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テレビドラマ 始皇帝烈伝 ファーストエンペラー (2007年 中華人民共和国)

1:777 :

2023/01/22 (Sun) 04:09:41

テレビドラマ 始皇帝烈伝 ファーストエンペラー (2007年 中華人民共和国)

監督:閻建鋼

動画
https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%a7%8b%e7%9a%87%e5%b8%9d%e7%83%88%e4%bc%9d+%e3%83%95%e3%82%a1%e3%83%bc%e3%82%b9%e3%83%88%e3%82%a8%e3%83%b3%e3%83%9a%e3%83%a9%e3%83%bc+%e7%ac%ac&FORM=HDRSC3

始皇帝烈伝 ファーストエンペラー 第1話 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x4j9mg3


チェン・カンコー監督「さらば、わが愛/覇王別姫」「始皇帝暗殺」のチェン・フォンイー主演!
中国統一の歴史はこにある…
中国国営放送CCTV(中央電視台)製作!
秦の始皇帝を壮大なスケールで描いた大河ドラマ!

■2007年中国全土にて放送、大きな反響を呼んだ作品。
■CCTVだからこそ実現!リアルなロケと豪華な出演者。
巨額を投じて3年間の撮影期間を費やし、歴史に忠実かつ文化的内包を持った「康煕王朝」
「雍正王朝」に続く超大作!

■よりリアルに当時を表現するために、
情景や服装に徹底的にこだわって華麗に
作り上げ、戦闘シーンでは、1,000頭の馬を
使用したり、兵馬俑のシーンでは、秦の始皇帝稜の一部として世界遺産に登録された通常撮影許可が降りない本物の兵馬俑にて撮影された。


秦朝の王が立て続けに崩御し、
人質の身から突如、次期国王候補に躍り出た始皇帝(幼少名は贏政)。
しかし、宮廷内部の皇后や異母兄弟たちとの
権力争いに巻き込まれ、暗殺未遂にまで遭遇
する。それでも、大臣“呂不偉”の強力な後ろ盾のもと、なんとか生き延びる始皇帝。
だが、そんな中、呂不偉と母のただならぬ関係、そして自分の出生に関する怪しげな噂を耳にしてしまう…。
https://www.amazon.co.jp/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%83%88%E4%BC%9D-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC-DVD-BOX-II-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%A4%E3%83%BC/dp/B001IZ7R8O


『始皇帝烈伝 ファーストエンペラー』は、2001年の中国のテレビドラマ。全33話。

史上初の中国統一を成し遂げた始皇帝の生涯を描く。

あらすじ

紀元前251年、戦国時代の中国・秦王朝。53歳の安国君は病を押して待望の王位に就いた。しかし王の正室で楚国出身の華陽夫人には跡継ぎになる男子がいなかった。

そのころ安国君には23人の子女がおり、王の寵愛を失った夏姫の子である異人は趙国に人質として差し出されていた。

もとは商人の呂不韋は王族である異人に近づき、秦国への逃亡を助けた。そのさい自分の愛人であった趙姫を異人に譲った。

跡継ぎのいない華陽夫人は自身の地位を守るため異人を養子とする事にした。こうして異人は太子になった。

安国君が病で危篤に陥ると、すぐさま呂不韋は趙姫の息子、趙政を次の太子として擁立した。

しかし華陽夫人は、もとは呂不韋の愛人である趙姫が生んだ趙政の出生に関し疑念を抱くようになる。


登場人物 出演者 声優
始皇帝 張豊毅 家中宏
呂不韋 高明(中国語版) 藤本譲
趙姫 宋佳(中国語版) 翔香
華陽太后 宋春雨(中国語版) 秋元千賀子
成嶠 周小鵬 仲田隼人
敏代(ミンダイ)姫 張静初 味里
阿若(アルオ) 范冰冰 小林美穂
黎姜(れい・きょう) 許還幻(中国語版) 瀬戸奈保子
趙高 趙亮(中国語版) 藤田周
李斯 劉威(中国語版) 高橋圭一
嫪毐 一真 佳月大人
戎翟公(じゅうてき・こう) 康凱(中国語版)
烏三更(ウ・サンクン) 周世誼
荊軻 寇振海(中国語版)
高漸離 牛飄
緑娘(ルーニャン) 張恒(中国語版)
孟姜女 何琳(中国語版) 板垣真由子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%83%88%E4%BC%9D_%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC
2:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:17:43

金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた


秦始皇帝の皇子と皇妃か=肖像を復元、きさきには東アジア系と異なる特徴も
配信日時:2018年7月18日
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html

秦始皇帝の皇子ときさきか=肖像を復元、きさきには非アジア系の特徴


秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と皇妃との可能性が高い男女の肖像が復元された。


中国メディアの参考消息などによると、陝西省西安市にキャンパスを置く西北大学信息科学与技術学院が開発したソフトウェアを用いて、秦・始皇帝(在位:紀元前259年~同210年)の皇子と妃(きさき)と見られる男女の肖像が復元された。

始皇帝陵から出土した人骨に基づき、生前の肖像を復元した。女性の骨格は複数人分があったが、身分が高いと思われる女性の肖像を復元した。研究者らは始皇帝の妃の一人である可能性が高いと考えている。女性は20歳前後で、殺害されたと分かった。始皇帝の死に伴い、殉死させられたと見られている。

復元された女性は、目が大きく鼻筋もくっきりとしている。そのため、東アジア人ではない中央アジアまたはコーカソイド系(欧州人)の血が流れている可能性があるとの見方が出ている。

中央アジアでは古くから、コーカソイド系の人々が多く暮らしてきた。現在のウイグルなど多くの民族にもコーカソイド系の血が入っているとされる。また、新疆ウイグル自治区の楼蘭で発見された、紀元前19世紀ごろのものとされる女性のミイラもコーカソイド系の血が入っていたことが分かっている。始皇帝の妃の一人が、コーカソイド系だったとすれば、紀元前に中国の中心部にさらに近い地点にも、コーカソイド系の人々が存在していたことになる。

また、始皇帝の妃だったとすれば、同女性が当時「美女」と評価されていたことは、まず間違いないだろう。とすれば、コーカソイド系をほうふつさせる女性の容貌は、当時の人々の女性に対する審美眼を知る参考にもなりうるはずだ。

肖像が復元されたもう一人の男性は死亡当時30歳前後で、陶器、玉器、絹、青銅の剣、銀器、金など副葬品が大量に発見されたことから、身分が極めて高かったと見られている。しかし男性の上腕骨には矢じりが食い込んでおり、頭部や四肢が切断されていたことが分かった。そのため、男性は始皇帝の皇子など宮室の一員であり、始皇帝の死の直後に発生した大規模な粛清の中で殺害されたと考える研究者もいる。

用いられたソフトウェアは、ディープラーニングの手法を用いて解剖学上のデータを大量に学習して能力を蓄積し、骨格から肖像を復元する。頭髪や目の色などは推測するしかないが、西北大学信息科学与技術学院の李康准教授によると、肖像の復元について厳格な確認を繰り返しており信頼性は高い。すでに警察が犯罪捜査のために広く利用しているという。
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html


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西周の滅亡と秦の正体 2012年4月30日 (月)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html

 戎は通常西方の異民族を意味します。西周は魯や斉に命じて東夷・淮夷(日本人やベトナム人の祖先)を征伐して東方に領土を広げ、晋に命じて北方の遊牧民(匈奴・モンゴル人の祖先)を征伐して北方に領土を広げ、鄭に命じて南方のジャングルを開発させていました。


 西方侵略には周王が直接あたっていたらしいことが詩経の小雅からは窺われます。ここで周が対峙していたのは、西域のオアシス都市で、民族はトルコ系、もしくはインダス文明から流れてきたインド・ヨーロッパ語族でしょう。戎車とはペルシャやメソポタミアの珍しい馬車のことではないでしょうか。今で言えばロールスロイスやランボルギーに乗るような感覚だったのだと思います。

 西周の強さは、西方との貿易にあったのではないでしょうか。

 西周は犬戎に滅ぼされたことになっています。そして犬戎は北方の異民族とされています。しかし晋は西周が滅んだ後も北方の遊牧民に対して攻勢を維持しており、西周が滅びたのは北方の守りが崩れたのが原因ではないと私は思います。

 西周の首都鎬京が陥落したのは、幽王が寵姫の褒姒を喜ばせるために狼煙を上げすぎて、肝心なときに助けが来てくれなかったためと説話ではなっています。幽王は無表情な褒姒を何とか笑わせたいと思っていました。ある日敵襲来の狼煙を上げると、首都周辺の諸侯が慌てふためきながら王宮に集まりました。しかし後から誤報とわかり、諸侯はがっかりして領地に戻りました、この有様を見て褒姒が笑ったので、味をしめた幽王は虚報の狼煙を上げるようになったというのです。狼少年と同じです。

 狼煙というのは天気が良くて見通しがよい地域で発達した通信手段で、砂漠でよく使われていましたので、西周に直属していたのは砂漠のオアシス都市なのではないでしょうか。

 西周が滅びた跡地には秦が進出します。秦は最終的に中国を統一しました。秦という国も起源が不明で、春秋時代の中期から突如として登場します。登場したときには西方に広大な領土を既に持った大国でした。

 私が考えるに、西周を滅ぼしたのは秦であり、秦は西周の直轄地を丸々継承したのではないでしょうか。

 秦は西周が滅びたときに、逃亡した平王を助けたことで諸侯に任じられるのですが、幽王と平王は対立していましたので、おそらく平王は秦をそそのかして幽王を滅ぼさせたのでしょう。誰も幽王を助けなかったのは別に幽王が狼少年だからではなく、鎬京に攻めてきたのが他ならぬ幽王の臣下だったからでしょう。

 しかも秦の始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があります。そして始皇帝は側近以外には絶対に自分の姿を見せませんでした。従来は、始皇帝が金髪碧眼だったのは、実の父親呂不韋が胡人だったから、そして始皇帝が人前に姿を現さなかったのは幼少期に人質としていじめられて人間不信に陥っていたからと言うことになっています。

 しかし、秦が元々タクラマカン砂漠のオアシス都市に住むコーカソイド出身であり、秦の王族と側近は砂漠からの移住以降も白人の血が色濃く残っていたとすれば、始皇帝が金髪碧眼だったのも理解ができます。

 そして、歴代の秦王が何故か本拠地に籠もっていて、中原の会盟に姿を現さず付き合いが悪かったことや、始皇帝が人に見られることを極度に嫌がったのは、自分たちが異民族であることを自覚しており、それを知られたら、領民から排斥されて国が崩壊するする可能性があったからではないでしょうか。

 宮殿奥に隠れて、極端に人目にさらされることを嫌う中国の皇帝の伝統は始皇帝に始まっているのですが、その理由は秦王朝が胡人(コーカソイド・白人)だったことにあるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html
3:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:19:04

秦始皇帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日[4][5])は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)。古代中国の戦国時代の秦の第31代君主(在位:紀元前247年 - 紀元前210年)。6代目の王(在位:紀元前247年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)または趙(ちょう)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)または正(せい)。現代中国語では秦始皇帝または秦始皇と表現する。

秦王に即位した後、勢力を拡大し他の諸国を次々と攻め滅ぼして、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした(秦の統一戦争)。統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に改め、その始めとして「始皇帝」と号した。

治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。統一前の秦に引き続き法律の厳格な運用を秦国全土・全軍統治の根本とするとともに、従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への地方統治の全国的な転換を行い、中央集権・官僚統治制度の確立を図ったほか、国家単位での貨幣や計量単位の統一[11]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の整備・増設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の造営といった世界遺産として後世に残ることになった大事業も行った。法家を重用して法による統治を敷き、批判する儒家・方士の弾圧や書物の規制を行った焚書坑儒でも知られる[12]。

統一後に何度か各地を旅して長距離を廻ることもしており、紀元前210年に旅の途中で49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、秦に君臨した。

称号「始皇帝」

意味
周の時代およびその後(紀元前700年 - 紀元前221年)の中国独立国では、「大王」の称号が用いられていた。紀元前221年に戦国時代に終止符を打った趙政は事実上中国全土を統治する立場となった。これを祝い、また自らの権勢を強化するため、政は自身のために新しい称号「秦始皇帝」(最初にして最上位の秦皇帝)を設けた。時に「始皇帝」と略される[13]。

「始」は「最初(一番目)」の意味である[14]。「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗ることになる[15]。
「皇帝」は、神話上の三皇五帝より皇と帝の二字を合わせて作られた[16]。ここには、始皇帝が天皇神農黄帝の尊厳や名声にあやかろうとした意思が働いている[17]。
さらに、漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた[18]。
元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。そこで神の呼称として「皇」が用いられるようになった。始皇帝はどの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた[13]。
『史記』における表記
司馬遷が編纂した『史記』においては、「秦始皇帝」と「秦始皇」の両方の表記がみられる。「秦始皇帝」は「秦本紀」にて[1][19] や6章(「秦始皇本紀」)冒頭や14節[20]、「秦始皇」は「秦始皇本紀」章題にて遣っている[21][22]。趙政は「皇」と「帝」を合わせて「皇帝」の称号を用いたため、「秦始皇帝」の方が正式な称号であったと考えられる[23]。


生涯

生誕と幼少期
秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭鎮にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた[24] 。

人質の子
詳細は「奇貨居くべし」を参照
秦の公子であった父の異人(後の荘襄王)[25] は休戦協定で人質として趙へ送られていた[3]。ただ、父の異人は公子とはいえ、秦の太子[26] である祖父の安国君(異人の父。後の孝文王。曾祖父の昭襄王の次男)にとって20人以上の子の一人に過ぎず、また妾であった異人の生母の夏姫は祖父からの寵愛を失って久しく二人の後ろ盾となる人物も居なかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない異人は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで秦どころか趙でも立場を悪くし、いつ殺されてもおかしくない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた[27]。

そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつけた。安国君の継室ながら太子となる子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また異人へも交際費を出資し評判を高めた[12]。異人は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。そのような折、呂不韋の妾(趙姫)[3] を気に入って譲り受けた異人は、昭襄王48年(前259年)の冬に男児を授かった。「政」と諱を名付けられたこの赤子は秦ではなく趙の首都邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれた[注 2][28]。後に始皇帝となる[5][27][28]。

実父に関する議論
漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は異人の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を異人に与えた際にはすでに妊娠していたという[3][29][30]。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている[31]。

始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている[14]。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという[32]。『呂氏春秋』を翻訳したジョン・ノブロック、ジェフリー・リーゲルも、「作り話であり、呂不韋と始皇帝の両者を誹謗するものだ」と論じた[33]。

郭沫若は、『十批判書』にて3つの論拠を示して呂不韋父親説を否定している[30][2- 1]。

『史記』の説は異人と呂不韋について多く触れる『戦国策』にて一切触れられていない。
『戦国策』「楚策」や『史記』「春申君列伝」には、楚の春申君と幽王が実は親子だという説明があるが、呂不韋と始皇帝の関係にほぼ等しく、小説的すぎる。
『史記』「呂不韋列伝」そのものに矛盾があり、始皇帝の母について「邯鄲諸姫」(邯鄲の歌姫[29])と「趙豪家女」(趙の富豪の娘[34])の異なる説明がある。政は「大期」(10カ月または12カ月)を経過して生まれたとあり[29]、事前に妊娠していたとすればおかしい。
陳舜臣は「秦始皇本紀」の冒頭文には「秦始皇帝者,秦荘襄王子也」(秦の始皇帝は荘襄王の子である)と書かれていると、『史記』内にある他の矛盾も指摘した[35]。

死と隣り合わせの少年
政の父・異人は呂不韋の活動の結果、華陽夫人の養子として安国君の次の太子に推される約定を得た。だが、曾祖父の昭襄王は未だ趙に残る孫の異人に一切配慮せず趙を攻め、昭襄王49年(紀元前258年)には王陵、昭襄王50年(紀元前257年)には王齕に命じて邯鄲を包囲した。そのため、趙側に処刑されかけた異人だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされた。趙は残された二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった[30]。陳舜臣は、敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察している[35]。その後、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退した。

昭襄王56年(紀元前251年)、昭襄王が没し、1年の喪を経て、孝文王元年(紀元前250年)10月に安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり当時子楚と改名した異人が太子と成った。そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった[36] 政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された[30]。

即位
若年王の誕生と呂不韋の権勢
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとした[30]。しかし、荘襄王3年(前247年)5月に荘襄王は在位3年という短い期間で死去し、13歳の政が王位を継いだ[37]。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した[14]。

秦王政6年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の五国合従軍が秦に攻め入ったが、秦軍は函谷関で迎え撃ち、これを撃退した(函谷関の戦い)[38]。このとき、全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた呂不韋と考えられている[39]。

そして、呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、秦王政8年(紀元前239年)には『呂氏春秋』の編纂を完了した[40]。

だが、呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、****な彼女がなかなか手放してくれない[41]。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男の嫪毐を見つけた[42]。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた[41]。やがて太后は妊娠した。人目を避けるため旧都雍に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた[41][42]。

秦王政9年(前238年)、政が22歳の時にこのことが露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った[41]。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった[43] と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという[35]。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[42]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が太后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う[42]。結果的に嫪毐は政によって一族そして太后との二人の子もろとも殺された[41][42]。

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった[36][41]。だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。

秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った[41]。

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!

秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。
— 史記「呂不韋列伝」14[44]
流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した[14][42]。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した[41] が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した[35]。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した[35]。

専制
李斯と韓非
秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[45]。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し[45]、孝公は衛の公族だった商鞅から[46]、恵文王は魏出身の張儀から[47]、昭襄王は魏の范雎から[48] それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[45]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた[49]。

商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[46]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に[36] 使者の命を受けた韓非は謁見した。韓非はすでに故国を見限っており、自らを覇権に必要と売り込んだ[50]。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた[49]。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[51]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく官吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[52]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[52] という箇所にも共感を得た[49]。

韓・趙の滅亡
詳細は「秦の統一戦争」を参照
秦は強大な軍事力を誇り、先代の荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[30]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[49]。

秦王政17年(前230年)、韓非が死んだ3年後、韓は陽翟が陥落して韓王安が捕縛されて滅んだ(韓の滅亡)[49]。

秦王政18年(前229年)、秦は王翦・楊端和・羌瘣に趙を攻めさせた。次の標的になった趙には、幽繆王の臣である郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害[53][54] につけこまれた秦の侵攻にも、趙王が讒言で李牧を誅殺し、司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。

秦王政19年(前228年)、趙王は捕虜となり、国は秦に併合された(趙の滅亡)[55]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[55]。

趙王は捕らえられたが、その兄の公子嘉は代郡(河北省)に逃れ、亡命政権である代を建てた。

暗殺未遂と燕の滅亡
詳細は「荊軻」を参照
燕は弱小な国であった[56]。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた[55]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく政は帰国を許したという[55]。実際は脱走したと思われる[57] 丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[55][58]。


逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった[56]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた[12][56]。

秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢(とくごう)の地図と秦の元将軍で燕に亡命していた樊於期の首を携えて政への謁見に臨んだ[55][56]。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき政になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[56]。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり政へ襲いかかった。政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[56]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた[56][59]。

政はこれに激怒し、同年には燕への総攻撃を仕掛け、燕・代の連合軍を易水の西で破った。

そして、秦王政19年(前226年)、暗殺未遂の翌年に首都薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も殺害された[59]。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた(燕の滅亡)[57][59]。

魏・楚・斉の滅亡
次に秦の標的となった魏は、かつて五国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。

秦王政22年(前225年)、秦王政は王賁に魏を攻めさせ、その首都・大梁を包囲した。魏は黄河と梁溝を堰き止めて大梁を水攻めされても3か月耐えたが、ついに降伏し、魏も滅んだ(魏の滅亡)[59]。

同年、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[60]。秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍だが、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢陳で起きた反乱[61] と楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は将軍の王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした(楚の滅亡)[57][62]。

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相の后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(斉の滅亡)[63]。秦が戦国時代に幕を引いたのは、秦王政26年(前221年)のことであり、政は39歳であった[63]。

統一王朝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像
皇帝
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は答えて「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位號、號曰『皇帝』。他如議。」「始皇本紀第六」「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議の通りとしよう」(『史記Ⅰ本記』ちくま学芸文庫 小竹文夫・小竹武夫訳 P145)と、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[13]。

五徳終始
始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を持って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた[64]。史記の伝説では秦の始祖、大費(柏翳)が成功し、舜に黒色の旗を貰った、と有る。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された[65][66]。

政治
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[67]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[68]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[69]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[66]。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[68][70] と強硬に主張した李斯の意見が採られた[66]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[71]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[69][72]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[69]。

経済など
始皇帝と李斯は、度量衡や通貨[11]、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法[73] などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[71][74]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した[71]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[69][74]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[70]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[75]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[76]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[69][70]。

度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている[77]。

廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
— 青銅詔版[77][78]
大土木事業


阿房宮図。清代の袁耀作。
咸陽と阿房宮
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[79]。咸陽城には滅ぼした国から娼妓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[79]。

始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ[79] 巨大な宮殿であった[80]。

名称「阿房」とは仮の名称である[81]。この「阿房」は史記・秦始皇本紀には「作宮阿房、故天下謂之阿房宮(宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う)」とあり地名[82] であるが、学者は「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[79]、四阿旁広の様子からつけられたとも[79]、始皇帝に最も寵愛された妾の名[83] とも言う。

始皇帝陵 (驪山)
秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された[84]。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録がある[85]。

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという[84][86]。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた[84]。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた[84]。

1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった[87]。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される[88]。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された[89]。

なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた[90]。


秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。

現代に残る霊渠
万里の長城
詳細は「万里の長城」を参照
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。[80]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[80]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[54][91]。逮捕された不正役人を動員して建造した[92] この壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった[80][93][94]。

霊渠
詳細は「霊渠」を参照
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有霊渠」というものがある[95]。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し[96]、中国の南北を接続した[96]。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ[96]。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた[96]。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる[96]。

天下巡遊
中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[97] いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[98]。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事[99] に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された[98]。


始皇帝の天下巡遊路
順路は以下の通りである[98]。

始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省鄒城市)‐泰山(山東省泰安市)‐黄(山東省竜口市)‐腄(山東省煙台市福山区)‐成山(山東省栄成市)‐之罘(山東省煙台市芝罘区)‐瑯琊(山東省青島市黄島区)‐彭城(江蘇省徐州市)‐衡山(湖南省湘潭市)‐南郡(湖北省南部)‐湘山祠(湖南省岳陽市君山区)‐武関(陝西省丹鳳県)‐咸陽[100][注 3]
29年:咸陽‐陽武(河南省新郷市原陽県)‐之罘‐瑯琊‐上党(山西省長治市)‐咸陽[101]
始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省秦皇島市昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽[102]
始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省安慶市迎江区)‐丹陽(江蘇省南京市)‐銭唐(浙江省杭州市)‐会稽(浙江省紹興市)‐呉(江蘇省蘇州市)‐瑯琊‐成山‐之罘‐平原津(山東省徳州市平原県)‐沙丘(河北省邢台市広宗県)[103]
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省孝感市雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である[104]。

封禅
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の泰山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[105]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[106]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[107]、この儀式を遂行した[108]。

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり[106]、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず[105]、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった[108][109]。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を敢行した[105][108]。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、隣の梁父山で「禅」の儀式を終えた[108]。

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった[109]。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか[108]、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる[105]。吉川忠夫は、始皇帝は泰山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた[108]。

神仙への傾倒

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐巿の船。
泰山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた[110]。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し[111]、そこに取り入ったのが方士と呼ばれる者たちであった[112]。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」[113] と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 - ごまをする)者たちであったという[108]。

その代表格が、始皇帝が瑯琊で石碑(瑯琊台刻石)を建立した後に謁見した徐巿である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬萊山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人の安期生(中国語版)を伴って帰還する[114] ための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した[111][115]。第2回巡遊でも瑯琊を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた[111]。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されると恐れた一行は逃亡した。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう[112][116]。

刻石
各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った泰山そして瑯琊、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない[98]。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業を称える内容である[98]。

逸話
始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、鼎を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある[117]。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった[104]。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱を竜が噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[104]。

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという[111]。

暗殺未遂
詳細は「始皇帝の暗殺未遂」を参照
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた[118]。

高漸離の暗殺未遂
詳細は「高漸離」を参照
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた[119]。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を打ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[118][120]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[118]。

張良の暗殺未遂
詳細は「張良」を参照
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg[80])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[115]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[115]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[42][118][121]。

咸陽での襲撃
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で盗賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[118][122]。

「真人」の希求
天下を統一し封禅の祭祀を行った始皇帝は、すでに自らを歴史上に前例のない人間だと考え始めていた。第1回巡遊の際に建立された琅邪台刻石には「古代の五帝三王の領地は千里四方の小地域に止まり、統治も未熟で鬼神の威を借りねば治まらなかった」と書かれている[123]。このように五帝や三王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王または武王)を評し、遥かに広大な国土を法治主義で見事に治める始皇帝が彼らをはるかに凌駕すると述べている[104]。逐電した徐巿[112] に代わって始皇帝に取り入ったのは燕出身の方士たちであり、特に盧生は様々な影響を与えた[124]。

『録図書』と胡の討伐
盧生は徐巿と同様に不老不死を餌に始皇帝に近づき、秘薬を持つ仙人の探査を命じられた。仙人こそ連れて来なかったが、『録図書』という予言書を献上した。その中にある「秦を滅ぼす者は胡」[125] という文言を信じ、始皇帝は周辺民族の征伐に乗り出した[124]。

万里の長城を整備したことからも、秦王朝にとって外敵といえば、まず匈奴が挙げられた。始皇帝は北方に駐留する蒙恬に30万の兵を与えて討伐を命じた。軍がオルドス地方を占拠すると、犯罪者をそこに移し、44の県を新設した。さらに現在の内モンゴル自治区包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備した[124]。

一方で南には嶺南へ圧迫を加え、そこへ逃亡者や働かない婿、商人ら[126] を中心に編成された軍団を派遣し[124]、現在の広東省やベトナムの一部も領土に加えた[54]。ここにも新たに3つの郡が置かれ、犯罪者50万人を移住させた[124]。

不老不死の薬
2002年に湖南省の井戸の底から発見された3万6000枚に及ぶ木簡の中に、始皇帝が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府の返答が含まれていた。この発見により布告が辺境地域や僻村にまでも通達されていたことが分かった。

地方政府の返答には「そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査している」「地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれない」など当惑した様子がうかがわれる。[127]

焚書坑儒
焚書
始皇34年(前213年)、胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金となった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[128]。始皇帝はこれを群臣の諮問にかけた[129] が、郡県制を推進した李斯が再反論し、始皇帝もそれを認可した[130]。その内容は、農学・医学・占星学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を、博士官にあるものを除き焼き捨て、従わぬ者は顔面に刺青を入れ、労役に出す。政権への不満を論じる者は族誅するという建策を行い、認められた[131][132]。特に『詩経』と『書経』の所有は、博士官の蔵書を除き[注 4] 厳しく罰せられた[133]。

始皇帝が信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[134]。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[133]。始皇帝自身がこの思想を持っていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[135]。

すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[135]。しかし始皇帝は淳于越らの意見を却下した。『韓非子』「姦劫弑臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[136]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[137]。

坑儒
始皇帝に取り入ろうとした方士の盧生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[138]、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在[139] を元にする超人を指した[116]。盧生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時、丞相の行列に随員が多いのを見て始皇帝が不快がった。後日見ると丞相が随員を減らしていた。始皇帝は側近が我が言を漏らしたと怒り、その時周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった[140]。ただし政務は従来通り、咸陽宮で全て執り行っていた[141]。

しかし真人の来訪はなく、処罰を恐れた盧生と侯生は始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。一方始皇帝は方士たちが巨額の予算を引き出しながら成果を挙げず、姦利を以って争い、あまつさえ怨言を吐いて逃亡したことを以って[142] 監察に命じて方士らを尋問にかけた。彼らは他者の告発を繰り返し、法を犯した者約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[143]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[116]。『史記』には「儒」とは一字も述べられておらず「諸生」[144] と表記しているが、この行為を諌めた長子の扶蘇[145] の言「諸生皆誦法孔子」[128] から、儒家の比率は高かったものと推定される[146]。

諫言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[116]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[128]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。また、他の諸皇子は公務につかない限り平民として扱われていた[147] が、扶蘇は任務に就いたことで別格となっている。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[80]。

坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する[148]。

祖龍の死
不吉な暗示
『史記』によると、始皇36年(前211年)に東郡(河南・河北・山東の境界に当たる地域)に落下した隕石に、何者かが「始皇帝死而地分」(始皇帝が亡くなり天下が分断される)という文字を刻みつける事件が起きた[149]。周辺住民は厳しく取り調べられたが犯人は判らず、全員が殺された[150] 上、隕石は焼き砕かれた[28]。空から降る隕石に文字を刻むことは、それが天の意志であると主張した行為であり、渦巻く民意を代弁していた[118]。

また同年秋、ある使者が平舒道という所で出くわした人物から「今年祖龍死」という言葉を聞いた。その人物から滈池君へ返して欲しいと玉璧を受け取った使者は、不思議な出来事を報告した。次第を聞いた始皇帝は、祖龍とは人の先祖のこと、それに山鬼の類に長い先のことなど見通せまいとつぶやいた。しかし玉璧は、第1回巡遊の際に神に捧げるため長江に沈めたものだった。始皇帝は占いにかけ、「游徙吉」との告げを得た。そこで「徙」を果たすため3万戸の人員を北方に移住させ、「游」として始皇37年(前210年)に4度目の巡遊に出発した[118][150]。

最後の巡遊
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊[151] は東南へ向かった。これは、方士が東南方向から天子の気が立ち込めているとの言を受け、これを封じるために選ばれた。500年後に金陵(南京)にて天子が現れると聞くと、始皇帝は山を削り丘を切って防ごうとした[152]。また、海神と闘う夢を見たため弩を携えて海に臨み、之罘で大鮫魚を仕留めた[152][153]。

ところが、平原津で始皇帝は病気となった。症状は段々と深刻になり、ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている[154] 長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を口頭で、信頼を置く宦官の趙高[155] に作成させ託した。

始皇37年(紀元前210年)[156]、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省邢台市広宗県[157])にて崩御[2][152][158]。伝説によると彼は、宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという[89]。

死後
隠された崩御
始皇帝の崩御が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ[56]、秘したまま一行は咸陽へ向かった[56][159][160]。崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった[2][152]。死臭を誤魔化す為に大量の魚を積んだ車が伴走し[2][56]、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた[56] 帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた[154][155][161]。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた[161]。

二世皇帝
始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)[56]、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ[162]。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った[162]。そして李斯さえ陥れて処刑させた[163]。

しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた[164]。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた韓談によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された[164]。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた[164][165]。

『趙正書』の記述
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
趙正書
「趙正書」も参照
以上の始皇帝死去前後の経過は『史記』に基づくが、北京大学蔵西漢竹書の一つである『趙正書』にはこれと食い違う経過が記されている。大きな相違点の一つが胡亥即位の経緯で、『史記』は李斯・趙高の陰謀によるものとするのに対し、『趙正書』では、群臣が跡継ぎに胡亥を推薦し、嬴政がそれを裁可するという手続きを踏んだことになっている[166][167]。

人物
『史記』は、同じ時代を生きた人物による始皇帝を評した言葉を記している。尉繚は秦王時代に軍事顧問として重用された[49] が、一度暇乞いをしたことがあり、その理由を以下のように語った[35]。

秦王為人,蜂準,長目,鷙鳥膺,豺聲,少恩而虎狼心,居約易出人下,得志亦輕食人。我布衣,然見我常身自下我。誠使秦王得志於天下,天下皆為虜矣。不可與久游。
— 史記「秦始皇本紀」4[168]
秦王政の風貌を、準(鼻)は蜂(高く尖っている)、目は切れ長、膺(胸)は鷙鳥(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)のようだと述べる。そして恩を感じることなどほとんどなく、虎狼のように残忍だと言う。目的のために下手に出るが、一度成果を得れば、また他人を軽んじ食いものにすると分析する。布衣(無冠)の自分にもへりくだるが、中国統一の目的を達したならば、天下はすべて秦王の奴隷になってしまうだろうと予想し、最後に付き合うべきでないと断ずる[35][49]。

将軍・王翦は強国・楚との戦いに決着をつけた人物である。他の者が指揮した戦いで敗れたのち、彼は秦王政の要請に応じて出陣した。このとき、王翦は財宝や美田など褒章を要求し、戦地からもしつこく念を押す書状を送った。その振る舞いをみっともないものと諌められると、彼は言った[57][63]。

夫秦王怚而不信人。
— 史記「白起王翦列伝」11[62]
怚は粗暴を意味し、秦王政が他人に信頼を置かず一度でも疑いが頭をもたげればどのような令が下るかわからないという。何度も褒章を求めるのも、反抗など思いもよらない浅ましい人物を演じることで、秦のほとんどと言える兵力を指揮下に持つ自分が疑われて死を賜る命令が下りないようにしているのだと述べた。[57][63]。

方士の盧生と侯生が逃亡する前に始皇帝を評した言が残っている。

始皇為人,天性剛戾自用,起諸侯,并天下,意得欲從,以為自古莫及己。專任獄吏,獄吏得親幸。博士雖七十人,特備員弗用。丞相諸大臣皆受成事,倚辨於上。上樂以刑殺為威,天下畏罪持祿,莫敢盡忠。(中略)。天下之事無小大皆決於上,上至以衡石量書,日夜有呈,不中呈不得休息。貪於權勢至如此,(後略)
— 史記「秦始皇本紀」41


始皇帝は生まれながらの強情者で、成り上がって天下を取ったため、歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考えている。獄吏ばかりが優遇され、70人もいる博士は用いられない。大臣らは命令を受けるだけ。始皇帝の楽しみは処刑ばかりで天下は怯えまくって、うわべの忠誠を示すのみと言う。決断はすべて始皇帝が下すため、昼と夜それぞれに重さで決めた量の書類を処理し、時には休息さえ取らず向かっている。まさに権勢の権化と断じた[116]。

后妃と子女
始皇帝の后妃については、史書に記載がなく不明。ただし、『史記』秦始皇本紀に、「始皇帝が崩御したときに後宮で子のないものがすべて殉死させられ、その数がはなはだ多かった」といっているため、多くの后妃があっただろうということは推測できる。

子女の数は明らかでない。『史記』李斯列伝には、始皇帝の公子は20人以上いたが、二世皇帝が公子12人と公主10人を殺したことを記す。名前の知られている子は以下のものがある。

扶蘇(長子)
胡亥(末子)
また、具体的な親族の血縁上の位置づけが不明な男子がいる。

子嬰 - 『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされる。一方、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされている。『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している。この場合、子嬰は始皇帝の甥、扶蘇と胡亥の従兄弟になる。また、李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う。これが事実であれば、子嬰の生年は紀元前239年(秦王政8年)となり、紀元前206年に項羽によって処刑された際の年齢は34歳頃と思われる。つまり、「始皇帝の弟」、「始皇帝の子」、「始皇帝の孫」、「始皇帝の甥」という四つの説が並立しているのが現状である。
公子高 - 二世皇帝のとき、趙高より始皇帝に殉死させられた。
将閭 - 二世皇帝のとき、趙高より自殺させられた。同母弟2人がいたが、みな自殺した。
評価
暴虐な君主として
始皇帝が暴虐な君主だったという評価は、次の王朝である漢の時代に形成された[169]。『漢書』「五行志」(下之上54)では、始皇帝を「奢淫暴虐」と評する[170]。この時代には「無道秦」[171] や「暴秦」[172] 等の言葉も使われたが、王朝の悪評は皇帝の評価に直結した[173]。漢は秦を倒した行為を正当化するためにも、その強調が必要だった[174]。特に前漢の武帝時代以降に儒教が正学となってから、始皇帝の焚書坑儒は学問を絶滅させようとした行為(滅学)と非難した[174]。詩人・政治家であった賈誼は『過秦論』を表し、これが後の儒家が考える秦崩壊の標準的な根拠となった。修辞学と推論の傑作と評価された賈誼の論は、前・後漢の歴史記述にも導入され、孔子の理論を表した古典的な実例として中国の政治思想に大きな影響を与えた[175]。彼の考えは、秦の崩壊とは人間性と正義の発現に欠けていたことにあり、そして攻撃する力と統合する力には違いがあるということを示すというものであった[176]。

唐代の詩人・李白は『国風』四十八[177] で、統一を称えながらも始皇帝の行いを批判している。

阿房宮や始皇帝陵に膨大な資金や人員を投じたことも非難の対象となった。北宋時代の『景徳傳燈録』など禅問答で「秦時の轆轢鑽(たくらくさん)」[注 5] という言葉が使われる。元々これは穴を開ける建築用具だったが、転じて無用の長物を意味するようになった[178]。

