐、密教、曼荼羅、国風文化の仏像、やまと絵、絵巻物と、さまざまな魅力がある時代です。
https://irohani.art/study/13740/
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2024/01/17 (Wed) 05:17:26
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国風文化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96
国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えた。
江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「雅(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている[1]。国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。
特色
中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い[注釈 1]。
11世紀に確立された「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる、調和のとれた優美さにあると言える[2]。平安時代は日本史上最も女性の感性が大切にされた時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映された[3]。 内裏では調度を整えるにあたり、公式な場やハレの場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、ケの場では和風に誂えるという使い分けをした[4]。
遣唐使の停止
以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。
しかし、遣唐使は、9世紀には頻度が減り、仁明天皇の治世に相当する、承和年間(834年 - 848年)の派遣が最後となった。その一方で、9世紀には中国からの海商が多数渡航するようになったため、遣唐使をわざわざ派遣しなくても中国の文物を多く入手できるようになった。
そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。
浄土教の流行
日本仏教では、末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。往生伝。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像、絵画などにその影響を残した。
女房文学の発達
藤原氏(藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。
かな文字の使用
奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字(ひらがな、カタカナ)が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、ひらがなは漢字の草書体を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。紀貫之が書いた『古今和歌集』の「仮名序」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた和文として初期のものである。
文学
和歌
古今和歌集:延喜5年(905年)に醍醐天皇が紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集。
和漢朗詠集:寛仁2年(1018年)頃に藤原公任が編集した漢詩集。
物語
竹取物語:現存する最古の仮名の物語。
伊勢物語:在原業平を主人公にしたといわれている歌物語。
うつほ物語:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。
落窪物語:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。
源氏物語:王朝物語の最高傑作。
日記・随筆
土佐日記:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。
蜻蛉日記:藤原道綱母が夫藤原兼家との生活の不満を綴った日記。
和泉式部日記:和泉式部が自らの恋愛について綴った日記。
紫式部日記:紫式部が宮中に仕えている時の事を綴った日記。
枕草子:清少納言の随筆。これら2つは、鎌倉時代の随筆。鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。
更級日記:菅原孝標女が自分の人生を自伝的に綴った回想録。
小右記:藤原実資の日記。(漢文)
御堂関白記:藤原道長の日記。
その他
倭名類聚抄:源順が編纂した日本最初の百科事典。
六歌仙:在原業平、小野小町、僧正遍昭、喜撰法師、文屋康秀、大友黒主の6人の歌人の総称。
服装
湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとしたシルエットになった。
男性用
衣冠
束帯
直衣
狩衣
女性用
十二単(女房装束)
細長
楽器
和琴
宗教
御霊信仰
陰陽道
本地垂迹説
建築
貴族住宅が寝殿造の様式で建てられた。平等院にはその影響が見られる。
仏教建築としては浄土教の影響を受けた阿弥陀堂が多く建立された。
法成寺無量寿院:寛仁4年(1020年)に藤原道長が建立。現存せず。
平等院鳳凰堂:天喜元年(1053年)に藤原頼通が建立。
法界寺阿弥陀堂:永承5年(1050年)頃、日野資業が自分の別荘を寺にしたもの。承久の乱で焼失し、再建。
阿弥陀堂以外の建築としては天暦5年(951年)建立の醍醐寺五重塔が知られる。
彫刻
阿弥陀如来像を大量生産するため、分けて造った部品を組み立てる寄木造の技法が用いられた。この技法を完成させたとされるのが定朝である。彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔に細い目の穏やかで瞑想的な表情が特徴で、こうした仏像を定朝様式と呼ぶ。
平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品
法界寺阿弥陀如来像
平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像
絵画
大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画(山水屏風など)や壁画(平等院鳳凰堂扉絵など)が描かれたが仏教絵画を除いて少数しか現存していない。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されたことが推測されているが、11世紀末以前に制作された作品は現存していない。 仏教絵画では来迎図がよく描かれた。
高野山 涅槃図(1086年)
高野山 聖衆来迎図
東寺 十二天(1127年)
東京国立博物館 普賢菩薩像
平等院鳳凰堂扉絵(1053年前後)
京都国立博物館 山水屏風
源氏物語絵巻(平家時代または院政期)
信貴山縁起(院政期)
伴大納言絵巻(院政期)
鳥獣人物戯画甲乙巻(院政期)[注釈 2]
書道
小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。
工芸
刀剣
日本刀の様式(鎬造・彎刀)の確立期である。
三条宗近(三日月宗近)
小烏丸(天国)
備前国友成
童子切安綱(安綱)
蒔絵
奈良時代に日本で考案された蒔絵の技法が大きく発展した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96
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2024/06/02 (Sun) 06:59:28
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日本 のマンガはフランスでは芸術作品とされている
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16855438
日本の映画・アニメ・ドラマ
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16831971
アメリカでもアメリカ漫画・アニメより日本漫画・アニメの方が人気が有る理由
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14105354
水木 しげる みずき しげる(大阪市住吉区 1922年3月8日 - 2015年11月30日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16835180
手塚 治虫 てづか おさむ(大阪府 豊中市 1928年11月3日 - 1989年2月9日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832771
楳図 かずお うめず かずお(和歌山県 伊都郡高野町 1936年9月3日 - )
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832769
楳図 かずお(1936年9月3日 - )
