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2022/08/17 (Wed) 19:57:28
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テレビドラマ なかにし礼『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』(テレビ朝日 1999年)
脚本:竹山洋
制作:テレビ朝日、カズモ
動画
https://www.youtube.com/watch?v=nF7G3xh3hYI
https://www.youtube.com/watch?v=_RtekDfDZaY
「兄弟」はなかにし礼の小説である。
実兄・正一の人生を題材にした、自伝的小説となっている。
破滅的人生を送る実兄・正一に翻弄され、苦闘を強いられた弟・禮三の愛憎と葛藤を描いている。
1997年6月号から1997年12月号までオール讀物に連載(ただし10月号は休載)され、1998年に文藝春秋に刊行された。そして第119回直木賞候補になった。文庫本では2001年に文春文庫を、2004年に新潮文庫として刊行された。
テレビドラマ
『兄弟 〜兄さん、お願いだから死んでくれ〜』のタイトルで、1999年3月10日にテレビ朝日の開局40周年記念スペシャルとしてドラマ化された。
キャスト
ビートたけし
豊川悦司
桃井かおり
高島礼子
工藤静香
麻生祐未
余貴美子
馬渕晴子
梨本謙次郎、坂本長利、生井健夫、村田則男、磯村千花子、芦田昌太郎、田島基吉、西田聖志郎、市村直樹、北河多香子、森たまき ほか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%84%E5%BC%9F_(%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
なかにし礼の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1234.html
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2022/08/17 (Wed) 20:01:10
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2022.01.23
業界騒然! 謎の歌手・森田童子の父親が「なかにし礼の兄だった」事実が意味すること
なかにし礼『血の歌』と『兄弟』をめぐって
作詩家なかにし礼とシンガーソングライター森田童子が叔父と姪の関係であることを明らかにしたことで、『血の歌』(毎日新聞出版)が話題を集めている。同時にこの作品は、短篇ではあるが、なかにしのヒット作『兄弟』(1998年、文藝春秋)と表裏をなす重い内実をたたえている。
『兄弟』は作詩家から小説家になったなかにしの初めての本格的長篇。特攻隊の生き残りで、事業の失敗や弟名義での借金でなかにしを破滅にまで追いこむ常軌を逸した兄(話題となったテレビドラマではビートたけしが演じた)となかにしの愛憎と葛藤を描いた小説で、「兄さん、死んでくれてありがとう」と主人公が独白する結末が当時、大きな反響を呼んだ。そのモデルである兄の娘(次女)が、何と森田童子だったのだ。
映画の中のなかにし礼と森田童子
音楽史において、大衆の心に響く歌謡曲の作詩家であるなかにしと、孤高のシンガーソングライターの森田は対極的な存在であるが、映画史においては、この叔父と姪は踵を接し、1978年にともにスクリーンデビューしている。
森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット
この年に公開された大森一樹監督の『オレンジロード急行』で、森田童子のメジャーデビュー作『さよなら ぼくの ともだち』が初めて映画の挿入歌として使われ、同年に公開された『時には娼婦のように』(小沼勝監督)はなかにし礼の同名曲の大ヒットを当てこんで製作されたからだ。
