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外国語学習について - 内田樹の研究室

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:07:28

外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31

2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。

外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:16:11

日本語は難し過ぎる
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14094861

日本人の3人に1人は日本語が読めない
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14068776

外国語学習について - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14094875

日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html

ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:20:30

英語は声に出して話す事を前提にした言葉なんですね.
本来,本の様な書かれた文章を読むのには向きません.

なぜ外国映画はアメリカで字幕上映されない?

世界中ほとんどの国で、外国映画は吹き替え上映が普通。

日本みたいに字幕上映が多い国が例外。

1 :名無しより愛をこめて [sage]:2009/07/12(日) 13:22:19 ID:J3Qe6wQy
アメリカで公開される外国の映画は殆どが英語吹き替えで上映されたり、
映画の舞台が非英語圏でも堂々と登場人物が英語を喋ったりで、日本で言う
字幕厨なんていう奴は全くいなく、吹替厨だらけ。

なんでアメリカ人は外国映画を英語字幕で見ようとしないんだろ?

3 :名無シネマさん[sage]:2009/07/12(日) 14:18:47 ID:CKJtk7i/
英語は綴りを読まなくちゃならないからな
漢字は一文字の情報量が多いから流し読みしても意味が汲み取りやすい
日本語字幕が全部ひらがなで書かれてる位の読み難さじゃないかな>英語字幕


7 :名無シネマさん[sage]:2009/07/13(月) 14:18:50 ID:Y0rfQyei
>>3
何度か、英語字幕付きの日本映画を見たけど
登場人物が難しいことを言いだすと、長い単語が画面にズラズラと流れて
これは無理だと思ったよ。
8 :名無シネマさん[sage]:2009/07/19(日) 20:34:54 ID:ShU9guzs
ドイツに半年いたことがあったけど、
映画館は約8割はハリウッド映画を吹き替え上映してたよ。 
1日一本週4日、メジャーな映画(天使と悪魔、グラントリノ、ターミネーター等)の
英語のオリジナル(字幕なし)上映があってたけど。

>>4が最初のほうでいってるように、
吹き替え上映はアメリカに限らず、けっこういろんな国で多数派なのでは?

10 :名無シネマさん[sage]:2009/07/28(火) 18:02:21 ID:W/Jd8xzS

吹替えって結構徹底してるみたいです。
しかし一度「John Rabe」というドイツ映画を見に行ったことがあるんだけど、
これがドイツ映画でドイツ語が主言語のくせにせりふがすべて吹替え!
なぜかというと、
この映画はシンドラーのリストドイツ版?
日本軍の南京大虐殺から中国人を救ったドイツ人ビジネスマンの話。
なので、せりふもドイツ語のほか、英語、フランス語、中国語、日本語といくつかある。(IMDbで確認した)
日本人の将校役の俳優さんたちは日本語だな!と期待したらだめだった。
明らかにドイツ語でしゃべってる部分まで調整のため?かふきかえられてんだもん。
まじで徹底した吹替えっぷり。
これはドイツでの一例なので、ほかの国でどうなのかは未体験だが・・・
外国いって字幕で外国映画を見ようなんて、
アメリカに限らずどこの国いっても期待しないほうがいいぞ。

そして,その結果は:


 「アメリカでは大人の4人に1人が自分の名前程度しか読み書きできない」。新聞や雑誌で、こんな統計に出くわしてハッとする。

 ただそれは、ぼくが4人に1人という数に驚くからではなく、「やっぱりそうか、アメリカの非識字率ってそんなとこだったんだよな・・・・・」と改めて意識させられ、でもショックは受けず、危機感もイマイチわかず、「ま、別段新しい数字でもないし・・・・・」と片付けそうになる、とそこで気がつく。そしてハッとするのだ。慣れっこになってはならない、深刻な問題なのだ。

 しかしまったく、ぼくの母国はどこを見ても、危機的な統計がゴロゴロしている。

――国民健康保険の制度はなく、アメリカ人のおよそ6人に1人が無保険状態で、事実上、医療が受けられない。

――ブッシュ政権が1期目で実施した大型減税は、総額の半分以上が超富裕層のトップの1パーセントの懐に入った。

――米国人は世界人口の5%にも満たないが、世界の石油消費量の4分の1以上を、一国だけで燃やしている。

――マリア様がセックス抜きに、処女のまま妊娠してキリスト様を産んだという「処女懐胎」を、アメリカの成人の8割が信じている。

 25%の非識字率と、その他もろもろのトンデモ統計と、当然みんな地続きのものだ。字がうまく読めないと、テレビが主な情報源になってしまい、テレビ報道は、「処女懐胎」と同じくらい現実から掛け離れていることが多々ある。

では、もし一生懸命ABCを勉強し、どうにかディクショナリーと首っぴきで新聞が読めるようになったとして、それで確かな情報にありつけるかというと、そうはメディア屋が卸さない。

 例えば、二年前の古新聞を見てみると、『ニューヨーク・タイムズ』を始めアメリカの全国紙も地方紙も、妄想とイリュージョンの記事で埋め尽くされている。「死との隠れん坊・なおくすぶるイラクの核兵器の謎」「細菌博士・世界一の殺傷力を持つ女」―― 2002年の暮れは、イラクが隠し持っているに違いない生物兵器と化学兵器と核兵器と弾道ミサイルの脅威の話題で100%持ち切りだった。
http://www.web-nihongo.com/back_no/column_01b/041221/index1.html


◆米国民の知的劣化 

これは、米国民が、知的に劣化したせいだと考えられるのです。

 とにかく、米国の成人の5人に1人は天動説を信じていますし、26%しか進化論を信じていません。

そもそも、高卒以下の人々の約45%は聖書に書かれていることはすべて真実だと信じています。

それどころか、白人の原理主義的(evangelical)キリスト教徒の60%は、議会ではなく、聖書に拠って米国の法律が制定されるべきだと考えているのです。

 また、成人のたった57%しか年間に1冊以上ノンフィクションの本を読んでおらず、若い成人の3分の2はイラクがどこにあるか地図上で示すことができず、成人の3分の2は米国の3権を列挙することができず、同じく3分の2は1人の最高裁判事の名前も挙げることができません。

15歳の数学の力はOECD加盟29カ国中24位ですし、2007年の研究では読む力が男女とも、しかも教育レベルの相違にかかわらず、低下気味であることが明らかになっています。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu181.htm


アメリカ人のじつに68パーセントは、悪魔がいることを信じている、との統計がある。それに対して、進化論を信じている人は、28パーセント。神様が、聖書に書いてある通り、1週間で宇宙を創造した。われわれ人間はサルから進化したのではない。最初から特別な存在として、神様が創造したのだ、と信じている人の方が、はるかに多く、48パーセントもいる。

聖書には、この宇宙は、神が7日で創造したと書いてある。それをそのまま信じる。現在世界は、悪魔に支配されているから、この世の中には邪悪なものが充ち満ちている。しかし悪と闘い、福音を全世界にもたらすことが、世界を救う、と信じている。そして、やがてキリストが再びこの世に姿をあらわすこと(再臨)を信じている。

NHKの「クローズアップ現代」とNHK-BSで「ブッシュとキリスト教右派」の番組が放送されましたが、福音派の教会におけるミサの様子はまさしく、オーム****の様子とよく似ている。悪魔の存在を信じ、善悪の二元論で考える彼らの思想はブッシュの演説にもよく反映されている。彼らは今、オームがサリンをばら撒いたがごとく、イラクで劣化ウラン弾をばら撒いた。そのためにイランの子供達はその後遺症に苦しんでいる。

アメリカは共和党、民主党の二つに分かれているように、東北部と西海岸地区の人口の多い豊かな地域と、中西部と南部の過疎地域で貧しい地域に分かれている。福音派はこの貧しい地域が地盤でありそこから全土にテレビ伝道などで広がり始めている。民主党の地盤と共和党の地盤も同じように分布するのは、経済格差が原因だろうか。


アクエリアス氏はアメリカ南部のキリスト教について次のように書いている。

《聖書を重んじるあまり、それ以外の人類の知的営みをまともに受け止めない。哲学も歴史学も拒否する。自分らに都合よく書き直されたキリスト教史と、良いとこ取りのアメリカ建国史だけが、彼らの歴史である、科学も拒否する、ダーウィンの進化論は、南部の学校では教えることができない。聖書以外の知的営みを拒否し、対話をすることなく、説教師の話を聞き、聖書を読むという世界に自閉する。そういう点で、聖書主義は反知性主義である。インテリは嫌われ、特に大学教授は悪魔の手先だとされる。

 人間と世界を学ばず、先ほど書いた天国か地獄かの終末論だけに閉じこもるから、極端な善悪二元論に陥る。正義か悪か、救われるものか地獄行きか、黒か白かのどちらかであって、灰色の部分を許さない。一見正しいものにも問題があり、駄目なものも見所があり、救いようがある。人間には強いところも、弱いところもあり、そう単純にはいかない。そんな軟弱な考え方は、すでにサタンに誘惑された間違った考え方だと糾弾する。

http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/594.html

1.スーパーのレジが異様に遅い。(日本の5倍くらいはかかってるw)

2.ファーストフードのセットメニューを頼むと、時々一品抜けてる。(3品しかないのにねw)

3.まともな運行時刻表すらないアメリカのバス・電車。(アメリカでは新幹線なんてとてもムリw)

4.殆どのアメリカ人って、外国に行った事も無い、外国語も話せない。要は、無知な田舎者w

5.レディーファーストなんてカッコつける割には、旦那の暴力が社会問題&驚異的な離婚率w

6.アメリカ人の運転マナーの悪さ・自分勝手度合い・・・ 日本人には『想定外』の連続ですw

7.何かを発注したとき、まず守られない納期。稀に納期を守る会社があるとビックリするw

8.議論は長いが何の結論も出ないアホな会議が、実は日本より多いw

9.必ず下らないギャクを入れるプレゼン。アメリカ人はプレゼン上手だと勘違いしてる模様w

10.テメーの稼ぐ金よりも、多くの金を浪費してる国・国民。愚かな・・・(以下省略w

11.コミュニケーションという言葉が好きみたいだが、要はペチャクチャ話して仕事せずw

12.自由を守る!テロとの戦いだ!などと他国に騒いでるが、要は、親米か反米か、それだけw

13.ミーティングでは“No Problem. We can do that” し か し・・・行動が伴わないw

14.ゴミの分別などお構いなし。誰も居ない週末のオフィスでも冷房ガンガン。環境を語る資格ナシw

15.駐車場で白線内にクルマを停めない馬鹿が多過ぎw、世間の程度が知れるw

16.セクハラ訴訟で何百億円、タバコ訴訟で何千億円・・・素晴らしい常識の国だよw

17.国民総肥満w、何食ってどれだけ怠惰に生活すれば、あんな肥満になるのか誰か教えてくれw

18.いまだにアメリカだけポンド・ガロン・インチ・・・の世の中w ま、彼らに国際単位系への変更なんて理解不能かw

19.終わってる製造業w 武器以外に輸出できるようなモノって一体何があるの?誰か教えてくれw

20.たかだか二百数十年の『アメリカ史』w なんせ白人は人々が暮らしているのにアメリカ大陸“発見”だからw
皮肉な事に、日本の負け組みに限って渡米希望w


イギリス社会の10大特徴

①とにかく犯罪が多い
スリ、置き引き、強盗、バイシュン、ナイフ殺人…
このどれかに遭遇せずにロンドンからは出られねえぜヒャッハー!

②街中にハッテン場
ホモのレイプ魔がトイレや階段の陰で獲物を待ち伏せている。
公衆トイレでアナル強姦されてエイズになって死んだ日本人の大学教授がいる(実話です)。

③メシが不味い
イギリス料理は脂肪と塩そのまんまの味がする。食事というより家畜のエサ。

④不細工・奇形だらけ
歯並びが悪かったり、顔が左右対称になってなかったり、足が異様に短かったり
日本人が持っている白人のイメージとは随分違った醜い容姿の人たちでいっぱい。

⑤原因不明の難病患者群
世界の奇病リストを見ると患者にイギリス人大杉。

⑥イジメがすごい
幼稚園から大学、社会人まで陰湿極まりないイジメ文化が複雑・重層的に発達している。
人間関係の基本は陰口と嫌がらせ。人を騙す技術に長けた欲深い金持ちを紳士という。


⑦階級差別・人種差別
貧富の差が凄まじい。言葉づかいの差別が激しく、貧乏人の訛りがついてしまうと一生出世できなくなる。
日本人や中国人がものすごく嫌われている。また、ネオナチがインド人や黒人の移民を襲撃している。

⑧不潔
毎日風呂に入る習慣が確立していない。ジメジメかつ埃っぽく、どこへ行ってもカビの生えた毛布のような変な臭いがする。

⑨乱れた王室
王室関係者はスキャンダルまみれ。セックス・ドラッグ・不倫・公金横領・人種差別発言などやりたい放題。

⑩ウリナラ根性
そんな自分たちが世界をリードするべき人種で近代文明の産みの親だと信じて疑わない恐るべき傲慢ぶり

要するにアメリカの一般大衆は魔女狩りの時代から何も進歩していないのですね.

まあ,2000年前から何一つ進化していない中国語を今でも使っている原始人_中国人よりはましですが,仮に中国人が中国語を捨てて英語を母国語として採用したとしても,せいぜいこのレベルまでしか行けないのですね.

中国の時代が来る事は未来永劫無いという事がおわかりになりましたよね?
4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:22:12

英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる 2015-07-08


我が国を長期的に亡国に導く可能性がある衝撃的なニュースが報じられていた。

『ホンダ、英語を公用語…日本人だけなら日本語も
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150705-OYT1T50040.html


 ホンダは2020年を目標に、英語を社内の公用語にすることを決めた。
原則として、外国人の社員が参加する会議や、本社と海外拠点で共有する文書では、英語を使う。自動車業界はグローバル化が進んでおり、英語の公用語化によって、社員同士の意思疎通を円滑に進めることを目指す。

 基本的には、外国人社員が一人でも会議に出席していたり、本社から海外拠点に指示したりする場合には英語を用いる。ただし、外国人社員が出席しない会議や、現地の従業員だけが共有する文書は、これまで通り日本語や現地の言葉を使うなど柔軟に対応する。

 現在、本社と海外の現地法人の電話会議は、主に日本語で会話しており、日本人の駐在員しか出席しない場合が多い。駐在員が会議の内容を英語に翻訳して外国人従業員に伝えるため、手間がかかり、本社の意図を正確に伝えられないこともあったという。』


 これで、ホンダは「日本企業」であることをやめたも同然です。そして、日本語環境で高度な思考を巡らせ、製品開発や販売戦略を練ってきた日本人社員が英語を強制されることで、意思疎通は更に悪化し、需要に応える自動車を作るという意味における、真の意味の「ホンダの競争力」は凋落していくことになるでしょう。


 ホンダを含む「英語の公用語化」などと愚かな実験を始めた全ての日本企業の経営者、社員に読んで欲しい一冊があります。7月17日に発売になる、施光恒先生の「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) 」です。


自由、平等、そして民主主義の「基盤」となっているのは、何でしょうか。

国民の言語です。


 国民の言語が統一されていることで、人間は、
「多数の選択肢に実際にアクセスし、その中から選ぶことができる」
 という意味における自由を手に入れます。日本が、

「英語が公用語。日本語は現地語」

 といった状況だと、我々日本国民の人生の選択肢は相当に狭まってしまうでしょう。すでにして、「英語が分からなければ、ホンダで働けない」と、自由の制限が始まっているのです。


 また、言語が統一されていれば、
「グローバル言語(かつてはラテン語。今は英語)を話す人と、現地語(あるいは土着語)で話す人」
 といった格差が生じ、平等が破壊されることが防げます。そして、日常生活で使う言葉や語彙で「政治」を話し合うことができて初めて、民主主義が成立するのです。 


 施先生が本書で例に出されていますが、ベルギーは1830年の建国以来、異なる言語を使う人々の間で連帯意識をいかに醸成するか、苦労に苦労を重ねてきました。結局、言語が異なる国民同士の連帯意識を高めることは不可能に近く、現在は南部と北部の対立が先鋭化し、選挙のたびに国政が停滞する(政権が発足できない)状況が続いています。(最近では、言語問題に輪をかける形で、移民問題を抱えているわけです)


 母国語を捨てることは、自由や平等、そして健全な民主主義が存在する社会を諦めることなのです。
 
 そもそも、「グローバルな言語(現在は英語)」が公用語的になっており、人々が日常的に話す言葉が「土着語」「現地語」と呼ばれ、高等教育を母国語で実施できない国のことを「発展途上国」と呼ぶのです。


 ビジネス界のみならず、我が国では小学校の英語教育の早期化や、大学教育の英語化が始まっています。すなわち、自ら発展途上国化しようとしているわけで、これほど愚かな国は世界に類例を見ないのではないでしょうか。
 
 人類の進歩というものがあるとしたら、それは施先生も書かれていますが、「翻訳と土着化」で進んできました。欧州を近代化させたのは、間違いなくグローバル言語(ラテン語)で書かれた聖書の各国語への翻訳と土着化です。聖書が英語やフランス語、ドイツ語に翻訳され、概念に基づき語彙が増えていき、各地の「国民」は母国語で世界を、社会を、神を、人生を、哲学を、政治を、科学を、技術を考えられるようになったのです。結果、欧州は近代化しました。


 日本の近代化は、それこそ「明治産業革命」時代の翻訳と土着化により達成されました。外国語をそのまま使うのではなく、概念を理解し、日本語に翻訳する。適切な言葉がないならば、作る(日本語は漢字で表現されるので、非常に便利です)。


 科学、哲学、個人、経済、競争、時間といった言葉は、日本語に適切な訳語がないため、造語されました。自由、観念、福祉、革命などは、従来の漢語に新たな意味が付加されました。


 日本が先進国なのは、先人が「英語を公用語化する」(そういう話は何度もありました)という愚かな選択をせず、「総てを母国語で」を貫いたおかげです。結果的に、恐ろしく柔軟性(これも幕末以降の造語ですが)に富み、抽象表現が幅広く使える日本語により、世界に冠たる文明(これも造語)を築き上げることに成功したわけです。


 確かに、日本人は英語が下手ですが、当たり前です。そもそも日常生活で英語を使う必要が全くなく、母国語で素晴らしい文化(これも造語)を花開かせているのです。英語が巧くなるわけがありません。とはいえ、何度か書いていますが、「日本語」以外でワンピースやコードギアスやシュタインズ・ゲートが生まれると思いますか? 絶対に、無理です。


 逆に、「現地住民」が英語を学ばなければならない国は、母国語のみでは生活できない発展途上国なのでございます。この種の国の国民が、母国語のみで生きていけるようになったとき、初めて「先進国」になるのです。


 というわけで、施先生がメルマガなどでも書いて下さったように、我が国は各国が、
「英語が下手でも普通に生きていける国」

 になるよう、支援するべきなのでございます。それにも関わらず、我が国は自ら「英語を学ばなければ、生きていけない国」を目指しているわけで、このあまりにも愚かな動きに対し、断固反対していかなければなりません。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12047937948.html


【施 光恒】英語化と「国のかたち」 2015/07/10


7月17日に、『英語化は愚民化──日本の国力が地に落ちる』(集英社新書)という新しい本を出します。
http://www.amazon.co.jp/dp/4087207951/ref=zg_bs_492118_4


中身は、日本社会で進む英語偏重の流れや、その背後にあるグローバル化を筋道立てて批判したものです。

しかし、英語偏重の流れは、止まりませんね。三橋さんも先日触れていらっしゃいましたが、楽天、ユニクロだけでなく、ホンダも、企業内の公用語を英語にするらしいですね。

昨日もそれに関連する下記のような記事がでていました。

「ホンダ「も」導入した英語公用語化──「オフィスは英語」が日常の風景になるのか」(『日経ビジネス ONLINE』2015年7月9日付)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/070800028/?P=1

小学校での英語正式教科化も、2020年から始まる予定です。7月6日の『朝日新聞デジタル』では、小学校での英語教育推進の是非についてのさまざまな意見が特集されていました。

「早期の英語教育、改めて考える 反響をもとに取材」(『朝日新聞デジタル』2015年7月6日)
http://www.asahi.com/articles/ASH6T6486H6TUTIL03Y.html

日本語も覚束ないような幼い時から「英語、英語」ということには、上記の記事にあるように反対意見も多々出されているのですが、文科省など行政は、着々と、英語化を進めています。

小中学校で外国人教師を採用したり、小学校教員の採用試験を英語重視に改めたりするようです。

「教員採用試験でも広がる「グローバル化」──英語教育の充実で」(『Benesse教育情報サイト』2015年7月2日)
http://benesse.jp/blog/20150702/p1.html

私が「おっかないな」と思うのは、こうした英語偏重の「改革」が続けば、あるどこかの時点で「閾値」を超え、ダーッと日本社会の英語化が進んでしまうのではないか、ということです。

その「閾値」というのは、多くの日本人が、「英語ができなければ、子供たちが将来、よい教育を受けられないし、よい職業にもつけず、みじめな思いをしてしまうだろう」と実感してしまう時点だと思います。

この時点を迎えてしまえば、たとえ個々人が「ここは日本なのだから、英語よりもまず日本語が大切だ」と考えていたとしても、あまり関係ありません。自分の子供が将来、つらい思いをするかもしれないと心配になってくれば、大部分の人は、自分の考えはどうあれ、子供にともかく英語を身に付けさせるようになるでしょう。

この「閾値」となる時点は、すでにすぐそこまで来ているのではないかと思います。

今回のホンダの企業内英語公用語化のニュースも、この時点の到来を早めるものの一つでしょう。

それに政府は、小学校の英語正式教科化や、大学の授業の英語化など、英語偏重の教育改革に躍起になっています。

全国の小学校で英語が正式教科となってしまえば、当然、私立や国立の中学入試でも、英語が必須科目となります。

「コミュニケーション重視」「実用的英語力重視」のご時世ですので、中学受験で英語の面接などが導入されるところが増えるのではないでしょうか。

そうなれば、教育熱心な家庭では、小学生のときから、アメリカやイギリス、あるいはフィリピンなどの英語圏に留学させることが流行すると思います。少なくとも、夏休みに、小学生が語学留学するのは、ごく一般的になるはずです。

また、下村博文文科大臣は、平成25年の第四回産業競争力会議で、「世界と競う大学」を作るために、「今後10年間で、大学の授業の5割以上を英語で実施するようにすべきだ」という成果目標を提案しています。
(-_-;)

「人材力強化のための教育戦略」(「第4回 産業競争力会議配布資料 下村文部科学大臣提出資料」平成25年3月15日)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/dai4/siryou7.pdf
(PDFファイルが開きます。上記の成果目標は、6ページに記載されています)。

「小学生の間にある程度、英語を身に付けていないと、よい中学に入れない」「英語ができないと、よい大学で学べない」「将来、良い仕事にも就けなくなってしまう」と思う日本人が、遅くても10年足らずの間に急速に増えることが予想されます。

財界の一部や、その意を受けた政府が、(日本人の税金を用いて)政策として日本社会の英語化を進め、「国のかたち」を変革しようとしているわけです。

この変革は、ある程度まで行ってしまい、「英語ができなければ、子供たちが惨めな境遇に追いやられる」と多くの人が実感するようになれば、それから先は、半ば自動的に日本社会の英語化は加速度的に進んでいくようになります。

その先に待っているのは、英語能力の格差が経済的なものに反映される著しい格差の拡大であり、「英語族」と「日本語族」との間の国民の分断であり、日本語があやしく日本人的な感覚も持ち合わせていない新世代の「エリート」による、よそよそしい政治であると思います。
(´・ω・`)

なぜ、日本社会の英語化というバカな流れが止められないのでしょうか。

一つの理由は、現代人の多くが、「グローバル化は時代の必然的流れであり、抗うことはできない」「英語化も時代の不可避の流れだから、しょうがない」というような奇妙な歴史観にとらわれてしまっていることにあるように思います。

拙著『英語化は愚民化』では、まず、この奇妙な歴史観の検討と批判から、話を始めています。

「グローバル化・英語化は時代の流れだから、しょうがない」という無力感にとらわれず、「たとえ英語ができなくても、子供たちは、高いレベルの教育をきちんと受けられ、よい仕事にも就ける。様々な機会を享受できる。惨めな思いなどしなくてもよい」という日本を守っていかなくてはならん。そういう思いから、拙著を書きました。

書店に並ぶようになりましたら、ぜひ手に取ってご覧くだされば幸いです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/seteruhisa/


本日は先日来ご紹介して、異様に反響があった施 光恒先生の「英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書) 」発売日でございます。わたくしはゲラ段階で拝読させて頂き、献本いただいて再度読んだわけですが、つくづく「良書」でございます。

 というわけで、あまりネタバレしたくはないのですが、一つだけ、
「なぜ、現在の日本国において、曲がりなりにも民主主義が成立しているのか」
 について、施先生の考察を書きたいと思います。


 民主主義が成り立つためには、国民が政治的な概念、言葉、定義を共有し、議論をする必要があります。政治の語彙(ボキャブラリー)がない人は、政治について語ることはできません。


 例えば、現在の永田町では「防衛という安全保障」を巡る議論(一応、議論としておきます)が活発化していますが、これは「防衛」「安全保障」といった概念を、日本国民が日本語で語ることが出来なければ成り立たないのです。日本語に「防衛」「安全保障」という語彙がない場合、日本国民は防衛や安全保障について議論することはできません。


