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フランシスコ・デ・ゴヤ(スペイン北東部サラゴサ近郊 1746年3月30日 - 1828年4月16日)

1:777 :

2023/12/22 (Fri) 22:40:47

世界の名画・彫刻
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フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes, 1746年3月30日 - 1828年4月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%A4


ゴヤ - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B4%E3%83%A4


【ゴヤの名画と優しい泥棒】感想と「ナショナル・ギャラリー」「ゴヤ」「ウェリントン公爵」を解説!
ZERO ART / ゼロアート
https://www.youtube.com/watch?v=buIGUQ1pY5Y


ゴヤの絵とブラームス ドイツ・レクイエム
https://www.youtube.com/watch?v=vNLDj0fO1Vc

ゴヤの絵を部屋に飾ろう
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/873.html
2:777 :

2024/01/12 (Fri) 06:34:47

壺齋散人の美術批評
ゴヤ 西洋美術史上最高の芸術家
https://art.hix05.com/Goya/goya.index.html

フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco José de Goya 1746-1828)は、スペインが生んだもっとも偉大な画家であるばかりか、西洋美術史上最高の芸術家の一人である。ゴヤが活躍した時代は西洋美術の歴史上はバロックに続く時代であり、フランスなどではロココ美術が盛んだったが、ゴヤはどんな流派にも属さず、ユニークな活動をしていた。それゆえ孤高な画家と言ってもよいが、その孤高さは、西洋美術の世界にひときわ高く君臨する巨匠という風格のものである。


ゴヤは比較的若くして(40歳の時)国王付きの画家となり、王室をとりまく貴顕紳士たちと付き合ったりしたので、宮廷画家といわれることもある。宮廷画家と言えば、王族や貴族たちの肖像を描くことが主な仕事であるが、ゴヤはそうした仕事にとどまらず、自分自身の楽しみのためにも絵を制作した。ゴヤの仕事は、宮廷画家として王族や貴族たちの肖像画を描いたものと、自分自身のために世の中の風俗を批判的な目で描いた作品とに区分けすることができる。傑作と呼ばれる作品は、後者に属するものが多い。有名な「マハ」の二点は、時の宰相ゴドイの依頼を受けたもので、その意味では、宮廷画家としての作品ともいえるが、モチーフそのものは、当時のスペインの風俗の一部をなしていた伊達女に取材しており、その意味では、自分自身の楽しみを盛り込んだものであった。

ゴヤはもともと自由主義的な考えをもっており、そのことで、ナポレオンのスペイン統治にはたいした抵抗をしなかった。むしろ、ナポレオンがスペインの古い因習を破壊することに拍手喝采したくらいである。そんなこともあり、スペインに王政が復活したときには、事実上フランスへの亡命を迫られたほどである。

1792年、ゴヤは46歳にして聴覚を失うという試練に見舞われた。その時を境にして、ゴヤの画風はかなり変わった。それ以前は、文字通り宮廷画家として、王族や貴顕紳士の肖像画を伝統的な様式で描いていたのだったが、これ以降は、同時代のスペインの民衆の風俗を批判的な目で描くようになった。ゴヤの批判意識がもっとも明確に現れているのは、「民衆の気晴らし」をはじめとする版画であるが、油彩画の分野においても、「鰯の埋葬」以下スペインの風俗を批判した作品を描くようになる。かれのそうした批判意識の仕上げが、「黒い絵」のシリーズである。

ゴヤはもともと自由主義的だったといったが、ナポレオン統治下には、日和見的な態度をとった。やはりスペイン人の愛国心を逆なでするような真似はできないと思ったからだ。しかし、ナポレオンによるスペイン王政をたたえるような作品「マドリード市のアレゴリ」を描いたりした。一方で、ナポレオンが敗北した後は、ナポレオンに抵抗するスペイン民衆をモチーフにした作品「1808年5月3日など」を描いてもいる。

スペイン王政が復活すると、ゴヤは居心地の悪さを感じたであろう。「マハ」の絵に関して宗教裁判所への出頭を命じられてもいる。そんなわけで、晩年はなるべく目立たないようにふるまい、もっぱら自宅の壁のために「黒い絵」の制作に没頭した。そして1824年、78歳のときに、事実上フランスへ亡命した。それ以後ボルドーに住み、82歳にしてその地で没した。

ここではそんなゴヤの画業を紹介しながら、適宜解説・批評を加えたい。なお、版画作品と「黒い絵」のシリーズについては、別途項目を設けて紹介する。


フロリダブランカ伯爵の肖像 ゴヤの肖像画

マヌエル・オソーリオ・マンリケ・デ・スニガ ゴヤの肖像画

サン・イシードロの牧場:ゴヤの風景画

竹馬 ゴヤの装飾画(タペストリー下絵)

狂人のいる庭 ゴヤの風俗画

魔女の夜宴 ゴヤの怪異画

魔女の飛翔 ゴヤの怪異画

アルバ公爵夫人:ゴヤの肖像画

カルロス四世とその家族 ゴヤの肖像画

裸のマハ ゴヤの裸体画

着衣のマハ ゴヤの肖像画

バルコニーのマハたち ゴヤの群像画

マハとセレスティーナ ゴヤの風俗画

イサベル・デ・ポルセール ゴヤの肖像画

ゴヤ「マドリード市の寓意」 歴史に翻弄された絵

巨人 ゴヤの寓意画

鰯の埋葬 ゴヤの風俗画

むち打ち苦行者の行進 ゴヤの風刺画

異端審問 ゴヤの風刺画

狂人の家 ゴヤの風刺画

1808年5月2日 ゴヤの戦争画

1808年5月3日 ゴヤの戦争画

アリエータ医師に看護されるゴヤ

闘牛 ゴヤの風俗画

ボルドーの乳売り娘 ゴヤの肖像画



https://art.hix05.com/Goya/goya.index.html
3:777 :

