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2022/07/18 (Mon) 06:40:16
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英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
“朝鮮統治”で真に得をしていたのは誰か? - 元外交官・原田武夫の『国際政治経済塾』
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html
過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、読者の皆さんはどのように答えるだろうか。
「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。
そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。
恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。
「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」
というのが、この問いに対する正解なのである。
朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。
なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。
具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。
そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。
満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。
すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。
だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。
もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。
しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。
そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。
確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。
しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。
そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
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李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。
その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。
1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権
ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)
アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)
イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)
ドイツ (金鉱採掘権)
日本 (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権)
当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)
列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが
いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:
1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権
1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権
1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権
1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権
1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権
1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
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2022/10/29 (Sat) 08:59:31
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明治維新以降、日本はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソンの手先として動いてきた。イギリスは1840年から42年にかけて「アヘン戦争」、56年から60年にかけて「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を仕掛け、利権を手にするほか麻薬取引で大儲けしたが、中国(清)を占領することはできなかった。戦力が足りなかったのだ。その戦力を日本が提供することになる。だからこそイギリスは技術を提供、資金を融資したわけだ。
日本をアジア侵略へと導く上で特に重要な役割を果たしたのはイギリスの外交官として日本にいたアーネスト・サトウ、アメリカの駐日公使だったチャールズ・デロングや厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドル。こうした人びとは明治政府に対して大陸を侵略するようにけしかけている。
デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任して外務卿だった副島種臣の顧問になり、台湾への派兵を勧めた。その口実を作るため、日本政府は琉球を急遽、併合したわけである。
イギリスを後ろ盾とする明治政権は琉球を併合した後1874年に台湾へ派兵、75年には李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発する。
1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起こって朝鮮王朝が揺らぐと日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争で日本は勝利し、大陸侵略を始める。
朝鮮では高宗の父にあたる興宣大院君と高宗の妻だった閔妃と対立、主導権は閔妃の一族が握っていた。閔妃がロシアとつながることを恐れた日本政府は1895年に日本の官憲と「大陸浪人」を使って宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害。その際、性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。
イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。詳細は割愛するが、1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本の海軍に敗北する。
そこで登場してくるのが「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印され、日本の大陸における基盤ができた。講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したのだが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄されている。小村は日本がアングロ・サクソンの手先という立場になることを拒否したと言えるだろう。
小村とは逆にアメリカのために動いたのが金子堅太郎。この人物はハーバード大学で法律を学んでいるが、彼の2年後輩がセオドア・ルーズベルトだ。1890年に金子とルーズベルトはルーズベルトの自宅で合い、親しくなった。なお、金子の親友だった団琢磨は同じ時期にマサチューセッツ工科大学で学び、後に三井財閥の大番頭と呼ばれるようになる。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っていた。また日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
明治維新以降、イギリスとアメリカは日本に対して大きな影響力を持つことになるが、より正確に言うならば、シティとウォール街、つまり米英の巨大金融資本だ。1932年にフランクリン・ルーズベルトが大統領選挙で勝利するとウォール街の大物はクーデターを計画、「ファシズム体制の樹立」を目論んだ。この計画はスメドリー・バトラー退役少将によって阻止され、その内容をバトラーは議会で証言している。米英金融資本がナチスへ資金を提供していたことも判明している。
バトラーから情報を得たジャーナリストのポール・コムリー・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。
ウォール街の中心的な金融機関はJPモルガンだったが、その総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。1932年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーのいとこはモルガン・ジュニアの妻。グルー自身は日本の支配層に太いパイプを持っていた。彼の人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、特に親しかった人物は松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。
1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入した。翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
クーデター未遂後もルーズベルト大統領は金融資本の力を無視できなかったが、それでも大統領が反帝国主義、反ファシズムだという意味は大きい。そのルーズベルトがドイツが降伏する前の月、つまり1945年4月に急死、ニューディール派はウォール街に主導権を奪われた。大戦後には「赤狩り」で反ファシズム派は大きなダメージを受け、ナチスの幹部や協力者はアメリカ政府の手で救い出され、雇用されることになる。その延長線上にウクライナのネオ・ナチも存在しているわけだ。
日本でも戦争犯罪に問われて当然の軍人、特高の幹部、思想検察、裁判官などが戦後も要職についている。東京裁判は「民主化」を演出するセレモニーに過ぎなかった。そもそも戦前日本の最高責任者が責任を問われていない。
そしてはじまった戦後日本だが、そのあり方を決めたのがジャパン・ロビー。その中心人物がジョセフ・グルーであり、背後にはウォール街の大物がいた。
おそらく日本軍への警戒からアメリカは憲法に第9条を入れたが、処分が進むと再び日本を手先として使おうとする。それが劇的に進んだのがソ連消滅から4年後の1995年だ。この年の2月にジョセフ・ナイ国防次官補は「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、日本をアメリカの戦争マシーンに組み込む方針を示した。このレポートによって、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれた。
レポートが発表された翌月、帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、國松孝次警察庁長官が狙撃されている。
中国がロシアと「戦略的同盟関係」になった2015年の6月、首相だった安倍晋三は赤坂にある「赤坂飯店」で開かれた官邸記者クラブのキャップによる懇親会で「安保法制は、南シナ海の中国が相手なの」と口にしたと報道されている。その翌年に自衛隊は与那国島に施設を建設した。
そうした状況を作るためには日本と中国の関係を悪化させなければならなかった。それを実現したのが菅直人政権だ。2010年6月に政権が発足した直後、尖閣諸島に関する質問主意書の中で「解決すべき領有権の問題は存在しない」と主張、1972年9月に日****同声明の調印を実現するために田中角栄と周恩来が合意した「棚上げ」を壊した。
