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外国人“お遍路さん”急増も

1:777 :

2023/07/08 (Sat) 20:54:46

外国人“お遍路さん”急増も…コロナ禍で激減“町唯一”の「遍路宿」女将が奮闘【Jの追跡】(2023年7月8日)
2023/07/08
https://www.youtube.com/watch?v=wOgSKPQa0f0

四国に点在する88カ所の霊場を巡る「お遍路」。コロナの水際対策が緩和された今、外国人お遍路さんが急増。

世界を魅了するお遍路の魅力とは?さらに、コロナ禍でお遍路さんをもてなす宿が激減。おもてなし文化衰退の危機…奮闘する女将の信念とは?

■お遍路挑戦は…「特別な旅」

四国に点在する88カ所の霊場を巡るお遍路。総移動距離は、およそ1200キロ。弘法大師・空海にゆかりのあるお寺を巡り、願いを込めてお参りすれば、ご利益があるとされています。

スタート地点である一番札所・霊山寺で出会ったのは、アメリカから、たった一人でお遍路に挑戦するためにやってきたイミールさん(82)です。

白衣や袈裟、金剛杖など、お遍路の装備一式を購入。すると、まずはアメリカにいる妻に、お遍路姿をビデオ通話でご報告。

イミールさん:「これが、お遍路の完全装備だ。君にいくつか写真を送ったよ。もちろん、皆にもシェアしていいよ」

ところで、なぜお遍路に挑戦しようと思ったのですか?

イミールさん:「これは特別な旅だ。この世のすべての美しいモノを見に行く旅になる」

そう、日本の美しさにふれる旅がしたいと、お遍路に挑戦する外国人は、少なくないのです。

アメリカから:「ドキュメンタリーで見たお遍路の景色がとても美しくて素晴らしかったので、この目で実際に見に来てしまいました」

■「お接待」も魅力「皆が親切」

イギリスから:「他の国でも素晴らしい景色は見られるけど、日本の田舎の風景とは違う。日本の風景が大好きです」

イギリスからやってきた、ザックさん(19)。アルバイトで資金をため、大学に入学する前の休暇を利用し、お遍路に挑戦することにしたといいます。

自然を満喫しながら歩くこと自体を楽しみたいとやってきたザックさん。

ザックさん:「僕は信心深いわけでも、仏教徒でもなんでもない。でも、お寺巡りは良いね。とてもリラックスして、心が安らぐ」

歴史あるお寺の美しさや静けさに魅了されているといいます。

ザックさん:「おいしい」

箸の使い方にもすっかり慣れたザックさんは、お遍路をスタートして、すでに1カ月。風景やお寺だけじゃない、お遍路の魅力を日々感じているといいます。

それが、ザックさん感激の「お接待」です。

住職:「はい、コレお接待。どうぞ」
ザックさん:「ありがとうございます」
住職:「バナナ、これアマカン」

「お接待」は、地域住民がお遍路さんに差し入れや食事を振る舞う、四国に古くから根付くおもてなしの文化です。

ザックさん:「日本は、どこに行っても皆がとても親切だけど、四国は、特に親切だ。特にこれ(白衣)を着ているとね」

■“おもてなし”が生きがい…地元住民

一方、お遍路さんへのおもてなしが生きがいだという地元住民も、少なくありません。

地元住民(91):「コロナになって、お遍路さんが来ないようになって、毎日座っていると何にもなかった。寂しいなーって。(最近)よう来てくれるようになって、うれしい。生きるということを喜んでおります」

ところが今、そんなお遍路さんへのおもてなしが衰退の危機にあるというのです。

売店スタッフ:「今まで、宿を取れていたところも、もう閉まっている」

遍路宿店主:「30軒くらい。四国全体でやめたって聞いております」

お遍路さんが、無料や格安料金で宿泊できる「遍路宿」が、コロナ禍で激減してしまったのです。

林シズ子さん(81)は、高松市で営んでいた無料の遍路宿での「お接待」が生きがいだったといいますが、コロナ禍でお遍路さんがほぼいない状況となり、3年前に休業。にぎわいが戻りつつある今も、再開はできていません。

林さん:「疾患を何かしらもっている、年寄りは。もう(コロナに)なったらイチコロだと思う」

介護が必要な夫(81)の体調を思うと、再開に踏み切れないといいます。

林さん:「(再開したい)気持ちはあるよ。自分が年を取ってくのがいけない。3年経っただけしんどくなってくる。コロナが憎い」

遍路宿を営む人の多くが高齢者。高齢化とコロナへの不安で、宿を再開できずにいる人は少なくありません。

■奮闘…町で1軒となった「遍路宿」

そんななか、遍路宿がわずか1軒となった町で奮闘を続ける人もいます。入江徳子さん(72)です。多くの外国人お遍路さんが利用する遍路宿を切り盛りしています。

タイから:「すごくステキ。とってもカンゲキしているの!こんなに安くて、利益なんて出ないはずだから。思いやりだけでやっているのね」

様々なものが値上げされている今も、一泊1000円という価格を続けています。

入江さん:「私は、めちゃくちゃちゃらんぽらんな人間。だから、なんとかなるさみたいな感じ」

この日、宿泊していたのは、イタリア人のエレオノーラさん(40)と、タイからやってきたニシマさん(31)。

徳子さんは、翻訳アプリを駆使して、コミュニケーション。さらに、宿への到着時間が遅かった2人のために、特別に晩御飯を用意。この食事は、無料の「お接待」です。

ニシマさん:「とってもおいしいわ、最高よ」

エレオノーラさん:「最高ね」

入江さん:「自分も体を動かせるじゃないですか、それで自分も健康でいられるし。お遍路さんのお力を借りて、自分も動かしてもらっている」

エレオノーラさん:「ノリコは最高よ。こういった場所があるから、お遍路の旅が頑張れるの」

自らも、何度もお遍路を経験したという徳子さん。その道中で受けた「お接待」が、遍路宿を始めたキッカケだといいます。

入江さん:「恩返しというのは違うけど…(お接待は)すごく良い文化やと思うから、本当に残ってほしい」

14年前、夫の宗徳さんと2人で、お遍路さん専用の宿を始めた徳子さん。

心のこもったオモテナシが評判で、連日おおにぎわい。夫婦が送り出したお遍路さんは、3000人以上に上ります。

2年前、宗徳さんが他界。しかも、コロナ禍でお遍路さんが激減。それでも、宿を開け続けてきました。

入江さん:「皆から、お母さんお母さんって言われて、大事にされたし。感謝されたり、『頑張ってくださいね』って、励ましの言葉もあったり。ウチみたいなところがあって助かるよと言ってくれる。それでよかったなと思います」

朝5時に起きて、おにぎりを用意した徳子さん。

入江さん:「景色の良いとこで、ちょっと座って。食べてもらえたらいいかなーって」

この日旅立つ、ニシマさんへのお接待です。

そして4日後、お遍路の終着点である88番札所・大窪寺。そこには、お遍路の旅を成し遂げた、ニシマさんの姿がありました。

ニシマさん:「達成できたことが、とてもうれしいです」

47日をかけ、1200キロの道のりを歩いたニシマさん。お遍路を成し遂げられたのは、この土地の人々の励ましがあったからだと言います。

ニシマさん:「四国には、ご高齢の方も多いですが、皆とてもアクティブです。そのため、年を取ることに対する考えが変わりました。人生はとても長くて、色んな生き方ができると考えさせられました」

