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ルイス・キャロル _ 不思議の国のアリス(映画ではありません)

1:777 :

2022/08/22 (Mon) 09:50:29

07年7月19日
取り上げた作品 不思議の国のアリス (映画ではありません)
原作 ルイス・キャロル
今回のテーマ 才気
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-07/07-7-19.html


さて、前回で「ロリータ」を取り上げた際に、一般的に・・・あるいは「ふつうに」使われる「普通(normal)」という言葉を、漫然と聞き流すのではなく、注意し意識を向けることによって、多くのものが見えてくる・・・そのように書きました。

「ふつう」なんて、一般社会でよく使われる言葉と言えますが、じゃあ、アナタの言う「ふつう」って、どういう意味?

そうなりますよね?

音楽や映画について友人たちと話をしたりする際にも、そんな「ふつう」なんて言葉が登場することもあるでしょ?実は、そのやり取りには前段階があったりします。往々にして、その「ふつう」という言葉の前に登場してくる言葉があって、それは「正統的」という言葉。

この「正統的」という言葉もわかりにくい。
正統的というと、英語に直すとオーセンティック(authentic)。この言葉が使われているのは、たとえばキリスト教におけるギリシャ正教(グリーク・オセンティック)とか、クラシック音楽の演奏における「オーセンティックな演奏」があります。音楽演奏の分野においては「作曲当時の楽器を使って演奏しよう!」という意味ですよね?
そんな時に、このオーセンティックという言葉が使われたりします。
このような限定的な使われ方だったら、使われても理解できる。
まあ、「昔の流儀のままに・・・」と言うわけでしょう。このような使われ方だったら、「昔のままに」ということだから、その「昔のスタイル」を再現すればいいだけ。昔の楽器を使って、昔の奏法を使うだけ。だから具体的にイメージしやすい。

しかし、中には、そのような限定的とは言えない使い方をする人もいるわけ。もっと漠然とした使い方。たとえば音楽だったり映画だったりについてのやり取りにおいて、

「あの指揮者は正統的だ!」
「その映画監督は正統的なの?」

そんな感じで、言われたりするんですね。

本人はどう思ってその言葉を使っているのかはわかりませんが、そう言われても、イメージが出来ない。正統的な映画監督って、どんな生き物なの?そう思っちゃいますよ。もしかすると、古生代のDNAでも持っているの?シーラカンスの親戚なの?それとも、「昔の流儀」でサイレント映画でも作っているの?
ということで、
「アナタの言う、『正統的』って、どう言う意味なの?」
と、聞かざるを得ない。だってコッチは本当にわからないんだもの。

そのように聞くと、
「えっ?そんなこと聞かれたのは初めて・・・」といった怪訝な表情があって、ちょっと間があって、そうして待望の回答があるわけ。
「正統的って・・・ふつうのこと・・・」
そのような回答をもらっても、「ユリイカ!」となるわけもなく、やっぱり続けて聞く必要がある。
「じゃあ、アナタの言う、その『ふつう』って、どういう意味?」

その質問に対する答えが、まさに、
「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんですね。
何も、特定個人とのやり取りではありませんよ。私は複数回、このやり取りをやったことがあるんですからね。

さてさて、では、皆さんは「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」と言われちゃったら、どう言いますか?

まずは、何も言えないものなんですね。
そもそも、「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」と堂々と言い放つ人間にいまさら何を言うの?

それだけではありません。
「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」
という命題は、論理的に完璧でしょ?これ以上ない、ってくらい完璧ですよ。だから反「論」はできない。

しかし、論理的に完璧であっても、「じゃあ、結局は、どんな意味なの?」と言われても、やっぱりわからない。はっきりいって無意味でしょ?

さてさて、論理的に完璧で、意味の上では全くの無意味。
そんな言葉がちりばめられている作品があります。
まあ、こんな「引き」をやっていますが、メールマガジンのサブタイトルに堂々と載っていますねぇ・・・それこそ無意味だねぇ・・・トホホ。

そう!ルイス・キャロル原作の1865年刊行の「不思議の国のアリス」。そしてその 6年後に姉妹作品として「鏡の国のアリス」という作品があることも皆さんご存知でしょう。
あまりに有名な作品ですから、あらすじは必要ありませんよね?
この「不思議の国のアリス」でもっとも有名なシーンは、アリスとチェシャ猫のやり取り。このシーンは皆さんも憶えているでしょうが、ここで、そのやりとりをちょっと抜き出してみましょう。

アリス「ちょっと伺いますが、ここからどっちへ行ったらいいでしょうか?」
猫『どこに行きたいのか、行きたいところ次第です。』
アリス「どこって別に―」
猫『そんなら、どっちへ行っても同じです。』
アリス「―どこかに出さえすれば―」
猫『どこまでも、どこまでも歩いて行けば、必ずどこかに出ます。』

このやり取りにおける、チェシャ猫の回答も、論理的には完璧でしょ?しかし、何の意味もない。
と言うか、この21世紀の日本に住む私が実際にやったやり取り、
「その映画監督って、正統的なの?」
『アナタの言う正統的って、どう言う意味なの?』
「・・・正統的って・・・ふつうのこと・・・」
『じゃあ、そのふつうって、どう言う意味?』
「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」
と、実に似ていますよね?

「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」
と回答した、21世紀の一般の(normal)な日本人も、ルイス・キャロルが描く不思議の国の奇妙な住人と大差がないわけ。
と言うか、たぶんルイス・キャロルも、normalな人から、
「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」、
なんて言われちゃって、途方に暮れたんでしょうね。

「不思議の国のアリス」を読んで、「作者のルイス・キャロルって、なんて想像力豊かな人なんだ?!」と思った読者もいらっしゃるかもしれませんが、あの作品にちりばめられているやり取りは、現実世界において意外なほどにポピュラーなもの。その日常生活に潜む不条理な会話に気が付くかどうか?ただそれだけなんですね。

normalな人は、自分自身がやっている不条理な会話における、その不条理さに気がつかない。それこそ平気で「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言ってしまう。
しかし、それは日常風景かもしれませんが、不思議でシュールな光景でもあるでしょ?

不思議と言う言葉は、日常とつながっているものなんですね。
「アンタさぁ・・・自分のやっていることや、言っていることの意味がわかった上で言っているの?」このように思ったりすることもあるでしょ?
日常的だけど不思議なやり取りって、頻繁に発生しているもの。

だから、そんな不思議なやり取りはルイス・キャロル以外にも作品にもあったりします。
それこそ不思議と言うことで、こちらもルイスの名を持つ映画監督ルイス・ブニュエルには不思議3部作なる作品があります。「自由の幻想」「銀河」「ブルジョワジーの密やかな楽しみ」です。

ちょっとシュールに見える風景が展開されている映画ですが、曇りのない目で見てみると、意外にも、日常風景そのものだったりするわけ。
それこそ1974年の作品の「自由の幻想」の冒頭。
あの「自由、博愛、平等」を掲げたナポレオンのフランス軍が、スペイン人を虐殺するシーン。
「虐殺なんかしちゃって・・・自由、博愛、平等っていったい何?」と思ってしまいますが、掲げた大義と実際の行動の間にある大きなギャップの存在って、21世紀の現在でも実にポピュラーでしょ?
こんなポピュラーな光景がどうして不思議なの?
この映画を不思議に思う方が不思議ですよ。

あるいは、「ふつう」と言う言葉と、シュールさが典型的に結びついた事例として、某国の社民党党首がこんなことを言ったことがあります。
「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

まず思うのが、まさにお約束の「ふつうって何?」。
それこそ「ふつうの人ってどんな人?」「ふつうの働き方って、どんな働き方?」そして有史より人類が解決できない問い、「幸せって・・・いったい何?」「幸せを感じるって、どんな時?」。
上記のように「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」と、「べき!」なんて説教調で言明されちゃっても、どうしようもないでしょ?だって意味がわからないんだもの。