この合意で日中両国は日本の実効支配を認め、 中国は実力で実効支配の変更を求めないことを決めていたわけで、日本にとって有利。それを壊した理由は日本と中国との関係を悪化させることにあったとしか考えられない。そして同年9月、海上保安庁は尖閣諸島付近で操業していた中国の漁船を取り締まり、漁船の船長を逮捕した。棚上げ合意を尊重すればできない行為だ。
その時に国土交通大臣だった前原誠司はその月のうちに外務大臣になり、10月には衆議院安全保障委員会で「棚上げ論について中国と合意したという事実はございません」と答えているが、これは事実に反している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202210280000/
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2022/11/25 (Fri) 08:58:28
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フィリピンは16世紀後半にスペインの植民地になった。この時期、日本は戦国時代で、少なからぬ人が奴隷として東南アジアへも売られていたが、その一部である「戦闘奴隷」をスペインなどヨーロッパの軍隊は侵略や支配のために利用していた。日本で奴隷売買が禁止されるのは徳川体制になってからである。
ヨーロッパは11世紀から15世紀にかけて中東を軍事侵略、財宝を盗み、知識を手にした。いわゆる十字軍だ。そして14世紀から16世紀にかけてルネサンスが起こる。
スペインやポルトガルは15世紀になると世界各地で略奪を開始、1521年にはエルナン・コルテスが武力でアステカ王国(現在のメキシコ周辺)を滅ぼして莫大な金銀を奪っている。インカ帝国(現在のペルー周辺)ではフランシスコ・ピサロが金、銀、エメラルドなどを略奪しながら侵略を続けて1533年には帝国を滅ぼした。ラテン・アメリカにおける略奪が現在の「ヨーロッパ文明」の基盤だ。
莫大な量の貴金属を盗んだだけでなく、ヨーロッパの侵略者は先住民を酷使して鉱山を開発した。その象徴的な存在がボリビアのポトシ銀山である。1545年に発見されたこの銀山だけで18世紀までに15万トンが運び出されたとされ、スペインが3世紀の間に南アメリカ全体で産出した銀の量は世界全体の80%に達したと言われている。ただ、この数字は「少なくとも」にすぎず、実態は不明である。全採掘量の約3分の1は「私的」にラプラタ川を経由してブエノスアイレスへ運ばれ、そこからポルトガルへ向かう船へ積み込まれていた。
スペインやポルトガルが盗み出した財宝を海賊に奪わせていたのがイギリスだ。エリザベス1世の時代、イギリス王室に雇われた海賊は財宝を略奪していただけでなく、人もさらっていた。中でも有名な海賊はジョン・ホーキンス、フランシス・ドレイク、そしてウォルター・ローリーだ。
西アフリカでポルトガル船を襲って金や象牙などを盗み、人身売買のために拘束されていた黒人を拉致、その商品や黒人を西インド諸島で売り、金、真珠、エメラルドなどを手に入れていたホーキンスの海賊行為をエリザベス1世は評価、ナイトの爵位を与えている。
ドレイクは中央アメリカからスペインへ向かう交易船を襲撃して財宝を奪い、イギリスへ戻るが、ホーキンスと同じように英雄として扱われた。ドレイクもナイトになっている。デスモンドの反乱を鎮圧するためにアイルランドへ派遣されたローリーもナイトの爵位が与えられた。(Nu’man Abo Al-Wahid, “Debunking the Myth of America’s Poodle,” Zero Books, 2020)
1620年に北アメリカへピューリタン(ピルグリム・ファザーズ)が移住するが、それを可能にしたのは先住の「アメリカ・インディアン」がペストで「掃除」されていたからにほかならない。アメリカでは11月の第4木曜日(今年は24日)を「感謝祭」として祝うが、これはピルグリム・ファザーズたちが最初の収穫を神に感謝したことから始まった。つまり侵略開始の記念日だ。
この当時、アメリカ大陸で「失われた十支族」を特定したという話が流れ、それに基づいて1650年にオランダのラビ、メナセ・ベン・イスラエルは『イスラエルの希望』という本を出版している。イスラエルはイギリスのオリバー・クロムウェルに対し、アメリカ先住民のスー族とコマンチ族を「再ユダヤ化」するためにユダヤ人を派遣するように求めている。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
「失われた十支族」という話は旧約聖書の民族伝説からきている。イスラエル民族の始まりはアブラハムの孫ヤコブで、その12人の息子の子孫がそれぞれ支族を形成したとされ、「イスラエル12支族」と呼ばれている。このうちイスラエル南王国にいたユダ族とベニヤミン族がユダヤ人と呼ばれるようになったという。勿論、これは伝説にすぎない。「十部族」は「失われた」のでなく「存在しない」可能性も小さくない。その怪しげな伝説に従っても、ユダヤ人はユダ族とベニヤミン族だけである。
植民地を建設したイギリス系の人びとはイギリス軍と連合し、アメリカ・インディアンと手を組んだフランス軍と戦うが、その後、植民地とイギリスが対立、1773年にはボストン港に停泊していた東インド会社の船に積まれていた茶箱を投棄している。いわゆる「ボストン茶会事件」だ。
植民地側は1776年に独立を宣言し、1783年のパリで調印された和平条約で独立は確定した。ジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれたのは1789年のことだ。この戦いは「独立戦争」、あるいは「独立革命」と呼ばれている。
今でもアメリカにはイギリスの「帝国主義者」とアメリカの「民主主義者」との戦いという構図を描き、この「独立革命」を絶対視する人が少なくないが、その構図の中にアメリカ・インディアンや奴隷は描かれていない。
独立宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳われているが、その宣言は実現されていない。アメリカ・インディアンをヨーロッパからの移民たちは虐殺し、それと同時に奴隷制を導入して支配地域を東から西へ拡大させていった。
奴隷はアフリカ系だという印象を持つ人は少なくないだろうが、実際は違い、ヨーロッパ系やアジア系もいる。過酷な南部の綿花栽培で使われた奴隷がアフリカ系だったので目立つというだけのことだ。奴隷にはアフリカ系だけでなく、「年期奉公」や「召使い」として西インド諸島や北アメリカへ連れてこられた人も含まれていた。「白人年期奴隷」という表現もある。
また、イギリスではオリバー・クロムウェルが率いる軍隊の侵略で多くのアイルランド人が虐殺され、相当数の人がアメリカへ連れて行かれた。ピューリタン革命を成功させたクロムウェルは革命の仲間だった水平派を弾圧、それと並行してアイルランドやスコットランドを侵略、住民を虐殺したのだ。クロムウェルの軍隊によってアイルランドでは50万人以上が殺され、一部は「年季奉公」や「召使い」として売られたと言われている。事実上の奴隷だ。この当時、イギリスでは人身売買が行われ、「誘拐屋」も存在、1740年の飢饉では多くの人が売られ、誘拐されたとも言われている。(川北稔著『民衆の大英帝国』岩波書店、1990年)
アヘン戦争の後、中国からイギリスの植民地などへ運ばれた「苦力」も一種の奴隷だと言えるだろう。運ばれた先にはアメリカも含まれ、大陸横断鉄道の建設にも従事させられた。そうした中国人の多くは騙されたり誘拐されて苦力なったと言われている。
侵略者は1845年に太平洋側へ到着、46年にはメキシコと戦争をはじめ、テキサス、ニュー・メキシコ、カリフォルニアを獲得した。その間、アメリカ・インディアンの虐殺が続き、1864年には講和を結ぶためにコロラドのフォート・リオンへ向かった約700名のシャイエン族の集団が虐殺された。白人側に従ってサンド・クリークでキャンプするのだが、そこを約750名のアメリカ兵が襲撃したのだ。(藤永茂著『アメリカ・インディアン悲史』朝日新聞、1974年)
フロンティアの消滅が宣言された1890年12月にはサウスダコタのウンデッド・ニー・クリークにいたスー族を騎兵隊が襲撃し、150名から300名を虐殺した。勝海舟を艦長とする咸臨丸が太平洋を横断、サンフランシスコを訪れたのはその年の2月だ。
そして1898年にキューバのハバナ港に停泊していたアメリカの軍艦メインが爆沈。艦長は石炭庫で火災が発生し、それが原因で爆発したと推測していたのだが、アメリカのメディアはスペインが爆破したと宣伝し、政府による調査が行われる前に議会は戦争へと向かう。そこで戦争に消極的だったウイリアム・マッキンリー大統領も宣戦布告せざるをえなくなった。その背後では海軍次官補のテディ・ルーズベルトが戦争熱を高めていた。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)
スペインとの戦争に勝利したアメリカはプエルトリコ、グアム、そしてフィリピンへ矛先を向ける。フィリピンは中国市場へ乗り込む橋頭堡としての役割を果たすことになるが、フィリピン侵略の際にアメリカ軍は住民を虐殺している。そのフィリピンをアメリカは中国を攻撃する拠点として復活させようとしている。
棍棒外交のテディ・ルーズベルトと親しかったことで知られている日本人が金子堅太郎。日露戦争の最中、金子は政府の使節としてアメリカへ渡り、ハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っている。戦争後、テディは日本が自分たちのために戦ったと書いた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
アメリカやイギリスの支配層は アジア侵略の拠点として日本列島に目をつけ、戦闘員として日本人を考えていたのだろう。日本人が傭兵として使えることをヨーロッパ人は16世紀から知っていた。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202211250000/
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4:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/01/13 (Fri) 16:58:00
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2023.01.13XML
日本に強い影響力を維持してきた米英支配層が日本を対中国戦争へ向かわせる
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301130000/
日本がアメリカに支配されていると認識している人は少なくないだろうが、より正確に表現するならば、ウォール街、つまりアメリカの金融資本の強い影響下にある。その巨大資本が作り上げた組織のひとつがCIAだ。
CIAの前身であるOSSは1942年6月、フランクリン・ルーズベルト大統領によって創設された。長官に指名された人物はウォール街の弁護士だったウィリアム・ドノバンだ。
ルーズベルト大統領はウィリアム・スティーブンソンなるカナダ人のアドバイスに従ったようだが、この人物はイギリスの秘密機関BSCの幹部。BSCはイギリスの対外情報機関SIS(通称MI6)によってニューヨークで設立されている。MI6はイギリスの金融界、通称シティと関係が深い。
シティとウォール街の関係を知るためにはロスチャイルドとモルガンの関係を理解する必要があるだろう。
19世紀の中頃、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンでジョージ・ピーボディーと銀行を経営していた。その銀行の業績が1857年に悪化、倒産寸前になる。そのときにピーボディーと親しかったロスチャイルド一族が救いの手を差し伸べている。ピーボディーは1864年に引退し、ジュニアスが引き継ぐ。ロスチャイルドはジュニアスの息子であるジョン・ピアポント・モルガンに目をつけ、ロスチャイルド系金融機関のアメリカにおける代理人に据えた。このジョン・ピアポント・モルガンがモルガン財閥の祖と言われている人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
ロスチャイルド一族を含むイギリスの支配層は世界制覇を実現するため、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げるという戦略を立てた。この戦略を可能にしたのはスエズ運河の完成だ。
内陸部を締め上げるタガの西端がイギリスであり、東端が日本にほかならない。日本では長州や薩摩の倒幕派が徳川体制を倒して明治体制を樹立、のちにイギリスはタガの上にサウジアラビアとイスラエルを建国させている。
徳川体制から明治体制へ移行させた「明治維新」で暗躍したトーマス・グラバーは1859年、ジャーディン・マセソンのエージェントとしてウィリアム・ケズウィックと来日した。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉である。
ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込むという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。
グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。