封建制か郡県制か
始皇帝の評価にかかわらず、漢王朝は秦の制度を引き継ぎ[135]、以後2000年にわたって継続された[169]。特に郡県制か封建制かの議論において、郡県制を主張する論者の中には始皇帝を評価する例もあった。唐代の柳宗元は「封建論」にて、始皇帝自身の政治は「私」だが、彼の封建制は「公」を天下に広める先駆けであったと評した[169]。明の末期から清の初期にかけて活躍した王船山は『読通鑑論』で始皇帝を評した中で、郡県制が2000年近く採用され続けている理由はこれに道理があるためだと封建制主張者を批判した[169]。


始皇帝と臣下らの現代彫刻。西安市
近代以降の評価
清末民初の章炳麟は『秦政記』にて、権力を一人に集中させた始皇帝の下では、すべての人間は平等であったと説いた。もし始皇帝が長命か、または扶蘇が跡を継いでいたならば、始皇帝は三皇または五帝に加えても足らない業績を果たしただろうと高く評価した[169]。

日本の桑原隲蔵は1907年の日記にて始皇帝を不世出の豪傑と評し、創設した郡県制による中央集権体制が永く保たれた点を認め、また焚書坑儒は当時必要な政策であり過去にも似た事件はあったこと、宮殿や墳墓そして不死の希求は当時の流行であったことを述べ、始皇帝を弁護した[169]。

馬非百は 歴史修正主義の視点から伝記『秦始皇帝傳』を1941年に執筆し、始皇帝を「中国史最高の英雄の一人」と論じた。馬は、蔣介石と始皇帝を比較し、経歴や政策に多くの共通点があると述べ、この2人を賞賛した。そして中国国民党による北伐と南京での新政府樹立を、始皇帝の中国統一に例えた。

****期には、始皇帝の再評価が行われた。当時は、儒家と法家の闘争(儒法闘争)という面から中国史を眺める風潮が強まった。中国共産党は儒教を反動的・****的なものと決めつけた立場から、孔子を奴隷主貴族階級のイデオロギー(****)とし、相対的に始皇帝を地主階級の代表として高い評価が与えられた[169]。そのため、始皇帝陵の発見は1970年代当時の中国共産党政府によって大々的に世界に宣伝された[179]。

文字という側面から藤枝晃は、始皇帝は君主が祭祀や政治を行うためにある文字の権威を取り戻そうとしたと評価した。周王朝の衰退そして崩壊後、各諸侯や諸子百家も文字を使うようになっていた。焚書坑儒も、この状態を本来の姿に戻そうとする側面があったと述べた[75]。また、秦代の記録の多くが失われ、漢代の記録に頼らざるを得ない点も、始皇帝の評価が低くなる要因だと述べた[180]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

4:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:20:24

金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた


秦の始皇帝は毎日30万字を読んでいた?―中国誌
Record China 2009年9月26日
https://www.recordchina.co.jp/b35606-s0-c30-d0000.html?utm_source=ise&utm_medium=ise

22日、中国誌・博覧群書は秦漢史の研究者として知られる王子今氏の寄稿を掲載した。王氏は秦の始皇帝は毎日約30万字を読む習慣があったと論じている。

写真は兵馬俑博物館。
https://www.recordchina.co.jp/pics.php?id=35606

2009年9月22日、中国誌・博覧群書は秦漢史の研究者として知られる王子今(ワン・ズージン)氏の寄稿を掲載した。王氏は秦の始皇帝は毎日約30万字を読む習慣があったと論じている。網易歴史が伝えた。

【その他の写真】

秦の始皇帝は中国を初めて統一した皇帝。陝西省西安市にある始皇帝陵や兵馬俑は有名な世界遺産だ。兵馬俑は6月から新たな発掘作業を始めており、国内外の多くの観光客を惹きつけている。

秦(紀元前778年―同206年)の時代、文字は竹簡(ちくかん)という竹で出来た札に書かれていた。前漢時代の歴史家、司馬遷(しばせん)の著書「史記」には、「始皇帝は事の大小に関わらず、すべて自ら決裁していた」とあるほか、1日に閲覧する量を決め、それが終わるまでは眠りにつかなかったとされている。「史記」に記されたその1日の量は「竹簡120斤(現在の約30kgに相当)」。

王氏はこれを台湾の学者が発表した論文を参照にして計算した。その論文によれば、当時の竹簡の平均的な重さは51kgで1枚につき38文字前後、合わせて53万文字前後が書かれていた。これに照らし合わせれば、「竹簡120斤」には約31万文字が書かれていた計算になるという。
https://www.recordchina.co.jp/b35606-s0-c30-d0000.html?utm_source=ise&utm_medium=ise
5:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:21:02

金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6

秦(しん、拼音: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国の王朝である。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。姓は嬴(えい)、氏は趙[注 2]。統一時の首都は咸陽。

歴史

周代
紀元前905年に、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。

伝説上では嬴姓は舜の臣の伯益が賜ったとされている。それ以前の嬴氏は魯に居住していたとされる。

周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。

春秋・戦国時代
春秋時代

春秋時代の諸国
襄公の受封
紀元前770年、周の幽王が申侯の反乱に遭い、侵攻した犬戎に鎬京が荒され、幽王と褒姒、太子の伯服(中国語版)が殺された[2][3]。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により平王が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。

早期の歴史
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の文公は汧水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)に置いた。

覇者
穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の文公となり、その治世時には晋にやや押され気味になった(殽の戦い(中国語版)、彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。

戦国時代

紀元前260年の戦国七雄
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い(中国語版))。紀元前383年、献公は櫟陽(中国語版)(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に涇陽(現在の陝西省涇陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。

その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・楚の五カ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は巴蜀(中国語版)(現在の四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。

紀元前298年、斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(三国聯軍攻秦の戦い(中国語版))。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、都の臨淄が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。

恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相の魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。

紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋めにして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。紀元前259年、将軍を王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君と楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い(中国語版))。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った。

これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。孝文王(昭襄王の子)の後、荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前256年に楊摎の進軍を妨害した、東周と西周公は秦の支配下に入り、程なく赧王と文公が死んだため、完全に周は滅びその領地を接収したものの[4]、紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安釐王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。

統一戦争
詳細は「秦の統一戦争」を参照
蓁の統一戦争による領土の拡大

始皇帝
紀元前247年、秦王政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[注 3] の五カ国合従軍が攻めてきたが、函谷関の戦いで撃退した[5][6][7][8][9]。その後も王弟の長安君成蟜の反乱や母の趙姫と愛人の嫪毐の反乱が起きた[10]。紀元前238年に嫪毐の乱に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。

韓と趙の滅亡
紀元前236年、趙の鄴を王翦と桓齮・楊端和が落とし、統一戦争が始まった[注 4][11]。紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した[12][13]。紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14]。同年、韓の公子(君主の子)である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。

しかし、肥下の戦いで桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた[15]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[16][17][18][19]。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。

紀元前230年、内史騰が韓を滅ぼした[20][21][22]。

紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[15][20][23][24]。

紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした[注 5][20][21][22]。

燕との戦いと、魏の滅亡
紀元前227年、燕の太子丹が刺客の荊軻を送りこんだ。政の暗殺に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。燕王喜らは遼東に逃亡した。

紀元前225年、魏の都の大梁を攻め、魏を滅ぼした[25][26][22]。これにより三晋はすべて滅んだ[22]。

楚と燕、斉の滅亡
同年、李信と蒙恬が楚に侵攻したが項燕の奇襲により、大敗した[27][28]。

紀元前223年、秦の将軍王翦が楚を滅亡させ[22]、紀元前222年に代と燕を滅ぼし[29][注 6][30][22]、紀元前221年には斉を滅ぼし中国を統一した[30][22]。

中華統一
「秦朝」も参照
秦王政は中華統一後、自ら皇帝を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、始皇帝(秦始皇)と呼ばれた[31]。この称号は、伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われるが、『史記』秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが「古に天皇(てんこう、日本の天皇とは別)、地皇、泰皇が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古(夏・殷)の君主が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう」としたものと有る。

始皇帝は度量衡・文字の統一[32]、郡県制の実施など様々な改革を行った[31]。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが[33]、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。

匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。


秦朝の行政区分
秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。

また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。

混乱と滅亡

秦末の反乱
紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官の趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、****の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。

その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。

紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。

政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。

官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である(詳しくは前漢を参照)。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。

法制
秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。

経済
始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。


兵馬俑
詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。

歴代君主

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6:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:21:34

趙高
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趙 高(ちょう こう、拼音: Zhào Gāo、? - 紀元前207年)は、秦の政治家。弟に趙成。

生涯
ウィキソースに『史記』秦始皇本紀の原文があります。
本節では主に『史記』における内容を元に記述するが、『趙正書』など他の資料では食い違う点も見られる(後述)。

始皇帝の寵臣
趙高は趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。この時、趙高が宮刑に処されており、のち秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が呈されている(後述)。

実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に一切記されておらず、不明である。勤勉で法律に詳しいことから、始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。

皇帝の操り手
始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる(沙丘の変(中国語版))。

この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が「断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。

また、蒙恬と秦の公子将閭や2人の弟たち・公子高など有力者や敵対者を悉く冤罪で処刑した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。

秦帝国の滅亡と趙高の最期
天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。

その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。

趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが「馬鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。

二世3年(紀元前207年)8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した(望夷宮の変)。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。

同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰[2] に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

死後
趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。

『史記』以外での記述
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
趙正書
「趙正書」も参照
『史記』と同時期である北京大学所蔵の前漢代の竹簡資料の一つである『趙正書』によると、趙高が始皇帝の遺言を書き換えた沙丘の変に関しての記述はなく、始皇帝は自ら後継者を胡亥に選んだ上で死去したとされている。またその最期に関しての記述も史記とは異なっており、項羽に降った章邯によって殺されたと記述されている。

後世における評価
趙高は秦帝国を私物化し、保身のため忠臣賢臣を謀殺するに足らず皇帝をも殺し、天下万民からも恨みを買い、帝国滅亡の原因となったため、悪臣の象徴として後世でも引き合いに出されている。唐の太宗は趙高を後漢の少帝弁を弑逆した董卓と並べて非難している。また、梁啓超は趙高を後漢の十常侍、唐の李林甫、宋の蔡京・秦檜・韓侂冑、明の魏忠賢とともに非難している。

日本でも『平家物語』において、漢の王莽、南朝梁の朱异、唐の安禄山とともに趙高が引き合いに出され、天下を私した結果滅んだ例として紹介されている。

趙高非宦官説
ウィキソースに『史記』蒙恬列伝の原文があります。
『史記』蒙恬列伝には、「趙高の昆弟数人、皆隠宮に生まる。」という記述がある。この記述について、注釈書の『史記集解』[3]・『史記索隠』は、ともに「隠宮」を宦官のことと解釈している[4][5]。また、「隠宮」という語は秦始皇本紀にも見え[6]、『史記正義』はそれを宮刑のことと解している[7]。こうした『史記』の注釈書(三家注)から、趙高が宦官であったという理解が広まることとなった[8]。

しかし、滝川亀太郎『史記会注考証』は中井積徳の文を引き、趙高には閻楽という女婿がいることから[1]、生まれてすぐに宦官になったわけではないとしている[9]。そうであれば、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したか、もしくは連座により宮刑に処せられたと思われる。また、趙高は貧家に生まれ、多くの兄を養うために自ら宦官を志願して秦に仕えたのだとする説もある。[要出典]

その後、新たに出土した竹簡史料を根拠に、そもそも趙高が宦官でなかったとする説が唱えられている。馬非百(中国語版)は蒙恬列伝の「隠宮」は「隠官」の誤写であると指摘している。「隠官」という語は睡虎地秦簡・里耶秦簡・張家山漢簡に見え、刑期が満了した人が働く場所、またはその身分をいう。つまり、趙高は宮刑や去勢を受けたわけではなく、宦官ではなかったということになる[8][10]。鶴間和幸は、『史記索隠』・『史記正義』が作られた唐代には宦官の政治的弊害が大きかったため、趙高が宦官と理解されたという見解を示している[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E9%AB%98
7:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:22:03

胡亥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E4%BA%A5

胡亥(こがい、拼音: Húhài)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)。始皇帝の末子。


生涯

二世皇帝に即位
始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。

胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、紀元前230年生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、紀元前221年生としている。

始皇帝には二十数人男子がいたとされる[4] が、また、姚氏は隠士が遺した章邯の書物にある「李斯は17人の兄を廃して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録から、始皇帝の18番目の男子であると推測している[5]。

始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。

巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。

同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。左丞相の李斯はこの知らせを秘密裏にし、すぐには発表しなかった。同時に宦官の趙高は胡亥にこの事を伝え、「扶蘇様が即位すれば、他の公子にはわずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は「父が決めた事に、私が何を口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高はさらに帝位の簒奪を促し、「殷の湯王や周の文王は主(夏の桀王・殷の紂王)を誅し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。小事に拘って大事を蔑ろにすれば、後に害が及ぶものです。ためらえば必ず後悔することになります」と述べた 。度重なる訴えについに胡亥は趙高の謀略に同意し、その後趙高は宰相の李斯をも説得し、謀略に引き入れた[4]。3人は始皇帝の詔を偽って胡亥自身は皇太子に即位し、長男の扶蘇と将軍の蒙恬には使者を送り、始皇帝の筆と偽って多数の罪状を記した書状を渡して、両名に死を賜った。

書状を受け取った扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬はこれを疑って再度の勅命を要求した。胡亥は蒙恬を許すことを望んだが、趙高はかつて蒙恬の弟である蒙毅が、自身を法に基づいて死罪にしようとしていたことを恨んでいたため「先帝(始皇帝)は長らく優れていた胡亥様をこそ、太子に立てようと望んでおられました。しかしこれに蒙毅が反対していたため、実現に至らなかったのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」と唆した。胡亥はこれを聞くと蒙恬・蒙毅を投獄した[6]。胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。

蒙恬・蒙毅の処刑
同年9月、始皇帝を驪山に葬った。胡亥は始皇帝の後宮の女官らを、全て始皇帝に殉死させた。また始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄[7] である子嬰は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。

また、時期は不明ながらこの頃、胡亥は趙高を召して「私は耳目に心地良いものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことを可能にする手立てはあろうか?」と尋ねた。趙高は「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた[4]。

胡亥は蒙毅に使者を遣わして「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)」と言い渡した。蒙毅は弁明の機会を要求したが、使者はこの言葉に耳を傾けず蒙毅を殺害した。続いて、胡亥は蒙毅の兄の蒙恬にも使者を遣わし、蒙毅の罪を糾弾した。蒙恬は胡亥への諫言の後に罰を受ける事を要請したが、使者は「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。

公子らの粛清
胡亥は法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時「大臣は私に服しておらず、官吏はなお力を持っている。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」と尋ねた。趙高は「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥はこれを受けて大臣や諸々の公子の粛清を実行した。公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人は杜(地名)において車裂の刑に処された上に市場で晒し者とされ、財産は朝廷に没収された[4]。公子の一人であった高などは逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れ、自ら始皇帝への殉死を訴え出た[4]。

同年4月、胡亥は始皇帝の開始した阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。また郡県に物資や食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることすらできなくなったという。また、法令や誅罰は日々厳しさを増していき、道路の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった[4]。

陳勝・呉広の乱
同年7月、秦の朝廷への大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱が、南方の楚にて勃発する。反乱を起こした陳勝たちは陳を制して張楚の王を名乗り、また国内各地に武将を派遣して秦の官軍の攻略を命じ、反乱には数え切れないほどの農民が参加した。

胡亥は使者から反乱の事実を伝えられたが、これに怒って使者を獄に繋いだ。その上で諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」と尋ねた。多くの者は「これは反乱ですので、すぐに軍を出して討伐してください」と答えたが、学者の一人であった叔孫通は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意し、全ての学者に対して改めて「反乱と捉えるか、盗賊と捉えるか」と答えさせた。胡亥は「反乱である」と答えた学者を取り調べさせ、「言うべきではないことを言った」との理由で投獄した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに朝廷から逃亡したという[8]。

同年9月[9]、陳勝の配下である周文の軍が、戯において数十万の兵を率いて陣を布いた。ここに至って胡亥は驚きを露わにし、群臣に「どうすればいいのか?」と諮った。少府の章邯は「盗賊はすでに接近しており、今から近くの県から兵を徴発しても間に合いません。驪山には多くの囚人がいますので、彼らに武器を与えて盗賊を攻撃させてください」と提案し、胡亥は章邯を将に任じて、周文を攻撃させた。章邯は周文を打ち破り、周文は敗走した。二世二年(紀元前208年)11月、章邯は重ねて周文を攻撃し、周文は死亡した。

この頃から、丞相の李斯はしばしば胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に「私には私の考えがある。古代の聖人君子であった堯・禹らは、衣食住を質素とし、捕虜よりも重いほどの労役を自ら行ったが、これは愚か者の行為であり、賢君の行為ではない。賢君とは天下を己の思い通りに治めるものであり、自分を満足させることさえできないのに、天下を治めることができるだろうか」[4]と反論した。李斯は保身のために忖度して「堯や禹のやり方は間違っていました。君主が独断専行を行い、厳しい刑罰を実行すれば、天下の人々は罪を犯す事はないでしょう。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけるべきです。臣下への統制が厳格なものとなれば、天下は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになるでしょう」と上書したので、胡亥はこれに喜んだという[4]。以降、胡亥は臣下への圧迫・刑罰がますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また民衆の中にあっても刑罰に処されたものは国民の半数にも達し、処刑されたものは日々市に積み上げられたという[4]。

丞相・李斯の刑死
この頃[10]、胡亥は、趙高から「陛下は若くして皇帝に即位されたばかりであるため、陛下に過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。これ以降、胡亥は常に禁中にこもり、大臣たちは趙高を介してしか対面できなくなった。

丞相の李斯はこの措置に不満を持ったが、趙高は表向き李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が酒宴を行っている時に限って李斯に上殿を要請したため、胡亥は李斯が酒宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。すると趙高は「李斯は故郷の近しい陳勝たちと内通し、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。これを聞いた胡亥は、李斯への取り調べを開始した[4]。李斯は上書して「趙高には謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は「趙高は忠義によって昇進し、信義によって今の地位にあるのだ。趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。朕は趙高をすぐれた人物と思っている。君も彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。李斯はなおも「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」[4]と処断を求めたが、胡亥は李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこの頃を告げた。趙高は「私が しねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と答え。胡亥は李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた[4]。

