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ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領

1:777 :

2022/11/28 (Mon) 02:37:18

【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第19回「米中間選挙が時代の裂け目に?キャンセルカルチャー工作の猖獗とアメリカ内戦革命のシナリオ」[桜R4/10/15] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nioVT_7NHR8&t=3105s

【Ch桜大学 #74] 1934NYタイムス1面が明らかにした日米の歴史事実 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Hqd6KrVvkCU

【Ch桜大学 #73] 第2次アメリカ革命=財団支配の完成へ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H4aiZ4LRmgA

【Ch桜大学 #72] 今後のアメリカの「分裂激化」を読み解く鍵 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=p2bVY5_ipFA

【CH桜大学#69】歴史が教えてくれる「反ウォール街」の裏にウォール街 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wJJb66DnRp8

【Ch桜大学 #68] 日本とアメリカ国民の敵は金融大資本 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hqBsttvOkkc

【Ch桜大学 #65]アメリカを牛耳る大資本家はどこから来たか - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yXijj0qsurI

2:777 :

2022/11/28 (Mon) 02:41:20

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

アメリカとマルクス - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14063330

馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html

共産主義者のルーズベルトは意図的に東欧をソ連に支配させた
アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1053.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/963.html

共産主義者のルーズベルトは意図的に北方領土をソ連に支配させた
2019.01.21 旧ソ連の北方領土占領、米国が軍事支援していた…歴史の定説を覆す発見文=粟野仁雄/ジャーナリスト
https://biz-journal.jp/2019/01/post_26352.html

スターリンはなぜ北海道占領計画を放棄したのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1016.html

ヒトラーの共産主義との戦い
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html

米英金融資本とナチスの緊密な関係
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1573.html

英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/615.html

ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除した 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/772.html

アフター・ヒトラー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

近衛上奏文
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1126.html

昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/614.html

西側で第二次大戦を戦ったのはレジスタンスだが、その主力はコミュニスト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1195.html

3:777 :

2023/07/16 (Sun) 00:41:02

【今、世界はどうなっている? 】林千勝×水島総 第28回「新世界秩序に与するか否か?米大統領と日本国財政家 百五十年の系譜」[桜R5/7/15]
https://www.youtube.com/watch?v=N288UQcx6xc
4:777 :

2023/08/15 (Tue) 06:08:31

2023.08.15XML
米英金融資本の支配下にあった日本が東アジア侵略を進めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308140000/

 1945年8月15日、昭和天皇(裕仁)は「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表した。7月26日に発表されたポツダム宣言は日本に無条件降伏を要求している。

 連合国で無条件降伏という話が出てきたのは1943年1月にカサブランカで行われた米英仏の首脳、つまりフランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、シャルル・ド・ゴールの会談においてだ。その直前、ソ連へ攻め込んでいたドイツ軍はスターリングラードで降伏している。

 ドイツ軍は1941年6月、ソ連に対する奇襲攻撃を開始。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 こうした中、1941年12月に日本軍はマレー半島と真珠湾を奇襲攻撃してイギリスだけでなくアメリカとも戦争を始める。ドイツの勝利を予想して米英と戦争を始めたのかもしれないが、そうした展開にはならなかった。ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年1月にモスクワで降伏、同年8月にスターリングラード市内へ突入したのだ。

 ヨーロッパでドイツがソ連に負けたことを受け、英米仏が開いたカサブランカ会談で無条件降伏が打ち出された。これはドイツや日本の降伏を遅らせることが目的だったと言われている。日本はともかく、ドイツがソ連に負けたというイメージを消し去り、イギリスやアメリカに負けたのだという演出をするには時間が必要だったのだろう。

 勿論、日本が戦争を始めたのは1941年12月よりはるか前のことだ。本ブログでは明治維新をイギリスによる東アジア侵略戦略の一環だと考えている。

 明治体制になってからイギリスやアメリカの外交官は台湾や大陸を侵略するように焚きつけて軍事技術を提供、その一方で米英金融資本は戦費を融資している。そして明治政府は琉球を併合し、台湾へ派兵、江華島事件を引き起こし、日清戦争、日露戦争、シベリア派兵へと突き進んだ。シベリア派兵はロシアで起こった十月革命への干渉だ。

 十月革命は第1次世界大戦と深い関係がある。1914年6月にサラエボでオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺され、翌月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まるのだが、ロシア支配層は戦争に反対する地主階級と戦争に賛成する産業資本家との間で対立が生じていた。

 戦争反対派の中心人物は皇后アレクサンドラと大地主を後ろ盾にするグリゴリー・ラスプーチン、戦争賛成派の中心は有力貴族でイギリス支配層と深い関係にあるフェリックス・ユスポフだ。

 ロシアとドイツを戦わせたいイギリスにとって目障りな存在だったラスプーチンは1914年6月に腹部を刺され、重傷を負って入院。その間にロシアは宣戦布告していたが、その後も対立は続く。そしてラスプーチンは1916年12月に暗殺された。暗殺者はフェリックス・ユスポフだとされている。

