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【日本最大のタブー】京都駅徒歩5分の被差別部落「崇仁地区」の現状

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2022/07/11 (Mon) 17:09:41

【日本最大のタブー】京都駅徒歩5分の被差別部落「崇仁地区」の現状
2022/03/23
https://www.youtube.com/watch?v=g_wcORnSIBA

【絶対に行ってはいけない】京都の不法占拠地帯「ウトロ地区」に行ってみた - YouTube
2022/03/13
https://www.youtube.com/watch?v=PdsUS7ZCqBk


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京都は美しい街、 しかし幽鬼の住む死の世界
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14014381

京都の「おもてなしの文化」 とは _ わかる人にはわかる日本一ハイ・センスな京都 俵屋旅館
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14011827

日本一の料理店 京都 円山公園 未在
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14011725

魅力度ランキング2位「京都」に住んでわかる理想と現実 _ 京都は殆どが部落地区 _ まともな人間は一人もいない
http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/777.html#c1

京都にだけは住んではいけない
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/918.html


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裏には裏の道があり  2011/2/25

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。

だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。

15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。

A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/13f7cdcd736285b2acfdb818a1be2ff2


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朝鮮部落の朝は、酒の臭い。2011-01-03 | 日記

私は、この朝鮮部落に住んでもう8年ぐらいたちます。

あさは、ひとのさぐりあい、ひとのけなしあい、おまけに悪口大会、
そうして、つながりといえば、兄弟姉妹のセックス関係だけです。

あんまり****がおおいので、ちんば、いざりがたくさんいます。
それに、通名も当たり前で、年賀状も通名らしいです。

この朝鮮部落の臭いは、時にねこのしょんべんのにおい。
ときに、酒の発酵した、いやなにおい、または、たまに洗濯のいいかおり、

朝鮮人が昨年しんでいきましたが、内密に葬式をしたらしく、釣り目のあつまりはみれなかったです。

そのひとは、すこしおかしなひとでした。

いつも、のぞいてました、大家にうその通報はするは、本当にいやなひとでした。
「うえから、みえるんだろう」とか
「おいだしてやる」とか

困っていたら、しんでゆきました。北朝鮮のほうへたぶん灰はとんでいったのでしょうね。

朝鮮部落の若者は、結婚しませんというよりも、できません。
または、朝鮮部落同士まぐわります。

それで、ちかくにある産婦人科でおろします。
生めない子つまり、****のこどもだからです。

性の関係は、普通の人よりも、はるかにはげしいです。
結婚できないためなのか?

ストレスの多い環境のためなのか?
すごい、年齢まで、****または、デリヘルなどでやりまくりますね。

この町のいいところは、ひとのさぐりあいですので、
孤独死はありません。たぶん大家が勝手にさぐりますからね。

朝鮮人同士の仲のよさ、それはすごいです。
ほかのものをよせつけないし、臭い部屋でも平気ですね。

孫も、ちょうせんじんなら、かわいそうとしかいいようがないです。
人間のうじですね。

私の住む町は、●●朝鮮部落です。
しかし、みんなは、ひみつにしております。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/fc08fc45f24c9891f107bc50f2a03dd7
2:777 :

2022/07/11 (Mon) 17:14:40


崇仁地区 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B4%87%E4%BB%81%E5%9C%B0%E5%8C%BA


崇仁地区 地図
https://www.bing.com/search?q=%E5%B4%87%E4%BB%81%E5%9C%B0%E5%8C%BA+%E5%9C%B0%E5%9B%B3&qs=n&form=QBRE&sp=-1&pq=%E5%B4%87%E4%BB%81%E5%9C%B0%E5%8C%BA+%E5%9C%B0%E5%9B%B3&sc=9-7&sk=&cvid=249AA4A817A141319B6F5ACA90D29139&ghsh=0&ghacc=0


崇仁(すうじん)は、京都府京都市の地区名。「崇仁地区」と呼ばれる京都駅の東側の一帯(27.4ヘクタール)で、2019年時点での人口は約1300人[1][2]。長年、差別的な扱いを受けてきた地区として知られ、京都駅に近い好立地ながらも長らく京都の人々から避けられてきた「塩漬け」の土地であったが、2017年度中に京都芸大及び美術工芸高校の移転に伴う崇仁地区再開発計画が市が公表し、崇仁地区の歴史を尊重しながら「被差別化地区」からの脱却を見込まれる


歴史

崇仁は特殊な職業に就く人や在日コリアンなど、差別的な扱いを受けていた人々の多く住む地区であり、独自のコミュニティを形成し、結果長い間アンタッチャブルな地域として扱われてきた[3]。

16世紀前半、六条河原が処刑場になり河原者と呼ばれた人々数百から千人によって刑務が行われていた。以降、六条河原からの六条郷移転(成立時期は不明)や豊臣秀吉による御土居の築造を経て、江戸時代の1663年、六条郷が松原稲荷町から六条河原役田地へ移転し六条村が成立した[4]。

1698年(元禄11年)、京糸割符仲間は奉行所に銭鋳造の許可を願い出た。七条高瀬川ぎわ6400坪の土地に許しが出たため、1700年(元禄13年)2月13日から寛永通宝の鋳造を開始。1707年(宝永4年)、幕府は鋳造を宝永通宝へと変更するも不評だったため、1709年(宝永6年)1月23日には鋳造を停止した。銅鋳造の跡地は銅気が多く耕作に向かないため、永らく放置された。 1713年(正徳3年)、六条村へ皮張場含め3000坪の柳原庄の土地が渡され、「水車裏」に非人と呼ばれた人々が移転した。1731年(享保16年)には天部村年寄・源左衛門と六条村年寄・与三兵衛が京糸割符仲間が手放した銭座場跡に新しい村を開発することを願い出て、銭座跡村7000坪以上に開発許可が出た。これが今日の崇仁地区南部の起源となった[4][5]。1843年(天保14年)には六条大西組が成立した[4]。

明治に入り、1871年(明治4年)に解放令発布。 1889年(明治22年)には市町村制が施行され、愛宕(おたぎ)郡から紀伊郡に編入され、柳原町となった。住民は既存の銀行を使うことが出来なかったため、1899年(明治32年)合資会社柳原銀行が設立。1907年(明治40年)には柳原銀行は現建物となり、柳原銀行記念資料館として現存し差別の歴史を伝えている[3][4]。銀行自体は1927年(昭和2年)に破産している。1918年(大正7年)、紀伊郡柳原町は京都市に編入された[4]。同年柳原町で米騒動が起き、同地区では被差別者50人以上が逮捕された[6]。

在日コリアン
明治期以降、土地所有を認められた七条の被差別者らが人口増加によって畑地であった東九条地域に進出した。その後を追って、韓国併合を背景に自発的・非自発的に朝鮮半島から渡日した人々が周辺に居住するようになった[7]。長らく日本人の被差別者らと在日韓国・朝鮮人の関係は良好と言えるものではなかったが[7]、近年では1993年から開催される「東九条マダン」(マダン〈 마당 〉は朝鮮語で広場の意味)など、日本人と在日コリアンの交流の場が持たれるようになった。東九条マダンは在日コリアンの多い南区東九条で開催されてきたが、26回目の開催となった2018年には初めて東九条を出て下京区旧崇仁小学校で開催した[7][8][9]。

住民の活動
高度経済成長期においてもインフラ整備が遅れ、発展から取り残された。住環境は劣悪であったが、1956年に住民の運動を受け、京都市は地区内のバラックを買い上げ改良住宅を建設した。ピーク時には人口は9000人以上に上った[10]。1991年(平成3年)には「崇仁地区の文化遺産を守る会」が、1996年(平成8年)には 「崇仁まちづくり推進委員会」が発足。先述の柳原銀行記念資料館は1997年(平成9年)に開館した[4]。

2001年、市は老朽化した崇仁の改良住宅4棟の建て替えを計画したが、財政難を理由に実現しなかった。しかし、2014年に京都市立芸術大学の崇仁へのキャンパス移転が決まると、市は1年あまりで空き地だった市有地に公営住宅を新設。大学の建設予定地の改良住宅7棟に2021年4月以降の取り壊しが計画されるなど、住人は事実上の立ち退きを迫られることになった[10]。2019年9月の京都市による地元説明会では、都市計画の用途地域を変更して容積率などを緩和する素案が示されたが、住民側からは疑問が示された。同年10月には同地区内東九条南河原町にある「THEATRE E9 KYOTO」で、市の素案には地元意見が十分反映されていないとの危機感から劇場関係者らが緊急シンポジウムを開催。地元住民ら100人が参加した。シンポジウムでは、地域の文化活動関係者や識者によって芸術家や地域住民が住むことができる地域づくりの重要性が指摘された[9][11]。

崇仁新町
2018年2月、市は大学移転までの空白期間における崇仁地区の活用のため、「崇仁新町」と名付けられたコンテナの屋台街を建設。出店しているのは地元の若手飲食店主たちで、コンテナの前は飲食スペースになり、奥には芸大生が絵を描いた舞台やたき火のできるイベントスペースなども作られた[12]。


地理
東九条は主に在日コリアンが集まる居住区で、朝鮮料理店が多い[3]。2005年公開の日本映画「パッチギ!」ではリ・アンソンと妹のキョンジャの居住する地域に設定され、作内でも同地が度々登場した[13]。

長年、被差別部落と呼ばれていた崇仁地区は、各種インフラ整備が整えていなかった。かつて崇仁地区にはスーパーマーケットやコンビニが存在しなかった。しかし、2017年、京都芸大移転計画の始動に伴う崇仁地区再開発が決定後、インフラ整備や不動産投資が速やかに動き出した。2018年11月、セブン-イレブン 京都七条大橋店開店し、崇仁地区における生活環境の改善も期待できる。

地価は京都市の「田の字地区」に匹敵するほどの高騰を見せている[14][15][16]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E4%BB%81_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
3:777 :

2022/07/11 (Mon) 18:13:54


ウトロ地区 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=+%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%AD%E5%9C%B0%E5%8C%BA+


ウトロ地区 地図
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=26204&az=Mi4xMDNh&lat=34.88170&lon=135.77125&zoom=16&maptype=basic


ウトロ地区は、京都府宇治市伊勢田町[1]51番地に所在する地区(伊勢田町小字ウトロ)。

在日韓国・朝鮮人の集住地域のひとつで、陸上自衛隊大久保駐屯地の北隣にある。戦時中に計画された飛行場の募集に参加した日朝建設労働者とその家族の使っていた飯場を源流とする。

韓国人の多い地域としては徴用以前から日本に居住していた朝鮮人をベースに、ここに1930年代末には既に日本に渡ってきていた朝鮮人、更に戦後も帰国せず日本に住むことを選んだ一部の被徴用者たちが合流して形成された[2]。

2016年には家屋の解体が始まり不法占拠状態が解消、再開発が始まった。「ウトロ地区」とはあくまで通称であり、正式な地名(町丁)ではない。本来の正しい地名は宇土口(うとぐち)であるが、誤記や誤読によって「ウトロ」へと変化したと考えられている。北海道のウトロとは関係していない。


起源
第二次世界大戦中の1942年2月に京都飛行場[3]と、併設の飛行機工場の建設工事が正式決定した。日本国際航空工業(日産車体の源流企業)が建設工事を請け負い、工事には約2000名が従事した。従事者の約1300名が朝鮮人であり、彼等とその家族が生活していた1943年建造の飯場(宿泊設備)が現在のウトロ地区の前身である。かつて当地区住民側は居住権を主張する根拠として「ウトロ住民は1944年9月から1945年3月までの間、出稼ぎに来た朝鮮半島出身労務者とその子孫であり、ウトロ住民の居住権は日本政府、もしくは原因企業の日産車体、ひいては母体の日産グループが保証すべきである」とし、地主企業の西日本殖産との法廷闘争と並行して、日本政府、および日産グループを相手方として闘争を展開してきた[4]。しかし、ウトロ地区住民の作る「ウトロ国際対策会議」などによると日本国際航空工業の1300人の朝鮮人労働者達は、ほとんどが国民徴用令や国家総動員法による徴用で来日した訳ではなく、経済的理由で移住してきた者であるとしている[2][5]。