2024/01/30 (Tue) 23:59:11

壺齋散人の美術批評
ゴヤの黒い絵:全作品の鑑賞と解説
https://art.hix05.com/Goya-1/goya.index.html

フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes 1746年3月30日-1828年4月16日)は、72歳を過ぎた高齢で(1819年)、マドリード近郊にあった通称「聾の家」という建物を買った。所有者が聾唖者であったことからこう名付けられた家に、自身も耳の不自由だったゴヤが何かの因縁を感じて買ったのだろうと推測されている。ゴヤはこの家の、一階食堂と二階サロンの壁に、十四点の壁画を描いた。今日「黒い絵」と称されている連作である。ゴヤの今日における名声は、この連作と一連の版画に負うところが大きい。もしもゴヤが、版画やこの黒い絵を残さなかったら、平凡な宮廷画家としてとどまっただろうと思われる。
ゴヤの生前の名声は、宮廷の王族や貴族たちを描いた肖像画によっていたのであるが、それのみでは、ゴヤは決して美術市場の巨人としての名声を確立することはできなかっただろう。といっても、版画や「黒い絵」は、ゴヤの生前には全く評価されることはなかった。版画のうちの「ロス・カプリチョス」を始めて正当に評価したのは詩人のシャルル・ボードレールだったが、それはゴヤの死後かなりたってからのことだったし、黒い絵のシリーズに至っては、20世紀になって初めて評価された次第だ。ということは、ゴヤのこれらの絵が、彼の生きていた時代を超越していたということだろう。

ゴヤは、聾の家を購入した翌年(1820年)からほぼ4年かけて、「黒い絵」の連作を描いた。まず、二階のサロンから始めた。したがって、二階の絵には相互にあまり関連性が認められないのに対して、一階食堂のほうは、絵相互に響きあうような関連性が認められると考えられている。これらの壁画は、壁に漆喰を塗り、その上に油絵の具を用いて描くという方法をとっていた。絵の配置は次の通りである。

一階食堂:手前の壁左側  レオカディア
     手前の壁右側   二人の老人
     正面の壁左側   我が子を食らうサトゥルヌス
     正面の壁右側   ユーディット
     左側面の壁    魔女の夜宴
     右側面の壁    聖イシードロへの巡礼
二階サロン手前の壁左側  スープを飲む老人
     左側面の壁手前  運命
     左側面の壁奥   決闘
     正面の壁左側   書類を読む男たち
     正面の壁右側   二人の女と一人の男
     右側面の壁奥   異端審問所の行進
     右側面の壁手前  アスモデウス
     手前の壁右側   犬

ゴヤは、この連作ともども聾の家を孫のマリア―ノに譲ったが、マリア―ノは破産して、この家を手放さざるを得なかった。そして所有者を転々とした後、1873年に、フランスの銀行家デルランジュがこの家を買い取った。デルランジュの目的は、この家の周辺に開発計画があることを見込んだ投機的な思惑にあったが、彼はたまたま芸術愛好家でもあった。そこで、この家を売る前に、これらの壁画を保存しようと思い、当時有名な修復家クベールスに依頼して、壁面から剥してキャンバスに移させた。その際に、大幅な手が入り、原作に重大な変化が生じたものもあると推測されている。

デルランジュはこれらの作品を、1878年のパリ万博に出展したが、それを評価する者は誰もいなかった。そこでがっかりしたデルランジュは、これらの絵を1881年にスペイン政府に寄付した。スペイン政府は、これらの絵をプラド美術館に収めたが、それらが揃って美術館内に展示されるようになったのは20世紀に入ってからのことである。ここではそんなゴヤの「黒い絵」について、全作品の画像を鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。


レウカディア:ゴヤの黒い絵

二人の老人:ゴヤの黒い絵

我が子を食らうサトゥルヌス:ゴヤの黒い絵

ユーディットとホロフェルネス:ゴヤの黒い絵

魔女の夜宴:ゴヤの黒い絵

聖イシードロへの巡礼:ゴヤの黒い絵

スープを飲む老人:ゴヤの黒い絵

運命:ゴヤの黒い絵

決闘:ゴヤの黒い絵

書類を読む男たち:ゴヤの黒い絵

二人の女と一人の男:ゴヤの黒い絵

異端審問所の行進:ゴヤの黒い絵

アスモデウス:ゴヤの黒い絵

犬:ゴヤの黒い絵


https://art.hix05.com/Goya-1/goya.index.html
4:777 :

2024/02/01 (Thu) 21:15:43

壺齋散人の美術批評
ゴヤの版画:主要作品の鑑賞と解説
https://art.hix05.com/Goya-2/goya-print.index.html

ゴヤは生涯に四種類の版画集を制作した。「気まぐれ( Los Caprichos )」、「戦争の惨禍( Los Desastres de la Guerra )」、「闘牛技( Tauromaquia )」、「妄( Los Disparates )」である。このうち、生前に刊行されたのは「気まぐれ」と「闘牛技」だけであり、刊行数も少なかった。のみならず、「気まぐれ」については、内容の過激さから、権力によって弾圧される可能性を考えて、ゴヤ自身が流通を遠慮していたフシがある。ゴヤは晩年に、「気まぐれ」の原版を、王室に寄贈し、王室の権威を借りて、その抹消を逃れようと図ったくらいである。「戦争の惨禍」と「妄」は、これらを相続していた息子ハビエルの死後にやっと刊行された。


要するにゴヤの版画は、闘牛ファンであったゴヤが、趣味も兼ねて作った版画集である「闘牛技」を除いては、大手を振って現れたわけではない。その理由は、これらの版画集が、ゴヤの同時代のスペインを強烈に批判しているということにあった。ゴヤは、政治的には自由主義者であり、王党派とは一線を隠していた。それにもかかわらず、困難な時代を何とか生き抜くことができたのは、王室の宮廷画家としての名声のおかげであった。宮廷画家としてのゴヤは、王家や貴族の肖像画を描くことに徹していたわけであり、その方面では高い評判を得ていた。だから、あまり派手な動きを見せないかぎり、画家としての安全は保たれたのである。

