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紅子の色街探訪記 - YouTube
1:
保守や右翼には馬鹿しかいない
:
2022/12/21 (Wed) 13:19:03
紅子の色街探訪記 - YouTube
https://www.youtube.com/@beniko.iromachi/videos
◆紅子さん。YouTubeで自分の人生を語る元高級ソープ嬢はどんな女性だったのか?
2022.12.20
https://blackasia.net/?p=34536
最近、YouTubeで注目されている女性がいる。元高級ソープ嬢で現在は「色街写真家」をされている紅子《べにこ》さんである。2年ほど前からInstagramにさまざまな写真を上げて、2022年からはYouTubeでも活躍されるようになった。
通常、元ソープ嬢という経歴を持っている女性は、身バレや身辺のリスクを恐れて顔出しは控えるし、自分の人生で何があったのかを語ることも拒否する。しかし、紅子さんはごく普通に顔出しをして、自然体で自分の人生を赤裸々に語る。
https://www.youtube.com/@beniko.iromachi
その内容が非常にウケていて、確かに見ていると淡々としたソフトな語り口にとても惹き込まれる。
語っている内容は風俗時代のことが中心で、もちろんエロチックな光景を語ることもあるのだが、時には不遇の子供時代の回想もあったりして、紅子さんという女性がどのような人生を送ってきたのかが静かに見えてくる。
どんな話になったとしても、紅子さんはエキセントリックに何かを語るわけではなく、本当に自然だ。人とはまったく異質な人生の出来事を語っているのに、彼女が語るとあまりにも自然な口調なので、普通のことに思えてくるほどなのだ。
悲惨な話をしていても、彼女の柔らかな人柄で悲壮さを感じることなく聞ける。
そして、動画の終わりには、紅子さんが愛するかつての遊郭跡や赤線地帯・青線地帯跡の紹介がある。こうした昭和の香りが非常に強い写真がとても心地良い雰囲気で、私もこうした光景が大好きなのでしみじみと見てしまう。
ところで、紅子さんは30代の半ばあたりで風俗の仕事を辞めて、48歳まで沈黙を守って生きていたのだが、どうして48歳から突如としてInstagramやYouTubeで顔出しをしながら話すようになり、色街写真家や元ソープ嬢として「表現」を中心とする活動するようになったのだろうか。
彼女の人生や想いにとても深い興味があって、直接、彼女に話を聞いてみた。
元ソープ嬢で、現在は色街写真家としても活躍される紅子さん。新宿の思い出横丁をバックに。
どうして紅子さんは写真を撮り歩くようになったのか?
紅子さんはYouTubeの前にInstagramで表現活動を始めていた。そこで風俗街だとか遊郭跡地だとか赤線地帯などの撮りためた写真を必ず一日一回は上げようと思ってアップしていたという。ただ、Instagramのテーマは最初から色街ではなかったようだ。
「最初は写真もそうですが短い動画を作っていて、それをちょっとアートっぽい感じの作品にして、それを続けようという感じだったんです。でも、短いと言っても作品ってそんな頻繁に作れなくて試行錯誤していました」
紅子さんはそう言って笑った。
「私、昔から歩き回って写真を撮るのが好きだったんですけど、いろんなところを歩き回っていて、気になったところをどんどん撮っていたら、たまたまそれが赤線とか遊郭の跡地だったりして、自然とそちらを撮るようになりました。それでInstagramもその方向になりました。でも最初から遊郭を撮ろうとかはっきり決めていたわけじゃないんです」
紅子さんの写真はInstagramだけではなく、個展でも発表されているし、『紅子の色街探訪記』という冊子にもなっている。この冊子を見ると、本当に雰囲気がある。その感性はタダモノではない。写真は勉強したのだろうか……。
「写真ですか? いえ、本当にちょっとだけと言うか、勉強したとも言いがたい感じなんですけど、27歳くらいの時に週に1回だけ写真を焼く学校みたいなところに行って、何か焼いていました」
