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現代アフリカ人の起源

1:保守保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/02 (Sun) 10:40:23

現代アフリカ人の起源

雑記帳
2023年04月02日
前近代スワヒリ海岸の人々の遺伝的起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_2.html

 前近代スワヒリ海岸の人々のゲノムデータを報告した研究(Brielle et al., 2023)が公表されました。アフリカ、とくにサハラ砂漠以南は、その高温環境のため古代DNA研究に適しておらず、世界では古代DNA研究が遅れた他地域と言えるでしょう(関連記事)。本論文は、前近代(1250~1800年頃)のスワヒリ海岸の都市部の人類遺骸から、合計80個体のゲノムデータを報告しています。これは画期的成果で、今後は、アフリカに限らず多くの地域で、これまで先史時代と比較して遅れていた歴史時代についても古代ゲノム研究が進展するのではないか、と期待されます。


●要約

 スワヒリ海岸の都市部の人々は、アフリカ東部およびインド洋にわたって交易を行なっていた、サハラ砂漠以南のアフリカ人としては最初期のイスラム教徒でした。アフリカ人と非アフリカ人の間のこうした初期の交流に、遺伝的交換がどの程度伴っていたのか、まだ明らかになっていません。本論文は、中世および近世(1250~1800年頃)の沿岸部の6ヶ所の町と、1650年以後の内陸部の1ヶ所の町に由来する、80個体の古代DNAデータを報告します。

 沿岸部の町の人々の多くは、DNAの過半がおもにアフリカ起源の女性祖先に由来しており、アジア系祖先に由来する割合も大きく、場合によっては半分を超えていました。アジア祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)には、ペルシアおよびインドに関連する構成要素が含まれ、アジア系DNAの80~90%はペルシア人男性に由来していました。アフリカ起源の人々とアジア起源の人々の間では1000年頃までに混合が始まっており、これはイスラム教の大規模な受容と同時期でした。

 1500年頃の前には、アジア南西部祖先系統はおもにペルシア関連で、これはスワヒリ海岸の人々によって語り継がれてきた最古の歴史「キルワ年代記(Kilwa Chronicle)」の物語と一致します。この時代以後、DNAの供給源はしだいにアラビア系構成要素が多くなり、これはアラビア半島南部との交流増加を示す証拠と一致します。その後のアジア人とアフリカ人との相互作用はさらに、スワヒリ海岸の現在の人々の祖先系統は、この研究でDNAが配列決定された中世の個体群と比較して、さらに変わりました。


●研究史

 7世紀以降のアフリカ東部の中世および近世のスワヒリ文化は、アフリカ起源の共通言語(スワヒリ語)、共通の主要な宗教(イスラム教)、沿岸部の町や村における地理的分布といった、共有された一連の特徴により定義されました。スワヒリ文化の人々は、モザンビーク北部やソマリア南部やマダガスカル、およびコモロ(Comoros)やキルワ(Kilwa)やマフィア(Mafia)やザンジバル(Zanzibar)やラム(Lamu)といった群島を含む広大な沿岸地域(図1aの黄色の線)に暮らしていました。何百万もの人々がスワヒリ人と認識していますが、その多くにとってこれは第二の自己認識で、主要な自己認識は出身の町や家族史や伝統的な社会的地位に基づくことが多くなっています。現在スワヒリ人と認識している人々が中世および近世のスワヒリ文化の人々とどのように関連しているのかは、古代DNAの欠如により解明困難でした。以下は本論文の図1です。
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 スワヒリ国としていられる中世の大規模な自治町と政体は、千年紀後半にアフリカ東部沿岸の漁業と農牧の居住地から生じました。沿岸の千年紀の遺跡群は7世紀に始まり、アフリカ東部地域全体にわたる共有された物質文化と慣行網の一部でした。これらの遺跡は、商船がインドもしくはアラビア半島からアフリカ東部沿岸へと移動することを可能とする、5月から10月にかけての南西の季節風と、同年に11月から3月にかけてその逆方向の移動を可能とする北東の季節風により促進された、インド洋交易体系に関わっていました。

 ムスリムは8世紀以降、おそらくは少数派として存在していました。大きな考古学的変化は11世紀において明らかで、新たな集落の確立と、サンゴで作られたモスクや墓のあるより古い集落の精緻化が伴い、イスラム教の広範な採用と一致すると、一般期に理解されている一連の変化です。この時点で、物質文化の多くの側面が内陸部アフリカ集団と深くつながったままだとしても、沿岸部の土器および物質伝統と、内陸部のそれとの間により明確な区分も現れました。

 スワヒリ人の町の政治的および行政的独立性は、インド洋におけるポルトガルの海軍と経済的支配が拡大するにつれて、16世紀に低下しました。18世紀初頭には、ポルトガルの影響力は弱まり、おマートそとの後にはザンジバルのスルタン国家が優勢になりました。19世紀には、奴隷化された人々を含む海外交易の成長が、アフリカ中央部地域からの大規模な人口移動と、ハドラマウト(Hadramawt、アラビア半島南端)のイエメン地域からの入植者がもたらされました。19世紀半ばには、イギリスと他のヨーロッパ列強が支配的になり、ヨーロッパ人の入植、アジア南部からの労働者の到来、さらには沿岸部ではないアフリカ東部の人々との相互作用がもたらされました。

 この多層的な歴史に照らすと、現在スワヒリ人と認識している人々が、中世の交易町を建設した人々と遺伝的にどの程度関連しているのか不明で、中世集団とそれ以前の集団との関係も同様です。インド洋交易網の一部として維持された大陸間のつながりは、外来者が一貫して海岸沿いに存在しましたが、そうした外来者がアフリカの住民とどの程度家族を持ったのかは、長く議論されてきました。

 スワヒリの伝統から、外来者は重要な影響力を有していた、と示唆されます。一連の一般的な口述史は、沿岸部の町の創始を、ペルシアの一地域として呼ばれている、シーラーズィー(Shirazi)として知られる集団の到来と関連付けます。このシーラーズィー伝統は、16世紀にキルワ年代記に書き記されました。シーラーズィーの起源に関するこれらの説明は、20世紀半ばの植民地主義者の考古学者により構築された物語の中心で、そうした考古学者は二千年紀の沿岸部アフリカ東部の遺跡群を、ペルシアとアラブの入植者により建てられた、と解釈し、より広範なインド洋世界とのつながりに焦点を当てました。しかし、外来起源の物語は、誤解を招く可能性があります。それは、スワヒリ社会の「エリート」が、外来起源を主張し、アフリカ内の文化的つながりを却下して、その社会的地位を確立し、宗教的および文化的類似性を示そうとしたからです。

 最近の研究では、植民地時代の考古学は深いアフリカ起源の証拠を無視する傾向にあり、考古学的記録の均衡のとれた全体像を提供するのではなく、中世スワヒリにおける外来物を強調した、と示されてきました。ほとんどの沿岸部世紀における輸入品は、通常すべての物の5%未満です。物質文化の他の側面も、それ以前の集落との連続性を示しており、その中には作物や家畜化された動物や工芸様式や土器の持続性が含まれます。言語学的証拠はアフリカ起源の追加の証拠を提供し、スワヒリ語はアジアからの借用語のあるアフリカのバントゥー諸語言語です。しかし、古代DNAの証拠なしには、遺伝的祖先系統が経時的にどのように変化したのか、という問題に直接的には対処できません。

 この研究は、6ヶ所の沿岸部もしくは島の町で見つかった個体群の骨格遺骸から古代DNAを生成しました。その6ヶ所の町とは、ムトワッパ(Mtwapa)とマンダ(Manda)とファザ(Faza)とキルワ(Kilwa)とソンゴ・ムナラ(Songo Mnara)とリンディ(Lindi)です。これらの個体の年代は1250~1800年ですが、10世紀以降の遺伝的事象への洞察を提供します。ケニア南部沿岸から内陸へ約100kmに位置し、沿岸部集団と文化期接触のあった人々が居住していた、マクワジニー(Makwasinyi)遺跡(1650年頃以後)で見つかった個体群の遺骸からも古代DNAが生成されました。古代の個体群から新たに報告されたデータは、現在の沿岸部スワヒリ語話者、および多様な過去と現在のアフリカおよびユーラシア集団の以前に刊行されたデータと比較されました。


●データセット概要

 156点の異なる骨格標本から、179点の古代DNAライブラリが生成されました。対象となる約120万の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)一式に溶液内濃縮が適用され、異なる80個体から古代DNAの信頼性の標準測定に合格したゲノム規模データが得られました。この80個体はアフリカ東部で二千年紀に埋葬されました(図1aの黒印)。33点の骨格で直接的な放射性炭素年代が得られ、他の個体については、考古学的文脈もしくは直接的に年代測定された個体との親族関係の遺伝学的証拠に基づいて、年代の範囲が推定されました。海産物への依存のため、食物連鎖に入った古い炭素(海洋リザーバー効果)は、一部の個体の放射性炭素年代が実際の年代より古いことを意味するかもしれません。さらに、遺跡群全体の海洋食物への依存の違いは、沿岸部個体群と遺跡群の年代が完全な信頼性で決定できないことを意味しているかもしれません。スワヒリ人と認識している現代人93個体からアフィメトリクス社ヒト起源(Affymetrix Human Origins)SNP配列で新たなゲノム規模データが生成され、沿岸部の町の多くの世代でその祖先が暮らしていた、と示唆されました。最後に、マダガスカルの19個体とアラブ首長国連邦の10個体の新たなゲノム規模データが生成されました。

 これらの遺跡のうち3ヶ所は北部沿岸部の町で、つまり、ムトワッパ(48個体、1250~1650年頃)とパテ島(Pate Island)のファザ(1個体)とマンダ島(8個体、1450~1650年頃)です。追加の3ヶ所の遺跡は南部沿岸部の町で、つまり、ソンゴ・ムナラ(7個体、1300~1800年頃)とリンディ(1個体、1500~1650年頃)とキルワ・キシワニ(Kilwa Kisiwani、2個体、1300~1600年頃)です。ムトワッパとマンダとソンゴ・ムナラの遺骸は、おもにエリートのムスリムの埋葬に由来し、多くの場合モスクの近くに位置します。ファザとキルワとリンディの埋葬については、同じパターンに従っているのかどうか、知るのに充分な文脈がありません。現在のケニア沿岸から約100km内陸に位置する、マクワジニーの13個体(1650~1950年頃)も分析されました。これらの埋葬は沿岸部の遺跡よりも年代が後になりますが、マクワジニー共同体はほとんどの点で孤立したままでありながら沿岸部の人々と交易していました。マクワジニーの人々は、それ以前の数世紀においてスワヒリ補器部の中世の町の人火と接触した可能性がある、内陸部アフリカ人集団を表す適切な代理かもしれない、と本論文では仮定されました。

 本論文で報告される80個体のうち、ゲノム規模分析では26個体が除外されますが、そのデータは依然として貴重です。これらのうち、18個体は高解像度の全ゲノム分析にはSNPが少なすぎたものの、確実に決定されたミトコンドリア配列など有益なデータをもたらし、5個体はより高品質のデータのあるデータセットにおける他の個体の1親等あるいは恐らく2親等の親族で、2個体は汚染の証拠を示し、1個体は限定的なデータでは人口集団の遺伝的外れ値で、汚染の可能性が高まりました。

