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2022/11/01 (Tue) 09:22:12
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5~7世紀(三国時代)の朝鮮人は現代朝鮮人と同じだった
雑記帳
2022年11月01日
三国時代の朝鮮半島の甕棺に埋葬された複数個体のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_1.html
三国時代の朝鮮半島の甕棺に埋葬された複数個体のゲノムデータを報告した研究(Lee et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。家族関係は過去の社会の構造の理解に重要ですが、その考古学的復元はほぼ、状況証拠に基づいています。考古遺伝学的情報、とくにゲノム規模データは、古代人の家族関係を正確に復元する客観的手法を提供するので、親族関係の考古学的に導かれた仮説の堅牢な検証を可能とします。この研究では、その手法が、単一の甕棺に二次的に共に埋葬された朝鮮半島の中世初期個体群の遺伝的関係の解明に適用されました。
甕棺から中世初期朝鮮半島の6個体のゲノム規模データが得られました。これらの個体間の遺伝的関係性が推定され、よく確立した集団遺伝学的手法を用いて、その遺伝的特性が明らかにされました。単一の甕棺における複数個体という異例なパターンと一致して、これらの個体はそのゲノム規模分析から、夫婦とその2人の子供と父方および母方両方の親族も含めて拡大家族を形成している、と示されます。これら中世初期朝鮮人は現代朝鮮人と類似した遺伝的特性を有している、と示されます。
単一の甕棺における複数の二次埋葬という異常な事例は、ともに埋葬された個体間の家族関係を反映している、と示されます。父方と母方両方の親族が核家族とともに埋葬されている、と分かり、これは限定的な性別(ジェンダー)偏りの家族構造を示唆しているかもしれません。現代朝鮮人と類似した中世初期朝鮮人の遺伝的特性が見つかり、現代朝鮮人の遺伝的起源は朝鮮半島において少なくとも1500年前にさかのぼる、と示されます。
●研究史
甕棺を用いた埋葬慣行は、アジア南東部と中国北部と満洲と日本列島と朝鮮半島を含めてアジア東部において過去の社会で広がっており、新石器時代に始まり歴史時代まで続きました。朝鮮半島では、甕棺での先史時代と歴史時代の埋葬は全地域で頻繁に見つかりますが、最も集中しているのは、4~6世紀の羅州(Naju)市や霊岩(Yeongam)郡地域など朝鮮半島南西部です。大きくヒトの高さほどの甕棺での埋葬は有名ですが、朝鮮半島で最も有名な甕棺はヒトの身体よりずっと小さいものです。ほとんどの場合、これらの小さな甕棺は火葬後に二次的に収集された単一個体の骨格を収めています。火葬とその後の二次埋葬の慣行は、一部の骨格要素の喪失、性別や年齢や病歴に関する情報を伝える詳細な形態学的特徴の破壊、タンパク質や核酸など生体高分子の保存の悪さをもたらします。このため、甕棺から回収された骨格遺骸は、限定的な規模でしか生物人類学および考古遺伝学的研究で調べられておらず、甕棺に埋葬された人々の特徴は未解決の問題として残されています。
堂北里(Dangbuk-ri)遺跡は、韓国の西部沿岸地域の群山(Gunsan)市に位置します(図1)。當北里遺跡は2016年夏に発掘され、中世初期(5~7世紀、もしくは三国時代)の合計21基の埋葬が含まれます。これら21基の埋葬のうち、16基の石棺と4基の石室埋葬では骨格遺骸が得られませんでしたが、残りの1基の甕棺埋葬には複数個体の骨格遺骸がありました(図2)。埋葬状況を考慮すると、これらの個体の骨格要素はこの甕棺へ二次的に集められ、同時に埋葬された可能性が最も高そうです。この事例は異常と考えられます。なぜならば、ほとんどの甕棺埋葬には1個体しか収容されておらず、中世初期朝鮮半島の複数埋葬の他の様式の個体は通常、長期にわたって順次埋葬されているからです。たとえば、連続して埋葬されている複数個体のある石室墓では、より早く埋葬された個体の骨格要素はその解剖学的位置から離れており、石室の周辺に位置する傾向がありますが、それは、次の個体が後に埋葬されたさいに石室の中心から離れて動かされたからです。
この研究はゲノム規模データを用いて、これらともに埋葬された個体間の遺伝的関連性と、その遺伝的特性を調べました。これらの個体間の家族関係の解明に加えて、ゲノム規模データの豊富な情報の活用による、古代および現代のアジア東部人口集団、とくに現代朝鮮人および朝鮮半島近くの古代の人口集団との関係の観点において、これらの個体の遺伝的特性が高解像度でモデル化されました。
●堂北里遺跡
堂北里遺跡は大韓民国の全羅北道(Jeollabuk-do)群山市に位置します(図1)。2016年の堂北里遺跡の発掘は鉄道建設に伴うもので、同年7月から約60日間行なわれました。堂北里遺跡は帆柱(Dottae)山の南側中腹に位置し、岡の頂上にまたがり、海抜は約60mです。堂北里遺跡では合計21基の三国時代の埋葬が発見されました。そのうち、16基は石棺様式、4基は石室様式、残りの1基は甕棺でした。甕棺埋葬の周囲の石棺および石室墓は、その埋葬構造と築造技術を考えると、三国時代に作られました。さらに、甕棺の類型学的分析は、甕製作技術が石室および石棺墓の副葬土器と密接に類似している、と示唆します。具体的には、石棺と石室墓の土器の椀の形は6世紀頃の中国で作られた土器と類似しています。これらの考古学的状況を考慮すると、堂北里遺跡の甕棺は文脈上6世紀半ばと年代測定されました。以下は本論文の図1です。
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甕棺埋葬は頂上から南東の中腹に位置し、石棺および石室埋葬に囲まれており、特定のパターンはありません。甕は円形の穴に置かれ、2点の石が甕本体を固定するために甕の横に置かれました。発見時、甕はやや傾いていました。甕の口の部分は壊れており、棺の蓋がありませんでした。甕棺では、複数の骨格が一緒に発見されました(図2)。甕棺内の骨格要素の配置では特定のパターンは検出されませんでしたが、甕の上部により多くの頭蓋骨が置かれていました。以下は本論文の図2です。
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連続した複数埋葬(つまり、個体が長期にわたって連続的に甕棺に入れられます)の事例はこの様式の甕棺では報告されていませんが、2基の甕で構成される埋葬では確認されています。また、この甕棺の個体群は層には分かれておらず、連続した複数埋葬で予測されるパターンです。したがって、この甕棺の複数骨格は、二次埋葬としてほぼ同時にともに葬られた、と考えられます。発掘終了後、副葬品としての土器が円形の穴の底で見つかり、甕棺安置の前に儀式的行動が行なわれた、と示唆されます。甕の高さは下部から上部まで72.3cmで、その直径は32.1cmです。
●標本
堂北里遺跡の甕棺の骨格は、歯の発達や長骨の骨端融合などの程度により、成人もしくは未成年に分類され、形態学的特徴に基づいてさらに詳しく年齢が推定されました。形態からは性別も推定されました。成人は6個体(1号が50代の女性、2号が36~50歳の男性、3号が21~35歳の男性、4号が詳しい年齢は不明の女性、5号が36~50歳の男性、6号が21~35歳のおそらく女性)、未成年が3個体(7号が2~4歳、8号が6~10歳、9号が15~18歳で、性別はいずれも断定されていません)です。
この9個体のうち2個体(5号と7号)は側頭骨錐体部が充分に保存されなかったため、DNA分析に含められませんでした。祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の情報をもたらすのに充分な124万ヶ所の一塩基多型(SNP)を対象とした分析に適したDNAが保存されている6個体(5号と7号と8号以外)が、既知の多様な地域の現代人および時空間的に広範な古代人とともに分析されました。この6個体については、Y染色体ハプログループ(YHg)ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)も決定されました。その内訳は、1号がGUC001、2号がGUC002、3号がGUC003、4号がGUC004、6号がGUC005、9号がGUC007です。
f統計では、外群f3形式(ムブティ人;堂北里三国時代人、世界規模の比較対象)とf4形式(ムブティ人、世界規模の比較対象;堂北里三国時代人、現代朝鮮人)が計算されました。混合モデルでは、外群一式として、10人口集団が用いられました。それは、アフリカ中央部のムブティ人(ムブティDG、5個体)、アナトリア半島西部の前期新石器時代農耕民(アナトリアN、23個体)、アンダマン諸島のオンゲ人(オンゲDG、2個体)、ザグロス中央部のガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代イラン人(イランN、8個体)、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の亜旧石器時代ヨーロッパ狩猟採集民(ヴィッラブルーナ、1個体)、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された後期更新世(11600~11270年前頃)のアメリカ大陸先住民1個体(USR1)、バイカル湖西部地域の前期新石器時代狩猟採集民(バイカルEN、18個体)、中国の山東省地域の淄博(Boshan)遺跡の前期新石器時代1個体(淄博)、中国南部の福建省の亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代1個体(亮島2号)、北海道の船泊貝塚の縄文時代の2個体(縄文船泊)です。ムブティ人は全てのユーラシア人口集団に共通の外群です。アナトリアNとイランNとヴィッラブルーナは、ユーラシア西部人の主要な祖先系統構成要素を区別するために用いられます。オンゲ人は、ユーラシア東部人の中で深く分岐しています。USR1とバイカルENと淄博と亮島2号は、南北の遺伝的勾配に沿ってアジア東部人口集団を区別するために用いられます。
●単一の甕棺に埋葬された個体の家族関係
まず、ユーラシア現代人2077個体の主成分分析(PCA)が実行され、堂北里遺跡の甕棺の古代人が主成分(PC)に投影されました(図3)。ゲノムが解析された堂北里遺跡の6個体は全員相互および現代朝鮮人の近くに位置し、この6個体間でのかなりの遺伝的均一性、および現代朝鮮人との全体的に密接な関係が示唆されます。現代朝鮮人を含むアジア東部現代人のPCAでは、堂北里遺跡の6個体は現代朝鮮人とも重なります。以下は本論文の図3です。
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次に、これら古代の個体間の遺伝的近縁性が測定され、単一の甕棺に複数個体の存在という異常な事例がその密接な関係を反映しているのかどうか、検証されました。ゲノム規模データに基づく遺伝的近縁性の推定ではじっさい、堂北里遺跡の6個体が密接に関連する拡大家族を形成する、と示されます。これら6個体の15通りの組み合わせのうち、6組の一親等、2組の二親等、1組の三親等が観察されます(図4a)。mtHgおよびYHgと死亡時年齢の情報を組み込むことで、親子とキョウダイの組み合わせが区別され、最も妥当な系図が提案されます(図4b)。以下は本論文の図4です。
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この系図の核には、夫婦と2人の子供(成人男性1個体と未成年女性1個体)で構成される4人家族があります。夫が2号、妻が4号、息子が1号、娘が9号です。2号はmtHg-D4b2b1でYHg-Q1a1a(M120)、4号はmtHg-D4c1b1(推定)、1号はmtHg-D4c1b1でYHg-Q1(L472)、9号はmtHg-D4c1b1です。残りの2個体のうち、男性1個体(6号)はmtHg-D4c1b1でYHg-O1b2a1a2a1a(CTS7620)となり、4号の一親等の親族ですが、1号および9号のキョウダイの父親(2号)とは無関係です。6号と4号の一親等の関係は、同じSNPにおける両アレル(対立遺伝子)のほぼゼロの共有を考えると、親子関係の可能性が高そうです。この場合、父と娘および母と息子の両方の関係が遺伝的データと一致しますが、6号と4人家族の子供(1号と9号)が同一のmtHgであることを考えると、母親と息子の関係の可能性がより高そうです。つまり、6号と1号および9号とは異父キョウダイの関係かもしれません。最後に、3号は2号の三親等程度の親族の可能性が最も高く、そのYHg-Q1a(F1251)は2号と同じです。
hapROHを用いて、堂北里遺跡の6個体におけるROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)断片(関連記事)での分布も調べられました。4 cM(センチモルガン)超となる長いROHはほとんど見つからず、堂北里遺跡の6個体は密接な親族関係にある両親の間の子供ではなかった、と結論づけられます。
●中世初期朝鮮人の遺伝的特性
堂北里遺跡の甕棺に埋葬された中世初期朝鮮人の遺伝的特性を理解するため、f3統計(ムブティ人;堂北里三国時代人、世界規模の比較対象)を用いて、まず堂北里遺跡集団と世界規模の現代人および古代人との間の遺伝的類似性が測定されました。予測されたように、堂北里遺跡集団は現代朝鮮人と最高の遺伝的類似性を示します。f4統計(ムブティ人、世界規模の比較対象;堂北里三国時代人、現代朝鮮人)を用いての、中世初期と現代の朝鮮人の遺伝的対称性の形式的検証では、明確な地理的分布なしに対称性を破ったのはわずか数集団でした。
同様に、クレード(単系統群)性のqpWave検定では、中世初期と現代の朝鮮人との間での有意差はわずかでした。古代と現代の朝鮮人集団間のわずかな違いを説明できる追加の遺伝的構成要素を見つけるため、qpAdmが用いられました。qpAdmは複数のf4統計を要約し、選択された供給源人口集団のアレル頻度の混合が対象となった人口集団のそれを正確に模倣できるのかどうか、検証します。具体的には、(1)他の大陸部アジア東部人口集団がこの違いに寄与した可能性があるのかどうか、(2)縄文関連祖先系統がこの違いに寄与した可能性があるのかどうか、(3)この違いが、実験室の作業場を考えるとヨーロッパ人供給源からの可能性が高い、少量の汚染に起因する乱れなのかどうか、調べられました。
その結果、蔚山広域市の現代朝鮮人(88個体)は、堂北里遺跡甕棺集団とヨーロッパ人供給源の小さな負係数を有する混合として適切にモデル化できる、分かりました。交互に、北里遺跡甕棺集団は蔚山広域市の現代朝鮮人とヨーロッパ人供給源からの小さな寄与(1.0~1.4%)の混合としてモデル化されます。縄文関連祖先系統も他のアジア東部供給源を含むモデルも、堅牢な寄与を示しません。したがって、これらの結果は、北里遺跡甕棺個体群の核DNAの同程度の量の汚染(0.2~1.8%)と、読み取りマッピング(多少の違いを許容しつつ、ヒトゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)段階中の小さな参照の偏りを考慮すると、真の混合ではなく技術的な乱れとして解釈されます。
古代および現代の朝鮮人の遺伝的特性をより広い意味で周辺地域の人口集団と比較するため、そうした人口集団に一般的に適用できた遠位混合モデルが調べられました。検証された南北の遺伝的勾配に沿った古代アジア東部人口集団の57対では、わずかな組み合わせだけが対象人口集団の広範囲に適合し、その中に含まれるのは、北里遺跡甕棺個体群、現代朝鮮人、中国北部のさまざまな古代人集団で、標準誤差測定値は小さいので、対象人口集団の遺伝的特性の比較の基盤を提供できます。たとえば、対象人口集団は、以下の2人口集団により定義される範囲内で、アジア東部における南北の遺伝的勾配に沿って適切に位置します。それは、(1)遺伝的な北方の代理としての、夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化文脈における西遼河(WLR)地域の竜頭山(Longtoushan)遺跡の青銅器時代(BA)個体群(WLR_BA)と、(2)遺伝的な南方の代理としての、中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体群(渓頭)です(図5)。以下は本論文の図5です。
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古代および現代朝鮮人の両方では、日本列島の縄文時代狩猟採集民遺伝子プールからの統計的に有意な寄与が検出されませんでしたが、先行研究では、新石器時代から中世初期にかけての縄文祖先系統の寄与の存在が時折見られる、と報告されています(関連記事1および関連記事2)。WLR_BAから中華人民共和国内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡の中期新石器時代(MN)個体群(廟子溝MN)へと遺伝的な北方の代理を置き換えると、北里遺跡甕棺個体群と蔚山広域市の現代朝鮮人における少ないものの有意な量の縄文の寄与が検出されます。地理的および時間的近接性を考慮すると、WLR_BAが古代および現代朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。残りのよく適合する供給源の組み合わせは、定性的に類似の結果を提供します。
●考察
本論文は、北里遺跡甕棺の個体群のゲノム研究を提示します。これは複数の二次埋葬という異例で、少なくとも9個体が単一の小さな甕棺にともに埋葬されました。この異例な埋葬は、ともに埋葬された個体間の特異な関係、つまり夫婦およびその2人の子供という中核と、父系および母系両方の親族を含む拡大家族を表している、という本論文の仮説が確証されます。推定された家系図は、この地域に暮らしていた中世初期朝鮮人の家族構造において性別(ジェンダー)の偏りがほとんどなかったことを示唆しているかもしれません。異例な埋葬状況もしくは単一墓地から発掘された古代の個体群についてのさらなる考古遺伝学的研究は、過去の埋葬慣行や社会構造へのより多くの洞察を提供するでしょう。
現代朝鮮人の遺伝的起源は、関連する古代人のゲノムデータの欠如のため、完全には理解されていませんが、北里遺跡甕棺の個体群は、古代朝鮮半島における最初となる過去のヒトの遺伝的特性を提供します。この様式の小型甕棺は、社会政治的エリートではなく庶民と関連している、と考えられているので、北里遺跡甕棺の個体群は、少数ではあるものの、中世初期朝鮮半島の一般的集団の遺伝的特性を垣間見せてくれます。本論文の集団ゲノム分析は、少なくとも中世初期以来の、朝鮮半島における現代朝鮮人の遺伝的特性の長期の存在を示します。しかし、これは過去2000年間にわたる近隣からの朝鮮半島人口集団の完全な遺伝的孤立を意味しているわけではありません。
対照的に、原史時代の朝鮮半島とその近隣地域との間の高度なつながりを裏づける、遺伝的証拠が増えつつあります。最近の研究では、日本列島からのかなりの水準の縄文祖先系統を有する中世初期の数個体が報告され(関連記事)、人々とモノの移動を裏づける活気のある「国際的」つながりが示唆されています。さらに、日本列島の古墳時代の個体群は、供給源地域として朝鮮半島の可能性がひじょうに高い、大陸部アジア東部からの継続的遺伝子流動を示唆します(関連記事)。朝鮮半島およびその周辺地域の原史時代の遺跡に関する今後の考古遺伝学的研究は、過去のアジア東部社会間のつながりの正確な描写に役立ち、原史時代の朝鮮半島人口集団における遺伝的多様性を調べるでしょう。
参考文献:
Lee DN. et al.(2022): Genomic detection of a secondary family burial in a single jar coffin in early Medieval Korea. American Journal of Biological Anthropology.