写真を焼くというのは、フィルムを紙に焼き付けるという作業工程から、昔は「写真を焼く」という言い方をしていたのだが、紅子さんがわざわざ学校に行ってそうした技術を覚えていたりしていたというのは面白い。しかし、何のために紅子さんはそんな技術を覚えようとしていたのだろう。
「アートをやりたかったんです。20代の頃まで、何かちょっとした作品を作ってみたり発表したりしていました。その頃は本当に何をテーマにやっていいのかよく分からなかったので、OLタイムみたいに朝から5時くらいまでソープランドで働いて、そのあといろんなアートとか映画とか見て歩いて、後は……そうですね、一時期は絵を書いてみたりとかしていました」
写真もまたアーティストとして自分をどのように表現するかの試行錯誤の中で、彼女は覚えようとしていたのだった。そして、それがカメラを持って遊郭跡や赤線跡を撮り巡る行動につながっていった。彼女はソープ嬢という経歴ではあったが、本質はアーティストだったのである。
紅子さんの作品のひとつ。昭和の歓楽街の怪しい雰囲気がとても素敵だ。
紅子さんの作品は冊子としてまとめられている。これらの冊子は吉原にある遊郭専門店「かすとり書房」でも取り扱っている。また、こちらでも買うことができる。
紅子さんが「もともと裸になってみたいと思っていた」理由
では、風俗という仕事は、アーティスト志向である紅子さんにとっては「ただ金を稼ぐだけの仕事だったのか」と言えばまったくそうではない。風俗で生きたというのもまた彼女の大切な人生の一片だった。
それには彼女の幼少期の原体験が色濃く影響している。YouTubeでも語られているのだが、彼女は幼少の頃は「みんなから気味が悪い」と思われていたと自ら述べている。なぜなら、学校に言ってもひとことも喋れず、内にこもり、うまくコミュニケーションを取ることができなかったからだ。
彼女はいじめられるばかりだった。そして、次第に不登校になってしまうまで追い詰められてしまっていた。
学校に行きたくないがために、屋根に登ったり、トイレにこもって出なかったり、刃物を持って「近づいたら殺す」と言って抵抗した。それほど彼女は行きたくなかったのである。しかし、両親はどうにかして行かせようとする。
「本当に毎日が戦いでした」と彼女は述懐した。
親は小さなお店をやっていて貧乏で、紅子さんと双子の妹の面倒を見ることもほとんどなく、家の中はゴミ屋敷も同然に荒れ果てて、十分にケアされなかった。
家庭でもほぼ放置され、学校に行っても友達とうまく交流ができない。だからこそ、幼い紅子さんは「人と交流したい」「人に受け入れてもらえるようになりたい」という気持ちがとても強くなっていき、それが彼女の原体験となった。
結局、そうした環境は中学生になっても変わらなかった。中学校も行ったり行かなかったりして、高校も中退してしまった。その後は改めて美術学校に入るのだが、学費や画材が高くて、費用を捻出するために西川口のピンサロの仕事に就くことになる。
性サービスをすることや裸になることには「抵抗はなかった」と彼女は言った。
「もともと裸になってみたいと思っていたんです。本当にちっちゃい時から。4歳とか5歳の時から……。男の人たちが女の裸を見て、その人を好むと言うか、そういう文化があるというのはなんとなく分かっていたんです。昔のテレビとかは露骨でしたから。あと、公園とかヤブの中に行くと、ピンク系の本が捨ててあったりしましたよね。そういったものを見て、すごくそういった世界に憧れて……」
「嫌とかじゃなくて憧れたんですか?」
「はい。憧れて、こういった世界で裸になれば私も好かれるんじゃないかとずっと考えていました」と紅子さんは言った。それほどまで、彼女は「受け入れられたい」という気持ちでいっぱいだったのだった。
紅子さんのTwitterより。紅子さんのTwitterより。2022年11月、阿佐ヶ谷で色街写真の個展を開いておられたので、私も見に行った。この個展で初めて紅子さんとお目にかかって、少しお話をさせて頂いた。
ピンサロに行ったが、何をするのか分からなかった