 ユスポフは1887年3月にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれているが、その11年前、その宮殿でイギリス人男子が生まれていた。ユスポフ家に雇われていた家庭教師の息子、スティーブン・アリーだ。この人物は後にイギリスの対外情報機関MI6のオフィサーになる。のちにフェリックスはオックスフォード大学へ留学するが、そこで親密な関係になったオズワルド・レイナーもMI6のオフィサーになる。

 ロシアで支配層の内紛が展開されている最中、1916年にイギリス政府はMI6のチームをロシアへ派遣したが、その中心メンバーはアリーとレイナーにほかならない。このチームがフェリックスと接触していることは運転手の日誌で明らかになっている。またラスプーチンの殺害に使われた銃弾を****できるピストルを持っていたのはレイナーだけで、真の暗殺者はレイナーではないかと考える人もいる。

 そして1917年3月にロシアでは「二月革命」が引き起こされ、資本家が実権を握った。そのほか、カデット、エスエル、メンシェビキも革命グループに含まれていたが、ボルシェビキは参加していない。その指導者は亡命中か刑務所の中だった。革命で成立した臨時政府は戦争を継続する。

 それに対し、両面作戦を避けたいドイツ政府は即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目を付ける。そこでドイツ政府はボルシェビキの指導者を列車でロシアへ運び、「十月革命」につながった。こうした経緯があるため、ソ連とドイツはアドルフ・ヒトラーが台頭するまで関係は良好だったのである。そして日本はイギリスやフランスの要請で十月革命に干渉、1925年までソ連領内に居座ったわけだ。

 その間、1923年9月1日に東京周辺を巨大地震が襲った。被災者数は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回ると言われている。損害総額は55億から100億円に達していたという。

 この資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大銀行JPモルガンに頼った。ロスチャイルド金融資本からスピンオフした金融機関だ。その当時、JPモルガンと最も緊密な関係にあった日本人は井上準之助だと言われている。関東大震災を切っ掛けにして日本の政治経済はJPモルガンから大きな影響を受けるようになった。

 地震の当日、総理大臣は不在。山本権兵衛内閣が成立するのは9月2日のことだ。その内閣で井上は大蔵大臣に就任、1924年1月までその職にあった。1927年5月から28年6月までは日本銀行の総裁、浜口雄幸内閣時代の29年7月から31年12月まで、再び大蔵大臣をそれぞれ務めている。

 9月1日の夕方になると社会主義者や朝鮮人をターゲットにした流言蜚語が飛び交いはじめ、2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電して戒厳令も施行された。

 こうした雰囲気が社会に蔓延、数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに社会主義者やアナーキストが虐殺されているが、そうした犠牲者のひとりがアナーキストの大杉栄だ。彼は妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉だった甘粕正彦に殺されたのである。地震当時、東京に住んでいた人の話では、焼き殺された朝鮮人もいたようだ。実行者は日本の庶民にほかならない。

 そうした中、JPモルガンは日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、浜口雄幸内閣は1930年1月に要求通りに実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。浜口は1930年11月に東京駅で狙撃され、31年8月に死亡し、井上は32年2月に射殺された。

 1932年に駐日大使として赴任してきたジョセフ・グルーはJPモルガンと深い関係にある。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻なのだ。

 この年、アメリカでは大統領選挙があり、ウォール街が操る現職のハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れた。慌てたウォール街の住人はクーデターを目論む。計画の中心的な存在である巨大金融機関のJPモルガンは司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。日本の政治経済に大きな影響力を持っていたJPモルガンはアメリカでファシズム体制の樹立を目論んでいたわけだ。

 日本軍は1927年から28年にかけて山東省へ派兵、1931ねんには柳条湖事件、32年に「満州国」建国、37年に盧溝橋事件、39年にノモンハン事件へと続く。その延長線上にマレー半島や真珠湾への奇襲攻撃がある。

 JPモルガンが 1932年に日本へ駐日大使として送り込んできたグルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しかった。

 そのグルーは第2次世界大戦後の日本のあり方を決めたジャパンロビーの中心人物でもある。この団体の後ろ盾はウォール街だ。つまり、戦前も戦後も支配システムは基本的に同じ天皇制官僚体制であり、「戦前レジーム」だ、「戦後レジーム」だと騒ぐのは滑稽なのである。

 アメリカやイギリスの支配層は第2次世界大戦の前と同じように中国やロシアの征服を目論んでいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308140000/
5:777 :

2023/08/31 (Thu) 08:14:20

2023.08.31XML
100年前の関東大震災を切っ掛けにして日本はウォール街の影響下に入った
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308300001/

 今から100年前の1923年9月1日、東京周辺を巨大地震が襲った。被災者は340万人以上、死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)

 JPモルガンを率いていたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1931年までの間に融資額は累計10億円を超えたという。必然的にJPモルガンは日本に大きな影響力を及ぼすようになる。日本の通貨を支配するために金本位制を強制、今の用語を使うならば「新自由主義経済」を導入させた。その結果、日本からは金が流出して不況はますます深刻化、東北地方で娘の身売りが増えることになる。

 そうした政策に反発する人たちもいた。例えば血盟団は1932年に井上準之助や団琢磨らを暗殺、36年2月26日には陸軍の青年将校が軍事蜂起している。腐敗した政治家や財界人を排除すれば天皇が素晴らしい政治を行ってくれると信じていたようだが、勿論、間違っていた。天皇も彼らの仲間だったのだ。

