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ポール・セザンヌ(南フランス エクス=アン=プロヴァンス 1839年1月19日 - 1906年10月23日)

1:777 :

2023/12/23 (Sat) 10:59:06

世界の名画・彫刻
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西洋美術史を流れで学ぶ(第17回)~アカデミーとサロン編~
https://irohani.art/study/6691/

西洋美術史を流れで学ぶ(18回) ~新古典主義編~
https://irohani.art/study/6753/

西洋美術史を流れで学ぶ(20回) ~バルビゾン派編~
https://irohani.art/study/6885/

西洋美術史を流れで学ぶ(第21回)~印象派編~
https://irohani.art/study/7039/

西洋美術史を流れで学ぶ(第22回)~新印象派・後期印象派編~
https://irohani.art/study/7160/

西洋美術史を流れで学ぶ(第24回)~キュビスム編~
https://irohani.art/study/7444/

ZERO ART / ゼロアート - YouTube
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ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8C


セザンヌ - YouTube
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【入門/10分集中】セザンヌ りんごや水浴図で偉大な探求!ピカソへ思考を受け継いだ「先駆者」の画家をゼロから10分で解説(アート 美術 画家 絵画)
ZERO ART / ゼロアート
https://www.youtube.com/watch?v=ucLIn2a_Gr0


ポール・セザンヌの絵を部屋に飾ろう
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/399.html

2:777 :

2023/12/27 (Wed) 19:52:44

ポール・セザンヌとは|400年の美術の歴史を変えた作品を、生涯を振り返りながら解説|ジュウ・ショ(アートライター・カルチャーライター)
https://note.com/jusho/n/n1fa8cc9f057c?magazine_key=m5d87b7817204
3:777 :

2024/01/02 (Tue) 12:04:53

後期印象派のなかでも「ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ」は御三家といわれます。

なかでもぶっちぎりの主要人物は「近代絵画の父」といわれる、ポール・セザンヌです。


印象派の絵を「永久のもの」にしようとしたポール・セザンヌ

ポール・セザンヌ『リンゴと静物』


セザンヌはもともと印象派の画家でした。ただ彼は「風景や人の一瞬を切り取る写実的表現ではダメだ」と考えたんですね。どういうことかをざっくり紹介しましょう。

印象派は「見たまんまの姿を極力そのまま描こうぜ」って考えていました。例えば「リンゴ」を書くときに、光の当たり方や、光による色合いの変化をできるだけ忠実に再現したんですね。

つまりそのリンゴは「〇月〇日〇時〇分〇秒に〇〇県〇〇市〇番地〇-〇」で描かれた対象物なわけです。超具体的なもので、その一瞬しか存在しない光景を絵にしていました。

いっぽうで、セザンヌは「その一瞬だけじゃなくて『永続的で普遍的なもの』として対象を描きたいんだよなぁ」と思っていたんです。「〇時〇分〇秒のリンゴ」じゃなくて「これぞリンゴ!」っていうのを描きたかった。

だから具体的に描かれた対象を究極までデフォルメ、抽象化していきます。例えば彼は「木の幹は円柱、オレンジ・リンゴは球で構成されている」と分析しています。 対象物を細かく分解して、頭のなかでシンプルな形に置き換えて再構築していくわけですね。


ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』


すると絵も単純化されていきます。例えば「絵の遠近感がない」や「赤を強調してリンゴを描く」などがセザンヌの絵画の特徴です。すると「1つの絵のなかで多角的な視点の対象物」があらわれてくる。上の「リンゴとオレンジ」では中央、右、左で別々の視点から描かれているのが分かると思います。

これは当時めちゃめちゃセンセーショナルだったわけです。というのもルネサンスの時期に建築家のブルネレスキやダ・ヴィンチが遠近法を発明してから、400年くらい「見た光景を遠近法を駆使しながらちゃんと写実的に描く」というのは常識だったんですね。セザンヌの作品は、そんな「当たり前」をぶっ壊したわけだ。


セザンヌの影響を受けたゴーギャン、ゴッホなどのアーティストたち

ポール・ゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』


そんなセザンヌの作品は斬新すぎて、そりゃもう気持ちいいくらい評価されません。当時の人からしたら「ただのパースが崩れたド下手な絵」なんです。ただ、キャリア後期になって、ポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホといった、前衛的な画家が彼を支持し始めます。

セザンヌは絵が売れないうえに妻子がいたので、かなり長く極貧生活を続けていて、一時期は絵の具の代金として自分の絵を渡していました。ゴッホの絵で有名な通称・タンギー爺さんのお店です。


フィンセント・ファン・ゴッホ『タンギー爺さん』


ゴーギャンやゴッホはそんなタンギー爺さんの店で、セザンヌの絵を買うくらいファンだったんですね。結果的にセザンヌの絵の代金をゴーギャンやゴッホが支払うみたいな……ものすごく奇妙な売買をしていました。

繰り返しますが、3人とも画風や表現したかったことは違います。ただ「遠近感のない作品が多い」「対象をデフォルメして描くことが多い」など、共通点も多いです。そんな背景にはセザンヌの革命があったんですね。
https://irohani.art/study/7160/
4:777 :

2024/01/02 (Tue) 16:13:26

今回は20世紀前半の西洋美術史を語るうえで外せない「キュビスム」についてご紹介。みんな大好きパブロ・ピカソの、あの画風はなぜ誕生したのか? 背景にどんな考えがあるのかを楽しくみていきましょう。
https://irohani.art/study/7444/

そもそも「キュビスムってなんなのよ」って話からはじめます。キュビスムは英語でいうと「キュービズム」です。もっというとキューブイズム、つまり「立方体イズム」です。日本では「立体主義」と訳されますが、正確にいうと「立方体主義」です。1900年代初頭にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが始めました。

私たちは何かを描くとき、基本的には自分の目でみた一方向からの視点だけで描くはずです。例えば「モナ・リザ」は、こんな感じで真正面の視点オンリーで描かれています。誰もモナ・リザの後ろ姿は知らないです。


レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』


キュビスムはいったん対象をいろんな視点からみて「解体」することから始めます。目の前にモナ・リザ(ラ・ジョコンダ)さんがいたとしたら、彼女を360度の全方位から見るんですね。「正面から観た目」「左から観た鼻」「斜め右からみた口」などの情報を吸収します。

で、その各要素を1つの画面に詰め込んじゃうわけです。いわゆる「ピカソの絵」の顔面があべこべなのは、こうした背景があります。


パブロ・ピカソ『ゲルニカ』(※壁画レプリカ)Allendesalazar Street


こんな思考で描かれた作品をジョルジュ・ブラックが1908年に個展で披露した際に、画家のマティスさんは「なにこれ斬新なんだけど! 幾何学とか立方体の集合で絵が描かれてるやん」と驚いた。だから「キュビスム」である。誤解してほしくないのは、キュビスムは必ずしも「立方体」じゃないということです。


幾何学的な表現の裏にある、セザンヌの構造主義

また。キュビスムのもう1つの特徴が、モチーフがむっちゃ幾何学的に描かれていることだ。遠近法とかまるで存在しない。人の顔なんて、もうマンガくらいざっくりしている。

私は小学生のころ、ピカソの絵を観て「え、なんこれ、下っ手ぁ~。このおじさんマジで才能ねぇ~」と率直に思ったが、いやいやもちろんピカソはキュビスムに行きつくまでにものすごく写実主義な絵を通ってきている。当時の私を「下手なわけないだろう~。世界でイチバン多くの絵を描いた画家だぞ~」って、よしよししながら諭してあげたい。

