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2022/09/27 (Tue) 06:28:18
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中国は今も昔も後進国 _ 後漢はシルクロード交易で輸出できるものが無かったので、黄金を枯渇するほど流出させてしまい衰退した
シルクロード交易がローマ帝国の富の源泉だった
当時の「中国」はアジア西部と比較して後進的で、黄金以外に西方に輸出できるのは絹くらいしかなかった。
そして後漢は、黄金を枯渇するほど流出させてしまい、衰退した。
雑記帳
2022年09月24日
井上文則『シルクロードとローマ帝国の興亡』
https://sicambre.seesaa.net/article/202209article_24.html
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%88%88%E4%BA%A1-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-1326-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E6%96%87%E5%89%87/dp/416661326X
文春新書の一冊として、文藝春秋社より2021年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、ローマ帝国の興亡はユーラシア大陸規模の出来事と関連しており、それはユーラシアの東西を結んだシルクロード交易盛衰だった、との壮大な想定に基づいており、広範な地域を対象とするだけに各地域および事象について専門家の異議はあるでしょうが、歴史学が門外漢の私にとって、全体的には面白く読み進められました。ユーラシア大陸の歴史を全体的に把握する必要は、先史時代の現生人類(Homo sapiens)に限らず、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても同様ではないか、とさえ私は考えています(関連記事)。
本書はまず、ローマ帝国のシルクロード交易の主要経路は陸ではなく海だった、と指摘します。ローマ帝国の最も重要なシルクロード交易地はインドでしたが、インドへも陸路ではなく海路が用いられ、その中間のアフリカ東部やアラビア半島南部も重要な交易地でした。ローマ帝国からのおもな輸出品は、布類やガラス器や金属(加工品)や貨幣や葡萄酒やオリーブ油でした。ローマ帝国のおもな輸入品は地域により異なり、アフリカ東部からは象牙や香料など、アラビア半島からは香料など、インドからは香料や胡椒や薬種や宝石類などで、アジア東部からの絹もインド経由で輸入されました。シルクロードの名称の由来となった絹はローマ帝国において贅沢の象徴とされ、ひじょうに高価でした。シルクロード交易はほとんどの場合、物々交換だったようです。胡椒や絹のようなシルクロードの物産がローマ帝国社会に浸透し始めたのは、初代皇帝アウグストゥスの治世でした。地中海世界の統一が交易を促進したわけです。
シルクロード交易の発展は、ローマ帝国支配層にとって懸念でもありました。早くも第2代皇帝ティベリウスの治世には、金の流失が憂慮され、男性による絹の衣服の着用が禁止されました。ただ、これはローマ人の保守的立場からの道徳的批判であり、シルクロード交易がローマ帝国にとって害悪であるかのように語る当時の支配者も含めて知識層の評価を額面通りに受け取ってはならない、と本書は注意を喚起します。それは、ローマ帝国は外国との交易で25%の関税をかけていたので、交易が進展するほど関税収入が増えたからです。本書は、シルクロード交易による関税収入は、ローマ帝国の国家予算の3~4割に相当する額だったので、ローマ帝国は可能な限り交易振興の環境整備を行なっていた、と推測しています。一方で本書は、ローマ帝国において商人にはシルクロード交易への積極性が欠けていた、と推測しています。ローマ帝国において商人の社会的地位は概して低く、商業で富を得た人間は土地に投資し、地主になることを望んだ、というわけです。
考古学資料から、シルクロード交易の最盛期は1世紀後半で、五賢帝時代が始まる1世紀末には早くも衰退し始めた、と推測されています。アフリカ東部やアラビア半島南部やインド南部の遺跡では、地中海産の遺物が多く出土するのは1世紀後半までで、それ以降は減少し、アフリカ東部やアラビア半島南部では、代わってペルシア産やエチオピア産の遺物が出土するようになります。しかし本書は、当時の文献などから、考古学資料の示すシルクロード交易の衰退はあくまでも一部地域の状況にすぎず、少なくとも2世紀半ばまではそれなりの規模で継続していた、と推測します。ただ、シルクロード交易繁栄の基盤となっていたユーラシアの4大国(ローマとパルティアとクシャーナ朝と後漢)の安定が2世紀後半以降に動揺し、3世紀前半には、後漢とパルティアは滅亡して、クシャーナ朝は著しく衰退し、ローマ帝国は2世紀後半以降の疫病や戦争などで激しい動乱状況に陥ります(軍人皇帝時代)。
