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連続テレビ小説『マッサン』(NHK大阪放送局 2014年9月29日- 2015年3月28日)

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連続テレビ小説『マッサン』(NHK大阪放送局 2014年9月29日- 2015年3月28日)

脚本 - 羽原大介
音楽 - 富貴晴美
主題歌 - 中島みゆき「麦の唄」
語り - 松岡洋子
撮影 - 西鍵真治


Massan - マッサン - English Subtitles - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x7z80q1
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放送日程
週 回 放送日 サブタイトル 演出
1 1-6 2014年9月29日 - 10月4日 鬼の目にも涙 野田雄介
2 7-12 10月7日[注 30] - 10月11日 災い転じて福となす
3 13-18 10月13日 - 10月18日 住めば都 梶原登城
4 19-24 10月20日 - 10月25日 破れ鍋に綴じ蓋 野田雄介
5 25-30 10月27日 - 11月1日 内助の功 梶原登城
6 31-36 11月3日 - 11月8日 情けは人のためならず 佐々木善春
7 37-42 11月10日 - 11月15日 触らぬ神に祟りなし
8 43-48 11月17日 - 11月22日 絵に描いた餅 野田雄介
9 49-54 11月24日 - 11月29日 虎穴に入らずんば虎子を得ず 梶原登城
10 55-60 12月1日 - 12月6日 灯台下暗し 渡辺哲也
11 61-66 12月8日 - 12月13日 子に過ぎたる宝なし 野田雄介
12 67-72 12月15日 - 12月20日 冬来たりなば春遠からじ 佐々木善春
13 73-78 12月22日 - 12月27日 急いては事をし損じる 渡辺哲也
14 79-84 2015年1月5日 - 1月10日 渡る世間に鬼はない 梶原登城
15 85-90 1月12日 - 1月17日 会うは別れの始め 野田雄介
16 91-96 1月19日 - 1月24日 人間到る処青山有り 梶原登城
17 97-102 1月26日 - 1月31日 負うた子に教えられる 渡辺哲也
18 103-108 2月2日 - 2月7日 遠くて近きは男女の仲 梶原登城
19 109-114 2月9日 - 2月14日 万事休す 野田雄介
20 115-120 2月16日 - 2月21日 夏は日向を行け 冬は日陰を行け 尾崎裕和
21 121-126 2月23日 - 2月28日 物言えば唇寒し秋の風 野田雄介
22 127-132 3月2日 - 3月7日 親思う心にまさる親心 梶原登城
23 133-138 3月9日 - 3月14日 待てば海路の日和あり 中野亮平
24 139-144 3月16日 - 3月21日 一念岩をも通す 梶原登城 関友太郎
25 145-150 3月23日 - 3月28日 人生は冒険旅行 野田雄介


▲△▽▼


ジャパニーズ・ウイスキーの歴史

ウイスキーの到来
日本に初めてウイスキーがもたらされたのは、江戸時代末期のマシュー・ペリーの来航の時と考えられている。1853年7月、浦賀の奉行や通訳がサスケハナ号で歓待された時、ウイスキーが振る舞われた。将軍徳川家定の元にウイスキーが献上された記録も残るが、実際に飲まれたかどうかは不明である。日米修好通商条約締結後、1859年より条約港の開港が行われると日本国内に外国人居留地が誕生し、外国人居留者のためにベーカー商会、タサム商会などがウイスキーの輸入を行った。1860年に開業した日本初の西洋式ホテル・横浜ホテル内のバーではウイスキーも出されていたという。1871年に横浜山下町のカルノー商会が輸入した「猫印ウヰスキー」 が、最初に日本人用として輸入されたウイスキーだとされている。

明治期の日本では本格的なウイスキーは製造されておらず、薬種問屋で製造されていた調合ウイスキー(模造ウイスキー)が国産品として出回っていた。調合ウイスキーとは、関税率が低いために廉価で入手できる外国製の酒精アルコール[注 3] を使用し、これに砂糖香辛料を加えたものである。明治時代当時は酒類も薬とみなされており、小西儀助商店(現在のコニシ)、橋本清三郎、神谷傳兵衛などの大手薬種問屋をはじめとする、数々の業者が生産を手掛けていた。明治政府は日本酒の製造者を保護するため、混成酒税法(1896年施行)、酒精及酒精含有飲料税法(1901年施行)によって調合ウイスキーの流通を抑制しようと試みた。1911年に締結された日米通商航海条約で日本が関税自主権を回復すると外国製の酒精アルコールに高い税率がかけられ、代わって国産の酒精アルコールが台頭する。

明治末から大正時代にかけて、日本でも本格的なウイスキーを造ろうといくつかの酒造会社が行動を起こした。酒精アルコールのメーカーである摂津酒造の社長・阿部喜兵衛、常務・岩井喜一郎は技師の竹鶴政孝をウイスキーの産地であるスコットランドに派遣し、摂津酒造の得意先の一つであった寿屋洋酒店(のちのサントリー酒類)の創業者鳥井信治郎はウイスキー製造のための蒸留所建設を考えていた。

鳥井信治郎と竹鶴政孝

鳥井信治郎と竹鶴政孝はジャパニーズ・ウイスキーの歴史に触れるうえで欠かせない人物である。

鳥井信治郎
鳥井信治郎は小西儀助商店での丁稚奉公を経た後、1899年に独立して鳥井商店を設立した。最初は調合ウイスキーの販売とともに、洋酒の輸入販売を行ない、スペインから輸入したワインを瓶詰にして売り出していた。しかし、ワインは当時の日本人の口には合わず、評価は芳しくなかった。1906年に社名を寿屋洋酒店に変更し、翌年にポルトガルワイン(ポートワイン)をもとに独自開発した「赤玉ポートワイン(現在の赤玉スイートワイン)」を販売して成功する[33]。ところが鳥井は赤玉ポートワインでの成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であった。

鳥井は模造ウイスキーである「ヘルメスウイスキー」「トリスウイスキー」を発売するが、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画する。しかし、ウイスキーの生産はスコットランドやアイルランド以外の地では不可能だという意見、蒸留所建設のために莫大な資金を投入するリスクを理由として、社員、スポンサー、学者たちからは反対の声が多く上がる。

竹鶴政孝
竹鶴政孝が摂津酒造に入社したのは1916年のことである[32]。1918年にスコットランドに渡り、グラスゴー大学で学びながら、いくつかのウイスキー蒸留所で見学、実習に参加した。最終的に竹鶴はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所に2~3か月滞在し、ここで実習を経験する。竹鶴はヘーゼルバーンで学んだ同地のウイスキーの性質、製造工程、蒸留所の経営システムなどを帰国した1920年に、2冊の大学ノートにまとめ、上司であった岩井に“実習報告書(=竹鶴ノート)”として提出した。

しかし、第一次世界大戦の終戦に伴う景気の停滞、アメリカでの禁酒法実施による飲酒意識の減退、株主からの反対のため、多額の資金が必要とされる蒸留所の建設は困難になる。なおも竹鶴は本格的なウイスキーを造る夢を捨てきれず、1922年に摂津酒造を退職した。

山崎蒸留所の建設
大正に入って鳥井は蒸留所建設のため、スコットランドから技師を招聘しようとする[33]。三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴が帰国していたことを知る。鳥井と竹鶴は旧知の仲であり、竹鶴が摂津酒造を退職していたことを知った鳥井は、1923年に4,000円の年俸、10年の契約期間を条件として竹鶴を寿屋に招聘した。

当初、蒸留所の位置については鳥井と竹鶴の間に食い違いがあり、鳥井は消費地である都市圏に近い場所を、竹鶴は北の大地に建設することを考えていた。調査と議論の末、大阪府島本村の山崎の地に日本初のウイスキー蒸留所の建設を決定した。山崎はかつて千利休が茶室を設けた場所であり、水質の良さと3つの川(宇治川、木津川、桂川)が合流するために霧が立ち込める立地がウイスキー造りに適していたのである。1924年に山崎蒸溜所が完成、その年の冬から蒸留が開始される。

国産の大麦、イギリスから取り寄せたピートを使用して、1929年に日本初の国産ウイスキー「白札」(現在のサントリーホワイト)が売り出される。価格は1本あたり4円50銭と、ジョニー・ウォーカー黒ラベルやデュワーズといった輸入品のウイスキーと比べても遜色が無かった。しかし、「白札」に含まれていたスモーキーフレーバーは、ウイスキーに馴染みのなかった当時の日本人からの評価は「煙臭い」と芳しいものではなかった。

鳥井はさらにウイスキーの改良に取り組み、1937年に改良の成果である「角瓶」(サントリー角瓶)が発売され、消費者から好評を得た。1940年に「サントリーウイスキー黒丸」(現在のサントリーオールド)が誕生するが、太平洋戦争直前という情勢のため、市場に出荷されるのは第二次世界大戦終戦後の1950年となる。

寿屋は戦禍によって大阪工場を失うが、山崎蒸留所の原酒は被害を免れた。

東京醸造の参入
1924年に枢密顧問官の武井守正男爵、実業家中村豊雄によって設立された東京醸造株式会社は神奈川県藤沢市の工場でイミテーションウイスキーなどの洋酒を製造しており、ポットスチルを導入してモルト原酒の蒸留を開始し、1937年に本格ウイスキー「トミー・モルトウィスキー」を発売した。1940年にはサントリー、ニッカとともに1級ウイスキーの指定銘柄品として商工省および大蔵省から公示された。

なお、戦後も姉妹品の「マルトンウィスキー」などを発売したが、1953年の級種別変更以降の第一次洋酒ブームで同業他社との競争に敗れ、1955年に倒産した。工場は最初、壽屋(現・サントリーホールディングス)が買収し、のち森永醸造株式会社(現・福徳長酒類株式会社)に渡ったが、1960年代後半に閉鎖された。

大日本果汁の設立
1934年、竹鶴は寿屋を退職して大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)を設立する。このとき竹鶴は立地、地価、安価な労働力を期待できる北海道余市町に余市蒸溜所を建設した。

1936年から余市でのウイスキー蒸留が始まり、1940年に「ニッカウヰスキー」と名付けられたウイスキーが発売される。第二次世界大戦時には余市蒸溜所で日本軍の兵士に配給される酒類が醸造され、蒸留所は配給品の買い上げによって利益を得た。戦後の余市蒸溜所では、軍事用に供給された物資が使われた。

戦後のウイスキー市場

ハイボール
戦後間もない頃は日本人が国産のウイスキーを口にする機会は少なく、連合国軍占領下の日本においては、もっぱらアメリカ軍と軍関係者のために供されていた。鳥井は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に自社製品のウイスキーを売り込み、将校たちから好評を受けた[53]。日本の戦後復興に伴い、ジャパニーズ・ウイスキーの品質と国内需要は上昇する。1946年、寿屋は戦災を逃れた原酒を使用した「トリスウイスキー」を、1950年には戦前に製造した「オールド」を発売する。

昭和30年代に東京や大阪を中心としてトリスバーが続々と開店し、カクテルやハイボールが人気を博した[48]。1952年に大日本果汁は「ニッカウヰスキー」に、1963年に寿屋はサントリーに社名を変更した。1955年に大黒葡萄酒(後にメルシャンが買収)が軽井沢(長野県)に蒸留所を建設した。1960年に本坊酒造は、岩井を招き「竹鶴ノート」をもとに山梨県で本格的なウイスキー生産(現・マルスウイスキー)を始めるが売上は芳しくなく、9年後に一時撤退した。

また1950年代までの日本ではモルトウイスキーのみが生産されている状態だったが、1962年にニッカウヰスキーと関連の深い朝日酒造(アサヒビール子会社)がカフェ式連続蒸留機を導入し本格的にグレーンウイスキーの生産を開始。1969年には三楽酒造(現・メルシャン)も川崎工場にてグレーンウイスキーの生産を開始したほか、1973年にはサントリーも関連会社のサングレイン(現・サントリー知多蒸溜所)でグレーンウイスキーを生産するようになり、スコッチ・ウイスキー同様にモルトとグレーンという2種類のウイスキーをブレンドした本格的ブレンデッド・ウイスキーを生産する体制が整った。

高度経済成長期に日本国内でのウイスキーの消費量は増加し、1980年にサントリーオールドは年間出荷量12,000,000ケース突破という世界記録を樹立した。しかし、1980年初頭を境に日本のウイスキー市場は停滞する。1980年代からの停滞期に、日本の酒造メーカーは様々な試みに取り組み、こうした中で、日本各地の酒造メーカーが生産する地ウイスキーが人気を博した。また、酒税の変更によってウイスキーの価格が下がり、消費者が手に取りやすくなる。

1980年代から2000年代にかけて年ごとにウイスキーの消費量は下降したが、2009年にウイスキーの消費量が回復に向かう。1980年代後半にシングルモルト・ウイスキーが世界的に流行し、遅れて1990年代後半から日本の愛好家の間でもシングルモルト人気が起こる。

2010年代中頃から海外でのブームと国内6でのハイボールの人気が重なり、大手でも原酒が不足するようになっている。2018年にサントリーは「響17年」と「白州12年」の販売を休止することになった。販売の再開時期は未定。


日本国外におけるジャパニーズ・ウイスキー

評価
日本におけるウイスキーの定義が非常に緩いこともあって、かつては多くの品質の悪い国産ウイスキーが出回っていた。そのため、世界の愛好家と評論家はジャパニーズ・ウイスキーに厳しい評価を下し、「ウイスキーではない」とまで言われた時代もあった。

その後、ウイスキーマガジンによって開催されるブラインド・テイスティングでジャパニーズ・ウイスキーが高評価を受けるようになる。一度ならずそのテイスティングの結果で、ジャパニーズのシングルモルト(特に余市と山崎)はスコッチのシングルモルトよりも高い評価を受けている。

主な例を挙げると、2001年にニッカウヰスキーの「シングルカスク余市 10年」がウイスキーマガジンのワールドウイスキーアワードで最高得点(ベスト・オブザ・ベスト)の評価を受け、インターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティション(IWSC)でメルシャンの「軽井沢ピュアモルト12年」が金賞を受賞した。2006年にはベンチャーウイスキーが蒸溜した地ウイスキー「キング オブ ダイヤモンズ」が最高得点(ゴールドアワード)に選ばれる。2015年には、「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013」が、英ウイスキーガイドブック「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(Whisky Bible)」で世界最高のウイスキーに選ばれた。2017年にはサントリーの「響21年」がインターナショナル・スピリッツ・チャレンジ(ISC)」でワールドウイスキー部門で最高賞となる「トロフィー」を受賞し、さらにエントリーされた全部門1480点の頂点である「シュプリーム チャンピオン スピリット」を受賞した。2018年にはワールドウイスキーアワードで「白州25年」がワールドベストシングルモルト、「竹鶴17年」がワールドベストブレンデッドモルト、「イチローズ Malt&Grain Limited Edition~Japanese Blended Whisky~」がワールドベストブレンデッドウイスキー限定版部門で世界最高賞を受賞した。

このため、海外におけるジャパニーズ・ウィスキーの価格は、特に入手困難な銘柄において高騰している。オークションで100万ドル近くで競り落とされた例もある。


輸出
国外で数々の賞を受賞するなど評価が高まったことで2010年代から輸出が急増している。ジャパニーズ・ウイスキーの2010年の輸出額は17億円であったが、5年後の2015年には104億円と6.1倍に増加しており、初めてビールの輸出額(86億円)を抜いて日本酒(140億円)に次ぐ酒類における有力輸出品目となった。2020年には271億円を輸出し、20年ぶりに日本酒の輸出額を上回った。

2021年のウイスキー輸出額は前年比70.2%増の462億円で酒類輸出総額1,147億円の40.3%を占め、402億円の日本酒を上回り酒類における最高額の輸出品目であった。ウイスキー輸出先上位5か国(地域)は中国170億円、アメリカ104億円、フランス46億円、オランダ30億円、香港18億円であった。

このようにジャパニーズ・ウイスキーの輸出は好調に推移しているが、スコットランドのスコッチ輸出額は6,500億円(2017年)、フランスのワイン輸出額は1兆181億円(2016年) と、ジャパニーズ・ウイスキー輸出額の14倍から26倍であり、世界の高名な酒類輸出品目に比べると未だ微々たる輸出額である。


蒸溜所
ジャパニーズ・ウイスキーの製造はスコッチ・ウイスキーの製造方式を再現するというところから始められた。竹鶴などのジャパニーズ・ウイスキーの先駆者たちはスコッチ・ウイスキーの製造過程を学び、その製法を日本で再現しようと多くの苦労を重ねた。日本初の蒸留所が造られた山崎は経済的な制約があり、より便利な場所に建設することが重視されたが、余市は特にその地形や気候がスコットランドに似ているため、蒸留所の設置場所として選定された。北海道厚岸町に蒸留所を建てた堅展実業もスコットランドのアイラ島に似た風土から立地を決めたが、スコットランドよりは年間の寒暖差は大きく、熟成樽の隙間から蒸散して原酒が減る「天使の分け前」がスコットランドの2倍近いものの、熟成は速いという。

日本にある蒸留所のうち、主なものを以下、会社別に挙げる。

サントリー
山崎蒸溜所(大阪府三島郡島本町)
白州蒸溜所(山梨県北杜市白州町)
知多蒸溜所(愛知県知多市)- グレーンウイスキー専業。サントリー知多蒸溜所株式会社

ニッカウヰスキー - アサヒグループ
余市蒸溜所(北海道余市郡余市町)
宮城峡蒸溜所(宮城県仙台市)



主要な銘柄

現行品のみ表示。原料として海外産の原酒を用いた製品(ワールドブレンデッドウイスキー)は除く。

サントリースピリッツ

トリス エクストラ
響 - ブレンデッドウイスキー。現在は業務用ルート専売商品
山崎 - シングルモルトウイスキー
白州 - シングルモルトウイスキー
知多 - グレーンウイスキー
サントリーローヤル - ブレンデッドウイスキー
サントリーリザーブ - ブレンデッドウイスキー
サントリーオールド - ブレンデッドウイスキー
サントリー角瓶シリーズ - ブレンデッドウイスキー
サントリーホワイト - ブレンデッドウイスキー
サントリーレッド - ブレンデッドウイスキー
トリスシリーズ - ブレンデッドウイスキー
セブンプレミアム サントリーウイスキー プライム - ブレンデッドウイスキー。セブン&アイグループ専売商品


ニッカウヰスキー

ブラックニッカ
ニッカカフェグレーン - グレーンウイスキー
ニッカカフェモルト - モルトウイスキー
余市 - シングルモルトウイスキー
宮城峡 - シングルモルトウイスキー
竹鶴 - ブレンデッドモルトウイスキー
ニッカ セッション - ブレンデッドモルトウイスキー
鶴 - ブレンデッドウイスキー。現在は余市蒸溜所、および宮城峡蒸溜所限定商品
ザ・ニッカ - ブレンデッドウイスキー
ニッカ 伊達 - ブレンデッドウイスキー。宮城県限定商品
スーパーニッカ - ブレンデッドウイスキー
フロム・ザ・バレル - ブレンデッドウイスキー
ブラックニッカシリーズ - ブレンデッドウイスキー
ハイニッカ - ブレンデッドウイスキー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
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2022/09/12 (Mon) 04:25:10

『マッサン』は、NHK大阪放送局制作で2014年9月29日から2015年3月28日まで放送された連続テレビ小説第91シリーズの日本のテレビドラマ。ヒロインには、シャーロット・ケイト・フォックスが外国人として初めて起用された。

企画・制作
連続テレビ小説において、男性の俳優が主演をつとめる作品は、1995年度下半期の『走らんか!』の三国一夫以来19年ぶりで、2023年度上半期放送予定の『らんまん』までで、大阪制作としては最後の作品になっている。

大正時代、ウイスキー(いわゆるジャパニーズ・ウイスキー)づくりに情熱を燃やす造り酒屋の跡取り息子が、単身スコットランドへ渡る。そこで出会ったスコットランド人の女性と息子が半ば駆け落ちの状態で国際結婚するところから物語が始まる。ヒロインは日本とスコットランドの違いに戸惑いつつも、異なる文化を学びながら成長していく。本作のモデルとなる人物は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝とその妻リタ(ジェシー・ロベルタ・カウン[3])で、タイトルの「マッサン」はリタが政孝のことをこう呼んだことにちなんでいる。

脚本は羽原大介が担当。本作では実在した竹鶴夫妻をモデルとしているが、「ある日本人技術者とイギリス人の妻の夫婦愛を軸とした人情喜劇」という位置づけをなして、登場する人物や団体などを改名し、事実に基づいたフィクションとして構成する形をとる[5]。舞台地は大阪府の住吉・山崎(島本町)、北海道の余市、広島県の竹原、スコットランドのグラスゴーである。


出演者の選定
本作のヒロインの選定にあたってはオーディションを行うが、それに際し、櫻井賢(製作統括プロデューサー)は、「ヒロインの年齢は25 - 40歳」とする事実上の設定年齢制限を定めると同時に、「原則として白人の女性を基本とし、欧米文化で育った人を求めるが、ハーフ・クォーターを含め国籍や女優キャリアの有無は問わない」としている。また物語にスコットランドの民謡がキーワードになることから「歌に自信のある人」も条件として求めている。ただし、対象は既に芸能事務所などに所属するプロ、あるいはプロを目指す者であり、一般からの受付はせず、一般からも募集するとする誤解をNHK大阪のイメージキャラクターによるTwitterで否定している。

ヒロインのオーディションは国内外で行われ、国内から232人、海外から289人の応募があった。

2014年3月4日に主人公の亀山政春役を玉山鉄二が、ヒロインの亀山エリー役をシャーロット・ケイト・フォックスがそれぞれ演じることが発表された。プロデューサーの櫻井は、主人公の玉山については映画『綱引いちゃった!』での演技を見て「こんな愛きょうのある演技ができるんだなって。それがマッサンのイメージにつながったんですね」と感じたことに加え、西日本がドラマの主な舞台となることから、玉山が京都出身であることがプラスに働いたとしている。また、ヒロインのシャーロットについては、当初は「日本語でのコミュニケーション力を重視していた」ものの、シャーロットを見て「芝居の力とコメディセンスに圧倒的な魅力がありました」といい、日本語が話せないことを承知で「シャーロットなら冒険してもいい」と起用を決めた。


ロケ地など
スコットランドが舞台のシーンについては、北海道河東郡音更町にある家畜改良センター十勝牧場内のシラカバ並木や同郡鹿追町の然別湖畔、後に主人公が立ち上げるウイスキー醸造所においてのシーンが、竹鶴政孝が実際に立ち上げた工場でもある北海道余市郡余市町の余市蒸溜所など、道内各地でロケが行われている。なお、スコットランドも“撮影協力”としてクレジットされてはいるものの、俳優を伴ってのスコットランドでの撮影は、予算の関係で実現できなかった。


あらすじ

大阪編(第1週 - 第8週)

1971年(昭和46年)5月、北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と亡き妻エリーの遺影を眺め、彼女と過ごした日々を回想していた。

スコットランドでウイスキーの醸造技術を学ぶ政春は、現地の女性エリーと出会い、1920年(大正9年)に結婚。日本産のウイスキーを造る夢を叶えるため、周囲の反対を押し切り彼女を連れて帰国する。訪れた広島の政春の実家では、外国人との結婚を母は猛反対するが、政春の良き理解者であった父は家業の造り酒屋「亀山酒造」を継がせたい本心を抑え、政春の進路を応援する(第1週)。

政春とエリーは、政春の元の職場である「住吉酒造」でウイスキー作りを始めようと大阪で新婚生活を始める。政春と結婚する心算だった社長・田中大作の娘・優子は、政春とエリーに嫌がらせをするが、エリーに炊飯を教えたことを機に友情が芽生える。また、エリーに警戒していた近所の住民も、町の世話役・キャサリンの仲介で打ち解けるようになる。取引会社の社長・鴨居欣次郎は、政春が抱くウイスキー製造構想に興味を持つとともに政春とエリーを気に入り、何かと世話を焼いたりエリーの相談に乗るようになる(第2- 3週)。

ある日、取引商品の名誉回復のために政春は鴨居商店に出向する。当初政春は鴨居の経営方法に違和感を感じるが、人を大事にする鴨居の信条に気付き心を打たれる。そんな鴨居から共にウイスキーを作ろうと入社の誘いを受けた政春は、悩んだ末に大作からの恩を裏切れずに辞退する(第4週)。

しかし、住吉酒造の株主総会において経営不振の現状が懸念され、新事業のウイスキー製造着手は不承認となる。さらに政春は、優子の婚約者の父に危険人物とみなされ、退職に追い込まれる(第5週)。

住吉酒造を後にした政春は、新たな職に就いても長続きせず、見かねたエリーが仕事を始めようとすると彼女を心配して反対し、夫婦は次第に困窮していくが、近所の人々の人情に支えられ、日々を食いつないでいく。また政春とエリーも、高熱を出した近所の子供を看病したり、家主・野々村家の家庭内不和を解決するなど、近所の人々の手助けをする。

その頃、鴨居は、不景気な世情ながらも活発な宣伝戦略で利益を上げる傍ら、初の国産ウイスキーを作ろうと試飲やスコットランドの要人との折衝を始めていた(第6 - 7週)。

父の危篤という嘘の知らせを受け、政春とエリーは広島に帰省する。実家で過ごすなか、政春は将来生まれるエリーとの子供のためにも、このまま一家で残ろうと考えるが、父にたしなめられる。ウイスキーを作りたい思いは強く、さらに一家で苦難を乗り越えるエリーの覚悟を聞き、再び大阪に戻る(第8週)。


大阪編(第9週 - 第15週)

政春は鴨居に入社を願い出ようとするが、互いに売り出したいウイスキーの価値観が相違し、交渉は決裂する。後日鴨居は、政春が本場でも認められる程の技術者と知り、さらに少年時代に抱いた洋酒を作り販売する夢を思い返し、政春に入社を誘い出る。鴨居のウイスキー作りに対する情熱を知った政春は、入社を決め、鴨居とエリーと3人で手を取り合う(第9週)。

ウイスキー醸造工場建設に向けて、軽い乗りで物事を決定する鴨居に政春は不快感を持つが、建設予定地の山崎を視察して環境がウイスキー作りに適していると分かり、鴨居の先見の明あっての建設地決定や設計変更と知り、目から鱗が落ちる。工場の技師長として亀山酒造の職人・俊夫を呼び寄せ、やがて山崎工場が完成した日にエリーに待望の子供が授かったことが判明する(第10週)。

政春とエリーは、鴨居に頼まれ、彼の大学生の長男・英一郎を預かる。母の死と父との軋轢から心を閉ざし憎まれ口を発する英一郎であったが、亀山夫妻と近所の人々の温かさに感涙し、心を開いていく。そんななか、エリーは階段で足を滑らせ転倒し流産。医師から政春は、エリーの元々の体質上、夫妻に子供は望めないと宣告される(第11週)。

意を決した政春から不妊の事実を聞いたエリーは大きなショックを受けるが、政春と話し合い、エリーの命を守り他界した子供の分も夫婦で生きることを決める。一方鴨居は、妻が生前、鴨居の夢を応援していたことや、彼女に応えるべく仕事に打ち込み、今も亡き妻と夢を追い続けていることを英一郎に打ち明け、父子は和解を果たす。山崎工場のお披露目会後、政春とエリーは養女を迎え「エマ」と名付ける(第12週)。

山崎工場稼働から4年後、不況は鴨居商店にも影響を与え、鴨居は経営難対策の一環としてウイスキー発売の前倒しを決める。政春は鴨居に説得され熟成途中のウイスキーをブレンドし、日本初となる国産ウイスキーの発売を果たすが、商品は不評で売れず、鴨居から日本人好みの味への改良を命令される。本場の味と製法にこだわる政春は鴨居と対立、政春に味方し鴨居のやり方に憤る工員らが抗議騒動を起こす。結果、騒動を先導した俊夫は自主退職し、政春は鴨居に営業への異動を示唆される(第13週)。

北海道へ営業に赴いた政春は、余市のニシン漁師・森野熊虎の自宅に招かれ、余市がウイスキー作りに適した環境と知る。その頃エリーは、政春の母の危篤を知らせる電報を受け取るが、政春と連絡が付かず、エマと2人で竹原に向かう。政春の母はエリーに相変わらず悪態をつきながらも、献身的に自分の看護をするエリーと本音で語り合える様になる。臨終を迎えた母はエリーの花嫁衣装姿を見たいと所望、エリーを日本一の嫁と認め、駆けつけた政春の腕の中で息を引き取る(第14週)。

ウイスキー販売の難しい現状を実感した政春は、本格ウイスキーを作りたい情熱を押し殺し、材料や製法を大幅に変え、日本人向けの味を追求する。しかし、出来上がった改良品も売れず心が折れた政春は、エリーの説得を受け、自分が作りたいウイスキーを作るために北海道に行く決意をし、鴨居に退職を願い出る。鴨居は政春が経営者として向かないと否定的な見解をするが強い意志を認め、退職金代わりに開業資金の一部を出資する(第15週)。



北海道編(第16週 - 第23週)

北海道の余市に到着し、政春とエリーは熊虎を訪ねる。ニシンが不漁となり多額の借金を抱え困窮する熊虎であったが、政春の「北海道果汁」開業に共感し、子供達に故郷を遺すために、政春に工場建設地として自宅の敷地を譲り渡す(第16週)。

ウイスキー製造資金を集めるために、地元のリンゴ100%のジュースの製造・販売を始めた政春であるが、2年経っても売れ行きは芳しくなく、出資者らから叱責される。同じ頃、小学3年となったエマは、エリーに似ていないことなどを同級生にからかわれて喧嘩沙汰となる。将来はエリーの様な容姿になると信じるエマに対して、政春とエリーは意を決して養女であることを打ち明ける。ショックで高熱を出したエマであるが、同級生から自分にとって世界一の両親に恵まれていることに気づかされ、改めて政春とエリーに尊敬の眼差しを向ける(第17週)。

政春はリンゴジュースを「リンゴ汁」と改名し、病院などを取引相手に商品の売れ行きが伸び始めた頃、鴨居商店は英一郎が手がけたウイスキー「丸瓶」を発売し、巷で好評を得るとともに、政春も美味しさを評価する。その矢先、政春とエリーのもとに、英一郎の死を知らせる連絡が来る。大阪で鴨居と再会し、英一郎が政春を意識しながらウイスキーを手がけていたことを聞いた政春は、俊夫とハナの結婚披露宴において、出資者にはリンゴ製のブランデーを造ると嘘をつき、ウイスキー造りを始めることを宣言する(第18週)。

そして6年後、政春が求め続けていた味のウイスキーが完成。出資者らを説得し販売にこぎつけるが、半年経っても商品は売れず、工場は多額の負債を抱える。出資者らの指示で、政春は断腸の思いで従業員の半数を解雇しようとしたとき、海軍により在庫のウイスキーをすべて買い上げられるとともに、工場は海軍に指定され、倒産の危機を免れることとなる(第19週)。

第二次世界大戦が開戦して外国人は敵視される世情となり、エリーも実際に嫌がらせを受け、外出を控えるようになる。夫とともに英国に渡る決意をしたキャサリンから出国の誘いを受けるエリーは、頑として断るものの、政春はエリーの身を案じ、彼女を出国させるために離縁しようと考える。そんななか、エリーをスパイと疑う特高警察が亀山宅に家宅捜索に押し入り、エリーは連行されそうになるが、偶然訪れた海軍士官の半ば恫喝めいた説得によりエリーはその場で解放される。その際に日本で生きるエリーの強い決意を知った政春は、工員らの前で、家族3人離れないことを誓い協力を求める(第20週)。

女学校を卒業したエマは勤労奉仕で軍需工場で働きだし、軍事活動に消極的なことから同僚に責められる日々を送るなか、本音を受け止め理解してくれる一馬に恋をする。エリーはエマを子供扱いし恋愛は早いと猛反対するが、自身の過去の悲恋を打ち明けたうえでエマの考えを聞き、様子を見守ることを決める。エマが一馬にその想いを告げ、気兼ねなく恋愛を謳歌し始めた直後、一馬のもとに召集令状が届き(第21週)、亀山家、森野家の人々は悲しみをこらえつつ一馬を祝い、生還を祈りながら彼の出征を見送る。内心エマを真剣に想っていた一馬は「帰ってきたら言いたいことがある」とエマに言い残し、出征してゆく(第22週)。しかし一馬は英霊となって帰宅。数ヶ月後に終戦を迎え、政春は工員たちの生活基盤を立て直すために工場の敷地を農地として解放し工場を暫く休業する。海軍の取引撤退により工場の売上が落ち込むなか、他社からイミテーションウイスキー生産のために原酒の取引依頼が舞い込み、さらに進駐軍から兵士のためにウイスキーの販売依頼を受ける。本格ウイスキーへの信念と亡き一馬のことを思い悩み迷う政春であるが、熊虎に説得され、工場を守るために進駐軍の依頼を受ける(第23週)。

北海道編(第24週 - 第25週)
政春は出資者から、3級ウイスキーを製造するよう言われるが、本場・スコットランドで本物のウイスキー製造を学んで来た政春にとって、それは受け入れ難い要求であった。そんなある日、シベリア抑留になっていた甥・悟がドウカウヰスキー余市工場を訪れ、復員の挨拶をした。彼は、過酷な抑留生活で心に深い傷を負っており、ある騒動がきっかけで、政春にシベリアでの想像を絶する体験をぶちまけた。 「3級のウイスキーなど偽物だ」と語る政春に悟は「酒に本物も偽物もない。仲間を裏切って日本に帰った自分を、最初に許してくれたのは3級酒。あの酒が自分には本物だった」と明かし、このことがきっかけで政春は“安くて、うまい”3級ウイスキーの製造に乗り出すことを決意した。

そんな中、竹原から父・政志と姉・千加子が訪ねて来た。息子の生還に、千加子は感涙。一方、寝る間も惜しむほど3級ウイスキー製造に取り組むが、原酒を希釈するアルコールの選択でうまくいかない政春は、政志に広島の柔い水で日本酒作りをした秘訣を尋ねると政志は「肝をつかめ」とアドバイスした。政志は広島の水に合う麹を探し行き詰っていたところ目先を変え違う米を使うことで「肝」を掴んだ体験を語ると、これをきっかけに政春は俊夫・悟と共に希釈するアルコールから原酒へと「肝」を定め、ウイスキー庫にある樽を調べた。その結果、戦死した森野一馬が生前、自身に託した大麦で作ったウイスキーが3級ウイスキーに適していることが明らかになる。

そしてついに政春は、国産3級ウイスキー・「余市の唄」を完成させる。完成発表会は大盛況で、かつて彼が鴨居商店にいた頃、最初に作ったウイスキーを酷評した澤田からも「『独りよがりの味』から脱却できたな」と褒められ、ついに発売へと乗り出した。(第24週)

1949年(昭和24年)、「余市の唄」は大評判となり、余市が“ウイスキーの里”として注目される中、政志と千加子から杜氏不足や高齢化による亀山酒造の先行きへの不安を聞かされていた俊夫は、ハナを連れて広島・竹原へと帰ることを決意。その出発の朝、「途中まで一緒に行く。会津の町も見せてやりたい[注 4]から」と、熊虎もいきなり旅支度で現れ、「命があったら、また会うべ!」の言葉を残して、俊夫・ハナと共に余市から旅立った。

その12年後、1961年(昭和36年)はじめの冬の日。エリーは養子となった悟夫妻と孫たちに囲まれ、穏やかな日々を過ごしていたが、イギリスの出版社で働いているエマが、恋人・マイクを連れて帰国。それと同時に、エリーが病に冒されていることが明らかに。

往診の帰り、エリーハウスへ立ち寄った主治医・一恵から、彼女の本当の病状を明かされ、ショックを受ける政春。限られた時間の中、政春はまだ正式な結婚式を挙げていないという思いから、彼女のためにウエディング・ドレスを仕立て、エリーに「良くなったら、結婚式を挙げよう」と告げた。

その直後、政春夫妻は余市工場内を散歩。少し離れて歩く、エマとマイク。仲睦まじい政春夫妻の姿を見つめるうち、マイクはエマにプロポーズする。エマがプロポーズされたことを告げようと2人に駆け寄ったその時、エリーが倒れてしまう。危篤状態に陥ったエリー。往診に来た一恵を送り出したのち、帰り際の一恵の言葉に何かを感じ取ったエマは政春に母の本当の病状を問いただし、余命わずかだと知ると、泣き崩れた。

最期の時が近づく中、エリーは政春と2人きりの時間を過ごし、想い出を語り合い、倒れる直前に認めたラブレターを「私が天国に行ってから(読んで)」と、政春に手渡した。こうしてエリーは政春に見守られながら、その生涯を終えた。

エリーの没後。政春は葬儀等の手続きを悟・エマに任せきりにし、部屋へ閉じこもり、生前の彼女の写真を見ながら泣き暮らす日々を送っていた。その様子を見かねたエマは、部屋へ入り声をかけた。ふと政春が窓に目を遣ると、テーブルの上に彼女から送られたラブレターが。読み始める政春。その手紙には、政春と過ごした日々や政春への愛情と感謝が綴られていた。涙ながらに読む政春の表情に、生気が蘇ってゆく。やがて彼は家を出て工場へと向かい、葬儀の間封鎖していたポットスチルの窯を開け、火をくべるとエリーへの愛をこめて再びウイスキー作りに乗り出した。

それから10年後の1971年(昭和46年)5月。ドウカウヰスキー余市工場では、政春がエリーへの愛をこめて製造したウイスキー・「スーパーエリー」がスコットランドのウイスキー品評会で特別賞を獲得。その記念式典が開催されていた。彼が生み出した「命の水」は日本のみならず、世界に通用する味として認められたのであった。

式典を終え、工場の敷地内にあるエリーの墓へ向かう年老いた政春。彼は、受賞したウイスキーをエリーの墓前に献杯した。政春はエリーの墓に寄り添いながら、これまでの日々を走馬灯のように想い返していた。エリーとの出会いから50年の年月をかけて、自らの理想をついに実現させた政春。日本から遠く離れた異国の地・スコットランドから始まった、政春とエリーの「人生は冒険旅行」。その冒険旅行は、ようやく終わりを迎えたのであった。〔完〕



登場人物

主人公とその家族

亀山政春(かめやま まさはる)
演 - 玉山鉄二(少年期:神先朔也、青年期 : 南部綜汰)
本作の主人公。一人称は「わし」。エリーからは日本に帰国以来「マッサン」と呼ばれ、周囲にも、次第にこの呼び名が定着する。猪突猛進で周囲の人々としばしば諍いを起こすこともあるが、実直で勤勉な性格で、ウイスキー作りへの一途な情熱は周囲の人々を認めさせていく。
広島県竹原の造り酒屋の次男として生まれる。大阪工業学校を卒業後、住吉酒造に就職[31]。20歳の時に初めて飲んだウイスキーの味に感動して以来、日本でウイスキーを造る夢を抱き、社長の援助でスコットランドに留学中に、エリーと出逢い交際する。2年間の修業を終え帰国を機に、両家の反対を押し切りエリーと結婚。1920年(大正9年)、エリーを連れて実家に戻り、彼女を妻として周囲に認めさせようと奮闘するが、母・早苗だけは説得できず、エリーと共に家を出て住吉酒造に復職する[32][25]。しかし、ウイスキー製造計画は株主たちに承認されず、さらに優子の婚約者の父の要求により退職に追い込まれる[33]。その後、定職に就けず困窮する期間を経て、ウイスキー作りに向け本格始動した鴨居商店に再就職[34]。新たにできる山崎工場の工場長に就任し[35][36]、初の日本国産ウイスキーを作り上げるが[37]、味が不評で売れず製法と商法について鴨居と揉めた結果、営業への異動を命じられ[37]、ウイスキーの宣伝に北海道へ渡る[38]。現状においてウイスキーを売る難しさを痛感したことと、亡き母もウイスキー造りを応援していたことを知り、大阪に帰社し鴨居に頼み工場長に復帰後は、鴨居に従い日本人向けの味の追求を重ねるが、改良品も売れなかったことをきっかけに、北海道で自分が作りたいウイスキーを作るため、鴨居商店を退職し開業へと歩み出す[39]。
かつて、ウイスキーの営業で渡った北海道にある余市町が、ウイスキー作りに適した土地であることから、余市に工場を構えることに[40]。
1945年(昭和20年)、生まれ故郷である広島県に原爆が投下され、竹原の家族と一時連絡が取れなくなり、電報を打つ(後日、家族から無事を伝える電報が届いた)[注 5]。だが、広島原爆投下をはじめとする、アメリカ軍の終戦直前の戦争行動に、政春は恨みを募らせてしまい、終戦直後のアメリカ進駐軍(GHQ)のせっかくの取引要請を商機であるにもかかわらず、拒否してしまう(周囲の説得で仕方なく取引を開始する)。
終戦から3年後、シベリア抑留から復員した甥・悟(後述)から「3級酒が自分にとっては、一番うまい酒だった」と当時のことを打ち明けられ、さらには出資者たちからも3級酒を造るように迫られていたことから、3級ウイスキー製造へと乗り出す。
はじめはなかなかうまくいかなかったが、父・政志のアドバイスがきっかけでウイスキー庫に貯蔵していた原酒を調べたところ、戦死した森野一馬(後述)から託された、大麦で作った原酒が適していることが判明。ついに日本中の注目を集める3級ウイスキー・「余市の唄」を完成させた。
12年後の1961年(昭和36年)、エマが婚約者・マイクを伴って帰国したのと同時期。エリーが病に冒されていることを主治医から知らされ、愕然となる。
正式な結婚式を挙げていなかったことから、彼女のためにウエディングドレスを購入し、式を挙げようと計画。その直後に4人で余市工場敷地内を散歩していたが、ついにエリーが倒れる。最後は2人きりの時間を過ごし、エリーの臨終を看取った。エリーの死後は呆然自失の状態が続いたが、彼女が生前に書き残した最後のラブレターを読んで気力を取り戻し、再びウイスキー作りの仕事に戻る。それから10年後、エリーの名前が付けられた自社製のウイスキー「スーパーエリー」が本場のスコットランドからも高品質のウイスキーとして認められ、「ベスト・スコッチ・スタイル・ウイスキー」の特別賞を受賞した[注 6]。
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝がモデル[41][42]。また、第1話の冒頭に登場するウイスキー「スーパーエリー」と物語後半に登場するウイスキー「余市の唄」は、実際にニッカウヰスキーから発売されている(されていた)ウイスキー「新スーパーニッカ」(前者)と「ニッカスペシャルブレンド」[43](後者)がそれぞれモデルとなっている。