https://doi.org/10.1002/ajpa.24650
https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_1.html
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2022/11/01 (Tue) 09:25:52
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朝鮮人の起源
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世界最初の農耕文明を作った長江人の末裔の現在
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コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
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日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
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金平譲司 日本語の意外な歴史
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朝鮮の無文土器時代人が縄文人を絶滅させて日本を乗っ取った
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被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
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天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
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3:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/05/22 (Mon) 14:49:07
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雑記帳
2023年05月21日
中国北東部におけるマンジュ人と朝鮮人の遺伝的構造および混合
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_21.html
中国北東部におけるマンジュ(満洲)人と朝鮮人の遺伝的構造および混合に関する研究(Sun et al., 2023)が公表されました。本論文は、現在中国北東部に暮らす少数民族であるマンジュ人と朝鮮人の遺伝的構造および混合の分析結果を報告しています。民族は遺伝的特徴により定義されるわけではありませんが、民族集団間の明確な遺伝的差異が多くの場合存在することも否定できず、こうした遺伝学的研究は民族の形成過程の解明に役立つと考えられ、今後は倫理的側面に配慮しつつますます盛んになっていくでしょう。
●要約
マンジュ人と朝鮮人の微細規模の遺伝的特性および人口史は、不明なままです。本論文の目的は、マンジュ人と朝鮮人の人口集団の微細規模の遺伝的構造および混合を推測することです。遼寧省のマンジュ人16個体と吉林省の朝鮮人18個体が収集され、70万のゲノム規模一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で遺伝子型が決定されました。主成分分析(principal component analysi、略してPCA)とFst(遺伝的距離)とTreeMixとf-statisticsとqpWaveとqpAdmを用いて、データが分析されました。
マンジュ人と朝鮮人は、アジア北東部人との遺伝的類似性を示しました。中国の朝鮮人は、西遼河(WLR)の青銅器時代(BA)人口集団との長期の遺伝的連続性を示し、韓国および日本の朝鮮人との強い類似性を有しています。マンジュ人は、中国南部から追加の遺伝的影響を受けて以降、他のツングース系人口集団と比較してさまざまな遺伝的特性を有していますが、ユーラシア西部関連の混合を有していません。中国南部人が関わるマンジュ人の遺伝的形成は、マンジュ人と中国中央部および南部の人口集団間の広範な相互作用と一致しました。古代の西遼河農耕民と朝鮮人との間の大規模な遺伝的連続性は、朝鮮半島の移住において農耕拡大が果たした役割を浮き彫りにしました。
●研究史
マンジュ人は中国で3番目に多い少数民族です。マンジュ人はおもに中国北東部、とくに遼寧省と吉林省に分布していました。さらに、マンジュ人は甘粛省や貴州省や湖南省など、中国全土に分散していました。歴史的にマンジュ人の起源は、周(Zhou)の粛慎(Sushen)、漢王朝(Han Dynasty)の英楼(Yinglou)、南北朝時代の無忌(Wuji)、隋(Sui)および唐(Tang)王朝の靺鞨(Mohe)、金王朝(Jin Dynasty)のジュシェン(Jurchen、女真)にたどることができます。明王朝(Ming Dynasty)の期間には、建州(Jianzhou)女真が現在のマンジュ人の領域で発展しました。マンジュ人の祖先の言語は女真語です。現在のマンジュ語はツングース語族のマンジュ語群に分類され、ツングース語族では最大の人口を有しています。ツングース語族はユーラシア東部と満洲で、マンジュ人やシボ人(Xibo)やオロチョン人(Oroqen)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やウリチ人(Ulchi)やエヴェンキ人(Evenk)やネギダール人(Negidal)など、ツングース系の人々により話されています。考古言語学的研究では、祖型ツングース語族の故地は、ロシアと中国の国境極東部であるハンカ湖(Lake Khanka)周辺地域だった、と示唆されました。
常染色体の縦列型反復配列(Short Tandem Repeat、略してSTR)やY染色体ハプロタイプやX染色体のSTRを対象としたものも含めて、マンジュ人のこれまでの遺伝学的研究では、北方漢人とマンジュ人との間に小さな遺伝的距離がある、と示唆されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)では、マンジュ人はアジア東部の南北人々からの混合の兆候を有しており、近隣のモンゴル人や朝鮮人や遼寧省の漢人と近い遺伝的関係を示した、と示唆されました。父系のY染色体側では、マンジュ人における優勢な型はY染色体ハプログループ(YHg)O2(M122)で、その割合は42.6%です。Y染色体STR (Y-STR)により計算されたRst(遺伝的分化度)から、マンジュ人はチベット人やウイグル人のような一部の中国の人口集団とは有意に異なっていたものの、北方漢人やモンゴル人とは密接な類似性を有している、と示されます。遼寧省撫順市の新賓(Xinbin)自治県で収集されたマンジュ人93個体の高密度のゲノム規模SNPデータ定性的および定量的分析は、北方漢人との大規模な混合を示しました。マンジュ人は古代の靺鞨および鮮卑(Xianbei)の人々により表される北方の人口集団と、鉄器時代台湾人標本により表される南方人口集団との混合としてモデル化できます。
マンジュ人とは異なり、朝鮮人は国境を越えた民族集団と、朝鮮半島の主要な国民を構成します。中国の朝鮮人の最大の居住地域は、吉林省の延辺(Yanbian)朝鮮族自治州です。言語学的観点から、朝鮮語は未知の系統の孤立した言語として日本語に類似している、と考えられています。朝鮮語は文法の特徴の観点では、日本語やツングース語族やモンゴル語族との類似要素を有しています。日本語やマンジュ語と同様に、朝鮮語には多くの中国語からの借用語があります。しかし、朝鮮語の主語-目的語-動詞の構造はマンジュ語と同じで、中国語の主語-動詞-目的語の構造とは異なります。
mtDNAの観点からは、朝鮮人は典型的なアジア東部人の特性を示します。YHg-O1b2(SRY465)から、祖型朝鮮人の起源は新石器時代(10000~9900年前頃以降)と青銅器時代(3450~2350年前頃)の中国北東部にたどることができる、と示唆されました。先行研究(関連記事)は現代韓国人88個体を報告し、シベリア東部とアジア南東部の2つの主要な遺伝的構成要素を見つけました。現代朝鮮人は、新石器時代アジア北東部人と鉄器時代アジア南東部人の混合として最適にモデル化できます。
紀元後4~7世紀の三国時代にさかのぼる朝鮮半島の古ゲノムデータを報告した研究(関連記事)では、これら古代人のゲノムが、青銅器時代中国北部供給源(黄河_後期青銅器時代~鉄器時代もしくは遼河_青銅器時代)と縄文関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)との間の混合としてモデル化できました。しかし、中国の朝鮮民族に関して報告されたゲノム分析はありません。人口集団の形成は国境に関係ないことには要注意ですが、中国の朝鮮人の遺伝的多様性の調査は興味深いことです。
本論文は、遼寧省錦州(Jinzhou)市に暮らすマンジュ人16個体と、延辺朝鮮族自治州安図(Antu)県の朝鮮人18個体のゲノム規模SNPデータを報告しました。先行研究は、遼寧省東部の新賓自治県のマンジュ人標本を収集して遺伝子型決定しましたが、本論文は遼寧省中央部~西部の錦州市のマンジュ人標本を収集して遺伝子型決定しましたがマンジュ人は遼寧省において大きな人口を有しているので、マンジュ人内のあり得る遺伝的下位構造を推測するには、より多くの標本の遺伝子型決定がより適切です。さらに、錦州市は遼寧回廊の東部に位置しており、この回廊は歴史的に、中国の北部と南東部との間の陸上交通のほとんどを接続してきました。錦州市北鎮(Beizhen)市における先住マンジュ人の民族的記憶は、その故地をチャンバイ山(Changbai Mountain、長白山、白頭山)と記録しました。安図県は、チャンバイ山脈の麓にある朝鮮民族自治区です。この研究は、中国北東部の少数民族の移住および混合事象に関するより詳細な情報の提供を期待して、この2ヶ所を標本抽出しました。
●標本と分析手法
遼寧省錦州市の隣接する黒山(Heishan)県と北鎮市(県級市)のマンジュ人16個体(以下の分析では「マンジュ人_錦州」と分類されます)と、吉林省の延辺朝鮮族自治州安図県二道白河(Erdaobaihe)鎮の朝鮮人18個体(以下の分析では「朝鮮人_安図」と分類されます)の唾液標本が収集されました(図1)。全標本は、説明と同意を得て採取されました。参加者は厦門大学の医療倫理委員会により審査され、承認されました。717228のSNPを含むDNA標本が遺伝子型決定されました。KINGソフトウェアを用いて、3親等程度の関係の個体が削除されました。最終的に、マンジュ人15個体と朝鮮人18個体が確保されました。以下は本論文の図1です。
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これら新たに収集された標本は、以前に刊行された現代および古代の人口集団のゲノム規模SNPデータと統合されました。本論文では、その後の遺伝的分析のため、以下の3つの参照データセットが生成されました。(1)古代人と現代人が含まれる、1233013ヶ所の部位でのショットガン配列決定データもしくは溶液内標的捕獲により得られた124万データセットSNPで、統合後に206105ヶ所のSNP部位が確保され、qpWaveおよびqpAdm分析で用いられました。(2)597573ヶ所の部位があるヒト起源(Human Origins)配列(HO)で、現在の個体群と統合された124万データセットです。69659ヶ所のSNP部位のあるこの「HO」統合データセットには、より多くの現代人個体が含まれ、f統計とTreemix分析で用いられます。(3)貴州省と遼寧省から得られた以前に刊行されたゲノム規模データが、上述の124万およびHOデータセットと統合され、その後で42912ヶ所の部位が残りました。このデータセットは、Fst値を計算するためにPCAとADMIXTUREで用いられました。
PCAでは、現代の参照人口集団を用いて主成分の2軸(PC1とPC2)が計算され、次に古代の個体群がPC1とPC2に投影されました。ADMIXTUREでは、まず連鎖不平衡のSNPが取り除かれ、最終的に42192個の多様体のうち4611個が除去されて、K(系統構成要素数)=2~8でADMIXTUREが実行され、それぞれの交差検証(cross-validation、略してCV)誤差が検証されました。最小CV誤差で最適モデルが選択され、各個体の割合が可視化されました。以前に刊行されたマンジュ人のデータが統合され、人口集団の分化と遺伝的距離を測定するFstが計算されました。Treemix(第1.13版)が用いられ、一連の人口集団について最尤系統樹が構築されました。アフリカの人口集団であるムブティ人は外群とみなされ、根源人口集団として設定されました。
異なる2形式の3集団検定(f3統計)がその後の分析で用いられました。まずは、f3形式(調査対象の人口集団、参照人口集団;外群)の外群f3統計で、これは調査対象の人口集団と選択された参照人口集団との間の外群からの分岐以降の共有された遺伝的浮動を計算します。ムブティ人が外群として用いられました。これに続いて、f3形式(供給源1、供給源2;調査対象の人口集団)の混合f3統計が実行され、調査対象の人口集団が選択された参照人口集団の供給源1と供給源2で混合だったのかどうか、検証されました。Z得点が-3未満の有意な負のf3値は、2つの供給源人口集団が調査対象の人口集団の遺伝的な祖先と関連している可能性を示唆します。
4集団検定(f4統計)は、f4形式(ムブティ人、B;C、D)で計算され、外群としてムブティ人が使用されました。3を超えるZ得点の有意な正のf4統計値は、人口集団BとDとの間の遺伝子流動の可能性を示唆します。逆に、Z得点が-3未満の有意な負の統計値は、人口集団CとDとの間の遺伝子流動の可能性を示唆します。Z得点の絶対値が3未満で0に近いf4値は、BがCおよびD両方と類似の数のアレル(対立遺伝子)を共有していることを示唆します。
qpAdmによる混合係数モデル化では、qpWaveおよびqpAdmプログラムが、上述の「124万統合」データセットで用いられました。124万データセットにおける以下の10人口集団が外群として用いられました。それは、アフリカのムブティ人4個体、台湾の先住民集団であるタイヤル人(Atayal)1個体、オセアニア人口集団であるパプア人1個体、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化の青銅器時代草原地帯人口集団(ロシア_アファナシェヴォ)の23個体、アンダマン諸島のオンゲ人15個体、アジア南東部(マレーシア)の後期新石器時代人口集団1個体、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃となる中国の後期旧石器時代1個体、日本列島の狩猟採集民(日本_縄文)6個体、新石器時代人口集団ではアムール川流域の前期新石器時代(EN)の(AR_EN)2個体とモンゴル南部の黄河(YR)流域の中期新石器時代(MN)廟子溝(Miaozigou)遺跡(廟子溝_MN)の3個体です。
まず、モデル化において単一の供給源として、WLR_BAにより表されるアジア北東部、もしくはYR_MNにより表される黄河の古代の農耕民と、古代朝鮮半島の数人が用いられました。ADMIXTUREとf統計の結果に基づいて、次に台湾の漢本(Hanben)遺跡の個体により表される鉄器時代(IA)アジア東部南方人が、2方向混合モデルの供給源として追加されました。歴史的要因を考慮して、古代の人口集団である黒水(Heishui)_靺鞨とモンゴル_匈奴が3方向混合モデルで調査対象の人口集団に寄与したのかどうかも調べられました。
●人口集団の遺伝的構造
人口集団の遺伝的構造を定性的に推測するため、まずPCAが実行されました(図2)。地理および言語学とよく対応する2つの遺伝的勾配が、最初の2主成分(PC)で観察されました。アジア東部の南北の勾配には、タイ・カダイ語族話者やオーストロネシア語族話者やオーストロアジア語族話者やミャオ・ヤオ語族話者や中国語話者や一部のチベット・ビルマ語派話者が含まれます。他の勾配はおもに、アジア北東部のツングース語族とモンゴル語族話者人口集団です。調査対象のマンジュ人と朝鮮人の標本は、これら2勾配間の位置していました。マンジュ人が漢人や一部のユグル人(Yugur)と密接にクラスタ化する(まとまる)のに対して、安図県の朝鮮人(朝鮮人_安図)は韓国の朝鮮人や日本字線や西遼河の青銅器時代人口集団と密接にクラスタ化しました。以下は本論文の図2です。
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さらに、教師なしモデルに基づくADMIXTUREクラスタ化分析が実行され、K=4で最小CV誤差が観察されました(図3)。調査対象の両集団であるマンジュ人と朝鮮人は4つの祖先構成要素で構成されており、それはチベット人もしくは漢人(桃色と黄色)とアジア南東部人(黄色)とアジア北東部人(橙色)で豊富でした。マンジュ人は北方漢人と類似の遺伝的特性を示しましたが、朝鮮人_安図は韓国の朝鮮人と遺伝的に類似しており、これはPCAの結果と一致します。調査対象の朝鮮人_安図は錦州市のマンジュ人よりも橙色の構成要素が多く、朝鮮人がより多くのアジア北東部関連祖先系統を有しているかもしれない、と示唆します。以下は本論文の図3です。
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●参照されたアジア東部現代人の間の人口集団の関係
マンジュ人は地理的に広範囲に拡大した少数民族です。中国の北部と南部でマンジュ人における遺伝的下位構造が観察されました。中国北東部の遼寧省のマンジュ人、つまりマンジュ人_錦州およびマンジュ人_新賓と、中国南西部の貴州省のマンジュ人、つまりマンジュ人_畢節(Bijie)とマンジュ人_金沙(Jinsha)は、遺伝的に不均質でした(図4)。PCA図(図2)では、調査対象のマンジュ人はマンジュ人_新賓とクラスタ化したものの、貴州省のマンジュ人とは明らかに分かれています。貴州省のマンジュ人は、南部漢人やミャオ・ヤオ語族話者や在来の貴州省モンゴル人(モンゴル人_畢節)の方とより密接です。以下は本論文の図4です。
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PCAおよびADMIXTUREの結果と一致して、朝鮮人と日本人は両方とも調査対象の朝鮮人_安図と高い外群f3値および低いFst値を示し、日本人および朝鮮人との朝鮮人_安図の遺伝的類似性が示唆されます。外群f3値とFst値は両方とも、調査対象のマンジュ人と朝鮮人との間の密接な関係を示唆しました。さらに、朝鮮人と日本人と調査対象の朝鮮人_安図は、Treemixにより推測された最尤系統樹ではともにクラスタ化します。アジア北東部のツングース語族話者人口集団から朝鮮人と日本人のクラスタへの遺伝子流動も検出されました(図5)。以下は本論文の図5です。
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中国のカザフ人やキルギス人やエヴェン人(Even)など、アジア東部北方のテュルク語族およびツングース語族話者集団(図6A・B)と比較して、外群f3およびf4形式(ムブティ人、マンジュ人/朝鮮人;アジア東部1、アジア東部2)での対でのf4統計で示されるように、マンジュ人と朝鮮人_安図は、漢人やミャオ・ヤオ語族話者やタイ・カダイ語族話者や日本人や朝鮮人の方と多くの遺伝的浮動を共有しています。以下は本論文の図6です。