 ウォール街は帝国主義の牙城だが、その中核がJPモルガンにほかならない。そのウォール街を揺さぶる出来事が1932年にあった。大統領選挙で彼らに担がれていたハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。

 フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街に目をかけられたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

 その当時、大統領の就任式は選挙から4カ月後の3月に行われていた。式の直前、1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会に参加したのだが、銃撃事件に巻き込まれている。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を****したのだ。弾丸はルーズベルトの隣に立っていたシカゴのアントン・セルマック市長に命中、市長は死亡したものの、ルーズベルトは無事だった。

 ザンガラの足場が不安定だったうえ、そばにいたW・F・クロスという女性がザンガラの銃を握っていた腕にしがみついて銃撃を妨害、すぐ別の人も同じようにザンガラの腕にしがみついたと報道されている。クロスによると、ザンガラはルーズベルトを狙っていた。(‘Woman’s courage foils shots assassin aimed at Roosevelt,’ UP, February 16, 1933)

 次期大統領の命が狙われた可能性が高いのだが、徹底的な調査は行われていない。事件の真相が明らかにされないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。

 ルーズベルトが大統領に就任した後、ウォール街の住人はクーデターを計画する。1933年から34年にかけてのことだ。この事実は名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人であるスメドリー・バトラー少将が計画の詳細を聞き出した上で議会において告発、明らかにされた。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)

 バトラーによると、ウォール街の住人たちはドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万人規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。動員する組織として想定されていたのは在郷軍人会だ。

 クーデターを計画したグループはアメリカに金本位制を復活させようとしていた。ウォール街に利益をもたらすからだ。失業対策として彼らが考えていたのは強制労働収容所にすぎず、労働者の権利を認めたり公教育を充実させるといった政策は考えていない。

 クーデター計画を聞き出したところでバトラーは反クーデターを宣言した。50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると応じた。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。(前掲書)

 関東大震災から日本の政治経済に大きな影響を及ばしたJPモルガンをはじめとするウォール街の金融機関とはファシストにほかならない。そのJPモルガンは1932年に駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ送り込んでくる。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥だ。

 また、グルーの結婚相手であるアリス・ペリー・グルーの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通ったという。

 グルー夫妻は官僚や財界人だけでなく天皇周辺にも強力な人脈を持っていた。例えば松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らがその人脈には含まれていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945~1952』時事通信社、1994年)

 しかし、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在した。離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

 ところで、震災当日、日本の政府は機能していなかった。8月24日に加藤友三郎首相が死亡し、山本権兵衛(ごんのひょうえ)が組閣している最中だったのである。親任式が行われたのは翌日のことだ。

 そうした中、震災対策の責任者として活動していたのは水野錬太郎内相と赤池濃警視総監。朝鮮の独立運動を弾圧したコンビだ。

 赤池総監は震災当日の午後4時半に東京衛戍司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請し、皇居、官公庁、駅、銀行、物資集積所などを部隊が警備、憲兵も市内の治安維持にあたった。さらに総監は罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言している。

 夕方になると「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」とか「朝鮮人が来襲して放火した」、あるいは「不逞鮮人が来襲して井戸への投毒・放火・強盗・●姦をする」といった流言蜚語が飛び交いはじめた。そして9月2日夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電し、戒厳令も施行されている。

 どのようなプロセスで流言蜚語が広まったか不明だが、 結果として数千人の朝鮮人や中国人が殺されたと言われている。さらに大杉栄や伊藤野枝を含む社会主義者やアナーキストが虐殺されている。こうした出来事は、少なくとも結果として、中国占領の準備になった。

 明治維新以降、日本では民主主義勢力が徹底的に弾圧されていたが、1925年4月には治安維持法が公布され、5月に施行された。1927年5月には第一次山東出兵、28年4月に第二次山東出兵、5月に第三次山東出兵、6月には張作霖を爆殺、31年9月に柳条湖で満鉄の線路を爆破(柳条湖事件)、32年3月に「満洲国」の建国を宣言、そして37年7月の盧溝橋事件というように中国侵略を進めていく。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308300001/
6:777 :

2023/11/19 (Sun) 11:59:53

特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その1 ~戦勝国史観を根底から覆す時が来た~』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/10/03
https://www.youtube.com/watch?v=TrcvWnEmTC8


特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その2 ~第2次世界大戦、フランクリン・デラーノ=ルーズヴェルト大統領がおかした愚行と大罪~』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/10/21
https://www.youtube.com/watch?v=Hw8XuSYzP8Q&t=137s

特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その3 ~「リメンバー・パールハーバー」とはもう言わせまい~』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/11/09
https://www.youtube.com/watch?v=LbYDSuRfBvY

特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その4 ~誰が中華人民共和国の誕生を招いたのか?米軍の延安ミッションが契機~』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/11/16
https://www.youtube.com/watch?v=qECM5tskags&t=68s




