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ヒッタイト帝国滅亡の原因は長引く干ばつであった

1:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/01 (Wed) 13:25:08

雑記帳
2023年03月01日
ヒッタイトの崩壊と旱魃
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_1.html

 ヒッタイトの崩壊と旱魃に関する研究(Manning et al., 2023)が報道されました。気候変動が人類史を大きく変化させる可能性は差し迫った関心事ですが、異なる種類の気候変動がもたらす具体的な影響についてはまだ不明です。この疑問には、古気候や考古学のデータを用いて取り組むことができます。たとえば、紀元前1200年頃の気候条件の300年にわたる長周期の乾燥寒冷化は、地中海東部および近東におけるいくつかの古代文化の崩壊と頻繁に関連づけられています。しかし、同期的な気候と人類史規模との関連について、正確な詳細は不明です。考古学的および歴史的な記録には、人類社会が長周期の気候変動にうまく適応してきた事例が複数存在します。稀で予期せぬ極端な気候事象の複数年にわたる連続発生によって、おそらく人類集団は適応や数世紀来の回復策が及ばない状態に陥る、と考えられます。

 本論文は、紀元前1200年頃となるヒッタイト帝国の崩壊について調べました。ヒッタイトは約500年にわたって古代世界に存在した一大勢力で、アナトリア半島の半乾燥地域を中心として、古代の近東および地中海東部の一帯に相互の政治的および社会経済的つながりがある帝国を築きました。ヒッタイト帝国は長年にわたり、度重なる社会政治的・経済的・環境的な課題に直面しながらも回復力があることを証明していました。当時のアナトリア半島中央部のビャクシン属樹木から得られた年輪幅と安定同位体の記録を調べることによって、高分解能の乾燥度記録がもたらされました。この分析結果は、紀元前1198~1196年頃(±3年)に異常に厳しい乾燥期が続いたことを明らかにするとともに(これは転換点を示している可能性があります)、当時の危険緩和策を圧倒した可能性がある事象の種類を示しています。この厳しい旱魃が長期にわたる食料不足をもたらし、ヒッタイトの中核である内陸の半乾燥地域は、特定地域の穀物生産と畜産に依存しており、とくに旱魃の影響を受けやすかったのではないか、というわけです。

 ヒッタイトも含めてこの頃には、緊密に結びついていた地中海東部地域からメソポタミア地域の諸勢力が衰退もしくは滅亡し、後期青銅器時代におけるこの広範な破滅的事象を「古代グローバル文明の崩壊」と評価する見解も提示されています(関連記事)。上記報道によると、この見解を提示しており、この研究には関わっていないエリック・H・クライン(Eric H. Cline)氏は、紀元前1177年こそが青銅器時代の崩壊にとって最も重要な年だと主張していますが、青銅器時代の崩壊と旱魃は間違いなく紀元前1177年以前に始まっており、全体的な崩壊のシナリオとよく合致する、と指摘したそうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


気候変動:干ばつがヒッタイト帝国の崩壊につながった可能性

 紀元前1198~1196年頃に中央アナトリアで発生した大干ばつが、ヒッタイト帝国の崩壊に重要な役割を担っていた可能性があることを報告する論文が、Natureに掲載される。この知見は、極端な気候変動が起こると、住民集団の適応限界を超えてしまい、何世紀にもわたって続けられた回復力を保持するための活動では対応できなくなることを示唆している。

 半乾燥地域の中央アナトリアを拠点としたヒッタイト帝国は、紀元前1200年頃に崩壊するまで5世紀以上にわたって古代世界の大国であり続けた。ヒッタイト帝国は、たびたび社会政治的問題、経済問題、環境問題(例えば干ばつの脅威など)に直面していたが、長い間回復力を保持していたことが分かっている。この時期には、気候条件の寒冷化と乾燥化が300年間続き、このことが、東地中海と中近東におけるいくつかの古代文明の崩壊と関連付けられてきた。しかし、気候変動と人類史上の出来事との関連については、その正確な詳細が明らかになっていない。

 今回、Sturt Manningたちは、ヒッタイト帝国の崩壊における干ばつの影響を評価するため、中央アナトリアに現生するビャクシンの木の年輪の安定同位体記録と測定結果を用いて高分解能の乾燥記録を作成した。その結果、紀元前1198~1196年頃に通常と異なる厳しい乾燥が続いたことが判明した。Manningたちは、この厳しい干ばつが長期にわたる食料不足をもたらしたとする見解を示している。ヒッタイト帝国の中核である内陸の領地は、特定の地域での穀物生産と畜産に依存していたが、特に干ばつの影響を受けやすかった。穀物や畜産品の不足は、政情不安、経済不安、社会不安を引き起こし、疾患の集団発生にもつながったと考えられ、結局は帝国の崩壊を早めた可能性がある。