では、何がピカソやブラックを、こんなざっくりした表現に導いたのか。その背景には「ポール・セザンヌ」という近代絵画の父がいました。キュビスムは完全にセザンヌの影響を受けて描かれたんですね。

ここからは「セザンヌの何がピカソをキュビスムに導いたのか」について紹介します。

セザンヌは中学生くらいから絵を始めた人で、クラスメイトに小説「居酒屋」で有名なエミール・ゾラがいた。今でいうとサブカルマンガの話題で毎日盛り上がる中学生的な感じで、そのまま絵画スクールに入ります。

でも王立大学に落ちて、私立に入るんですね。そこで出会うのが印象派の面々です。以前の記事でもご紹介しましたが、当時は国が運営する展覧会・サロンが「絶対」の時代です。サロンでウケなきゃ飯食えないっていう時代でした。で、サロンが好む絵画作品はルネサンス期から長く続く「遠近法しっかり計算して……正確なデッサンをして……」っていう表現だったんですね。
でも印象派の面々は「そんなんおもんないやろ」と、反旗を翻すわけです。ただセザンヌは比較的、サロン寄りの絵を描くタイプだった。ただ、ぶっちゃけ初期のセザンヌは表現以前に、シンプルにあんまり絵が上手くなかったんですね。

それもあって、最初にサロンに出品した際に王立美大の学生たちから「なんだよその絵は(笑)。一回デッサン学び直したほうがいいんじゃね(笑)」と腹立つ感じで小馬鹿にされます。これはセザンヌにとって、一回絵をやめて地元に戻るくらいの大ショックでした。この人ほんとプライドがデカいんです。

1年後にまた私立のスクールに戻ってきて絵を再開するころには、セザンヌはもう殺し屋みたいな顔つきで「あのとき馬鹿にしたサロン大好き学生ども、見てろよこの野郎」って感じなんですね。で、ここからは印象派のスタイルに染まっていくわけです。

印象派のスタイルってのは「その瞬間の光景を描く」ということでした。筆触分割をすることで、自然のあるがままの色彩を大事にしたり、光の動きを再現したりしていたんです。で、印象派はサロンに対抗して「印象派展」を自主開催し、批評家からボロクソに言われながらもだんだんと知名度を高めていきます。

セザンヌも印象派展にちょいちょい出品するんですけど、これがほとんど評価されない。そんな生活がものすごく長く続きます。彼は40歳くらいまで親からの仕送りで生活していたくらいです。しかもなぜか妻子持ちだったからすんごい貧乏でした。

そんな40歳くらいからセザンヌは印象派の手法に疑問を持つんですね。「その瞬間の『光』ばっかり描いて、肝心の木々とか葉っぱの本質を描けていないんじゃないか」と思うわけです。

例えば印象派が描いていた「木」ってのは「1850年8月13日15時37分54秒にパリ市バルビゾン村5番地で観たケヤキの木」なんです。でもセザンヌは「超一般的で超永続的なケヤキの木」を描きたかったんですね。いつなんどき、誰が見ても分かる「ケヤキの木」です。その姿こそ「モチーフの本質だ」と思いました。

彼は「(印象派の代表的画家である)モネの目はハンパなくすげぇ。でもそれは『一つの目』でしかない」と言っています。つまり裏を返すと「世界中の全員の目で観て共感できるモチーフを描くべきだ」と考えていました。

そんな思考において、セザンヌは何をしたか。そのモチーフ自体を分かりやすく表現するために、複雑な構図をシンプルに、抽象的にしていくわけです。

・遠近感をなくした。
・リンゴは赤く、ミカンはオレンジに! と極端な色使いをした。
・リンゴやミカンは球体、木は円柱、山は円錐と捉えた
・1つのモチーフを解読するために多角的な視点から捉えた

こんな具合にモチーフを抽象化していくんですよね。これがセザンヌのやった革命です。西洋美術史はルネサンス以降、500年くらいずーっと「遠近感を大事にして、1つの視点から描く」ってのが暗黙のルールでした。しかしセザンヌは鮮やかにこのルールを破ってみせたんですね。
セザンヌの考えを深めた「キュビスム」に
そんなセザンヌは本当に長く認められないんですけど、おじいちゃんになって「新しい表現をやりてぇ」っていう、エネルギッシュな若い画家から尊敬されるようになります。そして亡くなったあとも回顧展が開催されました。その回顧展にきていたのがパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックなんです。

彼らはセザンヌの表現をもとにして、同じように「遠近感をなくす」「モチーフを幾何学的にざっくり描く」「モチーフを解剖する」という実験をしました。これがキュビスムになっていったわけです。つまりキュビスムはただ「新しかった」というだけでなく、描く「対象物の本質を観ようとする」といった考えがあるわけです。
アビニヨンの娘たちから始まるキュビスム
そんな「キュビスム」の出発点ともなった作品がパブロ・ピカソの「アビニヨンの娘たち」でした。スペインのバルセロナのバイシュン婦5人を描いた作品で、当時「下品や下品!」とプチスキャンダルを巻き起こしました。

作品では顔も体も多角的な視点から描かれており、身体はやけにカクカクしています。女性の柔らかさではなく、もうなんかデフォルメし過ぎて「木材」みたいな感覚で描いている。明らかに異常で、当時は周りの画家も「おいおいピカソ、気が狂ったんちゃうか……」と心配したレベルでした。

しかしそんな批判に負けず、ピカソとジョルジュ・ブラックは以下のようにキュビスムを突き詰めていきます。


セザンヌ的キュビスム

1907年の「アビニヨンの娘たち」から始まった時代です。このころは風景画を多角的な視点でとらえる実験をしていました。セザンヌの影響をもろに受けていた時代ですね。


分析的キュビスム
1909年あたりからは風景画は書いておらず、特に人物画や静物画をよくキュビスム風に描くようになっています。このころには「対象を解剖すること」を突き詰めすぎて、ぱっと見「マジで何を描いているのかよく分からない作品」もめっちゃあります。

もう、タイトルを見て、なんとなく何を描いたのかが分かってくるっていうレベルです。対象を取り巻く360度全方向から見た光景を1つのキャンパスに落とし込んでいたんですね。


総合的キュビスム
この時代は絵でなく新聞の切り抜きや写真を貼り付ける、いわゆる「コラージュ」を始めています。ピカソはコラージュ表現を1920年代に入っても続けていました。次回以降で紹介するダダイズム・シュルレアリスムに通ずる表現となっています。

キュビスムはアフリカ美術からの影響も受けている
今回は20世紀初頭にムーヴメントを起こしたキュビスムについて紹介しました。ピカソとブラックの表現の裏には確実にセザンヌがいたんですね。ただし、どちらかというとブラックのほうがセザンヌからガッツリ影響を受けた画家です。

ピカソの表現の背景には「アフリカ美術」もあります。よく「アビニヨンの娘たち」はアフリカ美術のお面と似ているといわれる通り、「大きな目」をはじめとしてピカソの代名詞の多くはアフリカ美術から得ているものです。