それぞれの思いを胸に、きょうも多くのお遍路さんは歩き続けています。
2:777 :

2023/07/08 (Sat) 20:59:04

山は死霊が住む場所


弥谷寺(いやだにじ)。


昔から死霊が行くと信じられている弥谷寺のイヤという言葉は、恐れ、慎むという意味で、敬うのウヤ・オヤなどと同義の言葉。徳島県の剣山麓の祖谷山(いややま)のイヤも同じ言葉で、奥深い山村、吉野川上流地方の人は古くは死霊のこもる山というイメージを持っていた。

弥谷参り。

人が死ぬと死者の霊をこの山に伴っていくのが弥谷参りという。
死後七日目、四九日目、ムカワレ(一周忌)、春秋の彼岸の中日、弥谷寺のオミズマツリの日などに、死者の髪の毛と野位牌(のいわい)などを持っていく。


三豊郡旧荘内の箱浦(詫間町)では弥谷参りを死後三日目、または七日目に行なうことになっている。七日目の仏事のことを一一夜(ひといちや)という。

弥谷参りに偶数で行くというのは、帰りに死者の霊がついてくるのを防ぐためであり、帰りに仁王門の傍の茶店で会食をしてから後を振り向かないで帰ることや、家に帰ってから本膳で会食をするというのは、死霊との食い別れを意味する。

墓に設けた棚をこわすのも、死霊が墓に留まるのを嫌がり、再び死霊が家に帰ってくるのを防ぐための風習。

死んでから後に何年かたって、彼岸の中日やオミズマツリに弥谷山へ行くのは死霊に再会するためのものであるかもしれないが、死して間もない頃に行なわれる弥谷参りの行事は、明らかに死霊を家から送り出すための行事であった。

七十一番の弥谷寺参詣をおもな行事として、四国八十八ケ所寺の中で七十二番の曼荼羅寺、七十三番の出釈迦寺、七十四番甲山寺、七十五番善通寺、七十六番金倉寺、七十七番道隆寺を巡ることが春秋の彼岸の中日に行なわれているが、香川県の西部一帯ではこれを七ケ所巡りと呼んでいる。

七か寺の中で弥谷寺参りだけは欠かせないところから見ると、この行事は新仏のあった家では死者の霊を送り出すため、そうでない家では弥谷山にこもっている死霊に会いに行くためのものであった。

このような寺々をめぐる風習が、やがては四国八十八ケ所遍路の風習にまで広がっていく一因になったといわれている。

埋め墓と弥谷山。


弥谷山は死霊のこもる山であるが、それをはっきりと物語っているのは山麓地方から付近一帯に行なわれている墓制がある。今ではそれは両墓制(りょうぼせい)と呼ばれ、死体を埋める埋め墓と死後一年とか二、三年目に建てられる参り墓(石碑)との二つの墓を有する墓制として知られているが、どちらかというとそれはそれほど古くない墓制であった。

死者の霊はなんということなしにひとりでに弥谷山に上っていくようになっている。弥谷山には死霊の行く山としての信仰が深く、付近の住民にとってはもちろん四国の霊地を遍歴する者にとっても、どうしても立ち寄らねばならぬ霊場なのだ。

http://haruhenro.blog60.fc2blog.us/blog-entry-46.html
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2023/07/08 (Sat) 21:03:04

『四国辺土』現代の草遍路に密着した比類なきルポ
首藤 淳哉 2021年12月8日
https://honz.jp/articles/-/46163


四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼
作者:上原 善広
出版社:KADOKAWA
発売日:2021-11-26
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E8%BE%BA%E5%9C%9F-%E5%B9%BB%E3%81%AE%E8%8D%89%E9%81%8D%E8%B7%AF%E3%81%A8%E8%B7%AF%E5%9C%B0%E5%B7%A1%E7%A4%BC-%E4%B8%8A%E5%8E%9F-%E5%96%84%E5%BA%83/dp/4041090741




遍路については、恥ずかしながらたいして知識がなかった。なにしろこの本を読むまで、そば打ちと同じように、「仕事をリタイアした男性が手を出しがちなもの」くらいにしか思っていなかったのだから。

弘法大師(空海)ゆかりの四国八十八箇所の札所を回る遍路は、現在年間20万人ほどいるという。ほとんどはバスや車を利用して回るカジュアルなお遍路さんだが、中には遍路で生活している人もいる。草遍路やプロ遍路、生涯遍路などと呼ばれる人々だ。

著者は女性問題をきっかけに睡眠薬依存になり、依存症を克服するための運動療法の一環として遍路に出ようと思い立った。もうひとつ著者の興味を引いたのは、地図を繰り返し眺めるうちに、遍路道沿いに路地が集中していることに気づいたことだった(著者は中上健次にならって被差別部落を「路地」と呼ぶ)。著者にとって路地の探究はライフワークである。遍路になって訪ねてみれば、また違った路地の姿がみえてくるのではないかと考えた。

本書は著者が5年をかけて遍路を続けた記録である。旅の空に現代の草遍路を探し、時に托鉢を共にし、また道々で路地の歴史をたどった。巡礼を通してみえてくるのは、「聖」と「賤」が織りなすこの土地独特のネットワークである。

そもそも遍路はいつごろはじまったのか。弘法大師が42歳の厄年だった815年に四国霊場を開いたのが始まりとされるが、これはあくまで伝説で、実際には四国遍路がいつごろ成立したのかよくわかっていないという。いつからか修行僧たちが空海の足跡を辿るようになり、室町時代にはこの動きが庶民にまで広がった。江戸初期の1687年には巡礼者向けのいわゆるガイドブックが出版されており、この時にほぼ現代の形が確立されたらしい。

いまでこそ車やバスを使えば10日ほどで回れる巡礼も、昔は徒歩で二、三ヶ月かかった。戦前まではハンセン病などの病気や障害を抱えた人、口減らしなどを理由に遍路に出される人も多かったという。彼らは遍路で生きていくしかなかった。二、三ヶ月どころか、死ぬまで巡礼を続けながら、人々の施しを受け、命をつなぐしかなかったのである。

こうした人々のことをかつては「辺土(へんど)」と呼んだ。現在も四国では「乞食」を指す言葉として残っているという。辺土は昭和30年頃までは多くみられたが、社会保障制度の拡充とともに姿を消した。だがいくら社会保障制度が整備されても、そこからこぼれ落ちたり逸脱したりする者はいつの時代にも存在する。現代の草遍路もそうした人々だ。

それにしても、遍路というのはなんと矛盾した存在であることか。
彼らは人々から差別された。昭和30年代くらいまでの子供たちは遍路が通りかかるとよく石を投げたという。親の言うことをきかない子供は「へんどに連れて行ってもらうぞ」と脅かされたりもした。
その一方で、遍路は人々から畏敬の目でみられる存在でもあった。経文を唱えながら回る姿に人々は弘法大師の姿を重ねた。四国にはいまでも遍路に一夜の宿を提供する善根宿や、食べ物や飲み物などをふるまう「お接待」と呼ばれる風習がある。

