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「神風特攻の美談」の真実は

1:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:06:33

2023-12-10
現代の女子高生がタイムスリップして特攻隊員と恋に落ちる? ゆるふわ戦争ファンタジーもついにここまで来たのか
https://vergil.hateblo.jp/entry/2023/12/10/152433

特攻隊がテーマといえば、『永遠の0』とかしょーもない話が目白押しだが、それにしてもこれは一線を越えてしまった感がすごい。


『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』本予告90秒 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=op-4vT2s6Ok

映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』公式サイト|大ヒット上映中!
https://movies.shochiku.co.jp/ano-hana-movie/

公式サイト掲載のあらすじが以下。

親や学校、すべてにイライラして不満ばかりの高校生の百合(福原遥)。
ある日、進路をめぐって母親の幸恵(中嶋朋子)とぶつかり家出をし、近所の防空壕跡に逃げ込むが、朝目が覚めるとそこは1945年の6月…戦時中の日本だった。
偶然通りかかった彰(水上恒司)に助けられ、軍の指定食堂に連れていかれる百合。
そこで女将のツル(松坂慶子)や勤労学生の千代(出口夏希)、石丸(伊藤健太郎)、板倉(嶋﨑斗亜)、寺岡(上川周作)、加藤(小野塚勇人)たちと出会い、日々を過ごす中で、彰に何度も助けられ、その誠実さや優しさにどんどん惹かれていく百合。
だが彰は特攻隊員で、程なく命がけで戦地に飛ぶ運命だった−−− 。

時代設定がなんと1945年6月。敗戦のたった2ヶ月前である。この時代の日本社会の雰囲気を知っていたら、いくらタイムスリップ設定のファンタジーといってもこんなアホな話は作れないだろう。


だいたい、周囲と明らかに服装も違う身元不明の若い女がふらふら歩いてたら、まず真っ先にスパイと疑われる。たちまち特高か憲兵隊に捕まってアウト。たかが一特攻隊員に助けることなどできはしない。





ところで特攻隊といえば、日本では純粋な若者たちが家族や愛する者を守るために笑って散っていったというような美しい物語が広く流布しているが、これは戦後になって作られたファンタジーでしかない。

中にはそんな隊員もいたかもしれないが、大半の現実は次のように過酷なものだった。[1][2]

 特攻隊員の本心はどこにあったか。ある調査が存在するのだが、陸軍航空本部は昭和二十年五月末に知覧基地で「特攻隊員の心理調査」を密かに行っている。その結論には最終段階となっても「益々決心ヲナスニ甚大ノ努カを要スル」隊員は「約三分ノ一アリ」と記載されていたという(生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』)。

 生田は、特攻隊員の三分の一は「最初から希望していなかった」としたうえで、「戦隊長以下全員が特攻となるなら喜んでいくが、特定人員だけというのは納得できないとする心情もあったようである」と書いている。


 この調査結果は当時の建て前の中での調査にすぎないが、それでも三分の一は不本意に思っているとするなら、実は大多数の特攻隊員が納得していなかったと思える。志願を挙手で募ったとか 「一歩前へ」などとその意志を尊重したかのような論が、戦後は主に指揮官や軍事指導者から弁解気味に語られているのだが、「個人の人格」など寸分も考慮しない日本軍にあって、特攻志願だけにそれが行われたなどというのはまさに笑止である。

保阪 記憶をもった人はほんとうにいなくなりますが、自分なりに仕事を進めていますと、一般に言われている事実や記憶を修正するかっこうになることもあります。

 たとえば二年ほど前、千葉で講演したあと、杖をついたおじいさんが、

「どうしても保阪さんと話をしたい」

 と、お嬢さん ―― といっても五十代ぐらいになっておられましたが ―― といっしょにやってこられた。そして娘さんに、

「ちょっと出てろ」

 と言って別室に下げてから、私と二人で向き合って、

「自分はがんで余命もかぎられている。あなたに話を聞いてほしい」
と前置きして話しはじめた。

「私は学徒兵で整備兵でした。私たちは昭和二十年の四月に何人もの特攻の飛行機の整備をしました。知覧からは特攻で何人も飛んでいきました。彼らは飛び立つ日に失神する、失禁する、泣きわめく。きれいなことを言って飛んでいった人もなかにはいるけれども、ほとんどは茫然自失です。それを私たち整備兵が抱えて乗せたんです」