著書『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ―
アメリカの戦勝国史観から脱却する時は令和(いま)』、ハート出版、2023年8月→
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%88%E3%80%81%E6%AD%B4%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8C%EF%BC%81-%E2%94%80-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%8B%9D%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E8%84%B1%E5%8D%B4%E3%81%99%E3%82%8B%E6%99%82%E3%81%AF%E4%BB%A4%E5%92%8C%EF%BC%88%E3%81%84%E3%81%BE%EF%BC%89-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E8%8B%B1%E6%AC%A1/dp/4802401647

【目次】
はじめに 
第1章 国家意識の重要性
第2章 日本列島全体を、「巨大な洗脳の檻」と化したGHQ
    終戦直後の日本人に罪の意識なし
第3章 GHQの対日洗脳工作における共産主義の影響 
第4章 戦勝国史観を根底から覆す時が来た
第5章 真の意味の国の独立なくして日本の蘇生なし
おわりに
7:777 :

2024/01/24 (Wed) 09:59:24

2024.01.24XML
「崩れる『無敵国家米国』神話」について
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202401240000/


 日本に限らないでしょうが、アメリカは無敵だと信じている人が少なくありませんでした。1991年12月にソ連が消滅して以降、そうした信仰は強まったようですが、その神話が崩れ始め、アメリカの求心力は弱まっています。アメリカを中心とする支配システムが崩壊し始めたということです。

 ソ連消滅後、ネオコンと呼ばれるシオニストの好戦派は世界制覇計画を作成して侵略戦争を開始、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎が攻撃されると、そうした動きは加速しました。その結果、ロシア軍部隊がアメリカ支配層の手先として利用している武装勢力と衝突する事態が生じ、ロシア軍の強さを明確にしたのです。

 ソ連の消滅の結果、ロシア文化の影響下にない国々はソ連圏から米英圏へ移動していきました。軍事的に見るとロシアの防衛システムが弱体化したと言えますが、経済的に見るとソ連圏の国々を「養う」必要がなくなったという側面もあります。ロシアは自分たちの稼ぎを自分たちのために使うことができるようになり、早いペースで国力を回復させたと言えるでしょう。

 旧ソ連圏のうち、東ドイツはナチスが台頭してからソ連を攻撃する中核になった国の一部であり、チェコの半分は1939年にナチスドイツに吸収され、スロバキアの半分はドイツの同盟国でした。ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアも同様です。

 カトリック国のポーランドは歴史的に反ロシア感情が強いことで知られています。16世紀から18世紀にかけて同国はリトアニアと「ポーランド・リトアニア連邦」を構成、その領土が最も広かった1600年当時の復活を夢見みる人びとがいました。そうした人びとを率いていたひとりがユゼフ・ピウスツキで、1904年に来日、彼の運動に協力するよう日本側を説得しています。

 1917年に帝政ロシアが崩壊すると、再興されたポーランドは現在のウクライナとベラルーシへ軍事侵攻しました。ロシアの革命政権は反発して反撃、1920年夏までにポーランド軍を押し出してワルシャワ近くまで攻め込みました。ピウスツキは1925年に「プロメテウス同盟」という地下組織を作っています。

 ポーランドは1934年1月、ナチス体制下のドイツと不可侵条約を締結しました。1938年にポーランドはチェコスロバキアの一部を占領しますが、この年、イギリスとフランスはチェコスロバキアに対し、ズデーテン(スデーティ)地方をドイツへ引き渡すように強い圧力を加えています。

 1938年9月に英仏伊独はミュンヘンで首脳会談を開催、ズデーテンの帰属を巡って討議、ドイツへの割譲が認められました。そして1938年10月1日からドイツ軍はズデーテンを占領し始め、ポーランド軍はチェシン・シレジアへ軍事侵攻しています。この時期、ポーランドとドイツとの関係は悪くなかったのです。

 そのドイツは第1次世界大戦の敗北で領土を削られ、ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になっていました。

 この問題でドイツはポーランドに対し、住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すと提案、その条件で交渉はほぼ合意に達します。

 その調印のため、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになったのですが、姿を現しませんでした。ロンドンへ向かったのです。その日、ロンドンではアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるため、西側各国の指導者が集まっていました。そして26日、ポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告、軍事的な緊張は一気に高まります。

 ドイツの動きを警戒していたソ連に対し、イギリスはこの年の7月23日に交渉を申し入れますが、話し合いが始まったのは8月11日。しかもイギリスは文書に署名できる立場の人間を送り込んでいません。

 この時、ソ連軍の代表だったクリメント・ボロシロフ国防相(国防人民委員)とボリス・シャポシニコフ参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があるとイギリスやフランスの代表に提案しました。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団。それに対してイギリスの代表だったレジナルド・ドラクス提督は交渉する権限がないという理由から回答を拒否しています。ソ連がドイツを不可侵条約を結んだのはその直後、1939年8月23日のことです。(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)

 イギリスのウィンストン・チャーチル政権はシティを後ろ盾とする帝国主義者として知られ、ソ連征服を目指していました。そのチャーチルと同じように、ソ連を敵視、ルーズベルト政権の打倒を目指していたのがウォール街、つまりアメリカの巨大金融機関でした。この辺の事情は本ブログでも繰り返し書いていますので、ここでは割愛します。

 そしてドイツ軍は1939年9月1日にポーランドへ軍事侵攻、9月3日にイギリスとフランスはドイツに宣戦布告しますが、しばらくは目立った戦闘がありません。「奇妙な戦争」です。戦局が動き始めるのは半年ほど後です。