まさに、チェシャ猫と会話した後の、アリスと同じ表情になるだけ。
「じゃあ・・・いったい・・・ワタシはどうすればいいのよ?!」
まあ、政治の世界だって、一般社会だって、アリスが遭遇した不思議の国とほとんど変わらないわけ。それに気がつくことができる・・・いや、気がつかざるを得ないか?どうか?それだけなんですね。

しかし、その社民党党首は、「べき!」と言明して、周囲に要求しているんだからタチが悪い。もし、その要求に何も応えなかったらどうなるでしょうか?
「どうしてオマエたちはワタシの言うことを聞かぬのじゃ!」
「そのものたちの首を、チョン切っておしまいっ!」

「ふつう」と言う言葉が出てきて、大手を振るような事態になると、まさにとんでもない事態になるわけ。しかし、一般のnormalな人は「ふつう」と言う言葉が持つ「異常性」に気がつかない。

さて、前回の「ロリータ」において、才気の例としてパロディについて考えてみました。
音楽におけるパロディの代表例は「替え歌」。映画「ロリータ」においては、ショパンのピアノ曲に歌詞を乗せるという形で替え歌が登場していました。

今回の「不思議の国のアリス」において、替え歌が多く登場しているのは、皆さんご存知ですよね?
才気という要素が、この「不思議の国のアリス」において、実に重要なファクターを果たしているわけ。

替え歌なり、その他の作品を自在に引用し、ヒネリを加え、パロディを作ることができる。そのような、才気を持つもの、そして持たないものの対比。
そのような点において、この「不思議の国のアリス」と、「ロリータ」は、共通項が多いわけ。
ルイス・キャロルと、「ロリータ」との共通性と言うと・・まあ、ここで、ルイス・キャロルの「あの趣味」の問題にも触れる・・・と思ったでしょう?
いえいえ、それはやりません。ただ、それに関連して、後でちょっと触れます。

さてさて、前回の文章で「ロリータ」は、フランスの「ファム・ファタール」もののパロディの面を持っていると書きました。
と同時に、ある種、ルイス・キャロルのアリスもののパロディの面もあるわけ。

作品中に言葉遊びなりパロディが多いという、今まで散々書いてきたことばかりではなく、たとえば、「ロリータ」の主人公はハンバート・ハンバートと言う「ふざけた」名前。

ハンバート・ハンバートと言う名前から、ちょっとアタマが回る人間だったら、「鏡の国のアリス」での登場人物の、「ハンプティ・ダンプティ」と言う名前との語呂合わせを感じるでしょ?
単に語呂合わせと言うだけでありません。小説版の「ロリータ」においては、ハンバート・ハンバートは才気がある人間で、言葉遊びなども楽しむ人間であることが強調されています。
ハンプティ・ダンプティも、言葉遊びなどをして、アリスを困らせますよね?
それだけではなく、ハンバート・ハンバートも、ハンプティ・ダンプティも性格が悪い。

キャラ的に、共通点が多いわけ。

それに、ナボコフは「ロリータ」において、この作品で、アメリカの風景を描いた。」なんて言っているそうです。まあ、アーティストが自作について語っているのは、話半分に聞く必要があるものです。しかしルイス・キャロルだって、「鏡の国のアリス」という作品を、「チェス盤の風景」として描きましたよね?

あと、近年の研究で、小説版の「ロリータ」に登場してくる日時を詳細に分析したら、「ロリータ」と言う作品の特に後半部分が、主人公ハンバート・ハンバートの夢であると考えることができるんだそうです。
いわば「ロリータ」と言う作品は、「夢オチ」の作品と言えるわけ。
「夢オチ」となると、まさに「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」こそが、その代表でしょ?

まあ、不自然な名前だったり、日時だったり、記述と言うものは、作者の意図が込められているケースが多いわけ。その不自然さが、作者の意図を読み解く鍵となる・・・それは、それこそ前回書いた「エコノミック・アニマル」なんて表現でもまったく同じ。

さてさて、このように、才気煥発なルイス・キャロル。
ダジャレや替え歌などを自在に使いこなし、その才気を存分に、作品中で、発揮している。

しかし、作品中で、その才気を発揮するのはいいとして、実生活ではどうなの?
ルイス・キャロルが、実生活においては、才気煥発とは程遠く、地味で目立たない生活をしていたことは、皆さんご存知ですよね?
この「不思議の国のアリス」という作品だって、彼が親しくしていた少女アリス・リデルに語った話が発展して作品になったもの。そもそもキャロルは、作家とか芸術家としての明確な意識はなかったわけ。「自分の才気を世に問おう!」なんて意気込みとは違っている。

実は、才気と言うものは、その伝達手法において、大変な困難さがあるわけ。
どんな人に向けて、どんなスタイルで、「発表する」のが適切か?
才気のある作品を「作る」こと以上に、そちらが問題になるんですね。

だって、考えても見てくださいな。
気軽に、たまたま横にいる人間に、才気あふれる、パロディに満ちた作品を見せたらどうなるの?
まあ、予想される反応はこれ。
「なんなんだ!これは!ケシカラン!!」

このような反応は、パロディに対する反応としてはお約束のレヴェル。何も考えずに、パロディを発表したりすると、このようなクレームを付けられるだけ。
そもそも、パロディ作品における、その元ネタなり、ヒネリの箇所なり、ヒネリの意図がスグにわかるような人間なんて、いわば希少動物。めったにいませんよ。

ヘタに自分が知っている人の顔を浮かべたりしたら、「アイツは・・・単細胞だから・・・こんなことを言っても・・・怒り出すだけだろうなぁ・・・」そう思わざるを得ない。
なまじっか、具体的な顔を浮かべると、才気と言うものは、萎えてしまうものなんですね。

じゃあ、受け手の顔を浮かべないで、才気を表現すればいいじゃないの?
たとえば、メールマガジンでも発行して、その文章に才気を込めたら?
これだったら、受け手の理解能力を想定しなくてもいいし・・・
それにカンタンな手続きで発行できるから、出版社の単細胞な人と疲れるやり取りもしなくて済むし・・・

この意見は、きわめて実際的。
しかし、19世紀の人のルイス・キャロルにしてみれば、実際的であっても、現実的とは言えない。我々21世紀の住人は、そのようなテクノロジーの進歩に感謝しないとね。
しかし、「受け手」の顔を浮かべない方が、才気を表現しやすい・・・という特性は、やっぱり21世紀でなくても、存在しているもの。
実に顕著な例は、20世紀のピアニストのグレン・グールドでしょう。
グールドは演奏会からドロップアウトして、レコード録音だけで演奏活動した人。
彼の「才気あふれる」演奏は、具体的な聞き手の顔を浮かべながら表現することは困難なんですね。まあ、ルイス・キャロルとグレン・グールドって、何となくキャラ的につながりやすいでしょ?

しかし、ルイス・キャロルは19世紀の人。
メールマガジンを発行するわけもいかず、レコード録音なんて方法も取れない。
じゃあ、どうやって、自分の才気を表現するの?

才気をわかる人を探し出して、そんな人に語ったら?
そもそも、誰かの文章を読めば、その人の才気のレヴェルもわかるはずでしょ?そんな才気のある人を見つけて、お友達になればいいじゃないの?そんな才気ある人だったら、ルイス・キャロル本人の才気だってわかってくれるでしょ?