この年の9月には、陳勝に代わって反乱軍の首領となっていた項梁が、章邯に敗れて戦死している[11]。これに時期を近くして[12]、右丞相の馮去疾・左丞相の李斯・将軍の馮劫は胡亥を諫め、「関東の群盗らは数多く、未だに決起は止むことはありません。これは民が兵役や労役で苦しみ、賦税が大きいからです。しばらく阿房宮の工事を中止して、四方の兵役や輸送の労役を減らしてください」と訴えた。しかし胡亥は「『(古代の聖人である)尭や舜の生活が質素であり、苦役を行った。天子が貴いのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくして、法を厳しくすれば、民は罪を犯さず、天下を制御することができる。天子であるにも関わらず、質素な生活と苦役を行い、民に示した舜や禹は手本にすることはできない』と韓非子は言っている」と反論した上、「朕(胡亥)は帝位につきながら、その実がない。私は(皇帝・天子の)名にふさわしい存在となることを望んでいる。君たちは先帝(始皇帝)の功業が端緒についたことを見ていたであろう。朕が即位して2年の間、群盗は決起し、君たちはこれを治めることができなかった。また、先帝の行おうとしていた事業(阿房宮の工事など)を止めさせようと望んでいる。先帝の報いることもできず、さらに朕にも忠義と力を尽くしていない。どうして、その地位にいることができるのか?」と言って、馮去疾・李斯・馮劫を獄に下して、余罪を調べさせた。馮去疾と馮劫は自殺し、李斯は禁錮させられた。

胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた[11]。

李斯に五刑[13] を加え、咸陽の市場で腰斬するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった[11][14]。

この頃[15]、王離(王翦の子の王賁の子)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇・張耳らの籠る鉅鹿を包囲した[16]。

鹿を謂いて馬となす
二世三年(紀元前207年)、胡亥は李斯に代わって趙高を中丞相に任命し、諸事は大小に関わらず全て趙高が決裁することとなった。この頃、秦の将軍の章邯は、朝廷に背いて王を名乗った趙歇の居城・鉅鹿の包囲に向かっていたが、同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。翌年1月には楚軍の項羽率いる諸侯連合軍により、秦の将軍で王翦(始皇帝の中華統一に貢献し、項羽の祖父の項燕を戦死させた)の孫の王離が捕らえられ、さらに同年3月には同じく楚軍の劉邦が秦将の趙賁・楊熊らを破った。楊熊は滎陽へ敗走したが、胡亥は使者を派遣し、楊熊を処刑して見せしめとした[17]。

同年4月、項羽率いる楚軍は章邯を攻め、章邯はしばしば退却を取ったため、胡亥は使者を派遣して章邯を叱責した。章邯は副将の司馬欣を首都咸陽に派遣して援軍を要請しようとしたが、司馬欣は趙高に捕縛され処刑されそうになったため、司馬欣は咸陽から逃げ出した。そのため最終的に、章邯は司馬欣の勧めもあって楚軍に降伏し、項羽によって章邯は雍王に封じられた(鉅鹿の戦い)。

この頃から、趙高は胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として群臣たちの思惑を問い質そうとした。そこで趙高は鹿を用意し、「馬です」と称して胡亥に献上した。胡亥は「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は何を間違えたのだ」と笑って答えたが、胡亥が左右の群臣たちに問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高に阿り従って「馬です」と言い、ある者はその通りに「鹿です」と言った。趙高は「鹿です」と答えた諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。これが、いわゆる「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。

望夷宮の変とその後
詳細は「望夷宮の変」を参照
この頃胡亥は、1匹の白虎が自分の馬車を轢く左の馬を食い殺してしまう、という夢を見て不安を感じ、夢占いの博士と相談した後に、咸陽宮から涇水周辺にある望夷宮へと移った。その後も趙高による謀反の計画は進行し、そしてついに同年の某日、趙高の娘婿の閻楽が「宮中に賊が入った」と称して兵士たちを率いて宮中に押し入り、胡亥の寝所にまで押し寄せ、胡亥の罪状を数え上げて「あなたは無道な君主であり、天下の者は皆あなたに背いている。あなたは自裁するべきである」と言い渡した。

胡亥は「丞相(趙高)に会うことはできないのか」と尋ねたものの聞き入れられず、さらに「(位を退くから、せめて)郡王にしてくれないか」と求めたが、閻楽は同意しなかった。胡亥はなおも「(それならさらにせめて)万戸侯にしてくれないか」と臨んだが、閻楽はこれにも同意しなかった。そして最後に胡亥は、「妻子ともども、平民百姓としてでも良いから生かしてほしい」と懇願した。しかし閻楽は「私は丞相の命を受け、天下の百姓に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。胡亥は生き延びられない事を知り、自害させられた。これが『史記』始皇本紀に記された、胡亥の死の顛末である(望夷宮の変)。

また『史記』李斯列伝に記述された異説として、上述の「指鹿為馬」の事件の後に、胡亥は自分の気がおかしくなったのではないかと考え、占い師と相談した上で上林苑(皇帝の苑)に入って毎日遊びや狩りに熱中しており、ある時上林苑の中に立ち入った者があったため、胡亥は自らその者を射殺した[4]。趙高は胡亥を諫めて「天子が理由もないのに、無辜の人を殺したとは、上帝(天帝)が禁じていることです。祖霊も祀りをうけいれず、天はいまにも(胡亥に)災いをくだすでしょう。遠く咸陽宮を避けて、御払いをなさるべきです」と告げたため、胡亥は皇居から出て、望夷宮へと移ったという経緯であったとされる[4]。そしてその3日後に、趙高は服喪である白い衣を着せてた衛士を率いて望夷宮に入り、胡亥に「山東の群盗の兵が大勢来ました!」と告げた。胡亥は楼の上に登り、入ってきた喪服の兵士たちを見て恐れ慄き、趙高に脅された胡亥は自ら命を絶った、という経緯であったと記されている[4]。

趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄[7] である子嬰に玉璽を渡し[4]、同年9月に同年9月、子嬰は正式に秦王に即位する。胡亥は庶民の礼式のみを以て、杜南の宜春苑の中に葬られた。

後世の風説と逸話
始皇32年(紀元前215年)、始皇帝の巡遊中に、方士である燕人の盧生が人を遣わして、海より持ち帰り、鬼神の事を記したものとして『録図書』という書物を奏上してきた時、秦を滅ぼす者は胡なり」という一文が記されていた。始皇帝はこのため、将軍の蒙恬に命じ、30万の軍を出動させて、北の胡人(匈奴)を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を奪い取った。

後漢の学者である鄭玄はこの事を指して、「『胡』とは胡亥、秦の二世皇帝の名である。秦(始皇帝)は図書(録図書)を見て、それが人名であるとは思わず、北の胡人に備えてしまったのだ」と論じている[18]。

また、胡亥が咸陽城を漆で塗ろうとしたところ、優旃(秦に仕えた小人の芸人。冗談が巧みだったと伝わる)が「漆を塗るのは容易ですが、乾燥室が作れません」と冗談めかして諫めたため、胡亥が笑って、中止したという逸話がある[19]。

前漢時代に記されたと見られる『趙正書』では、病気が重くなり死の淵にあった始皇帝(ただし、『趙正書』では皇帝に即位せず、秦王)が、李斯と馮去疾が胡亥を後継とすることを提案し、始皇帝の同意を受け、胡亥は正式に秦王として即位している。『趙正書』において、胡亥は子嬰や李斯の諫言を聞かず、李斯を処刑し、趙高を用いて、趙高に殺されている[20]。

評価
前漢の政治家である賈誼は、その著書『過秦論』の中で、胡亥を次のように評価している。

「秦の二世皇帝(胡亥)が即位すると、天下の人は全て彼の政治に期待を込めた。もし、二世が並みの君主の行いをして、始皇帝の(苛政による)過ちを正して、封建制にもどし、礼制度を整え、罪人を開放し、法や刑罰を緩くして、労役や税を軽くし、民を救済して、行いを修め、各々が身を慎めるようにすれば、天下の民心は帰服したであろう。しかし、二世は無道の政治を行い、阿房宮の建造を行い、刑罰を厳しくし、賞罰は不適当で、労役や税を重くし、民が困窮しているのに、救おうとしなかった。反乱が起きても、秦の君臣は責任のがれをし、刑死するものが多く、皇帝・官吏・庶民まで安心して暮らすことができなくなった。胡亥が皇帝に即位して天下を治めながら、殺戮されてしまったのは、始皇帝から続いた民心が安定しない政治を正すことを(正すどころか、より厳しい政治を行うことで)誤ったからである」。

また、後漢の歴史家である班固は、胡亥のことを「胡亥は極めて愚かだった。驪山や阿房宮の工事を行い、『天下を有するものが(天子)が貴いとされるのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくすからである』と言った。大臣が始皇帝の事業を中止したいと望んだら、(諫めた)李斯と馮去疾を処刑し、趙高を信任した。(胡亥の言葉は)人の頭を持ちながら、獣の鳴き声(のようなもの)だ! 悪を重ねなければ、空しく滅びることもなかったろうに! 帝位にとどまることができない状況でも、残虐な所業を行い、滅亡の時期を早まらせた。要害の国にいても、なお存続はできなかったのだ」と評している[21]。

『趙正書』では、「胡亥は諫言を聞かなかったために、即位して4年で殺されて、(秦)国は滅びてしまった」と評している[22]。

鶴間和幸は「(上述した通り、胡亥が12歳で即位して、15歳で死去したことを前提として)暗愚で無能な皇帝という評価を下すには若すぎる。むしろけなげに父始皇帝のあとを見届けた少年皇帝であった」と評している[23]。

年齢・家族等に関しての研究
日本の歴史学者である鶴間和幸は「『史記』のなかで、胡亥自身が趙高に向かって「朕は年少で(略)」とこぼす場面があり、趙高も胡亥に「いま陛下は春秋に富んでいる」といい(略)。古代では十代やそれ以下の年齢で皇帝に即位したときには、臣下は皇帝に向かって年少というのをはばかり、「春秋に富む」という婉曲的な表現を用いた。前漢では(略)少年皇帝に使用された表現で、21歳の青年皇帝にいうものではなかった」とみなし、胡亥が12歳(紀元前221年)で即位したことを前提にして論じている[24]。
日本の歴史学者である藤田勝久は胡亥の母について「少なくとも扶蘇とはちがう母の生まれで、趙のバックアップを受けたことは間違いない。なぜなら趙高は、戦国趙の一族でもあったし、始皇帝が亡くなった沙丘の平台は、戦国趙の離宮だったからである。そこで沙丘の陰謀には、かつての趙の勢力が控えており、そのため李斯はどうすることもできなかったのであろう」と論じている[25]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E4%BA%A5
8:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:22:34

金髪碧眼の白人だった秦始皇帝はモンゴロイドの中国人や中国の文化・伝統を完全にバカにしていた


紀元前の中国にギリシャ人陶工? 兵馬俑の調査で新たな見解
2016年10月13日
https://www.bbc.com/japanese/37628254

ギリシャ人の職人が兵馬俑の制作現場で働いていた可能性がある画像
http://ichef.bbci.co.uk/news/660/cpsprodpb/358B/production/_91770731_soldiers_getty624.jpg

画像説明,
ギリシャ人の職人が兵馬俑の制作現場で働いていた可能性がある

古代中国・秦の始皇帝の陵墓近くで発掘された「兵馬俑」の調査で、マルコ・ポーロが中国を訪れた13世紀よりも1500年以上前に中国と西洋文明が接触していたことが示唆された。

考古学者たちによると、等身大の兵馬俑の陶製像が古代ギリシャから発想得ていた可能性がある。紀元前3世紀の中国で、ギリシャの職人が地元の労働者を指導していたかもしれないという。

「東方見聞録」を書いた13世紀のベネチア商人マルコ・ポーロの旅が、詳しい記録が残るものとして最初の西洋による中国訪問だと従来は言われてきた。

これに対して、秦始皇帝陵博物院の李秀珍研究員は、「シルクロードが正式に開かれる前に、中国最初の皇帝と西洋との間に緊密な連絡があった証拠がある。従来考えられていたよりもずっと早い時期だ」と語った。

別の研究では、ヨーロッパ人だけが持つ種類のミトコンドリアDNAが中国最西部の新疆ウイグル自治区で見つかっており、始皇帝よりも前の時代に西洋人が同地域に定住していた可能性が示唆されている。

始皇帝は紀元前259年に生まれ、210年に没した

画像
http://ichef.bbci.co.uk/news/624/cpsprodpb/D1CB/production/_91770735__wiki_pd.jpg

画像説明,
始皇帝は紀元前259年に生まれ、210年に没した

兵馬俑は1974年に、始皇帝の陵墓から約1.5キロ離れた場所で農業従事者によって発見された。

しかし、陵墓が築かれる前に実物大の陶製像を作る習慣はなかった。より古い時代の発掘品には、高さ20センチ程度の単純な形の像しかない。

技術や形態の大々的な変化は、どうやって可能になったのか。その理由を解明しようとするなかで、李研究員は中国の外から影響があったという考えに行き着いた。

李研究員は、「我々は現在、発掘現場で見つかった兵士や曲芸師の像、ブロンズ像は、古代ギリシャの彫刻と芸術の影響を受けたものだと考えている」と語った。

ウィーン大学のルーカス・ニッケル教授は、始皇帝陵墓で最近見つかった曲芸師の像が、古代ギリシャからの影響説を支持していると話す。

兵馬俑をめぐる研究はBBCのドキュメンタリー番組で紹介される予定だ
画像説明,
兵馬俑をめぐる研究はBBCのドキュメンタリー番組で紹介される予定だ

始皇帝は、アレクサンドロス大王の遠征によって中央アジアにもたらされたギリシャの彫像の影響を受けたとニッケル教授は考えている。アレクサンドロス大王は紀元前323年に没し、その約60年後に始皇帝は生まれている。

ニッケル教授は、「ギリシャの彫刻師が(兵馬俑を制作する)現場にいて地元の人を訓練していたのかもしれない」と話す。

このほか研究者らは、始皇帝の陵墓の規模が当初考えられていたよりも巨大で、エジプトの「王家の谷」にあるピラミッドの200倍以上ある可能性を示す新たな証拠を発見している。

また、始皇帝の後宮で高位にあったとみられる女性の体が切断された後の骨や、石弓の矢が食い込んだ男性の頭蓋骨などを発見している。

この頭蓋骨は、始皇帝の長男、扶蘇の頭だと考えられており、始皇帝の死後に起きた権力闘争で殺害されたとみられている。

(英語記事 Western contact with China began long before Marco Polo, experts say)

https://www.bbc.com/japanese/37628254
9:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:23:05

秦の始皇帝陵を造営の労働者、大半が「南方の少数民族」だった=人骨のDNA鑑定で判明―陝西省
Record China 2009年8月12日
https://www.recordchina.co.jp/b34307-s0-c30-d0000.html

写真は秦の始皇帝陵。
https://www.recordchina.co.jp/pics.php?id=34307


2009年8月11日、陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵で発見された人骨のミトコンドリアDNAを鑑定した結果、陵墓建設に従事した労働者の多くは南方から駆り出された少数民族であることが分かった。中国新聞網が伝えた。

【その他の写真】

復旦大学生命科学院現代人類学研究センターの張君(ジャン・ジュン)研究員らのグループが現代中国人のミトコンドリアDNAと比較したところ、人骨の大半は中国南方の少数民族のものであることが分かった。漢族のものも含まれていたが、北方少数民族のものは発見されなかった。鑑定を行った121体は全て15歳〜45歳の男性で、平均年齢は24歳。死因は過酷な労働によるものと見られている。生き埋めや拷問の形跡はなかった。伝染病の可能性もあるという。

前漢時代の歴史家、司馬遷による「史記・秦始皇本紀」などの歴史書でも「始皇帝は即位後、全国の広い範囲から大量の人員を召集し、陵墓建設の労役につかせた」と書かれており、今回の鑑定結果はこれを裏付けるものとなった。

なお、ミトコンドリアDNA鑑定では母系をたどることしかできない。父系をたどることができるY染色体のDNA分析とあわせて検証することで、さらに詳しい出身地を特定することができるという。(翻訳・編集/NN)
https://www.recordchina.co.jp/b34307-s0-c30-d0000.html
10:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:23:45

秦国の成立と滅亡、秦の統一戦争も解説
2022年9月2日
https://rekishi-shizitsu.jp/shinnotouitsusensou/#:~:text=%E5%9B%A0%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%80%81%E7%A7%A6%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%96%E5%B9%B4%E3%81%AB%20%E5%8A%89%E9%82%A6%20%E3%81%AB%E7%A7%A6%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%92%B8%E9%99%BD%E3%82%92%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81,%E9%A0%85%E7%BE%BD%20%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E7%A7%A6%E7%8E%8B%20%E5%AD%90%E5%AC%B0%20%E3%81%8C%E6%96%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%8B%E3%81%A7%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82


秦の年表 主な出来事

紀元前771年 秦が諸侯として認められる
紀元前624年 西戎の覇者となる
紀元前356年 商鞅の改革が始まる
紀元前260年 長平の戦い
紀元前221年 秦の天下統一
紀元前206年 秦の滅亡