明治政府に対し、イギリスのアーネスト・サトウやアメリカのチャールズ・デロングやチャールズ・ルジャンドルといった外交官はアジアを侵略するようにけしかける。
1871年7月に新政府は廃藩置県を実施するが、その年の10月に宮古島の漁民が台湾に漂着、その一部が殺されたとして日本政府は清に抗議するのだが、この時点で琉球は独立国であり、日本が抗議するのは奇妙な話だ。
それに気づいたのか、明治政府は1872年に琉球国を潰し、琉球国王に琉球藩王というタグをつける。もし明治政府が琉球国を日本領である、あるいは日本領にしたいと考えていたなら、琉球藩の設置、廃藩置県という順番になるはずだ。廃止したはずの藩を作り、琉球は日本領だという形にしたかったのだろう。そして1874年、明治政府は軍隊を台湾へ送り込んだ。
琉球国が潰された1872年、フランス系アメリカ人で厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルが来日している。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を務めていたチャールズ・デロングと会っているが、その際、デロングはルジャンドルに対し、日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけていると説明している。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)
デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられたが、ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任、顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めた。派兵の際、アメリカの軍事顧問が同行したという。(前掲書)
ルジャンドルは外務省の顧問を辞めた後も日本に滞在、離日したのは1890年。その年から99年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。その当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃(みんぴ)が対立していた。
そうした中、1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。
清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
日本が閔妃を惨殺した4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。
ロシアの動きを見てイギリスは警戒感を強めるのだが、自らが乗り出す余力がない。そこで1902年に日本と同盟協約を締結した。手先の軍隊として日本に目をつけたわけである。イギリスが日本の「近代化」に協力したのは、自分たちの手先として朝鮮半島から中国を侵略させることにあったのだろう。
日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。
ちなみに、クーン・ローブはドイツ系移民、アブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立した金融機関だが、その経営を任されたジェイコブ・シッフはロスチャイルド家に近かった。ポール・ウォーバーグとフェリックス・ウォーバーグはシッフの甥にあたる。またシッフはジョン・ロックフェラーの会社、スタンダード石油の金融戦略を担当していた。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
日露戦争では「棍棒外交」のセオドア・ルーズベルト米大統領が日本に救いの手を差し伸べている。講和勧告を出し、8月にはポーツマスで講和会議が開かれ、9月には講和条約が調印された。韓国における日本の優先的な地位を認め、旅順や大連の租借権や長南と旅順口との間の鉄道の経営権を日本に譲り、サハリンの南半分を日本に割譲し、沿海州やカムチャツカの漁業権を日本に譲渡する等々が決まった。賠償金の支払いは認められていない。
講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄される。日露戦争で獲得した利権をアメリカに取られると主張したのだが、桂首相は利権をアメリカへ渡したかったのだろう。
この当時、日本とアメリカとの関係で重要な役割を果たしたのは金子堅太郎だ。セオドア・ルーズベルトと同じようにハーバード大学を卒業していることから何者かによってふたりは引き合わされ、親しくなっていた。
セオドア・ルーズベルトは1898年のアメリカ・スペイン戦争を主導した人物で、スラブ系のロシアを敵視、日露戦争の勝者が東アジアで大きな影響力を持つと見ていた。朝鮮半島を支配させることも彼のプランには入っていたようだ。日露戦争の後、セオドアは日本が自分たちのために戦ったと書いている。また金子は日露戦争の最中、日本政府の使節としてアメリカへ渡り、1904年にはハーバード大学でアンゴロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことを金子はシカゴやニューヨークでも語っていた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
アジア侵略をスムーズに進めるため、明治政府は周辺国の人びとを蔑視、差別する感覚を日本人に植えつけていく。この「反東アジア洗脳」は今でも「自己増殖」を続けている。
ロスチャイルドと緊密な関係にあったジョン・ピアポント・モルガンはJPモルガンという金融機関を設立するが、1923年9月1日に東京周辺が巨大地震に襲われた後、日本はこの金融機関の影響下に入る。地震の被害総額は55億円から100億円と言われているが、その復興資金の調達を日本政府はJPモルガンに頼ったのだ。
このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後に大蔵大臣となった井上準之助だ。浜口雄幸内閣はウォール街の意向に基づいて緊縮財政を進め、景気は悪化。日本から金が流出して不況が深刻化して失業者が急増、農村では娘が売られる事態になった。
JPモルガンなどウォール街の大物たちはハーバート・フーバー大統領を介してアメリカを支配していたが、1932年の大統領選挙でフーバーはニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。
そこでウォール街の金融資本は1933年から34年にかけてクーデターを計画する。彼らにとって都合の悪いニューディール派を排除しようとしたのだが、この計画は海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将によって阻止された。計画の詳しい内容はバトラーやジャーナリストが議会で証言している。
フーバーは大統領最後の年、 つまり1932年にモルガン一族のジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んできた。グルーのいとこ、ジェーンはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻だ。しかもグルーの妻であるアリスの曾祖父、オリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。
グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていたが、特に親しかったとされている人物が松岡洋右。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。秩父宮雍仁もグルーの友人として知られている。
戦後の日本が進む方向はウォール街を後ろ盾とするジャパンロビーが決めたが、このグループの中心人物はグルーだった。戦前も戦後も日本の支配者は同じであり、「戦前レジーム」だ、「戦後レジーム」だと騒ぐのは滑稽だ。途中、支配構造が揺らいだ時期はあるものの、基本的に「近代日本」は天皇制官僚体制であり、背後に米英金融資本が存在している。この米英人脈は今でも日本を支配、中国やロシアと戦争する準備を進めているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301130000/
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5:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/01/17 (Tue) 13:07:15
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韓国慰安婦問題の正体
2023年01月16日
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12784557286.html
1990年、韓国で、「韓国挺身隊問題対策協議会」が発足し、日本軍の慰安婦問題の糾弾市民団体として活動を始め、2016年に設立した日本軍****隷制問題解決のための正義記憶財団と組織統合し、2018年7月に「正義連」として成立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%80%A7%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%88%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%A8%98%E6%86%B6%E9%80%A3%E5%B8%AF
【2020年5月7日、正義連(挺対協)の活動に協力してきたことで国内外に広く知られていた元慰安婦の李容洙が、正義連は寄付金や補助金の0.2~3%しか元慰安婦らに渡さず、ピンハネや別の目的に利用していたこと、慰安婦は「芸をする熊」のようで熊から搾取する熊使いのような組織であることを告発した。
その後は「慰安婦支援団体」への韓国世論も変わり、慰安婦像設置運動と共に慰安婦をお金稼ぎになど別目的に利用している組織と認知された上に正義連と尹美香議員(前代表)は親北・左派支援、心身障害の慰安婦からの財産窃取、寄付先へ個人口座使使用などが提起されだした。
ソウル西部地方検察庁に家宅捜索され、2020年9月に正義連の理事も共犯として補助金管理法及び地方財政法違反、詐欺、寄付金品法違反、業務上横領、準詐欺、業務上背任、公衆衛生管理法違反など6つの疑惑、8つの罪名で在宅起訴されて裁判にかけられている】
事実上のトップである尹美香は、現在、懲役5年を求刑され判決を待っている。
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/685793
尹美香とは、どういう人物か?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E7%BE%8E%E9%A6%99
その伊美香の議員秘書が、北朝鮮のスパイ容疑で逮捕され、北朝鮮に送っていた秘密情報のすべてを国家情報院(KCIA)が把握していたと公表された。
http://daishi100.cocolog-nifty.com/blog/2023/01/post-315941.html
そして、尹美香自身が、多年にわたる北朝鮮スパイだったと告発されている。
2023.1.13)【永久保存版】日韓に跨る工作活動の実態、尹美香ら関与か(李相哲TV)
https://www.youtube.com/watch?v=zuzm1aTKivQ&ab_channel=%E6%9D%8E%E7%9B%B8%E5%93%B2TV
上のYouTubeに相当に詳しく経過が語られているが、以前から「共に民主党」幹部が北朝鮮の工作員であるとの指摘があった。
https://2ch.logpo.jp/article/4190329
文在寅や尹美香らは、北朝鮮の指令を受けた工作員として、すでに30年近く活動を続けてきた。その組織は、日本の朝鮮総連や、統一教会も含んだ日韓にまたがる大規模なもので、主な資金源は、統一教会が日本の信者から吸い上げた年間数千億円と、朝鮮総連が集めた資金とされている。
統一教会が北朝鮮に献上した5000億円 文鮮明が金日成に「お兄さんになって」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8d49bdb0110a7a8439c664f3bfcd52851f9276da
国民の大半が飢餓状態に置かれていながら、際限のないミサイル****を続ける資金は、実は、統一教会が日本の信者から吸い上げたものだった。信者の財産の大半が北朝鮮のミサイルに消えていたことになる。
〈ペンタゴン文書入手〉北朝鮮ミサイル開発を支える統一教会マネー4500億円
https://bunshun.jp/articles/-/59192
つまり、文在寅や尹美香による【正義連】の活動、慰安婦問題は、北朝鮮の指示によって行われていたことを意味する。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64693
この活動には、朝鮮総連や統一教会が深くバックアップしていて、日本国内にも、国会議員などを含めた北朝鮮関連組織が存在していると指摘されている。
いったい誰なのか?
