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縄文より前の日本がいろいろヤバい!?旧石器時代の謎!

1:777 :

2022/08/26 (Fri) 20:31:46

【ゆっくり解説】縄文より前の日本がいろいろヤバい!?旧石器時代の謎!
2022/08/26
https://www.youtube.com/watch?v=iyiBn56o280

旧石器時代の日常についてです。
2:777 :

2022/08/26 (Fri) 20:35:36

日本人のガラパゴス的民族性の起源
2020/8/25 0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

ガラパゴス史観を総括した、日本人の源流考です。Y-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。

v.1.8
新しい知見を入れて追記・訂正等行いました。

1.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAの分化ツリーの調査を進めて行く中で、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

●何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せ
 ず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?
●出アフリカを決行した結果、分化した古代4亜型の中でY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリ
 ア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った古代亜型の集団は、なぜ現代に至るまで「A」,「B」同
 様、狩猟採 集形態から抜け出さなかったのか?抜け出すチャンスがなかったのか?
●彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)=現ホ
 モサピエンスはアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 原ホモサピエンスが出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇でハイブリッド化することで現代型ホモサピエンス
 に進化したのではないか?原ホモサピエンスと現ホモサピエンス(解剖学的現代人類)は違うのではないか?

2.ネアンデルタール人から始まったようだ。

  ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種か異種とこれまで議論されてきました。最新の知見では、80万年前頃にホモエレクトスから、 ネアンデルタール人とホモサピエンスの共通の祖先と考えられる草創期のネアンデルタール人 (旧ホモハイデルベルゲンシス)が出現し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしく、 そして40万年前頃にネアンデルタール人の東アジア型のデニソワ人が地方型として分化したようです。

注:ホモエレクトスの次の進化型古人類と思われていたホモハイデルベルゲンシスが最新分析技術による遺伝子解析の結
  果、草創期のネアンデルタール人と分類されることになりました。このためネアンデルタール人の出現年代は、ホモ
  ハイデルベルゲンシスの出現年代とされていた80万年前頃に遡りました。
注:デニソワ人はあくまでネアンデルタール人に包含される地方型というのが極最新の見解です。ユーラシア大陸に拡大・
  拡散したネアンデルタール人は数十万年の歴史の中で各地域型の進化を遂げていた、と欧米の研究者は説明しています
  が、あくまでネアンデルタール人の範疇に入るのだそうです。

  極最新のアフリカ大陸の調査では、草創期の原ホモサピエンスも50万年前頃には既に出現していて、30万年前頃にホモサピエンス最古のコイサン集団の祖先が出現し、 その後何度か出アフリカを行っており遺跡も発掘されているそうですが、6-7万年前頃の最後の出アフリカが、 我々、解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)を形成したようです。 そしてネアンデルタール人は、3-10万年前頃にホモサピエンスと各地で交雑し、3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっています。 デニソワ人の絶滅時期はまだ解明されていません。

ホモサピエンスとネアンデルタール人の人類種の分類の見解は研究者によって異なり、亜種扱いの場合は、
  ホモ・サピエンス・サピエンス<===>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス、と分類され、
あくまで別種と考える場合は、
  ホモサピエンス<=========>ホモ・ネアンデルターレンシス、と分類されています。

  いずれにせよ最新の遺伝子解析技術は、現代人類の遺伝子の2-4%はネアンデルタール人から受け継いでいることを解明しました。 東アジア人の比率が最も高く、次にヨーロッパ人で、東南アジア人は意外に低いそうです。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまでに、 ネアンデルタール人の歴史は既に60万年程度は経過しており、 その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたと考えられ、 アジアで発掘されたデニソワ人はネアンデルタール人の東アジア型と考えられ始めています。 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子がメラネシア人に6%も受け継がれている、ことまで判明しています。
  またネアンデルタール人にはホモサピエンスの遺伝子が20%も含まれていた、と言う報告まであります。
  これはつまり現代人類は、既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種もしくは異種間交雑の結果 進化の爆発が起こり、解剖学的現代人類(現ホモサピエンス)として完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われます。

  また大きなトピックスとして、解剖学的現代人類のY-DNA分化ツリーにネアンデルタール人とデニソワ人の亜型がとうとう組み込まれました。 一方、現在の調査結果ではネアンデルタール人とデニソワ人のmtDNAは解剖学的現代人類には受け継がれていないことも判明しました。
  つまり、ネアンデルタール人、デニソワ人と解剖学的現代人類はY-DNA(男系)で直系で繋がっている(つまり直系の先祖)、と言うことになりますが、 女系を表すmtDNAでは断絶している、と言うことになります。記事「14-2.男系のmtDNAが遺伝しないのは、"ゴミ"だからだった」で解明されたようにmtDNAは母親からしか受け継がれません。ミトコンドリアはもともと共生したエネルギー産生細菌なので、人類自身のDNAではないのです。恐らくこのために生殖時の染色体減数分裂と母親、父親の染色体の合体のプロセスに組み込まれないのでしょう。結果、母親側のmtDNAのみが受け継がれるのでしょう。


  ネアンデルタール人とホモサピエンスは異種か亜種かという問題に対し、ネアンデルタール人のY-DNAの変異型が特定され ホモサピエンスのY-DNAツリーと直系でつながったということは、異種ではないという結論になります。 あえて言えば、ネアンデルタール人とデニソワ人の男性はホモサピエンスの男性と亜種ほどの違いもなく、同種で 「頑丈型」と「華奢型」の違い程度に過ぎないため、両者ともにホモサピエンスの女性と交配しても子孫を残せた、ということになります。

  一方女性に関しては異なり、進化は女性から始まると考えられるため、ホモサピエンスの女性はネアンデルタール人とデニソワ人の女性とは 亜種もしくは異種ぐらい異なる進化段階に進んでしまっていたのかもしれません。だからホモサピエンスの男性とネアンデルタール人やデニソワ人の女性の組み合わせでは 子孫が残らなかったのだろうと欧米の研究者は考えているようです。 うがった見方をすればネアンデルタール人とデニソワ人の女性達は華奢でひ弱そうなホモサピエンスの男性を受け入れなかったということも考えられます。

遺伝子解析の技術の進歩は目覚ましいものです。当ガラパゴス史観がRNAとリボソームの研究をしていた約50年前頃とは 隔世の感があります。今後の新しい論文や知見が楽しみです。

3.原ホモサピエンスから現ホモサピエンス=解剖学的現代人類へ脱皮したのではないか!