亀山エリー(かめやま エリー)
演 - シャーロット・ケイト・フォックス(少女期:エマ・バーンズ)、日本語吹き替え - 恒松あゆみ
本作のヒロイン。旧姓は「Elizabeth Henderson」。結婚後の戸籍上の正式名は「亀山エリザベス」。一人称は「私(わたし)」。歌が好きで、スコットランド及び日本の民謡などを頻繁に口ずさんでいる。前向きな性格で何事にも真剣に取り組み、内助の功となり政春を支え、家庭を守りつづける。チキンブロス、シェパーズパイなど欧州の家庭料理をはじめ、来日してから懸命に覚えた日本の料理を作って食卓を彩り、風邪をひいた時には身体を温めるウイスキーをベースとした飲み物ホットトディを作る。家族の普段着やベッドカバーやクッションなども自ら縫いあげるなど、家事全般は得意である。
スコットランドの医者の家に生まれ育つ[44]。婚約者を戦争で亡くし恋をしないと決意して数年後[45]、自宅でのクリスマスパーティーで、妹の大学の友人であった政春と出逢い、彼との交際の中で日本語を学び、やがて彼から求婚される。結婚にあたり、スコットランドに永住しても構わないと告げる政春に対して、日本でウイスキーを造るという政春の夢を尊重し、結婚後は彼と共に日本へ渡る決意を固め、駆け落ち同然で来日した。両家の母や一部の親族から批判され、外国人ゆえに周囲から偏見を持たれたり注目されながらも、愛する政春のために日本人として生きていこうと奮闘する[32]。
当初は「マサハル」と呼んでいたが、来日後、夫を呼び捨てにしてはならない日本のしきたりを早苗から教わり[32]、「マサハルさん」と呼ぶことにした。しかし「マサハルさん」の発音が難しいとの理由から、政春を「マッサン」と呼び始める[25]。
鴨居商店の山崎工場の落成時に、政春との子を宿したことが判明するが、自宅の階段で転落して流産。その際に、幼い頃から病弱で体力に乏しいこと、現在も極度の貧血であることから出産は母体の生命に危険が及ぶ危険性が強く、ほぼ不可能であることを医師に診断される[36]。山崎工場のお披露目後、キャサリンの仲介で、身寄りのない乳児に「エマ」と名付け、養女に迎え入れる[46]。
第二次世界大戦が開戦し、日に日に戦局が激しくなっていくと街頭で子供たちから石を投げつけられたり、あらぬ悪口を囁かれたりと外国人を敵視する世情を痛感する。身の危険を感じるほどになり、やがて自宅の中で過ごすことが多くなる。ストレスから神経質になってしまうことも多く、特に思春期を迎え恋をするようになったエマに対して過干渉になるが、エマの気持ちと向かい合うために自分の辛い初恋の思い出を打ち明ける。その際に、自分もかつて実父から貰った「人生は冒険旅行」の言葉を改めて噛みしめ、エマを見守ることを決める[45]。
日本が終戦を迎えたと同時に特別高等警察の監視下から解かれたが、心労がたたり倒れてしまう。
終戦から3年、ようやく平穏な日々を過ごすようになる。
俊夫夫妻が余市を去ってから12年後、養子の悟夫妻に生まれた孫たちに囲まれ、幸せな時間が訪れるものの病魔に冒されており、すでに余命わずかであった。自身の余命を悟り、政春へ最後のラブレターをしたためていた。
政春・エマたちと余市工場内を散歩中、ついに倒れ、危篤状態に。最後は政春と2人きりでこれまでの思い出を語り、穏やかな時間を過ごす。やがて身体を横たえたエリーの手を政春はしっかりと握り、スコットランドから日本へ二人で向かったその日にエリーに告げた「この手、離すなよ」の言葉を贈る。エリーもあの日と同じように「はい」と返事、その言葉を最期に静かに目を閉じて生涯を終えた。
生前に書き残した政春へ宛てた最後のラブレターは、彼女の葬儀後に読まれ、憔悴しきっていた政春の心に再び仕事復帰する気力を与えた。
竹鶴政孝の妻・リタがモデル[41][42]。病弱という設定や第11週で描かれた1924年(大正13年)の流産はリタの史実を踏まえたものである[47][48]。

亀山エマ(かめやま エマ)
演 - 木南晴夏(総集編後編の語り兼)(幼少期:住田萌乃、15歳から18歳:優希美青)
政春・エリー夫妻の長女。一人称は「うち」→「私(わたし)」。
不慮の事故で身よりがなくなり教会に預けられていたところ、キャサリンの紹介で夫妻の養女に迎えられる[46][注 7]。夫婦それぞれの名前の頭文字が名付けの由来[37]。
娘に甘い政春と躾に厳しくも惜しみない愛情を注ぐエリーのもと、4歳時にはおしゃまな少女に成長するが、時折、頑固でわがままな性格が垣間見え、エリーを手こずらせる[37]。
両親とともに北海道に移住後、地元の小学校に進学。小学三年生の時に、エリーに容姿が似てないことを同級生らにからかわれ、心に暗雲が垂れ込めたことを機に政春とエリーから養女であることを告げられる。動揺は隠せなかったが、今までもこれからもかけがえのない両親であることに変わりはないと改めて思い直し受け入れる。後日、両親が見守る授業参観において家族についての作文を発表し、そのなかで「世界一の両親」と自信をもって読みあげて政春とエリーを感激させた[49]。やがて女学校に進学、はつらつとした活発な娘に成長。日本的な厳しい躾と自分の意見をはっきりと言葉にするというエリーの教育方針に則り、自分の意思を主張することに躊躇がない。日常的に英話を用いるバイリンガルである。
第二次世界大戦開戦後、外国人を敵視する世情から、母のことを含めて学校で陰険な嫌がらせを受けるようになる[50]。
女学校を卒業した17歳時には、勤労奉仕で軍服を縫製する軍需工場で働くが、軍事活動に消極的な様子から、同僚らから執拗になじられるようになる。そんななか、本音で語り合える一馬に恋をし、彼に思いを打ち明ける[45]。しかし返事がもらえぬまま一馬は出征、帰還を待ち侘びる日々を過ごす。しかし1945年、彼の戦死により失恋する[51]。
終戦後、小樽の英文タイピスト養成学校に通い始める[51]。
終戦から3年、25歳になったエマは進駐軍の事務所に勤務して2年目。バイリンガルの強みを生かし、翻訳や通訳、タイピストの仕事をしている。悟の帰還と同時期、上官からアメリカへの転勤を勧められる。家訓ともいえる「人生は冒険旅行」の言葉が背中を押し、渡米を決意する。
1961年には、アメリカからイギリスへ移って出版社で働いており、現地で知り合ったマイク(後述)と婚約。一緒に日本へ帰国した。エリーが倒れたことで、母の病状を知りショックを受け泣き崩れる。
竹鶴政孝の養女がモデル。

岡崎悟(おかざき さとる) → 亀山悟(かめやま さとる)[注 8]
演 - 泉澤祐希(少年期:向鈴鳥)
千加子の第3子。
出征していたが、ソ連軍に捕らえられシベリア抑留となっていた。
1948年(昭和23年)にようやく帰還を果たし、政春のいるドウカウヰスキーを訪ね、復員の挨拶をした。
シベリアでは想像を絶するほどの苦難を味わい、悪夢にうなされるように。鰊御殿で同部屋になったある復員兵から「時計を盗んだ」とあらぬ疑いをかけられ激怒する。騒動の後、連れて来られたウイスキー庫で抑留時に味わった過酷な出来事を政春にぶちまけ、いまもその記憶に苦しんでいることを吐露した。
やがて政春に促されて3級ウイスキー製造を手伝い始め、醸造に興味を深めていく。訪ねて来た政志や千加子に、余市に留まりウイスキー製造を学ぶ決意を告げる。
1961年の時点で既に結婚しており、二児の父親となっている。
竹鶴政孝の甥で養子の竹鶴威がモデル。
以下の4人は第146話より登場。

マイク
演 - 中島トニー
1961年にエマが両親のもとに帰省した折に同伴した婚約者。

亀山和歌子(かめやま わかこ)
演 - 宮嶋麻衣
悟の妻。

亀山政太朗(かめやま まさたろう)
演 - 本郷颯
悟と和歌子の長男。

亀山絵美(かめやま えみ)
演 - かわさき鈴乃
悟と和歌子の長女で政太朗の妹。


広島・竹原の人々

亀山家の人々
代々造り酒屋「亀山酒造」を営んでいる。「亀山酒造」のシーンは竹鶴政孝の生家でもある竹鶴酒造(広島県竹原市)でロケが行われた[22]。

亀山早苗(かめやま さなえ)
演 - 泉ピン子
政春の母。一人称は「うち」。亀山家の跡継ぎ娘として育ち、家を守り続けてきた。長男が家業を継がず家を出たため、次男の政春に跡継ぎとしての期待を寄せる。外国人であるエリーを政春の嫁として頑に認めず、エリーを亀山家から追い出そうとする[32][注 9]。政春とエリーが大阪へ旅立つ際まで二人の結婚に反対するが、エリーに日本人の嫁になる宿題として「箸を使えるようになる」ことを条件とする意味を込めて1膳の箸を贈る[25]。
政春が住吉酒造を辞めたと知り、政志の危篤を知らせる嘘の電報を政春に送り、家業を継がせようと呼び戻す。その際にも、政春と一緒に帰省したエリーを家族と認めず女中扱いし、帰国するよう嫌味を発するが、心中では政春のために尽くす彼女を認め、政春とエリーが大阪に戻る際には(表向きは女中への給金として)大金を贈る[52]。政春とエリーが再就職の報告に来た際には、当初離婚の報告と勘違いして喜びを見せるも、それが勘違いと分かると、外国人を嫁として受け入れられないことを曲げないうえで、エリーが日本人に生まれなかったことを憂い涙する[34]。その後も大阪に様子を伺いにやって来ると、エリーに政春への接し方やエマへの育児について意見をしながらも[37]、自宅に戻ると遠回しにエリーを褒める発言をする[39]。政春が北海道出張中に危篤となり、帰省し看護するエリーと本音で語り合える仲に変わる。臨終時にはエリーを「日本一の嫁」と公に認め、エリーから教わった英語を使って礼を述べ、政春の腕のなかで静かに息を引き取る[38]。
竹鶴政孝の母がモデル。

亀山政志(かめやま まさし)
演 - 前田吟
政春の父。婿養子として亀山家に入り、広島では不可能とされた灘(灘五郷)・伏見に負けない酒を作り上げ、政春に新しいことへ挑戦する夢を与える。そのため本心は亀山酒造を継がせたい一方で、ウイスキー造りに対する政春の情熱も理解を示し、本気であれば命懸けで夢を叶えるよう政春を教え諭し、早苗が頭ごなしに反対していた政春とエリーの結婚も、当初から温かく見守り続けていた政春の良き理解者である[32]。
政春とエリーが2度目の帰省をした際には、腰痛で動けないと仮病を使い、政春にウイスキー造りへの情熱を取り戻させようと、酒蔵仕事を手伝うよう仕向ける。また、エリーと将来生まれる子供のためにウイスキー造りを諦めて実家に戻り安定した家業を継ぐことを考え始めた政春に、子供を理由に弱音を吐いていることを厳しく叱責し、ウィスキー造りへの情熱を取り戻させた[52]。
早苗の死後、生前に早苗が心の底から政春のウィスキー造りを応援していた気持ちを代弁して政春に伝えた。
終戦から3年後、千加子と共に余市を訪れ、3級ウイスキー製造に試行錯誤している政春に対し、ヒントを与えた。
1961年の時点で既に故人。
竹鶴政孝の父がモデル。

岡崎千加子(おかざき ちかこ)
演 - 西田尚美
政春の姉。結婚して家を出ており、子供が2人いる。弟の嫁として亀山家にやって来たエリーに対して否定的な見解を語る[32]。
政春とエリーが2度目の帰省をした際にも、国際結婚やウイスキー作りについて諦める様エリーに厳しく説得するが、嫁の仕事を習得しようと頑張るエリーの様子を見て考えが変わり、自ら進んで亀山家の味噌汁の作り方をエリーに教え、彼女を応援するようになる。同時期に後に政春の養子となる第3子の悟を出産する[52]。
竹鶴政孝の姉がモデル。

亀山すみれ(かめやま すみれ)
演 - 早見あかり
政春の妹。教師になることを目指し女学校に通うなか、兄と共に来日したエリーと出逢う。初対面からエリーを歓迎し、日本に馴染もうとする彼女に協力する[32]。政春とエリーが大阪に行った後から、自分の勉強を兼ねて、エリーと英文で文通するようになる。
早苗の病臥頃には女学校の教師に就職している[39]。また、政春の家に早苗の危篤を知らせる電報を送る[38]。
竹鶴政孝の妹がモデル。

島爺(しまじい)
演 - 高橋元太郎
亀山酒造の番頭。政春とエリーを好意的に見守る[32]。

八澤俊夫(やざわ としお)[注 10]
演 - 八嶋智人
亀山酒造の蔵人(酒造り職人)。一人称は「わし」。政春の小学校時代の先輩で、政春からは「俊兄(としにい)」と呼ばれている[52]。あまのじゃくでそそっかしいが、政志を尊敬し、水米共に広島産の酒を作ることに情熱を持っている。日本酒の良さに理解を示すエリーとは馬が合う一方、家業を継がずに洋酒会社に就職した政春を「西洋かぶれ」と称して快く思わず、政春と度々衝突している[52]。政春とエリーが再就職の報告から大阪に戻る際には、餞に、自分が初めて杜氏を務めて作った新酒をエリーに贈る[34]。鴨居商店の山崎工場の創業にあたり、呼ばれて技師長に就任する[35]が、技師長就任後も、職場において政春を「お坊ちゃま」と呼び続ける[36]。
山崎工場創業から4年後、工員を尊重しない鴨居の経営方法に憤り、ブレンダーを外部から呼び味の調合をさせようとやってきた鴨居に対して、工員を集め酒樽の前にバリケードを作り抵抗する。この件の責任を負い、鴨居商店を自主退職し[37]、亀山酒造に戻る[39]。
その後、政春の開業に向けて呼ばれ、再び職人として余市に赴く[40]。
ハナに対して密かに恋慕っていたが、想いが叶うはずがないと思い込み、憎まれ口を叩くような振舞いをしていた。彼女への想いをかき消そうと、リンゴ汁を元とした酒(ワイン)の開発に打ち込む。しかし、実はハナも俊夫に恋をしており双方の想いがようやく通じ合い、結婚を果たす[53]。
長らく余市に留まっているが、亀山酒造を退職しているわけではなく、「無期限出向中」といった立場である。そのため、余市にてウイスキー作りを手伝うようになってからも長い間に亘って亀山酒造の半被を着用していた。北海道果実を創業して以降も亀山酒造の半被を着続けていたが、ハナに新しく誂えてもらってからは DOUKAH と書かれた半被を着用している。
ハナとの間に子供はいない。
悟との会話で政春が3級酒を作る方針を決め、他社より発売されている3級酒を買い集めて成分分析を行うが、政春と意見が食い違い、再び対立してしまう。だが、ウイスキー庫にあった樽を調べる内、亡き義弟・一馬が政春に託した大麦で作られたウイスキーが、3級ウイスキーに適している事を知り、涙ぐんでいた。
1949年(昭和24年)「旦那様の酒蔵を守るために広島へ帰りたい」と切り出す。竹原へ旅立つ日に悟へ DOUKAH と書かれた半被を譲る。

亀山家の親戚たち
演 - 芝本正、みぶ真也、松寺千恵美、田中恵理

杜氏(とうじ)
演 - 石川達也
亀山酒造の杜氏。


その他の広島・竹原の人々

和尚
演 - 神山繁[注 11]
竹原の町の長老。早苗にとっては幼い頃から世話になり頭が上がらない存在である。すみれからは偏屈な性格と評され、亀山家の法事の席で政春から教わった通りに振る舞うだけのエリーを最初は嘲るが、毅然とした態度で千加子の子供たちの喧嘩を仲裁したエリーの行動に感心し、その場に居合わせた亀山家の親戚一同と共に彼女の心意気を認める[注 12][32]。

岡崎寛子(おかざき ひろこ)
演 - 眞鍋歩珠
千加子の娘。法事の場で起こった事故をきっかけにエリーを慕い始める[32]。

岡崎勝(おかざき まさる)
演 - 宮崎航平
千加子の息子。寛子と同じく、法事の場で起こった事故をきっかけにエリーを慕い始める[32]。戦後は教師になっていることが千加子によって語られている。

岡崎徹(おかざき とおる)
演 - 森澤匡晴
千加子の夫[52]。

医師
演 - 泉祐介
政志が腰痛を起こした際に往診に来た医師。

産婆
演 - 川本美由紀
千加子の第3子出産に立ち会った、竹原の隣町に住む産婆[52]。


スコットランドの人々

エリーの実家の人々

ヘレン
演 - アナンダ・ジェイコブズ、日本語吹き替え - 鎌田梢
エリーの妹。留学中の政春と同じ大学で学び、政春をエリーと引き合わせるきっかけを作る[32]。

ウィリアム
演 - タクマ・ウォーレン、日本語吹き替え - 比嘉久美子
エリーの弟。政春からは柔道を教わる[32]。

ローズマリー
演 - インゲ・ムラタ(エリーが幼少時のローズマリー: キム・マルヤマ)、日本語吹き替え - 松岡洋子(総集編後編を除き「語り」との兼任)
エリーの母。
優しく料理が上手であったが、長女であるエリーには我慢を強いるなど厳しい面もあった[31]。
国同士の文化の違いを理由に政春とエリーの結婚を認めず、日本行きの意志を曲げないエリーに絶縁を言い渡す[32]。
1961年の時点で既に故人。

デイビッド
演 - マイケル・ビアード、日本語吹き替え - 千田光男
エリーの叔父。野蛮な東洋人にウイスキーを造れるはずがないと政春の夢を否定し、政春とエリーの結婚に憤り反対する[32]。

エドワード
演 - デヴィドマン
エリーの父。職業は医師。エリーが幼少時に他界している。エリーに対し「人生は冒険旅行」と教え、彼女の信条となる[31]。


その他のスコットランドの人々

ジョーンズ英国大使
演 - チャールズ・グラバー
スコットランド出身の英国駐日大使。エリーの死から10年が経った1971年(昭和46年)、余市で開催された「スーパーエリー特別賞受賞式典」に参列し、ジョークを交えつつ日本語で政春の業績を称える。このスピーチの場面は第1回冒頭と最終回の2回にわたって見られる。

ジョージ
演 - ラッセル・トッテン
エリーの初恋の相手。政春がスコットランドに来る前に第一次世界大戦に出征し戦死しており、政春との面識はない。

アンドリュース
演 - トーマス・リンドブルーム
スコットランド出身の貿易商。日本でのウイスキー作りについての審査をしに鴨居商店を訪れたものの、「西洋に比べて文化のレベルが遅れた日本ではウイスキーが作れるはずがない」という言葉が欣次郎とエリーを怒らせ、鴨居商店から追い出された。

スミス
演 - ヘンリー・ファウラー
スコットランドから来たウイスキー蒸留業者。


大阪の人々

住吉酒造の人々
政春が最初に勤務する洋酒メーカー。かつて実在した摂津酒造[注 13]をモデルとしている[54]。

田中大作(たなか だいさく)
演 - 西川きよし
住吉酒造の社長。
1918年(大正7年)、当時の日本ではまだ造られていなかった本格的なウイスキーの製造法を学ばせるため、政春をスコットランドに留学させる。政春を娘の優子と結婚させて婿養子にするつもりであったため、2年後に帰国した政春がエリーと結婚したことを知って動揺するが[注 14]、互いに惹かれ合い結婚した亀山夫妻を認め、味方する[25]。
摂津酒造の社長・阿部喜兵衛がモデル[55]。

田中佳代(たなか かよ)
演 - 夏樹陽子
大作の妻。政春がスコットランド留学を終えて帰国した暁には政春を娘の優子と結婚させるつもりであったが、政春がエリーと結婚したことを知って憤慨する[25]。
かねてからの住吉酒造の負債の多さから、政春のウイスキー製造計画について反対する[56]。

田中優子(たなか ゆうこ) → 藤岡優子(ふじおか ゆうこ)
演 - 相武紗季
大作と佳代のひとり娘。住吉酒造の跡継ぎ娘として育てられた。父から政春が2年間の留学を終えて帰国をしたら婿養子に迎えるつもりであると告げられて驚くが、以前より政春を慕っていたこともあり喜びを隠せなかった。無論、政春も承知しているものだと思い、花嫁修業に勤しみ彼の帰りを待ち続けてきた。しかし、政春は留学前からそのような話は微塵も考えたこともなかったこと、既にエリーと結婚していたことを知って憤り、代償として政春に退職を求めたり、エリーに嫌がらせをし辛辣な言葉を浴びせる[25]。しかし、亀山夫妻が新居へ転居後、父の説得を受けて2人と和解して夫婦茶碗を贈り、エリーに頼まれ炊飯の方法を教えたことを機に彼女と打ち解け合い[56]、やがて友達同士となる[57]。
本心は英文タイピストになることを夢見ていたが[注 15]、住吉酒造の倒産を阻止し会社を守ることが自分の仕事と決心し、藤岡次郎との政略結婚を受け入れる[57][33]。

矢口清(やぐち きよし)
演 - 白井晃
住吉酒造の専務。大作とともに住吉酒造を立ち上げ、経理面を支えている[58]。
政春の言動が気に障り[59]、他の同僚が政春の帰国・復帰を歓迎する中でただ一人冷めた反応を示し[25]、政春の妻であるエリーに対しても嫌味を発する[56]。
ウイスキー製造計画についても必要経費の多さゆえに反対の姿勢を示し[56]、守谷を味方に付けたり関連会社に独断で中止を告げるなどの根回しをし[33]、政春に対して、ウイスキー製造計画を必ず潰すと恐嚇したり政春本人を気に入らないと言明する[33]など、政春にとって最初の壁となる人物であり、同時に政春を解雇に導く。

安藤好子(あんどう よしこ)
演 - 江口のりこ
住吉酒造の事務員。既婚。噂話に敏感[25]。政春を「亀山くん」と呼ぶ。こひのぼりの常連客であり、政春が退職後も店でたびたび再会している。

池田晋平(いけだ しんぺい)
演 - 前野朋哉
住吉酒造の社員。政春の助手として、住吉酒造の内部に新設された「ウヰスキー研究室」に配属される[25]。

松原(まつばら)
演 - 木内義一
住吉酒造の社員。同じく政春の助手として「ウヰスキー研究室」に配属される。「…でござる」が口癖[25]。

今井商店店主
演 - 佐渡山順久
住吉酒造の株主。


鴨居商店の人々
住吉酒造に「太陽ワイン」を製造委託する商社。サントリーホールディングスの前身である鳥井商店(→壽屋)がモデルで[42][60]、山崎蒸溜所(山崎工場)や赤玉ポートワイン(太陽ワイン)の実際のエピソードがストーリー中に生かされている[54]。

鴨居欣次郎(かもい きんじろう)
演 - 堤真一(少年期:堺翔太)
住吉酒造の取引先である鴨居商店の社長。社員や取引先などから「大将」と呼ばれている。占いにこだわりを持っている[注 16]。一人称は「わて」。口癖は「やってみなはれ」で、できるかできないかわからなくて迷うよりもまず実践、を自らにも部下にも励行する。
米屋と両替商を営む家に誕生するが、家業は兄が継ぐために14歳で薬種問屋に丁稚奉公に出される。奉公先で舶来の洋酒と出会い、いつか自分で作りたいと希望を持ち、20歳で起業した[34]。
人々に驚きと喜びを与えたい根底から、日本人の好みに合わせて洋酒を独自に加工し製造・販売して利益を上げる商売方法を信条とする。政春からウイスキーを初めて味見させてもらい興味が湧き、後日、採算を度外視し本場のウイスキーの製造しか考えていなかった政春に対して製造から販売までの計画を積算するよう助言する[25]。初めて出会った時から亀山夫妻を気に入り、エリーに親切に声をかけ悩みの相談に乗ったり、太陽ワインの売り上げ回復のために協力した政春に鴨居商店への入社を誘うが、その時は断られる[56]。その後、住吉酒造を首になった政春の本場のウイスキー作りへの頑固なほどの情熱や、彼の持つ技術の高さを改めて知り、4000円の年俸[注 17]を差し出し再び彼に入社を乞う[34]。
入社した政春を創業した山崎工場の工場長に配属し、初の国産ウイスキー販売に向け共に協力していくが、工場始動から4年後、不況の煽りを受けてビール事業の開始とウイスキー販売の前倒しを決め、渋る政春に醸造中のウイスキーの調合を急がせる。しかし、結果としてどちらも売れず、政春に日本人向けの味のウイスキーへの改良を命じてから、本場にこだわる政春と方針のすれ違いが顕著になる。その後、自分の理想のウイスキーを作るために退職を申し出た政春に対し、経営者として不向きであると否定的に見るが、開業のためにプライドを捨て土下座をした政春の熱意を認め、不足分の開業資金10万円[注 18]分を返済不要な「退職金」として政春に渡し、出資を応援する。
寿屋の創業者、鳥井信治郎がモデル[61][42][60][54]。

鴨居英一郎(かもい えいいちろう)
演 - 浅香航大(少年期:三澤瑠斗)
鴨居欣次郎の長男。大学に入学したものの、将来の目標もなく遊び歩いていることや留学を志望していることから、父の指導で、政春に師事しエリーから英語を教わるため、亀山夫妻の家に住み始める。一人称は「僕」。また、政春のことを「工場長」と呼ぶ。瀕死の母や家庭を顧みず仕事に没頭してきた父を身勝手であると忌み嫌っていた。自分の将来や進路は、その身勝手な父が決めて、自分の意見など通る余地はないと空虚な気持ちで諦め、周囲に対しても冷淡な態度を取り孤立していた。しかし、亀山夫婦や近所の住民たちの温かさに触れ、心を開いていく[36]。政春と俊夫の働きぶりを見て、将来はウイスキーの職人となりスコットランドへ留学する希望を見つける。また、父から亡き母の遺言を初めて教えられ、両親は心で強く結ばれていたことを知り永年のわだかまりが氷解、和解する[46]。
山崎工場稼働から4年後、スコットランド留学から帰国し、山崎工場に勤務する[37]。政春に付ききりでウイスキー製造を学び、政春の鴨居商店退職の折には「教えられることはみな教えた」と太鼓判を押される。退職に向けた政春の決断を聞き最初反発するも、すぐに「背中を追いかけていく」決意とともに笑顔で見送る。
政春とエリーが余市へ渡り2年後、日本人でも馴染める味のウイスキー「丸瓶」を造り出し販売された直後、工場にて心臓発作を起こし早逝する[53]。
鳥井信治郎の長男・鳥井吉太郎がモデルであり[62]、竹鶴夫妻と同居して政孝からウイスキー製造のノウハウを学び[63]、壽屋の後継者と期待されていた矢先、31歳にて早世しているなど[64]、鳥井吉太郎の史実を踏まえている。

鴨居サキ(かもい サキ)
演 - 辻葉子
欣次郎の妻で、英一郎の母。太陽ワインの発売日に向け鴨居が奔走するなか発病。そのために発売延期しようとする鴨居に、彼の夢が叶ったら元気になることを宣言し、予定通り遂行させる。1914年(大正3年)の太陽ワイン発売日直前、一緒に夢を叶えられなかったことを鴨居に詫びるとともに、子供たちを鴨居に託し、他界した[36][46]。

黒沢(くろさわ)
演 - 志賀廣太郎
鴨居の秘書。常に冷静で、鴨居に対して従順である一方、鴨居親子の不仲を気にかけ進言する[36]。

青山(あおやま)
演 - 小堀正博
京都帝大の学生。世の中を驚かせる仕事をしたく鴨居商店への入社を志望し、夏休みの間、鴨居商店で研修する[57]。しかし、その後は登場しておらず、鴨居商店へは入社しなかった模様。

白井(しらい)
演 - 乃木涼介
鴨居商店の開発部長[57]。

紺野(こんの)
演 - 成河
鴨居商店の宣伝部に勤める社員[57]。場に応じて政春を賞賛したり批判したりと優柔不断な性格。

規子(のりこ)
演 - 田実陽子
鴨居商店のデザイン担当[57]。

大宮大吉(おおみや だいきち)
演 - 大塚宣幸
山崎醸造所の工員。特技は腕相撲[35]。

中村(なかむら)
演 - 池浦さだ夢
山崎醸造所の工員。

小野博(おの ひろし)
演 - 二口大学
山崎醸造所の工員。特技は暗算[35]。
3:777 :

2022/09/12 (Mon) 04:36:22

食堂「こひのぼり」の人々

春さん(はる さん)
演 - 及川いぞう
住吉の食堂「こひのぼり」の店主。政春と同じく広島出身[56]。口が悪く、たびたび政春らと口論になる。また、時々「らっきょう」と言われたり、自虐的に「らっきょう」と言ったりする[65]。

秋(あき)
演 - しるさ
春さんの娘。穏やかな性格で、父が喧嘩を起こすたびに諌めている。

ムネさん
演 - 平井善之
こひのぼりの常連客の車引きで好子の夫[44]。
野々村家の人々
亀山夫妻の新居の家主。

野々村茂(ののむら しげる)
演 - 神尾佑
野々村家の主[44]。投資家であり、仕事が忙しく不在がちである。先妻に先立たれた後、娘たちのためを思い由紀子と再婚した[31]。家賃を滞納しがならも居住の継続を乞う亀山夫妻に対し、エリーが娘たちの英語教師をすることを条件に承諾する[31]。幸せな家庭を再建するつもりが、娘の幸子が母親として由紀子を受け入れることができず、再婚は失敗と判断し離婚を決意するが、由紀子のバースデーパーティーにて彼女を「お母さん」と初めて呼べた幸子を見て、考えを改める[31]。その後、由紀子の薦めもあり、定職に就けずにいる政春に、月給100円[注 17]の住吉学院の化学教師の就職話を持ちかける[34]。
政春が開業を決意したことを知り、投資家仲間の渡を紹介するとともに、渡の提案で自らも政春に20万円[注 18]の資金援助をする[39]。

野々村由紀子(ののむら ゆきこ)
演 - 愛原実花
茂の後添い。野々村家の女中時代は茂の娘たちに懐かれていた[31]。
茂と結婚した後は、継娘・幸子に距離を置かれて思い悩む[31]。努力をしても幸子との関係は改善できずにいたが、エリーたちの尽力により、幸子から「お母さん」と呼んでもらえるようになる[31]。

野々村幸子(ののむら さちこ)
演 - 田中葵
野々村家の長女。亀山夫妻と出会った時は8歳。亡き母を気遣い、本心は慕っている由紀子を母と認めることができずに思い悩み塞ぎ込むなか、似た経験を持つエリーの働きかけに触れ、エリーに心を開いていく[31]。
茂が離婚を決意したことで自責し、亀山家に家出するなか、エリーと政春に諭され、由紀子を母と受け入れられるようになる[31]。政春たちが北海道・余市へ転居して以降は妹のナツ共々登場していないが、英一郎が急死してすぐのころに茂が余市に赴いた際に語った台詞によると、現在は結婚して子供を持つ母になっていることが語られている。

野々村ナツ(ののむら なつ)
演 - 吉田暖
野々村家の次女。亀山夫妻と出会った時は5歳。由紀子を母として受け入れ懐いている[31]。

幸子の母
演 - 上嶋彩記子
茂の前妻。生前はピアノが得意であった[31]。

タキ
演 - 三原あや
野々村家の女中。


その他の大阪の人々

守谷長五郎(もりや ちょうごろう)
演 - 中村嘉葎雄
佳代の実父で住吉酒造の大株主。孫の優子に藤岡次郎との縁談を持ち込む[57]。太陽ワインの風評被害や、自社工場を持つ予定の鴨居商店から契約を打ち切られる恐れから、新事業着手に反対しウイスキー製造計画を主とした臨時株主総会の中止を決めるが、政春と大作の熱意に折れ臨時株主総会を開く。総会ではウイスキー製造計画に興味を示すものの、正太郎の説得で計画を不承認にする[33]。

キャサリン
演 - 濱田マリ
町の世話役。本名は種子(たねこ)であるが、教会の牧師でイギリス人である夫・チャーリーと釣り合わせるため洗礼名「キャサリン」を日常生活でも自称している。エリーを気に入り、引っ越しの手伝いをしたり、国際結婚夫婦の先輩として日本語や風習などを教える[56]。一方、政春をはじめ「日本人の夫」「亭主関白」を快く思わず、政春に聞こえよがしに嫌味を発したり、政春を厳しく諌めるようエリーに忠告する[34]。
エリーと同じく幼い頃に病弱だったことが原因で不妊となり、日本人男性と結婚したものの、子供ができないことで姑に責められ離婚した過去を持つ[46]。教会に預けられた身寄りのない乳児を亀山夫妻の養女にと紹介する。
第二次世界大戦が開戦し、夫が周囲から迫害を受けるようになったことを機に夫婦で渡英を決意。エリーの身を案じて余市へ駆けつけ、共に出国するために、政春との離縁をすすめる[50]。
終戦から2ヶ月後に夫とともに日本に帰国。夫の小樽での炊き出し活動に同行し、亀山宅に立ち寄る[51]。

チャーリー牧師
演 - マーク・マクラケン
キャサリンの夫。聖アンデレ教会の牧師。写真でのみ登場。

巡査
演 - バッファロー吾郎A
日本語がまだ不自由なエリーに親切に接し、町の世話役であり面倒見の良いキャサリンを紹介する[56]。警察官であるが、いつも制服を着たまま(すなわち勤務中)で食事しにこひのぼりに来ている。

ヨシ
演 - 三島ゆり子
亀山夫妻の新居の管理人[56]。家賃の催促は非常に厳しい。しかし、家賃の支払いが厳しくなり困り果てたエリー夫妻に茂に直接会って頼むように諭すなど、守銭奴というわけではない。

篠田梅子(しのだ うめこ)
演 - 飯島順子
亀山夫妻の新居の向かいに住む住民。エリーが外国人ゆえに出会った当初は警戒していたが、キャサリンの仲介でエリーと打ち解け合えるようになる[56]。

篠田信介(しのだ しんすけ)
演 - 伊藤えん魔
梅子の夫で大工。通称「信(しん)ちゃん」。夜中に聞こえた亀山夫妻の口喧嘩がうるさくて腹を立て、政春と喧嘩し近所を巻き込んでの騒動となるが[56]、その後、高熱で倒れた息子を親身になって看病してくれたエリーに感謝し、直後にエリーが倒れた際にはしし肉を差し入れする[44]。自宅を洋風に改装しようと考えるエリーに日本家屋の素晴らしさを教え説得し、亀山家を和洋折衷に改装する[35]。

篠田健太(しのだ けんた)
演 - 稲田都亜
梅子の息子。高熱で倒れた際、エリーに看護される[44]。

桃子(ももこ)
演 - ちすん
亀山夫妻の新居の近所の住民。エリーが外国人ゆえに出会った当初は警戒していたが、キャサリンの仲介でエリーと打ち解け合えるようになる[56]。

笹塚(ささづか)
演 - 岡本信人
住吉酒造が取り引きする波華銀行の部長[56]。

佐渡(さど)
演 - 佐川満男
銅製品を制作する老舗の町工場「佐渡製作所」の社長。ポットスチル[注 19]の制作を政春に依頼され、採算面が合わない理由で当初は断るが、懇願する政春の日本初のことに取り組む情熱に共感し、依頼を請負う[56]。しかし、ウイスキー製造計画が頓挫され、退職する政春から、いつかウイスキー製造が実現する日のために、ポットスチルの設計書を託される[33]。
その後、興味本位でポットスチルを制作し成功。鴨居商店に再就職した政春から再び制作依頼を受ける[35]。
政春がウイスキー工場を作るとき、再び政春にポットスチルの製造を依頼される。

佐渡の娘
演 - 島居香奈

藤岡次郎(ふじおか じろう)
演 - 山村憲之介
浪華銀行の行員で海運会社社長の次男。守谷の仲介で優子と見合いをする[57]。後日、優子から家や会社についての悩みを聞き、一緒に負担を背負うことを誓う[33]。

藤岡正太郎(ふじおか しょうたろう)
演 - 国広富之
海運会社の社長で次郎の父[57]。住吉酒造の臨時株主総会では立会人として出席し、政春に日本においてのウイスキーの需要性を問う。総会終了後、住吉酒造が経営不振の現状で、完成まで5年かかるウイスキー製造に新たに着手することに危惧を感じて反対し、次郎と優子の結婚の条件として、計画の中止と政春の解雇[注 20]を求める[33]。

沼田(ぬまた)
演 - にわつとむ
太陽ワインのポスター撮影をするカメラマン。10年前に鴨居と出会い、彼に才能を認められ、起用される[57]。

1922年(大正11年)撮影の赤玉ポートワインのポスター。

みどり
演 - 柳ゆり菜
太陽ワインのポスターモデル。鴨居の意図を察して、進んでヌードになることを了解し、撮影に臨む[57]。
赤玉ポートワインのポスターで日本初のヌード写真モデルを務めた、寿屋の宣伝部隊「赤玉楽劇団」のプリマドンナ・松島栄美子がモデル[54][66]。

鍋島(なべしま)
演 - 国木田かっぱ
太陽ワインを宣伝するチンドン屋。職が見つからず途方に暮れるエリーを偶然見かけ、街頭宣伝の歌姫「ミス・マーマレード」役に誘う[44]。

若女将
演 - 西村亜矢子
料亭「若松屋」の若女将。キャサリンの幼なじみ。エリーとキャサリンに依頼され、政春と鴨居が会談する席を用意する[34]。

政春のアルバイト先の酒屋の店主
演 - 酒田かおる

ウイスキーを売るよう交渉に行った先の酒屋の店主1
演 - 炭釜基孝

ウイスキーを売るよう交渉に行った先の酒屋の店主2
演 - 後藤基治

ウイスキーを買おうとして止められた男
演 - 隅谷和哉

山之内(やまのうち)
演 - 南条好輝
島田物産の専務。鴨居に頼まれウイスキーの職人を探し、スコットランドに来日できる職人がいないことと、政春が現地でも認められる程の手腕を持っていることを報告する[34]。

澤田清太郎(さわだ せいたろう)
演 - オール巨人
長越百貨店取締役。洋酒の味に精通し、発売前のウイスキーの試飲を依頼される。その際、鴨居商店の商法が不評であることを鴨居に告げ、「イミテーションの鴨居」と蔑称し警告する[37]。
終戦から3年後、政春が完成させた3級ウイスキー・「余市の唄」発表会に招待され、「『独りよがりの味』から脱却できたな」と、政春の頑張りを認め、取り扱うことを決めた。

久我山(くがやま)
演 - 金替康博
京都帝大の教授。

中村屋店主
演 - 小松健悦

鴨居商店の新規採用面接に来た人
演 - 伊勢村圭太、城之内コゴロー、クリ太マメ男、村角太洋、児玉智哉
こひのぼりの客としても登場した。

家主
演 - 海原かなた[注 21]
政春とエリーが最初に住もうとした洋館の家主。エリーが外国人ゆえに入居を断る[56]。

医者
演 - 門田裕
エリーが階段から転落した際に駆け付けた医者。

看護婦
演 - 堀部由加里、郷原慧
医者と共にエリーの元に駆け付けた看護婦。

渡芳利 (わたり よしとし)
演 - オール阪神
野々村の投資家仲間で、飲食店を複数経営する実業家。野々村の紹介で政春・エリーと出会い、北海道で開業を決めた政春に、ウイスキー工場としての開業は認めず、リンゴジュース事業の開業資金として20万円[注 18]の出資をする。

柴田健
演 - 団長安田
柴田商会の社長。終戦後、イミテーションウイスキーを販売し売れ行きを伸ばすが、他社との競合に競り勝つために、ドウカウイスキーに貯蔵しているウイスキーの原酒を分けてもらうよう政春に乞う[51]。

