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2022/08/22 (Mon) 12:10:18
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Visconti Ludwig 動画
https://www.bing.com/videos/search?q=Visconti+++Ludwig&FORM=HDRSC3
「映画の中のクラシック音楽」 04年8月24日
取り上げた映画作品 ルードヴィッヒ
制作 72年 フランス=イタリア=西ドイツ
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
使用された音楽 ワーグナー作曲「ジークフリート牧歌」
使用された意図 室内劇としての特色,芸術創作の不思議
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-08/04-08-24.html
ヴィデオなどを見ていていたりすると、見ている作品とは別の作品を思い出すことがあります。「こんなシーンは、あの時に見た映画にもあったなぁ・・・」と言った感じですね。
有名なアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」で知られている日本のガイナックスというところが製作した「おたくのヴィデオ」なるものを見ていたら、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」と、作品中のエピソードが実によく似ているのにビックリしてしまったことがあります。
「ルードヴィッヒ」での主人公である19世紀バイエルンの王様ルードヴィッヒ2世と、「おたくのヴィデオ」などで描かれている「おたく」と称される人たちの行動スタイルが、笑っちゃうほどそっくりなんですね。
例えば、
1.キャラクターグッズを収集したりする。
2.収集したキャラクターグッズをやたら部屋に飾ったりする。
3.世の中のことを、やたら自分の好きな作品に関係付けたがる。
4.話し相手も自分の好きな作品を好きだと思ったら、熱く語りたがる。
5.自分の彼女をファンの集いのようなところに連れて行こうとする。
6.生身の女性が苦手。
7.風呂に入らない。
8.現実逃避志向。
9.夜遅くまで同好の士と集まって、やがて雑魚寝。
10.おたくの夢を実現した「おたくランド」の建設を夢見る。
まあ、ルードヴィッヒも今風の言葉を使えば「濃いオタク」になるんでしょう。
キャラクターグッズを集めたり、部屋に飾ったりするくらいならまだしも、ルードヴィッヒはもっと「濃い」人のようです。
おたくの人とは会話も注意する必要がありますよね?まあ、凶暴性はないので、その点は安心ですが・・・
オタクな人のオタク話に相槌を打つ場合でも、それがたまたま「ツボ」に、はまったりすると、オタクは急に目が輝きだす。「コイツぅ~。このよさをわかっているじゃないか!」とでも思うのでしょう、熱く熱く語ってくれるわけ。こっちはたまたまの相槌だったのに・・・と思っても熱くなったオタクを止めることなど不可能。
映画「ルードヴィッヒ」でもよく似たシーンがあったりします。分け分からないオタク話を聞かされる側としては、「しまった~、こんな話を振るんじゃなかった・・・藪へびだったかぁ・・・」と反省することになる。皆さんもそのような反省をされたこともあるでしょう。
その他「ルードヴィッヒ」という映画ではルードヴィッヒ君は風呂に入らない。
まあ、実際には入浴していても、映画ではそんなシーンは無理に入れる必要はないでしょうね。しかし、どうも歯を磨かないようだし・・・フロにもあまり入らないんじゃないの?
やっぱり一般人とは違うようだ・・・ということで、オタクの夢を集めた「オタクランド」を建設を夢見るわけでしょうね。
これが日本の一般のオタクだったら、「オタクランド」の建設を夢見るだけで終わってしまう。しかし、さすがリッチな国バイエルンの王様は、オタクランドを本当に実現させてしまう。
感心するやら、呆れるやら・・・
このようなことを書くと反論されるでしょうね?
この「ルードヴィッヒ」という映画は、イタリアの名門貴族出身のルキノ・ヴィスコンティがその絢爛豪華な美学を結集させた作品だ!
日本の小市民のオタクを持ち出すなんてケシカラン!
4時間もかかる壮大な作品をなんてこと言うんだ?!