 その状況で、民主主義が成り立つでしょうか。もちろん、無理です。


 というわけで、民主主義をこよなく愛する(はずの)朝日新聞は、今こそ「反・英語化」の路線を採るべきなのです。日本の政治が「英語」なしでは議論できない状況になった日には、間違いなく我が国の民主主義は終わります。政治は、英語を解する一部の特権階級のものとなり、「土着語」である日本語を話すマジョリティの国民は、政治について語ることが不可能になってしまうのです。


 母国語で、つまりは日常的に使う言語で「政治」について、一般の国民が話し合うことが不可能な国では、民主主義は成り立たないのです(実際、成り立っていません)。我が国が「国民が主権を持ち続ける国」であるためにも、現在の「英語化」の動きには断固として反対しなければならないのでございます。


 日本国民は、江戸末期から明治初期にかけて、欧米から新たに入ってきた「概念」について、「翻訳と土着化」をして下さった先人に感謝するべきです。当時の日本人が、文化、文明、民主、自由、共和、経済、競争といった「概念」について、日本語を「造語」してまで翻訳して下さったおかげで、我が国は先進国になれたのです。すなわち、普通の日本人が文化やら文明やら、共和、民主、経済、競争といった「概念」を用いてコミュニケーション可能な国にしてくれたからこそ、日本は先進国となりました。


 無論、当時の日本人は概念の翻訳と土着化のみならず、より物理的な「技術」についても欧米から学び、「日本で生産可能」とするための投資を積み重ねました。まさに、その「遺産」こそが明治産業革命遺産なのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12051193178.html
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:22:56

科学的実証例に基づいてバイリンガルの実態を分析した興味深い本を見つけたので、紹介します。
 
バイリンガルの科学―どうすればなれるのか?
小野博著(工学医学博士) 講談社発行 ブルーバックスB-1011
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6%E2%80%95%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B0%8F%E9%87%8E-%E5%8D%9A/dp/4062570114/ref=cm_cr_pr_product_top

 この本によると、バイリンガルは平均的に思考能力が弱く、著者の見たケースでも成功例は数%、どの言語でも年齢に見合った思考ができるだけの言語能力が獲得できない「セミリンガル」も多い。

 小学3・4年生までに母語(日本語でも英語でも)を確立しないと「セミリンガル」になり「一生問題が残る場合が多い」と書かれています

  それは「バイリンガルの子供は知力の発達が遅れる。何故ならば人間は言葉を使って物事を考えるからで、習得言語を2つに広げると、両方の言語の発達程度が低くなるので、難しい問題を考えようとする時にどちらの言語の発達も未熟となって頭が混乱してしまう。」ということのようです。

 著者は、子供の知的な発達が自然に行われるためには、少なくとも小学生の時代は1つの言語で教育を受ける事が望ましいとまとめ、小学校から英語を始めれば日本の英語教育の問題はすべて解決される、といわんばかりの風潮に、警鐘をならしています。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=281852


『英語は勉強するほどダメになる』著:栄陽子(扶桑社新書)
http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%AF%E5%8B%89%E5%BC%B7%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%BB%E3%81%A9%E3%83%80%E3%83%A1%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E2%80%BE%E2%80%9D%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E2%80%9D%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%BF%E5%87%BA%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-34-%E6%A0%84-%E9%99%BD%E5%AD%90/dp/4594057446


著者はミシガン大学大学院を修了した後、留学カウンセラーを長年しておられる方。


「外国語は母語以上のレベルにはならない」という指摘には納得です。

実際には役に立たないような「受験のための英語」に時間を割いている位なら、むしろ国語や数学にその時間や労力をまわした方が、結果として将来英語を学ぶときの役に立つように思えます。

この書籍の概要をまとめたブログ

「書いとかないと忘れちゃうから「読書記録」」
http://blogs.yahoo.co.jp/chanchan_yanagi/52844010.html

から一部転載します。

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【これで「英語をモノにした」と言えるのか?】

 私は仕事柄、たくさん「ネイティブ並み」の発音で英語を操る日本人の若者を見てきました。

 こうした日本人のなかには親の海外赴任について小さいころからアメリカで暮らしていた人もいれば、「語学留学」とやらでアメリカで暮らしていた人もいます。
 確かに目をつぶって聞いていれば、彼らの話す英語は日本人とは分からないくらいの流暢な話しぶりです。

 ところが、問題はその内容。

「あのコ、チョーイケてるじゃん」

「なにそれウザイ」

「だりー。やってらんねー」


 日本語に直せば、このくらいのことしか話していないという例がどれほど多いのか、みなさんはご存知なのでしょうか。

 流暢な英語を操っても、こんな彼らは「アメリカと日本の政治史」「環境問題について」「日本文化について」などを話すことはできませんし、論じ合うこともできません。

 高度な会話はできないけれど、発音だけは英米人と同じくらいきれい―――これで「英語をモノにした」と言えるのでしょうか。(p.34)


【外国語は母語以上のレベルにはならない】

 “外国語の習得には母語の力がベースになる”とは、言い換えると「外国語は母語以上のレベルにはならない」ということ。

 ベースになる母語もしっかりしないうちに外国語を教えることは、実は非常に大きな危険性をはらんでいます。

 英語を使いこなし、バイリンガルになるためには、まず母語の力を伸ばし、幅広い知識と語彙、コミュニケーション能力を身につけることが、まず第一に必要なことだと私は常々思っています。

 私は脳科学の専門家ではありませんが、言語はおそらく思考力にまで影響を与えるであろうことは経験上想像がつきます。二兎を追ったがゆえに、どちらの言語も中途半端、ひいては思考力の乏しい大人になってしまうという悲劇は避けるべきです。(p.40)

 それでも「いや、やはり正しい発音は小さいうちからはじめるからこそ身につくのだから、早いうちから英語教育を始めたい。外国語を母国語と同時に使っているうち、両方の言語能力が高まるはずだ」

 こう反論する方もいることでしょう。

 しかし、これに対しては、

「残念ですが、なかなかそううまくいきません」

とお答えするしかありません。(p.40)


【「悲劇と喜劇」の積み重ね】

 「私は日本人なんだから、英語が苦手なのは当たり前じゃないの!」と相手に言い切る強さを持てば、怖いものなどありません。

 ジャパニーズ・イングリッシュだと笑われても言いたいことを伝え、おしゃべりの輪に入り、「ねぇねぇ、こんなとき、なんて言えばいいの?」と聞きまくる。

 こうしたコミュニケーションを重ねるうち、「日常会話レベル以上」の会話力がつくものです。

 外国語を学ぶとは、本来そうしたものではないでしょうか。

 恥ずかしい思いを重ね、悔しい思いを重ね、そして開き直ってさらに恥をかき・・・と、まさに「悲劇と喜劇」の積み重ねで獲得するのが、外国語なのです。

 日本で活躍する外国人タレントの姿を、思い浮かべてください。

 彼らは「つたない日本語、間違った日本語」で笑いを取ったりしますよね。あの姿が、本来の「外国語を学ぶ姿」ではないでしょうか。(p.91)

 それに、日本人がやけにこだわる「正しい発音・流暢な英語」とは、何でしょう。

いまや “正当な英語” と言われたイギリスのクイーンズ・イングリッシュを、ほかならぬイギリス人が「こだわるのはやめよう」と言い出しているのです。その理由は、増え続ける移民が操る各国のなまりのきつい英語です。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=282450


まさに英語教育の真っただ中にいます。

ここはアメリカ。日本人の子どもたちは現地の公立校に放り込まれバイリンガルになる期待を一身に受けESLで教室で頑張っています。

結果、不幸なことに日本語がぐだぐだになってしまった子もいます。

小学校高学年までは、まず日本語を完成させるのが先です。

コーヒーを連れてくるとか、お昼ご飯を持つなんて表現する日本人を信用できますか?

無理でしょう。近所の子は小学校6年生でありながら日本語のおしゃべりは小2レベルで止まっています。親は気づいていません。

英語は今の日本の教育の中で骨子を学べます。ただし語彙もスピーキングもリスニングも不十分ですから授業外で毎日英語字幕で映画を見たり英語の書籍を読んだりすることが大切です。エッセイを英語で書いたり、スピーチをしたり訓練すれば英語を使う仕事についてもなんとかなるでしょう。要は勉強時間の問題です。
http://www.asyura2.com/13/hasan79/msg/387.html

英語を学ぶなら日本語を勉強しよう 2012年11月17日

私は言語学者でもなければ、英語を教えるのプロでもないのですが、日本語力がある人は英語も上手くなるように思います。

ずっと海外で暮らしていた人は別にして、普通は第二外国語は母国語を超えることはない、と言われています。この考えに従えば、英語だけをがんばったとしても、日本語能力もアップさせないことには、英語は上達しない、となります。

言語能力の発展についてはいくつか考え方があるのですが、こちらの図をご覧下さい。


これは言語を能力を図式化したものなのですが、表層部と深層部に分かれています。表層部は、読み、書き、話し、聞く、といった、日常的に目に見える能力を表しています。

一方で深層部では、言語生活を支える層で、基底能力と呼ばれます。これは、普段はそれほど使いませんが、簡単にいえば「知っている」「理解できる」言葉です。

例えば、語彙を例にとると「初詣」や「奉納」といった言葉は、は日常生活の中で使わないけど、誰もが知っている言葉です。普段自分で使うことがないけど、あるいは使う自信のない単語であっても、いつでも理解したり引き合いに出せる能力が、基底能力です。そして、表層部は基底能力の大きさに比例するので、基底能力が大きければ大きいほど、表層部の発達度合いも大きくなります。

では、バイリンガルの人の言語能力の発達はどのようなものになるかといいますと、それを表したものがこちらの図です。


バイリンガルの人は、表層部に2つの山があります。表層部は分かれていますが、深層部では分かれておらず、共通基底能力として一体化しています。なお、表層部の山の大きさはきれいに同じではなく、言語の発展段階によって、母国語は大きく、第二言語は小さくなったりします。

これは言語能力発展の一つの理論で、他にも考え方はあるので、正しいか正しくないかは自分にはわかりません。

でも、確かに、自分の留学中に色々な人と出会いましたが、日本人だけではなく他の国の人も、母国語の能力が高い人は、英語力もしっかり身についていたように思います。

英語をすぐに身につけたい人には遠回りな方法かもしれませんが、英語を学びたい!と思ったら、新聞や本とかで日本語にも触れて、日本語能力をアップさせると、しっかりとした英語が身につくかもしれません。

余談ですが、最近日本でも小さい頃から英語英語、と言われていますが、日本語もしっかりと学ばないと、将来的にはその子どもが困るのではないかと思う今日この頃です。。。
http://blog.gcsgp.com/english_japanese_study.html

遊び感覚で思考壊す英語教育
情緒や生活習慣を米国化

親や教師無視しゴリ押し    2013年11月15日付


 「グローバル化に対応する人材をつくる」「そのためには英語がペラペラ話せることが必要」といって、小学校では5、6年生で英語が必修とされ、中学校では3年間の英語の授業時間が国語を上回るようになり、高校では今年4月から「英語の授業はすべて英語でおこなう」という方針が実行され始めた。大学でも、「英語でやっている授業は○%」と数値目標で追い立てている。加えて安倍内閣の教育再生実行会議は、「小学校5・6年生から英語を教科にしてテストをおこなう」「中学校でも英語の授業を英語でおこなう」といった方針をうち出している。しかしこの間、「話せる英語」「使える英語」を徹底したことで学校現場はどうなったか。小・中・高校で実情を聞いた。
 
 桃太郎はピーチボーイ 小学校の学習発表

 下関市内のある小学校では、最近、父母たちが見守る学習発表会で、六年生が「英語劇(むかし話)」を発表した。だれもが馴染みのある「桃太郎」「浦島太郎」「おむすびころりん」といった日本の昔話を、日本語でなく英語で演じるのだ。
 例えば「桃太郎」の劇は、「Hello! everybody! Momotaro,the peach boy. Let's start !(こんにちは、みなさん! ももたろうの劇です。さあ! 始めましょう!)」から始まる。

 英語のセリフを暗記している子もいたが、その他の子どもは父母たちにわかるように画用紙に書いた日本語訳を示しながら、画用紙の裏にカタカナで書かれたセリフを読んでいる。小学校では、英語のスペルを教えて読ませることはしてはいけないことになっているからだ。

 恥ずかしそうにいう子もいれば、ふざけていう子もおり、見に来ていた親たちは「だれがどの役をやっているかわからない」と苦笑したり、「なにをいっているのかわからない。低学年が日本語で桃太郎の劇をした方がまだいい」という声が上がるなど、なんともいえない違和感が漂った。以前なら六年生は、重厚な内容の物語を学級の仲間と協力して練習を重ね、感情を込めて劇を作りあげ達成感を得ることが追求されてきた。しかし英語では日本人としての情感や人情の機微に触れる演技などできない。親たちのなかでは「子どもになにが残ったのだろうか」と語られている。

 小学校では、子どもたちが感情をぶつけあい、会話もしけんかもしながら大きく成長していく時期である。その成長期にわざわざ英語教育を導入すること自体、なにを成長させたいのかと多くの親が疑問を感じている。普段の英語の授業も、絵や音楽を通じて「楽しく英語に慣れ親しむ」というものが貫かれている。日常会話である時間の聞き方や買い物の仕方、色、数字や果物などをゲーム感覚で覚えたり、耳で聞いてそれを聞き分けたりと、「スピーキング重視」「ゲーム感覚で楽しく」「英語を積極的に発すること」が重要とされている。英単語や英文を書いたり、読んだりすることは一切ないのが特徴。それはまともな英語教育ではなく語学力をつけることなど最初から目的ではなかったことを示している。

 最近の授業では、この時期に欧米でおこなわれるキリスト教の祭り、「ハロウィン」を勉強し、「Trick or treat(ご馳走をくれないと悪戯するよ)」といって各家庭をせびって歩くかけ声をはじめ、それにちなむ英語を覚えるなど、ことさら欧米流の風俗・習慣に幼い頃から慣れ親しませる内容となっている。

 6年生の教師は「スペルを書かせることもなく、絵を見てその名前を英語で答えさせたりで、英語の時間はほとんどゲーム感覚。教師であればどんな授業であれ、子どもにどんな力をつけさせるかと考えて教育するが、これで英語の力がつくのか? というのが本音だ。まずは日本語の勉強からだろうというのが、教師ならだれもが感じている。だが文科省はそれでいいという。どんな人間をつくろうとしているのか」と語っている。


 必修化後の中学生英文書けず語学力低下

 ゲーム感覚で英語に慣れさせられた子どもたちが、中学に入学すると、初めて単語のスペルを覚えたり、名詞、動詞、現在進行形などの文法を習う。

 現在の中学2年生は、小学5年生のときに英語が必修となった学年だ。ある中学校教師は、「今の中2が入学してきたとき、ALT(外国語指導助手)と積極的に英語で挨拶を交わしている姿を見て、“これまでと違う。小学校の英語の効果だ”と感心していた」という。しかしその時の英語のテストが過去最低だったと話す。例えば「What is your name?(あなたの名前はなんですか?)」を聞いて意味を理解することはできるが、そのスペルや文の構成が理解できない。つまり、耳で反応したり外国人と軽い調子で挨拶ができたとしても、英語という言語がどのような成り立ちになっているか思考する力は身についていない。

 英語教育の専門家も、文科省が「しゃべれる英語」「コミュニケーション重視」といって英語教育の改革を20年やってきたが、その結果「文法がわからない、英文が読めない、書けないという生徒が増え、英語の力が年年下がっている」と指摘している。また「物事を深く考えて、多角的に見る視点が失われた」ことも共通して指摘している。

 ある中学校の教師は、「小学校の英語は“コミュニケーション能力の育成”といって導入されたが、それは単に“ハーイ!”“ハロー”といって軽い挨拶ができる能力であって、相手の気持ちを深く理解するという力ではない。今、いじめやスマートフォンなどを通じた子ども同士のトラブルが深刻になっている。小学3、4年生から英語を導入するというが、日本語で友だち同士の関係を結ぶことも難しいのに、さらに短絡的な思考を強めるだけではないか」と語っている。

 英語で授業する高校 現実にあわず大矛盾に

 高校では今年4月から、進学校か実業高校かに関係なくすべての高校で、1年生の英語の授業は「原則として英語でおこなう」という方針を実行することになった。

 下関市内の高校で半年たった実情を聞くと、「立ちなさい」「座りなさい」「黒板に答えを書きなさい」「プリントを集めなさい」「グループで話しあいなさい」「教科書の○○ページを開きなさい」という生徒への指示は英語でするが、日本語を使わずに授業を進めることは無理であり、これまで通り日本語を使った授業をおこなっているところが多い。

 進学校に通う1年生の女子生徒は「4月の初め、先生が日本語を使わずにすべて英語で指示しはじめたので、みんな“えっ? 意味がわからない”と話になった。それで最近はなくなった。英文法の授業については先生が“文法は日本語でないとわからないから日本語でやる”といっている」と話している。

 ある英語教師は、「日本人が英語を学ぶ場合は、育った環境が日本語なのだから、日本語で考えて学ぶのがあたりまえ。英語で英語を教えることは生徒も教師も混乱するだけで、まったく無理なことをやらせようとしている。結局、アメリカに対する劣等意識を植えつけ、条件反射的に英語で動ける人間をつくろうとしているのではないか」と指摘した。


 大学人も警鐘 母国語奪う植民地教育

 小学校も中学校も高校も、英語を担当する教師は、文科省の進める「コミュニケーション重視」の英語教育では子どもの力はつかず、逆に英語の基礎的な力はなくなり、物事を深く考える力も弱まり、短絡思考とアメリカ崇拝が強まることを共通して危惧している。安倍政府の進める英語漬け教育は、学校現場ではすでに大失敗している。

 それなのになぜ、さらに対象年齢を引き下げて、無理矢理押しつけようとするのか。それは英語教育の目的が、純粋に子どもたちに会話の力をつけさせたいというものとは別のところにあるからである。

 大学で英語を教える教員のなかでは、英語教育の押しつけはアメリカによる植民地教育であるとする論議が高まっている。この数世紀間の歴史を見ても、アメリカやイギリスが世界各地でおこなった侵略と植民地支配のなかで、支配された民族は生活のすべてを奪われるとともに、民族の文化も母語も奪われた。

 たとえば19世紀のアフリカ大陸は、資源を求めるヨーロッパの列強によって勝手に線引きされ、全面的に植民地化されたが、同時に言語も奪われ、英語が押しつけられた。土着の言語は「悪魔の創造物」であり、それを話す者は白人によって「愚か者」「野蛮人」とみなされた。ケニアでは、高校や大学に進学するための試験の六科目がすべて英語でおこなわれるようになった。母語を奪われた結果、アフリカ人は民族の歴史や文化を継承する手段を失い、学校の教育で語られる言語と家庭や地域での日常言語との間につながりが見出せず、疎外感に苦しむ子どもが続出したという。

 またアメリカ大陸では、先住民のインディアンの虐殺がおこなわれ、生き残った先住民は居留地に押し込められた。インディアンの子どもたちは親から隔離されて寄宿学校に入れられ、そこで子どもたちは部族語を禁止され、それまでの生活習慣も捨てさせられて、英語と白人の生活習慣、キリスト教を強制された。そして、もともとの名前もとり上げられて、ジョンやメリーといったアメリカ人の名前がつけられた。

 そして、日本もそれが他人事ではなくなっている。日本の子どもたちから、物事を深く考える力を奪い、短絡的で条件反射的な、思考能力破壊を「英語教育」と称して植えつけ強い支配者に屈服するような状態におくことは、いったいだれが喜ぶことか。それは外資系企業や国を捨てるグローバル企業のためにごく一握りのエリートをつくるとともに、大多数の子どもを切り捨て、カタコト英語で反応する使い捨ての非正規雇用労働力にする意図に通じている。そしてそれは自衛隊にも英語での命令をするよう徹底し、あげくは日本の若者を米軍の下請戦争の肉弾にするための、正確な計算にもとづいた政策にも通じている。

 安倍政府が力を入れる英語漬け教育で進行する事態は、日本の子どもたちから民族の背骨を抜くのでなく、民族の子どもとして育てる教育を徹底して強める重要性を示している。父祖たちの歴史的経験、とりわけ被爆体験や戦争体験を学び、原爆投下者を憎み、平和を愛し、独立した日本をめざして行動できる青少年を、教師、父母、戦争体験世代が一致団結して育てる運動を、大きく発展させなければならない。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/asobikannkakudesikoukowasueigokyouiku.html


「英語教育論」についての再論 (内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php

 英語教育についてある媒体に書いたものをブログに採録したところ、それを読んだニュージーランドに20年お住まいの読者の方から手紙を頂いた。
その方の見聞でも、ニュージーランド「留学移民」事情は、だいたい私の指摘と符合しているということであった。

香港や台湾や韓国からの児童生徒の留学生は「いざというとき」の脱出先を確保するという政治的な目的もあるので、parachute children と呼ばれている由。もちろん、そればかりでなく、幼児期から英語運用能力を身につけることで、故国に戻ったときにキャリア形成上のアドバンテージを得るということも期待されている(それをhead start と呼ぶというそうである。「一歩先んじたスタート」)。
僕の見聞の通り、父親が国に残って仕送りする母子家庭がベーシックなスタイルだが、中には小学生の子どもだけをホームステイ先に送り込んでいるケースもあるという。

さて、このように幼いときに母語的環境から切り離された子どもたちはどうなるのか。

家族と一緒に移民してきた場合、母語を生活言語として「話すこと」はできるが読み書きはできないという事例が多い。

小学生の途中で留学したが、英語運用能力が大学入学レベルに達せず、一方日本語では祖父母と会話ができないというケースや、高校の途中から留学して大学入学の英語レベルには達したが、今度は英和辞典の日本語が読めなくなったというケースなど「英語も日本語も中途半端」ないわゆる「セミ・リンガル」というケースも少なくないそうである。

この方は「留学移民」についてもEMI(Englishas a Medium of Instruction=英語以外の教科を英語で教える教育法)についても批判的であった。

高校の数学や物理を英語で教えることにどういうメリットがあるのか。教えられる教員もいないだろうし、英語の苦手な生徒たちは数学や物理学について興味があっても教科内容を理解する手前で梯子を外されてしまう。

それが非効率だからというので、明治初期に大学での教科を日本語で教えられるように、漱石のような卓越した知性を「お雇い外国人」に代えて次々と大学教員に登用し、あわせて日本語そのものを高度化していったのではなかったか。

先人が営々として築き上げて、日本の近代化を推し進めた民族的な努力を100年後にまたゼロに戻そうとする人たちは何を考えているのか。

私たちにまず必要なのは英語の早期からの習得ではなく、むしろ「日本語の高度化」だと私は思っている。

明治時代において西周や加藤弘之や中江兆民や福沢諭吉が果したような「世界と日本を架橋する」仕事を担う人々が出てこなければならないと私は思っている。
そういうのは「そういう仕事は自分がやるしかない」という自覚のある人が進んで担うものであって、利益誘導したり、強制したりするものではない。ましてや、日本人全員が就くべき仕事でもない。

「外界と自分たちの集団の間を架橋すること」は集団が生き延びてゆくために必要な無数の仕事のうちの一つである。必須のものではあるが、無数の必須の仕事のうちの一つであることに代わりはない。

「餅は餅屋」。そういう「架橋仕事」が「好きで堪らぬ」とか「自分の天職だ」と思っている人がやればいい。全員が「餅屋」になる必要はない。

考えればわかるが、「全員が餅屋であるような社会」で人は生きて行くことができない。

そんな社会で、そもそも、誰が餅米を作るのか、誰が餅を流通させるのか、餅を売った金で餅以外に何が買えるのか。少し考えれば「餅屋経済」が不可能であることはわかる。

けれども、それでも「餅屋経済」を願う人たちがいる。

「全員が餅屋であるような社会」はすぐに壊滅してしまうが、「ほとんど全員が餅屋である社会」でなら、残りの「非餅屋」には莫大な利益を確保するチャンスがあるからだ。

彼らは「餅屋が欲しがるもの」(つまり餅以外のすべての生活財)を作り、それを売ることで莫大な利益を上げることができる。

ご覧のとおり、これはグローバル経済の理想状態を戯画化した姿である。
すべての労働者と消費者を規格化・定型化することで企業の収益は最大化する。

全員が同じことしかできない、同じものしか求めない状態にあって、「それ以外のことができる」一握りの人間になることこそグローバル資本主義者の夢なのである。70億の99%を互換可能な状態にとりまとめると、地上のすべての富は残り1%に排他的に集積されることになる。

いま日本の英語教育で推進されているのは、「できるだけ多くの互換可能な人間で地上を埋め尽くす」というグローバル資本主義の夢の実現のためのプログラムである。

明治人たちの身を削るような努力を水泡に帰せしめ、日本語話者は母語だけでは政治も経済も学術も芸術も「語ることができない」状態にすること、つまり言語的な植民地状態に日本を作り替えることに官民挙げて熱中している。

「狂気の沙汰」という以外に形容のしようがないけれど、さすがにここまで頭のネジが飛んでくると、「この人たちは頭がおかしいのではないか」ということには気の利いた小学生でも気づくだろう。

彼らが言語的実践としてどういうオルタナティブを提示してくるのか、私は期待して眺めている。

予測できることが一つある。

それは、アメリカにおけるエボニクスやシンガポールにおけるシングリッシュのような「英語の極端な方言化」である。

戦略的な言い方をすれば、「母語として身につけた英語」ではもう「別の英語」圏の人たちとはコミュニケーションできないという状態を作り出すことで、英語の国際共通性=特権性を解体するのである。

実際に、たぶん半世紀後には、インドと中国では、人々が文法も語彙も私たちの知っている英語とは違う固有の「インド英語」と「中国英語」を話し始めているだろう。彼らがそのときに十分な政治力を持っていれば、当然それを「英米英語」に代えて「国際共通語」にすることを要求してくる。