柴田の部下
演 - クロちゃん
柴田がドウカウイスキーへの初交渉時、鞄持ちとして同行する[51]。

英語教師
演 - リー5世
欣次郎の英語の先生。

生地屋店主
演 - 濱口秀二


北海道の人々

森野家の人々

森野熊虎(もりの くまとら)
演 - 風間杜夫
ニシン漁師の網元。一人称は「おら」、時々「俺」。政春に対しての二人称は、政春が単独で行商にきた時点では、政春の名字「亀山」から「カメ」と呼んでいた。政春がエリーたちと引っ越してきた直後の時点までは、政春への呼び方は「カメ」であったが、以降はエリーに習って「マッサン」と呼ぶようになる。
元は会津藩士の息子であり、5歳時に逆賊として故郷を追われ北海道に渡る。リンゴ農業が上手くいかず酒に溺れる父を嫌い家を出て以後、居住地を点々と渡り歩いた末に北海道に戻り余市に居を構えた。
小樽にて、偶然、鴨居商店のウイスキーの営業でやって来た政春と出会い意気投合、余市の自宅に招き、政春の売れ残ったウイスキーをすべて買い上げる[38]。
2年後、政春がウイスキー工場開業に向けて余市を訪れ再会した際には、ニシン漁の不漁により多額の借金を抱え困窮し人々から距離を置かれていた。故郷のない自らの経験から子供たちに故郷を遺したい思いと、政春の開業に夢を託し、家の敷地を政春の工場建設に譲渡する[40]。
1949年に娘のハナが俊夫と共に竹原へ移住すると決断したことから激怒。「親子の縁を切る」と告げたが、当のハナの意志が固く泣く泣く広島移住を認めることになった。
出立当日。旅姿で現われ「生まれ故郷の会津を見せてやる」と途中まで同行することを告げ、旅立って行った[注 22]。

森野ハナ(もりの はな) → 八澤ハナ(やざわ はな)
演 - 小池栄子(少女期:荒田悠良)
熊虎の娘。一人称は「おら」。政春と出会った当初、職業は小学校教員であったが[38]、2年後の時点では教員を辞め、叔父の農園の手伝いをしている。母を早くに亡くしたため、弟の一馬にとっては母親のような存在でもある。働き者でしっかり者。生前の母が父をとても愛していたことを知っている[40]。
政春が開業後は、エリーとともに工場の賄いをしたり、エマに漢字を教えたりする[49]。
俊夫とは相思相愛でありながらも、互いに素直になれずに反発していた。他の男性との縁談が舞い込んだことをきっかけに自ら告白をして、俊夫の気持ちを尋ねる。政春とエリーの後押しもあり、俊夫と想いが通じ合い結婚する[53]。
ラジオ番組に政春が出演中、一緒に聴いていた俊夫の様子がおかしかったことから問いただしたところ、彼が「竹原へ帰り旦那さま(政志)の酒蔵を守りたい」と切り出したことで夫と共に竹原への移住を決意。
熊虎に打ち明けたが、猛反対されてしまうものの最後は俊夫を選ぶ。それからしばらくして俊夫と共に旅立って行った。

森野一馬(もりの かずま)
演 - 堀井新太(幼少期:永井智悠)
熊虎の息子[38]。一人称は「おら」→「俺」。北海道大学進学を目指していたが、家の貧困により挫折しハナとともに叔父の農園の手伝いをする。母や家族に迷惑をかけ博打的な生き様をする父を嫌っていたが、家族を思う父の本心を知り和解する[40]。
その後、開業した政春の工場で働く[49]。
1943年には、海軍からの指示で酒石酸を採取するためのぶどう酒製造を任されるようになるが、銃後にいることを苦悩するようになる。同じ頃、職場から非難されていたエマと、互いに悩みを打ち明けるようになり、やがてエマから愛を告白される。当初反対するエリーに気兼ねしエマと距離を置こうとするが、やがてエリーが恋愛を認め再びエマと距離を戻した直後、赤紙が届き[45]、皆に惜しまれつつ出征する。出征直前、政春に学生時代の先輩と協力して密かに育てていた、ウイスキーの元となる大麦を託した[67]。
出征前に政春から「一番弟子」として認められる(ただし、実際には鴨居欣次郎の息子・英一郎が一番弟子である)。
1945年2月20日に中部太平洋の戦場にて帰らぬ人となる[51]。
戦死してから3年後、自身が生前政春に託していた大麦で熟成していたウイスキーの原酒から、国中の注目を集める3級ウイスキー・「余市の唄」が完成した。

森野シノ(もりの しの)
演 - 飯塚涼子
熊虎の妻で、進の姉。1912年(大正元年)に他界している[40]。


中島家の人々

中島三郎(なかじま さぶろう)
演 - 温水洋一
理容師。

中島チエ(なかじま チエ)
演 - 酒井若菜

三郎の妻。
中島よしえ(なかじま よしえ)
演 - 植野瑚子(少女期:林夏香)
三郎の娘でエマの小学校からの同級生。小学校時代はエマの隣の席であり、放課後も一緒に遊んだり、いじめられるエマを庇うなど仲が良い。エマからは「よっちゃん」と呼ばれている[49]。
17歳時には、エマとともに軍服を縫製する軍需工場で働く[45]。


北海道果汁の工員たち

福田栄一(ふくだ えいいち)
演 - 村上かず

田中マツ(たなか まつ)
演 - 西村頼子

遠藤チカ(えんどう ちか)
演 - 安部洋花
以上の3人(を含めて10人前後)は、倒産の危機による人員整理を勧める渡と野々村の命令を受けた政春に解雇を言い渡されるが、工場が海軍指定になったことで、解雇は撤回される。

宮下久美
演 - 大橋梓

中村美紀(なかむら みき)
演 - 堀内敬子
ウイスキー増産のための募集で採用面接にやってきた未亡人。夕張出身。小樽の食堂で厨房を手伝っていた経験から料理が得意であり、出征した夫の戦死により貧困となり母娘ともども親戚の家に世話になっていた。身の上の不幸を知ったエリーとエマの勧めもあり採用が決まり、エリーの手伝いをすることになる。
夫がマレーの戦場で英軍との戦闘で戦死したことや、自分たちよりも恵まれた境遇にあるエリーを妬み、特高に亀山宅内の情報を密告するが、家宅捜索を受けた際の亀山一家の様子を目の前にして自らの行いを反省し、謝罪する。この一件から故郷に帰ってやり直す決意をし、エリーの引き止めに応じず、秀子共々退職し余市から去る[50]。

中村秀子(なかむら ひでこ)
演 - 黒島結菜
美紀の娘で、愛称は「デコ」。正義感が強く物怖じしない性格で、母・美紀が採用面接試験中に、エリーとエマと出会い打ち解ける。教師になる夢を持っていることもあり、女学校に通えるエマを羨ましく思っている。母の採用が決まるとともに、自身も工員として採用が決まる。
母がエリーを密告したことを知りショックを受けるも母の気持ちを察して許す。翌日母共々退職し、余市を後にする[50]。

工場で樽を転がす男
演 - 浅香航大
147話で、雪の工場敷地でウィスキー樽を転がす姿が、数秒だけ映しだされる。端役であるが、鴨居英一郎を演じた浅香航大が北海道編での出演を希望して端役出演が決まったことを玉山鉄二が明かしている[68]。
〈以下の人々は戦後、樺太から引き揚げて北海道果汁に住み込みで働くことになった従業員たち〉

樺太の男
演 - 蟷螂襲

樺太の親子
演 - 山田裕、田所草子、坂口苺

復員兵
演 - 佐藤太一郎
時計を盗られたと勘違いした男

演 - 中村大輝
父の形見の懐中時計を失くし、隣で寝ていた悟が盗ったものと決めつけ、「シベリア帰りは性根が腐っている」と罵ったり殴りつけたりした。蒲団の下から時計が見つかり悟に一応謝ったものの、怒った彼に殴り返される。


その他の北海道の人々

西田進(にしだ すすむ)[注 23]
演 - 螢雪次朗
熊虎の義弟(シノの実弟)であり、ハナ、一馬の叔父。先祖は熊虎と同じく会津藩士であったが、明治維新により逆賊として余市に追われ農業を始めた。リンゴ農業の組合長であり、余市を捨てた過去を持つうえに多額の借金を抱えても大口を叩く熊虎を嫌っていたが、子たちのために政春に頭を下げ開業の協力を申し出た熊虎を見直し、和解する[40]。

武井(たけい)
演 - 北原雅樹
政春に勧められ飲んだウイスキーが不味かったことから、政春を詐欺師ではないかと疑う[38]。ニシン漁師時代は、熊虎から家族共々恩恵を受けていたものの、2年後には熊虎の借金の取り立てをしている[40]。
ニシン漁師たち

演 - 阿部達雄、長谷川泰
小樽でウイスキーを試飲した人たち
演 - 棚田満、長流3平

政春に道を聞かれた番頭
演 - 浅田直也

地主
演 - 三上勝由

杉本タケシ(すぎもと たけし)
演 - 向井悠悟
エマの小学校時の同級生。じゃがいも農家の息子で、母は既に他界し、家業の繁忙期は学校を休んで父を手伝っている。優しい母を持つエマへの嫉妬から、母が外国人であることでエマをからかったり、エマが母親と似ていないことから「本当の子じゃない」「拾われた子」と言い放ち、憤ったエマに突き飛ばされ怪我を負う。後日、熱を出して学校を欠席したエマを見舞うとともに謝罪し和解。見舞いに同行したよしえに、エマに好意を寄せていることをばらされる[49]。

ミツル
演 - 二宮輝生
エマの小学校時の同級生。タケシとともに、エマをからかう[49]。

タケシの父
演 - 久保田浩
タケシがエマに暴言を放ったことを知り、謝罪のためにタケシを連れて亀山家を訪れる[49]。

斎藤先生
演 - 楠見薫
エマの小学校の学級担任。

女学校の先生
演 - 川瀬真理
エマの女学校の学級担任。

清水春枝(しみず はるえ)
演 - 南明真梨奈
女学校時代のエマの同級生。早くに結婚した。

医師
演 - 平澤洋爾
エマが熱を出した際に駆け付けた医師。

上杉龍之介(うえすぎ りゅうのすけ)
演 - 北大路欣也
ウイスキー通の作家[注 24]。余市の中島家の床屋へ立ち寄った際、偶然、出来立てのウイスキーの試飲に奔走するエマと出会ったことを機に、亀山宅に招かれ家族と打ち解ける。後日、ウイスキーを絶賛する内容の彼の手記が新聞に掲載される[69]。

問屋
演 - 白井哲也、藺森誠、南谷峰洋、田中之尚、たなべ勝也
ドウカウヰスキーの新商品「余市の唄」の試飲会に出席した。

ドウカウヰスキーの大麦・石炭仕入れ業者
演 - 酒井くにお・とおる

海軍士官
演 - 柏原収史
戦況から洋酒の輸入が困難になったことから、余市で初出荷したウイスキーが売れず倒産の危機にある工場を視察する。ウイスキーを試飲しスコッチには及ばないと見下す発言をする[注 25]ものの、売れ残ったウイスキーをすべて買収し、工場を海軍指定に決め、これによってドウカの経営は息をつくことができた[69]。
以後も生産状況の確認のため度々工場を訪れる。後にエリーが特高警察にスパイ容疑をかけられ連行されそうになる場に出くわし、かねてより特高のやり方を苦々しく思っていたこともあり、特高の強引な捜査を咎め、エリーを解放するよう命ずる[50]など、要所要所で政春一家や工場を助けている。
軍人然とした高圧的な態度が鼻にはつくものの、根本的には好人物であり、海軍士官としての許容範囲内で亀山夫妻に好感を示し、さりげなく協力していた。
上杉の登場から程なくしてドウカの工場を訪れているため、上杉の知り合いか親族である可能性があるが、劇中では上杉と対面していないため、上杉との関係性は不明。ただし、時系列を考えると、この海軍士官がドウカの工場を訪れるきっかけを作ったのが上杉(の書いた記事)である可能性は高い。

桜田(さくらだ)
演 - 池田成志
特高警察のリーダー格。
亀山宅のラジオのアンテナ取り付け工事や、エリーが英文の手紙[注 26]を持っていることから、エリーをスパイと疑い、亀山家へ部下を連れて乗り込み、強引に家宅捜索を始めた末に、エリーを連行しようとするが、出くわしていた海軍士官から咎められ、渋々エリーを解放する[50]。

特高警察の刑事[注 27]
演 - 竹原圭祐
桜田の部下。外国人の夫を持つキャサリンを追跡するとともに、キャサリンが訪問したエリーに対しスパイ容疑をかけ亀山家を張り込む。また、亀山宅を出入りする美紀を呼び止め、エリーに関して聴き込みをする[50]。美紀の証言をもとに家宅捜索をし海軍士官から咎められた後も、亀山宅を張り込み続ける[45]。
三郎の床屋に来ていた若者

演 - 光平崇弘
出兵するため、坊主頭にしていた。

写真屋
演 - 海原はるか
一馬の出征が決まり、旅立つ2日前に一馬の親族と亀山家が集まった家族写真を撮る写真屋[67]。

少年
演 - 屋島昂太
終戦間際、エリーハウスに忍び込み、何かを物色していたところをエリーに見つかり、「なんで父ちゃんを殺したアメリカがここにいる?」と叫んですぐに立ち去った。

小林(こばやし)
演 - 田中宗利
復員兵を北海道果汁に案内してきた役場の男。

兵事係
演 - 多々納斉
一馬の召集令状を持ってきた。

絹(きぬ)
演 - 三宅唯真
勤労奉仕先でエマをいじめた。

綾(あや)
演 - 納富有沙
絹と同様に、勤労奉仕先でエマをいじめた。

進駐軍の日本人女性職員
演 - 清水美沙
エマの同僚。

アナウンサー
演 - 井之上淳

ひろみ
演 - 吉沢紗那
熊虎の知り合いの娘。ドウカウヰスキーの工員採用面接に来ていた。

宮下久美の子どもたち
演 - 中川江奈、松本和真

川上一恵(かわかみ かずえ)
演 - 天海祐希
エリーの主治医。往診の帰り、エリーハウスへ立ち寄った。
ハウスの外で政春に彼女の病状を問われ、残された時間が僅かであることを告げる。
4:777 :

2022/09/12 (Mon) 04:52:53

その他の人々

日本人の客
演 - 上杉逸平
マッサンとエリーが日本に行くために乗船した船に同乗していた客。

バスの運転手
演 - 高見健

運送業者
演 - 戸田都康
広島の実家に鴨居商店から届いた紀州みかんを運んできた運送業者。

郵便配達員
演 - 高杉佳幸
エリーの元へ早苗の危篤を知らせる電報を届けに来た。

車掌
演 - 三角園直樹

乗客
演 - 勝野賢三
汽車の中で政春と喧嘩した。

汽車で政春の向かいの席に座った親子
演 - 友寄由香利、伊田吉満

古谷
演 - 藤田功次郎
北海道果汁のリンゴ汁を返品に来た。

兵隊
演 - 浜崎大介
終戦を知り、気を失って倒れたエリーの中のイメージとして出現。「俺はお前に殺された。日本から出て行け!」と、終戦間際にエリーハウスに忍び込んだ少年(のイメージ)と共に、エリーを責め立て、苦しめた。

ラジオの声
演 - 重光萬石

ミラー
演 - クリストファー・ペレグリニ

フィッツジェラルド
演 - デビット・マックフォール
以上2名はドウカウヰスキーの工場を訪ねてきたアメリカの進駐軍。余市空襲に際し、すでに日本占領後のプランを見据えてドウカの工場を攻撃目標から外していたことをマッサンに明かした。

1971年(昭和46年)の場面に登場する人々

司会者
演 - 高田則夫
授賞式で司会を務めた。

アコーディオン奏者
演 - アンジェロ・アクィリーニ
5:777 :

2022/09/22 (Thu) 09:35:07

【経済人・実業家列伝】第9回 竹鶴政孝【ニッカウヰスキー】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bgijKJ2T6x4

竹鶴政孝 - Bing images
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竹鶴政孝 - Bing video
https://www.bing.com/videos/search?q=%e7%ab%b9%e9%b6%b4%e6%94%bf%e5%ad%9d&FORM=HDRSC3

△▽

竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる[1][2][3]。


竹鶴という苗字は、家(現在の竹鶴酒造)の裏にあった竹林に鶴が巣を作ったことから由来している[4]。親会社(アサヒビール)に機能子会社化されるまで大株主であった元オーナー一族の竹鶴威は養子(実の甥)にあたる。

1923年、鳥井信治郎に招かれ寿屋(現在のサントリー)山崎蒸溜所初代所長として、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造を指揮。その後、より本格的なスコッチの製造を指向して大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)を興した。あくまでも品質にこだわり続けた技術者として知られる[2][5]。

1962年、イギリスのヒューム外相が来日した際、“一人の青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった”という意味の発言をしたといわれている。もちろんこれは竹鶴に対する賞賛であった。このとき話題に出たノート(竹鶴ノート)はしばらく所在不明であったが、のちに竹鶴が当時所属していた摂津酒造(1964年10月、宝酒造に吸収合併)関係者の子孫が保存していることが分かり、ニッカウヰスキーに寄贈された。

酒量はウイスキー1日1本。晩酌には同社の二級ウイスキー(1960年代 - 1970年代当時)であるハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の超極薄の薄焼き煎餅と供に楽しみながら飲んでいた[6]。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。

2014年度後期に放送されたNHK連続テレビ小説『マッサン』の主人公である亀山政春(演 - 玉山鉄二)のモデルとなった人物である。


経歴

生い立ち
広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む竹鶴敬次郎の四男五女の三男として生まれる[4]。竹鶴家は頼家、吉井家と並ぶ竹原の三大塩田地主のひとつで、1733年(享保18年)から酒造業も手がけていた[4][5][7]。政孝の家は祖母の代に分家し製塩業を営んでいたが、本家の主人夫妻が長男誕生直後に相次いで亡くなったため、政孝の父・敬次郎が後見として本家に入って酒造業を継いだ[2][4]。このため政孝は分家ながら三男として竹鶴の本家で生まれた。当時、広島の酒造業界では三浦仙三郎をリーダーに、抜群のブランドを誇った兵庫の灘酒に負けぬ酒を造ろうと、蔵元たちが酒づくりの改良に意欲的に取り組んでいたが、敬次郎もそのグループの主要メンバーだった[2][7]。のちに三浦は醪をゆっくりと低温で発酵させる「吟醸づくり」の技術を確立し、酒には不向きとされていた広島の軟水から、灘酒に負けない高品質の酒をつくることに成功した[8][9]。これが今日、灘・伏見と並び、日本の三大銘醸地と称されている広島の酒(西条酒)の始まりである[8][10][11]。

1907年、全国の酒を一堂に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占したのを始め[2][7][10]、1911年に始まった全国新酒鑑評会など、鑑評会や品評会で広島酒が上位入賞したことで、非常なニュース性をもって全国に知れ渡り、これを契機に各地で精力的な酒造りが始まった[12]。敬次郎の酒づくりは厳しく、政孝も大きな影響を受け、厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は、広島の環境と父を通じて育まれた[2]。2014年現在、政孝の生家(実家ではない。生まれた時、両親がちょうど本家に来ていた)の造り酒屋は「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いているが、こちらは竹鶴家の本家であり、前述のように政孝は分家の分家筋にあたる。幼少期の政孝は好奇心旺盛、相当な暴れん坊であったという[5]。


忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)に進んだ政孝は通学に時間がかかりすぎるため、3年生に進級した際に寮生活を始める。一学年下には後に熊本の第五高等学校(現熊本大学)から京都帝国大学へと進学し総理大臣となる池田勇人がおり、池田が亡くなるまで交流が続いた[4][9]。政孝の影響もあり、池田は国際的なパーティーでは国産ウイスキーを使うように指示していたという。なお、当時の池田少年は政孝の布団の上げ下ろし係だった[4]。政孝は寮長や柔道部の主将を務めていた[13]。

酒造りの第一歩
大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学ぶ[14]。この進学は、兄二人が家業の酒造りを敬遠した故でもあったという[15][16]。大阪高等工業学校の卒業を春に控えた1916年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた竹鶴は、大阪高工の先輩・岩井喜一郎[17](摂津酒造常務)を頼り、当時洋酒業界の雄であった大阪府東成郡住吉村(現・大阪市住吉区帝塚山東5丁目)の摂津酒造[18][19](摂津酒精醸造所、1964年10月宝酒造と合併。1973年3月大阪工場廃止。[20]) を訪ね、卒業を待たずに入社[14][注釈 1]。12月には徴兵検査があったため、それまでの期間限定の予定だった[14]。入社後は竹鶴の希望どおりに洋酒の製造部門に配属される[14]。ある時はロンドンの出版社が刊行していた『処方書』を手に試験室に篭もり、またある時は現場に張り付いていた竹鶴は入社間もなく主任技師に抜擢される[14]。その年の夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかったぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発した[14]。しかし、竹鶴が製造した赤玉ポートワインは徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかった[14]。このことで竹鶴の酒造職人としての評判が世間に広がることになる。

同年12月、竹鶴は徴兵検査を受ける[14]。幼い頃から柔道などをたしなんでいたため体力に自信のあった竹鶴は甲種合格を確信していたが、検査官が竹鶴の履歴書を見た際、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術であるので入隊させずに今後も製造に従事させたほうが軍需産業を活性化させる」と判断し、乙種合格とされたため軍隊に入隊せずにすんだ[14]。竹鶴は、乙種合格と郷里には来年冬に帰る予定、そして勤務を1年延長する希望を阿部(摂津酒造 (摂津酒精醸造所)社長)に伝えたところ、快諾され、摂津酒造での勤務を継続することとなる[14]。

留学
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかった。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画する。1918年、竹鶴は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶ[21]。彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んでエルギンのロングモーン蒸留所(英語版)で実習を行わせてもらうこともあった。最終的に竹鶴はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所(英語版)で実習を行った。ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っている。政孝のこの現地修行が成功していなければ、現在の日本のウイスキーは実現していなかったといわれる[22]。

この間、二人の兄は酒造とは無関係の別々の道に進んでいた(長兄は早稲田大学卒業後に商社マンとなり、マレーシアでゴム栽培に取り組んだが頓挫。次兄・可文(よしぶみ)は九州帝国大学を卒業後、北海道炭礦汽船のエンジニアとなり、常務になってからは札幌に住んでいた。養子・威が北大生だったときは生活面でバックアップした)ため、竹鶴に会社の跡を継がせるつもりでいた両親は悲しんだと言われる。

スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼まれて末弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えていたが、その姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め、1920年1月8日結婚。しかし、ラムゼイを含むリタの家族のほとんどに反対されたため、教会ではなく登記所で2名の証人と登記官の前で宣誓するだけの寂しい結婚式であった[23]。当時では珍しい国際結婚だった[24]。

帰国
同年11月、リタを連れて日本に帰国。結婚については実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん竹鶴が分家するという形で一応の決着をみた。結婚後、摂津酒造に程近い帝塚山に新居を構えた[18]。

帰郷後、竹鶴はウイスキー造りの研修結果を「実習報告」(竹鶴ノート)にまとめて岩井に提出し、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまった。その後1922年竹鶴は摂津酒造を退職し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教える[18][25][26]。

ジャパニーズ・ウイスキーの誕生

1923年、大阪市東区住吉町(現・中央区松屋町住吉)の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画。社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得た[26]。鳥井は以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、竹鶴とも数度面会したことがあった。鳥井は竹鶴を年俸四千円という破格の給料で採用した。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われる。同年6月、竹鶴は寿屋に正式入社[26]。

竹鶴は、製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていたが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示した。竹鶴は大阪近郊の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から三島郡島本村大字山崎(現・島本町山崎5丁目)を候補地に推した。工場および製造設備は竹鶴が設計した。特にポットスチルは同種のものを製造したことのある業者が国内になく、竹鶴は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えた。[27]

1924年11月11日、山崎蒸溜所が竣工し、竹鶴はその初代所長となる(山崎蒸溜所竣工日は、麦芽製造開始日の12月2日とされることもある)。ただし、この蒸溜所は社員は竹鶴のほかに事務員1名がいるのみの小さい工場であった。竹鶴は酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考え、醸造を行う冬季には故郷の広島から杜氏を集めて製造を行った。また、当時の酒は製造時の量に応じて課税されていたが、貯蔵中に分量が減るウイスキーに対してこの方式は不利であった。このため竹鶴は当局に掛け合い、樽に封印をすることで出荷時の分量で課税するよう認めさせた。鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造をさせたが、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎蒸溜所は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう指示。出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため難色を示した竹鶴だが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意する。

1929年4月1日、竹鶴が製造した最初のウイスキー『サントリー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売される[24][26]。しかし、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず(竹鶴が本場同様に入れたピートの独特の臭いが受け入れられなかったという説がある。このことも含め、鳥井自身は竹鶴がスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していた節がある[28]。サントリー角瓶の項も参照)、販売は低迷した。同年寿屋は神奈川県横浜市鶴見区市場町(現・元宮2丁目)の日英醸造のビール工場を買収したが、竹鶴にその工場長も兼任するよう命じた。山崎と鶴見の距離が離れすぎていることや、異なる種類の酒であることから竹鶴は当初あまり乗り気ではなかった。

1933年11月、寿屋は突然、鶴見工場の売却を発表する。購入額よりはるかに高値であったことから、寿屋にとってはよい商談であったが、工場長である竹鶴に事前に何の連絡もなかったことから、寿屋に対し不信感を持つようになる。

大日本果汁(のちニッカウヰスキー)の設立
1934年3月1日、後続の技師が育ってきたこと、竹鶴が帝王教育を任されていた鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴は寿屋を退職[26]。4月、北海道余市郡余市町でウイスキー製造を開始することを決意(現在の余市蒸溜所)、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任した[29]。筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎[30]。加賀の妻は1924年以来、竹鶴の妻のリタから英会話を学んでおり、竹鶴が事業を始めることを聞いた加賀は他の2人の出資者と共に竹鶴を支援することにしたという[31]。

ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった[29]。このため農家が持ってきたリンゴは1つ残らず買い取り、しかも重量は農家の自己申告をそのまま信用して買ったという。出荷できないような落ちて傷ついたリンゴでも残らず買ってくれるというので、大日本果汁の工場にはリンゴを積んだ馬車の列ができた[30]。

ただしこの記述は竹鶴自身の自伝を元にしている。出資者の記述はこれとはだいぶ違い、竹鶴は余市で起業する際、寿屋と鳥井には大変に恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だと説明して出資を募ったという。創業後、莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、ようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出して来たという。実際、大日本果汁は、創業後しばらくは酒造免許を取得していない。

このような経緯もあって、地元の農家の人たちは当初、政孝が余市でウイスキー製造を企てているとは知らず「ジュース工場の社長がリンゴをたくさん買ってくれる」と、信じていたという。

1935年5月、日果林檎ジュースの出荷を開始。しかし竹鶴の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったという[30]。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだ。同年9月、妻リタを余市に呼び寄せる。

1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売。社名の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名する[30]。直後、ウイスキーは統制品となり、日果の工場は海軍監督工場となる。この後終戦までは配給用のウイスキーを製造した。


ウイスキー一筋の人生

1943年、大日本果汁取締役社長。子供ができなかったため、戦時中ではあったが広島工業専門学校(現・広島大学)醗酵工学科在学中の甥・威(旧姓:宮野、同じ広島県生まれ。戦後に旧制北海道大学工学部応用化学科を卒業)を養子に迎える。それまでは工場内に建てた家に住んでいたが、1940年代後半、隣の山田町に新居を構える。

なお、1930年に山口房子(後に改名してリマとなる)を養女としていたが、成長したリマと夫妻との関係は次第に悪くなっていき、リタの晩年になるまで関係は修復されなかった。その為、自伝などにも養子としては威のこと以外は触れられていない。

1945年、終戦になると他社が相次いで低質のウイスキーを発売。中には原酒を全く使っていないものもあった。竹鶴は「わしゃ三級は作らん」とこのような低質の製品を作ることを拒否していたが、筆頭株主だった加賀らに説得され、1950年、安価な三級ウイスキーを作ることになる(このブレンドには養子の威を初めて担当させている)。しかしこのとき、あえて原酒を当時の酒税法上の上限いっぱいの5%まで入れさせてせめてもの抵抗をしている。

1961年1月17日、妻リタ没。その際、竹鶴は、義理の孫(威の息子)である竹鶴孝太郎曰く「大人がそれほど取り乱すというのは初めて見(た)」というほど、「おばあちゃんが死んじゃった」と家中で泣き喚いていたという[32]。

1965年、余市町町議会議員、余市体育連盟初代会長、商工会議所初代会頭などを歴任した功績を讃えられて余市町名誉町民に選ばれる[33]。

1967年、新原酒工場建設候補地見学のため宮城県を訪れた。このとき突然のひらめきから、ある川の水でブラックニッカの水割りを作って飲んでみたところ、納得の風味を得ることができたので、その場でこの地に工場を作ることを即決した。新工場の設計も竹鶴が行った。この工場は仙台工場(宮城峡蒸溜所)として1969年に竣工した。興味深い逸話として、この川の名前を地元の人に聞いたところ、なんと「新川(にっかわ)」という答えが返ってきたというものがある[34]。

1969年、勲三等瑞宝章を受章。これ以前に勲四等の打診があったが、もし受け取ると、今後、ウイスキー製造者全員が最高でも勲四等止まりになってしまうという理由で固辞したことがあるという。

1970年、ニッカウヰスキー代表取締役会長に就任。同年、本格的道産酒開発の功績により北海道開発功労賞受賞[29][35]。

1979年8月29日、肺炎により入院していた東京都の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去。85歳没。墓は、長らく竹鶴がウイスキーを製造してきた北海道余市町に存在し、妻のリタと共に埋葬されている。



逸話

竹鶴はウイスキーの品質だけでなく、その容器も「嫁入り道具」としてこだわっている。高級品の瓶にはさりげなく竹や鶴があしらわれていたりと細かい仕事がされていることがよく分かる。現在も「鶴」など一部製品にはこの伝統が残されている。

工場の地元、旧制余市中学校(のちの北海道余市紅志高等学校)校長に頼まれ、1941年、中学校にジャンプ台を寄贈した。このジャンプ台は当初桜ヶ丘シャンツェと命名されたが、その呼称は定着せず、竹鶴シャンツェと呼ばれている[36]。

このジャンプ台で練習し、後にニッカウヰスキーに入社した笠谷幸生は『日の丸飛行隊』と呼ばれる世界的なジャンプ選手となり、1972年の札幌オリンピック(70m級ジャンプ)で金メダルを獲得した。竹鶴シャンツェに併設された笠谷シャンツェでは余市出身の船木和喜や斉藤浩哉といった選手たちもここでジャンプを覚えた[29][37]。笠谷の金メダルはニッカウヰスキーの大きな宣伝にもなった。政孝は企業がスポーツのスポンサーとなる先駆けでもあった[36]。当初木造であったが、1967年頃に鉄骨製になり、2000年には河川工事の関係で200メートル南に移動された。

朝日麦酒の資本投下によりニッカが連続蒸留機を購入する際、受注先のブレアー社は、大別して最新式と旧式の2機種の蒸留機を製造していた。しかし、発注者がニッカの竹鶴だと聞くと、ブレアー社は迷わず旧式蒸留機の製造準備だけを始めたという。ブレアー社の読みは当たり、実際にニッカが発注したのは旧式のカフェ式連続蒸留機であった。旧式蒸留機の場合、効率の悪さから穀物由来の香りや成分が蒸溜液の中に僅かに残り、醸造されるウイスキーに個性を持たせる。ブレアー社は、竹鶴がそうした狙いから旧式の方を発注するだろうと判断したのである。

豪放磊落な人物で、逸話は数多く残されているが、竹鶴威がニッカウヰスキーのwebサイトで回顧録という形で連載し紹介していた。

孫である竹鶴孝太郎に「お前は国際結婚だけはするなよ」と言い遺した[38]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E9%B6%B4%E6%94%BF%E5%AD%9D


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ニッカウヰスキーデータベースwiki
https://w.atwiki.jp/nikka/pages/355.html

竹鶴政孝年譜

1894年(明治27年)6月20日 竹鶴政孝生誕

1913年(大正2年)18-19歳
4月 大阪高等工業学校(現大阪大学)醸造科入学

1916年(大正5年)21-22歳
3月 摂津酒造入社
3月 大阪高等工業学校卒業
12月 徴兵検査乙種合格(徴兵猶予)

1917年(大正6年)22-23歳
1月 このころ留学の話が出る

1918年(大正7年)23-24歳
6月29日 英国留学出発
12月 リバプール着・グラスゴーで勉強開始

1919年(大正8年)24-25歳
4月 ハイランド視察・エルギンでネトルトン教授と面会
7月 フランス視察
12月 例のクリスマスパーティー

1920年(大正9年)
1月8日 リタ夫人と結婚(登記所結婚)・ヘーゼルバーン実習
11月 帰国

1922年(大正11年)
リタ流産
4月 摂津酒造退職
9月1日 リタ帝塚山学院英語教員就任
竹鶴政孝セント・アンドリュース中学校(桃山中学)科学教員就任

1923年(大正12年)
6月 壽屋入社
9月1日 関東大震災
10月 山崎工場用地買収
12月 壽屋、ウイスキー製造免許申請を大阪税務監督局に提出

1924年(大正13年)
3月6日 竹鶴威生誕
4月7日 ウイスキー製造免許認可
4月15日 山崎工場起工式
11月11日 山崎工場竣工式

1925年(大正14年)
1月 リタ一足早く訪英
6月 政孝訪英
12月 帰国

1928年(昭和3年)
12月1日 日英醸造鶴見工場買収

1929年(昭和4年)
2月 鶴見工場長就任(山崎工場と兼任)・逗子に転居
4月1日 サントリー白札発売(テスト販売の可能性あり)
4月 壽屋新カスケードビール発売

1930年(昭和5年)
5月1日 サントリー赤札発売
5月 オラガビール発売
房子(リマ)を養女に迎える

1931年(昭和6年)
3月1日 鳥井吉太郎壽屋入社、鶴見工場に配属
4月6日 伏見宮殿下山崎工場ご訪問
8月 イギリス再訪問、鳥井吉太郎・リタ・リマ同行

1932年(昭和7年)
2月 帰国
3月15日 鳥井吉太郎取締役副社長就任
サントリー十年ウヰスキー角瓶発売

1933年(昭和8年)
6月 10年契約満了、契約延長
11月 鶴見工場売却

1934年(昭和9年)
3月1日 壽屋退社
7月 大日本果汁株式会社設立、代表取締役専務就任
10月 余市工場建設

1935年(昭和10年)
5月 ニッカ林檎汁発売
9月 リタ・リマ余市に転居

1936年(昭和11年)
秋 ウイスキー蒸溜開始

1937年(昭和12年)
6月 甘味林檎酒発売
10月 アップルゼリー、グーズベリーゼリー、グレープゼリー発売

1938年(昭和13年)
9月 アップルワイン発売

1940年(昭和15年)
7月 第1号ニッカウヰスキー発売
7月 ニッカブランデー発売
10月 公定価格制度導入

1941年(昭和16年)
アップルワイン・ポケット発売
12月8日 太平洋戦争開戦

1942年(昭和17年)
4月 余市町町議会議員に当選(昭和22年退任)

1943年(昭和18年)
4月1日 級別制度導入
11月 大日本果汁株式会社取締役社長に就任
竹鶴シャンツェ竣工

1945年(昭和20年)
8月15日 太平洋戦争終戦
8月 ニッカウ井スキー丸びん発売

1946年(昭和21年)
12月 蒸留棟火災(ヒゲのウヰスキー誕生す)

1948年(昭和23年)
4月 初代余市町体育連盟会長に就任(昭和25年退任)

1949年(昭和24年)
4月 竹鶴威入社
酒税法改正、原酒含有率1級30%以上、2級5%以上、3級5%以下

1950年(昭和25年)
4月 酒税法改正、公定価格廃止
9月 スペシャルブレンドウイスキーポケット壜発売
スペシャルブレンドウイスキー角びん(3級)発売

1951年(昭和26年)
5月? スペシャルブレンドウイスキー丸びん(3級)発売
8月 ドライジン、キュラソー、ペパーミント発売
10月 角壜ウヰスキー(新角)発売
10月 初代余市町商工会議所会頭に就任(昭和29年退任・顧問に就任)

1952年(昭和27年)
4月 日本橋に本社を設置
8月15日 社名を「ニッカウヰスキー株式会社」に変更
11月 麻布工場竣工

1953年(昭和28年)
3月 酒税法改正、123級→特12級
6月 日本洋酒酒造組合顧問に就任
陶器入りアップルワイン発売

1954年(昭和29年)
8月3日 朝日麦酒と資本提携

1955年(昭和30年)
7月 ボンチャイナ発売
11月 ゴールドニッカ発売

1956年(昭和31年)
5月 黄綬褒章受章
6月 ブラックニッカ特級発売
6月 ドライジン(48%)発売
11月 丸びんニッキー発売

1957年(昭和32年)
4月 チェリーブランデー発売
6月 シェーカー型発売
11月 ベアーニッカ発売
11月 クリスタルニッカ発売
リタ東京に入院・転居

1958年(昭和33年)
11月 ホワイトベアー発売

1959年(昭和34年)
5月 ルーシー来日
10月 西宮工場竣工
10月 ブラックニッカ(西宮工場落成記念)

1960年(昭和35年)
2月 紺綬褒章受章
6月 ベアーニッカ角びん発売
10月 弘前工場竣工
10月 グランドニッカ(2級)発売

1961年(昭和36年)
1月17日 竹鶴リタ逝去
8月 朝日シードル株式会社取締役社長に就任
11月 琉球ニッカウヰスキー設立

1962年(昭和37年)
4月 酒税法改正、原酒混和率、特級20%以上、1級10%以上、2級10%未満
8月 カフェスチル導入のため欧米視察
9月6日 エキストラニッカ(1962)発売(丸びんニッキーの後継商品)
10月 スーパーニッカ(1962)発売

1963年(昭和38年)
3月 北海道開発庁長官より表彰
9月 ギルビー社と技術提携のため渡欧
12月 ギルビージン発売

1964年(昭和39年)
2月 ハイハイニッカ発売
8月 創立30周年を機にニッカ社内報開始(鶴声)
10月26日 西宮工場にてカフェ式蒸留器の稼動開始
11月 黒角ニッカポケット発売
11月 ニッカブランデースリースター発売
11月 グリーンティ、バイオレット、メロン発売
12月 ニッカブランデーファイブスター発売

1965年(昭和40年)
2月 余市町名誉町民の称号を受ける
2月 リキュール7種類発売
5月 九州鳥栖工場竣工
5月 山本爲三郎逝去のため朝日酒造株式会社取締役社長に就任
6月 ニッカブランデーフォアスター発売
9月 ブラックニッカ発売

1967年(昭和42年)
6月 柏工場竣工

1968年(昭和43年)
5月 酒税法改正、原酒混和率、特級23%以上、1級13%以上、2級7%以上
6月 ホワイトニッカ発売
10月 G&Gゴールドニッカ(1968)発売

1969年(昭和44年)
4月 勲三等瑞宝章受章
5月10日 宮城峡蒸留所竣工
5月 オールドニッカ発売

1970年(昭和45年)
5月 グランドニッカ(特級)発売
5月 ニッカウヰスキー株式会社取締役会長に就任
9月 北海道開発功労賞授賞
11月 スーパーニッカ(1970)リニューアル発売

1971年(昭和46年)
10月 ニッカブランデーVSO発売
10月 ニッカブランデーVSOP発売

1972年(昭和47年)
9月 ノースランド丸びん発売

1973年(昭和48年)
10月 ノースランド角びん(特級)発売
?月 スーパーニッカ(1973)リニューアル発売

1974年(昭和49年)
11月 スペシャルエイジ陶器ボトル発売
11月 キングスランド丸びん発売

1975年(昭和50年)
3月11日 ブラック50発売
9月 G&G黒びん(1975)発売

1976年(昭和51年)
4月 ブラックニッカデラックス発売
7月 エキストラニッカ(1976)リニューアル発売
9月 仙台工場第二期増設工事竣工
10月 鶴(1976)発売
ジーンズボトルG&G発売
ジーンズボトルブラック50発売

1977年(昭和52年)
3月 ニッカブランデーXO発売
9月 スーパーニッカガロンボトル発売
10月 G&G黒びん(1977)
10月 ブラックニッカ六角ボトル発売
10月 栃木カフェグレーンプラント稼働
?月 スーパーニッカ(1977)リニューアル発売

1978年(昭和53年)
4月27日 酒税法改正、原酒混和率、特級27%以上、1級17%以上、2級10%以上
10月 黒角ニッカ発売
10月 ハイニッカデラックス(マイルド)発売
11月 キングスランド角びん発売

1979年(昭和54年)
3月 ブラック50デラックス発売
8月 竹鶴政孝逝去




1980年(昭和55年)
10月 フォーチュン80発売
11月 キングスランドポットスチル型発売

1981年(昭和56年)
9月 エキストラニッカ(1981)リニューアル発売

1982年(昭和57年)
4月 南青山に本社移転
11月 スペシャルエイジリニューアル発売
?月 ピュアモルト北海道発売

1983年(昭和58年)
9月 マイルドニッカ発売
11月 ニッカブランデーEXTRA発売

1984年(昭和59年)
2月 アップルワインソフト発売
6月 メモリアル50発売
7月 yz発売
8月 ハイニッカデラックス発売
9月 ノーサイド発売
11月 シングルモルト北海道12年発売
11月 ピュアモルト・ブラック発売
11月 ピュアモルト・レッド発売

1985年(昭和60年)
4月 ニッカシードル北海道限定発売
6月 ニューブレンドブラックニッカ発売
11月 フロム・ザ・バレル発売
?月 ブラックニッカスペシャル発売

1986年(昭和61年)
2月 ニューブレンドハイニッカ発売
4月 ニッカシードル関東地区発売
9月 ザ・ブレンド発売
11月 ザ・ブレンド17年発売


▲△▽▼


第21回「洋酒のポケット瓶を集めた中学生時代」の巻

 中学生というのは、大人の真似をしたがる年頃。全員が全員、背伸びしたいと思っている訳でもなくクラスのなかの一握りが、大人文化を導入するコーディネーターとかブローカーとかになる。
 中学二年生のころ、私のクラスに髪の毛を油でなでつけ、ボタンダウンのワイシャツを詰め襟の下に着こんでいるような酒落男がいた。どこから手にいれるのか、資生堂タクティクスなど、男性用整髪料のミニミニ試供品をたくさん持っていた。クラスの男子から「ちょうだい」とせがまれるのを、自分に人望があると勘違いしているようなヤツである。

 林間学校が行われたとき、ウイスキーを持ってきたのも彼だ。香水瓶のような、小さな瓶に入っていたので、「これは試供品なのか」と聞くとニヤニヤしているばかり。夜になって皆で押し入れに入り、食料品屋の息子が持ってきたウインナーソーセージの缶詰を開けたが(なんでそんなものをものをもってくるのだ)、なかなかウイスキーの小瓶は開かない。飲もうよと強要するのもなんだし、本人もためらっていたのだろう。私たちはしらふでサキイカや柿ピーナツを食べながら「○子が好きだ」「俺は○美だな」と告白しあった。単純に甘い「遠足のおやつ」からちょっぴり背伸びして卒業した日であった。

 彼が持ってきたのはウイスキーの五〇ミリリットル入りミニチュア瓶であった。いまでもホテルのミニバーや新幹線の車内販売で見かけるものだ。それよりちょっと大きいポケット瓶というのが一八〇ミリリットル入り。
 有名なのはニッカウイスキーが昭和二五年八月に発売した、三級のポケット瓶「スペシャルブレンド一八〇ミリリットル一五〇円」である。戦前からの統制経済が続いていたが、この年雑酒の統制が解除され、ウイスキーも自由販売となった。しかし、サラリーマンの給料が三五〇〇円の時代に一級ウイスキーは一本一二五〇円。庶民には高嶺の花だった。そんな中、ニッカは宣伝用にポケット瓶を出したのだ。

 この「三級ウイスキー」が世に出るには創業者の苦悩の決断があった。昭和九年にニッカの前身大日本果汁株式会社を創った竹鶴政孝が「品質第一」を考えていたためだ。三級ウイスキーは当時の税法上、ウイスキー原酒が五パーセント以下、〇パーセントまで入っているものと規定されていた。ゼロでもOKということは、アルコールに香料と着色料で作った粗悪品もウイスキーと認められていたのだ。統制経済が解除されるとこれら安い模造ウイスキーが氾濫し、ニッカの一級ウイスキーの売上はがた落ちした。株主も銀行も「三級ウイスキーを作ったら」と勧める。しかし竹鶴の良心は原酒をたっぷり使った本物のウイスキーを作りたいことにある。理想と現実のはざまに竹鶴は苦しみ、抵抗したが「会社の将来と、従業員の生活を支えるため」やむなく三級ウイスキー発売に踏み切ることにした。ただし上限ギリギリの五パーセントまで原酒を入れ、合成着色料や香料を決して入れなかったところに竹鶴の意地と見識が現れている。

 ポケット瓶は、旅行を中心とするレジャーブームの到来で販売数量を右上がりに延ばしていった。夜行列車の寝酒にしたり、電車の窓にポケット瓶を載せることが、『オレはウイスキーを飲んでいるんだぞ』というステータスだった。いまでいう「ちょいワルオヤジ」を気取ることができる小道具だったのである。手軽にラッパ飲みできるのが喜ばれたのか、大阪万博工事のときは周囲の酒店でポケット瓶がぐんと売れた。「ほかにもポケット瓶が急に売れた酒店を調べてみますと、必ず近くで工事をやっているんですね。作業員のかたが休憩時間に買われてたんでしょう」(ニッカウヰスキー株式会社)。
 最近はコンビニにも置かれ、ちょっと飲みたい需要にウケて急成長中という。一人で呑みきるにはちょうど良いサイズという評判も「個食の時代」ならではだろう。
http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/pha_29.htm


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ニッカの語らい|ニッカワールド|NIKKA WHISKY

521
昭和25年発売の「新角瓶」について教えて下さい
投稿者:Rタロの父(2006/07/19 12:54:02)
https://www.nikka.com/web-service/nikka/bbs/view.psp.html?I=20060719125402521&T=001240&P=0

ニッカウヰスキーご担当者様:
昭和25年発売の「新角瓶」について教えていただきたく投稿いたしました。
昭和15年に御社初のウイスキー「角瓶」を発売され、戦後の昭和25年にモルト比率を落とした『3級』の「新角瓶」を発売された経緯はいろいろな書物等でご紹介されているとおりかと思います。

この3級の新角ですが、昭和28年の酒税法改正で『2級』に格付けが変わっておりますが(御社発行の"ウイスキーと私"に書いてありました)、この商品は昭和何年頃まで発売されていたのでしょうか?