それは、統一教会に関係した議員のなかにいる。
https://hikari-iyashi.com/toitsukyokai-giin-ichiran/
私は、その核心にいる人物は、統一教会の最高機関紙「世界思想=日報」の表紙をたびたび飾ったこの人物であると書いてきた。
なぜ、安倍晋三なのか?
それは、この男の祖父である岸信介の壮大な野望のなかに組み込まれているからである。
岸信介は、戦前、戦時中、満州国と併合朝鮮(大韓帝国)の事実上のトップだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
満州国の行政は、以下の五名によって担われた。
星野直樹(大蔵省国有財産課長から 1932 年満洲国に転出、37 年満洲国国務院総務長官)、東條英機(1936 年陸軍中将、37 年関東軍参謀長、38 年陸軍次官、40~41 年陸軍大臣、41 年~44 年首相)、鮎川義介(1937 年日産コンツェルンを満洲に移駐、37~42 年満洲重工業開発株式会社総裁)、松岡洋右(1921 年南満洲鉄道株式会社理事、27 年副総裁、35 年総裁)および岸信介(商工省工務局長から 36 年満洲国国務院実業部総務司長、1937年 7 月産業部次長、39 年 3 月総務庁次長、39 年 10 月に帰国し商工次官、商工大臣)
このうちの、星野・東条を除く残り三名は、すべて山口県「田布施」の出身である。
つまり、岸信介が身内の実力者を呼び寄せていたことになる。
そして、彼らは、併合した朝鮮の経営にも携わっていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C
朝鮮総督府、前身の韓国総督は伊藤博文であり、やはり田布施近郊の出身だった。初代朝鮮総督である寺内正毅もまた田布施であって、朝鮮満州の経営の大半が「田布施システム」によって行われたことを意味している。
田布施は、1900年後の大韓帝国=李朝崩壊時に李朝高級官僚の移住先だったとの情報もあるが、現在はアクセス不能になっている。
だが、この不可解な田布施人脈の意味は、皇族の梨本宮方子が大韓帝国王=李垠に嫁いでから浮き彫りになってくる。
ちなみに、戦後、自民党政権の半数以上が、田布施血縁システムのなかにいて、現在の岸田文雄首相も含まれている。
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
方子の第一子、李晋は、1922年に毒殺され、1924年に生まれた第二子は、方子が毒殺を恐れたのか、岸信介が引き取り、友人だった安倍寛に預け、安倍晋太郎として育てた。
第三子である李玖は手元に置いたが、第四子も殺害を恐れて京都の梨本宮関係者に預けられ、後に横田早紀江さんになる。
方子と二人の子の遺伝的一致は隠しようがない。
岸信介は、田布施システムのなかで、安倍晋太郎を将来、韓日統一帝国を建国したときの王にする予定だったとしか思えない。
晋太郎は、自分が李朝の血を引いていることを知っていたようだ。
安倍日本首相の父親「私は朝鮮人だ」
https://s.japanese.joins.com/JArticle/80386?sectcode=200&servcode=200
岸信介は、晋太郎を日本国首相にするための工作を進めていたが成功せず、67歳で死亡した、どうも岸は、統一教会の力を利用して、晋太郎を首相にし、文鮮明のビジョンである韓日統一帝国の王に据える計画だったようだ。
https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12396717618.html
その夢は、息子の晋三に引き継がれたが、奇しくも同じ67歳で山上徹也によって砕かれた。
だが、話はこれからだ……。
岸は、日本国敗戦が見えはじめた1944年から、戦後処理を見据えて、たくさんの工作を行った。
それが岸信介が戦前、戦時中に世界最大の麻薬密売組織である昭和通商を通じて得た超巨額の資金を利用して、戦後、アメリカに逮捕されたときの交渉資金として用意したこと。
岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?
魚住 昭
https://gendai.media/articles/-/49375
魚住氏は「数兆円」としたが、桁が少し違う。日本軍の戦費は現在価値で4000兆円といわれたが、その多くを岸と里見甫の麻薬売り上げが占めていた。たぶん、現在価値で数百兆円は手元にあったはずだ。
戦後、岸の盟友だった正力松太郎・笹川良一・児玉誉士夫・里見甫らはA級戦犯として収容されたが、731部隊を含めて全員が無罪放免になっている。米軍に渡った麻薬資金は、たぶん数百兆円を超えていたはずだ。
岸は手元に残した金で、戦後、民主党を結成し、自由党と合併して自民党ができた。
敗戦数年前から、岸は朝鮮や満州に「残置蝶者」を置いて戦後処理を有利に進めようと考えた。
それは、静岡県二俣町にあった陸軍中野学校スパイ養成所から選抜された。
有名なのは小野田寛郎さんで、フィリピンで戦後30年間も潜伏し、30名以上の地元民を殺害したといわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
実は二俣分校には、中野学校きっての優秀な人材がたくさんいた。その中から、岸は畑中理という人物を、朝鮮に送り込み、抗日パルチザンに潜り込ませた。
日本敗戦後、畑中は、金策を名乗り、金日成を使って朝鮮共和国を建国した。
https://blog.goo.ne.jp/hanzoumon_int/e/cc77992694d58aacabb70b3dcbc8ca1c
https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-12266715553.html
現在の金正恩は、金正日の息子だが、その金正日は実は畑中=金策の息子だといわれる。手足の長い女真族の末裔、北朝鮮のなかで、奇妙に日本人体型だった金正日は、とても日本人的で、将来の朝日統一帝国の王とするために、横田早紀江さんの娘、恵さんを拉致して金正恩を生ませたのだという。
金正恩の影武者は数十名用意されているといわれ、CIAは、少なくとも2020年4月に金正恩が心臓病で急死したことを確認しているが、実は、その人物さえ影武者で、ホンモノはとっくの昔に死んでいるとの情報もある。
https://toyokeizai.net/articles/-/346969
いずれにせよ、北朝鮮金王朝すら、実は田布施システムに組み込まれていた。
恵さんの血は、李朝王李垠の血であるとともに、安倍晋三にもつながっている。だから、統一教会文鮮明は、安倍晋三の統一教会の総力を挙げた支援を行い、安倍官邸人脈にも、原理研出身者の警察官僚ばかりがいるとされる。
岸信介と文鮮明は、日本と朝鮮を統一する王朝を目指していた。その王の候補が、安倍晋三だった。
冒頭に、尹美香が北朝鮮の工作員であることが暴露されたニュースを紹介したが、慰安婦問題は、日韓朝統一帝国の計画と結びついたものだったことが示されている。
それは、自民党や維新、公明党の議員とも結びついていた。
日本では、戦後、在日者として残った朝鮮人を北朝鮮に送る帰還事業が行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84%E4%BA%8B%E6%A5%AD
この主体は、朝鮮総連だったが、今回の尹美香事件でも明らかになったように、朝鮮総連は、完全に北朝鮮の工作機関としての意味しかなかった。
北朝鮮帰還事業の主体は朝鮮総連であり、日本側の最高責任者は当時、首相だった岸信介、そして事務局は、日教組委員長の槙枝元文だった。
当時の金日成は、朝鮮戦争で荒廃した北朝鮮を立て直すのに、在日朝鮮人を労働力として確保するとともに、その資産を手に入れようとした。
実際には、これは金策=畑中理の指揮だったといわれる。岸信介は、9万人の朝鮮・韓国人を北朝鮮に帰国させた。だが、その大半は差別され強制収容所で死亡したといわれる。
結局、岸も金日成も、北朝鮮の運営資金・労働力として、在日者を利用したのだ。
今後、日本を利用した北朝鮮の資金源は事実上断たれたので、北朝鮮財政はますます窮迫の一途となる。もの凄い餓死者が出ているとの報道もある。
だが、北朝鮮には、岸信介が残した巨大な遺産がある。それは麻薬だ。
満州と北朝鮮国境付近に、膨大なケシ畑と麻薬工場が作られているといわれる。
「麻薬と北朝鮮」レポート…それは政権維持の生命線だった
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/07221150/?all=1&page=1
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/584785/
北朝鮮が、今後生き延びてゆく道は、 この麻薬売買しか残されていない。
それは世界に向かって放たれる「パンドラの箱」となる。
https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12784557286.html
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6:保守保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/04/05 (Wed) 17:18:48
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米英金融資本
金融の世界を見ると、アメリカとイギリスは一心同体の関係にある。歴史を振り返ると、アメリカの金融はJPモルガンが中心的な存在、イギリスではロスチャイルドが中心的な存在だが、両者はつがなっているのだ。
