-
1:777
:
2022/08/22 (Mon) 10:13:05
-
08年9月30日
取り上げた作品 フランダースの犬・・・例の有名な童話です。
作者 ウィーダ
引用されている芸術家 画家のルーベンス
今回のテーマ 現実人生と芸術人生の相克
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-12/08-09-30.html
07年の末の頃に、茨城県の方で、事件がありました。なんでも痴呆症のおばあさんが徘徊してしまい、夜の寒空の中にいたところ、たまたま老犬がとおりかかり、その老犬と抱き合っていたために、命を取り留めたとのこと。しかし、その老犬も、おばあさんの命を助けようと思って一緒にいたわけではないでしょう。
エサでももらえるかな?と思って人間に近寄って言ったら、何ももらえなかったけど、まあ、めんどうなので、そのままいた・・・そんな感じなんでしょうね。犬には犬の行動原理がありますよ。
なんでも、その犬の名前はウシというらしい。模様が牛とよく似ているので、そんな名前になったんだそう。しかし、その犬がウシという名前でヨカッタよ。もし、その老犬の名前がパトラッシュという名前なら、おばあさんはその老犬とともに寒空の下でお亡くなりになっていたでしょう。まあ、日本中にニュースとなって広まってしまうでしょうね。
いや!世界中に広まるのかな?
とは言え、その「フランダースの犬」の話が好きなのは、世界中で日本人だけなんだそう。
日本人はどうして、その「フランダースの犬」の話が好きなのか?その物語の舞台となったベルギーの人がドキュメンタリー映画を作ったらしい。
その人いわく、「日本人には『滅びの美学』があって、そのせいで、ネロやパトラッシュの『滅び』に共感するんだ!」そんなご説のようです。
しっかし、『滅びの美学』って・・・
アクの強い文章が並んでいるこのサイトを読んでおられる皆様の中にも、子供の頃に「フランダースの犬」の本なりアニメを見て号泣なさった方もいらっしゃるでしょ?あまりに印象に残っているので、パトラッシュという名前や「フランダースの犬」という文字を見ただけで条件反射的に涙ぐむ人もいるかも?こうなると、「フランダースの犬」だか「パブロフの犬」だかわからないくらい。まあ、それくらいに日本人は、あの「フランダースの犬」が好きのようです。
この点は、お読みになっておられる方だけでなく、書いている、この私も・・・は、さておき、あのラストにおいて強いエモーションを受けた方にしてみれば、それを『滅びの美学』と言うには、抵抗があるのでは?
そもそも、子供は『美学』と言われてもピンと来ない。
日本人に『滅びの美学』があることには、異論がないけど、「フランダースの犬」と『滅びの美学』を結びつけるのには、釈然としない・・・そんな方が多いのでは?
じゃあ、世界中で日本人だけが「フランダースの犬」に反応するのはなぜ?
ということで、私がアタマの中で検索を掛けることにいたしました。
そして「ピンっ!」と、「ああ!これだな?!」と思ったのがこの言葉。
『もののあはれ』
この「もののあはれ」という言葉は、江戸時代の国学者である本居宣長が提唱した考え方です。
日本人には、移り行くもの、はかないもの・・・そのようなものに接すると無常の感興が生じる・・・そんなものですよね?本居宣長は平安時代の『源氏物語』にその頂点を見ましたが、その「もののあはれ」という感じ方は、21世紀の日本人にも脈々と残っているもの。
そんな「もののあはれ」をもとに「フランダースの犬」を見てみると、見事なくらいにハマルでしょ?
善とか悪などの問題ではなく、ネロやパトラッシュの「はかなさ」「あはれさ」ゆえに、多くの日本人は号泣するわけじゃないの?
