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Visconti Death in Venice 動画
https://www.bing.com/videos/search?q=Visconti+++Death+in+Venice&FORM=HDRSC3
「映画の中のクラシック音楽」
配信日 03年11月11日
取り上げた映画作品 ヴェニスに死す
制作 71年 イタリア
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
原作 トーマス・マン
使われた音楽 レハール「メリー・ウィドウ」の音楽
使われた意図 スラブの雰囲気
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-11/03-11-11.html
このメールマガジンでは、サンプル配信を含めるとヴィスコンティ監督の作品を4回取り上げております。「山猫」「熊座の淡き星影」「家族の肖像」、そして前回の「白夜」です。
前回予告した通り、またヴィスコンティ作品ということで、今回の文章では「ヴェニスに死す」を取り上げましょう。
御存知のようにドイツの文豪であるトーマス・マン原作の作品ですね。
この映画では、最初の部分で、フランツ・レハール作曲のオペレッタ「メリー・ウィドウ」の音楽が使われています。
今回はその「メリー・ウィドウ」を使った意図などについて考えてみたいと思います。
しかし、このメールマガジンを御購読されておられる方は、「ヴェニスに死す」における「メリー・ウィドウ」の使用の意図と聞いて「???」となってしまうでしょ?
何と言っても、映画「ヴェニスに死す」のクラシック音楽を語るのでしたら、映画の中で使われているマーラー作曲の交響曲第5番の第4楽章のアダージェットについて触れて、「この主人公アッシェンバッハは、実はマーラーを意味しているんだ!」書くのが正統的。
このメールマガジンを読まれておられる方も、そのように書いてあるような文章を何回も読まれたことがあると思います。
私だって読んだことがありますし、知り合いからその薀蓄を、得意げに聞かされたこともありますよ。
まあ、プロの音楽評論家とか映画評論家は、そのような誰でも言っていることを書かないと原稿料がもらえないんでしょう。やっぱり読者のレヴェルに合わせないと商売にはならないんでしょうね。あるいは自称「権威ある音楽愛好家」さんは、そのようなことを書いたり、言わないと格好が悪いと思っているんでしょうね。
しかし、私はプロじゃないので・・・そのようなことを書くつもりもありません。
「この映画の主人公のグスタフ・フォン・アッシェンバッハは、実はマーラーなんだ!」と聞かされ、たとえ納得しても、映画を見るに際して面白さが増えるわけでもないのでは?
ということで、今回のメールマガジンではレハール作曲のオペレッタ「メリー・ウィドウ」の音楽が使われた意図を中心に考えてみます。
勿論、例のマーラーのアダージェットの意図についても触れます。触れないと寂しいし・・・でしょ?
映画の中では、この「メリー・ウィドウ」の音楽はホテルのロビーで演奏されています。食事の前のノンビリとしたくつろぎの時間にホテルの座付きの楽団の四重奏で生演奏されています。
しかし、随分ヘタな演奏だなぁ・・・
それに、単に演奏がヘタというだけではありません。そもそもオペレッタ「メリー・ウィドウ」なんて上品な作品と言えるでしょうか?
食事の前のリラックスタイムの音楽ですので、例えばベートーヴェンの弦楽四重奏なんて、いくらなんでもシリアス過ぎるでしょう。ブラームスとか、いわんやシューマンも・・・
しかし、この手のシチュエーションとしては、もっと的確な音楽があるはずです。
例えばモーツァルトのオペラのさわりを編曲したものとか、ヴェルディのオペラのさわりの編曲とか・・・
モーツァルトもヴェルディも覚えやすいメロディーが沢山あります。それを編曲したものだって沢山でているでしょ?
食事中にモーツァルトのオペラの「さわり」を演奏することは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でもやっているくらいなんですから、実にポピュラーなこと。
それに、どうみたって、レハールより、モーツァルトやヴェルディの方が上品ですよ。
違いますか?
では、何故にレハールの「メリー・ウィドウ」なの?