このようなことは、19世紀でも可能。雑誌などに載っている文章を読んで「おおコイツはできる!」「きっと凡人じゃあないぞ!」なんて人を見つけ出すことは、ルイス・キャロルのレヴェルの人だったら簡単でしょう。

しかし、ここで問題がある。
才気がある人は、他者の才気もわかる。
このことは単純に、「いいこと」ではないわけ。

だって、「わかりすぎる」ことにもなるんですね。
それこそ、前回取り上げたナボコフの「ロリータ」において、ナボコフが、一般の善男善女を「ネコじゃらし」している・・・と書きました。
一般の読者を「ネコじゃらし」しているような人と、友人になりたいか?
なんて聞かれたら、皆さんはどう答えますか?

「いやぁ・・・ちょっとねぇ・・・」
そんなものでしょ?
ただ、一般のnormalな人間は、ナボコフが善男善女を、「ネコじゃらし」しているなんて、わからない。だから気軽に近づける。
しかし、才気のある、ルイス・キャロルのような人間だったら、「ビビっ」ってしまうわけ。ただでさえ、ルイス・キャロルは、おとなしい人間。
そんなおとなしい人間が、人間を「ネコじゃらし」して楽しむ、傲岸不遜な人間とどうやってやり取りするの?

それでも意を決して、関わりを持ったとしても簡単には行かない。
才気がある人間が集まったりすると、人の才気に上手に対応できないと、とんでもない事態になるでしょ?
「えっ?こんなこともわからないの?」
「あれっ?ここに場違いな一般人(normal)が紛れ込んでいるぞ!」
「ごめんねぇ・・・キミのような一般人には難しすぎたかな?」

自分の才気がまったくわかってもらえないのも辛いところですが、才気が飛び交う世界もまた修羅場。ただでさえ、才気のある人間は、人を見下す習性が付いてしまっているんだから、そんな人間とやり取りするのは、ホネが折れることなんですね。

実は、この手の才気ある人たちの集団の風景は、「不思議の国のアリス」の次回作の「鏡の国のアリス」の中の「生きている花の庭」の場面で描かれています。人を小ばかにした「花たち」が、アリスをからかうシーン。才気がある人たちが集まると、どうしてもあんな感じになってしまうもの。いやぁ・・・臨場感があるなぁ・・・

才気がわかれば、相手が言う才気あるイヤミもわかってしまう。それが自分に浴びせられれば、いたたまれませんよ。
このようないたたまれなさは、一般人には無縁のいたたまれなさ。
ネコはネコじゃらしをされても、いたたまれなく思うことはない。
しかし、人間だったら、ネコじゃらしをされればイヤでしょ?

「才気がわかりすぎる」と、才気のある人には近づくことに抵抗を感じる。
逆説的になりますが、そんなものなんですね。

さてさて、ここで面白い存在があります。
それは子供と言う存在。

子供と言う存在は、皆それなりに才気がわかるもの。
子供が、パロディなどに対して「ケシカラン!!」なんて言い出したりはしないでしょ?そのパロディの意味が、それなりにわかって、気軽に楽しむことができますよね?

それに、才気があるので、ヘンなことにも気がつくことができる。
子供と言う存在は、新鮮な目を持っているものですよね?

それこそ「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて、不思議なセリフにも、「へぇ?そうなの?勉強になったわ!」なんてやり取りにはならないでしょ?

「ねぇ、おねえさん!おねえさんがよく言う『ふつう』って、どう言う意味なの?ワタシはよくわからないわ!」
『あのねぇ・・・ふつうって・・・ふつうのことよ・・・』

もし、皆さんが、そのように回答したとしたら?
聞いてきた子供の反応なんて、簡単に予想がつくでしょ?

「お母さん!お母さん!このおねえさんが、ヘンなことを言っているよ!!『ふつうって・・・ふつうのこと・・』だって!!ヘンなこと言っている!!このおねえさんはヘンな人だ!!」、と大声で騒がれてしまうことに!
「ふつうって、ふつうのこと」と親切に正確無比な解説をしてあげたのに、ヘンな人呼ばわり!!

まあ、しかし、『ふつうって・・・ふつうのこと・・』という解説が、ヘンであることは紛れもない事実でしょ?
大人になると、そのヘンなところがわからなくなるわけ。
子供はみな才気を持っている。人のパロディも気軽に楽しむ。それに人を見下したりはしない。それこそ、前回取り上げたマルセル・デュシャンの「ヒゲのモナリザ」だって、子供だったら、「わぁ!面白い!」と楽しむことができるでしょ?まさか「ケシカラン!」なんて言いませんよ。逆に言うと、そんな新鮮な目で作品を見ること・・・それ自体がデュシャンの意図なんですね。デュシャンとしては「幼児のように、心をむなしくして、新鮮な目で、作品を見なよ!」って言っているだけなんですね。子供は、自然にそのようなことができるわけ。

しかし、歳を取るにつれて、才気は二極化する。
ますます才気が増大して、才気煥発で、性格の悪い大人になるか、
才気が消えうせて、規格品の人間になるか、
はっきり分かれてしまう。
女王蜂と働き蜂が二極化するハチの世界と同じ。

才気のある側は、それこそ、最初は「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて回答をもらって、まるでアリスのように途方に暮れていても、やがてイジワルになってくる。それらしい質問を自分から相手に投げかけ、相手から、半ば計画的に「・・・ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて回答を引き出したりするわけ。予定通りにその回答が得られると、今度はアリスのように途方に暮れるのではなく、チェシャ猫のように薄目を開けてニヤニヤすることになる。

いや~、なんて性格が悪い連中なんだろう!!才気のある大人ってそのような面を持っているわけ。
だから、「こんな人とやり取りするのは怖いよ!」と思う人の方がマトモですよ。

だから、才気のある大人とのやり取りが怖い、気の弱い才気の人は、才気が二極化する前の状態である子供を相手に、自分の才気を語るしかない。

まあ、子供だったら、「ケシカラン!」なんて言わないでしょう。替え歌も素直に楽しんでくれる。
しかし、子供は所詮は子供。
才気ある大人が持っている縦横無尽の才気を理解するのは無理がある。
これはこれでしょうがない。だって気が弱い才気の人は、子供を相手にするしかないんだから。

子供に対しては、わかりやすい形で、自分の才気を伝え、
大人に対しては、自分の才気を抑え、自分がnormalな規格品の人間であるとして行動する。
ルイス・キャロルは自分の才気と、こんな感じで付き合っていたわけ。
しかし、ちょっと無理ですよね?

この無理は、やっぱりどこかで爆発するもの。
才気のわからない規格品の大人たちに囲まれ、つまり周囲の身の丈に合わせ、自分の才気を抑えに抑え、いわば耐えがたきを耐えて規格品となっていたルイス・キャロルも、とうとう、自分の本当の身の丈になり禁断のセリフを言ってしまうことになる。

「不思議の国のアリス」におけるアリスの最後のセリフは、実に切実で痛々しい。
読んだ側が思うのは、「あ~あ、とうとう言っちゃった!」。
しかし、この切実な言葉は、いかに、作者のキャロルが、現実世界で、耐えに耐えていたかを如実に示している。

その言葉は、

「アンタたちなんて問題にしていると思う?」
そして
「アナタたちは、所詮はトランプのカードじゃないの!」

(終了)
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次回は、古いヨーロッパ映画を取り上げます。その映画から、とある作曲家について考えてみたいと思っています。
次回も、やっぱり途方もなく長い文章です。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-07/07-7-19.html
2:777 :

2022/08/22 (Mon) 09:52:31


07年11月29日
取り上げた映画 鏡の国のアリス
原作者 ルイス・キャロル
関連している音楽家 アントン・ブルックナー
今回のテーマ 改訂と次回作
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-29.html