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/194.html
楳図かずおさん死去、 フランス大使館が「悲しみ」
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16877349
テレビドラマ 楳図かずお「漂流教室」 2002年
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14036735
楳図かずお の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/628.html
楳図かずお作品集(動画)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/629.html
井口昇 まだらの少女 (松竹 2005年) _ 楳図かずお を映画化すると何故全然怖くなくなるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/277.html
つげ 義春 つげ よしはる(東京都葛飾区 1937年10月30日 - )
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832766
花輪 和一 はなわ かずいち(埼玉県 大里郡寄居町 1947年4月17日 - )
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832768
近藤 ようこ こんどう ようこ(新潟市 1957年5月11日 - )
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832784
高畑 勲 たかはた いさお(三重県 伊勢市 1935年10月29日 - 2018年4月5日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832782
野坂昭如 『火垂るの墓』・戦争アニメ
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スタジオジブリ 『火垂るの墓』 1988年 東宝
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宮崎 駿 みやざき はやお(東京都 1941年1月5日 - )
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高畑勲・宮崎駿『太陽の王子 ホルスの大冒険』(東映 1968年)
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高畑勲・宮崎駿『アルプスの少女ハイジ』 (フジテレビ 1974年)
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宮崎駿『未来少年コナン』(NHK 1978年)
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宮崎駿『ルパン三世 カリオストロの城』(東宝 1979年)
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宮崎駿『シュナの旅』(NHK-FM 1983年)
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宮崎駿『風の谷のナウシカ 』(東映 1984年)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14050057
宮崎駿『天空の城ラピュタ』(スタジオジブリ 1986年)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16889047
宮崎駿『となりのトトロ』(スタジオジブリ 1988年)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14050058
宮崎駿『魔女の宅急便』(スタジオジブリ 1989年)
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宮崎駿『紅の豚』(スタジオジブリ 1992年)
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宮崎駿『On Your Mark』(スタジオジブリ 1995年)
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近藤喜文・宮崎駿『耳をすませば』(スタジオジブリ 1995年)
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宮崎駿『もののけ姫』(スタジオジブリ 1997年)
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宮崎駿『千と千尋の神隠し』(スタジオジブリ 2001年)
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宮崎駿『ハウルの動く城』(スタジオジブリ 2004年)
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宮崎駿『崖の上のポニョ』(スタジオジブリ 2008年)
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宮崎駿『風立ちぬ』(スタジオジブリ 2013年)
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壺齋散人 映画を語る
https://blog2.hix05.com/archives.html
ルパン三世カリオストロの城:宮崎駿
風の谷のナウシカ:宮崎駿
天空の城ラピュタ:宮崎駿
となりのトトロ:宮崎駿
もののけ姫:宮崎駿
千と千尋の神隠し:宮崎駿
ハウルの動く城:宮崎駿
崖の上のポニョ:宮崎駿
宮崎駿 「君たちはどう生きるか 」 アカデミー賞受賞の理由
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新海 誠 しんかい まこと(長野県 南佐久郡小海町 1973年2月9日 - )
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アニメ 日本昔ばなし・日本史・世界童話・太平洋戦史録
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人力でGO 「アニメ」のブログ記事一覧
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欧米はマンガや音楽2次利用自由、日本は厳罰
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11:777
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2024/08/27 (Tue) 22:38:29
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青木繁【ヤバすぎる奇行の謎】重要文化財「海の幸」の秘話
山田五郎 オトナの教養講座 2022/12/17
https://www.youtube.com/watch?v=AzrjLMf2pgs&t=0s
28歳で急逝した青木繁
松本清張も調べていた!
恋人・福田たねとの謎の逃避行と生涯に迫ります
【早逝の天才】青木繁の逃避と破滅 原因は○○!?【画家として駆け抜けた生涯】
山田五郎 オトナの教養講座 2022/12/20
https://www.youtube.com/watch?v=5fv35IheX8E
今回は
青木繁後編!
前回は青木繁の生涯と奇行をご紹介しましたが、
今回はなぜそんなことをしたのか?
五郎さんが様々な目線でご紹介!
変な行動を取っていたのは、実はある理由があったんです!
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12:777
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2024/09/07 (Sat) 08:37:46
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【国宝】実は謎だらけ!?「鳥獣人物戯画」を解説【明恵上人】
山田五郎 オトナの教養講座 2021/04/09
https://www.youtube.com/watch?v=IhxuYabc2ts
皆さん、鳥獣戯画のウサギやカエルって
可愛い〜と思いませんか?
相撲したり水遊びをしたり…
しかし実は、とても謎が多い国宝だったのです…
五郎さんと一緒に真相に迫りましょう
【訂正】
動画中で紹介した明恵上人像は、
耳を切ったお姿の像でした
(よく見ると右耳の上の方が切れています。
横から見るとよくわかるので、ぜひ展覧会で
ご覧になってみてください!)
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2025/07/30 (Wed) 05:08:58
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aああ