朝鮮人らで組織されているウトロ町内会の調査では、2005年時点ウトロ地区に暮らす65世帯のうち、(1)大戦中に飛行場建設工事に関わった1世と子孫、(2)その親類縁者 (3)戦後(1945年以降)にウトロに移住してきた家族とその子孫が、それぞれ3分の1ずつを占めるとされる。65歳以上の高齢者を含む世帯が30世帯、その中で高齢者だけの世帯が16世帯20人。生活保護世帯が全体の約20%(宇治市平均約1%)である。このように、若い世代はウトロから転出し、高齢層は日本から生活保護を受けることで残っている傾向にあるとしている[6]。しかし、韓国の国務総理傘下の「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も、2006年末の報告書で、ウトロ地区住民について、「強制徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにしている[7]。また、水野直樹は講演で、戦時中に鉱山での過酷な労働を嫌って逃げ出した朝鮮人労働者が多く、軍指定の労働のためここで働けばまた徴用に会わないと、ウトロ地区に来た者もいたと述べている[8]。

よってウトロ地区は、徴用以前から日本に居住していた朝鮮人を基盤とし、これに1943-1945年3月までに来日したものの帰国しなかった被徴用者と、戦後に地区に来た朝鮮人らが加わって形成されたものである。



ウトロ地区問題の推移

1945年7月、飛行場が米軍に爆撃されたことを受けて航空機工場は生産活動を停止し、従事者の全てが失職した。終戦と同時に飛行場の建設が中止されると彼らが居座る理由も法的な根拠も無くなり、更に同基地と付帯設備はGHQが接収することとなった。朝鮮人労働者の大半は帰国したが、GHQからの退去勧告および朝鮮への帰国要求を拒否した朝鮮人労働者は不法に残留し続け、GHQが接収できなかった元・飯場が朝鮮人集落の原型となった。これは朝鮮までの船賃が労働賃金の数ヶ月分にも相当するほど高額で工面できなかったり、GHQによる無償の送還事業から漏れる等して帰国できなかったためである。朝鮮人の集落は日本各地に存在するが、私有地の不法占拠という点でウトロ地区は他の地域と事情を異にする。

日本国際航空工業の合併等により1962年の7月に、ウトロ地区の土地所有権は日産車体工機(現・日産車体)へと移る。1980年代、不法占拠であることを理由として水道管の敷設を認めない日産車体側と、人権問題であるとして水道管の敷設を認めるよう要求するウトロ地区住民側が対立。1987年3月、日産車体が水道管の敷設を認める結果となった。

土地転がし騒動
1987年3月、日産車体はこの問題を解決するために80世帯380名(当時)が居住するウトロ地区の全土地を、同地区の自治会長を自称する平山桝夫こと許昌九(ホ・チャング)に3億円で売却した。許に資金を融資したのは在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)系の金融機関の旧・大阪商銀であり、その融資の連帯保証人となったのは、在日本大韓民国居留民団の京都地方本部団長であった河炳旭(ハ・ビョンウク)である。

2カ月後の1987年5月、許昌九はウトロ地区の土地を、同氏が設立した西日本殖産という名の不動産会社に4億4500万円で転売した。西日本殖産は同年4月30日に河炳旭が100万円の資本金を出資して設立されたばかりの有限会社であり、設立当時は同氏の親族が代表で、許昌九が役員であった。大阪商銀は西日本殖産への融資に対し、ウトロ地区の土地に極度額5億円の根抵当権を設定した。登記簿は中間省略され日産車体から西日本殖産への売買の形で所有権移転登記が行われた。国土利用計画法第23条による届け出は1986年12月4日に日産車体と平山より出され、京都府は審査のうえ問題ないと判断し1987年1月13日に通知をした。しかるに西日本殖産への売却に際しての届け出はなく、同法違反の疑いがある。西日本殖産の代表取締役が、一時期この平山桝夫であったという事実もあるので、その辺は若干ルーズに行われた可能性がある[9]。

1988年9月、河炳旭はウトロ地区の土地を所有する西日本殖産ごと金澤土建という土木建築会社に売却し、ウトロ地区から手を引いた。なお当時はバブルの絶頂期であり、投機目的での短期間の土地転売による利鞘稼ぎ(土地転がし)が全国で横行した時期でもあった。西日本殖産はウトロ住民側に土地の明け渡しを申し入れたが、住民側が応じなかった。

立ち退きを求める訴訟
1989年2月、西日本殖産は住民に対し、ウトロ地区の土地購入又は退去を求める民事訴訟を提起。それに前後して、同胞に対する背信行為によって巨額の差益を手にした許はウトロ地区から姿を消し、以降の所在が不明となる。西日本殖産とウトロ地区住民の間の民事訴訟は長期化し、2000年11月、最高裁にてウトロ地区住民側の全面敗訴が確定。

日産への要求
1988年、当時の西ドイツの自動車メーカーであるダイムラー・ベンツ(当時)は、第二次大戦中に同社で強制労働に服されたユダヤ人からの補償請求に対し2000万マルクを支払い、同社の自動車博物館の正面に彫刻物を設けた[10]。この事実を知ったウトロ住民は、上京し日産車体と日産自動車に対し補償を要求しようとしたが、面会は拒否された。1993年9月、住民代表は渡米し、ロサンゼルスで北米日産や日本領事館前でデモを行った[11]。

ダイムラー・ベンツは学者に依頼して1994年5月、「ダイムラー・ベンツにおける強制労働者」と称する調査報告書を出版した。それによれば、ダイムラー・ベンツのルツェツォフ(ジェシュフ Rzeszow、旧称: ライヒスホーフ Reichshof)工場(ポーランド)には、ユダヤ人強制収容所からの労働者が運び込まれ、工場付属の強制収用所に700人が宿営させられた。30人用のバラックに100人のユダヤ人が宿営され、「労働を通じての殲滅(Vernichtung)」への移行の一つの代表例で、賃金は会社より国防軍当局に支払われ、労働者に直接渡らなかった[12]。

不正な所有権変更
2004年1月、西日本殖産からヤクザ出身で右翼団体員の井上正美という個人に、ウトロ地区の土地の所有権移転登記がなされた。同年6月、西日本殖産が井上へのウトロ地区の土地の所有権移転登記の無効を主張して民事訴訟を提起。井上は、2005年5月、 韓国のマスコミからのインタビューにおいて、自身が在日韓国人3世であることを明かし、韓国政府にウトロ地区の土地を5億5000万円で購入するよう要求し、韓国政府によるウトロ地区住民への支援に関する論議の発端ともなった。同年11月、当時の韓国外交通商部長官であった潘基文(パン・ギムン)も、韓国の国会で、韓国政府によるウトロ地区住民への支援について言及している。2006年9月、最高裁は、井上へのウトロ地区の土地の所有権移転登記は無効であり、西日本殖産をウトロ地区の土地の所有者と認める旨の判決を下した。同月、井上は、ウトロ地区の土地の売買に際しての逮捕監禁致傷および強要の容疑で埼玉県警川口警察署に逮捕された[13]。

土地買い取り
2004年9月に韓国で開かれた国際会議にウトロ住民4人が出席し、ウトロ問題を訴えたことを機に韓国の政府関係者や国会議員グループなどの視察が相次ぎ、韓国内でにわかにウトロ問題への関心が高まった。その後、韓国の市民団体によるウトロ救援募金が約6500万円、韓国政府の支援金が約3億6000万円拠出され、2007年9月28日、西日本殖産とウトロ町内会で地区全体のほぼ半分を5億円で買い入れる合意が成立している[14]。

2007年にウトロ町内会(金教一会長)は地区内に公営住宅及びウトロ記念館の建設を求める要望書を山田啓二京都府知事に提出している。私有地に税金で公営住宅を建築するべき根拠・理由が全く見当たらないため、当時の国土交通大臣冬柴鐵三は国・京都府・宇治市の3者による協議会設置を指示した(住環境の改善などを表向きの理由にしているが、冬柴は2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で落選し、国・京都府・宇治市はいずれも財政難のため、事業主体主も未決定で要望は聞き届けられていない。また、地元の京都新聞の地域欄で何度か取り上げられているが同じ内容を繰り返すに留まっている)。

2009年6月13日に集中豪雨によりウトロを含め小倉・伊勢田の一部で浸水被害を受ける。2008年7月にも浸水被害を受けており、ウトロ地区は古くからたびたび床上・床下浸水の被害に遭っている。ウトロ側の地盤を運搬して滑走路側を整備したために、周りの土地に比べて低地になっていることから浸水し易いと思われているが、実際は大雨の度に都市下水路が溢水を起こすことに起因する河川の問題である。宇治市議会にて何度も議題に上がっているものの、同市が同地区の中を流れる伊勢田8号水路を改修する権限を持っていないことが大きく影響している。

2010年10月、固定資産税の滞納が原因で地権者の西日本殖産は宇治市に土地を差し押さえられていたが整理回収機構(RCC)も債権を持っており、買取予定の東側土地の債権分配案を西日本殖産が9月に提示したが宇治市が10月下旬に拒否した。宇治市は「全額を回収しないと税の公平さに欠け、住民訴訟になると判断した」と話している[15]。

2011年1月、宇治市は西日本殖産より土地売却代金のうち市が債権を持つ約3000万円を全額配分する新たな案を提示されて了承した。尚、2010年5月に住民が設立した財団法人が1億3000万円で東側の一部の2750平米を購入し所有権移転が実現したが韓国政府の支出する30億ウォン(約3億8000万円)はその後の円高ウォン安で約2億円弱に目減りし購入可能な土地面積は当初予定のほぼ半分(3800平米)になってしまった[16][17]。

不法占拠状態の解消及び住環境整備

2011年8月10日、「ウトロ地区住環境改善検討協議会」が約3年ぶりに開かれ、基本構想策定に向けた作業が動き出した。協議会は今後、住民の合意を得て地区の基礎調査を行い、公的住宅の建設などの事業手法を検討する。協議会には木下一也・国土交通省住環境整備室長、黒瀬敏文・府総務部長、川端修・副市長らが出席。協議会は10年2月頃から、住民側が取得した土地を無償で提供してもらうことや、除却した家屋の補償を行わないことなどを町内会に説明しており、住民の合意を得るために協議を続けていることが報告された[18]。尚、これに先立って宇治市で7月31日に行われた「居住福祉サミット」では「ウトロを守る会」の田川明子代表が「行政は『無償で土地を提供すれば、住宅を建てる。建物の補償はしない』と言うが、他の地域では建物の補償をしている。ウトロでも同じようにしてほしい」と述べている[19]。

2012年1月30日、「ウトロ地区住環境改善検討協議会」が開催され、不法占拠状態にある土地の建物撤去についてウトロ町内会役員が「総会で補償を求めないことを決めた」と報告。これを受け、国は来年度予算で同地区に「社会資本整備総合交付金」(額未定)を初めて計上し、住民の意向や住宅の状態を調べる基礎調査に乗り出すとしている。同地区の土地は、ウトロ民間基金財団、韓国政府が支出したウトロ一般財団法人、不動産会社「西日本殖産」(大阪市)の3者が所有。協議会は両財団から土地を無償で借り、公的賃貸住宅を建てる計画だが[20][21]、住民全員の同意と建物撤去に補償をしないことを条件にしていた。国土交通省の木下一也・住環境整備室長は「一日でも早く住環境の改善が図られるよう、総合交付金で来年度、できるだけ支援したい」と語ったと毎日新聞では伝えている[22]。

2016年市営住宅建設のために家屋の取り壊しが始まった[23]。2018年4月時55世帯130人の住人は再開発の際に建てられる市営住宅に住むことになるとされている[24][25]。2017年12月27日に40世帯分の市営住宅1期棟が完成した[26]。今後は残りの住宅と並行して道路の整備をすすめる[27]。