「私は罪の意識をずっともっています。それをだれかに言わないとしねない。書く、書かないはあなたの自由だけれども、どうかこの話を憶えておいてください」

 調べてみると多くの特攻隊員は鹿児島湾の入り口、あるいは知覧の近くの山中で落ちちゃっているんですが、しかしみごとに ―― というべきなのでしょうか ―― 米艦に体当たりしたことになっていたりするんです。

 こういう老人たちの、死ぬ間際になってこれを言わずにはしねないという記憶がある。



しかも、美しい特攻隊神話は、特攻を命令した者たち自身が、自らの責任から逃れるために作り上げてきたものなのだ。死んでいった隊員たちを美化すればするほど、死を命じた自分たちの責任は問われなくなるからだ。[3]

   4「美談」の形成


 昭和二十年八月十五日、日本は降伏した。一航艦長宇垣纏は「最後の特攻機」として沖縄に突入した。特攻生みの親たる大西滝治郎は自刃した。神雷隊司令だった岡村基春も自決した。かれらを軍事能力において高く評価はできない。軍事能力の評価は苛酷なまでの結果論しかありえないのである。が、かれらは詫びて殉じた。(略)

(略)

 しかし、なにものにであろうと、詫びも殉じもしない生き方の方が圧倒的に多かった。

 フィリピン四航軍司令官富永恭次、九州六航軍司令官菅原道大、ともに「お前たちだけを死なせはしない、わしも最後の特攻機で突入する」と若者たちに言いつづけ、戻ってきた特攻隊員には理由もきかず、「お前は命がほしいのか」「死なぬのは精神が悪い」と叱咤した二人は、まるで双生児のように生き残った。敗勢のフィリピンから敵前逃亡して、地上部隊兵士までの嘲罵を浴びても台湾で中央復帰を策した富永。八月十五日に、海軍の宇垣長官突入の報に応じた高級参謀鈴木京大佐から、「閣下も御決心を」と言われるや、当惑げに、ねちねちと、「あと始末が大事、死ぬばかりが責任をはたすことにはならない。それよりはあとの始末を」と言った菅原。

 若者たちには言い訳を一切許さず、「死ぬばかり」を強要した四、六航軍の参謀たちも見事に死なぬ理由を見つけだした。

 敗軍の将と参謀たちの「あと始末」とは「兵を語る」ことであった。旧軍教育の最大の柱が「言い訳をせぬこと」であったのにである。正当なる説明さえも「言い訳」とし、卑怯とした人たちがである。

 まず田中耕二。知覧基地で鬼の作戦参謀として特攻隊員を叱咤し怖れられたかれは、終戦時は大本営参謀となり、敗戦後は第一復員局で「後始末」に打ちこんだ。第一復員局資料整理部の報告書『航空特攻作戦の概要』はかれの筆である。(略)

(略)

 用語・文体・発想のすべてが、戦中「大本営発表」に酷似する。あれだけの敗戦から「なにものも学ばず、なにものも忘れぬ」元参謀の文章は、負け犬の傷のなめあいの一環としてなされたものではない。自分たちのかつての愚行の正当化を、「美談」を実像とすることを通じて達成しょうとしている。よわよわしい詫びや「免罪」の意図をはるかにこえた、居なおりの偽証である。

(略)

 昭和五十一年、防衛庁防衛研修所戦史室『大東亜戦争公刊戦史』全一〇二巻が完結した。その中でも、特攻隊神話は固守されている。『比島捷号陸軍航空作戦』(昭和四十五年)に言う、「特攻隊員は志願者をもって充当することを根本方針とされた……若武者たちの……民族の伝統的精神が爆発し(たもの)」と。

(略)

 多額の税金を消費して、防衛庁がかくまで戦中「皇国史観」そのままの太平洋戦争史の「正史」ともいうべきものの作成に努めたのは一見不思議のようでもある。が、それがどのような人的構成と雰囲気でものされたかを知れば、疑問は氷解する。

 昭和三十九年二月、陸軍特攻の真相の探求者高木俊朗は、航空自衛隊防衛部長空将補田中耕二を訪れた。先客の元六航軍司令官菅原道大が田中のセンパイ顔で同席した。まず菅原が命令口調で高木に要求した。