こんなわけで、ゴヤの生前に公然と流通できた版画集は「闘牛技」だけだったと言ってよい。だから、ゴヤは版画作家としてはほとんど知られていなかった。画家としても、陳腐な宮廷画家としてしか評価されていなかった。もし、「版画集」や「黒い絵」と称される一連の絵が埋もれてしまっていたら、ゴヤは世界の絵画史上に偉大な名を残すことはなかっただろう。それほど、ゴヤにとって、「版画集」の意義は重い。

ゴヤの版画に注目し、その意義を世界に向かって発信したのは、「悪の華」の詩人シャルル・ボードレールである。ボードレールが1858年に発表した小論「外国の風刺画家」たちによって、ゴヤはフランスのドーミエと並んで、もっとも偉大な版画作家として知られるようになったのである。

ボードレールが批評の対象にしているのは「気まぐれ」だけのようであるが、それだけでもゴヤが偉大な版画作家だという評価に揺るぎはなかった。この版画集は、ボードレールが取り上げる前にすでにフランスで知られていたらしく、テオフィル・ゴーティエが批評していたことは、ボードレール自身の筆から知ることができる。ゴーティエは、ゴヤの版画が、エッチングとアクァチントの組み合わせからなるという技術面のユニークさに注目したのであるが、ボードレールは、その内容の独特さに注目した。その独特さとは、同時代に対する辛辣な批評精神にあると、ボードレールは見立てたのであった。

もっとも、ボードレールの記述にはかなり不正確なところがあるので(たとえば「気まぐれ」第59図の説明とか、闘牛を描いた作品の説明など)、不確かな記憶に頼っていることを伺わせるが、ゴヤの版画が持つ強烈な批判精神は的確にとらえている。

四つの版画集の制作年代とその大まかな特徴は以下の通りである。

「気まぐれ( Los Caprichos )」:1799年の1月に、オスーナ公爵に4セットの完成版を売却していることから、その直前に完成したと思われるが、その大部分は1797年頃には出来上がっていたらしい。ゴヤが、これらの版画を作り始めたのは、1793年の大病(ゴヤはこの病気のために聴力を完全に失った)の直後からのようだ。聴力を失ったゴヤは、異常に神経過敏になったらしく、そうした精神状態が世界の見方にも影響し、辛辣な批判精神を養った可能性がある。この版画はまさに、ゴヤの批判精神が発露されたものなのである。

ゴヤは、この版画集に現れた批判精神が王党派を刺激することを恐れていたようだ。晩年の手紙の中で、1803年頃にこの版画の原版を王立銅板印刷所に寄贈したが、その目的は、王の権威を借りることで、異端審問所の告発を逃れることだったと書いている。もっとも、その目論見は効を奏せず、ゴヤは結局異端審問所の告発をうけるのであるが。

「戦争の惨禍( Los Desastres de la Guerra )」:題名からわかるとおり、これは戦争の惨禍をテーマにしたものである。ここで言う戦争とは、1808年に始まる対ナポレオン戦争や1810年に始まるメキシコ独立戦争が主なものである。19世紀初頭のスペインは戦争に明けくれていたといってもよく、それに民主派と王党派との間の抗争が加わって、民衆は塗炭の苦しみを舐めていた。この版画集は、そうした民衆の苦しみが主なテーマだ。そんなこともあって、この版画集は、ゴヤの生前には発表されなかったのである。

「闘牛技( Tauromaquia )」:対ナポレオン戦争が終わった1814年から16年にかけて制作され、1816年に刊行された。ゴヤは闘牛のファンで、闘牛場には足しげく通ったと言われる。この版画集は、闘牛見物の折々に目にした光景を視覚的に再現したのであろう。趣味を絵にしたということもあり、のびのびとした雰囲気が伝わって来る。

「妄( Los Disparates )」:製作年代は、「黒い絵」とほぼ同じ1819年から23年だとされる。黒い絵が、公開を予定しなかったと同様、この版画集も始めから公開を予定していなかったらしい。題名も、ゴヤが与えたものではなく、死後刊行されるにあたって編集者が便宜的につけたものである。ここではそんなゴヤの主要な版画作品をとりあげ、画像を鑑賞の上適宜解説・批評を加えたい、


気まぐれ

・仮面の娘たち:ゴヤの版画

・女の略奪:ゴヤの版画

・愛と死:ゴヤの版画

・貪欲な聖職者たち:ゴヤの版画

・遣手婆:ゴヤの版画

・むしられる鳥たち:ゴヤの版画

・異端審問:ゴヤの版画

・怠惰と貪欲:ゴヤの版画

・牢獄:ゴヤの版画

・ロバの学習:ゴヤの版画

・非理性としての怪物:ゴヤの版画

・妖怪:ゴヤの版画

・空疎な権威:ゴヤの版画

・生への執着:ゴヤの版画

・魔女たち:ゴヤの版画

・変身:ゴヤの版画

・妖術の修行:ゴヤの版画

・束縛:ゴヤの版画


戦争の惨禍

・1808年5月 対仏戦争の始まり:ゴヤの版画

・勇敢な女性たち:ゴヤの版画

・抵抗もむなしく:ゴヤの版画

・敗者を略奪:ゴヤの版画

・処刑:ゴヤの版画

・見せしめ:ゴヤの版画

・とばっちり:ゴヤの版画

・墓地へ:ゴヤの版画

・旧体制の復活:ゴヤの版画

・スペインの未来:ゴヤの版画


闘牛技( La Tauromaquia )

・モーロ人と闘牛:ゴヤの版画

・闘牛する英雄たち:ゴヤの版画

・無謀な技:ゴヤの版画

・華麗な技:ゴヤの版画

・闘牛士の死:ゴヤの版画


妄( Los Disparates )

・女と滑稽:ゴヤの版画「妄」

・大阿呆:ゴヤの版画「妄」

・結婚:ゴヤの版画「妄」

・飛翔:ゴヤの版画「妄」

https://art.hix05.com/Goya-2/goya-print.index.html
5:777 :

2024/02/01 (Thu) 21:18:26

魔女の夜宴 ゴヤの怪異画
続壺齋閑話 (2024年1月30日 08:58)
https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7639.html