かくして、紅子さんは西川口のピンサロから風俗嬢としてスタートを切った。学費や画材の支払いを何とかしなければならなかった時、彼女は「高給、フロアレディ募集」という広告に釣られて面接に行った。そこがピンサロだった。仕事自体は何をするのか分からなかったが、高給なので怪しい仕事であることだけは悟っていた。
「男の人に相手にされるためには、裸になればきっと自分なんかでも相手にしてもらえるんじゃないかみたいな、そういう気持ちが結構あって、裸同然みたいな衣装を渡されてそれを着た時も、これが憧れていた世界なんだな、と漠然と思いました」
紅子さんはそのように語っている。それで、初めての面接はどうだったのか。
「本当に何をするかよく分からなかったんですけど、練習で店長さんのベルトを外して、口に咥えて……みたいな。それまで男の人のものを口に咥えたことがなかったので、それで咥えてもそれからどうしたらいいのか分からなくて、もっと早く動かすんだ、はい、みたいなことをやりました。そうすると何か白いものが出てきて、それを口で受け止めて出すって、そういう仕事なんだな、という感じでした」
「嫌悪感とか違和感とかなかったんですか?」
「その時はなんかすごく必死というか、私は変に真面目なところがあるから、頑張らないといけないとか思っていました。仕事が好きとか嫌いとか、そんなことよりも、お客をつけてくれるのかどうかとか、そういうことしか考えていなかったです」
ところが、いかんせん初めてだったこともあって技術もなく、客からも「これは駄目だ」と思われてしまった。やめさせられるところまではいかなくても、彼女からすぐに辞めてしまった。その頃は、他にも親にバレたらどうしようという怖さも心にあったりして、長く居られなかったのだった。
とは言っても、やはりお金がないので、新宿とか池袋とか渋谷のピンサロを転々としていた。渋谷ではセンター街のど真ん中にあるピンサロに在籍していたこともある。
その当時は、茶髪・ガングロのファッションが流行っていて、そこに黒髪で長いスカートをはいた垢抜けない地味なタイプだった紅子さんが行くと場違いになってしまって、他の女の子たちからは避けられた。
その後、紅子さんの舞台はソープランドに移っていくのだが、そのきっかけは何だったのだろうか。
紅子さんのTwitterより。
「吉原なんかに行ったらね、人生の終わりだからね」
「渋谷のピンサロに在籍していた時に、たまたま何かの会話で吉原という場所があると教えてもらったんです。私、その時は全然、吉原の知識ってなくて、何となく吉原という響きは知っているというような、ぽわんとした感じでした」
「確かに普通の女性が吉原のことなんか知っているはずもないですよね」
「私、関東にあるということも知らなくて、関西かどこかにあるんだと思っていました。それで、お客さんが私に言ったんです。吉原なんかに行ったらね、人生の終わりだからね……」
「吉原に行ったら人生の終わりと言われたんですか?」
「はい」
「どうして人生の終わりなんですか?」
「吉原は本番をするところだからです。本番のないピンサロだとかヘルスなんかもそうですけど、本番をするような吉原のようなところに行ったら地獄だよと、そういう言い方をするんですよね。そんなところに行ったら、吉原なんかに行ったら、人生終わるよって言われて。私もちょっと本当に人生が嫌すぎたので、終わりにできるならそうしたいと思って……」
結局、紅子さんは翌週にはピンク系の求人雑誌を買ってきて、吉原のソープランドを調べてみたのだという。当時はインターネットがなかったので、女性たちはこうした雑誌で仕事を探していた。
吉原のソープランドにもいろんな謳い文句で女性を求人していたのだが、その中で紅子さんが見つけたのが「素人大歓迎」と書かれている店だった。そこに面接に行ってみたら、素人格安専門店のソープランドのチェーン店だった。
「何年か前に摘発されてしまいましたが、オレンジ・グループというチェーン店です。そこに受かって……受かってと言っても誰でも受かると思うんですけど、そこで働き始めたんです。そしたらそこがもうピンサロとかヘルスでは全然比べものにならないくらいすごいシステムがしっかりしているところで、ボーイさんもみんな優しいんです。優しいというか、女の子を姫として扱って気持ちよく働かせてなんぼという、そういうお店だったんですね」