  我々、解剖学的現代人類の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も、進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた早期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にやっと草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団の祖先が出現したようです。
  しかも原ホモサピエンスの出アフリカは20数万年前頃には既に始まり、遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に定住していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5-6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

3-1.華奢型への退行進化と集団形成への変化

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に草創期ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられます。 この草創期ホモサピエンスは、恐らく華奢型に突然変異してしまった早期ネアンデルタール人と推測されます。後述しますが、 恐らくこの華奢型に退行進化してしまったことが、アフリカ大陸を生き抜くために、捕食獣から身を守るために集団化せざるをえなくなり、 仕事の分担をするようになり、コミュニケーションをよくするため言語能力を進化させたと、京都大学の松沢教授は説明しています。 このことは要するに原ホモサピエンスとは、集団を作ることが本来の生活様式(つまりムラ単位)ということになります。 最新の論文「14-12. 初期の人間は自分自身を家畜化した、新しい遺伝的証拠 v1.1」報告されているように、人類は同調性のない個体や、 ボスになりたがる個体などグループ維持に不都合な個体を排除しできるだけ同調できる個体達でグループ構成をするようになった、と言うことのようです。 日本人の持つ「同調圧力」は、なんとホモサピエンス本来の形態ということになります。 恐らく家族単位の生活様式だったと考えられるネアンデルタール人は数十万年経過しても人口増加率は低いと思われますが、 大家族や近縁グループ単位など集団を形成するホモサピエンスは人口増加率がはるかに高くなったのではないかと考えられます。

3-2.最新のY-DNAツリーの超概要!

  最新のY-DNAツリーは、
Y-DNA「Adam」からY-DNA「A0000」(デニソワ人)が分化し、
Y-DNA「A000」(ネアンデルタール人)が分化し、
Y-DNA「A00」(コイサン集団)が分化し、更に「A0」、「A」と分化が進み、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化しましたが、
  この「A」と「B」はホモサピエンスの始祖亜型で原ホモサピエンスと考えられます。
Y-DNA「CT」が出アフリカし、現ホモサピエンスY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化しました。
  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と考えられます。
  この「C」,「D」,「E」は古代性を強く残した狩猟採集民として、近年まで残ってきました。

注:デニソワ人がネアンデルタール人の地方型として分岐したのは40万年前頃と解析されていますが、 解剖学的現代人類に組み込まれたネアンデルタール人の遺伝子はもう少し後年の3-10万年前頃の集団からと考えられているようです。このためデニソワ人のほうが古くなっています。 これは大事なことで、ネアンデルタール人は末期に近く、文化レベルも技術レベルも十分に成熟しきっていた、ということです。 未開の狩猟採集民でしかなかった原ホモサピエンスは、この成熟したネアンデルタール人と交雑することで一気に進化の爆発を起こし、 集団で行動するホモサピエンスの生活習慣を継承したハイブリッド種は恐らく人口繁殖力も極めて高く、圧倒的な人口増加の中に ネアンデルタール人を自然吸収する形で一体化し、解剖学的現代類に進化したと考えるのが最も合理的です。

3-3.解剖学的現代人類は出アフリカ組の原ホモサピエンスと終末期の成熟型ネアンデルタール人とのハイブリッド人類

  現在のY-DNA情報から考える合理的な解剖学的現代人類の分化史は、
1.出アフリカ後、中近東あたりで原ホモサピエンスと中近東型ネアンデルタール人が交雑。
  Y-DNAはYAP型「DE」と非YAP型「CF」に分化。mtDNAはアジア型「M」とヨーロッパ型「N」に分化。
2.「CF」はインド亜大陸~中央アジア~シベリアで東アジア型ネアンデルタール人と逐次密に交雑し「C」,「F」に分化。
3.「F」は更に「G」~「K」→「K2」と分化、子亜型「K2a」からさらに「N」,「O」が分化し東アジアの主役となった。
4.残った子亜型「K2b」→「K2b1」からデニソワ人との交雑で、「M」,「S」が分化し出アジア後太平洋に移動。
5.最後に残った孫亜型「K2b2」から「Q」,「R」が分化し「Q」はシベリア経由で南北アメリカ大陸に拡散。
  最後の最後の「R」の本体は西進しスラブ系「R1a」とケルト・ゲルマン系「R1b」としてヨーロッパの主役となった。
というストーリーでしょう。当ガラパゴス史観が生きているうちに解明することを期待しましょう。

 つまりY-DNA「A」と「B」は解剖学的現代人類(ハイブリッド型)として完成する前の原ホモサピエンスと言っても良いかもしれません。
 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということでした。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的なホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスとさほど変わらない文化レベルだったという証明でしょう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになったというレベルでは、とてもホモサピエンスとは言えないのです。

注:解剖学的現代人類(AMH)のY-DNA「K2」はデニソワ人と交雑しY-DNA「K2b1」が分化し出アジアしてメラネシアに拡がったようなのです。 しかしシベリアに居住していたデニソワ人と交雑したY-DNA「K2b1」が何故海に漕ぎだしたのかは全く謎のままです。 古代に海の民だったのはY-DNA「C」で、現在のポリネシア人の先祖とほぼ判明した海洋性ハンター遺伝子集団です。 しかしY-DNA「C」がサフ-ル大陸に到着したのは5-6万年前と考えられており、Y-DNA「K2b1」が出アジアを行ったのは遥か後の時代です。 遭遇したのはニューギニア島についてからのはずです。Y-DNA「K2b1」がどのように渡海技術を習得したのか全く推理が働かない状況です。

  解剖学的現代人類は、なぜ現代につながる文明を興すほど進化できたのだろうか?非常に大きな疑問です。 古ネイティヴ・アフリカン(一部の王国を築いた特殊な集団を除く)、は大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかったようです。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずです。
  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するにはホモサピエンスになったというだけでは全く無理で、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずです。

3-4.解剖学的現代人類は進化の爆発に遭遇できたのではないか!!!

  成熟期ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの交雑の結果、進化の爆発が起きたと推測するのが最も妥当です。

  出アフリカした親人類のネアンデルタール人と亜種間交雑した結果、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を 一気に取り込むことに成功したのかもしれないのです。恐らく華奢型の突然変異型だったために生き残るために集団化したことで 高い人口増加率(繁殖力)を得た出アフリカ組の原ホモサピエンスに対し、 家族単位のため比較して少ない人口だったネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが現ホモサピエンス= 解剖学的現代人類=ハイブリッド型(原ホモサピエンス+ネアンデルタール人)と考えるのが最も妥当性が高いのです。
  この繁殖力の高さは想像をたくましくすると、集団化したことに加えて、亜種間交雑の結果、出アフリカ組の原ホモサピエンスが獲得した後天的な獲得形質かもしれません。
  つまり解剖学的現代人類とは、先進文化を持っていた頑丈型のネアンデルタール人と狩猟採集民でしかなかったひ弱で華奢型の 原ホモサピエンスとのハイブリッド(混血)の結果誕生し、進化の爆発に遭遇できた人類と考えるのが最も妥当でしょう。