『時には娼婦のように』は、《当時、(兄が作った─引用者註)借金に追われている時期で、好条件を提示されたこともあり、原案、脚本、音楽、さらには主演までこなした》(『わが人生に悔いなし─時代の証言者として』、河出書房新社)となかにしが語るロマンポルノであるが、なかにし礼のバイオグラフィにおいてはきわめて重要な作品である。
この映画に現れる心臓発作と性への耽溺、兄の借財を背負わされる弟、複数の女性との同棲、なかにしが第二の故郷と呼ぶ青森への郷愁といったなかにしの人生に欠くべからざる光景が、なかにしがのちに書く『翔べ!わが想いよ』('89年、東京新聞出版局、新潮文庫、文春文庫)から『夜の歌』(2016年、毎日新聞出版、講談社文庫)にいたる自伝小説のプロトタイプ(試作品)になっているからだ。
なぜこの原稿が書かれたのか
この作品を起点として、なかにしを「戦争と歌謡曲を交響楽(シンフォニー)のように、硝煙とエロスをカットバックで描いた作家」と評した、私の『夜の歌』講談社文庫版('20年)の解説を読んだなかにしは、私を西麻布「キャンティ」に招いてくれた。だが、交遊が始まってまもなく、2020年12月になかにしは突然他界した。死後に机の引き出しから発見された未発表原稿をなかにしの子息で音楽プロデューサーの中西康夫が刊行したのが、『血の歌』である。
『血の歌』は作家の死後に刊行された未発表原稿の常として、多くの謎につつまれている。
どうして作者がこの原稿を書いたか、が第一の謎である。後記で中西康夫が『血の歌』は1995年に執筆されたと推測しているように、『血の歌』は'96年に小説のモデルである兄(中西正一)が死去する1年前に、『兄弟』の習作として書かれたものと思われる。
『血の歌』は、兄が語り部に近い立場で書かれていることから、仮借なく兄を描いた『兄弟』よりも兄へのシンパシーが宿る。また、『血の歌』において戦時中に兄が操縦する戦闘機を失墜させる場面は、ほぼそのまま『兄弟』の完成稿に使われている。『血の歌』でなかにしは、兄の視点から娘(森田童子)を描き、同時に娘を小説の「狂言回し」に使えないかと模索していたと憶測できる。
では、なかにしはなぜ封印したのか
しかし、'95年の執筆当時、森田童子は音楽活動を停止中だったとはいえ、'93年に『ぼくたちの失敗』がテレビドラマの『高校教師』の主題歌として使われたことから再ブレイク中だった。なかにしや正一との関係が世間に知られれば、彼女のプライバシーや作品評価に差し障ると考え、なかにしは森田童子をモデルとする『血の歌』を封印したのだろう。
『兄弟』を担当した元文藝春秋の編集者・鈴木文彦は述懐する。
「『兄弟』執筆の前、お兄さんが亡くなられる以前に、かなり感情移入の激しい習作を読んだ覚えがおぼろ気にあります。当時、お兄さんをモチーフにしたいわゆる“兄モノ”の習作がいくつかあって、その一つが『血の歌』だったのではないでしょうか。森田童子については、兄の娘だとなかにしさんから直接うかがったことがあります。『血の歌』はモデル小説の引きの強さがありますが、森田童子が存命だった執筆時点では、彼女のプライバシーにも配慮していたので、発表には至らなかったのではないかと思います。結果として、お兄さんの死を待って長篇仕立てで『兄弟』に結実し、なかにしさんの代表作になっていきます」
『兄弟』という大作に濃密に関わった編集者ならではの見方と言えるだろう。
父から見た娘、また娘から見た兄という視点が削られ、弟から見た兄という視点で小説を一貫させたことで、『兄弟』の構成は堅牢になり、作品は直木賞候補になるなど大きな評価を得た。『血の歌』は『兄弟』のいわば試作品であったのだ。
そのようにいったんボツにした草稿をなかにしはなぜ残していたのか、が第二の謎である。後記で中西康夫が書くように、なかにしはつねに原本(草稿)を廃棄していたという。彼が『血の歌』だけを残しておいたのは、将来何らか形での発表を意図していたと考えるのが自然だろう。
次に湧き上がる謎は、なかにし礼が森田童子の音楽的才能をどのように捉えていたかという点である。その謎を解き明かしてくれたのが、『血の歌』では「お貞さん」、『兄弟』では「藤原慶子」と呼ばれて作中に登場する辣腕音楽プロデューサーの松村慶子である。彼女は'64年に『知りたくないの』(菅原洋一)で作詩家・なかにし礼を、'74年に『さよならぼくのともだち』で森田童子を、ともにメジャーデビューさせた。