秦の統一戦争と言えば、春秋戦国時代の末期に始皇帝(嬴政)が、韓・魏・趙・楚・燕・斉を滅亡させた戦いを思い起こす人が多いかと思います。

しかし、自分の中では、秦の統一戦争といえば、春秋戦国時代の初期に、周の平王を洛陽に入れた、秦の襄公の時代に遡ると考えています。

始皇帝は確かに、6国を滅ぼして、天下統一しましたが、始皇帝が即位した当時は、既に他の6国は弱体化していたわけです。

始皇帝は、弱体化した諸侯を、秦の圧倒的な武力で統一したのであり、始皇帝一代で秦を強国にして統一戦争に勝利したわけではありません。

キングダムのファンはガッカリするかも知れませんが、嬴政(えいせい)は最後の一押しで統一したという事実を、覚えて欲しいなと考えて記事にしました。

尚、春秋戦国時代の地図を見ると、秦と楚はかなりの領域を抑えている様に思うかも知れません。

しかし、秦や楚は肥妖な中原の地から外れていますので、土地の広さの割には生産力がない場合も多かったようです。

逆に、韓や魏などは、中原の地を抑えている為、領土は狭くても生産力が高かったなども話しもあります。

日本で言えば、出羽国が奥羽山脈の西側を全て押さえているのに、30万石しかなく、尾張国は小さいのに60万石近くあったのと似ているのでしょう。

ここでは、秦がどの様に誕生し、統一戦争を成し遂げていったのか解説します。

因みに、秦の滅亡は紀元前206年に劉邦に秦の首都咸陽を落とされ、項羽により秦王子嬰が斬られた事で滅亡しました。


尚、画像は上記の動画を使っておりますが、夏王朝から秦の統一まで視覚的に分かる様になっております。


伝説の時代

史記の秦本紀によれば、秦の祖先は五帝に一人である、顓頊の子孫だとあります。

顓頊の孫には、女脩がおり機織りをして生計を立てていました。

玄鳥(つばめ)が卵を落として行ったので、女脩が飲み込むと妊娠し大業を生む事になります。

大業は小典の娘である女華を娶り、大費を生みます。

大費は帝瞬の時代であり、大費は夏王朝の始祖とも言える禹を助けた事で功績がありました。

瞬は大費に嬴氏の姓を賜うた話があります。

これが嬴氏の始まりとされています。

ただし、この頃の嬴氏は諸侯として君臨していたわけではありません。


殷の時代
嬴氏の祖先としては、殷の紂王に仕えた蜚廉と悪来は有名です。

蜚廉は足が速く、悪来は怪力無双の者だった話があります。

ただし、蜚廉と悪来は親子で讒言を好み、最後は周の武王により殺害されています。

尚、三国志で曹操に仕えた典韋は「悪来」の異名を取りますが、典韋の力が余りにも強かった事から悪来と呼ばれたわけです。

蜚廉も悪来も亡くなりますが、蜚廉には季勝なる子がおり、季勝の子である孟増は周の成王に気に入られた話があります。

西周王朝の時代
秦の先祖としては、周の穆王の時代に造父がいた事は有名です。

造父は馬を巧みに扱い周の穆王を助けた話があります。

周の穆王が持っていた名馬である穆王八駿とも関係しているのでしょう。

周の穆王の時代は、各地に遠征した話があり、徐の偃王の乱にも造父が御者として参加した記録があります。

尚、造父は秦の祖というだけではなく、戦国七雄に数えられた趙の子孫でもあります。

秦は焚書坑儒などを行いましたが、趙の歴史書は残り司馬遷が手にする事が出来た話しもあります。

造父から別れた趙の子孫としては、趙衰がおり、春秋五覇の一人に数えられる重耳に仕えた事で有名です。

因みに、西周時代に秦は「秦侯」となり、西戎らと激闘を繰り広げられていたとも考えられています。

造父の時代に、秦は飛躍したとも言えるでしょう。

秦の襄公が諸侯に認められる

(上記の勢力図は紀元前770年)

秦が正式に諸侯になったのは、周の幽王が犬戎に殺害されてからです。

周の幽王は、褒姒を喜ばすためにオオカミ少年と化し偽りの狼煙を上げ続け、諸侯の信頼を失い申公や犬戎に攻められて、驪山(りざん)の麓で殺されています。

この時に、周の幽王の子である宜臼(ぎきゅう)は、母方の実家である申にいました。

周王朝の首都である鎬京は、犬戎に壊滅されてしまったわけです。

申の国に晋、衛、鄭、魯、秦などの国々が集まり、宜臼を周の副都であった洛陽に入れる事にしました。

宜臼を洛陽に入れるための、連合軍の中に秦の襄公もいました。

秦は、周王朝の配下の諸侯の一人ではありましたが、西方の野蛮な民族とも見られていた歴史があります。

秦の襄公は、ここで陣頭に立ち敵を蹴散らし、宜臼を洛陽に入れるのに大活躍したわけです。

これにより秦は正式な諸侯として、周王に認められています。

宜臼は、周の平王となりますが、周王としての力はほとんどなく、諸侯の争いを止める力も、ほとんど持ちませんでした。

ここに春秋戦国時代が始まるわけです。

尚、正確に言えば、周の王子である余臣も携王を名乗り、二王朝並立時代にもなったわけです。

携王には虢(かく)などの諸侯が味方しています。

私は、秦の襄公が諸侯に認められた事が、秦の統一戦争の始まりだと考えています。

その後の、秦は徐々に領土を拡大していく事になります。

穆公が覇者となる

(上記の勢力図は紀元前624年)

春秋戦国時代になると、覇者と呼ばれる有力な諸侯が出て来ます。

斉の桓公、晋の文侯などが代表的な人物です。

春秋五覇と呼ばれる人たちの時代になるわけですが、春秋五覇は書物によって、メンバーが変わってしまい一概に、誰が春秋五覇のメンバーだとは言えない部分もあります。

しかし、斉の桓公と晋の文侯だけは、必ず春秋五覇に入ります。

春秋五覇の中に、秦の穆公が入る事もあります。

秦の穆公は、戎を討ったりして、秦の領土を大きく広げています。

さらに、晋の重耳を援助したりもしているわけです。

しかし、重耳(文公)が晋の君主をしている間は、歴史の主役は重耳に譲っています。

穆公は領土も大きく広げましたし、百里奚(ひゃくりけい)、由余などの賢臣も登用しました。

しかし、秦の穆公が亡くなると、殉死者が100人以上出てしまい、その中には有能な臣下も多く含まれていたわけです。

その事から、秦は弱体化してしまいました。

その後も、秦は代が変わるごとに殉死者が多く出た為に、強国に発展する事が出来ませんでした。

秦の統一戦争を全体で考えれば、殉死が多かった事は、秦にとっては不利になったはずです。

当たり前ですが、後に秦は殉死を禁じています。

商鞅と法治国家

(上記の勢力図は紀元前338年)

秦は、穆公以降は、中華の中でも目立たない存在でした。

強国ではあったようですが、晋が韓・魏・趙に分裂して戦国時代が始まると、魏に圧迫され始めます。

魏の文侯は、呉起を用いて、秦の河西の土地を奪っています。

戦国時代の初期は、魏が最も強勢で秦は、領土を奪われてしまったわけです。

しかし、秦の孝公の時代に、商鞅が宰相となると、大改革を行い法治国家へと生まれ変わらせています。

さらに、商鞅は将軍となり、詐術は使いましたが、魏に大勝しています。

魏は斉にも敗れたために、最強国の座から滑り落ち、これ以降は秦に領土を奪われていきます。

商鞅の法治主義の考え方が、秦に根付き強国となっていくわけです。

商鞅は孝公がなくなると、跡を継いだ恵王に殺されてしまいますが、商鞅が作った法律は継承される事になります。

商鞅の変法と呼ばれたりする事もありますが、秦を強国にするのに、大いに役立ったわけです。

商鞅の政治は、韓非子、李斯、嬴政(始皇帝)なども多いに参考になった事でしょう。

キングダムでは、嬴政が法律で国を治めると言っていますが、史実では200年以上前に、商鞅がそういう事をやっている事になります。

張儀と合従連衡
秦の恵王の時代に、張儀が宰相になっています。

張儀は、合従連衡で有名な人物で、連衡を説いたわけです。

張儀は、諸侯に土地を割かせて秦を豊かにしています。

さらに、キングダム(春秋戦国時代を題材に書かれた漫画)では秦の六将の一人になっている司馬錯が蜀の地を得るなど、着実に領土を広げたわけです。

張儀は、かなり詐術も使った人物で、楚の懐王は特に振り回されています。

尚、合従の祖である蘇秦は、張儀とライバルにされる事もありますが、時代が違っているなど指摘される事も少なくありません。

恵王の時代に活躍した張儀ですが、秦の武王が即位すると、讒言されてしまい魏に出奔しています。

遠交近攻と白起の快進撃

(上記の勢力図は紀元前257年)

秦の昭王の時代になると、前半は魏冄(ぎぜん)が宰相になっています。

この時代は、魏冄は白起を用いて、韓・魏・趙・楚などから大きく領土を奪っています。

秦の昭王の前半は、秦と斉の二強時代になっています。

秦と斉で東帝・西帝を名乗った事もありました。

しかし、斉の湣王(びんおう)は、燕の昭王の恨みを買い外交で孤立し、楽毅率いる燕・秦・韓・魏・趙の合従軍に敗れています。

斉は燕に奪われた領地を、斉将田単が回復していますが、国力が大きく落ちてしまい、これ以降は秦の一強時代に突入します。

尚、戦国時代の中期は、趙は武霊王がいて胡服騎射を取り入れたり、廉頗が武将として活躍したり、藺相如が外交で秦の昭王を圧倒するどもありました。

他にも、戦国四君である孟嘗君が秦を攻めて、函谷関を抜くなどもあった時代です。

諸子百家と呼ばれる遊説家がいて、合従連衡など様々な説を言う人がいた時代でもあります。

秦の昭王の中期以降になると、范雎が宰相となり、遠交近攻を秦の基本戦略としています。

近隣の国を攻めて、遠くの国と同盟を結ぶ戦略です。

遠くの国と交わる事で、攻撃中の国の後方を脅かしてもらい、戦力を分散させる方向に秦はシフトしていきました。

范雎が宰相になっても、引き続き白起は将軍を続けています。

白起は、趙の趙括を長平の戦いで破り、趙兵40万を生き埋めにしてしまいました。

この後に、范雎が趙と講和を結んだ事で、白起と范雎は不和になっています。

秦の将軍である王齕が、趙の都邯鄲を囲み趙は滅亡寸前まで行きましたが、魏の信陵君、楚の春申君の援軍により、撤退を余儀なくされています。

尚、范雎ですが、自分が推挙した鄭安平や王稽が失敗した事で、宰相の印綬を秦の昭王に返す事になりました。

余談ですが、秦の昭王の後期に、周王朝を摎(きょう)が滅ぼしました。

これにより700年続いた周王朝が滅亡したわけです。

秦の昭王が亡くなると、秦の孝文王が即位しますが、服喪後に僅か3日で亡くなり、荘襄王が即位し、荘襄王も3年で亡くなっています。

荘襄王が死去した後に、秦王になったのが嬴政であり、後の始皇帝です。

秦王政(嬴政)が即位
秦王政(嬴政)は、即位しますが、子供だった事もあり政治は呂不韋が取り仕切っています。

呂不韋は、商人でしたが、荘襄王(嬴政の父親)を即位させるのに、絶大な功績があったからです。

この時代になると、戦国七雄と言っても、秦だけが圧倒的に強く、残りの六国は弱小国となっています。

嬴政は、嫪毐の乱などの内戦もありましたが、呂不韋が失脚し、国内がまとまると天下統一に邁進を始めています。

戦国四君の最後の一人である春申君は、合従軍(楚・趙・韓・魏・燕)を率いて、秦を攻めますが、函谷関の戦いで撃退されています。

同様に、龐煖(ほうけん)も蕞を攻めていますが、落とす事が出来ずに撤退しています。

春申君の函谷関の戦いも龐煖の蕞の戦いも結果を見れば失敗に終わった事になるのでしょう。

これが最後の合従軍であり、これ以降は秦が六国の領土を奪う為の戦いとなり、他国は次々に領地を奪い取られていくわけです。

この時代になると、秦に対抗できる将軍は、趙の李牧と楚の項燕位しかいませんでした。

韓が滅亡

(上記の勢力図は紀元前231年)

戦国七雄の中で、最初に滅亡したのが韓です。

秦の国費を戦争に向かわせないために、鄭国などの技術者を秦に入れた話などもあります。

韓の末期は秦の属国状態でもあり、秦に対して奉仕しなければ、いけない立場でした。

しかし、奉仕するにもお金がなくて、韓王の後宮の美女たちを全て、秦に売り払い、そのお金で秦に奉仕した話が残っています。

ただし、後宮の美女たちは、韓に売られた事で恨みを持ち、秦に対して韓を悪く言った話も残っています。

韓非子が法治国家に改革するように、韓王に進言しますが却下されています。

ただし、秦王政は韓非子が書いた書物を見ると大いに気に入り、策略を用いて韓非子を秦に連れてきました。

秦王政は韓非子を気に入り、国を任せようともしましたが、同門の李斯により毒薬自殺しています。

韓非子が死に3年後に、秦の内史騰が韓を攻めて、新鄭が陥落し滅亡しています。

その後に、韓の元貴族たちが、新鄭で反乱を起こしましたが、鎮圧されています。

韓の貴族が反乱を起こした年に、昌文君が死に、昌平君が出奔しているわけです。

韓の貴族の反乱と何かしら関係している可能性もあるでしょう。

尚、韓の宰相をしていた家から、張良が出ています。

張良は、陳平と共に漢の高祖劉邦の軍師となり、秦を滅ぼすのに大いに活躍しています。

余談ですが、張良、蕭何、韓信の三人が漢の劉邦の天下統一に最も役立った臣下となり、漢の三傑と呼ばれる事もあります。

趙の滅亡
秦は韓を滅ぼすと、ターゲットを趙に向けます。

趙は武霊王の頃がピークでしたが、恵文王の頃には廉頗、藺相如、趙奢、田単、楽毅などの優れた人材が多くいました。

他国のS級の優秀な人材も、趙に集まって来たような状態です。

しかし、孝成王の時代に長平の戦いで、白起に大敗し40万が生き埋めにされて国力を大きく落としました。

都である邯鄲も囲まれていますが、平原君などの活躍により凌いでいます。

趙の悼襄王の時代に、鄴(ぎょう)を秦に落とされてしまい、国土は大きく縮小しています。

ただし、趙には名将李牧がいて、桓騎(かんき)を破るなどの活躍もあったわけです。

李牧は宜安の戦い、肥下の戦い、番吾の戦いで秦軍を相手に連勝し、秦の首脳部を大いに悩ませる事になります。

その後、秦の王翦(おうせん)、楊端和(ようたんわ)、羌瘣(きょうかい)らが趙を攻めています。

趙の幽穆王は、秦軍を何度も破った、李牧と司馬尚に防がせています。

しかし、秦は幽穆王の寵臣である郭開を買収して、李牧と司馬尚が謀反を企んでいると、幽穆王に讒言したわけです。

これにより李牧は、幽穆王に殺されてしまい、司馬尚は庶民に落とされています。

代わりに、幽穆王は趙葱と顔聚を将軍に任命しますが、王翦に敗れて趙の都邯鄲は陥落しました。

ただし、趙嘉が代に逃れて、代王嘉となっています。

代も燕と共闘しましたが、燕が滅びた紀元前222年に滅ぼされています。

魏の滅亡

(上記の勢力図は紀元前227年の段階)

魏は、荘襄王の末年に、信陵君が魏・趙・韓・楚・燕の合従軍を率いて、黄河の外で秦の蒙驁(もうごう)を破っています。

信陵君がいれば、秦は天下統一など出来ないと考えて、魏の安釐王(あんきおう)と信陵君の離間策を取っています。

離間策が功を奏し、安釐王は信陵君を上将軍から解任してしまいました。

その後、信陵君が酒浸りで亡くなってしまうと、蒙驁に命じて魏の東部を奪っています。

この時に、秦は東郡を設置し、秦の領土は西の斉と隣接するまでになったとされています。

これにより魏は、秦に対抗できる要素を失ってしまうわけです。

その後、次々に領土を奪われて、最後は王賁(おうほん)が魏の首都である大梁を水攻めで落としています。

魏王仮が降伏した事で、魏は滅亡しました。

尚、秦末期に秦に背いた「魏咎、魏豹」は、魏の王族の子孫です。

さらに、漢の文帝(劉邦の子)の母親である薄太后は、魏王家の出身だと言われています。

楚の滅亡

(上記は紀元前223年の勢力図)