彼は「プリミティブな彫刻は絶対に超えられない」と口にしたことがあります。プリミティブとは日本語にすると「原始的」という意味になります。原始人ってほとんど動物で、本能の赴くままに獣を喰らい、洞窟で眠る、みたいなイメージありますよね。あんな感じでアフリカ美術の持つ「何の影響も受けておらず、本能のままに作られた美術作品」のエネルギーにピカソは惹かれたわけです。プリミティブだからこそ、奇妙奇天烈で斬新な発想の作品ができ上がるんですね。

それくらいピカソは「新しいもの好き」なんです。 まだ観たことない表現をどんどん取り入れた人でした。「ピカソ=キュビスム」というイメージはありますが、実は彼がキュビスムをガッツリやっていた期間は数年です。どっちかというとブラックのほうがキュビスムに傾倒していました。
https://irohani.art/study/7444/
5:777 :

2024/01/12 (Fri) 06:40:31

ああq
6:777 :

2024/05/13 (Mon) 09:53:53

フランス映画「セザンヌと過ごした時間」 ゾラとセザンヌの奇妙な友情
続壺齋閑話 (2024年5月13日 08:30)
https://blog2.hix05.com/2024/05/post-7810.html#more

france.cezanne.jpg

2016年のフランス映画「セザンヌと過ごした時間(Cézanne et moi)」は、エミール・ゾラとポール・セザンヌの奇妙な友情を描いた作品。奇妙というのは、ゾラの視点からのことで、セザンヌはゾラに対して普通に振舞っていると思っている。ところがゾラにはそう思えない、という意味だ。

というわけで、歴史上に足跡を残したこの二人の友情を、主にゾラの視点から描いたものだ。二人は南仏の町エクス・レ・バンで共に育った幼馴染だ。ゾラはイタリア人の移民で、学校ではいじめられていた。それを一つ年上のセザンヌがかばってやった。セザンヌは絵が好きで画家になりたい夢をもっていた。一方ゾラはフランス社会に溶け込み、フランス社会のことを小説で書きたいと思っていた。

成長した二人はそれぞれの道を歩む。ゾラは若くして成功し、当代一流の作家として社会的に認められる。一方セザンヌはなかなか評価してもらえない。いつまでもうだつのあがらぬセザンヌが、ゾラに向かって複雑な感情を抱き、それを行動にもあらわす。その行動は攻撃的なもので、それにゾラはうんざりさせられながらも、年が老いるまで付き合い続けるといった内容である。

ゾラは、作家として成功しただけでなく、ドレフュス事件へのかかわりとか、社会的な分野でも名声を博す。一方セザンヌは、画家として評価されないばかりか、人間としても一人前には見てもらえない。ゾラはセザンヌより先に死ぬのだが、その時点でもセザンヌはまだうだつがあがらなかった。かれの作品が世の中に受け入れられるのは、死ぬ間際だったのである。

だからこの映画の中での二人の関係は、成功したゾラとうだつの上がらないセザンヌという非対照的な関係である。子供の頃は、セザンヌがゾラを保護する立場だったが、大人になってからは、セザンヌはゾラの前に頭が上がらないのである。その分、かれはゾラに対して乱暴に振舞う。この映画の中のセザンヌには、ほとんどいいところがない。

小生はセザンヌを近代美術史上もっとも偉大な画家と思っている。それについては、メルロ=ポンティのセザンヌ論に影響されたということもあるが、しかし絵画のイメージを決定的に変えたのがセザンヌであることは違いなく、現代絵画はセザンヌから始まると言ってよい。そのセザンヌの画家としての偉大さが、この映画からは全く伝わってこない。そこがこの映画の欠点だろう。こんな映画を見せられれば、セザンヌについてとんでもない思い込みを刷り込まれるばかりだ。
https://blog2.hix05.com/2024/05/post-7810.html#more
7:777 :

2024/05/13 (Mon) 09:59:53

メルロ=ポンティのセザンヌ論:「意味と無意味」
続壺齋閑話 (2023年4月23日 08:22)
https://blog2.hix05.com/2023/04/post-7111.html

メルロ=ポンティは「知覚の現象学」の中でたびたびセザンヌに言及した。それは、知覚とはゲシュタルト的なものであり、したがってすでにそれ自体意味を帯びたものだという彼の考えが、セザンヌにおいて好例を見出すというふうに思ったからだと思う。そのセザンヌについてメルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」(「意味と無意味」所収)という論文を書き、主題的に論じている。

この論文の主旨は二つある。一つは、セザンヌの創作態度の特徴について、それをメルロ=ポンティの知覚理論と関連付けながら、整然と述べること。もう一つは、セザンヌの生き方について述べ、そこにセザンヌなりの自由を見ることである。

まず、セザンヌの創作態度。セザンヌは印象派の影響下から出発したのだが、やがてそれから離れていった。その理由は、印象派が「現実を、想像と、それにともなう抽象で置きかえている」(粟津則雄訳)ことに我慢がならなかったからだ。セザンヌは対象を、それが自分の目に見える通りに描くことにこだわった。印象派は対象を写真で見えるように描くのであるが、実際の知覚は写真とは異なっている。実際の知覚では「近くのものはより小さく見え、遠くのものはより大きく見える」。色についても、「灰色の紙の上にピンクを置けば、バックは、緑色を帯びる」。ところが印象派を含めて伝統的な絵は、バックを灰色に塗る。セザンヌは、そうしたやり方が、対象を知的に再構成させるという点で、二次的で間接的なやり方だと思い、もっと根源的で直接的な物の見え方を画面に表現したいと考えた。

それだからセザンヌの絵は、写真とは全く異なった印象を与える。同じ画面に複数の視点があることは珍しくない。静物画がその典型であるが、同じ画面に横から見たありようと、上から見たありようが混在している。これは常識には反したもので、したがってデフォルマションと言われるが、人間の実際の知覚とはそうしたものなのだとセザンヌは割り切るのである。

そんなわけだから、セザンヌは輪郭線にこだわらない。ほとんどの画家は、キャンバスの上に対象の輪郭線をひき、それにもとづいて色をおいていくが、セザンヌはそうしたことをしない。かれはいきなり彩色する。「彩色するにしたがって、デッサンも進む。色彩が調和すればするほど、デッサンは明確になる・・・色彩が豊かになれば、形態も充実する」。セザンヌがそうするわけは、「世界とは、隙間のないマッスであり、色彩の有機的組織であって、色彩を通して、遠近法の消尽線や、輪郭線や、直線や、曲線などが、力線として位置づけられ、空間の枠が、顫動しながら形成される」と考えるからだ。

セザンヌの生き方について。メルロ=ポンティは、セザンヌには分裂症の気質があると指摘している。それが画面にもあらわれている。だがメルロ=ポンティは、セザンヌの分裂症と彼の作品との間にストレートな対応を見ることには消極的である。かれがメルロ=ポンティの分裂症にこだわるのは、それがどの程度に、セザンヌの自由を脅かしたか、という点をめぐってである。深刻な病にとらわれた人に、完ぺきな意味での自由はない、というのが普通の見方だろう。だからセザンヌが深刻な分裂病を病んでいたとしたら、かれの自由は強い制約を受けていたということになりそうである。