この2級の角瓶が1本手元にありまして、身許を詳しく知りたいので質問いたしました。よろしくお願いいたします。



561
Re:昭和25年発売の「新角瓶」について教えて下さい
投稿者:ウェブマスター(2006/07/21 14:14:28)

Rタロの父さん、こんにちは。
昭和25年8月に、ニッカとして初めて出した3級ウイスキーは「スペシャルブレンドウイスキー」という商品でした。
「新角」と呼ばれて多くのお客様にご愛飲いただいた商品は、昭和26年10月発売の「角びんウイスキー(3級)」でした。この「新角」は、ご指摘の通り昭和28年3月の酒税法改正により2級の区分となりましたが、昭和39年3月の「ハイニッカ」の登場により、2級の主力商品が交替する形で取り扱い終了となりました。



562
Re:Re:昭和25年発売の「新角瓶」について教えて下さい
投稿者:Rタロの父(2006/07/21 14:43:08)

ウェブマスター様
回答ありがとうございました。
繰り返し質問しまして申し訳ありませんが、この「スペシャルブレンドウイスキー」は、「新角」の登場後も継続して発売されていたのでしょうか?
それとも、「新角」の登場で消えたんでしょうか?(S28.3月の酒税法改正で、新角と同様に"新・2級"になって継続したのですしょうか?)

また、「スペシャルブレンドウイスキー」と「角びんウイスキー(新角)」とでは、外観は違うものですね?

私が持っているボトルの方は、昭和15年に発売された「第1号」のウイスキーと、ボトルの形状は同じで、ラベルが違います。ラベルの記載事項はほとんど同じに見えるのですが、第1号が小さめなのに比べ、上下方向に面積が大きいラベルです。
このボトルは「スペシャルブレンドウイスキー」なのか?「新角」なのか? 新たな疑問が生まれてしまいました…(笑) 重ね重ね、お忙しいなか質問攻めにしてしまいまして、、、すみません。


601
Re:Re:Re:昭和25年発売の「新角瓶」について教えて下さい
投稿者:ウェブマスター(2006/07/24 11:47:46)

Rタロの父さん、こんにちは。
「スペシャルブレンドウイスキー(3級)」は昭和25年8月に発売しましたが、まずは当時良く売れていたポケットビンを先行発売し、その後レギュラーサイズの「丸びんウイスキー」を発売します。"新角"("第1号ウイスキー"とボトル形状が似ていた(角型のびんで斜めに格子模様が刻まれている)のでこのような通称で呼ばれました)とは外観が違いますし、どちらも3級ではありますが、中味的にも「新角」の方が上に位置づけられていました。このように異なる商品でしたので、「スペシャルブレンドウイスキー」は「角びんウイスキー」(新角)の発売後も継続して販売されています。
尚、Rタロの父さんが保有されていらっしゃるのは形状からして"新角"の方で間違いないと思われます。


622
Re:Re:Re:Re:昭和25年発売の「新角瓶」について教えて下さい
投稿者:Rタロの父(2006/07/25 00:19:12)

ウェブマスター様
お忙しい中、解説いただきましてまことにありがとう御座いました。おかげさまでよくわかりました。私のボトルは「新角」のようですね。

6:777 :

2022/09/22 (Thu) 09:37:05

竹鶴リタ

竹鶴リタ - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e7%ab%b9%e9%b6%b4%e3%83%aa%e3%82%bf&form=HDRSC2&first=1&tsc=ImageHoverTitle

竹鶴リタ - Bing video
https://www.bing.com/videos/search?q=%e7%ab%b9%e9%b6%b4%e3%83%aa%e3%82%bf&FORM=HDRSC3


竹鶴 リタ(たけつる リタ、1896年(明治29年)12月14日[1] - 1961年(昭和36年)1月17日[2])は、ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝(1894年(明治27年) - 1979年(昭和54年))の妻。通称:リタ。

生名はジェシー・ロバータ・カウン(Jessie Roberta “Rita” Cowan)。


略歴
グラスゴー(イギリス・スコットランド南西部)郊外のイースト・ダンバートンシャー カーキンティロック(英語版)地域[3]で、医師の長女として誕生[4]。

4人姉弟。次女はイザベラ・リリアン・カウン(通称:エラ)。エラの3歳下に三女ルーシー、その下に弟ラムゼイがいた[5][6]。リタは幼少の頃から偏頭痛に悩むことが多く、15歳になると学校に通えず、個人教授を受けた。18歳でグラスゴー学院に入る頃は健康を取り戻し、音楽・英仏文学を学ぶ。卒業後は自動車の運転免許を取得し、父の往診の手伝いもした。

有機化学と応用化学を学ぶためスコットランドのグラスゴー大学に留学(1918年(大正7年)入学[5])していた[4]竹鶴政孝とは、リタが第一次世界大戦で婚約者を亡くして間もない1919年(大正8年)、当時同大学医学部に在籍していたリタの妹エラから弟のラムゼイへの柔道(柔術[7])指南を依頼された政孝がカウン家を訪れたことがきっかけで出逢う[8]。2人は音楽が共通の趣味で、リタがピアノ、政孝が持参していった鼓を一緒に奏でるなど[9]親睦を深め、政孝が「スコットランドに残っても構わない」とリタに打ち明けた気持ちに対し、リタは「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と伝えた。国際結婚に抵抗感が強い時代であり、カウン家・竹鶴家のどちらからも反対されたことから、1920年(大正9年)1月[4]に登記所での略式結婚を選択し、同年11月に来日[10]。


余市蒸溜所の旧竹鶴邸
当初は、政孝が摂津酒造(現・宝ホールディングス)に就職したため、現在の大阪府大阪市住吉区帝塚山に居住。帝塚山学院において英語やピアノを教えた。また1924年(大正13年)・1931年(昭和6年)には政孝の視察に同行する形でスコットランドに帰郷している。その後神奈川県鎌倉市に移住したが、1934年(昭和9年)には政孝が寿屋(現・サントリー)を退社。北海道余市郡余市町で大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)を設立し、余市蒸溜所を開設して所内に居住。リタも翌1935年(昭和10年)9月、余市町へ転居した[11]。

1924年(大正13年)に妊娠をしたが、流産してしまう。それ以降、夫妻には子供が出来なかったため、1930年(昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子(後に改名してリマとなる)を、1943年(昭和18年)には政孝の甥である宮野威を養子として迎えた。しかし、養女のリマと夫妻との関係は次第に悪くなっていき、リタの晩年になるまで関係は修復されなかった。

1955年(昭和30年)に肝臓や肺を病んだことから、冬季は政孝が東京で仕事をする際滞在する神奈川県逗子市で[12]、そして夏季は余市で、生活するようになる。

1959年(昭和34年)に妹のルーシーが来日。これがカウン家関係者との最後の交流となり、1960年(昭和35年)秋に自身の希望で余市へ帰郷[4]。1961年(昭和36年)1月17日、肝硬変のため64歳で死去[13]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E9%B6%B4%E3%83%AA%E3%82%BF


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スパイ扱いされた竹鶴リタの苦悩・戦時中は特別刑事に監視されていた
2015年02月20日
http://drama-suki.com/taketururita

スパイ扱いされた竹鶴リタの苦悩・戦時中は特別刑事に監視されていた
朝ドラ「マッサン」のモデル・竹鶴リタは晩年北海道余市で夫・竹鶴政孝とともに暮らしていましたが、

日本が戦争に突入すると、外国人であるリタは刑事の監視がつくようになったのです。

どこへ行くにも後ろから付いてくる刑事に精神的にやられてしまった竹鶴リタ。

そんな彼女の辛いエピソードを書籍の内容とともにご紹介していきたいと思います。

(参考書籍:リタの鐘がなる)


戦争で贅沢は敵になり、配給制、国民服まで

朝ドラ「ごちそうさん」でも取り上げていましたね。

「贅沢は敵だ!」

から

「贅沢は素敵だ!」

に看板が書き加えられた面白いエピソードがありますが、

当時は国民服が制定され、生活必需品・食料など配給制になるなど、

国家総動員法が制定されると、より厳しい生活を国民は強いられる事になったのです。

国民服

それでも日本は必ず勝つ!ということを国民は信じて疑わなかったわけですからね。

当時はもっぱら「湖畔の宿」という寂しい歌が街で流れていたようですが、

歌手の高峰三枝子さんは特攻隊員の慰問に訪れた時に歌った曲でもあります。


高峰三枝子/湖畔の宿 (特攻隊慰問に唄った歌)(1)-A
https://www.youtube.com/watch?v=SWdaFdBVbB0


なので特攻隊員の方々は遠く離れた家族のことを思い、この歌を口ずさみ

そして国のために旅立つ当日、この歌を聞いて飛び立ったのです。

そんな話を聞くと、胸が熱くなり、こみ上げてくるものがありますね・・・。



ウィスキー事業が嬉しい誤算、戦争特需で事業拡大
戦争突入でウイスキー製造も終わり?と思いきや

竹鶴政孝のウィスキー事業は、戦争特需で思わぬ注文が増え、

更には余市工場は軍の指定工場になったのです。

事業拡大で、借金経営から脱却し、上方修正した収支に、従業員一同わいたことでしょう。



しかし戦争でウイスキー製造が軌道に乗りはじめたと同時に

リタは苦境に立たされることになるのです。

スパイ扱いされる竹鶴リタ
太平洋戦争が始まって半年、毎週日曜日に教会に出かけるリタは、

尾行されていることに気づいたという。

そして教会に通う他の外国人もまた特別刑事の監視の目が光っていたそうです。



この特別刑事の監視も、日を追うごとに露骨になり、

更には竹鶴家の前にも張り込み刑事が居たというのだから驚きです。



「どちらに行かれますか?」



出かけるときに毎回こんなことを聞かれては、どこも行きたくなくなりますよね。

また、こんなエピソードがあって、

イギリスに電波を送っているのでは?という疑いで

家の中に警察がズカズカと上がり込んでラジオアンテナを調べまわったそうです。

上の命令とはいえ、当時の警察は本当に愚かだったと思います。



戦況悪化で工場にも影響
日本の旗色が悪くなると、どんどん若者が駆り出され、当然ウイスキー工場で働く

男性従業員にも年齢関係なく赤紙が続々と届きます。



リタは戻ってこない従業員の訃報を聞く度に胸が痛くなったのでしょう、

この時、あまりの辛さに自宅に引きこもるようになったそうです。



そして家族を失った世の女性達の冷たい視線が鋭く背中を刺し、

「鬼畜米英」の張り紙をみていっそう人間不信になってしまったリタ。



それでもモンペ姿で地元の日本人女性とともに竹槍をもって健気に突きの練習をしていたといいますから

彼女の強さを改めて感じます。

それでも警察は彼女に対して警戒の目を緩めることはしなかったそうですけどね・・・。



例えて言うなら幽閉生活と言うべきか、

精神的に酷くやられてしまったリタは心身ともに弱ってしまい、

食欲不振、胃下垂、夜は眠れない日々がつづき、

唯一の心の拠り所は、工場で働く女性従業員との他愛のない会話や

自宅の芝生でゴルフパターをすることでした。



こうした日本で暮らす外国人女性の迫害に関する資料はあまりなく、

竹鶴リタも親族に話したのみで、あまり記録は残っていないようです。



戦時中、キリスト教に対する弾圧は厳しく、

次々と牧師が検挙され、中には獄中で自殺(拷問死ともいわれている)した方もいらっしゃったようです。

ちなみに小山宗祐牧師という方です。

こうしたキリスト弾圧の現状を、信仰するリタはどう見ていたのでしょうか。



そして原爆がヒロシマ・ナガサキに落とされ、日本は敗北。

1945年8月15日、天皇のラジオ放送の日から、パタリとリタの監視役の刑事も居なくなったそうです。



竹鶴家は太平洋戦争時に事業は拡大出来たものの、

私生活ではリタへの迫害で大変窮屈な時を過ごしていた事がわかります。

彼女は決して体が丈夫な方ではありませんし、戦争時の体への負担は計り知れなかったことと思います。
http://drama-suki.com/taketururita


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一馬に恋するマッサンの娘エマ モデル竹鶴リマ(房子)の生涯。
2015年02月22日
https://ameblo.jp/cowboy-any/entry-11993075195.html

朝ドラ「マッサン」
第21週「物言えば唇寒し秋の風」では、
マッサンとエリーの娘エマは、
森野熊虎の息子・一馬に恋心を抱くようになります。

マッサンの北海道でのウイスキー事業に伴い、
余市へとやって来たマッサン家族。
余市へ来た頃は、まだ小学生で住田萌乃ちゃんが演じていたエマでしたが、
ウイスキーを出荷する頃には、エマは女学生になり、
それ以降は優希美青ちゃんが演じています。

朝ドラ「マッサン」時代は太平洋戦争へと進み、
マッサンの工場ドウカウイスキーは、
海軍指定のウイスキー工場となり繁忙な状態。
そして女学校を卒業したエマは、
戦争や軍国教育に反感を持ちながらも、
勤労奉仕として軍服を製造する作業所で働いていました。

一馬もまた、友人たちが次々と徴兵され戦地へと赴いて行く中、
自分の立場に疑問を抱くようになります。

そんなエマと一馬は、お互いの悩みを打ち明け合ううちに、
お互い恋愛感情を抱くようになります。

そんな2人の恋愛感情を知ったエリーは、
それまで子育てに寛容だったエリーとはとても思えない態度で、
エマと一馬の恋愛に、なぜか頑なに反対します。
しかしそれは、エリー自身の経験によるもので、
エリーはかつて許嫁を戦争で亡くし、非情に辛い思いをしており、
同じ思いをエマにはさせたくないという親心からでした。

しかしエマは、将来の不安を恐れて生きるより、
今の自分に正直に、今を精一杯生きた方が良いと、
いわば本体のエリーの持論で、逆にエリーを説得します。

ところが非情にも、ついに一馬にも召集令状が届きます。
エマへの思いを胸に戦地へと赴く一馬。
マッサンの後継者、ドウカウイスキーの次期社長として期待される一馬。
激戦となっている戦地で、死ぬことなく生き延びるのは非情に困難です。
無事生きて帰って来られるのでしょうか。
エマと一馬の恋愛は叶うことができるのでしょうか。



そんなエマのモデルとなったのは、
ニッカウヰスキー創業者で、マッサンのモデルとなった、
マッサン竹鶴政孝とリタの娘・リマです。
朝ドラマッサンと同様に、竹鶴夫妻には子供がいなかったため、
養女として迎えられました。

リマは1930年、
山口広治さん、シゲさんというご夫妻の間で誕生しました。
産みの母親であるシゲさんは、リマを生んですぐに亡くなったとされています。
一旦は乳児院に引き取られますが、
マッサン竹鶴政孝・リタ夫婦に養女として迎えられます。
すでに「房子」と名付けられていましたが、
リタの「リ」政孝の「マ」をとり「リマ」と改名されました。
クリスチャンの洗礼名であったともいわれています。

マッサン竹鶴政孝・リタ夫婦の愛情を一身に受けて成長したリマ。
しかし戦争がリタ・リマ毋子に暗い影をもたらします。
リタはスコットランド人・敵国人として阻害を受けたり、
朝ドラ「マッサン」同様にスパイ容疑をかけられたりしました。
リマも敵国人の娘として、やはり阻害されたりしたようです。
リマはずっと大切にしていた人形の青い目を、
黒く塗りつぶしたそうです。

それら戦争での迫害などが原因で毋子の間柄にも亀裂が生じてきます。
リタはスコットランドのグラスゴーで裕福な家庭で育ちました。
医師である父の元、厳格に育てられたリタは大学も卒業しており、
リマにも同様の教育を受けさせて、
淑女としてとして躾けようとしていたことが伺えます。

しかし当時の日本では、大学に進学する女子は殆どおらず、
女性は沢山の子供を産み育てることが役目と考えられていた時代。
周囲の女子たちとの教育環境の違いに、かなり違和感をもっていて、
「外国人の母親を持つ自分は日本の社会では普通ではない」
リマ自身がそう感じていたようです。

またリマは、自分は養女であることは認識していました。
しかし何かの折に自分の戸籍を見る機会があり、
そこでリマを出産後すぐに亡くなったと聞いていた実母が、
じつは存命だったということを知ります。

リマはリタに実母の居場所を問い質したようですが、
リタには教えてもらえなかったようです。

1945年、15歳になったリマは、自分で実母を捜すと家出してしまいます。

マッサン竹鶴政孝の孫で、リマの甥にあたる竹鶴幸太郎も、
リタさんが『リマは本当のお母さんを探しに行った。』と、
嘆いていたと証言しています。

1950年、20歳の時にリマは、看護師を目指し看護学校へと通います。

1952年、22歳のリマは、ウイスキー工場の工員で、
鍋田晃という男性と駆け落ちします。
駆け落ち先は東京もしくは熊本だといわれています。

この頃マッサン竹鶴政孝は、リマの縁談話を進めまていました。
相手は炭鉱会社の御曹司だったようで、
ニッカの経営基盤強化のための、政略結婚だったとの見方もあります。
リマはそのことに激怒し、駆け落ちしたともいわれています。

20代後半から30代前半にかけて、
リマは熊本県の人吉市に住んでいたということです。

それと前後して、男児を出産し東京のマンションに暮らしていたようです。
家出後、竹鶴家とは疎遠になっていましたが、
金銭的に困った時はマッサン竹鶴政孝より支援を受けていたようです。

1955年頃から、リタは病気がちになり、
温暖な神奈川県逗子市に別宅を建築し冬場はそこで暮らしていました。
1959年、エマは逗子市の別宅にリタを訪ね再会します。
そして14年ぶりに関係が修復されたようです。
悲しい説としては、それが遺産相続目当てだとも・・・

しかし、マッサン竹鶴政孝の姉の息子で、
マッサンの養子となった竹鶴威、リマの弟となる威に子供が生まれた際には、
リマが自分で服を縫いプレゼントしたという話しもあり、
竹鶴家との親交はある程度あったことも伺われます。

晩年リマは養老院で暮らしており、そこで亡くなられたようです。

エマのモデル 竹鶴リマ 竹鶴政孝・リタ夫妻に貰われた頃のリマ

エマのモデル 竹鶴リマ リタとともにスコットランドに帰国した際のリマ

エマのモデル 竹鶴リマ マッサン竹鶴政孝とリタの愛情を一身に受けていたリマ

エマのモデル 竹鶴リマ 政孝が壽屋退社後、鎌倉の家にて浴衣姿のリマとリタ

エマのモデル 竹鶴リマ 余市に移る前、水着姿のリマとリタ

エマのモデル 竹鶴リマ ニッカの販売店にて5歳のリマ


朝ドラ「マッサン」では、極めて明るくポジティブに、
優希美青ちゃん、そして木南晴夏が演じているエマ。

その裏にあるモデルとなったリマの知られざる人生ですが、
敬意を表しつつ、少しだけリスペクトさせていただきました。

マッサン エマ エリー 優希美青ちゃん演じる家族仲良しのエマ

https://ameblo.jp/cowboy-any/entry-11993075195.html


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【実話】マッサンの子供で養子のリマは竹鶴家にとって黒歴史だった?
2015年03月09日
http://drama-suki.com/massan-3

朝ドラ「マッサン」ではエリーが流産したあと、

エマを養子として迎え入れ、一緒に暮らしていますが、

実話でも養子を二人育てています。

ですが、最初に迎え入れたリマは、どうやら竹鶴家では問題児だったようです。

(参考書籍:「マッサンとリタ」「ひげのウイスキー誕生す」)



母・リタを受け入れられなかったリマ

竹鶴家関連の書籍を読んでも養子の話は竹鶴威(たけし)のみで

リマのことを詳しく書かれていないどころか、全く彼女のことが触れられていないケースが多いようです。

私も一番初めに「ひげのウイスキー誕生す」という本を読みましたが、見事に書かれておらず

竹鶴家の歴史から見事に消えてしまった感じです。



竹鶴リマは、

昭和5年に山口広治・シゲ夫妻の子供である房子(後に改名してリマとなる)を養子として迎えた。
(引用元:ウィキペディア)

とありますが、リタとの関係が悪化して疎遠になり、

リタが無くなる直前になってようやく関係が修復されたらしいですが、

お金の無心に竹鶴政孝を頼ったとも言われています。



当時、戦争色が色濃くなる中、軍事教育で育ったリマは、

「お前の母さん、毛唐(けとう・差別用語)だろ!」

なんて同級生に言われていたのでしょうか?

この「毛唐」というのはリタも北海道で言われた言葉ですが、

なぜ血の繋がっていない、しかも異国の人が私の母なのか?

リマ自信も心のなかで葛藤があったと思いますが、心の余裕がなかったようです。

出来れば母を守って欲しかったのが本音。

リタが亡くなってからの和解は、あまりにも遅すぎます。


すべてを託された竹鶴威(たけし)
父親・政孝からウイスキーのイロハを学び、後継者として、

ブレンダーとして、一歩ずつ成長するとともに、

リタからも愛情を一杯もらって育った息子・たけし。

広島工業専門学校で醸造学を学び、北海道大学工学部で応用科学を専攻。



たけしも政孝とともに工場で働くようになると、

リタは二人分のお昼を温かいうちに工場まで持って運んだとか。

そしてたけしも無事結婚し、最初の孫が誕生した時は、

政孝の「孝」の字を入れて孝太郎と名づけたというエピソードが有ります。



朝ドラ「マッサン」に登場したエマ役バトンタッチ
マッサンのエマ役に子役の住田萌乃ちゃんが演じましたが、

ネットでは早くも”かわいくない”という厳しいコメントが・・・w

亀山エマ

我儘し放題女の子だったので、余計かもしれませんね。

そして2015年からは北海道に移り、

エマも女学生になって役者も優希美青さんにバトンタッチ。

優希美青

第19週から登場するそうですが、

リタとドンドン不仲になっていく?反発する様子はあまり見たくないですね。

それと史実では疎遠になっていたといいますから、この辺りをどう描くか見どころです。

以上、竹鶴家の子供のついてのご紹介でした。
http://drama-suki.com/massan-3



竹鶴リマ・幼少時代は仲が良かった親子・戦争で不仲に・そして何も告げず蒸発
2015年02月22日
http://drama-suki.com/taketururima


竹鶴リマ・幼少時代は仲が良かった親子・戦争で不仲に・そして何も告げず蒸発
竹鶴リマに関して以前にも記事を書かせいて頂きましたが、

今回は、子供時代から成人するまで、どんなふうに過ごしてきたのか、

前回は私生活について具体的にご紹介できなかったので、

家族3人のちょっとしたエピソードなどをご紹介していきたいと思います。

(参考図書:リタの鐘が鳴る、ひげのウィスキー誕生す)


竹鶴家がリマを養女として迎え入れる

不幸にも流産してしまったリタの症状は、医者いわく「神経性の胎盤剥離」だといい

相当神経をすり減らして生活していたのが分かります。

住み慣れない日本での生活、夫を献身的に支えるリタの体は

心身ともに見えないところで影響していたのかもしれません。



そして時が過ぎ、夫の都合で山崎に引っ越したため、

折角出来た友達とも疎遠になり、寂しい思いをしていたリタ。

その時に乳児院に居たリマを引き取ったのです。



政孝の遠縁にあたる女性の子供で、
マッサンの子供で養子のリマは竹鶴家にとって黒歴史だった?

でご紹介しましたが山口広治・シゲ夫妻の子供・房子でしたね。

リタは乳児院にいるリマの事情を知っていたので、

いつか行ってみたいと、寄付がてら顔を出し、最終的に引き取ったということです。

それから竹鶴家では3人の生活がスタートしたのです。



ニッカ(大日本果汁)に出資した加賀正太郎の妻と交流
大日本果汁は竹鶴、芝川、加賀の3人の出資により実現したわけですが、

その出資者である加賀正太郎の妻とリタは竹鶴が寿屋に勤めている時から交流があったのです。



加賀夫妻は海外渡航経験があることから英語の必要性を感じ、

リタに家庭教師を依頼。

加賀家に訪問するときはリマを抱いて行ったそうですよ。



鳥井信治郎の息子・吉太郎の居候で奇妙な4人生活が始まる
朝ドラ「マッサン」でも吉太郎の居候が描かれましたね。

リタのもとで生きた英会話を習わせたいと鳥井信治郎らいしい考えですが、

吉太郎はまんざらイヤでもなかったらしいです。



そして鳥井信治郎から海外視察の話が出て

竹鶴一家と吉太郎の4人でイギリスへ行くことになったのです。

そう、もちろんリマも連れて。



幼少の頃に海外渡航するリマ
1931年、夫・竹鶴政孝の海外視察に同行したリタとリマ。

リタが34歳の時ですから来日して丁度10年という節目にイギリスへ帰国することが出来たのです。

※ウィキでは1924年にも同行していると記載されていますが注釈が無いので疑問です。書籍「リタの鐘が鳴る」と「ひげのウィスキー誕生す」では詳しく書かれていません。確かにこの年、山崎工場立ち上げの際に粉砕機と濾過器をイギリスに発注していますが、この時政孝が実際にイギリスへ行ったのか、そして同行したのかは不明。更に「リタの鐘がなる」では1931年渡航に「リタにとって11年ぶりのカウン家の食事でした」と書かれてあります。「ひげのウィスキー誕生す」でも書かれていないことから私は行っていないのでは?と判断しています。(その他の書籍で情報がございましたらご一報頂けると助かります。)



イギリスへの渡航の大半は船旅なので、途中でいくつもの港に寄り、マルセイユから陸路で汽車を使いフランスへ、

そこからドーバー海峡を超えてようやくイギリス本国に到着です。

今なら直行便の飛行機を使えば12時間で行けるので、時代は変わりましたね。



そんな1ヶ月以上かかる船旅に幼いリマを連れて行ったのだから大変だったことでしょう。

さらにイギリス本土に到着しても目的地のグラスコーへは何本も乗り継いで行かなければいけないので

当時の海外渡航は時間とお金が膨大にかかることが分かります。



久々の家族の対面
イギリスの家族と対面

(左から妹ルーシーの子供、リタ、リマ、母のアイダ)

リタはカウン家の重い扉を開けて、何も言わず目の前に居た妹のルーシーと抱き合った。

この時、リマにとってとても長い時間に思えたのでしょう、二人の抱擁をぽか~んと見ていたそうです。



そして感動的な母と子の対面です。

国際結婚に断固反対していた母アイダと会うのは気が進まなかったリタですが、

何も言わず両手を差し出した母の胸に飛び込んだそうです。

長い年月とともに母もようやく理解してくれた、というより、ただただ娘のことが心配で仕方がなかったと思います。



イギリスでの日程
さて、ロングステイとなるイギリスではどんな生活をしていたのでしょうか?

竹鶴政孝と吉太郎は仕事で来ていますので、ウィスキー製造の見学や実習で各地の工場をまわり、

リタは実家に泊まる予定ではありませんでしたが、母のすすめで滞在中は自身の部屋で生活する事になったそうです。

約3ヶ月の間、数年ぶりとなる故郷での生活はどんな思いで過ごしていたのでしょうか?



そしてリタはリマを連れて久しぶりに伯母に会いに行きましたが、

やはり反対していた伯母は良い顔はしなかったようです。

なんせ日本人は野蛮なイメージがあるらしく、心配するアイダを傍らで見ていた彼女もまた許していなかったのです。

それでも日本のおみやげであるシルク製のスカーフを手渡された時は思わず声を上げて喜んだそうですよ。



リタと母アイダ、

この旅行が最後の別れになってしまうなんて誰が想像出来たでしょうか?

リタはその後イギリスへ行くこともなく、アイダもまた日本へ来ることは無かったのです。

リタとリマも北海道余市へ
話は少し飛んで、竹鶴政孝が寿屋を退職し、北海道で大日本果汁株式会社を立ち上げたところまでいきます。

工場立ち上げで先に余市に来ていた政孝の後を追ってリタとリマは夜行列車で青森までいき、

連絡船で北海道へ渡りました。道中、日本語が読めいないリタは

無事夫のところまで行けるのか不安だったと思いますし、何よりもまわりが珍しそうな目で見ていたので、

とても疲れる旅だったことでしょう。



教会通いはかかさず行っていた竹鶴家族
何よりも家族の時間や安息日を大切にしていたリタは、日曜日に少し離れた小樽や

数十キロ離れた札幌の教会まで足を運んでいたそうです。

もちろん夫の政孝とリマを連れて3人でお祈りを捧げに行ったようです。



広島の実家に帰省
大日本果汁の資金振りが厳しい時に竹鶴は広島の実家からもお金を借りていましたが、

ウイスキーが熟成し、ようやく出荷のめどが立ったので、

その報告と墓参りも兼ねてリマを連れて広島に帰ったことがありました。

ということは、リマは一応双方の実家に一度は行った経験があるということですね。

この時代に幼いリマがイギリスへ行ったのは大変珍しいことだったのではないでしょうか。



戦争、そして戦後
戦争中のリタに関しては

スパイ扱いされた竹鶴リタの苦悩・戦時中は特別刑事に監視されていた

でご紹介していますが、この時リマも友達と遊ばなくなったので、学校でいじめられていたのでしょう。

物心がつく頃には母親と血が繋がっていないことが分かり、

更にそのせいで学校でいじめられるストレスはリタに向けられてしまいます。



この母子の関係はリマが高校を卒業して成人しても修復されることはなく、

ふと突然、前触れもなく家を出てしまったそうです。

更に追い打ちを掛けるようにリタの母・アイダの急死の知らせが届き、泣き崩れるリタに掛ける言葉が見つかりません。

体が決して丈夫では無いリタにとって、この続く不幸は精神的、肉体的にもダメージが大きかったことと思います。



もしリマが居れば、竹鶴たけしを養子に迎え入れることはしなかったと思いますし、

リマがニッカウイスキーの2代目として、もしくはリマの夫が会社を盛り立てていたのかもしれません。



リマは皮肉にも金の無心に父親を頼よったこともあるらしく、

関係が修復できたのはリタが亡くなる数年前の出来事だそうです。

リマにとって外国人の母を受け入れるのに時間が必要だったかもしれませんが、あまりにも長過ぎましたね・・・。





余談・リタの鐘が鳴る
書籍「リタの鐘が鳴る」というタイトルは

工場の始業時間・休憩時間・終業時間を知らせる鐘の音です。

時間に厳しいリタにとってまさに天職の仕事と言ってもよいでしょう。

鐘がなると従業員たちは「あっ、リタさんの鐘だ。」と和み、更にこの音色は余市の街にも届いていたそうです。
http://drama-suki.com/taketururima
7:777 :

2022/09/22 (Thu) 09:38:10

竹鶴政孝と鳥井信治郎

Massan - マッサン - English Subtitles - E50
https://www.dailymotion.com/video/x7zdfsx

Massan - マッサン - English Subtitles - E52
https://www.dailymotion.com/video/x7zdft1

Massan - マッサン - English Subtitles - E53
https://www.dailymotion.com/video/x7zdft4

Massan - マッサン - English Subtitles - E90
https://www.dailymotion.com/video/x7zm948


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【経済人・実業家列伝】第4回 サントリーを作った男 鳥井信治郎伝説【国産ウイスキー】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=25njrgPPqg8

鳥井信治郎 - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e9%b3%a5%e4%ba%95%e4%bf%a1%e6%b2%bb%e9%83%8e&form=HDRSC2&first=1&tsc=ImageHoverTitle

鳥井信治郎 - Bing video
https://www.bing.com/videos/search?q=%e9%b3%a5%e4%ba%95%e4%bf%a1%e6%b2%bb%e9%83%8e&FORM=HDRSC3

サントリー創業者「鳥井信治郎」の生涯を解説! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lLqPDfaNwwg
https://www.youtube.com/watch?v=rpDjAtE-omU

【サントリー】鳥井信治郎のウイスキー造り|ジャパニーズウイスキーの黎明期を知る
https://otokonokakurega.com/learn/curiosity/41736/


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鳥井 信治郎(とりい しんじろう、1879年〈明治12年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉2月20日)は、日本の実業家、サントリー(現・サントリーホールディングス株式会社)の創業者である。


経歴
1879年(明治12年) 両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として大阪府第一大区(のちの東区、現・中央区)釣鐘町に生まれる。
1887年(明治20年) 8歳で大阪府東区島町の北大江小学校尋常科入学。
1888年(明治21年) 9歳で同小学校で4年飛び越えて高等科に編入。
1890年(明治23年) 11歳で大阪市西区江戸堀南通(現・江戸堀)の市立大阪商業学校の付属科(のちの大阪市立天王寺商業高等学校、現・大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校)入学。  
1892年(明治25年) 13歳で大阪市東区道修町の薬種問屋小西儀助商店(現・コニシ)へ丁稚奉公に出た。この時に小西儀助商店で扱っていた洋酒についての知識を得たという。
1895年(明治28年) 16歳で大阪市東区博労町の絵具・染料を扱う小西勘之助商店へ移る。
1899年(明治32年) 20歳で大阪市西区靱中通(現・靱本町)で鳥井商店を起こした。
1906年(明治39年) 鳥井商店を壽屋洋酒店に改称。スペイン人兄弟が大阪で経営していたセレース商会を買収し、スペイン産のワインを販売するが売れなかったため、日本人の口にあう甘味果実酒の試作を始める。
1907年(明治40年) 「赤玉ポートワイン」を発売。
1919年(大正8年) 大阪市西区七条通(現・港区海岸通)に「赤玉ポートワイン」の瓶詰専用工場となる築港工場を開設(現・サントリースピリッツ大阪工場)。原料ワインをスペインやチリから輸入した。
1921年(大正10年) 大阪市東区住吉町(現・松屋町住吉)で株式会社壽屋を設立。大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長した。
1923年(大正12年) 本格的なウイスキー生産を志し、ウイスキーの本場スコットランドキャンベルタウンでウイスキー留学の経験のある竹鶴政孝を招き、大阪府三島郡島本村(現・島本町)山崎にウイスキー蒸留所(山崎蒸溜所)を建設。国産ウイスキーの製造を開始。
1929年(昭和4年) 初の国産ウイスキーの「サントリーウイスキー白札」(現・「サントリーホワイト」)と「サントリーウイスキー赤札」(現・サントリーレッド)を発売。売れ行きは芳しくなく、経営不振の為にスモカ歯磨の製造販売権や買収したビール事業を手放すこととなった。
1934年(昭和9年) 「赤玉ポートワイン」の原料ワインの国産化に向けて、新潟県中頸城郡高士村(現・上越市)北方にある、川上善兵衛が開設した岩の原葡萄園の旧債を弁済し法人化(現・株式会社岩の原葡萄園)。大阪府南河内郡道明寺村(現・藤井寺市)道明寺に道明寺工場を開設(2004年休止。大阪工場に整理統合)。
1935年(昭和10年) 道明寺工場にてブランデーの蒸留を開始。
1936年(昭和11年) 長野県東筑摩郡塩尻町(現・塩尻市)大門に塩尻工場を開設(現・サントリー塩尻ワイナリー)。山梨県北巨摩郡登美村(現・甲斐市)大垈にある、小山新助が開設し、競売にかけられていた登美農園を落札(現・サントリー登美の丘ワイナリー)。
1937年(昭和12年) 「サントリーウイスキー12年」(現・「サントリー角瓶」)を発売。この製品の成功により、サントリーのウイスキー事業が軌道に乗ることになる。
1940年(昭和15年)サントリーオールド誕生。戦時下により発売ならず、10年後に世に出る。
1940年(昭和15年)9月 長男の鳥井吉太郎が死去。
1960年(昭和35年)サントリーローヤル発売。
1961年(昭和36年) 壽屋の会長に就任。経営の第一線から退く。
1962年(昭和37年)2月20日 急性肺炎で死去。享年83。


「やってみなはれ」
失敗を恐れず挑戦することを重んじる信治郎の「やってみなはれ」を、サントリーは21世紀においても創業精神として掲げている[1]。新浪剛史サントリーホールディングス社長によると、社内の研修組織「サントリー大学」において、買収した米ビーム社員らを含めて「Yatte Minahare」とそのまま教えているという[2]。



著作
『一億一体天祐神助を祈れ』豊公会、1942年12月25日。 NCID BA86072687。全国書誌番号:44025054 NDLJP:1094537。
『生ける豊太閤 ―豊太閤と天守閣―』豊公会、1939年8月1日。 NCID BA30305714。全国書誌番号:44040551 NDLJP:1103208。


系譜
長男の鳥井吉太郎は31歳で死去[3]。妻は阪急阪神東宝グループ創始者の小林一三の娘、春子。
吉太郎の子が3代目サントリー社長の鳥井信一郎。
次男は2代目サントリー社長の佐治敬三。
敬三の子が4代目サントリー社長の佐治信忠。
三男はサントリー名誉会長の鳥井道夫。
道夫の子がサントリーホールディングス副会長、3代目マスターブレンダーの鳥井信吾