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マンジュ人はf4(外群、X;マンジュ人_錦州、他のツングース語族話者)の値で示されるように(Xはアジア東部人口集団を表します)、他のツングース語族話者人口集団と遺伝的に異なっていました(図7)。同様のパターンは、朝鮮人_安図で見ることができます。f4値は他のツングース語族話者集団と比較してのアジア南東部もしくは東部とマンジュ人との間のより密接な関係を示し、それはユーラシア西部から他のツングース語族話者集団への遺伝子流動と中国南部からマンジュ人への遺伝的影響により起きた、と思われます。ユーラシア草原地帯の青銅器時代のロシアのアファナシェヴォ文化牧畜民を用いて、調査対象のマンジュ人およびツングース語族話者の3人口集団、つまりホジェン人とオロチョン人とシボ人におけるユーラシア西部人の影響の可能性が推測されました。マンジュ人ではユーラシア西部関連の影響の有意な証拠は検出されませんでしたが、他のツングース語族話者3人口集団では低い割合(4~6%)のユーラシア西部祖先系統が見つかりました。以下は本論文の図7です。
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●古代の人口集団間の関係
外群f3(調査対象の人口集団、古代人、ムブティ人)で示されるように(図6C・D)、マンジュ人と朝鮮人は、黄河の古代人およびヤンコフスキー(Yankovsky)_IA(極東の鉄器時代の古代人)の祖先系統と最も近い類似性を有しています。調査対象の人口集団は、チベット人やミャオ・ヤオ語族話者やタイ・カダイ語族話者他の南部および北東部人口集団とよりも、黄河および西遼河流域の古代人の方と多くの遺伝的浮動を共有しています(図7B・C)。しかし、マンジュ人と朝鮮人は、漢人と比較して、黄河および西遼河流域の古代の人口集団と類似の量の遺伝的浮動を共有していました。
朝鮮人は朝鮮半島と中国北東部に転がっています。韓国の朝鮮人は本論文の調査対象の朝鮮人と遺伝的に均質と分かりました。一方、歴史上の朝鮮半島人、つまり三国(Three Kingdoms、略してTK)時代の朝鮮人(朝鮮人_ TK)は、本論文の調査対象の朝鮮人とより多くの遺伝的浮動を共有しています。しかし、他の新石器時代の他の朝鮮半島古代人は、他のアジア東部人と比較して、共有された遺伝的浮動に有意な違いがありません(図7)。
漢人との観察された関係を考慮して、f4(ムブティ人、古代人;マンジュ人/朝鮮人、アジア東部)で漢人集団に焦点が当てられました(図7)。アジア東部の古代の人口集団は、マンジュ人および河南省や山西省や山東省の北部漢人と類似の量のアレルを共有していました。しかし、マレーシア_LN(後期新石器時代)などアジア南東部の古代の人口集団は、マンジュ人よりも四川省および福建省の南部漢人と多くのアレルを共有していました。f4統計は、マンジュ人の位置に朝鮮人を置き、「古代人」としてアジア東部北方とシベリアの古代人集団を用いると、有意な正のZ得点を示し、朝鮮人は漢人よりもアジア東部北方もしくはシベリア南部の関連祖先系統を多く有している、と示されます。
●調査対象のマンジュ人と朝鮮人の混合モデル
標的人口集団とマンジュ人と朝鮮人、可能性のある供給源とアジア東部と南東部全域の全ての現代の人口集団を用いて、混合f3統計が計算されました。チベット_チャムド(Chamdo)かウリチ人かナナイ人(Nanai)を北方供給源として、アミ人(Ami)もしくはタイ・カダイ語族話者集団を南方供給源とすると、マンジュ人の混合モデル化で上位の負のf3値を生成できます。朝鮮人を標的として用いると、ムーラオ人(Mulam)やマオナン人(Maonan)などタイ・カダイ語族話者とのナナイ人もしくはウリチ人などアジア北東部人は、上位の負のf3値を生成しました。負のf3値は、マンジュ人と朝鮮人両方の遺伝的形成が、恐らくは南北の供給源間の混合を含んでいた、と示唆します。次にqpAdmを用いて、マンジュ人と朝鮮人の遺伝的形成がモデル化されました(図8)。以下は本論文の図8です。
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その結果、朝鮮人は西遼河の青銅器時代農耕民(WLR_BA)での単一の供給源に由来するものとして最適にモデル化できる、と分かりました。朝鮮半島の新石器時代もしくは青銅器時代の古代人、つまり前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)もしくは青銅器時代のTaejungni個体は、調査対象のマンジュ人および朝鮮人両方の単一の供給源としてモデル化でき、西遼河地域と朝鮮半島における長期の遺伝的連続性を示しています。しかし、マンジュ人は、中国南部から追加の遺伝的影響を受けた、と示唆されました。2方向モデルでは、マンジュ人は鉄器時代台湾人関連祖先系統17%とWLR関連祖先系統83%の混合としてモデル化できます。この2方向モデルは、北方祖先供給源が鉄器時代黄河上流集団(黄河上流_IA)に置換されても維持されることに要注意で、黄河上流_IAとWLR_BAの区別において現時点で利用可能なデータの解像度の限界が示唆されます。
黒水_靺鞨もしくはモンゴル_匈奴を3方向モデルで第三の供給源として追加すると、マンジュ人は、台湾_漢本(鉄器時代)関連祖先系統7.5%、黄河_LN関連祖先系統84%、残りの黒水_靺鞨関連祖先系統8.5%としてモデル化できます。本論文の標的集団と密接に関連する集団との間の違いを比較するため、次に朝鮮人とマンジュ人を含めて近隣人口集団の形成がモデル化されました。同じ供給源と外群では、現代朝鮮人はWLR_BA(85%)と台湾_漢本(15%)の混合としてモデル化できます。マンジュ人は、台湾_漢本関連人口集団からはより少ない南方祖先系統であるものの、鮮卑もしくは靺鞨などアジア北東部人からのより多くの祖先系統でモデル化できる、と観察されました。
●各個体の父方と母方のハプログループ遺伝子型決定
補足表5で、調査対象のマンジュ人と朝鮮人の母系となるmtDNAハプログループ(mtHg)と父系となるY染色体ハプログループ(YHg)が示されます。マンジュ人における優勢なYHgは、北部漢人と同様にO2a1c1です。一方、母系ではさまざまなmtHgが特定され、調査対象のマンジュ人ではB4・C4・D4・F1・F2・M8・N9が含まれており、これらの母系のほとんどは漢人でも優勢です。意外なことに、調査対象のマンジュ人でmtHg-U5が見つかりました。mtHg-Uはユーラシア西部人で広く分布しています。マンジュ人におけるmtHg-Uの存在は、マンジュ人の形成におけるユーラシア西部人の遺伝的影響を示唆します。
吉林省延辺朝鮮族自治州安図県の調査対象の朝鮮人は、韓国の朝鮮人と類似の母系の遺伝的特性を有しており、mtHg-D4系統が優勢ですが、他のアジア東部人のように、mtHg-A5・B4・F1・G1・M7・M9・N9・Y1もあります。安図県の調査対象の朝鮮人6個体のYHgはO1とO2とC2で、全て漢人および朝鮮人で一般的に見られる系統です。
●考察
かつて大きな影響力のある政権を確立した少数民族として、マンジュ人は何世紀にもわたって多くの民族集団と統合し、相互作用してきました。マンジュ人は創設した清王朝(ダイチン・グルン)において、漢人と大規模な通婚を行ないました。過去数世紀、中国北東部から遼東回廊を通っての中元への大規模な移住、および中国語では「闖関東(Chuang Guandong)」として知られているアジア北東部への勇敢な旅は、マンジュ人と中国中央部および南部の人口集団との間の広範な相互作用をもたらしました。それらの歴史的理由は、マンジュ人と、本論文における北方のシナ・チベット語族話者集団と南方のタイ・カダイ語族話者集団もしくはミャオ・ヤオ語族話者集団を含む中国全土の他の人口集団との間の、遺伝的類似性を説明できるかもしれません。さらに、北部漢人とマンジュ人との間の密接な関係は多くの先行研究は、で証明されてきており、この研究で再び確証されました。
マンジュ人はツングース語族で最大の人口を有していますが、マンジュ人の遺伝的特性は、オロチョン人やホジェン人やシボ人など他のツングース語族話者集団とは異なります。他のツングース語族話者集団ではユーラシア西部関連構成要素が少ない割合で見つかりましたが、マンジュ人では見つかりませんでした。マンジュ人は西遼河および黄河流域の古代の人口集団と密接な類似性を有しています。マンジュ人は青銅器時代西遼河農耕民と鉄器時代の台湾_漢本の混合としてモデル化でき、マンジュ人の形成における南北の混合が示唆されます。先行研究はでは、マンジュ人の祖先系統は、靺鞨古代人の32.4%と、残りは黄河流域の農耕関連の古代の人口集団の祖先系統に由来するとモデル化できる、と明らかになりました。
しかし本論文では、供給源として黒水_靺鞨での2方向モデルは失敗しました。その理由は、124万データセットと統合後に約20万ヶ所のSNP部位を有したことかもしれず、これは先行研究(ほぼ12万ヶ所の部位)よりも8万ヶ所ほど多くなります。より多くのSNPがあれば、より高い解像度を得ることができ、より多くのSNPは、より少ない数のSNPでは見つけることができない、モデル化の失敗につながる微妙な遺伝的違いを検出できるかもしれません。別の理由は、本論文におけるマンジュ人のより小さな標本規模と、標本抽出地の違いかもしれません。本論文の標本は錦州市で収集されましたが、先行研究では新賓自治県でした。
先行研究(関連記事)では、紀元後4~5世紀の朝鮮半島南部人口集団は先住の縄文関連祖先系統をさまざまな割合で有しており【この縄文関連祖先系統は、新石器時代から続いていた可能性が確かにありますが、古墳時代の日本列島からもたらされた可能性もあると思います】、この縄文関連祖先系統は現在の朝鮮人では残っていない、と示されています。先行研究と一致して、本論文では現在の中国の朝鮮人で縄文関連祖先系統は検出されませんでした。本論文で調べられた吉林省の朝鮮人は、韓国の現代人と強いつながりを示し、中国の朝鮮人の起源は朝鮮半島からの最近の移住にたどることができる、と裏づけています。中国の朝鮮人は、WLR_BAと関連する単一の供給源に祖先系統が由来する、とモデル化でき、それは中国北東部から朝鮮半島、さらには日本列島への農耕の伝播経路を構成します。
先行研究では、 マンジュ人と朝鮮人は言語と歴史と文化において対応する、と示されてきました。マンジュ人と朝鮮人には言語学的つながりがあり、それは、朝鮮語には多くのマンジュ語からの借用語があり、両者は同じ文法構造だからです。さらに、中国のマンジュ人と朝鮮人は漢人文化に深く影響を受けており、漢人と遺伝的交流を行なってきました。錦州市北鎮における先住マンジュ人の歴史的記憶は、その起源地をチャンバイ山と記録しました。本論文では、マンジュ人はチャンバイ山の朝鮮人と遺伝的に類似している、と分かり、これはマンジュ人と朝鮮人との間の言語学的つながりと一致します。
中国北東部における遺伝的特性のさらなる調査のためには将来、この地域のマンジュ人と朝鮮人のより多くの下位集団が収集されるべきです。さらに、現代の人口集団の参照データセットは、おもにアフィメトリクス社ヒト起源(Affymetrix Human Origins)配列を介して生成されました。ヒト起源データセットとの統合後の分析では、わずか約7万ヶ所の部位しか残っておらず、これは本論文の限外です。
参考文献:
Sun N. et al.(2023): The genetic structure and admixture of Manchus and Koreans in northeast China. Annals of Human Biology, 50, 1, 161–171.
https://doi.org/10.1080/03014460.2023.2182912
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_21.html
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2023/06/10 (Sat) 18:25:46
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雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。
●要約
言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。
一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。
●近年の研究動向
先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000~紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代~青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。
ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。
一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。
著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。
最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。
著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。
本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。
●日琉語族と朝鮮語の研究史
日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。
李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。
マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。
マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500~紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。
日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀~紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。
●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題
九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀~紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。
九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀~紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842~806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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縄文時代黒川期の紀元前13世紀~紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。
黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀~紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀~紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀~紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。
土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。
弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀~紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。
したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀~紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。
「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。
形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1~紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。
●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明
日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。
弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。
朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1~3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部~中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。
日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。
無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。
●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明
上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀~紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。
移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。
一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。
朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。
このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です
●まとめ
言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。
偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。
日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀~紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀~紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。
紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。
日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。
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関連記事
小林正史、北野博司、久世健二、小嶋俊彰(2000)「北部九州における縄文・弥生土器の野焼き方法の変化」『青丘学術論集』第17集P5-140
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
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関連記事
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家根祥多(1997)「朝鮮無文土器から弥生土器へ」立命館大学考古学論集刊行会編『立命館大学考古学論集』第1巻(立命館大学考古学論集刊行会)P39-64
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
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2023/06/11 (Sun) 09:54:36
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雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。
●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題
分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。
たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。
古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。
たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。
その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。
古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。
また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。
種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。
これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。
この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。
●4万年以上前
日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。
捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。
ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。
●後期旧石器時代
ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。
もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。
日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。
●縄文時代
縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。
現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。
このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。
現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。
「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。
一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。
結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。
上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。
しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。
ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。
ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。
つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。
●弥生時代
弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。
弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。
このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。
そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。
上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。
これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。
●古墳時代以降
上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。
一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。
現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。
この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。
Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。
また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。
一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。
●琉球諸島と北海道
沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。
琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。
現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。
オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。
もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。
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篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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https://doi.org/10.1537/asj.1904231
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
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松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
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2023/06/16 (Fri) 23:11:03
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「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767
2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)
日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。
篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。
大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。
私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。
橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。
篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。
橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。
篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。
弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。
篠田 そう思います。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2
橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?
篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。
橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。
篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。
さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。
朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。
橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。
篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。
両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。
橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。
篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。
橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。
篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。
橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。
篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。
ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。
橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。
篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。
当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。
橘 すごくロマンがありますね。
篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。
弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。
古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。
篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。
古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。
橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。
篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。
政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。
篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。
橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。
篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。
篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。
弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。
橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。
篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。
橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。
篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。
次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。
朝鮮半島で何が起こったか わからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。
橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
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2023/06/26 (Mon) 15:28:08
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Brown Bag Seminar No.033 Kazuo Miyamoto 「近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散」
KyushuUniv
2023/01/24
https://www.youtube.com/watch?v=a4hLPynYKug
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2024/05/15 (Wed) 08:33:48
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ソウルで発見された日本の埴輪、それでも三韓征伐を否定したい
2024.05.14
https://www.thutmosev.com/archives/35054.html
ソウルで発見された日本の埴輪
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/49367.html [独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見 _ 文化 _ hankyoreh japan
都合の悪い遺跡を埋め戻した
日本の初期の天皇9代は記録があいまいで物証も乏しいので『失われた9代』となっていて、存在したともしないとも証明する事はできない
だが人は木の根っこから生まれてこないので10代崇神天皇は先代の息子だった筈で、その前にも王権の長い歴史が続いていた筈でした
10代崇神天皇はおおまかに言って西暦300年頃、15代応神天皇は西暦400年頃の人物で応神天皇母が今も歴史を揺るがす神功皇后でした
神功皇后は仲哀天皇の妻で自身も開化天皇の子孫という家系で、夫の仲哀天皇は即位9年でなくなってその時に妻は息子を身ごもっていた
子供がいない場合後継者は弟とか皇族の親戚になるが、史書によると妻の神功皇后は熊襲(九州の独立系種族)を征伐し海を越えて半島まで出兵し三韓征伐をした
現代的な分析では当時のヤマトと半島の間に大規模な戦闘は起きてあらず、新羅・百済・高句麗は戦争を避けるために和平を結んだと考えられる
半島の地方国家が大陸国家に従う形で和議を結ぶことはよくあり、三韓征伐も神功皇后のヤマトに占領されたのではなく外交政策として従っていたのだと思われる
三韓の中でとりわけ日本の支配力が強かったのが百済で、半島の先端には任那日本府が存在しここにヤマトは拠点を置いて半島を支配したとされている
この時代に九州や大阪などに大量の渡来があり、神功皇后の孫にあたる仁徳天皇は労働者である渡来人を度々視察するなど気にかけていたと記されている
当時ヤマトの首都は奈良県にあったが港は大阪にあったので、大阪湾埋め立てに多くの渡来人が従事していて、彼らの子孫は埋め立てた大阪市に現在も住んでいると言われている
渡来は神功皇后の西暦400年以前から663年に白村江の戦いで天智天皇の日本軍が唐・新羅連合軍に敗れるまで続き、敗戦後も百済などの人々が大量に日本へ逃げてきた
神功皇后の三韓征伐でヤマト国家が半島を支配下に置き、唐の援軍を得て新羅が独立戦争を仕掛けるという大きな流れがあった
独立した統一国家が有史以来ひとつもない
ところが戦後の韓国は「三韓征伐も神功皇后も任那日本府もなかった」と不都合な歴史を消してしまい、「なんの理由もなく白村江の戦いが起きた」と言うので歴史は滅茶苦茶になった
当然のことながら各地の遺跡を発掘すると証拠になる日本関連の遺跡が発見されるのだが、韓国政府と韓国の学者は「天皇は韓国人だった」などの奇想天外な主張をして煙に巻こうとした
彼らの意見では韓国で前方後円墳などが発見されるのは天皇が半島出身者だからで、日本人もそもそも半島から移住したのであるから、前方後円墳も半島から日本へ伝わった
全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳は上から見ると前方後円墳で発掘したら石造りで日本のと同じ墓が埋葬されていた
古代九州の有力者かその支配下にあった者の墓と推測されたが、あまりにも都合が悪かったので文在寅政権は発見しなかった事にして埋め戻した
埋めるのはまだ良い方で証拠が残らないように切り崩したり更地になった前方後円墳や日本式古墳もあるということです