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「魔女の夜宴(Aquelarre)」と題されたこの絵は、オスーナ公の別荘を飾る怪異画6点のうちの一つである。モチーフは、バスク地方の魔女伝説に取材している。バスク地方には、魔女が子供をさらって、それを悪魔に生贄として捧げるという言い伝えがあって、たびたび異端裁判の対象となった。一番有名な魔女裁判は、スカラムルディの魔女を対象としたものだが、ゴヤがこの絵を描いたのは、その裁判が起こされる以前のことである。

画面中央に、大きな角をはやした雌牛がいる。その周りを魔女たちが取りかこみ、それぞれ手にもった子供を雌牛にさしだしている。子供たちはみな痩せこけており、過酷な扱いを受けてきたことをほのめかしている。また、左端の魔女は、串刺しにした子供たちの遺体を背負っている。

夜空には月がかかっているが、満月ではない。にもかかわらず、地上は月の光を浴びて昼間のように明るい。それが不気味なコントラストを感じさせる。

依頼者のオスーナ公がなぜ、こんなグロテスクなイメージを喜んだのか、それはわからない。

(1794~95 カンヴァスに油彩 43×30㎝ マドリード、ラサロ・ガルディアーノ美術館)





魔女の飛翔 ゴヤの怪異画
続壺齋閑話 (2024年2月 1日 08:17)
https://blog2.hix05.com/2024/02/post-7643.html

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「魔女の飛翔(Vuelo de Brujas)」と題するこの作品は、「魔女の夜宴」と同じく、オスナ公爵の依頼を受けて制作した六点の怪異画のうちの一つ。マドリード郊外の公爵の別荘ラ・アラメダに飾られた。モチーフは、飛翔する魔女たちである。

画面中央には、三角帽をかぶった三人の魔女が、裸の男を抱えて空中を飛翔する様子が描かれている。この三角帽子は、懺悔のコロサといって、異端審問と深いかかわりがあることから、この絵は、異端審問をイメージさせる。しかし、魔女が異端審問をするというのは、いささか奇異な念を催させる。

魔女たちの下には、ガウンで顔を覆う女と、地面に倒れ伏して顔を隠す男が描かれている。かれらは、この不吉な出来事を見たくないのであろう。また、画面右下にはロバが見える。なぜここにロバがいるのか、よくはわからない。

暗い背景と魔女たちの明るく照らされた姿が劇的なコントラストを醸し出している。これは、バロックの影響であろう。

(1798年 カンバスに油彩 43.5×30.5㎝ マドリード、プラド美術館)
https://blog2.hix05.com/2024/02/post-7643.html




狂人のいる庭 ゴヤの風俗画
続壺齋閑話 (2024年1月27日 08:31)
https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7634.html

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ゴヤは、1792年に重病を患い、聴覚を失ってしまった。かれにとってはショッキングな出来事で、深刻な鬱状態に見舞われたようだ。絵画制作の注文を受ける余裕もなくなったほどである。そんな折に、自分自身への慰めのために小品をいくつか描いている。「狂人のいる庭( Corral de locos)」と題する作品はその一つである。

モチーフは、少年時代に住んでいたサラゴーサでの体験に基づく。おそらく精神病院を訪ねたことがあったのだろう。その施設の中庭に、あきらかに狂人とわかる男女たちが、群れ集っている。中には****のものもいる。これだけ鮮明に覚えているということは、かれにとってはかなり強烈な体験だったと思われる。

一見してわかるとおり、非常に暗い画面である。それまでのゴヤは、暗い背景のなかからモチーフを浮かび上がらせるように描いていたが、この絵は、画面全体が暗い。人物も暗く描かれている。

この絵には、後にゴヤが版画の中で展開する社会批判の精神が現れているとする見方もある。

(1794年 ブリキ板に油彩 43.8×32.7㎝ ダラス、メドウズ博物館)
https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7634.html
6:777 :

2024/02/01 (Thu) 21:22:32

竹馬 ゴヤの装飾画(タペストリー下絵)
続壺齋閑話 (2024年1月25日 08:54)
https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7629.html

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1788年にカルロス三世が没し、カルロス四世がスペイン国王に即位する。ゴヤはその翌年(1789)に、カルロス四世付の宮廷画家に任命され、引き続き宮廷画家としての職務に励むことになる。その頃のゴヤの美術面での主要な仕事は、王の離宮の装飾にかかわるものだった。すでにカルロス三世のために、パルド離宮のタペストリー下絵シリーズの制作に取り組んでいたが、つづいてカルロス四世の離宮サン・ロレンソ・エル・エスコリアル宮殿のタペストリー制作に従事した。「竹馬(Los zancos)」と題するこの作品は、シリーズ最後を飾るものである。

モチーフは、タイトルにあるとおり竹馬に乗った男たち。画面には、竹馬をあやつる二人の男が描かれている。この竹馬はかなり不安定らしく、それぞれバランスをとる男が従っている。竹馬の向かう先の建物のバルコニーからは、若い女が身を乗り出しており、竹馬に関心を示している。その若い女を、竹馬に乗った男たちは、見ないふりをしている。

竹馬を囲んで、大勢の人々が集まっている。はしゃぎまわる子供や、演者の表情を見上げる大人たち。かれらはたまたま通りがかったというよりは、見物のためにわざわざ集まってきてように見える。とするとこの竹馬は、大道芸人の仕業なのであろう。竹馬の背後からマントを着た男たちがついていくが、この男たちは楽器を演奏しているようにも見える。

当時の庶民生活に取材した風俗画であろう。

(1791-1792年 カンヴァスに油彩 268×320㎝ マドリード、プラド美術館) 

https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7629.html
7:777 :

2024/02/01 (Thu) 21:23:20

サン・イシードロの牧場:ゴヤの風景画
続壺齋閑話 (2024年1月23日 11:12)
https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7625.html

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「サン・イシードロの牧場( La pradera de San Isidro)」と題されたこの作品は、パルド宮殿を飾るタペストリーのための下絵として制作された。パルド宮殿は、時の国王カルロス三世の離宮である。ゴヤは、1786年にカルロス三世の国王付き画家に任命され、その仕事の一環としてパルド宮殿のタピストリー制作にかかわった。ゴヤはその下絵をいくつか描いており、この作品はその一つである。