しかし、この「ルードヴィッヒ」という映画・・・意外にも絢爛豪華ではないわけです。むしろ「こじんまり」した映画と言った方がいい。勿論、主人公のルードヴィッヒはバイエルンの王様なので、豪華さはあります。しかし、映画「ルードヴィッヒ」では、そのような絢爛豪華なところは可能な限り排除されているんですね。
具体的に見てみましょう。
1.戴冠パレードがない・・・映画の冒頭はルードヴィッヒの戴冠のシーンです。
まあ、勿論のこと豪華です。しかし、本来はその後に戴冠パレードがあるはずでしょ?
馬車に乗って民衆の前にお披露目。そっちの方が豪華ですよね?そんな豪華なシーンがないことはヘンですよね?
2.舞踏会シーンがない・・・ルードヴィッヒと一時婚約していたゾフィーがこんなことを言います。「彼は舞踏会でも私を置き去りにしたわ!」・・・どうやら王室主催の舞踏会もあったようです。これは当然ですよね?
しかし、映画では何故にそんな王室主催の舞踏会のシーンがないのでしょう?そのシーンだったら豪華絢爛なこと請け合い。ヴィスコンティは63年の「山猫」において豪華絢爛な舞踏会シーンを作りましたよね?何故に「ルードヴィッヒ」ではやらないの?
3.戦闘シーンがない・・・主人公のルードヴィッヒ2世はバイエルンの王様ですので、本職は政治家と言えます。だから映画においても戦争についての言及が多い。しかし、戦闘シーンは出てこない。美しい軍服を着て威風堂々を戦争すれば、絢爛豪華なシーンが作れますよね54年の作品「夏の嵐」ではそんな感じのシーンもありました。
4.オペラのシーンがない・・・この「ルードヴィッヒ」という映画では、作曲家のワーグナーも主要登場人物扱いです。当然オペラについての言及も多い。
しかし、驚いたことに実際のオペラ上演のシーンがない。それこそ54年の「夏の嵐」ではオペラ上演のシーンが冒頭でした。豪華な劇場でのオペラの上演シーンを上手く入れれば、絢爛豪華になること必至。
というか、特に意識せずに映画を作っていれば、自然とオペラ上演のシーンは出て来るはずでしょ?オペラのシーンがないということは、よっぽどの配慮があることがわかるわけです。
音楽の上演シーンで唯一出てくるのは、ワーグナーが妻コジマの誕生日のプレゼントとして作曲した小品「ジークフリート牧歌」の演奏シーンのみ。この「ジークフリート牧歌」という曲は、ワーグナーの全作品中で絢爛豪華とは一番無縁の曲ですよね?
今回のメールマガジンで取り上げる曲は、この「ジークフリート牧歌」の意味について考えてみることにいたします。別の言い方をすると、なぜに、オペラの上演シーンがなくて、「ジークフリート牧歌」の演奏シーンがあるのか?そんな視点です。
この「ルードヴィッヒ」という映画では、オペラのシーンがないだけでなく、折角建てたバイロイト劇場も出てきません。
バイロイトの威容でも映せば、もっと豪華になるでしょうに・・・どうしてそうしないの?
5.カメラワーク・・・絢爛豪華なシーンを作るにはどうしたらいいでしょうか?
美しい身なりをした大勢の人を上から俯瞰するようなアングルで撮影することですよね?例えば映画の冒頭の戴冠式のシーン。絢爛豪華さを強調するつもりだったら、もっと上からのアングルで撮影するでしょ?