「メリー・ウィドウ」は決して上品な曲ではありませんよね?しかし、この「メリー・ウィドウ」の音楽を聴くと、何か懐かしい気分になります。
ちなみに、オペレッタ「メリー・ウィドウ」のあらすじは以下のようなもの。
東欧のポンテ・ネグロの外交官ダニロ・ダニロヴィッチ(ベタベタの東欧くさい名前)と、彼とかつて恋仲だった未亡人(ウィドウですね)ハンナ・グラヴァリがパリで出くわし、なんだかんだとあって結局は結婚する話です。
ストーリーが別にどうということもありません。美しいメロディーの楽しいオペレッタと言えるでしょう。
東欧出身の男女がパリで繰り広げる、お気楽な恋の駆け引きなんですからね。
「メリー・ウィドウ」の音楽が聞き手を懐かしい気分にさせるのは、パリにいる東欧出身者が故郷を思う気持ちが感じられるからなんだと思います。
「おお!懐かしい我がふるさと!」というわけです。
そして、どことなく、スラヴの音感が感じられます。スラヴの音感と言っても、プッチーニ作曲の「蝶々夫人」における日本のメロディーや、「トゥーランドット」での中国のメロディーのように、西欧人が考える人工的なものでしょう。
「スラブそのもの」というよりも、「スラブっぽい」雰囲気といえるもの。
しかし、この「メリー・ウィドウ」の音楽には、ラテン系でもない、ゲルマン系でもない、スラヴ系のちょっと田舎っぽい雰囲気がありますよね?
そして、映画においては、その「メリー・ウィドウ」の音楽のヘタな演奏を、うっとりと聴く人も映している。
どうやらこのホテルにはスラヴ人が多いようだ・・・
だから、ホテルとしては、お客へのサービスとして「メリー・ウィドウ」の音楽の生演奏をしているのでしょう。
まあ、このようなサービスは、日本からの観光客向けに「蝶々夫人」のメロディーを演奏するようなものと見ればわかりやすいでしょ?
実際に、美少年タジョもスラヴ系ですよね?この映画「ヴェニスに死す」ではタジョがスラヴ系であることをトーマス・マンの原作以上に強調しています。話される言葉もそうだし、服もスラヴ系のもの。
タジョが持つスラヴの雰囲気を強調して表現することについては、後で考えてみます。
ここではこのホテルについて考えてもう少し見ましょう。
この映画をご覧になった方はヘンと思いませんでしたか?
だって、グスタフ・フォン・アッシャンバッハという高名な音楽家が宿泊しているホテルにスラヴ人が一杯なんて・・・
この「ヴェニスに死す」の時代背景は20世紀初頭でしょう。
身分とか、民族がまだまだ隠然たる影響力を持っていた時代ですね。
21世紀の今だって、勿論ありますよね?
グスタフ・フォン・アッシャンバッハなる貴族の名前を持つ、有名な音楽家・・・
そんな人が、何故にスラヴ人で一杯のホテルに?
まず、このホテルですが、多分、最高級のホテルではないんでしょう。
従業員の質も悪そうだし、妙な芸人も出入りするし、第一、有名な世界的な音楽家であるアッシャンバッハの顔を知っている宿泊客がいない。
つまり客スジはよくないわけです。
だからドイツ語が聞かれない。
イタリアのヴェニスのホテルですので、ご当地のイタリア語は当然として、あと社交界の公用語のフランス語も聞かれます。あと当然として英語、そして前述のスラヴ系の言葉も聞き取れます。
しかし、ドイツ語は聞かれないんですね。
現在でも、イタリアの観光地はドイツ人が多い。英語のパンフレットより、ドイツ語のパンフレットの方が上においてあるくらいです。
にもかかわらず、このホテルではドイツ語が話されない。
つまり、このホテルは最高級のホテルではないことが分かりますよね?
最高級ではないから、スラヴ人が多いし、「メリー・ウィドウ」という安っぽい音楽が流され、アッシャンバッハという有名音楽家を知らないお客たちとなる。ドイツ人も敬遠するのかな?
逆に言うと、アッシャンバッハは、だからこそ、このホテルを選んだのでしょう。
「自分の顔を知っている人と一緒はイヤ!」というわけなのでは?
そもそも静養に来ているわけですので、気を使いたくはなかったのでしょう。
こんなところから、アッシャンバッハの人間嫌いな性質が見えてくるわけです。
まあ、わざと一流のホテルを避ける配慮は、貴族そのものであり、有名人であるヴィスコンティも意外に実践者なのかも?
「メリー・ウィドウ」のヘタッピな「ヴィリアの歌」に「引っかかる」と、このようなことも見えてくるわけです。
マーラーがどうのこうの・・・ということで納得しても面白くないわけです。
「メリー・ウィドウ」でここまで「引っ張った」ので、いよいよマーラーの「アダージェット」について触れないとね。
このアダージェットは美しい音楽です。誰だってそう思うでしょ?
しかし、どんな風に美しいの?