メルロ=ポンティの見立ては、セザンヌは自分の分裂病と自由とをうまく調和させていたというものだ。そのことを表明するについて、レオナルド・ダ・ヴィンチを引き合いに出す。ダ・ヴィンチの母親は「大柄で不幸せな」女であったが、その母親と二人きりで幼年時代を暮らしたダ・ヴィンチは母親に強い愛着を抱いた。後に父親によって母親から引き離されたことで、かれの母親への愛着は決定的なものになった。以後かれは、母親との間にきずかれた強い絆をばねとして、その絆がもたらすべき生への渇望を、世界の探求と認識に用いることに専念した。かれがあらゆる分野に渉猟し、しかもそのどれにも執着しなかったのは、かれを駆り立てていたものが、野心ではなく生への渇望だったからである。

そうしたダ・ヴィンチの性格分析を、メルロ=ポンティはセザンヌにも適用し、ダ・ヴィンチにおける母親への愛着を、セザンヌにおいては、分裂病に見ているわけである。ダ・ヴィンチが母親への強い愛着にかかわらず、それに束縛されることなく、かれなりに自由な創作を実現できたと同じく、セザンヌも分裂病をかかえながらも、それに束縛されることなく、かれなりに自由な創作を実現できた。そうしたメルロ=ポンティの見方には、自由と必然とについてのかれなりの考えが働いているのでるが、それについては、ここでは触れない。

幼年時代の体験が性格形成に及ぼす影響については、メルロ=ポンティはフロイトの精神分析に一定の意義を認めている。フロイトのようにすべてを****に結び付けて考えるのは行き過ぎだとしても、幼年期の強烈な体験が個人の性格形成に決定的な影響を与えることはありそうな話だとみている。セザンヌの場合にも、幼年期における母親や妹との暮らしがかれの生き方の原点となっているようである。かれは晩年故郷のエクスに引きこもり、そこで制作活動に専念することができた。幼年期のような幸福な環境に身を置き、自分自身の分裂病と親しみあいながら生きたというわけである。
https://blog2.hix05.com/2023/04/post-7111.html
8:777 :

2024/05/13 (Mon) 10:05:43

壺齋散人の 美術批評

ポール・セザンヌ:静物画の鑑賞と解説
https://art.hix05.com/Cezanne/cezanne.index.html

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906 )は、印象派の影響下に画家としてのキャリアを始めたが、やがて独自の画風を開拓して、ポスト印象派と呼ばれるようになった。だが、その斬新でかつ計算しつくされたような知的な画風は、特定の流派ということを超えて、普遍的な感性を表現しており、そのことで後の画家に巨大な影響を及ぼした。現代美術はセザンヌ抜きでは語れないほど、その影響は甚深である。そんなことから現代美術の先駆者(あるいは近代美術の父)とも言われる。

ポール・セザンヌは、人物や風景をはじめ多才なジャンルの作品を描いたが、もっとも得意としたのは静物画であった。かれは生涯に200点以上の静物画を描いたのである。こんなに多くの静物画を描いた画家は、他にいないのではないか。そんなにセザンヌが静物画にこだわった理由は何だろうか。

ポール・セザンヌは画家にしては珍しい理論家で、絵について一定の考えをもっていて、絵を描くことはその考えを実践することだ、というような側面があった。静物画は、そうしたセザンヌなりの考え方を実践する格好の領域であったようだ。

セザンヌが絵を描く上でこだわったのは、対象の再構成とか、色彩の配置ということだった。構図の点では伝統的な遠近法によるのではく、複数の視線が交叉するダイナミックな再構成をめざした。たとえば、正面から見た形と上から見下ろした形を一つの画面に共存させるといったやりかたである。これは後にピカソやブラックのキュビズムにつながるものだ。

セザンヌは色彩の点でも伝統を超えて、独特の調和の世界を現出しようとした。対象自体の色彩にこだわるのではなく、自由に色彩を創造しそれを組み合わせた。そうした色彩感覚は、後期印象派やマティスに引きつがれた。要するに絵の世界に新たな息吹を持ち込もうとした先駆者としての面を、セザンヌは持っていた、といえよう。

静物画についていえば、ポール・セザンヌが静物画を本格的に描き出すのは1870年代の後半以降のことである。最初は伝統的な様式に従って静物画を描いていたが、1880年代の後半に彼独自の世界を確立し、1890年代の末に至って完成の域に達した、というのが通説になっている。セザンヌの静物画の最高傑作は、1899年の「カーテンと水差しのある静物」だが、これは同じモチーフの作品がいくつもあり、それらの間には発展・深化の形跡が認められる。

静物画は、対象を自由に組み合わせることができるので、構図や色彩の実験をおこなうのに適している。そのことを意識しながら、セザンヌは自由自在な画境を開発していったということだろう。

ここでは、そんなポール・セザンヌの静物画を年代ごとにみることで、静物画を典型にした彼の絵の特徴の変遷に留意しながら鑑賞し、適宜解説・批評を加えたいと思う。なお、上の絵はセザンヌの自画像である。セザンヌは自画像もけっこう多く手掛けている。


ビスケットの皿とコンポート(Compotier et assiette de biscuits):セザンヌの静物画

果物とワイングラスのある静物(Nature morte avec fruits et verre de vin)

リンゴとナプキン(Pommes et serviette)

コンポートのある静物(Nature morte avec compotier)

静物(Nature Morte)

サクランボと桃(Cerises et pêches)

調理台(La table de cuisine)

リンゴの籠(Panier des pommes)

生姜壺と砂糖入れと林檎(Nature morte)

砂糖入れ、梨、テーブルクロス(Sucrier, poires et tapis)

ペパーミントの瓶(Nature morte à la bouteille de peppermint)

キューピッドの石膏像のある静物(Nature morte avec l'Amour en plâtre)

玉ねぎのある静物(Nature morte aux oignons)

カーテンと水差しのある静物(Nature morte avec rideau et pichet fleuri)

リンゴとオレンジ(Pommes et oranges)

髑髏のある静物(Nature morte au crane)

花瓶のある静物(Nature morte au vase pique-fleurs)

トランプをする人々(Les joueurs de cartes)

9:777 :

2024/06/07 (Fri) 18:12:19

アシル・アンプレール セザンヌの肖像画
続壺齋閑話 (2024年6月 6日 08:14)
https://blog2.hix05.com/2024/06/post-7843.html

cezanne1868.achille.jpg

アシル・アンプレール(Achille Emperaire)の肖像画は、セザンヌの初期の代表作。セザンヌの初期の画風は、これといった特徴はないが、ロマン派風の暗い色調の作品が多い。この肖像画もそうした感じの作品だ。ただ、縦2メートルの巨大な画面に、ひとりの人物が異様な存在感を放っており、人物描写におけるセザンヌの非凡性を感じさせはする。

モデルのアシル・アンプレールは、セザンヌより10歳年上の画家で、1860年代初頭にパリで出会って以来、十年ほど仲良く付き合った。この絵は、1867年から1868年にかけて制作されており、二人が非常に仲のよかった時期である。