もちろん、そのときは文科省は(まだ存在していれば、だが)「中国英語ができないとビジネス・コミュニケーションで不利になり、また無用の侮りを受けるリスクがある」という理由で、低年齢からの「中国英語」習得を学習指導要領に書き込むだろう。

それに対して「バカじゃないの」と思う国民が過半に及ばないようであれば、日本はもうその前に終わっているだろうから、私が今さら心配するには及ばない。
もう一つもっと夢のあるオルタナティブもある。

それは「日本語の高度化」という選択肢である。

それを担うような天才的な「日本語の遣い手」の登場を私ははげしく待望している。  
http://blog.tatsuru.com/2014/09/14_1017.php

アメリカ人の優位性は自国語が国際語になっているという事だけ:


ヨーロッパ連合(EU)では、医師免許をはじめとする諸種の国家資格が共有化されようとしている。そこでは英語が共通言語だ。この国家の壁を乗り越えたヨーロッパの歴史的で壮大な試みを無視してよかろうはずがない。医学生に限らず、わが国の大学生は皆、日本語の教科書だけで学問ができる。その例外性に多くの人は気づいていない。

日本以外の国では、英語(最低、ヨーロッパ系言語)ができなければよい教科書が読めないし、医者にも看護師にも臨床検査技師にもなれない。日本語は漢字のおかげで、外来語を簡単に母国語化するすばらしい能力を有していることを再確認したい。タイ語やスワヒリ語では医学用語の大部分が表現できない。韓国でも、医学生は英語でばかり勉強して、ちっともハングルで勉強してくれないと多くの教員が嘆いている。

EUでは医師免許をはじめとして、いろいろな国家資格が英語で統一されようとしている。最近になってフランス文化やドイツ文化の最先端科学部門における劣勢がはっきりしてきて、ドイツ人もフランス人もその他のヨーロッパ人は最先端科学部門は英語が出来ないと母国語では無理らしい。

同じアルファベットを使い、ラテン語からの派生語や、大きな影響を受けた同じ文化圏の言葉だから、専門用語はいちいち翻訳するよりも英語をそのまま使ったほうが手っ取り早いのでしょう。もはやフランス語やドイツ語はローカル言語であり、英語でないと最先端科学分野の学問は出来なくなっている。だからドイツ人やフランス人のお医者さんは英語が堪能なのは国家資格が英語で行われるからだろう。

アジア、アフリカ、中南米諸国の医学生は英語ができなくては最先端医療が学ぶことが出来ないし、多くの留学生を欧米に送り込んで学ばせている。タイ語やスワヒリ語では専門用語が翻訳できないからだ。2010年9月7日の株式日記ではスウェーデンの化学や文化の事を書きましたが、スウェーデン語と英語の二重言語生活を強いられる結果をもたらしている。他のヨーロッパ諸国も大なり小なり同じだろう。英語を学ばなければ最先端科学について行けない。

中国や韓国が大量の留学生をアメリカに送り込んでいるのも同じ理由によるものだろう。まさに英語帝国主義の大勝利であり、英語がグローバルスタンダード言語となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされている。その反面では英米人は外国語を学ぶ必要が無く、その時間を科学分野の研究に割り当てることが出来る。英語で国家試験が行われるようになると言うことは、それだけ非英語国民は負担を強いられることになる。

スウェーデンにおいても、スウェーデン語で書かれた文章と、英語で書かれた文章を読ませて、理解力を比べてみたら25%も英語で読んだグループは劣っていた。

つまり国際競争力においてもアメリカイギリスといった英語を母国語とする国民が圧倒的に有利になり、スウェーデンなどのヨーロッパの小国は言葉も文化もやがては失われていくのだろう。アイルランドもかつてはアイルランド語を話していましたが、今では英語が国語となりアイルランド語は文化財として残っている程度だ。

IT用語や金融用語や医学用語などは英語が共通語となり、日本も例外ではない。かつては武力が帝国の力の象徴になっていましたが、現代では言語が帝国の象徴となり、非英語国では二重言語生活を余儀なくされて、25%ものハンデを背負っているようなものだ。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu232.html

アメリカの大学院入学はGREという共通一時みたいなのが、ほとんどの大学入学基準として使われてるが、英語と数学と英作文からなる。

で、アジア人は数学で満点近くを皆とるが、英語試験が恐ろしく難解なボキャブラリーの現地人しかできないしろもので、落ちる外国人が多い。

もし、数学だけだったら、アイビーリーグや名門はほとんどアジア人留学生だけになってしまうだろうね。

で、英語帝国の興隆とともに、経済学はもとより科学の発展も止まってしまったんじゃないか?だいたい発明のような直感は自国語でしか出てこないだろ?

アメリカの戦後の発明なんて何がある?ロケットなんてv2そのものだし、ジェット機もコンピューターもヨーロッパ人が発明した。もう、0にちかい。

ようするにアメリカは英語を武器に戦後の科学覇権(社会科学の含む)を維持してきたんだ。

まあ、本当の天才を育てたいんだったら、英語を勉強させたとしても教育は自国語ですべきだ。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/471.html

しかも、アメリカ人は一部のエリート以外は英語で書かれた文章すら読めないアホばかり:


なぜ外国映画はアメリカで字幕上映されない?


世界中ほとんどの国で、外国映画は吹き替え上映が普通。

日本みたいに字幕上映が多い国が例外。


1 :名無しより愛をこめて [sage]:2009/07/12(日) 13:22:19 ID:J3Qe6wQy

アメリカで公開される外国の映画は殆どが英語吹き替えで上映されたり、
映画の舞台が非英語圏でも堂々と登場人物が英語を喋ったりで、日本で言う
字幕厨なんていう奴は全くいなく、吹替厨だらけ。

なんでアメリカ人は外国映画を英語字幕で見ようとしないんだろ?


3 :名無シネマさん[sage]:2009/07/12(日) 14:18:47 ID:CKJtk7i/

英語は綴りを読まなくちゃならないからな
漢字は一文字の情報量が多いから流し読みしても意味が汲み取りやすい
日本語字幕が全部ひらがなで書かれてる位の読み難さじゃないかな>英語字幕


7 :名無シネマさん[sage]:2009/07/13(月) 14:18:50 ID:Y0rfQyei
>>3
何度か、英語字幕付きの日本映画を見たけど登場人物が難しいことを言いだすと、長い単語が画面にズラズラと流れてこれは無理だと思ったよ。


8 :名無シネマさん[sage]:2009/07/19(日) 20:34:54 ID:ShU9guzs

ドイツに半年いたことがあったけど、
映画館は約8割はハリウッド映画を吹き替え上映してたよ。 
1日一本週4日、メジャーな映画(天使と悪魔、グラントリノ、ターミネーター等)の英語のオリジナル(字幕なし)上映があってたけど。

>>4が最初のほうでいってるように、
吹き替え上映はアメリカに限らず、けっこういろんな国で多数派なのでは?


10 :名無シネマさん[sage]:2009/07/28(火) 18:02:21 ID:W/Jd8xzS

吹替えって結構徹底してるみたいです。
しかし一度「John Rabe」というドイツ映画を見に行ったことがあるんだけど、
これがドイツ映画でドイツ語が主言語のくせにせりふがすべて吹替え!

なぜかというと、この映画はシンドラーのリストドイツ版?
日本軍の南京大虐殺から中国人を救ったドイツ人ビジネスマンの話。

なので、せりふもドイツ語のほか、英語、フランス語、中国語、日本語といくつかある。(IMDbで確認した)

日本人の将校役の俳優さんたちは日本語だな!と期待したらだめだった。
明らかにドイツ語でしゃべってる部分まで調整のため?かふきかえられてんだもん。

まじで徹底した吹替えっぷり。 これはドイツでの一例なので、ほかの国でどうなのかは未体験だが・・・
外国いって字幕で外国映画を見ようなんて、アメリカに限らずどこの国いっても期待しないほうがいいぞ。


そしてその結果、アメリカ人の知性はこの有様:


 「アメリカでは大人の4人に1人が自分の名前程度しか読み書きできない」。新聞や雑誌で、こんな統計に出くわしてハッとする。

 ただそれは、ぼくが4人に1人という数に驚くからではなく、

「やっぱりそうか、アメリカの非識字率ってそんなとこだったんだよな・・・・・」

と改めて意識させられ、でもショックは受けず、危機感もイマイチわかず、

「ま、別段新しい数字でもないし・・・・・」

と片付けそうになる、とそこで気がつく。そしてハッとするのだ。慣れっこになってはならない、深刻な問題なのだ。

 しかしまったく、ぼくの母国はどこを見ても、危機的な統計がゴロゴロしている。


――国民健康保険の制度はなく、アメリカ人のおよそ6人に1人が無保険状態で、事実上、医療が受けられない。


――ブッシュ政権が1期目で実施した大型減税は、総額の半分以上が超富裕層のトップの1パーセントの懐に入った。


――米国人は世界人口の5%にも満たないが、世界の石油消費量の4分の1以上を、一国だけで燃やしている。


――マリア様がセックス抜きに、処女のまま妊娠してキリスト様を産んだという「処女懐胎」を、アメリカの成人の8割が信じている。


 25%の非識字率と、その他もろもろのトンデモ統計と、当然みんな地続きのものだ。字がうまく読めないと、テレビが主な情報源になってしまい、テレビ報道は、「処女懐胎」と同じくらい現実から掛け離れていることが多々ある。

では、もし一生懸命ABCを勉強し、どうにかディクショナリーと首っぴきで新聞が読めるようになったとして、それで確かな情報にありつけるかというと、そうはメディア屋が卸さない。

 例えば、二年前の古新聞を見てみると、『ニューヨーク・タイムズ』を始めアメリカの全国紙も地方紙も、妄想とイリュージョンの記事で埋め尽くされている。「死との隠れん坊・なおくすぶるイラクの核兵器の謎」「細菌博士・世界一の殺傷力を持つ女」―― 2002年の暮れは、イラクが隠し持っているに違いない生物兵器と化学兵器と核兵器と弾道ミサイルの脅威の話題で100%持ち切りだった。
http://www.web-nihongo.com/back_no/column_01b/041221/index1.html

日本の成功の秘密は日本語にあるのですが、欧米人にも、そしてなぜか当の日本人にもそれがわからないのですね:


日本語は、マスターをするのが難しい言語かもしれない。しかし一旦マスターすれば、これほど便利な言語はないと考える。これは筆者の偏見かもしれないが、日本語は世界の中で一番進化した言語であり、優れた言語と思っている。

表意文字である漢字は、文字自体に意味を持つので、言葉を速く理解することができるという利点がある。特に漢字はパターンで認識するので、文字とイメージが結びきやすい。「犬」という文字を見ると、犬のイメージが頭に直ぐ浮かぶ。「京都」という言葉に当ると、京都という文字から京都に関するイメージが自然と頭に浮かぶ。


高速道路の標識も、漢字だから速く、しかも正確に認識できる。これがアルファベットなら一瞬のうちに認識することは難しい。例えば長い地名がアルファベットで記されていたなら、車を停車させなければ、書いてある行き先を読むことはできないであろう。これは言語の特徴を考える場合、重要な点である。

日本語の文書は、斜読みによって、ある程度の意味を把握することができる。これも日本語に漢字が使われているからである。速読の達人と呼ばれる人がいるが、もし文章が全て「かな」で書いてあったなら、とても一瞬のうちに読むことはできないであろう。アルファベットだけの英語も速読に向かない言語と思われる。


日本においては、昔から、一般国民の中に文章を読める者は大勢いた。特に明治時代に義務教育が始まり、誰もが日本語を書いたり読んだりするのが当り前になった。少なくとも日本では、中国のように、国語というものが、極少数の超エリートしか操ることができないという代物ではなかった。


戦後、GHQが日本人を色々調査した。当時、米国人から見れば「日本人は人間より猿に近い動物」という認識であった(失礼な話である)。

そのような日本人が、どうして短期間のうちに列強と対等の国力を持つことができたのか、不思議だったのである。しかし調査によって、日本では、どのような地方に行っても、またどれだけ年配の人でも、文字を知り、文章が読めることを発見した。これはGHQにとって驚きであり、これで日本を見直したのである。これも日本の教育制度が優れていたのと、日本語が誰にもマスターできる優れた言語であったからである。
http://www.adpweb.com/eco/eco395.html
6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:23:19

私たち日本人の意識構造が英語学習によっていかに「家畜化」されてしまっているのかを検証

英米人の考え方や生活様式が合理的であり、日本人の考え方や生活様式は非合理的だという思い込みが、日本人の脳に定着していて、いまだにそこから脱却できていない。

英語教育・英語学習がこのような姿勢を助長してきた側面も否定できないと思うのです。

 明治維新で日本が新しい社会をつくろうとしたときオランダ語を勉強していた福沢諭吉が英語に切り替えたことからも分かるように、明治の日本でも英語が大流行しました。しかし英語一辺倒だったわけではありませんでした。

 二葉亭四迷によってロシア文学が翻訳されたのも明治時代でしたし、文学者としても有名だった森鴎外も実は本名は森林太郎と言い、本職は陸軍軍医(軍医総監)でした。そのため東大医学部卒業後に、陸軍省派遣留学生としてドイツに留学もしています。

 イギリス留学後に東京帝国大学で英文学を講じた夏目漱石も、長男の純一にはフランス語やドイツ語を学ばせ、英語を学ばせていません。次男の伸六が学んだ外国語もドイツ語で、慶應義塾大学文学部予科に進み、同独文科を中退しています。

 つまり「文明開化」に明け暮れた明治でさえ、英語一辺倒ではなかったのです。

 ところが日本では、アジア太平洋戦争に敗北しアメリカ軍が占領者として入り込んでくるようになってからは英語の全盛時代を迎えるようになりました。

 アメリカとしても占領期間が終わった後も日本を当時のソ連や社会主義中国にたいする防波堤として利用するために英語教育を重視しました。

 そのためにトルーマン大統領は、講和条約(1951年9月8日)が結ばれる8か月以上も前の1月22日に、ジョン・フォスター・ダレス(ロックフェラー財団理事長)を特使とする「講和使節団」を日本に派遣しました。

 このとき文化顧問として同行したロックフェラー3世は、帰国してから2か月後に(1951年4月16日)、80頁にもおよぶ日米文化関係の「機密」報告書を提出しています。

 ここで注目されるのは、この報告書が「英語教育プログラムのもつ潜在的な可能性」を強調して次のように述べていることです。

 「英語教育プログラムは表向きは英語教育法の改善を手助けすることであるが、実際には健全なアメリカの理念を日本社会に浸透させる道がこのプログラムによって約束される。」

 「資格のある英語教育専門家が日本に滞在していれば、教科書の執筆ならびにアメリカ合衆国の選定教材を日本に紹介する際に、折ある度に彼らは影響力を行使することができ、しかも長期にわたって影響を及ぼしつづけることができる。」

 「日本人は生活のあらゆる部分において英語の学習を受け入れる傾向があるので、英語教育の分野には潜在的に大きな可能性が認められる。」

(以上、拙著『英語で大学が亡びるとき』明石書店、176―178頁)
https://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%A7%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%8C%E4%BA%A1%E3%81%B3%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%8D%E2%80%95%E3%80%8C%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%8A%9B-%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E4%BA%BA%E6%9D%90%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC-%E5%AF%BA%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%90%89/dp/4750342661


 そもそもロックフェラー3世がダレス特使の文化問題顧問として日本に派遣されたのは、トルーマン大統領が1951年に 「心理戦略本部」(PSB:Psychological Strategy Board)を創設したことに由来しています。

 ですからロックフェラーの機密報告書「英語教育プログラム」も、日本にたいする心理戦すなわち「いかにして日本を『半永久的な米国依存の国』にするか」という戦略の一部として提案されたものでした。

 松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー、半永久的依存の起源』(岩波書店)は、1951年1月に日本政府と対日講和条件を協議するために東京を訪問した時のダレス国務長官を次のように描写しています。

 「ダレスは公衆の面前では、日本のことを『戦勝国によって指図される国』ではなく『相談される当事国』と表現し、雅量のある調子で語った。しかし私的な場所では、解決すべき主たる重要な問題は『我々の好きな場所に我々の好きなだけの期間、我々の好きなだけの軍隊を駐留させる権利を手に入れることではないのかね』と側近に語った。…そして実際にアメリカ政府は、日本の領土内に合衆国の基地システムを保持することに成功した。」(126頁)

 こうして日本は、沖縄の基地問題に象徴されるように、アメリカ兵が犯罪を犯しても、垂直離着陸機オスプレイが事故を起こしても、政府が独自に調査し処罰できない軍事的従属国になっています。そして軍事的に従属しているだけでなく文化的にも従属するようになり、「アメリカのものは優れているが日本のものは劣っている」と思考形態をいつのまにか身につけてしまいました。

 というよりも軍事的従属は、英語教育などを通じた文化工作の結果として生まれた文化的従属の結果でもありました。あるいは軍事的従属は文化的従属と手を携えながら進行したと言うべきでしょう。

 その典型例がカタカナ語の氾濫です。明治の知識人は外来語を何とか日本語に移し替えようとして悪戦苦闘しながら新しい語彙・新しい日本語を創造する努力を積み重ねて来ましたが最近はそのような努力を放棄して、英語教師でさえ意味のとりづらい「コンプライアンス」などという語を、NHKでさえ平気で使うようになってきました。

 これは老人や子どもにとって生活上の障害になるだけでなく、明治の知識人が外国語と格闘するなかで日本語を磨き、それを土台にして創造力を鍛えてきた先達の遺産を放棄するという意味で、知的退廃につながっていきます。

 日本のノーベル賞受賞者の多さも、このような先達の知的努力が生み出したものの成果だとも考えられるからです。

 このような知的努力を放棄しているかぎり、小学校から英語を導入しても、そのような世代からはノーベル賞受賞者は決して生まれないでしょう。

 それどころか、日本の進路を大きく左右しかねないTPP(環太平洋経済連携協定)という協定文書は、正式な交換文書であるにもかかわらず、政府はその日本語版を要求しなかったばかりか、全文の翻訳すらもおこなおうとしませんでした。

 こうして、国会議員は内容もよく分からないままTPPへの賛成を強いられることになりました。

 カナダが、英語国であるにもかかわらず、ケベック州の公用語が仏語であるという理由だけで、協定文書の仏語版をも要求したのと、なんという大きな違いでしょう。

 これはまさに知的退廃の極みです。これでどうして国益を守ることができるのでしょうか。これでどうして安倍首相の言う「美しい国」を築くことができるのでしょうか。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/gunjitekijuuzokutobunnkatekijuuzoku.html
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:23:46

「恥の文化」の力 From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学


このところ特に強く感じるんですが、最近の日本人って、ホントに自信を失ってますよね。といっても、周りの大学生などと話していると、若い世代はそれほどでもないように思うのですが、50代後半~60代ぐらいの人たちは、なんか日本は経済も文化も根本的にダメダメみたいな感情をもっているように思います。

だから、「バスに乗り遅れるな」とか「世界の孤児になってもいいのか」「これからは英語、英語、留学、留学、トーフル、トーフル」「アジアに打って出るしかない」みたいな強迫的ともいえるグローバル化衝動が生じるのかなあなどと日々感じております。

こういう日本人の自信のなさの背景には、一つは、日本の道徳に対する不信感があるようです。

たとえば、「日本人は同調主義的だ」「自律性や主体性がない」「権威に弱い」「周りの他者や世間の目ばかり気にする」ということがよく言われます。

なんでこんなイメージが広まったかといえば、一つの理由として、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いて終戦後、日本でベストセラーになった『菊と刀』の議論があると思います。

この本の中で、ベネディクトは、日本は「恥の文化」だといって、日本の一般的な道徳観をかなり悪く言っています。

ベネディクトの説明によると、「恥の文化」とは、「ものの良し悪しを判断する際に、他者の目や世間の評判のみを基準とする外面的な道徳が支配的な文化だ」というんですね。

要するに、周りに他者や権威者の目がなければ、日本人は悪いことしますよ~というわけです。

逆に、ベネディクトは自分とこのアメリカの道徳は「罪の文化」であり、自律的だといっています。たとえば、「罪の文化」は、「道徳の絶対標準を説き、良心の啓発を頼みとする」と書いています。

つまり、アメリカ人は、「良心を重視するので、誰もみていなくても悪いことしませんよ、自律的ですよ」というんですね。

こういう「恥の文化=他律的、外面的」、「罪の文化=自律的、内面的」という図式を『菊と刀』で展開して、日本の道徳を否定的にみるわけです。

『菊と刀』は、終戦直後の日本でよく読まれました。戦争でみんな自信を失っていたんでしょうね。日本人は真面目だから、戦争で負けたのは、自分たちに何か欠陥があったからに違いない。アメリカ人の言うことをよく聞いて反省しなければならない、と考えたのだと思います。

それで、「日本文化 = 恥の文化 = 良心が弱く、権威にも弱く、他律的で同調主義的だ」というイメージを受け入れてしまったんだと推測します。

でも、このイメージ、正しくないですよね。
たとえば、日本は、米国に比べれば、はるかに治安が良く、犯罪も少ないと思います。
電車に財布を置き忘れても無事に届けられる確率は、日本は世界で最も高い部類に入るでしょう。
人に見られてなければ悪事を犯すなんてことは、大部分の日本人には思いもよらぬことです。
権威に弱いというのも、間違いだと思います。日本ほど、政治家の悪口をいう国民はそうそういないように思います。私も例にもれませんが(^_^)

つまり、ベネディクトは、日本の道徳をひどく矮小化し、間違って理解していたと思います。現代の日本人も、残念ながらベネディクトの理解に影響されてしまっているところ多々があるようです。

ベネディクトの「恥の文化」の理解のおかしさについて、いくつも指摘したいことがあるのですが、今回は、上の新聞記事でも書いた一点だけ触れたいと思います。

「恥の文化」で敏感に感じとるべき他者の視点として、同時代の他者や世間だけではなく、死者の視点、つまり過去の世代の人々の視点もあるということをベネディクトは見逃していたということです。

現代の日本人も忘れがちかもしれませんが、日本の伝統では、死者の視点を常に身近に感じ、死者に思いを馳せることに、とても価値が置かれていました。
(なんか五月の連休ではなく、お彼岸に書いたほうがいいような内容ですね…。スミマセン…)
f(^^;) フタタビポリポリ

私はすごく好きな文章でよくとりあげるのですが、民俗学の祖・柳田国男は、この点についてとても美しく書いています。

「私がこの本のなかで力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(『先祖の話』)

「日本を囲繞したさまざまな民族でも、しねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。

ひとりこういうなかにおいてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考えだしたことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。

それが誤りたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかはこれからの人が決めてよい。我々の証明したいのは過去の事実、許多の歳月にわたって我々の祖先がしかく信じ、さらにまた次々に来る者に同じ信仰をもたせようとしていたということである」(「魂の行くえ」)。

つまり、柳田国男によると、日本の多くの人々は、人が死んだら故郷の山のあたりに魂は昇って行って、そこから子孫の生活をずっと見守っているというのですね。そしてお盆になると降りてきて、子孫や近所の人たちと一緒に過ごして、お盆が終わるとまた戻っていく。そういうふうに考えられてきたというわけです。

私は、この考え、すごく好きです。私も死んだら、近くの山の頂上あたりにふわふわと漂って、後の世代の人々の生活をぼーっと見ていたいなあ、なんて思います。
柳田国男が「…限りもなくなつかしいことである」といった気持ちがわかるような気がします。
(^-^ )

少し話がズレました…。
(-_-;)

柳田国男がここで述べているのは、日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。
それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。

そこをベネディクトは見抜けなかったし、現代のわれわれ日本人も、忘れがちのような気がします。

現代では、死者とのつながりが忘れられ、縦軸が疎かになっているので、(私もえらそうなことはまったく言えませんが)ふらふらと周囲の目ばかり気になり、自分を見失い、何をなすべきか定まらない人が増えているように思います。

靖国の問題だけではないですが、現代の日本人にとって困ったことの一つは、戦前と戦後で意識の分断が生じやすくされてしまったことですよね。

それが、日本人が本来の力を発揮するのを難しくしているのではないかと思います。

逆に言えば、日本にもう少しおとなしくしていてもらいたい国々は、何かにつけてそこに付け込もうとするんですよね。

戦前と戦後の意識の分断をどう修復すれば一番いいのか私にはわからないところも多いのですが、一つ言えると思うのは、戦前の人々も、現代の我々も、根本ではあまり変わっていないと認識することなんじゃないでしょうか。国民性って、そう簡単に変わるものではありませんので。そしてもっと身近に過去の世代の人たちに思いを馳せることではないかと思います。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/05/03/se-12/


内田樹 2017.01.15 「民の原像」と「死者の国」


高橋源一郎さんと昨日『Sight』のために渋谷陽一さんをまじえて懇談した。
いろいろ話しているうちに、話題は政治と言葉(あるいは広く文学)という主題に収斂していった。

そのときに「政治について語る人」として対比的に論じられたのが「安倍首相」と「天皇陛下」だった。

この二人はある決定的な違いがある。

政策のことではない。霊的ポジションの違いである。
それについてそのときに話しそこねたことを書いておく。

なぜ、日本のリベラルや左翼は決定的な国民的エネルギーを喚起する力を持ち得ないのかというのは、久しく日本の政治思想上の課題だった。

僕はちょうど昨日渡辺京二の『維新の夢』を読み終えたところだったので、とりわけ問題意識がそういう言葉づかいで意識の前景にあった。

維新の夢 (ちくま学芸文庫) 2011/6/10 渡辺 京二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%AE%E5%A4%A2-%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E4%BA%AC%E4%BA%8C%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E5%8F%B2%E8%AB%96-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B8%A1%E8%BE%BA-%E4%BA%AC%E4%BA%8C/dp/4480093796