以前に、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を取り上げました。その文章において、才気と言うものについて考えております。才気を含んだヒネりのある表現を、どのような人に対して、どのように伝えるのか?作り手にはそんな問題意識があったりするもの。

今回は、その「不思議の国のアリス」の続編と言うか次回作と言える「鏡の国のアリス」(Through the Looking-Glass and What Alice Found There)を取り上げます。
今回は、才気について考えるのではなく、創作者が次回作に向き合う姿勢について考えて見たいと思っています。

最初に出した作品が、「それなりに」受け入れられた・・・それを踏まえて、次回作はどのような作品にするのか?やっぱり作品の作り手だって色々と考えるもの。ルイス・キャロルだって「不思議の国のアリス」が好評だったから、次回作の「鏡の国のアリス」を制作したわけでしょ?まがりなりにも、主人公が共通なんだから、その好評さを意識したと言えるでしょう。不評だったら、まったく新たな設定にしますよ。前回の設定を踏まえて、前回の欠点を修正し、新たな魅力を導入する。それが次回作というもの。

では、実際に、どんなことを考えたりするの?
今回の文章では、そのような次回作の制作の問題を考えるとともに、「前に出した作品」を後になって見直すこと・・・つまり改訂についても考えてみます。改訂と言うと、音楽においては、やっぱりブルックナーでしょう。
ブルックナーが自分の交響曲をどんな考えで改訂したのか?そんなことは、音楽の専門家が多くの薀蓄を語っています。私としては、そもそもがそんな薀蓄なんてありませんので、もうちょっと一般化して、作り手の心理から考えてみます。

ルイス・キャロルとブルックナーを一緒に考えるなんて、無謀ですが、作り手が次回作の制作においてどんなことを考えるのか?と言う限定的な観点に絞って考えるだけです。

と言うことで、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」について考えて見ましょう。
・・・なんですが・・・
まずは、もう一度、最初の作品である「不思議の国のアリス」を思い出してみましょう。あの「不思議の国のアリス」と言う作品は、実に不思議な作品ですよね?
そんなことを書くと、「何を当たり前のことを言っているんだ?そもそもが作者が不思議と言っているくらいんだから、不思議に決まっているだろうが?」
そうおっしゃりたいのは当然。

アリスが地底に落ちて、その世界で、不思議な住人と、いわば不条理なやり取りをする・・・それを一言で言ってしまうと不思議となる。そんなことは言うまでもないこと。
不思議な世界で、不思議な住人と、不思議なやり取りをすること・・・それを不思議といわずして何と言う?

しかし、もっと不思議な点がありますよね?

どうして、アリスは、あの不思議な世界を一人で旅するの?
あの手の不思議モノには、ある種の「お約束」があって、脇役が主人公と一緒に旅をするのが通例。それこそ「オズの魔法使い」でもそんな感じだったでしょ?
アリスが不思議な世界で、奇妙奇天烈なやり取りをするハメになっても、そんな同行キャラが、ツッコミを入れたりすると、読み手はものすごくラクになる。

「何をアホなこと言うてんの?」
「アンタの話・・・わからんなぁ・・・もう一度言うてんか?」
「アンタ・・・おもろい格好してんなぁ・・・ムッチャ笑えるわ!」

そんな突っ込みが適宜入って御覧なさいな。
読み手としてはストーリーの中に入って行きやすいでしょ?

不思議な世界を、子供が一人で旅をするという設定は、実に不思議な設定なんですね。子供が一人で旅をするから、奇妙奇天烈な人たちやヘンテコな言葉による不条理感が、アリス独りに直撃してしまう。あの「不思議の国のアリス」は、ある種の不気味さがありますよね?だって、あんなやり取りが続いたら、不気味に思うものでしょ?しかし、たとえ奇妙なやり取りがあっても、同行キャラが突っ込みを入れることにより、不気味さを回避できる。
逆に言うと、同行キャラを設定しなかったと言うことは、あの作品においては、不気味さを、むしろ重要視していることがわかるわけ。

不可思議な世界を一人で旅をする孤独感・・・その孤独感は、作品中では直接語られませんが、その孤独感は読み手が無意識的に感じるもの。言うまでも無く、その孤独感は作者であるルイス・キャロルが感じている孤独感なんですね。不思議な世界の異形の住人は、我々のこの現実世界のnormalな人間のメタファー。外見上は異形だけど、精神的には規格品の住人の中を、新鮮な目と子供の心を持った人間が、一人で、旅をする。旅の最中で遭遇する人たちとは会話が成立しない。そのやり取りにおける会話の不成立も、ルイス・キャロルの偽らざる心情なんでしょう。そんな成立しないやり取りが次々と現われ、アリスは「とまどう」ことになる。
その「とまどい」は笑い事ではない。実に深刻な問題。
新鮮なまなざしで物事を、あるいは世界を見ることができる人間は、そんな「とまどい」の中にいるわけ。

さて、そんな現実世界に対する「とまどい」があふれた「不思議の国のアリス」。作者であるルイス・キャロルが予想したかどうかは別として、世間に受け入れられた。
となれば、当然のこととして「次回作を!」なんて声が上がる。

さあ!ルイス・キャロルは、どのように次回作に向き合ったのでしょうか?
前に、「不思議の国のアリス」には、同行キャラがいないと書いています。その同行キャラの不在が、不気味さにつながっている。
だったら、次回作では、なにか同行キャラを登場させたら?
それこそ、ウサギと一緒に旅をするとか、ネコと一緒に旅をするとか・・・
そんなかわいいマスコット・キャラを設定することによって、読み手は楽しく読むことができますよね?単に楽しいだけではありません。前にも書きましたが、多く登場している不条理な会話を、解説したり、ツッコミを入れたりして、読者の注意を喚起することもできる。

「アンタの話・・・よーわからんわぁ・・・別の言い方で説明してくれへんか?」
アリス本人は言いにくくても、可愛いマスコット・キャラがそんな言い方をしたら、やり取りの言葉の意味も、読者にとって、よりわかりやすくなる。不条理な会話が頻発している作品では、そのような突っ込みが、いかに効果があるのか?誰だってわかることでしょ?

あるいは、かわいい動物ではなく、姉と一緒に旅をするという設定でもいいわけ。姉妹が助け合って、奇妙な人たちとのやり取りを進めていく・・・
多くの人にとって、そのような設定の方が、気軽に楽しめるでしょ?

キャラクターの違う人間が、一緒になって、ちょっと不思議な世界を旅をする・・・となると、それこそ、ルイス・キャロルと同じルイスの名を持つルイス・ブニュエルによる1968年の「銀河」なんて映画作品もあります。あるいはパゾリーニによる1966年の「大きな鳥と小さな鳥」なんて映画作品もありますよね?一緒に旅をするもの同士が会話することによって、様々な状況や、その中でのやり取りの不条理さを解説することが可能になる。だから、ちょっと難しい話題についても、わかりやすく表現できるわけ。

旅をするなら、2人以上の設定の方が、わかりやすいし、親しみやすいなんてことは、それこそ日本でも「ヤジさん、キタさん」の時代から、もはや鉄則のようなもの。性格が異なった複数の登場人物のやり取りで進めた方が、取っ付きやすいわけ。それこそ音楽だって「フロレスタンとオイゼピウス」の組み合わせだってあったでしょ?