19世紀の中頃、ジュニアス・モルガンなる人物がロンドンでジョージー・ピーボディーと銀行を経営していたのだが、1857年にその銀行の業績が悪化、倒産寸前になる。そのときにピーボディーと親しかったロスチャイルド一族が救いの手を差し伸べている。
ピーボディーは1864年に引退し、ジュニアスが引き継ぐ。ロスチャイルドはジュニアスの息子であるジョン・ピアポント・モルガンに目をつけ、ロスチャイルド系金融機関のアメリカにおける代理人に据えるが、この人物がモルガン財閥の祖と言われている。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
1837年から1901年にかけて、イギリスを統治していたのはビクトリア女王。1840年にザクセン-コーブルク-ゴータのアルベルトと結婚すると、この夫が助言者になるが、1861年に42歳で死亡してしまう。1890年代からはネイサン・ロスチャイルド(ロスチャイルド男爵)、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、そしてセシル・ローズらが助言者になった。
ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出し、大儲けした人物。1877年に書いた「信仰告白」の中で、アングロ・サクソンを世界で最も高貴な人種だと表現、その人種が支配地域を広げることは義務だと考えていた。要するに、優生学の信奉者だ。
彼らは世界を支配するため、ユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げるという戦略を立てた。その戦略をまとめたのが地理学者ハルフォード・マッキンダー。1904年に「歴史における地理的要件」というタイトルでプランを発表している。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もマッキンダーの理論に基づく。
イギリスがインドを植民地にしたのは1757年にプラッシーの戦いで東インド会社が勝利してからだが、その前から東南アジア侵略は行われている。日本では15世紀から16世紀にかけての戦国時代、敗者は殺されるだけでなく奴隷として売買されていた。その一部は国外へ売られ、若い男は戦闘奴隷になっている。その戦闘奴隷をヨーロッパ諸国は傭兵として使っていた。
豊臣秀吉は1592年と96年に朝鮮半島を軍事侵略している。いわゆる「文禄の役」と「慶長の役」だが、その際、豊臣軍が朝鮮半島で行ったこと、つまり殺戮、略奪、拉致などは戦国時代の日本列島で行われていたことだ。
米英の戦闘奴隷
そうした歴史のある日本に19世紀のイギリスは目をつけた。
イギリスは経済力では太刀打ちできない中国(清)から富を奪うため、アヘンを売りつける。麻薬取引を清が取り締まるとイギリスは戦争を仕掛けた。1840年から42年にかけての「アヘン戦争」と56年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」だ。
戦争でイギリスは勝利したものの、征服できない。戦力が足りなかったからだ。そこで目をつけたのが日本というわけだ。彼らは長州と薩摩を利用して徳川体制を倒し、明治体制を樹立させた。いわゆる明治維新だ。
明治維新で暗躍したトーマス・グラバーは1859年、ジャーディン・マセソンのエージェントとしてウィリアム・ケズウィックと共に来日している。横浜を拠点にしたケズウィックの祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉である。
ジャーディン・マセソンは中国の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込むという商売を行っていたが、儲けの大半はアヘンの取り引きによるもので、事実上、麻薬業者だった。
グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州から5名の若者をイギリスへ留学させることを決める。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。
明治政権は琉球を併合した後、1874年5月に台湾へ軍事侵攻、75年9月に李氏朝鮮の首都を守る要衝の江華島へ軍艦を派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。
1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)で体制が揺らぐと日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も軍隊を出して日清戦争につながった。
この戦争で勝利した日本はロシアへ接近することが予想された閔妃を1895年に暗殺する。三浦梧楼公使の下、日本の官憲と「大陸浪人」をが宮廷を襲撃し、閔妃を含む女性3名を殺害したのだが、その際に性的な陵辱を加えたとされている。その中心にいた三浦梧楼公使はその後、枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
閔妃惨殺の4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万人の兵を派遣。その翌年には事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。
イギリスはロシアに対抗するため、1902年に日本と同盟協約を締結し、その日本は04年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃、日露戦争が始まる。日本に戦費を用立てたジェイコブ・シッフはクーン・ローブを経営していた人物。
クーン・ローブはドイツ系移民、アブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立した金融機関だが、その経営を任されたジェイコブ・シッフはロスチャイルド家に近かった。ポール・ウォーバーグとフェリックス・ウォーバーグはシッフの甥にあたる。またシッフはジョン・ロックフェラーの会社、スタンダード石油の金融戦略を担当していた。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
1905年5月にロシアのバルチック艦隊は「日本海海戦」で日本海軍に敗北するが、そこで登場してくるのが「棍棒外交」のテディ・ルーズベルト米大統領。講和勧告を出したのだ。9月に講和条約が調印されて日本の大陸における基盤ができた。
この条約は韓国における日本の優先的な地位を認め、旅順や大連の租借権や長南と旅順口との間の鉄道の経営権を日本に譲り、サハリンの南半分を日本に割譲し、沿海州やカムチャツカの漁業権を日本に譲渡する等々を定めている。賠償金の支払いは認められていない。
講和条約が結ばれた2カ月後、桂太郎首相はアメリカで「鉄道王」と呼ばれていたエドワード・ハリマンと満鉄の共同経営に合意したが、ポーツマス会議で日本全権を務めた小村寿太郎はこの合意に反対し、覚書は破棄される。日露戦争で獲得した利権をアメリカに取られると主張したのだが、桂首相は利権をアメリカへ渡したかったのだろう。
この当時、日本にはテディ・ルーズベルトと親しい人物がいた。金子堅太郎だ。ふたりともハーバード大学で学んでいる。そのふたりを何者かが引き合わせたのだ。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語った。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びつく。日本の韓国併合はアメリカの戦略でもあった。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
1923年に起こった関東大震災の復興資金調達が切っ掛けになって日本はウォール街、特にJPモルガンの影響下に入る。そのJPモルガンは1932年にジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んできた。
1932年にアメリカでは大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選している。この結果を憂慮したウォール街の大物たちがファシズム体制の樹立を目指してクーデターを計画したことは本ブログでも繰り返し書いてきた。このクーデターを潰したのが伝説的な軍人であるアメリカ海兵隊のスメドリー・バトラーだ。
グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、 秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らと親しかったが、その中でも特に緊密だったのは松岡洋右だという。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる人物だ。
1941年12月7日に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入する。翌年の6月にグルーは離日するが、その直前に商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202304050000/
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2023/12/03 (Sun) 03:29:13
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2023.12.02XML
バイデン米大統領、尹韓国大統領、岸田首相で作った軍事同盟が注目されている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312020000/