渡辺は西郷隆盛を論じた「死者の国からの革命家」で国民的規模の「回天」のエネルギーの源泉として「民に頭を垂れること」と「死者をとむらうこと」の二つを挙げている。

すこし長くなるけれど、それについて書かれた部分を再録する。

渡辺によれば第二回目の流刑のときまで西郷はスケールは大きいけれど、思想的には卓越したところのない人物だった。

「政治的な見識や展望はどうか。そういうことはみな、当時の賢者たちから教えられた。教えられれば、目を丸くして感心し、それを誠心実行に移そうとして。勝海舟、横井小楠、坂本竜馬、アーネスト・サトウ、みな西郷に新生日本の行路を教えた人で、西郷自身から出た維新の政治理念は皆無に等しかった。だから、この維新回天の立役者はハリボテであった。

だが、政治能力において思想的構想力において西郷よりまさっていた人物たちは、このハリボテを中心にすえねば回天の仕事ができなかった。これは人格の力である。

この場合人格とは、度量の広さをいうのでも、衆心をとる力をいうのでも、徳性をいうのでもない。それは国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱であり誠心であった。革命はそういう熱情と誠心によってのみエトスを獲得することができる。エトスなき革命がありえない以上、西郷は衆目の一致するところ最高の指導者であった。」(『維新の夢』、ちくま学芸文庫、2011年、341頁)

彼は戊辰のいくさが終わったあと、中央政府にとどまらず、沖永良部島に戻るつもりでいた。「官にいて道心を失う」ことを嫌ったのである。

島は彼の「回心」であったというのが渡辺京二の仮説である。

島で西郷は何を経験したのか。

渡辺は「民」と「死者」とがひとつに絡み合う革命的ヴィジョンを西郷がそこで幻視したからだと推論する。

「西郷は同志を殺された人である。第一回流島のさいは月照を殺され、第二回には有馬新七を殺された。この他にも彼は、橋本左内、平野国臣という莫逆の友を喪っている。」(343頁)。

この経験は彼に革命家は殺されるものだということを教えた。革命闘争の中では革命家は敵に殺されるだけでなく、味方によっても殺される。「革命を裏切るのは政治である」。

死者はそれだけでは終わらなかった。

寺田屋の変で西郷は旧友有馬を殺された。西郷の同志たち、森山新蔵、村田新八、篠原國幹、大山巌、伊集院兼寛も藩主の命で処罰された。渡辺は「これが西郷を真の覚醒に導いた惨劇である」と書く。

事実、この直後に西郷が知人に書き送った書簡にはこうある。

「此の度は徳之島より二度出申さずとあきらめ候処、何の苦もこれなく安心なものに御座候。骨肉同様の人々をさえ、只事の真意も問わずして罪に落とし、また朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや。馬鹿らしき忠義立ては取り止め申し候。お見限り下さるべく候。」

西郷は同志朋友を殺され、同志朋友と信じた人々によって罪に落とされた。もう生者たちに忠義立てなどしない。自分が忠義立てをするのは死者たちに対してだけだと西郷は言外に宣言したのである。

彼が維新回天の中心人物として縦横の活躍をするようになるのは、彼が「お見限り下さるべく候」と書いた「あと」の話なのである。同志朋友を殺した島津藩への忠義を断念し、死者のために生きると決意したときに西郷は政治家としてのブレークスルーを果した。

「いまや何を信ずればよいのか。ここで西郷の心は死者の国へととぶ。彼はもう昨日までの薩摩家臣団の一員ではない。忠義の意図は切れた。彼は大久保らの見知らぬ異界の人となったのである。彼の忠誠はただ月照以来の累々たる死者の上にのみ置かれた。」(346頁)

みずからを「死者の国の住人」と思い定めた西郷は島で「民」に出遭う。
西郷はそれまでも気質的には農本主義者であり、護民官的な気質の人であったが、民はあくまで保護し、慰撫し、支配する対象にとどまっていた。それが島で逆転する。

「彼が島の老婆から、二度も島に流されるとは何と心掛けの改まらぬことかと叱られ、涙を流してあやまったという話がある。これは従来、彼の正直で恭謙な人柄を示す挿話と受けとられたきたと思う。しかしかほど正直だからといって、事情もわきまえぬ的外れの説教になぜ涙を流さねばならぬのか。老婆の情が嬉しかったというだけでは腑に落ちない。

西郷はこの時必ずや、朋友をして死なしめて生き残っている自分のことを思ったに違いない。涙はそれだから流れたのである。しかしここで決定的に重要なのは、彼が老婆におのれを責める十全の資格を認めたことである。それは彼が老婆を民の原像といったふうに感じたということで、この民に頭を垂れることは、彼にとってそのまま死者を弔う姿勢であった。」(347頁)

「革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた。維新後の悲劇の後半生は、このような彼の覚醒のうちにはらまれたのである。」(348頁)

長い論考の一部だけ引いたので、論旨についてゆきずらいと思うけれど、僕はこの「民の原像」と「死者の国」という二つの言葉からつよいインパクトを受けた。
渡辺京二の仮説はたいへん魅力的である。歴史学者からは「思弁的」とされるかも知れないが、僕は「これで正しい」と直感的に思う。

という読後の興奮状態の中で源ちゃんと会ったら、話がいきなり「大衆の欲望」と「死者の鎮魂」から始まったので、その符合に驚いたのである。

『維新の夢』本で、渡辺京二は日本のリベラル・左翼・知識人たちがなぜ「国家の進路、革命の進路を、つねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱と誠心」を持ち得ないのかについてきびしい言葉を繰り返し連ねている。

それは畢竟するに、「民の原像」をつかみえていないこと、「死者の国」に踏み込みえないことに尽くされるだろう。

「大衆の原像」という言葉は吉本隆明の鍵概念だから、渡辺もそれは念頭にあるはずである。

だが、「死者の国」に軸足を置くことが革命的エトスにとって死活的に重要だという実感を日本の左翼知識人はこれまでたぶん持ったことがない。

彼らにとって政治革命はあくまで「よりよき世界を創造する。権力によって不当に奪われた資源を奪還して(少しでも暮し向きをよくする)」という未来志向の実践的・功利的な運動にとどまる。

だから、横死した死者たちの魂を鎮めるための儀礼にはあまり手間暇を割かない。
日本の(だけでなく、世界どこでもそうだけれど)、リベラル・左翼・知識人がなかなか決定的な政治的エネルギーの結集軸たりえないのは「死者からの負託」ということの意味を重くとらないからである。僕はそう感じる。

日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。

****へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである。

どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。

どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである。

世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである。

政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない。
政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。

リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。

極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っている。
それだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある。

安倍晋三は今の日本の現役政治家の中で「死者を背負っている」という点では抜きん出た存在である。

彼はたしかに岸信介という生々しい死者を肩に担いでいる。祖父のし残した仕事を成し遂げるというような「個人的動機」で政治をするなんてけしからんと言う人がいるが、それは話の筋目が逆である。

今の日本の政治家の中で「死者に負託された仕事をしている」ことに自覚的なのは安倍晋三くらいである。だから、その政策のほとんどに対して国民は不同意であるにもかかわらず、彼の政治的「力」に対しては高い評価を与えているのである。
ただし、安倍にも限界がある。それは彼が同志でも朋友でもなく、「自分の血縁者だけを選択的に死者として背負っている」点にある。

これに対して「すべての死者を背負う」という霊的スタンスを取っているのが天皇陛下である。

首相はその点について「天皇に勝てない」ということを知っている。

だから、天皇の政治的影響力を無化することにこれほど懸命なのである。

現代日本の政治の本質的なバトルは「ある種の死者の負託を背負う首相」と「すべての死者の負託を背負う陛下」の間の「霊的レベル」で展開している。
というふうな話を源ちゃんとした。

もちろん、こんなことは新聞も書かないし、テレビでも誰も言わない。
でも、ほんとうにそうなのだ。
http://blog.tatsuru.com/
8:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:24:55

文字と日本人

「文字の上意味の上をば冬の蠅」-----中村草田男
http://archive.fo/mYoy#selection-25.0-2033.25


まだ物象の形をとどめ

きっかりと石に刻まれた神聖文字(ヒエログリフ)から
少し略された祭司文字(ヒエラテイク)へ
もっと書きやすい民衆文字(デモテイク)へ
五千年もたてば坐り疲れて
文字だってもじもじと身をよじり
膝を崩したりもするのだ

-----多田智満子「刻」『十五歳の桃源郷』(人文書院)

山という字を書いてみせ
川という字を書いてみせ
山という字は
山そのものから
川という字は
川そのものから生まれたのですよ
と説明すると
横文字の国の人は感動する
この間 岡山で
ひぐらしをひぐれおしみ
と呼ぶ人々がいると知って
胸がなった
人を打つ言葉が日本の言葉のなかにある
そのことに
日本語の国に住む私は感動する

-----川崎洋「ことば」『海を思わないとき』(思潮社)

 ココロ
 こころ
 心
 kokoro ほら
 文字の形の違いだけでも
 あなたのこころは
 微妙にゆれる【…】

-----谷川俊太郎「こころ1」

「漢字は難解で、新しい時代の言語生活に適合しないという考え方が一部に根強い。しかしわが国の文化は漢字に支えられているところが多い。ことに知的な営みの世界から漢字を除くことは、ほとんど不可能といってよい」


-----白川静『字通』序文

 友達のお父さんが脳溢血で倒れた。見舞いに行って、運動性の失語症だから治っても漢字は読めるけど仮名はダメだろう、と話しておいた。しばらくしてその友達から本当にそうなったといってきた。元気になってから雪囲いを作るときに材木に書いてある「西」「東」とかいうのをいとも簡単に理解して組み立てたというのだ。失語症の人には表音文字であるカナより、表意文字である漢字の方が遥かに読みやすいのである。





 アメリカやイギリスの子に失読症(dyslexia)が多い。トム・クルーズが告白したことで有名な言葉になったが、「『トップガン』を撮影していた22歳のときに、夢だったパイロットになろうと思ったんだ。でも、レッスンをいくつか受けて、すぐに投げ出してしまった。人からどうして? と聞かれたときは映画の準備に忙しくて時間がないと答えたけど、実際には操縦の理論を理解することができなかったんだ」とトムは告白している(1994年にトムは無事にパイロットのライセンスを取得)。オーランド・ブルームもそうだし、キーラ・ナイトレイも録音で学習したり、色付き眼鏡をかけて文章の文字が混じって見えないように工夫して読書しているそうだ。

 失読症が発見されたのは19世紀のイギリスで、「7」が読めるのに都even”が読めない子どもがいたのだ。失語症研究の笹沼澄子の研究によれば、失語症のアメリカ人は音で認識できなくなって言葉をアルファベットで紙に書いて見せても認識できないが、失語症の日本人は音声で認識できなかった言葉でも漢字で書かれると認識できるということは、日本人が大脳の2箇所、つまり音声処理と映像処理の部分を同時に使いながらコミュニケーションを行っていることを示しているという。※読み書きのみの学習困難への対応策

 小説ではヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』に文盲の家政婦グロースが出てくるし、ウルフの『レモネードを作ろう』には文字さえろくに書けない17歳で未婚の母のジョリーが出てくるし、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』はまさか職業をもっている人が文盲とは…という意外性があり、文字を取りかえすことで愛を取りかえす話になっている。映画ではミュージカル『フェーム』やキャメロン・ディアスの『イン・ハー・シューズ』で描かれている。キャメロン・ディアスが弁護士を演じた『私の中のあなた』では白血病のお姉さんのために放っておかれた長男が失読症治療の学校に進むシーンが出てくる。

 失読症と文盲とは直接関係がない。後者は教育の問題であって、『カラーパープル』では黒人女性ウーピー・ゴールドバーグが文盲のまま奴隷の状態で育っていく。どうにか文字を教えられて自立していく話なのだが、アフリカに行ってしまう妹と別れる時に展rite.”と一言いうのが泣かせる。

「手紙を書いてね」という、ごく普通の挨拶が心に響く。いや、別に黒人でなくても、日本の寺子屋のようなものがなかった欧米では文盲が多かったのである。1964年のデ・シーカ監督の映画『あゝ結婚』では娼婦のフィルメーナ(ソフィア・ローレン)が自分の名前をやっとかっとサインするシーンが出てくるが、これが実情だったのである。

1989年の映画『アイリスへの手紙』では小さい頃転校ばかりしていて文字を憶えなかったロバート・デ・ニーロが文盲を理由に(塩と消毒薬を間違えると大変だと言われ)コックを辞めさせられる。文盲だと口座も開けないし、注文品の受取もできない。ジェーン・フォンダが教え、お手紙も書けるようになり、免許も取れてめでたし、めでたし。同じ年の『ドライビング Miss デイジー』は1948年以降のアメリカの状況を表しているが、ここでは黒人の運転手モーガン・フリーマンが文盲でお墓の文字が読めないのだが、元教師でユダヤ人のデイジーが「クリスマスプレゼント」に文字の練習帳をあげるシーンがある。

 もちろん、日本にも読めない人はいた。落語では「三人無筆」「親の無筆」「無筆の手紙」というのがある。中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)に出てくる伯母さんは物知りなのだけれど、「四角い字」つまり漢字が読めない。肥立ちが悪かったお母さんの代わりを務めてくれるのだが、想像力を駆使しておもしろおかしく話を聞かせてくれるので、主人公が完成豊かに育っていくことになる。昭和4年のスラム街の識字率は70%以下だったというという報告を見たことがある。

 欧米に文盲は多い。「正しい」英語を目指して初の『英語辞典』を完成させたジョンソン博士はスコットランドを訪れた時に識字率の低さに驚いて、文字を知らない人々は現在形でのみ生きる運命にあると述べた。なぜなら「いったん目の前から消えれば、永久に失われてしまうからだ」という。

 サインをする時には十字形署名といってラとだけ書いた。映画でいえば、ゾラの『居酒屋』などに見られる。「感性の歴史家」と呼ばれるフランスの歴史家アラン・コルバンは、『記録を残さなかった男の歴史 ある木靴職人の世界 一七九八…一八七六』(藤原書店)という本のなかで、名前と〈十字形署名〉というわずかな「痕跡」しか残さなかった〈ルイ=フランソワ・ピナゴ〉という男の人生を歴史学の方法で再構成しようと試みた。

 ディケンズの『大いなる遺産』ではピップがどうにか文字を覚えて手紙を書く。hの音が抜けているものだからhopeがopeになってしまう。


MI DEER JO i OPE U R KR WITE WELL i OPE i SHAL SON B HABELL 4 2 TEEDGE U JO AN THEN WE SHORL B SO GLODD AN WEN i M PRENGTD 2 U JO WOT LARX AN BLEVE ME INF XN PIP.
My dear Joe,

I hope you are quite well. I hope I shall soon be able to teach you, Joe and then we shall be so glad. And when I am apprenticed to you, Joe: what larks! Believe me, in affection,

親愛なるジョー お元気ですか。もうすぐ字を教えてあげられると思います。そういしたら二人とも嬉しいです。僕がジョーの弟子になったら、楽しくやろうね。親愛を込めて ピップより。


 東ドイツのジョークでこんなのがある。


質問:人民警察官の制服に線が三本あるのはどういう意味?

回答:一本線は「読める」しるし。二本線は「書ける」しるし。三本線は「読み書きできる人を知っている」しるし。

 西江雅之先生からアフリカではどんな選挙をやっているか知っているか、と言われたことがある。文盲が多いので、投票できない人が多いからなのだが、答えは立候補者を象徴する動物などを決めておいて、その絵柄の方にマークする方式を採っているのである。子ブッシュ大統領の不正選挙の時に、弟が知事をしているフロリダ州の選挙を報道している時に気づいたのだが、投票用紙に名前を書く方式になっていないものだから、どちらに投票したかとても分かりにくくなっていた。おかしいと思って調べたのだが、自書式と呼ばれる自分で用紙に名前を書く方式を採っているのは日本だけらしい。これはまさに識字率の問題なのだ。LDなどの例を除けば、日本人は文字が書けて当たり前なのだ。

 2010年のブラジル連邦下院議員選挙で、男性コメディアンが全国最多得票で当選したものの、「読み書きができないのでは」との疑惑が持ち上がったため、裁判所で学力テストを受けた。ブラジルでは、非識字者は議員になれないが、立候補の際「読み書きが出来ます」と手書きで選管へ提出したのが、実は妻が代筆したことが判明し、裁判所が読み書きテストを実施、書き取りの正解は30%未満だったが「文章を最低限は、理解出来た」と判断した結果、「合格」し、議員への就任が認められたという。

 ギリシャ時代にはオストラコン(陶片)に追放したい人の名前を書くオストラキスモスが紀元前508年に始まった。6000票を超えた最多得票者が一人、十年間、国外に追放されたのだが、みんなが書けたとはいえず、サラミスの海戦でペルシアをうち破ったアテネのテミストクレスも追放にあったのだが後に井戸から発見された陶片200枚を調べると十数人しかの筆跡が見られなかったという(政敵の陰謀?)。日本以外の国ではギリシャ時代と変わらない投票風景が残っている。

 村上春樹の『1Q84』には『空気さなぎ』という作品で新人文学賞をとったばかりの美少女作家ふかえりは失読症ということになっている。ふかえりは物語って、一緒に暮す「ふたつとしした」のアザミという女の子にタイプしてインサツしてもらったという。この作品によれば、アインシュタインもエジソンもチャーリー・ミンガスもみんあディスレキシアだという。


「君はいつもどんな本を読んでいるの?」

「ホンはよまない」

「ぜんぜん?」 ふかえりは短く肯いた。

「本を読むことに興味がないの?」

「よむのにじかんがかかる」

「時間がかかるというのは、つまり……、すごく時間がかかるってこと?」と天吾は尋ねた。

「すごく」とふかえりは断言した。

(中略)

「よんでいるふりをする」と彼女はこともなげに言った。

(中略)

「君が言っているのはつまり、いわゆるディスレクシアみたいなことなのかな?」

「ディスレクシア」とふかえりは反復した。

「読字障害」

「そういわれたことはある。ディスーー」

【…】

「でも読めなくても、書く方は大丈夫なんだね」、天吾は恐る恐る尋ねた。
ふかえりは首を振った。「かくこともじかんがかかる」

 ディスレキシアであっても悩むことはない。きちんと治療すれば治るだろうし、『海辺のカフカ』に登場する老人のナカタさんも文字が読めない人という設定になっているが、一緒に行動することになる長距離トラックの運転手の星野青年が

「おじさんも字が読めねぇってのはきっと不便だろうけど、つらいこともあるだろうけど、それがすべてじゃないんだ。たとえ字が読めなくたって、おじさんにはおじさんしかできないことがある。そっちの方を見なくちゃいけない。たとえばほら、おじさんは石とだって話ができるじゃないか」

という。すると、「はい。たしかにナカタは、石さんとは話ができます。前は猫さんとも話ができました」と答えるのである。





 もう一つは文字の特性がある。表意文字でなく(象形文字的なのはlocomotiveだけといわれる)、表音文字を使っているのに、スペリングが複雑なことがある。日本の子供は「あいうえお」を覚えればどんな絵本だって読めるが、英米の子供にはできない。

pneumoniaとかpsychologyとかwreathとかubiquitous

とかという言葉を初めて聞いたときに意味を調べようと思っても辞書で調べることもできない。Wednesdayなんてどうして読めるのだろう。つまり、表音文字とは名ばかりなのだ。

 日本の子どもは「はいえん」とか「しんりがく」「リース」「ユビキタス」でその意味を調べることができるし、暗記する時も「“指切った・す”ぐに治療してくれる病院は“どこにでもある”」などと簡単に覚えることができる。

 英語圏では5-10%くらいの子に失読症が存在するという。日本人小児では2-3%以内が失読症であろうと考えられている。アルファベット圏より少ないのは間違いない。落語でも文盲の人はあまり出てこない。わずかに「手紙無筆(むひつ)」というのがあって、地の読めない男が手紙をもらい、その手紙を地の読めない兄貴に読んでもらおうとする噺である。川柳には「串といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆よみ」というのがあるが、逆にこれは読める人が多かったからこそ成立しているといえる。日本では寺子屋が見事に機能していたのである。

 日本人にとってアルファベットはとても簡単な文字体系だと思うのだが、アメリカ人にとってはそうでもなさそうで、電ot your i's and cross your t's”(iに点を打ち、tに横線を書く)で「作業を注意深く仕上げる」という意味になる。

 英語で溺ind your p's and q's.”というと「言動に注意する、言行を慎む」を意味するが、p と q は非常によく似た文字でで、書き方を教える先生は溺ind your p's and q's.”(p と q に気を付けて)と言って生徒に注意した。ここから意味が広がって「言動に注意しなさい」の意味にも使われるようになったとされる(面白語源は他にもあって酒場の勘定書きで、飲んだビールのグラスの大きさ【パイントのpと、倍量のクォートのq】をごまかされるな、という言葉ともされる)。日本語で子どもが「犬」と「大」を間違うようなものであるが、表音文字で似ていることが失読症の原因の一つと考えられる。ドナルド・キーンでも「ゑ」を憶えるのは苦労したというが、「惠」を意識すれば子どもでも覚えられる。それほど日本の文字は覚えやすい。

 マッケンジー・ソープMackenzie Thorpeは小さい頃、失読症でお前は大人になっても何もできない、と教師に言われて自殺まで考えたという。そのうち、美術学校を勧めてくれた人がいて、そこで才能が開花した。今では世界的に有名な画家になっている。

Mackenzie Thorpe


 紅白の司会を何度もしたことがある宮本隆治アナウンサーはシナリオをもらうと、目が悪いために全部ワープロで打ち直し、その形で文章を覚えるのだという。象形文字ならではの記憶法である。





 アメリカでは字幕入りの映画というのは受け入れられない。早い話、英語圏以外の映画がヒットすることは稀である。外国でヒットした映画はそのため、リメイクされることが多い。例えば、『赤ちゃんに乾杯』というフランス映画がヒットすると、そのまま『スリーメン&ベビー』としてリメイクされる。黒澤明の『用心棒』はイタリアで作られた『荒野の用心棒』の方は盗作として有名だが、『ラストマン・スタンディング』が最近ではリメイクとして有名だ。

 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が作られた時も、ネイティブ・アメリカンの言葉が出てきて字幕を付けざるを得なかったのでヒットしないといわれた。今のところ、字幕入りでヒットした唯一の映画といってよい。

 つまり、字幕があると英語だと読み切れないのである。日本語は漢字があるから大体のことはすぐにつかめる。表音文字は反応するまでに0.3秒かかり、表意文字は反応するまでに0.1秒かかるという説もある。つまり、表意の方が0.2秒も早いことになる。

 漢字はゲシュタルトとしてのまとまりがある。かなでずっともじをかかれたらとてもりかいできるものではないが、漢字が入っていると一気に読みやすくなる。とはいえ、漢字だらけだと読むのがつらい。中国の外来語は誰が決めているのかしらないが、マルクスは「馬克思」、アインシュタインは「愛因思坦」、ニュートンは「牛頓」、エジソンは「愛迪生」、ゲーテは「歌徳」となる。これらは短いからいいけれど、レオナルド・デカプリオなどはとっても長くて憶えられないくらいの名前になってしまう。

 「ゴミ」をカタカナで書くのもゲシュタルトを保つためでもある。ゴミを表わす漢字がない以上(塵はチリとしか読まれない)、「ここにごみを捨てないで」よりは「ここにゴミを捨てないで」と書いた方が分かりやすい。日本語はそうした表記が複雑なので、逆に簡単というパラドックスがある。

 日本人はさまざまな文字をうまく使い分けている。「破廉恥」と「ハレンチ」では語感が違う。「不倫」と「フリン」では重さが違う。<「あじさい」と「紫陽花」から受ける印象の違いに触れた文章で、ひらがなの花には「カタツムリがいそう」と感じる人が多いとか。「あ」の字がカタツムリの形に見えるから…ある小学1年生はそう話したという>とは読売新聞「編集手帳」(2011年7月12日)の一節だ。

 もちろん、読めない漢字だっていっぱいあって、困るのだが…。





 ただし、英語でも速読術がある。ベトナム戦争を激化させたマクナマラは国防長官時代、自分への説明は文書で提出せよと命じた。わけを聞く側近に、こう答えたそうだ。「彼らが話すより自分で読む方が早い」(『ベスト&ブライテスト』)。つまり、英語が象形文字的な、というか表意文字的でないとは決していえない。人間は文字をゲシュタルト的に読んでいるからである。以下の文章はケンブリッジ大学の実験だというが、人は語頭と語尾の文字だけを見て、読んでいることが分かるはずだ。人の脳は文字を一つ一つ読み取っているのではなく、単語を丸ごと読み取っているのである。


Had any Friday lunchtime drinkies?

I cdnuolt blveiee taht I cluod aulaclty uesdnatnrd waht I was rdgnieg

THE PAOMNNEHAL PWEOR OF THE HMUAN MNID

Aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn't mttaer in what oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoatnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be in the rghit pclae. The rset can be a taotl mses and you can sitll raed it wouthit porbelm. Tihs is bcuseae the huamn mnid deosn't raed ervey lteter by istlef, but the wrod as a wlohe.

Amzanighuh ?