 その当時、ポーランドの反ロシア運動で大きな影響力を持っていたウラジスラフ・シコルスキーはパリへ脱出、1939年9月30日に亡命政権を作り、翌年6月19日にチャーチル首相と会談、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束します。そして亡命政権はロンドンへ移動しました。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」を開始します。西側に約90万人だけを残し、東側に310万人を投入するという非常識なもので、まるで西側から攻撃してこないことを知っていたかのようです。

 大きな軍事作戦では準備のためにそれなりの期間が必要です。バルパロッサ作戦を始める直前、1940年9月から41年5月までの期間、ドイツ軍はイギリスを空爆していました。ドイツは本気でイギリスへ軍事侵攻する意思はなかったと見る人もいます。つまり陽動作戦。

 ドイツ軍は1941年7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達しました。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語り、英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは、3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していました。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入します。ここでソ連軍に敗北、1943年1月に降伏しました。この段階でドイツの敗北は決定的。ここからアメリカやイギリスは慌てて動き始めたわけで、ナチスに勝ったのはソ連です。

 アメリカはその事実を消し去り、自分たちが勝ったのだというイメージを広めるため、ハリウッド映画を利用しました。ソ連とドイツが不可侵条約を結んだ際に登場する地図の「解釈」もイメージ戦略のひとつだと言えるでしょう。ポーランドを「可哀想な犠牲者」として描くことも同じです。ドイツに占領されていた当時、ポーランドでもユダヤ人をはじめとする少数民族が虐殺されていますが、偶然ではないのです。責任の全てをドイツに押し付けることは正しくありません。

 つまり、かつてソ連圏に含まれていた東ヨーロッパ諸国の相当部分はナチズムを受け入れ、協力関係にあったと言えます。ナチスを米英金融資本が金融支援していたことも知られてきました。こうした国々がロシアから離れたことでロシアは復活できたと言えるでしょう。

 その一方、 アメリカではニューディール派が消えました。大きな節目になったのは1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺でしょう。その後、体制の腐敗が進み、アメリカは金融資本を後ろ盾とするネオコンに支配されるようになります。そして1990年代から侵略戦争を本格化させました。

 その腐敗した体制を維持するため、ネオコンを含むアメリカの支配層は自国が「無敵」だとするイメージを世界に人びとに植え付けたのですが、侵略戦争の中でロシア軍と戦う場面が生じ、アメリカは無敵でないということが知られてしまいました。軍事力を行使すればするほど支配システムの崩壊は速まっています。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202401240000/
8:777 :

2024/02/11 (Sun) 13:50:29

戦争中の軍人が実は相手側と通じていた例は過去にもあり、例えば大戦末期の関東軍(中国大陸に出兵した日本軍)の上層部はソ連軍に対し「日本の東半分を与える」という提案をして朝鮮半島の38度線で止まるよう取り引きした

本当にその気があったのか歴史の謎だがソ連軍は真に受けて停止し、その間に米軍を先にソウルに招き入れて米軍対ソ連軍の構図を作り、以降80年近くそのラインは維持されている

また関東軍はあの毛沢東軍と連携して蒋介石の中国軍と戦い、 このお蔭て毛沢東軍は世界大戦に巻き込まれず終結後に蒋介石軍を倒す事が出来た
https://www.thutmosev.com/archives/33196.html
9:777 :

2024/08/05 (Mon) 05:28:04

2024.08.05XML
米国支配層はソ連を破壊するために核兵器を開発、大戦後は先制核攻撃を目論んだ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408050000/

 アメリカ軍は1945年8月6日にウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島へ投下した。その3日後には長崎へプルトニウム型原爆「ファット・マン」を落としている。

 その年の2月4日から11日にかけてイギリスのウィンストン・チャーチル英首相、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、そしてソ連のヨシフ・スターリンがヤルタで会談、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告する条件も決められた。

 ドイツはルーズベルトが急死した翌月の5月に降伏、8月上旬にソ連は参戦することが自動的に決まったが、それに合わせ、トルーマン政権は原爆を日本へ投下したわけだ。

 アメリカの核兵器の開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と名付けられていたが、主導した国はイギリス。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 広島と長崎への原爆投下を許可したのは大統領に就任してまもないハリー・トルーマンである。アメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日のことだ。日本が「ポツダム宣言」にどう反応するかを見ずにトルーマンは原爆投下による市民虐殺を決めたわけである。

 投下決定の8日前、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功している。その翌日から始まるポツダム会談を意識しての実験だった。当初の実験予定日は7月18日と21日の間だったが、トルーマンの意向で会談の前日に早めたのである。

 トルーマンは1944年11月の大統領選挙で副大統領候補に選ばれたのだが、ルーズベルト大統領と親しくはなかった。副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスが言いがかりに近いスキャンダルで排除され、民主党幹部の圧力でトルーマンが選ばれたようだ。

 トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはアメリカン・バンク・アンド・トラストの会長を務め、アメリカ民主党の重要な資金提供者だった人物で、シオニストとしても知られている。シオニストの武装組織ハガナ(イスラエル軍の母体)のエージェントだったとも言われている。ジョン・F・ケネディ大統領暗殺を受けて副大統領から昇格したリンドン・ジョンソンもフェインバーグをスポンサーにしていた。