アメリカのジョー・バイデン大統領は8月18日に韓国の尹錫悦大統領と日本の岸田文雄首相をキャンプ・デイビッドへ呼び寄せ、軍事問題について話し合った。この会談で「鉄の三国同盟」が形成されたという人もいるようだが、日本と韓国がアメリカの戦闘部隊になったということにすぎない。
この同盟とは別に、アメリカはアングロ・サクソン系国の軍事同盟を太平洋地域に作っている。オーストラリア(A)、イギリス(UK)、アメリカ(US)で構成されるAUKUSだ。この地域におけるアメリカの軍事拠点はオーストラリアであり、日本や韓国は前線基地ということになる。
こうした軍事同盟のターゲットは中国にほかならない。これは19世紀にイギリスが侵略を試みて以来、アングロ・サクソンの戦略に含まれている。イギリスは1839年から42年にかけて「アヘン戦争」、56年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」を仕掛けた。イギリス東インド会社は中国(清)を食い物にするためアヘンを売りつけたが、中国の反発を招き、戦争になったのだ。
この戦争でイギリスには中国を制圧する軍事力がないことが明確になり、目をつけたのが日本だと言える。そしてイギリスの私的権力は明治維新を仕掛けたわけだ。このクーデターで成立した明治体制はまず琉球併合、次いで台湾派兵、江華島への軍艦派遣、日清戦争、日露戦争と進む。
1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながる。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになった。
1895年10月、ロシアとの関係を強めていた閔妃を三浦梧楼公使は日本の官憲と「大陸浪人」を使って暗殺、その際、閔妃を含む女性3名を陵辱している。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
日本軍は1904年2月に旅順港を奇襲攻撃してロシアとの戦争を開始するが、この戦争の戦費を日本に用立てたのは、ロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフだ。戦争はセオドア・ルーズベルト米大統領の調停で終わった。この当時、ロシアは国内が混乱していたこともあり、調停に応じた。
ルーズベルト大統領はハーバード大学出身だが、その先輩にあたる金子堅太郎と親しい。日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説、同じことをシカゴやニューヨークでも語っている。日露戦争の後にルーズベルトが書き残した文書には、日本が自分たちのために戦ったと書かれている。こうした関係が韓国併合に結びついた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
アラスカ、ハワイ、フィリピンを手に入れ、東アジア侵略を視野に入れていたアメリカにとって日本の韓国併合は願ってもないことだった。アメリカが最も欲しがっていた場所はカリフォルニアのはるか西にある「新たな西部」、つまり中国東北部だった。その場所に日本は「満州国」を建国している。ちなみに、関東大震災以降、日本に大きな影響力を及ぼすことになった金融機関は親ファシズムのJPモルガンだ。
日本の動きを見てもわかるように、台湾や朝鮮半島は中国を侵略するためのルートだ。台湾は日本列島と同じようにアメリカやイギリスの侵略拠点であり、朝鮮半島は橋頭堡だ。台湾がイギリスやアメリカの支配下に入ることは安全保障の上から中国は容認できない。
第2次世界大戦後、アメリカの私的権力は中国に国民党体制を築く計画で、蒋介石に20億ドルを提供しただけでなく、軍事顧問団も派遣している。1946年夏の戦力を比較すると、国民党軍は200万人の正規軍を含め総兵力が430万人。それに対し、紅軍(コミュニスト)は120万人強にすぎず、装備は日本軍から奪った旧式のもので、勝負は明らかのように見えた。
ところが1947年の夏になると農民の支持を得て人民解放軍(47年3月に改称)が反攻を開始、兵力は国民党軍365万人に対し、人民解放軍は280万人になる。1948年の後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒するようになり、49年1月になると解放軍は北京に無血入城、コミュニストの指導部も北京入りする。
大戦後、アメリカの私的権力は破壊工作を目的とする極秘機関OPCを創設、その拠点は上海にもあったのだが、国民党軍の劣勢を見て拠点を日本へ移動させ、厚木基地をはじめ6カ所に拠点を築いた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)
その1949年、日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。いずれも共産党が実行したというプロパガンダが展開され、組合活動は大きなダメージを受けた。
アメリカは「反転攻勢」を計画、日本が兵站基地になることは明らかだった。そのためには輸送が重要で、ストライキされると戦争を遂行できない。労働組合を潰す必要があったのだが、国鉄の「怪事件」でその目的は達成された。朝鮮戦争だけでなくベトナム戦争も対中国戦争の一環だと考えるべきだ。
中国大陸から蒋介石たちは追い出され、台湾へ逃げ込んで反撃のチャンスを狙う。その準備の一環として1949年から岡村寧次)大将など旧日本軍の幹部に接近している。その岡村は上海で戦犯として裁判にかけられたのだが、中国共産党が彼の情報を入手する前、1949年1月に無罪の判決を受けて帰国し、GHQ/SCAPの保護下に入っていた。
蒋介石が岡村の下へ曹士徴を密使として派遣したのはその年の4月。曹は岡村や富田直亮少将と東京の高輪で会談して「台湾義勇軍」を編成することで合意、富田少将が「白鴻亮」の名前で義勇軍を指揮することになった。そこで義勇軍は「白(パイ)団」と呼ばれている。
白団は1950年の正月頃に台湾へ渡り、日本軍の戦術や軍事情報を台湾軍に教育して国家総動員体制を伝授した。翌年の夏までに83名の旧日本軍参謀が台湾へ渡っている。1969年に白団は解散するが、それまで台湾に大きな影響力を及ぼし続けた。その後、台湾はアメリカの支配下に入る。
白団へ軍事情報を渡していたのは「富士倶楽部」、つまり陸士34期の三羽烏と呼ばれた服部卓四郎大佐、西浦進大佐、堀場一雄大佐、あるいは海軍の及川古四郎大将や大前敏一大佐たちだ。
服部はノモンハン事件で作戦指導を行った軍人で、G2(情報担当)のチャールズ・ウィロビー部長から信頼されていた。1949年に服部は市ヶ谷駅の近くに「史実研究所」をつくり、その後、白団へ軍事図書や資料を提供している。その中には自衛隊の教科書も含まれていた。
服部のほか有末精三陸軍中将、河辺虎四郎陸軍中将、 辰巳栄一陸軍中将、中村勝平海軍少将、大前敏一海軍大佐らはアメリカ軍と特に緊密な関係にあり、「KATO機関」、あるいは「KATOH機関」と呼ばれた。ジャーナリストの森詠によると、このうち辰巳中将を除く5名は東京駅前の日本郵船ビルを拠点にし、その3階には「歴史課」と「地理課」があった。
要するに、アメリカは旧日本軍の将校を使い、台湾を拠点として中国との戦争を始めたのだが、1972年2月にアメリカと中国は国交を正常化させる。当時のアメリカ大統領、リチャード・ニクソンは北京を訪問して中国を唯一の正当な政府と認め、台湾の独立を支持しないと表明した。「ひとつの中国」だ。その合意を2022年8月2日、アメリカの下院議長だったナンシー・ペロシが台湾を訪問して壊しにかかる。ペロシが台湾を訪問してからアメリカ政府は台湾への軍事支援を鮮明にした。中国にとって台湾の「独立」はアメリカの軍事基地になりうることを意味すると言える。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312020000/
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2023/12/13 (Wed) 20:59:23
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ウクライナで無惨な失敗に終わった侵略戦争を米国は東アジアでも試みる兆候
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312130000/
昨年11月に台湾で実施された地方選挙で蔡英文総統の民主進歩党が馬英九の国民党に大敗した。蔡総統は「独立」という旗を掲げながらアメリカへ接近、中国との軍事的な緊張を高め、経済関係を破壊する政策を推進しているが、そうした政策を台湾の有権者は支持しなかったということだろう。野党陣営は青白連合を結成、勝利が見えたかに思えたが、その後、2大野党勢力の間に対立が生じている。
年明け直後の1月13日に投票が予定されている台湾の総統選挙は与党である民進党の頼清徳副総統に対し、国民党の侯友宜と民衆党の柯文哲が挑むという構図になっている。アメリカに従属する道を選んだ蔡総統の後継者である頼清徳をワシントンが支援していることは明らかで、今年8月12日に頼はニューヨークを訪れ、パラグアイを訪問し後、台湾へ戻る際にはサンフランシスコに寄った。
それから間もない8月18日、アメリカのジョー・バイデン大統領は韓国の尹錫悦大統領と日本の岸田文雄首相をキャンプ・デイビッドへ呼びつけ、軍事問題について話し合った。この会談で「鉄の三国同盟」が形成されたという人もいるようだが、日本と韓国がアメリカの戦闘部隊になったということにすぎない。
この同盟とは別に、アメリカはアングロ・サクソン系国の軍事同盟を太平洋地域に作っている。オーストラリア(A)、イギリス(UK)、アメリカ(US)で構成されるAUKUSだ。この地域におけるアメリカの軍事拠点はオーストラリアであり、日本や韓国は前線基地ということになる。