  ホモサピエンスがもし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できますが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 原ホモサピエンスが出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われます。 つまり原ホモサピエンスが出アフリカし、ネアンデルタール人と交配しハイブリッド型に進化し狩猟採集文化から脱し、 現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれません。

注:記事「18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか」で触れたように、最新の研究で、ネアンデルタール人とデニ
  ソワ人のY-DNAの変異型が同定され、恐らく80万年前頃と考えられるようになったY-DNA「Adam」に続き、デニソ
  ワ人とネアンデルタール人が分化のツリー上に配置されるようになったのですが、「1-1. Y-DNAハプロタイプ
  2019年6月版 ツリー」を参照ください、...。
注:一方mtDNAツリーでは、デニソワ人とネアンデルタール人のmtDNA変異型はまだ検出されておらず、おそらくデニ
  ソワ人女性とネアンデルタール人女性とサピエンス男性との交配では恐らく子孫ができなかったか、出来ても生殖能力
  が無かったのだろう、と欧米の研究者は考えています。

3-5.男女の進化の違いまとめ

・ホモサピエンスとネアンデルタール人の男性は「華奢型(きゃしゃ型)」突然変異と「頑丈型」の違いだけで、亜種の違
 いに進んでおらず、あくまで同種の範疇内だったと考えるのが最も合理的です。ホモサピエンスは恐らく骨形成不全や、
 筋肉形成不全など身体能力の発現不全症だった可能性もあります。だからネアンデルタール人女性から選択されなかった
 のかもしれません。
・一方進化は女性から始まると考えれば、ネアンデルタール人女性とサピエンス女性は亜種レベルに分化していたため、
 ホモサピエンス男性との間に子孫を残せなかったのだろうとも推測できます。

4.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子集団:Y-DNA「D」と「C」

注:実はまだ残っている疑問があります。古代性を近代まで残していた古代遺伝子Y-DNA「C」、「D」、「E」も現ホモサ
  ピエンスの段階に至っておらず、原ホモサピエンスの段階に留まっていたのではないか、後に様々な遺伝子亜型と交雑
  することで何とか現代性を身に着けることができたのではないか?
  そしてY-DNA「F」のみがインド亜大陸周辺でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑し、現ホモサピエンスの段階に進
  化したのではないかという疑問です。これは極めて大胆な推測ですが、これに関する知見、否定する知見はまだ全く報
  告されていません。

  最初の縄文人はY-DNA「D1b」(旧「D2」)を多数とする、Y-DNA「C1a1」(旧C1a」との混成部隊である。

  以下の写真は記事「30-11. 縄文遺伝子Y-DNA「D2」」、および「30-12. 縄文ハンター遺伝子Y-DNA「C1a」,「C3a」」で ご紹介したものです。残念ながら現在Wikipediaでは写真は削除されていました。

4-1.縄文系遺伝子集団:Y-DNA「D」


  Y-DNA「D」が100%の純系子孫のOnge族です。白黒写真なのでわかりませんが Onge族やJarawa族は世界で最も黒い(ネイティヴアフリカンより黒い)と言われているそうです。Y-DNA「D」が日本列島に 渡って来たのは、オーストラリアのアボリジニは5-6万年前頃には既に到達していたらしいので、日本列島にも恐らく遅くても 3-4年前頃には渡来していたと考えるのが妥当でしょう。その当時のY-DNA「D」集団は黒かったのか既に黄色くなっていたのかは 全く情報がありません。しかし確かなのは鯨面文身であったことでしょう。Y-DNA「D」が85%を占める子孫のアイヌが鯨面文身だったのは、 子孫として数万年にわたり正しく文化を残してきたことになります。 Jarawa族やOnge族は現代でもネグリートなので、当然縄文人も小柄なネグリートつまり、 「倭」人であったことは間違いないでしょう。

4-2.縄文系遺伝子集団:Y-DNA「C」


  Y-DNA「C」が100%の純系子孫のニューギニアのLani族です。濃い褐色で彫深のソース系になります。Y-DNA「D」のJarawa族や Onge族同様ネグリートです。恐らく古代遺伝子のY-DNA「D」、「E」、「C」、「F」は全てネグリートだったと思われます。 日本人は近代になっても男一匹五尺の体、と言われていた通り、日本人の男性人口の約50%を占める縄文系Y-DNA「D」と「C」は 戦前までネグリート形質を維持してきたのです。戦後の食糧事情や衛生環境の圧倒的な改善で日本人の身長は伸びてきましたが、 記事「19-14. 縄文遺伝子Y-DNA「D2」のネグリート(倭人)体質」でご報告した通り、戦後一気に伸びた身長も男女ともに 1980年代でピタッと止まりました。女性の縄文系の割合はほぼ67%です。ネグリート形質は強固で、 食糧事情や衛生環境の圧倒的な改善にも打ち勝ち、日本人の身長を抑え込んでいるようです。 イタリアやスペインなどのラテン系の人々の低い身長もY-DNA「E」の持つネグリート形質の特徴でしょう。 欧米人の高身長の源は、ヨーロッパ中に拡散した北欧系の高身長遺伝子によるものです。

  というわけでY-DNA「C」もやはり鯨面ですが、文身はしていないようです。 Y-DNA「D」とは明らかに異なる集団だということがわかると思います。 同じY-DNA「C」のアボリジニの祖先は沿岸でマグロのような回遊魚を漁していた渡海技術を持つ技術集団であることが判っています。 このY-DNA「C」集団は一時はニューギニア全島に分布していたと思われますが、かなり後代にY-DNA「S」と「M」のデニソワ系 メラネシア人が移動してきたときに押し出されたと思われ、ポリネシア全域に拡大し現在のポリネシア人のコア遺伝子となっています。 渡海技術を持っていたため、出ニューギニアできたようです。Lani族やDani族、Tehit族等純系部族は取り残されたのか、 やや内陸に居住しているので内陸適応したのかもしれません。 ニューギニアに移動してきたデニソワ系集団Y-DNA「S」と「M」はニューギニア高地人部族として現在もデニソワ人から受け継いだ 高地適応形質をチベット人同様維持しているようです。また恐らくY-DNA「C」から習得したのではないかと思われる渡海技術を持って メラネシアに拡大したと推測できます。ただし元々は高地適応部族だったので、近海のメラネシアが移動の限度だったのでしょう。

4-3.Y-DNA「D」の先輩チベット人の高高地適応獲得形質:

注:標高の高い高地に適応しているチベット人の高高地適応獲得形質は、欧米の研究者はデニソワ人との交雑で得た後天的獲得形質と考えているようです。

  2019年度のノーベル生理学賞「細胞が低酸素を検知し応答する仕組みの発見」だそうです。低酸素状態になると「エリ
  スロポエチンが増えて赤血球が多く作られ酸素を確保する」仕組みだそうですが、負の問題として赤血球が増えるとド
  ロドロ血になり、高地では心臓への負担が大きくなるという高血圧症や新生児の低体重、死亡の原因になるのだそうで
  す。特に妊婦さんの負担は極めて大きいのだそうです。
  その血液に酸素を供給するヘモグロビンの生成を調節するのがEPAS1遺伝子だそうです。チベット人は高地になっても
  ヘモグロビンの過剰生成を抑えられるように変異しており、標高4000mを越える高地でも低酸素症の発症を抑えること
  ができているのだそうです。このチベット人のEPAS1変異が解読されたデニソワ人のEPAS1の変異と同じだったのだそ
  うです。この研究結果は2014年にNature に発表されていました。
  ところがデニソワ人の遺伝子を6%も受け継いでいるメラネシア人にはこの遺伝子変異が受け継がれていないのだそうで
  す。これは調査不足の可能性が大です。通常メラネシア人と言うとメラネシアの島々に点在する人々を言いますが、
  ニューギニア高地人も同じY-DNA「K2b1」(「S」と「M」)を持って高地に居住しています。高地人にも当然高地適
  応形質が受け継がれていると考えるのが当然でしょう。
  Y-DNA「K2b1」が出アジアを行い移動したのは遥か後の恐らく7000-8000年前頃ではないかと言われています。デニ
  ソワ人が生きていたのは少なくとも数万年前と考えられるため、交雑はその頃のはずですが、まだ研究報告はありません。となるとY-DNA「K2b1」はどこでデニソワ遺伝子を獲得したのでしょうか?

  手持ちの情報だけで無理やり推測すると数万年前に交雑していたが、数万年の平地居住で高地適応形質を失ってから移
  動した。もしくは高地適応形質が消えずに持っていた小集団がニューギニア高地に残った。あるいはニューギニア高地に到達したら、高地適応形質が復活した。...ぐらいです。

  アンデスのマチュピチュなど先住民文化はY-DNA「Q」のはずですが、「Q」は「K2b2a1」なので「K2b1」の兄弟遺
  伝子亜型です。いずれにせよ高地集団の遺伝子調査が重点的に行われると判別しそうですね。

4-4.Y-DNA「D」の弟亜型のY-DNA「E」

  さて戻って、移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 始祖亜型である原ホモサピエンスの先住民の中に入り込み、始祖亜型Y-DNA「A」と「B」のネイティヴ・アフリカン集団の中に 古代亜型Y-DNA「E」の遺伝子が混在するようになっています。

注:現ネイティヴアフリカンのコイサン集団にもピグミー集団にも、Y-DNA「A」と「B」の純系部族は存在していません。
  このため原ホモサピエンスのイメージは推測の範囲を出ません。
注:アフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」(後代のケルト系遺伝子)集団がアナトリア、中近東から南下してきて、更に新しい集団として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部を形成して
  います。

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのでしょう。
  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至りました。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのでしょう。

4-5.Y-DNA「D」

  一方、Y-DNA「D」は、欧米の研究者の考えではY-DNA「C」と共に、現代より120m~140mも海面が低かったために陸地だった インド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達したようです。 その時にY-DNA「C」集団の本体は更に東進しサフール大陸に到達したようです。このY-DNA「D」と「C」の移動は、Y-DNA「C」が 習得した沿岸渡海技術で思いのほか早く5万年前にはサフール大陸に到達したと推測できます。

  その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し 現代までJarawa族やOnge族などの絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきています。研究者によっては中国大陸-インド亜大陸 経由で南下してきた、とする説もありますが、納得には至りません。
  Y-DNA「D」は基本的に古代性の強い狩猟採集民と考えてよく、日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いないです。

4-6.Y-DNA「C」

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで再度先住ネアンデルタール人と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できます。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えるのが今のところ合理的です。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、本体はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸内で拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族、Lani族やDani族などニューギニアの先住民集団やオーストラリア・アボリジニ集団、 つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っています。 そして5万年前にはオーストラリアに到達していた集団の遺跡から回遊魚のマグロの骨が東海大学らの調査により発見され、 Y-DNA「C」は沿岸を船で移動できる海洋性ハンター集団だったと考えられます。 従ってサフール大陸に到達したY-DNA「C」集団は更にそのまま船で海に漕ぎ出し、ポリネシア全土に拡大していったようです。 ポリネシアのY-DNAの主要亜型として検出されるY-DNA「C」は、実は縄文の海洋性ハンターY-DNA「C」と同じ亜型です。 つまり日本列島で検出される海洋性ハンター遺伝子Y-DNA「C」亜型は、現代ポリネシア人と同じ先祖を持つことになります。

  ところがオセアニアの遺跡の年代はそれほど古くはないようです。海面上昇で当時の陸地は全て水没し遺跡も当然海中です。 海中考古学が進歩すれば、Y-DNA「C」集団がポリネシアに漕ぎ出したのはかなり古いという事が判るのではないかと期待しています。 しかし現状の情報のみだと、ポリネシアに漕ぎ出したのはデニソワ系Y-DNA「S」と「M」がニューギニアに到達し押し出された結果と 考えるのが妥当です。

注:一部の日本人の持つ海洋性気質は、このポリネシア人と共通の祖先Y-DNA「C」から受け継いだ気質と言っても差し支
  えないでしょう。

4-7.Y-DNA「D1b」,「C1a」の日本列島への上陸

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大しました。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われます。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大です。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのです。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した「D」と「C」の混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した「D」集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となったようです。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようです。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「C」と「D」が残した文明と考えられます。 このため同じY-DNA「C」と「D」遺伝子を50%弱も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのかもしれません。

  日本の民話とチベットの民話には共通性がかなりありますが、これらはY-DNA「D」が伝えてきた民話と考えて差し支えないでしょう。
  しかし一緒に移動したと考えられる-DNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていません。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い、もともと海洋性の遺伝子なので、内陸の高地は居住適地ではなかったのかもしれません。。 縄文時代に火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高いのですが、Y-DNA「D」のようにデニソワ人から チベット高原のような高高地適応形質を受け継がなかったため途絶えてしまったのかもしれないですね。 チベット人の高高地適応がデニソワ人から受け継いだということは、 四川文明もデニソワ人が加わっていた可能性はあります、Y-DNA「C」とデニソワ系Y-DNA「D」との合作かもしれません。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられます。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されています。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられます。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられます。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられ、 サハリンや北海道に留まった集団は古代アイヌ人の母体となったでしょう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となったでしょう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないでしょう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できます。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのです。