松村は「礼ちゃんは童子を『手に負えない才能だ』と高く評価していて、本当は応援したかった」と証言した。しかし、森田童子は「叔父の七光りで世に出たくない」と反発し、松村も「メジャー過ぎて、どこか体制的な匂いがする礼ちゃんの姪ということはマイナスで、童子を反体制、非体制で売りたい」と戦略を立て、「森田童子との関係をずっと隠し通すこと」をなかにしに提案、なかにしがその約束を死ぬまで守り続けてくれたことを感謝する。
小説『時には娼婦のように』を構想していた
森田童子の音楽が、なかにし兄弟が育った満州牡丹江の裕福な家庭にあった音楽的な環境に胚胎していることは疑いがないだろう。しかし、森田は叔父の後ろ盾なしで自らの音楽世界を築き、父親の戦争中の失墜と戦後の堕落に対して全共闘世代の挫折感を対置させ、先行世代への鎮魂歌を歌いつづけた。彼女は中西家の「虚無という血」を引き継いだ、と私には思える。
「『血の歌』が出たとき、さすが礼ちゃんと感心したわね。童子と自分が死んだあと、すべてを明らかにする。礼ちゃんらしい見事な自己演出だと思った」と語る松村は、なかにしが『血の歌』の原稿を意図的に家族の目に付きやすい場所に置き、自分の死後の出版を暗に望んでいたと考える。中西康夫もそれが父の遺志だと信じている。なかにしとの共同作業で数々のヒット曲を生み出した辣腕プロデューサーと、なかにしと最も身近に接してきた子息の見解には、確かに説得力がある。
森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』
しかし私は、『血の歌』を読んで、一つの別な想像をめぐらせた。
私がなかにし礼と最後に会ったのは、なかにしが亡くなるちょうど2年前、'19年の12月だった。「キャンティ」で私と話すうちになかにしは、『時には娼婦のように』というタイトルで、'70年代の懶惰な日々を小説にしたいと思い立った。7人の女性が住み、彼女らの世話をする年配のマダムがいる一軒家。なかにしにはそこを訪ねて遊んだ日々があった。特権的な時間であったとは思うが、平和ボケの極みのような退廃と乱倫のなかに、なかにし独自の共生と気づかいの哲学を再発見しようとしたのかもしれない。なかにしはその時代を描きたいと切実な調子で言い始めたのだ。
その後、なかにしはその小説の構想を河出書房新社の担当編集者に持ちかけたと聞いたが、それが実現しないまま終命の時を迎えた。ここから先は私の憶測だが、なかにしはこの作品に、'74年の森田童子の歌手デビューを絡め、当時の音楽状況をふくめて回想しようと目論み、その時のために、いつか作品の形を与えようと思っていた草稿を机の引き出しに入れておいたのではあるまいか──。
こんなふうに『血の歌』は、さまざまな空想を喚起し、なかにし礼の死が創作活動を無残にも途絶させたことを、悲しみとともにあらためて思い起こさせる掌編なのである。
▲△▽▼
2022.01.01
「僕たちの失敗」の森田童子の父親は、なんとあの人だった
なかにし礼の未発表作品に書かれたこと
作詩家であり、作家のなかにし礼が亡くなって1年が経つ。それにあわせ、死後に自宅から発見された未発表作品『血の歌』(毎日新聞出版)が刊行された。そこに書かれていた主題が、一部で波紋を呼んでいる。なかにしの代表作『兄弟』で描かれたあの破滅的な兄。その娘こそ、一世を風靡した森田童子であったのだ。つまり、森田は、なかにしの姪にあたる。なぜ、なかにしは森田との関係をここで明かすことになったのか。森田と交流もあった元『ガロ』編集長の高野慎三が記す。
テレビドラマ『高校教師』のあの歌声
かつて森田童子という類まれなシンガーソングライターが存在した。一部で熱狂的に支持されたようだ。その後1990年代前半に、テレビドラマ『高校教師』のバックに流れる「ぼくたちの失敗」で一般的に知られるようになった。そのときの語りかけるような音律と透き通る細い歌声が聞く者の心をとらえた。そして、「暗く悲しい歌」の歌い手として認知された。