出来事

2005年頃 ウトロを守る会のホームページ閉鎖。
2007年11月8日、封筒に入った4000万円の寄付金を「東京の李」と名乗る素性不明の人物がウトロ地区町内会の副会長宅に届けた。
2005年7月3日から11日まで、日本の人権NGO、反差別国際運動(IMADR・2005年当時の事務局長は武者小路公秀)の招聘により、国際連合人権委員会任命の特別報告者・ドゥドゥ・ディエン(セネガル国籍)が日本の人権状況の調査のため来日した。同報告者は各地の人権団体の案内で、被差別部落(大阪市浪速区・西成区)、ウトロ地区、京都朝鮮中高級学校、部落解放同盟中央本部、北海道ウタリ協会、沖縄・嘉手納基地や、 名護市の普天間基地の代替施設建設予定地を訪問し、ヒアリングを中心とした9日間の調査を行った。同報告者は2006年1月に報告書を発表し、ウトロに関して「日本政府は、ウトロ住民と対話を始め、住民が植民地時代に日本の戦争遂行のための労働にかり出されてこの地に住まわされた事実に照らし、住民を強制立ち退きから保護し、居住権を保障する適切な措置を直ちにとるべきである」とした。この国際連合人権委員会の勧告に強制力は無く、調査対象とされた多くの他国政府は勧告を無視している。日本政府も公式の反応を示していない。また、この報告書に関しては、産経新聞が「調査をアレンジした武者小路公秀がピースおおさかの会長でもあり、金正日の思想を普及しようとするチュチェ思想国際研究所と関係の深い人物である」事実を挙げて、「日本に悪意を抱く人物が人権を武器として、国際連合を利用し日本に言いがかりをつけることがよくある」と言及している[28]。
「三国人」および「日本の民族問題#概要」も参照
2021年8月30日、同地区内で放火事件が発生。空き家・倉庫計5棟が全焼し、住宅2棟が半焼した[29]。全焼した空き家の中には後述の「ウトロ平和祈念館」で展示される予定だった生活用品などの資料があった[30]。放火容疑で逮捕された無職の男は同年7月にも名古屋市内に所在する韓国民団愛知県本部を放火し、器物損壊容疑で逮捕・書類送検されており[29][30]、警察の調べに対して「日本人の注目を集めたくて火をつけた」と供述している[31]。板垣竜太同志社大学教授・金尚均龍谷大学教授・上瀧浩子弁護士[注 1]が共同代表を務める「京都府・市に有効なヘイトスピーチ対策の推進を求める会」と一般財団法人「ウトロ民間基金財団」は同放火事件について「ヘイトクライムの可能性が高い」とし、動機の解明やネット上の差別扇動等の対応を警察・行政機関に求める声明を出した[32]。松村淳子宇治市長は同事件について「何があっても許すべきでない」と述べた[33]。
2022年4月30日に同地区の歴史を伝える「ウトロ平和祈念館」が開館した[34]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%AD%E5%9C%B0%E5%8C%BA
4:777 :

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あげ
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2022/07/12 (Tue) 06:45:58

あげ2
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2022/07/12 (Tue) 06:46:40

サイバー空間に残り続ける部落差別の“芽”、「地名総鑑」は回収→「地名リスト」に削除命令→動画…もぐらたたき状態
2022/5/29
https://nordot.app/899174585387778048?c=39546741839462401

被差別部落の地名が記された「部落地名総鑑」(部落解放同盟大阪府連提供)

 差別のない社会を求め、被差別部落出身の人々が全国水平社を創立してから100年を迎えた。武士を頂点に農民や町人などが暮らす社会の範囲外に置かれ、明治維新後の「解放令」で身分制度が廃止された後も、根強い偏見と差別は続いた。例えば被差別部落の所在地など、膨大な情報が掲載された本「部落地名総鑑」の販売問題もそうだ。

 長年の取り組みで部落差別(同和問題)は見えづらくなり、知らない世代も増えたが、インターネットではこうした情報が拡散されている。


 危機感から2016年、国会で部落差別解消推進法が成立した。ただ、対策に特効薬はなく「もぐらたたき」のような状態が続く。いわれのない差別の“芽”はサイバー空間にまき散らされ、当事者は不安を抱えて暮らしている。(共同通信=安祐輔、小島佳祐)

「全国水平社」の創立から100年を迎え、記念集会で黙とうする人たち=3月、京都市左京区
 ▽「極秘」と販売、部落地名総鑑事件
 インターネットがまだ日本になかった1975年、部落地名総鑑がひそかに販売され、企業が購入していたことが発覚した。この本の表紙には「人事極秘」と記載され、被差別部落の所在地や世帯数、主な名字、職業などの情報が掲載されていた。


 企業宛てに送られたチラシには「人事調査と人事考課に一助の資料として」などとうたわれており、就職希望者を出自で選別する悪質な就職差別を引き起こすとして社会問題に。本の製作には信用調査会社が関わり、数万円で販売されていた。部落解放同盟が抗議し、法務省は回収に動いた。

 その後、同種の本や資料が複数存在することも確認され、企業を中心に大学や病院など合わせて200社以上が購入していたことが判明した。就職希望者の身元調査目的を認めた会社もあり、企業が人権問題に向き合う大きな契機となった。

 ▽地名リスト公開は「研究」と主張
 似たようなことが2010年代中頃、インターネットを舞台に起きた。全国の約5千カ所に上る被差別部落の地名リストがウェブサイトに掲載されたのだ。戦前の調査報告書を基にした膨大なデータで、検索一つで誰でも見られる状態になっていた。
 このため部落解放同盟と当事者らは、川崎市の出版社「示現舎」に削除や損害賠償を求める訴訟を起こした。原告側は、示現舎が地名リストをネット上に公開し、書籍にして出版しようとしたと主張。2021年9月の東京地裁判決は、示現舎側に出版禁止と一部サイトの削除、約488万円の賠償を命じた。


被差別部落の地名リストを巡る訴訟の判決を受け、東京地裁前で「勝訴」などと書かれた紙を掲げる弁護士ら=2021年9月
 判決で裁判長は「出身者が差別や誹謗中傷を受ける恐れがあり、プライバシーを違法に侵害する」「公益を図る目的でないことは明白」との判断を示した。原告の一部の訴えも退けられため、原告側、示現舎側の双方が控訴。今後も審理が続く。

 示現舎代表の40代の男性は今年1月、取材に応じた。地名公表について尋ねると「学校で教えられるような部落差別はうそだ」「日本の賤民の歴史を研究し、戦後の同和行政の問題点を明らかにするためだ」と自説を展開した。今後も同様の活動を続けるとも述べた。

 ▽地名さらされ「子供が見たら‥」

 住宅街を巡る映像に、地域の歴史について語る男性の声が流れる―。一見すると紀行番組のような動画が、インターネット上にいくつもアップされている。タイトルには「部落研究」という文字と地名。被差別部落(同和地区)の所在地を特定する動画だ。数十万回再生されているものもあり、コメント欄は偏見に満ちた記述が目立つ。動画の投稿者は、示現舎の代表の男性だ。

 九州に住む30代の女性は、自分の出身地区の動画が投稿されているのに気付き、衝撃を受けた。女性はかつて、交際相手の親から「部落民がいなくなれば部落問題はなくなる」と言われて絶望し、自殺を考えたことがある。

被差別部落の地名暴きについて、不安を語る九州に住む30代の女性=2021年9月
 このため、子どもに対しても心の成熟度を見極め、時間をかけて少しずつ教えるつもりだった。小学生で幼い子どもにはまだルーツを伝えていない。ちゃんと伝える前にネットを見て偏見を持ってしまったり、絶望したりしたらどうしよう。不安な日々を送る女性は「大事なことを伝える権利を、なぜ侵されなければならないのか」と憤りを隠さない。


 被差別部落の地名情報は、結婚や就職の際の身元調査に悪用され、差別を助長してきた。女性は、誰の目にも触れられるようにされる苦しみをこう説明する。「カミングアウトと一方的な暴露は違う。家族とただ平穏に生きたいだけなのに、なぜおびえて暮らさないといけないのか」

 ▽ウイルスのように拡散する差別意識

 インターネットでこうした情報が拡散されることが、どういう問題を招くのか。マイノリティーへの差別など現代社会の排除の構造を研究する関西大社会学部の内田龍史教授は、こんなエピソードを紹介してくれた。

 

インタビューに答える内田龍史・関西大教授
 大学の授業で被差別部落のフィールドワークをするため、事前調査を学生に課したところ、ある学生が「暴走族が多く治安が悪い」と発表した。

 なぜそんな発表内容になったのか。学生に尋ねたところ、地名をインターネットで検索して、誰でも投稿できるQ&Aサイトに書かれていた内容をうのみにしていたことが分かった。

 実際に現地に行ってみると、地区では面白い街づくりをしていることが判明。この学生の見方は180度変わり、「住みやすそう」と話した。

 内田教授は「学生が偏見を持つ原因になった投稿は削除された。しかし、転居先を探している人が地名を検索していてもし同じ情報を見たら、候補から外し、足を遠ざけてしまうかもしれない」と懸念を示す。


 教授によると、被差別部落に対する「怖い」「ずるい」といった偏見に基づく言説はずっと昔からある。しかし、従来ならひそひそ話にとどまっていた不確かな情報まで、ネット空間では自由に書き込まれるようになった。

 しかも一度投稿されると、誤った情報でも完全に消すのは難しい。見た人がSNSなどを通じて拡散すれば、差別意識はウイルスのように広まってしまう。
 「差別に遭わないよう、出自を隠さざるを得ない人が多くいる中で、あからさまな被差別部落の地名を公開することが『学術研究』ということはあり得ない」と内田教授は語気を強める。

 ▽「感染」を食い止める知識

 

 東日本大震災に関連する差別も研究してきた内田教授は、部落差別とも共通点があると指摘する。具体的には、部落問題がインターネット上で取り上げられるたびに「利権を得ている」といった言説が出て、共感する人が一定数いる点だ。

 教授は「経済停滞による社会不安の増大で、必要な支援を『不当な優遇』と捉える構造は、東京電力福島第1原発事故の避難者に対するいじめなどでも見られた」と語る。


 その上で「変えようのないルーツ、努力ではどうにもならない事情を考慮しない情報に接した時は、いったん立ち止まってほしい。差別の『発症』を防ぎ『感染拡大』を食い止めるには、一人一人が差別と人権についての知識をつけ、深く考える必要がある。『差別は差別する側がつくり出す』ということを忘れてはならない」と警鐘を鳴らした。

 ▽「批判」と「中傷」の線引き

 それでは、ネット上の悪質な差別や誹謗中傷を減らすにはどうすればいいのだろう。

 まず、サービスを提供する事業者側の取り組みが重要になる。2020年にプロレスラー木村花さんがSNSで中傷され、自殺したことが社会に大きな衝撃を与えたこともあり、事業者や業界団体にとって、対策は急務になっている。

 

 ヤフーによると、「Yahoo!ニュース」では、コメント欄について3種類の人工知能(AI)を駆使し、良い投稿が上位に来るよう並び替えたり、悪質なものを自動的に削除、違反申告したりしている。AIで判断が難しいものは、約70人のパトロール部門が24時間体制で対応しているという。その結果、1日のコメント約32万件のうち、約2万件が削除されている。


 

 不適切な書き込みを繰り返すユーザーに対しては、投稿前に注意を表示。問題のある投稿が集中した記事については、コメント欄を閉鎖する仕組みも導入した。

 広報担当者は「コメント欄は『アクセス数稼ぎ』との批判もあるが、多様な意見に触れて気付きを得る場を提供したいとの思いで運営している」と説明した。

 ただ、それでも差別意識をうかがわせるコメントは依然として残っている。例えば、共同通信が配信した部落差別に関する記事にも「利権をむさぼっている」「近づきたくない」などといった投稿が目立った。

 これらの投稿について広報担当者は、読んだ人を不快にさせる可能性のある内容と認めた一方で、「表現の自由との兼ね合いもあり、削除の判断は難しい」と述べる。「批判と誹謗中傷の線引きは悩ましい。ただ、今の対策が十分だとは思っておらず、さらに対策を進めたい」

 ▽「事業者に調査、対応義務付けを」

 「セーファーインターネット協会」は、有害情報などのネット上の問題に民間主導で対応しようと業界有志が設立した。


 立場の弱い個人からの連絡を受け、事業者に削除などの対応を促す取り組みを20年に開始。21年は2859件の連絡があり、うち796件で対応を要請したところ、その7割超が削除された。