 「特攻のことを書くのもよいが、(わしが慰霊している)特攻観音のことも、大いに書いてもらいたい」

 志願か否かの質問への、田中の答は、

「行きたくない者を、むりにださせたことはない」

である。元大本営参謀の虚像固守の姿勢は一貫している。

(略)

 死者に対する遺族・関係者のかなしみは深い。若者たちが、みずから進んで、満足裡に死んだとは、遺族のほとんどが思いたいであろう。その遺族らのかなしさに乗じて、多くの若者にムダ死を強いた者が、強制の事実なしとし、虚像の美化を自己の正当化の根拠とし、はては自分の慰霊の姿のPRまでを要望する。ここには、絶望的なまでの腐臭がただよっている。

 若者たちの献身が純粋で美しくあればあるほど、その若者たちの生も死も利用しつくす者の醜悪さはきわだつ。特攻隊は、その実施時の実態においてとともに、その「神話化」の過程において、昭和期天皇制軍隊の恥部 ― 指揮官・参謀クラスの醜悪さをかくすイチジクの葉として利用されつくしている。



特攻隊をテーマにした映画を作るなとは言わないが、作るべきものがあるとしたらそれはまず第一に、こんな外道な作戦を立案し、また部隊を指揮して何千人もの若者を自爆攻撃に追い込んだ者たちが、責任も取らずに戦後をどのようにのうのうと生きてきたかを描く作品だろう。

[1] 保阪正康・姜尚中 『戦争と天災のあいだ ーー 記録の改竄、記憶の捏造に抗して』 講談社 2012年 P.140-142
[2] 保阪正康 『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 2005年 P.56-57
[3] 小沢郁郎 『改訂版 つらい真実・虚構の特攻隊神話』 同成社 2018年 P.156-161
https://vergil.hateblo.jp/entry/2023/12/10/152433


▲△▽▼


「わたしを犯さず、やさしくしてくれた特攻隊員が一人いた。彼はわたしに何度もいった。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きなければならない』」 元「従軍慰安婦」、イ・ヨンスさんが証言 ルモンド東京支局長、フィリップ・ポンス氏が取材し報道 
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2007/03/for_the_record_c93e.html

 フランスのルモンド紙の東京支局長で、日本の歴史文化に明るいフィリップ・ポンス記者が3月5日、先にワシントンの連邦議会下院小委で証言したイ・ヨンス(李容洙)さん(78歳)と都内の韓国レストランで会い、彼女の話を聞いて記事にした。

 その記事を読んで驚いた。彼女はなんと14歳で、軍用****隷の地獄へ連れ込まれていたのだ!

 しかも、自宅から、日本軍の兵の手で!

 ポンス記者はこう書いている。
 
 「現在の韓国南東部、大邸に近くで生まれたイさん(マダム・イ)が14歳のときだった。『1944年の秋のある朝のことです。寝ていると、わたしを呼ぶ女の声がします。出て行きました。日本兵がひとりいて、わたしを捕まえ、力ずくでわたしを連行したのです』。汽車は彼女をピョンヤンから中国の大連へと運んだ。大連で彼女は台湾行きの船に乗せられ、自殺パイロット(カミカゼ)の基地の軍用バイシュン宿に配備された」

 台湾の特攻機地の慰安所での体験を、イさんはポンス記者にこう語っている。

 「(慰安所になった)船上で、わたしたち5人は300人の兵にあてがわれました。年上のお姉さんがわたしを隠してくれました。その基地で、わたしは殴られ、犯され、死ぬまで放置されました。わたしの手は針金で縛れていました」

 そんな地獄の日々のなかで、イさんはひとりの特攻隊員(パイロット)に会った。
 「ひとりのパイロットがわたしにやさしくしてくれました。彼はわたしに何度も言いました。『ぼくは死ななくちゃならない。しかし、あなたは生きねばならない』と。その人だけが、わたしを犯しませんでした」

 哀切きわまる証言ではないか!
 台湾の特攻機地の慰安所で、こういうことがあったのだ!
 ぼくはしねけど、君は生きろ、と励ます特攻隊員がいたとは!

 上記、「やさしくしてくれた」という拙訳は、字義通りに訳せば、「世話をしてくれた」となる。

 その特攻隊員はもしかしたら、イさんを妹のようにも思い、気遣ったのではなかったか?!