 戦後、敗戦の理由を軍国主義ではなくて日本語やその文字に求めた人が多かった。

 日本語を英語やフランス語にしてしまえ、という乱暴な議論もあったし、文字を平仮名だけとか、ローマ字にしてしまえ、という議論もあった。

 萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬舎新書)という、かなり反動的な?本があるが、次のように書いてある。


 【…】国語改革に大きく「貢献」した人物は、ごく最近までぞろぞろとゐました。その一人に石黒修といふ人があります。この人は「現代かなづかい」「当用漢字」を制定したときの国語審議会委員で、改革(破壊)を強力に主張した人です。その仲間には金田一京助、松坂忠則、岩淵悦太郎といつた人々があります。 
 その石黒氏は東京教育大学の教授もつとめた人ですが、その著『日本人の国語生活』で次のやうに述べてゐます。
 アルファベットは二十六字しかないのにすべての用を弁ずる。当用漢字千八百五十はその八十倍もある。無駄があり習得も困難である。
 これが東京教育大学、いまの筑波大学の言語系教授の「知性」ですから事はおだやかではない。やはりそのバカさ加減だけは一応教へておいた方がよいでせう。

 冷静になれば、ローマ字を使っていたイタリアもドイツも軍国主義に走ったのだからおかしいと分かるはずなのだが、混乱期にはそうはいかなかった。国家としてのアイデンティティが問われると言葉のアイデンティティも問われるようになる。

  Shikashi, chotto kangaete mireba wakaruga ro-majidakeno bunshoutoiunoha jituni yominikuinodearu.

 にほんごがひらがなだけになっていてもひじょうによみにくくてしそうというものをになうことはできない。谷崎潤一郎は『盲目物語』をひらがなでかいているが、馴れるまで苦労する。啄木の『ローマ字日記』だってローマ字のままだったら、どんなにいい本でも売れなかっただろう。

 米原万里も日本語の表記が煩わしいと思っていた一人だった。ところが、同時通訳の中でサイトラ、つまり都ight translation”(黙読通訳)をするようになって、この考えがコペルニクス的転回をとげたという。サイトラというのは、スピーカーの原稿の事前に入手して、目は文章を追い、耳はスピーカーの発言を確認しながら訳出していくものである。日本語からロシア語とロシア語から日本語と、後者の方が日本人には楽なはずなのだが、前者の方が楽なのに、気づいてきたという。アウトプットの問題ではなく、インプットのプロセスに謎があるのだという。つまり、複雑な表記の日本語の方がはるかに内容をつかみやすいということである。漢字のみの中国語よりも、意味の中心を表すのが漢字で、意味と意味の関係を表すのが仮名の日本語の方が一瞬にして、文章全体を目で捉えることが可能だという。いろいろためにしてみて時間を計りながら読み比べてみたという。


 そして、活字にして断言できるほどの自信満々な確信を持つにいたった。黙読する限り、日本語の方が圧倒的に速く読める。わたしの場合平均六、七倍強の速さで、わたしの母語が日本語であることを差し引いても、これは大変な差だ。

 子どもの頃から文字習得に費やした時間とエネルギーが、こんな形で報われているとは。世の中の帳尻って、不思議と合うようになっているんですね。
     -----米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文藝春秋)





 日本人が訓読みを発明して、ひらがなやカタカナを発達したのは凄い。ただ、これも朝鮮で吏読(りとう、イドゥ)という読み方ができていて、朝鮮では残らなかったのをうまく利用したのである。朝鮮では中国語をそのまま外国語として受け入れ、今でも韓国人は名前を漢字で書けるけど外国語の意識だという。ベトナム人も同じで、例えば、「ホーチミン」は「舗胡志明」なのだが、そんな意識を持っている人はいないという。韓国ではハングルにして久しいのだが、今は漢字の元を知らないから、国語能力が低くなっているという。

 ところで、「弗」の読み方を知っているだろうか。「彷佛」の「弗」で「仏」の意味なのだが、実は「ドル」とも読む(「ドル」で変換される)。これは幕末にアメリカの「$」をどう書こうかということになって、形が一番似ている「弗」になったのである。ここまではいいのだが、これが中国や朝鮮にも伝えられたのが、中朝では基本的に音読みしかしないものだから、「フー」「プル」としか読まれず、多くの人が「ドル」をどうしてこう読むか分からなくなっている。しかも韓国では更にハングル表記だけとなったために、その理由が更に分からなくなっている。





 井上ひさしが『東京セブンローズ』を書いたのも豊かな表記法のある日本語への愛着だった。作品はすべて旧字、旧仮名で書かれていて、読み進むうちに違和感が消え、表記法も魅力の一つになっていくという趣向である。GHQ民間情報教育局の日本語簡略化担当官が「きみたち日本人のためを思って」と日本語のローマ字化を押し付けるのだが、主人公の団扇屋・山中信介はこれに反対する。「一生懸命に生きているうちに自然と思想犯になってしまった」というが、占領目的阻害の疑いで三度思想犯として逮捕されることになる。

 この時、「東京セブンローズ」と呼ばれる七人の高級娼婦、うち二人は信介の娘なのだが米軍高官を手玉にとって、日本語の危機を救うことになる。

 信介には日本人の変節ぶりが信じられない。「こんなに簡單に人間の考へが變へられるといふなら、なぜ絹子【愛娘】が燒夷彈の直撃を喰らふ前に變へてくれなかつたのだ」と憤慨する。文字政策、言語政策というものを路傍の石のようにころころと動かしてほしくない。

 実際、『東京セブンローズ』は僕より年下の年代の人には旧字、旧仮名なのでかなり読みづらいと思う。文化の断絶をも考えさせる作品である。

「世代」 谷川俊太郎(『二十億光年の孤独)

--詩をかいていて僕は感じた

漢字はだまっている
カタカナはだまっていない
カタカナは幼く明るく叫びをあげる
アカサタナハマヤラワ

漢字はだまっている
ひらがなはだまっていない
ひらがなはしとやかに囁きかける
いろはにほへとちりぬるを

--そこで僕は詩作をあきらめ
  大論文を書こうと思う
  「字於世代之問題」
  「ジニオケルセダイノモンダイ」
  「じにおけるせだいのもんだい」

 蓮實重彦の『反・日本語論』(文藝春秋)の中にこんな話がある。フランス人の奥さんがフランス語の授業で「伝言ゲーム」(メッセージを順に伝えていき、最初と最後の違いを楽しむゲーム…英語ではsecrets,rumors,Chinese whispers,Russian scandalなどと呼ぶ)をやったらなかなか成績がよかったという。ただ、その途中、日本人の学生達が何故かみんなしきりに指を動かしていたが、あれはいったい何の魔法かしら?と旦那に尋ねたというのだ。

 これは日本人にとってはなんら不思議のないことで、要するに学生達は宙に文字を書いてメッセージを覚えていたのである。

 同じことを菊澤律子が「目で見る言語・耳で聞く言語」(『月刊言語』1998年2月号)で書いている。フィジー人一家と暮らした時に筆記用具というものがなかったという。日本語を教えるとノートなど取らずに耳で覚えようとする。日本人が文字を書かない限り覚えられないのと対照的だ。


【…】結果として「目で見る言語」の文化にどっぷり使っている教師は、インド系フィジー人はよくできるkれど、フィジー系フィジー人はだめだとこぼすことになる。

…といったようなことをフィジーの首都スパで日本語教育に携わる友人に話してみたのではあるが、最初に述べたように、伝言ゲームをすれば二人目でたちまち内容が変わってしまう民族にとっては、これはやはり想像を超えた世界なのである。「だって書いたらずっと残るけど、記憶はかならず薄れていくものじゃない」というのが唯一、彼女から得た反応であった。もっともである。私だってそう思う。でも、書いたものを読まない人にとっては、風が吹けばどこかへ消え去ってしまう紙切れのような文字よりも、人間の記憶の方がずっと確かで永遠なのである。





 小野篁は嵯峨天皇の怒りに触れて難題を突き付けられたことがある。「子子子子子子子子子子子子」をどう読むのか。篁はすぐに「猫の子の小猫、獅子の子の小獅子」と読み、これで篁は許しを得た(『宇治拾遺物語』)。

 金田一春彦『ことばの歳時記』(新潮文庫)に「立秋のころ」というエッセイがある。風流人のところを訪ねた客が、通された茶室の掛軸に目をやると「夕有風立秋」と書いてある。夕風に秋の気配を感じるというのは、この季節にぴったりの良い句だと褒めると、微笑した主人は「これは、ユーアーフーリッシュと読む。『そんなバカな』ということだ。」と答えた。音訓二通りの読み方がある日本語だからできる文字遊びで、英語など他言語ではこんな風流は通じまいと金田一は書いている。

 文字を通して言語を理解するというのはどうやら日本人(や漢字文明圏の人々)特有の現象であろう。外山滋比古は『日本語の論理』の中で「ヨーロッパの言語が音声中心の一元的言語であるとすると、日本語は表意文字をともに用いる二元的言語だ」という。

 ちなみにエジプトのヒエログリフの文字は表音と表意の両方がある。シャンポリオン以前の研究者たちは、表意か表音か、このいずれかしかないと決めていたため、行き詰まっていたのだが、シャンポリオンは言語学の基礎があったので、先入観に惑わされなかった。

 山内昌之は『多神教と一神教 古代地中海世界の宗教ドラマ』(岩波新書)の中で、アルファベット、つまり表音文字の誕生と普及が一神教を生んだと考えている。複雑になるばかりの文明はある時点から単純化に転じる傾向があったのだが、アルファベットのようにあらゆる音声を記せる文字として、表音文字が開発されるなら、やがて全能の神の姿が人びとの脳裏に浮かんできても不思議はないという。それと社会の危機や抑圧という問題が結びつくと、問題解決の担い手となる虐げられた民族や階層は排他的な一神教に向うようになった。う〜ん。

 欧米人にはディクテーションというのがあり、音を聞き取り文字化する。逆に日本人は漢字を書き、さあ、これは何て読むのでしょう、と尋ねる。もし、知らない言葉が出てきたら、日本人は「どう書くの?」と聞き、西洋人なら、展hat do you mean by〜?”と聞き、滴ow do you spell it?”とはあまり聞かないだろう。

 銀行の現金自動支払い機、ATM(Automatic Teller Machine)になぜ鍍eller”という単語が用いられているか不思議に思ったことはないだろうか?鍍eller”というのは元来、銀行側と顧客が互いに納得できるように、出し入れする金銭を声を出しながら数えて確認する人だったのである。

 イギリスの大学には途eader”と呼ばれる職位があって上級講師と教授の間だ。たいてい学部にひとり、講義をすることが主たる任務で、学事を担当したり個人指導をしなくともよい(実際にはしているが)という特権が与えられた地位である。この言葉は「たくさんの本を読む人」ではなく、 「教室で声に出して原稿を読む人」、つまり講義者を意味していた。また、ケンブリッジ大学などでは日本の講師に相当する、ずっと低い教員に斗ector”というのがあるが、原義はカトリック教会で講義をする人、つまり声を出して講義をする人だった。

 アメリカの大学に留学する聴講生で講義には出席するが単位を取らない学生を殿uditor”という。これも14世紀用いられている語義では、組織や会社の経理報告が正しいかどうか検査する監事や監査役、会計検査官に当たる言葉だった。14世紀以来会計検査官が、数字を読み上げる経理担当者の報告を耳で聞いて、その是非を問うのを習慣としていたことを示している。





 養老孟司によれば日本語が世界の言語と違うのは、脳の2カ所を使わないと読めないという。一般に世界の人が文字を読むのに使っている脳の部分は「角回」と呼ばれる場所1カ所だけだが、日本人は「角回」では仮名を読み、漢字は別の場所で読むらしい。これは漢字の読みがたいてい1種類ではないという日本語の特徴による。つまり、日本人は文章を読むだけで外国人より2倍頭を使っていることになる。

 そんな脳の特殊性が影響してマンガ文化を育てたというのが養老の持論だ。日本のマンガではいわば、絵が漢字で、吹き出しの文字がルビにあたる。それを日本人は脳内ですばやく情報処理して読んでいく。日本語の教育をすれば、かなと漢字の2カ所の脳が働き、マンガの読解力も高まるというわけだ(『マンガをもっと読みなさい』晃洋書房)。内田樹もこんなことをブログで書いていた(2008年04月23日で後に『日本辺境論』)。


私たちは日常的には非識字者というものにほとんど出会うことがない。
だが非識字というのはヨーロッパでもアメリカでも重大な社会問題なのである。

非識字者の存在がプロットの鍵になるような物語(ルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』やロバート・B・パーカーの『プレイメイツ』など)に類するものを私は日本の小説のうちに知らない。

数年前に『フィガロ』が非識字率を主題にした特集を組んでいたことがある。
そこには、フランスの12歳児の35%が「速読できない」という統計結果が示されていた。

「速読できない」というのは単語を拾って文章を読み上げることはできるのだが、読み終えたあとに「今読んだところに何が書いてあったのか」と質問されても答えられないということである。

フランスの初等教育カリキュラムに別に構造的な難点があるわけではない。
しかし、つねに一定のパーセンテージで非識字者が発生する。

一方、日本の初等教育については、その欠点をなじる人はいくらもいるが、にもかかわらず日本人には非識字者がほとんどいない「功績」については、言及する人が少ない。

なぜ日本人は識字率が世界でもっとも高いのか。

私は長いことその理由がわからなかったが、先般、養老先生にその理由を教えていただいた。

それは、日本人が文字を読むとき脳内の二カ所を同時に使っているからである。

漢字は表意文字であるので、図像として認識される。ひらがなカタカナは表音文字であるので、音声として認識される。

図像を認識する脳内部位と、音声を認識する脳内部位は「別の場所」である。
だから、アルファベット言語圏では、脳の器質障害の結果の失読症では患者は端的に文字が読めなくなるが、日本人の失読症患者の場合、障害を生じた箇所によって、「漢字は読めないが、かなは読める」「かなは読めないが、漢字は読める」という二つの病態に分岐するのである。

文字を読むときに単一の部位を使うのと、二つの部位を使って並列処理するのでは、作業能率が違う(たぶん)。

だから、日本でマンガが生まれた、というのが養老先生の仮説である。

 日本語は複雑な文字体系をもっているが、実際には脳にあまり負担がかからない。ただ、外国語会話のような場合には負担がかかってしまって、外国語嫌いが増えるのだと考えられる。

 レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』で次のように書いているが、日本には当てはまらなかった。文字を中心とした教育が進んでいたからだ。


 結局のところ、数千年のあいだ、そして今日でさえ世界のかなりの部分で、文字というものは社会における制度として、その社会の圧倒的多数の成員がその取り扱いを知らない制度として存在して来ている。

 井上ひさしは『私家版 日本語文法』の中で次のように書いている。


 ところでかつて魯迅は中国に「挙毒(科挙の試験)、煙毒(阿片の吸煙)、字毒(漢字の使用)の毒がある。とくに字毒をなんとかしないかぎりこの国は救われない」と嘆じ、毛沢東は「漢字は封建制の異物である。世界の文字の大勢に従って表音化をはかれ」と行った。【…】これはむこうに仮名がなく、こっちには仮名があるという彼我のちがいをわきまえない愚挙で、こういう人たちにはつぎのようなことばを気付け水のかわりに進呈しよう。

「漢字はもはや中国からの借りものではな。訓読できるようになった瞬間からわれわれのものになったのである」

 これを言ったのは白川静であるが、ついでにわたしからもひとこと。

「政治家よ、字をいじるな、票でもいじっている」

 中国のトウ小平書記長は昔、「中国人は、日本人に対していくつも悪いことをした。そのうちもっとも悪いことの一つは、漢字を輸出して、こういうつまらんもので日本人民を苦しめたことである」と語ったが、「国字」も含めて、とっくの昔に「自家薬籠中」のものにしていたのである。

 トウ小平は上から目線で語っているが、日本人は西周らの努力で大量の概念を作ってきたのである。唐亜明『さくらの気持ち パンダの苦悩』(岩波書店)には日本製の漢語の例が出ている。これらが中国に逆輸入されていなければ社会主義も共産党もなかったはずだ。

 総理が会談で次のように述べている。「われわれは教科書などの出版物を通して共産主義の精神を宣伝しなければならない。必要な場合は、浪漫主義の現象を否定し、節約の経験を肯定すべきだ。わが国の公務員、乗務員、教授、憲兵、資本家、元帥らは、反動的ではなく、公認された共和国の幹部、公僕、公民であり主人公だ。無産階級は形而上学と主観主義には反対する。われわれは憲法にある自由、民主、人権などの内容を承認しているが、自分の法律観念と政策をもっている。国際組織の協定やわが国の対外関係、および経済の原理と指数にもとづいて、いわゆる制裁に対しては、消極的に反応し、積極的に抵抗しよう。

われわれは具体的な指標を制定し、工業と交通を発展させ、幹線を増やさなければならない。とくに重工業を発展させるべきだろう。わが国の手工業は特長があり、出発点でもある。われわれには条件も動機も目標も綱領もある。民衆を動員し、速度をはやめ、主動的に打って出よう。さらに建築の高潮を迎えようではないか。われわれはさらに現金収入と所得税を増やし、国庫の資本を増やそう。きみたちには日程表をつくってほしい。成功したら、座談会を開いて、広告を出そう。まあ、電報も打って、電話もかけよう。わしの豪邸で国立交響楽団の演奏でも聴いて、天安門広場で踊ろう。手榴弾の演習を行うのではないぞ」


 書家の石川九楊の『二重言語国家・日本』(NHKブックス)のテーゼ「日本語は中国語の植民地語である」というのは必ずしも当たっていない。日本語は漢語も外来語もどん欲に、柔軟に受け入れる余地のある言語である、としかいえないのではないだろうか。

 日本人は中国語を音読み、訓読みを駆使して日本語の取り入れ、更にその漢語を使って外国語を自家薬籠中のものにしてきた。

 内田樹も『日本辺境論』(新潮新書)で次のように書いている。


…東アジアの旧辺境国(韓国やベトナム)は彼らのハイブリッド文字を棄てました。フィリピンは二重言語ですが、知的職業の公用語は英語です。…他の旧植民地国はどこも同じ事情です。…日本だけが例外的に、土着語しか使用できない人間でも大学教授になれ、政治家になれ、官僚になれます。これは世界的にきわめて例外的なことです。

 それは英語やフランス語で論じられることは、ほぼ全部日本語でも論じることができるからです。どうして論じられるかといえば、外来の概念や術語をそのつど「真名」として「正統の地位」に置いてきて、それをコロキアルな土着語のうちに引き取って、圭角を削って、手触りの悪いところに緩衝材を塗り込んで、生活者に届く言葉として、人の肌に直に触れても大丈夫な言葉に「翻訳」する努力を営々と続けてきたからです。

…なぜ中国の人たちは日本人の作った漢訳を読み、自身で訳さなかったのか。

 日本人にとって、欧米語の翻訳とは要するに語の意味を汲んでそれを二字の漢字に置き換えることだった…。外国語を外国語に置き換えただけです。…でも、清朝の中国人にはそれと同じことができなかった。不可能ではなかったでしょうがけれど、つよい心理的抵抗を感じた。これまで中国語になかった概念や術語を新たに語彙に加えるということは、自分たちの手持ちの言語では記述できない意味がこの世界には存在するということを認めることだからです。自分たちの「種族の思想」の不完全性とローカリティを認めることだからです。ですから、中国人たちは外来語の多くをしばしば音訳しました。外来語に音訳を与えるということは、要するに「トランジット」としての滞在しか認めないということです。…

…明治維新の後の日本はそういう考え方はとらなかった。なにしろ外来の語に「真名」の地位を譲り、土着語の方を「仮名」すなわち一時的で、暫定的なものとして扱うという辺境固有の言語観になじんできたわけですから、外来語?ということは「強者の種族の思想」ということです?の応接は手慣れたものです。明治の日本が中国や李氏朝鮮を取り残して、すみやかな近代化を遂げ得た理由はこの日本語の構造のうちに読み取ることができるだろうと私は思います。

…「真名」」と」仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語だけしかいない、「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。孤独な営為ではありますけれど、それが「余人を以ては代え難い」仕事であるなら、日本人はそれをおのれの召命として粛然と引き受けるべきはないかと私は思います。

 しかし、榊原英資『日本人はなぜ国際人になれないのか』(東洋経済新報社)は日本の世界に類を見ない翻訳文化がもたらした功罪である。翻訳文化のマイナス面として、翻訳することによって異文化との直接接触が薄くなるため、本来の意味で異質なものとして外国文化を理解することが出来なくなってしまうことをあげる。そして次のように述べている。


 翻訳大国であることが、今やネックになって日本の外国語インフラが相対的に大変貧しくなっている。翻訳は、西洋文明を急速かつ大きく移入するためには大変プラスだったが、日本企業や日本人が外国に出ていくに際しては大きなマイナスになってしまう。中国文明を吸収した時から積み上げられてきた翻訳文化を一挙に変えることは決して簡単ではないが、これを変えることなく、日本の真のグローバル化は望めない。





 文字は邪魔だという考えがあることも確かだ。河合隼雄は『ケルト巡り』(NHK出版)の中で次のように書いている。意図的に文字を作らないということは言語学的にはありえないのだが…。


…辻井喬・鶴岡真弓両氏が、その対談のなかで興味深い指摘をしている(『ケルトの風に吹かれて』北沢図書出版)。「アイルランド人は意図的に文字を作らなかったのではないか」というのである。

 たとえば、文字で「山」と書くと、私たちは山が何なのかがわかったような気がしないだろうか。しかし、考えてみれば、山の本質など絶対にわかるはずがない。本来、山という存在は人が思いを巡らせ、考えを巡らせても、その全貌はわかるはずがないものなのに、「山に登りました」と記すと、わかったような気になってしまう。

 つまり、ケルトの人たちは、あるもののイメージやそこに内在するものが固定されるのを避けるために、あえて文字を作らなかったのではないか。ケルトのカルチャーは、ある意味では非常に高いレベルに達したが、それゆえに文字を作ることを拒否したという主旨のことを、ふたりはおっしゃっていた。私はそれを読んで深く感じ入り、大きくうなずいた。

 大昔の日本人も、文字を持っていなかった。外国との交流のなかで、他国の文字を自国のものとしていったわけだが、興味深いのは、そのときに「山」や「川」という漢字を持ち帰っただけでなく、それらを「あいうえお」に換え、ひらがなを作り出したことである。かつての中国人は具象的なものをポンと字にしただけだったが、日本人は、そこから「あいうえお」を作り出し、これを混じえて文章を作った。そして、このひらがな文字で書かれた文章による作品が、日本の物語の多くを構成していくことになる。紫式部をはじめとするこの頃の物語作家は、ひらがなで作品をどんどん書いていったのである。





 『アルプスの少女ハイジ』で感動的なことの一つはハイジがフランクフルトでクララのおばあさまから受けた教育だ。一つは宗教教育だが、もう一つは文字教育だった。文字なんか読めっこないと思っていたハイジの抵抗感を消したのはおばあさまの本の、緑の牧場にいる羊飼いの絵だった。その絵のお話を知りたい一心で、ハイジはすぐに読めるようになって、本をごほうびにもらう。しかも、山の戻った時に、ペーターのおばあさんが目を悪くして大好きな本が読めなくなっていたのだが、ハイジがその本を読んであげれることに気づき、朗読を聞いたおばあさんが喜びで涙を流すことになる。山にすぐ帰りたいという祈りが叶えられていたら、おばあさんをそんなに喜ばすことはできなかったとクララのおばあさまに感謝する。このことをアルムじいさんに話し、羊飼いの本のルカ伝「放蕩息子の帰還」というキリスト教の寓話を話してあげる。じいさんも放蕩息子だった自分も神のもとへ帰ろうと決心するのである。

 日本でも似たような話がある。1905年7月7日に北代色(きただい・いろ)という女性が高知県足摺岬の近くの土佐清水市に生まれた。彼女が3歳のときに両親が離婚して、お母さんにひきとられた。7歳のときにお母さんは再婚した。5歳のころから子守と部落産業である草履づくりをさせられていたので学校に行けなかった。そのため色さんは字をまったく知らないまま大人になった。差別ゆえに学習権を奪われ、字を知らずに育った。50歳で「識字学級」で字を覚える学習がはじまったときに参加して、やがて字が書けるようになった。

 字が書けるようになってはじめて書いた文章が次の通りだ。文字を覚えて始めて感動できることもあるのだ(cf.元木健・内山一雄『人権ブックレット37 改訂版 識字運動とは』部落解放研究所)。

わたくしはうちかびんぽうであったのでがっこうへいっておりません。
だからじをぜんぜんしりませんでした。いましきじがっきゅうでべんきょうしてかなはだいたいおぼえました。
いままでおいしゃへいってもうけつけでなまえをかいてもらっていましたがためしにじぶんでかいてためしてみました。
かんごふさんが北代さんとよんでくれたのでたいへんうれしかった。 夕やけを見てもあまりうつくしいと思はなかったけれどじをおぼえてほんとうにうつくしいと思うようになりました。みちをあるいておってもかんばんにきをつけていてならったじを見つけると大へんうれしく思います。
すうじおぼえたのでスーパーやもくよういちへゆくのもたのしみになりました。 またりょかんへ行ってもへやのばんごうをおぼえたのではじもかかなくなりました。これからはがんばってもっともっとべんきょうをしたいです。
10年ながいきをしたいと思います。

48年2月28日北代 色



 西洋では書き言葉(エクリチュール)は話し言葉(パロール)に従属すると考えられている。表音文字であるアルファベットはパロールを、音を分解してしまう。そんな道具に意味をもたせることはない。

 日本は全く逆で文字から入る。「剛」という人がゴウであろうと、タケシであろうと、ツヨシであろうと関係がない。本人すら違って呼ばれても異議を唱えることは少ない。そして、漢字が書けない人はどんなに弁舌巧みであっても教養を疑われる。「目に一丁字(いっていじ)も識らず」(『唐書』張弘靖伝「今天下無事。汝輩挽得両石力弓、不如識一丁字」)というのは一つも字を知らない人から無教養の人をいう〔「丁」は「个(か)」を誤ったものという説と「十文字ほどの字」だという説がある〕。

 落語の「泣き塩(焼き塩とも)」は文盲の女性が実家から送られてきた手紙を誰かに読んでもらいたくて、通行中の浪人者に依頼したのだが…。





 これらの文字が呪術性を持ったことは確かで、様々なお守りの護符や「耳なし芳一」の経文や、歌舞伎十八番「助六」侠客・花川戸の助六の「おれが手を手のひらへ三遍書いてなめろ、一生女郎に振られるということがねえ」という啖呵にいたるまで、まじないとしての機能を文字は持っている。書類がないと何も始まらない日本の官僚社会もこうした呪術性から生まれている。そして、その官僚たちを生むのもペーパーテストだった。

 中島敦の短編「文字禍」は文字を見ているうちに文字が解体してしまうという事件(「ゲシュタルト崩壊」!)に見舞われた古代アッシリアの老博士の話である。博士は王の命令をうけて文字の魂とはいかなるものか、調査にかかる。「文字を覚えてから目が弱くなった」とか「髪が薄くなった」という人もいた。狩人は文字を覚えたとたんに弓が下手になったという。文字を知るまでは本物の獅子を見て獅子を認識できたが、獅子という字を獅子だと思ってしまう人もいる。出来事も文字にかかれたものだけが事実となり、書かれなければないに等しい。文字の霊は人間を滅ぼそうとしているのではないか。博士は単なる線の集まりが音と意味を持つのはなぜかを考え、他でもないそれは「文字の霊」の働きによるものだということを思いつく。博士はそれから文字の霊がもたらす害悪をあげつらい、その崇拝をやめるよう王へ報告するが、文字の霊の思わぬ復讐を受けることになる。粘土板が…。

 仏教も梵字を使って呪術性を持たせているが、文字に呪術性を持たせた宗教は他にもモルモン教がある。モルモン教の創始者ジョセフ・スミス(1805-1844)は、ある日、天使の導きで自宅近くから読解不能な文字が刻まれた黄金の板を発見し、これがイスラエルの残された民がアメリカ大陸に渡ってきて書き残したものであることを教えられる!?書かれた文字は古代エジプトのヒエログリフを変形させたものとされるが、ジョセフはこれを特殊なメガネを使って解読し、この板にかかれた文面こそ本当のキリストの教えであるとして、解読した文書を「モルモン経典(モルモン書)」として1830年に出版した…。

 ちなみに、シャンポリオンによるヒエログリフ解読が1822年だから、スミスはもう少しで最初の解読成功の栄誉を受けるところだった!?