 ただ、出自や性別に対する中傷も対象となるものの、現在は個人への攻撃が対象であり、被差別部落出身者や女性といった集団全体に向けられた投稿への対応は、今後の課題としている。

 中嶋辰弥事務局長は「いたずらに規制をすればいいということではないと思う。まずは国や有識者と協議の場を設け、議論を深めていく必要がある」と述べた。

 表現の自由とヘイトスピーチの関係に詳しい早稲田大の河野勝教授(政治学)は、法律による事業者側のさらなる対応が必要と指摘する。「現在は被害者側が不適切な投稿の開示請求などをしても、裁判に時間がかかるなど十分に保護されていない。法整備し、不適切との訴えがあった投稿の調査や対応を事業者側に義務付ける形が望ましい」

 「国が表現の是非を決めるのは問題があるので、あくまで判断は事業者がする必要がある。法律ができることで各事業者には取り組みが促され、利用者からも対策に積極的な企業かどうかが見えやすくなるのではないか」と話す。


 ▽投稿削除、負担重く「泣き寝入り」も

 最後に、もし悪質な誹謗中傷や差別書き込みの被害に遭ったら、どうすれば投稿を削除できるのかを考えてみたい。 

情報文化総合研究所の佐藤佳弘代表
 情報文化総合研究所(横浜市)の佐藤佳弘代表にポイントを尋ねたところ「1人で動かず、必ず専門家に相談してほしい」と助言された。

 自分だけの判断でもし投稿に反論すれば、火に油を注ぎ、さらに被害が広がる恐れがあるためだ。ウェブサイトには「削除依頼」のフォームが用意されている場合もあるが、フォームを使うと投稿を削除しようとする動きが相手方に伝わることがあり、逆上される可能性がある。「まずは投稿を印刷して証拠を保存し、法的対処を取る警告を発することが重要」だと言う。

 法務省にも相談窓口がある。電話窓口「みんなの人権110番」や各地の法務局でも相談を受け付けており、対処方法を紹介するほか、投稿に違法性があると判断した場合は事業者側に削除要請もする。ただ、強制力がないため、必ず削除されるわけではない。


 ネットへの地名掲載についても、法務省は人権侵犯事件として扱う方針を示しており、19年1月から21年10月にかけて186回、プロバイダーなどへ削除を要請したが、削除率は5割程度にとどまった。ネックになっているのは事業者が海外の場合。部落差別について十分理解していないケースがあるという。

 最後の手段は、裁判所への仮処分命令申し立てになる。認められれば削除されるが、手続きは個人では簡単ではない。弁護士を頼めば費用がかかる。さらに、投稿が1カ所ではなく、複数のサイトに拡散していた場合は、こうした手続きがサイトごとに必要になる。

 それでも個人への中傷ならまだ対応できる。佐藤さんは「人種や出自といった属性を攻撃する差別投稿は、違法性の認定が難しいケースがある」と明かす。「いずれにしても、踏み込んだ対応をするには時間とお金、心の面で負担が重い。国や事業者は、被害者が泣き寝入りせざるを得ない現行制度を改めるべきだ」
https://nordot.app/899174585387778048?c=39546741839462401  
7:777 :

2022/07/12 (Tue) 06:47:21

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html

ヤクザの 6割は同和、4割は在日
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/195.html

被差別部落出身の有名人は?_ 在日が同和部落に住んでいる理由
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html

浄土真宗と創価学会は被差別同和部落民の宗教
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/371.html

創価学会
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/228.html

部落解放同盟は悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/152.html

被差別部落支配層の性教育
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/317.html

血族結婚部落の優生学的調査概報
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/418.html


▲△▽▼


大阪 飛田遊郭 _ やり手ばばぁ がまだ現役でおわします  江戸時代みたい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/328.html

日本人を憎む被差別同和部落出身者 1 _ 橋下徹
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/114.html

被差別部落出身の「最も危険な政治家」橋下徹研究_ 橋下先生は上下同時責め3Pハーレムコースが好き
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/452.html

日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html

被差別部落出身の竹中平蔵物語
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html

日本人を憎む被差別同和部落出身者 3 _ ユニクロ柳井正
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/678.html

餃子の王将の創業者の加藤朝雄は福岡県の部落出身で、部落解放同盟の上杉佐一郎に支配されていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/981.html

中国・韓国・北朝鮮の工作員がマスコミを押さえてしまった
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/280.html 

森友学園は部落利権問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/661.html

関西電力の不正金品授受問題 _ 関電が助役に逆らえなかったのは、背後に部落解放同盟の存在が在ったから
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/660.html 
8:777 :

2022/07/15 (Fri) 03:20:55

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/23(木) 18:04:28 ID:263tGc8Y0

大学時代に障害者施設でボランティアしたことあるのですが、障害者の母親に
美人が多いことに驚いた。
****かどうかはわかりませんけど

****で生まれた女性は美人が生まれやすいという噂は信憑性があるのかな?

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 02:32:37 ID:SYMz93wF0

穢多は行動範囲は、一般農民より広かったよって近世の穢多の婚姻圏も広かった、
近江から武蔵に嫁いだ人もいる。


27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 05:23:12 ID:tvhyGVvw0
>>26
でも、エタの人はエタの家に嫁ぐんだ。
地理的に遠くても、血の濃いエタと別の地方の血の濃いエタ同士が結婚すれば、結果的には血の濃い子供が生まれる。
行動範囲より、血筋の問題。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 07:15:45 ID:a8YFrg9UO

エタの近親婚が多くなったのは明治以降。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/05(水) 06:00:37 ID:aSvyzTk9O

部落では今でも父娘相姦は多いらしい。父が娘を無理矢理…みたいな。
ソースは近所の部落民(37歳男性・公務員)からの酔った勢いでのカミングアウト。
http://mimizun.com/log/2ch/rights/1142686940/

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 17:44 ID:ijmXiGPm[1/1]

もしかしたらそうかと思うのだけど…

自分の知り合いの親戚に、部落出身の女性と結婚した人がいるんだと。

その女性は、乳首がなく(しかし胸の膨らみはちゃんとあるそうな)
生まれてきた子供はテンカン持ち(旦那の方の親戚には居ない)なのだとか。

もちろんその夫の方は、結婚するまでその女性に乳首がないのは知らなかった
のだそうな。


陥没乳首ではないようです。

出産後に、乳が生産されるけど出口がなくて、かなり苦労したらしいですし。

やはり近親関係が代々続くと、そういうことも起こりやすいのでしょうかね。


110 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 16:38 ID:qgsZGHnG[1/1]

俺の父親の集落では****ともいえるような複雑な結婚が行われている(た?)。
叔父と姪が結婚したり、叔母と甥が結婚したり。
実際に障碍者も生まれているし。

本当に山奥の集落だから昔からそういうことが行われているのかもしれないけど(信号機が一つしかないw)
周りを見渡せばほぼ全戸が夫婦の親戚という恐ろしい所があります。


113 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 19:58 ID:aIeCyok0[1/1]

狭いバラックに大人数が暮らしていたため
嫁が妊娠しても誰の子供かわからなかったらしい
旦那が留守のときは平気で親父や兄弟、近所の男がまぐわっていた


159 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/15 00:18 ID:o2R4oq5j[1/1]

部落のものは親子が基本。

父親が娘を犯して子供が生まれ
その子を父親の私生児扱いにする例がけっこうあったそうだ。


144 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/04 23:35 ID:dqB5C2Vc[1/2]

N件では死んだ娘を父親が犯して成仏させるという風習があったそうな。

もちろん部落での話だが。

部落では儀式として父親が娘を犯すという風習があった可能性がある。
あくまでも性的欲求ではなく儀式。

****はあったと思うが、神聖なものだよ。部落の場合はね。
http://logsoku.com/thread/tmp2.2ch.net/rights/1073388229/


__________


彼女が部落出身者だった………婚約破棄したい…死にたい


377:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:16:30.52 ID:c6+YhVBZP

部落だから嫌だはちょっとよくわからないが
相手が浮気するようなやつで池沼の弟がいるやつとなんて即わかれるだろ


379:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:17:49.04 ID:1r6sUsDL0
>>377
親がヤクザも追加しておいて


14.:2011年06月27日 19:42

まず 1の相手が部落とか抜きにして糞だろ
浮気、弟が池沼、親がヤクザ
その上部落民ときたらそりゃ分かれるわな

62.  :2011年06月27日 20:49

1の相手はクズ。親がヤクザで部落で股が緩いんじゃ風俗嬢くらいしか使い道ま無いぞ


37.:2011年06月27日 20:22

やっと部落が差別される理由が分かったよ
ヤーサンと****ね
そりゃたしかに関わりたくないわ
同和教育は ほんとに都合の悪いところは語らないよなあ
まあ風化させるのが目的だろうから やり口としてはあってんだろうけど

56.関西人:2011年06月27日 20:42

女の子本人が普通でも
親、親戚、部落利権でしのいでる奴なんかが
ひとつ違ったら、ややこしいからな~
人権で武装したヤクザ たちが悪い
一般人には反論、反撃が出来ない
関わらなくて済むならその方がエエ。
関西人の実感や。


317.ゆとりある名無し:2011年06月28日 17:35

部落とか一生相手の親にたかられるし、拒否したら同盟の奴が出てくるしマジ最悪
公務員の部落枠もどうにかしろ

74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 10:44:16.20 ID:gAw2/goo0

一昔前は本人が嫌になって婚約破棄しても差別だ!って街宣車が来たりすることもあったらしい
今は知らん


198.:2011年06月28日 05:37

婚約破棄した消防士を元婚約者が部落差別で訴えたら懲戒免職になったって話があったな。
 こんなんだから部落差別は絶対に無くならない。

274.名無しさん:2011年06月28日 13:47

部落出身のDV夫と離婚した知り合いがいる
部落ってことは気にしてなかったがいざ別れたいと言いだすと親族縁者が実家にまで乗り込んできて差別だなんだともめにもめたらしい
結局裁判沙汰になった
被差別意識が強いと大変だわ

509:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 14:00:21.29 ID:4rQ7MgrAI

昔部落の人と付き合ったことある。
別れたら殺すって、長い事ナイフで脅されて別れられなかった…
親からして頭イってるし、常識が全くない。
後で知ったが、旦那自殺に追い込んで、やっと金入るって喜んで国から金貰って暮らしてた。
鳩とかスズメ捕まえて食べてたし、家に行った時は、人間って、すごいな…

人に寄ると思うが、なんか自分と生活レベル明らかに違うと思ったら全力でやめとけ

408.:2011年06月29日 08:13

部落の家系差別の歴史云々は知らんが
部落の者と親戚になるとマジキツイ
相手親族に部落を盾に甘い汁吸う事しか生き方知らん奴が必ず居るから
うっかりそいつに目をつけられるとマジで吸い尽くされるか家庭崩壊寸前まで追い詰められる
しかも弁護士が本当に嫌がるから自衛も難しくて一方的にやられるのみ
知り合い当人は部落から外へ出ていてまともでも、その人を通して親戚付合いするようになれば
どうしてもそういう部落の中の異常に触れざるを得なくなるから結婚等は慎重にね


483.名無しAtoZ:2012年10月03日 09:49

部落の人差別する気はもうとうないが
今まで付き合った人の特徴は

少しのことで逆恨みする
損得感情がはげしくてお金にきたなすぎる
悪口がすごい嫌がらせする

のでどうしても怖い
すごく家柄がいいようにいばって嘘ばかりついて信用できない
差別されてきたからこういう性格になったと思うから世の中が悪いと思うけどあまりにも性格が悪すぎ
結婚になると差別じゃないけどどうしてもお金目当てのような気がする


4.:2011年06月27日 19:36

結婚関係は相手の出身というよりその親戚などの周りの人間はきちんと把握しておくべきだよ。
生活破綻者が寄ってきたりすると生活が壊れるから。

5.名無しさん:2011年06月27日 19:37

部落の者と結婚すると自分もその一部とみなされてしまうという恐怖心があるんだろうね
それで差別が未だに無くならない

8.:2011年06月27日 19:40

部落はともかく、近親に身障がいるのは危険
将来絶対に面倒見させられるよ
自分の子供が身障ならどうにかなるけど嫁の弟じゃ面倒見ない訳にもいかないしね

450.:2011年07月01日 13:27

大阪で営業に就職したら、まず最初に部落が記された地図が渡される。 
意味は分かるな?