韓国政府は日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念したと言っているが、日本で本当の事を言うと韓国政府から「極右」指定されるのは相変わらずです
最近発見されたのは1500年から1600年前つまり西暦400年から500年のソウルの遺跡から、多数の日本式の品が発見された
埋蔵品は埴輪、瓦などで半島になく日本特有の形式であることから、この場所に日本の職人や技術者が住んでいた証拠であるという
因みに日本の「法隆寺」など初期の建築は渡来系の技師らが関わっていて、半島から日本に来ていたのだから日本から半島に行っても何もおかしくないが、韓国はそれが不愉快なのです
百済が存在していた頃の力関係は大陸から仏教や建築などが先に伝わった半島が「進んでいた」が、数カ国に分裂していたので国力ではヤマト=日本が強かった
唐は強大ではあったものの半島国家を従属させると満足し、本格的に出兵してまで直接占領しようとする事はほとんど無かった
九州を制圧し統一国家になったヤマト=日本にとって半島を支配下に置こうとするのは自然なことであり、半島は少なくとも3つに分裂していてそれぞれの国は弱かった
679年新羅は日本軍に続いて唐も追放し半島に初の統一国家を樹立したが、唐の冊封を受けて家臣になったので統一新羅が独立国家なのかは今も疑問がある
結局朝鮮半島で議論の余地のない独立国家が誕生するので 1948年の韓国と北朝鮮だが、これも分裂国家で統一されてはいない
「独立した統一国家が有史以来ひとつもない」という事を彼らは認めたくないのです
https://www.thutmosev.com/archives/35054.html
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2024/06/07 (Fri) 18:25:35
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1500年前の日本の関西、朝鮮半島の祖先が住んだ場所だった
2023-10-10
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607
『渡来人の考古学と歴史』発刊
米国の学者が古代韓日交流史をまとめた本
全羅南道咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳だ。古墳の各所に石を積んだ跡(葺石)が見え、周囲を溝で囲む日本式の前方後円墳の典型的な姿をそのまま示している=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社
最近、韓国人が最も多く訪れる海外の観光地の一つが、大阪のある日本の関西地方だ。日本で最大規模のコリアンタウンがあることでも有名なこの地域について、多くの韓国人は、20世紀初めに植民地となった祖国を離れた多くの朝鮮人が生計のために定着したところだと認識している。
しかし、歴史的な真実は、関西に刻まれた古代の祖先の驚くべき足跡を伝える。『続日本紀』の8世紀初めの人口調査記録によると、1300年前の関西地方の中心だった南部の奈良盆地に住んでいた人の80~90%が百済系移民だった。それを立証するのが、関西地方に5世紀後半から登場する百済特有の墳墓の様式である横穴式石室墳で、6世紀まで爆発的に増加し、高安などの地域に「1000個の墓」という意味の千塚古墳群が雨後の筍のように登場する。一部のエリートの墓は王陵級であり、非常に大きいうえ、銅鏡、鉄製短剣、刀、金のイヤリング、玉・ガラス製品などが出土し、百済と馬韓系統の住民と支配者の存在を示している。未発掘の古墳は数百基にのぼり、関西地方だけでも少なくとも1000基を超える百済系の古墳群が造られたと推定される。歴史考古学者の石渡信一郎氏は「千塚と呼ばれる巨大な墳墓の主が朝鮮半島西南部出身の渡来人とその子孫であることを考えれば、紀元後475年から600年までの125年間に、少なくとも100万人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきたものと考えられる」と推定した。
『渡来人の考古学と歴史』表紙//ハンギョレ新聞社
こうした事実は、米国で研究中の3人の考古人類学者が、韓国と日本で刊行された膨大な考古学と歴史学の刊行物の書誌情報をもとに分析・整理した学術書『渡来人の考古学と歴史』(周留城出版社)に出てくる内容だ。米国オレゴン大学のイ・ソンレ考古学名誉教授、オレゴン大学のメルビン・エイケンス人類学(考古学)名誉教授、英国ダラム大学のジナ・バーンズ日本学名誉教授が共同で執筆し、韓国伝統大学融合考古学科のキム・ギョンテク教授が翻訳した。この本は、紀元前1000年以前の無文土器時代から紀元後7世紀の三国時代まで、朝鮮半島から日本列島に渡った移民の経路と、これらの人たちが日本の文化と社会の発展に寄与したことを、朝鮮半島からの「渡来人」の活動状況を通じて集中的に探求する。
この本は、古代の朝鮮半島からの渡来人の話を7つの質問を通じて解き明かしていく。これらの人たちはどこから来て、その歴史的・社会文化的な背景は何であり、なぜ朝鮮半島を去り、日本列島のどこに定着して何をしたのか。これらの人たちを日本列島の人たちはどのように待遇し、また彼らは日本社会にどのような貢献をしたのかについて、最近の研究成果をもとにわかりやすく解いていく。時代別に、稲作の伝来、青銅器文明の伝播、鉄器の伝播、宗教・文化的文物の大規模伝播などに区分される古代朝鮮半島の祖先の日本列島移住文化史は、絶えず流れる「河川のようなもの」であり、渡来人の話は、日本の始まりというミステリーの箱を開く重要なカギだとする洞察によってまとめられている。著者らは「日本が5~6世紀に古代国家の基盤をつくった革命的な変化は、技術と技能を持った人たちが入ってきて、技術的・文化的な革命を成し遂げたことによって可能だったもの」だとし、渡来人は古代日本の国家基盤を作った必須の要素だったと指摘する。
『古代韓日交流史』表紙// ハンギョレ新聞社
今年上半期に出版された中堅考古学者のパク・チョンス教授(慶北大学)の力作である『古代韓日交流史』(慶北大学出版部)も、伽耶・百済・新羅からの文化伝播が4~6世紀の日本の古代国家成立の軸になったことを、考古学的な発掘の成果で論証した大作だ。3~5世紀の日本列島と隣接した朝鮮半島南部の伽耶圏の文化が日本との交流の主軸であり、金官伽耶と大伽耶の順に交渉の主体が移り、その後、新羅の伽耶吸収によって百済に交流の中心が移ることになる過程を、パク教授が集めた日本各地の詳細な考古学的な発掘成果を通じて論証し展開していく。日本とは敵対的な関係に変わったとされている新羅の日本との交易や文物交流は、一般的に言われているのとは違い、5世紀以降も活発に継続し、百済滅亡後は唐に対応する両国の外交的な必要によってよりいっそう深まったという事実を、日本各地の新羅系古墳遺跡の事例を通して示しているのが興味深い。
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607
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2024/07/07 (Sun) 18:41:18
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【中国と朝鮮】中国の属国 であり続けた朝鮮の歴史!韓国と北朝鮮のルーツを考える!
世界史解体新書 2024/07/07
https://www.youtube.com/watch?v=u86kecreoxc
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2024/10/23 (Wed) 08:43:08
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雑記帳 2024年10月17日
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体のゲノムデータを報告した研究(Kim et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本語の解説記事もあります。山口県下関市豊北町にある土井ヶ浜遺跡は、弥生時代の「渡来系」とされる人類集団が発見されたことで有名です。本論文は、土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体(D1604)のゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人集団と比較することで、D1604が、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団的な3系統の遺伝的構成要素をすでに有している、と示しました。その遺伝的構成要素とは、「縄文人」関連とアジア東部および北東部関連です。
本論文は、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的な形成過程の解明に大きく貢献するでしょうが、弥生時代の人類集団においては遺伝的異質性が高いことにも注目せねばならないでしょう。こうした点も含めて、最後に「私見」の項目で日本列島「本土」現代人集団の形成過程について少し言及します。査読前論文(Ishiya et al., 2024)ですが、土井ヶ浜遺跡ではD1604だけではなく男性1個体のゲノムデータも得られており、こちらはD1604よりずっと高品質で、さらに、群馬県吾妻郡長野原町にある居家以岩陰遺跡の縄文時代早期の女性1個体の高品質なゲノムデータも報告されているので、査読誌に掲載されたら当ブログで取り上げる予定です。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は以下の通りです。新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)。
●要約
本土日本人は、在来の縄文人とユーラシア東部大陸部からの移民に由来する二重祖先系統を有している、と認識されてきました。大陸から日本列島への移住は弥生時代から古墳時代にかけて続きましたが、これらの遺民、とくにその起源に関する理解は、弥生時代の高品質なゲノム標本の不足のため不充分なままで、混合過程についての予測を複雑にしています。これに対処するため、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体の全核ゲノムが配列決定されました。土井ヶ浜遺跡弥生時代1個体と、アジア東部とアジア北東部の古代および現代の人口集団の包括的な集団遺伝学的分析から、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体は古墳時代個体群および現代本土日本人と同様に、縄文関連とアジア東部関連とシベリア北東部関連の異なる3遺伝的祖先系統祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していた、と明らかになりました。非日本人集団のうち、アジア東部関連とシベリア北東部関連祖先系統を有する韓国人集団が、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体との最高度の遺伝的類似性を示しました。弥生時代個体群と古墳時代個体群と現代日本人についての混合モデル化の分析は、縄文関連と韓国関連の祖先系統を仮定する2方向混合モデルを裏づけました。これらの結果から、弥生時代と古墳時代の間の日本列島への遺民の大半はおもに朝鮮半島に由来した、と示唆されます。
●研究史
日本列島の先史時代は、新石器時代である「縄文時代」により表されます【縄文時代が新石器時代と言えるのか、異論もあるかもしれませんが】。「縄文」という名称は「縄の文様」を意味しており、縄を用いて製作される固有の文様のある土器によって特徴づけられる、縄文文化の独特な特徴を反映しています。縄文時代の期間についてさまざまな意見がありますが、考古学的証拠では、16500年前頃に始まり、少なくとも1万年間ユーラシア大陸部から孤立して存続した、と広く裏づけられています。縄文時代の主要な生計活動は狩猟と採集でした。水田での稲作は日本の九州北部へと3000年前頃となる縄文時代晩期末にもたらされ、弥生時代の開始を示しています。稲作はその後、中期~後期弥生時代に日本全域へと次第に広がりました。
日本人の歴史を説明するさまざまな仮説がありました。たとえば、「変容モデル」では、人々ではなく文化だけが大陸から到来した、と仮定されました。「置換モデル」は弥生人による在来の縄文人の完全な置換を示唆していますが、「交雑モデル」は在来の縄文人と大陸からの遺民との間の混合を提案しています。現時点では、古代の縄文時代と弥生時代の個体群の骨格の特徴に基づいて埴原和郎氏によって提案された、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」が広く受け入れられています。集団遺伝学的研究を通じて、二重構造モデルを裏づける強力な証拠が蓄積されてきました。アジア東部大陸部の人々で一般的に見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の存在だけではなく、ユーラシア大陸部の人々では一般的ではないものの、縄文人では一般的であるN9bおよびM7aなどのmtHg[8]や、D1a2a1a(M125)などのYHg[11]も、日本列島における縄文人とユーラシア大陸部からの遺民との間の交雑との仮説を裏づけます。
常染色体上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)に関する研究では、現代日本人の遺伝的構成要素は、アイヌ関連祖先系統とアジア東部大陸部関連祖先系統の混合として説明できる、と示唆されてきており、二重構造モデルの追加の証拠を提供します。さらに、地理的距離にも関わらず北海道のアイヌ集団と沖縄県の琉球諸島集団との間のより密接な遺伝的類似性を明らかにした研究は、日本列島本土へのユーラシア大陸部の人々の移住を示唆しています。二重構造モデルは基本的に正しいと考えられていますが、本土日本人の間では遺伝的異質性があり[19]、これは部分的には、縄文関連祖先系統の割合の差異に起因します[21]。これは、縄文人とユーラシア大陸部の遺民の混合が日本列島本土全体で均一に進行しなかったことを示唆しています。いくつかの研究も、古代の核ゲノムの解析を通じて、縄文人の起源を調べました。縄文人のゲノム解析から、縄文人系統は他のユーラシア東部系統の基底部に位置する、と明らかになりました[22~24]。しかし、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島へと移住したユーラシア大陸部の移民の起源は、弥生時代個体群の高品質な核ゲノムデータの不足のため、不明なままです。
最近の研究[25]は、古墳時代の3個体の新たに報告されたゲノムと、日本の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の以前に刊行されたゲノム[26]を用いて、弥生時代と古墳時代との間の日本人【日本列島の人類集団】の遺伝的特性における突然の変化を報告しました。先行研究[25]は、弥生時代と古墳時代の個体間の遺伝的構成要素の違いに基づいて、弥生時代にシベリア北東部から遺伝子流動が起き、古墳時代には、中国の漢人などアジア東部人からの独立した遺伝子流動が起きた、と示唆し、現代本土日本人の3方向混合モデルを提案しました。
しかし、3方向混合モデルを提案した論文[25]で提示された分析の特定の側面は、さらなる検討が必要です。大きな懸念は、使用された弥生時代標本の代表性です。九州北部とその周辺地域から発掘された弥生時代のヒト骨格遺骸は、測定分析に基づいて主要な2群に分類されてきました。九州北西部地域(長崎県とその近隣地域が含まれます)の弥生人は、低い顔面と低身長など縄文人と類似した形態学的特徴を示します。対照的に、九州北部と山口県地域の弥生人は、縄文人と比較してのより高い顔面と身長によって特徴づけられ、移民からの顕著な遺伝的影響が示唆されます。先行研究[25]で使用された弥生時代標本、具体的には下本山2号および3号は九州北西部集団に属しており、縄文人とアジア大陸部から到来した移民両方の構成要素を有している、と示されました[26]。弥生人の遺伝的特徴の包括的理解を得るためには、九州北部と山口県の集団からの標本調査も不可欠です。さらに、下本山2号および3号の配列データの品質は高くなく、網羅率は0.1倍未満です。したがって、弥生人と古墳人との間に顕著な遺伝的差異があったのかどうか、という問題にはさらなる研究の余地があります。
この研究では、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の古代の弥生時代1個体の全核ゲノム配列が決定されました。この個体は九州北部および山口県の弥生時代集団に属します。弥生時代から古墳時代にかけてのユーラシア大陸部からの移民の起源を解明するため、混合モデル化を含めて、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体のさらなる集団遺伝学的分析が行なわれました。
●資料と手法
山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期~中期の墓地である土井ヶ浜遺跡では、300点以上の弥生時代の個体の骨が発見されてきました。この研究では、ほぼ全身骨格を含む、土井ヶ浜遺跡で発見された標本ST1604のDNA解析が実行されました。ST1604の年齢は、3点の頭蓋縫合線の内側と外側が両方とも開いていることで証明されているように、若い世人と考えられています。ST1604の性別は、眼窩上弓に隆起がないことと、大坐骨切痕の角度がより大きいため、女性と考えられています。大腿骨の最大長から、ST1604の身長は149cmと推定されました。注目すべきことに、ST1604は長い形態の顔や高身長など、縄文人の典型的な形態学的特徴とは異なる独特な特徴を示しました。ST1604標本の放射性炭素(¹⁴C)年代は、2305±20年前(非較正)でした。IntCal20を用いての較正年代(95.4%の確率)は、紀元前405~紀元前361年(90.7%の確率)、紀元前275~紀元前263年(3.1%の確率)、紀元前243~紀元前235年(1.7%の確率)の範囲でした。本論文では以後、ST1604標本は、DNA解析の対象であるD1604標本と呼ばれます。
DNAはD1604の右側錐体骨から抽出され、mtHgが決定されました。核ゲノム解析には1本鎖ライブラリが用いられました。D1604の性別はX染色体とY染色体のマッピング(多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りの数に基づいて推定されました。他集団との比較のため、古代人についてはAADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1.p1版の124万SNPデータセット[51]、現代人についてはヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)[52]とサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)[53]が用いられました。KING血縁係数で0.0844以上の各組み合わせから、1個体が無作為に除外されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)の結果が信頼できないと思われる、外れ値個体も除外されました。124万データセットからユーラシア古代人のゲノムも抽出され[25、26、56~58]、さらに日本もしくは韓国の古代人のゲノム[23、26、59]が統合されました(古代人遺骸が発見された遺跡の場所は補足図1で示されます)。以下は本論文の補足図1です。