 イさんの証言は続く。

 「何ヶ月かが過ぎていきました。わたしがあてがわれた小さな船室には毎日、10人の兵士がやって来ました。船室には寝床と布団と消毒液がありました。最後の任務(自殺攻撃)に出て行った彼らは、(わたしの部屋に)長居していました。(特攻隊員の)彼らもまた犠牲者だったのです」

 イさんは自分を奪った特攻隊員たちを、同じ犠牲者だと言っているのだ。彼女自身と特攻隊員を、台湾の慰安船の一室に押し込め、一方で「生き地獄」を強い、他方で「散華」を迫ったものを憎み、告発しているのだ。

 そして、ついに光復の日が……。

 「ある朝、日本兵が突然、いなくなりました。街の方から中国語の叫び声が湧き上がりました。『戦争は終わった』と」

 ポンス記者は、1992年、日本の歴史学者(吉見教授)の手で日本軍の「参謀本部の関与」を示す旧軍の資料が発見され、それが翌年、宮沢政権下、河野官房長官による「談話」につながった経緯について紹介するとともに、旧軍が配下の「人買い」を「下請け」にして、騙したり、まったくの奴隷として女性を慰安所に供給していたことも多かったとも指摘。そのことを口実に、軍の全面直営ではなかったとして「河野談話」を否定する、日本の「右寄りへの回帰」の動きを批判している。

 そう、その通り、すべてを「下請け」の「業者」のせいにすることはできないのだ。「業者」に下請けに出した「軍部」こそ、責任を取らねばならない。

 安部首相よ、あなたの祖父、岸信介氏が手を結んだ日本の軍部こそ、14歳の少女、イさんらを性の地獄へ突き落とし、若い特攻隊員を「散華」に追い込んだ輩であることを、あなたは認めるべきである。
http://www.asyura2.com/07/senkyo31/msg/992.html
 
2:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:08:26

零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助の見事な最期!
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14006157

テレビドラマ 零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】(テレビ東京 2015年)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14010669

【神風特攻隊】悲惨な作戦はなぜ決行されたのか?真実に迫る!
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14149832

神風特攻隊~青年たち永遠の飛行
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/421.html

特攻隊員は「志願して死んでいった」のか
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/309.html

「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/799.html

神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/564.html

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

明治維新と太平洋戦争の真相
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html

3:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:09:37

日本の軍歌は素晴らしい、日本人には武人や軍人が一番似合っている

日本の軍歌は世界の軍歌の中でも飛び抜けた NO.1
日本兵が万歳突撃や神風特攻したくなる気持ちも良くわかる。
日本人はすぐに洗脳されるからね。

アジア人が日本軍や靖国精神を何よりも恐れているのは当然だよ。

▲△▽▼

ロシアの軍歌は愛を歌い、日本の軍歌は万歳突撃や神風特攻を賛美する

そもそもロシアや中国は日本とは反対に、有史以来外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。ロシア軍や中国軍なんか少しも怖くない。
その代わり、ロシア軍や中国軍は自国の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。防衛しかできない国なんだ。

日本の軍歌:露営の歌 (Field Encampment Song)
https://www.youtube.com/watch?v=6hceNfhDFWY

日本の軍歌:同期の桜
https://www.youtube.com/watch?v=A3dVAnLmLQQ
https://www.youtube.com/watch?v=sdUrucGfoH4

『同期の桜』 台詞入り 鶴田浩二  大空に散った英霊へ
https://www.youtube.com/watch?v=IxJ2wcmy-2o



[ソ連軍歌] カチューシャ 日本語歌詞付き Катюша
https://www.youtube.com/watch?v=sVk9eyAWxPk
4:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:26:53

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました
覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。

特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。

出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。

九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。

日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。

この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php
5:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:27:55

日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった
あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html

覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html
6:777 :

2023/12/11 (Mon) 07:29:49

2008.03.11 覚醒剤「ヒロポン」の時代
http://20century.blog2.fc2blog.us/blog-entry-406.html


昭和十八年 新聞広告

秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。

広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。

しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向があり、長期間の乱用により幻覚作用が現れ、人格の崩壊につながる、きわめて危険な薬であることは言うまでもない。

大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。

なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。


脳力・体力の覚醒賦活剤「アゴチン錠」甘糟商店
昭和十七年 雑誌広告


昭和十八年 雑誌広告

はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。

こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を負わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。