楚は、春秋時代からの大国です。

春秋五覇にも数えられる、楚の荘王の時代は中華で最強の国でした。

しかし、戦国時代に入ると、貴族の数が多かったり、国として統制が取れなかったようです。

魏から呉起が亡命してくると、楚の悼王は宰相に任じています。

呉起は、楚を改革して強国に変えようとします。

楚を法治国家にしようとしたわけです。

さらに、自らは将軍となり他国の領土を奪ったりもしています。

しかし、悼王が亡くなると、呉起は楚の貴族たちに殺されてしまいました。

秦は商鞅が死んでも、法律は残りましたが、楚は呉起が亡くなると、呉起の作った法律も消えてしまう事になります。

これにより楚は振るわなくなってしまったと言われています。

その後は、楚の懐王が張儀に騙されたり、頃襄王の時代に首都である郢を秦の白起により陥落されています。

孝烈王の時代に、春申君が宰相となり、一時的に復興した話もありますが、合従軍を率いて函谷関で破れると、孝烈王からも疎まれる様になりました。

孝烈王が亡くなった時に、春申君はかつて、食客であった李園に暗殺されています。

秦の李信と蒙恬が攻め込んでくると、項燕が将軍となり一度は破っています。

しかし、秦の王翦と蒙武が、60万の軍勢を引き連れて攻めてくると、項燕は王翦の策に嵌り大敗を喫しました。

項燕は、かつて秦にいて頭角を現した昌平君を楚王とし、抵抗しますが、王翦や蒙武を防ぐことは出来ませんでした。

これにより楚は、滅亡しています。

この時代は燕や斉は弱小国ですから、楚が滅亡した時点で、秦の統一は確実となりました。

秦の統一戦争も完全に終わりが見えて来た状態です。

ただし、秦の人々は楚にかなり恨まれるような事をしてしまったようで、「楚が三家になろうと、秦を滅ぼすのは楚なり」と言ったとされています。

実際に、秦が滅亡のきっかけとなる陳勝呉広の乱の陳勝や呉広は楚人ですし、漢帝国を作った劉邦も楚人です。

さらに、秦を滅ぼした項羽は、項燕の孫ですし、本当に秦を滅ぼしたのが楚となりました。

ただし、「秦を滅ぼすのは楚なり」は、後付けの話と言う説もあります。

燕の滅亡
燕は昭王の時代がピークでした。

名将楽毅の活躍で、斉を壊滅状態にしてしまったわけです。

しかし、楽毅が斉を滅ぼす直前で、燕の昭王が亡くなってしまい、恵王が即位します。

恵王は楽毅を嫌っていた事もあり、騎劫(きごう)に将軍を変えようとしました。

楽毅は身に危険を覚えて、趙に亡命しました。

その後、斉の田単が燕に攻勢をかけ、楽毅が奪った城を全て奪い返しています。

燕の恵王は、公孫操により暗殺されてしまい、武成王や孝王が続きますが、実績もよく分かっていません。

燕王喜の代になると、宰相の栗腹の進言により60万の大軍で趙を攻めますが、廉頗により大敗しました。

さらに、廉頗に燕の国都である薊を囲まれたり、散々な目にあっています。

後にも、李牧や龐煖に攻められた記述もあります。

嬴政(秦王)と燕の太子丹は、趙に人質時代に共に遊んだ仲だったのですが、太子丹が秦に人質に行くと嬴政は冷遇します。

これを恨みに思った太子丹は、勝手に帰国してしまいました。

その後、秦は趙を滅ぼすわけですが、秦の危害が燕に加わると恐れた太子丹は、荊軻を刺客とし、嬴政に送り付けたわけです。

荊軻は刺客となりますが、失敗して秦で命を落としています。

この話は、史記の刺客列伝にもあるお話です。

怒った嬴政は、大軍を燕に送り付けて滅ぼしているわけです。

最後は、遼東に逃亡した燕王喜を捕らえて燕を滅亡させました。

これが紀元前222年の話です。

これにより、秦は中国の北東も支配下に置き、秦の統一戦争は、あと一歩となったわけです。

残っている国は、斉しかありません。

斉の滅亡

斉は秦と友好を結び合従軍にも加わらなかった事で、他国に比べると平和でした。

キングダムでは、斉王建と秦王政の間で、秦斉秘密同盟があった事になっています。

しかし、実際に秦斉同盟があったのかは、史実に書いてないので分かりません。

司馬遷が書いた史記によると、秦が燕を滅ぼすと、斉は秦との連絡を絶ったと言う事になっています。

李信、蒙恬、王賁の3人が斉に攻め込むと、戦わずに降伏したようです。

特に抵抗する事もなく、斉は滅亡したとされています。

これにより、秦の統一戦争は完結したわけです。

秦は統一後わずか15年で滅亡

秦は6国を併合すると、秦王政(嬴政)は始皇帝となります。

中華が一つの国になった事で、始皇帝は六国でバラバラであった文字を小篆で統一しました。

他にも、度量衡の統一などを行い政治を円滑に行おうとしたのでしょう。

始皇帝は李斯を宰相として任じ、宦官の趙高なども可愛がっていたようです。

ただし、始皇帝は統一後も、法令を緩める事はなく、過酷な政治を行う事になります。

蒙恬に命じて万里の長城を作ったり、北方の匈奴に30万の大軍を送り打ち破っています。

さらに、阿房宮を作り人民を酷使したとされています。

それを諫めた長男の扶蘇は、北方の蒙恬の所に行かされる事になりました。

始皇帝は不老不死に憧れたりしたり、焚書坑儒を行うなど、暴走を始める事になります。

始皇帝も50歳を超えると体調が悪くなりますが、巡幸に向かい、その道中で崩御しています。

始皇帝は長男である扶蘇を、後継者にしようとします。

しかし、趙高、李斯、胡亥が結託して、偽書を作り胡亥が跡継ぎとなりました。

胡亥は二世皇帝になりますが、政治は趙高に任せっきりにして、自分は遊び惚けていたとされています。

趙高が秦の重臣の粛清を始めて、蒙恬、蒙毅、李斯などを誅しています。

さらに、秦の公子たちも殺害を始めて、趙高に逆らえる人物はいなくなったわけです。

しかし、始皇帝死後に陳勝呉広が反乱を起こすと、秦の政治に反発した者たちが次々と反乱を起こします。

鎮圧の為に、秦の章邯(しょうかん)が囚人兵を率いて、反乱軍を大いに破ります。

しかし、張耳や陳余がいる鉅鹿の戦いで、王離(王翦の孫)が、項羽に敗れると流れが完全に変わります。

その頃、秦の方では趙高が二世皇帝を殺害し、子嬰(しえい)を王位に就けようとしていました。

子嬰は、趙高をおびき出して誅殺しています。

子嬰は皇帝は名乗らずに、秦王を名乗りますが、時すでに遅く劉邦に武関を破られて降伏しています。

さらに、項羽が到着すると子嬰を処刑して、これにより秦は滅亡したわけです。

秦は天下統一後に、わずか15年で滅亡しました。

始皇帝が死んでからは、わずか4年で滅んだわけです。

それを考えれば、500年にも及ぶ秦の統一戦争は何だったんだ?となってしまいますが、これが史実だと言えます。

秦の統一戦争は時間が掛かりましたが、滅びるのは呆気なかったと言えるでしょう。

趙高が秦の蒙恬や李斯、蒙毅、公子たちを皆殺しにした事で、骨のある臣下がいなくなり、秦は滅亡を早めたと言えるでしょう。

戦国時代末期には、圧倒的な強さを誇っていた秦ですが、腐敗した秦では話にならなかったようです。

これが秦の統一戦争と滅亡の全貌となります。
https://rekishi-shizitsu.jp/shinnotouitsusensou/#:~:text=%E5%9B%A0%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%80%81%E7%A7%A6%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%96%E5%B9%B4%E3%81%AB%20%E5%8A%89%E9%82%A6%20%E3%81%AB%E7%A7%A6%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%92%B8%E9%99%BD%E3%82%92%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81,%E9%A0%85%E7%BE%BD%20%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A%E7%A7%A6%E7%8E%8B%20%E5%AD%90%E5%AC%B0%20%E3%81%8C%E6%96%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%8B%E3%81%A7%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
11:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/22 (Sun) 04:24:44

秦の始皇帝(嬴政、秦王政)は、天下統一するも、最後は水銀を飲んで死亡!?
2022年12月11日
https://rekishi-shizitsu.jp/shikoutei/


秦の始皇帝(嬴政、秦王政)は、秦の統一戦争を完了させ、戦国七雄の国々を滅ぼして天下統一を成し遂げた人物です。

西周王朝が崩壊して以来、中華は春秋戦国時代に突入し、諸侯同士が争う時代に突入しました。

諸侯は合従連衡を繰り返しながらも淘汰されて行き、最後に天下統一したのが秦となります。

中華の地では、途中で春秋五覇と呼ばれる覇者が現れるなどもありましたが、500年以上続いた混乱を収束させたのが、秦の始皇帝だと言えるでしょう。

始皇帝の名前は「嬴政」であり、秦王政と呼ばれたりする場合もあります。

始皇帝の最後は、水銀を飲んで亡くなったとも考えられています。

ここでは秦王になる前を嬴政と呼び、秦王になってからは秦王政、皇帝に即位してからは始皇帝と呼ぶようにします。

始皇帝(嬴政)は原泰久さんが描く漫画キングダムで話題になった事で、知名度は急上昇しているはずです。

ここでは、史実と考えられる司馬遷が書いた史記をベースにして、様々な資料から話を進めていきます。


嬴政が生まれる前の秦

嬴政が即位する前の秦ですが、既に戦国七雄の他国を圧倒していた状態です。

秦は戦国時代初期に、秦の孝公が商鞅の変法を行い国内改革をしました。

商鞅は秦の恵文王の時代に、処刑されますが、その後も張儀、樗里疾、甘茂など名宰相が続いたわけです。

秦は恵文王、武王、昭王と続きますが名宰相が輩出される事になります。

秦の昭王の時代になると、魏冄や范雎などが宰相となり、将軍の白起が他国の兵を圧倒し、秦は大きく領土を拡げる事になります。

特に白起が趙の趙括を破り、40万の兵士を生き埋めにした長平の戦いは、圧巻だったわけです。

長平の戦いの翌年に、秦の王齕、王陵、鄭安平などが、趙の首都邯鄲を囲む事になります。

趙は苦しい立場となりますが、この邯鄲の城内で生まれたのが嬴政であり、後の始皇帝です。


嬴政の誕生
嬴政の父親は異人(後の荘襄王)であり、趙に人質に行っていたわけです。

異人は人質でしたが、容赦なく秦が趙を攻撃するため、趙からは人質に役目を果たさない異人を冷遇していました。

異人の人質は名ばかりで、実際には捨て駒の様な存在でした。

秦の王族にも関わらず、貧しい生活を送る異人に呂不韋が目を付け、秦の昭王の太子である安国君(嬴政の祖父)が寵愛する華陽夫人に異人を売り込んだわけです。

華陽夫人は、子が出来ない悩みがあった事で、異人を養子として認め、安国君は異人を後継者に指名する事になります。

呂不韋は邯鄲に戻りますが、異人が呂不韋の妾である趙姫を気に入り、呂不韋に譲って欲しいと言います。

呂不韋は苛立ちますが、ここで怒っては、今までの計画が台無しになる為、異人に趙姫を譲る事にします。

呂不韋が異人に趙姫を譲り12カ月後に誕生したのが、嬴政です。

尚、史記の呂不韋伝によれば、呂不韋が異人に趙姫を譲った時に、既にお腹に子があった事が記述されており、これが本当であれば始皇帝は呂不韋の子となるでしょう。

ただし、これらの事は世間の噂に過ぎないとも言われています。

因みに、嬴政は当時の暦だと1月1日の正月に生まれた事で、正月に因んで「正」が本当の名前だとする説も最近では有力になっています。

史記の始皇本紀では、正月に生まれたから「政」とした記録もあるわけです。

秦は氏が嬴で、氏が趙である事から、始皇帝は趙正であり、趙正書なる書物も発見されています。

趙で虐められる
邯鄲が趙に囲まれた時に、呂不韋の手引きにより父親の異人は、秦軍に逃げ込み邯鄲城内から脱出しています。

しかし、趙姫と嬴政は趙の首都の邯鄲に残り、異人だけが秦の咸陽に向かう事になったわけです。

趙姫と嬴政は趙の人々に殺されそうになりますが、趙姫の実家が豪家だった事で、難を逃れる事が出来ました。

異人は咸陽に到着すると、正式に華陽夫人の養子となり、秦の太子の後継者として認められる事になります。

異人が秦の後継者になった事で、秦は趙に仕送りをした事で、趙姫や嬴政の生活が楽になった話があります。

嬴政は、趙では虐められていた話しもあり、後年に邯鄲を占領した時の行動を見る限りでは、恨みを抱いていたのでしょう。

嬴政を虐めた趙の人々は、秦王となった嬴政に復讐される事になります。

因みに、人質生活の時に燕の太子丹も趙にいた話があり、嬴政と太子丹は一緒に遊んだ仲だった話があります。

燕の太子丹は義侠心を感じる部分もあり、嬴政に対して虐めたりはしなかった様に思います。

秦に戻る
秦では56年間も秦王を務めた昭王が紀元前251年に亡くなる事になります。

秦では安国君が即位し孝文王となったわけです。

孝文王が即位すると、華陽夫人の養子である子楚(異人)が正式に太子となります。

子楚が太子になった事で、秦は趙姫と嬴政を丁重に扱い秦に送り返しています。

これにより趙姫と嬴政は秦の首都である咸陽で暮らす事が出来る様になりました。

嬴政が太子となる
孝文王は服喪期間が終わると、僅か3日で亡くなってしまい、子楚が秦王に即位し荘襄王になっています。

荘襄王は即位すると、養母の華陽夫人を華陽太后、生母の夏姫を夏太后とし、呂不韋を宰相に任命しています。

さらに、嬴政を太子に指名し自らの後継者にしたわけです。

荘襄王から太子に指名された事で、嬴政は秦王の座が約束された事になります。

尚、嬴政の弟に成蟜がいますが、腹違いの弟だと言われています。

因みに、李斯列伝では、秦の最後の王である子嬰も始皇帝の弟になっています。

ただし、子嬰に関しては史記の始皇本紀や六国年表では、胡亥の兄の子と記述があります。

呂不韋の宰相時代
嬴政は秦王となりますが、子供であった為に呂不韋が政治を行う事になります。

秦王に即位
嬴政の父親である荘襄王は、紀元前247年に死去する事になります。

荘襄王が秦王だった期間は、3年ほどしかありません。

太子であった嬴政が秦王に即位しますが、僅か13才の子供だったわけです。

13才の子供に政治が出来るはずもなく、荘襄王の時代に続き呂不韋が宰相として政治を行う事になります。

秦王政(嬴政)は呂不韋の事を仲父と呼んだ話があります。

尚、嬴政が秦王になった時には、既に周王朝を滅ぼし、戦国七雄の国々を圧倒する国力があり、大きなミスをしなければ天下統一出来る様な状態でもありました。

それを考えると、嬴政は非常に良い時期に秦王に即位する事が出来たと言えるでしょう。

諸侯に侵攻する
秦王政は即位すると蒙驁、麃公、王齮らを将軍に任命した記述があります。

正確に言えば呂不韋が先代からの功臣である蒙驁、麃公、王齮らを引き続き重用したと言う事なのでしょう。

秦王政が即位した時に、晋陽で反乱が起きますが、蒙驁が鎮圧しました。

さらに、秦王政の2年には麃公が巻(地名)を攻めて3万人を斬り、秦王政の3年には蒙驁が韓を攻めて12の城を奪った記述があります。

王齮の活躍は不明ですが、秦は順調に他国を侵略し、領土を拡げて行ったわけです。

さらに、蒙驁が魏を攻めて20城を奪い東郡を設置する事になります。

東郡を設置した事で、秦と斉は国境を接し、合従の同盟を南北に分断した話があります。


この様に秦王政の即位当初は、順調すぎる程に領土を拡大していった事になります。

合従軍の逆襲
秦に次々に領土を奪われた諸侯(楚、趙、魏、燕、韓)らが団結し、紀元前241年に合従軍で秦を攻める事になります。

合従軍は楚の春申君と趙の龐煖が中心となり結成されています。

この合従軍が秦の統一戦争において、最大のピンチとなります。

合従軍は軍隊を二つに分けて、春申君が函谷関を攻撃し、龐煖が合従軍の精鋭を率いて蕞を攻撃した話があります。

蕞の位置が秦の咸陽から近い場所にある事で、春申君の軍は函谷関に出陣し囮となり、その間に龐煖が秦の首都である咸陽を落とす作戦だった様に思います。

しかし、函谷関の戦いでは春申君が敗れ去り、蕞の戦いは秦の奥深くで孤立する事を恐れた龐煖が撤退する事で、秦軍は合従軍を撃退する事に成功しました。

尚、合従軍が寿陵を占拠した話があり、寿陵は王様が生前から立て始めた自分のお墓を指す言葉である事から、龐煖は現在の始皇帝陵や兵馬俑の辺りを占拠した様に思います。


上記の地図を見れば分かりますが、1日で咸陽に到着する位置まで、龐煖は兵を進めていた事となり、合従軍は秦王政に取ってみれば最大のピンチだったとも言えるでしょう。

戦国時代は、蘇秦、孟嘗君、信陵君、楽毅なども合従軍を組織していますが、紀元前241年の合従軍戦が最後の合従軍となり、戦いに勝利した秦は天下統一を決定づけた様にも感じます。