鳥井信治郎が登場する作品
『マッサン』 - 2014年度NHK連続テレビ小説で、竹鶴政孝夫妻をモデルとしたフィクション。主人公である亀山夫妻に大きな影響を与える「鴨居欣次郎(演:堤真一)」として登場する。[4]
山口瞳・開高健『やってみなはれみとくんなはれ』2003年
伊集院静『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』日本経済新聞朝刊連載小説、2017年
『日経ドラマスペシャル 琥珀の夢』上記伊集院静著の小説を原作とした2018年放送のテレビ東京制作のテレビドラマ。鳥井をモデルとした主人公・鳴江萬治郎を内野聖陽が演ずる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E4%BA%95%E4%BF%A1%E6%B2%BB%E9%83%8E


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サントリーホワイト

サントリーホワイトは、サントリー(二代目、旧・サントリースピリッツ)が製造し、サントリー酒類(二代目)が販売するブレンデッド・ウイスキー(2021年〈令和3年〉現在、製造・販売されている商品は原酒の一部に海外産の原酒も使用されているため、日本洋酒酒造組合の定めるジャパニーズ・ウイスキーの表示基準に合致しないワールドブレンデッドウイスキー、またはジャパンメイドウイスキー扱いの商品となる[2])の一つである。

サントリーウイスキーの定番銘柄として、「シロ」などの愛称を持ち、1929年に発売された「国産ウイスキー第1号」として、その名を知られている。2019年(平成31年 / 令和元年)に発売開始から90周年を迎えた。


歴史

前史
壽屋の創業者、鳥井信治郎は1907年(明治40年)に「赤玉ポートワイン」を発売し、同社の土台を築き上げると、さらに事業の拡大を狙い、海外から入手した模造アルコールを葡萄酒用の樽に入れて、長い期間を置いて寝かせると、熟成したウイスキー[注釈 1]になることを知った鳥井は、新たな事業の立ち上げとしてウイスキーを選ぶと共に、当時は未踏の国産ウイスキー製造に乗り出すことになった。

スコットランドで本場のスコッチウイスキーの製造を学んだ竹鶴政孝を招聘し、1924年(大正13年)よりウイスキーの製造を開始する。当時まだ規模の小さな洋酒メーカーに過ぎなかった壽屋は、社外から多数の出資者より投資を受けていたこともあり、出資者に対して、製造から販売まで時間がかかることを説明してはいたが、まだ原酒の熟成度合いや、ブレンド等、市場のニーズを十分把握できていなかった中で、資本投下ばかりが続き、出資者から収益が出ないことに批判が上がったこともあり、1929年(昭和4年)に国産ウイスキー第1号となる製品を「サントリー白札」と名付けて出荷、販売される。

鳥井が高額を払って招き入れたアドライター、片岡敏郎の手による「醒めよ人! すでに舶来盲信の時代は去れり 酔わずや人 我に國産至高の美酒 サントリーウヰスキーはあり!」とのコピーが書かれた広告が全国紙に掲載されるなど、その宣伝展開ぶりが評判を呼ぶなどした。

満を持して発売された白札だったが、市場からの反応は「ピート臭が強く、飲みにくい」といった不評が多数を占め、壽屋へは白札の返品が相次いだ。国産ウイスキー第1号は見る影もなく、失敗に終わることになった。鳥井と竹鶴はこの失敗にもめげずに、この1年後の1930年(昭和5年)に、ブレンドを変えた廉価版ウイスキーとして「サントリー赤札」(現在のサントリーレッド)を発売するも、これも空振りに終わり、赤札は製造中止となった。

試行錯誤を重ねて
こうした失敗に怖気づくこともなく、その失敗で得た経験を踏まえながら、鳥井は竹鶴に長男・鳥井吉太郎をウイスキー製造の責任者として、教育を任せる[注釈 2]と共に、休むことなく原酒の仕込みを続けてゆく。ピートの焚き方、蒸溜の仕方など試行錯誤を繰り返しながら、1932年(昭和7年)には「サントリー十年ウヰスキー 角瓶」、1935年(昭和10年)には「サントリー特角」などのウイスキーを発売し、徐々に手応えをつかんでゆく。そして1937年(昭和12年)10月8日に、満を持して発売された「サントリーウイスキー12年」(現・サントリー角瓶)で遂に成功を手にすると共に、誰もが無理だと信じていた国産ウイスキー事業を成し遂げることになる。

戦後を経て
これと共に、かねてから発売されていた白札も、山崎蒸溜所の原酒が熟成されてきたことで改良が進み、発売当初のピート臭の強過ぎた味から、甘味を感じさせないシャープでキリッとした味を基本としている。1962年(昭和37年)に佐治敬三が壽屋の2代目社長に就任し、サントリーに社名変更が成された2年後「サントリーホワイト」へと商品名が変わり、時代が移り変わってゆく中にあっても、「角瓶」や「オールド」と同じく現在に至るまでサントリーの定番製品として存続し続けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88


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サントリーレッド

サントリーレッドは、サントリー(二代目、旧・サントリースピリッツ)が製造し、サントリー酒類(二代目)が販売するブレンデッド・ウイスキー(原酒の一部に海外産の原酒も使用されているため、日本洋酒酒造組合の定めるジャパニーズ・ウイスキーの表示基準に合致しないワールドブレンデッドウイスキー、またはジャパンメイドウイスキー扱いの商品となる[1][2])の一つである。

1930年に「サントリー赤札」として発売されるも、一時製造中止を経て、1964年に再度発売され、以降サントリーウイスキーの定番銘柄としてその名を知られている。

歴史

前史
壽屋の創業者、鳥井信治郎は1907年(明治40年)に「赤玉ポートワイン」を発売し、同社の土台を築くと、1923年(大正12年)より新規事業として、スコットランドで本場のスコッチウイスキーの製造を学んだ竹鶴政孝を招聘し、同年三島郡島本町山崎に山崎蒸溜所を竣工し、翌1924年(大正13年)よりウイスキーの製造を開始する。

当時はまだウイスキー製造が手探りの状況で、原酒の熟成度合いや、ブレンド、市場のニーズ等を十分に把握していなかった中で、資本投下ばかりが続き、出資者から収益が出ないことに批判が上がったこともあり、まず1929年(昭和4年)に国産ウイスキー第1号となる製品を「白札」(現在のサントリーホワイト)と名付けて販売した。

しかし白札は、スコッチ特有のピート臭が強すぎたこともあり、消費者から不評を買うと共に、失敗に終わった。諦めずに鳥井と竹鶴は、ブレンドを変えた「赤札」、現在のサントリーレッドを翌1930年(昭和5年)に発売するが、急場しのぎでつくられた代替品が、白札の不評を跳ね返せるはずもなく、これも消費者に見向きもされることなく終わり、赤札は製造中止を余儀なくされることになる。

この後、壽屋は1937年(昭和12年)に発売された「サントリーウイスキー12年」(現在のサントリー角瓶)で、国産ウイスキー事業を成功に導くと共に、1950年(昭和25年)に発売されたサントリーオールドで、その絶頂を極めるが、戦後になっても、赤札は復活することなく、「不遇の子」として扱われ続けることになる[3]。

「不遇の子」の復活
1962年(昭和37年)2月20日、創業者の鳥井は社長の座を、次男の佐治敬三に禅譲し、息を引き取る。新たに社長の座に就いた佐治は、翌1963年(昭和38年)に、社名を壽屋からサントリーに改めると共に、新たな経営方針を打ち出してゆく。打ち出した事業として、戦前に父・鳥井信治郎が当時経営難にあった横浜の日英醸造を買収するも、数年で撤退を余儀なくされたビール市場への再挑戦、そして鳥井と共に国産ウイスキー事業の立ち上げに尽力した竹鶴が、壽屋を去って後に興したニッカウヰスキーが猛追していた最中でもあり、同社の主力であるウイスキーの銘柄の拡充を中心とするものであった。その中には戦前発売されるも、不遇の子として扱われ続けた、赤札の名も存在したのである。佐治の手により、赤札はサントリーレッド[4]と名を変えて、1964年(昭和39年)に再度市場に投入されることになった。

佐治が赤札を復活させる切っ掛けとなったのは、同年ニッカから発売され、現在まで発売され続けているウイスキー、ハイニッカの市場投入があったことが大きいとされる[5]。

定番銘柄へ
市場への復活と同時に、傘下の広告制作プロダクション、サン・アドによりCMが制作される。俳優の宇津井健が出演し、当時人気を得ていたコーラスグループ、デューク・エイセスがCMソングを担当。週末に部下と共に楽しむウイスキーとしてCMが制作され、レッドは拍手を持って迎えられる(その後、宇津井の降板後のCMキャラクターには大野しげひさが起用された)。当時ホワイトが1本1000円という価格だったのに対し、レッドは当時の希望小売価格で1本500円に設定されたこともあり、お徳用ウイスキーというイメージを視聴者に浸透させると共に発売に際しては「2本分入って、100円安い。」ダブルサイズ(1本900円)が大いに売れることになった。

その後、1970年代中期以降は新たな洋酒メーカーの参入や、1971年の舶来ウイスキーの自由化に伴い、ブランドも増えてゆくと、レッドもまた新たなイメージを求められることになる。1977年には当時博報堂のCMプランナーとして活躍していた藤井達朗の企画により、女優の大原麗子が出演し、映画監督の市川崑が演出を担当した、愛する旦那に振り回されつつも、健気に尽くす女性を演じるシリーズCMが大いに評判となる。このシリーズCMにおける藤井の考案したキャッチフレーズ「すこし愛して、なが~く愛して。」と「ときどき隣りに、おいといて。」は長年にわたってレッドの人気を決定付けることになった。

この後も現在まで食卓で晩酌に飲むウイスキーとしてのイメージを持ちながら、基本となる640mlボトルの他に1920mlボトル、また2L、4Lのペットボトルサイズなどで発売され続けている。

なお、2017年3月以降よりラベルの意匠が2002年の刷新以来、15年ぶりに刷新された[6]。ボトルの意匠はこれまで通りのものが使用されるが、“RED”の文字を強調したよりシンプルなラベルの意匠が採用され、更にキャップの“RED”の文字も従来品より力強い書体に変更し、店頭での視認性を向上させた。

その他
発売当時にあたって、社内では「かつて発売されていた、サントリー白札の姉妹品」というイメージを意識する者が多かったようで、佐治は「そんな陳腐なイメージでは、折角の商品も売れへん。赤札やない。新しいウイスキーや」とその発想を跳ねつけると共に、とにかく新製品としての「サントリーレッド」を強調すべく、CMもボトルデザインも新たなモノを意識したという。
ウイスキー自体は発売当初より、容量が640ml、アルコール分は39%に設定されており、また食中に飲むウイスキーとして発売されているため、基本的に味は辛口である。ただしアルコール分が39%というのは、ウイスキーとしては同社の「トリス〈クラシック〉」ほどではないものの比較的アルコール分が薄く、リキュールに近いため、アルコール分の高さを味の基準とする洋酒愛好家にとっては、意見の分かれるところとなっている。
発売当時、前出の宇津井健が出演したCMは評判となると共に、コピーライターの仲畑貴志は、当時このCMを見て「宇津井健に”ヨッ”と言わせるだけなら、俺にも出来る」と自身がコピーライターになろうとした切っ掛けを語っている[7]。その後、仲畑は1972年にサン・アドに入社、程なくしてサン・アドの中心的存在となる。ただし仲畑がサン・アドに入った頃に、主に手掛けた広告企画は、サントリー角瓶のコピーが中心で、サントリーレッドについては、後に当時の社長の佐治敬三の意向もあり、広告は制作されなかったため、コピーについては、数作しか任されていない。ただし例外的にコピーライターブームの最中に、糸井重里が1980年(昭和55年)にサントリーレッドの広告コピーを担当し、「ロマンチックが、したいなぁ。」というキャッチフレーズを書いたことがある[8]。
1980年代中期には、サントリーホワイトと同じタイプの容量でクリアボトルの、ラベルが白地に赤文字でデザインされた「まろやかスペシャル」が発売されている。またこの他1990年代には、「超辛口」が製造されたことがある。ただしこれはサンプル品で市販されずに終わっている。
1980年12月26日にFM東京で放送された番組「ラジオ・パラノイア」内で、B&Bによる漫才の掛け合い風CMが流された。
大原麗子が出演したシリーズCMは、CM企画を担当していた藤井達朗が1985年(昭和60年)に急逝したことや、また時代の変化に伴い、これまでサントリーにとってウィスキーが業績の大部分を占めていたのが、オールド・ショックなどの影響もあって、ウィスキーの売り上げが減少に転じたため、その後大原は出演CMをオールドへと移し、1990年(平成2年)までCMに出演すると共に、これ以降レッドのCMは放映されなくなった。1998年(平成10年)には酒税法の改正に伴い、南果歩ときたろうが出演したテレビCM「夕焼けレッド」が久々にテレビ放映されたが、このテレビCM放映以降、レッドのCMは制作されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89


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サントリー角瓶

サントリー角瓶は、サントリー(二代目、旧・サントリースピリッツ/サントリービール/サントリー酒類〈二代目〉)が製造・販売する国産ブレンデッドウイスキー(2022年〈令和4年〉現在、製造・販売されている商品は原酒の一部に海外産の原酒を一切使用しない純国産ウイスキーであるが、商品名に固有名詞が用いられているため日本洋酒酒造組合の定めるジャパニーズ・ウイスキーの表示基準に合致しない商品の扱いとなる)ブランドの一つである。

同社の前身である、壽屋時代の1937年(昭和12年)に発売され、専用ガラス瓶の独特な亀甲模様と角ばった形が特徴で、角型あるいは角ばった瓶であることから「角瓶」「角」と通称され[3]、のちに正式な製品名として「角瓶」の名が採用された。同社のサントリーホワイトやサントリーオールド、トリスウイスキーなどと共に21世紀現在の今日でも販売の続くブレンデッドウイスキーの長寿製品である。

発売当初は(初代法人)サントリー酒類株式会社が製造・発売元となっていたが、2014年10月1日に行われたグループ会社内の組織変更(改組)に伴ってサントリー酒類株式会社の蒸溜酒部門が分割されてサントリースピリッツ株式会社が設立された。これにより、本品はサントリースピリッツ株式会社の扱いとなった。また、2015年1月1日付でサントリービア&スピリッツ株式会社が(二代目法人)サントリー酒類株式会社に商号変更されていた。2022年7月に行われた国内酒類事業の組織再編に伴い、(二代目法人)サントリー株式会社が製造と販売を担うこととなり、同年7月製造・出荷分より同時期時点でのシリーズ全製品において、パッケージに記載されている製造者が「サントリー(株)」に名義変更された。


歴史

前史
1923年(大正12年)に国産ウイスキー事業を開始した壽屋の創業者、鳥井信治郎はスコットランドで本場のスコッチウイスキーの製造方法を学んだ(後のニッカウヰスキーの創業者となる)竹鶴政孝を招聘し、工場建設や熟成など数年間の準備期間の末、1929年(昭和4年)にモルトウイスキーをベースとした初の本格的日本製ウイスキーとして、「白札」(その後のサントリーホワイト)を発売した。発売時のフレーズは「断じて舶来を要せず」という意気軒昂なものであった。

しかし、ウイスキーの味に馴染みのなかった当時の日本人からは、白札は「煙臭い」等と言われ受け入れられなかった。市場での失敗の原因は、消費者の舶来指向とウイスキー市場そのものの成熟度の低さに加え、経験不足のまま製造された初期の「白札」はピート臭が強すぎる(いわゆるスモーキー)傾向があり、飲みにくい酒になってしまったことであった。当時、原酒の熟成度やブレンディングの研究が十分でなく、ゆえに竹鶴は改良の猶予を求めたものの、ウイスキー事業が資本投下のみで収益を上げられない状態が続き、経営に差し支えるため鳥井はウイスキー発売に踏み切らざるを得なかったのである。また翌年1930年(昭和5年)には廉価版ウイスキーとして、「赤札」(その後のサントリーレッド)を発売するが、これも売れ行きは芳しくなく途中で販売中止を余儀なくされることになった。

この頃から鳥井と竹鶴のスタンスの違いは明白になってきていた。本格的ウイスキーの国産化という基本目標は共通していたものの、酒蔵の息子として産まれた職人肌の技術者で、本場流スコッチウイスキーの再現に強くこだわる竹鶴の姿勢に、薬種問屋の丁稚上がりで広告戦略にも長けた経営者の鳥井は、必ずしも全面的賛同はしていなかったのである。

実のところ、鳥井は全く採算の取れないウイスキー事業を「身を削りつつ」維持し続けていた。当時の壽屋の主力商品「赤玉ポートワイン」(その後の赤玉スイートワイン)での収益は、その多くがウイスキー事業での赤字で損なわれ、サイドビジネスとして実績を上げつつあった喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却してしのいだほどであった。この現実が竹鶴の理想論と合致しないのはやむを得ないことであった。

その失敗で得た経験を踏まえながら、鳥井は竹鶴に長男・鳥井吉太郎をウイスキー製造の責任者として、教育を任せると共に、休むことなく原酒の仕込みを続けてゆく。ピートの焚き方、蒸溜の仕方など試行錯誤を繰り返しながら、1932年(昭和7年)には「サントリー十年ウヰスキー 角瓶」を発売、1934年(昭和9年)の竹鶴の契約満了に伴う退社[4]を経て、鳥井はウイスキー製造の方針を根本的に改めることになる。それは、ウイスキーとしての十分な品質を達成しながら、日本人にも受け入れやすい味とし、なおかつ収益を上げられる商品の開発だった。1935年(昭和10年)には「サントリー特角」を発売し、徐々に手応えをつかんでゆく。

角瓶の発売と成功

2015年2月に数量限定で販売された「サントリーウヰスキー12年 復刻版」。1937年に発売された味とデザインのボトルを再現している(ただし、細部は若干異なる)
「白札」から期間を置くこと8年、1937年(昭和12年)10月8日に、亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウヰスキー12年」が発売された。のちに「角瓶」と呼ばれるウイスキーである。竹鶴主導での草創期から長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに、鳥井の企画のもと、日本人好みの高級ウイスキーとして製造されたものであった。

鳥井が幾度もピートの炊き方を変え、原酒のブレンドを試行錯誤し完成させた原酒を東京・銀座のバーなどで店主にテイスティングしてもらいヒントを仰ぐなどの努力を重ね、誕生させたスモーキーな原酒が評価されると共に、かつ山崎蒸溜所で仕込み続けた原酒が熟成を迎えたことなどが功を奏し、これが失敗したら壽屋は倒産しかないという危機的状況下であったが、おりしも日本が戦時体制に突入しつつあり舶来ウイスキーが輸入停止になったこともあり、「角瓶」は好調に売り上げを延ばしてゆく。苦節を重ねた末、鳥井の初志がついに実現する運びとなった。損失を重ねていた壽屋のウイスキー事業は、この「角瓶」が軌道に乗ったことで抱えた損失を一掃するほどの成功を収める。

そして当時、日本海軍[5]への大量納入に成功、「海軍指定品」となったことも大きな助けとなった。巨大な軍需販路を得ただけでなく、軍需品という理由で統制厳しい太平洋戦争当時でも原料となる穀物等の供給を受けられたのである。なお角瓶は海軍だけでなく日本陸軍でも愛飲されており、一例として発売開始から約1年半後の1939年(昭和14年)5月、陸軍糧秣廠が関東軍に野戦酒保用として大量に送付した嗜好品の品目の中に「サントリーウヰスキー(角瓶)」の名で四合瓶9,600本がある(「サントリーウヰスキー(丸瓶)」4,800本とともに)[6]。

この勢いを駆って1940年(昭和15年)には、さらに上級のブレンデッド・ウイスキー「オールド」を完成させたが、戦時下の折、当局より贅沢品と識別され販売許可は下りることなく、発売は戦後の1950年(昭和25年)まで遅れることとなった。

その間、角瓶はサントリーの最上級ウイスキーとして市場にブランドイメージを築いた。戦時中に陸海軍に従軍し戦地で「角瓶」に遭遇、日本製とは知らずにウイスキーの味を覚え、戦後に帰国して国産ブランドと知った出征者も多いという。

定番商品として定着

発売当時の名称は「サントリーウヰスキー12年」だったが、原酒の一部に12年物を使っていただけであり、スコッチなどの規準に比してもやや誇大気味の名称であることから、長くは使われていない。

一方、その特徴ある角型の瓶の形から、愛飲者の間でいつしか「角瓶」・「角」の愛称が定着し[3][7]、1950年代に正式に「サントリー角瓶」と改称された。ただし1990年代まで、ボトルに「角瓶」の名称は付いておらず、単に「サントリーウイスキー」を称していただけであった。

原酒使用率が高いため、当時の日本の税制では特級ウイスキーの区分に含まれたが、高級酒扱いの「オールド」に比べ、やや求めやすい価格であったこともあって固定ファンを獲得し、定番商品として根強い支持を得ることになった。この間にも、蒸溜所の整備やサントリー自社によるグレーンウイスキー生産の開始などによって、品質やブレンディングの改良が継続された。

1989年(平成元年)4月のウイスキーの等級廃止と税制改正に伴う日本でのウイスキー価格の大幅低下に伴い、1990年代以降は大衆酒と言って良い程度に価格が低下し[8]、国産大衆ウイスキーの市場で広く普及している。それでも発売当時より現在まで続く瓶の形と、ブレンドに若干の変化はあったものの適度な香りを持った味は今日まで継続されて一般にも親しまれており、ジャパニーズウイスキーの代表的存在となっている。

価格低下に伴う普及に合わせ、本来の「角瓶」である「黄角」以外の姉妹商品も展開されるようになった。1992年(平成4年)には、ホッグスヘッド樽で熟成された白州蒸溜所産のモルト原酒をキーモルトとしてブレンドし、尚且つ辛口でスッキリとした味わい(発売当初[9])を持つ「白角」(2019年3月を以って休売となっていたが2022年〈令和4年〉8月9日に数量限定で一時再販)、1999年(平成11年)には、芳醇でマイルドな「味わい角瓶」、さらに2007年(平成19年)には「味わい角瓶」に代わり、アルコール43度でパンチョン樽で熟成された山崎蒸溜所産のモルト原酒をキーモルトとしてブレンドされ、近年の「オールド」に似た風味も感じるリッチな飲みごたえの「角瓶<黒43°>」が投入され(2016年4月を以って終売)、更に2013年(平成25年)には「角瓶」の上級品としてスクエアボトルに青ラベルの「新プレミアム<43°>」が投入された(先述の黒角同様、2016年4月を以って終売)。2019年(平成31年/令和元年)現在も共通の亀甲ボトルを用いたこのラインナップで販売が続いているほか、業務用・ヘビーユーザー向けの大型ボトル(ガラス瓶・ペットボトル)も用意されている。その後休売していた白角が2022年8月9日に限定品として復活した。

その一方でサントリーでは、低迷傾向にあった日本のウイスキー市場での販売増を目指し、2008年からは「角瓶」をソーダで割って飲むハイボールの普及・宣伝活動を開始・注力しており、この結果、全国的な「角ハイボール」ブームが起こり、2008年・2009年と2年連続で同社のウイスキー出荷量が前年を上回るという成果をあげている[10]。そのブームは2010年6月以降には原酒不足の懸念から出荷量を調整する必要が生じたほどである(駆け込み需要)[10]。

その他
ラベルのシンボルマークとして長年使われたサントリーのシンボル「向獅子マーク」は、1990年代にサントリーのCI導入に伴い、社章として一時期使われた「響」の字を図案化したマークに変更される[11]が、2007年の商品リニューアルから「向獅子マーク」が復活した。
アルコール分は、最初の角瓶が発売された1937年から1992年頃まで、43%[12]を継続していたが、それ以降はハードリカーの売り上げ低迷などもあり、現在アルコール分は40%で販売されている。ただしアルコール分が40%では、味的に薄く、物足りないと感じる層も多いため、こうした層に向けて2007年より「角瓶<黒43°>」が誕生した。
北海道では「角サン」とも呼ばれ、サントリーも北海道に限り営業宣材で「角サン」の愛称を使用している。「サン」はサントリーを略したものである。
1960年代には、似たようなボトルデザインの製品として、三楽オーシャン(現・メルシャン)から「三楽オーシャンウイスキー・ブライト」という製品が発売されていた。角瓶が当時のランクで特級だったのに対し、ブライトは2級品だったことや、当時の洋酒愛好家から批判が相次ぎわずか1年足らずで消えている。
1975年から1977年にかけて全国紙にて広告展開され、1980年代に起きたコピーライターブームの中から登場した仲畑貴志はサン・アド在籍時代に同製品のコピーを数多く手掛け、これまでに「娘の帰りが遅い夜」・「角÷H2O」・「新發賣 昭和拾弐年・角」などの広告を残している(仲畑自身はこの広告で自身のコピーセンスを磨いたことなどから、本人曰く「僕のミルク」であるとも言っている)。
2012年4月からはBS-TBSで放送の提供番組「ハイボール万歳」が始まった。出演は細川茂樹→武田修宏、塚地武雅、遼河はるひ。「角ハイボール」のある酒場を紹介する番組[13]である。(なお、当該番組は2018年3月で終了。)


CM
CMにはデザイナーとして知られる三宅一生や、ミュージシャンの井上陽水や鮎川誠が出演したり、また1990年代中期には、鹿賀丈史や井川比佐志といった質実志向の強い俳優を起用し(他には女優の酒井和歌子も出演していた)、美空ひばりの「川の流れのように」や「港町十三番地」をBGMに使った「我ら、角瓶党」のCMを放映している。ちなみに鹿賀は前述の「我ら、角瓶党」以前にも、同製品(角瓶・白角いずれも)のCMに単独で出演しており、鹿賀が小説を読みつつ、テーブルの上におかれた角瓶のグラスを口にやるさまを映した「活字&ウイスキー」のCM[15]や、同じく鹿賀が夏目漱石の代表的小説「坊っちゃん」の先生に扮したCMに加え、坂本龍馬、西郷隆盛他、歴史上の人物の好物にスポットを当てたCMや、水戸黄門とのコラボレーションによるCM(CMには佐野浅夫、由美かおる、高橋元太郎他が出演)など、多数のCMに出演している。この他にも、鹿賀は白角を天然水で割った250ml缶で販売されている「白角水割」のCMにも出演しており、他にもサントリーでは、角瓶以外のCMにも数多く出演歴を持つ俳優の一人となっている。
2000年以降のCMには俳優の浅野忠信、アーティストの矢沢永吉や布袋寅泰、CHEMISTRYを起用し、新しい角瓶の楽しみ方を比較的若い世代へアピールしている。1991年に「サントリークレスト12年」のCMソングとして使用されていた石川さゆり(SAYURI名義)の「ウイスキーが、お好きでしょ」が使用された。

角ハイボール
2007年秋、角ハイボールを美味しく提供するバーをコンセプトとしたCMを制作。女性店主役に小雪が起用された(2009年からはおぎやはぎも出演)。また、CMソングの「ウイスキーが、お好きでしょ」は2009年度はゴスペラーズが、2010年度は竹内まりやが歌っている[16]。
小雪の『わたしは氷』篇の撮影地は調布市の西調布駅付近で、カクテルバーについては、撮影セットである。『港町 薄暮』篇、『港町 夜』篇の撮影地は、北九州市の和布刈公園の第二展望台で、夜景は門司港である。
2011年秋から「角ハイボール第二章」としてCMキャラクターに菅野美穂を起用。二代目店主役を演じた。2012年には、ほっしゃん。と共演。
2014年2月より「角ハイボール第三章」では井川遥を起用[17]。馴染み客役(共演者)にピエール瀧、加瀬亮、田中圭。CMソング「ウイスキーがお好きでしょ」は田島貴男(ORIGINAL LOVE)が歌っている[18]。2017年8月の「新顔」篇からは矢本悠馬が馴染み客役として新たに起用された。
2020年7月より「角ハイボール缶」単体のCMがオンエアされている。
2020年現在はクラムボンが歌っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%A7%92%E7%93%B6


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サントリーオールド

サントリーオールドは、サントリー(二代目、旧・サントリースピリッツ/サントリー酒類〈二代目〉)が製造・販売する純国産ブレンデッド・ウイスキー(日本洋酒酒造組合の定めるジャパニーズ・ウイスキーの表示基準に合致した商品[1])の一つである。

サントリーウイスキーの代表的なブランドとしてその名を知られ、その瓶の形状から、ダルマやタヌキなどの愛称がつけられている。


歴史

前史
壽屋(現・サントリースピリッツ)の創業者鳥井信治郎は、京都との府境に近い山崎(大阪府三島郡島本町)の地にて1923年から国産ウイスキー事業を開始する。のちにニッカウヰスキーを創業することになる竹鶴政孝を招き、1929年に白札(現在のサントリーホワイト)や、赤札(現在のサントリーレッド)などを発売するも、当時の消費者からの反応は今ひとつという状況が続く。のちに竹鶴の退社を経て、これまでに鳥井が自身で得た経験、さらに長男・鳥井吉太郎の手によってつくられた「サントリーウイスキー12年」(現在のサントリー角瓶)を発売すると、スモーキーで熟成を極めた味が世間に評価され、遂に成功をつかむ。国産ウイスキー事業を定着させるべく試行錯誤してきた鳥井の努力が実ることとなった。そして1940年に、山崎蒸溜所においてサントリーオールドは誕生する。

しかし誕生した当時、日本は戦時下で販売は許されず(この間に「新・サントリーウヰスキー誕生」のアナウンスが為されたのみで、間もなくして日本は第二次世界大戦へと突入してゆく)、その間鳥井は当時の日本海軍の取り計らいで手に入れた麦をもとに軍用ウイスキーを製造し続けることになる。やがて日本は敗戦したが、山崎蒸溜所は戦災に遭うこともなく、ウイスキーの生産を続けるに至った。

成功を約束された金の卵
戦後復興の最中の1950年、10年の期間を経て、オールドは世に送り出される。実に高価なウイスキーで庶民からは憧れの的であったが、禁止税的に高価であった輸入ウイスキーの代わりとして年を追うにつれて、徐々にではあるものの浸透していった。夜の歓楽街にあるバー・クラブ・スナックなどの店で人気を集め、高度経済成長期には、寿屋の売り上げの殆どをオールドで占めた時期もあり、サントリーのウイスキーの代表的なブランドとなる。

特に1970年代にかけては、サントリーの東京支社が当時日本橋にあったことや、同社が「日本料理には日本酒」というこれまでの既成概念に挑むべく、料亭や寿司屋、割烹などあらゆる日本料理店への営業を集中的に行ったことで(サントリーはこれを「二本箸作戦」と称している。1999年に発表された『サントリー百年誌』から)、オールドやリザーブなどのウイスキーが様々な和食専門店へと浸透してゆく。今日でもオールドを扱う料亭・和食店は多い。

オールド・ショック~現在へ

1981年においてオールドの出荷数は約1000万ケース、1億3000万本以上[2]。これは同時期にアメリカで最大の売上を誇ったJ&Bの2750万本の4倍[2]。国内市場での同価格帯の特級ウイスキー(当時の販売価格で2500円~2770円、ニッカウヰスキー(以下ニッカ)のG&G、キリン・シーグラム(以下キリン、現・キリンディスティラリー)のロバートブラウン、三楽オーシャン(以下オーシャン、現・メルシャン)のオーシャン12がなど該当した)でのシェアは86パーセント[2]。また、日本国内のウイスキー全てのうち33.2%がオールドである[2]。オールドはサントリーの売上の半数を稼ぎだす化物のような商品であった[2]。このとき、サントリーは日本のウイスキーの総売上の76パーセントを占めていた[2]。しかし高度経済成長期を経て、1980年代に入ると、ウイスキーにかわり酎ハイが市民権を得たこと(1984年の焼酎ブーム)や、またサントリーが扱う洋酒でも、ワインやカクテルなど、様々なタイプに消費者の好みが拡散し始めた(1979年の第二次ワインブーム)ことで、「洋酒と言えばウイスキー」という時代は次第に終焉を告げ始めていた。

1981年当時に日本消費者連盟が入手したとされるサントリーの内部資料によれば、オールドの成分構成はモルト原酒27.6パーセント、グレンウイスキー45.1パーセント、汲水26.1パーセント、甘味果実酒0.8パーセント、リキュール0.4パーセント、カラメル0.6パーセントとなっている。ここで言うグレンウイスキーのグレンとは、穀物のGrainではなく、山崎峡という地名にちなんだ渓谷のGlenであるとしていたが実際は無色透明の穀物アルコール(飲料用エタノール)であり、樽貯蔵がされていない以上、諸外国であればウイスキーとみなされず、単なるアルコール添加とされるものである。日本の酒税法では熟成年数が定義されていないとはいえウイスキー「らしい」琥珀色は熟成樽に貯蔵された結果であるため、1/4ほどの原酒に穀物アルコールを加えただけでは別途色付けや風味の調整が必要になる。それが甘味果実酒やリキュール、カラメルであり、日本消費者連盟が1978年に糖尿試験紙によって糖分の検出を試みたところ、ニッカ、キリン、オーシャン、東洋醸造、協和発酵では検出されず、反応があったのはサントリーだけであった。また公開質問状においても前記の各社は使用していないと回答しているが、サントリーは消費者室長(当時)の中澤輝柾が「ブレンド内容は世界各国のどの企業も固有のノウハウとしている」ことを理由に回答を拒否している。ウイスキーは量産できないとしたニッカと異なり、輸入した原酒と穀物アルコールを添加物で調整したオールドは増大する国内需要を満たす唯一の銘柄であったが、貿易不均衡の是正を目的とした酒税法の改正(関税の引き下げ)もあって、価格の低下した品質の優れた著名な外国製ウイスキーとの競争を行わねばならなくなった。長年にわたってサントリーの業績に貢献してきたオールドも1980年代中期には、その売り上げを他の洋酒に奪われることになる(これを「オールド・ショック」[注釈 1]という)。

これに対してサントリーは様々なタイプのウイスキーの開発や外国製ウイスキーの代理販売権の獲得を進めてゆくと共に、オールドも1980年代後期以降は様々に改良が加えられてゆく。1994年には従来のリッチ&メローから、新たに「マイルド&スムーズ」という口当たりのやわらかいものが新たに発売される。その後もマイルド&スムーズがリニューアルされ、2006年には「THEサントリーオールド」となった。また2007年10月からは、新たにシェリー樽原酒で仕上げられ、金のラベルをつけた「プレミアム43°」が発売され、リッチ&メローは製造中止となった。2008年9月に値上げが実施された際に、新「サントリーオールド」を両者を統合する形で発売している。新オールドは原酒のブレンドの見直しによりアルコール度数43%に変更され、初期のオールドに近い味に回帰しつつ、ラベルにはサントリーのエンブレムである「向獅子マーク」が復活している。

現在でこそ手頃な値段で手に入るようになったが、現行以前の酒税法の時代には相対的に値段が高価なウイスキーであった。現在でも根強いファンが多く、多くの愛飲家に支えられている。

CMソング「夜がくる」は小林亜星が作詞・作曲を手がけた。


その他

ボトル上部のラベルに書かれた「寿」の文字は、サントリーの前身「寿屋」の寿に由来するもの。2008年から、響マークに代わってキャップやボトル背面にも刻まれるようになった。
ブランド名は、トーマス・パーの愛称「オールド・パー」にあやかったものとも言われている。
1970年代後半までの正面ラベルには大字で「SUNTORY WHISKY」となっていたがその後、現在の「SUNTORY OLD」に改められた。これは当時「SUNTORY WHISKY」の上に書かれていた「オールド」を表す「VERY RARE OLD(とてもまれに古い)」という表記が、当時の製法では一般的なスコッチ・ウイスキーよりも短い年数で作られており不適切だという指摘を受けたためである。
1985年頃にはサントリーが当時ペリエの輸入販売をおこなっていたこともあり(現在はサントリーフーズが販売を担当している)250ml缶に入った「オールド&ペリエ」が販売されていた(その後、サントリーがペリエの輸入販売を担当しなくなってからは、同じく250ml缶で宇津井健、藤巻潤、川津祐介、倉石功、稲葉義男、中条静夫、神山繁など、TBS系で放映された名ドラマ「ザ・ガードマン」の一連の出演者をCMに起用し、「サントリーオールド・ウイスキー&ソーダ」が発売された他、1990年代から2011年まで「オールド&ウォーター」が250mlで販売されていた)。
過去にこの製品のCMに起用された俳優・歌手は数知れない。俳優の武田鉄矢や役所広司、作家で同社に在社歴を持つ開高健に加え、村松友視、倉本聰、村上龍の他、1994年に発売された「マイルド&スムース」には俳優の長塚京三や田中裕子(「恋は、遠い日の花火ではない。」)、2006年のリニューアル時にはミュージシャンの井上陽水、2007年2月からは國村隼、伊藤歩など多くのタレントが登場している。中でも武田は1982年に日本テレビ系で放映された特別ドラマ「幕末青春グラフィティ 坂本竜馬」に出演した際、サントリーが一社提供でスポンサーについていたこともあり、番組内で放送された90秒のインフォマーシャルに出演している。また村松がCMに出演した際のキャッチコピーだった「ワンフィンガーでやるもよし。ツーフィンガーでやるもよし。」は、当時の流行語にもなったことで知られる。
特に女優の大原麗子は、1977年から1987年まで映画監督の市川崑が演出をつとめていたサントリーレッドのCMに出演していたことでも知られていたが、1988年から1990年までオールドのCMにも出演していた(「今日からうちは、オールドです。」)。これはサントリーレッドのCMの主要企画とコピーを担当していた博報堂の藤井達朗が1985年に急逝したことによるものに加え、1989年4月1日からの消費税導入(当時3%)にあわせて行われた、酒税法改訂によるウイスキー類の価格変更(旧・特級ウイスキーの値下げと、旧・1~2級ウイスキーの値上げ)が反映されたものである、とも言われている。
その他1979年には、ニュージーランドの羊飼いの青年の姿を描いたCMが放映され、当時高度経済成長期の折、豊かになりつつある日本に警鐘を鳴らした内容が話題を呼んだ。また1980年代はサントリーの業績が好調だったこともあり、西部劇の悪役として知られるリー・ヴァン・クリーフや、アーネスト・ボーグナインなどの映画俳優を起用してCMが制作されてもいる。
1966年公開の『007は二度死ぬ』では、ジェームス・ボンドが飲用している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89


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サントリーオールド 夜がくる ~ オリジナル・ヴァージョン~ (サイラス・モズレー)
https://www.youtube.com/watch?v=zf0B9pavB6o&t=0s

曲 サントリー・オールド「人間みな兄弟」
アーティスト サイラズ・モズレー
作詞・作曲:小林亜星

サントリー オールドのCMソング。作詞・作曲は小林亜星。
サントリー オールドのテレビCMを手がけるに当たって「人間みな兄弟」のタイトルで作曲された。「人間みな兄弟」のタイトルはかつて壽屋(現・サントリー酒類)宣伝部に所属していた開高健が考えたキャッチコピーであり、小林がこのコピーからのインスピレーションにより作曲したものである。

1968年に最初に放送されたバージョンは、男性のスキャットとギター伴奏によるハ短調のものである。スキャットを歌ったのはサイラス・モズレー、当時上智大学教授であった黒人ゴスペル・シンガーである。作曲当時は『人間みな兄弟』という開高健のキャッチコピーとしてのタイトルであったが、後に小林亜星によって歌詞がつけられ『夜がくる』という曲名になった。不朽不滅のCMソング。


サントリーオールド 夜がくる - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89++%E5%A4%9C%E3%81%8C%E3%81%8F%E3%82%8B

小林亜星 夜が来る - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%BA%9C%E6%98%9F+++%E5%A4%9C%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%82%8B



サントリーオールドCM集 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL_qf-fHSlz04ICBrZ27GkhwweEvILrpNj

サントリー ローヤル CM - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC+%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%AB++%EF%BC%A3%EF%BC%AD

サントリーウイスキーCM集 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLxNKpi9eqX_ygB8aDPSyT-jZguQcGnxXO

suntory CM 1961年~1989年 <社内資料> - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5Y7NXMDoBlg&t=426s

1977-1991 サントリーCM集 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0NVReWexAVo&t=25s

【ラジオCM史】サントリーウイスキー 1961年 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lAuHwZr3Sq8
8:777 :

2022/09/26 (Mon) 00:48:06

日本初のヌードポスター サントリー 赤玉ポートワイン ポスター

Massan - マッサン - English Subtitles - E25
https://www.dailymotion.com/video/x7z9kr5

赤玉ポートワイン ポスター - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=%e8%b5%a4%e7%8e%89%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%af%e3%82%a4%e3%83%b3+%e3%83%9d%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc&form=HDRSC2&first=1&tsc=ImageHoverTitle


取り調べ、勘当、波乱の人生「日本初のヌードポスター」モデル女性のその後…大正12年、サントリーHD「赤玉ポートワイン」
https://www.sankei.com/article/20140512-STODWMJVJZMB5HEWGT4WWJS324/

 ずっと気になっていたポスターがあった。ワイングラスを胸元に、モナリザのようにほほ笑む女性。これはぶどう酒「赤玉ポートワイン」宣伝のポスターで、今でも酒屋さんやスーパーで時々見かけることがある。少し調べてみると、このポスターが、大正11(1922)年に制作された日本初のヌードポスターだったことがわかった。手がけたのはサントリーホールディングス(大阪市北区)の前身「寿(ことぶきや)屋」。女性が人前で肌を露出することが許されなかった時代。その後、モデルの女性は警察の取り調べ、親からの勘当…波乱の人生を送っていた。