こうした遍路がはらむ矛盾を象徴するような事件がある。「幸月事件」である。幸月は有名な遍路だった。全身白ずくめに、ふさふさとした白髪と白髭をたくわえ、黒光りする特注品の菅笠をかぶり、自作した錫杖をじゃらんじゃらんと鳴らしながら歩いた。腰には道端で死んでいたタヌキをタヌキ汁にして食べた後の皮を巻き、恵比寿神を思わせるような丸顔に天真爛漫な笑顔を浮かべ、山頭火のような句を詠んだ。異様な風貌は、遍路姿を見慣れている地元の人すら只者ではないと唸らせるほどだったという。

これだけキャラが立っていれば、メディアも放っておかない。雑誌に取り上げられ、やがてNHKのドキュメンタリー番組で大々的に取り上げられた。そして、お縄となった。

幸月はかつて大阪の西成で知人を刺して逃走し、指名手配されていたのだ。番組に本名で出演したことから身元が割れたのである。逮捕後は幸月への激しいバッシングが起きた。だが一方で興味深かったのは、支援に乗り出した地元の人々もいたことだ。もともと四国遍路は、追い詰められた人々が最後に頼るセーフティーネットとして機能してきたという歴史がある。細々とではあるが、いまもその伝統が生きていることをこの事件は教えてくれる。

著者は事件を伝える新聞記事をきっかけに、草遍路の存在に興味を持った。
実は「草遍路」は幸月の造語である。「草を住処とし、草に還る」という意味だ。遍路になる人はさまざまな事情を抱えている。遍路どうしで話をする時も、その人の背景を尋ねることはタブーだという。旅に生きる草遍路ともなれば、なおさらだろう。

本書は著者の遍路体験と、現代の草遍路へのインタビュー、そして路地の歴史から構成されている。そこから浮かび上がるのは、「聖」と「賎」が複雑に絡み合ったこの地の歴史である。ひとくちに「聖」と「賎」といってもわかりやすく色分けできるわけではない。例えば昔は遍路が体制側から取締りの対象とされたこともあった。四国の中でも特に取締りが厳しかったのは土佐藩・高知県だが、この時「遍路狩り」に駆り出されたのは、路地の人々だった。

路地もまたひとくくりにはできない。ある古老は、同じ路地でも職業グループが違うと昔から交流がなかったと振り返る。身分が低い者どうしを反目させるように仕向けられていたのかもしれない。このように複雑に絡み合った歴史を、著者は丁寧に拾いあげていく。

本書の白眉はある草遍路との出会いである。遍路として旅を続ける中で、著者は「ヒロユキ」という草遍路と出会った。このヒロユキの半生がつらすぎる。徹底的に「負け続けの人生」なのである。彼は草遍路になるしか道がなかった。だが意外なことに、遍路になって初めて、ヒロユキは自らの人生を肯定できるようになったという。なぜヒロユキはそんな境地に達することができたのか。その理由はぜひ本書を読んでほしい。

現代は「すべり台社会」だといわれる。いったん社会のすべり台からすべり落ちてしまった人は二度と這い上がれないとされるが、本当にそうだろうか。

著者は本書で、現代の日本にひっそりと息づくセーフティーネットを浮かび上がらせた。もはや社会にアジール(聖域、避難所)なんてないと考える人こそ、この本を手にとってほしい。人生に絶望した者の魂を浄化し、帰る場所を無くした人が再び自分を取り戻す。そんな奇跡が起きる場所があることに、きっと驚くはずだ。
https://honz.jp/articles/-/46163
4:777 :

2023/07/08 (Sat) 21:20:40

死と再生というテーマ

ユング心理学の本を読んでいて「死と再生」というテーマにたびたび出会うことに気がつきました。

ここでいう「死」は肉体的な死を意味するのではなく、象徴的な「死」のことです。それは、「ひとつの世界から他の世界への変容を意味し、古い世界の秩序や組織の破壊を意味」しています。 象徴の世界の「死」は肉体の死と直接結びついているものではなく、ある人が象徴的な死を繰り返し体験しても、肉体的生命は生き続けていることが多いのだそうです。 ユング心理学では、たとえば「結婚」は娘にとっては処女性が失われるという死の体験であり、両親にとっては娘が失われる死の体験という、2重の死が含まれていると考えます。

肉体的な死と象徴的な死はかならず結びつくものではないですが、微妙なかかわりを持つものでもあるといいます。生死をさまよう体験をしたときに、それを転機としてそれ以降の人生が大きく変わるようなことがそうです。これは特別新しい考え方ではないですよね。夏目漱石が生死をさまよう大病をわずらったあとでその後の作品が変わっていった例、また精神科医であった神谷美恵子さんが若い頃結核になったが自分が死ななかったことが心の中で大きな部分を占めていたこと、作家の辻邦生さんも生死に関わる病気をしていたことがその後の作品に影響を与えていると思います。

このような死と再生のテーマを、河合隼雄さんが自殺との関わりについて述べたものがありました。自殺しようとする人が、象徴的な意味での死の体験を求めていることについてです。人は深い意味での死の体験によって、次の次元に生まれ変わることができる。このような体験を求めたが、しきれなかった(死の体験をしそこなった)ために自殺未遂を繰り返すことになるというものでした。

深い意味での死の体験には充分な自我の力が必要になるといいます。自我の力がそのときに充分強いかどうかで、ひとりでその体験を行ったり、セラピストの力が必要であったり、または今はそのときではないとして、それが肉体的な死の体験へつながってしまうことを予防するのだそうです。

死の体験はいちどすれば終わるのではなく、その体験を繰り返しながら長い成長の過程をたどっていくものでもあるそうです。

自殺が精神の再生や新生を願って行われることもあるという考え方は、自殺がすべてそのようなものと考えるのではないですし、自殺をすすめるものでもありません。ここで私が伝えたかったのは象徴的な死の体験が、次の次元へ生まれ変わる意味をもっていること、そう考えることで自分自身の「死」についての考えに何かが加わったように感じたことです。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4875/kangae/kangae_02.htm


巡礼 『身毒丸』 ―賤民・漂白民の救済


巡礼をする者の多くに昔は病(ライ病など)を患ったものがいた。かつてはライ病などは前世の因果に寄るものであり、過去・前世で悪徳をつんだその報いである、つまり因果応報であるという観念があり、治癒のためすなわち罪の謝罪、贖罪の為の巡礼であった。このことはユダヤ教の世界や日本で言えばかの有名な『砂の器』by松本清張にもその例を見ることが出来よう。

ここでは説教『身毒丸』を例に巡礼に託された贖罪と復活、それを見守る仏の加護についてみていこうと思う。

―身毒丸は過去に罪を犯し人間に転生した後は子供が授からない夫婦の間に、清水観音に祈りようやく得ることが出来た一子である。しかしこの母が慢心し観音に向け非礼の言葉を吐き、神仏の怒りに触れ死去する。新しく迎えられた継母の計略・呪いによりライ病となり身毒丸は(呪われたことを知らず自身の因果によるものと思い込み)家を追放させられ、業病治癒するため熊野への巡礼にでる。やがて許婚である乙姫も身毒丸を探すため巡礼者の姿に身をやつし、観音の加護により再会を果たし身毒丸の業病も治る。二人は末永く幸せに暮らす。―というものである。