 ルーズベルト大統領の時代、アメリカの権力システムは二重構造になっていた。ルーズベルトのニューディール派とウォール街を拠点とする金融資本が対立していたのだ。

 この対立は1932年の大統領選挙でルーズベルトが勝利した直後から生じている。この選挙ではウォール街の傀儡で現役のハーバート・フーバーが敗れ、ニューディール派のルーズベルトが勝利したのだ。ルーズベルトは資本主義を維持するためには巨大資本の活動を規制し、労働者の権利を拡大する必要があると考え、国際問題では植民地やファシズムに反対していた。これはウォール街にとって容認できないことだ。

 そこで金融資本は在郷軍人会を利用したクーデターを計画する。計画の中心的な存在は巨大金融機関のJPモルガン。司令官としてダグラス・マッカーサーを考えたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけることになる。

 ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。

 話を聞いたバトラーは信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。バトラー少将は1935年にJ・エドガー・フーバーに接触してウォール街の計画を説明するのだが、捜査を拒否している。

 1933年にドイツではナチスが国会議事堂放火事件を利用して実権を握るが、この年の8月にシオニストはナチス政権とユダヤ系ドイツ人をパレスチナへ移住させることで合意していた。「ハーバラ合意」だ。ナチスの「ユダヤ人弾圧」によってユダヤ系の人びとをパレスチナへ向かわせることができるとシオニストは考えたようだ。

 しかし、ユダヤ教徒の多数派はパレスチナへ移住しない。ヨーロッパでの生活に慣れている人びとの多くはオーストラリアやアメリカへ向かう。1938年11月にドイツではナチスがユダヤ系住民を襲撃、多くの人が殺され、収容所へ入られ始めるが、この「水晶の夜」以降もユダヤ教徒はパレスチナでなくアメリカやオーストラリアへ逃れた。その後、シオニストはイラクなどでユダヤ教徒をターゲットにしたテロ攻撃を実施してパレスチナへと導いた。

 ウォール街はシティ(イギリスの金融界)からスピンオフして出来上がったのだが、この米英金融資本は親ファシズムで、ナチスを金融面から支援していたことが知られている。

 ナチスへの資金援助で特に重要な役割を果たしたのはディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなど。その経営陣にはジョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。

 そのほかスイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 こうした米英金融資本に支えられたナチスは1941年6月、ソ連に対する軍事侵攻を始めた。「バルバロッサ作戦」だが、思惑通りの展開にならない。1942年8月にはスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的になった。

 この展開にソ連の敗北を期待していたチャーチルは慌てる。1943年1月にルーズベルト大統領とチャーチル首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した。「無条件降伏」という話が出てくるのはこの会談だった。この条件はドイツの降伏を遅らせることが目的だったとも言われている。、米英はソ連対策を講じるための時間的な余裕が必要だった。

 その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始める。「サンライズ作戦」だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。「ラットライン」、「ブラッドストーン作戦」、「ペーパークリップ作戦」などだ。こうした工作でナチスの幹部や協力者はアメリカの保護下に入り、工作にも参加することになる。そうした人脈はソ連消滅後、旧ソ連圏へ戻って活動を始めた。その一例がウクライナのネオ・ナチである。

 ドイツが降伏した直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この計画は実行されなかったが、アメリカ軍は8月6日に広島へ、9日には長崎へ原爆を投下した。ソ連を意識してのことだろう。この攻撃のほか日本の諸都市を焼夷弾で絨毯爆撃する作戦を指揮したカーティス・ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、1954年にはソ連を破壊するために600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成している。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備した。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収されて軍事基地化が推し進められた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 1955年頃になるとアメリカが保有していた核兵器は2280発に膨らみ(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)、57年になるとアメリカ軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 そして1957年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成した。それによると300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 そのころからアレゲーニー山脈の中、 ウエストバージニア州のグリーンブライア・ホテルの地下に「地下司令部」が建設されている。いわゆるグリーンブライア・バンカーだ。1959年に国防総省が中心になって着工、62年に完成している。

 ​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、統合参謀本部のライマン・レムニッツァー議長やSACの司令官だったルメイなど好戦派は、1963年の後半にソ連を奇襲攻撃る予定だった​という。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていた。ソ連が反撃するためにはアメリカの近くから中距離ミサイルを****するしかない。そこでソ連はキューバへ中距離ミサイルを運び込み、キューバ危機になる。1962年10月のことだ。この危機を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。現在の世界情勢は当時より危険だと考えられている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408050000/
10:777 :

2024/08/15 (Thu) 00:56:20

2024.08.15XML
日本が「ポツダム宣言」を受諾する前後に米国の支配層が繰り広げた暗闘
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408150001/

 1945年8月15日、昭和天皇(裕仁)は「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表した。いわゆる「終戦勅語」だ。

 この「勅語」について堀田善衛は「負けたとも降服したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者(帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦=引用者注)に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」と書いている。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)