勿論、こうした軍事同盟のターゲットは中国だ。これは19世紀にイギリスが侵略を試みて以来、アングロ・サクソンが維持している長期戦略に含まれている。
イギリスを拠点とする東インド会社は1839年から42年にかけて中国(清)を侵略するために「アヘン戦争」を仕掛けた。1856年から60年にかけては「第2次アヘン戦争(アロー戦争)」で再度侵略を試みる。一応イギリスは勝利したが、それは海戦でのことであり、内陸部を占領するだけの戦力はなかった。そこで目をつけられたのが日本にほかならない。イギリスは日本でクーデターを仕掛け、徳川体制を潰して明治体制を樹立させた。明治体制は琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと進んでいく。
日露戦争で日本に戦費を用立てたのは、ロスチャイルド系金融機関のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。戦争の調停に乗り出したセオドア・ルーズベルト米大統領はハーバード大学の出身だが、その先輩にあたる金子堅太郎と親しかった。
ちなみに、関東大震災以降、日本に大きな影響力を及ぼすことになった金融機関は親ファシズムのJPモルガン。1932年のアメリカ大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選、33年から34年にかけてJPモルガンをはじめとするアメリカの金融機関はファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していた。それを阻止したのがアメリカ海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将だ。
日本政府の使節としてアメリカにいた金子は1904年にハーバード大学でアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦っていると演説し、同じことをシカゴやニューヨークでも語った。日露戦争の後、ルーズベルトは日本が自分たちのために戦ったと書いている。こうした関係が韓国併合に結びついた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
アラスカ、ハワイ、フィリピンを手に入れ、東アジア侵略を視野に入れていたアメリカにとって日本の韓国併合は願ってもないことだった。アメリカが最も欲しがっていた場所はカリフォルニアのはるか西にある「新たな西部」、つまり中国東北部だった。その場所に日本は「満州国」を建国している。
アメリカ、イギリス、イスラエルを中心的な構成国とする金融帝国を支配している私的権力は19世紀のイギリスを支配していた私的権力の後継者で、やはり中国、そしてロシアを征服して世界の覇者になろうとしている。
彼らと関係の深いネオコンは1991年12月にソ連が消滅した直後の92年2月、アメリカ国防総省の「DPG(国防計画指針)草案」という形で世界制覇計画を作成した。当時のディック・チェイニー国防長官、ポール・ウォルフォウィッツ国防次官はいずれもネオコンだ。彼らはアメリカが「唯一の超大国」になったと認識、他国に配慮することなく単独で好き勝手に行動できる時代が来たと考えたのである。
このドクトリンに日本を従わせようとしたが、日本側はアメリカの戦争マシーンに組み込まれることを嫌がる。そこで1995年2月にジョセイフ・ナイは「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、それと相前後して奇怪な出来事が相次いだ。
例えば、1994年6月に長野県松本市で神経ガスのサリンがまかれ(松本サリン事件)、95年3月には帝都高速度交通営団(後に東京メトロへ改名)の車両内でサリンが散布され(地下鉄サリン事件)、その10日後には警察庁の國松孝次長官が狙撃されている。8月には日本航空123便の墜落に自衛隊が関与していることを示唆する大きな記事がアメリカ軍の準機関紙とみなされているスターズ・アンド・ストライプ紙に掲載された。その後、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれている。
1999年3月から6月にかけてNATO軍はユーゴスラビアへの空爆を実施、4月にはスロボダン・ミロシェビッチの自宅が、また5月には中国大使館も爆撃されている。勿論、この攻撃で多くの市民が殺され、建造物が破壊された。
2000年の大統領選挙でジョージ・W・ブッシュが選ばれるが、その前年に次期大統領として最も人気のあった人物はジョン・F・ケネディ・ジュニア。1963年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の息子だ。そのJFKジュニアは1999年7月16日、不可解な「飛行機事故」で死亡した。
ブッシュが大統領に就任した2001年の9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されるという衝撃的な出来事が引き起こされた。それを利用、彼らは国外で侵略戦争を本格化させ、国内で収容所化を進めた。その世界制覇計画の前に登場してきたのがロシアのウラジミル・プーチンにほかならない。
アメリカの戦争マシーンに組み込まれた日本は必然的に戦争への道を歩み始める。そして自衛隊は2016年に軍事施設を与那国島に建設、19年には奄美大島と宮古島にも作った。2023年には石垣島でも完成させている。すでに中国と戦争する準備を始めたということだ。
この軍事施設はアメリカの戦略に基づくもの。アメリカの国防総省系シンクタンク「RANDコーポレーション」が発表した報告書によると、アメリカ軍はGBIRM(地上配備中距離弾道ミサイル)で中国を包囲しようとしているが、配備できそうな国は日本だけ。その日本には「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約があるため、アメリカはASCM(地上配備の対艦巡航ミサイル)の開発や配備で日本に協力することにする。そしてASCMを南西諸島に建設しつつある自衛隊の施設に配備する計画が作成されたという。
ところが、昨年10月、「日本政府が、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」の購入を米政府に打診している」とする報道があった。亜音速で飛行する巡航ミサイルを日本政府は購入する意向で、アメリカ政府も応じる姿勢を示しているというのだ。日本のミサイル開発を待っていられなくなったのだろう。
トマホークは核弾頭を搭載でき、地上を攻撃する場合の射程距離は1300キロメートルから2500キロメートルとされている。中国の内陸部にある軍事基地や生産拠点を先制攻撃できる。「専守防衛」の建前と憲法第9条の制約は無視されている。
このミサイルを使う自衛隊の戦力は約25万人、予備役は約5万6000年、日本と同盟関係にある韓国軍の戦力は約50万人、予備役は310万人ということになる。アメリカ軍はオーストラリアを拠点にし、航空兵力は太平洋の島に分散させると見られている。
アメリカはユーラシア大陸の東岸で十分の手下を見つけられなかったようで、AUKUSなる軍事同盟を組織した。オーストラリア(A)、イギリス(UK)、アメリカ(US)のアングロ・サクソン同盟だ。それと日米韓の軍事同盟が連携する。そうした構図の中での台湾情勢だ。
日本にとって危険な情勢になっている。抵抗する政治家や官僚がいても不思議ではなく、そうしたグループが現れたなら、スキャンダルで黙らせる可能性がある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202312130000/
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9:777
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2024/02/26 (Mon) 10:16:29
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アメリカは今や対中国戦線で日本を必要としている
2024.02.26
https://www.thutmosev.com/archives/%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e3%81%af%e4%bb%8a%e3%82%84%e5%af%be%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e6%88%a6%e7%b7%9a%e3%81%a7%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e5%bf%85%e8%a6%81%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84.html
ブッシュは小泉の トモダチを演じながら潘基文を事務総長にし対日攻撃を進めた。国際社会とはこういうもの
http://coolminori.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-9491.html ブッシュ・小泉時代が懐かしい_ 浮雲変幻
アメリカによる日本包囲網
韓国の対日攻撃が最大になったのは潘基文(バン・ギムン)が国連事務総長に選出された2006年から2010年代前半頃までで、その背後にはアメリカが加わっていた
潘基文を事務総長に推したのは米ブッシュ大統領で、小泉首相と「トモダチ」と言いながら実際には対日攻撃を強化し日本を貶めていた