 アフリカ東部沿岸の4個体の古代DNAデータが以前に刊行されましたが(関連記事)、スワヒリ人の町の個体は刊行されていませんでした。遺骸がタンザニア北東部のペンバ島(Pemba Island)のマカンガレ洞窟(Makangale Cave)1400年頃の1個体は、アフリカ西部集団とおもに関連する祖先系統を有しており、この祖先系統は現在、バントゥー諸語話者集団において一般的で、アフリカ東部において優勢であり、以後本論文では「バントゥー関連」と呼ばれます。600年頃と年代測定されたペンバ島のマカンガレ洞窟の別の1個体と、タンザニア東部のザンジバル島のクームビ洞窟(Kuumbi Cave)の600年前頃の1個体と、ケニアのパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)の1500年頃の1個体はすべて、おもにサハラ砂漠以南のアフリカ採食民関連祖先系統(関連記事)を有していました。これらの個体のどれでも、過去2000年間の異臭に由来するユーラシア祖先系統の兆候はなく、本論文で新たに報告された中世の沿岸部の町のほぼ全ての個体とは異なります。

 本論文では、「アフリカ祖先系統」は、紀元前2000~紀元後100年頃の刊行された古代DNAデータがあるサハラ砂漠以南のアフリカ人により遺伝的に適切な代理となるかもしれない人々に由来するDNAを指すのに用いられます。「ユーラシア」と「ペルシア」と「アラビア」と「インド」という用語は、これらの地域の現代の人口集団により代理となるかもしれず、紀元前2000~紀元後1000年頃のサハラ砂漠以南のアフリカにおける祖先系統と類似していると知られていない祖先系統を指すのに用いられます。紀元前2000~紀元後1000年頃のアフリカ人の祖先の一部が、たとえばアフリカ東部の牧畜新石器時代文化の人々の祖先系統の約40%など、ユーラシアに由来するかもしれない、という証拠(関連記事)は、これらの定義と矛盾しません。それは、全てのヒトが歴史の複数の時間深度で混合しているからです。供給源人口集団の時間と地理両方を明示する限り、「アフリカ祖先系統」という用語を正確に使用できます。


●遺伝的類似性

 古代の個体群における祖先系統の供給源の定性的な全体像を得るため、主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行されました(図1b)。ユーラシアとアフリカの現代人1286個体が用いられ、軸が計算されました。新たに報告された古代の個体群をこのPCAに投影すると、この新たな古代の個体群は勾配を形成し、その一端は古代および現在のアフリカ人集団と重なり、もう一旦は現在のペルシア人とインド人の間に収まる、と分かりました。これは勾配の一方の端における供給源人口集団のさまざまな割合の混合を示唆しており、これらの供給源は複数のより深い祖先系統構成要素を有しているかもしれません。一部の沿岸部個体、とくにソンゴ・ムナラとリンディはこの勾配に収まらず、追加の複雑さが示唆されますが、この変動を理解する本論文の能力は、小さな標本規模により制約されています。類似のパターンはADMIXTUREを用いての教師なしクラスタ化(まとまり)でも証明され、サハラ砂漠以南のアフリカ人関連構成要素、アジア南西部関連構成要素、アジア東部もしくはインド関連構成要素がさらに示唆されます(図1c)。


●アフリカ人とペルシア人とインド人のDNAの割合

 qpAdmを用いると、ほとんどの中世および近世の個体は、アフリカの古代人とイランおよびインドの現在の人口集団を代理とできる少なくとも3祖先系統構成要素でのみ適合できる、と分かりました(図2a)。そうした3供給源モデルは、ムトワッパとファザの48個体(適合のP値は0.23)、マンダ個体群(適合のP値は0.28)、ソンゴ・ムナラの少なくとも1個体(I19550、適合のP値は0.38)に適合します。キルワの1個体(I8816)は内陸部のサハラ砂漠以南のアフリカ人と関連する祖先系統の輪リアが比較的高いので、最小の寄与物であるインド人の割合は、明確な検出の閾値を下回ります(2供給源モデルの適合のP値は0.27)。以下は本論文の図2です。
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 この種のアフリカ祖先系統は、本論文で調べられた地域のうち北方(ムトワッパとファザとマンダ)と南方(キルワとソンゴ・ムナラ)の個体群の間で、モデルが異なって適合しなければなりません。ケニアでは、最適なアフリカ人供給源は、約80%のバントゥー関連祖先系統と約20%の古代アフリカ東部牧畜新石器時代祖先系統の混合として適切にモデル化される(関連記事)、マクワジニー個体群です(図3a)。タンザニアでは、最適なアフリカ人の代理供給源は牧畜新石器時代の寄与の証拠がないバントゥー関連です。リンディで1600年頃に埋葬された1個体が、キルワの1個体とソンゴ・ムナラの1個体(I19550)のバントゥー関連供給源として用いられました。以下は本論文の図3です。
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 データを適合させるには3大陸供給源が必要ですが、マンダとファザとムトワッパの個体群はPCAでは勾配を形成し、2つの代理供給源人口集団を示唆します(図2b)。線形回帰を用いて、これら2供給源の祖先系統が外挿法で推定され、一方は100%アフリカ起源と一致した、と推測されました。同じ分析では、もう一方の供給源はペルシアとインド両方の祖先系統を有している、と結論づけられます。これは、サハラ砂漠以南のアフリカ人がペルシアおよびインド祖先系統構成要素の混合をすでに有していた集団と混合していたことと一致します。南北の個体群について2つの異なるアフリカ人供給源を考えると、少なくとも2つ、恐らくはそれ以上の混合事象があったに違いありません。これは、混合したペルシアおよびインド祖先系統の人々が海岸沿いのさまざまな場所でさまざまな在来のアフリカ人口集団と子供を儲けたならば、予測されるでしょう。

 ムトワッパとファザとマンダとキルワとソンゴ・ムナラの個体群を別々に分析すると、インドに由来するユーラシア祖先系統の推定割合が重複し、全ての遺跡について、混合したインドとペルシアの祖先系統の均質な1供給源人口集団と一致する可能性があるでしょう(図2c)。しかし、初期移民における変動的な割合を除外できないので、ペルシアおよびインドからの移民の2つもしくはそれ以上の波というシナリオを区別できません。インド祖先系統を検出する本論文の統計的能力は、複数個体からのデータ蓄積に依存しています。限られたデータもしくは低い割合のユーラシア祖先系統の個体が多く、たとえばキルワの個体I8816については、インド祖先系統を検出する能力がほとんどなく、確実には記載できません。


●ペルシアからの男性とアフリカからの女性

 男女の祖先が、北部沿岸遺跡群とキルワの古代の個体群に、アフリカおよびペルシアおよびインド的祖先系統を同じ割合で寄与したのかどうか、検証されました(表1)。この分析を実行するため、1~22番染色体とX染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は男女により異なる方法でその後の世代に継承される、という事実が用いられました。ソンゴ・ムナラでは、高品質の個体群が3方向モデルと適合しないので、同じ分析が実行できませんでした。

 まず、mtDNAが分析されました。確実にmtDNAハプログループ(mtHg)が決定された62個体(親族や低網羅率のゲノム規模データの個体が含まれます)の分析では、59個体が現在ではほぼ完全にサハラ砂漠以南のアフリカ人に限定されているmtHg-L*を有している、と分かりました。例外はmtHgが現在ではほぼアジア南部に限定されているM30d1であるムトワッパの1親等もしくは2親等の親族の1組と、現在ではサウジアラビアおよびアフリカの角で特徴的なmtHg-R0+16189の1個体です。これらの結果は、アフリカ人供給源に圧倒的に由来する女性祖先系統と一致します。

 男系で伝わるY染色体DNAの分析では、マンダの1親等ではない親族関係の男性3個体のY染色体ハプログループ(YHg)は、そのうち2個体がJ2で、残りの1個体はG2と分かりました。YHg-J2とG2は両方、アジア南西部(おそらくはペルシア)に特徴的で、サハラ砂漠以南のアフリカ人ではほぼ存在しません。キルワの1個体もYHg-J2です。ムトワッパの男性19個体のうち14個体はYHg-J、2個体はYHg-R1aで、これらは全て、通常は非アフリカ系と考えられています。ムトワッパの男性19個体のうち3個体だけが、ファザの男性とともに、サハラ砂漠以南のアフリカに特徴的なYHg-E1です。

 次に、女性では2コピー、男性では1コピーとなるので、等しく男女の歴史を反映する常染色体(1~22番)に対して、ほぼ女性の歴史を反映しているX染色体が比較されました。アフリカ人祖先系統のX染色体は全ての部位でX染色体よりも有意に割合が高く、アフリカ祖先系統はおもに女性に由来し、ペルシア祖先系統はおもに男性に由来する、という独立した一連の証拠を提供します(表1)。混合がわずか数世代前に起きたと仮定すると、女性からのアフリカ祖先系統の割合の定量的推定値が得られ、マンダでは100%、ムトワッパおよびファザでは69~97%、キルワでは69~100%です。男性からのペルシア祖先系統は、ムトワッパおよびファザでは100%、キルワでは90~100%と推定されます。混合がより多くの世代で起きたならば、点推定値を得られませんが、それにも関わらず、おもにアフリカ人の女性とペルシア人の男性の供給源を推測できます。

 まとめると、これら複数の一連の証拠から、ムトワッパおよびファザとマンダとキルワの個体群のアジア南西部の祖先がほぼ完全に男性だったのに対して、アフリカ人の祖先はほぼ完全に女性だった、と示されます。


●1000年頃までに始まった混合

 世代ごとに既知の割合で分裂する、祖先人口集団から継承した祖先系統の一続きの規模に基づいて、混合がいつ起きたのか推測されました。北部のムトワッパとファザとマンダの個体群については795~1085年頃、南部のキルワとソンゴ・ムナラのI19550といった個体群については708~1219年頃の推定年代が、95%信頼区間で計算されました。不確実性区間は795~1085年頃まで重なっています。海洋リザーバー効果があったならば、これらの推定値は偏っており古すぎることになるでしょう。推定された年代は、混合が全て1回で起きた、との仮定も反映しています。しかし、ユーラシア人とアフリカ人の混合は、確実に何世代にもわたって起きており、じっさい、歴史的証拠とし本論文の遺伝学的分析は、現在までの内陸部アフリカおよびユーラシア両方からの移民の継続的な組み込みを記載します。しかし、模擬授業から、混合は推定された年代までに始まったに違いない、と示されるので、インドおよびペルシア祖先系統とすでに混合した男性が1000年頃までに海岸沿いに存在し、その時までにおもに女性のサハラ砂漠以南のアフリカ人と混合を始めた、と確信できます。


●アラブ人と他の移住の影響

 分析されたほぼ全ての沿岸部の個体はアジア祖先系統を有していましたが、例外もありました。リンディとソンゴ・ムナラの一部の近世の個体は最近のアジア祖先系統の証拠を示しません(個体I14001とI7944)。ソンゴ・ムナラの個体(I19547)では、マダガスカル関連祖先系統の可能性が見つかりました。類似の年代もしくは地域の他の個体と異なる縁談部個体群の発見は、インド洋交易網における継続的な交流を証明しますが、本論文の標本規模は一般的なパターンを特定するには小さすぎます。