 このアナトリアの大干ばつは、予期せぬ複数年にわたる極端な気候現象に対する人間システムの脆弱性を実証するものとも考えられる。こうした極端な現象は、人間の対処機構を圧倒することがあり、Manningたちは、このことは、過去だけでなく、気候変動に直面している現代にも当てはまる可能性があると考えている。


考古学:ヒッタイト帝国の崩壊と同時期に起きた紀元前1198~1196年ごろの複数年にわたる深刻な干ばつ

考古学:ヒッタイト帝国滅亡の原因は長引く干ばつであった

 今回、樹木の年輪の証拠から、紀元前1198~1196年ごろにアナトリア中部で起こった3年間にわたる干ばつが、ヒッタイト帝国の崩壊をもたらしたことが明らかになった。この事象は、古代の「暗黒時代」の到来を告げていた可能性がある。


参考文献:
Manning SW. et al.(2023): Severe multi-year drought coincident with Hittite collapse around 1198–1196 BC. Nature, 614, 7949, 719–724.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05693-y


https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_1.html
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/01 (Wed) 13:30:28

中近東の歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/468.html

ペルシアの歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1481.html

ユーラシア草原地帯における酪農の開始と人類集団の拡大
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1240.html

エジプト人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/282.html

メソポタミア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/369.html

インダス文化人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/993.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/307.html

インダス文明を導いた人々の祖先は古代イラン人、古代イラン人の祖先はトルコの北東部に住んでいた民族
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/611.html

アナトリア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/294.html

レヴァント人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/305.html

ペリシテ人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/777.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/301.html

フェニキア人の起源
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1005.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/292.html

レバノン人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/284.html

コーカサス人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/303.html

ヤグノブ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/310.html

アーリア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/306.html

3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/01 (Wed) 13:33:48

ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)(英語: Hittites[ˈhɪtaɪts]、古代ギリシア語: Χετταίοι、ラテン語: Hetthaei)は、紀元前1600年頃にアナトリアの北中部に位置するハットゥシャを中心とした帝国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この帝国は、アナトリアの大部分だけでなく、レバント北部と上部メソポタミアの一部を含む領域を領有していたシュッピルリウマ1世の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。


紀元前15世紀から紀元前13世紀の間に、慣習的にヒッタイト帝国と呼ばれるハットゥシャの帝国は、近東の支配のためにエジプト新王国、中アッシリア帝国やミタンニ帝国と競合するようになった。中アッシリア帝国が最終的に優勢な勢力として現れ、ヒッタイト帝国の多くを併合したが、残りの部分はこの地域へのフリュギア人の新参者によって略奪された。紀元前1180年以降、青銅器時代後期の崩壊時に、ヒッタイト人はいくつかの独立したシロ・ヒッタイト国家に分裂し、そのうちのいくつかは新アッシリア王国に屈服する前に紀元前8世紀まで存続した。

ヒッタイト語はインド・ヨーロッパ語族のアナトリア語派の言語のうちの一つで、密接に関連しているルーアン語とともに、歴史的に記録されている最古のインド・ヨーロッパ語であり[1]、その話者によってnešili「ネサの言語」と呼ばれている。ヒッタイト人は自分たちの国をハットゥシャ王国(アッカド語ではハッティ)と呼んでいたが、これは紀元前2千年紀の初めまでこの地域に住んでいたハッティ人に由来する。しかしハッティ人の言語であるハッティ語は、ヒッタイト語とは無関係の言語である[2]。慣習的な「ヒッタイト人」という名称は、19世紀の考古学が最初に彼らが聖書のヒッタイト人であると識別したことによるものである。



ヒッタイト文明の歴史は、彼らの王国の地域で発見された楔形文字のテキストから主に知られており、アッシリア、バビロニア、エジプト、中東の様々な史書で発見された外交と商業の文通から、その解読はまた、インド・ヨーロッパ研究の歴史の中で重要なイベントであった。

鉄の製錬の発展は、かつて青銅器時代後期のアナトリアのヒッタイト人に起因するとされ、その成功は、当時の鉄の加工を独占していたという利点に大きく依存していた。しかし、このような「ヒッタイトの独占」という見方は、現在では学者の間でも批判されており、もはや学問的なコンセンサスとはなっていない[3]。後期青銅器時代/初期鉄器時代の一部として、青銅器時代後期の崩壊により、この地域では鉄工技術が比較的継続的にゆっくりと普及してきた。青銅器時代のアナトリアの鉄器はいくつかあるが、その数はエジプトなどで発見された鉄器に匹敵するものであり、武器となるものはごく少数である[4]。ヒッタイト人は溶かした鉄ではなく、隕石を使っていた[5]。ヒッタイト軍は戦車(チャリオット)の使用に成功した[6]。