画像
PCAでは、現代の個体群から計算された主成分(PC)空間に古代人のゲノムが投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2~5で実行されました。TreeMix第1.3版を用いて、最尤系統樹が再構築されました。縄文時代個体群は「縄文」の分類表示で1群に統合され、単純な系統樹が描かれました。フランス人、パプア人、ミヘー人(Mixe)、ウリチ人(Ulchi)、韓国人、日本人、漢人、シェ人(She)、アミ人(Ami)といった現代の個体群もしくは人口集団と、土井ヶ浜_弥生(D1604)、日本_本州_古墳、韓国の金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)遺跡で発見された個体群(韓国_金海_大成洞)[56]、縄文人など古代の個体群もしくは人口集団が含められました。いずれの集団にも呼び出し情報のないSNPの除外後に、940570のSNPが残りました。
f統計ではまず、ムブティ人を外群とするf3(ムブティ人;土井ヶ浜_弥生、X)が計算され、Xは本論文のデータセットのうち1人口集団です。外群f3は、土井ヶ浜遺跡弥生時代標本と最も密節那遺伝的類似性のある現代の人口集団の特定に用いられました。次に、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)でf4統計が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性の観点ではどの人口集団も現代の韓国人もしくは日本人集団を上回らない、との仮説が厳密に検証されました。これらの分析では、標準誤差の単位でのゼロからのf統計の偏差であるZ値も計算されました。さらに、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性がきわめて高いことを示す、縄文時代の下位集団が調べられました。縄文人1と縄文人2は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の個体(JpKa6904)に代表される日本_四国_縄文時代早期、縄文時代前期となる岡山県倉敷市の船倉貝塚の個体(JpFu1)に代表される日本_本州_縄文時代前期_船倉、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚の4個体に代表される日本_本州_縄文時代前期_小竹、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚の4個体に代表される日本_本州_中後期縄文、愛媛県愛南町の縄文時代後期となる平城貝塚の1個体(JpHi01)に代表される日本_四国_縄文時代後期、千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表される六通_縄文、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる縄文時代2個体に代表される船泊_縄文、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)に代表される伊川津_縄文から選択されました。混合モデル化では、これら縄文人集団が「縄文人」という分類名称の単一集団に統合されました。qpF4ratio第400版を用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の混合モデルの適合性と混合比が評価されました。フランス人が外群(outgroup、略してo)と設定されました。古代と現代両方の日本人(x)について、潜在的なユーラシア東部からの遺伝子流動源(b)と縄文人供給源(c)で混合モデルが検証されました。想定モデルの詳細は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
画像
qpWaveとqpAdm第1520版も実行され、ユーラシア大陸部人口集団の祖先系統もしくは遺伝子流動の最適な供給源での混合モデルが見つかりました。qpAdmモデル化の外群として、ムブティ人、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の上部旧石器時代の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)個体[66]に代表される北イタリア_ヴィッラブルーナ_HG、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群[67]に代表されるイラン_ガンジュダレー_N、北京近郊の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体[68]に代表される田園洞、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River、略してUSR)で発見された11600~11270年前頃の1個体(USR1)[69]に代表されるUSR1、アミ人、中国山東省の變變(Bianbian)遺跡の9500年前頃の個体に代表される變變_EN[70]、中国福建省連江県の亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体[70]に代表される亮島_EN、シェ人が用いられました。qpWaveが実行され、P=0.01の閾値で外群人口集団の独立性が評価された後で、qpAdmを用いて、古代と現代の日本人集団の祖先系統の供給源として、縄文人とアジア東部大陸部人口集団で2方向混合モデルが検証されました。さらに、標的人口集団について祖先系統の供給源として縄文時代とアジア東部とアジア北東部の人口集団を用いて、以前に提案された3方向混合モデルが評価されました。先行研究[25]で潜在的な遺伝子流動供給源として提案された、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(中国_HMMH_MN)がアジア北東部関連祖先系統の供給源として含められ、3方向混合モデルの適合性が判断されました。
●標本のゲノム情報
集団遺伝学的分析の実行前に、D1604のゲノム情報の品質が評価され、データの信頼性が確かめられました。正確な数値指標は補足表3および4に示されています。D1604の常染色体平均網羅率は2倍をわずかに超えており、124万SNPの常染色体SNPのうち約84.5%(1150639ヶ所のうち971776ヶ所)を網羅しています。これは、他の刊行されている弥生時代個体のゲノム[26、57]の網羅率が0.1倍を超えず、網羅されている124万SNPの数が5万ヶ所を超えないため、とくに注目に値します。
D1604標本の遺伝的性別は、性染色体のマッピングされた読み取り数に基づいて評価されました。この手法では、RY指標(Y染色体/[Y染色体+X染色体])信の頼区間(confidence interval、略してCI)95%の上限が、0.016未満ならば女性、0.075超ならば男性と分類されます。D1604のRY指標は0.00051で、95%CIの上限が0.00053なので、D1604の性別は女性と推定され、形態学的評価と一致します。
●mtHg
平均深度297倍で、D1604の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。ミトコンドリアゲノム全体の一致率は0.993超でした。この配列は古代DNA的な脱アミノ化パターンを示した、と確証されました。D1604のmtHgはD4h1a2と推定されました。mtHg-D4hの下位系統(つまり、D4h1b、D4h1d、D4h1e、D4h3b)は、中国の北部および中央部で顕著と報告されました[71]。
●D1604の古代および現在の韓国人集団との遺伝的類似性
土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)やアジア東部の古代人および現代人を含めてのPCA図は、図2で示されています。縄文時代個体群は本論文で調べられた他のアジア東部人口集団とは明確に離れて位置しており(図2A)、縄文人の祖先は他のアジア東部人と最初に分岐した、と示唆されます。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は古墳時代個体群とともに現代日本人クラスタ(まとまり)内に収まり、縄文クラスタとアジア東部大陸部クラスタの間に位置しています。日本人と韓国人と漢人の個体群のみのPCAでは、弥生時代の土井ヶ浜遺跡個体は遺伝的に、中国の漢人とよりも現代と古代両方の韓国の個体群と密接である、と示唆されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
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●D1604の遺伝的祖先系統
ADMIXTURE分析では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)の遺伝的祖先系統が、アジア東部とシベリア北東部の現代人、日本列島と朝鮮半島の古代の個体群とともに推定されました。交差検証誤差値に基づいて、K=3が現在の人口集団一式にとって祖先供給源人口集団の最も妥当な数と判断されました(図3A)。混合棒図示では、赤色と青色と黄色の構成要素が、それぞれ縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統に由来する、と解釈されました。以下は本論文の図3です。
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以前に報告されたように[25、72]、現代日本人は3系統の遺伝的構成要素を示しました。現代日本人28個体のうち、縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の平均割合は、それぞれ約10%と約80%と約10%でした。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の各祖先系統の割合は、縄文関連が約7%、アジア東部関連が約67%、シベリア北東部関連が約26%でした。この割合は、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代1個体や古墳時代個体群や現代日本人と類似していました。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体におけるアジア東部関連構成要素の顕著な量の観察は、アジア東部関連祖先系統の人口集団が古墳時代に日本列島へと移住した、と主張した上述の先行研究[25]と矛盾します。
興味深いことに、一部の古代の韓国の個体は、かなりの縄文関連祖先系統を有していました(図3B)。たとえば、朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡から発掘された1個体(TYJ001)は、先行研究[57]で報告されたように、ほぼ100%の縄文祖先系統を示しました。対照的に、現代の韓国の個体群は縄文関連祖先系統をほとんど示しませんでした。
●D1604とアジア東部人口集団との系統発生的関係
TreeMixを用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)とアジア東部人口集団との系統発生的関係が調べられました(図4)。混合事象を仮定下系統樹は本論文では示されず、それは、妥当な仮定的状況が再現されなかったからです。TreeMix系統樹では、縄文人集団がアジア東部大陸部クラスタと日本人クラスタの分岐前に他のアジア東部人口集団と分岐し、縄文人系統が系統発生的に他のアジア東部人口集団の基底部に位置することを裏づけます。以下は本論文の図4です。
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アジア東部人口集団は、図4では異なる2クラスタに区分されました。一方のクラスタには、現代の韓国人や中国の漢人やシェ人やアミ人などアジア東部大陸部人口集団が含まれました(アジア東部大陸部クラスタと呼ばれます)。もう一方のクラスタは、現代日本人や土井ヶ浜遺跡弥生時代個体や日本_本州_古墳や韓国_金海_大成洞といった人口集団で構成されています(日本クラスタと呼ばれます)。アジア東部人口集団のうち、現代韓国人集団は日本人クラスタの共通祖先に最も近い、と特定されました。この観察はPCAの結果と一致します(図2)。これらの結果から、韓国の個体群は遺伝的に中国の漢人の場合よりも日本人に近い、と示唆されます。
古代韓国の人口集団である韓国_金海_大成洞は、日本クラスタに含まれました(図4)。この明らかなクラスタ化は、先行研究[56]で示唆されているように、縄文人集団から韓国_金海_大成洞人口集団への遺伝子流動に起因するかもしれません。韓国_金海_大成洞人口集団と日本人集団との間の関係は、TreeMix系統樹から推測されるように、将来の研究で慎重に調べられるべきです。
●D1604と遺伝的に近い人口集団
2人口集団間で共有される浮動を明らかにする手段である外群f3統計分析で、日本人集団(古代の日本_本州_古墳と現代日本人)が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と遺伝的に最も密接で、古代と現代の韓国の人口集団がそれに次いで近い、と明らかになりました(図5)。韓国の古代人のうち、安島(Ando)遺跡の新石器時代個体(韓国_安島)は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な類似性を示し、弥生時代における日本列島への移民は、韓国の古代の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ば個体群や金海の大成洞遺跡個体群とよりも、韓国_安島の方と遺伝的に近い、と示唆されます。日本の古代人および現代人集団と現代の韓国人集団についてのf3統計は他のアジア東部現代人集団よりも大きかったものの、|Z|≤1の範囲を表す誤差棒は、一部のアジア人口集団と重なりました。以下は本論文の図5です。
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さらに、f4(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)が計算され、日本人集団と韓国人集団が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な現代人集団なのかどうか、確認されました。人口集団Xは|Z|=3の境界に基づいて分類されました。Z≥3の人口集団Xは観察されませんでしたが、−3 < Z < 3を示す人口集団Xは、日本の古代人集団か日本の現代人集団か韓国の古代人集団か韓国の現代人集団がXだった場合のみ検出されました。他のすべてのモデルで、Z値は−3未満でした。したがって、少なくとも本論文で検証された現代人集団では、日本人および韓国人集団に匹敵する程度で土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と遺伝的に密接な人口集団は存在しない、と結論づけられました。
●D1604と縄文時代個体群との間の遺伝的類似性
f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)のf4検定が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と最高の遺伝的類似性を有する縄文人集団が特定されました。本質的に、f4統計は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が遺伝的に縄文人2よりも縄文人1の方と密接な場合に正となり、逆の場合は負となります。この分析にはさまざまな期間とイセキの縄文人集団が含められました。各人口集団の古代人のゲノムの数が限定的であることを考えて、結果は|Z|=2の緩やかな基準を用いて解釈されました。f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;日本_四国_縄文時代後期、他の縄文人個体)ではZ < −2の負の値が得られ、日本_四国_縄文時代後期は他の縄文人個体と比較して土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と有意により強い類似性を示した、と示唆されます。
注目すべきことに、日本_四国_縄文時代後期が発掘された四国地域は、本論文のデータセットの他の縄文人標本が発掘された地域では、地理的に土井ヶ浜遺跡の最も近くに位置しています。この観察から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の縄文関連祖先系統は山口県の近くの地域に暮らしていた縄文人に由来した、と示唆されます。高品質な古代人のゲノムの限定的な数のため、決定的な証拠はまだ報告されていませんが、この結果は、縄文人集団における人口分化の可能性を示唆しています。これは、日本列島全域のさまざまな遺跡の高品質な縄文人ゲノムを用いて、さらに調べられるべきです。
●D1604の混合モデル化
モデルの適合性を評価し、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)を含めて古代と現代の日本の個体群における縄文関連祖先系統の割合を推定するため、f4比検定が実行されました。[0, 1]区間外にある混合割合は、モデルにおける適合性の欠如を示唆します。補足表6では、そうしたモデルの混合割合が赤色で示されています。図1で現代韓国人を「b」、他のアジア東部人を「a」に割り当てると、モデルが適切に整合しました。しかし、他のアジア東部人を「b」、現代韓国人を「a」と仮定する逆の筋書きは、混合割合(α)が1を超過したように、良好な適合を示しませんでした。シベリア北東部人と遺伝的に近い人口集団である、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)もしくはオロチョン人(Oroqen)のいずれかを「b」として仮定するモデルは、良好に適合しませんでした。これは、シベリア北東部系統と縄文人系統との間で共有される祖先系統に起因するようです[23、24]。
したがって、縄文人と現代韓国人を混合の供給源として仮定し、フランス人漢人をそれぞれ「o」および「a」と指定して、日本人集団について混合割合が推定されました(図6A)。このモデルでは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は韓国人関連祖先系統を89.6%、縄文人関連祖先系統を10.4%有している、と推定されました。古墳時代個体群と現代日本人も、約6~7%の縄文関連祖先系統を示しました。一方で、下本山岩陰遺跡の弥生時代1個体の縄文関連祖先系統の割合は、他の個体より顕著に高くなっていました。これはPCAの結果と一致し、PCAでは、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は縄文人の近くに位置していました(図2B)。以下は本論文の図6です。
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最後に、qpAdm分析が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体を含めて日本人集団について混合モデルが検証されました。この分析では、ひじょうに低いP値のモデルはデータと一致せず却下でき、[0, 1]区間外の推定された混合割合は無意味です。したがって、そうしたモデルはデータに不適切と考えられました。2方向混合モデルについて、縄文人および漢人祖先系統を仮定するモデルは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体に適合しませんでした。対照的に、縄文人祖先系統と韓国人祖先系統を仮定するモデルは土井ヶ浜遺跡弥生時代個体のみならず、古墳時代個体群および現代日本人でもより良好に適合しました。qpAdm分析から得られた日本人集団の混合割合の棒図は、図6Bに示されています。