(上岡由美)

衝撃的なポスター
 「ポスター制作の経緯やモデルに関しては当時のことを詳しく知る人はもう社内にはいません。ただ宣伝部の片岡敏郎を中心に制作したことなどが語り継がれています」。同社広報部はこう説明する。


 明治32(1899)年、鳥井信治郎が「鳥井商店」を設立、39年に「寿屋洋酒店」に社名を変更。40年に「日本人の舌に合うワインを」と今の事業の原点となるワインを発売した。赤玉の赤い丸は「太陽」を表し、米1升が10銭する時代に赤玉1瓶は38銭とかなりの贅沢品だった。

 「いいものを作ってもそれを知ってもらわないことには売れへんのや」という創業者の信念のもと、このヌードポスターは誕生した。

 関係者の見つからない現在、懐古談やインタビュー、取材を紹介した書籍だけが事実を知る手がかりだった。

撮影は極秘裏
 もともと片岡さんは広告界の鬼才といわれた人で、企画や宣伝広告は斬新で意表を突くものが多かった。なかでもユニークなのが赤玉を売り込むために組織されたオペラ団「赤玉楽劇座」。販売店主らを招待し、興業しながら全国を回った。この劇団のプリマ・ドンナが、くだんのポスターのモデルに起用された松島栄美子さんだった。

 撮影は大正11(1922)年5月、大阪市内の写真館で行われた。当日の様子は山口瞳・開高健著「やってみなはれ みとくんなはれ」(平成15年、新潮社)に詳しい。


 《写真館のほうも、はじめは驚いたが、スタッフの熱意にうたれ、ポスターの撮影のある日は表戸をおろして客をことわってしまった。(略)はじめのうちは、松島栄美子は着物を着たまま写された。つぎの回は肌着姿になり、そのつぎはというふうに上半身を露出していった。彼女にも、どんなポスターになるかということがだんだんにわかってきた》

反響すさまじく
 スタジオに延べ6日間も缶詰めにされ、1ポーズにつき50~60枚もの写真が撮られた。

 完成したポスターは、渋いセピアなトーンでまとめられ、グラスの中のワインレッドが色鮮やかに映え、全体に上品な感じに仕上がっている。撮影から1年後、ポスターが完成するとその反響はすさまじく、赤玉は驚異的な売り上げを記録したほか、ドイツで開かれた世界ポスター品評会でも1等に入選した。

 さらに、杉森久英著「美酒一代-鳥井信治郎伝」(昭和61年、新潮社)にはこう記されている。

 《絶対秘密とされていた。中途から真似する者の出ることをおそれたのである。風俗取締りがきびしくて、裸をあらわにすることに対して病的に神経質だった当時の日本(略)その後しばらくして、松島栄美子が大阪へ来て、住吉町の寿屋本社を訪問したところ、問題のポスターのモデルを見ようと集る人が、店の前に黒山を築いた》

ネットに手がかり
 警察からは風紀紊乱(びんらん)に当たると取り調べを受けるなど、そんなタブー撮影に挑んだ栄美子さんはどんな女性だったのか。ますます彼女への興味が沸くが、「赤玉楽劇座」も興業資金が続かず1年で解散してしまっている。

広告資料を調べたり、大阪の地域史研究家に問い合わせたりしたが、栄美子さんの消息はわからなかった。そんな中、インターネットを何度も丹念に検索していると、1枚の写真が見つかった。なんと晩年の栄美子さんがポスターと並んで写っていたのだ。

 撮影したのは甥(おい)で東京在住の写真家、川島徹さん(76)。妻の由貴子さん(71)がブログにアップしたものだった。

 《主人の伯母は、築地小劇場の女優でのちに歌劇団「赤玉楽劇座」のマドンナでした(略)今はどうってことはありませんがその当時、胸元から上の裸は、インパクトが強く、好評だったにもかかわらずこの姿は、若い娘がやることではないと、姉弟、親戚中から批判され親から勘当されたそうです》。こう綴っている。

モダンできれいな人
 早速、取材を申し込んだ。すでに栄美子さん、そしてその息子さんも約10年前に亡くなっていた。


 「僕が物心ついた頃にはしょっちゅう家に行っていましたよ。伯母は本郷に住んでいましてね、畳敷きにお膳の時代に、テーブルとソファという洋式的な生活をしていました。モダンできれいな人でしたよ」と川島さんは振り返る。

栄美子さんは川島さんの父親の一番上の姉で、4人姉弟だった。オペラ団が解散した後、東京に戻り、戦前にNHK職員と結婚したという。老後は東京・高田馬場のアパートで生活。川島さんが撮影した写真は亡くなる直前に自宅で撮ったもので、昭和58年4月7日、トイレから出て「気持ちが悪い」と言い、息子さんの膝にもたれかかったまま息を引き取ったという。90歳だった。晩年は、幸せな静かな人生だったという。新聞の片隅に数行の死亡記事が掲載された。
https://www.sankei.com/article/20140512-STODWMJVJZMB5HEWGT4WWJS324/5/
9:777 :

2022/09/28 (Wed) 01:37:38

蒸溜所一般見学ツアー

Massan - マッサン - English Subtitles - E59
https://www.dailymotion.com/video/x7zf794


蒸溜所 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-category-69.html


月山の休日、ニッカウヰスキー 宮城峡蒸溜所見学編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4347.html

大人の社会科見学ツアー、ニッカウヰスキー 宮城峽蒸溜所再び編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4395.html

大人の実験室、ニッカウヰスキー 宮城峽蒸溜所テイスティング&ブレンド体験編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4396.html


乗鞍の休日、サントリー 白州蒸溜所見学編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4373.html

乗鞍の休日、サントリー 白州蒸溜所見学編再び。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4382.html


乗鞍の休日、本坊酒造 マルス信州蒸溜所見学編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4379.html

乗鞍の休日、キリンディスティラリー 富士御殿場蒸溜所見学編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4383.html

大人の社会科見学ツアー、ガイアフロー社 静岡蒸溜所編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4384.html

大人の社会科見学ツアー、若鶴酒造 三郎丸蒸溜所編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4386.html

大人の社会科見学ツアー、常陸野ブルーイング 東京蒸溜所編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4390.html

大人の社会科見学ツアー、木内酒造八郷蒸溜所編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4391.html

大人の社会科見学ツアー、石岡テイスティングルーム編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4394.html

大人の社会科見学ツアー、戦利品試飲編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4385.html


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雪日記
大人の実験室、宮城峽蒸溜所テイスティング&ブレンド体験編。
【21-22シーズン 休日】 天候:雨
9/3(土) 宮城峽蒸溜所テイスティング&ブレンド体験。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4396.html


…前哨戦からのつづき。

宮城峽蒸溜所一般見学ツアーを終え本番へ。

ニッカウヰスキーでは様々なイベントやセミナーを不定期開催されております。
テイスティング体験やブレンド体験、
余市では普段公開されていない旧竹鶴邸の内部を見学するツアーなども。

一般の見学ツアーは無料で1日何回も開催されておりますが、
有料セミナーは開催数も少なく予約も取りづらい。
ですが、
今回、“ティスティング&ブレンド体験”の日程が上手い事重なり予約が取れたのでした。

テイスティング&ブレンド??

宮城峡・余市のキーモルト・グレーンウイスキーのテイスティングとブレンドのサンプル作りをお楽しみいただけます。
ウイスキーの製造工程をご説明後、宮城峡モルトと余市モルト・グレーンウイスキーの違いをテイスティングいただきます。
その後ブレンドのサンプルをお造りいただき味わいの違いを確認していただきます。

こ、これは…絶対楽しいヤツでしょう!!

時間は90分、料金は3,000円。
はたして、どんな内容なのか!?

一般見学ツアーが終わり、有料ツアーの時間がやって来ました。
通されたお部屋には…!?

じゃーん!!
嗚呼…実験室みたい!!

自然豊かな蒸溜所の風景を眺められる開放的な実験室です。

ウイスキーの製造工程の説明や、
ブレンド、テイスティングのお勉強会。

目の前の原酒達が気になって仕方ありません(笑)

ブレンド&テイスティング 処方作成用紙まである。

宮城峽の原酒は、
M モルティ&ソフト。
F フルーティ&リッチ。

余市の原酒は、
S シェリー&スイート。
P ピーティ&ソルティ。

グレーンはもちろん宮城峽のカフェグレーン。
G ウッディ&メロウ。

先ずは、原酒そのままをテイスティング。

ん~そのままですでにさいこ~!!

特に、
余市のS シェリー&スイート、

P ピーティ&ソルティ、
この二つはめちゃめちゃ好みなお味で、
ホント、このままこの二つを永遠に呑んでいたかった(笑)

しかし、
テイスティングだけで終えるわけにはいきません。
このツアーの魅力はブレンド体験。

先ずはブレンドサンプル通りに作ってみます。

この数字の単位はml。
このままブレンドすると、合計で20mlとなります。
これはザ・ニッカに近いブレンドだそうです。

それでは自分流の比率でブレンドしてみます。
グレーンゼロでブレンデッドモルトを。
かなり余市多め、シェリー強めです。

さいこ~!!

お次はシェリーとピートの比率を逆にしてみた。
さいこ~!!

ザ・ニッカより自分流の方が美味い(笑)

何これ? 超楽しい!!
大人の実験室(笑)

でも、大人の実験室だから酔っぱらってしまう。
ブレンダーの方はお仕事だから飲み込まないテイスティングなのでしょうけど、
せっかくだからどんどん呑みたいよね。

ブレンドもテイスティングも完全自由空間。
目の前の原酒で好きにやって下さいという内容です。
そうだ、別に20mlにこだわらなくてもいい。

沢山ブレンドして試飲したいから10mlでブレンドする事にしました。
これはもう余市のシェリーとピートだけ(笑)

鼻をリセットさせる為のインスタントコーヒーまで提供されました。
色々、配合を変えてみます。
5種類しかないけど、それでも無限に思えます。
不思議だね。
原酒そのままで十分に美味しいと思いましたが、
ブレンドすると奥深くなる。
特に、グレーンを入れると良い方向に変わる。
色々試行錯誤して自分の好みを探ります。
これだ!と思った配合に辿り着きました。
最高傑作はやっぱり20mlで(笑)

思い切って余市のシェリーとカフェグレーンのみでもいい。

超ウルトラスーパーさいこ~!!

宮城峽蒸溜所ティスティング&ブレンド体験、予約してみて大正解でした。

余市と宮城峽の原酒を使ったテイスティングとブレンド。
ブレンドもテイスティングも自由、好きなだけ作って呑める。
時間も約90分と余裕があり、説明解説もあるので初心者でも楽しめます。

あまりにも楽しくて美味しくて…、
まだ明るい時間だってのに酔っぱらってしまいました!
大人の実験室…危険な実験室です(笑)

これだけ呑んだ後ですが、有料試飲コーナーもやはり気になります。

そそられるメニューですが、

何故か選んだのは、
鶴とカフェグレーン!?

鶴はいいとして、
カフェグレーンは先ほどまでブレンド用として呑み放題だった原酒。
一応、市販のカフェグレーンではなく蒸溜所限定のモノなのでレアといえばレアだけど…、
ちょっと酔っぱらっていて謎選択をしてしまいました(笑)

無料見学ツアー、有料テイスティング&ブレンド体験、有料試飲コーナー、
ありがとうございました宮城峽蒸溜所、最高の1日でした。
何度でも訪れたくなる蒸溜所です。

さて、
再び天童に戻るのですが、
羽前千歳駅で約1時間も乗り換え待ち。

無人駅の舎内にはホントに何も無いので、駅周辺で暇つぶししようかなと思いましたが、

駅前にも何も無い!!
とりあえず、酔いは醒めてきました…。

往路の倍くらい時間かけて天童に帰還しました。
お楽しみの天童夜の部へ…。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4396.html
10:777 :

2022/09/28 (Wed) 02:00:15


美味しいウイスキー。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4392.html

侮れない、ジャパニーズブレンデッド。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4375.html

アイリッシュコーヒーゼリー。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4147.html

変わったモノ、定番のモノ、越後湯沢酒日記。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4159.html

コーヒー牛乳モルト。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4175.html

マチガ沢スキーはとても疲れる。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4358.html

青春18きっぷの旅、羽越本線編。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4397.html

乗鞍高原夜の部は激レアスギル。 - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4381.html


▲△▽▼


定価で買えて、美味しいジャパニーズウイスキー10選
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1648.html

ウイスキーをゆっくり解説 - YouTube動画
https://www.youtube.com/channel/UC9W9FXnXKwRb3_dKEJ-0H_A/videos

頑張った日の夜に飲みたい高級ウイスキー7選!!
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1687.html

ハイボールを飲み続けるとどうなるのか?日本で大流行した理由について ウイスキーのダイエット効果と歴史
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1599.html


▲△▽▼


酒は文化財 _ 長生きできなくてもいいから、毎日美味しいお酒を飲もう
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14017005

超簡単にブドウ酒を作る方法
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14040723

ドストエフスキー風な食卓 _ 正しい紅茶の入れ方、正しい蒸留酒の飲み方
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14017063

【ゆっくり解説】予想以上に大きいお酒が強い人と弱い人の違い - 生命科学・人間生物学
2021/05/07
https://www.youtube.com/watch?v=_BbbKkPHlak

【ch桜・別館】こんな御時勢、酒無しなんてありえない![桜R3/7/12]
https://www.youtube.com/watch?v=MD3zMZfrUzs

カルヴァドス _ 一番香りの良いお酒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#c4

飲んだ瞬間、言葉を失っていた、幻の日本酒「百光(びゃっこう)」
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/927.html

その味わいは、もはやデザート!? 「デザートSAKE 天彩(あまいろ)」
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/933.html

千葉県の名酒
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1013.html

ロシア人は黒パンをかじり、グラスのウォッカを少し口に含んで、パンと一緒に飲む
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1043.html

正しい蒸留酒の飲み方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/347.html

りんごのお酒:シードルの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1526.html


▲△▽▼


酒は飲んではいけない
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/330.html

酒を飲むと癌でバカになる
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/723.html

ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html

フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き
2. 中川隆 2017年10月09日 フランス人が大好きなワインは体に悪い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/766.html#c2

ほとんど禁酒に成功しなかった「禁酒法」が残した教訓とは?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/808.html  

超簡単にブドウ酒を作る方法
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/823.html

りんごのお酒:シードルの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1526.html

悪用厳禁!?女を射止める H なカクテル
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1198.html 

能登杜氏が醸す「甲斐開運」
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1771.html

日本酒・焼酎・料理酒のアルコールを飛ばす方法・時間
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1094.html
11:777 :

2022/09/28 (Wed) 14:33:02

ニッカは元々リンゴジュースとリンゴのお酒 シードルの製造メーカー

Massan - マッサン - English Subtitles - E89
https://www.dailymotion.com/video/x7zm945

Massan - マッサン - English Subtitles - E96
https://www.dailymotion.com/video/x7zm94i


大日本果汁(のちニッカウヰスキー)の設立

1934年3月1日、後続の技師が育ってきたこと、竹鶴が帝王教育を任されていた鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴は寿屋を退職。4月、北海道余市郡余市町でウイスキー製造を開始することを決意(現在の余市蒸溜所)、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任した。筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎。加賀の妻は1924年以来、竹鶴の妻のリタから英会話を学んでおり、竹鶴が事業を始めることを聞いた加賀は他の2人の出資者と共に竹鶴を支援することにしたという。

ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。このため農家が持ってきたリンゴは1つ残らず買い取り、しかも重量は農家の自己申告をそのまま信用して買ったという。出荷できないような落ちて傷ついたリンゴでも残らず買ってくれるというので、大日本果汁の工場にはリンゴを積んだ馬車の列ができた。

ただしこの記述は竹鶴自身の自伝を元にしている。出資者の記述はこれとはだいぶ違い、竹鶴は余市で起業する際、寿屋と鳥井には大変に恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だと説明して出資を募ったという。創業後、莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、ようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出して来たという。実際、大日本果汁は、創業後しばらくは酒造免許を取得していない。

このような経緯もあって、地元の農家の人たちは当初、政孝が余市でウイスキー製造を企てているとは知らず「ジュース工場の社長がリンゴをたくさん買ってくれる」と、信じていたという。

1935年5月、日果林檎ジュースの出荷を開始。しかし竹鶴の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったという。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだ。同年9月、妻リタを余市に呼び寄せる。



ニッカシードルの歴史
https://www.asahibeer.co.jp/cidre/

Amazon.co.jp : ニッカ シードル
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AB+%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB&adgrpid=117392436602&hvadid=620336676195&hvdev=c&hvqmt=e&hvtargid=kwd-299476267102&hydadcr=2596_13611307&jp-ad-ap=0&tag=yahhyd-22&ref=pd_sl_8rviz0zslc_e


ニッカブランデー白
https://www.asahibeer.co.jp/products/whisky_brandy/brandy/nikkabrandy/

ニッカ ブランデーの種類と味やおすすめの飲み方をご紹介 | 榎商店 お酒情報ブログ
https://enokishouten.co.jp/blog/nikkabrabdy-osusume



ニッカの酒では焦げ臭いニッカウィスキーよりニッカシードルと香りが抜群のアップルブランデーの方が評価が高いです。
ニッカのブドウブランデーは輸入したコニャックをボトリングしただけですが、超お買い得価格です。


ニッカブランデー|ブランデー|商品紹介|NIKKA WHISKY
http://www.nikka.com/products/whisky_brandy/brandy/nikkabrandy/

リンゴ ブランデー ニッカ(ブランデー)の通販・ネットショッピング - 価格.com
http://kakaku.com/search_results/%83%8A%83%93%83S+%83u%83%89%83%93%83f%81%5B+%83j%83b%83J/?category=0016%2C0034%2C0002&l=l&sort=priceb&nameonly=off&lid=ksearch%5Fsearchbutton&act=Input&n=30

【楽天市場】ニッカ ブランデー
http://search.rakuten.co.jp/search/mall/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AB%E3%80%80%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC/-/?l-id=s_search&l2-id=shop_header_search&x=36


ニッカが作っていた XO の白ボトルは、アップルブランデーでした。ただ、日本のリンゴは味はいいのですが香りがほとんどしないため、カルバドスとはまったく趣の違うお酒でした。
http://www.calvadoshof.com/Tunnel/aboutcalvados.html

1) ニッカ アップルブランデー弘前 500ml
アサヒビールから「ニッカアップルブランデー弘前」の通販です。

弘前市を中心に青森県において限定販売されました。
弘前市は言うまでもなく、りんごの一大生産地です。
その生産量は13万トン超、全国の生産量の約13%を占め、日本一を誇ります。
「ニッカアップルブランデー弘前」は弘前工場で蒸溜し、樽で長期熟成されたアップルブランデーです。
その味わいは、
「やわらかい口当たりとエレガントで甘いりんごの味わい、
フルーティーで華やかな香りが特長で、ほのかな酸味の漂う、甘く軽やかな余韻が心地よく持続」するというメーカーコメント。

実際に味わってみると、香りも非常によく、 甘み、酸味とてもしっかりと味わい濃く、口の中でじわーっと広がっていく味わいが心地よいです。
なかなかのうまさと思います。

アルコール度 40%
価格: 5,122円 (本体 4,743円、 税 379円)
http://www.sakaya1.com/smp/item/brn003.html

価格 4,743円 (税込 5,122 円) 送料別
http://item.rakuten.co.jp/seisensijyoutamai/blan-01/?scid=af_pc_etc&sc2id=1127630


________

2)ニッカ ブランデー XO(陶器ボトル) デラックス 白 40度 660ml

最安値 4,514円 送料別
http://product.rakuten.co.jp/product/-/8403632f61e48770b0f532e60c05aec7/?l2-id=sd_product_item

3,919円 (税込 4,232 円) 送料別
http://item.rakuten.co.jp/liquorsbest/105202001/

_________

3)ニッカ ブランデー X・O 白 [660ml]

最安値 2,800円 送料別
http://product.rakuten.co.jp/product/-/6db2426e47b849f088c66e4f05403079/?l2-id=sd_product_item

価格 2,648円 (税込 2,859 円) 送料別
http://item.rakuten.co.jp/sakeishikawa/jan-4904230201250/

________

4)ニッカ・ブランデー「VSOP白」40度720ml

青森県産のりんごを使用。
国産ではニッカだけのりんごブランデーV.S.O.Pです。


最安値 2,149円 送料別
http://product.rakuten.co.jp/product/-/9461986c28cd84fa5c8444e849289ae1/?l2-id=sd_product_item

価格 2,181円 (税込 2,355 円) 送料別
http://item.rakuten.co.jp/sake-shindobad/nikka-vsop-shiro-40-720/

ニッカ ブランデー V・S・O・P 白(ポム)
価格 2,160円 (税込 2,332 円) 送料別
http://item.rakuten.co.jp/syurui-2/2613/
12:777 :

2022/09/28 (Wed) 14:36:04

カルヴァドス _ 一番香りの良いお酒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/794.html#c4

りんごのお酒:シードルの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1526.html

超簡単にブドウ酒を作る方法
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/823.html
13:777 :

2022/09/29 (Thu) 02:16:23

シャーロット・ケイト・フォックス

Charlotte Kate Fox - Bing images
https://www.bing.com/images/search?q=Charlotte+Kate+Fox&qs=n&form=QBIDMH&sp=-1&pq=charlotte+kate+fox&sc=5-18&cvid=F381C125A753498BB572F19564EDA0FA&ghsh=0&ghacc=0&first=1&tsc=ImageHoverTitle
https://www.bing.com/images/search?q=+Charlotte+Kate+Fox+++nude&qs=n&form=QBIDMH&sp=-1&pq=charlotte+kate+fox+nude&sc=0-23&cvid=0C8D8558C9454FB383E7C6A76EA926EB&ghsh=0&ghacc=0&first=1&tsc=ImageHoverTitle


Charlotte Kate Fox - Bing video
https://www.bing.com/videos/search?q=Charlotte+Kate+Fox&FORM=HDRSC3
https://www.bing.com/videos/search?q=+Charlotte+Kate+Fox+++nude&FORM=HDRSC3


シャーロット・ケイト・フォックス ゴンドラの唄 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9++++%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%94%84



シャーロット・ケイト・フォックス(英: Charlotte Kate Fox、1985年8月14日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、歌手。

アメリカのニューメキシコ州サンタフェ出身で、ノースカロライナ州に在住した。米国俳優協会会員。日本でCAMINO REALがマネジメントしている。連続テレビ小説として初の外国人ヒロインを『マッサン』で演じた。「シャロやん」と愛称される。


来歴
ニューメキシコ州サンタフェで、ヒッピー世代の両親の元に生まれた[2]。シャーロットの祖母は、『マッサン』で演じた役柄と同じくスコットランド出身である。

サンタフェ芸術大学(英語版)の演劇ダンス専攻でBFAを取得してノーザンイリノイ大学(英語版)で演劇専攻のMFAを修了し、演劇スクールのステラ・アドラー・スタジオ(英語版)ニューヨークなどで演技とダンスを学ぶ。


キャリア

女優として、米国で舞台や独立系の映画を中心に出演して経験を積んだ。

2014年にアメリカの演劇関係者向けオーディション情報ウェブサイトで日本のNHKが連続テレビドラマでヒロインを募集していることを知り、キャスティングディレクターの奈良橋陽子に紹介を受け、『マッサン』でニッカウヰスキー創業者の妻である竹鶴リタを意図した白人女性ヒロインに応募した。

日本へ渡航経験は無く、日本語も全く話せないが、オーディションの日本語演技テストで台詞の意味を理解し、チーフプロデューサーの櫻井賢によれば「ズバ抜けた演技」と「コメディセンス」を見せ、日本国内232人、日本国外289人の応募者の中からヒロインに選ばれた。

3月から米国の家族と離れて東京都に滞在して5月のクランクインまで日本語を特訓し、撮影中は共演者やスタッフに「シャロやん」と親しまれた。この演技が高く評価されて、東京ドラマアウォード2015特別賞を受賞し、2015年に母校サンタフェ芸術大学から名誉博士号を授与された。

2015年4月29日に『マッサン』の劇中歌「ゴンドラの唄」を歌唱してユニバーサルミュージックからCDを発売し、8月19日にファースト・アルバム『Wabi Sabi』を発売して渋谷のマウントレーニアホールで単独ライブを開催し、8月22日から9月18日まで全国7都市でコンサートツアー[12]を催した。

以後、2015年9月放送の『名探偵キャサリン』で米富豪のビジネスウーマンを主演[13]、2016年4月期のドラマ『OUR HOUSE』で芦田愛菜とともに主演[14]、2016年6月公開の映画『高台家の人々』に出演[15]、2017年5月に舞台『俺節』でヒロイン・テレサ役[16]、2019年に大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』[17]、など日本で芸能活動している。


人物・エピソード

姿
身長167cmで、瞳の色はブラウングレーである。髪色は2014年に来日時の記者会見はブルネット[18]で、『マッサン』出演時はブロンドであった。2015年8月18日の初ライブは20センチほど短くしたショートヘアで登場した[19]。

趣味・特技
特技・趣味はダンス、乗馬、洞窟探検、ロッククライミング、ギター。

私生活
既婚[20][21][22]。

2014年の来日前は、米国人の舞台演出家ジョン・ポール・ムーアと結婚してノースカロライナ州で生活していた[23]が、日本の仕事が続いて別居期間が長期化[24]して2016年初頭に離婚した[25]。日本に在住する30代半ばのカナダ人ビジネスマンでYouTubeなどで活動する男性と、約1年の交際を経て2018年10月に実家のあるアメリカ・サンタフェの教会で挙式[20][21][22]し、2018年12月7日にInstagramでウェディングショット[26]とともに結婚を公表した。

2019年5月18日に第1子[27]を授かったと、妊婦姿の写真とともにInstagramで公表した。10月29日、第1子男児の出産を報告[28]。

2021年9月24日、第2子を出産[29]。

エピソード
幼少期は家にテレビがなく「テレビもない生活の中で芝居を覚えました」[2]と語り、『徹子の部屋』で小学校の時にノーパン通学で退学処分を受けて転校したエピソード[30]を語った。

ストレス解消法は「ギョーザを食べること」で、「毎日食べたい」ほど日本のギョーザを好んだが『マッサン』収録中は太ることを気にして“ギョーザ断ち”[31]した。他に日本で気に入った食べ物としてフカヒレを挙げている[5]。

「マッサン」のオーディションのため日米を往復していた無名時代に、成田空港で『YOUは何しに日本へ?』の取材を受けていた[32]。


出演

テレビドラマ
連続テレビ小説(NHK)
マッサン(2014年9月29日 - 2015年3月28日) - 主演・エリザベス(亀山)エリー 役[35][36][注 2][注 3]
べっぴんさん(2016年10月20日 - 29日) - エイミー・マクレガー 役[37]
京都人の密かな愉しみ(NHK BSプレミアム) - エミリー・コッツフィールド 役
京都人の密かな愉しみ 夏(2015年8月15日)[注 4]
京都人の密かな愉しみ 冬(2016年3月19日)
京都人の密かな愉しみ 月夜の告白(2016年11月5日)
名探偵キャサリン(2015年9月5日、テレビ朝日) - 主演・キャサリン・ターナー 役[13]
名探偵キャサリン 消えた相続人(2016年3月20日)[38]
OUR HOUSE(2016年4月17日 - 6月12日、フジテレビ) - 主演・アリス・シェパード 役[注 5][39][40]
連続ドラマW(WOWOW)
沈まぬ太陽 第2部(2016年7月3日 - 9月25日) - バートン 役[41]
社長室の冬-巨大新聞社を獲る男-(2017年4月30日 - 5月28日) - アリッサ・デリーロ 役[42]
三匹のおっさん3〜正義の味方、みたび!!〜 第1話(2017年1月20日、テレビ東京) - アンナ 役[43]
脳にスマホが埋められた! 第7話(2017年8月17日、日本テレビ) - フローラ・キャンベル 役
ドクターX〜外科医・大門未知子〜 第5シリーズ 第7話(2017年11月23日、テレビ朝日) - ナナーシャ・ナジンスキー 役[44]
あにいもうと(2018年6月25日、TBS) - パティ 役
大河ドラマ いだてん〜東京オリムピック噺〜 (2019年、NHK) - 大森安仁子 役[17]

映画
シャーロット・ケイト・フォックス 誘惑のジェラシー Buried Cain (2015年)[注 6]
高台家の人々(2016年6月4日、東宝) - 高台アン 役[47]
食べる女(2018年9月21日) - 豆乃・リサ・マチルダ 役[48]
カツベン!(2019年12月3日、東映) - 劇中の無声映画『南方のロマンス』ヒロイン 役[49]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
14:777 :

2022/09/30 (Fri) 19:11:10

あげ
15:777 :

2022/10/01 (Sat) 08:43:20

竹鶴政孝の母親が息子とスコットランド女性との結婚を認めなかった理由

嫁は夫と義父と義兄弟の共有物

嫁は夫ではなく家の所有物
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/272.html


669 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:29:05 ID:???

ド田舎の旧家の次男坊に嫁いだんですが、結婚して二年経ったころ姑に呼ばれて

「ここでは嫁は○○家に嫁いできたものなので、家事以外にも舅と長男の相手もなさい」

と言われた。「は?」と驚いて訊き直すと、要するに夜の相手もせよということらしい。義姉にも聞いたが、やはり私の知らないところで舅のお相手もさせられていたらしい。

「○○さん(私)には悪いけど、私の負担が減るから正直助かる」

と言われてショック。その地方では普通のことらしいけど、やはり義父・義兄とセックスするのは気持ち的にツラい。

まず舅がその日の相手(姑か義姉か私)を決め、旦那の兄がその次に指名(義姉か私)。新参者の私はほぼ必ず舅か義兄に指名されるので、肝心の旦那とのセックスがめっきり減ってしまった…


670 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:33:46 ID:???
>>669
それで子供ができたらどういうことになるの?
旦那は納得してるの?


671 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:42:23 ID:???
>>670
もちろん避妊はします。一応ですが。
もし仮に出来たとしても

「○○家の嫁が○○家の子供を産む」

ので問題ないとされる雰囲気です。義兄夫婦には子供(13歳)がいますが、これが義兄の子か舅の子かは怖くて訊けません。

旦那はしきたりを知っているので仕方ないといった風情です。「黙っててゴメン」
とは言われました。納得というか、たまに義姉とセックス出来るので満足してるんじゃないのかな。

672 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:43:31 ID:???
>>671
あ、次男が長男の嫁を抱くってのもありなのね

673 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:49:11 ID:???

そう。嫁は家の所有物という扱いなので。

それよりも私にとっての心配事は、甥(13歳)が今年元服ということです。
姑には今からそれとなく言われてますが、甥の相手もしなければならない雰囲気です。甥の相手が出来るのは当然私だけなので、ますます旦那との営みは減りそうです。


674 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:52:05 ID:???
>>673
なんだかすごい世界だ……本当に現代の日本の話?

676 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:08:34 ID:???
>>674
そうですよ。ぶっちゃけ福島。

村のお祭りで筆おろしの儀式も残ってるらしいです。最近は少ないらしいですが。

677 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:10:26 ID:???
>>676
うわあ……

よし、俺、福島の旧家の婿養子になる!


678 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:16:59 ID:???

そして家のモノとして60越えの姑に奉仕させられる677…


679 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:17:55 ID:???
>>678
それでも多分逝けそうだw

689 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 22:43:18 ID:???
>>687
家を出る気はないの?
元服したら筆おろしって、女子も似たような風習はあるの?
もしあなたのところに男の子ができて、年頃になったら義理のお姉さんと寝るの?


690 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:16:34 ID:???
>>689
批判覚悟で白状すると、かなり裕福な暮らしをさせてもらってるので離婚とかは考えてません。“それ”以外はすごくよくしてもらってるし。

正直嫌悪感というのもマヒしてくるというか、薄らいでくるので気の進まない家事くらいの位置づけになってます。

女の子はいないのですが、いても嫁に出す体なのでしきたりからは外れると思います。

うちに男の子が出来ても、14歳になるころには義姉もかなりの歳になってるので望まないんじゃないかな。親としてもあんまり気乗りしないので「やめなさい」ってこっそり言うと思う。


691 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:19:51 ID:???

****とかはないのか?
他に身内で女性は?

692 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:26:47 ID:???

旦那は男二人兄弟、兄夫婦は息子一人なので今のところ本家に女の子はゼロです。

****はないです。あったら義兄・旦那は姑を相手にしているはずだから。


693 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:30:22 ID:???
>>692
そうすると、お舅さんがあなたor義姉さん、義兄さんがあなたor義姉さんを指名した場合、あぶれたお姑さんと旦那さんは何をしているんでしょうか?

695 :なまえを挿れて。 :2006/06/02(金) 00:01:28 ID:???

旦那からの受け売りですが、血の濃い子供を作ることを避けるために嫁を共有するのだから、****は普通にタブーになってるのだそうです。
(「避妊するんだったら意味ないじゃん」って言いたいけど言えない)

うちは本家なので、親戚(分家)の男のところに行けといわれたことはありません。舅が行くという話も聞いたことはないです。実際行ってないかどうかは分からないですけど。


>>693

一番多いパターンは  舅→私、義兄→義姉で、


その次に多いのは  舅→義姉、義兄→私

というパターンなので、だいたい旦那はあぶれます(笑。

私に余力があるときは深夜に極力旦那の相手をします。私も旦那に抱いて欲しいから。舅とする夜はすごく疲れる(長時間になる)ので、ちょっとムリですが。


709 :なまえを挿れて。 :2006/06/02(金) 21:45:21 ID:???

舅は60歳を超えているので、挿入可能な状態になるのも****するのも時間がかかる
のです。準備オッケーになるまでは私の体をいじりまわして気分を高めていくわけですが、20分とか30分とかナメられ続けることになります。

最初のうちは特に我慢もせず、気持ちよくなってきたら躊躇なくイッてましたが、それだと舅が挿入してくるまでに2度も3度もイかされてしまうので、一生懸命耐えなければならないのです。

****してからももちろん長い時間をかけます。 

私の旦那や義兄はバチン!・ビタン!という感じでリズミカルに腰を打ちつけてくるので、私の声も「アッ、アッ、アッ、アッ…」というふうに出ます。

舅はさすがに勃起してもそれほど硬くならないので、そんなに早くピストンするとグニャッという感じに曲がってしまうので、出し入れがゆっくりです。

ぐにゅうううぅぅ…と差し入れて、ずるうううぅ…という感じに引き抜きます。

不思議とそうされると喘ぎ声は出ず

「っっっ…ハアッ、うッ……ッッッハアッ」

といった風にに息つぎをする感じになります。


息子のセックスがテンポよく点で感じるのに対して、父親のは線で感じるセックスと言えば近いと思います。どちらが好みとかはないのですが、なんせ舅は延々とそのリズムで動いているので、ほぼ確実にイかされてしまいます。

だから舅とした後はぐったりして、旦那と2度目のお勤めをするのは無理なのです。


714 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 10:50:35 ID:???

別に夕飯の席で重々しく今日の組み合わせが発表されるわけではなくて、
私は指名されるとき舅からは

「○○さん、今日僕の部屋に布団敷いといて」

といわれます。義兄から指名の時は普通に

「○○さん、今日いい?」

です。生理の日や舅から既にいわれてたりする日は

「あ、今日はちょっと…」

ですんなり通ります。


別にセックスするわけですから布団二組は必要ないので、実際に布団敷いたりはしません。夜舅の部屋に行くだけです。

コトが終わると当然自分の部屋に戻って寝ます。朝まで一緒にいたりはしません。夫婦の寝室も別です。終わって帰っても旦那は誰かとまだ最中だったりすることがあるからです。


717 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 20:02:06 ID:???

>終わって帰っても旦那は誰かとまだ 最中だったりすることがあるからです。

誰かって、義姉以外にもいるんですか?


718 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 22:19:57 ID:???

舅は歳の割りにすごく旺盛な方だと思いますが、それでも週に一度が限界だと思います。なので私は舅とはせいぜい月に3度、多くて4度です。

義兄は週に2・3度なので月だと10回くらいです。

残りの日は常に旦那とといいたいところですが、私が義兄の部屋にいるときには義姉が旦那の部屋にいるケースが多いので、それでは旦那が毎日ということになるので、私が空いてる日の半分くらいです。


舅がパス、義兄がパスした日に旦那が

「じゃあ義姉さん、今日お願いします」

となる日がたまにあるので、そういう時は後で旦那とケンカになります。

比で言うと舅:義兄:旦那で1:5:4くらいです。そのうち義兄と旦那の比は逆転すると思います。義兄が飽きるまではこのままでしょう。


>>717
主語がグダグダで分かりにくくなってしまってすみません。

3夫婦ともに寝室は別ということです。舅姑はもちろん義兄夫婦も私が義兄の布団に入っているときは義姉の居所がないからという意味です。

719 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 22:51:36 ID:oLQQY0ux
>>718
そういう事をしてる家はざっと何軒ぐらいあると思われますか??

720 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 23:12:17 ID:???

舅や義兄が指名してくる時って、あなたが一人の時なんですか?
それともダンナさんがいても構わずに誘ってくるんでしょうか?

それからエッチの時は口で奉仕することもあるの?
口内****とか。

721 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 23:52:04 ID:???

旦那が私のそばにいるときは遠慮してくれます。舅も義兄も。

でもどっちみち雰囲気で分かるというか、舅や義兄と目が合えば旦那がスッと知らん振りして私から離れていくので同じことですが。

口を使うことはよくあります。でもあくまでも元気にさせるための補助という位置づけです。

旦那は義姉の口の中に出させてもらってるらしいです。義姉が

「遠慮してるつもりなのかもしれないけど、口に出される方が面倒」

といってました。


>>719
部落の人たちとは頻繁に会うわけではないので、確証はありません。
農作業の協力分担の会合のときとかに奥さん方と会いますが、「やってそう」と思えばそう見えるし、かといって当然のことのように話題にすると「はぁ?」みたいな顔されるようで怖くて訊けません。

今度勇気を出して姑に訊いてみようかな。


724 :なまえを挿れて。 :2006/06/05(月) 07:53:50 ID:???

お義姉さんとは仲いいの?
こういう事についてはどんな話してるの?

舅や姑や義兄とは普段の会話の中でもそういう話するの?
食事時などの団欒の席で

「○○さん、昨夜は激しかったなぁ」

みたいな。それとも昼と夜とはちゃんと区別してるのかな。

726 :なまえを挿れて。 :2006/06/05(月) 22:22:14 ID:???

昨夜の書き込みが23時52分。
昨夜はお休みの日だったのかな。

舅さんや義兄さんの部屋に行くのはいつも何時頃なんですか?
その後何時頃までいるんですか?


727 :なまえを挿れて。 :2006/06/05(月) 22:39:07 ID:???

ご近所さんが近所にいないくらいの田舎なので、同性の話し相手は義姉くらいです。姑ともいわゆる諍いみたいなのはないですが、仲良しというほどでもありません。

義姉ともそうひんぱんにあけすけな話をするわけではないですが、たまに際どい話題になることはあります。


私「お義父さんて、…ちょっと柔らかいですよね。ふにゃっと…」

義姉「あんなもんでしょ普通」

私「でもお義兄さんや旦那に比べるとやっぱり違いますよ」

義姉「私の旦那は私とするときはお義父さんと変わらないわよ、アナタとするときは頑張っちゃってんじゃないの(笑」


みたいな。

皆の前でそういう話題は出てきません。みんな知らんふりしてます。
昨晩は日曜だったので、全員仕事に備えてお休みだったです。まず日曜にはしないですね。

今日は今のところ言われてないです。食事も風呂も全部終わって部屋に帰ってきて一人です。11時頃まで言われなければ今日もナシだと思います。


742 :トコ :2006/06/06(火) 23:03:50 ID:???

コテハン/トリップはウザがられがちなので気乗りしませんが、名前だけ。
さとこなのでトコと家族には呼ばれています。

家の中は想像されるようなエロ満開の雰囲気ではないです。思春期の男の子もいるので。それに家がだだっぴろいのもあって、食事のとき集まることを除けばそう頻繁に行き交うこともないです。

私は自分の部屋ではセックスはしません。義姉もそうだと思う。内線電話で呼ばれていくことが多いです。食事の際に目配せや耳打ちされることもあるけど。

昨晩はPC落とした後、旦那の部屋に行って雑誌読みながらダラダラと過ごしてから帰って来て寝ました。

今日はさっき義兄の部屋から戻ってきたところです。夕飯の後お風呂の順番待ちをしていたら内線がかかってきて

「トコちゃん今日空いてる?」

と言われたので

「あ、はーい」と。


745 :なまえを挿れて。 :2006/06/06(火) 23:21:51 ID:???

甥っ子の筆おろしはトコさんになるのではないですか?


749 :トコ :2006/06/07(水) 00:10:46 ID:???