360.名無しさん@ニュース2ちゃん:2011年06月28日 21:42

三重県だけど、部落がなんでなくならないか知ってるよ。
自分たちで同和だから金くれ、って役所に行くからだよ。月に20万ぐらいもらえる。
あと市役所も一定の人数採用枠がある。
それを利用するから同和がなくならない
差別サイテーとか書いている人は、多分部落を知らない

291.:2011年06月28日 15:13

まぁ、BとZと煎餅には関わらない方がいいからな、マジで。
うちの街でBの若い夫婦が別に病気でもなんでもないのに生活保護で暮らしてた。
で、昼間っからギシアンばっかりでぽこぽこ子供生んで、たしか8人くらいいた。
結果、生活保護費で月収数十万とかw
役所がたまりかねて「いい加減にしろ」と指導したところ、日教組と解放同盟と人権派弁護士(笑)と人権団体(笑)の連中が役所取り囲んで大騒ぎになった。
奈良だっけか、B出身の職員がズル休みしまくってたなんてのもあったよな?
そんなことばっかりしてるから嫌われるんだよ。Zの連中と一緒。

366.:2011年06月28日 21:59

このスレ消した方がいいよ
解同が動くよ なにされるかわからんよ
忠告しときます


296:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 11:54:57.93 ID:lUul0Nli0

俺はヒニンじゃないがヒニンの名誉のために言っておくと
ヒニンとエタは天と地ほどの違いがある


309:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 11:57:44.57 ID:lUul0Nli0

非人
・町役の下役として警備や刑死者の埋葬をする
・少年犯罪者の世話などに従事した
・銭を支払うことで、平民に戻れた

穢多
・町民の住居からかけ離れた場所に、集めて住まわされた
・死んだ牛馬を百姓から貰い受け、その肉を食い、皮は皮製品などにした
・一生平民に戻ることはできなかった

320: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/06/26(日) 12:00:21.15 ID:bh5xfPAE0

非人てのは歌舞伎役者や芸能に携わるものも含まれてた
穢多ってのは簡単にいえば乞食ってかホームレス


386: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/06/26(日) 12:20:48.52 ID:bh5xfPAE0

ヤクザの8割が部落出身者
これだけで十分だろ


423:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:44:15.14 ID:s6SefZoz0

部落出身者と付き合うのは本当やめとけ
やーさんまがいの連中と繋がりあったりする

479:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 13:42:31.41 ID:1r6sUsDL0

部落は川の傍に家がある
水のみ百姓と同じ原理ね。
川が氾濫して流されて
死んでも良いカスが住まわされてる。


55.:2011年06月27日 20:42

・黒壁の立派な屋敷が点在する。
・その周りにある家はバラック小屋みたいなのか、同じ形の町営住宅。その駐車場にはゾロ目ナンバーのセルシオ
・歩道とか整備されてる。だが、ちょっと住宅街入ると放置自動車とぺんぺん草生えた道。
・町役場とかはかなり立派な作り。

ま、わかりやすいっすね。


210.:2011年06月28日 06:55

京大に合格して関東から下宿先を探しにきたとき、タクシーに乗ったら運転手が

「なるべく坂の下の方はやめたほうがいいですよ。
低い土地のところは、洪水が起きたときに真っ先にやらられるから、エタ・ヒニンのひとたちが昔から住まわされてたんですよ~。
できれば京大より北の方がいいですねー」

普通に言ってきてひいた。


456.:2011年07月03日 22:40

米210
京都の西陣に実家があるが(当然京大よりも北部にある)が、普通に徒歩圏内に被差別部落があるぞ。ネットでは出雲路橋部落と呼ばれているらしいが……。
烏丸紫明の交差点の社会保険病院の向かいに府の部落解放センターがあるが、今でも『部落解放』を呼びかける何処の水平社だよと突っ込みたくなるスローガンを堂々と掲げている。
被差別部落を差別する気はないが、確かに近寄り難い人達が多いね。

128. :2011年06月27日 22:50

がーっはっはっは
初期の住まいはカワッペリ。
氾濫見守れと川守役人。洪水にも負けず。
革をなめしてたたいて築いた
田舎とはいえ間口3間大所帯の馬具店の大地主の旧家
かつてのエッタの家系だが文句あるか?
差別をあおるアホは去ね。そんなカスよりいくぶんましじゃ。


428:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:46:39.50 ID:975WkNpg0

部落のここがすごい
・インブリード配合なので池沼のリスクが普通の人より遙かに高い
・地域ぐるみでゆすりたかりは当たり前
・税金免除等の特別優遇措置多し
・解放同盟のスーパー圧力を使える
・犬は鍋で食べるか車に投げるかどっちか

401:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:26:18.76 ID:XC9nIe9uO

被差別部落は形式上無くなったんだが「差別された過去」を引き合いにして利権を貪ってるのが問題だわ
うちの九州の田舎なんか少し離れたところにやたら舗装された道路があってそこだけ豪邸が何件もあって
ガキの頃からそっちには近付かないように言われてたわ

当然そこが同和区域な
ヤクザとつるんで美人局を繰り返して、畑を見回りに行った農家を拉致するなんてのも日常茶飯事
こっちが文句を言おうものなら差別だなんだと捲し立てて暴力は当然のこと
部落解放同盟がヤクザと一緒になって集団で押し掛けて文句言った相手が自殺するまで吊し上げを繰り返す
人間の屑だよあいつら


41....:2011年06月27日 20:28

 そうそう、オールドカマーの在日くんのほとんどは韓国の「白丁」という日本の同和と同じ被差別階級だよ?日本に統治された時に、一応平等ということになったんだけど、それでも差別で仕事がなくて日本に出稼ぎに来た200万人のうちかなりの割合が白丁で、戦後も帰る場所と差別されるから60万人が日本に残った。
 まあ、人権というネタで戦後に社会党などの左翼運動と結びつき、田中角栄の「同和新法」に乗っかって蓄財と運動で特権を確保したのが日本の同和と朝鮮人の馴れ初めと結びつきの経緯だよ。
 なお、まじで同和は税金免除されてた(というか同和新法がなくなるまで。税金まともいに払ってない奴大杉、税務署員が戦々恐々で手が出せなかった)、それで事情を知る近隣住人は同和地区の人間を侮蔑の対象としてみている。

元犯罪者や障害者の集まりだからなぁ
http://logsoku.com/thread/hibari.2ch.net/news4vip/1309051828/
http://netaatoz.jp/archives/5423523.html
9:777 :

2022/07/15 (Fri) 03:44:48


414 :可愛い奥様:2012/10/25(木) 20:24:12.58 ID:oSj9S4dR0

40年位昔なんだけど(私は当時5才)尼崎の近隣の市で父親がB地区を運転してたら、突然前の車が止まって追突事故を起こしたのね。(関西弁で言う、おかまほった)

その後、相手側は自宅や父の会社に来て

「首が痛い・仕事が出来ない」

と恐喝•恫喝し始めしばらくの間家に色んな人が出入りし出した。

警察に相談しても民事なのでお手上げ。

恫喝が数ヶ月続きその後、弁護士に委任して解放された。

委任後もしばらくは嫌がらせが続き先生に「家族が一枚岩で取り入られないように」と言われて父•母・祖父・祖母と連日話し合ってた。

それから随分たって相手は殺人事件を起こして逮捕されたのを両親が新聞で知り、両親は「やっぱりな」と言ってたのを記憶してます。 先生に

「外車に乗ってた事と会社経営なので狙われた」

と言われた。 両親は私達に詳細は触れたくないと言って教えてくれない。
当時子供ながら恐くて恐くてたまらなかったのを覚えてる。

私達兄弟が結婚する時も相手と実家を調査したと結婚後に言われた。
今回の事件を見るとその時の事が蘇る。

よそから来た人は住む場所をしっかり調べてね!
車で通る道も十分に気を付けてね!
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1351131169/401-500
10:777 :

2022/07/15 (Fri) 10:27:59


京都のエタ部落は戦後 在日朝鮮人に乗っ取られた
被差別部落民と在日韓人  -社会経済史的視点-
              
    河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究


(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)

(友常)今日は、『韓人日本社会移民経済史-戦前篇』(明石書店、1997)の著者・河 明生さんにお話を聞こうと思います。本書は、戦前の被差別部落民と在日韓人との社会経済的関係を明らかにしており、部落問題に携わる者として注目しておりました。今日のお話しの中から、これから私たちが、今後の両者のあり方を考えていくための指針を得ることができればと願っています。


(河)よろしくお願いします。

(友常)まず、本書の問題意識からお聞きしたいと思います。

(河) 社会は、マジョリティとマイノリティによって構成されています。ここでは、マイノリティを社会的権力をもたない異質な少数派と定義します。日本社会も例外ではありません。マイノリティが存在します。それは二つに分類できます。一つは、民族的マイノリティです。たとえば、韓人、中国・台湾人、アイヌなどです。もう一つは、非民族的マイノリティです。被差別部落民が該当します。その中、私が選んだ研究客体は、在日韓人です。

 在日韓人問題は、権力と反権力、差別と反差別、加害者と被害者という視角からの研究に偏在集中してきた感が否めません。それは史実ですし、評価すべき業績です。けれどもそれだけで良いのでしょうか。在日韓人社会は百年近い歴史があり、その間、日常生活を支えた労働がありました。それは人間の基本的な営みです。その解明なくして、在日韓人問題を理解することはできません。しかし、それを正面から論じたものは少ない。在日韓人問題の社会経済的活動実態が明らかにされていませんでした。それではいけない。日本の社会経済史や労働史などにおけるマイノリティ史の空白部分を補完したい、というのが執筆動機でした。

(友常) 従来、1939年から始まる「朝鮮人強制連行」以前の渡日者をどのように位置づけるのか、という問題がありました。河さんは移民とみなしていますが、その点はいかがでしょうか。

(河)日本では、移民というと自ら望んで郷里を捨て、中南米や北米などに移住するというイメージがあります。しかし、それは間違いです。ここではふれませんが、欧米での移民に相当する概念は多種多様です。

 在日韓人を移民労働者とみなした場合、二つの論点が生じます。第一に、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題です。賃金水準や雇用機会などへの影響はそれに該当します。第二に、韓人が、日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題です。

(友常) そもそもこういうテーマを選んだのは、河さん自身が、在日二世だということと関わりがあるのでしょうか。

(河) 関係があります。ただ、諸先輩方の関連研究を読みながら、研究を進めていく中で、自分の生い立ちを超えたいと思うようになりました。客観的論述に徹したいと。日本人研究者からすれば、当然のことです。しかし、被差別マイノリティ出身の研究者が、その出身母体を研究客体とする場合、自己の生い立ちを超えることは容易なことではない。どうしても被差別体験が、文章にあらわれてしまう。怒りのようなものでしょうか。これは世代的宿命なのかも知れません。私の論文にも、たとえば「差別」という概念は使用されます。けれどもその「差別」が不当であるか否かは、読み手が判断すれば良いと考えています。

このような感覚を持てたのは、私が上の世代に比べれば恵まれた環境で育ったからです。当然、それは日本社会、とくに日本人の若い世代の変化によってもたらされた環境です。学校で、金とか、李とか名乗っていると、かっこいいとか、個性的だとか、もてはやされる時代なんです。けれども、彼らですら、在日韓人問題については白紙に近い状態です。歴史教育が疎かにされているからでしょう。これからの研究者は、そういう若い世代に、なごやかに語りかけて行かねばならないと思います。

(友常) 被差別部落出身でない僕が、部落問題に出会うのは大学時代です。江原由美子さんがかつて「差別の構造」という論文を書かれましたが、差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない、差別されているという体験において、マジョリティの側がその体験を知りようがない以上は、自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。

ところが相手が知らないことについて、差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係、それが差別の構造だというわけです。部落問題の研究を進めながら、実際の差別の話を聞いて、気づくのはそういうことです。そういう非対称的な関係は一体どういう状況で生まれてくるのかということを追求したいというのが僕の研究の動機です。それは確かに歴史的な出自を持っている。