ソープランドにはそれぞれ女性に対する扱いが違っていることも多く、角海老グループなどは威圧的だということなのだが、オレンジ・グループはそうではなく嬢を姫として扱う店だったようだ。
「そういうお店だったので、マネージャーさんと講習を受けた時、初めてだったので、椅子洗いから、マット、潜望鏡、あと本番はないけど添い寝までやってくれて、最後すべての講習が終わって階段を降りて行くと、社員さんたちがみんな講習おめでとう、これで明日から働けるね、と拍手でした。そういう温かいところだったんです。そこに、3年くらい働いていたと思います」
吉原に行ったら人生の終わりと言われて行ってみたら、紅子さんにとってはまた新しい世界となったのだった。
紅子さんの作品集『紅子の色街探訪記 現代に生きる色街』の表紙はまさに吉原そのものである。作品の購買はこちらから。
紅子さんのアートパフォーマンスを突き動かしていたもの
紅子さんがオレンジ・グループで働いていた頃、友人が神奈川県川崎市の溝口《みぞのぐち》にアトリエ兼住居のシェアハウスを作ったので、アートの世界に惹かれて離れられなかった彼女は高円寺から溝口に引っ越している。
そのシェアハウスはバスルームとトイレは共同だったのだが、下の広いアトリエは使いたい放題で、それが楽しそうだという気持ちが紅子さんにあった。アートの世界に浸りたかったのである。
この溝口から吉原は遠すぎるので、彼女はオレンジ・グループを辞めて川崎のソープに週一に出勤し、残りはアートに費やした。この頃、紅子さんを夢中にさせていたのは身体芸術(身体表現芸術)と呼ばれるものだった。舞台に立ってパフォーマンスをする、それで自分を表現する、というものだった。
芸術に疎い私がイメージをつかめないでいると、紅子さんは「ヨーコ・オノがジョン・レノンとベッドインした表現活動がありましたけど、あれも身体芸術のひとつです」と教えてくれた。1960年代に流行ったアートなのだという。
紅子さんのパフォーマンスは、ライブハウスなどの舞台に立って「私はアーティストなんかじゃない、私はただのセックスワーカーだ」と言って、****になって観客の男性と舞台で抱擁したりキスしたりする過激なものだったようだ。
彼女がこのような表現をしたのは、その根底に彼女の原体験があった。誰ともうまく交流ができない。だからこそ「人と交流したい」「人に受け入れてもらえるようになりたい」と彼女は突き動かされていた。それが紅子さんなりの、アートの表現だったのである。
日本にも身体芸術のグループがあって、紅子さんはそこに所属して活動していたのだが、この「私はただのセックスワーカーだ」と言って****になって客と抱擁やキスをするパフォーマンスで、彼女は海外のアートフェスティバルに何度も行っている。
行き先は、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア。東南アジアでは、タイやフィリピンやミャンマーでも公演活動をやっていた。タイではパッポンでパフォーマンスを行ったようだ。
私が歓楽街パッポンに沈んでいた時、彼女はパフォーマンスでパッポンに立っていたということになる。
27歳頃の紅子さん。ソープ嬢をしながらも身体芸術のためにパフォーマンスをしていた頃だろうか。彼女は、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア。東南アジアでは、タイやフィリピンやミャンマーでも公演活動をやっていた。
アートも何もかも辞めて吉原の高級店で頑張ろうかな……
ただ、こうした活動は次第に紅子さんの精神状態を不安定にさせていった。気持ちが不安定なのは常にあったのだが、アート活動で充実感を感じることができなくなってきていた。それは、彼女のパフォーマンスに対する批判が彼女を傷つけるようになっていたからだった。
彼女のアートの原点は「人に受け入れてもらえるようになりたい」というものだった。ところが、彼女がパフォーマンスをすればするほど、彼女の元にはフェミニストの女性たちから批判と拒絶が飛んでくるようになってきたのだった。