これは共同体から異人として追放されるというシステム的な巡礼ではない。むしろこちらは仏教的な、もっと人間の原罪に対する罪の償い、その再生へのプロセスとして作られたストーリーである。これは説経なのだから仏教的な教えであることは当然なのだが、人間の作品に多く見られるテーマすなわち「再生」のための「死」、原罪への贖罪という永遠のテーマである。

キリスト教徒同じく神に逆らった(観音に非礼した)親の罪はアダムとイヴと同じく、現状に甘んじた「慢心」つまり神・仏の庇護・加護を見失うというところにある。神仏の怒りに触れた人間(身毒丸の母)の罪、さらにはその母の前世の罪をもかぶり、身毒丸は因果応報の贖罪の旅=巡礼にでるわけである。身毒丸はライ病となり、追放される。これはすなわち一度「死に」、巡礼し、熊野にて「再生」するという死と再生のプロセスであり、過去の因縁から解き放たれ一人の人間としてより生きるための必要不可欠な通過儀礼であったのだろう。

 四国遍路の同行二人(自分と弘法大師)、西遊記の三蔵と観世音、聖地巡礼における神との同化・・・巡礼はその行程を神仏なりその大きな庇護のもと、共に歩むということに意味がある。 ここでその役割を果たしているのは巡礼者に身をやつした乙姫であり、その彼女には観音の庇護がついている。彼女は神仏=観音として身毒丸の後を追い捜し歩く。同じ道を歩み、その罪を同じくその肩に並べているのである。 ここで乙姫に連想されるのは「あるき巫女」(=漂白するシャーマン的な巫女)であり、乙姫の存在があるからこそこの巡礼は成功したのである。

さらにこの物語は説経である。説経、つまり中世の漂白民(賤視され虐げられていた芸能民、定住せず漂白する異人)による語り物でありその中には賤民としての屈辱的な痛みや苦しみ、「仏にさえ見放されている」という悲しみを訴えようとする手段でもあった。 『身毒丸』のなかで観音は加害者と庇護者の二面性をもっている。

継母の呪いを叶えライ病にしたのも、逆にそれを赦し治したのもともに観音である。 前者(加害者)としての観音にとっての身毒丸はまだ因縁・罪を背負ったままの姿であり、それは救われない(仏すらも見捨てた)彼ら漂白民の姿である。 

逆に後者(庇護者)にとっての彼は一度死に、追放され漂白し、再生・復活を遂げるに値する人間である。漂白=巡礼という方法は彼ら漂白民にとって救われるための「通過儀礼」であり、これに意味を持たせるのは彼ら下層漂白民(芸能民)に広く慕われていたあるき巫女の同行する姿である。 中世、彼ら下層民に呪術的方法や絵巻物をもって救いを説き布教して漂白したあるき巫女。彼女を媒介にして観音は同行するのであり、この通過儀礼によって彼らの救済プロセス神話が成り立った。

この物語は一つには因果応報の物語であり、一つには人間の根源的な死と再生のプロセスである。しかしこれらを生み出した根本的な底辺にあるものは、救いの無いところに救いをもたらそうとあがく、名もない漂白民(異人)たちの足掻きであることを忘れてはいけない。

http://utsusemi.at.webry.info/200507/article_13.html


お遍路四国廻り


巡礼の衣装は死装束であるといわれています。その巡礼者が亡くなったときに巡礼衣を着用させて野辺の送りをするからでもあります。死装束は巡礼と同じく遠方への旅立ちの服装であり、巡礼の衣装とほぼ同じです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/shikokuhenro%20miryoku.html


遍路の目的
   
 そもそも四国遍路はどういう目的の為にあるのか、という問いには、最も根源的なセイフティネットの提供にあり、端的に言えば

「死に場所の提供にあり」

と答えたいのです。それは人間の心の底の底、最も奥深い所にある願いに応えるものです。

 その証拠がいっぱいあります。遍路道は死屍累々たる有様です。即ち、行き倒れたお遍路さんの墓があまりにも目立ちます。当初、私は「志し半ばで行き倒れた気の毒なお遍路さん」と見ていたのですが、やがて

「行き倒れこそが目的なのだ」

と気付きました。 今の時代、セイフティネットといえば、失業保険とか生活保護制度を思い浮かべますが、それは表面の見易い部分のネットです。頼るべきものが何も無く、絶望に打ちひしがれた人々にとって、「お大師さんの足許で死にたい」のが最期の願いであり、究極の目的なのです。

 そして、「死に場所の確保」という究極の目的のかなり手前に位置しているのが、先に述べた「通過儀礼」「リフレッシュ」「自分探し」等々です。
http://www.eonet.ne.jp/~oonomasa/henro.htm


村で不治の病になるとその村から追い出される。行き場のなくなった者は遍路に出るのだ。
http://nehan.net/shikoku88.html

「・・・・四国が"死国"であり、そこへ行って死にたい場所であり、さらに重要なのは、そこで再び蘇生したい"再生"の場所でもあるからだろう」


 「"死への旅"と考え、家族の中には、送り出した巡礼者が『旅の途中で極楽に行ってほしい』と考える者もいた。不治の病いにかかっている場合は特にそうだった。人間のギリギリのかなしいいとなみである。」

http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8D%E8%B7%AF%E5%9B%BD%E5%BE%80%E9%82%84%E8%A8%98-%E6%97%A9%E5%9D%82-%E6%9A%81/dp/4022566698

遍路とお接待

又、四国には古より修行者が多かった為に、修行者に「善根功徳を施す」為に「お接待」が盛んでした。その為、そのお接待を生活の糧として巡拝し続ける者もいました。

その者達の多くは、貧困のために国を捨て出てきた者、不治の伝染病のために国を追い出された者が大半でした。

その者達は札所を一周しても帰る所もなく、結局は接待を当てに死ぬまで四国を歩きつづけなければならず、故郷に帰ることなく、人知れず果てた無縁仏の遍路墓が今も無数に残っています。
http://www9.plala.or.jp/umibose/henro_yomoyama_frame2_2.html

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遍路の捨て手形

村落共同体からの資金提供( 講 )により代表に選ばれて四国遍路に行く場合がありました。その際には村の豊作祈願、病人の平癒、除災招福祈願の義務を負うと共に、親類縁者、郷中をあげて盛大な送別の宴を開いて旅の無事を祈りました。

出立に際しては、今生の別れになるかも知れない家族親類の者と 「 水さかずき 」 を交わすと共に、檀那寺や庄屋から発行された「 捨て手形 」と呼ばれる通行手形( パスポート )を持参しました。


例文、その一、

万一いずかたにても病死等仕り候とも、その節は、国元へ御通達に及ばず、その御所( 御当地 )の御作法、御慈悲を以て御葬い下さるべく候。


例文、その二
万一病死等仕りそうらはば、国州( その土地 )の御作法に御取置( 処分=埋葬 )なされて、国元へ御届け ( 死亡の連絡 )申すにおよばずそうろう、しかして一件くだんのごとし