たとえば近代社会とか、そういう方向での自分の中のモチベーションです。必ずしも実体化された倫理主義的な態度をとることはないと思いますが、差別-被差別という構図でなければ見えない、あるいは研究でしか摘出できないような研究の方法論とか問題の設定がありますから、そういうスタイルは間違いなくあるでしょう。多分そういうふうにいったからといって、河さんとはそれほど大きな違いはないのではないかと思っています。


朝鮮不熟練労働市場における韓人と中国人移民労働者との競合

(友常) では、具体的なご著書の中で、何が直接明らかにされたのかということに移っていきたいと思います。僕にとっておもしろかったのは、まず朝鮮で中国人労働者と朝鮮人労働者との間で葛藤がある。それに少なからぬ影響を受けつつ、在日韓人移民労働者が形成されたという。

(河) 被差別部落民と在日韓人との関係を考察する際、有用ですので、若干主題とははずれますがお話ししたいと思います。

 在日韓人形成の最大の要因は、日本による朝鮮の植民地支配です。従来、その形成史が日本と朝鮮という二国間関係だけでとらえられてきたのはそのためです。しかし私は、植民地支配以外の渡日要因を再検証すべきであると考えました。在日韓人形成史は、中国をも含めて考察すべきであると考えます。つまり、朝鮮下層労働市場に進出した中国人移民労働者の存在を忘れてはならないのです。


(友常)それはまったく新しい視点ですね。その根拠は何でしょうか。

(河)在日韓人の出身地の大部分は、農業の中心地であった朝鮮南部であり、前職は農民です。当時、朝鮮工業は朝鮮中北部において展開されました。離農間もない朝鮮南部出身者が、何故、陸路で移動可能なソウルや平壌などの朝鮮中北部への出稼ぎを選択しなかったのか。宗主国の日本に、海を越えて出稼ぎに行くというのは、心理的なプレッシャーがあったはずです。言葉も通じないのですから。そういう予想される不安や困難をこえて渡日したのですから、何か合理的な渡日理由があったんだろうと考えました。

それは、日本と朝鮮との賃金および雇用機会の格差です。第一次世界大戦による好況時に、紡績業などの日本企業が、人手不足を補うため、朝鮮で労働者公募を行いました。それに応じた韓人が、渡日して工業労働に従事しました。契約期間がきれたり、先祖の祭礼祭祀のために帰郷します。きれいな服を着て、お金やおみやげをもって田舎に帰ってくるわけです。農村の生活しか知らない朝鮮南部の人々にとって、それはまぶしい光景だったと思います。日本に行って働ければ金になる、ということになります。でも、もし仮に朝鮮に働く場所があって、日本の企業と同じ賃金がもらえるというのであれば、わざわざ渡日する必要はありません。朝鮮に働き場所が少なく、もらえる金も少なかったからこそ、日本への出稼ぎを選択したと考えます。もちろん、日本の賃金が高いというのは相対的なものです。むしろ朝鮮における「低すぎる賃金」に問題があると考えました。

 離農間もない韓人は、不熟練労働者です。たとえば、100人の不熟練労働者が同一労働市場に存在し、その中の10人が失業者や求職者であったと仮定します。この場合、少数派である失業者や求職者によって不熟練労働市場の賃金相場が左右されます。土方の相場が1円だとすると、失業者や求職者はとにかく働きたいわけですから、それを90銭でもやる人が現れます。1円で働いていた人は、失業の危機にさらされます。不熟練労働は代替が容易だからです。もともと1円で働いていた人が、90銭で働かなければ、就労を確保できなくなり、その賃金相場が下がる場合があります。そして再び失業者や求職者は、それよりもさらに安い労働力の提供者となって賃金相場を下げることが予想されます。結果、朝鮮労働市場での「低すぎる賃金」が維持・強化されたと考えます。

 この議論の前提となるのは、不熟練労働市場における失業者や求職者の存在です。それは、工業都市への人口集中や移民などによる過剰労働力を背景にしていると考えました。私が、注目したのは、植民地朝鮮に進出した山東省を出身地とする中国人移民労働者の存在でした。朝鮮総督府は、中国人移民労働者の朝鮮入国を規制しませんでした。1922年の朝鮮総督府調査では、在朝中国人人口は、約3万1千人です。それが8年後の国勢調査では、約9万2千人に増加しています。しかし、中国人移民労働者の実数は、正確には管理できなかったと思います。何せ陸路と海路から続々と入国してくるのですから。彼らの絶対多数は不熟練労働者でした。朝鮮総督府は、韓人は大日本帝国臣民なので、外国人である中国人の雇用が増え、韓人が失業するという状況を好みませんでした。だから、再三再四にわたり、在朝日本人経営者に中国人を雇ってはいけない、という通達を出したり、何人までは雇ってもいいといった割合を決めたりもしましたが、当局の思う通りにはなりませんでした。彼らが韓人よりも低賃金で働くからです。不平不満をいわずに。移民労働者の特性ともいえます。彼らには帰る郷里があるから、「低すぎる賃金」でも我慢して働くんです。食費などの生活費を抑えて残った金を郷里に送金したのです。低賃金を武器とする中国人移民労働者の朝鮮労働市場への進出は、韓人の雇用を脅かし、あるいは雇用機会の減少をもたらしました。とくに、その傾向は、離農間もない農民が就労可能な朝鮮不熟練労働市場において顕著であったと考えます。そのことが朝鮮の「低すぎる賃金」を維持・強化しました。結果、韓人の一部が相対的に高い賃金を求めて日本への出稼ぎを選択した、というのが私の仮説です。


日本不熟練市場での被差別部落民と在日韓人との競合

(友常) そういう要因が重なり合って在日韓人が形成されたのですね。そして日本の労働市場の中で彼ら自身の特性を形成していくことになるんだろうと思います。では、先程おっしゃった第一の論点、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題とは何でしょうか。

(河) 従来の定説を要約すると、戦前の日本における韓人の急増は、新たな労働問題を引き起こした。韓人が低賃金を武器としながら日本労働市場に進出したため、日本人労働者が失業の脅威にさらされたからです。日本人労働者が、自己の雇用を守るためには、低賃金や長時間労働を甘受しなければならなくなった。そのことが結果として、戦前の日本労働市場における低賃金の維持・強化につながった、というものです。

 しかし、韓人の日本労働市場進出によって失業の脅威にさらされた日本人労働者は、一部であって全部ではない。渡日した韓人の大部分は、工業労働経験が全くない不熟練労働者でした。能力的限界を否定できない韓人が、日本のあらゆる労働市場に進出することは不可能であったはずですし、日本人の熟練労働者が韓人の急増によって失業の脅威にさらされることは稀であったと考えます。

 戦前の韓人移民労働者問題は、日本における外国人労働者問題の嚆矢とみなすべき歴史的事例問題です。研究客体の特定なくして史実を明らかにすることはできません。そこで、韓人が進出した労働市場を下層労働市場と限定し、失業の脅威にさらされた日本人労働者は、いわゆる下層労働者、とくに被差別部落民であった、と主張しました。たとえば、1925年の中央融和会調査によれば、神戸の日雇い労働者の失業率は、韓人が24.3%であったのに対し、部落民はその二倍を超える52.8%でした。これは部落民が、韓人によって雇用機会を奪われた結果であったと考えます。

(友常) 近代の部落史の話の中で、先行研究の流れでいうと、たとえば、馬原鉄夫などがいった議論があります。部落差別は独占資本の形成過程の中で作られたもので、労働市場の中で低賃金構造のしずめ石として部落差別は作られている。おそらく同じような帝国主義下のしずめ石として植民地収奪にさらされて日本に強制的にあるいは半強制的に移住させられた韓人労働者がいる。それらが日本の資本主義の低賃金のしずめ石なるという研究の仕方は、60年代に支配的でした。そうではなくて、河さんの話ですと、下層労働市場だという限定がまずあるわけですね。全体の資本主義の構造というよりは、これは下層労働市場で発生している問題だ、そういうふうに問題を定義すると、戦後の移民労働者の問題にまでその視角というのは展開できるものだということになる。それは非常に重要な問題提起です。そのように、移民労働者の問題を考えるということが、同時に行動的特性の分析にもつながります。そこで研究客体としてのより踏み込んだ研究につながっていくと思います。しかしそういう意味で、移民労働者の問題を移動の合理性として立てていくのは、決してまだ支配的ではないですね。

(河) はい。少なくとも戦前の在日韓人を移民としてとらえるのは少数派です。また、在日韓人と被差別部落民とが、下層労働市場で競合したと言いきるのも、おそらく私が始めてではないかと思います。だからこそ、こうして私が、友常さんからインタビュ-を受けているんだと思いますが、いかがでしょうか。(笑)

(友常) おっしゃるとおりです。さて、被差別部落民と在日韓人との下層労働市場での競合の端緒は何だったのでしょうか。

(河) 中小零細企業が集積する工業地帯近隣の被差別部落での両者の混住です。ここからが第二の論点、つまり韓人が日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題となります。

(友常) 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。

(河) はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。

 被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。

 問題は韓人の被差別部落流入経路です。韓人の目的は出稼ぎのための就労です。そこで彼らの就労経路から被差別部落流入経路を推論しました。戦前の京阪神行政調査によると絶対多数の韓人は、知人を通じて職場を斡旋してもらう個人紹介や個別的な就職活動による自己志願などによって就労しました。個人紹介は、紹介者と就労希望者とが同郷であるか否かという地縁を紐帯として実行されました。他郷出身者を紹介することが稀だったのは、出身地毎の反目や方言による言語の不通などが原因でした。済州島出身者は、とくにそういう傾向が強かったようです。

しかし、個人紹介は、移民当初から可能だったわけではありません。工場主の韓人紹介者に対する一定の信用に基づき成されたものであり、それは多くの場合、その工場での先駆的就労者=紹介者の就労実績によって培われたものであったと考えます。

(友常) 本書で先駆的就労者の就労経路を重視した理由はそこにあるのですね。

(河)はい。先駆的就労者の就労経路は、日本企業の朝鮮現地での労働者公募とそれ以外とに分類できます。朝鮮紡績と呼ばれた岸和田紡績は前者の典型でしょう。しかし、労働者公募は大戦後の不況により減少します。

 問題は後者です。就労先が定まらずに漠然渡日した無計画渡日者の就労経路です。彼らは時代が下るに連れ急増しました。山口県警特高課が、下関に上陸した韓人の所持金を調査したところ、約67%が五円未満の金しかもっていませんでした。次ぎなる行動は、労働予定地への移動ですが、彼らが購入した電車の切符を調べた大阪市調査から、その多くが京阪神に向かうことを知ることができました。阪神の企業による労働者公募が影響を与えていると思います。彼らが京阪神の目的地にたどりつくまで、小額の所持金は交通費や食費に費やされます。目的地に到着する頃には、無一文状態になりました。

 彼らは、住居と職場を確保しなければならない。両者は同時に併行して行われたと考えます。しかし、職場はすぐにはみつかりませんので、当面の雨露をしのぐ住居の確保が優先されましたが、所持金はすでに使い果たしています。しかも当時の京阪神大都市部の借家難は深刻でした。つまり韓人の大部分は、レイシズムニよる入居差別以前に無一文なのでまともな住居を借りることはできなかったのです。

 韓人の次ぎなる行動は大まかに二つに類型化できます。一つは、沿岸、河川、湿地などの公有地や更地の原っぱなどの私有地にバラックや堀立小屋を建てました。もう一つは、被差別部落やスラムへの流入です。私が、注目したのは、被差別部落に流入した韓人です。

 被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。

味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。

(友常) それがどのように下層労使市場での部落民との競合と結びつくのでしょうか。

(河) 被差別部落内やその周辺に朝鮮部落が形成されますが、その形成には、ある条件が満たされなければならなったと思います。その近隣に不熟練労働者である韓人を吸収する下層労働市場が存在することでした。韓人無計画渡日者の最大の関心事は就職ですが、すぐには見つかりません。低賃金であろうがなかろうが、差別されようがされまいが、人は生きて行くために働いて金を稼がなければなりません。何のあてもない彼らは、住居近隣を徒歩で徘徊しながら、工場前に張り出された求人の張り紙を目安として、飛び込みによる自己志願を根気よく実行しました。ただ、そういう求職活動には体力的にはもちろん精神的にも限界がありますので、遠出は敬遠し、近隣の工場を物色したと考えます。