 その年の4月12日、アメリカでは国の在り方を大きく変える出来事があった。ニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、副大統領のハリー・トルーマンが大統領の職を引き継いだのである。トルーマンはルーズベルトと違う考え方の持ち主で、副大統領時代、大統領と会ったのは2度だけだともいう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 トルーマンは第1次世界大戦の頃、兵営内で日用品などを販売する酒保をオクラホマ州にあったフォート・シルで経営して成功したのだが、そこで知り合いになったジェームズ・ペンダーガストの叔父はカンザスシティ政界のボス、トーマス・ペンダーガストだった。

 当時のカンザスシティはギャンブル、バイシュン、密造酒や麻薬取引、恐喝が盛んで、そうした「ビジネス」の上に君臨していたのがトーマスに他ならない。そのトーマスの下でトルーマンは稼いでいた。(Jonathan Marshall, “Dark Quadrant,” Rowman & Littlefield, 2021)

 こうした「政治マシーン」がトルーマンを副大統領の座に付けることになるのだが、そうした彼に多額の政治資金を提供していたひとりがアブラハム・フェインバーグなるシオニストの富豪。裏ではシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、イスラエルの核兵器開発を資金面から支えることになる人物だ。

 ルーズベルト大統領が信頼していた文民はハリー・ホプキンスとヘンリー・ウォーレスだと言われている。ルーズベルトはファシストの巣窟と見られていた国務省を信頼せず、外交はホプキンスに頼っていた。つまり当時の国務省とルーズベルト大統領を一体化させて議論することは間違いである。そして副大統領に据えたのがウォーレスだ。

 JPモルガンをはじめとするウォール街の富豪たちがルーズベルトが初めて大統領に就任した直後、1933年から34年にかけてクーデターを目論んだことは本ブログでも繰り返し指摘してきた。そうした金融資本はトルーマンを引き上げた政治マシーンの背景でもある。

 そうした勢力にとって邪魔な存在だったウォーレスは、ドイツの降伏が見えていた1944年に行われた大統領選挙の際、民主党幹部の意向で副大統領のポストから引きずり下ろされ、商務長官にされている。ウォーレスが義理の弟で駐米スイス大使だったカール・ブルグマンへ機密情報を話し、それがドイツ側へ伝わっていたという怪しげな話が使われた。(Simon Dustan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

 ルーズベルトが急死、トルーマンが昇格という流れは1933年から34年にかけてウォール街が試みたクーデターの目的に合致する。新大統領のトルーマンは当然とことながらウォーレスを嫌い、1946年9月、商務長官を辞めるように通告してホワイトハウスから追い出した。ホプキンスは1946年1月に55歳で死亡している。ホプキンスは1939年に胃癌という診断で胃の75%を切除していた。

 その間、1945年5月上旬にドイツが降伏、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連を奇襲攻撃する作戦を立てるようJPS(合同作戦本部)に命令、5月22日に「アンシンカブル作戦」が提出された。その作戦によると、攻撃を始めるのは日本が降伏する前の1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動されなかった理由は、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 日本が1940年9月にドイツやイタリアと三国同盟を結び、そのドイツが1941年6月にソ連へ軍事侵攻したことから日本とソ連は敵国になったのだが、ドイツ降伏後、イギリス軍は両国が手を組むことを懸念したとする見方もある。

 実は、日本が真珠湾を奇襲攻撃する前、イギリスには「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようという案があった(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies,” Macmillan、1988)のだが、1939年に日本軍はノモンハンでソ連軍に敗北、その後に南進、つまり東南アジアへ矛先を向けてイギリスの利権と衝突することになり、この同盟は不可能になった。イギリスの支配層は当時の日本には「反ソ連派」と「親イギリス派」がいると考えていたのかもしれない。日本・アングロ・ファシスト同盟を結成しようという案は反ファシストだったルーズベルト米大統領とも衝突する。

 1945年7月16日にアメリカではニューメキシコ州のトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験に成功した。ポツダム会談が始まる前日に行いたいというトルーマンの求めで予定が早められ、この日の実験になったという。

 実験の成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可、そして26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型が投下された。その3日後には長崎へプルトニウム型が落とされているが、原爆投下がソ連を意識したものだったことは本ブログでも繰り返し書いてきた通り。原爆以外にもアメリカ軍は東京を含む日本の都市を焼夷弾で焼き尽くした。3月から7月にかけての沖縄戦は日本の降伏が遅れたためだ。

 第2次世界大戦後の日本のあり方を決めたのはジャパンロビーだとされている。その背景にはウォール街の富豪が存在していた。そのジャパン・ロビーの中心人物だったジョセフ・グルーはJPモルガンが1932年に日本へ駐日大使として送り込んだ人物にほかならない。彼は皇室を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。大戦後、日本に天皇制は残る。「象徴」になったと弁明されているが、天皇が東京裁判に引き摺り出されなかったのは、敗戦前の天皇は「象徴」に過ぎないとされたからだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408150001/
11:777 :

2024/11/14 (Thu) 05:52:42

サマーズ氏: 資本主義に反対することは自由に反対すること
2024年10月28日 globalmacroresearch
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/55674