文字たち    『谷川俊太郎《詩》を読む』(澪標)から

 文字たちは種子
 砂漠を越えてやってきた
 海を渡り 空を飛んでやってきた

 文字たちは種子
 意味の重荷を担っている
 星の声 泥の無言を隠している

 文字たちは種子
 故郷を離れて芽吹き
 色とりどりの花 珍しい果実をもたらす

 文字たちは種子
 魂によって移植され育まれ 五〇年
 すでに新たなフローラを形成している

 文字は力を持っている。『シャーロットのおくりもの』で子豚のウィルバーを助けるためにクモのシャーロットがいう。


「『すばらしい』ってことばなら、ザッカーマンさんも感心するでしょう」
「だけど、シャーロット、ぼく、すばらしいブタなんかじゃないよ」と、ウィルバーが口をはさみました。
「実際はどうかなんて、どうでもいいの。人間は、書いてある文字なら、たいていなんでも信じてしまうものなのよ」

 文字は権力である。文盲の人が多かった頃はどんなにか権力を振るえたことだろう。

 ジョージ・オーウェルの『動物農場』でもリテラシーを身につけた豚たちが権力を握っていく。「七戒」では「全ての動物は平等」だったものが、


ALL ANIMALS ARE EQUAL.
BUT SOME ANIMALS ARE MORE EQUAL THAN OTHERS.

 「二本足以外は悪」だったはずが、


Four legs good, two legs bad.
Four legs good, two legs better.

といつの間にか言い換えてしまう。書かれたものは権力になって、誰も抵抗できなくなってしまう。

 もっとも、鈴木孝夫は『アメリカを知るための英語、アメリカから離れるための英語』(文藝春秋)で次のように書いている。


 イギリスを見てごらんなさい。イギリスというのは、なぜ機械を産業革命であれほど必死で発明したかというと、その前の奴隷制、つまり、ヨーロッパというのは古くから働くのは下層民か奴隷なのです。奴隷がいないときには農民なのです。帝政ロシアの農奴を考えればわかりますね。農民がダメなら機械、機械がダメなら植民地の人間なのです。つまり、上の人は自分から働くものではないのです、紳士は。韓国もそうです。朝鮮の両班(ヤンパン)という上の階層は、働くどころか地面を靴で歩くことさえも下人のすることだといって、自分の館に当時の一輪車を横づけさせて、縁側から乗ったのです。地面を歩くのは下人なのです。土と接してはダメなのです。

 ところが日本人は、天皇陛下まで長靴をはかれて稲を植えられたりするわけですよ。全く違うのです。中国の皇帝は長く愚はいて、「あ、そう」なんて言って稲植えていてはダメなんです。反対に酒池肉林で美女をはべらせ(北朝鮮の金主席を見てください)、自分はそっくりかえって、ものども、文句あるならかかってこいという、むき出しの誇示を常にしていなければ馬鹿にされてしまう。その山賊の親玉みたいなのがみんな王様や皇帝になるわけです。だから、昔のイギリス王というのは、大体字が書けなかった。学問や文学なんかに縁がないのが、ほとんどの王様でした。





 日本が文字の文化であることは日本語の音節が五十音あまりなのに漢字や仮名などの文字が2000以上、英語は音節が1000以上もあるのにアルファベットという文字は26しかないことから理解できるだろう。

 ちなみに、アルファベットといってもローマ字の最初の頃は小文字や筆記体がなく、カエサルの頃にもまだYとZがなく、21文字だった(アウグストゥス帝の時にギリシャ語の借用語を表すために加えられて23文字となった)。ギリシャにはユプシロンΥがあったが、Yをフランス語で「i grecイ・グレック」、イタリア語で「i grecaイ・グレカ」というのは「ギリシャ語のI」という意味だ。「W」は「ダブルU」か「ダブルV」で作った。

 中世まで「J」と「I」、「U」と「V」の区別がなかったのだが、ブランドの「BVLGARI(ブルガリ)」はわざと当時の表記法に従っている。外国のギフトショップでわざとGyfte Shoppeと書いてあるのもあるが、同じ効果を表す。日本でも「一番街」ではなく「壱番街」などとするのも歴史と伝統をかもしだすためである。

 日本語が文字に依存している、もう一つの例がソバ屋の看板である。あの奇妙な看板は「蕎麦屋」ではなく「楚者屋」という字の崩し字が書いてあるのだ。上は「きそば」と書いてあるが、「楚」は「そ」、「者」は 助詞「は」の変体仮名に濁点である。何という字が書いてあるか誰も気にしないで食べに行っている。

 映画館などのチケット売り場で「大人」「小人」と書いてあっても、何て読むか気にしないし、扉の「押」「引」とか、エレベーターの「開」「閉」というのも読まないで、記号になっている。マークを使って、文字になっていないエレベーターは僕にはとっても使いにくい。

 人名やさまざまなタイトルなども読めなくても字面で判別している。小津安二郎に『宗方姉妹』という、高峰秀子、田中絹代が出た映画があるが、これがちゃんと読めたら、立派な小津ファンだ(答え)。
9:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/14 (Tue) 07:28:33

人名やさまざまなタイトルなども読めなくても字面で判別している。小津安二郎に『宗方姉妹』という、高峰秀子、田中絹代が出た映画があるが、これがちゃんと読めたら、立派な小津ファンだ(答え)。

 また、日本人は文字そのものに大きな興味を持っている。書道という芸術の「道」がある。外国のカリグラフィーはカードや封書などにきれいに書くだけの技術だが、書道は芸術だ。

 文字がきれいな人は人間性まできれいだと思われがちで、字が汚い僕らは人格まで疑われる。実際、字のきれいな人の手紙を見るのは実に気持ちのいいものだ。間違った字の多い手紙はその場で破り捨てたくなる。ただ、吉田兼好法師は名筆だったことが知られているが、「手のわろき人の、はばからず文書き散らすはよし」と『徒然草』に述べている。下手でも遠慮せず、大いに手紙を書けば結構、と心やさしい。

 でも、作家は石原慎太郎のように字が汚い方が出世する。

 書道は漢字文化圏だけのものだと思っていたが、違っていた。鹿島茂『フランス歳時記』(中公新書)によれば、アレクサンドル・デュマ・ペールは能書で有名だったという。デュマは何をやらせてもダメだが、字がうまい。神父が褒めるとお母さんは天を仰いだという。フランスでも字のうまい男は出世しないという言い伝えがあるからだという。


 ところが、運命とは不思議なもので、この字のうまさがデュマを何度か助けることになる。

 最初は、デュマがパリに出て父の知り合いのフォワ将軍に職を紹介してもらいに行ったときのこと。勉強嫌いだったデュマは□はもちろん、得意な科目もない。そこで困った将軍はとりあえず住所だけでも書いて置くようにと命じた。デュマが住所を渡すと、将軍は叫んだ。「救われたぞ。君は字で食べていける」。デュマはのちにフランス国王となるルイ=フィリップの書記として採用されたのである。

 協力者のマケから『三銃士』は自分が書いたと訴えられたときにも能書が役に立った。裁判長は原稿を調べて、デュマの加筆がなければ作品は成立しなかったと判定を下した。能書ゆえに、デュマの筆跡が容易に鑑定できて、加筆の程度がわかったのである。





 メディア研究家というのか山根一眞の『変体少女文字の研究』はその意味で大変面白かった。当時の「かっわいい」としか言えなかった少女たちの時代を活写していた。

 ところが、97年に起きた神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件では赤と黒を使って直線的な(定規を使っているともいわれた)字体で書いていた。全体が角張っていて、濁点も下の方に意識的に持っていく。フェイスマーク状の文字や意味深なイラストも使われる。もちろん、筆跡を隠すために意識的に強調した部分があるのだろうが、丸文字になれていた世代には衝撃だった。丸文字に挑戦しているかのような字体であった。

 考えてみると学生の中にも三角を多用したような文字を見ることがある。「イラ文字」と呼ばれているそうだ。つまり、文面がイライラしているから、らしい(「イラスト系ヘコミ文字」でイラストみたい、という説もあるが信じがたい)。

 何でも「かっわいい」としか言えなかった時代に対して、どんな時代を迎えているのだろうか、不安に思った。





 蔡倫が紙を発明したおかげで漢字文明圏がより強固なものとなった。中国の『後漢書』に「古自(よ)り書契(しよけい)は多く編むに竹簡を以てし…」(岩波書店・吉川忠夫訓注)とある。書契は、文字の記録のことで竹簡や絹布を使っていたが、簡は重く、絹は高い。それで、蔡倫という人が工夫し、樹皮や麻くず、ぼろ布、漁網を用いて紙をつくったという。帝に奏上した年は、西暦の105年にあたる(『紙の文化事典』朝倉書店は、最近の学説で前3世紀ごろが紙の誕生の時期とされるとし、蔡倫がそれまでの製紙技術を集大成したとしている)。新古今和歌集(1021)に藤原伊尹の「水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふ比(ころ)かな」という一首が出てくる。水の上に浮かぶ鳥の足跡が見えないように、便りをくれないから不安な心になるこのごろですと嘆いた歌だが、この場合、「鳥の跡」とは文字や筆跡を意味する。これは鳥の足跡を見て文字を創作したという中国の故事に由来する。転じて下手な筆跡を指す場合もある。

 13世紀に元を旅行し、『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロはそこで紙幣が流通しているのを見て皇帝フビライ・ハーンを「錬金術師」と評した。ヨーロッパにまだ紙幣はなく、人工的に金をつくろうとする錬金術が盛んだったからだ。中国4大発明のうちの紙と活版印刷の2つを使って作られた紙幣は、ポーロの目には魔法に見えたようだが、その裏に皇帝の強力な権威があるのも見抜いた。ニセ札作りは斬殺刑に処すと印刷してあったからだ。

 こうして中国を中心とする漢字文化圏では科挙をはじめ、ペーパーテストが横行した。一方、紙がなかった西洋では口頭試問が一般的に長く続いた。ブリュノ・ブラセルの『紙の歴史』(創元社)によれば、紙の大量生産が私信の習慣を広めた。例えばドイツ人が1年に出す手紙は、19世紀半ばの1通強から世紀末には58通になったという。文化が変わったのはほんの少し前だったのである。

 プラトンも『パイドロス』(岩波文庫275A、B)でソクラテスの口を借りて、文字を批判した。「記憶と知恵の秘訣」を発見し、文字を広めましょうという進言する文字の発明の神テウトに対して王様の神タモスは次のように言う。


 たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力を持った人と、生み出された技術がそれを使う人にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判断する力をもった人とは別の者なのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされて、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人達の魂の中には、忘れっぽい性質が植え付けられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らは、親しく教えを受けなくとも物知りになるため、多くの場合、本当は何も知らないでいながら、見かけだけは非常な博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるという自惚れだけが発達するため、付き合いにくい人間になるだろう。

 そして、「書かれた言葉とは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉の影に過ぎないのか」と問うパイドロスにソクラテスは「そのとおり」と答える。プラトンはまた「ソクラテスがこう言っていた」といって「事実、長大な叙事詩を憶えた吟唱者に文字の知識を与えたとたん、すべての記憶が失せてしまったという例が世界の各地から報告されている」という言葉を引用している。とはいえ、このプラトンの言葉自体、文字でパピルスに書き留められていなかったら、後世の人々は知ることもできなかったのでないだろうか。

 レヴィ=ストロースの弟子で西アフリカ・ブルキナファソのモシ族を9年間もフィールドした川田順造は無文字社会の豊かな“音”の文化を研究してきた。モシ族は太鼓の音の高低で複雑な言葉を語る(talking drumという)。川田は、彼らは決して遅れた文化ではなく、文化の別の形なのだという。そしてむしろ、印刷技術やインターネットで文字に支配された我々の方こそ、彼らに学ぶべきだと説く。我々は文字を得て失った声の復権が必要だと訴えている。

 藤縄謙三『ホメロスの世界』(新潮選書)には次のように書いてあった。文字によって人間は身体性を失ってしまったのである。


 言葉の音声には強弱や遅速や色調があり、きわめて多彩な表現性を持っている。文字というものは、これらの微妙な要素を捨て去って、無味乾燥な骨だけにしたものである。文学とは文字で書かれたものだと考えるようになって以後、人間は言霊への感覚をむしろ大きく害されてしまったのである。

 口頭試問を重んじる西洋と筆記を重んじる漢字文化圏では大きな違いが生まれてきた。ハーバード大学のロースクールを描いた映画に『ペーパーチェイス』というのがあるが、法科学生は教授にいつも厳しい質問を受けて学んでいく。その仕上げにペーパーテストが行われるのだ。英語の「オーディション」auditionというのも「聴く」が語源となっているし、演劇も観るものではなく聴くものであった(「観客」audienceも「聴く」から)。日本人のものの考え方は視覚的だということである。

 米原万里は「通訳ソーウツ日記」の最終回で次のように書いている【名文で省略しきれなかった】。

脳が羅列モードの理由

 前回、この頁で「○ラモードの言語中枢」と題した文章を書いた。日本人が欧米人に較べて、情報を非論理的に羅列する傾向が強いこと。同時通訳をしていると、スピーカーの脳のモード差がモロに体感できること。それは、学校教育において、欧米では口頭試問と論文という能動的な知識の試し方を多用するのに対して、日本では○ラ式と選択式という受け身の知識の試し方が圧倒的に多いせいではないか、という愚見を披露した。単なる教育法の違いに原因を見ていたのだが、その背景にまで思い及ばずにいた。ところが、比較文学者の平川祐弘が、「せれね」という新聞に掲載されたエッセイに面白いことを書いている。
 日本人を含めてなべて東洋人が口下手なのは、「昔から科挙などで筆記試験に慣れてきたせいだろう。それに反し、西欧人は口頭試問で鍛えられてきた」と、ここまではわたしと同じ論旨なのだが、平川は、「それは紙が少なかったから」という。西洋では紙が非常な貴重品で、「第二次大戦中の米国兵は一日一回四片の割り当て」「18世紀に来日した西洋人は日本人が和紙で鼻をかんで捨てるという贅沢に一驚している」。「ケンブリッジ大学で筆記試験が始まったのは、数学は1747年、古典は1821年、法律と歴史は日本歴の明治5年にあたる1872年とたいへん遅い」と。
 日本人や中国人など漢字圏人間の脳の情報入力が視力経由に依存している割合が高く、西欧人の脳は聴力経由の依存度が高いという事は以前から指摘されている。西欧のアルファベットそのものが、音声を文字化したもので、文字そのものが聴力モードなのだ。文字は、音として発せられた瞬間に記憶に留めない限り消え失せてしまう言葉を固定化させる具として生まれた。要するに、記憶の負担を軽減するために発明されたとして過言でないだろう。実際に長大な叙事詩を記憶していた世界各地の吟遊詩人たちが、文字が発明された途端に大量の知識を失ってしまったと、ソクラテスやプラトンは嘆いている。わが国でも「平家物語」の全テキストを暗唱していた琵琶法師たちは文字の恩恵を受けることが不可能な盲人だった。
 先ほど同時通訳をしていると、スピーカーの脳のモード差がモロに体感できると述べたが、それは切実極まる問題だからだ。通訳者は、スピーカーの発言を訳し終えるまではそれを記憶していなければならない。ところが、論理的な文章はかなり嵩張ったとしてもスルスルと容易に覚えられるのに、羅列的な文章には記憶力が拒絶反応を起こすのだ。要するに、論理性は、記憶の負担を軽減する役割を果たしているわけで、文字依存度が高い日本人に較べて、それが低い西欧人の言語中枢の方が論理的にならざるを得ないのではないのだろうか。
 何かを得ることは、何かを失うことなのである。わたしたちは、文字に記憶の負担を転嫁することで、記憶のための貴重な具をいくつか失ったことになる。
 コンピュータ化が進むとともに記憶力のみならず計算力とか情報整理力とか、いくつもの脳の雑用と思われている作業を電脳に負わせるようになった。肉体労働だけでなく精神労働の負担からも人間を解放し、持てる力をなるべく創造的な仕事に振り向けようというのだろう。しかし、創造力とは何だろう。記憶力や情報整理力など脳の基礎体力の上に成り立つもののような気がしてならないのだ。わたしたちは、キャベツの葉を剥くように、今後も脳の持てる力をどんどん削ぎ落としていくのだろうか。

 イギリス議会の伝統に学んだのだろうが、日本の国会では文章の棒読みは1890年の国会開設以来禁止されている。「会議においては、朗読することはできない」と衆参両院規則にあるのだ。草稿なしに演説するためには、論点をしっかり頭に叩きこんでおかなければならないから、言葉の重みが違ってくる(若宮啓文『忘れられない国会論戦』中公新書)。福沢諭吉はスピーチを「演説」に換え、ディベートを「討論」と訳した。『学問のすゝめ』では「演説」を「大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思うところを人に伝うるの法なり」といい、「第一に説を述ぶるの法あらざれば、議院もその用をなさざるべし」と解説している。でも実際は?





 日本語は難しくはないが、文字言語までいれると途端、難しくなる。人の名前をいうときも、「あの人の名前は読めないけれどこう書く(「こう言う」とはならない)」といって音を離れた漢字で人を識別する。難しい漢字を書けるだけで尊敬されたりもする。歌人の塚本邦雄は「薔薇(ばら)」と漢字で書いて罰せられるならば、罰金を払ってでも書く、と語った。グロータース神父も講演する時には「薔薇」とか「憂鬱」とか書いてみせるという。

 河野六郎先生は「漢字の場合、言葉は文字の背後に隠されてしまうことも稀ではない」(「文字の本質」)と指摘されている。経験や実験より文字で書かれたものをありがたがるのも同じ理由からであろう(幸か不幸か本校の学生には本を読みすぎる人はいないが、本ばかり読んで実践しない人は結構多いものだ)し、こうした視覚性が日本人の外国語学習の弱点になっているのだろう(とはいえ証明は難しい、というのは同じ漢字文化圏の中国人や韓国人の英語のうまさは説明できない)。

 たとえばアルファベットの文字から入っていく(筆順まで気にする人がいる)し、スペリングにやたらこだわる。「読み書き」中心であって「話し聞き」ではない。それに日本人の完ぺき主義が加わるから余計にっちもさっちもいかなくなっているのだろう。





 音声言語に対して文字言語は二次的なものなのだが、日本では文字言語が優先される。前者を優先するのを「音声中心主義」(phonocentricism)、後者を優先するのを「ロゴス中心主義」(logocentricism)というが、もともと一次的だった音声が文字におされている。つまり、一次性と二次性が逆転している。これをジャック・デリダはプラトン以来の西洋形而上学は「ロゴス中心主義」に陥っているといった。

 プラトンの『パイドロス』の中で、ソクラテスは「ロゴス(=パロール)こそが真の言葉であり、「正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で掻きこまれる言葉」であるのにたいして、「書かれた言葉(=エクリチュール)の中には、その主題が何であるにせよ、たぶんに慰みの要素が含まれて」おり、「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人びとには黙っているということができない」と語る。語られる言葉(パロール)こそが「正嫡の息子」であり、「自分で自分の力によって内から思い出す」記憶の秘訣[毒=薬]であるのに対し、書かれる言葉(エクリチュール)は、いわば父親のいない私生児であって、「自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出す」ための「想起の秘訣」にすぎないとされる。

 旧約聖書でも『出エジプト記』24章には次のようにある。「神はことばを使って、人間と契約する」のである。


そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます」。
それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。
モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。
そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います」。
そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である」。
それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。
そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。
神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。
主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書き記した教えと命令の石の板をあなたに授けよう」。

 さて、デリダがこんなことをいわなくても日本では「ロゴス中心主義」がごく自然のことだったのである。

 【初出『富山商船高専図書館だより』1988年】

「むねかたきょうだい」というのが正しい。知らなかったでしょ。僕も知らなかったから…。


 俳優トム・クルーズは小学生の時から読書障害に苦しんできたが、サイエントロジー教会の創設者L.ロン・ハバードが開発した学習技術で読書障害を克服できたことを米誌に語った。クルーズは今、ハバードの学習技術を使う非営利の個人指導教師プログラムの創設委員を務めており、同じ学習障害を背負う子供たちを救おうとしている。


「私は7歳の時、読書障害児と呼ばれました。読書に集中しながらページの最後まで読み終わっても、何を読んだのかほとんど記憶がない。(一時的に)記憶を失い、不安を感じ、落ちつかず、退屈して、いらいらし、愚かに感じる。怒り出したりもする。勉強している時、両脚が実際に痛くなる。頭も痛くなる。学生時代から俳優になるまでずっと私は秘密を持っているように感じました」

「新しい学校に行く時、他の子供に私の読書障害のことを知られたくありませんでした。でも、読書力補強のクラスに行かされました」 (クルーズ)

「学習障害で一番多いのは読書障害で、5人の子供のうち1人が 読書障害を持っている」と専門家がいう。

 学習障害は知的発達の遅れがないのに、学齢期にいたっても読み、書き、計算、運動などのうちどれかの能力に障害があるものをいう。

 「Overcoming Dyslexia」(直訳で「読書障害の克服」)の著者でエール大学医学部小児科のサリー・シェイウィッツ教授によると、学習障害の中で一番多いのは読書障害(dyslexia)で、5人の子供のうち一人がこの読書障害を持っているという。

 読書障害は言葉が理解できないという意味ではなく、書かれている言葉を話し言葉の音声にして読めないことに問題がある。

 母親は「絶対にあきらめないで」と言い続け、勉強を助けてくれた


 「母は私に『あなたにはとても大きな可能性がある。絶対にあきらめないで』と言い続けました。彼女は仕事を3つ持って、私と妹の面倒を見てくれましたが、私の勉強のためにも時間を割いてくれました。私が学校の宿題を書かなくてはいけない時は、まず最初に、母にそれを口述して書き取らせ、私はそれを非常に慎重に書き写しました」

 「私は1980年に高校を卒業しましたが、卒業式にも出席しませんでした。私は学ぶことが大好きでした。学びたかったけど、今の教育制度の中で失敗したことを知っていました」

 クルーズは1986年、「トップガン」の公開後、L.ロン・ハバードの学習障害克服の学習技術を発見し、サイエントロジー教会のメンバーになった

 クルーズは1986年、「トップガン」が公開されてからサイエントロジー教会のメンバーになった。彼はハバードが1960年代に開発した3つの学習障害を克服する「Study Technology」(学習技術)を発見した。クルーズはこの技術を使って読書障害を克服することができたという。

 「私は読書障害のすべての症状があると言われてきたが、誰も解決法を与えてくれなかった。私は自分が学びたいものは何でも学べることを悟りました」(クルーズ)

 そしてクルーズはハバードの学習技術を使って子供たちに個人指導する非営利プログラムHollywood Education and Literacy Projectの創設委員を務めている。

 「私はみんなに自分が体験したことと同じ体験をして欲しくない。私は、子供たちが読み書きの能力を持ち、人々が何を言っているのかを理解し、人生の問題を解決できるようにして欲しい」(クルーズ) …

(07/16/03、ロサンゼルス=ZAKZAK特電)