4-8.Y-DNA「C2a」の日本列島への上陸

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)です。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われます。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意したのでしょう。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となったでしょう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあったでしょう、北の山の民の母体となったと推測できます。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体と考えてよいでしょう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。
  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

5.長江文明系稲作農耕文化民の日本列島到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「K2a(NO)」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。
  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。 やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えないでしょう。 (余談ですが、人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲ頭も「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

5-1.長江文明系稲作農耕文化民の拡散

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族でY-DNA「旧O2a」100%の頻度です。

WikipediaのShompen族の写真

  真ん中の人物は近藤正臣かキムタクか、日本に普通にいる風貌である。稲作農耕民の典型と考えてよいでしょう。

  また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、 こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

5-2.日本列島と朝鮮半島の稲作農耕民の共通点

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

5-3.台湾と日本の共通点

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

  台湾のヤミ族の正装です。なんと東国原氏に瓜二つですね。女性も普通にいますね。

  日向は薩摩とも異なる独特のネーミングが残る土地柄ですが、辿ると吉備と似たような土地柄だったのかもかもしれませんね。 因幡の白兎伝説に似たワニが出てくる民話でもあれば間違いないでしょうが。果たして?

6.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.日本人の源流....簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。
  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、
  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、
  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、 日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。

7.Y-DNAの分化.....エピジェネティクスか

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。
  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのでしょうか?

  これらの亜型群は、何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。我々現代人は、当然ですが、各亜型群が分化した当時の形態は全く知りませんが、各亜型に分化してから各地に移動したのか、移動した先の地域に順応して分化したのか、いずれかでしょう。分化の要因はまだ推測できていませんが、移住先の地方型先住ネアンデルタール人との交雑、気候や食生活の変化、移住先に特有のRNAウイルスとの共生化.......等々、いずれにせよ後天的な獲得形質ではないかと思われます。

ネアンデルタール人からホモサピエンスが分化したのは、骨形成不全、筋肉形成不全等、身体能力の発現不全症だった可能性も高いのです。つまりひ弱な華奢型の退行型突然変異だったような気がしますが、Y-DNAの亜型の分化は突然変異というよりエピジェネティクス(後天的な獲得形質)と考えるほうが理にかなっていると思います。

8.雑考

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけなのでしょう。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた黄河系 Y-DNA「O2」(旧O3)が牽引してきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、中韓が 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が現代に入るまでまで確立出来なかったかのに対し、日本列島は江戸時代には出来ていたという違いなのでしょう。

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系-弥生系(長江文明系)-武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。
  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう
3:777 :

2022/08/26 (Fri) 20:40:40

19-12. 石垣島で国内最古の全身人骨発掘
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4all.htm#19-13

  関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。紹介するのは2017/5/21の朝日新聞の記事です。
沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。
  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。
  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。
Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。

2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。
  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。
  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。
  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。
  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。  この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。
  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。
  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル 呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから 南下してきたのかはまだわからないのです。
  新しい研究が進む事を期待します。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4all.htm#19-13
4:777 :

2022/08/26 (Fri) 20:41:53

19-13. 石器晩期-縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4all.htm#19-13

  今まで縄文人顔とされてきたのは典型的なY-DNA「D2」のジャガイモ顔です。 ところが16000~18000年前頃(旧石器時代最晩期から縄文時代草創期)のとされる港川人の顔は 最近の再調査で下記の記事のように完全にオーストラロイド顔と判明したそうです。 これはY-DNA「C1」はY-DNA「C2」100%の西ニューギニアのLani族(オーストラロイド)に似ていたはずだという 当ガラパゴス史観の意見と完全に一致します。 そして沿岸狩猟採集系遺伝子集団で、貝文土器など土器の製作集団だったのです。

  それでは2010年6月28日asahi.comの港川人の記事をご紹介します。
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  港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

  新しい研究をもとに、国立科学博物館が作り直した港川人の復元図(右図)


  左図は国立科学博物館に展示されている港川人の復元像。縄文人の祖先と考えられたので、日本人の雰囲気だ。 沖縄で見つかった旧石器時代の人骨「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館(科博)が、顔立ちの復元図=写真上、 科博提供=を作り直した。縄文人の祖先とされてきた従来のイメージ=写真下=から大きく変わり、 オーストラリアの先住民といった雰囲気だ。

  上左図の縄文人は眠そうな目ですが、本来の「D」は左図のアンダマン諸島のY-DNA「D*」100%のOnge族やJarawa族のような ジャガイモ顔ですがパッチリした目の鋭い二重だったはずです。 そして本来の「C1」は右図の西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族のような奥目のいかつい彫深顔だったはずです。 どちらも今の日本人に時おり見かける顔です。 しかも当然のことながら古代遺伝子集団や先住民に特有の見事な鯨面です。これが大人のY-DNA「D2」縄文人と「C1」縄文人の オリジナルの顔の現代版なのです。 国立博物館の復元像は鯨面にした方が良かったですね。古代人の特徴をあらわすからです。

  港川人は1967~76年に沖縄本島南端の石切り場で見つかった。5~9体分の人骨と考えられ、 出土地層は約2万年前と推定されている。 全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではその後も発見はない。 顔の彫りが深く、 手足が長いといった港川人の特徴が、縄文人によく似ていることから、 縄文人の祖先は南から渡ってきたとの考えの大きな根拠となってきた。その縄文人に大陸から渡ってきた弥生人が融合して 日本人が形成されたと考えられてきた。 科博はそうした日本人形成論の再検討に取り組んでおり、その一環として港川人を再調査してきた。

  CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとしており、 そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。 現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。

  縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考えられてきた。 だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団など多様なルーツのあることが見えてきた。

  これを正確に言うと、縄文男性は前述のように「D2」「C1a」と「C3a」の3亜型があり、全国に分布するのが圧倒的多数の「D2」、 日本列島部分を北上した「D2」と一緒に北上したため青森など北に多く分布するのが「C1a」、 ナウマン象など大型獣を追ってシベリアから朝鮮島経由で南下してきたため九州や西日本に多いのが「C3a」。 一方女性は民族性を持たないことや、Y-DNA「D」「C」が出アフリカ後移動途中のインド亜大陸や、 スンダランドや東シナ海-黄海ランドなどで巡り合ったmtDNA遺伝子の女性が集団に その都度新たに加わるためmtDNAの調査でも男性より種類がやや多い遺伝子構成になっています。

  新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。 港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。 その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、 港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えることができそうだ。(渡辺延志)