そもそも、新シリーズに突入したら、新キャラを投入することによって、ファン層の拡大を図るなんて、鉄則ですよ。
もともとが、そんな親しみのあるキャラがいなかったわけですからね。新たな登場人物を設定するにも自由度が高い。そんな魅力的な新キャラを投入したら、「不思議の国のアリス」以上にヒット間違いなしですよ。

あるいは、時期ネタを使うと言う方法もある。たとえばクリスマスという時期を利用する方法はどうかな?鏡の世界の中で出会った可愛いクマさんが、アリスを色々と助けてくれる。そのクマさんは、ドジだけど一生懸命にアリスを助けてくれた。しかし、とうとう別れの時が来る。別れの時に、アリスは泣きながら「ワタシはアナタのことを忘れないわ!私たちは、いつまでも友達よ!」そして鏡の世界から戻ったら、そのクマさんがぬいぐるみとなって、クリスマスプレゼントだった・・・なんて「くるみ割り人形」みたいでメルヘンチックでいいんじゃないの?クリスマスと言う時期ネタを使えば、華やいで親しみやすくなるでしょ?ヒットもしやすいと思うけどなぁ・・・

しかし、ルイス・キャロルがやったのは、全く逆方向。
新キャラを投入するどころか、むしろ、より内向きになってしまっている。
「不思議の国のアリス」では、まだ登場人物のヴィジュアルが面白かったり、あるいは替え歌も多く、音響的にも面白いシーンが多い。しかし、次回作の「鏡の国のアリス」では、より言語的になってしまっている。

「不思議の国のアリス」では、ヴィジュアル的にも、音響的にも楽しめるシーンが、順不同で並んでいる、そんなスタイルですよね?だから読み手も取っ付きやすい。それに対し、「鏡の国のアリス」は、ヴィジュアル的な、あるいは音響的な魅力が後退し、より言語的で、構築的になっている。まさに「LOGOS」的になっている。それどころか、それぞれのシーンが苦笑いするほど長い。
しかし、それでは読み手は楽しめない。そもそもが、読み手はインパクトのあるヴィジュアルや音楽に反応するものですよ。言語的に、あるいは構築的に「詰め」ても、読み手は喜ばない。

読み手が喜ぶ文章は、ちょっと新しい視点でサラっと書いた類の文章であって、多くの視点を導入して、その多くの視点から、対象を徹底的に彫琢して行っても、それこそピカソの絵を見たジョルジュ・ブラックのように「なんじゃ、こりゃ?!」になっちゃいますよ。
作品と言うものは、詰めれば詰めるほど、読者は受け入れられなくなるもの。この点については、以前に触れたホフマンスタールの戯曲の受け入れられ方を見れば簡単にわかることでしょ?様々な伏線を貼って、緻密に構築しても、そんな伏線なんて、一般の読者は気がつきませんよ。だから結果的には徒労に終わるだけ。むしろ、その伏線の設定による無理の方が、一般の方には目に付いてしまう。
せめて、かわいいマスコット・キャラを導入すれば、救いようがあるわけですが、そんな新キャラも使わない。

「鏡の国のアリス」が「不思議の国のアリス」より人気がないのは当然ですよ。しかし、それは作者が意図してやっていることなんですね。人気がほしかったのなら、新キャラを投入しますって。それくらいは、ルイス・キャロル程度の才能があれば簡単なこと。

どうして、こんなことを?
どうして、こんな内向きになっちゃったの?
もっと、私たちを楽しませてよ!

そして、
前回の「不思議の国のアリス」の方はあんなに楽しかったのに・・・
今回はなんか・・・小難しくてツマンナイなぁ・・・
読み手はそう思うもの、でしょ?

しかし、その前回作の「不思議の国のアリス」で読み手が感じた「楽しさ」って、作者が意図していたものなの?
あの「不思議の国のアリス」の最後で、「アンタたちなんて、所詮はトランプのカードじゃないのっ!」なんて言い放ちますが、その言葉は不思議の国のトランプに言っているだけでなく、我々が住んでいる、現実世界の一般のnormalな人に宛てて言っている。そんな意を決して言い放った無謀な言葉に読み手が無反応だったら、書き手はやりきれない。せめて腹を立てて「ワタシをトランプ扱いするなんて、ケシカラン!」と怒ったり、逆にニヤニヤして、「人をトランプ扱いかよ!アンタも趣味が悪いねぇ・・・」くらい言えばいいじゃないの?反応がないのが一番困る。

「ちょっとくらい反応しなさいよ!」
「どうして何も反応しないのさ?」
しかし、まあ、だからこそ「トランプのカードに過ぎない」んですが・・・
そんな無反応を改めて見せ付けられると、ヘコでしまう。
「オレが語ったことは何だったんだ?」「あ~あ、オレって何やっているんだろう?」作者さんだって、そりゃ自問自答しますって。

そうなると、「読み手にわかりやすくしよう!」「読者に楽しんでもらおう!」なんて発想が消え失せてしまう。読み手ではなく自分自身のために書くようになってしまうわけ。ということで、より内向きの構築性を志向するようになってしまう。まさに箱庭志向。
読み手が取っ掛かりやすいキャラを排除して、内的な構築に向かう。

しかし、読者の理解を求めずに、内的な構築に向かうのなら、作品なんて作らなきゃいいじゃないの?そもそもが何かを伝えるために作品にするんでしょ?何のために作品にするの?
当然のこととして、そんな話にもなりますよね?
作品の作り手は、そんな際どい均衡の上にある。
そもそも、人間を信じていないと、文章は書けないけど、人間を信じていたら、その人に直接的に言えばいいだけで、文章にまとめる必要はないわけだから、文章にすると言うことは、大変な均衡状態にならざるを得ない。

この「鏡の国のアリス」では、そんな均衡の上にいる登場人物が2人登場します。
一人は、塀の上に座っているハンプティ・ダンプティ。もう一人は馬の上からよく落ちる騎士。「わがはいさん」なんて言われているお年寄りの騎士さん。

ハンプティ・ダンプティが、言葉遊びなどをして、アリスを困らせることは以前に書いています。言葉遊びをする人間というと、まさに作者のルイス・キャロルがその典型。
そして、馬から頻繁に落馬する騎士は、周囲に配慮して、「おどおど」としている性格。そして「いつもアリスのいる方に落馬する」。

騎士も、ハンプティ・ダンプティも、いわば作者であるルイス・キャロルの性格を反映しているわけ。傲岸でいじわるなハンプティ・ダンプティが、塀から人を見下し、落ちずにしっかりしているのに対し、周囲に配慮する騎士は頻繁に落ちてしまう。やっぱりハンプティ・ダンプティのようなやり方の方が、本当は自分に合っているのかも?
かと言って、ハンプティ・ダンプティのように、人を小ばかにするような感じで自分に正直には生きられない。ああ!どうしよう?!

ルイス・キャロル自身のキャラクターを2つに分けて、対比させたわけ。シューマンが自分のキャラクターをフロレスタンとオイゼピウスに分けたように、キャロルはハンプティ・ダンプティと、騎士に分けて表現している。このあたりの対比と葛藤は、ルイス・キャロルの偽らざる心情なんでしょうね。まさに2人合わせてルイス・キャロルの鏡に映った自画像となっているわけ。

さて、その「鏡の国のアリス」ですが、まさに鏡(looking-glass)が登場しています。
鏡を見つめると、何が見えますか?
そんなこと・・・鏡が見えるに決まっているじゃないか?
まあ、トンチの一休さんならそう言うかも?

しかし、多くの人は、鏡を見ると、自分自身が見える・・・そのように答えるものでしょ?
芸術の世界においては、鏡を持ち出す以上、それは自分自身の反映の面が強いわけ。いわば自画像になってくるわけです。
それこそ、アンドレイ・タルコフスキーの映画に「鏡」なんて作品がありました。あの作品も、タルコフスキーが自分自身の様々な姿を投影した作品でしたよね?

