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2023/10/28 (Sat) 10:12:20
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雑記帳
2023年10月28日
倉本一宏『紫式部と藤原道長』
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講談社現代新書の一冊として、講談社より2023年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。来年(2024年)の大河ドラマは紫式部を主人公とする『光る君へ』なので、改めて時代背景を把握するために読みました。紫式部は両親とも藤原北家出身ではあるものの傍流で、父方では、曽祖父は中納言でしたが、祖父も父も位階は五位までしか昇進しませんでした。母方では、曽祖父が中納言でしたが、祖父は四位までしか昇進しませんでした。紫式部の成年には諸説ありますが、本書では仮に973年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)説が採用されています。紫式部は早くに母と死別したようで、他の女性の邸宅に父が通っていたことは、紫式部の男性観に影響を及ぼしたのではないか、と本書は推測します。
藤原道長は966年生まれで、誕生時に父の兼家は38歳(以下、数え年)でまだ公卿ではなく、道長はその五男で同母兄が二人(道隆と道兼)いましたから、当時、道長が政権を掌握するとは周囲の人間は思っていなかっただろう、と本書は指摘します。道長が古記録に初めて見えるのは982年1月の『小右記』の記事ですが、藤原実資は「右大臣の子道長」と記しており、道長より9歳上で蔵人頭だった実資にとって、道長は呼び捨ての対象でしかなかったようです。さらに本書は、当時まだ摂関家と呼べるような家系が成立していなかったことも指摘します。これらは、道長の生涯を見ていくうえで重要な前提になると思います。また、兼家自身にも同母兄が二人おり、昇進で不遇な時期がありました。道長は兼家が不遇な時期には幼少で、元服した頃には兼家がすでに右大臣でしたから、兼家が不遇な時期にすでに元服していた同母兄と比較すると、昇進では有利でした。また、道長は当時としては晩婚で、それ故に同母姉の詮子と過ごす時間が長く、同母兄の道隆や道兼よりも詮子と親密だったようです。これが、後に道長にとって有利に作用します。
『紫式部集』から推測される紫式部の少女時代は、その学識もあってか、友人から相談を受けることが多かったようです。紫式部の父である藤原為時は有名な文人ではあったものの、官職には恵まれなかったようです。本書は、有名な文人だったので詩会や歌会に召された時に下賜される禄が重要な収入源になっていたのではないか、と推測しています。為時は皇太子時代の花山天皇との縁から、官職にも恵まれるようになりますが、花山天皇の出家と譲位により、十年間も無官となります。一方、花山天皇の譲位と一条天皇の即位により兼家が摂政に就任すると、道長は急速に出世し、986年には公卿となります。道長は988年には参議を経ずに権中納言に任命されましたが、実務をほとんど経験せずに上級公卿に昇進したことになる、と本書は指摘します。兼家は990年に没し、関白の座は道長の同母兄である道隆が継承します。道隆は994年に21歳の嫡男である伊周を内大臣に任じ、後継者と決めますが、公卿社会や詮子の意向は別のところにあっただろう、と本書は指摘します。この時、道長は29歳で権大納言でした。
995年、道長の同母兄の道隆と道兼が疫病のため相次いで死亡し、権大納言だった道長が一条天皇から内覧宣旨を賜り、政権の座に就きます。これには、道長の同母姉である詮子の強い意向があった、と考えられています。道長は同年右大臣に任じられて太政官一上(首班)となり、翌年には左大臣に昇進します。当時、甥である伊周と隆家を除けば、道長は公卿で最年少でした。ただ、道長は病弱だったので、詮子も一条天皇も道長自身も、道長の政権が長期間続くとは考えていなかったはずである、と本書は指摘します。道長政権に伊周と隆家は強く反発し、直接的な口論や従者同士の闘乱さえ起きています。この状況で、996年に花山法皇と伊周および隆家の従者同士の闘乱により、伊周と隆家の兄弟は失脚します。ただ、伊周の妹である定子への一条天皇の寵愛は変わらず、まだ道長の権力が盤石ではなかった、と本書では指摘されています。