尚、始皇本紀には、合従軍戦の後に春申君が失脚し、衛君角が野王に移った記述があります。

秦が東郡を完全に占拠した事の表れでもあるのでしょう。

成蟜の乱
紀元前239年(秦王政8年)に、秦王政の弟である長安君成蟜が、趙を攻撃する事になります。

しかし、成蟜は趙の屯留の民を使い、秦に対して反旗を翻しました。

これが成蟜の乱です。

秦王政は反乱を起こした成蟜に軍を向けると、成蟜を討ち取る事に成功しています。

尚、成蟜との戦いで、将軍の璧が亡くなった話も残っています。

弟である成蟜を秦王政は、どの様な気持ちで討ったのかは謎です。

呂不韋の失脚
秦で政治を行っていた呂不韋ですが、嫪毐と連座して失脚する事になります。

これにより秦王政の親政が始まる事になります。

嫪毐の乱
秦王政の母親である趙姫は、元は呂不韋の妾だったわけです。

荘襄王の死後に、呂不韋と趙姫の関係は復活し、肉体関係を持ったとされています。

しかし、趙姫は秦王の母親であり、呂不韋は秦の宰相で二人の関係は問題行動だったわけです。

呂不韋は趙姫との関係を清算したいと思い、巨根の嫪毐を宦官として後宮に入れる事になります。

ただし、嫪毐は去勢をせずに、偽の宦官として後宮に入りました。

趙姫は嫪毐に夢中となり、嫪毐は長信侯に任命され、さらには嫪国まで建国しています。

嫪毐は趙姫に気に入られた事で、呂不韋にも匹敵するほどの権勢を得る事になったわけです。

しかし、嫪毐が偽の宦官だと告発する者がおり、追い詰められた嫪毐は謀反を起こす事になります。

秦王政は昌平君と昌文君に嫪毐を鎮圧する様に命令し、嫪毐の軍を大いに破りました。

この戦いで昌平君や昌文君の采配が冴えわたったのか、嫪毐の兵士を数百人斬った話もあります。

尚、嫪毐との戦いで秦王政に味方した者は、厚い恩賞が送られ、宦官であっても従軍した者には、爵1級を与えた話があります。

嫪毐の乱は、秦王政の信賞必罰を徹底させた戦いとも言えるでしょう。

呂不韋を追放
嫪毐は車裂きの刑により処刑し、宗族は皆殺しの上で晒し首にされました。

しかし、嫪毐を後宮に送り込んだのは、呂不韋であり問題となります。

呂不韋は宰相を辞任させられ、河南の領地に移されますが、最後は秦王政の命令により、紀元前235年に蜀に移され、途中で服毒自殺により命を落としています。

尚、呂不韋は秦王政の下記の言葉で自殺を決意したともされています。

「君は秦においてどの様な功績があり、河南に10万戸の領地を得たのか。

秦において、どの様な血縁があり、仲父と称するのか。其方は蜀に移る様にせよ。」

呂不韋がいなければ、秦王政の父親である荘襄王は、秦王になれませんでしたし、嬴政も秦王に即位する事は出来なかったでしょう。

呂不韋の功績は小さくはないのに、秦王政の冷酷さを物語っている話とも言えます。

ただし、呂不韋の権力の大きさと、呂不韋が編集した呂氏春秋の内容を考えると、思想の違いが出た可能性もあるでしょう。

呂不韋は失脚しても、多くの人物が蟄居先の河南に訪れた話しもあり、秦王政が呂不韋を恐れた可能性もあります。

余談ですが、呂不韋の子孫が漢の高祖劉邦の皇后となる呂后であり、秦末期に劉邦が秦の首都咸陽を陥落させています。

呂不韋の子孫の旦那が、秦を降伏させたのは因縁を感じた次第です。

趙姫を許す
嫪毐の乱では、自分の母親である趙姫の行動も問題になります。

秦王政は、母親を咸陽から雍に移しました。

秦王政は趙姫に苛立ち「太后(趙姫)の事で諫める者は、死刑にする」と述べた話があります。

実際に、秦王政を諫めた20人ほどが処刑された様です。

ただし、秦王政も自らの母親を処刑する事は出来なかったのでしょう。

斉人の茅焦(ぼうしょう)は、次の様に秦王政に述べます。

茅焦「秦王様は天下統一を目指しておられます。しかし、母親である太后を外に移しました。

これは不孝の名にあたり、諸侯がこれを聞いたら秦に反旗を翻すかも知れません。」

秦王政は、茅焦に言葉に納得し、趙姫を再び咸陽に迎え入れ、南宮に住まわせています。

秦王政は合理主義であり、情に訴えるよりも、利益で訴えた方が動く人なのかも知れません。

秦王政の合理主義は、政策などにも反映しています。

逐客令
秦で灌漑工事を行っていた鄭国なる人物がいたわけです。

鄭国は韓の回し者であり、秦の財源を治水工事に使わせる事が狙いでした。

鄭国が韓のスパイだと発覚し、問題になります。

鄭国は自分のやっている灌漑工事は、秦の為になると説いた事で、許されますが、秦の宮廷で「他国人は危険だ」とする空気が流れます。

秦王政は他国人を追放する「逐客令」に同意し、秦から他国人を追い出す事にしました。

この時に李斯が、秦を強国にした商鞅、張儀、范雎らは他国人であったと述べた事で、逐客令は撤廃となっています。

尚、李斯は逐客令の撤廃だけではなく、韓を攻め取る様に述べており、韓王を恐れさせています。

秦を恐れた韓王が韓非子に、秦を弱めるにはどうすればいいのかと謀議した話があります。

尉繚の進言
始皇本紀によれば、尉繚(うつりょう)が秦王政に他国の大臣を買収し、戦いを有利に進める様に進言します。

尉繚は、30万金があれば、全ての諸侯の佞臣たちを買収出来るとも説いたわけです。

秦王政は尉繚が賢人だと認め、対等の礼を行った話があります。

ただし、尉繚は秦王政を「長く付き合える人物ではない」と考え、逃亡しようとしますが、秦王政が引き留めた話があります。

尚、李斯列伝によれば、李斯も秦王政に他国の大臣の買収を積極的に行う様に述べています。

始皇本紀の記述を採用するなら、尉繚が考案した事を李斯が実行したとも言えるでしょう。

離間策により、趙の郭開や悼倡后が買収され、斉でも后勝が買収に応じ、秦の為に動く事になります。

ただし、秦の離間策は尉繚や李斯が進言する前から行っており、魏の安釐王と信陵君を離間させ、信陵君が上将軍を解任されています。

尚、離間策は楚漢戦争においても、劉邦の参謀の一人である陳平が使っており、項羽と范増を離間させる事に成功しています。

趙との戦い
秦と趙が激しく戦う事になります。

鄴攻め
紀元前236年に、秦は趙の鄴を攻略する事になります。

これが秦の鄴攻めと呼ばれています。

秦が鄴を攻めた時に、龐煖(ほうけん)は趙の主力を率いて燕を攻撃中でした。

趙の軍が北にある燕を攻めた隙に、秦王政は王翦、桓齮、楊端和の三将に命じ漳水沿岸地域の城を落とし、鄴を攻略する事になります。

趙の悼襄王は、龐煖に急いで鄴の救援に向かわせますが、結局は間に合わず、鄴は陥落してしまいます。

鄴の陥落により趙は太行山脈の西の地域も失い、趙の領土が一気に半分になったとも言われています。

さらに、趙の首都の邯鄲の南にある鄴に秦の兵がいる事になり、趙にとってみれば喉元に刃を突き付けられた状態にもなったわけです。

平陽の戦い
紀元前234年に、秦将桓齮が趙の扈輒と平陽で戦っています。

これが平陽の戦いであり、桓齮は扈輒を破り10万の兵を斬るという大戦果を挙げています。

桓齮は平陽や武城を平定した事で、絶頂期にいたわけです。

桓齮により、趙は一気に滅亡かと思われましたが、李牧が立ちはだかる事になります。

宜安の戦い
秦王政は桓齮に命じて、さらに趙を攻撃させる事になります。

趙は扈輒が大敗した事で、趙の近辺で徴兵する事が出来なくなったのか、趙の北方にある代の司令官である李牧を大将軍に任命して反撃させる事にしました。

李牧と桓齮との間で、宜安の戦いが起きたわけです。

この時の李牧率いる趙軍は強く、桓齮は敗走する事になります。

桓齮が燕に逃亡した話もあり、桓齮と樊於期が同一人物とする説もあります。

李牧は、さらに肥下の戦いや番吾の戦いで秦軍を連続で破りました。

秦は李牧がいる限り、趙を攻略出来ないと悟ったのか、ターゲットを韓に移す事になります。

秦王政と韓非子
話しは戻りますが、紀元前234年の平陽の戦いで、桓齮が扈輒を破った頃に、韓非子が秦にやってきた話があります。

秦王政は韓非子が書いた書物を読んだ事で、感嘆し「この著者に語り合えるなら死んでも悔いはない」と述べたわけです。

李斯が共に荀子の所で学んだ、韓非子の書物だと言うと、秦は韓を攻撃し、和平の使者として韓非子が秦にやってきました。

秦王は韓非子を非常に気に入りますが、李斯が韓非子を妬んだ為か、韓非子は秦で亡くなっています。

韓非子は雲陽で亡くなったと伝わっています。

これにより、韓王は秦に恐れを抱き、秦の臣下になりたいと願った話しもあります。

韓はこの時点で、秦に対し風前の灯だった事が分かるはずです。

統一戦争
秦王政は戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一する事になります。

韓の滅亡
紀元前231年に韓は南陽を秦に割譲しています。

秦は内史騰を仮りの南陽の太守としました。

内史騰は、翌年である紀元前230年に韓を攻撃し、韓王安が捕虜となり韓は滅亡しています。

尚、紀元前226年に韓の元貴族たちが大規模な反乱を起こしますが、秦軍により鎮圧されています。

因みに、紀元前226年は、秦の相国である昌平君が郢に移った年でもあります。

趙の滅亡
韓を滅ぼした翌年である紀元前229年に、王翦が上郡の兵を率いて井陘を降し、楊端和が河内の兵を率いて邯鄲を囲み、羌瘣が代を攻めた記録があります。

趙の幽穆王は、李牧と司馬尚に命じて、秦軍を防がせる事になります。

秦は尉繚と李斯の離間策が成功したのか、趙の大臣である郭開、韓倉と幽穆王の母親である悼倡后の買収に成功し、名将李牧を幽穆王に処刑させ、司馬尚は庶民に落しています。

趙の幽穆王は、趙葱と顔聚に趙軍を指揮させますが、秦軍に敗れ紀元前228年には邯鄲が落城しています。

趙の幽穆王は平陽で秦軍の捕虜になったわけです。

この時に、悼襄王の元太子である趙嘉が代に逃れ、代王嘉となっています。

代はまだ滅んでいませんが、紀元前228年の邯鄲の落城を以って趙の滅亡と考える人もいます。

尚、秦王政は幼い頃に邯鄲で育ちますが、虐められていた事もあり、自ら趙の邯鄲に乗り込んだ話があります。

秦王政は過去に自分を虐めた連中は、全て穴埋めにしてしまいました。

このエピソードは、秦王政の残虐ぶりが分かる話でもあります。

ただし、秦王政はハードに虐められていた可能性もあり、因果応報と言えるのかも知れません。

燕の首都を落とす
趙を滅ぼした王翦は、中山に駐屯し燕を攻める気配を見せます。

燕の太子丹は、趙の人質になった時に、秦王政と遊んだ仲でした。

しかし、燕の太子丹が秦に燕からの人質で行くと、秦王政は太子丹を冷遇する事になります。

秦で冷遇された太子丹は怒り、燕に無断で帰国してしまったわけです。

この事から太子丹は、秦王政に恨み荊軻を刺客として秦に派遣する事になります。

秦王政は宮廷で荊軻に殺されかけますが、何とか危機を脱出します。

しかし、燕が秦王政に刺客を送り付けた事で、秦王政は王翦に命じ秦を攻撃させたわけです。

弱小国の燕では、王翦の軍に対抗出来ずに、紀元前226年には燕の首都である薊が陥落し、燕の太子丹も討ち取られています。

燕の太子丹を討ち取ったのは、秦の将軍である李信だとも言われています。

燕王喜は遼東に精鋭を率いて逃げますが、燕も秦の圧力の前に風前の灯となります。

魏の滅亡
紀元前225年に、秦王政は魏を滅ぼす為に、王賁を派遣しています。

魏は戦国時代を通して秦と戦ってきましたが、この時の魏は秦の前に抵抗力を失っていました。

王賁は魏の首都である大梁に向け、黄河から水を引き、水攻めを行ったわけです。

王賁の水攻めにより、大梁城は破壊され、魏王仮は降伏する事になります。

魏王仮が降伏した事で、魏は滅亡する事になります。

楚の滅亡
楚は南方の大国として歴史ある国です。

秦王政は最初は李信と蒙恬に命じて、楚を攻撃させる事にします。

楚王負芻は、項燕を将軍とし城父で李信と蒙恬を破っています。

項燕が秦に向かっている話を聞くと、秦王政は王翦に楚軍と戦う様に依頼します。

紀元前224年に、王翦と蒙武は秦軍60万の軍勢を率いて、楚に向かい項燕を破り楚の都に進撃し、楚王負芻を捕虜にします。

翌年である紀元前223年に項燕は、秦の相国を務めた事がある昌平君を楚王に擁立し、王翦に立ち向かったわけです。

しかし、昌平君と項燕は、王翦と蒙武に敗れ楚は滅亡する事になります。

楚を滅ぼした時点で残っている国は、中華の隅の方にいる燕、代、斉のみであり、秦王政は天下統一に王手を掛けたと言えるでしょう。

楚を滅ぼした時に、秦では酒を許した話があり、既に祝賀ムードだったのかも知れません。

燕と代の滅亡
紀元前222年になると、秦王政は王賁や李信に命じ、燕と代の攻略をさせています。

王賁や李信は燕を破り燕王喜を捕虜にすると、返す力で代王嘉(趙嘉)を捕虜とします。

燕王喜と代王嘉が捕らえられた時点で、燕と代は滅亡したと言ってもよいでしょう。

燕も代も王翦の攻撃により、僅かな領地しか持っておらず、簡単に滅んだはずです。

燕と代を滅ぼした事で、中華の国は秦と斉の二国となります。

斉の滅亡
秦王政は、紀元前221年に王賁、李信、蒙恬に斉の攻略を命じています。

斉では宰相の后勝が秦に買収されるなど、斉の大臣達は秦の賄賂漬けだったわけです。

斉王建は戦わずに降伏し、斉は滅亡しています。

斉が降伏した事で、秦王政は天下統一する事になります。

周の幽王の時代に、西周王朝が崩壊してから500年以上も戦乱の時代が続きましたが、秦王政が遂に天下統一したわけです。

王達に寛大な秦王政
秦王政は、韓、魏、趙、楚、燕、斉の国を滅ぼしましたが、王を処刑した記録がありません。

史記などで幽閉した様な記述はありますが、王を処刑した記述がないのです。

それを考えると、秦王政は諸侯王に対して寛大だった様にも感じます。

この点は、三国志を終焉に導いた司馬炎が蜀の劉禅や、呉の孫晧を殺害しなかったのにも似ていると思いました。

ただし、始皇帝死後に斉では田儋、田栄、田横らが挙兵し、魏では魏豹が王を名乗ったりもしています。

それを考えると、捕えた王達は処刑しなかったかも知れませんが、恨みなどは買っていた可能性はあるでしょう。

始皇帝の誕生
秦王政は天下統一しますが、大業に適った帝号を定める様に命じます。

丞相の王綰、御史大夫の馮去疾、廷尉の李斯らは、泰皇と名乗る様に進言します。

しかし、秦王政は次の様に答えています。

秦王政「泰皇の「泰」を去り、上古の帝位の号を採って『皇帝』と名乗る事とする。」

これにより中国で初めて皇帝が誕生した事になります。

さらに、秦王政は二世皇帝、三世皇帝とする様にし、諡を廃止しています。

尚、秦王政は始皇帝の命は「制」とし、令を「詔」、自分の事は『朕』と呼ぶようになります。

皇帝の一人称の『朕』は歴代王朝に受け継がれる事になります。

始皇帝の改革
始皇帝は天下統一後に様々な改革を行っています。

始皇帝は改革を行う事で、スムーズな内政を目指したのでしょう

郡県制
天下統一後に、丞相の王綰が各地を安定させる為に、王を置く事を進言します。

王綰は封建制を敷くのがよいと考えたのでしょう。

それに対し李斯は、周の文王や武王は、一族や功臣を各地に封じたが時代と共に疎遠となり、争った事を例に出し反対します。

始皇帝も李斯の案に賛成し、天下を36郡に分けて郡県制を行う事になります。

地方に力を持たせずに、中央集権化を図った事になるわけです。

尚、秦は郡県制でしたが、漢は郡国制を行っています。

前漢では地方分権と、中央集権化の中間を行う事になります。

度量衡、文字、貨幣の統一
戦国七雄の諸侯の間では、重さや長さの単位や文字、貨幣などが国によってバラバラだったわけです。

度量衡と呼ばれる単位や文字、貨幣が国ごとに違うと、内政がスムーズに行かない為に、始皇帝は統一の企画を作ろうとしたわけです。

度量衡により、重さ、量、重さが統一され、文字は小篆を採用し、貨幣は秦で使われていた半両銭を全国に普及しました。

国によってバラバラだったものを統一した事で、中華という枠組みが完成したと考える人もいます。

万里の長城の建設
始皇帝の統一後の事業として、一番有名なのが万里の長城の建設でしょう。

万里の長城は、匈奴など北方の異民族(遊牧民)などの、侵入を防ぐ為に建設しました。

始皇帝が蒙恬に命じて、万里の長城を作らせたと伝わっています。

ただし、始皇帝や蒙恬が一から全部作ったわけではなく、戦後時代に既にあった秦、趙、燕の長城を繋げています。

尚、現代に残っている万里の長城は明代のものだと考えた方がよいでしょう。

万里の長城には「孟姜女」という話しがあり、万里の長城の強制労働に連れていかれた、男性が人柱として壁に埋められてしまい、妻が壁の前で泣くという話です。

この話は始皇帝の圧政の一つとして伝わっています。

因みに、2012年の調査で各時代の万里の長城の長さを足すと、2万1千キロになったとも伝わっています。

蒙恬の匈奴征伐
始皇帝は蒙恬に30万の大軍を預け匈奴征伐を行わせています。

蒙恬の匈奴征伐は成功し、匈奴を震撼させた話があります。

統一戦争で活躍した王翦、王賁、李信などは統一後の記録がありませんが、蒙恬だけは統一後も実績を挙げた記録があります。

尚、蒙恬が北方の動物の毛を集めて毛筆を作り、始皇帝に献上した話もあります。

毛筆を考え出したのが、蒙恬だとする説もあるわけです。

阿房宮の建設
始皇帝は咸陽に阿房宮の建設も行っています。

阿房宮は巨大な宮殿であり、後に楚の項羽が阿房宮を焼きますが、火は三カ月に渡って消えなかった話があります。

阿房宮は途方もない様な広さだったのでしょう。

夜になって阿房宮の窓を全て閉めようとすると、広すぎて朝になってしまった話しもある程です。

余談ですが、阿房宮が「アホ」の語源となった説もあります。

尚、秦では諸侯を倒す度に、その国の王宮と似た王宮を秦の咸陽に作った話があります。

そのため、阿房宮が大きくなりすぎてしまったとも考えられています。

霊渠
秦では戦国時代の末期に鄭国が灌漑工事を行い、函谷関で凶作が無くなった話があります。

鄭国が作った渠は鄭国渠と呼ばれたわけです。

統一後に始皇帝は灌漑工事を行い、霊渠と呼ばれる渠を建造しています。

秦は商鞅の改革以降、重農主義が取られているわけであり、国の食料を豊かにする為の政策だったのでしょう。

尚、古代では夏王朝の始祖である禹が灌漑工事を行い英雄になっていますし、戦国時代の初期にも西門豹が治水により実績を挙げています。

それを考えると始皇帝も民の食糧事情を安定させる為に、霊渠を作ったはずです。

街道整備
始皇帝は街道整備も行っています。

馳道
始皇帝は天下統一すると5回に渡り各地を巡行しています。

巡行する際に使われたのが、馳道(ちどう)と呼ばれる道路です。

馳道は幅が70メートルもあり、中央には始皇帝専用の通路が作られていた話があります。

始皇帝の街道整備は1万2千キロに及んだとも言われていますが、その半分が馳道だった話があります。

直道
天下統一後の始皇帝の脅威は、北方の遊牧民族である匈奴でした。

始皇帝は首都の咸陽から、北方の九原まで、円滑に軍隊を送り込む為の直道を作った話があります。

直道の建設にも蒙恬がかかわったとする話があります。

直道は、「山を崩し、谷を埋めた」とする記述がある事から、かなりの大工事だったはずです。

尚、始皇帝自信が直道を使ったのは、自分の死後に棺に入れられて、送られた時のみだったとも伝わっています。

その他の通路
秦の時代には、首都の咸陽から驪山までは甬道と呼ばれる道がありました。

甬道は道の両サイドに壁があり、始皇帝が通るのが見えない様になっていた話があります。

他にも、秦には復道と呼ばれるものがあり、二階層の通路になっていたとされています。

始皇帝陵及び兵馬俑
始皇帝は死後の世界に備え、広大な陵墓を建設した話があります。

陵の周囲を銅で固め、その中に王宮を築く事になります。

さらに敵を迎え撃つ為の仕組みや、兵の形をした人形である兵馬俑も用意しました。

兵馬俑の人形は、一体一体が表情が違うなど、かなり手の込んだ作りとなっています。

さらには、水銀が流れる川も百本作った話が伝わっているわけです。

水銀の川の話は伝説とも考えられていましたが、近年の研究で始皇帝陵には通常の100倍の濃度の水銀が検出されています。

これにより、実際に始皇帝陵には水銀の川があったのではないか?とも考えられています。