遍路墓

遍路が旅の途中で病気や行き倒れで死亡した場合には、所持金があれば村人がそれで墓石を建ててやり、無一文の場合には、土まんじゅうの墓に遍路が使用していた菅笠をかぶせ、遍路の「杖」を立てて墓標として葬りました。

遍路が持つ金剛杖については、仏法を守護する役目の金剛力士が持つ金剛杵 ( こんごうしょ )に由来するといわれていますが、前述のように万一の場合には墓標の代わりとしても使われるので、昔は必ず住所、名前を書いたそうです。

遍路墓でことに哀れなのは、道端や丘の辺に、あるいは渚の近くに盛られた 土まんじゅうの上に、杖や笠だけが差し置かれている光景である。それ以上に哀れなのは、帰るべき場所もなく現実に生命の終わる日まで、たえず巡礼を続けている、身体障害者や ハンセン病者などの遍路たちの姿である。

と記しています。いまでも昔ながらの遍路みちを歩くと、生まれ故郷を捨て/追われ、あるいは故郷の人達に知られぬままに、遍路の道中でその生涯を閉じた不幸な遍路達の墓石や、それらの霊を慰める野仏を道端に見ることができます。

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/henro.htm


*菅笠{笠の四方に以下の文字が書かれている.

「迷故三界城」まようが故にさんがいはしろ
「悟故十方空」さとるが故にじっぽうくう
「本来無東西」ほんらいとうざいなく
「何処有南北」いずくんぞなんぼくやある


(迷えば狭い枠のなか、悟れば宇宙のただなかだ、風にまかせて歩くだけ。>


真言宗と禅宗では死者をいれる棺に書く文字で,遍路が死んだ時,この菅笠で死者を覆い、棺の代わりとする.

http://www.geocities.jp/out_masuyama/yougo11.htm

お遍路の出で立ちは死に装束


路傍に残るお遍路さんの墓…歯長峠の麓

 かつて旅は命懸けであった。遍路の途中で病気、その他で亡くなることは想定内だった。また、死に場所を求めて四国遍路に出る人も少なくなかった(現代でもそういう人はいる)。白衣は死に裝束、お杖は卒塔婆、菅笠は柩の蓋でもあるのだ。江戸期の遍路道を歩くと傍らに供養のためのお地蔵さんや墓石をよく見かける。

 安全になった現代も往時のスタイルを踏襲しているわけだが、現代人の意味合いは、熊野詣でが黄泉の国熊野から生還し活力を得る『よみがえり』にあるように、死に裝束で巡拝することにより心を洗い心を磨いて『再生』することにあるのではないか。
 http://furusato-shinbun.jp/2010/11/%E3%81%8A%E9%81%8D%E8%B7%AF%E3%81%AE%E5%87%BA%E3%81%A7%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%81%AB%E8%A3%85%E6%9D%9F.html

遍路道は1200年もの間、宗教に癒しを求める人々が踏みしめた心の道である。88カ所霊場巡りをする人は、それぞれ色々な思いや動機をもって歩いている。楽しいことがあって歩く道ではない。この道は苦しみ、悲しみ、失望等からの救いを求め、仏の助けにすがる巡礼の想いが踏みしめた道である。同行二人、山中の遍路道には仏の気配が漂っている。精霊たちが生きている。

 歩き遍路は、昔も今も、何らかの悩みを背負って、俯きがちに重い荷物を背負って、独り黙々と歩いていく。渇きと空腹、疲労、足の痛みを耐えつつ雨の日も風の日も寺から寺へと救いを求め、死を探し、再生を願って、黙々と独り歩く。一人黙々と歩く四国の深い山々は孤独な魂が神の気配を感じる空間である。

山間の寺と寺を結ぶ道は、古来からの遍路道もあれば、また舗装された高速道路もある。どの道も、現代社会の我々一般人には一種の苦行である。海岸沿いの延々と続く国道は意識が朦朧とするほど厳しく、体力の限界に挑戦する苦痛の道である。もう諦めて、遍路歩きを止めたい。深い山道を歩く時は、くじけそうな心を励ましてくれる霊的なものを背中に感じる時がある。どの道を歩いていても仏の助けの手が何処からか差し出されていると感じることが必ずある。神の声か、神の気配か、弱気の自分を励ましてくれるものがある。一陣の風が梢に鳴るとき、その気配を感じるときもあれば、小鳥のさえずりに疲れが消えることもある。

お遍路さんの白装束(死に装束とも言われるようである)は必要である。四国の人々は、一千年以上にわたって、白装束のお遍路さんに接して来ており、お遍路さんになれ親しんでいる。88カ所を遍路歩きする仏道修行者に対しても、娑婆の苦痛を逃れ、あるいは再生を求め神に救いを求める庶民の弱い気持ちに対しても、遍路道はそれを理解し同情する心の優しさを持っている。独りで歩いていると必ず四国の山間に住む人々の優しさに接して感激することがある。人情篤いということの重要さを改めて感じるものがある。行脚の苦しさに、独り歩きを悔やみつつも、それゆえに、仏に救われ、優しい人情に涙することがある。

山間の人々は、白装束の一人歩きのお遍路さんに敬意を払い、また優しくお接待することが、まるで自分の救いであるかのように振る舞ってくれる。山深い田舎の老人に手を合わされることもある。世をすねて独り歩く私には、畏れ多く涙が出る。都会生活の中で長らく忘れていた心のひだの奥の奥に眠っていた大切なものを想い出させてくれる。白装束がそういう人情を呼び起こすのであろうか。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/shunro/ohenro1.html


四国遍路の人

 大学生と見間違えたお遍路さんは、四十歳後半の実業家だった。回りはじめた理由を聞くがはっきりしない。皆そうである。四国遍路をしている人たちは理由がはっきりしない。しかし、はっきりしないだけに動機は深刻であったりする。悲しいことは皆伏せているから。そのうちに打ち解けてくる。

 「まず、自分を鍛えなければ」と言う。仕事は快調だが壁を感じている。現代皆そうだ。燃えていて不完全燃焼。そして

「見えなかったものが見えてくる。四国を歩いていると政治も経済も見えて来た」

と言う。四国には山と海と貧乏しかないのに。

 この言葉分かるだろうか。梅雨から盛夏へ、草の生い茂る獣道を杖で毒蛇を探りながら歩いてきた人の言である。大阪に戻れば、一糸乱れぬ仮面の経営者としての彼が待っているだろう。

「帰りたくなくなった。ずっと遍路していたい気持ちだ」。

そのままアウトサイダーして永遠に回る遍路さんになれるような気がする場所だ。


四国遍路の人 2

 この寺で多くの若いお遍路さんが途中下車する。そして途中下車する人はやはり人生で途中下車して遍路へ出た人である。

「仕事で失敗して遍路している」
「家庭が崩壊して・・」
「高校は出たけれど・・」
「一度就職はしたけれど・・」

という具合である。 遍路は一時の逃避地である。そして癒えた人、再起した人は遍路を途中下車する。この遍路、何度回ってもいいことになっているが、活路を見いだせなければそのままその人の墓場となる。「自殺行」「死に場所」「死国」といわれる所以である。遍路道の傍らには行き倒れの遍路たちの無名の墓が多く残っている。