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  その後、石垣島の白保竿根田原洞穴からこれまでの20000年前より更に古い国内最古の24000年前頃の人骨が発掘された、 というニュースがありました。
  旧石器時代の人骨として最も有名な港川人も沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)で見つかっており、 全て琉球列島の遺跡という驚くべきことですが、骨が残りやすい土壌のようです。
  縄文人(正しくは石器-縄文人)にはY-DNA遺伝子の3亜型があり、
・Y-DNA「D2」;現代日本人のY-DNAの実に41%を占め、小柄でジャガイモ顔で二重瞼の日本人の基盤です。
・Y-DNA「C1a」: 4%、小柄なオーストラロイド系海洋性ハンター、
・Y-DNA「C3a」; 3% ナウマン象を追ってきた大陸性ハンター

  縄文系は合計日本人男性の実に48%も占める田舎的な親切な日本人気質の源になった遺伝子です。 そして3亜型とも出アフリカ当時に近い古代性を残したシーラカンス遺伝子です。 田舎独特のホスピタリティはこの石器-縄文人から受け継ぐ古代気質です。 これらの遺伝子集団の草創期の遺跡は海面上昇後の大陸棚に大部分が沈んでおり草創期の文化の構築は難しいものがあります。 もし沿岸大陸棚の研究が進めば縄文時代の草創期は14000年前ごろとされる今よりもっと遡る可能性が極めて大なのです。

  50000年前ごろにはオーストラロイド(Y-DNA「C2」、「C4」)は既にスンダランドと海で分離していた サフール大陸(オーストラリア/ニューギニア大陸)に上陸していたことが明らかになっています。 渡海技術が50000年前ごろには既にあったのです。ということは、当然陸続きだった日本列島部分 に同じ頃に「C2」や「C」より古い古いY-DNA「C1」が住みついていたとしても至極当然のことでしょう。 ということは、「C」と行動を共にしていたとされる「D」も一緒に住み着いたはずです。といっても、 住みついたのは今は海面下に沈んだ120m下の大陸棚部分のはずですが。 つまり、50000年前頃には遅くても20000年前頃には日本列島部分にY-DNA「D」「C」は定住していた可能性は極めて大です。
  石垣島の白保竿根田原洞穴の20000年前~24000年前頃の旧石器時代人は「C1a」か「D2」のどちらでしょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4all.htm#19-13
5:777 :

2022/08/26 (Fri) 20:43:54

16-5. 30,000年前~35,000前に遡る沖縄の漁労技術
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4all.htm#19-13

2016/09/20
  久しぶりのPNASの記事を準備していたら、先に新聞などでニュースになってしまいました。 沖縄県立博物館・美術館が中心になって東京大学や国立科学博物館が協力して書かれた論文です。日本人の英語なのでわかりやすいです。 原著をお読みになりたい方のためにSignificanceとAbstrauctを転記しますので、ご興味のある方は是非原著をお読みください。
PNAS 2016 ; published ahead of print September 16, 2016, doi:10.1073/pnas.1607857113
です。 Y-DNA「C1」はオーストラロイドで海のハンターで縄文人の一翼を担っていたことがますます鮮明になってきました。
関連する重要な記事の、
14-4.42,000年前のホモサピエンスの外洋漁撈と海洋技術と
30-12. 石器晩期-縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ
も併記しましたのでじっくりお読みください。 縄文人の逞しさや先進さなど、縄文人は原始的な集団ではなくその年代の地球上の集団の最先端を走っていたことが良くわかります。
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Advanced maritime adaptation in the western Pacific coastal region extends back to 35,000-30,000 years before present

Masaki Fujitaa,1,Shinji Yamasakia,Chiaki Katagiria,Itsuro Oshirob,Katsuhiro Sanoc,Taiji Kurozumid,Hiroshi Sugawarae, Dai Kunikitaf,Hiroyuki Matsuzakic,Akihiro Kanog,Tomoyo Okumurag,h,Tomomi Soneg,Hikaru Fujitag,Satoshi Kobayashii, Toru Narusej,Megumi Kondok,Shuji Matsu’urak,Gen Suwac, andYousuke Kaiful,1

Significance

Moving into oceanic islands after c.50,000 years ago was a remarkable step forward in the history of worldwide expansion of modern humans. However, the developmental process of Pleistocene maritime technology remains unclear. So far, the only secure sources of information for such discussions were the Indonesian Archipelago and northern New Guinea as steppingstones from the Asian continent to Australia. This article reports a successful maritime adaptation that extended from 35,000 to 13,000 years ago on a small island environment in the southern Japanese Archipelago. The new evidence demonstrates a geographically wider distribution of early maritime technology that extended north to the midlatitude areas along the western Pacific coast.

Abstract

Maritime adaptation was one of the essential factors that enabled modern humans to disperse all over the world. However, geographic distribution of early maritime technology during the Late Pleistocene remains unclear. At this time, the Indonesian Archipelago and eastern New Guinea stand as the sole, well-recognized area for secure Pleistocene evidence of repeated ocean crossings and advanced fishing technology. The incomplete archeological records also make it difficult to know whether modern humans could sustain their life on a resource-poor, small oceanic island for extended periods with Paleolithic technology.

We here report evidence from a limestone cave site on Okinawa Island, Japan, of successive occupation that extends back to 35,000 ? 30,000 y ago. Well-stratified strata at the Sakitari Cave site yielded a rich assemblage of seashell artifacts, including formally shaped tools, beads, and the world’s oldest fishhooks. These are accompanied by seasonally exploited food residue. The persistent occupation on this relatively small, geographically isolated island, as well as the appearance of Paleolithic sites on nearby islands by 30,000 y ago, suggest wider distribution of successful maritime adaptations than previously recognized, spanning the lower to midlatitude areas in the western Pacific coastal region.





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西太平洋海岸領域での高度な海上の順応化は、現在から30,000年前~35,000前に遡る

趣旨

  50000年前、大平洋の島々へ移動することは、現代の人間の世界的な拡大の歴史での注目に値する前進でした。 しかし、洪積世の海上テクノロジーの発達的なプロセスは不明瞭なままです。これまでに、そのような議論のための唯一の確実な情報は、 アジア大陸からオーストラリアに至る踏み石であるインドネシア群島および北ニューギニアだった。
  本論文は、日本列島の南方の小さい沖縄群島の環境において35,000年前から13,000年前まで拡張し成功した海上順応化を報告する。 新しい証拠は、西太平洋岸に沿った中緯度帯域まで北に広げた初期の海のテクノロジーの地理的により広い拡散を示す。