古代には、民族的なヒッタイト王朝は、現在のシリア、レバノン、イスラエルの周りに散らばった小さな王国で生き残った。統一された連続性を欠いていたため、その子孫は散らばっていき、最終的にはバント、トルコ、メソポタミアの近代的な民族に統合された[7]。

1920年代、トルコ建国に伴い、ヒッタイト人への関心が高まり、ハレット・チャンベルやタフシン・オズギュチなどのトルコ人考古学者の注目を集めた。この間、ヒッタイト学という新しい分野は、国営のエティバンク(「ヒッタイト銀行」)[8]や、ヒッタイト人の首都から西に200キロ離れたアンカラにあるアナトリア文明博物館の設立にも影響を与え、世界で最も包括的なヒッタイト人の美術品や遺物の展示を行っている。

名称
ハッティ (英: Hatti) の英語名で、旧約聖書の ヘテ人(英語版)(英: Hitti、ヘト人とも)をもとにして、イギリス人のアッシリア学者アーチボルド・セイスが命名した。

なお、この聖書の「ヘト人」はカナン人の一派として何度か名前が出てくるが、『エズラ記』9章1節のユダ王国の指導者たちがバビロン捕囚から戻っていた時、氏族長たちの報告で周辺の異民族の名前として出てくるのを最後に名前が上がらなくなり、少なくとも西暦1世紀後半の頃にはユダヤ人たちから「名前以外不明の滅んだ民族」という認識をされていた(『ユダヤ古代誌』第I巻vi章2節[9]など)。



歴史

ヒッタイト人 (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。

近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。

ヒッタイト古王国
紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立した。

ヒッタイト中王国
紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国が成立した。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぎ、70年間ほど記録が少ない時代が続いた。

ヒッタイト新王国

エジプトの壁画に表現されたヒッタイト軍の戦車
紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国が成立した。

紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突(カデシュの戦い)。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリ2世の軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっており、その文化にもフルリ文化が色彩強まった。

紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。

滅亡後
「フリギア」、「リュディア」、「メディア王国」、および「アケメネス朝」も参照
ヒッタイト新王国が滅びたあと、遺民は南東アナトリアに移動し、紀元前8世紀頃までシロ・ヒッタイト国家群(英語版)(シリア・ヒッタイト)と呼ばれる都市国家群として活動した(紀元前1180年-紀元前700年頃)とされる。ただし、この都市国家群の住民はかなりの程度フルリ人と同化していたと考えられている。

歴代君主
古王国以前の支配者
パンバ(英語版)(紀元前22世紀初頭)
ピトハナ(紀元前18世紀)
ピユシュティ(英語版)(紀元前17世紀)
アニッタ(紀元前17世紀)
トゥドハリヤ(英語版)(紀元前17世紀)
PU-シャルマ(英語版)(紀元前1600年)
古王国
ラバルナ1世(紀元前1600年頃?)
ハットゥシリ1世(前1586年頃 - 前1556年頃)
ムルシリ1世(前1556年頃 – 前1526年頃)
ハンティリ1世(前1526年頃 – 前1496年頃)
ツィダンタ1世(前1496年頃 - 前1486年頃)
アンムナ(前1486年頃 - 前1466年頃)
フッツィヤ1世(前1466年頃 - 前1461年頃)
テリピヌ(前1460年頃)
中王国
タフルワイリ
アルワムナ
ハンティリ2世
ツィダンタ2世
フッツィヤ2世
ムワタリ1世
新王国
トゥドハリヤ1世(前1390年頃?)
(以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明)
アルヌワンダ1世
トゥドハリヤ2世
ハットゥシリ2世
トゥドハリヤ3世(前1360年 - 前1344年)
シュッピルリウマ1世(紀元前1344年 - 紀元前1322年)
アルヌワンダ2世(紀元前1322年 - 紀元前1321年)
ムルシリ2世(紀元前1321年 - 紀元前1295年)
ムワタリ2世(紀元前1295年 - 紀元前1272年)
ムルシリ3世(紀元前1272年 - 紀元前1267年)
ハットゥシリ3世(紀元前1267年 - 紀元前1237年)
トゥドハリヤ4世(紀元前1237年 - 紀元前1209年)
クルンタ(?)
アルヌワンダ3世(紀元前1209年 - 紀元前1207年)
シュッピルリウマ2世(紀元前1207年 - 紀元前1178年)
后妃


系図
文献[10][11]を参考に作成。双方の記述で異なる場合は、各王の記事と矛盾しないものを採用した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88

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