アシルは、生まれつき小人でしかも背虫だった。この絵はそうしたかれの身体的な特徴を、過度に強調しているように見える。もっとも本人のイメージは矮小さを感じさせず、むしろ厳かな雰囲気を漂わせている。アングルの「皇帝の玉座に座るナポレオン1世」を彷彿させると評するものもいる。

アシルは画家としては成功しなかった。セザンヌがこの肖像画を残さなかったら、忘れられた存在になったであろう。

(1868年 カンバスに油彩 201×121㎝ パリ、オルセー美術館)
https://blog2.hix05.com/2024/06/post-7843.html
10:777 :

2024/06/08 (Sat) 15:08:44

モデルヌ・オランピア セザンヌの印象派作品
続壺齋閑話 (2024年6月 8日 07:59)
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セザンヌにとっての印象派時代は、1872年から1879年ごろまでの短い期間にすぎない。1872年の夏に、普仏戦争を避けて疎開していたエスタックからパリに戻ると、郊外のポントワーズでピサロとキャンバスをならべて制作するようになる。また、モネやルノワールとも親交を結んだ。かれら印象派の画家たちから、
セザンヌは光の表現を学んだ。だが、印象派との蜜月は長くは続かなかった、1879年の第四回印象派展を最後に出展しなくなった。

「モデルヌ・オランピア(Une moderne Olympia)」と題されたこの絵は、印象派時代の代表作の一つ。マネの有名な作品「オランピア」を意識した作品である。マネのオランピアが世間を騒がしたのは1865年のことだったが、セザンヌはその二年後に「オランピア」のパロディを制作している。

1874年に描かれたこの「オランピア」にモデルヌという形容詞がついているのは、前作を意識してのことだろう。

印象派風の光の処理が顕著に見られる作品である。構図は、マネの原作をかなり変えている。一番大きな変更は、手前にオランピアに見入る男を入れていることだ。

(1874年 カンバスに油彩 46.2×55.5㎝ 個人像)
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11:777 :

2024/06/11 (Tue) 13:15:47

草上の昼食 セザンヌの印象派風絵画
続壺齋閑話 (2024年6月11日 08:19)
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「草上の朝食(Le Déjeuner sur l'herbe)」と題されたこの絵は、マネの有名な作品{草上の朝食}(1863)のパロディである。原作は巨大画面であるが、こちらは小品。二つのバージョンがある。どちらも同じ大きさ。こちらのほうが、より明るさを感じさせる。セザンヌは、マネのもう一つの有名な作品「オランピア」のパロディも制作しているので、マネにかなりこだわっていたのであろう。

構図はだいぶ違っている。マネの絵は、森の中に四人の男女が配置されているのだが、こちらには十人の男女がいるように見える。また遠景に教会を配置している。その教会を目立たせるために、森の一部が削除され、その部分に青空を描いている。

マネの描いた森は、おそらくパリの都市型森林だと思うが、セザンヌのこの森は、彼が過ごした故郷の森ではないかと推測されている。のちにセザンヌのトレードマークとなる荒々しいブラシワークがすでにうかがわれる。この時期セザンヌは、印象派の画風に追随するのではなく、自分自身の画風を追求していた。

(1877年 カンバスに油彩 21×27㎝ パリ、オランジュリー美術館)
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12:777 :

2024/06/13 (Thu) 14:15:18

ポントワーズのクルーヴルの水車小屋 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年6月13日 08:11)
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1880年以降、セザンヌは印象派の影響を脱して自分独自の画風を追求する。その画風はのちに構成主義と呼ばれるようになるものだ。対象を、そのままに再現するのではなく、一定の理念にもとづいて再構成する。それにふさわしい効果を出すために、ブラシワークとか色彩の配置も工夫した。そうした斬新な方法意識が、フォーヴィズムやキュビズムに多大な影響を及ぼす。それゆえセザンヌは、今日では、現代絵画の祖といわれている。

「ポントワーズのクルーヴルの水車小屋(Le moulin sur la Couleuvre à Pontoise)」と題されたこの絵は、彼の構成主義時代の一番早い時期の作品。印象派とは全く異なる。また、印象派以前のどの画風とも異なる独自の雰囲気を早くも感じさせる作品である。

ポントワーズは、イル・ド・フランス地域の県。クルーヴルはそのなかの一地方であろう。そこに立っている風車小屋を、この絵はモチーフにしている。

構図にはそんなに斬新なものはない。だが、遠近法を無視し、対象をいったん解体したうえでそれを組み合わせて再構成するというやり方は、非常に斬新なものだ。

(1881年 カンバスに油彩 73.5×91.5㎝ ベルリン国立美術館)
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13:777 :

2024/06/15 (Sat) 08:00:07

レスタック セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年6月15日 07:56)
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レスタックは、マルセーユの北西にある小さな港町。セザンヌの故郷エクス・アン・プロヴァンスから遠くない。かれはそこに普仏戦争の戦乱をさけて疎開したことがあった。ここは風景明媚なことで知られ、多くの画家がモチーフを求めて集まったという。セザンヌはこの港町を、1880年代半ばに何回か訪れ、レスタックの街や、レスタックから眺めたマルセーユの街を描いた。

レスタックと題されたこの作品は、かれが滞在していた家から眺め下ろしたレスタックの街の風景。レスタックの街は、海にむかって真北の方角にあるから。これは北側から南に向かって海を眺め下ろしていることになる。海はすなわち地中海である。地中海の喫水線がそのまま水平線になっている。

色彩配置やブラッシングに印象派からの完全な脱却を見てとることができる。セザンヌ特有の、ブラシを叩きつけるようにして絵の具を塗りたくるやりかたが、ここでも見て取れる。

(1885年 カンバスに油彩 65×81㎝ 個人像)
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14:777 :

2024/06/18 (Tue) 21:06:19

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レスタックから見たマルセーユ湾 セザンヌの風絵画
続壺齋閑話 (2024年6月18日 08:18)
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セザンヌは、故郷のエクス・アン・プロヴァンスに近いレスタックが気に入り、機会あるごとにその風景を描いている。この地の魅力については、1876年のピサロ宛の手紙に、海のブルーと建物のオレンジの対象が非常に強烈で、描く意欲が刺激されると書いている。

セザンヌがレスタックの風景をもっとも集中的に描いたのは、1885年前後だ。20点ばかり描いている。「レスタックから見たマルセーユ湾(Le Golfe de Marseille vu de L'Estaque)」と題するこの絵もその一つ。手前の街並みがレスタック。海を隔てた対岸がマルセーユの街並みだ。

マルセーユの街並みは、ぼんやりと描かれており、詳細ではない。ただ一つ目立つのは、画面やや左手の小高い丘の上に白く描かれている建物だ。これはノートル・ダム・ド・ラ・ガルド寺院といって、マルセーユのほぼ中心にあって、町全体を見下ろすことができる。

(1885年 カンバスに油彩 73×100.3㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
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15:777 :

2024/06/20 (Thu) 14:27:55

モン・サント・ヴィクトワールとアルク川渓谷の高架橋 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年6月20日 08:20)
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モン・サント・ヴィクトワールは、セザンヌの故郷エクス・アン・プロバンスにある山。この山をセザンヌは何度も描いている。数十点にのぼる。1880年代に多く描いた。この絵(La Montagne Sainte-Victoire et le viaduc de la vallée de l'Arc)はその一つ。サント・ヴィクトワール山と、その前を流れるアルク川、川に係る高架橋をモチーフにしている。