 アジア祖先系統を有する本論文の個体の一部(マンダやキルワやソンゴ・ムナラのI19550個体)については、ペルシアもしくはペルシア・インド祖先系統の証拠がありません。しかし、他の個体、とくにムトワッパの個体については、他のムトワッパもしくはマンダ個体群を供給源として用いると、一部のアラビア関連祖先系統を有する供給源でのみモデル化できます。本論文は、アラブ関連祖先系統の正確な供給源を決定できませんでした。しかし、アラブ人とペルシア人との間の遺伝的勾配のどこかにある、と分かっています。ムトワッパにおけるこのアラブ関連祖先系統に適合する代理供給源は、アラビア半島をイランと分離するホルムズ海峡の沿岸にすむ現代人です。ホルムズ海峡とスワヒリ海岸は、17世紀末までにオマーンの支配下に置かれました。

 アラブ人関連の移住の直接的な遺伝学的証拠は、ソンゴ・ムナラの2個体に由来します。この2個体はともに近世と年代測定されており、近世にはアラビア半島との接触がよく記録されており、この2個体はqpAdmではアラブ関連祖先系統でのみモデル化できます(図2a)。現在の沿岸部人口集団の分析も、アラブ人からの遺伝的影響を示します。一部の個体のアジア祖先系統は中世のマンダのようにペルシアおよびインドとして完全にモデル化でき、他の個体については、ホルムズ海峡由来の祖先系統がより適しています。


●中世スワヒリ人と現代スワヒリ人の関係

 スワヒリ人と認識している現代人の2集団について、ゲノム規模データが収集され、89個体は以前に報告されたデータで、93個体は本論文で新たに生成されたデータです。以前に刊行されたデータセットの個体のうちほとんど(89個体のうち87個体)は、本論文で近隣の沿岸部地域から標本抽出された、中世の人々と類似した祖先系統を有する人々から少しばかり継承しただけでした。11±4%が中世スワヒリ人関連祖先系統、84±3%がバントゥー関連祖先系統、6±3%が牧畜鉄器時代関連祖先系統(関連記事)と推定されます。

 これらのパターンはYHgに反映されており、95%は通常アフリカ系ですが、ほぼ全てのYHgが近東の人々と関連する中世沿岸部個体群とは対照的です(表1および表2)。しかし、新たに生成されたデータは、中世集団と類似した集団からの祖先系統の推定割合がずっと高いことを示しており、中世スワヒリ人関連祖先系統との範囲は、46~77%です(供給源としてマンダとムトワッパのどちらの個体群を使用するかで変わってきます)。新たなデータのYHgも、中世の人々からのより大きな寄与と一致します。アフリカ関連のYHgの頻度は45%で、中世個体群の17%よりもずっと高いものの、以前に刊行されて研究で推定された95%より低くなります。

 スワヒリ人と認識している現在の個体群における祖先系統の割合の違いは、推定方法の違いを反映しているかもしれません。以前に刊行されたデータセットは、ケニアのキリフィ(Kilifi)とラム(Lamu)とモンバサ(Mombasa)を含んでおり、その人々の家族は過去3世代にわたってスワヒリ語を話していた、と示唆されました。新たに刊行されたデータセットはケニア沿岸の13ヶ所の人々を含んでおり、その祖先は沿岸部の町に暮らしており、何世代にもわたってスワヒリ人としての自己認識を持っており、中世沿岸部個体群からより多くの祖先系統を保持していた可能性が高い、より伝統的な上流階級のスワヒリ人が濃縮されていた、と示唆されます。より大きな中世沿岸部祖先系統は、孤立も反映しているかもしれません。本土から新たに刊行されたデータセットでは、ジョムヴ・クー(Jomvu Kuu)遺跡の個体群は他の遺跡の個体群よりも中世沿岸部祖先系統は、が顕著に少なく、その個体は全て、内陸集団との混合からより孤立していた可能性が高そうな島から得られました。アフリカ人とペルシア人の遺伝的断片の長さが用いられ、1096~1410年頃の新たに刊行された個体群における混合年代が推定されました。これらのデータは中世沿岸部標本よりも新しく、中世以来のアフリカもしくはアジアの人口集団との継続的な混合と一致します。


●内陸部の人々には最近のアジア祖先系統がありません

 マクワジニー個体群は過去3世紀と年代測定され、最も近い人口密集地から50km近く離れたツァボ(Tsavo)地域の奥深くに由来します。マクワジニー集団は、ムトワッパとファザとマンダの個体群のqpAdmモデル化では、アフリカ祖先系統の代理供給源として適合しますが、これらの個体群とは異なり、qpAdmではマクワジニー集団における最近のアジア祖先系統の証拠が見つからず、現在の非沿岸部人口集団と類似しています。じっさいマクワジニー個体群は、以前に報告されたデータセットにおいて、スワヒリ人と自己認識している現代の個体群と祖先系統では類似しています。マクワジニー個体群は21.3±1.2%の牧畜新石器時代関連祖先系統(紀元前3000年頃以後の存在した牧畜民に由来します)と78.7±1.2%のバントゥー関連祖先系統(紀元前1000年頃以後に存在した農耕民に由来します)として、適切にモデル化されます。この人口集団の形成における性別の偏りは検出されませんでした。バントゥー関連祖先系統と牧畜新石器時代関連祖先系統の混合の平均年代は紀元後300~1200年頃で、この範囲のほとんどは、この地域へのバントゥーン育大の影響の考古学的証拠と一致します。


●考察

 この研究の重要な調査結果は、アフリカの人々とペルシア祖先系統との間の1000年頃の混合の証拠です(図3)。これは、スワヒリ海岸へのペルシア人の到来、およびペルシア人と沿岸部の住民との間の相互作用を記載するキルワ年代記と一致します。この歴史が実際の航海に基づいているか否かに関わらず、古代DNAは圧倒的に男性に由来し、1000年頃までにはアフリカ東部沿岸に到来したペルシア関連祖先系統の直接的証拠を提供します。この時期は、イスラム教の広範な採用を含む、沿岸部でのかなりの文化的変容の考古学的証拠と一致します。キルワでは、硬貨の証拠が、アリ・ビン・アル=ハサーン(Ali bin al-Hasan)のシーラーズィー(ペルシア)王朝と関連する支配者を11世紀半ばに位置づけました。遺伝学的証拠から、この到来には1000年頃までに始まり、その後も継続した混合が伴っていた、と示唆されます。アフリカとアジアの両祖先系統の人々が主要な寄与をしており、アフリカ系の割合は平均して、ムトワッパとファザでは57%、マンダでは32%、ソンゴ・ムナラでは67%、キルワでは74%です。

 考古学的証拠は、本論文の遺伝学的調査結果に重要な背景を提供します。本論文で分析された個体群は、13~18世紀に生きており、ほぼエリートの状況から発掘されました。しかし、混合が起きた1000年頃の沿岸部遺跡群は、明確な社会的エリートの証拠をほとんど示しませんでした。本論文で標本抽出された遺跡のうち3ヶ所(ムトワッパとソンゴ・ムナラとファザ)は、1000年頃には町として存在していなかったので、これらの混合人口集団はその後にこれらの町へと移動しました。したがって、ムトワッパのエリート住民と他の遺跡の住民は混合人口集団から発展し、外来の移民もしくは入植者ではありませんでした。

 言語学的証拠は、さらなる背景を提供します。スワヒリ語はバントゥー諸語で、中世のスワヒリ人のほとんどの祖先系統はアフリカ人に由来するので、本論文の結果から、アジア起源の移民男性の子供が母親の言語を作用した、と示唆され、これは母方居住文化では一般的パターンです。しかし、スワヒリ人は非アフリカ人からの影響も更けており、インド洋周辺の社会との1500年にわたる強い相互作用を反映しています。ペルシアからの借用語はスワヒリ語の最大3%に寄与していますが、そうした借用語が直接的にペルシア語に由来するのか、他のインド洋の諸言語への採用を通じてなのか、不明です。アラビア語からの借用語は、スワヒリ語において最大の非バントゥー諸語要素で、おもに1500年頃以後の取り込みに起因するかもしれません。

 本論文の調査結果の繰り返しの主題は、人口集団の混合事象における男女の異なる参加です。スワヒリ海岸の中世の人々の系統における、おもに女性のアフリカ人と混合したおもに男性のアジア南西部人の祖先の証拠と、程度はずっと低いものの、女性のインド人祖先が見つかりました。これは、文化的接触が起きた場合の集団間における非対称的な社会的相互作用についての証拠を提供しますが、そうした遺伝的データはこれらのパターンに寄与する過程を明らかにできません。

 本論文は、中世沿岸部文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】と関連する時間と場所の部分集合のみからり情報を提供しており、これらの偏りを認識することが重要です。地理的範囲はケニアに偏っており、ソンゴ・ムナラやキルワやリンディのようなタンザニアの遺跡の個体群は、ケニアの祖先系統特性の類似性と違いの識別には充分ですが、一般的パターンの定義には不充分です。さらに、本論文で分析された個体群は、スワヒリ社会におけるすべての社会および経済的集団完全には表していません。本論文における沿岸部の墓のほぼ全ては、中世および近世の町並みにおいて顕著な位置を示していました。

 キルワとリンディとファザは例外かもしれませんが、本論文は注目されている沿岸部の遺跡のエリート個体群を分析しました。しかし、スワヒリ文化は多くの非エリート入植を含んでおり、その祖先系統は体系的に異なっていたかもしれません。スワヒリ人との自己認識を判断するため、さまざまな戦略でスワヒリ人と自己認識する現在の人々の2点の標本抽出から得られたデータの本論文の分析も、祖先系統パターンにおける定性的な違いを特定し、スワヒリ人と自己認識している集団がどのように高い下部構造と差異を現在保持しているのか、明らかにします。

 これらの調査結果は、古代DNAの将来の研究にとって複数の方向性を浮き彫りにします。一つの手法は、本論文が1000年頃に起きたと示した主要な人口集団の混合の前後を含む、12世紀以前の個体群を調べることです。別の手法は、現在の国名ではソマリやモザンビークやコモロ諸島やマダガスカルを含む、スワヒリ世界の標本抽出されていない地域の個体群を調べることです。しかし、本論文で提示された結果は、千年以上にわたるアフリカ東部沿岸での継続的混合の明白な証拠を提供し、その混合では、アフリカ人はアフリカの他地域やインド洋世界からの移民と相互作用し、家族を持ちました。アフリカ東部沿岸の祖先系統の物語には複雑な歴史があり、長期にわたる性別が偏った混合の遺伝学的調査結果は、この複雑性を増やします。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:中世のスワヒリ海岸の人々におけるアフリカ系とアジア系の遺伝的起源の絡み合い