何度もクドくて申し訳ないですが、うちは家庭内でそういう雰囲気は漂ってないです。甥っ子がいるからです。

甥は多分まだ童貞だとは思いますが、我が家のしきたりについては知らないはずです。だから裸で廊下(すごく長いのに)を渡るとかありえないです。

甥の筆おろしについてはまず一番に義姉の意向が関係してくると思います。私ももちろん義姉が「させない」といってくれた方がいいし、きっと義姉もそういう気持ちだと思われます。どこかよそで済ましてきて欲しい。お祭りとかで。


元服式が済んだらどのみちしきたりについては教える予定なので、その際

「トコおばちゃんとする」

といえば私はイヤだとはいえません。多分その時点でも義姉が「まだダメよ」と止めると思います。


私たち夫婦が分家してよそに住み始める前に甥が奥さんを連れてきたら、義姉の意向に関わらず私は甥の相手をすることになるんですけど。今は甥をみてると

「この子とセックス?  ありえなーい」

と感じるんですけどね。まだ幼いし、第一その子の祖父とセックスしてるのにありえないです。


751 :なまえを挿れて。 :2006/06/07(水) 00:29:56 ID:???
>>749
避妊ってコンドーム?
それとも、ピル?

756 :なまえを挿れて。 :2006/06/07(水) 17:43:06 ID:???

>私たち夫婦が分家してよそに住み始める前に甥が奥さんを連れてきたら、義姉の意向に関わらず私は甥の相手をすることになるんですけど。


これはなんで?


それから、甥が嫁さんを連れてきた時は、その嫁さんは今の舅、義兄とトコちゃんの旦那さんの3人にも抱かれるって事なのかな。


757 :なまえを挿れて。 :2006/06/07(水) 19:16:29 ID:???

義父や義兄とエチするときキスは有りですか?


764 :トコ :2006/06/07(水) 22:37:30 ID:???

結婚した当初はピルを処方してもらってました。文字通りの家族計画と、私の子宮内膜症のためです。何年か経ってから子作りは始めようという予定でした。

2年経って家のしきたりに従うようになってからはピルを止めました。逆のように
感じるかもしれませんが、これでいいのです。

そろそろ子供が出来てもいい時期だと思ったことと、ピルを飲んでると舅と義兄にも中に出されてしまうからです。

「飲んでるんだからいいよね」というノリだと思うのですが、中に出されるとヤられちゃった感というか犯された感というのがじわじわとこみ上げてくるんです。

二人に悪感情は抱いてないですが、ちょっとこれは勘弁して欲しかったです。

それに後始末が段違いに面倒になるのがイヤだったんです。

中出しだと終わったあとシャワーを浴びるのが必須になりますが、お風呂場にいくまで廊下にポタポタと垂らしながら行くわけにはいかないので、下着を穿く必要があります。それはもう穿いて寝られないからその場でザブザブと洗うんですが、それが面倒で。

だから今は遠慮なく

「もうピルは飲んでないのでゴムを着けて下さいね」

といえます。後は


・キスはします

・甥と旦那の順列は、少なくとも成人するまでは旦那>甥だと思います

・甥は今のところ私に****を抱いているようには見えません

・甥が今すぐ嫁を連れてきたらそのお嫁さんは4人を相手にするはずです

・家長は舅です。絶対権力者(優しい人ですが)


769 :トコ :2006/06/08(木) 00:05:17 ID:???

ここに書き込んでから「ありえない」とか「明らかにおかしい」とか書かれて、
自分でも「ひょっとして…」と思わないでもないです。でも寄り合いでもない限りよそんちの人とは会わないので確認するのは難しいです。

あ、それから「家」のしきたりなので分家すると相手をする必要はなくなります。
私の代でなくなるかどうかは義姉次第じゃないでしょうか。私も義姉も姑の逆らえないオーラみたいなのに気圧されて従ったようなものですから。私にはまだ子供がいませんが、そりゃ止めるに越したことはないと思います。

私自身が舅や義兄に抱かれるのはいまさら感があるのでどうこうしようとは思いません。どうせ舅も現役でいられるのもそう長くないだろうし、分家すれば義兄とも断てるのですから。

ピルを止めてからはゴムは必ず着けてくれます。旦那以外の子を妊娠するというのは耐え難いので、絶対これだけは譲れません。


784 :トコ :2006/06/08(木) 23:07:31 ID:???

始めた当初は毎晩泣き暮らしてましたが、泣かなくなったころにはそういう気持ちとは関係なしに、身体の方が勝手に馴染んでいった覚えがあります。

そういう言い方だとなんかいやらしい感じがしますけど、相手のセックスのリズムが分かるというか呼吸の合わせ方を覚えるといった意味です。

舅とするときは

(0)(スタート)なんかゴソゴソといろいろする
→(1)舅が口でする
→(2)私が口でする
→(3)私が上に乗る
→(4)舅が上に乗る(フィニッシュ)


という手順が殆どなんですが、例えば(1)→(2)では私がギブアップ状態でグロッキーになってるのを舅が気付いてスッと身を引くので、二人無言で体を入れ替えます。

(2)→(3)は私が「もうこれくらい硬くなったらいいかな」と舅の顔を見ると、
舅がコクッとうなずくので私がゴムをはめて上に乗ります。

(3)→(4)のときは舅が上体を起こそうとするので私が上から引き起こしてやり、そのまま二人座って向き合った状態で少し動いてから、私が後ろに倒れ舅が上に乗る形になります。

こうやって殆ど会話をせずにセックスを終わらせるようになってました。こういう状態になってからは随分苦じゃなくなったように思います。

775 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 08:03:21 ID:???

トコさんのご両親はこの事をご存知なんですか?

>>775
知りません。知らせるつもりもないです。どういう騒ぎになるか想像しただけで恐ろしくなります。

776 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 11:03:16 ID:CvwIqudV

ホントにその地方のしきたりなのかな その家だけのしきたりじゃないのか?

しかし福島のド田舎だとそんな風習が本当に残っていそうで怖いな

>>776
私は福島出身じゃないのですが、なんとなく福島の人ってとっつきにくいというか排他的な感じがするんです。秘密主義というか。 だから姑から「風習だ」と言われたときは妙に納得してしまったのですが。


778 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 13:02:05 ID:???

探偵ファイルとかにメールしてみたら特集してくれるかも

>>778
逃げる頃合でしょうかね。ある日庭いじりしてたら見知らぬ2ちゃんねらが

「あなたトコさんでしょ。ね、そうでしょ」

…コワ過ぎる


787 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 23:40:35 ID:???
>>785
分家の人達は、その家で同じ事やってるのかな?

トコさんの近所の人と会った時に聞いてみたらどう?
同じ事してるかどうか

789 :トコ ◆cnKAU13406 :2006/06/08(木) 23:57:55 ID:???
>>787
本当にしつこく書いて申し訳ないですけど、あまり親しい人が近くにいないんですよ。というか隣の家とかなり離れてるんです。田舎なので。だから

>トコさんの近所の人と会った時に聞いてみたらどう?

そんな親しいわけでもない人に

「こんにちはごきげんよう。ところでつかぬ事をお伺いしますけど、あなたお舅さんとヤってます?」

とかいきなり訊いたらグーで殴られるんじゃないかな。


793 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 00:09:19 ID:???

トコさんの家では夫婦の寝室が別になってるみたいだけど、例えば

トコさんがお休みの時にダンナさんが義姉さんとしていたりしたら、
義姉さんの喘ぎ声とかがトコさんの寝室に聞こえてきたりしないの?

逆に義兄さんとしているトコさんの声を義姉さんに聞かれたりとか。


800 :トコ :2006/06/09(金) 21:16:30 ID:???
>>793
3夫婦のエリアは随分離れているので、舅・義兄の部屋の物音は聞こえません。
そもそも甥の事があるのでみんな意識して声や物音をたてないようにしているようです。

屋敷の3ヶ所でギシギシアンアン聞こえてきたらさすがに教育に悪いですから。
私も頑張ってタオル咥えるなどして声出さないようにしてます。

旦那の部屋に義姉が来ていたら部屋の前の廊下に義姉のスリッパがあってすぐ分かるから近寄らないようにしてますが、うっかりしてると中の声が聞こえてくることもあります。

それがあえぎ声だったらやはり嫌な気持ちにはなりますが、むしろひそひそ話の方がムカつきます。

「なにピロートークかましてんのよ!」

と後で大抵ケンカになります。セックスすることは分かってるので、義姉のあえぎ声が聞こえるとかえって

「よし、旦那がんばれ。やっつけてしまえ」

という気になります。旦那が

「いやー、お義姉さん具合いいわ。とろけそうだったよ」

と私にいうより、義姉が

「トコちゃんの旦那さんってすっごいのね。私もたないわ」

という方が嬉しいじゃないですか。


795 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 07:54:43 ID:???

>。ハスタート)なんかゴソゴソといろいろする

ワロタ


801 :トコ :2006/06/09(金) 21:31:46 ID:???
>>795
いくらなんでも部屋に入るなり無言でお互いの服を剥ぎ取り、ベッドに倒れこみながら野獣のように相手の体をむさぼり始める…

みたいなどこのエロ小説かというような行動はムリです。体力的にもキャラ的にも。


「お義父さん?失礼します」

「あ、さとこちゃん来てくれたね」

から始まって、天気とか庭の手入れとか旦那の話とかしながら徐々に(自分で)服を脱ぎます。私がパンツ一枚で座って二人の脱いだ服を畳んでいると、舅が横に座って足とか背中とかをサスサスとなでてきて、じりじりと二人で布団にもぐりこみます。

もう「なんかゴソゴソといろいろする」としか言いようがないんですよ。


804 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 22:01:37 ID:???

昨日は舅さんとのセクスの流れを書かれていましたが義兄さんとのセクスはどんな流れなんでしょうか

840 :トコ :2006/06/10(土) 23:30:00 ID:???
>>804
義兄はセックスのパターンが決まっていないので、舅のときみたいに流れを説明することは難しいです。

ただ、一つの状態を長く続けずに次へ次へと(例えば体位を)忙しく変えるので、立ったり座ったりで大変です。それこそ上へ下への大騒ぎ。

旦那も含めて「親子だなー」と感じるのは、3人ともに口でするのにすごく時間をかけてくれることです。旦那と付き合ってた頃は

「ずいぶん念入りにする人だなあ」

と思ってましたがお義兄さんも同様で、父親に至っては輪をかけてでした。舐めたり噛んだりすすったりよくこれだけ飽きもせず延々と続けられるよなと感心するくらいです。

性格って似るのかなと思ってましたが、ひょっとしたら若い頃から経験豊富な女性を相手に実戦を重ねてきたせいかなとも思います。

あと笑っちゃうのが3人とも「相手の服を脱がせてくれない」ということです。

要するに女性の方が自分で服を脱がなくてはいけないんです。服を脱ぐさまを眺めるのが好きなんだと思います。

義兄なんかは私が風呂上りでノーブラだったらちょっとがっかりしてるはずです。ブラをしてて、それを外そうとするときは決まってガン見してるから。

796 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 17:51:31 ID:???

トコさんのダンナさんはトコさんと結婚する前から義姉とセックスしてたの?


>>796
詳しくは書けませんが、旦那の上京の時系列から言ったらしてないはずです


803 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 21:59:20 ID:???

あ、トコさんだ。こんにちは~

もうお風呂は済んだんですか?
舅さんや義兄さんに抱かれるのはお風呂の後ですよね。
呼ばれた時はメイクをし直して行くんですか?

>>803
あまりしないです、面倒だから。いまさらスッピン見られてどうもこうもないし。


815 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 23:46:25 ID:/IwQbv1S

トコさんありがとう。もしよければ、芸能人で例えると誰似か知りたい。
トコさん夫婦の関係は案外普通で安心した(良い意味で)


>>815
期待を裏切って申し訳ないんですが、私は器量よしではないです。
今まで似てると言われた中で一番マシだったのが『ピザハットのCMのお母さん役』
なんですけど分かります?

834 :なまえを挿れて。 :2006/06/10(土) 18:01:24 ID:49DPGGxX

トコさん

各登場人物の年齢を教えて下さい。

舅、義兄、旦那
義姉、トコさん

>>834
ちょっとそれは勘弁してください。舅は還暦を過ぎてて、甥は13歳。これが限界。


842 :なまえを挿れて。 :2006/06/10(土) 23:39:06 ID:???

今夜のお勤めはないんですか?
(これから?)

ちなみにバストカップは?

>>842
チチはないです。謙遜じゃなくて。

848 :なまえを挿れて。 :2006/06/10(土) 23:56:22 ID:???
>>トコさん

せめて甥御さんとの件がどうなるかまでは続けて欲しいです


>>848
元服式は成人式と同じ日にあるので、甥がこの件に関係してくるのは早くて来年一月です。また先に書いた理由もあって、仮に私が甥と関係するようになるとしてもそれはずっと先のことだと思います。よってムリ。


853 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 16:12:40 ID:???

このしきたりの事を姑から言われ、その後初めて舅や義兄に抱かれた時までの流れを聞かせて貰えませんか?

ダンナさんにも説得されたんですか?

>>853
最初は>>669に書いたとおりです。口調はもっと柔らかかったけど。

私は「は?」とか「え?」とか何度も訊き返しました。

「○○さん(旦那)は何て言ってるんですか」

というセリフは20回くらい言ったと思う。半ギレで。


話が終わると当然旦那のところにダッシュで行って

「お義母さんがこんなこと言ってるんだけど」

とオロオロして半ベソかきながら問い詰めました。旦那が

「え?ああそう…それはうーん、ちょっと待ってて」

と母のところに飛んで行ったので「ああマジなんだな…」と確信しました。

旦那は「今日トコに言うとは聞いてなかった」と後で白状しました。説得される
までの経緯についてはもう思い出したくもないです。

口も利かない日が続いて、徐々に会話するようになっても、その話題が出ると私がキーーーーッとヒステリー起こしてまた何日も口を利かないといったことが続きました。
姑に言われてから実際に舅の部屋に行くまでは3週間くらいかかりました。

最初に舅の部屋に行った日も、前の日に舅から

「さとこさん、明日の晩 何時でもいいから僕の部屋に来なさい」

とお達しがあったので、仕方なしにといった風にでした。

旦那は「大丈夫だから」というので

「大丈夫って何よ!
…ねえマジかな?
マジだと思う?」

と救いを求めているのに「大丈夫だから」としか言いませんでした。 舅に

「今から伺いますから」

と電話で知らせて部屋に行くと、

「ああ、さとこさん きてくれたね」

と招き入れてくれて、「そこに座って」と言われました。 舅が淹れてくれたお茶を二人で飲みながら、舅が淡々と説明してくれました。

私ももちろん子供が出来たときのことや、今時そんなのナンセンスだとかモノ扱いするのは非道いとか嫌です嫌ですイーヤーですとしつこく食い下がりました。 結局初日はセックスどころかそういう雰囲気すらなく開放されて、これは案外せずに済むのかなと思ってました。

でもそういうのが何日も続くとやがて

「お義父さんとこんなに長くお話することってなかったですよね」

「そうね、まあジジイは出しゃばってもいかんし」

「そんなことないですよ、こんなよくしてくれるお舅さんっていないですよ」

とか打ち解けた雰囲気になってしまい、結果的には懐柔されてしまいました。

今思うと、そういう作戦だったんだと思います。旦那は頼りにならないので自然と当事者である舅に相談するような形にもっていかせて懐柔するという。


860 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 21:24:28 ID:???

初めて舅に抱かれたのは今から何年(何ヶ月)くらい前なんでしょうか

>>860
そこまで注意深く読んでる人はいないと思いますが、舅・義兄との関係が始まってどのくらい経ったかを言うと、かなりの確度で旦那の歳がバレちゃうのでいえません。

861 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 23:13:24 ID:???

こうゆう場合、

旦那が助けてくれない(頼りにならない)→愛がなくなる→離婚。


と大半の人は流れていくと思いますが、トコさんがそうならなかったのはそれ以上に旦那さんを愛していたからですか?それとも何か他に特別な理由があるんでしょうか?

もう一つ、前記で“それ”以外はよくしてもらってるとありましたが、具体的に言うとどんな事がありますか?(かなりの田舎だと金銭的に恵まれても、その使い道等困ると思ったので。)

>>861
もちろん旦那のことを愛してます。大好きです。早くこの人の子供が欲しい。

離婚するとしたら舅との最初のセックスより前にするべきだったと思いますが、もって行きかたが上手くなし崩し的にセックスまで行ってしまったので、完全にタイミングを逸した感があります。

それから前も書いたけど裕福なんです、すごく。私はハーブとガーデニングが趣味なんですが、中庭のテニスコートくらいある敷地を「好きにしていいよ」といわれて理想のイングリッシュガーデンにしようといじり倒しているところです。そのくらい裕福。

もうそれだけで打算的だとか現金とか批判されて当然ですが、この際だからぶっちゃけてしまうと、性的に満足しているというのもあります。

今日みたいに“お勤め”がない日などは冷静に「間違ったことをし続けるのはよくないよなあ」と反省するのですが、いざ誰かとセックスして帰ってきて布団に入ると思わず余韻に浸ってうっとりしています。****とか淫売とか言われても反論できません。


862 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 23:25:43 ID:???

義兄さんとの初めても聞きたいです

舅さんと初 → 義兄さんと初

まではどのくらいの期間が開いたんですか


>>862
すぐでしたよ。初セックスした後舅に

「○○(義兄)も心配してるんだよ。さとこさんがショックうけてるんじゃないかって。もしよかったら○○に心配いらないって伝えてくれないかな」

といわれて、その通りに義兄に伝えました。

「納得できたわけじゃないけど心配いりません。大丈夫です」

と。すると義兄から


「僕ともってのは聞いてるの?」

と聞かれたので

「…まあ聞いてます」

と答えました。


「で、どうする?気持ちの整理がつかないっていうんならムリにすることはないよ」

「いや、いいです。どっちみちしなきゃいけないんなら早く最初を済ませたいです」

という流れで、舅と最初にセックスした次の晩に義兄としました。

875 :なまえを挿れて。 :2006/06/12(月) 13:38:11 ID:???

トコさんは、その家に嫁いでからは、舅、義兄、旦那以外とはエッチしていないんですか?

また他の人ともしてみたいと思ったことはありませんか?

>>875
結婚してからはその3人以外の男の人と寝たことはないです。
他の人としてみたいと思ったことはあります。しないけど。

885 :なまえを挿れて。 :2006/06/12(月) 21:49:48 ID:???

トコさん

一応、家族の方達はこのようなしきたりは非常識な事だと認識はあるのですか?


>>885
言葉で「悪いね」とか「よく頑張ってくれてるね」など、気の毒に思ってねぎらってくれたりはしますが、根っこの部分では

「しきたりだからしかたないもんね」

というスタンスは一切ぶれていないと感じます。

899 :なまえを挿れて。 :2006/06/13(火) 04:13:34 ID:???

しきたりが始まったのは結婚から二年後か。
予め決められてあった時期だったのかな。

その時期を男達は指折り数えて待ってたんだろうか。はたまた様子を見てた時間の経過だったのか。「そろそろ頃合かな」なんて相談してる様とか恐すぎ。

>>899
二年というのは、男が種無しであるかどうかの見極め期間みたいなものだと舅は言います。その後、家の男衆で試してみてそれでもダメだったら石女(うまずめ)として三行半を出されてた嫁もいたとのことです。コワ


908 :なまえを挿れて。 :2006/06/13(火) 22:14:05 ID:???

赤ちゃんが出来やすい日(いわゆる危険日)は、それを理由に舅や義兄の誘いを断ってダンナさんとHできるの?

>>908
出来ます。「○○さん(旦那)と子作りします」と宣言したりもしないけど。

920 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 01:27:15 ID:???

分家しても風習って続くんだろうか。


>>920
うちの旦那がどれだけの屋敷を建てられるかにかかってると思います。
いま住んでる屋敷は代々のものなので広く、子供に気付かれないように営みを持てるというのが大きいです。

まあそんな大豪邸は必要ないので分家した先では続かないと思います。
すくなくとも私たち夫婦の子孫は。

879 :なまえを挿れて。 :2006/06/12(月) 18:42:58 ID:???

>>打ち解けた雰囲気になってしまい、結果的には懐柔されてしまいました。

そこんとこもう少し詳しくお願いします。

>>879
舅が淡々とこのしきたりというか風習について、いつ頃から続いているのか どうしてこういうことするのか、現在の社会規範と照らし合わせてどう考えているのかを話してくれました。

当然ハイハイと従う訳はないので、でもでもでもでもと一々反論してました。

それが何日も続くと肩の力も抜けて、舅が話してくれる

「かあさん(姑)のときは気の毒でねえ」とか

「○○さん(義姉)のときは大変だったんだから」


のようなエピソードにただふんふんふんふんと頷いて聞き入ってました。

さらにそういう日が続くと

「お義姉さんがそういうことしてたなんて全然知らなかったですよ」

「そりゃ月に何回かしかしないし、部屋離れてるだろ」

「イヤーー想像できない。本当にされてるんですか。普通の夫婦の営みみたいな?」


と自分から話を転がしたりするようになりました。 当然そうなったら

「さとこさんはどういう感じでしてるの?」


みたいな流れになりますよね。女の人なら共感してもらえるかもしれないけど、女性が自分のセックスについて話し始めたら、大抵はその話し相手と寝ちゃうと思うんですけどそうですよね?


まあ共感はいらないです。私はそうでした。舅が

「じゃあちょっと試してみて、それでもどうしても耐えられなかったらまたそのとき考えよう」

とお決まりの誘い方をしてきたので、

「本当にイヤだったら考えてくださいよ」

と念押しして服を脱ぎました。その日は口でだけされて

「明日も来なさい。そのとき続けるかどうか決めよう」


と部屋に帰されました。 大体の経緯はこんな感じです。その次の日にセックスまで行きました。


927 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 20:03:24 ID:???

てか、旦那が種なしかどうかは子供が出来なきゃ分からないし、(まだ子作り途中だし)それでもダメなら家族が……

ってそれじゃあ複数と交わる意味とか子作り前提のセックスとか色々矛盾してこない?

ましてやゴム着けてやってるし。

>>927
昔は2年子供が出来なかったら種無しの疑いありとしてたんじゃないでしょうか。
そもそも義姉にしても子供産んだ後でもお勤めしてるんだから、そんなの穴だらけのこじつけに決まってるじゃないですか。

矛盾だ矛盾だって私を責められても。

928 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 22:35:49 ID:???

トコさんを指名出来る順列は 舅>義兄>ダンナさん ですよね。


舅さんや義兄さんがトコさんを指名する時は連絡(もしくは「今日来てね」の合図)があると思うのですが、逆に指名しない日は「今日は指名しないよ」という意思表示はしてくれるのでしょうか?

その意思表示が無いと、義兄さんやダンナさんから指名を受けた後に舅さん(や義兄さん)から指名されてしまう事態が起きると思うんですが。もしもそうなった場合、先に指名していた人はキャンセルですか?

>>928
舅は月に数度しかないのだから、しない日に「しない」とは一々言ってこないです。 義兄から予約が入った後で舅にいわれたら一応

「もうお義兄さんに言われてるんですがどうします?」

と訊いて舅の決定に従います。 でも通常は義兄は「今からおいで」と電話をかけてくるので、舅とダブるとしても私はもう義兄の部屋にいる最中か帰ってきた後になります。

929 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 22:45:24 ID:???

義兄の部屋から帰ってくるトコさんと、ダンナさんの部屋から帰ってくる義姉さん。途中で擦れ違ったりすることはないの?

そんな時は、やっぱり「お疲れさま」って挨拶するのかな。

>>929
>そんな時は、やっぱり「お疲れさま」って挨拶するのかな

ワロタ。鉢合わせはないです。

931 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:20:00 ID:???
>>トコさん
妊娠しても、できるかぎり相手させられるのかな?
後、出産後どれくらいしたら、また相手させられるのかな?

>>931
子供は授かりものでとても大切なものなので、妊娠中は大切にされると義姉はいってました。普通の妊婦の話にしても安定期に入るまではご法度でしょ。

義姉が出産後どの程度お休み期間があったかについては知らないです。

932 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:27:15 ID:???

結構矛盾出てきたな。

933 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:29:57 ID:???
>>932
俺らが感じる矛盾を乗り越えた(まだ途中か?)トコさんが語ってるんだよ。
矛盾だらけっていうなら、この家の全てが矛盾なんだよ。

>>933
私をどんだけトンマだと思ってるかは知らないですけど、ここで言われるような矛盾点なんかもう既に200回くらい詰問してます。 答えはいつも

「それがうちの決まりだから」

です。話にならん。

934 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:32:43 ID:???

>>舅とダブるとしても 私はもう義兄の部屋にいる最中か帰ってきた後になります。

帰ってきた後に舅から電話があった時は再度出動ですか?


ダンナさんから指名があった後に義兄さんから呼び出された場合は?


>>934
一日に二度三度というのはムリなので、終わった後で言われたら普通に

「今日はもう無理です」

といいます。旦那は基本的に指名という形ではないです。夜も更けて

「え、今日トコ空きだったの?じゃあする?」

というパターンが普通です。一般的な夫婦でもそういう感じじゃないのかな

「する?」

みたいな訊き方。

935 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:40:37 ID:???

今日のお昼に親子丼を食べてたら、
唐突にトコさんを思いだしてモッキしてしまいました。

トコさんごめんなさい。

>>935
私の容姿も知らんと。義姉の方がずっと綺麗ですよ。本家の長男の嫁として厳選されてますから(見合い結婚です)。

936 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:46:37 ID:???

もう義兄や舅に裸を見られるのは慣れた?

義兄や舅とする時は電気点けたままするの?

>>936
慣れました。舅は豆球を点けたまま、義兄はこうこうと明かりを点けたままです。


946 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 04:18:25 ID:???

特にお義姉さんは、恋愛でなく見合いで本家の長男に嫁いできたようですが
トコさんのお話によると何もかも承知で嫁に入った訳ではなさそうだし
紆余曲折はあっても結局「しきたり」に従おうを決心したわけであろうし
お姑さん然り、お義姉さん然り、トコさん然り

「気の毒」だったお姑さんや、「大変だった」お義姉さんの床始めの悶着も気になるが

イヤ気になるのは、拒絶せずに「しきたり」を受け入れた本心なのだが歴代の嫁さんサイドに何か弱味でもあったのだろうか?

旦那に惚れた弱味とか、金に目がくらんでというのは決定打に欠けるきらいがするしもちろん背徳的な性風習に血が騒いでというのも説得力に欠けると思う

まさか金子銀子と引き換えに小作農家から本家へ奉公に出されたわけでもあるまいに

そもそも家の「決まり」事たる「しきたり」の発端とかには興味はなかったのですか?

家長制度維持や単純に快楽追及だけの旧家に代々伝わる「しきたり」に過ぎないのか

一子相伝で家長にしか与り知らぬ集落の存亡に関わるような重大な背景が存在するのか

現家長やお姑さんが亡き後、「しきたり」や「決まり」事を改める気配もなさそうですし何よりトコさん自身、来たるべき甥御さんのご指名には甘んじて受ける気構えですしね

そもそも将来の分家について旦那さんのご意見はいかようなものなのかと

直系や傍系となるご息女はおられぬようですが、ご生誕の暁にはその処遇も気がかりです

>>946
心からお詫びしたいのですが、私は専攻が電子工学だったのでそういった
民俗学とか文化人類学っぽい分野には全く興味がないです。
文章も漢字が多くて難しいです。バカで済みません。

948 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 08:07:26 ID:???

>>トコさん
初めて舅や義兄とした時に、ダンナさんは何て言ってましたか?

>>948
何にも言ってこなかったです。私も話しかけられたくなかったしその辺は空気を
読んでくれたのだと思う。どうせ近寄って来ても涙目でギッと睨むだけだったし。


949 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 09:17:35 ID:???

結局は正当な理由は無いのか。てっきり今の時代でも説得に足る(理論上)理由があるのかなぁと思ってたんで。

トコさんの旦那さんは、分家したらやめるつもりですか?
今の状況をみると比較的積極的にしているとおもうんですが、トコさんが反対しなければ「しきたりを続けたい」とか言い出しそうですか?


>>949
分家して旦那が「続ける」とか言ってもセックスする相手は私しかいないじゃないですか。

男の子を授かってその子がお嫁さんを連れてくるまで待つ?

待つとして息子が承知するかしら…などを考えると無理っぽいですね。だからこのしきたりって家長がいて何世代も同居している本家でしか続いてないのかもしれませんね。 知らんけど。

952 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 19:03:34 ID:???

福島県民の俺が来ましたよ

って、どの地域の話よ。農作業とかの話も出てるから、農家なのかと思うが。会津の方?

今の時代、そんな豪農があるのか?


>>952
>農家なのかと思うが。会津の方?

教えるわけには行かねーなー


954 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 22:48:49 ID:???
>> トコさん

舅さんや義兄さんとした後に、
ゴムをはずしてフキフキしたりするのはトコさんのお役目?


>>954
終わった後私はグンニャリ寝転がってるのでそこまで面倒は見てられません。

旦那がゴムを使ったときは私が後処理します。ゴムを外してウエットティッシュで拭くし、旦那が望むなら口でもします。

でもどうせその後シャワー浴びに行くんですけど。

974 :なまえを挿れて。 :2006/06/17(土) 21:46:49 ID:???
>>トコさん

現段階では、甥とのことは姑に何て言われているんですか?
それについてダンナさんや義姉は何と言っているんですか?

以前の書き込みで「甥が『トコおばちゃんとする』と言えば私は断れません」
と書かれていましたが「舅や義兄とはともかく、甥とするのは断固お断りします」とは言えないんでしょうか?

トコさんのカキコを読んでいると、なんとなく言えちゃいそうな雰囲気を感じるんですが。

>>974
姑は「相手して当然」という風情です。旦那はその話題には関わりません。
義姉は私よりずっと強い拒否反応を示しています。早すぎるそうです。

でもそれは逆に甥が義姉を説得するなり、義姉に「仕方ない」と思わせること
ができれば、私には否も応もないということです。

義姉が「しょうがないからトコちゃんお願い」といえば私は断れません。筋としても
雰囲気としてもです。ただその時でも私はいやだいやだ言ってると思います。

甥が大手を振って(?)私を好きにできるようになるのは成人するか結婚するか
した時ですが、私たち夫婦の計画ではそんなに長く本家にとどまるつもりはないので、現実問題として甥と私が日常的にセックスするようになることはないと思います。

ただし一度もないかといわれると「ない」と言い切る自信はないです。多分私達
が出て行くことが決定したら激しく甥が抗議すると思うからです。

だからありがちですが「一度だけなら…」と応じることになるでしょう。そして多分ほんの一度きりではなく何回か繰り返すのは間違いないと思います。

甥の性格からして「一回じゃ上手く出来なかったから悔いが残る」だのなんだの
いうでしょうから。

まあそれもこれも甥が「トコおばちゃんと?ありえねえ」といえばただの妄想ですが。


961 :なまえを挿れて。 :2006/06/16(金) 00:42:40 ID:???

だいぶ前の方でカキコされてた「筆降ろしのお祭り」とは,具体的にどんな感じで進行するものなのですか?

いわゆる****,みたいな感じですか?

>>961
お祭りに関しては殆ど詳しいことは分からないです。

祭りの喧騒の裏でそういうことがあるということだけで。

ただ姑の話では、お相手をする女の人がむしろ楽しみにしている行事らしいです。私が私が状態で。

ちなみに「筆おろしのお祭り」じゃないです。それが主眼のお祭りじゃないです。


963 :なまえを挿れて。 :2006/06/16(金) 01:59:13 ID:???

舅、義兄、旦那、義嫁、トコさんで、それぞれは個別につながっているんだから、5Pとかしても良い気がするんだけど、
それはないんだね。


>>963
ないです、絶対ありえない。

正直言うと旦那と義姉がどんな風にしてるのかというのに興味がないわけじゃないですけど、自分が参加してというのは恥ずかしくてイヤ。ましてや義兄・舅もいるとか考えられない。

そもそも舅がそういうのに乗りそうにない人ですからないでしょう。

982 :なまえを挿れて。 :2006/06/18(日) 10:25:51 ID:???

万が一 トコさん夫婦が子供を授からなかった場合
舅や義兄の種で子作りすることになるのでしょうか?
トコさんはそれを拒否することも出来るのでしょうか?

>>982
旦那の子供だから欲しいのであって、あくまでも私は子種をもらってまでつくろうとは思いません。子供ができなかったら普通に不妊治療すると思います。それでもダメだったら私は諦めます。旦那が望んでもイヤ。

http://logsoku.com/thread/love.2ch.net/kageki/1076854082/
http://moemoe.homeip.net/view.php/15359
16:777 :

2022/10/01 (Sat) 08:43:54

竹鶴政孝の母親が息子とスコットランド女性との結婚を認めなかった理由 _ 2

嫁は夫と義父と義兄弟の共有物


結婚したDAIGOに祖父・竹下登の跡を継ぎ政界出馬説...でもDAIGOは竹下家の忌わしい過去を知っているのか
リテラ 2016年1月12日
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160112/Litera_1883.html

1月11日、揃って入籍会見を行ったDAIGOと北川景子。これまでラブラブ交際が伝えられていた美男美女カップルのゴールインに多くの祝福の声が寄せられている。特にDAIGOは昨年の『24時間テレビ 愛は地球を救う』(日本テレビ系)の100キロマラソンランナーを務めるなど老若男女に人気で、好感度も高く、結婚会見も2人の誠実な人柄や爽やかさが全面に押し出されて祝福ムード一色だ。

 そんなDAIGOが最初に注目されたのは、第74代内閣総理大臣・竹下登の孫という"出自"だった。竹下登は代々続く島根県の酒蔵の御曹司で、作家の三島由紀夫や大物政治家の金丸信、また大叔父にあたる衆議院予算委員長の竹下亘など錚々たる血脈を持つ。

 バラエティ番組などで、その華麗なる血族ネタや「おじいちゃん」ネタを連発し、「ウイッシュ」の決め台詞ポーズや短縮アルファベットを駆使したバカトークとのギャップで人気を博していった。

 実は、その血脈の影は今もつきまとっており、地元・島根においてDAIGOの政界進出待望論は大きく、大叔父・竹下亘の地盤を引き継ぎ、衆院選に島根2区から出馬も取り沙汰されている。少し前には、地元でその大叔父とともにトークショーを行い、噂の信憑性を高めることになった。

 当初のバカキャラから最近、好感度タレントに変貌をとげているようにみえるDAIGOだが、本当に政界に進出するのだろうか。

 しかし、DAIGOがさんざんネタにし、今、その後継も取り沙汰されている竹下家、そして竹下登という政治家には、好感度タレントにまったく似つかわしくない忌まわしい歴史がある。

 そのひとつが、竹下登の最初の妻をめぐる、ある"事件"だ。

 大正13年(1924年)年、島根県の造り酒屋を生業とする旧家の長男として生まれた登だが、太平洋戦争末期の昭和19年3月に同郷で19歳だった政江と学生結婚している。だが新婚生活5カ月足らずで登は軍隊に入隊し新妻は竹下の生家に残った。しかし登が復員する3カ月ほど前の昭和20年5月23日、政江は帰らぬ人となっていた。死因は自殺だった。

 この「決して口外してはならない」という竹下家の過去については、評伝

『われ万死に値す ドキュメント竹下登』(岩瀬達哉/新潮社)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%82%8C%E4%B8%87%E6%AD%BB%E3%81%AB%E5%80%A4%E3%81%99%E2%80%95%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AB%B9%E4%B8%8B%E7%99%BB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A9%E7%80%AC-%E9%81%94%E5%93%89/dp/4101310319


にその詳細が描かれている。

政江の悩みは、竹下の父、勇造との関係にあった。

勇造は、妻唯子を三月二十四日に失ったばかりで、寂しさからか、何かと政江に"干渉"しだしていたという。

「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な"干渉"は、毎夜のように政江さんを悩ませていました。政江さんはノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたのです」(竹下後援会「きさらぎ会」元幹部)


 勇造は政治談義が好きで、また上背も恰幅もあり女性にもよくもてたというが、こうした状況に政江は自殺の1カ月ほど前、立川で訓練を受けていた登をひとり訪ねている。しかしこの時、登は、国が大変な時に家庭のことで煩わすなと言って叱ってしまう。そして政江は自室の鴨居に腰紐を通して首吊り自殺をはかったという。

「あの日は、昼になっても政江さんは二階の部屋から降りてこなかった。それで、女中が昼御膳の用意ができましたよといって、政江さんを起こしにいったところ、鴨居で首を吊っていた。

階段を転げ落ちるように降りてきた女中から、急を告げられた高尾番頭が、あわてて二階に駆け上がり、政江さんを鴨居から降ろした。政江さんのからだは、まだ温かかったということです」(竹下家の内情を知る関係者)

 息子が出征して1年も経たない間に、舅・勇造のどんな"干渉"があったのか。同書では明記されていないものの、勇造と政江のただならぬ関係を示唆する証言がいくつもされている。

「この(死亡診断の)時、身重かどうかも調べられたが、妊娠はしていなかった」

「普通なら、親子の縁を切ってもいいような仕打ちですよ。勇造さんがやったことは......」

 同書ではさらに、衝撃的な"噂"も紹介されている。それが登の後妻となり、DAIGOの母親を産んだ直子にまつわるものだ。

登が直子と再婚したのは政江が自殺して1年も経たない昭和21年1月だった。


竹下との結婚から間もなく、直子は最初の赤ん坊を生む。

人事興信録によると、長女が生まれたのは「昭和21年4月29日」とある。
しかし、昭和二十年八月末に復員し、翌年の一月に結婚した二人の間に生まれた子供にしては計算があわない。

そこでいろんな噂が流れることになる

 こうした嫁を巡る"事件"はその後の登に大きな陰を落とす。


登は"耐え忍ぶ""気配り"の政治家といったイメージが強いが、それはこの一件以降のことだという。

あのことが遭って以来、竹下登は、人が変わってしまった。人の意見は、辛抱強く聞くが、自分の考えは決して出そうとしない。しかも、どうとでも取れる曖昧な話し方をするようになりました


 その後、登は政治家として権力の階段を努力と忍耐で駆け上がっていくが、同時に目的のためには非情に振る舞うことも厭わなかった。そのためさらなる"忌まわしい事件"がいくつも起こっている。

 そのひとつが総理在任中に起こった金庫番の秘書・青木伊平の自殺だ。リクルート事件によって、リクルートからの献金や未公開株以外に5000万円の借り入れまで発覚したことで窮地に立たされた竹下登は1989年4月25日、退陣表明するに至ったが、その翌日に青木秘書が自宅で自殺しているのが発見された。竹下事務所の金のすべてを仕切ってきた青木秘書は自死することで竹下の秘密を最後まで守ったと言われているが、その一方、あまりに不自然な自殺現場に謀略説まで囁かれたほどだった。

 前出の『われ万死に値す』でも、青木と旧制中学で同期だった人物が「遺書があったので、自殺ということになったのでしょうが、自殺にしては不可解なことが多い」と証言している。

 青木の遺体は、自宅のベッドにあおむけの状態で発見された。「首にはネクタイが巻きつけてあり、ネクタイには腰紐が継ぎ足され、その端が寝室のカーテンレールに繋がっていた。

青木はパジャマ姿で、左手首には両刃カミソリによる切り傷が十七カ所もあった。布団は血の海だったが、すでに乾きはじめていた」という壮絶なもので、またベッド脇には背広とズボンがきちんとたたまれ、夫人や竹下にあてた遺書も残されていたという。

 青木の同期の人物は、遺体の状況についてこう疑問を呈している。

「まず背広とズボンがたたまれていたことです。青木は、そういうことをしたことがない。(略)また、遺体の下着が汚れていなかったのもおかしい。(略)縊死の場合は、必ず、脱糞と****で下着が汚れるものなんです。それがなかったというのは、殺されてから偽装のため縊死を装ったとしか思えません」

 いずれにせよ青木の死により疑惑は闇に葬られ、竹下は追及の窮地から逃れることになった。

 その後、総理大臣を退陣した竹下だったが、以降も政界に隠然たる影響を持ち続けた。だが92年に起こった佐川急便事件に関連し驚愕の事実が明らかになる。それがいわゆる「皇民党事件」だ。87年、前総理であった中曽根康弘の裁定により竹下が総理に就任したが、その際に民族団体「日本皇民党」からホメ殺しの執拗な攻撃を受け、精神的に追い詰められた竹下は暴力団・稲川会を使ってホメ殺しを中止してもらったことが発覚、いわば竹下内閣は暴力団の力を借りて誕生した内閣だという前代未聞の大スキャンダルだった。


竹下は、巨大組織の後ろ楯を得て、政界を歩んできた官僚政治家でも、田中角栄のように独創的な発想と爆発的なエネルギーで一家を成した党人政治家でもない。

目的のためには自分を殺し、どんな屈辱にも耐え、余人には真似のできない気配りによって少しずつ仲間を増やしてきた地味な努力家でもある。そして、ついには寝首をかくようにして派閥の領袖の座を奪い取った凄みのある策謀家でもある〉(同書より)

 もしDAIGOが政治家になって、祖父・登からの地盤や看板、カバンを引き継ぐことになるなら、否が応でもそうした"忌まわしい過去"まで引き受けざるを得なくなるだろう。イメージだけでなく、本当に人柄がいいと言われているDAIGOには、そんな世界に絡め取られてほしくない、という気もする。

 4月に調整中といわれるDAIGOの結婚披露宴だが、政財官界からどれだけの出席者があるのか。それが今後のDAIGO政界進出を占う布石になるのかもしれない。
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160112/Litera_1883.html



▲△▽▼



この怪奇事件

1 名前:きち 投稿日: 2004/01/12(月) 21:07

ご存知の方も多いと思います。大分昔の事件ですが、ある(東北だったかな?)村でのこと。その村の風習で結婚式の日、初夜の前に新郎の父親と新婦が結婚式場の会場で交わるという儀式があったそうで。

もちろん、ついたての向こうで行なわれるのですが、その事件のとき4時間たっても2人はでてこない。

しびれをきらした新郎が「親父、いいかげんにしろ。」と叫び、出席者もいらいらしてついに覗きにいったそうです。

そうしたら、2人は、裸で抱き合ったまま死んでいたそうです。

結局、死因もわからなかったそうですが、私もいろいろ事件について考察するのは好きなのですが、この事件2人とも亡くなったというのは心中なのでしょうか?
その日以前から2人は関係があったのでしょうか?