この高架橋は鉄道線路のためのもので、エクスとマルセーユを結んでいる。エクスの街が、画面左手に見える。サント・ヴィクトアール山はエクスの町の東側にある。だからこの絵は、町の西側から見た景色である。かなり遠い距離からの眺めであろう。

高い樹木を画面中央に配するのは大胆な構図である。ふつうは嫌われるところで、かりに現実にそこにあったとしても、別の形で表現されるものだ。セザンヌの風景画の代表作の一つである。

(1882-1885年 カンバスに油彩 65.5×81.7㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)
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16:777 :

2024/06/22 (Sat) 09:35:31

マルディ・グラ セザンヌの風俗画
続壺齋閑話 (2024年6月22日 08:31)
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マルディ・グラ(Mardi gras)と題されたこの絵は、副題に「ピエロとアルルカン」とあるように、コメーディア・デ・ラルテのキャラクターをモチーフにしたもの。マルディ・グラは謝肉祭に関連する行事で、「肥沃な火曜日」を意味する。その行事の一環として、コメーディア・デ・ラルテのキャラクターが動員された。いまでいえば、さしずめディズニーランドのミッキーマウスのようなものであろう。

左手の白い衣装がピエロ、右手の市松模様がアルルカン。衣装はキャラクターの一部として決まっていた。アルルカンは、アクロバティックな演技をし、ピエロは言葉で人を笑わす。この絵からも、そうしたキャラクターの雰囲気が伝わってくる。

ロシア人シチューキンのコレクションだったものが、10月革命時にボリシェビキに接収され、国立美術館に移管された。

(1888-1890 カンバスに油彩 102×81㎝ モスクワ、プーシキン美術館)
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17:777 :

2024/06/25 (Tue) 09:54:57

赤いドレスのセザンヌ夫人 オルタンス・フィケ
続壺齋閑話 (2024年6月25日 08:13)
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セザンヌがオルタンス・フィケと同棲を始めたのは1870年代半ばのことだが、正式に結婚したのは1886年のことだった。自分の死期の近いことをさとった父親が、孫のことを思って息子たちの結婚を許す気になったのだった。息子たちの結婚の直後、父親は死に、多額の遺産を残した。そのためセザンヌは経済的な基盤が強まった。

セザンヌは、オルタンスの肖像を数多く描いている。26点の作品が現存している。セザンヌは自画像も多く描いており、人物画を得意としていた。「赤いドレスのセザンヌ夫人(Madame Cézanne dans une robe rouge)と題したこの絵は、かれらの結婚生活のもっとも充実していた時期のもの。同じような構図の絵がほかにもいくつかある。

オルタンスは、赤いドレスに身を包み、黄色い椅子に腰かけている。椅子は壁際に置かれていて、壁の上部は青く塗られ、下部との間には深紅の帯がある。その帯が斜めになっており、見物客に緊張を強いる働きをしている。左手上部にあるものは、額縁のようにも見えるし、鏡のようにもみえる。おそらく鏡だろう。額縁なら壁に固定されているはずだが、これはそのようには見えない。

人物の描き方といい、小物の配置の仕方といい、リアリズムとは全く異なった、自由な構想を感じさせる作品である。

(1888-1890 カンバスに油彩 116.5×89.5㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)

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2024/06/27 (Thu) 09:24:37

赤いヴェストの少年 セザンヌの肖像画
続壺齋閑話 (2024年6月27日 08:13)
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セザンヌはあるイタリア人少年をモデルにした絵を四点描いた。1888年頃のことだ。そのうち最も有名なのが「赤いヴェストの少年(Le Garçon au gilet rouge)」と題されたこの絵だ。他の三点も、赤いヴェストを着た少年を描いているが、ポーズはそれぞれ違う。それらはみなアメリカの博物館にある。

この絵の中の少年は、床几のようなものに腰掛け、テーブルの上に肘をのせてなにやら瞑想している。その雰囲気がなんともいえない。そこがこの絵を、セザンヌの肖像画を代表する存在にした所以だろう。セザンヌの肖像画の代表たるのみならず、油彩の肖像画のもっともすぐれた作品の一つに数えられる。

伝統的な画法からまったく離れた、セザンヌ特有の画法を感じさせる。遠近法をほとんど無視し、また明暗で立体感を表現しようともしていない。影らしきものはあるが、それは立体感の演出とは無縁である。あくまでも二次元の平面として構成されている。その二次元の平面のなかで、テーブルもカーテンも実際の形態とは別な形に再構成されている。

(1888-1890 カンバスに油彩 80×64.5㎝ チューリッヒ、ビューリー財団)
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19:777 :

2024/06/29 (Sat) 11:10:27

プロヴァンスの家 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年6月29日 08:13)
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「プロヴァンスの家(Maison devant la Sainte-Victoire près de Gardanne」と称されるこの絵は、後期のセザンヌの画風がもっとも典型的な形であらわれた作品。荒々しいブラシワーク、色彩の強烈な印象、遠近法にこだわらぬ構図など、かれの後期の画風を特徴づける要素が強く見られる。

モチーフの家は、(フランス語のタイトルにあるように)サント・ヴィクトワールの南側にたつ孤立した民家で、ガルダンヌの町の近くにあるという。画面にはしかし、サント・ヴィクトワールもガルダンヌの町も見られない。背後の灰色の山は、別の山であろう。

家の右側の壁に光が当たっているから、画面右手が南の方角と思われる。だから、サント・ヴィクトワールは、その方向の先にあるのだろう。なお、この家は、画商のアンブロワーズ・ヴォラールが所有していたことがある。そのヴォラールの肖像画をセザンヌは1899年に描いている。

(1890年頃 カンバスに油彩 65×81㎝ インディアナポリス美術館)
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2024/07/02 (Tue) 14:47:52

サン・ヴィクトワール山 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年7月 2日 08:16)
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セザンヌは、サン・ヴィクトワール山をモチーフにした絵を80点も描いた。秀作といえるものは、1880年代半ばから1900年代半ばまでのほぼ十年間の間に描かれた。1890年の作品(上の絵)は、南側からの眺めを描いたもので、セザンヌの一番好んでいた構図である。日があたって山が明るく見えるからであろう。

画面中央に見える孤立した建物は、「プロヴァンスの家」のモチーフになった家である。この家は、山の南側、ガルダンヌの町のはずれにあるという。また、画面右手の高架橋は、アルク川渓谷にかかる鉄道橋で、セザンヌは以前の作品で、この高架橋を大きく描いている。

山だけを描いたのでは変化に乏しいので、手前に樹木を配してアクセントにしている。イギリスやフランドルの風景画家が好んで採用した手法である。

(1890年 カンバスに油彩 65.0×95.2㎝ パリ、オルセー美術館)
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2024/07/04 (Thu) 10:48:04

カード遊びをする人々 セザンヌの人物画
続壺齋閑話 (2024年7月 4日 08:12)
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セザンヌは、「カード遊びをする人々」と総称される一連の絵を制作した。制作時期は厳密にはわからないが、1890年から1892年の間と推測される。全部で五つあり、そのうちの三点は二人の男がカードをいじる図柄であることから、同じ作品の三つのバージョンとされることもある。この五つのなかで、最も大きな画面は五人の男が描かれているもので、おそらくこれがオリジナルの作品であり、ほかの四点はこの作品をもとにして制作されたものと考えられる。