Cover Story:スワヒリ人の祖先:中世のDNAによって明らかになったアフリカ東部沿岸におけるアフリカ人とアジア人の交わり

 アフリカ東部のスワヒリ海岸に住んでいた中世の人々は、サハラ以南で初めてイスラム教徒となった。今回D ReichとC Kusimbaたちは、中世および近代(1250〜1800年)のスワヒリ海岸沿いの石造りの6都市に埋葬されていた人々など、計80人から得られたDNAの塩基配列を解読した。分析によって、1000年以前に東アフリカ沿岸部に沿って、アフリカ人女性とアジア人男性の間で混血が始まり、最初期のアジア人移住者の大半がペルシア系であったことを明らかにしている。こうした知見は、スワヒリ海岸の人々によって語り継がれてきた最古の物語である「キルワ年代記」とも一致する。最初期のアジア人移住者の祖先系統は、約10分の1がインド起源であった。表紙は、1896年に撮影されたザンジバルのスワヒリ人女性の写真を基に作成したものである。衣服の織物パターンは、DNA、中世の通商を示すダウ船、文化的影響を示すイスラムのシンボルなど、今回の論文の主題を反映するように描き直されている。


古代ゲノミクス:中世スワヒリ人の祖先には複数の系統が存在していた

 中世のスワヒリ人は、アフリカ系とアジア系の祖先を持つ人々によって構成されていたことが、古代DNA研究によって明らかになった。この知見は、この地域の現在の文化の状況と対応しており、東アフリカの沿岸部では民族の混合が1000年以上にわたって続いてきたことを示唆している。今回の研究を報告する論文が、今週のNatureに掲載される。

 東アフリカ沿岸部のスワヒリ文化は、アフリカ文化とアジア文化の特徴を併せ持っている。話し言葉であるスワヒリ語はアフリカ起源であるが、大部分の住民が信仰しているのはアジア由来のイスラム教だ。西暦900年の時点で、この地域にアフリカ人以外の人々が到来しており、インド洋を横断する交易ルートが確立されていたが、こうした初期の人々がどの程度混合していたのかは明らかでない。

 今回、David Reichたちは、中世から近代初期までの間にスワヒリ人が居住していた6つの沿岸部の町(西暦1250年~1800年)と内陸部の町(西暦1650年以降)で収集した合計80人のDNAの配列解読を行った。これら80件のデータセットのうち、54件がさらなる解析に使用された。その結果、中世のスワヒリ人において、アフリカ系とアフリカ系以外の祖先を持つ人々が大きな割合を占め、アフリカ系以外の祖先は主にペルシャ人の男性だったのに対して、アフリカ系の祖先は主に女性で、インドからの遺伝的寄与もわずかに認められた。

 今回の発見は、東アフリカでは、少なくとも1000年前に沿岸部の複数の地域でアジア人とアフリカ人が混合を始めたことを示唆している。このことは、スワヒリ海岸の人々が伝承する最古の歴史である「キルワ年代記」の内容とも一致する。こうした相互作用の状況は定かでないが、当時の東アフリカの人々は母系社会を形成していた。


参考文献:
Brielle ES. et al.(2023): Entwined African and Asian genetic roots of medieval peoples of the Swahili coast. Nature, 615, 7954, 866–873.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05754-w


https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_2.html
2:保守保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/02 (Sun) 10:47:46

古代DNAに基づくアフリカの人類史
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14092942

現代アフリカ人の起源
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14100876
3:保守保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/02 (Sun) 10:49:06

【女⇒男?】古代エジプト不思議な死生観と女性たちの姿
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14100839


河江肖剰の古代エジプト - YouTube
https://www.youtube.com/@yukiancientegyp/videos

エジプト考古学者の河江肖剰(かわえ ゆきのり)です。 名古屋大学高等研究院准教授、米ナショナル ジオグラフィック協会のエクスプローラー。エジプトのピラミッドの研究調査を行なっています。YouTubeを通して、みなさんにもっと古代エジプトを知っていただけるよう、分かりやすく、そして学術的にもしっかりとした内容をお届けいたします。



エジプト人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/282.html

古代エジプト人の料理
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/629.html
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/04/07 (Fri) 15:29:36

雑記帳
2023年04月07日
アフリカ人の大規模なゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_7.html
 アフリカ人の大規模なゲノムデータを報告した研究(Bird et al., 2023)が公表されました。本論文は、カメルーンとコンゴ共和国とガーナとナイジェリアとスーダンの150以上の民族集団から得られた1333個体のゲノム規模データを報告しています。現生人類(Homo sapiens)の起源地であるアフリカは、最も現代人の遺伝的多様性が高い地域です。現代人の遺伝学的研究は、地域単位での比較では、ヨーロッパおよび北アメリカ大陸が最も進んでおり、それが現代人の遺伝的多様性の検証において基準とされる傾向にありました。現代人では最も遺伝的多様性が高いアフリカの現代人の遺伝学的研究の遅れは、現代人の遺伝的多様性をまだ充分に把握できていないことを意味しており、本論文はアフリカの広範な地域の12人口集団からそれぞれ15個体のゲノム規模データを報告した最近の論文(関連記事)とともに、現代人の遺伝的多様性の理解を深める画期的成果と言えそうです。


●要約

 先行研究は、アフリカ人のゲノムが複雑な一連の歴史的事象によりどのように形成されてきたのか、浮き彫りにしてきました。それにも関わらず、ゲノム規模データは現在の民族言語集団の少ない割合からしか得られていませんでした。カメルーンとコンゴ共和国とガーナとナイジェリアとスーダンの150以上の民族集団から得られた1333個体の新たな常染色体の遺伝的差異のデータ分析により、これらの諸国内における以前には正当に評価されていなかった精細な規模の水準の遺伝的構造、たとえばカメルーン西部の歴史的政体との相関が論証されます。人口集団間の遺伝的差異のパターンを比較することにより、カメルーン北部とスーダンの多くの集団が複数の地理的に異なる人口集団と遺伝的つながりを共有しており、それは長距離移住の結果だった可能性が高い、と推測されます。ガーナとナイジェリアでは、おそらくは気候変動と関連している環境変化の報告に該当する、2000年以上前となる混合の痕跡が推測されます。バントゥー諸語話者の人々の拡大と関連している可能性が高い、コンゴ人を含む複数のアフリカ人口集団における最近の混合兆候も推測されます。


●研究史

 ゲノム規模の遺伝子型決定と配列決定の開始以来、アフリカ人の常染色体ゲノムを分析した研究の数は、他の大陸、とくにヨーロッパのゲノムの研究に遅れをとっています。これは、アフリカ人のゲノムが非アフリカ人と比較してより多くの変異を含んでおり、高度な遺伝的構造を示す、という事実にも関わらず、です。近年では、アフリカの遺伝的多様性研究で複数の発展があり、ほぼ全ての国と全ての主要な語族から得られた常染色体データを提供する研究があります(関連記事1および関連記事2)。

 これらの研究では、遺伝的構造は大小両方の規模で地理および言語と相関するひとが多く、文化的要因も影響を及ぼした、といういくつかの証拠がある、と示されてきました。さらに、複数の期間のさまざまに考古学的文脈内でのアフリカ人の古代DNA研究は、深い人口構造の存在を明らかにしてきており、その一部はより最近の移住により覆われてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。

 アフリカ人のゲノムの以前の分析では、地理的に異なる人口集団間の混合が遺伝的多様性のパターンの形成に重要な役割を果たしている、と示されてきました。たとえば、先行研究はスーダンやエチオピアなどアフリカ北東部におけるユーラシア西部関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の存在、ガンビア共和国やブルキナファソやチャドなどサハラ砂漠全体での遺伝子流動、フラニ語(Fulani)/フルベ語(Foulbe)およびナイル・サハラ語族話者など、サハラ砂漠以南の経度に沿った移住を推測してきました。

 3500年前頃に始まった、カメルーンとナイジェリアの国教地域からサハラ砂漠以南の大半を通ってのバントゥー諸語話者の人々の拡大は、アフリカ大陸の遺伝的構造を急速に再形成し(関連記事)、移民と在来の人口集団との間の広範な混合につながりました(関連記事)。ずっと局所的な規模での混合も推測されてきており、地理的近さおよび共有された文化的慣行と相関することが多くなっています。混合事象の年代測定の精度の進歩により、帝国の形成や拡大や移住など、過去の事象が現在のアフリカの人口集団の遺伝的多様性に及ぼしてきた影響についての推測が可能になりました。

 これらの進歩にも関わらず、アフリカ人の遺伝的多様性の研究は、民族集団および/もしくは地理的地域の疎らな標本抽出により制約されることが多く、他の大陸、たとえばヨーロッパ諸国で報告されてきたような、そうした精細な規模の構造を検出する能力が低下しました。アフリカ北東部と中央部と南部における精細な規模の研究では、最近のいくつかの進歩がありましたが、多くの国と地域はまだ充分には研究されていません。より小さな地域内の遺伝的構造の水準の理解は、大規模なゲノム規模関連研究(genome-wide association studies、略してGWAS)における人口集団階層化の修正に不可欠かもしれません。

 さらに、ある地域における連鎖不平衡(linkage disequilibrium、略してLD)のパターンをより深く推定することは、この推測に依存する、補完や精細なマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)や共局在や多遺伝子危険性得点の手法を改善できるかもしれません。さらに、同じ地域の集団で混合の歴史と痕跡が大きく異なることはよくあります。集団の密な標本抽出なしには、ある地域の遺伝的歴史の包括的な理解は不可能です。

 本論文は、標本の大半がアフリカの5ヶ国の1387人から得られた510615の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)における、新たに獲得された遺伝的変異のデータを分析します。その5ヶ国とは、カメルーンとコンゴ共和国とガーナとナイジェリアとスーダンで、他の3ヶ国(モザンビークと南アフリカ共和国とジンバブエ)から得られた54点の標本も分析されます。この新たなデータには、166の異なる自己申告の民族集団の人々が含まれ、アフリカにおける主要な4語族のうち3語族(アフロ・アジア語族とナイル・サハラ語族とニジェール・コンゴ語族、他の主要な語族はコイサン諸語)と、スーダンの南コルドファン(South Kordofan)地域のいくつかの推定される孤立言語の話者で構成されます。

 標本抽出された個体はアフリカ大陸全体の東部から西部にまたがり、ナイル渓谷とスーダン南部の山脈の個体群からコンゴの熱帯雨林の住民までを含み、アフリカ大陸のさまざまな環境を占めています(図1)。これらのデータにおける、以前に均一にデータを標本抽出された集団もしくは地域の事例は、カメルーン北部のアフロ・アジア語族のチャド語派話者(図1のC)、カメルーンのグラスフィールド(Grassfields)地域の民族集団(図1のA)、スーダンの南コルドファンの民族集団(図1のB)が含まれます。以下は本論文の図1です。
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 これらのデータは、この地域における人々の遺伝的歴史への洞察を可能とします。簡潔にするため、本論文は以下で簡単に述べられる問題に焦点を当てます。

(1)遺伝的構造は、他のアフリカ諸国内で観察されてきたように、カメルーンとコンゴ共和国とナイジェリアとスーダンそれぞれの内部において地理および言語および/もしくは民族集団で異なりますか?

(2)カメルーンの北西部および西部地域に広く位置するグラスフィールド地域(図1のA)には、さまざまな規模の複数の政治組織の長く複雑な歴史があります。遺伝的構造はこれらの歴史的政治組織と相関していますか?

(3)スーダンの南コルドファン地域で話されているコルドファン語派の一部(図1のBの三角)は、ナイル・サハラ語族内に位置づけられてきました。言語学者は他のコルドファン語派言語(図1のBの四角)の位置づけを議論してきており、そうした言語はニジェール・コンゴ語族話者内に位置づけられるべき、と提案する言語学者もいれば、そうした言語は孤立言語と主張する言語学者もいます。遺伝的データはこれら2つの言語分類の間を区別しますか?