芸術表現の世界では、鏡という道具を持ち出した以上、作者が自分自身を反映させている・・・それはいわば鉄則のようなもの。それこそ、前にも書きましたがハンプティ・ダンプティと騎士には明確にルイス・キャロル自身が反映されている。
もちろん、作者個人の投影だけでなく、作者の周囲の人たち、そして作者とその周囲の人たちの「関係」が、投影されていることになります。

そもそもが、この「鏡の国のアリス」はチェス盤を舞台にしていますよね?
チェスは、王様がいて、女王様がいて、騎士がいて・・・と、そんな彼らのルールに基づいて世界が運営されている。
そんな役割とルールは、現実世界のメタファーと言えるわけ。この点は、前回の「不思議の国のアリス」におけるトランプと全く共通しています。
不思議の国の不思議な話ではなく、我々が住んでいる現実世界って、見方を変えるとあんな風になっているわけ。ただnormalな一般人はそれに気がつかない。それこそチェスの駒や、トランプのカードが、自分自身はトランプや駒であることに気がつかないようなもの。
「我々の世界は、我々のルールと規律に基づいて営まれている立派な世界だ!」そう言われると、「確かにそうとも言えるけど・・・」と言わざるをえないでしょ?

アリスが体験する、奇妙なやり取りは、現実世界でキャロルがやっているやり取りの再現であるんですね。見る人が見ると、多くの人は、実際にあんなことを言っていたりするものです。それこそ「ふつうって、ふつうのこと。」なんてシュール極まりないことを平気で言っていたりするもの。

そんな現実世界の奇妙さを表現したのに、喜ばれちゃって・・・どうすればいいの?

作品を作る際に、作品の「受け手」のレヴェルを、どの程度、考慮するのか?
ちゃんと考えた上で、作品を作らないと、後で途方に暮れることになってしまう。
「えっ?こんなことも誤解しちゃうんだ?!」
その反動から、内向きの構築に向かってしまう。

「前の作品はあんなに楽しかったのに・・・今回は、どうして?」
そんな読者の感想こそが、次回作が取っ付き難く、そして面白くなくなってしまった理由だったりするわけ。
前の作品だって、本当は「楽しく」はなかったんですよ。

さて、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」から、いきなりブルックナーの交響曲に移りましょう。両者の間にある共通点なんて、成立した時代が19世紀の後半ということくらいでしょう。あと、作者さんが独身だったことも共通と言えるでしょうか?

しかし、ブルックナーが次回作に取り組む発想・・・あるいは、以前の作品を『改訂』する姿勢を見ると、ルイス・キャロルと共通した発想があったりするんですね。

ブルックナーと言うと、もうお約束のように、改訂の問題が出てきます。指揮者レーヴェやシャルクなどの他人の手による改訂版だけでなく、一応は作曲家自身が改訂を施したノヴァーク版とかハース版とか。
ブルックナーは、自分が行った改訂に、最終的に合意していたのか?
色々と議論されたり・・・するようですね。

もちろん、改訂と言っても、文章における「てにをは」のような細部の修正は、後になって発生することもあるでしょう。しかし、大規模な改訂なんて、そもそもが楽しくないでしょ?そんな大規模な改訂をするくらいなら、新しい作品を作曲した方がラクだし、楽しいし、もちろんのこと、より創造的。
昔の作品を改訂するための、インスピレーションなり時間を、新作に投入すれば、よりいいものができますよ。そもそもがブルックナーの作品なんて、みんな一緒なんだし。
マーラーやベートーヴェンが初期の作品に手を入れるのだったら、まだわかりますよ。だって、彼らは創作のキャリアを積むにしたがって、作曲技法の習熟だけでなく作風も中身も変わりましたからね。最近制作している作品と、若い頃に制作した作品では中身というか内容なりテーマなり問題意識が違う。だから、昔の若書きの作品の中身は生かして、技法的に未熟な面は修正したい・・・そう考えても不思議ではありません。しかし、ブルックナーは初期も晩年も、中身はそれほど変わらないでしょ?だからなおのこと、その改訂の労力を、新作に投入した方がいいじゃないの?

そんなことを書くとご立腹なさるブルックナー・ファンの方もいらっしゃるでしょうが、ブルックナーが昔の作品を改訂する手間を、むしろ新作の作曲に当てれば、モーツァルトのように40曲の交響曲とはいかなくても、ショスタコーヴィッチのように15曲くらいは作曲できたのでは?そっちの方がファンの方にとってもいいことじゃないの?

どうして、昔の作品に手を入れるの?

「ブルックナーは自分の作曲技法に自信がなかったから、人から修正を求められると、それに応じる気になったんだ!」
そんなことが書かれている文章を読んだことがあります。

しかし、その言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかない。
だって、ブルックナーはシャルクなどの他の音楽家からの修正のアドヴァイスを取り入れて、実際に改訂したわけでしょ?
つまり本心から、その意見を受け入れていないことがわかるわけ。
本心から受け入れていないからこそ、楽譜上では修正意見を受け入れる。
他者からの修正意見が、本当に妥当で有意義なものだとブルックナーが考えていたのなら、そのような修正意見などを取り入れたり、実際に改訂する必要なんてありませんよ。

「何を、相変わらずの、反語的な物言いをしているんだ?」
そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、このことは小学生でもわかること。

だって、皆さんがブルックナーになった気分で考えてみてくださいな。
自分が作った交響曲に対して、色々な意見が寄せられる。「こんな点を修正したら?」なんて意見も当然ある。
もし、その修正意見がすばらしいものなら?
「なるほど!そんな考え方を取り入れればいいのか?!気がつかなかったよ!」
もし、寄せられた意見がまさに自分の作品に役に立つものだったら?

そんなすばらしい意見だったら、その意見を受けた作品に反映させる必要はないわけでしょ?むしろ次回作に反映させればいいじゃないの?
それこそ、次回の交響曲の作曲において、ラフスケッチの段階で、そのすばらしい改訂意見を出してくれた人に見せに行って、そこで相談すればいいじゃないの?
「前回の交響曲においてアナタの改訂意見はすばらしいものだった。だから、今回はそれを『あらかじめ』取り込んでおきたいんだ!」
そう言えば、相談された人も喜んで相談に応じますよ。

作品が出来上がってから、修正意見を取り入れるよりも、ラフスケッチの段階で、そんな意見を取り込みながら作曲していった方が、はるかにラクだし、まとまりもいい。完成した作品にコメントするよりも、そのようなスタイルの方が、意見を出した人にしても、やりがいもあるでしょ?ブルックナーが本当に自分の作品や作曲技法に自信がないのなら、そうしますよ。

もし、ブルックナーが小学生以上の知能があるのなら、そうするでしょ?
毎回毎回、人から修正意見を取り入れて、改訂するなんて、バカげている。それよりも、最初から取り込めば、改訂も必要なくなる。

どうして、ブルックナーはそうしなかったの?
ブルックナーの知能はサル並なの?
そんなことはないでしょ?
つまり、ブルックナーとしては、自分の作品に寄せられる修正意見のどれもが、取るに足らない、もっと端的に言うと迷惑と思っていたことがわかるわけ。
いかに、イヤイヤやっていたのかが、その態度でわかるんですね。

そもそも、人からの修正意見に、役に立つものなんて、ない。
役に立つような意見を出せる人だったら、その人自身の「作品」に使いますよ。それができないからこそ、他人の「作品」にチョッカイを出すんでしょ?そんな人の意見などは、所詮は、使えないものなんですね。というか、そんな人の修正意見を聞くと、落ち込んでしまう。「えっ?そんな感じで誤解しちゃうんだ?」とビックリ。かと言って目の前の人は、自分の見解を得意気に披露している。しかし、単に演奏効果の問題云々よりも、本質が何もわかっていないのに、修正意見もヘチマもないでしょ?

