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コッポラ _ 地獄の黙示録 1979年

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 15:42:23

Coppola Apocalypse Now 1979 動画
https://www.bing.com/videos/search?q=Coppola+++Apocalypse+Now++1979&FORM=HDRSC3


「映画の中のクラシック音楽」 
配信日 03年12月2日
取り上げた映画作品 地獄の黙示録
制作 79年 アメリカ
監督 フランシス・フォード・コッポラ
使われた音楽 ワーグナーの「ワルキューレ」
使われた意図 「知」による閉塞
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-02.html


このメールマガジンで取り上げるクラシック音楽の使い方は、基本的に「引用」としての利用がされているものを取り上げています。
別の作品を、そしてその作品の特性を参照している使い方です。

音楽と言っても、たんなる「効果音」では面白くないし、書くことありませんものね?
「この甘い旋律が二人の愛を美しく彩っています!!」とか・・・

意図を持った「引用」であると判断しやすいのは、「効果音」としての効果が「上がっていない」場合です。

このような場面でどうしてこのような音楽を使うの?
ちょっとヘン?
別の音楽の方がいいのに・・・
そのような疑問を持つと、引用としての意義がわかってくるわけです。

今まで取り上げて来たクラシック音楽の使い方は、基本的にはこのように「効果音」としては不適なものを中心としてきました。
しかし、今回は「効果音」としても「効果」が上がっている作品を取り上げましょう。

フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」におけるワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」です。
「ワルキューレの騎行」の音楽はワーグナー本人が台本を書き、勿論のこと作曲した舞台祭典劇の4部作「ニーベルングの指環」の2作目で第1夜の「ワルキューレ」の第3幕の冒頭の音楽です。

ワルキューレは神々の長ヴォータンの娘たちで、戦場で命を落とした勇者の魂を持ち帰る使命を持っているわけです。

そして今回取り上げる映画であるコッポラ監督の「地獄の黙示録」については書くまでもないでしょう。このメールマガジン始まって一番のメジャー作品ですからね。確か20世紀で最も重要な映画ということになったはず。

なぜ?
本当にそんなに重要なの?
どの点が、そんなに意義深いの?

ご存知のように、この映画における「ワルキューレの騎行」は、ヘリコプター部隊がヴェトナムの村を攻撃するシーンで使われます。ヘリコプター部隊の隊長が攻撃のBGMとしてヘリコプターから流すんですね。

これは効果音としても有効です。
何といってもワーグナーのオペラにおいて、ワルキューレは空を飛ぶという設定ですので、「ワルキューレの騎行」という曲には空中を浮遊する感じがある。
ヘリコプター部隊のBGMとしてはうってつけですよ。

と同時に、ちょっとした引用もあるかもしれません。
戦場から魂を持ち帰るワルキューレの音楽は、ヘリコプター部隊によって殺された村人の魂を持ち帰ることを連想させますからね。
それだけ沢山死んでいるということになりますね。
単に空を飛んでいるというのではなく、戦場の上を飛んでいることにつながる。
まさに「死者累々の戦場」の引用と言えると思います。

また、戦争中におけるジェノサイドということでしたら、ワーグナーの音楽がナチスに利用されたことを思い出す人も多いでしょう。

まあ、コッポラさんの魂胆は実際のところこれくらいのところじゃないかと思いますが・・・
これから書くことは私の「深読み」なんでしょうねぇ・・・

コッポラさんは音楽家の家系に生まれて、父親がオーケストラの指揮をしたレコードもあったはず。音楽の元ネタも知っているはずです。この「地獄の黙示録」においても、音楽部門も彼自身も共同で担当しているくらい。つまり選曲に当たっても、コッポラさんの選択が相当に介在しているわけです。

コッポラさんは、言うまでもなく、「ワルキューレの騎行」の元ネタ「ワルキューレ」についても、ストーリーや、作者ワーグナーの言わんとするところなども通暁していたはず。

では、「ワルキューレ」とはどんなオペラ(正式名称「舞台祭典劇」は面倒なので、ここからはオペラとします。)なのか?