ブッシュは2007年の安倍首相との首脳会談で唐突に慰 安 婦を持ちだして「おい!謝罪しないならここから出て行け」と怒鳴り安倍首相はなぜか日米首脳会談で韓国に謝罪して帰ってきた
この首脳会談の議題は日米貿易摩擦でブッシュは日米交渉の主導権を握るために無関係な日韓問題を持ち出して安倍首相を謝罪させ、口答え出来なくして日本から全面的な譲歩を勝ち取った
同じ事はクリントン政権やレーガン政権でも起きていてビルクリントンは日米貿易摩擦などで日本が抵抗するたびに韓国や中国に電話して「過去の戦争で日本を非難して欲しい」と依頼しアメリカが支援すると約束した
だから80年代や90年代に日米が対立すると「教科書問題」や「強制連行」などを中韓が言い出して必ずアメリカが彼らに加担し日本はアメリカにも中韓にも謝罪に追い込まれた
続くオバマ大統領も心底から日本を憎み切っていて「全ての国際機関から日本を追放しアジア諸国に入れ替える」という指示を出していた
だがオバマが人類の理想郷と信じていた中国の習近平との会談で「太平洋を2分割し日本を中国の領土と認めれば、ハワイとグアムをアメリカに残してやっても良い」と言われようやく自分の愚かさと中国の本性に気づいた
ここからアメリカの日本観は徐々に転換していき中国とアメリカが不仲になるにつれて日本の重要度が増しなくてはならない存在になった
アメリカにとって中国は理想的なパートナーだという考えは第二次大戦前からあり、戦前からアメリカは中国を重視し中国の主張だけをうのみにして「ハルノート」という対日宣戦布告宣言もした
アメリカの対日観はペリー提督が嘉永6年(1853)に初めて来た時から変わっておらず、ペリーは「ここは我々の約束の地だ」と日本をアメリカの植民地にすると明言していました
一方の中国はアメリカから見て自国と同等の大国なのでパートナー、日本はアメリカから見てサンダルか草鞋のようなものという訳でした
アメリカは必要な時だけ日本を支援し不要になったら切り捨てる
そんなアメリカが日本に接近したのは過去に3回で1回目は日露戦争前にロシアの脅威が高まった時、代理戦争で日本を戦わせて「負ければ良い」と思っていたが日本が勝ったので敵国認定し始めた
今ロシアがウクライナと戦っているが西側諸国がウクライナを支援するのは身代わりとしてウクライナを戦わせているからで、本当にウクライナ人の幸せとかを願ってはいない
2度目にアメリカが日本を必要としたのは1950年朝鮮戦争のときで、朝鮮は日本列島の向こう側にあるので日本の協力なしに何もできなかった
3度目は米ソ冷戦の時でアメリカは1970年代に朝鮮戦争に続いてベトナム戦争にも敗北し、ソ連には勢いがありアメリカは負けるかも知れなかった
当時の日本にも勢いがあり経済規模でソ連を超えて西側陣営として協力し、アメリカも自国の市場を日本に開放してゴミのような日本製品でも気前よく買った
1970年代の日本製品は品質の低い詐欺のうようなもので、日産ブルーバードという車はVWビートルが登れた坂道を上れず日産の社員が申し訳なく感じたという逸話も残されている
4回目は2010年代に顕在化した米中対立で、ようやく欧米人も中国人が14億人の善人ではなく悪人だと知り米中対立をしかけたが劣勢だった
勢いは完全に中国が上だったがここに対中国で2000年間無敗の日本にお呼びがかかり、「おい日本、中国と戦え」となった
欧米人は中国という国が怖くて仕方がないらしく、長年中国と対峙してきた日本を必要としここに日本の再興が約束された
最近日本経済や日本の株価が好調で世界からの投資が押し寄せているが、こうした事は自由な市場原理ではなく多くの場合八百長も含まれている
欧米は日露戦争で日本を必要としたように中国と戦う国を必要としており、日本と中国を戦わせるには日本の経済力が中国の4分の1では分が悪い
日本の経済力や国力を中国の半分以上にし 欧米が加勢したら日本は中国と互角に戦えるはず、というのが彼らの考えだと思われる
戦うというのはミサイルが飛び交うばかりではなく、戦わずに中国を屈服させればそれが一番いいし、真綿で締めるように中国を締め上げて国力を削ぎとっていくのも良い
https://www.thutmosev.com/archives/%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%ab%e3%81%af%e4%bb%8a%e3%82%84%e5%af%be%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e6%88%a6%e7%b7%9a%e3%81%a7%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e5%bf%85%e8%a6%81%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84.html
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2024/05/16 (Thu) 07:14:45
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アメリカ崇拝は日本の自滅〜日本が滅びる4つのシナリオ
伊藤貫セミナー Ito Kan Seminar (公式) 2024/05/08
https://www.youtube.com/watch?v=xSvVCfnuCA8&t=152s
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2024/11/21 (Thu) 10:16:40
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サムスン創業者の李秉喆(イ・ビョンチョル)、日韓併合がチャンスを与えた
2024.11.21
https://www.thutmosev.com/archives/81257249.html
日韓併合によって農村の少年が早稲田に進学できるようになり、日本との 貿易会社を設立した
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画像引用:http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2015/0210/142357311147_20150210.jpg
日韓併合までの韓国の歴史
サムスン電子のサムスンは1938年創業であり、意外というか当然というか創業者の李秉喆(以下ビョンチョル)は当時日本人だった
ビョンチョルは1910年2月12日、日本に近い慶尚南道(釜山周辺)で大地主の家の次男として生まれ裕福な少年時代を過ごした
日韓併合が1910年(明治43年)8月29日だったのでビョンチョルが生れたのは李氏朝鮮1000年が終わる間際で、大韓帝国末期で激動の時代だった
1895年に****者閔妃を日本軍がクーデターで排除し、1897年に大韓帝国が建国されたが1910年に取り潰しとなった
1895年に日清戦争が起きているが、この戦争は朝鮮王高宗の妃だった閔妃が引き起こしたもので清国に日本を倒させようとしたのが閔妃だった
高宗は政治に関心が薄い上に無能だったので閔妃一族が国を支配し、朝鮮を支配した閔妃は干渉を強める日本を排除しようとした
1868年に明治維新が起き、先に近代化した日本に対し李氏朝鮮は大きく後れ、このままでは西洋列強の植民地になる恐れがあった
李氏朝鮮は秀吉の時代には既に日本から大きく遅れていたから侵攻を招いたのだが、江戸末期にはさらに格差が開いていた
明治初期になると日本は蒸気軍艦や発電所や機関車を導入し近代工業化し始めたのに、李氏朝鮮は路上で用を足している有様だった
当時朝鮮はアジアで最も貧しい国でアフリカの未開地域並みだったので、日本は朝鮮をぶん殴って開国させて近代化する事にした
朝鮮は中国の冊封国つまり植民地だったが、朝鮮内部で清国との冊封体制を巡って対立が起き、1882年(明治15年)清国軍と日本軍が朝鮮に出兵した
冊封体制を支持する事大党が清国軍を、開国を支持する開国派が日本軍を呼び寄せ、ここに日清戦争へ至る対立が始まった
併合朝鮮とサムスン創業
この時高宗の妻であり朝鮮を支配する閔妃一族は、清と日本を戦わせて日本を追い払おうという一石二鳥戦略を立て清国側についた
現在では日清戦争は日本が勝って当然という評価だが、戦前の予想では清国の国力は日本をかなり上回っていたので清国が勝つという下馬評でした
日本と中国の国力が逆転するのは日中戦争の1930年代で、それまで1000年以上も中国のほうが強大だったからです
1895年に清国を倒した日本は清に加担した閔妃を成敗し1897年に大韓帝国が建国、だが日露戦争で同じ事が繰り返された
1904年(明治37年)の日露戦争では韓国側は再びロシアと日本を戦わせて日本を追い払う戦略を立てたが、また日本が勝った
ロシアに加担した大韓帝国を廃国とし、「敗戦国」の韓国を併合した頃にビョンチョルが釜山近郊で生まれたのでした
ビョンチョルにとって日韓併合こそ最大の幸運で、もし李氏朝鮮や大韓帝国が続いていたら農村で一生を終えたかもしれない
日韓併合によって700万人以上の朝鮮人が突然「日本人」になり、日本に渡航したり世界とビジネスができるようになった
今では日韓併合は悪事のように言われているが当時は世界最貧国の朝鮮人が突然「一等国」で世界列強の日本国民になったのでほとんどの人が喜んでいた
釜山で地方富農の息子だったビョンチョルはチャンスを掴み今でいう小学校から高校を卒業し、日本の早稲田大学に進学した
これで分かるのは韓国を併合した日本は富農から土地や資産を奪ったりせず、教育を受けさせて日本の大学進学も認めていたことです
ビョンチョルは虚弱で病気がちだったうえ、父親が亡くなったので早稲田大学を中退して朝鮮に戻りました
ビョンチョルは次男だったがかなりの遺産を相続し、友人2人と1万円ずつ出資し精米会社を設立したが失敗している