「フランダースの犬」を日本人だけが好きなのは、「滅びの美学」ではなく、「もののあはれ」という日本人ならではの感じ方が元になっている・・・
私のそんな見解には、100人中100人の方が賛成するのでは?というか、「この人の文章は気に入らない内容ばかりだけど、今回初めて、心から賛成できる見解が出てきたよ!」と思う方もいらっしゃるでしょう。
まあ、日本人の方は、そんな見解に簡単に合意するでしょう。
しかし、ヨーロッパ人はそうはいかない。そもそも「もののあはれ」という概念は漠然としている。あいまいでわかりにくい概念ですよ。それに対し、「美学」と明確に規定されると、たとえそれが「滅びの美学」であっても、彼らにも受け入れることが可能になる。だから、「アンタたち日本人が『フランダースの犬』に見たのは滅びの美学なのかい?」と聞いてくることに。
だから、日本人として、「ちょっと違うんじゃないのかなぁ・・・」と思っていても、「美学だ!」なんて明確に言われてしまうと、「そんなモンかなぁ・・・」と思ってしまうもの。
さてさて、その「フランダースの犬」ですが、私は以前より、不思議に思っていたことがありました。ちょっと不自然なシーンがあるんですね。その不自然なシーンというのは、まさにクライマックスと言える最後のシーン。
「物語の最後で、ネロとパトラッシュが見る絵が、どうして、ルーベンスなんだろう?」
ということ。
そんな私の疑問を申し上げると、こう言いたいでしょ?
「オマエはバカか?物語の舞台がベルギーのアントワープ周辺であり、ご当地出身の大画家ルーベンスが重要な役割を果たすのは当然じゃないか?!」
そう思う方もいらっしゃるかもしれませんが、あの物語の舞台は何もアントワープである必要はありませんよ。それこそ舞台を東洋の日本にしてもいいくらいでしょ?どうせ日本人しか読まない話なんだし・・・
芸術作品においては、そのシーンの場所よりも、そのシーンに登場する別の芸術作品の方が大きな意味を持つことは誰でもわかること。だから重要なのは、、アントワープという場所よりも、ルーベンスという芸術家の方と考えるのが自然。
本来なら、ルーベンスが適当ではないのなら、物語の舞台の場所を変えればいいだけ。
苦悩の果てに死に行くものが、月明かりのもと、見上げる絵がどうしてルーベンスの絵なの?
美術について、ある程度の教養がある方なら、ちょっとヘンと思うのでは?
もっと別の画家の作品にした方が、最後のシーンをより感動的にできるのでは?
たとえば、ベルギーのお隣のオランダの画家のレンブラントの方が、はるかに適切な選択ですよ。
レンブラントの絵が持つ、現世の苦悩と、神へ救済を求める気持ち。おまけに、光を使った明暗を効果的に使っている絵なんだから、月明かりで見ると、すばらしい『絵画的』効果になりますよ。
最後になって、月光がレンブラントの絵を照らす。そのレンブラントの絵を見ながら、ネロが「ああ!神様!このボクをお救いください!」と言いながら、事切れる。
ルーベンスよりレンブラントの絵を使った方が、ネロの境遇を、より「かわいそう」にできますよ。レンブラントはオランダの人だから、プロテスタント系であり、ベルギーというカトリックの国の教会には絵が飾られない・・・そんな理由もあるでしょうが、それだったら、最後のシーンをベルギーの教会ではなくオランダの集会所なり、大きなお屋敷にすればいいだけ。「フランダースの犬」は、地理の本ではなく、芸術作品なんだから、舞台の場所をオランダに変えることには問題はないでしょ?