神々の長ヴォータンが、神々の世界の終焉を知り、その終焉を回避するために自分の子供ワルキューレ8人(ちなみに長女がブリュンヒルデ)やジークムントやジークリンデを作る。基本的にオペラ「ワルキューレ」はそのブリュンヒルデやジークムントやジークリンデによって「語られる」オペラですよね?

しかし、主人公はあくまでヴォータンです。
ブリュンヒルデもジークムントもジークリンデも、役回りはヴォータンの苦悩を浮かびあがらせ、語るためのもの。

では、ヴォータンの苦悩とは?

それは神々の世界の終焉を「知っている」ということ。
そして、その終焉が他の神々には「わかってもらえない」ということになります。

ヴォータンの苦悩は、その「知」に由来する。そしてその「尊厳」に由来しています。
だからこそ、ヴォータンの「知」や「尊厳」とは無縁な他の神々には、世界の終焉は理解できないし、その苦悩も共有することはありません。
だからこそ、ヴォータンの苦悩はますます増大するわけです。

ヴォータンの娘ブリュンヒルデも、妻のフリッカもヴォータンの「終焉への予感」を共有することはありません。
ただ一人だけヴォータンと「知」を共有しているエルダは、引き篭もり状態。これでは当てにはできませんよね?

神々の終焉という問題に、ヴォータンはただ一人で立ち向かわないといけないわけです。
しかし、ヴォータンはその尊厳ゆえに、行動が制約される。
神々の長は、「ノブリス・オブリージュ」(高貴なるものの義務)に囚われて自由な行動はとれないわけです。

その「知」のよって、「苦悩」が発生し、「知」ゆえに対応が取れない。しかし、ヴォータンはその「知」ゆえにヴォータンと言えるわけです。ヴォータンはこのように閉塞された状態にあるわけです。
だからこそ、自分自身の「知」とは無縁なところから現れたもの(ジークフリート)に、閉塞感の打破を託すわけです。

ここで、映画「地獄の黙示録」に戻りましょう。

この「ワルキューレ」におけるヴォータンの役回りは、この「地獄の黙示録」におけるカーツ大佐(マーロン・ブランドが演じました。)の役回りと一致いたします。
それにドラマの構図も同じですよね?
この「地獄の黙示録」という作品もマーティン・シーン演じるウィラード大尉によって「語られる」カーツ大佐の苦悩のドラマなんですから。

では、カーツ大佐の苦悩とは?

彼もヴォータンと同じように、自らの「知」による閉塞感にいるわけです。
あるいは、その「尊厳」による閉塞感といってもいい。
高貴なるがゆえに、身動きがとれない状態であるわけですね?

高貴な精神であるがゆえに、アメリカ軍の欺瞞がわかってしまう。あるいは「正義」の欺瞞が・・・
ヴォータンの苦悩が他の神々に理解されなかったように、カーツ大佐の苦悩は高貴さのない他の軍人には理解されなかったわけです。

「ワルキューレの騎行」の音楽を聞いて、ヴォータンの苦悩を思い出した時、この「地獄の黙示録」という映画は、もっと奥深いものになるわけです。

ここで、ちょっと「深読み」気味で「地獄の黙示録」と「ワルキューレ」を結びつけたのは、他の「事件」に展開するためです。
オペラも映画も現実の世界と結びついていますよね?
現実を見る能力は、すなわち、オペラや映画を見る能力です。

私が考えるのは映画「地獄の黙示録」とサダム・フセインのイラクとの相関です。
実によく似ています。
カーツ大佐が作り上げた、死に彩られたグロテスクな大伽藍・・・これはサダム・フセインのイラクと全く同じです。一種禁欲的で精神的。サダム・フセインも、多分「正義」の欺瞞を感じていたのでしょうね。

サダム・フセインが幼少時、義父に虐待されていたのは有名ですよね?
その時、周囲の大人は何をやっていたのでしょうか?
何故サダム少年を助けなかったのでしょうか?