qpAdm検定では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は12.9%の縄文人関連祖先系統と87.1%の韓国人関連祖先系統を有する、と説明されました(図6B)。qpAdm分析は外群人口集団一式の選択に対して顕著に敏感ですが、上述のf4比検定と類似の結果が得られ、本論文のqpAdm分析における外群一式は適切だった、と示唆されます。
同じ外群一式を用いて、縄文人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とアジア北東部関連祖先系統という、祖先系統の3供給源を仮定した3方向混合モデルの適合性も調べられました。この分析では、アジア東部関連祖先系統の供給源として漢人もしくは現代韓国人個体群が用いられた一方で、中国_HMMH_MNはアジア北東部関連祖先系統の供給源として用いられました。中国_HMMH_MNの1個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区のホルチン左翼中旗(Kezuozhongqi、科爾沁左翼中旗)のHMMH遺跡で発掘された古代人の標本1点です。中国_HMMH_MN個体がアジア北東部関連祖先系統の供給源として選択され、それは、中国_HMMH_MN個体が3方向混合モデルを提案した先行研究[25]でこの目的のため用いられたからです。漢人をアジア東部人口集団とみなすと、3方向混合モデルは日本人集団について適切な混合割合をもたらしませんでした(つまり、1もしくは複数の推定された混合割合が[0, 1]区間外となりました)。現代韓国人をアジア東部関連祖先系統の供給源として用いると、混合割合は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳については許容可能な範囲内に収まりました。しかし、中国_HMMH_MNの混合割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳が対象の事例では標準誤差より小さく、推定された混合割合が強く裏づけられなかったことを示唆しています。したがって、本論文の分析では、調べられた3方向混合モデルが限定的だったものの、3方向混合モデルが2方向混合モデルより優れて至る、との結論を裏づける肯定的結果は得られませんでした。
●考察
本論文の重要な調査結果の一つは、すべての分析において、現代人集団のうち、韓国人集団が日本人を除く他のアジア東部人口集団よりも土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との多くの遺伝的類似性を示したことです。これは、弥生時代における日本列島への移民がおもに朝鮮半島に由来することを示唆します。したがって、縄文人と移民の混合に関する遺伝学的研究はまず、韓国人が日本列島への移民の主要な供給源だった可能性を考慮すべきです。最も妥当な供給源人口集団を混合モデル化に用いない場合、結果は実際の歴史から大きく逸れるかもしれません。
本論文では、現代と古代の韓国の個体群は、先行研究[74]と一致して、かなりのユーラシア北東部関連構成要素とアジア東部関連構成要素を有している、と分かりました。したがって、縄文人集団との韓国人集団の混合、およびそれに続く日本列島の混合人口集団内の遺伝的浮動が、日本人で観察される主要な遺伝的祖先系統を説明できるかもしれません。日本人のゲノムにおける、縄文人構成要素に加えてアジア東部関連構成要素とシベリア北東部関連構成要素の両方の存在は、一方は弥生時代におけるシベリア北東部関連祖先系統を有する人口集団、もう一方は古墳時代におけるアジア東部関連祖先系統を有する人口集団と、別々の2人口集団が日本列島に独自に移住したことを必ずしも意味しない、と強調せねばなりません。
先行研究[25]では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体と古墳時代個体群で見られるユーラシア北東部関連構成要素は弥生時代にもたらされ、古墳時代個体群で観察され、弥生時代個体群では観察されない新たなアジア東部関連構成要素は古墳時代に出現した、と主張されました。しかし本論文では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体より年代の古い土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、縄文人関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統のみならず、かなりのアジア東部関連祖先系統も有している、と分かりました(図3B)。先行研究[25]では3方向混合モデルが提案されましたが、弥生時代と古墳時代と現代の日本の個体群に関する混合モデル化の本論文の分析は、縄文人関連祖先系統と韓国人関連祖先系統を仮定する2方向混合モデルを強く裏づけました。
先行研究[25]と本論文の間の不一致は、先行研究で分析された下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の独特な遺伝的特性に起因したのかもしれません。これら下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は、遺伝的に縄文人に近い、と報告されてきました[26]。本論文では一貫して、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体はPCA図では縄文人の近くに位置し(図2B)、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体における縄文人関連祖先系統の推定割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体よりもずっと高くなりました(図3B)。移民はアジア東部大陸部から到来したので、遺伝的に縄文人からより遠く、アジア東部大陸部人により近い弥生時代個体群は、移民の起源を解明するための分析により適しているようです。この文脈では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体ではなく土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、日本列島における混合の研究において弥生時代個体群の代表として用いられるべきです。
外群f3の分析から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は他の古代韓国の個体とよりも、現代韓国人および韓国_安島の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました(図5)。したがって、弥生時代における日本列島への移民は、現代韓国人もしくは韓国_安島と遺伝的により近い人口集団に由来していたかもしれません。現時点では、朝鮮半島のどの地域に移民の起源があるのか明確ではなく、弥生時代の始まった3000年前頃以降の多くの韓国の古代人のゲノムが、朝鮮半島からの移民がおもにどの地域に由来するのか、判断するのに役立つかもしれません。
ユーラシア東部人口集団は、南北の軸にそって遺伝的勾配を示す、と報告されてきました。ユーラシア東部大陸部では、より北方の人口集団がより高い割合のシベリア北東部関連祖先系統を有する一方で、より南方の人口集団はより多くのアジア東部関連祖先系統を有する傾向があります。本論文のすべての結果を考慮すると、最も妥当な仮定的状況では、アジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の両方を有する朝鮮半島の人口集団が、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に連続的に移住した、となります(補足図4)。この移住には、在来の縄文人との混合が含まれていました。現代本土日本人は、この混合人口集団の子孫と考えられます。日本列島のさまざまな遺跡の弥生時代と古墳時代の個体のゲノムのさらなる分析は、移民が縄文人と混合しながら日本列島全域にどのように拡大したのかについて、光を当てるでしょう。以下は本論文の補足図4です。
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●私見
本論文は弥生時代の「渡来系」とされる人類の遺跡として有名な土井ヶ浜遺跡で発見された女性1個体の、他の弥生時代個体よりも高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん貴重な成果として注目されます。本論文は、日本列島における人類進化史について、弥生時代にアジア北東部(本論文ではシベリア北東部)関連祖先系統を有する集団が到来して縄文時代から日本列島に存在する在来人類集団と混合し、古墳時代にアジア東部関連祖先系統を有する集団が到来して、弥生時代人類集団と混合して現代の日本人集団の遺伝的構成が形成された、とする先行研究[25]で提示された三重構造説に否定的な結果を提示しています。
確かに、本論文が新たに提示したゲノムデータは土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体(D1604)だけです。しかし、土井ヶ浜遺跡出土の男性1個体の高品質なゲノムデータを報告した査読前論文(Ishiya et al., 2024)とも大きく齟齬しない結果のようです。さらに、土井ヶ浜遺跡で発見された多数の人類遺骸の形態学的分析からも、D1604が土井ヶ浜遺跡の弥生時代人類集団において外れ値個体である可能性は低そうです。故に、すでに弥生時代中期の西日本においてアジア東部関連祖先系統をかなりの割合で有する人類集団が定着していた可能性はきわめて高そうという意味で、先行研究[25]で主張された三重構造説は支持されないことが示されたように思います。先行研究[25]でも、すでに弥生時代に古墳時代以降の人類集団と類似した遺伝的構成の集団の存在の可能性が指摘されており、その懸念が的中したわけです。
ただ、本論文でも改めて示されたように、D1604より新しく、地理的にも九州北西部と土井ヶ浜遺跡から比較的近い下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体で、D1604よりずっと高い割合の縄文人関連祖先系統が確認されたことは、弥生時代における日本列島の人類集団の遺伝的異質性の高さと、複雑な人口史を再び強く示唆しているように思います。弥生時代中期にはすでに現代日本人的な遺伝的構成の集団が日本列島本土に広く存在したわけではなく、日本列島本土現代人集団の形成過程はかなり複雑だった可能性が高そうです。じっさい、古墳時代にも、日本列島本土現代人集団よりもずっと高い割合の縄文人関連祖先系統を有する個体が確認されています(安達他.,2021)。現時点では思いつきにすぎませんが、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成の確立は、10世紀における多くの古代集落の消滅、その後の中世後期~近世にかけての「伝統社会」の成立まで見据える必要があるのではないか、と考えています。もちろん、近代や高度成長期における人口移動も無視できません。
本論文の見解をより深く理解するには、ユーラシア北東部の完新世の人口史を把握する必要があります。ユーラシア北東部の完新世人類集団の遺伝的構造は、ユーラシア西部現代人とアメリカ大陸先住民に大きな遺伝的影響を残した古代北ユーラシア人からの遺伝的寄与をひとまず考慮しないと、地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置します(Ning et al., 2020)。アムール川地域の完新世人類集団の遺伝的構成は比較的安定しているのに対して、西遼河地域の完新世人類集団の遺伝的構成は、アムール川地域関連祖先系統と黄河新石器時代関連祖先系統の割合が経時的に大きく変化します(Ning et al., 2020)。黄河地域完新世人類集団の遺伝的構成も経時的に変化しており、後期新石器時代には前期新石器時代華南集団関連祖先系統の割合が増加します(Ning et al., 2020)。分析対象集団やK(系統構成要素数)の異なるADMIXTUREの結果を安易に比較できませんが、本論文のアジア東部関連祖先系統とはおおむね、黄河新石器時代関連祖先系統を主体としつつ、前期新石器時代華南集団関連祖先系統が混合したもので、本論文のシベリア北東部関連祖先系統とは、おおむねアムール川地域関連祖先系統に相当する、と把握するのが妥当なように思います。
最近の研究(Zhu et al., 2024)で、西遼河地域南部の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、アムール川地域関連祖先系統が4割程度の個体群や、ほぼ完全にアムール川地域関連祖先系統でモデル化できる外れ値個体が確認されている一方で、雑穀農耕地帯の1個体のゲノムは、ほぼ完全に黄河地域後期新石器時代集団関連祖先系統でモデル化できる、と示されています。完新世の西遼河地域は、本論文で云うところのシベリア北東部関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統の交わる地域で、本論文によると、朝鮮半島も少なくとも中期新石器時代以降の人類集団は両祖先系統の交錯する地域で、三国時代の頃までは、これに縄文人関連祖先系統も加わっていたわけです。韓国の古代の個体でも、青銅器時代のTaejungni遺跡個体はほぼ完全にシベリア北東部関連祖先系統でモデル化されており、弥生時代の日本列島や青銅器時代までの西遼河地域と同様に、朝鮮半島でも少なくとも青銅器時代まで遺伝的異質性が高かったことを示唆しています。
ただ、こうした解釈には問題があります。それは、青銅器時代のTaejungni遺跡個体のゲノムデータの品質がひじょうに悪いことです[56]。これは、PCAでもADMIXTUREでも不正確な結果を招く危険性があります。同じことは、本論文で提示された宮古島の長墓遺跡個体群の解析結果にも当てはまります。長墓遺跡の2800年前頃の個体群は、ADMIXTUREほぼ完全に縄文人関連祖先系統で占められており、これは先行研究[57]と整合的です。しかし、4000年前頃の1個体(NAG016)は、PCAでは長墓遺跡の2800年前頃の個体群と明らかに離れて位置し、ADMIXTUREでは4割近くがシベリア北東部関連祖先系統で占められています。これは、宮古島の人口史における重要な手がかりとなるのかもしれませんが、先行研究(Jeong et al., 2023)で指摘されているように、NAG016の汚染が重度だったことと、その網羅率が低いことから、正確な遺伝的関係を反映していない、と考えるべきかもしれません。本論文で提示された日本列島と朝鮮半島の古代人のゲノムで高品質なのは北海道の北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃となる1個体(F23)だけでしょうから、日本列島や朝鮮半島やその周辺地域の高品質な古代人のゲノムデータを蓄積することで、これらの地域のより高精度な人口史を再構築できるようになるでしょう。
ゲノムデータの品質の問題とともに、本論文の見解の一般層の受容においてもう一つ問題になるのは、古代人個体A(によって表される集団)と古代人個体B(によって表される集団)の遺伝的混合で現代人集団Cのゲノムがモデル化できるとしても、現代人集団Cの直接的な祖先が古代人個体Aによって表される集団と古代人個体Bによって表される集団と証明されたわけではない、ということです。本論文では、現代韓国人もしくは中期新石器時代の韓国_安島と遺伝的により近い人類集団が、弥生時代以降に日本列島に継続的(あるいは何度かの大きな移民の波があったのかもしれませんが)に到来した移民の祖先だった可能性を示唆します。ただ、これは現時点でゲノムが解析されているごく少数の古代人との比較からの推測です。朝鮮半島やその周辺地域においてゲノム解析された古代人の数はまだ限定的であることを考えると、弥生時代以降に日本列島に到来した現代日本人の主要な祖先集団はまだゲノム解析されていない可能性が高そうですし、そうした集団が中期新石器時代の時点ですでに朝鮮半島、さらには朝鮮半島南岸にまで達していたかはまだ不明で、当時は朝鮮半島以外の西遼河地域やその周辺地域に存在した可能性もじゅうぶんに考えられるでしょう。たとえば、そうした集団が西遼河地域やその周辺地域に存在し、現代韓国人の主要な祖先集団もその近くに存在して遺伝的に近縁だったならば、現代韓国人集団と縄文人集団で現代日本人集団をモデル化できることになりそうです。現代韓国人集団の主要な祖先集団が中期新石器時代からずっと朝鮮半島に存在したとは限らず、朝鮮半島でも新石器時代から三国時代にかけて、人類集団の遺伝的構成が大きく変容した可能性も、私は想定しています。
本論文は、現代本土日本人集団の遺伝的形成について、先行研究[25]の三重構造説に否定的な結果を提示し、上述のようにこの見解自体はおおむね妥当と思われます。ただ、これで二重構造説が復権したとは断定できず、日本列島やユーラシア東部大陸部の古代人の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、さらに細かい遺伝的区分が可能となり、三重構造説よりずっと複雑な日本列島の人口史が浮き彫りになるかもしれません。ただ、今後の現代本土日本人集団の遺伝的形成に関する研究がどう展開していくのか、現時点では想像が難しいところだとしても、縄文時代の日本列島の人類集団からの現代本土日本人集への遺伝的影響が、地域差はあれども10%前後でかなり小さい、との見解が大きく変わる可能性は低そうです。現代本土日本人集団の遺伝的形成について、述べ忘れていることがかなり多そうですが、気力が続かないので今回はここまでとします。
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
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12:777
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2024/10/25 (Fri) 17:02:39
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日本人の遺伝的ルーツ新事実
2024年10月22日
https://news.nifty.com/article/item/neta/12363-3476399/
「私たち日本人はどこから来たのか?」
そんな遺伝的ルーツの謎について、新たな事実が明らかになりました。
これまでの説によると、現代日本人は在来の「縄文人」と朝鮮半島から来た「渡来人」の混血によって誕生したとされています。
しかし、この渡来人とは何者なのか? という遺伝的ルーツはよくわかっていませんでした。
そんな中、東京大学が山口県の土井ヶ浜遺跡で見つかった弥生時代の人骨を遺伝的に解析。
その結果、渡来人は弥生時代に朝鮮半島から入ってきた「東アジア系」と「北東シベリア系」の遺伝子を合わせ持つ集団であることが判明したのです。
これは遺伝的に見ると、現代の韓国人に近いようです。
研究の詳細は2024年10月15日付で科学雑誌『Journal of Human Genetics』に掲載されました。
目次
渡来人はいつどこから入ってきたのか?