森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』森田童子のファースト・アルバム『GOOD BYE グッドバイ』
森田童子の存在をはじめて知ったのはいつのことだろう。70年代の終わりに、わたしより一回り以上も若い青年たちが「一度聞いて欲しい」と録音テープを届けにきた。聞いてみて、「いやにセンチメンタルな歌だなあ」とそのときは思った。
突然の電話
従来、わたしは音楽にほとんど関心を持たなかった。クラシックも、ジャズも、ロックも聞いたことがない。戦前・戦後の歌謡曲のいくつかと、森進一や八代亜紀の2、3の歌を好んだ。
1970年以降のフォークソングにも馴染めなかった。森田童子の歌も私的な生活を言葉にしたフォークとさほど違いはないものとわたしは思い込んだ。
ただ、若い友人たちのこだわりが尋常ではなかった。森田童子のコンサートにしばしば出かけていたようだ。「ぼくたちの歌」と捉えているふしがうかがえた。この場合の「ぼくたち」とは1960年代後半の「反乱の季節」における高校生世代を意味する。たぶん、森田童子の歌のなかに自らを重ね合わせていたのだろう。その心情を理解できなくはなかったが、「青春の甘酸っぱさ」は願い下げたかった。
そんなある日、森田童子の関係者から突然の電話がある。用件は、「つげ義春さんの作品を使用したいのですが」との問い合わせだ。
わたしは1967年から71年までマンガ雑誌『ガロ』の編集長を務め、つげ義春さんを担当した。その縁で、辞めてからもつげさんの取次役のようなことをやっていた。つげさんに連絡を取ると即時に承諾。「使用料は考えないで」との言葉も伝えた。また別の日に「作品のタイトルをコンサート名にしてもいいですか?」と問われ、これもつげさんから了解を得た。
森田童子がつげ義春の愛読者であることを知って、わたしは新たに格別の興味を抱いた。それでも、もっと歌を聞いてみたいとまではならなかった。
森田はなぜつげ義春に執着したか
ところがである。「これから森田とお邪魔します」と、また電話があった。1時間ほどして、杉板づくりの大きなリンゴ箱を肩に担いだ男性が、わたしが営む小さな文具店のガラス戸を開けた。「森田がいろいろお世話になりました」と言うと、表通りの歩道をふり返った。帽子を深くかぶったサングラス姿の彼女が深々とお辞儀をした。あわててわたしも返した。パートナーと思われる男性は「これからつげさんにもお届けします」と急いで車に戻った。森田童子と接したのはこのときが最初であり、最後だ。
挨拶の言葉ひとつ交わすこともなかったが、感じのいい出会いだった。
同じころ、住まいに近い渋谷道玄坂裏の円山町のラブホテル街の電柱に「森田童子コンサート・夜行1」とか「大場電気鍍金工業所コンサート」とかのステッカーを見かけた。『夜行』は、つげ義春の新作を掲載した本だ。どれほど彼女がつげ義春に執着しているかを想った。いや、つげ義春だけではない。下町葛飾の労働者たちの60年安保闘争を描いた実弟のつげ忠男のマンガ集『懐かしのメロディ』に寄せて、彼女は「絶望と孤独の風景」と綴り、つげ忠男への限りない愛惜を表明した。
以後、森田童子との接点は途絶えたままになった。歌うことをやめ、東京を離れたと風のうわさが流れた。気になりだしてCDを購入し、ときどき聞いた。いくつもの歌詞から森田童子の立ち位置が想起され「ああそうだったのか」との思いに襲われた。つれ合いが森田童子の歌を聞きながら、台所でふと手を休め、「いい歌よね」と言う。そして「正しい歌だわ」と続けた。冗談じゃない、歌に正しいも正しくないもあるものか、と言い返そうとして、思いとどまった。
なかにし礼の『血の歌』が明かす森田童子の過去
森田童子より2歳年上のつれ合いは、森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。
「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。
いったい、森田童子とは何者なのか、と疑問を抱いた。しかし、わたしにはどのような情報も届かなかった。森田童子は謎に包まれたままの存在となった。それから20年が経ち、30年が経ち、予期しないときに訃報が飛び込んできた。わたしはつれ合いの遺影のある小さな部屋で、森田童子の歌を流した。