この映画「ヴェニスに死す」で、アダージェットが使われる場面を思い出して見ましょう。
ミュンヘンにおける、芸術談議の中でのピアノによる演奏は別として、舞台をヴェニスに移してからの、この音楽の使い方には決まりがあります。
船に乗っている時、海を見つめている時、運河沿いにいる時・・・そのように「水」のイメージと強く結びついています。
このアダージェットのメロディーが始まってから終わるまで、必ずこのような「水」にかかわる映像が入っています。
だから、この映画においては、アダージェットは水のイメージの象徴として使われているわけです。
ドビュッシー等の印象派の音楽における水のイメージが、色彩感覚と結びついていたのに対し、この映画のアダージェットが示している水のイメージは心理的で象徴的です。
「水」が集まれば「海」になる。だから「海」のイメージと捉えてもいいはずです。
ちなみに「海」はフランス語で「MER」ですね?多分同じ発音で「MERE」という言葉もあり「母」となる。つまり「母なる海」というわけです。
ヘルマン・ヘッセの小説「知と愛」(原題「ナルチスとゴルトムント」)の最後で「愛」の人ゴルトムントが、自らの死の床で、「知」の人ナルチスに向かって「君は母がない。だから死ぬことができない。」と言いますよね?
「母がないから死ぬことができない。」という言葉は、「海がないから死ぬことができない。」と言えますよね?
何か「風が吹けば桶屋が儲かる。」のようになってきましたが・・・
ここでは論理的に思考するというより、感覚的に感じていただければ結構です。
人は「母から生まれ、母に還る」ように、すべての生物は「海から生まれ、海に還る。」わけです。だから「海がないと死ぬことができない。」
この映画の最後のシーンで、タジョが海を指し示しますよね?
このようなシーンはトーマス・マンの原作にはありません。つまり監督のヴィスコンティは「海への回帰」ということを原作以上に強調しているわけです。深層心理的に母への回帰にも繋がっているかもしれませんが・・・
「ヴェニスに死す」の原作者トーマス・マンの初期の作品に「ブッテンブロークス家の人々」という長い小説があります。その中に「心が疲れた人間は海の単純さを愛する。」と言った言葉があった記憶があります。
海を見つめるアッシャンバッハのまなざしは、このトーマス・マンの言葉に繋がって行きますよね?
アダージェットの持つ単純な美しさ。この音楽が心理的な海のイメージへと繋がることは容易に聞き取れるはずです。
そしてトーマス・マンの中期を代表する作品というと、この「ヴェニスに死す」と並んで「魔の山」という本当に長い作品があります。
この「魔の山」の映画化をヴィスコンティは計画していて、彼の死によって結局は不可能になったことは皆さん御存知のとおり。
この「魔の山」という小説には「マダム・ショーシャ」という謎めいたスラヴ系の女性が登場いたします。死の香りを漂わせたスラヴの女性マダム・ショーシャは「魔の山」の主人公ハンス・カストルブを官能と死に誘うわけです。
と言うことで、「メリー・ウィドウ」から始まったスラヴ話に帰ってきました。
別に意味もなくウロウロとしていたわけではありませんよ。
スラヴ話に帰ってきたのは、この「魔の山」のマダム・ショーシャと「ヴェニスに死す」のタジョは、同じキャラクターだということです。
官能と死。
それはミュンヘン時代のアッシャンバッハに欠けていたものでした。
その官能と死を受け入れることによって、アッシャンバッハの芸術は完成し、人生は終結するわけです。
ヴィスコンティは「メリー・ウィドウ」の音楽を使って、タジョのスラヴの雰囲気を強調することによって、タジョとマダム・ショーシャとの関連を強調したわけです。
また、マーラーのアダージェットを「海」のイメージと結びつけることによって、人間が還っていく海を、そして死への憧れが表現されているわけです。
運河街は死に彩られているようです。
今回の「ヴェニスに死す」や、ゴルンゴルドのオペラでも有名な、ローテンバックの「死都ブリュージュ」、日本でも福永武彦の柳川を舞台にした小説「廃市」なる作品もありますよね?
運河街を舞台にして、死の匂いを漂わせたドラマが展開される作品は多いでしょ?
ヘタッピな「ヴィリアの歌」がスラヴの雰囲気を経由して「死」に通じ、優美な「アダージェット」は「海」のイメージを通じて「死」に通じる。結局はどちらもアッシャンバッハを死へといざなう音楽というわけです。
海の上でスラヴの少年タジョが指し示すところ、その彼方にアッシャンバッハは還って行ったというわけです。映画の最後のシーンでは、ロシア風の挽歌が流される。
それらの音楽や、スラヴ人であるタジョ,そして海・・・ヴィスコンティにとってはすべて同じ意味を示しているんでしょうね。
(終了)
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発信後記
そういえば、この「ヴェニスに死す」でのホテルはセルジオ・レオーネ監督の超大作「ワンス・アポン・ア・アイム・イン・アメリカ」の例のうっとりするシーンで使われたそうです。しかし、よく見ても分からないなぁ・・・
R.10/5/18
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「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
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追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
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