あるいは、全く逆で、建物の豪華さを強調するつもりなら、下の方から見上げるアングルで撮影して、その建物の高さを強調することもできますよね?この「ルードヴィッヒ」という映画では、上の方から俯瞰するアングルで撮影されたシーンがほとんどありません。むしろ実際の人間の目線の高さに拘っているわけです。
上の方から俯瞰するアングルでの撮影というのは1回しかないわけです。それはルードヴィッヒが拘束され連行されるシーン。そんなシーンは絢爛豪華とは行きませんよね?あるいは、建物を下から見上げるシーンはあっても、スグに人間の目線の高さに戻ってしまう。かなり人間の高さの目線に拘りがあることがわかります。
これだけ書いたので、この「ルードヴィッヒ」という作品は、ルキノ・ヴィスコンティがその「絢爛豪華なヴィスコンティ美学を集大成させた作品」とは、とても言えないことがわかるわけです。むしろ74年の「家族の肖像」のような室内での会話劇のスタイルに近いんですね。
ヴィスコンティが意図的に排除したシーンをつなぎ合わせれば、それこそ絢爛豪華な映画が簡単に作れてしまうわけです。
悲しいかな私のように日本の平民だと、この「ルードヴィッヒ」という映画は豪華絢爛にも見えたりする。しかし、バイエルンの王様を主人公の映画としてみると、異様なほどに質素なスタイルと言えるわけです。
このようなこじんまりとした会話劇という特色が、「ジークフリート牧歌」という選曲とも強く関わってくるわけです。ご存知のようにこの「ジークフリード牧歌」という曲は20人程度の演奏者で演奏する20分程度の小品。妻コジマのためのプレゼントなんだから大規模な曲は不釣合いですしね。むしろ劇的効果を押さえ、緻密な音楽を目指しているわけです。今まで書いてきたような、映画「ルードヴィッヒ」が持つ緻密でこじんまりとした特質と重なっているわけですね。
作曲家ワーグナーとルードヴィッヒが主要人物のこの映画。ワーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」の初演のシーンとか「ニーベルングの指環」の上演シーンの方が、豪華絢爛な効果を生むというだけでなく、ドラマの進行にも有効でしょ?
はっきり言って、「ジークフリート牧歌」の演奏シーンなんて、ドラマの進行に必要ではありませんよね?不必要なシーンと言えるくらいです。それなのに、「ジークフリート牧歌」のシーンがある。
ワーグナー作曲の多くのオペラの上演シーンを敢えて省き、最もこじんまりで緻密な作品の上演シーンを入れた意図を考えることで、ヴィスコンティがこの「ルードヴィッヒ」という作品に託した思いが浮かび上がってくるように思います。
ここで、カメラワークに戻ってみましょう。
前にも書きましたが、この「ルードヴィッヒ」でのカメラワークは人間の実際の目線に拘っている。画面の高さだけでなく、横幅もそう。あまりワイドに取ったりすることもなく、現実の人間が見る程度の横幅なんですね。
つまりヴィスコンティとしては映画を見ている観客が、このルードヴィッヒの半生を一緒に体験する気持ちになって欲しいわけです。豪華絢爛なバイエルンの王様というより、オタク道に身を捧げた青年の成れの果て・・・くらいのニュアンスでしょうか?
私はこの「ルードヴィッヒ」という映画を何回も見ましたが、作り手のヴィスコンティが主人公のルードヴィッヒに共感を寄せているのか?突き放して皮肉っぽく見ているのか?見るたびに違ったりします。勿論、両方の視点もあるのでしょう。
しかし、実際の人間の目線を重視したカメラワークとあわせて考えれば、監督のヴィスコンティとしては、観客としてもルードヴィッヒと一緒に行動しているつもりで考えてほしいのでしょうね。
ルードヴィッヒの行動を上から裁くわけでなく、勿論、下から崇めるわけでなく・・・等身大の一青年として見て欲しいのでしょう。
だからこそ、この映画「ルードヴィッヒ」では、かつてルードヴィッヒと一緒に行動していた人の証言のシーンが多く出てきます。観客も同じように証言するつもりになってほしい・・・ヴィスコンティはそう考えているのでは?
あなたならどう証言するの?