もし使えるような意見だったら、このように提示されるものです。
「あのぉ~、この部分の不自然な表現は、どのような意図なの?ちょっと教えて?」
そんな感じで疑問形で提示されるものです。だって、作者の意図がわからないだけで、作者には意図があるかもしれないでしょ?上から一方的に自分の見解を押し付けるような人は、所詮は、創作というものをわかっていない人。そんな人の修正意見など、取るに足らないものなんですね。疑問形で提示される指摘だったら、「使える」可能性はあるわけ。

勿論のこと、音楽作品の表現においても、ある種の2面性はあるでしょう。
中身に関わる本質的な面と、受け手が喜んでくれればいいと言った、いわば包装に属するような面。
ブルックナーだって、聞き手を拒否しているわけではない。できることなら多くの人に聞いてもらいたい。だから、できるだけ「受け入れやすい」形にしたいと思っていることは確か。
だから、いわば包装については、多くの人の好みに合わせてもいい。
しかし、中身については、人の好みに合わせるつもりはない。

プレゼントだったら、中身と包装なんて簡単に区別できる。しかし、音楽作品だったら、ことは簡単じゃない。
包装については、よりキレイに、人の好みに合わせて・・・と修正意見を取り入れるつもりでも、意見を言う方は、中身についても意見を言ってきたりするもの。だって、どこからが中身でどこからが包装か?なんて作曲した本人でないとわかりませんし、そのような中身と包装の区分は、演奏家にはあまり関係のない話。だから「このようにした方が、多くの聞き手に受け入れやすいよ!」なんて言いながら、本質的な面への改訂を要求してくる・・・そんなこともあるわけ。
それに芸術作品は、「どこからが包装で、どこまでが中身か?」なんて、やっぱり完全に分離できるものではない。あらゆる部分に、本質的なものが含まれているわけでしょ?だから、改訂するとしても、基本的には「てにをは」のような細部が限界なんですね。

それに、誰かの意見をたまたま取り入れたりすると、別の人の意見をどう扱うのか?
そのような問題も発生するでしょ?
たとえば、指揮者ニキシュからの意見を、「これくらいなら、本質に影響ないから、まあ、いいかぁ・・・」と付き合いで取り入れたりしたら?そうすると、誰か別の指揮者も、「ここも直した方がいいよ!」なんて親切心から言ってくる。全部拒否するのが簡単なのですが、たまたまニキシュの意見は取り入れてしまった・・・
寄せられる意見の中には「ああ、これくらいなら取り入れようかな。」そんな意見もあるでしょ?しかし、そうなると後がタイヘン。

ヘタに断ると、こんな感じでグチられてしまう。
「あ~あ、オレの意見なんて、どうせ、しょーもないよ!どーせニキシュの意見の方がすばらしいよ!オレの意見なんて取り入れる価値なんてないよ!どーせオレは小者だよ!あ~あ、せっかくアンタのためを思って親切から言っているんだけどなぁ・・・あ~あ、今日は帰ってヤケ酒だ!」
そんな感じで拗ねられてしまったらどうするの?
やっぱり、形だけは、何か取り入れないとマズイでしょ?

誰か一人の意見でも取り入れると、収拾がつかなくなってしまう。
最初は、包装の面だからと取り入れたりすると、後になって内容の面まで修正意見を言ってきたりする。「前の意見は一応は取り入れけど、今度はどうしよう?説明しても、わかってくれないだろうし・・・」
ホント、ブルックナーがアタマを抱えている姿が目に見えるようですよ。

改訂と言っても、「より良くしよう!」と言うプラス方向の改訂のパターンと、「これ以上、誤解されないようにしよう!」というマイナス方向の改訂のパターンもあるでしょ?「より良くしよう!」と言うプラス方向の改訂を積極的にするくらいなら、新作を作った方がマシ。しかし、「これ以上誤解されないようにしよう!」というマイナス方向の改訂は、必要になる場合がある。

ブルックナーも自分の交響曲が実際に演奏されたりして、ビックリすることもあったのでは?
「えっ?この部分が、こんな風に誤解されちゃうんだ?アチャー!マイッタよ!」
そのような顔面蒼白の事態になると、「改訂しなきゃ!」って思うようになる。
「ボンクラなアイツにも誤解されないように、もっと明確に表現しなきゃ!」

誤解されないように・・・というマイナス方向の改訂は、実際に演奏されないと、その気にならいもの。「どの部分が、どのように誤解されるのか?」なんて、事前にわからないでしょ?そうして演奏されるたびに、「ああ、なんだ・・・アイツらは、ここも誤解するのかぁ・・・」と、また改訂する必要を感じてしまう。交響曲第6番の改訂が少ないのは、あまり演奏されなかったこともあるし、演奏がブルックナーの意図に近いものだったからでは?

そして、ちょっとでも改訂の手を付け出すと、アチコチいじらないと整合性が取れなくなってしまって、どんどんとドツボにはまってしまうことに。
本来なら、「てにをは」程度にしておけばよかったはずなんですが、「誤解されないように」なんて考えるから、必要以上に手を入れてしまう。それって、それだけ演奏家を信じていないということなんですね。信じていたら、その労力を新作の制作にまわしますよ。

実際に、ブルックナーの交響曲が献呈されている相手って、演奏家は少数ですよね?第2番は曲がりなりにも演奏家と言えるウィーン・フィルに献呈しようとしましたが、その他は献呈先に演奏家はいるの?それこそ第7番はワーグナー、第8番はバイエルンのルードヴィヒ。第9番は神様。やっぱり演奏家を敬遠していたんでしょうね。
本来なら、作品の献呈先は演奏家の方が現実的なメリットが大きいでしょ?献呈すれば、献呈した演奏家がたびたび演奏してくれることも期待できる。それに演奏家に献呈すると、「オレにも献呈してもらえるかも?」と功名心を持った別の演奏家も取り上げてくれることも考えられるでしょ?神様に献呈しても、神様はねぇ・・・作曲には協力しても曲の上演機会を作ることには協力してくれないのでは?

ブルックナーは信仰心が篤かったから、神様に献呈したんだよ!
そうおっしゃる方もいるでしょう。
しかし、作品そのものが、ある種の神の恩寵によって出来上がったもの。神様の恩寵によって出来上がった作品を、改めて神様に捧げる必要なんてありませんよ。信仰心が篤ければ、むしろそのように考えるのでは?

しかし、献呈先として演奏家を避けたいと言う心理があったとすれば、そのような選択もわかりやすい。だって、神様に献呈しておけば、誰だって文句は言えないでしょ?
「おい!神様ではなくオレに献呈してくれよ!」なんて、いくら巨匠とされている演奏家でも、さすがに言えないでしょ?