勿論、大人には大人の事情もあるでしょう。それはそれで致し方が無い点もないでしょう。現実世界ではしょうがないところもありますね?
ただ、そのような「君子危うきに近寄らず。」というスタンスの人間が「正義」を語ることは欺瞞そのものですよね?「イスラムの大義」とかのもっともらしい正義です。
このサダム少年が感じた欺瞞は、アメリカ軍がヴェトナムでやっていた行動を「正義」と呼ぶ欺瞞と同じです。

そして、「知」を持つ人間であるサダム少年も、カーツ大佐も、その欺瞞をだれよりも理解し、予感しているわけです。さながらヴォータンが神々の終焉を予感しているように。

しかし、「知」というものは本質的な解決にならない。
物事を見えすぎることは、行動に繋がらない。
だから、閉塞の中で終末の「恐怖」に震えることになってしまう。
カーツ大佐が「恐怖、恐怖」と口にしますよね?
それは、カーツ大佐にとって、自らが殺される恐怖ではなく、閉塞された未来への恐怖であるわけです。

だからこそ、「恐怖」を学ばなかった「愚か者」が必要なんですね。
それが「ワルキューレ」以降に登場する「ジークフリート」であり、
「地獄の黙示録」でのウィラード大尉であり、
サダム・フセインにとってのジョージ・W・ブッシュであるわけです。

彼らは品性は持っているけど、決して「知」の人ではない。「地獄の黙示録」でウィラード大尉の前任でカーツ大佐を処刑に行った人間は、逆にカーツ大佐の世界に取り込まれてしまいますね?
それは彼が「知」を持っていたからです。
中途半端に「知」があると、「知」ゆえの苦悩を共感できてしまう。
だからこそ行動ができない。

サダム・フセインのイラクで言うと、アメリカのクリントン前大統領がその役回りでしょう。クリントン大統領は、ジョージ・W・ブッシュ大統領より比較にならないくらい「知」を持っているわけです。まあ、クリントンさんも義父に虐待されていた幼少期をもっていますが・・・

ですから、クリントンさんにはサダム・フセインの発想がよくわかるわけです。
過去も同じ。持っている知力も同じ。

だからこそ、サダム・フセインにとっては、クリントンさんは「不必要」な人間といえるわけです。

「知」ゆえの「恐怖」と無縁な「愚か者」。「判断」することなしに「行動」できる実行の人・・・ヴォータンもカーツ大佐もサダム・フセインもこのような男を待ち望んでいるわけです。
実際、カーツ大佐もサダム・フセインも逃げることは簡単でしたものね。
むしろ彼らは殺されたかったわけです。

ヴォータンはその「知」で、あるいはカーツ大佐はヴェトナムで、あるいはサダム・フセイン少年は幼少時、極限の境遇にいたわけです。その極限の境遇は他人には理解されませんよね?
だからこそ、殺されたかった。単純な行動の人によって。決して裁かれることなく。

「殺されたいが、裁かれたくはない。」という心情。映画では「あのものたちは私を殺してもいいが、裁く権利はない。」というカーツ大佐のセリフは、極限を知らぬものが、極限状態の思考を云々することの欺瞞を言っているわけですね。

このような発想は日本の作品にも出てきます。
武田泰淳さんの「ひかりごけ」という実話を基にした小説もありました。
映画にもオペラにもなっていますよね?
北の海で遭難した船員が、死んだ船員の人肉を食べて生き延び、生還後に裁判にかけられる話です。
この「ひかりごけ」での裁判所における船長の主張も、実は「あなたたちに私を裁く権利があるのか?」というもの。
北の海で極限の状態にあった人間を、平和な人間が「裁く」ことができるのか?
船長の訴えはある意味においてもっともでしょ?

映画「地獄の黙示録」でも、ヴェトナムの最前線で極限の状態にあったカーツ大佐の行動を、前線から遠く離れたところにいる軍の幹部が「裁く」権利があるのか?
清潔な部屋で、キレイな指で、美食を楽しむ将校たち。彼らが「裁く」とは?

そのような光景は、オペラ「ワルキューレ」の第2幕でヴォータンがフリッカになじられるシーンを思いだしますよね?