「ヒロポン」500錠入り

覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期のこと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。

一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。


‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。

坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)


 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥

坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」


昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。

その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
http://20century.blog2.fc2blog.us/blog-entry-406.html


2009年12月18日
ただのビタミン剤じゃ
◎昭和20年代半ばのヒロポン流行の背景と、対応法令の乖離について
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

第009回国会 参議院 厚生委員会 第7号 昭和25年12月9日
○藤原道子君 私は厚生大臣にお伺いいたしたいのでございますが、先日来大きな社会問題となつておりまするヒロポンの問題でございますが

(略)

或いはまた聞くところによると賠償等の問題も起るから強い処置ができないというようなお言葉も私たちは聞いているのでございます。

(略)

その中毒患者を見ますときに、17歳から23歳の者が83%もいるということでございます。(略) 若しこのままで参りましたならば、ヒロポン亡国とさえ言われる大きい危險があると思いますので、これに対して、大臣はどういうふうな方法でこれを喰止めようとしておいでになるか(略)

医者の証明書がなければ売つてはいけないということになつているのです。けれども(略)警視庁の報告を見ましても(略) 一つのグループに対して一つの薬局から石油カン一ぱいのアンプルの殻があつた。それは一つの薬局から売られている。

(略)

そこで私は厚生当局に対しまして今製造を禁止する意思があるかないかということ、(略) ヒロポンを、モルヒネのようにアンプルに番号を打つて、一つの製造会社なら製造会社を指定いたしまして(略)必要なところだけに必要なものを流すというような方法を採つたらこの被害が防げるのではないか。(略)

○国務大臣(黒川武雄君)※厚生大臣、虎屋15代目当主
製造禁止のことは現在の法律ではできないのでございますが(略) 早急に思い切つた処置を講ずる必要があることを痛感しております。(略)

○藤原道子君 痛感いたしておると言われまするがどうも頼りないんです。(略)
罰則規定がありながらこれの適用が非常に軽いと思うんでございます。この書類を見ましても富山化学ですか、その他の会社二件がこれに引つかかつているゆですが、たかが十五日の営業停止なんです。

(略)

このヒロポンはもともと戰時中に軍が労働者を酷使いたしますために、労働強化をいたしますため、眠くてはできない、そういうところからヒロポンを使つて労働強化をやつたということを私は聞いておる。

(略)

このヒロポンのこれだけに被害が殖える前にこのヒロポンの害毒というようなものを国民に周知させるためのパンフレットが作成されるとかいろいろな方法が講ぜられなければならなかつたと思いますが、今までにどういう方法をおとりになつて来たか。医師会等にはどういうふうな御協力をお願いされたか(略)

○国務大臣(黒川武雄君) 私としては真劍に考えております。断乎としてやることは藤原君に誓います。細かいことは局長からお答えいたさせます。

○政府委員(慶松一郎君)※厚生省薬務局長
(略)私どもがたとえ行政処分をいたしますにいたしましても、或いは司法上の処分をいたしますにいたしましても、これは十分なる証拠その他がはつきりしませんことにはできませんことは改めて申すまでもございません。

(略)

ときどき新聞等に私どもから申しておりますし、又医師会に対しましても協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 新聞等ということでは駄目なんです。もつと真劍にヒロポンの被害の如何に恐ろしいかということ、それからこういう社会に起つておるあらゆる悲劇等々をわかりやすく書いてパンフレツト等にしてこういうことをやられて来たか、

(略)

一昨日でしたか読売新聞ではヒロポンの問題を騒いでおることを阿諛しておる記事が出ておる。ヒロポンの害ということが書かれるよりも、ヒロポンによつて小説家がその仕事が進行するとか、或いはヒロポンを打つことによつて眠くないからやれるのである。

興味本位のことのほうが大衆の眼には映りやすいのです。ですから今新聞に報道したということは、当局のとられた態度とは受取れない。医師会にはどういう協力をお求めになつたか。

○政府委員(慶松一郎君) 医師会に対しましては、たびたび覚醒剤に対しまする指示、その他についての協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 それから私は素人でわからないのですけれども、医者の証明書というようなものはどういう病気のときにヒロポン使用の証明書が出るのでございましようか。