同じく996年、紫式部は父である藤原為時の越前への赴任に同行しています。この頃に紫式部は藤原宣孝から求婚されており、父を越前に残して997年末か998年春には都に戻り、998年末に宣孝と結婚します。紫式部が773年生まれだとすると、当時26歳となり、当時としてはきわめて遅い初婚になります。これは、紫式部の性格や結婚観ではなく、適齢期に父である為時が無官だったからだろう、と本書は指摘します。紫式部と宣孝との間には20歳程度の年齢差があったようですが、女性が嫡妻でない場合、当時あり得ないことではなかったようです。宣孝は派手で明朗闊達な人物でしたが、悪く言えば放埓な性格だったようです。なお、仮名文学を残したのがおもに嫡妻ではない女性だったので、当時一般的な結婚形態は妻が夫の訪れを待つ妻問婚だった、との誤解もあるようですが、当時夫は嫡妻と同居していた、と本書は指摘します。紫式部と宣孝との間の娘である賢子(藤三位、越後弁、弁乳母、大弐三位)は、999年に生まれたようです。しかし、宣孝は1001年4月25日に病没し、紫式部の結婚生活は2年半ほどで終わります。本書は、宣孝との結婚が紫式部の特異な男性観や結婚観を生み出し、『源氏物語』の世界に現れることになった、と指摘します。夫を喪った紫式部に求婚した男性もいましたが、紫式部は断り続けました。
紫式部が『源氏物語』を執筆した契機について本書は、当時高価で貴重だった紙を大量に必要としたことから、大量の料紙を提供され、依頼されたのではないか、と推測し、その依頼主として最も可能性が高い人物として道長を挙げています。その目的は、『源氏物語』を一条天皇に見せて、それを彰子への寵愛につなげることでした。本書では、紫式部が彰子に仕えたのは1006年と推測されています。『紫式部日記』によると、1008年に彰子の御前で『源氏物語』の清書本を作成したさいに、道長から紙と筆と墨と硯が提供された、と見えます。また本書は、『源氏物語』が当時の宮廷政治の機微をよく把握していることから、出仕後の紫式部の見聞が『源氏物語』に反映されている、と推測します。
一条天皇没後に、三条天皇と道長の関係が悪化する中で、皇太后となった彰子の政治的役割が高まり、三条天皇から頼りとされた藤原実資は紫式部を彰子との間の取次役とします。道長は三条天皇を譲位に追い込み、外孫の後一条天皇を即位させるなど、権勢を極めますが、一方で、就任したばかりの摂政を息子の頼道に譲り、太政大臣もすぐに辞任するなど、その権力はすでに律令官制の範囲を超えていました。本書は、これがその後の院政につながったことを指摘します。ただ、この頃には道長の糖尿病はかなり進んでいたためか、視力がかなり衰えていたようです。晩年の道長は、当時貴族社会で隆盛していた浄土信仰に傾倒します。本書は、摂関政治そのものに内包された不安な私的隷属関係が無常観の発達をもたらしたのではないか、と推測します。摂関の身分は天皇の外戚であることを必要とし、摂関の権力は娘が皇子を出産するか否かに左右される、不安定なものでした。道長は晩年まで世事に関わりつつ1027年に没し、紫式部は晩年の様子も没年も確かではありませんが、本書は1027年頃まで紫式部が宮廷に出仕していた可能性も指摘します。
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_28.html
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2023/10/28 (Sat) 10:16:46
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源氏物語
http://james.3zoku.com/genji/index.html
源氏物語 あらすじ
http://james.3zoku.com/genji/genji_arasuji.html
源氏物語 与謝野晶子 翻訳
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person52.html#sakuhin_list_1
源氏物語(原文・現代語訳) - 学ぶ・教える.COM
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/genji.html