サン・イシードロの牧場とは、サン・イシードロの祭りが催されている牧場という意味。サン・イシードロはマドリードの守護神で、毎年5月15日がその祭日にあたっている。その日、マドリード市民は、貴賤をとわず、マンサナーレス川沿いの牧場に集まって野遊を楽しんだ。この絵は、その野遊の様子を描いたものである。

画面中央にマンサナーレス川が流れるさまを描き、その向こう側にはマドリードの市街が、手前側には、牧場に集う人々が描かれている。前景には着飾った貴族たちの男女が、華やかな雰囲気に描かれ、中景には、おびただしい数の庶民が描かれている。

壮大な眺めをモチーフにしているわりには、小さな画面に収めているので、タピストリーとして成功するかどうかあやういところを感じさせる。この絵が、タピストリーとして完成することはなかった。

https://blog2.hix05.com/2024/01/post-7625.html
8:777 :

2024/02/04 (Sun) 16:29:00

アルバ公爵夫人:ゴヤの肖像画
続壺齋閑話 (2024年2月 3日 08:24)
https://blog2.hix05.com/2024/02/post-7648.html

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アルバ公爵夫人は、美貌で知られていたという。1796年に夫のホセが死んだので、彼女はアンダルシアの別荘で一年間喪に服した。その折にゴヤは夫人に随行し、彼女の肖像画を何点か制作した。夫人の希望によるものである。この作品は、その一部。

この時、夫人は35歳で、まだ美しい盛りだった。黒い服に身を包んでいるが、これは喪に服しているからである。右手で地面の一点を指さしている。その先にはSOLO GOYAという文字があるという(画面からはよくわからない)。また二本の指にはめられた指輪には、それぞれゴヤ、アルバという文字が彫られているという。

夫人は、喪服に身を包んでいるとはいえ、粋な雰囲気を漂わせている。スペインでは、粋な女性をマハと呼ぶそうである。この肖像画の中のアルバ夫人は、マハの一つの典型だと言われている。

(1797年 カンバスに油彩 210×148㎝ ニューヨーク、ヒスパニック・ソサエティ)
https://blog2.hix05.com/2024/02/post-7648.html
9:777 :

2024/02/11 (Sun) 02:28:12

着衣のマハ ゴヤの肖像画
続壺齋閑話 (2024年2月10日 08:17)
https://blog2.hix05.com/2024/02/post-7662.html

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「着衣のマハ(La maja vestida)」と題するこの絵は、「裸のマハ」と一緒にプラド美術館に展示されている。この二つは、もともとゴヤの時代の宰相ゴドイのコレクションであったものだ。「裸体」のほうが先に制作され、「着衣」のほうが後で制作されたようである。ゴドイは、「裸体」のカモフラージュ用に、着衣のマハの制作をゴヤに依頼したと信じられている。

ゴドイは、この二つの「マハ」を秘密にしていたので、ゴヤの生存中に公開されることはなかった。存在が公になるのは、ゴドイの死後フェルナンド七世がかれの資産を没収したときである。その際に、「裸体」のほうがカトリック教会の弾圧を招いた。

モデルの顔やポーズなど、ほぼ総てにわたって、「裸体」と同じ図柄である。裸体のマハに衣装をまとわせたと思わせる。

(1800年頃 カンバスに油彩 97×190㎝ マドリード、プラザ美術館)
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10:777 :

2024/02/12 (Mon) 06:42:54

カルロス四世とその家族 ゴヤの肖像画
続壺齋閑話 (2024年2月 6日 08:19)
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ゴヤがカルロス四世によって宮廷画家に任命されるのは1789年のことだが、有名な「カルロス四世とその家族」を制作するのは1800年のことである。版画集「カプリーチョス」を1799年に出版している。この家族の集団肖像画の制作には、王妃マリア・ルイーサの意向が強く働いているとされる。

巨大画面の中央をしめるのは国王カルロス四世ではなく、王妃マリア・ルイーサである。王妃は夫を尻に敷くばかりか、ゴドイという愛人を作るほどの女傑だった。ゴドイが宰相になれたのは王妃のおかげだった。そのマリア・ルイーザは美しいとはいえなかった。だからゴヤは、多少戸惑ったと思う。ありのままに描けば醜女になってしまうし、といって理想化すれば本物から逸脱してしまう。そこでゴヤは、顔つきを曖昧に描く一方、マリア・ルイーサが自慢にしていた腕の美しさを強調することでバランスをとった。

肝心の王は右に寄せられ、その分威光がそがれている。体格も王妃とかわらない。左側のブルーの服をきた少年は、皇太子フェルナンドである。ゴヤ自身も左端に、カンバスを前にした姿で描かれている。ベラスケスの「ラス・メニーナス」を意識したのだと思う。

(1800年 カンバスに油彩 280×336㎝ マドリード、プラド美術館)
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11:777 :

2024/02/14 (Wed) 14:51:37

バルコニーのマハたち ゴヤの群像画
続壺齋閑話 (2024年2月13日 08:18)
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マハとは、スペイン語で粋な女とか伊達女というような意味である。この絵にはそのマハが二人描かれている。この絵は、サイズとしては大きいのだが、ゴヤはこれを自分の気晴らしのために描いたと言われている。二人の若い女と、あやしげな二人の人物が描かれている。若い女はゴヤのこだわりを示しているのだろう。背後の二人の人物にどんな意味を持たせようとしたのか、よくはわからない。

二人の若い女は、バルコニーの蔭からなにかに見とれているが、彼女らの視線はそれぞれ違ったもののほうに向けられている。背後の二人も、それぞれ勝手な仕草をしている。この四人には共通した要素が見当たらないのだ。

マネの作品「バルコニー」は、ゴヤのこの作品のパロディだといわれている。マネの作品でも、前景に二人の若い女、背景に二人の人物が出ており、しかもみな違う方向を見ている。