三人の男たちがテーブルを囲んで半円形に座りカードをいじっている。背後にはパイプをくわえて立っている男と、少年がいる。少年は目を伏せているので、ゲームには関心がないように見えるが、パイプの男は自分もゲームに加わりたそうである。

構図に工夫が見られる。三人の男たちが画面の下部に偏っているので、そのままでは視線が下部に集中しすぎる。そこで立っている男を加えることで、視線を万遍なく散らすという工夫だ・

色彩感は地味な印象だが、衣服や帽子などに変化を持たせてある。その衣服からして、これらの人々は農民だと推測される。

(1890-1892年 カンバスに油彩 134.6×180.3㎝ フィラデルフィア、バーンズ財団)
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22:777 :

2024/07/06 (Sat) 11:30:44

カード遊びをする人々その二 セザンヌの人物画
続壺齋閑話 (2024年7月 6日 08:13)
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セザンヌの「カード遊びをする人々」のシリーズのうち、これは第二のバージョンと呼ばれているもの。第一のバージョンでは五人の人物を配していたが、これはそのうち少年をのぞいて四人の男が描かれている。四人の男たちは、前作よりも狭い範囲に配されている。また、カードをいじる三人の男たちが、画面の中心付近に配されているので、構図的には安定感が増している。

前作と比較するといくつか相違点がある。壁にかかっていた額とか棚が省かれているし、テーブルの上もすっきりとしている。そのテーブルは幅が狭くなっていて、その分三人が近づいて見える。前作と同じなのは、右手のカーテンと、その左側の壁にかかっているパイプだ。

色彩的には、前作よりも地味になっており、青が主体の寒色でまとめられている。

(1890-1892 カンバスに油彩 65.4×81.9㎝ ニューヨーク、メトロポリタン美術館)

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2024/07/09 (Tue) 13:46:22

パイプをくわえた男 セザンヌの人物画
続壺齋閑話 (2024年7月 9日 08:18)
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「パイプをくわえた男(Homme à la pipe)」と題されたこの絵は、アレクサンドル親爺と呼ばれた庭師をモデルにしたもの。この庭師は、「カード遊びをする人々」シリーズで、いずれも左端に描かれた人物である。すべてを通じて、同じ帽子をかぶり同じパイプをくわえている。セザンヌはこの庭師と縁が深かったようだ。

この頃のセザンヌは、男女を問わず農民たちをモチーフにした絵を結構沢山描いている。セザンヌは、古い習慣を捨てることなく年をとった農村の人々が好きだと語っている。

この絵の中の庭師も、そうした朴訥さを感じさせる。謙虚な服装と誠実そうな表情から。かれの人柄が伝わってくる。色彩的には、ブラウンを基調とした温かい画面である。

(1892-1896 カンバスに油彩 73×98.4㎝ コートールド・コレクション)
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24:777 :

2024/07/11 (Thu) 13:48:46

メゾン・マリア セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年7月11日 08:13)
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セザンヌは田舎の一軒家を好んで描いた。自分の家を描かれた人の中には、家にも肖像権があるといって訴えるものもいたという。メゾン・マリアと呼ばれるこの家の所有主は、家の名称からしてマリアという人なのだろうが、詳しいことはわかっていない。また、その人がセザンヌを訴えたという事実もない。

家の所在は詳しくはわからないが、プロヴァンスのどこかに立っていたのであろう。セザンヌは以前、「絞首刑の男の家」という作品を描き、それを1889年のパリ万博に出品したことがあった。この絵は、それの焼き直しだとする説もある。

この絵のフランス語のタイトルは、「シャトー・ノワールの見えるメゾン・マリア(La Maison Maria avec une vue du Château Noir)」である。シャトー・ノワールとは、画面右側に見える建物のことで、シャトーと呼ばれるにふさわしいものとは思われない。

この絵は、セザンヌ独特のブラシワークを強く感じさせるもので、ブラックやピカソはじめキュビズムの画家に大きな影響を与えた。

(1895年 カンバスに油彩 65×81㎝ フォートワース、キンベル美術館)
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25:777 :

2024/07/13 (Sat) 12:20:07

アヌシー湖 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年7月13日 08:27)
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アヌシー湖は、フランス・アルプスのスイス国境に近い湖。ジュネーヴの南の遠からぬところにある。セザンヌは1896年に家族とともにここで休暇を過ごした。この絵「アヌシー湖(Lac d'Annecy)」は、休暇中に制作した唯一の作品である。かれは、故郷のプロヴァンスとは全く雰囲気の異なるアルプスの眺めに非常に感激し、その感激を画面に固着しようとして苦戦したという。

対象をそのまま再構成するのではなく、大胆に変形させている。構図的にも色彩的にも、人為的な工夫が見られる。構図は対岸の城を軸とし、手前の樹木や、右手の人家と対比させることで、遠近感を演出している。遠近感にこだわらないセザンヌとしては、この絵は例外的に遠近観を醸し出している。

色彩は寒色主体で、右手の家や手前の樹木が暖色系のアクセントとなっている。背後の山脈は、光と影を交互に重ねることで、微妙な物質感を醸し出している。セザンヌの作品のなかでは、異色の部類に入る。

(1896年 カンバスに油彩 65×81㎝ ロンドン、コートールド・コレクション)
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2024/07/16 (Tue) 10:14:51

アンブロワーズ・ヴォラールの肖像 セザンヌの肖像画
続壺齋閑話 (2024年7月16日 08:30)
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アンブロワーズ・ヴォラールは非常に有能な画商で、多くの画家と付き合いがあった。色々な画家に自分の肖像画を描かせた。ボナール、ルノワール、ピカソの描いたヴォラールの肖像画がよく知られている。セザンヌと古くから交流があったわけではなく、タンギーの店にかかっていたセザンヌの絵を見たヴォラールが、当時プロヴァンスに引っ込んでいたセザンヌを探し出し、多くの作品を買い求めた。それらの絵を、セザンヌの個展という形で世に出した。セザンヌはその個展がきっかけで広く知られるようになる。

この肖像画は、ヴォラールの求めに応じて描かれている。セザンヌはヴォラールを自分のアトリエにすわらせ、長時間ポーズをとらせた。ヴォラールが動こうとすると、モデルはリンゴと同じなのだから、リンゴが動かないように、モデルも動いてはならぬとセザンヌはいさめたという。

ヴォラールは窓辺に据えられた椅子に、足を組んだ姿勢でポーズをとっている。右手は膝の上で本をもち、左手はポケットに突っ込んでいる。目はうつむき加減で、物思いにふけっているようである。ちょっと見た目にはわからぬが、塗り残しの部分があったり、未完成を感じさせる。だがヴォラールはこの絵が気に入り、死ぬまで手元におき、死後にプチ・パレに寄贈した。

(1899年 カンバスに油彩 101×81㎝ パリ、プチ・パレ)