この「ルードヴィッヒ」という作品の目線は、「大好きな親戚のルードヴィッヒお兄さんと一緒に行動している少年」の目線と見れば捉えやすいわけ。
言うまでもなくミュンヘンのヴィッテルスバッハ家とミラノのヴィスコンティ家は、どこかで血がつながっているはずです。それに個人的にもルードヴィッヒとルキノ・ヴィスコンティは共通項が多くありますからね。オペラのような芸事へのめり込んだりするオタク的性格。それにゲイだし・・・
「大好きな親戚のお兄さん」を見守る目線が横溢している・・・その共感がかなりあるようです。「ああ、ボクもこんなこと大好きだ!よくやっちゃうよ!こんなこと!」
と、同時に「ちょっと違うじゃないの?」とも思っている。
このルードヴィッヒお兄さん・・・一歩前に進むことをしない。その点をルキノ少年は「違うんじゃないの?」と思っている。
芸術家に援助するのは、結構なこと。しかし、自分でも何かやってみたら?そんな視点が出て来る。
「そんなに政治がイヤなら廃位なさっては?」と俳優に言われ激昂するルードヴィッヒ。しかし、その意見は正論でしょ?本来の仕事である政治に打ちこむならよし。しかし、そんなに政治がキライなら、何故に王という称号に拘るのかな?
廃位なんて現実的には難しいということも勿論あるでしょう。しかし、最後には幽閉されちゃうわけだし・・・折角幽閉されたのなら、オペラの台本でも書いてみればいいのに・・・せっかく時間が一杯できたのだし。
「これほど芸術が好きなら、自分で何かをやってみればいいのに・・・」
そんな、ちょっと突き放した視点が出てくるわけです。それは少なくともルキノ・ヴィスコンティだったら言えることですよね?彼だって色々とあったはずです。
そんじょそこらの貴族ではないわけですから。
「現実は汚い!」と言うだけで何もしない・・・まあ、これもある種のオタクの特色ですね。だから作品中唯一の上からの俯瞰するシーンと言えるルードヴィッヒが連行されるシーンでは「あ~あ、だからボクが前から言っていたじゃないか・・・」といったニュアンスになるわけ。
オタクというと、非常に面白い。
オタクが多く存在するところで見てみるとスグにわかるのですが、オタクの顔は世界共通のようです。一目見てわかるわけ。黄色人種も白人も黒人も、オタク顔は共通なのが不思議。まあ、どんな分野でも国境を越えて連帯できればすばらしいこと。
しかし、民族を超えて共通するということは、時代を超えて共通することが予想されますよね?
実際にルードヴィッヒの行動は、日本のオタクとそっくりだし・・・
オタクというと作品に共感するといっても、特色があるようです。どうも特定のキャラに入れ込む傾向があるような気がします。それこそ「セーラームーンの○○ちゃんがいい!」そんなスタイルの発想のようです。このメールマガジンで私がやっているように「この作品の音楽の使用意図はなんだろうか?」などとはあまり考えない。大好きなキャラに入れ込むわけ。
では、「濃いオタク」のルードヴィヒ君は、大好きなワーグナーのオペラの、どんなキャラに入れ込んでいるの?まさかルードヴィッヒはワーグナーの世界観とか、作曲技法とか、セリフの特徴とかが好きだったわけではないでしょ?やっぱりオペラの中の特定のキャラが好きだったんじゃないの?
従姉妹のエリザベートとのシーンでは「トリスタンとイゾルデ」の音楽が流されます。不倫の愛に身を焦がすトリスタンに自分を重ねていることもあるでしょう。
しかし、よく出て来る音楽として「ローエングリン」の「エルザの夢」の部分があります。弦楽器群を分割して演奏される「美しい」音楽ですね。
この「ローエングリン」のエルザは、どちらかというと「恋に恋する」少女。
「いつか白馬に乗った王子様が私の元にやってきてくれるわ!」そんな感じ。オペラでは「白馬」ならぬ「白鳥」に乗って謎の騎士ローエングリンがエルザのピンチを助けに来てくれるわけです。
エルザはいつも「待っている」女性なんですね。
「もうっ!早く助けに来てよ!」
ルードヴィッヒの発想のスタイルは、このローエングリンのエルザの発想スタイルに近いものがあります。
自分から現実と関わるよりも、助けを待つ発想。だからルードヴィッヒはこのエルザに自分自身を重ねていた・・・ヴィスコンティの音楽の付け方はそのような意味があるようです。
しかし、それだけではダメなんじゃないの?