あるいは、ベルギーは以前はスペインの支配下でした。
スペインの画家に、ムリーリョという画家がいます。イノセントで純粋な精神で聖母マリアの絵を描いたりしています。イノセントな精神で描かれた、柔和で慈愛あふれる表情のマリアの絵を見ながら、
「ああ!マリアさま!もうすぐおそばへまいります!」
そう言いながら息絶えるネロ。
このシーンが決まらないわけがない。
ルーベンスより、ムリーリョの方がはるかに適切な選択ですよ。
あるいは、イタリアの画家でフラ・アンジェリコという画家がいます。こちらも、その名のとおりの天使のように清らかな精神をこめて絵を書いた人。
そんな絵を見ながら、パトラッシュと抱き合ったネロが「ああ!パトラッシュ!ボクたちはもうすぐ天国に行けるんだ!!」
その他、舞台をロシアにして、最後にはアンドレイ・ルブリョフのイコンを見ながら生き絶える・・・そんな光景でも、感動的。
あるいは、宗教的な題材を離れて風景画にする手もある。
ウィーダと同じイギリス人の画家ターナーの絵を使っても、実に効果的。
ターナーの絵を見上げながら、ネロが「ああ!光が!色彩が!ボクたちに降ってくる!!」
素人の私ですら、より効果的にできるんだから、玄人のウィーダができないはずがない。そもそもネロは念願のルーベンスの絵を見ても「とうとう見たんだ!」と言っているだけ。絵についての具体的な感想は出てこない。せめて「なんて迫力のある絵なんだ!」「こんな絵をボクも描きたかった・・・」くらいは言えばいいのに・・・絵描き志望のネロにしては、芸がない。
いずれにせよ、最後に見る絵がルーベンスというのは、不適切。それも、もっと適切な絵があるというレヴェルではなく、「よりにもよって、どうしてルーベンスなの?」それくらいに、不適切なんですね。
このような例だと、それこそ人生最後に聞く音楽が、ベートーヴェンの交響曲とか派手なイタリアオペラという選択は、ドラマの「効果」としては不適切でしょ?それが音楽的に名曲であるとか、崇高な内容があるとか、そのような問題ではないわけ。人生最後に聞く音楽だったら、それこそバッハの「主よ、人の希望よ、喜びよ!」とか、モーツァルトの合唱曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」とか、クラリネット五重奏曲の第2楽章とか、あるいは、それこそ日本人好みでフォーレの「レクイエム」とか・・・人生最後にふさわしい、ちょっと静かな作品がありますよ。ベートーヴェンの第5交響曲の冒頭の「ジャジャジャジャーン」を聞きながら息絶えるなんて・・・感動的とは言いがたい。第五交響曲が音楽的に名曲かどうかなどの問題ではないわけ。
ルーベンスを見ながら息絶えるのも、同じようなもの。
そんな疑問を持ち続けて来た私は、その「フランダースの犬」を読み直して見ることにいたしました。
ちなみに、私はアニメの方は見ていません。どうも、ヒューマンドラマの匂いのあるシリーズの一環なので、その面で敬遠しているんですよ。
さて、何回も書いていますが、ネロとパトラッシュが息絶えるシーンにおいて使われる絵が、ルーベンスの作というのは、そのシーンとしては不適切な選択。
じゃあ、作者のウィーダは、どうしてルーベンスにしてしまったの?
皆さんもチョット考えてみてくださいな。
とりあえず、考えられるのが、「フランダースの犬」の作者であるウィーダが、美術についての知識がない・・・だから、有名な画家として、とりあえずルーベンスの名を使ってしまった・・・そんな理由である可能性も、当然のこととして考えられます。それこそクラシックの作曲家として一番有名なベートーヴェンの作品を使った・・・それくらいの感覚。だから「結果的に」不適切な選択となってしまった。ああ!これが「ゆとり教育」の弊害なのか?!
別の考え方として、作者のウィーダは美術についてよく知っていて、つまり最後のシーンにおいてルーベンスが不適切であることがわかった上で、「意図的に」ルーベンスを使っている。
その可能性もありますよね?
さあ!ウィーダは考えもなしにルーベンスにしたの?
考えた上でルーベンスにしたの?
「結果的」なの?「意図的」なの?
このようなことを判断するにあたっては、本の『読み手』の立場よりも、『書き手』の立場から見た方が結論が得られるもの。皆さんが『書き手』のウィーダだったら、どうしますか?
もし、書き手が、考えもなしにルーベンスだったら、「フランダースの犬」という作品に出てくる画家の名前はルーベンスただ一人になります。だって、他の画家の名前は知らないんだもん。
逆に、考えた上でルーベンスだったら?