尚、始皇帝の陵墓は非常に良質な形で保存されており、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

後述しますが、始皇帝は水銀の川を作るだけではなく、水銀を飲んだ事で寿命が縮まり最後を迎えた話しもあります。

始皇帝の強制労働や改革が秦を滅ぼしたのか
始皇帝の強制労働や改革が、秦を滅ぼしたとする話があります。

始皇帝は万里の長城や阿房宮の建造や街道整備、灌漑工事など、かなりの土木工事を行ったわけです。

生涯を土木工事に捧げたと言っても良いでしょう。

長い目で見れば、役立つものも数多くあったようですが、民を疲弊させたとも言われています。

ただし、近年の考え方として、万里の長城や阿房宮の建設、街道整備などは公共事業だった説もあります。

戦国七雄が争った時代は、多くの兵士が必要でした。

しかし、天下統一されてしまうと国内の戦争はなくなり、兵士が余るわけです。

余った兵士を始皇帝が万里の長城など、公共事業の仕事を与えたとする説となります。

始皇帝の土木工事は、強制労働で過酷だと思われがちですが、戦争に行くよりは圧倒的に生存率が高かったのではないか?とも考えられています。

始皇帝が行う土木事業などに参加すれば、衣食住は保証されたとも考えられており、思っている程は過酷ではなかったとする説も出ています。

エジプトのピラミッドにも公共事業説があり、同じように始皇帝の土木事業も公共事業だとも考えられる様になってきているわけです。

ただし、到着の期日に間に合わなかったら、処刑されるなどの厳しい法律が災いし、秦は滅びたとも言われています。

始皇帝死後に4年で秦は滅んでいる事もあり、秦の滅亡と始皇帝の改革や土木工事が全く無関係とは言えないでしょう。

始皇帝の巡行
始皇帝は天下統一後に、5回に渡り各地を巡遊した話があります。

始皇帝の巡行の目的は「地方の視察」「自らの権威を示す」「全国の山川の祭祀を行う」「不老不死の薬を見つける」です。

始皇帝の巡行には秦の李斯や高官も引き連れていき、巡行先でも始皇帝は政治の支持をしていた話があります。

始皇帝は泰山で封禅の儀 を巡行中に行っています。

尚、始皇帝は巡行中に張良に命を狙われた話があるわけです。

それを考えれば、絶対に安全な旅というわけでもなかったのでしょう。

因みに、始皇帝の巡行が秦を滅ぼしたとする説もあります。

天下統一した始皇帝がどの様な人物なのか、民衆は興味があり始皇帝が通る所を見ていたわけです。

民衆は始皇帝が魁偉な容貌を持った人物を予想しますが、実際の始皇帝は見た目が冴えないおじさんでした。

それを見た民衆は、ガッカリし自分でも皇帝になれるのではないか?と考えた人も出てきた話があります。

巡行は良い面もあれば、悪い面もあったのでしょう。

尚、始皇帝死後に楚漢戦争で争う項羽と劉邦が巡行中の始皇帝を見かけ、劉邦は「偉丈夫」だと評価し、項羽は「奴の位を乗っ取ってやる。」と述べた話があります。

封禅の儀
始皇帝の業績として、封禅の儀を行った話があります。

春秋戦国時代に覇者になり、諸侯同盟の長となった斉の桓公も封禅の儀を行おうとして、管仲に諫止された話があります。

春秋五覇にも必ず入る斉の桓公ですら、封禅の儀を行えない事を考えれば、始皇帝の権力の大きさが分かる気がします。

ただし、封禅の儀は帝王が行ったともされていますが、やり方が伝わっておらず、儒者に探させても分からなかった話があります。

それでも、始皇帝は泰山の山頂に登り天を祀り封禅の儀を行ったわけです。

始皇帝は封禅の儀を行い自らの徳を称えるために、泰山刻石を残しています。

泰山刻石は秦の公式の文体である小篆で書かれている事でも有名です。

焚書坑儒
始皇帝が暴君だと言える理由として焚書坑儒が挙げられます。

しかし、見方を変えれば仕方がいない部分もある様に感じます。

焚書
焚書より諸子百家の多くの書物が失われたとも言われています。

この当時ですが儒家による「先王の教えに従うべきだ」とする教えがあったわけです。

儒家たちは先王の教えに従い、封建制に戻すを願いました。

しかし、ここで封建制を行えば始皇帝が8年に渡り行った郡県制を無に帰す事になります。

始皇帝は臣下に議論はさせますが、議論が終わると古い思想の書物を焼いてしまったわけです。

この時に、始皇帝は良質な書物だけを残し、現実に沿わない古い思想は焼却しようと考えた話があります。

現実主義の始皇帝には、邪魔な思想が数多くあり、思想の統一という意味でも焚書を行ったともされています。

これが焚書坑儒の「焚書」です。

ただし、孫子、呉子、韓非子など諸子百家の書物は現在でも多く伝わっており、焚書は徹底した思想弾圧ではなかったとする説もあります。

坑儒
焚書坑儒の「坑儒」を考えると、儒者を弾圧した様に思うかも知れません。

当時の中華には「方士」と呼ばれる、瞑想や気功により仙人や不老不死を目指す集団がいたわけです。

盧生は、始皇帝に「真人」という存在を教え「水に濡れず、火に焼かれず、神の如き存在」だと伝えます。

盧生は身を隠して謹んでいれば、真人が訪れ不老不死の薬を譲り渡してくれると述べます。

始皇帝は盧生の言葉に従い行動をしますが、真人は一向に現れず、盧生は始皇帝に暴言を吐き逃亡する事になります。

始皇帝は方士らに巨額の予算を出していたわけであり、方士らは嘘をつき巨額の利益だけを貪っていたともされています。

方士らを調べると法律違反をした者が460名もおり、法律に沿って始皇帝は穴埋めにしたわけです。

これが「坑儒」であり、決して儒家だけが処罰されたわけではありません。

そもそろ、方士たちが詐欺的な行為をした為に、始皇帝の怒りを買い埋められてしまったとも考えられます。

不老不死と徐福
始皇帝は不老不死を目指し、臣下を困惑させた事は事実でしょう。

方士以外にも学者らに不老不死の研究をさせていたわけです。

また、国内に関しても不老不死の霊薬を探し出す様に通達した話があります。

日本でも有名な徐福などは、始皇帝の不老不死の願いを叶え、蓬莱の神薬を得るために、大海に向かった話があります。

ただし、徐福も帰還する事がありませんでした。

尚、伝説では徐福が日本にやってきて王になった話もあります。

因みに、徐福も不老不死の薬を始皇帝に献上する事は出来ていない事から、始皇帝をペテンにかけた事になります。

扶蘇の諫言
始皇帝の長子である扶蘇は、始皇帝の改革を緩める様に意見します。

扶蘇としてみれば、法律が厳し過ぎるとか、早急な改革は天下に混乱を引き起こすと考えたのでしょう。

しかし、始皇帝は扶蘇の言葉に耳を貸さず、扶蘇を上郡にいる蒙恬の所に飛ばしています。

これにより始皇帝を諫言出来る人がいなくなってしまったとも考えられています。

始皇帝は元々が****者的な人物ですが、扶蘇が近くにいなくなった事で、****色をさらに強めたはずです。

秦を滅ぼす予言
始皇帝の36年にあたる紀元前211年に隕石が落下し、次の様な言葉が書かれていました。

「始皇帝が亡くなり、土地が分れる。」

始皇帝は、この言葉に激怒し、周辺の住民に取り調べを行わさせた話があります。

しかし、住民の中で自分が書いたと名乗る者はなく、始皇帝は皆殺しにしてしまいます。

さらに、石を溶かして文字を消す、入念さも見せる事になります。

この話は始皇帝の暴君ぶりを現わした話にもなっていますし、見方を変えれば秦の滅亡を恐れている様にも感じました。

尚、この予言は成就され、始皇帝死後に次々に反乱が起こり、秦は滅亡する事になります。

始皇帝の最後は水銀が原因!?
始皇帝は出遊中に亡くなっています。

尚、始皇帝の最後ですが、水銀を飲んだ為に崩御した話もあります。

最後の巡遊
始皇帝は紀元前210年に5回目の巡遊を行う事になります。

この時には、始皇帝は49歳になっていて、既に体調が悪かった話もあります。

体調を崩していた始皇帝でしたが、巡行に出れば「吉」と占いに出た為に、巡行を行った説があります。

ただし、始皇帝が巡行中に亡くなり、趙高が暗躍する事を考えれば、巡行に出るのは「吉」ではなく「凶」だった事でしょう。

始皇帝は丞相の李斯、大臣の蒙毅、お気に入りの宦官のである趙高、末子の胡亥を連れて巡遊に出たとされています。

しかし、これが始皇帝の最後の旅となり、紀元前210年に始皇帝は崩御する事になります。

海神と戦う夢
始皇帝は巡行中に海神と戦う夢を見た話があります。

始皇帝は夢の内容を夢占いの博士に問うと、次の答えが返ってきます。

「水神は目で見る事が出来ません。大魚である蛟竜が現れるのが、その兆候です。

主上(始皇帝)は祈祷祭祀を謹んでいるのに、悪い神が現れました。

これを除く事が出来れば、善い神が現れる事でしょう。」

始皇帝は、この言葉を信じ、海上を行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら始皇帝が自ら強弓を射ようとしますが、中々現れませんでした。

別の場所に移動すると、大魚が現れ魚を射殺した話があります。

しかし、始皇帝の一行が平原津まで行くと、始皇帝は病に倒れる事になります。

始皇帝の最後
始皇帝は病の回復を願いますが、病は重くなるばかりであり、一向に回復しなかったわけです。

始皇帝は側近の蒙毅を咸陽に向かわせ、山川の祈祷を行う様に指示します。

それでも病の回復はせず、始皇帝は死を覚悟する事になります。

史記によれば、始皇帝は長子の扶蘇に、自分の葬儀を行う様に璽書を作ります。

これが使者に渡される前に、始皇帝は崩御し、扶蘇を後継者に指名する璽書は、宦官の趙高が握っていたわけです。

これにより、趙高の陰謀が発動し、胡亥と李斯を説得し、胡亥を二世皇帝として即位させる事になります。

始皇帝は水銀を飲んだから死んだのか
始皇帝が水銀を飲んだから、死去したとする説があります。

水銀は当時は神秘的なものであり、不老不死の薬として使われていた話があるからです。

しかし、調べてみても始皇帝が水銀を飲んでいた記録はなく、あくまで想像に過ぎないと思われます。

始皇帝は始皇帝陵に水銀の川があった事から、水銀を特別視していた事は確かだと思われますが、本当の飲んでいたのかは不明です。

飲もうとしてみたが、とても飲めるものではなく、飲むのを諦めた可能性もあるでしょう。

始皇帝死後に4年で秦は滅亡
始皇帝が亡くなると、先にも述べた様に胡亥と趙高の暴政が始り、蒙恬、蒙毅、李斯、馮去疾などが処刑されています。

始皇帝時代に活躍した多くの大臣や公子達が、胡亥と趙高により殺害されているわけです。

こうした中で、陳勝呉広の乱が勃発し、さらに会稽では項梁・項羽が挙兵し、斉では田儋、田栄、田横らが挙兵する事になります。

秦では章邯や王離を派遣し、反乱軍の鎮圧を目指しますが、秦の宮廷では趙高が牛耳っており、一致団結して反乱軍を迎え撃つ事が出来なかったわけです。

そうした中で、鉅鹿の戦いで秦将王離が項羽に敗れ、章邯も殷墟で項羽に降伏し、函谷関の外は完全に反乱軍の手に落ちます。

趙高は胡亥に責任を追及される事を恐れ、謀反を起こし二世皇帝の胡亥を自刃させ、子嬰を秦王とします。

子嬰は趙高を暗殺しますが、劉邦は目の前に迫っており、子嬰は劉邦に降伏する事になります。

項羽が咸陽に到着すると、子嬰は斬られ秦は滅亡する事になります。

始皇帝も自分の死後に、秦が僅か4年で滅亡するとは思ってもいなかった事でしょう。

始皇帝の評価
始皇帝の評価ですが、非常に分かれるところではないかと感じています。

始皇帝は趙での生き埋めや焚書坑儒など、時折、残虐性を見せる事があります。

これらが暴君と言われる所以であり、冷徹なイメージを植え付けて評価を下げている様に思いました。

ただし、秦の後に楚漢戦争があり、項羽に勝利した劉邦が漢王朝を樹立しますが、漢王朝では秦の制度を参考にしている部分が多々あります。

漢王朝では九章律なる法律を蕭何が制定した話があります。

九章律の制定にあたり、蕭何は秦の法令を参考にして作ったとも考えられています。

始皇帝の改革は、非常に現実的ではあったが、早急にやり過ぎた事で、社会が始皇帝に追いつけなかったとの指摘もあるわけです。

それを考えれば、始皇帝は優れた政治家であったとも言えると思います。

それでも、始皇帝の死後に、秦は4年で滅亡している事もあり、政治力に疑問を呈す声もあります。

個人的には、始皇帝の中華という枠組みを作った点では、評価してもよいのではないか?と考えています。

ただし、不老不死に拘った辺りは減点の対象となるでしょう。

尚、長い戦乱を終わらせた王朝は短命に終わりやすいという話しがあります。

秦だけではなく、三国志の世界を終わらせた西晋、南北朝時代を終わらせた隋などです。

それを考えると、秦も歴史の法則から逃れる事は出来なかったと言えるのかも知れません。
https://rekishi-shizitsu.jp/shikoutei/
12:777 :

2023/06/20 (Tue) 05:21:06

【驚愕】 最新技術で頭蓋骨から顔を復元!明らかになった秦の始皇帝にまつわる事実とは?|TBSテレビ
https://topics.tbs.co.jp/article/detail/?id=2002
13:777 :

2023/06/20 (Tue) 05:32:19

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
2022/5/12
https://kusanomido.com/study/58425/

歴史に名を残す始皇帝
中国の歴史において400以上の皇帝が現れては消えていった。

しかし最も話題性のある皇帝は、始皇帝であることに疑いの余地はない。
彼の行った中国統一という偉業もそうだが、更に彼を魅力的に見せているのは多くの物語や言い伝えである。まだまだ沢山の謎が残されている。

その中でも始皇帝陵は大きな謎の一つである。
中には水銀が流れているとか、大きな宮殿があるとか、多くの憶測が話題を呼んでいる。

始皇帝の遺体がそこにあるのかについても、未だに謎のままである。

始皇帝の出生
始皇帝の出生についても謎が多い。

趙国(戦国時代に存在した国)の生まれで、彼の母親は呂不韋の歌姫だった。
一説によると呂布韋が始皇帝の実父ではないか、という説がある。

趙の国で始皇帝はとても苦労したと言われている。その経験が彼を強くし自立した人間にした。皇帝になってからも苦労は絶えず、反乱や多くの裏切りを経験した。

史記の中の始皇帝
始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
絵で見る始皇帝

史記の中で、司馬遷が始皇帝の外見について言及している。

蜂準長目(賢く抜け目のない人の描写。冷たい印象を人に与える。蜂のように高く鋭い鼻筋を持った人物で、細く切長な目をしていた)
伨鳥膺 (胸骨が盛り上がっていた。)
豺聲(その声はまるでよく深いヤマイヌのようだ)
少恩而虎狼心 (とても残酷で貪欲な心を持っていた)
意思是他說話聲如洪鐘(彼の話し声はまるで鳴り響く大鐘のようだ)
心胸惡毒像虎狼一樣 (心の中は悪い毒で満ちていて、虎や狼のようだ)
長目刻薄(人に対してとても冷酷で無情だった)

このように描写されている。人となりに関してはとんでもない言われようである。

他の文献によると、身長は198センチの大柄で、とても威厳のある風貌をしていたと記載されている。

AIによる検証
ではこの記述に信憑性はあるのだろうか?
残念なことに、未だに始皇帝陵に入ることはできないので、本人の遺骨から生前の姿を再現することはできない。

ところが、最近になって始皇帝と共に埋葬されたであろう人物の遺骨が発掘されている。

考古学者の研究により、その中の一人の男性が始皇帝の息子の一人であると断定した。そして発掘された一人の女性の遺骨が始皇帝の妃の一人であるということも判明した。

そして息子と妃の頭蓋骨から、AIで二人の生前の姿を復元することに成功したのである。

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
始皇帝の息子の一人

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
始皇帝の妃の一人

息子と見られる人物は整った顔で、父親のように高く鋭い鼻筋をしていることから、妃よりも始皇帝に似ていることが推測される。

妃はとても整ったしっかりとした顔立ちで大きな瞳である。
弱々しい妃ではなく、強い意思を持ち時代を生き抜いてきたような印象である。

始皇帝の母親はとても美人であったとされている。
彼もまた整った顔立ちの男であったに違いない。

この偉大な皇帝は今もなお人々を魅了してやまない。 現在も発掘や調査は進行中である。
https://kusanomido.com/study/58425/
14:777 :

2023/09/13 (Wed) 19:23:07

【古代中国の謎】兵馬俑に混入していたバラバラ死体 | 大解剖!世界歴史建築ミステリー Ep.10 (ID Investigation Discovery)
2023/04/25
https://www.youtube.com/watch?v=zNl3ftaZGao




【驚愕】最新技術で頭蓋骨から顔を復元!明らかになった秦の始皇帝にまつわる事実とは?|TBSテレビ
https://topics.tbs.co.jp/article/detail/?id=2002

始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
2022/5/12
https://kusanomido.com/study/58425/

15:777 :

2023/10/03 (Tue) 19:16:07


【春秋戦国時代】キングダムの舞台をわかりやすく解説! 〜秦の始皇帝誕生まで〜
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16:777 :

2023/10/04 (Wed) 02:19:02

中華史古代総集編  春秋時代の始まり~秦による中華統一
2023/09/15
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激動の春秋戦国時代

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• 超古代中華史総集編 中華史の始まり

0:00 春秋時代の始まり

10:00 斉の桓公

24:35 晋の文公

42:15 楚の荘王

52:37 晏嬰と司馬穰苴

1:05:54 呉王闔閭と伍子胥

1:18:45 越王勾践

1:34:03 晋の分裂と戦国時代の始まり

1:40:09 商鞅の改革

1:56:08 蘇秦と張儀

2:10:34 孟嘗君と斉の歴史

2:25:30 趙の滅亡

2:49:39 白起

3:03:53 呂不韋

3:38:02 王翦
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2024/11/23 (Sat) 22:48:19

兵馬俑は本物の人だった… 最新研究で判明した古代中国のヤバい謎
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始皇帝の息子と妃の生前の顔がAIで復元される
2022/5/12
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テレビドラマ 始皇帝烈伝 ファーストエンペラー (2007年 中華人民共和国)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14082161

テレビドラマ 項羽と劉邦 King's War (2012年 中華人民共和国)
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柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』
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性生活に没頭しすぎたあまり寿命まで縮めてしまう 「中国皇帝たちの淫らな性生活」
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