森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット森田童子『ラスト・ワルツ』ジャケット
そして、いまになって、なかにし礼の未発表小説『血の歌』(毎日新聞出版)によって、森田童子の過去が明らかにされた(作品のなかでは「美納子」「森谷王子」となっている)。森田童子は、なかにし礼の姪だったのだ。なかにし礼の代表作である『兄弟』のモデルだった、「特攻帰り」で、戦後、放埒に生きたという実兄の娘だったのである。そのあまりに衝撃的な人間関係に驚きを禁じ得ないが、しかし、それらはある意味、充分に納得のいく事柄であった。
荒廃した父親を通して「戦後」を感知し続けた
《堕ちていくばかりの父親と、それに振り回される家族がいた。墜落を恐れながら、みずからさらなる墜落を求める父。あるいは美納子は中西よりも、いや中西の背中越しに、戦争の興奮を見てしまったのかもしれない。そして、興奮から遅れてやってくる、傷と孤独。それは美納子にとって、時代の儚さであり、自分の命の悲哀であったのではないか》(『血の歌』より)
森田童子の歌から感受される途方もない「暗さ」は、たんに父親という存在の個性に求められるべきではないだろう。青春期に戦争を体験した、いわれるところの純粋戦中派にとって、敗戦後をどのように過ごしたかは、ひとりの個人の問題に還元されるべきことがらではない。つげ忠男がいくつものマンガで描き続けた「特攻帰りのサブ」の生き死には、B29撃墜の戦闘機パイロットであった父親像とみごとにオーバーラップする。いわば、敗戦後における父親の自堕落な姿は、下町で虚勢を張る与太者の「サブ」と寸分の違いもない。
つげ忠男は、工場街の裏町で目撃した実像の与太者を通して「戦後」を凝視した。森田童子は、父親の荒廃した実像を通して「戦後」を触知した。つげ忠男の一連の作品が戦後の「正しさ」を描き留めたように、森田童子も「戦後」のなかで自らの「正しさ」を追い求めた。
『血の歌』は、森田童子の秘密に触れると同時に、戦争体験を経た「戦後」という時間の秘密をも物語る。森田童子の歌が存在する限り、つげ忠男の作品が存在するかぎり、「戦後」は終わらないのである。
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血の歌 Kindle版
なかにし 礼 (著)
痛ましい歌声が、俺の胸を血まみれにする。
戦争の昂揚と絶望、そして戦後の果てない堕落。兄の人生を見つめたその娘は、「謎の歌手」に生まれ変わった。
代表作『兄弟』の原型にして、いまに鮮烈な未発表作品、なかにし礼の死後1年目に衝撃の単行本化!
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なかにし礼生い立ち~家族と兄弟仲に無謀過ぎる兄に振り回された半生
現在ではコメンテイターとしても顔を見なくなった
作詞家のなかにし礼さん。
妻に元女優の石田ゆりさんを持ちその姉にいしだあゆみ
さんが見えるなかにし礼さんの生い立ちや家族と兄について
壮絶な過去を追ってみようと思います。
昭和歌謡曲の作詞を多数担当し、数々のヒット作を
世に送り出したなかにし礼さん。
1998年からは小説家としても活動し、2000年には
『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞されています。
またラジオやテレビ番組でのコメンテーターなど様々な
顔を持ち活躍を続けています。
そんななかにし礼さんの生い立ちから兄に振り回された
半生などをまとめてご紹介します。
なかにし礼プロフィール
本名 中西 禮三(なかにし れいぞう)
生年月日 1938年9月2日(80歳2018年9月現在)
職業 小説家、作詞家
出生 満州国の牡丹江省牡丹江市
学歴 東京都立九段高等学校、立教大学文学部英文科
大学在学中にシャンソンの訳詞を手がけました。
1964年に『知りたくないの』のヒットを機に
作詞家になり、『今日でお別れ』『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』など約4000曲の作品を残し