 韓人は工業地帯近隣の被差別部落に定着したのです。その近隣に下層労働市場が存在したからです。たとえば、ゴム靴工業の集積地・神戸市長田近隣の番町部落などです。また、中には、被差別部落そのものが、伝統的部落産業の集積地だった場合もありました。皮革業の集積地・大阪市の西浜栄部落はその典型でしょう。韓人不熟練労働者の就職活動にもっとも適したのが工業地帯近隣の被差別部落だったということになります。この条件を満たした被差別部落では、両者の混住が促進されました。そして被差別部落内やその近隣にいわゆる朝鮮部落が形成されていくのです。

(友常) 韓人が部落民が携わっていた労働のまねをする、つまり労働模倣が行われたという重要な指摘をなされていますが。

(河)私は、韓人無計画渡日者が、被差別部落に流入・定着した時点で、彼らの職業が決定されたと考えます。韓人が、先住部落民の生業を模倣したからです。つまり、先住被差別マイノリティの就労実績は、後からきた出稼ぎ目的の韓人に就労先の目安を与えたと考えます。少なくとも出自による差別が少ないということは解りますから。被差別者は就労の際、能力以前に出自による差別を受けるのではないか、という一種の恐怖感をもちます。出自を隠し通せれば良いのですが、現実は難しいようです。日本には、履歴書に書かなければならない本籍や住所から、出自を判断し差別するという悪しき習慣がありますので、被差別者は履歴書をできれば書きたくなかったと考えます。仮に、虚偽を書いたとしても本採用の際、戸籍謄本提出によって解ってしまいます。部落民はそういう事情にあったと思われます。韓人の場合は、本籍を日本本土に移すことを禁止されていましたから、「本籍 朝鮮」と書かなければならず、日本名を使い堪能な日本語を駆使して日本人を装ったととしても出自が解ってしまいます。また、履歴書を書くほどの経歴がないということや、無学のため漢字が書けないということも履歴書提出をためらった理由でした。

雇い主も彼ら被差別マイノリティがおかれている状況を知っていますから、本人が働きたいといえば、履歴書をださなくても、明日から来な、ということになります。被差別マイノリティにしてみれば、出自を理由として門前払いをくらわない、門戸が開かれた職場だったのです。韓人も例外ではありません。彼らの就労は、先住部落民の就労実績によって門戸が開かれていたのです。

 また、そこは彼らにとって働きやすい職場だったともいえるでしょう。同じ境遇の仲間がおり、差別されることが少ないという意味で一種の安心感のようなものがあったと思われます。余談になりますが、私は、阪神淡路大震災の直前まで、長田のゴム靴工業地域を調査していました。ある神父から聞いた話ですが、ベトナム難民が長田に定住し、ゴム靴の内職に従事していました。低賃金だし、一日中、部屋に閉じこもって不健康だからという理由で、神父が就職先を斡旋しました。しかし、みんなやめて、長田に戻ってきちゃう。みな一様にゴム靴の仕事がしたいという。どうしてだと神父が聞くと、月給になれていないので不安だという。ゴム靴の内職は、出来高制なので一日の労働量がわかりやすい。目に見える形で終われば、その場で金をくれる、というわけです。しかも同胞とベトナム語を話してベトナムの歌を歌いながら楽しく仕事ができる。疲れたら休めるのも良いということでした。まさにマイノリティ的感覚だとは思いませんか。移民当初の韓人は、同じ様な感覚をもっていたと思われてなりません。働いた分だけ金をくれるということが、魅力だったと思います。

(友常) 時間感覚につての階層差、近代的な時間というものを機械から疎外されているから長期的な展望で将来を考えたり、貯蓄したりする習慣を持たないからなんだと下層労働者をブルデューは説明するんですが、そういうふうにするよりもむしろ、不払いとか労働意欲の発生が感じられるような就業形態からの説明ができますね。

(河) 被差別マイノリティの立場からすれば、お金は嘘をつかないということになるでしょう。マジョリティと同じ権利行使を可能とする唯一の手段でした。被差別者として疎外感が強くならざるを得ない人間というのは、目に見えるものしか信じないという意味で実証的になります。毎日、働いた分だけの金をもらえるというのは、彼らに安心感と満足を与えます。月給というのは、移民間もないマイノリティには馴染まないですね。被差別マイノリティの生業が、現金商売に遍在集中するのは、そのためです。

(友常)水平社運動の昂揚も韓人の雇用を拡大したと指摘されていますが、その点いかがでしょうか。

(河)中小零細企業が部落民を低賃金および長時間労働で使用したのは、それが企業存立上の絶対条件だったからです。経営者からみれば、通常の労働市場から閉め出されている被差別部落は低賃金労働力の安定した供給源であり、しかも不況の際には容易に解雇できる従順な労働者とみなしていたと思われます。ところが、1920年頃から事情が変わります。労働運動が昂揚したからです。1922年には水平社が創立されました。それは、下層労働市場で低賃金を甘受させられていた部落民の労働者としての権利意識を高めました。逆に、そのことは中小零細事業者にとって、最大の不安だったと考えます。組織的な労働争議へと発展していきますから。けれども低賃金労働者は確保しなければなりません。

ちょうどその頃、比較的権利意識の低い新たな被差別マイノリティが、工場近隣の被差別部落やスラムに流入し、自己申込みによる就職活動を開始したのです。植民地民族の韓人は、中小零細業者から、部落民よりも低位な階層、従順なる低賃金労働者とみなされ代替労働力として利用されたと考えます。その目安になったのが、両者の労働運動に対する国家・社会的許容度だったと思われます。韓人による組織的労働運動は、朝鮮独立運動と結びつく可能性が高く、実質的に内政問題にとどまるものではありませんでした。内務省や特高によって徹底的に弾圧されたのはそのためです。もちろん水平社運動も弾圧されましたが、それは内政問題にとどまる性格上、ある程度は許容されていたと考えます。そのことは中小零細業者からすれば、彼らを雇い入れる際の判断基準になったと思われます。当時はいずれの工場においても労働争議は現実性を帯びていたからです。つまり、部落民よりも抑圧されていた韓人を雇うほうが、労働争議のリスクが少なかったのです。結果、部落民の雇用機会は減少し、韓人のそれは拡大されたと考えます。


京都における被差別部落民と韓人

(友常)その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。

(河)京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。

 戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。

(友常) 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。

(河)京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。

1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。

(友常) 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。

(河)はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。

しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても1920年代前半ということになります。

私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。

(友常) 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。

(河)だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。

そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。

次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態-京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。

彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。

(友常)西陣織りはいかがでしょうか。

(河)西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。

 西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。

結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。

(友常)不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。

(河)西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ-ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。

(友常)戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。

(河)はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。


神戸における被差別部落民と韓人

(友常) 神戸の場合は、どうでしょうか。

(河)戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。

 問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ-トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。

(友常)マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。

(河)このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。

 しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。

 ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。


大阪における被差別部落民と韓人

(友常)大阪はどうだったのでしょうか。

(河)大阪は日本有数の工業の中心地ですが、中小零細企業の比重が高いことでも知られています。そのことは、大阪が潜在的に低賃金労働力需要が高いということを意味しています。1930年の第三回労働統計実施調査によると、被調査工場の六割にあたる562工場が韓人を採用しています。しかし、この調査は韓人の主たる就労先であった零細企業を調査しておりませんので、実際の韓人採用工場はそれ以上だったと考えます。韓人はありとあらゆる工場労働に進出しました。とくに、ガラス工業の窯業への就労は顕著でした。大阪市内の窯業労働者の3人に1人は韓人だったと報告されています。

 また、戦前の大阪は、スラムや被差別部落などの不良住宅地が多いことでも知られています。そこは京都や神戸同様、韓人の移住先となりました。京都や神戸と異なるのは、大阪の工場労働に積極的に従事したのが済州島人だったということです。済州島人は、朝鮮本土の人たちからは差別されていました。朝鮮本土の韓人は、彼らを作業服と比喩したといわれています。そういう人たちが大阪に一極集中し、工業労働に従事したのです。

(友常)部落民と韓人とはどのような関係だったのでしょうか。

(河)京都や神戸と似ています。まず、大阪の韓人も被差別部落に移住しました。そこには保証人も権利金もいらない廉価な借家があったからです。また、被差別部落内やその近隣には、韓人を容易に雇ってくれる下層労働市場が存在しました。そして韓人は、先住部落民の生業を模倣したのです。たとえば、西浜栄部落と三開部落の部落民が従事する職業には必ず韓人が従事しており、中には、その従事比率が部落民を上回るものもありました。とくにこの傾向は、工業において顕著でした。西浜栄では17業種中、10業種において、三開では18業種中、11業種において韓人の従事比率は部落民のそれを上回ったのです。先住部落民の職業模倣は、何も市内に限ったことではありません。たとえば、大阪府泉北郡信太村と八坂町の被差別部落に移住した韓人総世帯の三割に当たる80世帯が、部落民の生業であった人造真珠工業に従事しました。


韓人が就労した工場労働の共通点


(友常)韓人が就労した工場労働の共通点は何でしょうか。

(河)第一に、その大部分が一般の日本人が忌避する低ステ-タス産業だったということです。たとえば、京都の友禅染めといえば、百貨店で展示された高価な高級品というイメ-ジがあります。しかし、旦那衆と呼ばれた商業資本家や先生と呼ばれる図案作成者を除けば、生産者のステ-タスはそれほど高くはありません。戦前の韓人の場合、追い回しの奉公が終わると、蒸しと水洗の職人見習いになったようです。蒸しも水洗も工賃が相対的に安いわりには重労働なので、いやがられる仕事でした。何らかのアクシデントにより、完成品の色が落ちたり、傷ついたりした場合、職人がペナルティーを課せられ買い取らされるんです。さらに、戦前の京都では友禅染めに限らず、職人は極道商売といわれていました。たとえば、職人間の博打が盛んだったようです。花札はもちろん、シラミを走らせて早さを競わせたりしたようです。親方が賭場を開いて職人の賃金を巻き上げるということもよくありました。

(友常) 低ステータス産業だったいうのがポイントなわけですね。それは部落民と韓人とが競合する仕事にも共通しているように思います。

(河)第二に、工程作業が複雑で機械化に適さない労働集約型工業でした。また、季節や流行によって需要が左右されるため、大量生産にも限界があり、多品種少量生産にならざるを得ない工業でした。つまり大企業が参入しにくい業種です。そのためその生産を担うのは、中小零細企業ということになります。これら業者は資本力に限界があり、商業資本に従属せざるを得ません。商業資本主導により、生産工程毎の分業が促進され、小さな零細事業者が増加します。分業の促進は、作業を簡易化します。不熟練労働者であっても比較的短期間でその生産技術の修得を容易にしました。不熟練労働者であった韓人が雇われたのはそのためです。

 そして地域全体があたかも囲いのない工場になりました。京都の西陣、神戸の長田、大阪の西浜栄などはその典型でしょう。零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。分業が促進されて零細業者が増えれば増えるほど低賃金労働力需要が高まります。韓人は、その低賃金労働力需要に適応したと考えます。

韓人は、何故、被差別部落民との下層労働市場における競争に勝利できたのか


(友常)1920年代の段階で、被差別部落は収入が非常に不安定になっているという調査があります。不熟練労働に従事する部落民の構成比の変化も現れています。それは河さんの結論、つまり韓人労働者が京阪神下層労働市場において部落民と競合し、それに勝利したということです。それはいかにして可能となったのでしょうか。

(河) 戦前の韓人は、同種の労働に従事した日本人労働者よりも相対的に低賃金でした。にもかかわらず、戦前の行政調査は韓人の一部に余剰金が生じていると報告しています。それを郷里に送金したり、貯蓄したというのです。余剰金の多寡よりも、出稼ぎ労働者としての目的を達成できた人々が存在したという事実に注目しました。彼らの大部分は、単身渡日者だったと思われます。