概要

  海上の順応化は、現代の人が世界中に拡散することを可能にした必須のファクターのうちの1つであった。 しかし、前の更新世の間の早い海上テクノロジーの地理的な拡散は不明瞭なままだ。 この間、インドネシア群島と東部ニューギニアは、度重なる海洋横断と先進の釣り技術の揺るぎない更新世の証拠のための唯一の地域としてよく認められている。 不完全な考古学的な記録もまた、現代人が旧石器時代の技術で長期間の間資源の少ない、小さな大平洋の島での彼らの生活を支えることができたかどうかについて 理解することを難しくしている。
  私達は、35,000年前~30,000年前にさかのぼる連続した居住があった、ここ沖縄の石灰石洞窟サイトから得た証拠を報告する。 サキタリ洞窟のよく層化された層は、正式に形づくられたツール、ビーズと世界の最も古い釣り針を含む貝人工品の豊かな集積をもたらした。 これらには、季節的に利用された食物残留物が付いている。
  この比較的小さな地理的に孤立した島の持続的な居住ならびに30,000年前の近隣の島の旧石器遺跡の出現は、 これまで考えられていたよりより広い連続的な海の適応を示している。そして、西太平洋沿岸の低緯度地域から中緯度地域の範囲にわたっている。
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  今朝の朝日の記事は下記です。

  縄文人の一翼を担う海のハンターY-SNA「C1a」の弟遺伝子Y-DNA「C4」アボリジニの先祖は、 記事14-4.で42,000年前にはすでにオーストラリア大陸に渡っておりしかも漁労を行っていたことが報告されています。
  当然、日本列島にもそのころすでに到達していたはずですが、沿岸の遺跡の主要部分は120mにもなる海面上昇のおかげで全て海の中に沈んでおり、 現在、我々が発掘しているのは海面上昇に追われて移動した生活跡に過ぎない。これは大変残念なことで海中考古学の発展なしには 縄文文化の発展は証明できません。国の肝いりで海中考古学が日の目を浴びることを期待します。日本列島の考古学が大幅に変わります。

以上
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4all.htm#19-13
6:777 :

2023/11/19 (Sun) 08:00:36

雑記帳
2023年11月18日
川幡穂高『気候変動と「日本人」20万年史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%97%E5%80%99%E5%A4%89%E5%8B%95%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8D20%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E5%B7%9D%E5%B9%A1-%E7%A9%82%E9%AB%98/dp/4000615300

 岩波書店より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は気候変動の視点からの人類進化史で、近年飛躍的に発展した古代DNA研究の成果も多く取り入れられています。本書はまず、現在の有力説にしたがって、現代人の究極の起源地がアフリカにあることを指摘します。本書では、現生人類の起源は化石および分子生物の証拠から20万年前頃とされていますが、この年代はもっと古くなる可能性が高そうです(関連記事)。本書はさらにさかのぼって、霊長類系統の分岐、さらには類人猿(ヒト上科)系統における分岐に、環境変化が関わっていたことを指摘します。類人猿系統における人類系統の分岐の背景には、寒冷化による降雨量減少と、それによる樹木の散在する環境への変化がありました。なお本書では、人類の使用した最古の石器はホモ・ハビリス(Homo habilis)の出現前にさかのぼる、とされていますが、これをオルドワン(Oldowan)石器と同じとしているのは間違いで、330万年前頃となる最古の石器はオルドワンではありません(関連記事)。

 現生人類のアフリカからレヴァントへの拡散について、本書は12万年前頃以降を取り上げていますが、それ以前にさかのぼる可能性は高そうです(関連記事)。また本書は、スフール(Skhul)遺跡やカフゼー(Qafzeh)遺跡で発見されたこれらレヴァントの初期現生人類(Homo sapiens)の遺伝子は現代ヨーロッパ人と異なっていた、と指摘しますが、スフールおよびカフゼー遺跡の現生人類遺骸のDNA解析にはまだ成功していないと思います。本書は、現代と比較して、この頃の地球全体の平均気温が1~2度、深層水の温度が0.4度高かった、と指摘します。12万年前頃の間氷期最盛期を過ぎると、気温はじょじょに低下し、8万年前頃には初夏の気温が2度ほど下がります。これにより、レヴァントから現生人類は追い払われ、南下してきたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が占拠した、と本書は推測しますが、レヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の相互作用については、今後の研究の進展を俟つべきかもしれません。74000年前頃となるトバ山大噴火が現生人類の人口を激減させた可能性は以前から指摘されており、本書でもこの見解が採用されていますが、現時点では説得力に欠けるように思います(関連記事)。

 本書では、現生人類のほとんどは出現後約14万年間、誕生地周辺で生活していた、と想定されていますが、現在では、現生人類の起源地に関してアフリカの特定地域のみではなく全体を視野に入れねばならない、との見解の方が有力だと思いますし(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)からも、出現後の現生人類集団が14万年間も誕生地周辺で生活していた可能性は低いように思います。本書は、アデン湾のアラビア半島付近の堆積物試料の分析から復元された過去216000年間の気候変動に基づいて、非アフリカ系現代人の共通祖先の出アフリカの頃が湿潤だったことを指摘します。他には、20万年前頃と13万~12万年前頃も湿潤で、それぞれ現生人類の誕生およびレヴァントへの拡散と対応している、と本書は指摘します。ただ、上述のように現生人類の出現はもっとさかのぼる可能性が高そうですし、レヴァントでは18万年前頃の現生人類の存在が確認されています(関連記事)。

 現生人類のアフリカから世界各地への拡散については、出アフリカ現生人類の肌の色は当初、黒褐色だった、と本書では指摘されていますが、アフリカの現代人の肌の色は多様で、明るい色の肌と関連している遺伝的多様体の中には100万年前頃に出現したと考えられているものもあるので(関連記事)、出アフリカ時点での現生人類集団の肌の色についてはまだ断定できないように思います。本書では出アフリカの拡散経路として、ユーラシア南岸とヒマラヤ山脈の南北の3通りが提示されており、ユーラシア南岸もしくはヒマラヤ山脈の南側の経路の現生人類の最古級の痕跡は37000年前頃とされていますが、今年になってラオスで発見された現生人類遺骸は6万年以上前にさかのぼる、と報告されています(関連記事)。

 本書では、日本列島における人類最古の痕跡は島根県出雲市の砂原遺跡の12万年前頃の石器とされており、4万年以上前の人類の痕跡として岩手県遠野市の金取遺跡も挙げられており、その担い手は非現生人類ホモ属だろう、と指摘されています。ただ、砂原遺跡の石器についてはそもそも石器なのか、考古学者の間で議論になっていますし、金取遺跡の石器群は本物の石器のようですが、9万年前頃までさかのぼるとしても、その担い手が現生人類である可能性も考えられます(関連記事)。本書は、9万年前頃には現生人類はまだ出アフリカを果たしていなかった、と指摘しますが、それはあくまでも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカで、非アフリカ系現代人と遺伝的にほとんど若しくは全くつながっていない現生人類集団が7万年以上前にアフリカからユーラシアに拡散した可能性は、上述のラオスの事例からも否定できないでしょう。