日本レコード大賞など数々の賞を受賞されています。
その後は作家活動を開始し1998年に『兄弟』次作に
『長崎ぶらぶら節』など作家としても数多くの
作品を残されています。
なかにし礼の生い立ち~裕福だった満州時代と家族
なかにし礼さんの両親はなかにし礼さんが
生まれる前に北海道の小樽から、旧満州(中国東北部)
に渡りました。
醸造業を営むなかにし礼さんの両親は関東軍に
お酒を納め、ガラス工場やホテルも経営し成功を
収めていたそうです。
なかにし礼さんは従業員に「坊ちゃん」と呼ばれ
当時は相当な裕福な家庭で育ちました。
その後なかにし礼さんが小学1年生の時に終戦し
満州から引き上げて8歳の時に小樽に戻りました。
その時に家族とともに何度も命の危険に遭遇し
その時の体験が以後の活動に大きな影響を
与えたと言われています。
戦前戦後を生きた人特有の壮絶な体験をなかにし
さんも体験されていたようですね。
今では想像もつかないような壮絶な経験から
数々の作品が誕生しているのかもしれませんね。
なかにし礼さんは当時の混乱の様子を実体験に
基づいて『赤い月』という小説を書かれています。
なかにし礼の家庭崩壊の始まりは戦後の兄の傍若無人から
なかにし礼さんには14歳も年の離れた兄がいました。
14歳とかなり年齢の離れた兄弟だったため恐らく
なかにしさんの年齢(現在80歳)では徴兵制度で
戦争に駆り出される年齢には届いていませんでした。
だが14歳も年上の兄は当然徴兵で日本男児の義務と
して戦争に駆り出されているはずです。
兄は戦時中特攻隊に所属していて生き延び、終戦後
何とか命からがら生き延びた少数派の一人として
なかにし礼さん達家族の元へ帰ることができました。
父親の死後、一家の大黒柱として祖母、母、姉から
頼りにされましたが、戦後の兄は人が変わったように
破滅的で大金を投資しては失敗し、一家はすぐさま借金を
抱える事に没落したそうです。
頼りにするどころか兄の自暴自棄な精神状態に巻き込まれて
一家はどんどん貧乏になっていったそうです。
戦争が一人の青年に与えた影響はやはり生還してきた
極一部の強運を持ったなかにし礼さんのお兄さんであれ
人生観を破壊される程のインパクトとショックがあって
の変貌だったのでしょう・・・
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なかにし礼の兄に振り回された半生と絶縁
ただこの時代の長男と言ったらもうそれはそれは特別な
存在で14歳も年下の弟が意見うぃ言えるような立場では
ありません。
どうにか家庭を立て直したいなかにしさんら兄弟を
傍目にちっとも元に戻りそうにない兄の尻拭いがこの
時代特有の兄弟関係でかなり壮絶な目にあうことに・・・
なかにし礼さんには兄の借金を肩代わりしていた
時期があるそうです。
作曲家として起動に乗り世間でいう成功者となりつつ弟が
夢に向かう最中になかにし礼さんは兄に振り回され
憎しみを抱くようになったそうです。
なかにし礼さんがどんどん有名になりお金を稼ぐように
なっても兄がどんどんなかにし礼さんから借金して
浪費してしまいます。
最後にはなかにし礼さんの名義でお金を借りて
全てを使い切ってしまうほどでした。
なかにし礼さんは兄の借金を返済するのに
大変苦労されたそうです。
その金額も破格の7憶円もの大金を肩代わりしていたとか。
普通なら返しきれない量の借金だったんですね。
ただそんな兄を疎ましく思いつつ兄を憎むが兄嫁が
長男の嫁であるため、献身的になかにしさんらの
母親の介護をしていたこともあり兄を切り離すことが
できなかったそうです。
だがそれも母親が生きているうちは何とか我慢しても
母親が亡くなり家族ができたなかにし礼さんは兄と縁を
切る覚悟をしたそうです。
当然でしょう・・・
あまりにも傍若無人な兄の振舞いは限度を超え過ぎです。
なかにし礼さんもほとほと嫌気がさしていたのでしょう。
縁を切ってからは16年間一切会わず兄が亡くなったと
電話があったときは内心喜んだそうです。
この辺りの心境がなんともリアリティがあります。