ローマ帝国のシルクロード交易に打撃を与える契機となったのは疫病や政治的混乱や戦争でしたが、致命的になったのは、アクスム王国の台頭とサーサーン王朝の海上進出でした。ただ本書はその背景として、ローマ帝国の商人が自発的にシルクロード交易から撤退していった側面もあったのではないか、と推測します。シルクロード交易では巨利を得ることが可能でしたが、その分、交易路の治安悪化や凶作や過剰供給や需要減衰など危険性も高く、ユーラシアの大国の動揺により危険性が高まれば、ローマ帝国の商人はシルクロード交易から自発的に撤退したのではないか、というわけです。その前提となるのが、上述のようにローマ帝国において商人の地位は概して低いことでした。ローマ帝国の外国関税の率は、そうした危険性による商人の利益率低下のため半分に引き下げられ、軍人皇帝時代の後に一定の秩序が回復した後で、シルクロード交易の量そのものはかなり回復したと考えられるものの、税率が半分になっていたので、シルクロード交易からのローマ帝国の関税収入は以前には及びませんでした。
ローマ帝国において、関税収入は減少し、鉱山からの収入も五賢帝末より急激に減少する財政難の中で、軍事費は2世紀末以降に著しく増加し、4世紀には官僚の数も増加して、国家財政は圧迫されます。そうした中で4世紀後半にはいわゆる民族大移動が始まり、すでに東西の分割統治が確立していたローマ帝国では、相対的に経済力の劣る西方が軍事的負担に耐えられず衰退し、476年には滅亡します(ただ、同時代人は、476年の西ローマ帝国皇帝ロムルスの廃位は、劇的な「滅亡」事件として把握されていなかっただろう、とも指摘されています)。本書は、ローマ帝国にとって富の源泉であったシルクロード交易の衰退により、富裕者層にはローマ帝国を支えていた自発的施与行為の余裕がなくなって、西ローマ帝国は滅亡した、と指摘します。一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は経路が変わりつつもシルクロード交易を維持して長く存続しました。本書は、ローマ帝国西方が滅んだというよりも、シルクロード経済圏から切り離されたユーラシア大陸西端が壊死したとも把握できる、と指摘しています。
また本書は、同じようにシルクロード交易に関与しながら、ユーラシア東方の後漢はユーラシア西方のローマ帝国とは異なり、黄金を枯渇するほど流出させてしまい、社会の衰退を招いた、と指摘します。これは、当時の後漢には、黄金以外に西方に輸出できるのは絹くらいしかなかったから、という事情もあったようです。後漢というか当時の「中国」もしくはアジア東部は、アジア西部と比較して「後進的」と評価できるかもしれません。ローマ帝国と後漢では、シルクロード交易の意味が違っていた、と本書は指摘します。しかし10世紀になると、「中国」は工業製品を輸出するようになっており、その世界に占める地位は1~3世紀とは大きく変わっていたようです。
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2022/09/27 (Tue) 08:18:46
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コーカソイドが作った黄河文明は長所は一つも無いが戦争だけは強かった
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14013836
コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
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対外戦争で勝った事が一度も無い中国とロシアはこういう手口で領土を乗っ取る
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2022/09/27 (Tue) 08:20:03
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【河添恵子】酷すぎる...中国人の民度とモラルの低さには驚きました
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宮脇淳子 皇帝たちの中国史・日韓近現代史 - YouTube 動画
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