渡来人の遺伝的ルーツを解明!今日の「韓国人」に近い
渡来人はいつどこから入ってきたのか?
現代日本人(※)の遺伝的な形成過程にはいくつかの説があります。
(※ ここで現代日本人とまとめていますが、遺伝的にまた別の特殊なルーツを持つアイヌと沖縄の方々は除きます)
その中でも特に、著名な人類学者であった埴原和郎(はにはら・かずろう、1927〜2004)の提唱した「二重構造モデル」が研究者たちに広く受け入れられてきました。
これは「旧石器時代の後期(※)に日本列島に流入した集団の子孫である『縄文人』と、弥生時代から古墳時代(※)にかけて日本列島に入ってきた『渡来人』との混血によって現代の日本人が生まれた」という説です。
(※ 旧石器時代の後期は約1万2000年前で、弥生時代は紀元前10世紀〜紀元後3世紀頃、古墳時代は3〜7世紀頃です)
現代日本人はどのように誕生したのか? / Credit: canva
二重構造モデルは元々、古代日本人の頭骨の形態分析にもとづいて提唱されたものですが、これまでの遺伝子研究により、実際に現代日本人が縄文人と渡来人の混血集団の子孫であることが科学的に支持されています。
それらの遺伝子研究によると、現代日本人の核ゲノム(※)の成分は、
・縄文人に由来する成分(縄文系成分)
・東アジア系集団に特徴的な成分(東アジア系成分)
・北東シベリア系集団に特徴的な成分(北東シベリア系成分)
の3つに大別されることがわかっています。
(※ 核ゲノム:常染色体と性染色体の全遺伝情報のこと。ヒトの染色体は1つの細胞に46本あり、うち44本が常染色体で、2本が性染色体。
常染色体はタンパク質合成などの情報を持つ染色体で、性染色体は男女の性別の情報を持つ染色体です)
現代日本人の遺伝子を見ると、縄文人の遺伝子の割合はわずかに2割、残りの8割は東アジア系と北東シベリア系が占めています。
しかしこれら8割の成分を現代日本人がどのように獲得したのか、すなわち「渡来人がいつどこからきたのか」が具体的にわかっていなかったのです。
そこでチームは、山口県にある土井ヶ浜遺跡で見つかった弥生時代人の遺骨を調べてみました。
渡来人の遺伝的ルーツを解明!今日の「韓国人」に近い
土井ヶ浜遺跡は山口県の西端、下関市の豊北町(ほうほくちょう)にある弥生時代の遺跡です。
本調査では、この遺跡で発掘された約2300年前の弥生時代人の遺骨を対象としました。
土井ヶ浜遺跡ではこれまでに約300体の遺骨が出土しており、それらの形態を調べてみると、弥生時代人は縄文人に比べて顔が長く、平坦な顔つきをしており、平均身長が2〜3センチ高くなっていたことがわかっています。
これらは渡来人のDNAによって付け加えられた特徴のようです。
DNAを抽出した約2,300年前の弥生時代人骨 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
チームは今回、土井ヶ浜の弥生人骨からDNAを抽出し、全ゲノム配列を解析することに成功しました。
そして渡来人のルーツを明らかにするため、縄文人・古墳時代人・現代日本人、さらに東アジア系および北東シベリア系集団のゲノムデータと合わせて統計解析したところ、次のことが確認されています。
(1)土井ヶ浜の弥生時代人は、現代日本人と同様に3つのゲノム成分を有していた
(2)土井ヶ浜の弥生時代人は、解析した集団の中で古墳時代人に最も遺伝的に近く、次いで現代日本人、古代韓国人、現代韓国人の順に近縁であった
新たに判明したゲノムの割合 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
これを踏まえてチームは次に、東アジア系および北東シベリア系の両方のゲノム成分を有する「現代韓国人」を日本列島に渡来した集団と仮定し、その集団が縄文人と混血して現代日本人が生まれたというモデルを評価しました。
その結果、この単純でシンプルなモデルが見事に、土井ヶ浜の弥生時代人、古墳時代人、および現代日本人のゲノム成分をうまく説明できることが判明したのです。
これらの結果は、東アジア系と北東シベリア系のゲノム成分をあわせもつ集団が弥生時代に朝鮮半島から日本列島に流入し、縄文人と混血して誕生した集団が現代日本人の祖先となったことを強く支持しています。
つまり、渡来人は今日の韓国人に近い東アジア起源であり、彼らが弥生時代に日本に流入し、土着の縄文人と混血したことで今日の日本人が誕生したと考えられるのです。
渡来人は現代韓国人に近い東アジア起源の集団 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
本研究の成果から、渡来人の具体的なルーツが解明されたことで、現代日本人の遺伝的な形成過程に対する理解が一層深まることが期待されています。
これまでの予想通り朝鮮半島から来た渡来人と縄文人の混血が日本人のルーツという考え方が変わるわけではありませんが、渡来人の遺伝的なルーツが明らかにされることで、よりはっきりと私たち日本人に至るまでの古代の人々の流れが見えてきました。
今日の私たちはどこから来て、どのように誕生したのか、その遺伝的な道筋が完全解明される日は近いでしょう。
参考文献
弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10527/
元論文
Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago
https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w
https://news.nifty.com/article/item/neta/12363-3476399/
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13:777
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2024/11/09 (Sat) 19:29:38
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中国と韓国の主従関係を作った冊封と朝貢
2024.11.09
https://www.thutmosev.com/archives/80969231.html
西暦607年に小野妹子が隋に派遣され、日本は皇帝と対等であり臣従しないと宣言した。
一方半島は皇帝に臣従し続けた
201804080809484ce
画像引用:日本人の縄文思想と稲作のルーツ 聖徳太子の遣隋使派遣と国書の未熟さ愚考(日本語のルーツ)http://tadatakitada.blog.fc2cn.com/blog-entry-159.html
中国への服従が文化になっている悲劇
韓国の文大統領はアメリカと中国を天秤にかけて外交上の危険な火遊びをしている。
大韓民国は1948年にアメリカが建国し、アメリカが守ってきたが韓国人はそう思っていない。
韓国人の歴史観では1945年にアメリカに侵略され1948年に独立を勝ち取ったが、米軍に支配されている。
これを見て思うのは日本が韓国を清国から独立させ守ってやったのに、韓国人がそう思わなかったのと似ている。
朝鮮半島の国家は西暦700年頃から日清戦争まで大陸王朝に臣従し、その前から特に北側は大陸国家の支配下にあった。
他国の支配から本当に独立したのはたった70年前で、有史以来ほとんどの期間を中国王朝の一地方として過ごした。
半島では中国に服従して支配してもらうことが正しいことで、中国から独立したら文化を維持できない。
日本が1897年に大韓帝国を建国した時、困ったのは半島には正史が無く、中国王朝の歴史を「自国の歴史」として教えていた事でした。
独自の文字や名前もなく中国の様式をそのまま使っていたので、新たに韓国式を作る事になった。
これが悪名高い創氏改名で、李氏朝鮮には貴族を除いて苗字がなかったので、1人1人が姓名を登録する事になった。
だが良い苗字が思い浮かばないので、ほとんどの人が「金」や「李」など同じ苗字を登録した。
朝鮮では中国の文字を使用していたが、独自の文字を使用させることにし、従来からあったハングルを正式な文字とした。
朝鮮王は皇帝への配慮からハングルを禁止した
ハングルは1400年代に朝鮮独自の文字として発明されたが、使用されずに放置されてきた。
使用されなかったのは漢字以外の文字を使用する事は、皇帝への反逆であり謀反であるとの配慮からだった。
この一事を取っても朝鮮王がいかに中国皇帝を恐れ、ひれ伏していたかがうかがい知れる。
ほとんどの朝鮮人が苗字を持たなかったのも、庶民が苗字(氏)を持つのは中国と同格になり恐れ多いという考えからでした。
朝鮮という国名を決めたのも明の洪武帝で、実のところ「朝鮮」を建国したのも中国王朝だった。
西暦600年代の中国王朝は隋、唐、周と勢力が交代し、668年に唐が白村江の戦いで天智天皇軍を打ち破り初めて半島を統一した。
すると唐に助けてもらった新羅は唐を裏切って半島を乗っ取り、めでたく統一独立国家新羅を建国した。
新羅は671年に唐から独立したものの675年には再び冊封下に入ったので、わずか5年しか独立は続かなかった。
これは中国に服従しないと敵対する事になり、朝鮮だけでは強大な中国軍に対抗できず、交易もできなくなってしまう為です。
675年の新羅、918年に高麗、1392年に朝鮮が興ったがいずれも中国皇帝に服従することで侵略を免れ交易を許可してもらった。
冊封を受け入れると新羅王、高麗王、朝鮮王を皇帝が任命する事になり、王の息子を後継者に認めてもらう必要があった。
江戸時代の日本で大名の息子を将軍から認めて貰おうとするのと同じで任命権は将軍にあり、朝鮮王の任命権は中国皇帝にあった。
冊封された国の実態
中国と半島国家はずっとこんな関係であり、西暦377年新羅が秦に朝貢した記録が中国側にある。
朝貢すると皇帝の支配地と認められ、この制度が冊封に変化するのだが建国以前から皇帝の支配地だったのがうかがえる。
赤ん坊が生まれる前から親が決まっていて、成人して独立しても親は親であるように、半島国家にとって中国が親の国です。
韓国人が良く国の関係を家族や親子に例えるのはこのためで、日本の位置づけは弟か捨て子か子分らしいです。
こんな関係を1500年も続けてきたので韓国人にとって中国に従うことが安定であり、中国に逆らうことは不道徳です。
皇帝に逆らうのは人間として失格なのだ、そんなことでは王には成れないと王の息子ですら教育されてきました。
朝鮮王が皇帝から派遣された使者を受け入れるのに迎恩門という門を作り、門の下で土下座して地面に頭を打ち付けるという儀式をしていました。
王ですらこれなので家来や庶民にとって中国の役人すら天上人、まして皇帝は想像すらできない存在でした。
皇帝の使者は朝鮮王にお祝いの品などを下賜するが、朝鮮は貧しいのでお返しができず農奴を送っていました、
中国の冊封に入った琉球でも同じことをしていたが、こちらはなんと幕府や薩摩が援助物資として贈ったものを、貢物として皇帝に送っていました。
幕府は琉球に対して援助物資の横流しを辞めるよう警告しましたが、琉球王は人頭税などを取り立てては中国に送っていました。
なぜなら琉球王を任命するのは皇帝だからで、 王にとって民衆の命より息子を王に任命してもらう方が重要だったのです。
こうした事からも冊封下にあった朝鮮の実情がうかがい知れる。
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