そんな兄との関係を自らの体験に基づいた自伝小説
『兄弟』は直木賞候補にもなり1999年にはテレビ朝日の
開局40周年スペシャルとしてドラマ化されています。
「兄さん、死んでくれてありがとう」
という有名な台詞がありますが聞いたときは
衝撃的でした。
今書いてても相当インパクト大過ぎます。汗
でも自分に置き当てたら、死んでくれてありがとう~では
済まされないとは思いますが・・・
だって7億ですよ。
せめて自分が稼いだ金で借金して欲しいものです・・・
兄弟とは言え人のお金を、身勝手過ぎます。
なかにし礼さんのデビュー作にして代表作の『兄弟』
を読んだことがない方はぜひチェックしてみましょう。
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おわりに
現在は2012年に食道がんを患い完治するも2015年に再発しこれも克服したなかにし礼さん。
戦争が幸いして精神状態が破綻したであろう兄弟の莫大な借金を身勝手で理不尽な借金と分かりながら返済を続けてきたなかにし礼さんは絶望的な半生を送って相当苦労されています。とは言えそんな兄さんもお亡くなりになられましたし改めて戦争の恐ろしさを考えさせられるエピソードでした。
現在も精力的に活躍を続けどんな状況でも希望を失わずに生きてきたなかにし礼さんの作品をぜひ読んでみてください。
▲△▽▼
486伝説の名無しさん2019/04/12(金) 23:17:23.23
風吹ジュン誘拐監禁ですが、暴力団とか事件の詳細はどうでもいいです。
ここで興味深いのはアドプロモーションの社長が森田童子の夫、役員が父と叔父だということです。
1974年9月に事件が起きて、1年後に森田童子がレコードデビューしてます。
デビューアルバムには松村慶子をはじめ、当時の一流のスタッフで、なかにし礼が懇意にしている人たちが集まってます。
まるで、もう一度、風吹ジュンに代わってアイドルを売り出そうとするかのようです。
これは想像ですが、風吹ジュン事件で中西、前田ファミリーは負債を負ったことでしょう。
そこでアイドル風吹ジュンの穴埋めとして、家族の一員の前田美乃生さんを森田童子にして歌わせたんじゃないでしょうか。
もちろん本人に有り余る才能があったればこそでしょうが。
たぶんこれはそんなに外れたことじゃないと思います。
そう考えると、森田童子の歌や正体を隠していたことなど違った見方ができるんじゃないでしょうか。
488伝説の名無しさん2019/04/13(土) 09:15:24.33
週刊平凡 1974年10月10日号
「風吹ジュンがなかにし礼さんを強盗傷人罪などで告訴!」(*抜粋)
9月20日―。東京・高輪警察署に一通の告訴状が提出された。
告訴人は風吹ジュン、『ガル企画』の石丸末昭社長、同・杠洋之輔マネジャーの3名。
被告訴人はなかにし礼氏(本名・中西礼三)、実兄の中西正一氏、『アドプロ』の前田亜土社長、同プロの宇野マネジャー、それに住吉連合の幹部・岩井政道氏、その配下・小川利行氏の6人。
岩井氏と小川氏は即日、高輪署に逮捕された。
今後の捜査の状況によっては、人気作詞家・なかにし礼氏に、司直の手がのびないという保証はどこにもない。
『ガル企画』が発足したのは9月9日だが、発足以前にはなかにし礼氏自身も経営者のひとりとして参加予定だったという。それを石丸社長があえて外したのはなかにし氏の評判がかんばしくなかったためといわれる。なかにし氏が、これをおもしろく思うわけがない。
さらに『アドプロ』の前田亜土社長の夫人・美乃生さんは中西正一氏の娘さんである。彼にとっては姪に当たるわけだ。金の卵に逃げられた親類のため、芸能界に顔をきくなかにし礼氏がひと役買って出た気持ちを思えば、あわれである。
495伝説の名無しさん2019/04/14(日) 02:09:28.18
本名を出して素顔を公開したら色んな事がバレてしまうし、
売れてしまったら週刊誌が正体をつきとめようとつけ回る。
だか
詳細は
学生運動に挫折して自殺した恋人を歌った森田童子の名歌『僕たちの失敗』
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14003211