(4)アフリカへのアラブ人の拡大はエジプトで7世紀に始まりましたが、他の地域にはその後まで到達しませんでした。スーダンとカメルーンにおいてアラブ人との混合の証拠を見つけて、そうした混合の年代を測定できますか?

(5)700年頃に始まったカネム・ボルヌ(Kanem-Bornu)帝国は、現在のカメルーン北部とナイジェリア北部とチャドにまたがる大規模な交易国家でした。カメルーンで標本抽出された2つの民族集団、つまりカヌリ人(Kanuri)およびコトコ人(Kotoko)において、歴史的に帝国と関連していたその年代および帝国の交易網と相関する混合の証拠はありますか?

(6)フラニ人(Fulani)はアフリカ西部沿岸からスーダンまでのサヘル地帯の大半に居住し、セネガルで話されている言語と密接に関連する言語を話す牧畜民族集団です。他の国々のフラニ人に関する先行研究は、フラニ人がモロッコ人およびアフリカ西部人と関連する人口集団の混合子孫と推測しました。カメルーンから標本抽出されたフラニ人は他の国々のフラニ人の遺伝学的研究で以前に報告されたものと類似の混合の兆候を示しますか?

(7)アフロ・アジア語族のチャド語派はチャドとカメルーン北部とナイジェリア北東部で話されていますが、アフロ・アジア語族内におけるその最も密接な言語は議論されています(図1のC)の菱形)。少数の遺伝子座を用いたチャド語派話者に関する先行研究は、ナイル・サハラ語族話者と関連する大量の最近の祖先系統を推測しました。本論文で分析されたチャド語派話者97個体の標本一式において、ナイル・サハラ語族的祖先系統の痕跡を再現できますか?チャド語派話者がどの標本抽出されたアフロ・アジア語族話者集団とより最近関連しているのか、特定できますか?

(8)バントゥー諸語は、その話者が3500年前頃に南方と東方へ拡大し始める前に、ナイジェリアとカメルーンの国境地域において発達した、と仮定されています(関連記事)。複数の波を示唆するコンゴ盆地からの最近のデータとともに、サハラ砂漠以南のアフリカ全体での拡大経路と拡大の数について、議論があります。提案された「バントゥー諸語の発祥地」からの新しい密な標本抽出を活用して、バントゥー諸語話者の人々の拡大の起源と経路と時期に関して、詳細を提供できますか?

 これらの問題に取り組むため、これらのデータは、現在の世界規模の287人口集団の個体群、および高網羅率のアフリカの古代人20個体の遺伝的変異データを含む、刊行された情報源とともに分析されました。この古代人には、カメルーン西部のカメルーン西部のシュムラカ(Shum Laka)岩陰の後期石器時代1個体(関連記事)が含まれます。新たに報告された遺伝的変異データを有する標本抽出された各個体について、自己申告の民族集団、出生地、第二言語、両親と母方祖母と父方祖父の言語についての情報が、大半の事例(80%)で同じ民族集団および出生記録された祖父母両方とともに記載されました。これは、人口構造と祖先系統についての推測への最近の移住もしくは混合の影響を軽減するよう機能し、上述の問題に取り組むさいに大きな交絡要因の可能性を改善します。特定の識別子(たとえば、地理的地域や言語集団)と関連する「祖先系統」に言及する場合、その識別子を有する標本抽出された個体群と合致する遺伝的変異のパターンを参照しており、これは便宜的に使用している略語であることに要注意です。


●遺伝的構造は地理・言語・民族集団と関連しています

 複数のさまざまな手法が用いられ、データセット内の遺伝的構造が分析されました。遺伝的多様性の主要な軸を視覚化するため、まず個体間で共有される推定上の最近の祖先のパターンについて主成分分析(principal component analysi、略してPCA)が実行されました。具体的には、5253個体それぞれについて、まずハプロタイプに基づくプログラムであるChromoPainterを用いて、各個体が世界規模の260の各人口集団から標本抽出された人々と最も最近の祖先を共有する、DNAのゲノム規模の割合が推定されました。

 次に、カメルーンとガーナとナイジェリアとコンゴ共和国とスーダンの1333個体全体でこれら推定される割合についてPCAが実行され、比較のため他のアフリカ人集団およびサウジアラビア人の選択からのデータが組み込まれました(図2)。さらに、smartPCAを用いて遺伝子型データのより一般的に用いられるPCAが実行されましたが、以前に報告されたように、プロクラステス整列をハプロタイプに基づく分析に適用すると、遺伝学と地理との間でより強い相関が観察されました。クラスタ化(まとまること)演算法であるADMIXTUREも適用され、広範な遺伝的パターンが浮き彫りになります。以下は本論文の図2です。
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 第一主成分(PC)はサウジアラビア人からアフリカ西部のニジェール・コンゴ語族話者までの勾配を形成します(図2)。この分析に含まれるほとんどのアフリカ西部のニジェール・コンゴ語族話者は、シエラレオネ人(左上)からコンゴ人まで、地理を反映する方法で第二主成分に沿って位置しますが(図2A)、カメルーン人とフラニ人は顕著な外れ値で、K(系統構成要素数)=8でのADMIXTUREの結果を反映しています。バカ人(Baka)とバコラ人(Bakola)とベヅァン人(Bedzan)で構成されるカメルーンの熱帯雨林狩猟採集民も、南アフリカ共和国とケニアのバントゥー諸語話者と同様に、他のカメルーン人およびコンゴ人とは離れてクラスタ化します(図2Aの左下、K=4のADMIXTUREでは桃色)。第三主成分では、ナイル・サハラ語族話者とコルドファン語派話者のスーダン人が、ナイル・サハラ語族話者であるエチオピアのヌエル人(Nuer)の近くで緊密にクラスタ化し(図2Bの右下)、ほとんどのアラブ語話者のスーダン人は第三主成分に沿ってサウジアラビア人へと転がります(図2Bの右上)。アフロ・アジア語族およびナイル・サハラ語族話者であるカメルーン北部人は、ナイル・サハラ語族話者のスーダン人とアフリカ西部人との中間に位置します。

 次に、(1)民族集団、(2)言語集団、(3)さまざまな距離により出生地が離れている個体の間の遺伝的距離が、遺伝学がこれらの要因のそれぞれとどのように相関しているのか、理解するために計算されました。固定指数(Fst)と全体的な差異の距離(total variation distance、略してTVD)であるハプロタイプに基づく測定の両方を用いて、遺伝的距離が測定され、ここでは、順列検定を用いて有意性が計算され、標本規模での距離の違いが説明されました。Fstとハプロタイプに基づく分析の両方を用いると、同じ国の民族集団は、近い隣人を含めて他国の集団とよりも相互と遺伝的に類似していることが多くなります。たとえば、ナイジェリア南東部の6集団は、近くに居住しているにも関わらず、カメルーン西部の全ての集団と遺伝的に区別できます。一部の地域、具体的にはガーナとカメルーン北西部および西部とスーダン南部の内部では、民族集団は通常、相互と有意に遺伝的に異なります。

 カメルーン内の語族間の遺伝的距離を調べると、ナイル・サハラ語族およびアフロ・アジア語族話者は通常、ニジェール・コンゴ語族話者と遺伝的区別でき、PCAと一致します(図2)。カメルーンのニジェール・コンゴ語族話者内では、バントイド語群を除くバントゥー諸語と草原バントゥー諸語と北バントイド語群(Northern Bantoid)話者は全て区別でき、大西洋北部・中部のフラニ語話者も同様です。各国では、遺伝的類似性と地理的距離との間に負の関係があります。しかし、諸国間で相関の強さに大きな差異があり、ナイジェリアではR²=0.10、カメルーン南部ではR²=0.96です。カメルーンとスーダンの個体群は距離に応じて遺伝的類似性で最大の減少を示し、同じ民族集団に属する人々とのみの比較後でさえ、その傾向は維持されました。しかし、スーダンでは、ナイル川沿いで標本抽出されたスーダン人のみを分析すると、遺伝的類似性と距離との間でより弱い相関が観察されました。これらの相関は距離による孤立か、異なる混合(後述)か、両者の組み合わせに影響を受ける可能性があります。

 次に、fineSTRUCTUREを用いて、個体をクラスタに分類し、個体間の遺伝的関連性の系統樹が推測されました(図3)。PCAの結果と一致して、ガーナの個体群は地理による明確な構造を示し、最初の分岐(つまり、fineSTRUCTUREで推測される系統樹ではより上部)は北部と南部の標本をそれぞれ区分し、その後で南北両方において東西間の分岐が続きます(図3)。ナイジェリアでは、南西部民族集団、つまりヨルバ人(Yoruba)とエサン(Esan)人はfineSTRUCTURE系統樹ではナイジェリア南東部人とよりもガーナ人の方と密接にクラスタ化します。民族集団もしくは地理と関連する明確な分岐は、この標本ではナイジェリア南東部人では推測されません。以下は本論文の図3です。
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 同様に、コンゴ共和国では、限定的な遺伝的構造がありますが、ヨンベ人(Yombe)は明確なクラスタを形成します。カメルーン北部人はチャドおよび中央アフリカ共和国の人口集団との1本の枝にクラスタ化し、沿岸部アフリカ西部人の枝でクラスタ化するフラニ人とは離れています。アラベ人(Arabe)やカヌリ人やコトコ人など特定のカメルーン北部の民族集団は、自身の独特なクラスタを形成しますが、他の全ての民族は2つの大きなクラスタに収まります。しかし要注意なのは、より大きな標本規模では、存在する遺伝的構造を検出する可能性がより高くなる、という点で、標本規模がfineSTRUCTUREの推測に影響を及ぼすかもしれない、ということです。


●精細な規模の遺伝的構造はカメルーンのグラスフィールド地域における民族集団と相関します

 カメルーン南部人は、言語集団により大まかではあるものの完全に定義されるわけではない3つの主要な遺伝的クラスタを形成します。それは、北バントイド語群話者、草原バントゥー諸語話者、バントイド語群を除くバントゥー諸語話者です(図3)。例外に含まれるのは、草原バントゥー諸語を話すものの北バントイド語群話者とクラスタ化するヤムバ人(Yamba)、バントイド語群を除くバントゥー諸語を話すものの北バントイド語群話者とクラスタ化するムボ人(Mbo)、北バントイド語群話者を話すもののバントイド語群を除くバントゥー諸語話者とクラスタ化するバミレケ人(Bamileke)です。とくに、北バントイド語群および草原バントゥー諸語話者内では、fineSTRUCTUREは相互に20km未満に住む民族集団を区別しました(図4D)。以下は本論文の図4です。
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 対照的に、バントイド語群を除くバントゥー諸語話者は民族集団と関連する遺伝的構造をほぼ示さず、TVD分析と一致します。カメルーンのシュムラカ岩陰の高網羅率の後期石器時代1個体(8000年前頃)はfineSTRUCTURE系統樹では、中央アフリカ共和国のビアカ人(Biaka)、バカ人、バコラ人、カメルーンのベヅァン人と同じ枝でクラスタ化します(図3)。これは、このシュムラカ岩陰の古代人1個体における遺伝的差異のパターンが、カメルーンのグラスフィールド地域のバントイド語群を除くバントゥー諸語話者および草原バントゥー諸語話者よりも、現在の熱帯雨林狩猟採集民の方と類似している、との以前の調査結果(関連記事)と一致します。