不適切なことがわかった上で、意識的にルーベンスを選択していたのなら?
そんな場合には、作品中に別の画家の名前を多く出すことによって、「実は、ワタシは、美術について詳しいのよ!考えた上で、ヒネリを効かせて、ルーベンスの絵を使っているんだから、ちゃんと意味があるのよ!その点は誤解しないでね!」と言えることになりますよね?
ということで、「フランダースの犬」を何十年ぶりに読み直す前に、「たぶん・・・多くの画家の名前が出てくるのでは?」と予想した上で読み始めました。
すると、やっぱり出てくる。ヨルダーンスやファン・アイク兄弟のような有名どころばかりではなく、テニエやミールスやヴァン・タールのような私も知らないようなマイナーな画家の名前まで出てくる。
つまり、作者のウィーダは美術にかなり詳しいことがわかるわけです。
だから、ドラマの一番重要なシーンといえる最後のシーンにおいて、その情景とマッチしない画家といえるルーベンスの絵を使っているのは、意図的なんですね。
美術に対する教養のある人と、その方面ではあまり知らない人では、文芸作品の見方も変わってくるでしょ?ネロはルーベンスの名画を見たがっていて、最後になってやっと見ることができました・・・というストーリーの意味も、読む人によって違ってくるわけ。そして「読み手」と「書き手」では、作品の見方も違っているもの。
じゃあ、どうして、ルーベンスという不適切な選択を、あえて、したの?
作者ウィーダにとって、ルーベンスにはどんな意味があるの?
では、画家というか芸術家のルーベンスとは、どんな特徴があるでしょうか?
ルーベンスは、実に社交的な人でした。本業の画家の傍ら、なんと外交官までやっていました。彼は実社会において大変な成功を得た人であるわけ。本業の画家としては、自分が運営する工房で絵画を次々と制作していき、それが周囲に絶賛されました。
当時の人が絶賛しただけでなく、今の時代でも、その作品の価値は高いものです。工房で制作していたと言っても、手を抜いて制作したわけではない。その作品には芸術家としての良心がこもっている。
つまり、ルーベンスは芸術家人生と現実人生を、高い次元で両立させた人と言えるわけです。
それに対し「フランダースの犬」の主人公のネロは?
「フランダースの犬」において、ネロは牛乳販売の仕事のかたわらで、絵を描いている。つまりネロは芸術家の卵と言えるわけ。作品中で、そのネロが、芸術家人生と現実人生の対立に直面するシーンが頻繁に登場いたします。そしてネロは、いつだって芸術家人生の方を選択し、現実人生を捨ててしまう。
そもそもネロにとっての彼女であるアロアとの付き合いを、アロアのお父さんであるコゼツさんに禁じられたのは、ネロが貧乏だからではないわけ。ネロが現実人生に立ち向かわないからなんですね。ネロが自らの牛乳販売の仕事を、どうやって拡充していくのか?そんなビジネスに真剣に向き合っていけば、コゼツさんだって、付き合いを認めますよ。あるいは、そんな仕事に見切りをつけて、コゼツさんの助手になってもいいわけ。現実世界における将来展望がない人間・・・それがネロ。
15歳にもなって、マトモに働きもせず、絵を描いている状態だから、問題であるわけ。
15歳にもなって、現実上のビジネスに真剣に向き合わずに、絵ばかり描いている人間と、自分の娘を結婚させようと思う親の方が異常ですよ。「絵を描きたいのなら、まずは経済的に安定してから、趣味として描いていけばいいじゃないか?」そんなコゼツさんの判断は、一般人としては常識であり健全な発想でしょ?