以前の作品を「改訂」すると言う、窮屈な状況でどのような態度を取ったのか?そこから考えるよりも、新しい作品の制作と言う、より自由度が高い状況において、どのような対応を取ったのか?そこから見えるものが大きいわけ。

ルイス・キャロルが、「鏡の国のアリス」においても同行キャラを登場させなかったように、ブルックナーも、毎回毎回、相変わらず、同じような意見を周囲から言われてしまう。
「こうすれば、もっと人から受け入れられやすいのに・・・」そう思ってしまう人もいらっしゃるでしょうが、逆に言うと、作者が信念を持ってやっていたことが、次回作に取り組む姿勢から見えてくるものなんですね。

作者が自作について語る文言は話半分に聞く必要があるのですが、その作品についてどう語ったのか?そんな直接的な言葉より、次回作がどのようなものなのか?
その点から、作者が前作をどう考えているのかが見えてくるもの。
やっぱり、作品について一番的確に語るのは作品自体と言うわけです。

(終了)
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今回は、映画の中に使われるクラシック音楽を考えるというスタイルではありません。
次回も、作品中に使われた音楽を考えた文章ではありません。
共通の題材と、共通のテーマを持つ映画と音楽です。
ちなみに、今回の文章ともかかわりがあります。
R.10/4/27
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-29.html
3:777 :

2022/08/22 (Mon) 10:19:14

「映画とクラシック音楽の周囲集」_ 映画・音楽に関する最も優れた評論集

07年7月から07年12月まで配信しておりましたメールマガジンのバックナンバーのサイトです。
もう配信は全巻終了しております。

07年7月から07年12月まで配信していたメールマガジン「映画とクラシック音楽の周囲集」のバックナンバー
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.html

03年9月から04年8月まで配信していたメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」のバックナンバー
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html

「複数回取り上げた監督&原作者」・・・監督別でのリストです。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/derector-list.html

「引用元の使い方で分類」・・・引用した作品のどの面を使ったのかによって分類したものです。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/tukaikata-list.html

追加の文章・・・特定の映画作品などについての、ちょっとした雑感です。
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/question-top.html

オペラの台本について・・・興味深いオペラの台本についての文章のリスト
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/opera-top.html

(上記のメールマガジンの文章と基本的には重複しております。)


最新追加文章 10年8月7日追加 ゲーテの「ファウスト」について
https://geolog.mydns.jp/movie.geocities.jp/capelladelcardinale/tuika/faust.html


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「ダメダメ家庭の目次録」_ 教育に関する最も優れた評論集

ダメダメ家庭の目次録
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「ダメダメ家庭の目次録」転載の経緯
https://medium.com/dysfunciton


転載の経緯

このMediumのPublication「ダメダメ家庭の目次録」は、

①過去に配信されていた機能不全家族に関するメールマガジンを収録したサイトである「ダメダメ家庭の目次録」


②ミラーサイトの記事

を、さらに

③MediumのPublication「ダメダメ家庭の目次録」

へ転載したものです。

したがって、山崎奨は著作者ではありません。
記事は全てミラーサイトから、誤字脱字等も修正することなく、MediumのPublicationに転載しています。

「ダメダメ家庭の目次録」 の記事の著者は、ハンドルネーム「ノルマンノルマン」氏とのことですが、連絡が取れない状態です。
レスポンシブ化および広告の非表示化によって、記事の参照を容易にすることを目的として、MediumのPublicationに転載することとしました。

△▽

ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html
4:777 :

2024/04/28 (Sun) 11:33:32

アリスの冒険について:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む
続壺齋閑話 (2024年4月28日 08:11)
https://blog2.hix05.com/2024/04/post-7786.html#more

ドゥルーズはルイス・キャロルをナンセンスの名手として推奨する。「意味の論理学」には、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の中からさまざまなタイプのナンセンスが引用され、それらの論理的・文学的意義についての考察がなされている。ドゥルーズがナンセンスを重視するのは、ナンセンスが意味を生産することに着目するからだ。その新たな意味を生産する名手として、ルイス・キャロルに勝るものはいないとドゥルーズは考えるのである。

ドゥルーズは、ルイス・キャロルのナンセンス、とくにアリスの語るナンセンスを秘教的な語と名付けている。なぜ「秘教的」というのかよくわからぬが、おまじないに似ているからだろう。おまじないの言葉は秘教と結びついている。言葉に込められている意味が外目にはわからないというのがおまじないの言葉の特徴だ。外目にはわからないものを、秘教的というのはわからぬでもない。

ともあれその秘教的な語をドゥルーズは三つに分類している。その分類は、第7のセリー「秘教的な語」においては、次のようになっている。①縮約したもの。②循環するもの。③分離的なものである。これだけだとどういうことかわからぬので、後に詳細を述べるが、第33のセリー「アリスの冒険について」における分類を見ておこう。そこでは、「(1)<発音できない単音節語>。これは一つのセリーの結合的総合を行う。(2)<フリッツ>もしくは<スナーク>。これは二つのセリーの集中を保証し、その接続的総合を行う。(3)カバン語、<jabberwock>、語=x。これはすでに他の二つのセリーのなかで作用していたものであり、分岐したセリーの分離的総合を行い、それらのセリーを共鳴させ、細分化する」(岡田、宇波訳)。非常にわかりにくい表現であるが、いかにもドゥルーズ的な表現ではある。

さて、「①縮約したもの」とか「(1)発音できない単音節語」と呼ばれるのは、具体的には次のようなものである。「シルヴィーとブルーノ」の中で、Your royal highness のかわりにy'reince という言葉が使われているが、これは命題全体の包括的な意味をただひとつの音節に短縮したものである。それをドゥルーズは「縮約したもの」、「発音できない単音節語」と呼ぶわけである。こうした短縮のケースは日常生活にも見られる。命題を頭文字の組み合わせですますなどである。

「②循環するもの」とは、具体的には「フリッツ」もしくは「スナーク」だと言われる。フリッツ phlitzz は消滅していくものの擬音に似ていることから、味のない食べ物という意味を表すようになった。また、スナーク snark は、snakeとsharkを接続したもので、それが循環的とされるのは、ヘビとサメとの二つのイメージの間を循環するからである。

「③分離的なもの」は「カバン語」と言い換えられる。カバン語とは、一つの語に複数の意味が込められているような語である。ドゥルーズのあげている例でいうと、frumieux=fumant+furuieux となる。これはスナークの場合と同じにうつるが、ドゥルーズは区別している。スナークは二つの意味が循環するのに対して、Frumieux では、二つの意味に分離すると言うのである。

いずれにせよキャロルは秘教的な語を多用することによって、語の意味を新たに生産し、そのことで言語の世界を豊かにできると考えるわけである。言語はわれわれの世界認識を支えるものであるから、それが豊かになることは、人間性が豊かになるとドゥルーズは考えるわけであろう。人間性が豊かになるという発想は、おそらくニーチェから受け継いだものであろう。

ドゥルーズは、キャロルとならんでアントナン・アルトーを高く評価している。そのアルトーはキャロルに辛辣な批判を浴びせていたという。その批判は、「要約するならば、アルトーはルイス・キャロルを倒錯者、それも表層の言葉だけで満足して、深層の言語の真の問題、苦悩・死・生の精神分裂病的問題を感じなかった、小さな倒錯者と考えている。アルトーにとって、キャロルの遊びは幼稚であり、その食べものはあまりに世俗的であり、その糞便嗜好は偽善的で、あまりに上品のように思われた」。

ドゥルーズは、キャロルの言葉遊びを表層でのできごととして捉えていたから、アルトーの指摘は当たっていると思ったものであろう。アルトーは自身分裂病の患者であったから、人間の深層に深い関心をもっていた。だからアルトーのキャロルへの反発は、深層に定位する人間の表層を弄ぶ人間への反感に由来するものであったと思われる。もっともアルトーはキャロルを批判しながら、キャロルのファンタジーをフランス語へ翻訳していた。それも喜びを感じながら。何故喜びを感じたかというと、英語のナンセンスをフランス語のナンセンスに翻訳するとき、フランス語自体がもっている意味のずれを楽しむことができ、その楽しみが喜びをもたらすのであろう。

ともあれ、キャロルとアルトーの関係をドゥルーズは次のように要約している。「アルトーは、文学において絶対の深層だったただひとりの人であり、彼のいうように、苦しみによって、生きた身体と、この身体の驚くべく言語を発見したただひとりのひとである。アルトーは、今日でもまだ知られていない下層の意味を探していた。しかしキャロルは表層の支配者もしくは測量師のままである。表層は十分に知られていると思われていて探られなかったが、しかしそこに意味の論理学のすべてがある」。

ドゥルーズのアルトーへの関心は、やがてかれを分裂病の研究へと導く。
https://blog2.hix05.com/2024/04/post-7786.html#more

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