 四国遍路の人 3

「気がついたらお寺に来ていた」。

突然夫を亡くした彼女は、悲しみにくれていて、私にはなすすべがなかった。そんな彼女が四国遍路を始めた。そして二度目を回るという。

「お遍路をしている時は気がまぎれます。お札所で会った和尚さんの言葉で少し気が楽になりました。まだまだいたたまれない気持ちですがもう少し回ります」

と言う。 最愛の人を亡くして、誰にも会いたくない、悲しみを独り癒したいという人はどこへいけばいいのか。同行二人。本来は弘法大師と二人連れという意味だが亡き人と二人連れの旅である。人が しねば、そのお位牌を持って一緒に回れば功徳になるという。巧い話だが、実際に時間をかけて同行二人していると心が安らいでくるというから不思議である。

 何のことはない。時間が必要なのである。人と分かれるには全く空虚ではない時間が必要なのである。何か有意義な事をしながら時間をかけて自分を変えていくことが必要なのである。親戚の関係が薄くなった。人間関係の絆が弱くなった。人が無条件に大切にされる場所はどんどん減っていく。

 お四国はお弔いが認知された数少ない場所である。悲しみが寄り合う場所。その悲しさが悲しさを和らげる場所である。そして人が生きていくとはこんなに悲しく苦しいことだと知らされる。


 四国遍路の人 4

 「私の父はどうしてそんな人々を泊めてあげるのか分からなかった。ライ病や肺病のお遍路さんを善根宿だといって泊めてあげるのです」。

 社会的困窮者への最終福祉施設としての遍路は実話であった。この寺にも常連の永劫回帰のお遍路さんが泊まる。手押し車に家財道具一切を積んで回ってくる親子もいた。着替えもろくに持たず、何日も風呂に入らぬ体に近づくには勇気がいる。

「村で不治の病になるとその村から追い出される。行き場のなくなった者は遍路に出るのだ。四国には昔から、外から来たものを大切にする太子信仰があって、そんな人々をも食べさせ、お堂に幾日かずつ泊めた。そして次の村へと引き継いだ。途中で亡くなれば墓を立てた」。

 社会から忌避され追い出されてきた者と、それを「お遍路さん」として迎える者。不思議な世界がここにはある。元々、遍路する人は弘法大師であったり、外来の異文化招来の聖者、滅罪の修行者、ひいては自分の代わりに修行して回る人である。遍路の姿をしていても病人や悪人や生活困窮者を差別するのかどうなのかが、接待する側の人々には「やさしさ」として求められた。迎える側は、来訪者の難儀を知って迎えたのである。そこには尊い人であると同時に、底辺の人であるという構造が出てくる。難病の者を手厚くもてなすという捨て身の行為を導き出すこの遍路というシステムは、人間心理の清濁を包括している。


四国遍路の人 6

 納経帳というのがある。八十八の寺で本尊の印を貰う。そして真っ赤になった納経帳がある。それは何十回も回った印である。行き場のない遍路人である。回れば回るほどいいから回っている訳ではない。回るしかないから回り続けるのである。


 
四国遍路の人 7

 歩きはじめる時、お遍路さんはあれもこれも沢山の荷物を持って出掛けるという。そして歩を進めるうちに身軽になっていく。これもいらない、あれもいらない。そうして最低限必要な物だけ持って歩く。それはお釈迦さんの袈裟と鉢だけの遊行を思い出させる。持ち物が減っていくにつれて、出会う人が大切に思えるという。



四国遍路の人 8

 とくべつ何があるわけでもない。とてつもなく長い四十日間。何もないと言った方が良いかもしれない。こんな所へ何故人々は来るのか。どうして何時までも居るのか。

 「どこにも行き場がない」からだという。世の中が暮らしにくくなると遍路が増える。若者の遍路や四十歳過ぎの遍路が増えるのは時代を反映しているのだろう。ただしその人々は「行けば何かあるだろう」ということでやって来るのである。

http://nehan.net/shikoku88.html

発心は、常に死と再生を意味します。つまり遍路では、穢れた生を捨てて仏道を歩み、満行のあとは仏弟子として生まれ変わることになります。そのための白装束(死に装束)です。

発心の前に一旦死ぬ、という行為自体は、例えば吉野川での水垢離のあと、発心門をくぐって大峯の奥駈に向かう修験道にもみられます。ここでの水垢離は、「煩悩に満ちた生への決別」=「自殺」を意味します。

また、「新たな生を得る」という意味では、修験道の行場に「胎内くぐり」、つまりは産道を通過するという象徴的な装置(場所)を設置していることからも明らかです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1337257978


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日々のたわむれ流しうてき


「然れども寝所(くみど)に興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流しうてき」

古事記においてヒルコが何を指しているのか、はっきりしない。イザナギ・イザナミ2神の初回の神産みは失敗し、不具の神が生まれた。それがヒルコである。不具なので船に入れて流し去った。一説によるとヒルコは「日の子」のことであり、皇子であったが身体的な欠陥により、島流しにされてしまったのだという。或いは女王の弟であり、邪臣がそれを排除しようとした過去の記憶なのだともいう。

しかしここでは事実が重要なのではない。「なぜ神が水に流されたのか」という点がポイントである。

「水に流す」ということはその存在と決定的に離別したいのではなく、現在の密接な関係を、遠い微かな関係に変換したい、ということを意味している。というのは水は現世との断絶と連続という二重性をもつ媒体だからである。水は海上他界へ繋がっており、そこは現世とは隔たった場所である。と同時に、そこへは決して辿り着けない訳でなく、俗人でも船を用意すれば行く事ができる。

実際、中世には多くの人々が「ふだらく渡海」を行って海上他界へ行こうとした。これは主に熊野地方の僧侶が東方のふだらく浄土に行こうとして、舟に乗り込んだものだ。当然、浄土などは存在しないから、これは即身仏と同様の入水往生、すなわち宗教的自殺であった。僧侶は舟底に食糧・水とともに入れられ、入り口を塞がれて熊野灘から海洋に送り出された。

戦国期には厭世感から庶民の間にもこの風習がはやり、多くの人々が死出の船出をしたということが、ヴィレラやフロイスらの宣教師によって報告されている。

「男が往きたいと欣求している天国は海底にあり、そこには観音(カノン)と称す聖人がおり、(中略)おのおのはできるだけ早く〔海底の〕天国へ至ろうとして、背中に大きな石を縛り付け、袖にも一杯に石を詰め込むのである。私の見たのは七人の同行者が従っていた。そして私の最も驚いたのは、彼らがたいそう歓喜して船に乗り込み、海へ飛び込んでいったことである。」(ガスパール・ヴィレラの書簡)

「海へ身を投じた幾人かは、手に長柄の鎌を携えていた。それは道中、足元を邪魔する荊の茂みを取り除くためと言われている。海へ投身しない人々もいるが、それらの人々は船底に大きな孔をあけ、そこへ栓をして後でそれを引き抜き船諸共に海へ沈むのである。」(ルイス・フロイスの書簡)