なお、この作品には二つのバージョンがある。ロスチャイルド家のコレクションがオリジナル、ニューヨークのメトロポリタン美術館のがコピーだと推測されている。

(1808年前後 カンバスに油彩 162×109㎝ ロスチャイルド・コレクション)
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12:777 :

2024/02/15 (Thu) 09:15:29

マハとセレスティーナ ゴヤの風俗画
続壺齋閑話 (2024年2月15日 08:19)
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「マハとセレスティーナ(Maja y celestina)」と題されるこの作品は、「バルコニーのマハたち」と対をなすもの。ゴヤの財産目録の中に、「バルコニーの若い女性を描いた2枚の絵」とされるものがあることからわかる。どちらも、売ることは考えておらず、自分自身の気晴らしのために描いたものであり、マドリードにあったかれの家の一室を飾っていた。

バルコニーが何の比喩なのか、色々解釈がある。バルニコーから通行人を眺めている構図は、娼婦を想起させるかもしれない。じっさい、この絵の中のセレスティーナは、バイシュン宿の女衒を思わせないでもない。

この絵が制作されたと思われる時期は、ナポレオンの侵攻とそれへのスペイン人の反攻という激動の時代であり、ゴヤも従来のような制作姿勢をとるわけにはいかなかった。社会の混乱への批判的な視線が生まれ、それが社会風刺をモチーフにした版画の制作へつながる一方、油彩画のほうでは、風俗画への傾斜をもたらした。

この絵は、肖像画というよりは、風俗画といってよいのではないか。

(1808年頃 カンバスに油彩 166×108㎝ 個人蔵)
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13:777 :

2024/02/17 (Sat) 21:44:45

イサベル・デ・ポルセール ゴヤの肖像画
続壺齋閑話 (2024年2月17日 08:14)
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ゴヤは宮廷画家として貴族たちの肖像画を描いたのだったが、晩年には商人の肖像画も描いた。「イサベル・デ・ポルセール」と題されたこの肖像画は、その代表的なものである。モデルは富裕な商人アントニオ・ポルセールの若い妻である。ゴヤは、ゴドイを介してポルセールと近づきになり、たびたび饗応された。これはそのお返しとして制作されたといわれる。

イサベルは、夫より20歳年下で、この絵のモデルとなったときには40歳をちょっと超えていた。この絵の中の彼女はもっと若々しい印象である。商人の妻らしく、くだけて粋な雰囲気をただよわせているところは、マハに通じるものがある。

やや斜め向きの姿勢で、顔を反対側にむけ、観客のほうではなく、あらぬ方を見つめている。その大きな目には自信がこもっている。頭から肩にかけてかぶっているのはマンティージャといって、当時スペインで流行した装飾用の衣装だそうだ。

「裸のマハ」が裸体画の傑作だとすれば、これは女性の肖像画の傑作といえる。

(1806年頃 カンバスに油彩 82×55㎝ ロンドン、ナショナル・ギャラリー)
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14:777 :

2024/02/20 (Tue) 20:26:55

ゴヤ「マドリード市の寓意」 歴史に翻弄された絵
続壺齋閑話 (2024年2月20日 08:10)
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ナポレオンのスペイン侵略にともない、ナポレオンの弟ジョゼフがスペイン国王となった(スペイン語ではホセ)。1808年のことである。マドリード市では、ジョゼフ国王をたたえるための肖像画の制作をゴヤに依頼した。その結果が、1809年の作品「マドリード市の寓意(Alegoría de la Villa de Madrid)」である。

マドリード市の意向は、マドリードの守護女神が国王ホセをたたえるというものだった。そこでゴヤは、卵型のメダルのようなものにホセの肖像画を描き、それをマドリードの守護女神が指さして称えるという構図で制作した。ところが、ナポレオンが敗北して、スペインの王室が王権を回復すると、市では、ホセの図柄をフェルナンド王に変更するよう依頼した。ゴヤはその仕事を、弟子のアランダにまかせた。

ゴヤの死後も、メダルの中の図柄は幾たびか変更され、最終的に今日のような形になった。DOS DE MAYOとあるのは、「五月二日」という意味で、マドリード市民がナポレオンに抵抗して蜂起した日を記念したものである。

女神は、マドリード市の紋章を描いたカーペットの上に立ち、左手でメダルを指さしている。二人の若者がメダルを支え持ち、上部にはトランペットを吹く若者らが描かれている。ともあれ因縁の多い絵である。

(1809年 カンバスに油彩 260かける195㎝ マドリード歴史博物館)
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15:777 :

2024/02/22 (Thu) 09:47:11

巨人 ゴヤの寓意画
続壺齋閑話 (2024年2月22日 08:22)
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「巨人(El coloso)」と呼ばれるこの絵は、一時ゴヤの真筆であることを疑う説も出されたが、今日では一応ゴヤの真筆という合意が確定されていることになっている。「黒い絵」のシリーズとか、版画「戦争の惨禍」と共通する要素が多く指摘され、ゴヤの真筆と考えてよいのではないか。

テーマは、明示されているわけではないが、対ナポレオン戦争の一こまだと思われる。画面下部には混乱状態の群衆が描かれ、その上に、雲の上に巨体をあらわす巨人が描かれている。群衆は、ナポレオン軍の侵攻に逃げ惑うスペインの民衆、巨人はスペインの守護者と考えられる。

巨人は左のこぶしを振り上げ、なにかをにらみつけている。この画面にはあらわれていないが、その視線の先には侵略者がいるのであろう。

「戦争の惨禍」シリーズで描かれたナポレオン戦争の惨状を思い起こさせるタッチである。

(1810年ごろ カンバスに油彩 116×105㎝ マドリード、プラド美術館)

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16:777 :

2024/02/25 (Sun) 05:15:46

鰯の埋葬 ゴヤの風俗画
続壺齋閑話 (2024年2月24日 08:27)
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「鰯の埋葬( El entierro de la sardina)」と呼ばれるこの絵は、マドリード地方の民衆の風習をテーマにした作品。謝肉祭の最後の日(灰の水曜日)に、マドリードの市民は仮面をつけ、いわしをくくりつけた藁人形をかつぎながら練り歩き、郊外でその鰯を火あぶりにする習慣があった。この絵は、その行事に興じる民衆の姿を描いている。