●スーダンの南コルドファン地域のナイル・サハラ語族話者とコルドファン語派話者は遺伝的に異なります

 スーダンの南コルドファン地域のナイル・サハラ語族話者とコルドファン語派話者は、スーダンのアラブ語話者およびエチオピアのナイル・サハラ語族話者を含む他のクラスタとの枝で、別々のクラスタを形成します(図3)。南コルドファン地域のクラスタは、自己申告の民族的帰属および言語との顕著な対応を示し(図4C)、例外はともにクラスタ化するケイガ人(Keiga)とコロンゴ人(Korongo)です。しかし、地理との相関は比較的低い、と推測されます。

 南コルドファン地域以外のスーダン人は、4つの主要なクラスタに区分されました。まず、1民族集団であるベニ・アメル人(Beni-Amer)は独自のクラスタを形成します。さまざまな異なる民族集団の個体群の別の集団は、カメルーンのフラニ人と同じ枝にクラスタ化します。残りの個体は、民族集団もしくは地理とほとんど対応を示さないものの、代わりに、異なる量の非アフリカ人と関連する推測される混合を示す、2つの主要な遺伝的クラスタに区分されます(後述)。


●同祖対立遺伝子共有と最近の共有祖先系統と混合分析

 本論文は、カメルーンとコンゴ共和国とガーナとナイジェリアとスーダンの個体群を含む、101の「クラスタ」を定義しました。これらの国では、各集団の個体群は同じ自己申告の民族を有しており、fineSTRUCTUREを用いてともにクラスタ化します。孤立の相対的程度を示唆しているかもしれない、集団における遺伝的均一性の相対的程度を調べるため、hap-ibdを用いて、各クラスタ内の個体の各組み合わせ間で共有される同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)断片の合計長が計算されました。平均的な推定ゲノム規模IBD共有は、クラスタにおいて3~241 cM(センチモルガン)で、フラニ人において最高値が観察されました。高い値はいくつかの他のカメルーン人およびスーダン人クラスタでも見られました。

 SOURCEFINDを用いて、101の各クラスタの個体群が226の参照人口集団と遺伝的にどのように関連しているのか、推測されました。コンゴ共和国とガーナとナイジェリアとカメルーン南部の個体群における遺伝的差異の大半がアフリカ西部集団およびバントゥー諸語話者集団と最近関連している一方で、カメルーン北部とスーダンの個体群における遺伝的差異のパターンは、アフリカ東部と西部と北部の人々の混合として最適に記載される、と推測されます。より高水準のfineSTRUCTURE系統樹と共にこれらSOURCEFINDの結果を用いて、101のクラスタを18の「超集団」に統合しました。この「超集団」はともにクラスタ化し、これら227の参照人口集団と類似の推測された関連性を示します。個体群のこれらより大きな集団は、混合事象の検出と年代測定の能力を増加させます。

 次に、別々の3手法が適用されました。それは、MALDERとfastGLOBETROTTERとMOSAICで、18の各超集団において別々に混合を推測します。この分析では、カメルーンとコンゴ共和国とガーナとスーダンの集団は、混合供給源の潜在的代理として用いられませんでした。それは、そうすることでこれらの人口集団で共有される混合の兆候が隠されるかもしれないからです。混合は全ての超集団で少なくとも1つの手法により推測され、12の超集団では2つ以上の手法で推測されました。年代推定は紀元前2650~紀元後1800年で(図5)、10の事例において3つの手法のうち少なくとも2つで信頼区間が重なります。より遺伝的に分岐している人口集団間の混合事象は、検出がより容易であることに要注意です。超集団の標本規模は大きく異なるので、混合事象の検出と年代測定の能力と、したがって信頼区間も異なるでしょう。同様に、一部の混合事象については、データセットが適切な参照代理人口集団を欠いているかもしれず、これも能力に影響を及ぼすでしょう。したがって、より大きな信頼区間もしくは手法間の不一致は慎重に扱われます。以下は本論文の図5です。
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●カメルーン北部人における混合の推測

 非コトコ人のチャド語派話者のカメルーン人(「カメルーン北部」超集団)では、fastGLOBETROTTERは、紀元後710年頃(紀元前10~紀元後840年頃)となる、(1)沿岸部アフリカ西部人、(2)アフリカ東部人、(3)バントゥー諸語話者、(4)チャドの人口集団と関連する供給源間の多方向の混合事象を推測しました。この年代はMALDERによる推測と重なりますが、より正確な信頼区間とは重なりません。対照的には、チャド語派話者のコトコ人では、ナイル・サハラ語族話者のカヌリ人と同様に、3手法全てを用いてより最近(点推定値が紀元後1000年頃以後)の多方向混合が推測されました。これら2集団の推測された混合事象は、アフリカ西部人的およびアフリカ東部人的供給源と、アフリカ北部人およびレヴァント人およびアラブ人集団と関連する第三の供給源を含んでおり、年代はカネム・ボルヌ帝国と重複します(紀元後700~紀元後1890年、図6)。さらに、MALDERはコトコ人におけるより古い混合事象を推測しました。以下は本論文の図6です。
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 フラニ人では、MOSAICとMALDERを用いて、モロッコのベルベル人(Berber)と関連する供給源およびガンビアとセネガルフラニ人の仮定される故地の人口集団と関連する供給源との間の、紀元後670~紀元後1190年頃の混合が推測されました。fastGLOBETROTTERは混合の類似の供給源を推測しましたが、紀元後1800年頃(紀元後1510~紀元後1850年頃)および紀元前680年頃(紀元前2090~紀元後130年頃)という複数の年代があります。さらに、fastGLOBETROTTERとMOSAICの両方は、これらカメルーンのフラニ人はスーダン人の1集団における紀元後1650~紀元後1800年頃の1回の混合事象の供給源の一つを最適に表しており、他の供給源はカメルーン北部人的と推定される、と推測しました。


●カメルーンとスーダンにおけるアラブ人的供給源からの2000年にわたる推測される混合

 カメルーンとスーダンの4超集団は、アラブ人/レヴァント人関連供給源からの混合の証拠を示します(図5Aの赤色の事象)。カメルーンのアラブ人およびナイル川沿いに暮らすスーダン人のクラスタでは、サウジアラビア人的な供給源からの混合の波が、紀元後1340~紀元後1720年頃と年代測定されました。一部のナイル川を拠点とするスーダン人では、fastGLOBETROTTERは、現在のサウジアラビア人と関連する供給源からの紀元後640年頃(紀元後160~紀元後800年頃)となるより古い混合事象を推測し、長期にわたるアラビア半島からの継続的な遺伝子流動と一致します。対照的に、ベニ・アメル人における推測されるアラブ人関連の混合は、ソマリ人(Somali)とより密接に関連するアフリカ人供給源を含み、その年代はMOSAICとfastGLOBETROTTERでは紀元後680~紀元後1130年頃、MALDERでは紀元前170~紀元後580年頃です。MOSAICとfastGLOBETROTTERを用いると、南コルドファン地域の2クラスタではアラブ人関連の混合は推測されません。MALDERはこれら両方の超集団で古い混合を推測しますが、信頼区間は大きくなっています(紀元前4590~紀元後990年頃)。


●カメルーン南部人とガーナ人とナイジェリア人とコンゴ人における混合はバントゥー諸語話者の最初の拡大と相関します

 fastGLOBETROTTERは、沿岸部アフリカ西部人およびバントゥー諸語話者と関連する供給源間の、カメルーンとナイジェリアとガーナのバントイド語群を除くバントゥー諸語話者と草原バントゥー諸語話者の歴史における類似の混合事象を推測しました。MALDERも、カメルーンの北バントイド語群話者と草原バントゥー諸語話者におけるアフリカの2人口集団間の混合を推測しており、信頼区間はこれらの事象と重複しますが、MOSAICはこれら超集団における混合を推測しませんでした(図5A)。fastGLOBETROTTERの推定点推定値年代は、より西方の超集団であるガーナ(紀元前450年頃)とナイジェリア西部(紀元前200年頃)ではより新しく、ナイジェリア東部(紀元前1420年頃)とカメルーンのグラスフィールド地域(紀元前980年頃)およびバントイド語群を除くバントゥー諸語(紀元前820年頃)ではより古いものの、95%信頼区間は全ての年代で重なります。

 コンゴ人では、fastGLOBETROTTERによる複数の混合の波の証拠は、バントゥー諸語話者と関連する供給源とは紀元前560年頃(紀元前1790~紀元前320年頃)、ビアカ人的な熱帯雨林狩猟採集民と関連する供給源とは紀元後1260年頃(紀元後950~紀元後1710年頃)と推測されました。MALDERとMOSAICは両方、より最近の事象を再現し、これらの手法は同じ供給源を含む複数の混合事象の検出ができません。


●拡大および「後期分岐」経路の複数の波と一致するバントゥー諸語話者における混合

 言語学的証拠から、バントゥー諸語話者の拡大はカメルーンとナイジェリアの国境に起源がある、と示唆されておりこの地域のゲノムは他の人口集団におけるバントゥー諸語話者と関連する祖先系統の適切な代理である可能性が高い、と提案されます。これを調べるため、現在の14人口集団と、現在のバントゥー諸語話者と関連する遺伝的変異があると以前に報告された古代人4個体(関連記事1および関連記事2)で、SOURCEFINDが実行されました。

 混合供給源の潜在的な代理として、データセットにおいて4個体以上の270の他の標本抽出された人口集団が用いられ、この中にはバントゥー諸語話者のカメルーン人の8集団と、非バントゥー諸語話者の262集団が含まれます。これら非バントゥー諸語話者は、カメルーンとナイジェリアの南バントイド語群話者を含んでおり、南バントイド語群はバントゥー諸語の起源となった語族です。現在および古代の18集団すべてで、SOURCEFINDはカメルーンの非バントゥー諸語の南バントイド語群話者のバミレケ人(具体的にはバミレケ人北部クラスタ)が、バントゥー諸語話者と関連する遺伝的差異のパターンを最適に反映している、と推測しました(図7)。以下は本論文の図7です。
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 前と同様に、fastGLOBETROTTERとMALDERとMOSAICの3手法を用いて、現在の13人口集団(前に分析されたコンゴ共和国は除きます)と、現在のバントゥー諸語話者と関連する遺伝的変異を有すると以前に報告された古代人4個体における、カメルーン的供給源と在来供給源との間の混合が年代測定されました。アフリカ西部人的供給源と、地理的に近い人口集団と関連する供給源との間の混合は、現在の11集団について2つ以上の手法で推測され、そのうち10集団は少なくとも2つの手法において推定された混合年代で信頼区間が重なります。

 これらの混合事象の多くで、MOSAICは以前に報告されたようにMALDERとfastGLOBETROTTERによる推測よりも最近の年代を推定します。3集団で混合の複数の波がfastGLOBETROTTERにより推測され、1つの事象は各事例で紀元前と推測されました。より最近の混合事象と年代が一つ推定された混合事象のうち、年代点推定値の範囲は紀元前170~紀元後1630年頃でした。SOURCEFINDの推測と一致して、fastGLOBETROTTERと MOSAICはバミレケ人が集団の大半においてバントゥー諸語話者関連混合供給源の最適な代表的供給源である、と報告しました。