そんな周囲の常識なり善意は、ネロにもわかる。しかし、ネロは現実人生よりも芸術人生を選択してしまう。ネロは生きるために絵を描くのではなく、絵を描くために生きているだけ。ネロは周囲の人を、まったく恨んでいない。しかし、善人に「ありがち」なキャラクターといえる「信心深さ」を持っていない。つまり、ネロは単なる善人ではないわけ。ネロはそもそも現実世界に価値を見出していないだけ。ネロにしてみれば、現実人生と、芸術人生は、まったく相反するもの。
・・・だからこそ、その両立の中に生きた芸術家ルーベンスに憧れを持つわけです。
ネロが最後に、ルーベンスを見るのは、ルーベンスの絵そのものというより、現実人生と芸術人生の両立の象徴なんですね。ネロはその両立に憧れ続け、そして最後にその絵・・・つまり両立に到達し、そして、それは夢のようにはかなく終わってしまう。
原作では、ネロは15歳です。つまり分別はできる年齢。いわば少年ではなく青年の年齢。その年齢の人が、わかっていて、現実人生を捨てているわけ。らんぼうな言い方をすると、ネロは破滅型のティーンエイジの芸術家であるわけ。だから「もののあはれ」というより、「滅びの美学」に近く、それよりも「破滅の美学」に、もっと近いわけ。
ネロにとって、創作への意欲は、彼自身の生をも凌駕するほど堅固なものであって、「移りゆくもの」でも「はかないもの」でもないわけです。
「もののあはれ」を描きたいのなら、あるいは、かわいそうな少年の話にしたいのなら、ネロの年齢設定を12歳以下の年齢にして、そして最後に見る絵をレンブラントにしますよ。
そんなちょっとした設定で、作者の意図がわかったりするもの。
とはいえ、このような「読み」ができる人はそうはいないでしょう。文学研究者ふぜいでは無理でしょうしね。
そもそも一般的には、最後のシーンにおいて、ルーベンスが不適切であるということも言われない。
ルーベンスが不適切であることは、美術に対する教養があれば、わかるでしょうが、この作品中で頻繁に現れる、現実人生と芸術人生の対立の構図は、一般人の方は、教養ある方にも理解できないかも?
ちなみに、この「フランダースの犬」を今回読み直す際には、岩波少年文庫に収録されているもので読みました。その本には同時収録で、「ニュルンベルクのストーブ」という作品が掲載されております。この「ニュルンベルクのストーブ」においても、現実人生と芸術人生の対立がテーマとなっています。こちらの作品では、主人公の少年は、最後にはその両立を成し遂げることができる。バイエルンの王様のおかげで、両立することができるわけです。この作品に登場するバイエルンの王様ルードヴィッヒは実在する王様で、芸術家を援助した王様でした。しかし、ルードヴィッヒ自身は、歴史上有名な破滅型です。彼を描いた有名な映画もありますよね?
芸術家を援助した王様のルードヴィヒ自身は、現実人生と芸術人生の対立の中に破滅していったわけ。
「フランダースの犬」も、「ニュルンベルクのストーブ」のジャンル的には童話になるのかもしれませんが、作者はどんなジャンルでも、自分自身を反映させるもの。
なんでも、作者のウィーダは、最後には困窮の中で、お亡くなりになったとか・・・
だからダメとか不幸ということではなく、それをわかった上で、「意図的に」その選択をする例もあるわけ。
『どうして?』
多くの方が、そう思われるのは当然です。
前記の「ニュルンベルクのストーブ」の最後の文は、こんなもの。
「普通の人には見えない景色を見、普通の人には聞こえない声を聞くことこそ、詩人や芸術家の才能というものなのですから。」
いやぁ!ウィーダさんもタイヘンだねぇ!