 日本列島への現生人類の拡散経路としては、本書では北海道と対馬と沖縄の3通りが挙げられており、主要かつ最古の経路としては、遺跡の年代および場所と海路の距離から対馬と推測されています。縄文時代について本書では、その開始は土器出現(16500年前頃)以降、その終焉は2900年前頃とされています。本書は、調理および保存の点で土器の画期性を強調します。現生人類拡散後の日本列島の気候変動については、北部では一般的な最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりもやや遅く、16500年前頃が最寒期と推定されています。この点も含めて、著者の専門分野と関わってくる気候変動の再構築に関して、本書から有益な知見が多く得られます。この日本列島北部の最寒期の前後において、ナウマンゾウが23000~20000年前頃までに、マンモスが16000年前頃までに絶滅します。本書は、これら大型動物が温暖化により絶滅したわけではないとしても、当時の低人口密度では人類による狩猟が原因の絶滅とも考えにくく、絶滅原因は謎としています。

 日本列島はこの最寒期の後に温暖化を迎え、陸上生態系も大きく変わり、日本列島全体を覆っていた亜寒帯針葉樹林から、西日本~関東にかけては温暖帯常緑広葉樹林が、西日本の内陸~中部および東北にかけては温帯落葉広葉樹林が広がります。なお本書では、現代日本人で見られるY染色体ハプログループ(YHg)D1a2aが縄文時代からずっと日本列島に存在した、と想定していますが、その一定の割合が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定すべきである、と私は考えています(関連記事)。縄文時代には8200年前頃となる完新世で最大の寒冷化が起き、これは短期間(150~160年間)だったものの、地球規模と確認されています。本書では縄文時代の遺跡として有名な三内丸山は本書で大きく取り上げられており、その放棄が4200年前頃の2.0度ほどの気温低下をもたらした寒冷化と対応していることも指摘されています。この寒冷化の原因は、夏季アジアモンスーンの変調によりジェット気流の中心軸が南下し、南の温暖で湿潤な大気が日本列島北部まで北上できなかったことにある、と本書は推測します。平均気温2.0度の差は、緯度方向では約230km、標高では300mほどの違いに相当し、三内丸山での食料確保が難しくなったのではないか、と本書は推測します。ただ、遺跡の数に基づく近年の研究では、当時の人々が周辺地域に分散しただけで、人口が急減したわけではない、と指摘されているそうです。

 本書は、現代日本人の主要な祖先集団が縄文時代にはユーラシア大陸部に存在したことから、 現在の中国を中心にユーラシア大陸部の気候変動も取り上げています。これと関連して、イネの遺伝子解析から日本の水稲が朝鮮半島より中国の系統に近いことや、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と日本列島も含めてアジア東部の現代人で優勢なYHg-Oの人々にデニソワ人の遺伝的痕跡がほとんど見られないことから、YHg-Oの祖先集団はデニソワ人とは別の場所に存在した、と本書では述べられていますが、かなり問題があると思います。日本のイネがどこからもたらされたのかは、紀元前の日本列島と朝鮮半島のイネの遺伝的多様性が現在よりもずっと高かったことから、時空間的に広範囲の古代のイネのDNAを解析する必要がありますし(関連記事)、アジア東部現代人には現代パプア人よりずっと少ないとはいえ明確にデニソワ人との混合が認められ、それはパプア人の祖先と混合したデニソワ人集団とは異なるデニソワ人集団に由来する、と推測されているからです(関連記事)。

 縄文時代晩期以降に日本列島にもたらされた稲作文化の究極的な起源地である長江下流域では、4200年前頃に良渚文化が崩壊しますが、これは急激な大寒冷化に起因していたようです。数百年間程度の空白を経て同じ地域に出現した馬橋文化については、稲作農耕技術が良渚文化より劣り、狩猟と漁撈の比重が高まったことから、良渚文化の担い手とは異なる集団が他地域から移住してきて築いた、と本書は推測しますが、これに関しては今後古代ゲノム研究の裏づけが必要になると思いますし、そもそも寒冷化に良渚文化の担い手が対応したことも想定できるでしょう。上述の三内丸山遺跡の放棄とともに、4200年前頃の世界的な気候変動と主要な文化の衰退・崩壊が現在注目されているそうです。この世界的な気候変動とともに、現在の中国では4000年前頃には全土の53%が森林だったのに対して、3000年前頃には森林の被覆度は25%程度に減少し、その後もますます低下していったそうです。なお、本書では夏から殷(商)への「王朝交代」は禅譲と伝えられてきた、とありますが、恐らくこれは夏以前の伝承と混同しており、文献では夏が殷により武力で倒されたとあります。

 日本列島への稲作到来の契機として本書が指摘するのは、紀元前1050~紀元前400年頃にかけての寒冷継続期で、温度は約0.7度低下したそうです。ただ、本書が指摘するように、日本列島における水稲栽培やそれと関連した文化の伝播は、時空間的差異が大きいようです。本書では、プラント・オパール分析を根拠に、イネ自体は縄文時代中期から存在した、とされていますが、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が現在では有力だと思います(関連記事)。本書は稲作の到来とともに、長江から北方に逃れた人々が日本列島に到来した可能性を指摘しますが、その根拠はYHgで、確かに長江流域集団が北進して日本列島に到来した可能性はあるものの、そうだとしても、古代ゲノム研究の進展を踏まえると、その遺伝的影響は小さいようです(関連記事)。

 古墳時代について本書では、かつての寒冷期説とは異なり、比較的温暖だった、と指摘されています。この古墳時代が終焉する6世紀末~7世紀前半にかけては、小規模な寒冷期だったようです。唐王朝の衰退は乾燥化の進展と関連づけられていますが、これも世界規模での温暖・乾燥化の一環だった、と本書では指摘されています。本書は同時代の文献が残る時代の日本列島も対象としていますが、平城京において前代の飛鳥時代とは異なり鉛や銅による重金属汚染が起きていた、と著者たちの土壌分析により明らかになったそうで、長岡京や平安京への遷都は都市汚染も一因だったのではないか、と本書は推測します。奈良盆地の地形勾配は緩やかで排水が悪く、汚物の処理に人々は苦慮していた、というわけです。日本列島では820~1150年にかけて寒冷化していき、ヨーロッパにおける950~1250年頃の温暖化とは対照的だったようです。ユーラシア大陸部では、13世紀前半の温暖化がモンゴル帝国の勢力拡大をもたらしたようです。日本列島では、14~16世紀に寒冷化の中で農業技術や集落形態の変容などにより農業生産が増加した、と指摘されています。


参考文献:
川幡穂高(2022)『気候変動と「日本人」20万年史』(岩波書店)

https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html

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