「私は人間で……、人とつながりたいから何かをやっているのに、それが批判されるんだなと、どんどんネガティブな思考になっていって。認めてくれる人もいるけど、そうじゃない人もいて」
「表現者には批判が付きものですけど、****になって批判されるのはつらいですよね」
「若いからいいよね、そんなことやってて、と言われたこともあってすごいショックと思って……。人とつながるためにアートパフォーマンスを始めたのに、どんどん批判されていくというのがつらくて。私自身もこんなことをやっていていいのかと。確かなものがないと言うか、これで気持ちが不安定になってしまいました」
結局、紅子さんは不安定な精神状態のままアートパフォーマンスの舞台から降りた。やればやるほど、彼女は自分の求めているものが遠ざかっていくのである。それは、彼女の本意ではなかった。
その後、彼女はアート関係で知り合った男性と知り合って、溝口のシェアハウスからも出て行って、彼女自身はアートからも離れて漂流するかのように再びいろんな風俗をやるようになっていった。そして、紅子さんは吉原に戻る決意をする。
その時、知り合いにライターをしながらソープ嬢をしている女性がいたのが、彼女に相談してみると「高級店にはピカソというお店があるけれど、厳しいし難しいよ」と言われた。
紅子さんは深く考えることもなく「じゃ、面接に行ってみますね」と言ってしまったが、あとで募集要項を見ると「容姿端麗」とか書いてあった。「これはまずい、とても自分が受かるとは思えない」と思いつつも、面接に行くと言ってしまったので、紅子さんは恐る恐る面接に受けに行った。
「もしこれに受かったら、アートも何もかも辞めて吉原の高級店で頑張ろうかな、という気持ちになっていました」
いざ面接に行くと、非常に気まずい雰囲気になって、とても受かりそうにない雰囲気になったのだが、紅子さんはかろうじて受かった。そして……、紅子さんは愛するアートをやめてしまった。
32歳頃の紅子さん。ソープ引退直前頃。今の紅子さんとも雰囲気がまったく変わっておらず、逆に言えば紅子さんは今も美しさをずっとキープされておられるということになる。
吉原引退とその後の波乱万丈の出来事。胸に去来したもの
紅子さんはこの高級店ピカソで3年近く働いている。やはり3年も働いていると、肉体的にも精神的にも疲れてしまう。そして、紅子さんはこの頃に長らく同棲していた男性と結婚した。それをきっかけにピカソを辞めて吉原を引退した。
ピカソを辞めた後は友達がやっていた大人のおもちゃ屋でバイトを始めたが、時給は900円、月給にすると15万円くらいだった。しかし、家賃はそんなに高いところにいなかったし、贅沢をする性格でもなかったので、月15万円でもなんとかやっていけた。
高級店ピカソで働いていた頃のお金はそんなに多くは残っていなかった。高級店だと下着や衣装も安物だと客の男性に見下されるというのもあって、凝ったレースで縫い付けられた十数万円もするような下着を買ったり、ソープ嬢特有の肌荒れのために日常的にエステに行かざるを得なかったのである。
ピカソを辞めて大人のおもちゃ屋で細々と生活をするようになってから2年目で紅子さんは妊娠し、出産を契機にこの大人のおもちゃ屋も辞めた。そして1年後、紅子さんの人生は****乱となった。夫が「他に結婚したい人ができた」と言い出したのである。
結局、修羅場の果てに離婚することになったのだが、離婚調停しても夫は無一文みたいな人だったので、慰謝料を請求したところで取る道もないと調停員に言われてしまった。
「調停員をやっているのはおじさんとおばさんなんですけど、すごい優しいんですよね。優しいんですけど、私が例えば月3万円は欲しいとか言っても、辞書みたいな分厚いものを見せられて、この表を見てごらんなさい、あなたのね旦那さんはほとんどゼロでしょう、そうするとね、もらえても月1万円なのよ……と言われました」
彼女は1歳の子供を抱えて途方に暮れている。しかし、慰謝料も取れるわけでもなく、調停員は助けてくれるわけでもない。「調停員ってすごく優しいんですよ。優しいけど残酷」と紅子さんは言った。