沈めない場合は、同行者が火をつけて滅してしまうのである。このような船の燃える姿は、中国南部や台湾の「王爺祭」を彷彿とさせる。王爺祭は実物に匹敵するような大きな船を作り、それを流し燃やすことで王爺神を天に送り返す、という祭儀である。この風俗は日本の精霊流しを思い起こさせる。元々は精霊流しも王爺祭もともに唐時代の風俗であり、当初は穢れを人型に入れて流していたのだ。その風習がほぼそのまま残ったのが日本の流し雛である。中国ではその後人形が船や灯籠に変わり、それを新たに受け入れたのが長崎であり、そこから日本各地へ伝来していったと考えられる。

いずれにせよ、水はこの世とあの世を結ぶ通路であり、不要なものを決別するために使われた。この点はヒルコ流しも精霊流しも同じである。そして単に決別するだけでなく、その再生と復活を願う気持ちも「流し」には込められていたのも、両者に共通している。精霊流しは祖霊という祟りと恩恵の双方をもたらす神に対処するために考案された装置である。殺してしまうと祟りがあるために、流してしまわないとならず、また丁寧に送り返せばまた来年には再来して恵みをもたらしてくれるための流しなのである。ヒルコも同様であった。古事記の時代には、ヒルコは単に祖神だけであったに違いない。だが後にそれは流れくる神であるエビス信仰と習合し、現世に復活を遂げた。

それと同様に、ふだらく渡海を決した人々も、単にこの世と決別したいというだけでなく、この世に復活を遂げたいというささやかな願いを持っていたように思う。実に、水は死と再生をつかさどるからである。

人は羊水の中に生をうけ、水の中に溺死する。その冷たく透明な液体は遠い場所へと続いている。詩人・天沢退二郎の「光車よ回れ」に、水たまりにのまれて死ぬ子供のエピソードが出てくる。水たまりは水底の世界に繋がっており、その他界では水の民が現世を征服しようと企んでいるのであった。インド人はガンジスの流れに死灰を撒く、というのが最高の葬式なのだという。それは当然水の流れに死に、そして再生を願っての行為に違いない。

水は鏡である。人が自らの姿を見ようと鏡を覗くのは、実にその裏側の他界を覗き見ようと言う無意識の表れ、そしてそこから繋がる生死の深淵をたどろうという震えにも、違いないのだろう。だからこそ、子供は鏡の裏側を手探りしたり、天井を映して異次元の世界に入り込んだり、また真夜中に鏡から魔物が現れる、というのは鏡と水は繋がっているからである。

だが近代になると水路は塞がれる。塞がれた水路は別の道を見つける-それが鉄道である。現世から来世への道は、たとえば「銀河鉄道の夜」で如実に示される。カムパネルラは「水死」した霊であり、ほかの人々もタイタニック号の沈没で「溺死」した魂である。

そして、鉄道もまた死と無縁ではない。それは昨年だけでも200名近い日本人が、世界では1000名をこす人々が鉄道事故死を遂げていることを知れば十分だろう。鉄道が生死をつかさどる別な例としては、「幽霊列車」が有名だろう。あの世からやってきて、この世の死人を乗せて去る列車のことである。これは「ふだらく船」や「幽霊船」の近代バージョンであると、考える事ができる。

幽霊船のイメージもまた、南中国から伝来したものらしい。宋の民俗記録である「夷堅志」によれば、広東の南方には幽霊の乗る船があり、生者の船が来るを見ると危害を加えようとするのだという。それを防ぐには握り飯を与えなければならないが、この話は日本の「船幽霊」伝説とよく似ている。 日本でもまた亡者は生者の船を沈めようとするため、握り飯や底のない柄杓を与えなければならない。柄杓はどこか理知的で作為的な臭いがするため、原型は食物を与えて去ってもらうということだったのだろう。その背後には、亡者は生者を貪り食らおうとする根源的な恐怖が見られる。

だが鉄道と水運では異なることが一つある。それは水に流れた死者は再来することができるが、鉄道で運ばれた霊魂は二度とは帰ってこれない、ということである。カムパネルラとジョバンニが永遠に別れなければならなかったのは、その点にある。祖霊は水に流れても翌年にはまた帰ってくる。しかし「ナルニア物語」で鉄道事故にあったペペンジー4きょうだいは、二度と現世には戻ってこれない。そこには輪廻や霊魂を信じないキリスト教の影響が見られるが、それよりも鉄道には死のイメージはあるが、生のイメージがないという点が大きく関わっているように思える。

そのような水の特性は、水が摂取物であることにもよる。水は人の外部にあるだけでなく、その内側にも存在する。人体の半分以上は水分であり、人は自らの水の中に浮かぶ生物とさえいえる。そこからすると、水死は破壊ではなく、むしろ人が本来の姿に戻ろうという消極的な意志の顕れなのかもしれない。実際、水中で出産すると痛みが軽減されるという報告もあるほどだ。タラソセラピーに習うまでもなく、日本人が日々入浴するのは、実にそのたびに擬似的死と再生を誓おうとする行為のように見える。

そう考えれば、日本全土にアメーバのように広がる温泉網の理由が理解できる。人は しねば無一文になる。日本人も温泉に入る時には真っ裸になる。海外では最低海水パンツをつけるのがエチケットだが、日本ではそれがない。それは温泉は死の世界だから、すべてのものを置き去らなければならないからである。

江戸時代までは混浴だったというのも、性秩序の乱れというより、あの世では男女の区別は無用、という考えに従ったものだったろう。そう考えれば、なぜ銭湯で「富士山」が好んで描かれたかが理解できる。それは富士信仰に沿ったものである。「不死の山」にあやかって、銭湯を死と再生の場と、ペンキ職人らは無意識に捉えていたのである。

だから今でも日本人は風呂に入ると「ごくらく、ごくらく」と唱えるのである。

その湯気は空へと上って行き、雨となって土に降り注ぐ。だから水のつかさどる海上他界は天上他界と繋がっており、さらに土中他界へも連続している。そこから水のもつイメージは空気や、土へも繋がっていることがわかる。実に、これらの諸元素のイメージは重層的に重なっており、合い争って一つの包括的な生死観を醸し出していると、見るべきだろう。

http://blog.goo.ne.jp/gelt/m/200602/1
5:777 :

2023/08/10 (Thu) 07:42:04

過酷な“真夏のお遍路”に外国人殺到 最大の難所の先に…移住者が守る“オアシス”も【Jの追跡】(2023年8月6日)
2023/08/06
https://www.youtube.com/watch?v=WeJe6JJR1KU


四国に点在する88カ所の霊場を巡る「お遍路」。1年で最も過酷な時期に挑戦する外国人お遍路さんの旅に密着しました。さらに、“最大の難所”と呼ばれる遍路道…その先にある宿を復活させたのは大阪からの移住者。移住してまで宿を守る特別な思いとは?