 次に、バントゥー諸語話者の拡大の経路が調べられました。拡大期における南部および東部の枝へのバントゥー諸語話者の後期分岐の証拠について検証した以前の手法(関連記事1および関連記事2)に倣って、バントゥー諸語話者関連祖先系統の潜在的代理として、(1)カメルーン人とコンゴ人のバントゥー諸語話者のみ、(2)バントゥー諸語話者全員を用いて、fastGLOBETROTTERが実行されました。コンゴ人集団は、分析において全てのバントゥー諸語話者の対象人口集団の代理としてカメルーン人を上回り(1)、マラウイとモザンビークのバントゥー諸語話者集団は、分析では南部および東部バントゥー諸語話者集団の代理として選好されました(2)。これらの観察は、後期分岐モデルを支持する以前の結果と一致します。後期分岐モデルでは、バントゥー諸語話者はまず現在のコンゴ共和国(および恐らくはさらに南方のアンゴラへと)移動した、とされます。これに続いて、東部と南部の枝の分岐前に、東方への移動があり、マラウイとモザンビークにまで達したかもしれません。

 考古学的証拠は最近、コンゴ盆地における紀元後600年頃の人口崩壊と、その約800年後に起きた第二次拡大事象への裏づけを提供しました。この遺伝的痕跡を評価するため、GONEとIBDNeを用いて、コンゴ共和国における有効人口規模(Ne)の最近の変化が推測されました。その結果、両手法を用いての約60世代前もしくはそれ以前に始まる小さな人口拡大の証拠と、IBDNeを用いての継続的な拡大に続く最近(20世代前)の減少の証拠が見つかりました。より古い人口崩壊の兆候はありませんでした。しかし、GONEとIBDNeを、考古学的データからの有効人口規模の提案された変化を模倣するいくつかの模擬実験に適用することにより、そうした崩壊を特定する能力が評価されました。

 その結果、「拡大・ボトルネック(瓶首効果)・拡大」のシナリオは、本論文の遺伝子型配列データと現在の手法を用いると、単一の最近の拡大と区別するのはひじょうに困難なので、本論文のデータはこれらの技術を用いてこの仮説を検証するのに適していないようです、と示されます。さらに、混合が有効人口規模推定を増加させるかもしれない、と考えると、人口規模の変化からコンゴ共和国の人口集団における推定された混合を解明するのは難しい可能性が高そうです。


●考察

 本論文は、カメルーンとコンゴ共和国とガーナとナイジェリアとスーダンで大半が標本抽出された1387個体の、新たに報告されたゲノム規模常染色体の分析を提示します。これらのデータは、利用可能な人類学および考古学的記録に基づく仮説など、一連の仮説を調べるのに使用できます。以下では、上述の研究史の項目で記載された各問題との関連で、遺伝的データが活用されます。これら遺伝的痕跡の一部は歴史的事象へと関連づけられますが、歴史的な混合の正確な原因の確定は不可能であることに要注意です。これは、推定される年代の信頼区間が大きい場合、とくに当てはまります。本論文は代わりに、重複する年代と人口集団と地理的領域に基づくあり得る説明を提供します。


●遺伝学はカメルーンとコンゴ共和国とガーナとナイジェリアとスーダンという各国内の地理・自己申告の民族的帰属・言語と相関します

 アフリカ西部および中央部の人々とスーダン人の密に標本抽出されたデータセットを活用して、以前には過小評価されていたアフリカの人口集団における精細な規模の遺伝的構造が推測されました。カメルーンとガーナとスーダン内における、国単位(図2)と地理および/もしくは民族単位(図4)のクラスタ化が観察されます。遺伝学は主要な語族と相関することが多く(たとえば、カメルーンにおけるニジェール・コンゴ語族対アフロ・アジア語族、スーダンにおけるナイル・サハラ語族対アフロ・アジア語族)、時には、たとえばカメルーンのバントイド語群話者間など、より小さな言語分類と相関します。コンゴ盆地内などこれらの遺伝的違いの一部は、以前には把握が困難でした(関連記事)。本論文で推測される遺伝的構造は、ハプロタイプに基づく技術を用いると、より検出できることが多く、ハプロタイプが精細な規模の構造をどのようにより深く記載できるのか、示唆した最近の研究を裏づけます。これは、大規模なGWASの階層化を適切に調節するさいに影響を及ぼすかもしれません。

 おそらくは意外なことに、ナイジェリア南東部とカメルーン西部の民族集団は、国境が紀元後1913年以降にしか存在せず、その国家創立時に民族集団の分布がほとんど考慮されなかったにも関わらず、出身国ごとにほぼクラスタ化します。これは、本論文で標本抽出された集団が、この国境形成前に相互に分離されており、それは恐らく現在両側に存在する下位集団間のより古い構造に起因することを示唆します。この構造は、国境がたどりがちな地形的な障壁に起因しているかもしれません。しかし、標本抽出された民族集団には両国の個体が含まれていなかったので、本論文の標本収集ではよく表れておらず、国境の両側の集団は遺伝的により類似している事例がある可能性に要注意です。

 遺伝学と民族的帰属と地理との間で観察された関連とは顕著に対照的に、横断区手法を用いて、ナイル川沿いで標本抽出されたアラブ人とヌビア人の民族集団に属するスーダン人の間の遺伝的差異のパターンは、民族的帰属との一致をほぼ示さず、距離関係による微妙な分離のみを示します。対照的に、単一の場所から各スーダンの人口集団を標本抽出した先行研究は、アラブ人とヌビア人の集団が遺伝的に区別できる、と分かりました。これは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)データを用いて以前に示唆されたように、たとえば遺伝子流動の回廊としてなど、ナイル川がスーダンの集団間の混合を促進するよう作用したことと一致します。ほぼ全てのアラブ人とベジャ人(Beja)とヌビア人の個体群は、主要な違いがアラブ人集団と最近関連すると推測された遺伝的差異のパターンの割合(48%と12%)である、2つの遺伝的クラスタに収まり、ベジャ人とヌビア人の個体群におけるそうした推測されたアラブ人関連祖先系統は平均的に少なくなっています。


●遺伝的構造はカメルーンのグラスフィールド地域における歴史的政体と相関しますか?

 図4Dは、グラスフィールド地域を含むカメルーン南部および西部における精細な規模の構造を示します。カメルーンのグラスフィールド地域(広くは北西部および西部地域)は、バムン人(Bamun)など紀元後19世紀末に大規模で統一された王国(fondomとして知られています)を有した民族集団から、アゲム人(Aghem)などわずか数村落で構成されるより小さな民族集団まで、さまざまな歴史と政体のある民族集団の故地です。グラスフィールド地域の個体群における顕著な精細な規模の構造が推測され、ほとんどの民族集団は、標本抽出された個体群が相互に20km以内に暮らしている集団でさえ、独自の遺伝的クラスタを構成しています。この構造は異なる混合ではなく集団間の孤立の結果と考えられ、それは、これらの集団はすべて非グラスフィールド地域人口集団と遺伝的に同様に関連しているからです。代理として154のアフリカ人集団が標本抽出されましたが、(未知の)祖先供給源に寄与した充分に適切な代理を有していない場合、そうした集団間の真の混合の違いの検出能力に制約がある可能性に要注意です。

 民族集団が遺伝的クラスタと一致しない、2つの重要な例外が見つかりました。まず、ンソ人(Nso’)とウィンバム人(Wimbum)は、草原バントゥー諸語の異なる枝の言語を話し、70km離れて暮らしているにも関わらず、ともにクラスタ化します。ンソ人は先植民地期に大規模で統一された王国を形成し、近隣の民族集団に影響を及ぼし、恐らくは遺伝子流動を促進しました。もう一方の民族集団であるノニ人(Noni)は、ンソ人とは20km以内で暮らしていますが、ンソ人とクラスタ化しません。ノニ人はンソ王国により支配されることもありましたが、別々の独自性を維持し、植民地期と植民地期後の両方で独立を確立しようとしており、これが2集団間の遺伝子流動を制約したかもしれません。第二の例外は、ティカール人(Tikari)と自己認識している民族集団で、この集団は2つの別々の遺伝的クラスタに収まります。とくに、ティカール語を話し、アダマワ(Adamawa)地域に暮らすと申告しているティカール人と自己認識している人々は全員、他の北バントイド語群話者の間にクラスタ化します。対照的に、ティカール語を話し、グラスフィールド地域で暮らしていると申告しているティカール人は、他のグラスフィールド地域の民族集団とクラスタ化します。

 標本抽出されたグラスフィールド地域の民族集団のうち、バムン人とバミレケ人は最低の推定集団内IBD共有を示します。バムン人の王国はグラスフィールド地域において最大と報告されており、近隣の民族集団との戦闘および交易で知られています。これらの相互作用は、バムン人における遺伝的孤立/族内婚を減少させるよう、作用したかもしれません。一般的にこれらの結果から、カメルーンのグラスフィールド地域における異なる政治的構造は類似の遺伝的痕跡と一致しない、と示唆されます。グラスフィールド地域における遺伝的差異のパターンを解釈するさいには、植民地の歴史を検討することも重要です。たとえば、バミレケ人との分類は、植民地期にドイツ人によっていくつかのより小さなフォンドム(fondom、政体)に与えられ、これは、そうした広範な植民地期の分類を課されなかった近隣の民族集団と比較して相対的に高い遺伝的多様性を説明できるかもしれません。


●スーダン南部においてコルドファン語派話者とナイル・サハラ語族話者との間で構造が検出されますか?

 ナイル川沿いに標本抽出されたスーダン人で観察された遺伝的構造の欠如とは対照的に、南コルドファンのヌバ(Nuba)山脈で標本抽出された個体群ではひじょうに精細な規模の構造が推測され、民族言語集団と相関します(図4C)。この地域は、近寄りにくい性質のため、歴史的な退避地として記載されてきました。エスノローグ(Ethnologue、キリスト教系の少数言語の研究団体が公開しているウェブサイトで、少数民族言語の概況を説明しています)は南コルドファンの言語を2つの大語族に位置づけています。それは、ニジェール・コンゴ語族(コルドファン語派)とナイル・サハラ語族ですが、分類について論争があり、いくつかの言語は孤立言語として分類されることが多くなっています。

 本論文は、コルドファン語派話者として分類される集団はナイル・サハラ語族話者として分類される集団と遺伝的に異なっている、と推測し、後者はエチオピアの標本抽出されたナイル・サハラ語族話者とより大きな遺伝的類似性を示します(図2)。これらの違いは、最近の族内婚の影響を軽減した後にも残り、異なる大語族と相関する、恐らくはコルドファン語派とナイル・サハラ語族の話者間のいくつかの古代の構造が示唆されます。この地域における遺伝学と地理との間の比較的低い相関も推測されますが、これは、アケローン人(Acheron)など主成分を歪める比較的孤立した集団の結果である可能性が高そうです。以前の報告を再現して、スーダンへのアラブ人の拡大後の南コルドファンにおけるアラブ人関連の混合の証拠は推測されず、再び退避地としての山脈の役割と一致します。


●アフリカへのアラブ人の拡大の結果としての混合を年代測定できますか?