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2024/07/18 (Thu) 12:14:07

水浴する女たち セザンヌ
続壺齋閑話 (2024年7月18日 08:13)
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セザンヌは水浴する男女をモチーフにした絵を、1870年代以降数多く手掛けている。ティティアーノやルーベンスからインスピレーションを受けたという。かれの場合、ヌードそのものを描くのではなく、風景にとけあったヌードを描いた。ヌードのいる風景画あるいは、風景を背景にしたヌードといえるものだ。

この作品「水浴する女たち(Quatre baigneuses)」は1900年に制作したもの。四人の水浴する女というモチーフは、繰り返し描かれている。三人のもあるし、五人以上のものもある。

この絵の中の四人の女たちは、水浴を終えて水辺にあがり、体をふいているところ。一人が正面を向いて全身をあらわにし、ほかの三人は背中を見せている。背景はざっくりと描かれているが、緑の質感はある。

(1900年 カンバスに油彩 73×92㎝ コペンハーゲン、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク)
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2024/07/20 (Sat) 08:31:50

頭蓋骨のピラミッド セザンヌの静物画
続壺齋閑話 (2024年7月20日 08:16)
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晩年のセザンヌは頭蓋骨に関心を示し、頭蓋骨をモチーフにした多くの絵を描いた。かれの頭蓋骨への関心は、一つには死への向かい方に根差し、もう一つは静物画家としての資格において、頭蓋骨に果物やキューピッド像のような形態的な美を発見したからではないか。

セザンヌを支え続けてきた母親が1897年に死んだことで、セザンヌは自分自身の死も予感したらしい。セザンヌはほぼ世間とのかかわりから離れ、隠棲に近い生活をしていたので、余計に死を考えるようになった。とはいえ、死の予感がただちに頭蓋骨への関心に結びつくわけではない。頭蓋骨が静物画のモチーフになるには、画家がそれに独特の美を認めるプロセスが必要である。セザンヌはおそらくそうした美を頭蓋骨に見出し、それを静物画のモチーフにとりいれたのではないか。

四つの頭蓋骨がピラミッド状に重なっている。どの頭蓋骨も下あごを欠き、大きな眼窩が印象的である。背景はあいまいにぼかされているので、四つの頭蓋骨は支点を失い空中に浮いているように見える・

(1901年 カンバスに油彩 37×45.5㎝ 個人像)
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29:777 :

2024/07/23 (Tue) 17:04:21

森 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年7月23日 08:09)
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晩年のセザンヌは、家から少し離れた地点からサント・ヴィクトワール山を描く一方で、家の近くの森を好んで描いた。ずばり「森(Forest)」と題されたこの絵もその一つ。これは、シャトー・ノワールに向かう野道沿いの森を描いたものだ。シャトー・ノワールは、エクス・アン・プロヴァンスのセザンヌの家から遠くないところにあった。

森と空は、当然のことながらグリーンとブルーである。それだけだと寒色ばかりになるので、手前の岩や小道を明るいオレンジ系の暖色でバランスをとっている。

画面の中心に近い部分は比較的丁寧に描かれているが、周縁部はラフなブラシワークである。

(1902-1904 カンバスに油彩 81.9×66㎝ オタワ、カナダ国立美術館)
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30:777 :

2024/07/25 (Thu) 15:55:26

青い服を着た女性の肖像 セザンヌの肖像画
続壺齋閑話 (2024年7月25日 08:10)
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「青い服を着た女性の肖像(Portrait de dame en bleu)」と題されたこの絵は、セザンヌ晩年の肖像画のなかでも傑作といえる作品。モデルは、セザンヌが雇っていた家政婦ブレモン夫人であると推測されている。

人物を、感情をもった人間としてではなく、あたかも静物のように表現するというのがセザンヌの肖像画の特徴なのだが、この絵の中の女性は、感情を感じさせる。片腕をテーブルにあずけながら、それによって姿勢を整えようともせず、不安定な姿勢のまま、あらぬ方に視線を向けながら、なにやら思いに耽っているといった印象をあたえる。見るものはそこに、モデルの人間性を感じる。

色彩は地味な感じだが、寒色と暖色とのコントラストがきいて、かなり強烈な印象を与える。

(1900年頃 カンバスに油彩 88.5×72㎝ サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館)
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31:777 :

2024/07/27 (Sat) 14:13:17

サント・ヴィクトワール山 セザンヌの風景画
続壺齋閑話 (2024年7月27日 08:25)
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セザンヌの80点にものぼるサント・ヴィクトワール山の絵の中で、最晩年(1904)の傑作がこの作品(Montagne Sainte-Victoire)。シリーズの他の絵に比べて抽象度が高いのが特徴である。サント・ヴィクトワール山自体は明確な輪郭で描かれているが、手前の森林地帯はざっくりと表現されている。

前景に家らしいものが点在しているので、かれが好んだ南側からの眺めではない。彼の家に連続した西側からの眺めか。

セザンヌは死の年までこの山を描き続けた。死の年には、この絵と全く同じ構図の絵も描いている。できからいえば、この絵のほうが優れている。セザンヌ晩年の傑作といってよい。

(1904年 カンバスに油彩 70×92㎝ フィラデルフィア美術館)
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32:777 :

2024/07/30 (Tue) 15:02:16

水浴者たち セザンヌの人物画
続壺齋閑話 (2024年7月30日 08:20)
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水浴する人々をモチーフにした絵を、セザンヌは1870年代の半ばから描くようになり、最晩年まで切れ目なく手がけた。その数はかなりなものだ。最晩年のセザンヌの業績をかざる作品にも、水浴者をモチーフにしたものがある。この作品(Les Baigneurs)は、1894年にとりかかり、1905年に完成した。実に十年以上を費やしている。

水浴者たちといっても、水を浴びている姿ではなく、水辺で休んでいる男女を描いている。その数は十一人。みなそれぞれ思い思いのポーズをとっている。樹木も人間も輪郭があいまいで、対象をそのまま再現していない。セザンヌが自分なりに解釈した形になっている。

画面上部の寒色主体の色合いと、下部の人間の肌や土の色の暖色主体の色合いとが、ちょうどよいコントラストを作り上げている。

(1894-1905年 カンバスに油彩 127×196㎝ ロンドン、ナショナル・ギャラリー)
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33:777 :

2024/08/01 (Thu) 14:57:34

大水浴者たち セザンヌの人物画
続壺齋閑話 (2024年8月 1日 08:08)
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フランス語で「大水浴者たち(Les Grandes Baigneuses)」と呼ばれるこの絵は、水浴者たちをモチーフとする一連の作品の頂点をなすもので、セザンヌの最高傑作の一つとされる。ほかの「水浴者たち」と区別するために「大水浴者」と呼ばれるわけだが、それについては、この絵のサイズがけた違いに大きいこともはたらいている。

構図は、1905年に完成した「水浴者たち」(前回取り上げたもの)とほぼ同じである。ただし、人数が11人から15人に増え、画面の中景に水たまりが描かれている。この水たまりがあるために、水浴のイメージが強まるのである。

セザンヌが死んだ時点で、この絵はまだ完成してはいなかった。セザンヌ自身が未完成だと思っていたのだが、どの部分が未完成の要素なのか、明確に指摘できる者はいないだろう。小生などは、完成度の高い作品だと思う。

(1898-1905 カンバスに油彩 210.5×250.8㎝ フィラデルフィア美術館)
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