 韓国ドラマ『星を射る』では俳優を目指すのだが、難読症のインソン君扮する青年が、ドヨン姉さんの手助けで文字の学習をしながら並外れた記憶力を武器に映画界で頭角を表し やがてはカミングアウトし周囲の理解を得るという設定になっている。ハングルも同じように表音文字なのである。

 2004年9月に脳卒中などで文字が読めなくなる「失読症」は、アルファベットを使う西洋人と漢字を使う中国人や日本人では、脳の損傷部位が違うことが、香港大の研究で分かった。

 文化に合わせた治療法の必要性を示した結果で、2日付の英科学誌ネイチャーに発表される。

 欧米を中心としたこれまでの研究では、失読症の人は、文字のつづりを音の固まりに分ける過程に障害があり、左脳の「頭頂葉」や「側頭葉」などでの神経活動の低さが原因と考えられてきた。しかし、香港大のリ・ハイ・タン助教授らが、先天的に失読症である中国人の子ども8人の脳を、磁気共鳴画像装置を使って調べたところ、左脳の「中前頭回」という西洋人とは別の部位の活動性が低いなど、これまでの実験結果とは大きく異なることが分かった。文字自体は意味を持たない表音文字のアルファベットを使う言語と、表意文字の漢字では、脳での読み方の仕組みが異なるらしい。研究チームは「理という漢字のなかに読み方を表す里が入っているなど、漢字の読み書きの仕組みは英語などとは大きく違う。文化に即した治療法の開発などにつながるのではないか」としている。

※冒頭の「科研交付」は北岡明佳が考案したものである。ポップル錯視(文字列傾斜錯視)というのは平行に並べた図形の模様を均等に上下にずらすと、図形が傾いて見える錯視。ツェルナー錯視のように並べると顕著になる。なおパソコンの活字体でもこの傾向が見られ、「杏マナー」とパソコンで入力すると文字が右下がりになっていることが2ちゃんねるで採り上げられ後に『トリビアの泉』で採用、北岡明佳がポップル錯視との関連を指摘(但し、学術的に検証を行ったわけではない)したことで知られるようになった。この錯視は単なるインターネットメディアの話題にとどまらず国内錯視研究の第一人者でもある北岡のホームページでも「読み人知らず」として採り上げられているほか、新井仁之がこの錯視を『文字列傾斜錯視』と定義して論文を発表している。また、「アロマ企画」「コニア画」「科研交付」などと入力してもこの錯視が発生する。
http://archive.fo/mYoy#selection-25.0-2033.25
10:777 :

2023/09/05 (Tue) 13:45:18

故郷を忘れた日本人へ (前編) 現代の若者が人生に“無気力“なワケ [2023 8 28放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ
https://www.youtube.com/watch?v=0scQLd2rguU&t=29s

[2023.9.4放送]「故郷を忘れた日本人へ」Part2、行きすぎた英語教育は国力を下げる(藤井聡/KBS京都ラジオ)
https://www.youtube.com/watch?v=D6WhJH79yZA


▼動画で紹介した、仁平千香子氏の著書 「故郷を忘れた日本人へ」の詳細はコチラ
https://www.amazon.co.jp/dp/4899920814/
11:777 :

2023/10/15 (Sun) 09:07:50

内田樹の研究室
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「歴史戦」という欺瞞 「関東大震災と朝鮮人虐殺、南京大虐殺」- 内田樹の研究室
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12:777 :

2024/02/18 (Sun) 14:41:24

吉村府知事や岸田総理は 「英語化」で 多民族共生を強制
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外国語学習について - 内田樹の研究室
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「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想
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日本人の3人に1人は日本語が読めない
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日本語は難し過ぎる
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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html

日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html

室伏謙一 岸田政権が今更移民政策推進
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外国人600万人時代、建設労働者、観光客から IT人材まで
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グローバリズムとは思想やイデオロギーではなく、 単に労働者の賃金を下げるコスト削減の事
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多文化共生とはイスラム移民がレイプしまくるのを放任する事
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【河添恵子】酷すぎる...中国人の民度とモラルの低さには驚きました
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対外戦争で勝った事が一度も無い中国とロシアはこういう手口で領土を乗っ取る
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クルド人問題の裏にテロ組織、 麻薬密輸、人身売買!? 日本がスウェーデン化
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【ch桜北海道】移民、難民!欧州の例から考える。日本ではクルド人問題が![R5/7/18]
https://www.youtube.com/watch?v=HOnOWDfXXjM

川口市ではクルド人が病院を占拠したり、集団で女性を追い回したりしている
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特番『外国人との「共生」は困難-クルド人問題で混乱する埼玉の実情ー』ゲスト:経済・環境ジャーナリスト  石井孝明氏
2024/02/06
https://www.youtube.com/watch?v=dAJSsgPB4SA

移民が引き起こしたケルン事件とロザラム事件 欧州で起きた現実
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人口の4割が移民になったスウェーデンのパラレルワールド
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移民による犯罪多発 _ 検問を突破した移民少年への発砲をめぐるパリ暴動
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日本のアジア化は着々と進行している
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エリート洗脳システムとしての留学制度
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日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
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日本の研究力の低下 - 内田樹の研究室
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内田樹 _ 「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因
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大学でいま、起きていること
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日本の学校教育は「我が国とは全てが違う…」
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甘過ぎる日本の帰化制度
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「『移民』で日本もこうなる(前編-1)」宇山卓栄 AJER2023.10.27(1)
https://www.youtube.com/watch?v=qGpJvPeZRLg&t=318s

「『移民』で日本もこうなる(後編-1)」宇山卓栄 AJER2023.11.3(3)
https://www.youtube.com/watch?v=5kzGnH1F3_Y
13:777 :

2024/03/02 (Sat) 14:36:24

内田樹の研究室
文字の書けない子どもたち
2024-02-27
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html

 高校の国語の先生から衝撃的な話を聴いた。生徒たちが文字を書けなくなっているというのである。教科書をただノートに筆写するだけの宿題を毎回課すが、やってくるのは半数以下。授業中に書いた板書をノートに写すようにという指示にも生徒たちは従わない。初めはただ「怠けているのか」と思っていたが、ある時期からどうもそうではないらしいことに気がついた。
『鼻』の作者名を問うテストに「ニコライ・ゴーゴリ」と答えを書いた生徒がいた。ゴーゴリもその名の短編を書いているが、教科書で読んだのは芥川龍之介である。どうしてわざわざゴーゴリと書いたのか生徒に訊ねたら「漢字を書くのが面倒だったから」と答えたそうである。 
 生徒たちの提出物の文字が判読不能のものが増えて来たという話は大学の教員たちからも聴く。学籍番号までは読めるが、名前が読むのが困難で、コメントの文字に至ってはまったく解読不能のものが少なくないという。何を書いたのか学生自身に訊いてみたら、自分でも読めないと答えたそうである。
 一体何が起きているのか。どうやら文字を書くという動作そのものに身体的な苦痛を感じる子どもが増えているらしい。
 文字を書くというのはかなり精密で繊細な身体運用を要求する。筆で書くなら、ひとさし指と中指をかけて親指で筆を抑え、肘を上げて穂先をまっすぐ立てる。これを「懸腕直筆」という。昔お習字の時にそう教わったはずである。この姿勢をとると体軸が通る。
 武道家として言わせてもらえば、体軸が通っていないと手足の自由は得られない。文字を書くためには、まず身体の構造が整っていないと始まらない。当たり前の話なのだが、どうも当今の子どもたちはその身体の構造そのものが崩れ始めているように思われる。
長い話になりそうなので、続きはまた次週。
 
 先週の続き。「文字の書けない子どもたち」がどうして生まれて来たのかについて武道的立場から考察したいと思う。
 筆で字を書く時にかなり精密な身体運用が求められる。能筆の人は横に一本線を引く時も、勢い、太さ、濃淡を細かく変化させながら筆を運ぶことができる。
 最後の首切り役人だった八世山田朝衛門は斬首の一閃の間に涅槃経を唱えたと後年述懐している。右手の人差し指を下ろす時に「諸行無常」、中指を下ろす時に「是生滅法」、薬指を下ろす時に「生滅滅已」、小指を下ろす時に「寂滅為楽」。そこで首がぽとりと落ちるのだそうである。一瞬の動作を四句十六文字に分節していることになる。斬ることの本質が力ではなく、動作の精密さと多分割にあることがよくわかる逸話である。
 精度の高い身体運用をなしうることは生きる上での 必須の能力である。それができなければ、包丁で葱を刻むこともできないし、針の穴に糸を通すこともできないし、文字も書けない。しかし、どうやらその基礎的な「生きる能力」が今の子どもたちは衰えているらしい。
 文字なんか書けなくても、キーボード叩けば済む。葱だって刻んだものを売っているし、靴下の穴なんかけちくさく繕わずに買い替えればいい。そうかも知れない。でも、身体の構造が崩れて、細密動作ができないという子どもたちを制度的に創り出しているかもしれないという危機感を大人たちは持った方がいい。
 文字を書くというのは、罫に沿って、あるいはます目に合わせて、複雑な図形をかたちよく配列することである。字間調整も必要である。おそらく古人は子どもたちが書字によって身体の精密な運用を学び、生きる力を高めるということを知っていたのだろう。だから、子どもたちに「黙って臨書しろ」と命じたのだと思う。今さら習字を必修にすることはできない。
 では、どうしたらいいのか。私にもわからない。
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html
14:777 :

2024/03/31 (Sun) 18:15:51

2024年03月31日
英語の先生は白人の方がいい / 混迷する英語教育 (前編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956517.html

ネイティヴの先生が欲しい

teacher 44Filipino teacher 442
(左 : 「理想的な英語教師」と思われるアメリカ人女性 / 右 : 「現実的な英語教師」となるフィリピン人女性 )

  近い将来、日本は「アジア圏に埋没した東洋のブラジル」になる。というのも、“グローバリゼイション”が日本の潮流となり、アジア人が大量に住み着く多民族国家になるからだ。歴代の自民党政権、とりわけ岸田内閣は移民の輸入に熱心で、外国人労働者を“育成”するという名目で家族連れの移民を増やす政策に舵を切った。

  実に恐ろしい方向転換だが、政府は輸入目標を82万人くらいに設定し、介護や食料製造業のみならず、自動車産業や運輸業界、バスや鉄道などの分野でも外国人労働者を増やすつもりらしい。(「特定技能の外国人、5年で82万人に拡大 政府が閣議決定」日本経済新聞、2024年3月29日) 日本政府は国境の壁を低くして安価な労働力を獲得する一方で、日本人にも“アジア化”の努力を要求している。

  日本に入ってくるアジア人やアフリカ人は、日本語研修でコミュニケーションが取れるよう訓練されるそうだが、日本人の方も「英語」で外人と意思疎通が出来るよう訓練されるという。実際、英語教育は小学校から始まり、三年生と四年生は英語に親しむ「外国語活動」を受講し、週1コマ、年間35時間ほどの“調教”を受けるそうだ。五年生や六年生になると英語の授業は「教科」となり、週2コマ、年間70時間くらいの授業になるという。

  こうした英語教育は中学校になると更に強化され、教室には直接あるいは間接的に外国人の「ALT(Assistant Language Teacher / 外国語補助教員)」が現れる。形式的には、生徒に“本場の発音”とやらを伝授する方策というが、実際は“お遊び”の一環だ。たぶん、日本人の教師だと英語の発音が下手糞だから、ネイティヴ・スピーカーを雇って“臨場感”を体験させるつもりなんだろうが、そんな授業で“英会話力”がつくことはない。もし、英国のコメディー番組を子供達に見せたら、「先生、何を話しているのかサッパリ解らない!」という反応だけが返ってくるはずだ。

  文部省の役人は対面教育を企画したが、実際にイギリス人やアメリカ人、つまり西歐系の白人を雇うとなれば費用が嵩むから、現実的な対策としてフィリピン人やインド人、あるいは香港の****人を雇うことにしたのだろう。こうしたアジア人を雇えば、多少なりとも経費の節約になるからだ。

  そもそも、歐洲や北米から白人教師を招こうとする発想じたいが間違っている。文部省の役人は「JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)」を拵えて、ネイティヴ・スピーカーを招こうと考えたが、日本の学校で英語を教えたいと望む白人青年は、いったい何人いるのか? キリスト教のプロテスタント宣教師なら「日本行き」に手を挙げるかも知れないが、普通の白人青年だと難しいぞ。

  政府は年間で約280万円から396万円を払い、渡航費用や住宅手当、健康保険料などを負担するというが、そんな条件で適切な人材が集まるとは思えない。(総計で1人当たり約600万円の費用となるらしい。) 確かに、効果的な宣伝を繰り返せば、ある程度の人数を確保できようが、“まとも”な西歐人は応募しないだろう。実際、教員の確保に困った学校は、民間の派遣業者に頼っている。

  歐米諸国と同じく、日本の役所も人種問題には敏感で、全国の小中学校に補助教員を派遣しても、実際にどんな人物なのか、つまり「国籍」ではなく「民族・血統」での分類、経歴や能力のレベル、生徒による正直な評価を公表することはない。補助教員の大半はアメリカやカナダからの教師らしいが、それだって黒人なのかヒスパニックなのかも判らないし、ひょっとしたら「カナダ国籍の****人」という場合だって有り得る。民間業者に頼っても西歐人の教師を獲得できない学校は、在日フィリピン人を雇うか、フィリピンからのオンライン授業で誤魔化すしかない。つまり、“安上がりの外人”で困難を克服しようとする訳だ。

  ところが、フィリピン人の「ALT」じゃ不満というか、「そんな先生じゃイヤだ!」という拒絶反応が、生徒や保護者から出てくる。最近、大阪府の堺市でちょっとした騒動が起きた。3月13日に行われた市議会特別委員会の席で、水ノ上成彰・市議が「フィリピン人に英会話を教わるなら、日本人の教師に教わればいいのではないか」と述べたらしい。彼は現在の英会話授業に疑問があるらしく、日本の子供達は「かつてアメリカの植民地だったフィリピン人に英語を教わっている。これは決して愉快な話ではない」と発言したそうだ。(「市立中でフィリピン人が英会話講師『愉快な話ではない』『日本人に教われば』…市議発言に厳重注意」読売新聞、2024 年3月26日)

  現地の市民グループは直ちに水ノ上市議の発言を「ヘイトスピーチ」と非難したが、一般国民の中には彼の意見に共鳴する人も居るんじゃないか? 批判を受けた水ノ上市議は新聞記者の取材に対し、「フィリピン人の方を下に見るつもりではなく、日本人がもっと頑張れというつもりだった。委員会での発言を全部聞けば分かってもらえる。撤回するつもりはない」と話していた。

  主流メディアの論説員や御用学者は、水ノ上氏の発言を捉えて「差別だ! 人種偏見だ!」と糾弾するが、それなら訊くけど、新聞社の重役や大株主、広告企業の経営者は、自分の子供達を普通の公立学校に通わせ、フィリピン人の教師に預けているのか? 例えば、テレビや新聞に広告を出すトヨタ自動車とか三菱UFJ、住友商事、三井物産、NTT、ソニーといった有名企業の重役は、自分の息子や娘に“エリート教育”を授けるが、庶民の子供が集う公立学校に通わせ、フィリピン訛りの英語を学ばせることはない。

  具体的に言うと失礼になるけど、港区のタワーマンションに住む高学歴の“リベラル・ママ”は、足立区や荒川区の公立学校を選択しないだろう。慶應義塾の幼稚舎、暁星幼稚園、成城幼稚園などで“英才教育”を受ける箱入り娘は、西歐白人の教師から“ちゃんとした英語”を学び、西洋風の“国際感覚”を身に付ける。お金持ちの家庭だと、アメリカ白人の家庭教師を雇って、自宅でのプライベート・レッスンだ。ちなみに、安倍晋太郎は若き平沢勝栄を家庭教師に選んだが、息子の晋三がどう反応したのか判らない。まぁ、晋三坊っちゃんは、「えっ!、この人、江戸時代の水呑百姓みたい!」と思ったんじゃないか? (知らんけど。) とにかく、安倍家の人選にはセンスが無かった。

  一般的に、校長先生や教育評論家は、生徒の自主性とか言論の自由、独立精神の涵養など、綺麗事を並べて自前の教育論を披露するが、実際は違っており、権威主義の“事なかれ”学校とか、規則で雁字搦めの“お役所的学校”が多い。「俺の在任中だけ問題が発覚しなければいい!」という校長や教頭がほとんど。日本各地がこんな有様だから、普通の公立学校には「選択の自由」は無い。教室の壁によく、毛筆で書かれた「誠実」とか「真理」の紙が貼られているけど、こんなのは滑稽な標語だ。「臭い物には蓋」という壁紙に変えればいいのに。

Kate Middleton 6203Meghan Merkel 772(左 : キャサリン・ミドルトン / 右 : メーガン・マークル)
  話を戻す。もし、本当に生徒がATL教員を選べるとしたら、校長先生が真っ青になる事態が起こってしまうだろう。例えば、ブリテン英語を授けるため、地方の中学校がイングランドから補助教員を2名招いたとする。一人はキャサリン・ミドルトン(Catherine E. Middleton)のようなイギリス人女性で、もう一人はメーガン・マークル(Meghan Markle)の如き黒人女性だ。仮定の話だが、もし生徒100名に「選択の自由」が与えられ、アンケート調査を行ったら、どんな結果になるのか? もし、97名が「ミドルトン先生がいい!」と答えてしまい、残りの3名が仕方なく「メーガン先生」を選んだとしたら、担任の先生や校長は冷や汗ものだ。おそらく、生徒の希望は却下され、教師の勝手な裁量で50名が「ミドルトン・クラス」に、そして残りの50名は「メーガン・クラス」に振り分けられるだろう。

学校英語は「実用的」じゃない

  学校での英語教育に関しては、昭和の頃から色々な苦情があり、言語学者の故・渡部昇一・上智大学教授も持論を述べていた。英文法史を専攻していた渡部先生は、学校の授業は英文読解と文法理解にあると喝破していた。もちろん、先生は英会話の重要性を知っていたが、それは“慣れ”というか、英語圏内で暮らしているうちに身につく“反射神経”のようなものだ、と説明していた。大切なのは、英語の文章を正確に理解できるよう文法を勉強し、きちんとした文章を書けることにあるらしい。なるほど、英米の大学では、教師の前でペラペラ喋ることができる学生より、論理的で立派な論文を書ける学生の方が高く評価される。それゆえ、教養人になりたい日本人は「読み書き」の勉強をした方がいい。

  もう一つ、渡部先生が共著『英語教育大論争』の中で討論した事で、とても印象的だったのは、学校の穎悟教育を受けた日本人には、「恨み(resentment)」があるという指摘だ。勉強熱心な人でも、「俺は中学から大学まで、ずっと英語を勉強してきたのに、実際にアメリカ人と会うとしどろもどろで、まともな会話が出来ない! しかも、英語の発音が悪いし、相手が何を喋っているのかさえ解、ちっともらない。これは学校教育に問題があるからだ!」と嘆く人が多い。こうした辛い経験をした人が役所の中にも多いから、「もっと英会話力を強化する授業が必要なんだ」という意見が多数派になってしまうのだろう。高級官僚の中にも、ハーヴァード大学やジョージタウン大学に官費留学をする人がいるから、文部省の“改革”に賛成する人は少なくなかった。

  しかし、「英会話力」は一部の人だけに必要な能力だ。自分の「英語力」を嘆く人は、独自の努力で身に付けるしかない。英文学の研究家として著名だった福原麟太郎も、英語教育に対する世間の非難を取り上げていた。福原氏によると、「英会話力」というのは畢竟「実用的価値」であり、日本国民全体が没頭する勉強じゃないという。一般国民の大多数は国内で生活し、イングランドやアメリカ、オーストラリアで仕事をする人は極少数だ。福原氏に言わせれば、外交官や貿易商などの“特殊な人々”が必要とする能力である。

  確かに、スイスの国民なら、ドイツ語を日常語にする人でもフランス語やイタリア語を多少なりとも知る必要があるし、香港やシンガポールの人々なら英語は必須科目だ。もちろん、シンガポールやマレーシアの華僑は、家庭内で上海語や広東語を話しているが、商売では便利だから、もっぱら英語で通している。フィリピンでも土人が英語を話しているが、それは現地語だと近代文明の学問が出来ないからだ。例えば、タガログ語やセブアノ語では学術論文どころか、小学校の理科や数学ですら出来ない。インドと同じで、支配者の言語で勉強するしかないのだ。

  学校の英語教育に関して、福原氏は「必要が才能を生むので、学校教育とは無関係である」と述べていた。(福原麟太郎『この国を見よ』大修館書店、昭和36年、pp.109-110.) 昭和の頃、よく多国籍企業や大会社の重役などが、英会話の苦手なヒラ社員を見て「学校の教師は何をしているんだ!」と文句をつけていたが、福原氏は苦々しく思っていたという。なぜなら、下っ端の若い社員たちは、たとえ経済学士や法学士であっても、入社すればソロバンの稽古や簿記の勉強をしたりする。もし、会社の上司が「実用英語」を要求するなら、新入社員に「英会話」という能力を仕込めばいいじゃないか、という訳である。1年くらい“みっちり”稽古すれば、英会話や商業通信くらいできるはずだ。

  なるほど、福原氏が言うように、英語の訓練だけは学校に押しつけ、重役どもが一方的に「学校の授業など役に立たない!」と不満をぶつけるのはおかしい。英語の専門家である福原氏は、しばしばラジオの座談会などに招かれ、英語教育に関する質問を受けたというが、そうした時には次のように答えたそうだ。「私はいつも実用になるようになどと思って私は英語を教えてやりません、学校の英語は実用になりません」と。(上掲書、p.110.)

  一般的に、我々は学校教育に期待しすぎる。平成時代になると「モンスター・ペアレント」なる保護者が現れ、子供の躾まで教師に要求するようになった。実の親がしないことを担任教師に押しつけるなんて言語道断だ。福原氏によると、学校の英語教育における目的は、「言葉の不思議さ」を体験させることにあるという。福原氏は次のように説明していた。英語は日本語とかなり違うことが子供にも解る。日本語だと1頭でも100頭で「馬」という単語に変化は無いが、英語だと1頭の馬(単数)と2頭の馬(複数)とでは言葉が違ってくる。子供はこうした言語の違いに直面した時、心に何らかの振幅を抱く。福原氏によれば、これこそ学校英語の「功徳」らしい。学校英語というのは「非実用的」で、西洋人に会った時、「おはよう」と言うためのテクニックを教えるのが主眼ではないという。

  文部省の役人が提言する教育理念は単純だ。幼い頃からネイティヴ・スピーカーに接触し、彼らと直接“会話”し、それに慣れれば、自然と“英語力”が身につく。グローバル化した社会では、英語を流暢に話せる者は有利だ。「さぁ、皆さん、レッツ・スピーク・イングリッシュ!」と呼びかける。だが、福原氏が指摘するように、英会話が必要となれば、その時に猛勉強すればいいのである。大切なのは学校で基礎知識を身につけることだ。すなわち、英文法をしっかりと勉強し、明確で論理的な文章を書けるようになれば、英会話の訓練にも充分対応できる。これがもし、英文法の知識が曖昧で、英語論文すら正確に理解できない人は、ブリテンやアメリカに行っても英会話力は身につかない。

  まぁ、長いこと暮らせば、簡単な日常会話なら出来るようになるだろう。日本でもフィリピン人酌婦が、日本語を覚えて客の相手をしているから、日本の一般人でも不可能じゃない。だが、英米の教養人を相手とした会話は無理だ。なぜなら、アメリカやブリテンには腐るほど「英語を話せる人」が存在し、流暢に話せたくらいじゃ尊敬されないからだ。よく、日本の英語教育に不満を漏らす日本人は、「アメリカやイングランドで暮らせば、自然と流暢に話せるようになる!」と思い込んでいる。

  しかし、こうした意見は妄想だ。愚かな学習方法を信じる日本人は、呆れるほど語彙が乏しく、専門知識も無いから、話している内容も幼稚でつまらない。上層中流階級のイギリス人やアメリカ人は、たとえ拙くとも“面白い”話をする日本人の方を好む。つまり、歐米の知識人というのは、自分が知らない事を教えてくれる外国人や、知的好奇心を喚起するような会話、もっと知りたくなるような刺戟的で深みのある会話が大好き。NYやLAの黒人ラッパーが話す程度の英語じゃ笑われてしまうぞ。

  英語の発音が下手糞な日本人は劣等感に苛まれ、英語を流暢に話す日本人を羨むが、そんなのは愚かな発想だ。米国だと、黒人のアメフト選手やコメディアンが早口で流暢に喋るが、手紙や論文を書かせると、「小学生並」だったりする。英米だと乞食やシャブ中だって英語を話すが、そんなことで尊敬する人は虫眼鏡で探しても居ないだろう。英会話に劣等感を抱く親は、「早期教育が大切だ」とばかりに、我が子を無理矢理、遠くのアメリカンスクールや“白人生徒”が通うインターナショナル・スクールに通わせたりする。だが、そんなのは資金と時間の無駄でしかない。

  本来なら、日本語能力を先に附ける方が重要なのに、幼稚園から英語を学ばせれば“インターナショナル”な秀才に育つと思っているのだ。でも、実際は学校の英語と家庭の日本語で、子供の頭が混乱してしまい、どちらも中途半端になってしまうのがオチである。可哀想なのは、ペットにされた子供の方である。不充分な言語能力で勉強となるから、論理的思考を基礎とする理科や数学の授業について行けなくなるのだ。試験の設問を読んでも理解できない子供が、正確に答えを述べることが出来るのか?英会話に夢中の親は、子供が中学生や高校生になった時に自分の間違えに気づいたりする。
 
日本語で暮らせる日本

  文部省の役人は「有識者」という提灯藝者を集め、「自分たちの意見」を正当化する。「グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言」という報告書なんて実に馬鹿らしい。ここで披露されている「提言」なるものは、呆れてしまうほどの妄想で、「別の魂胆があるんじゃないか?」と疑いたくなる。例えば、次のような文言があった。

 国民一人一人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。今後の英語教育改革において、その基礎的・基本的な知識・技能とそれらを活用して主体的に課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成することは、児童生徒の将来的な可能性の広がりのために欠かせない。

  「アジアの中でトップを目指す」だって? どうして日本がアジア諸国に参入し、アジア人と比較されねばならぬのか? 日本は昔から「アジアの国」でもないし、「儒教圏」でもなかった。日本人は独自に日本文化圏を築き、日本人同士で暮らしてきたから、素晴らしい民族となったのだ。別の機会で述べたいが、近くに住んでいようが、****人や朝鮮人は日本人にとって「エイリアン」でしかない。ベトナム人やフィリピン人も、全くの“異邦人(よそ者)”である。明治維新後の日本人は、「やっと海外渡航が解禁になった!」と喜んで、朝鮮半島や****大陸、東南アジア、インド、アフリカを漫遊したが、現地の土人を目にしてビックリ仰天だった。明治の頃は共同通信社の「禁止用語集」や「PC(政治的に正しい言葉遣い)」が無かったから、露骨な評論が多かったけど、正直な感想だから本当に面白い。

 「報告書」の有識者は、次のような事も述べていた。

 現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。

  こうした「提言」を聞いていると、もうウンザリしてしまうが、文部省の役人が取り上げる「思考力」や「判断力」を育成したいのであれば、先ず国語や歴史の授業に力を入れるべきだろう。日本人は日本語で考え、日本語で意思疎通を図り、日本語で表現するのが普通だ。ルー大柴みたいな藝人は例外だし、ゼンジー北京は偽の****人だった。小池百合子は「コンプライアンス」とか「ウィン・ウィンの関係」といったカタカナ英語を得意とするが、江戸の庶民は日本語で暮らしているんだぞ。小池都知事はアラビア語を“習得”したというが、本当に学術的なアラビア語論文を書けるのか?