父親が仮に腹上死したとしても花嫁が死んでいるのはおかしいですし、皆さんの推理はどんなものでしょうか。

大体、この村の新郎の気持ちは全般にどのようなものだったのでしょうか?

中には、結婚後も父親と関係が続くようなこともあったと思うのですが、どんなものでしょうね。

母親の嫉妬とかはなかったのでしょうか?色々気になります。

まあ、夜這いなんかも今の常識では考えられないことですし、その時代の常識がそれが当たり前だと思えばそうなのかもしれませんが。皆さんの思ったところをお聞かせ下さい。


2 名前:吉之助 投稿日: 2004/01/13(火) 00:04

この事件は私も永年、気になっているのですが、如何せんかなり古い話(明治16年)なのでソースも見当たらずよくわからないというのが正直なところです。ただ、こうは考えられないでしょうか?

そもそも仮の一夜で二人は死んだのではなく何らかの理由で死んでしまった。(それこそ心中かもしれません。)

きっと、その村では隠さなければならない理由だったのでしょう。

そこで、仮の一夜で不可思議な死を遂げたことにしたと・・・

奇習が残っていた古い部落ですから死因を隠蔽することぐらい口裏を合わせれば可能だったんじゃないでしょうか?

いずれにしろ、自然死とは考えにくく捏造された事件だったんじゃないかと思います。


4 名前:吉之助 投稿日: 2004/01/13(火) 23:32

この事件については資料がほとんど見当たらずなかなか調べにくいのですが
明治16年(1883年)1月24日宮城県宮城郡のある村で起きたとしか
私の持っている本には出ていませんでした。いつぐらいまでこの奇習が残って
いたかはわかりませんが、このHPでも取り上げられている名張毒ぶどう酒事件
(1961年)の起きた部落ではフリーセックスのような習慣があったらしい
のでかなり後年まで続いていたのではないかと思います。

繰り返しになりますが、義父が死ぬのは理解できるのですが(心臓麻痺等)
若い新婦まで亡くなる、しかも伝えられるところによると抱き合ったまま
死んでいたというのはやはり無理がある。

警察が来たのは当然、その後で現場にずっといたわけではない。
式の参列者は親戚と村の有力者。恐らく式が始まる前に既に二人は死んでいたのではないか?

その部落にとってその死はあってはならない死に方(心中?)で村の有力者
親戚が話し合って仮の一夜で不可思議な死を遂げたことにした・・・
的外れかな?


5 名前:猫田 投稿日: 2004/03/18(木) 22:52

大分前に読んだ本には、

義父が妻に内緒で囲っていた新婦と、それを全く知らない新郎が出会って付き合いだし二人が祝言を挙げる段で、急に新婦を息子に取られるのが嫌になり、閨で何らかの毒を飲ませて殺し、自分も後を追った…

とあったようです。出版社や著者は覚えていませんが、結構ありきたりな心中事件だったように思った覚えがあります。

9 名前:きち 投稿日: 2004/05/07(金) 23:18

すごいといえば、30年代の名張ぶどう酒事件の村のようなフリーセックスとかもすごいですね。

10年ほど前、仕事で3年ほど住んでいた僻地の村では****やら夜這いもどきやらで全校50人ほどの中学に知的障害の生徒が8人もいました。

でもこの事件も周りの人が何時間も待っていたというのが笑えますね。


12 名前:あんず 投稿日: 2004/05/08(土) 23:17

日本は****(父→娘)が多いのはどうしてだ?

と外国人に聞かれたことがあります。なんでも彼の周りだけでも
4人の日本人の女性がそういう過去があるそうです。

そういう話を聞くと病的で嫌悪感を感じますが、もしかしたら日本は昔そういう奇習が普通(と言ったら語弊がありますが)だったのかもしれないですね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1073909229/
17:777 :

2022/10/01 (Sat) 08:44:32

竹鶴政孝の母親が息子とスコットランド女性との結婚を認めなかった理由 _ 3

認知症患者は****が異常昂進する事が多い
相手になってくれるのは息子の嫁か実の娘だけ

70歳を過ぎても性にお盛ん…医師が断言!異常****の放置は禁物です – 転ばぬ先の杖
https://brain-gr.com/tokinaika_clinic/blog/about-dementia/strong-libido-in-dementia/

老人の****?!
https://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/c8a0c0d4fc97c058f34506bf0fd287a7


嫁は夫と義父と義兄弟の共有物

嫁は夫ではなく家の所有物
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/272.html


フロイトが否定した父娘相姦はすべて事実だった _ 1968年栃木実父殺し事件
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14047842




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18:777 :

2022/10/05 (Wed) 01:33:46

あげ
19:777 :

2022/10/06 (Thu) 09:35:22

1884年 - 1945年の日本の歌曲

明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年 1月7日)まで


『仰げば尊し』 作曲「H. N. D.」、作詞 大槻文彦・里見義・加部厳夫 1884年発行『小学唱歌集』第3編収録
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%B0%E3%81%92%E3%81%B0%E5%B0%8A%E3%81%97



『君が代』 作曲 林廣守・奥好義 1888年対外正式公布
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3

歌詞は

『古今和歌集』巻七 賀歌 0343 読人知らず
「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

を改竄流用



「人を恋ふる歌」 作詞 与謝野鉄幹 作曲 不詳 明治38年(1905年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%81%8B%E3%81%86%E3%82%8B%E6%AD%8C+


「旅愁」歌詞 犬童球渓 明治40年(1907年)発表
原曲 John P. Ordway“Dreaming of Home and Mother”
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%80%8D%E8%B3%9E%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90++%E6%97%85%E6%84%81


早稲田大学校歌「都の西北」1907年発表 作詞:相馬御風 作曲:東儀鉄笛
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%8C++


「早春賦」 吉丸一昌作詞 中田章作曲 1913年(大正2年)発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%A9%E6%98%A5%E8%B3%A6


『城ヶ島の雨』 作詞 北原白秋 作曲 梁田貞 1913年10月30日発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%9F%8E%E3%83%B6%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%9B%A8


『朧月夜』 作詞 高野辰之、作曲 岡野貞一 1914年(大正3年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%A7%E6%9C%88%E5%A4%9C


松井須磨子『カチューシャの唄』作詞 島村抱月・相馬御風 作曲 中山晋平 1914年(大正3年)発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%81%AE%E5%94%84+%E6%9D%BE%E4%BA%95%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AD%90


松井須磨子「ゴンドラの唄」吉井勇作詞 中山晋平作曲 1915年(大正4年)発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%94%84+%E6%9D%BE%E4%BA%95%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AD%90

シャーロット・ケイト・フォックス ゴンドラの唄
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9++++%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%94%84


松井須磨子「さすらいの唄」 北原白秋作詞 中山晋平作曲 大正6年(1917)発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%95%E3%81%99%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%AE%E5%94%84++%E6%9D%BE%E4%BA%95%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AD%90


『浜辺の歌』 作詩:林古渓 作曲:成田為三 大正5年(1916年)発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B5%9C%E8%BE%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C


『荒城の月』 土井晩翠作詞 瀧廉太郎作曲 1917年(大正6年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%8D%92%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%9C%88


『船頭小唄』 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲 1922年(大正11年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%88%B9%E9%A0%AD%E5%B0%8F%E5%94%84


「月の沙漠」 作詞 加藤まさを 作曲 佐々木すぐる 1923年(大正12年)3月発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%B2%99%E6%BC%A0  


『花嫁人形』 蕗谷虹児作詞 杉山長谷夫作曲 大正13年(1924年)2月
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%8A%B1%E5%AB%81%E4%BA%BA%E5%BD%A2


「からたちの花」 北原白秋作詞、山田耕筰作曲 リリース 1925年
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E8%8A%B1


「赤とんぼ」 三木露風作詞 山田耕筰作曲 1927年(昭和2年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B5%A4%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%BC


「赤城の子守唄」1934年 2月発表 作詞:佐藤惣之助、作曲:竹岡信幸、歌:東海林太郎、伴奏:日本ポリドール管弦楽団
下加茂オール・トーキー「浅太郎赤城の唄」主題歌
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E6%9E%97%E5%A4%AA%E9%83%8E+++%E8%B5%A4%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%AD%90%E5%AE%88%E5%94%84


「椰子の実」 詩:島崎藤村 作曲:大中寅二 1936年(昭和11年)7月
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%A4%B0%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%9F


露営の唄 1937年 9月発売 作詞 籔内喜一郎 作曲 古関裕而 編曲 奥山貞吉
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%9C%B2%E5%96%B6%E3%81%AE%E5%94%84  


『海行かば』 歌詞 大伴家持 作曲 信時潔 1937年(昭和12年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0


「旅の夜風」(映画愛染かつら主題歌) 作詞 西條八十 作曲 万城目正 1938年(昭和13年)9月10日発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%85%E3%81%AE%E5%A4%9C%E9%A2%A8


「同期の桜」 原詞 西條八十 作曲 大村能章 昭和13年(1938年)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%8C%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%A1%9C


『同期の桜』 台詞入り 鶴田浩二
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%8C%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%A1%9C%E3%80%80%E9%B6%B4%E7%94%B0%E6%B5%A9%E4%BA%8C


鶴田浩二★軍歌ベスト
https://www.youtube.com/watch?v=LwHgiHRe9Es


李香蘭(山口淑子) 名唱集 映画「****の夜」(1940)より
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/795.html


「ラバウル小唄」 若杉雄三郎 作詞 島口駒夫 作曲 1945年発売
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%AB%E5%B0%8F%E5%94%84


『里の秋』 作詞 斎藤信夫 作曲 海沼實 1945年(昭和20年)12月24日発表
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%87%8C%E3%81%AE%E7%A7%8B


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島田祐子(しまだ ゆうこ、1942年 - )文部省唱歌 名唱集

「あざみの歌」島田祐子
作詞:横井弘、作曲:八洲秀章
https://www.youtube.com/watch?v=dM3k_s1Zn5E

島田祐子 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%A5%90%E5%AD%90


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佐藤しのぶ (1958年 8月23日 - 2019年 9月29日)文部省唱歌 名唱集
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BD%90%E8%97%A4%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%B6


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倍賞千恵子 文部省唱歌 名唱集
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%80%8D%E8%B3%9E%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90


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フォレスタ 文部省唱歌 名唱集
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/274.html


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蒲原史子 「小さな木の実 」 作詞者 海野洋司 作曲 ジョルジュ・ビゼー 編曲 石川皓也
https://www.youtube.com/watch?v=GLzImrg2GjU

蒲原史子 名唱集
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%92%B2%E5%8E%9F%E5%8F%B2%E5%AD%90
https://www.youtube.com/results?search_query=+Fumiko+Kamahara


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秋川雅史 坂口裕子 歌劇『椿姫』から 乾杯の歌 花から花へ & からたちの花
5:05 からたちの花
https://www.youtube.com/watch?v=oYB7n7JQE6k


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関西二期会主催演奏会 第30回 日本歌曲の流れ ~日本歌曲の歩みをたどる一夜~ 2021年10月7日
https://www.youtube.com/watch?v=dApqDFDCXKQ


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日本の近代史

明治:1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで
大正:1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日まで
昭和:1926年(昭和元年)12月25日 から 1989年(昭和64年 1月7日)まで

江戸幕府を英米の支援で倒した田布施の朝鮮人による日本乗っ取りとアジア侵略

1868年1月3日(慶応 3年12月9日) 王政復古の大号令 ・戊辰戦争 → 明治維新

・山口県田布施部落の朝鮮人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。

 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。

 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。

 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国が描く長期戦略の強い影響下にあり、そうした国々が日本へ技術を提供、資金を供給してきた理由もそこにある。彼らは日本列島を東アジア侵略の拠点、日本人を傭兵と考えてきたとしか考えられない。イギリスが自力で中国を制圧する戦力がないことはアヘン戦争を見ても明白だ。

アジア侵略のため、明治政府は日本人にアジア蔑視の感情を植えつけた。


ジェームズ斉藤 : 田布施システム
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14014958

天皇一族はバイシュン業者
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14023528

人間の屑 福沢諭吉のした事
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14023531

△▽

1868年(明治1年)3月 神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令

・神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

1868年(明治1年)10月23日 慶応から明治に改元

・北海道への和人大量入植 → アイヌ人をジェノサイド
・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

1894年(明治27年)7月25日 日清戦争
1895年(明治28年)4月17日 台湾が清朝から日本に割譲された。
1897年(明治30年)1月21日 台湾阿片令公布

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした
1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われた。
大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性をバイシュン婦」として「売却」する事で、欧米のバイシュン業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていた。

1902年(明治35年)1月30日 日英同盟
1904年 (明治37年) 2月10日 日露戦争
1910年(明治43年)8月29日 朝鮮併合

・朝鮮の農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮女性を****隷 にする。

・19世紀以来、日本はアメリカやイギリスの手先となってきた。日本列島は大陸を侵略するための拠点であり、日本人は事実上の傭兵だ。

 イギリスは1840年から42年にかけて中国(清)に戦争を仕掛けた。アヘン戦争だ。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争(アロー戦争)が行われている。イ

 アヘン戦争で勝ったイギリスだが、内陸部を占領するだけの戦力がない。そこで彼らは日本に目をつけた。

 アメリカやイギリスの私的権力は明治維新以来、日本に大きな影響を及ぼしてきた。イギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウやアメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルたちはいずれも日本に大陸を攻撃させたがっていた。

 ルジャンドルはアメリカへ戻る途中に日本へ立ち寄り、デロングと大陸侵略について話し合う。デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その直前、1872年9月に明治政府は「琉球藩」をでっちあげて琉球を併合、74年5月に台湾へ軍事侵攻した。

1875年9月に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功、さらに無関税特権を認めさせ、釜山、仁川、元山を開港させている。
 朝鮮では1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながる。
 当時、朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃して閔妃を含む女性3名を殺害、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。

 日本は1902年にイギリスと同盟協約を締結、04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して日露戦争が始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。
 1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、戦争が長引くと日本は持たない。そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。
 日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつくわけだ。

アメリカやイギリスの手先として日本は琉球と台湾を含む封鎖線を作り上げた。その南にあるフィリピンをアメリカは1898年に植民地化、その際に住民を虐殺している。アメリカにとって、このフィリピンも大陸を侵略する拠点であり、独立を容認しない。

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14023519

△▽

1914年 (大正 3年) 7月28日 第一次世界大戦
1917年 (大正 6年) 3月 8日 ロシア二月革命
1917年 (大正 6年)10月25日 ロシア十月革命
1918年 (大正 7年) 3月 4日 スペインかぜ


・大正デモクラシー
日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮。

・大正ロマン(大正浪漫)
大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ。
大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と和洋折衷の先進的な文化に対し、明治末まで文学・美術界で流行していたロマン主義(明治浪漫主義)を拡大してかぶせて、また甘美で抒情的でロマンチックであるという憧れをもって、後世このように呼ばれるようになった。

△▽

1923年(大正12年)9月1日 関東大震災
・関東大震災で死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だと言われている。

・JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

 多くの企業が苦境に陥り、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 日本政府は復興資金を調達するために外債の発行を決め、森賢吾財務官が責任者に選ばれたが、その相手はウォール街のJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助だ。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、実際に指揮していたのはトーマス・ラモント。そのJPモルガンは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えた。

 それ以降、この金融機関は日本の政治経済に大きな影響力を持つようになり、日本に対して緊縮財政の実施と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。緊縮財政で景気が悪化するだけでなく、日本から金が流出して不況は深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。

 こうした政策を推進した井上は「適者生存」を信奉していた。強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする新自由主義的な考え方をする人物だったとも言えるだろう。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 アメリカでは1932年に大統領選挙があり、ウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーがニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北する。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認め、植民地やファシズムに反対するという立場を表明していた大統領が登場することになったのである。そうした事態に危機感を抱いたJPモルガンをはじめとするウォール街の大物は1933年から34年にかけてクーデターを準備した。

 新自由主義的な政策に反発する声は日本でも強く、1930年に浜口雄幸が銃撃されて翌年に死亡、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も引き起こされた。井上はJPモルガンと緊密な関係にあったが、団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。

 ルーズベルトが大統領に就任する前年、ジョセフ・グルーがアメリカ大使として来日している。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻。その当時からグルーは政財官界だけでなく、日本の皇室に太いパイプを持っていた。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
 1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入、翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。

 こうした流れと並行して日本の治安体制が強化されていく。1922年に「過激社会運動取締法」が提出されたが、当時でも内容が問題となって廃案になる。そうした政策を可能にしたのが関東大震災だ。
 地震の2年後に治安維持法が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙される。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕された。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足していく。

 こうした政策を推進した内務官僚、思想検察、特高警察などの人脈は第2次世界大戦後も支配システムの中枢として機能した。そうした戦後日本のあり方を決めたジャパン・ロビーの中心にはジョセフ・グルーがいて、その背景にはウォール街が存在していた。
 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。


▲△▽▼


世界大恐慌と第二次世界大戦の時代

1927年(昭和2年)3月 昭和金融恐慌

1929年10月24日 Black Thursday → 世界大恐慌

1929年(昭和4年) 昭和恐慌
1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

1931年(昭和 6年)9月18日 柳条湖事件 → 満州事変
1932年(昭和 7年)3月1日 満洲国建国
満州の農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

1932年(昭和 7年)1月28日 第一次上海事変

1932年(昭和 7年)5月15日 五・一五事件
1936年(昭和11年)2月26日 二・二六事件
政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件 → ****事変
1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
1937年(昭和12年)12月 南京大虐殺
1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃 → 太平洋戦争

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を****隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った
・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html

△▽

戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。
人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。
大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

△▽

1945年(昭和20年)8月15日 玉音放送によりポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。
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2022/10/06 (Thu) 09:37:22

1946年 - 1969年 の日本の歌曲


並木路子・霧島 昇「リンゴの唄」 サトウハチロー(作詞)万城目正(作曲)リリース 1946年1月
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ディック・ミネ 夜霧のブルース 作詞 島田磬也 作曲・編曲 大久保徳二郎 1947年リリース
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菊池章子 星の流れに 1947年10月発売 作詞:清水みのる 作曲:利根一郎
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菊池章子「岸壁の母」1954年9月リリース 作詞 藤田まさ 作曲 平川浪竜
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「夏の思い出」 江間章子作詞 中田喜直作曲 1949年(昭和24年) 6月13日発表
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笠置シヅ子「東京ブギウギ」鈴木勝 作詞 服部良一 作曲 リリース 1948年1月
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「青い山脈」西條八十(作詞)服部良一(作曲)リリース 1949年
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「さくら貝の歌」 作詞 土屋花情 作曲 八洲秀章 昭和25年(1950年)1月
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春日八郎「お富さん」1954年8月発売 作詞 山崎正 作曲 渡久地政信
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ダークダックス「雪山讃歌」 作詞 西堀栄三郎 アメリカ民謡 Oh My Darling, Clementine リリース 1958年9月
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松尾和子「東京ナイト・クラブ」 佐伯孝夫作詞 吉田正作曲 リリース 1959年 7月
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松尾和子「誰よりも君を愛す」 作詞 川内康範 作曲 吉田正 リリース 1959年12月
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水原弘「黒い花びら」作詞永六輔 作曲 中村八大 1959年7月発売
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「知床旅情」 作詞・作曲 森繁久彌 1960年発表
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西田佐知子 アカシアの雨がやむとき 1960年4月発表 作詞: 水木かおる 作曲・編曲: 藤原秀行
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西田佐知子「東京ブルース」、1964年1月発売 作詞: 水木かおる、作曲・編曲: 藤原秀行
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植木等「スーダラ節」 作詞 青島幸男 作曲 萩原哲晶 1961年8月20日発売
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ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」 永六輔作詞 中村八大作曲 1962年6月発売
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橋幸夫 吉永小百合「いつでも夢を」1962年 9月20日発売 佐伯孝夫(作詞)吉田正(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%A7%E3%82%82%E5%A4%A2%E3%82%92%E3%80%80%E6%A9%8B%E5%B9%B8%E5%A4%AB++%E5%90%89%E6%B0%B8%E5%B0%8F%E7%99%BE%E5%90%88    


舟木一夫 「高校三年生」 作詞:丘灯至夫 作曲:遠藤実 リリース 1963年6月5日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%88%9F%E6%9C%A8%E4%B8%80%E5%A4%AB+++%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%B8%89%E5%B9%B4%E7%94%9F++1963%E5%B9%B4


ペギー葉山「学生時代」 作詞・作曲 平岡精二 リリース 1964年
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AD%A6%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3


都はるみ「アンコ椿は恋の花」1964年10月5日発売 星野哲郎(作詞)市川昭介(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E6%A4%BF%E3%81%AF%E6%81%8B%E3%81%AE%E8%8A%B1+%E9%83%BD%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%BF


都はるみ「涙の連絡船」1965年10月5日発売 関沢新一(作詞)市川昭介(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B6%99%E3%81%AE%E9%80%A3%E7%B5%A1%E8%88%B9+%E9%83%BD%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%BF


都はるみ「好きになった人」1968年9月1日発売 白鳥朝詠(作詞)市川昭介(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BA%BA+++%E9%83%BD%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%BF

都はるみ「大阪しぐれ」1980年2月1日発売 吉岡治(作詞)市川昭介(作曲)斉藤恒夫(編曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%97%E3%81%90%E3%82%8C+++%E9%83%BD%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%BF

都はるみ「夫婦坂」 1984年9月30日発売 星野哲郎(作詞)市川昭介(作曲)斉藤恒夫(編曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%9D%82+++%E9%83%BD%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%BF


デューク・エイセス「女ひとり」 永六輔作詞 いずみたく作曲 リリース 1965年8月
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加山雄三「君といつまでも」作詞:岩谷時子、作曲:弾厚作(加山雄三)、編曲:森岡賢一郎 1965年12月5日発売
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ダークダックス「山男の歌」 作詞 神保信雄 軍歌 巡航節 1966年2月1日発売
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園まり「逢いたくて逢いたくて」 リリース 1966年1月 作詞:岩谷時子 作曲:宮川泰 編曲:森岡賢一郎
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園まり 何も云わないで 作詞:安井かずみ 作曲編曲:宮川泰
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BD%95%E3%82%82%E4%BA%91%E3%82%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7++++%E5%9C%92%E3%81%BE%E3%82%8A


園まり 愛は惜しみなく 川内康範作詞 宮川泰作曲 森岡賢一郎編曲
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%84%9B%E3%81%AF%E6%83%9C%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8F++++%E5%9C%92%E3%81%BE%E3%82%8A


園まり 夢は夜ひらく 1966.09.05 共作詞:中村泰士・富田清吾 補曲(採譜):中村泰士
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%A4%A2%E3%81%AF%E5%A4%9C%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8F+%E5%9C%92%E3%81%BE%E3%82%8A&sp=mAEB


千昌夫 「星影のワルツ」 白鳥園枝(作詞)遠藤実(作曲)1966年3月24日発売
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%98%9F%E5%BD%B1%E3%81%AE%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%84++%E5%8D%83%E6%98%8C%E5%A4%AB  


ザ・ブロード・サイド・フォー「若者たち -空にまた陽が昇るとき」 作詞:藤田敏雄 作曲:佐藤勝 リリース 1966年8月1日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%8B%A5%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1


森山良子 この広い野原いっぱい 1967年 1月2日 作詩:小薗江圭子、作曲:森山良子、編曲:服部克久
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%93%E3%81%AE%E5%BA%83%E3%81%84%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84  


水原弘「君こそわが命」作詞 川内康範 作曲 猪俣公章 1967年2月発売
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%9B%E3%81%93%E3%81%9D%E3%82%8F%E3%81%8C%E5%91%BD+++%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%BC%98+


ブルー・コメッツ「ブルー・シャトウ」(Blue Chateau) 1967年3月15日リリース 作詞:橋本淳 作曲:井上忠夫 編曲:森岡賢一郎
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佐良直美「世界は二人のために」 作詞: 山上路夫 作曲: いずみたく リリース 1967年5月15日
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菅原洋一 今日でお別れ 作詞:なかにし礼 作曲:宇井あきら 1967年発売
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%A7%E3%81%8A%E5%88%A5%E3%82%8C++%E8%8F%85%E5%8E%9F%E6%B4%8B%E4%B8%80  


サントリーオールド CM『夜がくる』 作詞・作曲:小林亜星 1967年
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https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%BA%9C%E6%98%9F+++%E5%A4%9C%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%82%8B
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89++%E5%A4%9C%E3%81%8C%E3%81%8F%E3%82%8B

1967年に作られたサントリーウィスキーオールドのCMソング。作詞・作曲は小林亜星。歌はサイラス・モズレーであり、当時上智大学教授であった黒人ゴスペル・シンガーである。作曲当時は『人間みな兄弟』という開高健のキャッチコピーとしてのタイトルであったが、後に小林亜星によって歌詞がつけられ『夜がくる』という曲名になった。不朽不滅のCMソング。


連続テレビ小説『マッサン』(NHK大阪放送局 2014年9月29日- 2015年3月28日)
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14044573

サントリーオールドCM集 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL_qf-fHSlz04ICBrZ27GkhwweEvILrpNj

サントリー ローヤル CM - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC+%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%AB++%EF%BC%A3%EF%BC%AD

サントリーウイスキーCM集 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLxNKpi9eqX_ygB8aDPSyT-jZguQcGnxXO

suntory CM 1961年~1989年 <社内資料> - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5Y7NXMDoBlg&t=426s

1977-1991 サントリーCM集 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0NVReWexAVo&t=25s

【ラジオCM史】サントリーウイスキー 1961年 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lAuHwZr3Sq8



ザ・タイガース「僕のマリー」1967年2月5日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E5%83%95%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC


ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」1967年5月5日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89


ザ・タイガース「モナリザの微笑」1967年8月15日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%81%AE%E5%BE%AE%E7%AC%91


ザ・タイガース「君だけに愛を」1968年1月5日発売 橋本淳(作詞)すぎやまこういち(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E5%90%9B%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AB%E6%84%9B%E3%82%92


ザ・タイガース「花の首飾り」1968年3月25日発売 作詞:菅原房子 補作:なかにし礼 作曲・編曲:すぎやまこういち
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9+++%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%A3%BE%E3%82%8A


ザ・ピーナッツ「恋のフーガ」1967年発表 作詞:なかにし礼 作曲:すぎやまこういち 編曲:宮川泰
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84++%E6%81%8B%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%AC


ザ・ピーナッツ「恋のロンド」1968年 6月リリース 作詞 橋本淳 作曲 すぎやまこういち 編曲 宮川泰
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84++%E6%81%8B%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89+++


ザ・フォーク・クルセダーズ 「帰って来たヨッパライ」 作詞 フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修) 作曲 加藤和彦 1967年12月25日発売
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B8%B0%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%80%80%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BA


佐川満男 今は幸せかい 作詞・作曲 中村泰士 1968年発売
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%8A%E3%81%AF%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%8B%E3%81%84+++%E4%BD%90%E5%B7%9D%E6%BA%80%E7%94%B7  


いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」 橋本淳(作詞)筒美京平(作曲)リリース 1968年12月25日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%A0%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%BF+++%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%B3%E3%83%8F%E3%83%9E++1969%E5%B9%B4


はしだのりひことシューベルツ「風」 作詞:北山修 作曲:端田宣彦 リリース 1969年1月
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%A0%E3%81%AE%E3%82%8A%E3%81%B2%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84+++%E9%A2%A8++1969%E5%B9%B4


奥村チヨ『恋の奴隷』1969年6月1日発売 なかにし礼(作詞)鈴木邦彦(作曲)
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%8B%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7+++%E5%A5%A5%E6%9D%91%E3%83%81%E3%83%A8


奥村チヨ『恋泥棒』 なかにし礼(作詞)鈴木邦彦(作曲)1969年10月1日発売
https://www.youtube.com/results?search_query=+%E6%81%8B%E6%B3%A5%E6%A3%92++%E5%A5%A5%E6%9D%91%E3%83%81%E3%83%A8


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戦後史

1945年(昭和20年)8月15日 玉音放送によりポツダム宣言受諾及び日本の降伏を国民に公表

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。


連合国軍最高司令官総司令部による終戦後の日本の統治
日本の占領方式は、総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施した。

司令部は最初に大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、特別高等警察の廃止、****の即時釈放と、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。

1945年(昭和20年) 10月4日 日本共産党合法化
第二次世界大戦が1945年8月15日に日本の降伏で終結した後、10月4日の治安維持法撤廃と****釈放を要求するGHQ指令により約220名の共産党員が出獄し、徳田球一、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳、志賀義雄らは合法政党として日本共産党を再建(書記長・徳田球一)、機関紙「赤旗」を再刊、党本部は千駄ヶ谷の溶接学校跡地に置いた。

1945年(昭和20年)12月19日 労働組合法公布
資本家に対抗するために労働力の集団的取引を確保するため、労働組合の結成を妨害することは不当労働行為等の条文によって保護され、合法的に労働組合の結成を妨害することは不可能な構造となっている。

1945年(昭和20年) 財閥解体
1945年より1952年にかけて行われた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の1つ。骨子は以下の四項目
・持株会社所有の有価証券、及びあらゆる企業に対する所有権・管理・利権を示す商標を、日本政府が設ける機関に移管する
・上記移管財産に対する弁済は、10年間の譲渡・換価を禁じた登録国債で支払う
・三井、岩崎(三菱)、住友、安田4家構成員、持株会社取締役・監査役の産業界からの追放
・持株会社による傘下企業に対する指令権・管理権の行使を禁止する

1946年(昭和21年)2月17日 預金封鎖
金融機関の預貯金を封鎖し、流通中の日銀券を強制的に金融機関に預金させて、旧日銀券の流通を禁止し、新円を発行。さらに、新円の引き出しも制限し、インフレの抑制を図りました。

1946年(昭和21年)5月3日 極東国際軍事裁判
・昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法公布
・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した


労働組合合法化
日本国憲法第28条で「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」として定められた。

1947年(昭和22年)農地改革
農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。
しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。
この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党**** → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった


▲△▽▼


朝鮮戦争・ベトナム戦争の特需による高度成長の時代

1950年(昭和25年)6月25日 朝鮮戦争
1953年(昭和28年)7月27日まで朝鮮半島のほとんど全域を戦場化して戦われた大規模な国際紛争。

1959年(昭和34年)60年安保闘争
日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決された。

1964年(昭和39年) 8月2日 トンキン湾事件 → ベトナム戦争

・高度経済成長期
1955年頃から1973年のオイルショックまで続いた日本が急速な経済成長を遂げた時期です。

このころの日本の GNP (国内総生産)はアメリカに次ぐ2位 となり、日本の生活水準は大幅に上がっていきました。 また、大阪万博や東京オリンピックが開催されたのはこの時期です。

1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年の朝鮮戦争特需により、占領下を脱して2年の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年には経済白書が もはや戦後ではないと宣言、1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実上の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。

この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。

・朝鮮戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償金請求を放棄させた。
21:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/01/03 (Tue) 05:38:42

14年連続縮小!?サントリーが犯してしまった致命的な失敗!
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14077263
22:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/03/26 (Sun) 19:13:09

日本が世界に誇るウイスキー事情がヤバすぎる! 【ゆっくり解説】
2023/03/14
https://www.youtube.com/watch?v=jcTyn3YC-B8

日本が世界で覇権を取っている分野6選を紹介 !

====目次====
0:00 冒頭
1:16 日本のウイスキーが日本一
4:45 ウイスキーの種類
7:52 山崎
11:05 嘉之助
12:47 余市
15:19 アル中カラカラ
================
23:777 :

2023/06/08 (Thu) 20:32:43

雪日記
月山の休日、宮城峽蒸溜所見学ツアー、仙台ハイボール&漬込みウイスキーセミナー編。
【22-23シーズン 休日】 天候:晴れ
5/27(土) 宮城峽蒸溜所で見学ツアー。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-4597.html


今年も月山遠征最後のミッションはこちら。
ニッカウヰスキー仙台工場、
宮城峽蒸溜所の見学です。



混雑する週末は月山よりこちらでしょう(笑)



ニッカの蒸溜所、
北海道の余市と仙台の宮城峽。
どちらも見学ツアーは無料です。

試飲まであるのに無料なのはとても良心的です。
それなのに、
有料のサントリー(山崎と白州)と比べると予約も取りやすい。
特に、交通のアクセスが良くない宮城峽は、週末でもほぼ空きがあります。

更に、
ニッカの蒸溜所見学は、様々な有料セミナーも開催されております。
前回は、“テイスティング&ブレンド体験セミナー
に参加し、
お値段以上の至福のひと時を体験させていただきましたが、
今回は、
“仙台ハイボール&漬込みウイスキーセミナー”
の予約が取れました。

はたして、どんな内容なのでしょうか…!?



セミナールームから始まる有料ツアー。
先ずは漬込みウイスキーの説明から始まります。



仙台ハイボールと漬込みウイスキーの準備は万端ですが、



一旦外に出て製造工程の見学ツアーとなりました。



な、何ぃぃ!?

キルン塔に入れるの!?
これにはビックリ!!

通常の見学ツアーでは、外から眺めるだけです。
そもそも、キルン塔は現在使用はされていないので、
蒸溜所のシンボル的に残されているだけかと思っていました。



有料見学ツアーだけの特別コースだそうです。
無料のツアーでもほぼ全ての製造工程を見学できますが、
この特別感は嬉しい誤算でした。



昔はこの上でフロアモルティングが行われていたのです。
残念ながら見学できるのは1階のみでしたが、
実際にピートを触る事も出来ました。



そこから先は、
通常の見学ツアーと同じ行程です。



糖化~発酵~蒸溜と見学していき、
最後は熟成の工程なのですが、



ここでもサプライズが!?



通常は開放されていない6番熟成庫が開放されました。



ダンネージ式のこちらの熟成庫。
美味しい香りが漂っております(笑)

ウイスキーの製造工程はほとんどの時間が熟成です。
この“熟成”がウイスキーの魅力のひとつでもあると思います。
ただ長ければいいという簡単な話ではない。
もちろん短くてもダメだ。
時間だけでなく環境もとても大切。
熟成のピークを見極め職人が造りだすウイスキー。
工場で画一的に大量生産される製品とはひと味違う、
銘柄ごと、樽ごと、ボトルごとに違う個性が楽しめる、
だからこそ、魅力的なお酒になるのかな。

熟成中の樽を眺めながら“時”に想いを馳せます…。



通常の見学ツアーですと、
ここから先は無料の試飲タイムとなるのですが、
今回は再びセミナールームに戻り、
先ずは仙台ハイボール試飲会です。



仙台ハイボール宮城野を作ってみます。

材料は、
スーパーニッカとカルピス巨峰と三ツ矢サイダー。
甘すぎるのはどうかなと思ったので、サイダーの変わりに炭酸水で割ってみました。



さいこ~!!

普段ウイスキーは、ストレートかソーダ割りでいただきますが、
たまにはこんなハイボールもイイね。



こちらは、
仙台ハイボール青葉。
スーパーニッカと、ボルスグリーンバナナとウィルキンソン。

材料を見て分かる通り、
アサヒビール株式会社のプロモーションなのです(笑)

この様なハイボールが居酒屋などでもっともっと普及すれば、
ウイスキーへの“入口”として市場拡大に繋がるのかなと。

正直、
あまり割り材にこだわりすぎると、ウイスキーらしさが薄れてしまうかなとも思いますが、
ひとつのジャンルとしてはアリだと感じました。

でも、美味しいウイスキーはやっぱりそのままか、
無味無臭の炭酸割りの2択だなぁ(笑)



続いては、漬込みウイスキーです。



イチゴとパイナップルとコーヒーが選べたのですが、
何となくコーヒーにしてみました。

フルーツも美味しそうでした…。



焙煎されたコーヒー豆に砂糖を加えます。
甘すぎるのはどうかなと思ったので、砂糖はごく少量に。



ブラックニッカのクリアを注ぎます。



1週間ほどで呑み頃になるそうです。



専用の箱に入れてお持ち帰り。
ニッカのウイスキーでも一番安い価格帯のブラックニッカクリア。
それで漬けたコーヒーウイスキー、はたしてどんなお味に変化するのか!?

1週間後が楽しみです!!



見学ツアー、セミナーはここで終了。
後は自由行動。

売店と有料試飲コーナーに直行です(笑)

売店では、珍しく余市と宮城峽のNVフルボトルが沢山売られておりました。
鶴や蒸溜所限定系の在庫も潤沢で、大変賑わっておりました。



有料試飲は…、

シングルカスク宮城峽10年。
シングルモルト宮城峽アロマティックイースト。
シングルモルト余市10年(新)。



超さいこ~!!

シングルカスク宮城峽が美味しいのはもちろん、
気になっていたアロマティックイーストの華やかさも最高でした。

ですが、
余市蒸溜所でも売り切れで呑めなかった昨年発売した新余市10年。
一番安い1杯でしたが、これが一番美味しかった(笑)
現行品だけど、出荷量が少なすぎてお目にかかれないのが欠点です。



場内を散策し、竹鶴政孝氏の歴史を学びます。



日本に美味しいウイスキーを根付かせてくれてありがとうございます!!



さて、お腹も満たさなきゃ…、無料お食事処へ。



最近、松屋は松のやとの併設店が増えました。



とんかつ定食をおかずに、カレ牛がいただける。
牛丼、カレー、とんかつ、
美味しいモノを同時に色々いただける併設店、神です(笑)
24:777 :

2023/08/17 (Thu) 07:33:58

【ゆっくり解説】 ブラックニッカ全史 超入門!シリーズ全15作を完全ガイド
2021/07/05
https://www.youtube.com/watch?v=h_CeJQhzlMo

ブラックニッカ誕生から65年の歴史を完全解説。
現行のラインナップはもちろん、話題の限定品や終売品まで
ブラックニッカシリーズを徹底的に考察します。

ブラックニッカとはどんなウイスキーなのか?
ニッカウヰスキーを代表する国民的ブランドの謎と魅力に迫る!
_________________________________

【目次】
00:00 序文
01:14 初代ブラックニッカ (1956)
03:57 新ブラックニッカ (1965)
05:26 ブラックニッカスペシャル (1985)
07:28 クリアブレンド (1997)
11:24 ブラックニッカ8年 (2002)
12:25 リッチブレンド (2013)
13:39 ディープブレンド (2015)
14:48 初号ブラックニッカ復刻版 (2015)
16:11 ブレンダーズスピリット (2016)
17:19 クロスオーバー (2017)
18:26 アロマティック (2017)
18:57 エクストラシェリー (2018)
19:30 エクストラスイート (2018)
19:56 ナイトクルーズ (2019)
20:59 コンフォートアロマ (2019)
21:52 まとめ
_________________________________

【主な解説ウイスキー】
「ブラックニッカスペシャル」
https://amzn.to/3F6IRh3
「ブラックニッカクリア」
https://amzn.to/3F4Zv0t
「ブラックニッカリッチブレンド」
https://amzn.to/3FdUYsm
「ブラックニッカディープブレンド」
https://amzn.to/3F4ZMk1
_________________________________

【参考文献】
▼書籍
『ジャパニーズウィスキー 第二創世記』和智英樹,高橋矩彦
https://amzn.to/3zWtKmo
『ウイスキーと私』竹鶴政孝
https://amzn.to/3A24uuY
『ヒゲと勲章「ウイスキー革命は俺がやる」』竹鶴政孝
https://amzn.to/3uxtb1b
『琥珀色の夢を見る』松尾秀助
https://amzn.to/39Xjwrh

▼WEB
「日本におけるウイスキー産業発展の経緯」久保俊彦
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/econ...
「ブラックニッカ - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?c...
「ハイニッカ - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?c...
「ニッカウヰスキーストーリー」
https://www.nikka.com/story/
「ブラックニッカ」を知る
http://whiskymag.jp/bn_r/
「初号ブラックニッカ復刻版」「初号ハイニッカ復刻版」登場
http://whiskymag.jp/bk_hi/
「ブラックニッカ リッチブレンド」新発売
http://whiskymag.jp/blacknikka/
「ブラックニッカ60周年」
http://whiskymag.jp/bkn60th_01/
25:777 :

2023/08/17 (Thu) 08:21:53

[ウイスキー] 最強コスパの一角!ブラックニッカ3種を飲み比べ!
2021/05/01
https://www.youtube.com/watch?v=HZulMx0JrGo

※訂正:ブラックニッカの発売は1956年です。

改めてブラックニッカ3種の飲み比べをしてみました!
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[ウイスキー] ジャパニーズウイスキーの定義が決まる!わかりやすく解説!
https://www.youtube.com/watch?v=iMDblY4gEto&t=0s

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ブラックニッカディープブレンド
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ブラックニッカリッチブレンド
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26:777 :

2023/08/17 (Thu) 08:24:36

ウイスキー - 雪日記
http://golgo13zilch.jp/blog-category-70.html

蒸溜所 - 雪日記
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27:777 :

2023/12/30 (Sat) 14:47:28

【海外の反応】朝ドラ「マッサン」に出演した米女優の現在がやばい... #海外の反応 #日本 #有名人 #朝ドラ #シャーロットケイトフォックス
2023/12/25
https://www.youtube.com/watch?v=KU0mYIhdpyA

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