ルードヴィッヒお兄さんのオタク趣味には理解を示す、ルキノ少年も、この点はお兄さんに冷たい。芸術はきれいなだけでは存在しないわけ。
映画においては作曲家ワーグナーの素行の悪さが強調されています。あるいはルードヴィッヒが目を掛けた俳優ハインツもそう。ルードヴィッヒから貰ったものを売り払ってしまう。両者とも素行が悪いわけ。しかし、俳優ハインツは名優であるし、作曲家ワーグナーは大天才です。創作なんて奇麗事ではない。創作にはそれなりの覚悟が必要でしょ?毒々しい芸術家の世界にも飛び込めず、かといって高貴なる凡人にも満足できない・・・これではちょっとねぇ・・・
「ジークフリート牧歌」は、あの素行の悪いワーグナーの作曲です。「ジークフリート牧歌」という曲の持つ高貴さ、品格、愛情の深さ・・・それらを疑う人はいないでしょう。
普段の生活がしっかりしているから、すばらしい芸術ができるわけではない。
「ジークフリード牧歌」の音楽の性格と、この映画で描かれた作曲者ワーグナーの性格を・・・その隔絶した「違い」に想いを致せば、奇麗事ですべて解決するものではないことが誰だってわかるわけ。
「ジークフリード牧歌」の音楽の高貴な性格は、芸術創作の不思議を、そして室内楽的スタイルは映画「ルードヴィッヒ」の表現スタイルである室内劇的性格を象徴している。
確かにこの「ジークフリート牧歌」の演奏シーンは音楽史上の史実でしょう。間違いがあるわけでない。しかし、ドラマの進行上は不適切な選択といえます。ドラマの進行上は書き間違いのシーンといってもいい。
この「ルードヴィッヒ」は完全版で4時間の作品。「マトモ」なプロデューサーならカットしてもっと短くしようとするでしょ?そのカットするシーンの最有力候補としてこの「ジークフリート牧歌」の演奏シーンを考えるのが自然じゃないの?
ご存知のようにこの「ルードヴィッヒ」という作品は、3時間版もあります。たしかこのジークフリート牧歌の演奏シーンはその3時間版にも入っていました。
ドラマの進行上は不必要であっても、作品としては絶対に必要なシーンなんだとヴィスコンティが考えていたことがわかります。
「ジークフリート牧歌」の演奏シーンは、ドラマの進行上は書き間違いでも、より高い次元においては絶対に必要なんですね。このシーンはヴィスコンティがヘボ作者じゃないことを証明しているわけです。
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発信後記
このメールマガジンも次回が最終回です。
といっても次回はエピローグ的な文章にいたします。
ちなみに、オタクな人は勝手にオタクをしていればいいと思うのですが、フロには入ってほしいな・・・と思うときがあります。
どうもその種の人がいるところは臭ったりしますよね?私は臭いで気がつくことがあります。
映画「ルードヴィッヒ」を見ていてもそんな点が気になったりするわけ。
「アンタもいい加減そんな趣味から足を洗って、夜になったら歯を磨いてフロに入って寝なさい!結婚して、子供でも作ったら?」と、世話を焼きたくなったりする。ルードヴィッヒの母親の気持ちもよくわかる。
まあ、最後には湖に入るわけですから、フロの代わりなのかな?
R.10/5/1
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2022/08/22 (Mon) 13:17:40
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「映画とクラシック音楽の周囲集」_ 映画・音楽に関する最も優れた評論集
07年7月から07年12月まで配信しておりました メールマガジンのバックナンバーのサイトです。
もう配信は全巻終了しております。
07年7月から07年12月まで配信していたメールマガジン「映画とクラシック音楽の周囲集」のバックナンバー
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03年9月から04年8月まで配信していたメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」のバックナンバー
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「複数回取り上げた監督&原作者」・・・監督別でのリストです。
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「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
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追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
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オペラの台本について・・・興味深いオペラの台本についての文章のリスト
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(上記のメールマガジンの文章と基本的には重複しております。)
最新追加文章 10年8月7日追加 ゲーテの「ファウスト」について
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「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
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