  元キャスターの小池百合子は、武漢ウイルスがちょっと終熄した時、「ゴー・トゥー・トラベル」と口にして一般国民に旅行を勧めていたが、我々はサーカスの犬じゃない。日本語で「みんな揃って旅に行こう!」でいいじゃないか。もし、小池都知事に「伏せ、お坐り、でんぐり返し」と言われたら、東京都民はそうするのか? 今流行(はやり)の「SDGs」なんて、****人の悪徳業者かヤクザが儲けるためのスローガンである。
 
  有識者の面々は、“アジア化”された日本の未来を喜んでいのか、「外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される」と述べていた。しかし、一般の日本国民はバラ色の国際化社会を望んで居るのか? なるほど、楽天やユニクロといった無国籍企業に就職すれば、「外国語を用いたコミュニケーション」ということで英語での会議や交流が“普通”になるんだろう。だが、一般国民の大半は、英語を使って仕事をする訳じゃない。もしかすると、財界人と霞ヶ関の役人は、日本語を不得意とするフィリピン人やマレー人とコミュニケーションを取るため、簡単な英語を使え、と仄めかしているんじゃないか?

Asian workers 772Asian workers 242
(左 : 日本に移住しかねないアジア人 / 右 :「未来の日本」 を想像させるアジア人労働者 )

  政府は深刻な「人手不足」を解決するため、アジア諸国から労働者を輸入するという。しかし、彼らが複雑怪奇な日本語は習得するには、大変な努力と膨大な時間を要する。それなら、「カタカナ英語」で会話をする方が簡単だろう。おそらく、介護施設の管理責任者や食品工場の係長は、マレー人やフィリピン人、あるいはインド人やパキ人、ケニア人、エジプト人の部下に小学生程度の英語で語りかけ、ジェスチャーを交えて命令を下すようになるのかも知れない。そして、何となく解った外人社員は、“ジャングリッシュ(日本語発音の英語)”に慣れた同胞に確認し、見よう見まねで作業に就く。文書による命令だとアジア人はお手上げだから、日本人上司が英語の書類を作成し、外人の部下に説明するしかない。

  歐米の資本家に買収された会社だと、そこに勤める日本人従業員はもっと大変だ。英文の報告書はもちろんのこと、会議でのプリゼンテーションも英語となるから、前日から頭が痛くなる。小便の時だけ、同僚と日本語で話せる会社なんて、本当に気の毒だ。役人は「グロール化時代の日本」と宣伝するが、そんなのは「根無し草の世界」でしかない。「日系日本人による日本的国家」が本来のにほんだ。我々は子孫のためにも、日本語で幸せに暮らせる社会にすべきなんじゃないか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956517.html
15:777 :

2024/08/19 (Mon) 22:55:00

グローバリストが企む?英語公用語化 日本語は“文化的なバリア”
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我那覇真子 _ グローバリズムの実態
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外国語学習について - 内田樹の研究室
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「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想
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日本人の3人に1人は日本語が読めない
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日本語は難し過ぎる
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外国語学習について - 内田樹の研究室
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日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
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女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
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ネオコンが留学生を洗脳してアメリカ金融資本のエージェントにする手口
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エリート 洗脳システム としての 留学制度
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施光恒 _ 普通の人々の質の高さこそ日本の国力
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施 光恒 : 「グローバル化」とは「多国籍企業中心主義化」
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グローバリズムとは思想やイデオロギーではなく、単に労働者の賃金を下げるコスト削減の事
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現在でも米政府やWHOは劣等な民族を「淘汰」すべきだと考えている
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氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。
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明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの手先として 動いてきた。
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吉野敏明 _ 戦後アメリカに強制された洋風の食事が日本人の病気の原因
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訪日観光客3000万人でGDPは1円も増えなかった
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甘過ぎる日本の帰化制度
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【河添恵子】酷すぎる...中国人の民度とモラルの低さには驚きました
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対外戦争で勝った事が一度も無い中国とロシアはこういう手口で領土を乗っ取る
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ヨーロッパ人が他国を略奪して回った大航海時代に端を発する西洋の覇権の終わり
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「日本」を破壊する急先鋒、 デービッド・アトキンソン、竹中平蔵、菅義偉
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「日本人は生産性が低い」という都市伝説に騙されるな _ 生産性が低いというのは賃金が安いというだけの事
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藤井聡先生は 「日本人は生産性が低い」というデマを撒き散らしているデービッド・アトキンソンが完全なバカだと言い切ってくれました
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生産性の高い社会のゆくすえ - 内田樹の研究室
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GDPでは国民所得はわからない _ 日本人の平均月収は15万円以下
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GDP・経済成長率や株価の上昇に意味は無い _ 貨幣価値が下がったから GDP も株価も名目値が上がっているだけ
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日本の労働者の方がアメリカの労働者より裕福だった _ マンハッタンのダイソーは270円
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これが竹中平蔵先生の理想の国 アメリカ
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円安、低賃金、ブラック労働で日本で生産する方が外国より安くなった
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自由貿易と輸出・インバウンドが日本経済を滅ぼす
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世界最大の対外純資産に惑わされるな! 国が強くならないデフレ日本の経常収支サイクル
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/989.html

過疎地の住民には行政コストはかけられない。田舎の人間は都市に引っ越せばいい
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16:777 :

2024/08/20 (Tue) 01:20:51

フィンランド教育の失敗:日本の詰め込み教育はそこまで悪いのか?
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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
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自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか
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日本の研究力の低下 - 内田樹の研究室
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内田樹 _ 「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因
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大学でいま、起きていること
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高校生で人生がほぼ決まってしまうフランスの超学歴社会…日本人ははるかに幸せ
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中国では2日間の全国統一大学入試だけで大学も卒業後の就職先も会社や役所での地位も決まる
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ハーバード大などの入試で黒人などを優遇する措置について、米連邦最高裁が違憲判断
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アメリカでは低所得層の子どもは 教育を受ける権利を奪われている
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アメリカが抱える最大の問題は教育
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米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html

米大統領選の争点に浮上した大学生の巨額借金問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/532.html

アメリカ人の家計は火の車だった のしかかる住宅、医療、教育費
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/964.html

ネオコンが留学生を洗脳してアメリカ金融資本のエージェントにする手口
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エリート洗脳システムとしての留学制度
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若者に数百万もの借金を負わせて社会へ放り出す大学。学生はあこぎな大人たちの食い物
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米大統領選の争点に浮上した大学生の巨額借金問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/532.html

体を売らなければ大学へ通えない
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「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想
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日本語は難し過ぎる
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吉村府知事や岸田総理は「英語化」で 多民族共生を強制
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日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた
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グローバリストが企む?英語公用語化 日本語は“文化的なバリア”
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日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
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日本の学校教育は「我が国とは全てが違う…」
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施光恒 _ 普通の 人々の質の高さこそ日本の国力
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17:777 :

2024/09/10 (Tue) 11:34:24

『新自由主義と教育改革:大阪から問う』 著・高田一宏
2024年9月8日
https://www.chosyu-journal.jp/review/31670

https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E6%95%99%E8%82%B2%E6%94%B9%E9%9D%A9-%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%8B%E3%82%89%E5%95%8F%E3%81%86-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%B0%E8%B5%A4%E7%89%88-2029-%E9%AB%99%E7%94%B0/dp/4004320291


 本書は、橋下徹の府政が始まった2008年以降の十数年を振り返り、維新の会が府知事と市長をおさえ、府・市ともに第一党となった大阪で、「改革」を掲げた教育政策の転換は教育をよくしたのか、子どもたちの学びと成長は保障されたのかを検証したものだ。著者は、1965年生まれの大阪大学大学院教授である。



 著者はまず大阪の教育改革について、中曽根内閣の臨教審に始まり小泉・安倍内閣が受け継いだ新自由主義にもとづく教育改革を、もっとも大規模かつ急激に具体化したものだという点をはっきりさせている。「改革」の看板にだまされてはいけない。



 特徴は、教育現場の意見を尊重せず、教育委員会の独立性を否定して、教育についてシロウトの政治家が教育内容に直接クチバシをいれる「政治主導」で進められたことだ。それは第一次安倍内閣が教育基本法を改悪し、政治による「不当な支配」を容認する内容に変えたことで保障された。



 教育の新自由主義改革とは、学力テストの結果を公表して学校や自治体を競争させること、一人一人の教員の業績評価を給与や処遇に反映させ、教員同士を競争させることなどをさす。その目的は、元教育課程審議会会長・三浦朱門の次の言葉に示されている。「できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり力を注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」



 では、維新の会はなにをやったのか。



 大阪府知事になった橋下徹は2008年9月、全国学力テストでの大阪の成績が全国平均を大きく下回ったことから「教育非常事態」を宣言し、「競争を否定する教師が教育をダメにした。教育界の外から競争原理を持ち込んで教育を立て直す」と主張した。テストの結果公表に慎重な教育委員会を「クソ教育委員会」と罵倒したり、「ダメ教師は排除する」といったりと、メディアを使った世論喚起を重視した。



 2011年の府・市ダブル選挙で松井・橋下体制になってからは、「大阪府教育行政基本条例」などを府議会で可決・成立させ、教育委員会の独立性を骨抜きにして政治主導で教育改革を進める体制を整えた。



 さらに2度目のダブル選挙で2人が再選された2014年からは、改革が全面展開する。



 まず、大阪府・市独自の学力テスト「大阪府中学生チャレンジテスト」などの実施を開始し、その市町村別成績を教育委員会が公表するようになった。そして大阪市は各学校の全国学力テストの成績を公表し始めた。これが突破口になり、その後全国で市町村や学校が公表するようになっていく。



 第二に、大阪市の24区すべてで、小・中学校の学校選択制が導入された。大阪市は、府内の小・中学校の約4分の1を占める。



 第三に高校については、府立学校条例で、3年連続定員割れで改善の見込みのない高校は「再編整備」の対象とすると決められた。



 その結果、どうなったか? 各種調査から著者は次のようにいう。



 チャレンジテストによって、教師が一人一人の子どもに主体的に向き合うことが困難になった。ペーパーテストで測定できない個人の資質や能力を見出すことが難しくなった。


 学校選択制によって、「人気校」と「不人気校」の分化、それと結びついた学力格差の固定化・拡大が進んだ。たとえば人口減少率が最も高い西成区は、経済的に厳しい家庭が多く、その学校で子どもが荒れると、一部の親は他の区へ流出していき、さらに地域が衰退するという悪循環に陥っている。また、家庭訪問・親との連携や地域との連携が困難になり、それが子どもの成長に大きな影響を与えている。学校選択制は、全国では廃止や見直しをおこなう自治体が増えた。



 高校については、大阪では私立高校の授業料無償化を進め、公立と私立を競わせたため、生徒が公立から私立に流れ、公立高校の定員割れが常態化して募集停止となる高校があいついだ。昨年度までに募集停止になった公立高校は17校にのぼり、今年の入試では公立高校の約半数、70校が定員割れとなった。そのなかで難関大学への進学に力を入れる文理学科10校の生徒数が増える一方、義務教育段階でつまずいた生徒を受け入れる高校の入学者は減って廃校が必至となり、行き場がなくなる生徒が生まれているという。



 その一方で、教育改革がもっとも重視した学力向上だが、この10年間、全国平均との差はほとんど縮まらず、「全国平均を上回る」という目標は未達成のままだ。そもそも学力低下の背景には、大阪府で就学援助を受ける児童・生徒の数が全国1位(全国平均の約2倍)であることに見られるように、家庭の貧困化がある。そうした子どもたちをしっかり教育し、全体の底上げをはからなければ成績は上がらないが、その真逆をいったわけだ。



 そのうえ、不登校や高校中退はこの期間に急増した。大阪府の不登校者数(2022年度)は、小学校7153人、中学校1万3651人、高校6452人となり、高校では1000人当り不登校者数が全国1位になった。それは、将来の働く場を見つける困難さにつながらざるをえない。



 そしてハッとさせられたのは、新自由主義改革の結果、教師が教育者としての誇りを失い、萎縮してしまったという指摘だ。本書のなかに幾人かの教師へのインタビューがある。



 「昔やったら、校長が“かまへん。最後は俺が責任持つから、やれ”やったけど、今は上からいわれることを恐れ、最後は“こいつが悪いんです”と切り捨てられる。だから教師も萎縮するんですよ」



 「“目標を数値化せえ”といつもいわれる。けど、僕たちはやはり、1年、2年だけじゃなくて、5年後、10年後に子どもたちがどんな大人になっているかを考える」



 現場の教師が、自由に本当のことを語ることができなければ、成長する世代の心を動かすことはできないし、人間は育たない。教育の新自由主義改革は、20年余り経ってさまざまな弊害を生んだことで批判が高まり、国内外で見直しが始まっている。



 以上のことは、大阪に典型的にあらわれているが、全国的な問題でもある。教師が、 子どもや保護者の顧客満足度を高める存在にあまんじるのでなく、子どもたちが持つ力を知育・徳育・体育の全面で開花させ、ひ弱でなく、思いやりが深く、間違ったことを許さない人間に、将来の日本の担い手に育てる――そうした教育者としての使命をとり戻す教訓とし、現状を変える力としたい。


 (岩波新書、216ページ、定価920円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/31670
18:777 :

2024/09/28 (Sat) 16:44:23

新しい門閥制度 - 内田樹の研究室
2024-09-26 jeudi
http://blog.tatsuru.com/2024/09/26_0742.html

 自民党総裁選についての報道は専ら候補者たちの政策や党内基盤についてのみ論評している。でも、見落としていることがある。それは9人の候補者のうち6人の最終学歴がアメリカの大学または大学院だということである。残る3人のうちの一人も、日本の大学を出た後にアメリカの下院議員のスタッフになったことをその後のキャリア形成においてずいぶん強調していた。
 ということは、自民党に限って言えば、最終学歴がアメリカであることがどうやらキャリア形成の必須条件だということである。私の知る限りでも、日本の富裕層の中では中等教育から子どもを海外あるいはインターナショナル・スクールに送り込むことが「ふつう」になってきている。その方が英語圏の大学に進む上でアドバンテージが大きいからだと説明された。
「グローバル化の時代なんだから、レベルの高い教育を受けるために海外に出るのは個人の自由だ。横からがたがた言うな」と言う人もいるだろう。だが、私はこういう傾向は端的に「よくない」と思う。
 ハーヴァード大学の学費は年間56550ドルである。日本円で800万円。生活費を入れると年間1000万円以上を支出できる家庭の子どもしかアイヴィー・リーグに留学することはできない。このハードルを越えられるのは、日本国民の数%にも達しないだろう。
 ご存じの通り、日本の学校教育への公費支出のGDP比率は久しく先進国最低レベルである。高等教育機関の私費負担割合は、日本が67%。OECD平均は39%である。見ればわかる通り、日本の政府は「高等教育については自己責任で(お金のある人はよい教育を、ない人はそれなりに)」という方針で教育政策を実施している。
 海外の大学大学院を出た人たちがそのまま海外で生活するのなら「グローバル化」と言えるかも知れない。だが、自民党総裁候補者たちのキャリアが明らかにした通り、彼らがアメリカで高等教育を受けたのは、その学歴が日本に帰ってきてから支配層に駆け上がるための捷径だと思ったからである。
 だが、これは典型的な「植民地人」のふるまいである。
 明治維新のあと、先人は日本人が、日本語で高等教育を 行える高校・大学を短期間に創り上げた。これは見事な達成だったと私は思う。彼らは「教育は海外にアウトソースしてはならない」ということ、高等教育を自国語で行えることが植民地にされないための必須の条件だということを知っていた。
 今でも母語で大学院教育が行われ、母語で書いた論文で博士号が取れる国は決して多くない。日本はわずか1億2500万人の母語話者しか存在しないにもかかわらず、それができる例外的な国の一つなのである。
 だが、いま支配層たちが進めているのは「グローバル化」という看板の下での「高等教育のアウトソーシング」である。「海外にレベルの高い高等教育機関があるなら、何も高いコストを負担して国内に作る必要はないじゃないか」と彼らは考えている。お金持ちはそう考えるのである。そうすれば経済格差が教育格差を経由して、自動的に階層格差を再生産するからである。「下から」這い上がって、彼らの地位を脅かす若者たちは制度的に排除できる。確かに合理的な考えである。けれども、ここには致命的な過誤がある。
 19世紀アメリカでも富裕層は公教育の導入に反対した。われわれの子どもの競争相手を育てるためになぜ税金を投じなければならないのか。貧乏人は自己責任で教育機会を手に入れろ、と。一理はある。けれどももしその理屈に従っていたら、アメリカは今も後進国のままだったろう。(9月18日)
http://blog.tatsuru.com/2024/09/26_0742.html
19:777 :

2024/10/14 (Mon) 15:45:56

内田樹の研究室 2024-10-11 vendredi
http://blog.tatsuru.com/2024/10/11_1037.html

 みなさんは今回の自民党総裁選の候補者9人のうち6人が「最終学歴がアメリカの大学または大学院」であったことにお気づきでしたか。日本の政治エリートに関して言えば「最終学歴がアメリカ」であることがデフォルトになりつつあります。僕はこういう傾向は端的に「よくない」と思います。
「どこの国の大学に行こうと本人の自由じゃないか。グローバル化の時代なんだ。海外に出て学ぼうという意欲的な若者のどこが悪いんだよ」と反論する人がいるかも知れません。
 政治家だけでなく、ビジネスマンでも学者でも子どもを中学からインターナショナルスクールに通わせたり、海外に留学させることが流行です。その方が英語圏で高等教育を受ける上でアドバンテージがあるからです。
 でも、ちょっと考えてみてください。ハーヴァード大学の年間授業料は56550ドル、今の為替レートで800万円以上です。寮費や生活費を入れると年間1000万円超を子どもひとりに仕送りできる家庭の子しかアイヴィー・リーグに留学することはできないんです。
 いくら「海外で学ぶ意欲」があっても、家が貧しければ、例外的な天才以外、まずそんな肩書は手に入りません。僕はこういうのは「フェアじゃない」と思います。
 親の世代の経済格差が、子どもの受ける教育の格差をもたらし、それが次世代の経済格差を再生産する。そんなシステムのどこがいいんです。
 国の仕事は、家がどんなに貧しくても、子どもたちが望む限り最も質の高い教育を受けられることを支援することではないんですか。ですから、教育は基本的に無償であるべきだし、国内で、母語で、世界水準の高等教育を受けることができるのでなければならない。
 でも、日本の高等教育における私費負担率は67%です。OECD平均31%と比べると、日本政府が「家が貧しい子どもが高等教育を受けるためには、それなりの代価を払わなければならない(払えないやつは諦めてくれ)」という教育政策を採っていることは明らかです。
 日本育英会の奨学金制度がなくなったは20年前ですが、その理由は「公的な支援があると、銀行の学資ローンの借り手が減る。これは政府による民業圧迫だ」というものでした。銀行の利益を確保するために奨学金制度は廃止されたのです。それまでは卒業後に教職や研究職などの「免除職」に就くと、返還義務がなくなったんです(教員のなり手が激減したせいで、教員については最近免除職が復活しましたが)。
 家の貧富にかかわらず、努力さえすれば誰でも質の 高い教育を受けられる制度を作ることは明治政府の悲願でした。とりわけ母語で大学教育が受けられることを先人は切望しました。というのは、母語ではまともな高等教育が受けられないので、キャリア上昇を望む子どもたちは先進国に留学するというのはその国が「後進国」であり「植民地」であることの証拠だったからです。
 今の日本は母語で大学院教育が受けられ、母語で書いた論文で博士号が取れますけれども、これは世界を見渡してもかなり例外的なことです。これは先人たちから後続する世代への「贈り物」だったと僕は思います。
 でも、「最終学歴がアメリカ」であることがエリートの条件ということになると、それは「植民地化」を受け入れることを意味します。英語圏の大学で、英語で授業を受けて、英語で論文を書いて学位を取った人を成功者とみなす制度を作って「グローバル化を達成した」と喜んでいる人を見たら、明治の人は悔し涙を流すことでしょう。(『蛍雪時代』9月25日)
http://blog.tatsuru.com/2024/10/11_1037.html
20:777 :

2024/10/14 (Mon) 15:46:46

内田樹の研究室 2024-10-11 vendredi
http://blog.tatsuru.com/2024/10/11_1037.html

 みなさんは今回の自民党総裁選の候補者9人のうち6人が「最終学歴がアメリカの大学または大学院」であったことにお気づきでしたか。日本の政治エリートに関して言えば「最終学歴がアメリカ」であることがデフォルトになりつつあります。僕はこういう傾向は端的に「よくない」と思います。
「どこの国の大学に行こうと本人の自由じゃないか。グローバル化の時代なんだ。海外に出て学ぼうという意欲的な若者のどこが悪いんだよ」と反論する人がいるかも知れません。
 政治家だけでなく、ビジネスマンでも学者でも子どもを中学からインターナショナルスクールに通わせたり、海外に留学させることが流行です。その方が英語圏で高等教育を受ける上でアドバンテージがあるからです。
 でも、ちょっと考えてみてください。ハーヴァード大学の年間授業料は56550ドル、今の為替レートで800万円以上です。寮費や生活費を入れると年間1000万円超を子どもひとりに仕送りできる家庭の子しかアイヴィー・リーグに留学することはできないんです。
 いくら「海外で学ぶ意欲」があっても、家が貧しければ、例外的な天才以外、まずそんな肩書は手に入りません。僕はこういうのは「フェアじゃない」と思います。
 親の世代の経済格差が、子どもの受ける教育の格差をもたらし、それが次世代の経済格差を再生産する。そんなシステムのどこがいいんです。
 国の仕事は、家がどんなに貧しくても、子どもたちが望む限り最も質の高い教育を受けられることを支援することではないんですか。ですから、教育は基本的に無償であるべきだし、国内で、母語で、世界水準の高等教育を受けることができるのでなければならない。
 でも、日本の高等教育における私費負担率は67%です。OECD平均31%と比べると、日本政府が「家が貧しい子どもが高等教育を受けるためには、それなりの代価を払わなければならない(払えないやつは諦めてくれ)」という教育政策を採っていることは明らかです。
 日本育英会の奨学金制度がなくなったは20年前ですが、その理由は「公的な支援があると、銀行の学資ローンの借り手が減る。これは政府による民業圧迫だ」というものでした。銀行の利益を確保するために奨学金制度は廃止されたのです。それまでは卒業後に教職や研究職などの「免除職」に就くと、返還義務がなくなったんです(教員のなり手が激減したせいで、教員については最近免除職が復活しましたが)。
 家の貧富にかかわらず、努力さえすれば誰でも質の高い教育を受けられる制度を作ることは明治政府の悲願でした。とりわけ母語で大学教育が受けられることを先人は切望しました。というのは、母語ではまともな高等教育が受けられないので、キャリア上昇を望む子どもたちは先進国に留学するというのはその国が「後進国」であり「植民地」であることの証拠だったからです。
 今の日本は母語で大学院教育が受けられ、母語で書いた論文で博士号が取れますけれども、これは世界を見渡してもかなり例外的なことです。これは先人たちから後続する世代への「贈り物」だったと僕は思います。
 でも、「最終学歴がアメリカ」であることが エリートの条件ということになると、それは「植民地化」を受け入れることを意味します。英語圏の大学で、英語で授業を受けて、英語で論文を書いて学位を取った人を成功者とみなす制度を作って「グローバル化を達成した」と喜んでいる人を見たら、明治の人は悔し涙を流すことでしょう。(『蛍雪時代』9月25日)
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