アメリカの元財務長官で経済学者のラリー・サマーズ氏がダートマス大学でのインタビューで資本主義と社会主義の違いについて語っている。

社会主義とは何だったのか

社会主義がほとんど旧世代の遺物となってから長い時間が過ぎたが、恐らくそのためになぜ資本主義が成功しているのかということについて考える人は少ない。

そしてまさにそれが理由で日本やアメリカなどの資本主義国家とされる国に、実体経済を自由市場ではなく中央政府が支配する社会主義の影が忍び寄っていると筆者は考えているのだが、だからこそサマーズ氏に社会主義の国々がどういうものだったのかを語ってもらおう。

サマーズ氏は大学生たちに次のように語りかけている。

わたしはこの部屋にいる学生たちと同じくらいの年か、それよりも少し年上だった頃に、ここにいる学生がもう体験できないことを体験したことがある。

それは西ベルリンと東ベルリンを繋いでいたチェックポイント・チャーリーを通ったことだ。

チェックポイント・チャーリーとは、戦後に東西に分断されていた西ベルリンと東ベルリンを繋いでいた検問所のことである。第2次世界大戦後、アメリカと旧ソ連に分割統治されていたベルリンは、半分が資本主義、もう半分が社会主義によって運営されていた。

結局、ドイツは資本主義だった西ドイツが繁栄し、社会主義だった東ドイツが貧困に陥ったため、東ドイツが西ドイツに吸収される形で統合されたのだが、これはその前の話である。

サマーズ氏は次のように述べている。

それは2024年と1954年を繋ぐ門を通るような経験だった。その前後ではすべてが違った。西ベルリンと東ベルリンにはまったく共通点はなかった。

社会主義の失敗

当時、社会主義の国は次々に退廃していった。資本主義経済では起業家が消費者の需要に合わせてどのような商品を作るかを決め、需要が高い商品を作った起業家ほど高い対価を得る。

一方で社会主義の国ではどういう商品が作られるべきかを政府が決定する。

その結果は明らかである。資本主義国家では消費者が欲しがる商品がどんどん作られ、社会主義国家では消費者が欲しがらない商品がどんどん作られた。

そして西ベルリンは栄え、東ベルリンは貧困に沈んでいった。ソ連は崩壊した。中国は鄧小平氏の時代から資本主義をある程度受け入れていった。

今でもかなり社会主義的な小国はある。サマーズ氏は次のように言っている。

北朝鮮は人に出入りをさせないが、それは抜け出す人が出ないようにするためだ。だから韓国から北朝鮮に行くことはできない。

北朝鮮に自由に出入りできないことには理由がある。社会主義国と資本主義国では貧富の差が激しいために、北朝鮮の人々が韓国の豊かな暮らしを見れば、誰もが北朝鮮から逃げ出したいと思ってしまうだろう。

国民にチェックポイント・チャーリーを通らせてはならない。だから自国民を囲うしかないのである。

社会主義の本質

読者の多くは、こうした社会主義の話が過去の遺物であるか、または北朝鮮のような極端な国のものだと思うだろう。

元々、社会主義は裕福な起業家たちを羨んだ労働者や農民に支持されて始まった。起業家が株式を持つことを禁じ、株主の役割を政府が担った結果、政治家だけが豊かになる社会が出来上がったのである。

しかしそれは今の日本に似ていないだろうか? 給与所得の半分を政府に持っていかれる現状は本当に資本主義なのか。東京の真ん中に税金で作られた巨大便器は消費者が望んだ商品なのか。これは社会主義の製品と何が違うのか。


出典:産経新聞
社会主義の本質は、人々の自由な商業活動、自由な物品の売買を禁じ、政府の決めたように経済を動かすことである。

サマーズ氏は次のように述べている。

社会主義を望む人々の衝動を理解することは困難だ。

合意した2人の大人が寝室で何をしようと自由であるのに、なぜ合意した大人同士が市場経済のなかで、互いに合意した賃金で雇ったり雇われたり、合意した金利でお金を貸したり貸されたり、合意した価格で商品を売ったり買ったりを自由にしてはいけないのか?

資本主義に反対することは、合意した大人同士が第三者に害を与えないかぎり、互いに利益がある行為をやっても良いという考えに反対することだ。

資本主義の本質はこうである。人々に自由な経済活動をさせれば、優れた起業家のような非常に裕福な人々が出てきてしまう。それを羨んだ人々は政府がそれを止めてくれると思い、起業家から自由を奪って政府にそれを与えた結果、起業家ではなく政治家が豊かになり、人々はむしろ更に貧しくなったのである。

サマーズ氏は次のように言っている。

反資本主義という姿勢は、本質的には反自由なのだ。

だがそれはまさに日本の状況ではないのか。自分の力で金を稼いだ高所得者から、当選させてくれと乞食のように頼む政治家に金を移転するのが今の日本経済である。

そしてそれは与党を支持した国民の多数派には決して移転されない。それを期待している人々は、控え目に言っても間抜けである。

他人の自由を奪うと自分に返ってくる。ばら撒き政策とはそういうものである。

ハイエク氏: 現金給付や補助金はそれを受けない人に対する窃盗 である
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/35564

現実には金融所得の税率は低く、給与所得の税率は高いのだから、多数派に支持された政府が多数派だけ損をする社会を作っているのである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/55674

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