○政府委員(慶松一郎君) これは非常にむずかしい点がございます。その点につきましていささか御了解を得たいと存じます。

旧薬事法の第41條によりまして医師の処方箋又は指示によつて使うべき薬といたしまして指定されております、若しくはペニシリン或いは、ズルフアミン剤がございまして、それに昨年(略)ヒロポン等の覚醒剤も同様なものとして扱われるようなふうにいたしたのでございますが、

(略)

この指示という意味は、それは処方箋に準ずるものでございまして(略)

最近地方庁から医師が、この覚醒剤に対しまする指示といたしまして一ヵ月分であるとか、或いは一年分であるとかというような指示書をまま出しておるのでございます。それはすべてこの法の精神に合しておらない

(略)

従いましてこれは全く医師の良識の問題にも関する次第でございますが(略) 法的にはどうも違反であるとは言えない点、むずかしい点がございます。

(略)

この問題の解決は何らかの独立的な法規を作らない限りは非常に困難であるということになります。(略)

医者はそれはかわいそうであるということでまあやられるかやらないか、或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして、そういう指示なり処方箋を渡すことも、これは法的に申しますれば違反ではございません。

(略)

例えば今日素人のものがこれを持つておりましても何ら罰則がございません。又密造されましたものを所持しておりましても、これを所持するだけでは罰することができませんのです。

(略)

そういうような立法的な措置が行われない限りは拔本的にはこれを取締ることに極めて難点があるということを御了解願いたいであります。


<以上引用>

◆ヒロポンは大日本製薬(現大日本住友製薬)の商標ですが、大日本以外にも
 同種のおクスリを作って売っていた会社があったということですね。
 (密造というのもあったようですが)

 上記議事録に名前が挙がった会社の沿革 
 昭和20年代はスルーです。

 旧大日本製薬の沿革
 昭和3年から昭和24年の間はスルー。

上記議事録から分るのは、この昭和25年末の時点では、処方箋さえ出ていれば、ヒロポンの所有・売買は犯罪ではないということ。(1年分という真実味のない処方箋も当時は問題なかった) せいぜい、街中の薬局が処方箋なしに売ったものくらいが摘発の対象になる程度。

「医者は(略)或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして」
とあることから、反社会的な人たちから処方箋の発行を強要されていた部分もあったと想像されます。

▼また、この頃は医療報酬に「技術料」的なものが含まれておらず、医者は「各種のクスリを売る/処方箋を発行する」ことで生計を立てていた部分が大きかった様子。

参考:日本医師会 - 戦後50年のあゆみ 1950年
昭和24年秋から本格化した強制医薬分業をめぐる医師会と薬剤師協会の対立は,強制医薬分業の実施を願うGHQのサムス局長(公衆衛生福祉局)のあからさまな介入もあって,日本医師会を揺るがせた。

(昭和25年)4月の定例代議員会で選出された田宮猛雄会長,武見太郎副会長は,サムス局長の不信任通告を受けて辞意表明に追い込まれ,8月には後継会長に谷口弥三郎が選出された。

田宮会長は,4月にサムス局長に面会した際,強制医薬分業の実施に反対して,「日本人には医師の無形の学識,労力に報酬を支払う観念がなく,医師の診療報酬に技術料が含まれていない」との申し入れをしたが,この点にサムス局長が理解を示し,新医療費体系の検討が始まった。

<以上引用>

▼関連リンク
ドラえもん ねむくならない薬 の検索結果

ヒロポン関連の画像

20世紀ひみつ基地 より 覚醒剤「ヒロポン」の時代

中国人民解放軍が3日間眠くならない薬を開発(2011年)


前掲議事録のほぼ1年前のもの

第006回国会 参議院予算委員会 第10号 昭和24年11月30日

○説明員(慶松一郎君) 只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戰争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかつたと私は記憶いたしております。

そうしてその終戰当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。

併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になつておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよつと今分らないと思います。併しいすれにいたしましても、今日問題になつておりました製薬は当時殆んどなかつたということが言えると思います。
<以上引用>

 ※この当時流行したヒロポンは、旧軍物資が市場に流出したものではなく、
  当時の製薬会社が当時せっせと作っていたものであることが想像される。

類似品 パンプロン (小野薬品工業、昭和24年) 
photoplay-6

メチルプロパミンとはメタンフェタミンのこと。
要はヒロポンと同じもの。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

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