画面の中央には、モックキングの顔を大きく描いた旗竿が担がれる様子が描かれている。肝心な鰯をくくりつけた藁人形は見えない。画面の外にはみでているのか、それとももともとないのか。しかしないのはおかしい。それでは鰯の埋葬にはならないからだ。

白い衣装の二人の女を、大勢の人々がとりかこみ、踊ったり見物したりしている。マスクをつけているものも、つけていないものみいる。二人の女はおそらく付けているのであろう。この女たちをはじめ、民衆ははでに身体を動かしており、非常な躍動感を感じさせる。

後年の傑作群「黒い絵」を暗示させる作品である。

(1810年代 板に油彩 83×62㎝ マドリード、王立サン・フェルナンド美術アカデミー)
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17:777 :

2024/02/27 (Tue) 12:08:16

むち打ち苦行者の行進 ゴヤの風刺画
続壺齋閑話 (2024年2月27日 08:20)
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「むち打ち苦行者の行進(Procesión de disciplinantes)」と呼ばれるこの絵は、「闘牛」、「狂人の家」、「異端審問」とともにシリーズを構成する。このシリーズは、フェルナンド七世によるペイン王政の復活に伴い、カトリック的な保守頑迷さも復活したことに、ゴヤが批判の意を込めたものと言われている。この作品は、中でももっとも批判精神に満ちている。

Disciplinantesというスペイン語は、悔い改めて自分を鞭打つ苦行を課した 者のことをいう。同じカトリック国のイタリアでも、同じような苦行者の行列が見られるという。この絵は、その苦行者たちの行列する様子を描く。

三角のとんがり帽子や白い腰巻の男たちが行進し、その周囲を大勢の人々が取り囲んでいる。苦行者の行進は、当時のスペインの庶民にとってエンタテイメントだったようである。苦行者の背中には、鞭で打たれ血を流した傷跡が見える。かれらの苦行とは、鞭で背中を打たれることなのである。

見物人たちの頭上には、ソレダの聖母、エッケホモ、十字架のキリストなどをあしらった出しものが掲げられている。その反対側には幟が見える。

(1812~1819年 板に油彩 46×73㎝ マドリード、サンフェルナンド王立芸術アカデミー)
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18:777 :

2024/02/29 (Thu) 08:31:37

異端審問 ゴヤの風刺画
続壺齋閑話 (2024年2月29日 08:18)
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「異端審問(Escena de Inquisición)」と題されたこの作品は、「闘牛」、「狂人の家」、「むち打ち苦行者の行進」とともにシリーズを構成する。このシリーズでゴヤは、スペインの古い因習を批判したのだが、この作品ではカトリックによる「異端審問」の風習を批判した。この風習は、15世紀の半ばに始まり、ナポレオンの時代には廃止の動きもあったが、フェルナンドの王政復古にともない、復活した。

異端審問は、カトリック教会を舞台にして行われることが多い。被告は、尖がり帽子とちゃんちゃんこのようなものを着せられ、裁判官の前で罪の告白をさせられる。その後、悔い改めの誓約をしたうえで、街を引き回された。

この絵は、四人の被告が描かれている。被告はひとりずつ台の上に乗せられ、罪を告白する。裁判官は法服ではなく、世俗の服を着用している。一応法官であることを強調しているのであろう。

裁判官と被告ら前景の人物は、くっきりと姿が浮かびあがるように描かれる一方、背景の人々はあいまいな描き方をされている。コントラストを強調するためである。

(1812~1819年 板に油彩 46×73㎝ マドリード、サンフェルナンド王立芸術アカデミー)
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19:777 :

2024/03/02 (Sat) 09:19:47

狂人の家 ゴヤの風刺画
続壺齋閑話 (2024年3月 2日 08:25)
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「狂人の家(Casa de locos)」と題されたこの絵は、「むち打ち苦行者の行列」、「異端審問」、「闘牛」とともにシリーズを構成する。この作品は、ゴヤの郷里であるサラゴサの精神病院をモチーフにしたものである。ゴヤがなぜ精神病院をモチーフに取り上げたか、よくはわからない。一説には、この頃ゴヤは病気のために、耳が聞こえなくなったり、家族関係が悪くなったりと、かなりのハンデを抱えていたというから、心を病んだ人間に、惹かれるものを感じたのかもしれない。

かなり広い部屋に、大勢の患者が収容されている。光は、高いところにある窓から差し込むだけなので、部屋の大部分は暗くて陰気である。その陰気な部屋に大勢の患者が、それこそすし詰めにされている。

患者たちには、奇異な行動をしているものがあり、また****のものがいたり、いかにも狂人らしさを感じさせる。画面中央の男は、****でファイティングポーズをとっている。ボクサー上がりなのだろうか。その左手の男は、鳥の羽を頭にかざり、なにやら演説している様子である。その男のさらに左手には、黒い服を着た二人の男がいて、部屋の中の様子を眺めている。

そのほか、さまざまなポーズをとっている男たちがいるが、いずれも自分自身の中に閉じこもっているようで、他人を意識する気配は見られない。

(1812~1819年 板に油彩 46×73㎝ マドリード、サンフェルナンド王立芸術アカデミー)
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20:777 :

2024/03/06 (Wed) 19:41:17

1808年5月3日 ゴヤの戦争画
続壺齋閑話 (2024年3月 5日 08:34)
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「1808年5月3日(El tres de mayo de 1808 en Madrid)」と題するこの絵は、「1808年5月2日」の姉妹作である。前日からのナポレオン軍による鎮圧により逮捕された民兵が、ナポレオン軍の兵士らによって射殺される様子を描く。戦争絵画の歴史のなかで、最も大きな反響を呼んだ記念碑的な作品と言える。
画面右手、に整列して銃を構えた兵士たちが描かれ、左側にまさに撃たれようとしている民兵が描かれる。銃の前に立たされた民兵には、両手を広げて抵抗の意を示しているものもあれば、おとなしく観念しているものもある。また、すでに息絶えて地面に伏している人もいる。かれらの近くには、次の順番を持つ人々が控えている。この場面が起きたのは、5月3日の未明のこととされる。