 アラブ人的供給源と関連する、スーダン人における混合の複数の波が推測されました。他の標本抽出されたスーダンの民族集団とは対照的に、沿岸部ベジャ人民族集団であるベニ・アメル人は、エチオピアのアフロ・アジア語族話者集団と関連する遺伝的変異のより大きな推定割合(図5C)、および紀元後千年紀のサウジアラビア人およびイエメン人と関連する供給源からの混合のより古い波を示します。アクスム王国(The Kingdom of Aksum)はこの期間にエチオピア北部全域と沿岸部スーダンとイエメンに広がり、アラビア半島と交易したと知られており、推測された遺伝子流動について説明できる可能性を提供しますが、この帝国と無関係な他の相互作用もこの兆候を説明できます。この混合事象は、ベニ・アメル人においてそれ以前の期間の追加の非アフリカ人との混合とともに以前に報告されており、この以前の兆候は、より最近の兆候により隠されたため推測できないかもしれません。

 紀元後1340~紀元後1730年頃の、(1)現在のアラブ人および(2)アフリカ東部のナイル・サハラ語族話者と関連する供給源間の、おもにナイル川住民を含む他のスーダン人の2クラスタにおける混合が推測されました。この推測された混合の年代と供給源は以前の調査結果と一致しており、この期間のマクリア王国(the Kingdom of Makuria)の崩壊を反映しているかもしれず、これによりアラブ人集団はナイル川を下ってスーダンへと拡大することが可能になりました。これらのクラスタのうち1つでは、類似の供給源間の紀元後640年頃(紀元後160~紀元後800年頃)となる混合のより古い波についての以前の報告が再現され、紀元後7世紀のアラブ人の拡大に先行するか一致するスーダンへの移住の波の可能性が示唆されます。最後に、紀元後16世紀頃となるカメルーンの最北地域のアラブ人におけるアラブ人的混合が推測され、紀元後14世紀半ば以降の湖地域へのアラブ人集団の報告された移動と重なります。


●カネム・ボルヌ帝国は関連するカメルーン北部人口集団の遺伝的構成にどのような影響を及ぼしましたか?

 チャド語派話者のコトコ人とナイル・サハラ語族話者のカヌリ人の両方で、コトコ人では紀元後960~紀元後1690年頃、カヌリ人では紀元後820~紀元後1760年頃となる混合事象が推測され、これには現在の、アフリカ東部人、アフリカ西部および南部のバントゥー諸語話者、アフリカ北部人とレヴァント人とアラブ人それぞれと関連する、3つの異なる供給源が含まれます。その推定年代は、この期間にカメルーン北部に存在したカネム・ボルヌ帝国と重なります(図6)。カネム・ボルヌ帝国は紀元後700年頃以降、チャド湖の東側のカネムに拠点を置きました。紀元後14世紀後半には、カネム・ボルヌ帝国の中心地はナイジェリア北東部のボルノ(Borno)へと移り、19世紀後半までそこに留まり続けました。

 文化的および言語的にコトコ人と関連している在来のチャド語派話者人口集団が、ナイル・サハラ語族話者のカネム・ボルヌ帝国へと同化され、カヌリ人が民族集団として出現したのは、この後期のことです。これは、カネム・ボルヌ帝国の後半にコトコ人における混合年代を2つの手法が推測した理由を説明できるかもしれません(図6)。カヌリ人では、MOSAICはカネム・ボルヌ帝国の期間内の複数の混合事象を推測し、それは、前期もしくは帝国期と後期で、おそらくはより長期にわたるより継続的な混合を反映しています。カネム・ボルヌ帝国はアフリカの北部と西部と東部の間の交易関係で知られており、恐らくはこれらの地域の人々の混合を促進しました。しかし、本論文の信頼区間は長期にまたがっており、この期間におけるカメルーン北部への遺伝子流動はカネム・ボルヌ帝国と無関係な長距離の相互作用と関連しているかもしれないことに要注意です。


●カメルーン北部のフラニ人の歴史において混合を年代測定できますか?

 カメルーンの最北とアダマワ地域で標本抽出されたフラニ人において類似の混合供給源が推測され、これは他の国々のフラニ人の研究でも報告されました。その1供給源は12%ほど寄与したモロッコのベルベル人関連で、残りのDNAはガンビア人およびセネガル人と関連する供給源からの寄与でした。モロッコのベルベル人およびガンビア人と関連する供給源間の混合は、これらカメルーンのフラニ人において、MALDERとMOSAICを用いると紀元後670~紀元後1190年頃で、ガンビアとブルキナファソとニジェールとチャドで標本抽出されたフラニ人での紀元後200年頃という、一部の以前の混合年代推定よりも最近となります。fastGLOBETROTTERは混合の複数の年代を推測し、上述の供給源間のより古い事象は紀元前700年頃ですが、信頼区間がひじょうに大きくなっています。fastGLOBETROTTERが推測したひじょうに最近の混合は、以前に示されたように、より古い事象へとその年代推定値がさかのぼるかもしれません。サハラ砂漠を横断する交易および移動経路は、アフリカのり北部と西部を何千年もつなげ、推測される遺伝子流動を促進したかもしれません。フラニ人クラスタ内でのIBD共有のより大きな量も推測され、民族集団の歴史的な族内婚慣行の結果かもしれません。

 いくつかのスーダン人個体において、フラニ人的供給源とカメルーン北部的供給源との間の、紀元後1650~紀元後1800年頃となる混合が推測されました。非フラニ人供給源はスーダン人よりもカメルーン人の方と密接に関連しているので、混合はスーダンよりも西方で起きた可能性が高い、と示唆されます。推定信頼区間は、ナイジェリア北部とカメルーンのフラニ人とハウサ(Hausa)人と他のチャド語派話者人口集団との間の、歴史的に証明された、相互作用増加期間と重なっており、ウスマン・ダン・フォディオ(Usman dan Fodio)のフラニ人のジハード、および多民族のソコト人カリフの確立と拡大で最高に達ました。この混合の一部の子孫は、その後でスーダンに移住したかもしれませんが、それ以前の時点で東方に移動した集団間のスーダン内での混合など、いくつかの他の説明も可能です。


●どのアフロ・アジア語族話者人口集団がカメルーン北部のアフロ・アジア語族チャド語派話者と遺伝的に最も密接に関連していますか?

 14のカメルーン北部のアフロ・アジア語族チャド語派話者民族集団のうち11集団を含む超集団(カメルーン北部超集団、図3)では、現在の沿岸部アフリカ西部人、バントゥー諸語話者集団、エチオピアとチャドのナイル・サハラ語族話者により表される複数の供給源間の混合年代が、紀元後710年頃(紀元前10~紀元後840年頃)と推測されました。この混合は複数の祖先供給源を含んでいるので、移住事象の方向性は推測困難です。紀元前6000~紀元前2000年頃となるカメルーンへのチャド語派話者の最初の移住と関連するには最近すぎる一方で、混合の類似の年代と供給源が、ナイジェリア北部のニジェール・コンゴ語族話者であるベロム人(Berom)について報告されました(関連記事)。

 まとめると、これらの結果は紀元後千年紀におけるカメルーン北部とナイジェリア北部での少し特徴的な混合事象を示唆しており、この混合事象は東西のアフリカ人と遺伝的に関連する供給源が含まれます。この期間は外来的な副葬品の存在の顕著な増加についての考古学的証拠、したがって、この地域における外部供給源との交易と一致しています。以前の報告と一致して、チャド語派話者では、カメルーンとチャドのナイル・サハラ語族話者と最近関連する大量の遺伝的変異の証拠が見つかり、チャド語派の最も密接なアフロ・アジア語族話者の識別が困難となります。カメルーン北部内の標本抽出されたナイル・サハラ語族話者とチャド語派話者は、本論文の手法を用いると、遺伝的に区別できないようです。


●現代のアフリカの人口集団にバントゥー諸語話者の拡大はどのような影響を及ぼしましたか?

 ナイジェリアとカメルーンの国境およびその周辺の「バントゥー諸語の発祥地」の個体群の密な標本抽出を考慮して、どの標本抽出されたカメルーンとナイジェリアの集団が、アフリカ全域のバントゥー諸語話者集団と関連する祖先系統を最もよく代表しているのか、調べられました。バントゥー諸語における初期の分岐に関して愚論があり、祖型バントゥー諸語はより広範な南バントイド語群内で側系統である可能性が高いので、バントゥー諸語と非バントゥー諸語の南バントイド語群との間の区別が議論になることもあります。これと一致して、OURCEFINDとfastGLOBETROTTERとMOSAICを用いての手法では、全ての人口集団におけるバントゥー諸語話者的構成要素は、カメルーンのバントゥー諸語話者人口集団と比較しても、非バントゥー諸語の南バントイド語群話者であるバミレケ人と最も密接に関連している、と推測されました(図7)。しかしこれは、バミレケ人をより適切な祖先系統の代理とする可能性がある、少ない最近の族内婚と一致する、バミレケ人における集団内IBD共有の結果かもしれません。この地域の遺伝的構造がバントゥー諸語の拡大開始と同じ4000年前頃ではなかった可能性が高そうなので、この結果からバミレケ人は拡大の供給源だった、とは示唆されない、と本論文は強調します。

 南アフリカ共和国で発見された古代人3個体(530~310年前頃)を含めて、混合の単一の年代が推定されたバントゥー諸語話者集団では、混合事象はバントゥー諸語話者的気湯と在来の供給源を含んでいました。年代点推定値は紀元前170~紀元後1630年頃の範囲で、先行研究における推測と一致します。バントゥー諸語話者が在来の人口集団と混合した年代についての本論文の推測は、考古学および言語学的証拠において示唆された、地域への最初の到来よりも最近であることが多くなっています。これは、最初の移住および/もしくは、類似の経路に沿って、元々の混合事象を覆い隠す類似の供給源を含む、複数の「拡大の上書き(spread over spread)」の移住後の、バントゥー諸語話者の長い孤立により説明できるかもしれません。後者と一致して、コンゴ共和国のバントゥー諸語話者からの新たなデータでは、紀元前560年頃と紀元後1260年頃の複数の混合事象の証拠が見つかり、両者は現在のバントゥー諸語話者および熱帯雨林狩猟採集民と関連する供給源を含んでいます(図5A・B)。

 より古い年代は、コンゴの熱帯雨林への紀元前800年頃となるバントゥー諸語話者の拡大の最初の段階と一致しており、コンゴ民主共和国の集団における以前の混合推定(関連記事)と合致します。推測された最近の事象と類似する混合は、ガボンとアンゴラの集団でも以前に報告されており、第二の「拡大」事象を表しているかもしれません(関連記事)。「拡大の上書き」理論と一致して、南アフリカ共和国のズールー人(Zulu)やケニアおよびウガンダのバントゥー諸語話者における、バントゥー諸語話者供給源と在来の供給源との間の複数の混合年代の証拠も見つかり、より古い年代はこれらの地域へのバントゥー諸語話者の最初の移住と重なります。これら3クラスタはバントゥー諸語話者では最大の標本規模で、これらより古い年代を検出する能力が増加します。

 ガーナ人とナイジェリア人とカメルーン南部の3超集団では、fastGLOBETROTTERと、時にはMALDERが

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