そう考えると、「地獄の黙示録」は「よくある話」でもありますね?
最近の日本でもありましたよね?
「おまえたちが私を死刑にするのは勝手だが、裁く権利がない!」と言った人が・・・
大阪教育大学の付属小学校に突入した例の宅間被告です。

彼の心情はこのように「よくある、ありふれた」もの。
正義などを口にするには、宅間被告が少年時代虐待されていた時に、助けるのが先でしょう。

多分、宅間被告が少年時代に虐待を受けていた時に、知っていて見て見ぬ振りをしていた大阪の近所の人は、今相当に「後ろめたい」思いをしているはずです。
サダム・フセインはそのような民衆が持っている「うしろめたさ」をついて、大統領までのし上がったわけ。「パレスティナ人を助けよう!」と言いながら、決してパレスティナ人の子供を引き取ったり、病院を建設したりと実質的な支援はなにもやっていない後ろめたさ・・・そんな後ろめたさは自ら善良と自称するイラク人にはあったハズでしょう。
サダム・フセインは宅間被告よりも、スケールが大きいわけです。

ここで、宅間被告の行動や、映画でのカーツ大佐の行動、サダム・フセインの行動、「ひかりごけ」での船長の行動、フリッカになじられるヴォータンの行動・・・
私はその「正当性」についてコメントするつもりは毛頭ありませんよ。
皆さん「オレを裁くな!」って言っているわけですし・・・

勿論、今後も同じような事件は繰り返されるのでしょうが・・・・

色々と書いたので、今回あえて「深読み」をした理由もわかっていただけたかと思います。

ちなみに、「地獄の黙示録」でのウィラード大尉は、少しは「知」は持っています。
ウィラード大尉は「判断しない」という点が際立っているわけですね。「判断しない」つまり「裁かない」人であるわけです。

むしろウィラード大尉は「語る」ことを期待されている人と言えるんでしょう。

カーツ大佐を殺した後で、本をもって民衆の前に出てくるシーンはモーゼを連想させますよね?明らかに旧約聖書の引用です。
コッポラ監督は御丁寧に民衆に牛を生贄にした大宴会をやらしていますし・・・
旧約聖書のシーンそのままです。

ウィラード大尉はそれ以降はモーゼのように語っていくのか?
そういえば、コッポラさんは今回のイラク侵攻についてどう語っているのかな?
彼には語る義務があるはずなんですが・・・

そもそもマスコミの方々は、なぜコッポラさんにインタビューしないんだろう?
「地獄の黙示録」が20世紀で最も重要な作品と言われるのは、まさに「ありふれた」テーマを展開しているからなんでしょう。
それだけ、人間の普遍的な心理を描いているわけです。
実際に、人は同じようなことを何回も繰返しているでしょ?

コッポラさんが、この「ワルキューレの騎行」を使った意図としては、必ずしも、このような「知による閉塞」を意図しているのではなかったのかもしれません。最初に書きましたが、この音楽は「効果音」としても十分な効果をあげている。
しかし、その作品のテーマとして、今回の「地獄の黙示録」も「ワルキューレ」も、極限の知をもつものだけが直面する閉塞を扱っているわけ。
だからこそ、「一部」の人間にしてみれば、「ありふれた」テーマといえるわけですし、そんな「一部」は、どんな時代でも、どんな場所にもいたりするもの。そして、芸術家とは、その「一部」の中の存在。
だからこそ、20世紀でもっとも重要な映画といえるのでは?
単にヴェトナム戦争に関わる問題をテーマとしているのなら、普遍性はないでしょ?
どんなジャンルにおいても、偉大な作品は、常に人間の普遍性を表現しているものなんですよ。

(終了)
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発行後記

ちなみに、私はサダム・フセインのことを考えると16世紀イタリアのチンチ伯爵のことを思い出します。チンチ伯爵についてはタルヴェニエ監督の「パッション・ベアトリス」でも出てきますよね?
ゆるぎない悪は、小市民的な善良さよりも、はるかに倫理的基盤を必要としている。
そのことは確かでしょう。
私は正当性についてコメントしませんが・・・
R.10/5/18
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-02.html
2:777 :

2022/08/22 (Mon) 15:58:26

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「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
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追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
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