紅子さんは、そこから子供を抱えながらアルバイトやパートで暮らしていくことになるのだが、風俗にはもう戻ろうとは思わなかった。理由は2つあった。1つは子供を抱えながら、30代後半で風俗で働けるとは夢にも思わなかったことと、もう1つは妹の勧めもあって教会に通うようになっていたからだった。
アートを辞め、風俗を辞め、シングルマザーとして子育てに追われながら「普通の暮らし」をするようになって十数年経った。やがて紅子さんの心の中に去来するものがあった。すでにアートをやめてから20年ほど経っている。48歳になって紅子さんはこのように思うようになった。
「私、このまま死んじゃうのかも……」
彼女の願いは、今やっと成就しようとしているのではないか
死んでしまう、というのは病気だとか年齢的なものだとか、そういうののではない。子供の頃から表現者に憧れ、一時はアートに身を投じて生きていた彼女の生き様が掘り起こした気持ちだったのは間違いない。
「アーティストとしての自分のアイデンティティが、何もしないとこのまま死んでしまう」という意味だったのだろう。
48歳の頃、彼女はアートをやっていた知り合いに再会した。そして、彼女の中で封印していたものがほどけていったようだ。それで始めたのがInstagramへの投稿であり、YouTubeだったのである。
YouTubeはInstagramに作品を発表する中で知り合った映画監督の出馬康成氏の勧めで始めたと紅子さんは言う。YouTubeをやることによって身バレを含めていろんな問題が出てくることもあるだろうが、「もう今さら躊躇しても何も始まらない」と気持ちの方が彼女には勝っているようだ。
今の紅子さんには悲壮さはない。自分のやり方で表現を楽しんでいる。身体芸術をやっていた頃の紅子さんとは違うが、再びアートの世界に戻ってきて、「色街写真家」としても個展を開くようなところにまで到達している。
彼女と話していると、彼女の本質はアーティストなのだというのが確信できる。彼女は元風俗嬢ではあるが、風俗というビジネスもまた彼女にとっては身体芸術の一つだったのではないかと思う。
紅子さんはYouTubeという舞台を得て花開き、いまや自由自在にアート魂を炸裂させている。
「人と交流したい」「人に受け入れてもらえるようになりたい」という子供の頃の原体験から、彼女は触れ合うために風俗の世界に身を投じ、アートの世界に突き進んでいった。彼女の願いは、今やっと成就しようとしているのではないか。
紅子さんの話を聞いた後にひとりで新宿の街を歩いたが、柔らかに笑みを浮かべる紅子さんのことをずっと考えて爽やかな気持ちだった。自分の世界に戻ってきて、自分を表現している一人の女性に私は尊敬の気持ちを抱いた。
紅子さんの話を聞いた後にひとりで新宿の街を歩いたが、柔らかに笑みを浮かべる紅子さんのことをずっと考えて爽やかな気持ちだった。自分の世界に戻ってきて、自分を表現している一人の女性に私は尊敬の気持ちを抱いた。
紅子さんの身体芸術のひとつ
ノンフィクション・ライターに「インベカヲリ★」さんという方がおられる。
インベさんはさまざまな賞を受賞し、ノンフィクションでもご活躍されているが、ライフワークとして「市井に生きる女性の人生を聞き取りしながらのポートレイトを撮る」という活動もされている。(ウィキペディア:インベカヲリ★)
紅子さんは、このポートレートの被写体にもなっている。このあたりの経緯は紅子さん自身もYouTubeで語っている。(YouTube:元吉原ソープ嬢紅子/久しぶりのヌード)
このポートレートは雑誌『シモーヌ(Les Simones)VOL.5』に掲載された。
今回、紅子さんの許可を頂いたので、この貴重なインベカヲリ★さんの撮影された写真をここに掲載したい。
この写真には、下半身だけ裸になった紅子さんが大量の長ネギを抱えている姿が写っている。あるいは、自転車に大量の長ネギをカゴに入れて紅子さんが自転車を押している写真も見受けられる。
一見、奇妙に見える光景だが、これにはひとつひとつ紅子さんの大切な人生の「象徴」が隠されている。
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