■“歩き遍路”初日の外国人「体と心のトレーニング」

四国に点在する88カ所の霊場を巡るお遍路。全行程は、およそ1200キロです。

過酷な暑さが続く今の季節は、バスや車で移動するお遍路が主流です。

大阪から“車お遍路”:「無理です。歩き遍路さんは、すごすぎます」

大阪から“バイクお遍路”:「もうやっぱり汗だくで。バイクで回ってみても、これは歩きでは無理やなと」

そんなお遍路さんを尻目に、この日、歩き遍路を始めたばかりの外国人に出会いました。

チェコから ダニエルさん(22):「大変な経験も我慢すると、その経験を通じて強くなる。体と心のトレーニングですね」

名古屋の大学院で日本の文化を学んだチェコ出身のダニエルさん。

ダニエルさん:「(Q.それなんですか?)これは5円玉88枚。コンビニに行って5円もらうと使わないで(ためた)」

88カ所のお寺用に、お賽銭も準備万端です。およそ50日かけて、1200キロを歩く計画だといいます。

ダニエルさん:「遍路中ですから酒も肉もダメですね」

なんともストイック。ダニエルさんにとってお遍路は、まさに修業なのです。

■体と心を癒やす 地元住民の「お接待」

ところが歩き始めて3時間、想像を超える暑さに、思わず弱音もこぼします。

ダニエルさん:「大変、でも我慢しかない」

それでも、地元住民による、おもてなし「お接待」が次々と…。ダニエルさんの疲れた体と心を癒やします。

納経所:「タップウォーター(水道水)。クールダウン」
ダニエルさん:「ありがとうございます、感謝します」

納経所:「塩、お塩のアメ」
ダニエルさん:「塩、それもありがとうございます」
納経所:「塩分チャージ」

ダニエルさん:「この道はとても難しいけど、親切な人のおかげで(お遍路が)できると思います。本当にすばらしいと思います」

■「ヒーローになりたい」イタリアからのお遍路さん

この日、13番札所で出会ったのは、イタリアで俳優業をしているというテレンスさん(28)。厳しい暑さを承知のうえで挑戦したのは、“ある目標”があるからだといいます。

テレンスさん:「この旅で“ヒーロー”になりたいんだ。自分に誇りを持てるようになりたい」

ヒーローを目指すと語るテレンスさん、道中で出会った日本人のお遍路さんとも、憧れの“ヒーロー”の話題で意気投合したのだとか…。

テレンスさん:「知っているアニメのセリフをね。『オマエハ モウ シンデイル』」

香川から:「アニメティーチャー、僕が遍路ティーチャー」

ヒーローの旅には、仲間との出会いはつきものですよね。

■移住して遍路宿を復活 お遍路さんの“オアシス”に

過酷な歩きお遍路に挑戦する人たちにとって、“オアシス”とも言うべき「遍路宿」がありました。

福岡から(34):「ちょうど山を下りてきた時に、こういう宿があると、ありがたい寝れるーって。ゆっくりできる。そして、ふかふかの布団。この上ない幸せでございます」

遍路宿「すだち庵」があるのは、徳島県神山町。住民わずか18人、山に囲まれた小さな集落です。

遍路宿「お宿 すだち庵」店主 角田雄士さん(50):「また今度」

アメリカから:「とても快適で、おいしいご飯。静かで、とても良かったわ。ありがとう」

切り盛りするのが、大阪からこの土地に移住した角田さん。2年前、この集落の遍路宿が閉鎖すると知り、わざわざ移住してまで宿を復活させました。一体、なぜなのでしょうか?

角田さん:「特にこの12番札所の山は、(お遍路)の中で一番しんどい場所と言われている。おそらく、ここに宿がないと、お遍路できない人が増えてくるんじゃないか…」

すだち庵があるのは、お遍路の中でも“最大の難所”と呼ばれる山道の先。11番札所から12番札所まで、アップダウンの激しい3つの山を越え、およそ15キロの山道を歩かなければなりません。

■桝田アナが最大の難所に挑戦「心が折れそうに…」

遍路道「最大の難所」はどれほど過酷な道なのか。実際に、桝田沙也香アナウンサーが歩いてみました。

桝田アナ:「遍路ころがし…うねるように階段が続いていますね。だいぶ急斜面ですよ」

お遍路さんが転げ落ちそうなほど急で、険しい山道が延々と続くことが、“最大の難所”と呼ばれるゆえんです。

桝田アナ:「ちょっと心が折れそうになる。曲がっても曲がっても階段が続いているから…」

道中、2人のフランス人お遍路さんに出会いました。

エルワンさん(22):「困難にチャレンジするのが好きだから、お遍路に挑戦してみたかったんだ」

終わりの見えない険しい山道を、ひたすら進みます。歩き始めておよそ3時間、道中に座り込む人がいました。

大阪からの“歩き遍路”:「前、ここでリタイアしたんですわ」

桝田アナ:「きょう、リベンジ?」

大阪からの“歩き遍路”:「リベンジだったんですけど、(今回も)あかんかったですね」

1200年前、弘法大師・空海が歩いたとされる、まさに修行の道。急な上り坂の先、標高745メートルに突如、空海の立像が現れました。

桝田アナ:「すごい、空海だ。これは感動しますね」「この体力がそぎ落とされた時に見るからこそ、なんか感動しますね」

エルワンさん:「空海、大きい」

エティエンヌさん(21):「ここに来た価値がある」

朝8時から登り始め、およそ5時間が経過しました。しかし予期せぬ事態が起こります。

天気予報に反して、思いがけない土砂降り。瞬く間に、登山道が濁流になってしまいました。これ以上続けるのは危険と判断し、この日は一時中断しました。

■ついに“オアシス”到着 店主の思いとは?

翌日、同じ場所に戻ってリスタートします。

遍路ころがしの終盤は、最後にして最大の難所です。石と木の根が入り乱れる、道ともいえぬ急勾配を30分登り続けます。

桝田アナ:「キツイ…あと1キロ…」

最後の力を振り絞り、ようやく12番札所「焼山寺」に到着です。

そして、ここからさらに1時間、山道を下った先にあるのが「すだち庵」です。

桝田アナ:「看板がありましたよ」
エルワンさん:「スダチアン?レッツゴー!」

お遍路さんにとって、まさに“オアシス”。疲れた体を休め英気を養うために、この場所に宿が必要なのです。

角田さん:「この先の宿って何キロも先なんですよ。そうすると、どんどん日が暮れて獣も出るし、危ないです。そういう意味でも、ここに宿があるのは最適なんです」

かつては4軒の遍路宿があった、この集落ですが、現在営業しているのは「すだち庵」のみです。

「すだち庵」も2年前、前のオーナーが急逝し、いったんは閉鎖しましたが、以前のオーナーと親交のあった角田さんは、一念発起し、大阪からこの地に移住し、宿を再開させたのです。

角田さん:「僕もお遍路の時に、たくさんの人に助けられて。受けたご恩を誰かに返してあげたいな、そういう気持ちが一番強かった」

お遍路の過酷さと、素晴らしさを知るからこそ、この場所に宿を途絶えさせたくない、との思いがありました。

■150キロも離れた高知県まで店主が激励

角田さんは、時間の許す限り、お遍路さんの応援に足を運ぶのだとか。

フランスから チエリさん(59):「ファンタスティック!また会えるなんて思いもしなかった。君は魔法の男だ」

この日は、10日前に宿泊したお遍路さんの激励に、はるばる150キロも離れた高知県まで駆け付けました。

角田さん:「会った人にもう一度会うって結構元気もらえるんですよ。ちょっとでも元気になってもらえたらうれしいなーって」

過酷な夏の遍路道。旅路を見守る存在が、チカラになるのは間違いありません。
https://www.youtube.com/watch?v=WeJe6JJR1KU

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