画面に劇的な効果を持たせるため、兵士と民兵の合間に明るいランタンをおき、その明かりで民兵らの姿を浮かび上がらせている。この工夫があるために、作品全体が引き締まって見え、状況のただならなさを強調している。

なお、この作品は、マネの「マクシミリアン皇帝の銃殺」やピカソの「朝鮮の虐殺」に大きな影響を与えた。

(1814年 カンバスに油彩 268×347㎝ マドリード、プラド美術館)
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21:777 :

2024/03/07 (Thu) 11:00:40

1808年5月2日 ゴヤの戦争画
続壺齋閑話 (2024年3月 7日 08:14)
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ゴヤは、1808年5月の反ナポレオン民衆蜂起をテーマにした作品を二点、1814年に制作した。一つは1808年5月2日のマムルーク族の攻撃をテーマにしたもの、もう一つは翌5月3日の反乱兵士たちの銃殺をテーマにしたものだ。これはそのうち、5月2日のマムルーク族の攻撃をテーマにしたものである。タイトルは「1808年5月2日(El 2 de mayo de 1808 en Madrid)」、あるいは「マムルーク族の攻撃(La carga de los mamelucos)」とも呼ばれる。

マムルーク族の部隊は、ナポレオンの近衛軍に編入されていた。5月2日にマドリードの民衆がナポレオンに抵抗して立ち上がると、ナポレオンは近衛軍に鎮圧を命じた。それに対してマドリードの民衆は、粗末な武器で立ち向かった。

この絵は、マムルークの騎兵たちに、蹴散らされる民衆を描いている。王政復古後王座についたフェルディナン七世は、この作品を好まず、公の場では展示されなかった。理由は、この絵の中の民衆がマムルークによって蹴散らされており、スペイン人が勇敢に描かれてないということだった。

第二次大戦中に、ひどい損傷をこうむり、修復に長い時間を要した。修復が終わったのは2008年のことである。

(1814年 カンバスに油彩 266×345㎝ マドリード、プラド美術館)
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22:777 :

2024/03/09 (Sat) 12:40:55

アリエータ医師に看護されるゴヤ
続壺齋閑話 (2024年3月 9日 08:44)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7710.html

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ゴヤは、1819年にマドリード郊外のマンサレナス川の岸辺に「つんぼの家」と称された別荘に移り住んだが、その年に腸チフスにかかって死に損なうという目にあった。その際に、友人の医師アリエータが献身的な看護をしてくれたおかげで、ゴヤは一命をとりとめた。この絵(Goya curado por el doctor Arrieta)は、自分に献身的な看護をしてくれたアリエータへの感謝の気持ちをこめて翌1820年に制作したものである。

血の気の失せたゴヤの表情は、いまにも死にそうな様子である。背後からそのゴヤを抱きかかえ、コップからせんじ薬を飲ませようとしている医師アリエータは、いかにも誠実な顔つきをしている。

暗い背景から浮かび上がった二人の背後には、黒い人物像がいるが、これはおそらく疫病神の隠喩だろう。

ゴヤの自画像にもなっているこの絵は、晩年のかれの消息の一端を知る上での手掛かりにもなる。ゴヤはこの病気から回復後、最後の大作「黒い絵」のシリーズの制作にとりかかる。

(1820年 カンバスに油彩 117×79㎝ ミネアポリス美術研究所)
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23:777 :

2024/03/12 (Tue) 18:48:34

闘牛 ゴヤの風俗画
続壺齋閑話 (2024年3月12日 08:41)
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「闘牛(Suerte de Varas)」と題するこの絵は、「狂人の家」や「異端審問」などとともに同じシリーズを構成するとみられもするが、ほかの作品よりかなり後の1824年に制作されており、また、ゴヤ自身闘牛に深い関心があり、1816年には闘牛をモチーフにした版画集も制作しているので、独立した作品ととらえることもできよう。

ゴヤは若いころから闘牛に関心があったが、カルロ三世とカルロ四世の時代には、闘牛は野蛮だという理由で、禁止されていた。ナポレオン時代にはその禁止は多少は緩和されたようだが、全面的に許容されるのは、フェルナンド七世の時代である。

もっともこの作品は、ボルドーに亡命した後で制作された。かれはそこで友人のフェレルに、闘牛の版画集の出版を持ち掛けたが、フランス人は闘牛に関心がないという理由で、実現しなかった。そのかわりにゴヤは、この絵を制作してフェレルに贈った。

図柄は、闘牛場の中の様子を描いている。牛を前に大勢の人が群がり、背後には見物人がひしめいている。版画集の図柄と似ているところもある。

(1824年 カンバスに油彩 495×610㎝ ロサンゼルス、ゲッティ美術館)
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24:777 :

2024/03/15 (Fri) 17:25:44

ボルドーの乳売り娘 ゴヤの肖像画
続壺齋閑話 (2024年3月14日 08:21)
https://blog2.hix05.com/2024/03/post-7717.html

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1824年6月に、ゴヤはボルドーに移住し、死ぬまでその地にとどまった。一応休暇名目で国王の許可を得ていたが、実際にはフェルディナンド七世による自由主義者の弾圧を逃れるための亡命のようなものだった。その年ゴヤはすでに七十八歳。死ぬのはその四年後である。

「ボルドーの乳売り娘(La Lechera de Burdeos)」と呼ばれるこの絵を描いたのは、死ぬ一年前のこと。最晩年のゴヤは、暗い絵のシリーズにみられるような陰気なテーマばかり描いていたという印象がつよいが、この絵は明るさを感じさせる。光の扱い方が、後の印象派を予想させるほどだ。

働く女のふとした表情を、スナップショット的にとらえたこの絵は、従来の肖像画の枠を超えた、自由な画家の視線を感じさせる。ゴヤの画家としての到達点を示す傑作と評されるにふさわしい。

(1827年 カンバスに油彩 74×68㎝ マドリード、プラド美術館)
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25:777 :

2024/04/08 (Mon) 05:26:39

あああ

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