彼女も、見えてしまうだからしょうがないんですよ。何も見たくて見ているわけでもないし、聞きたくて聞こえるわけでもない。それに周囲の人に説明しても「ふつうの人には見えないし、聞こえない」んだから、どうしようもない。だから、どうしてもルーベンスではなくネロのような状況になってしまう。
しかし、だからこそ、ルーベンスの作品というより、芸術家としてのルーベンスの「あり方」に憧れるわけ。
芸術的なフィーリングがない一般の人と、そんなフィーリングがある人とでは、やっぱり見方が違うもの。
日本人なりヨーロッパ人なり、大人なり子供なり、その分野の教養のあるなし、書き手の心理がわかる人と読み手に徹している人、あるいは芸術的なフィーリングがあるなし・・・色々な立場によって、ものの見方が違うもの。
まあ、あまり特定の見解を押し付けてはダメですが、細かい部分部分を見てみると、その人の意図が見えてくるものなんですよ。
それに賛成するしないは、当人の自由ですが、不自然な表現にも、それなりの意図があることが多いものですし、むしろ意図的に作った不自然な表現には作者の最重要な意図が込められていることが多いもの。
今回、「フランダースの犬」を例示して考えて見ましたが、よく「作品をどのように受け取ろうと、観客や聴衆の自由だ!」なんておっしゃる方もいます。
まあ、確かに法律的には自由なんですが、そんな人の『見解』とやらを聞いてみると、やっぱり、特に細部において「つじつま」が合わないことが多いもの。「もし作者がアナタが言っている考えで作品を作ったのなら、この部分は、このような設定にするのでは?」などとこちらが言ったりすると、相手は黙ってしまって、やり取りは終了してしまうことが通例です。
まあ、作品に接していると、「あ~あ、この部分は同族にしか分からないだろうなぁ・・・」と思ったりする箇所も多いものなんですよ。
そんな時は、「・・・というか・・・いつのまに、自分は同族になっちまったんだ?!」とアタマを抱えることになってしまうものなんですが。
ウィーダの「フランダースの犬」を考える際にも、何も文学研究者の解釈論に参加するつもりはなくて、私としては、ただ「ウィーダの心そのものが見えて、ウィーダの心の声が聞こえる。」だけなんですよ。あるいは「ウィーダが見ているものが見えて、ウィーダが聞こえているものが聞こえる。」だけ。
まあ、それが同族というものなんでしょうね。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-12/08-09-30.html
-
2:777
:
2022/08/22 (Mon) 10:18:38
-
「映画とクラシック音楽の周囲集」_ 映画・音楽に関する最も優れた評論集
07年7月から07年12月まで配信しておりましたメールマガジンのバックナンバーのサイトです。
もう配信は全巻終了しております。
07年7月から07年12月まで配信していたメールマガジン「映画とクラシック音楽の周囲集」のバックナンバー
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.html
03年9月から04年8月まで配信していたメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」のバックナンバー
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html
「複数回取り上げた監督&原作者」・・・監督別でのリストです。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/derector-list.html
「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/tukaikata-list.html
追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/question-top.html
オペラの台本について・・・興味深いオペラの台本についての文章のリスト
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/opera-top.html
(上記のメールマガジンの文章と基本的には重複しております。)
最新追加文章 10年8月7日追加 ゲーテの「ファウスト」について
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/faust.html
▲△▽▼
「ダメダメ家庭の目次録」_ 教育に関する最も優れた評論集
ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html
「ダメダメ家庭の目次録」転載の経緯
https://medium.com/dysfunciton
転載の経緯
このMediumのPublication「ダメダメ家庭の目次録」は、
①過去に配信されていた機能不全家族に関するメールマガジンを収録したサイトである「ダメダメ家庭の目次録」
の
②ミラーサイトの記事
を、さらに
③MediumのPublication 「ダメダメ家庭の目次録」
へ転載したものです。
したがって、山崎奨は著作者ではありません。
記事は全てミラーサイトから、誤字脱字等も修正することなく、MediumのPublicationに転載しています。
「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
レスポンシブ化および広告の非表示化によって、記事の参照を容易にすることを目的として、MediumのPublicationに転載することとしました。
△▽
ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html
-
3:777
:
2024/01/29 (Mon) 12:11:34
-
フランダースの犬 A DOG OF FLANDERS
菊池寛訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001044/files/4880_13769.html
フランダースの犬 A Dog of Flanders
荒木光二郎訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001044/files/57302_56650.html