 低賃金労働者であった彼らが、如何にして余剰金を生じさせたのかが問題となります。行政調査では、韓人の生活費が低いから、それが可能になったと推定していますが、それよりは、むしろ移民労働者となった彼らが、植民地朝鮮に進出した中国人移民労働者同様、生活費をあえて抑制したと理解すべきです。在日韓人の大部分は、日本に永住するために渡日したわけではありません。そこが部落民と違うところです。部落民は日本人ですから日本以外に帰るところはないんです。ですから生活費支出を抑制するにも限界があります。しかし韓人は、苦しくても、それは一時的なものであって、帰れる郷里があると考えたはずです。彼らは郷里の家族のために送金しなくてはいけない。だから日本での生活を切り詰めたと考えます。生活レベルに対する欲望は、在日歴が長くなるに連れ、徐々に芽生えてくると思うんです。それは定住によってもたらされた同化の所産です。

 韓人は多くの場合、下層労働市場での部落民との低賃金競争に勝ちました。大阪の西浜栄や三開の事例を見てみましょう。そこは、部落産業の皮革・製靴工業の中心地であり、その従事者の大部分が部落民でした。皮革・製靴工業は一般人の就労が稀であったという意味では、閉鎖的な労働市場を形成しており、そのことが部落民の雇用機会を保障したともいえるでしょう。ところが、相対的低賃金を武器とする韓人の登場はその状況を変えました。つまり、韓人移民労働者の皮革・製靴工業への就労によってもたらされた直接的効果は、相対的高賃金であった部落民の失業や雇用機会の減少だったのです。それが可能であったは、韓人が生活費の支出を押さえることができたということにつきると思います。移民労働者である韓人の行動的特性といえるでしょう。その際、重要な役割を担ったのが、韓人が経営した下宿業でした。たとえば、1923年の大阪市調査によれば、韓人下宿業は、一畳当たり2.17が住んでいることになり、押入も、縁縁も、台所も韓人であふれていたと報告しています。大阪市調査では、被差別部落民の密住実態が指摘されていますが、韓人は、それよりもさらに密住の度合いが高いことが判明しました。たとえば、1929年に実施された調査によれば、東成区中浜町の韓人の一戸当たりの平均居住者は、22.5人です。1928年11月の大阪市の一戸当たりの平均居住者が4.3人ですので、雲泥の差といわねばなりません。

 大阪市の西浜栄部落と三開部落でも比較しました。いずれにおいても部落民より韓人の方が密住の度合いが高かったのです。たとえば、西浜栄部落の場合、一人当たりの畳数が二畳以下の部落民世帯は、部落民世帯総数の35.○%であるのに対し、韓人は韓人世帯総数の62.7%でした。三開部落の場合、部落民世帯は41.3%であるのに対し、韓人は71.6%となります。このように、韓人は、混住者である部落民よりも、住居費支出を抑制していたのです。

(友常)その指摘も従来見落とされていた視点だと思います。本書では、生活費支出の抑制を韓人の行動的特性とみなしており、それを実行しうる者だけが、下層労働市場における低賃金労働力需要に継続的に適応することが可能であった、と主張されていますが、それはどういう意味でしょうか。

(河)求職出稼ぎを目的とする韓人は、何よりも就職を優先しなければなりません。彼らが進出できたのは、下層労働市場でしたが、その雇用は不安定なものでした。わずかな付加価値しか生まない不熟練労働は、新たな低賃金労働者の出現によって容易に代替されるからです。新たな不熟練労働者として、既存の韓人就労者の脅威となったのは、実は、新規渡来の韓人だったと思われます。彼らが就労を優先するあまり、すでに就労している韓人よりもさらなる低賃金を武器とし、その下層労働市場に進出しようとしたからです。日本政府が、中国人移民労働者の内地への入国を規制していたこともそういう状況をもたらした要因であったと思います。日本には、朝鮮不熟練労働市場で韓人離農者の前にたちはだかった中国人移民労働者というライバルが存在しなかったのです。

 雇用を脅かされた韓人の一部は、労働争議によってこれに対処しました。しかし、それは全部ではありません。既存の韓人就労者の一部は、生活費支出抑制に慣れていましたから、余剰金の形成にこだわらなければ、自己の低賃金をさらに低下させても生活することができました。つまり余剰金の額を一定の目安として、賃金をさらに下げることにより、その雇用を確保したのです。この韓人間のいわば生存競争が、その下層労働市場における低賃金のさらなる低下を促進しました。これが日本下層労働市場における低賃金構造の維持と強化をもたらした要因であったと考えます。そのことが結果として、韓人よりも相対的に高い賃金で、生活費支出の抑制に限界のあった日本人下層労働者、とりわけ部落民を失業の脅威にさらしたのです。


部落民と韓人との反目と今後の課題

(友常) 内部の識別についてはどうでしょうか。非常にインフォーマルな交渉関係があって、それは杉原達さんの『越境する民』でも指摘されている「対面関係」という視点にかかわります。河さんが指摘されているおもしろい問題としては、初期のレイシズムというものが近代社会で支配的になるとして、対面関係によるマイノリティ同士のレイシズムはイデオロギーとしてのあるいは公的言説としてのイデオロギーと少し違う。

 杉原さんが紹介されている例ですと、代書屋の例がでてきまして、済州島出身者を相手に代書屋が商売するということですが、やりとりがうまくいかないと、韓人が変な言葉を発して逃げていく。それはていねいに分析していくと、実は済州島の方言だったということがあります。これは落後の話なんですね。そのような形での対面関係が発生していた。先ほどのお話でも、内地人に限るというビラを書き換えていきますね。ねばり勝ちなのかもしれませんが、それでも発生する関係ですが、市場をめぐっては厳しい対立関係があったけれども、またそういう関係もあったということですね。その中で説明はされなくても、あいつは部落出身だとか、どこの出身だとかいうことがお互いにわかってしまう。そういうものが発生している空間は・・・・・・。

(河) 被差別マイノリティは敏感です。とくに、普段、出自を隠している人はその傾向が強いと思います。わかるんですね。相手の出自が。それを説明するのは難しい。感覚的なものだと思います。たとえば、西陣織り業者の中には、韓人もいれば部落民もいます。在日韓人業者は日本名を使っていますし、二世以降になると京都弁もうまいので、識別は困難です。部落民は出自を公表しません。ですからマジョリティの業者にはわかりません。けれどもマイノリティ同士は意識しているのです。交流はないんだけど、お互いの出自を知っているんです。

(友常) 京都では部落問題と在日韓人問題との一つの接点として「オールロマンス事件」というのがありました。ここでは触れませんが、当時の韓人と部落民とはどのような関係だったと考えますか。

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓
11:777 :

2022/07/15 (Fri) 10:30:38

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓人、とりわけ一世は自分のことを両班の末裔だと信じていました。今は没落しているが血統的に正しいという確信があります。一世は、朝鮮の被差別民衆・白丁を部落民におきかえながら、乱暴な言葉を使えば「あいつらと自分は違うんだ」という優越感をもっていたと思います。部落民の方も乱暴な言葉を使えば「あいつらは植民地民族の二等国民だ」という優越感をもっていたのかも知れません。しかし、両者は反目していても社会経済的には結びついていました。このインタビュ-でふれたとおりです。

 また、両者は混住したのですから、生活面でも何らかの結びつきをもっていました。たとえば、田中部落出身の二世の韓人は、父親が食用の赤犬を捕また際、自分で殺さなかったといいます。部落民の屠殺業者に金を払って依頼したそうです。赤犬は彼の目の前で屠殺されました。その光景は、今でも忘れられないと証言しています。関西地域の被差別部落やその近隣で生まれ育った韓人は、多かれ少なかれ、そういう体験をしているようです。

(友常) 政策的な契機が入ってきて発生するイデオロギーがあると思いますし、またそれが介在しないである種やったりやられたりというルールがある世界では差別があっても、競合しても、共存する関係が対面関係の論理だと思います。差別があるわけだけれども、実体的にレイシズムになっていくということとは少し局面が違うということです。それ全部を同じ差別、レイシズムだと考えるとちょっと問題がありますね。

(河)在日韓人問題に関する限り、レイシズムのみを強調すべきではありません。在日韓人は差別されているといいながらも、実は、経済的活動は許容されていました。そうでなければ、ロッテ、大和製罐、平和、モランボンなどの企業は存在していません。もちろんそれは組織的闘争により勝ち取った権利です。けれども経済的活動すら保障されていないマイノリティが世界には存在します。韓国の被差別マイノリティ・華僑はその典型です。在韓華僑は、約1万8千人です。彼らは経済的活動を法制度的に規制されています。しかし、民族教育は保障されています。在日韓人とは対照的です。日本政府は、在日韓人子弟に対する韓民族的教育の保障には消極的です。基本方針が同化だからです。逆に、韓国政府は、在韓華僑子弟に対する漢民族的教育を保障することにより、同化を阻止しようとしています。中国人で中国語ができれば、海外で生活できるだろうということで民族教育を保障しているわけです。そのかわり華僑の経済的活動は規制します。日本とは逆なのです。彼らは韓国政府の思惑通り、海外に移住します。行く先は台湾が多いようです。しかし、台湾でも韓国語訛の中国語をしゃべるという理由で疎外されるようです。横浜中華街周辺にもそういう事情で日本にきた華僑がいます。

(友常) その視角はかなり有効だと思います。先ほどの「対面関係」という領域を設定されたということが河さんの議論で重要なところだと思います。エティエンヌ・バリバールなんかがいっているレイシズムというものとは違う差別の論理はあるんだけれども、共存関係の領域を設定できるということは、一枚板で差別を語るのではなくて、杉原達さんの議論でいうと、帝国主義国家をどう考えるのか、こちらからどう構成するのかということです。マイノリティに対する差別があるということが当たり前のことであって、それとどういうふうに向き合ったり、つきあったりしていくのかというとで問題を立てると、全く違うようなアイデンティティの取り方とか、マイノリティにとっての社会という考えがでるんではないでしょうか。
最後に、被差別部落民問題と在日韓人問題との方向性について、どのようにお考えですか。

(河) 被差別部落問題と在日韓人問題とは、それぞれの研究者に別次元の問題とみなされ、乖離してきたような気がします。それぞれの差別改善運動も同じ状況にあります。しかし、それは改善すべきです。両者は、日本における被差別マイノリティという点で、歴史を共有しているからです。とくに、過去の両者の歴史は総括しなければなりません。部落民や韓人、そしてそれを支えてきた日本人も、差別はいけない、差別をなくせ、と主張してきました。しかし、両者は、一部とはいえ、お互いを差別してきたと思うんです。

差別は誰にでも味わえる快楽です。自分が受けた差別を他人に転嫁することほど、気持ちの良い行為はないのかも知れません。また、両者には感情的にしっくりいかない事件があったはずです。田中部落で生まれた在日二世の人は、部落民は許せないといいます。彼が子どもの頃、同和事業の一環として田中部落に市営住宅を建設することになりました。そこに混住していた両者は、一時立ち退きの条件として市営住宅への優先的入居権を連帯して主張し、京都市と交渉したようです。彼はきれいな家に引っ越せると親から聞き楽しみにしていたそうです。しかし、彼の期待は裏切られました。市営住宅建設後、部落民は約束通り入居できたのですが、韓人は外国人であることを理由に入居を拒否されたのでした。結局、彼の一家は田中部落を離れました。彼は引っ越しのトラックの中で両親に、きれいな家に引っ越せないのは何故かと尋ねたそうです。すると両親は、白丁が裏切ったからだ、と答えたそうです。真偽はわかりません。しかし、少なくとも彼は傷ついたようです。そういう体験は、部落民の方もあるかも知れません。

ある韓人古老は、子弟教育のために、部落民の子女と同じ学区にならないよう引っ越したと証言していました。結婚の場合も反対されることが少なくありませんでした。このような関係は残念です。両者の歴史を総括した上で、お互いの差別意識に基づいた不幸な歴史を清算しなければいけません。そのためには、両方の研究者が共同で「在日マイノリティ史」なる歴史書を作成していく作業が必要です。難しいことですが、やらなければいけない課題であると思います。

(友常)聞き手としての私は今日は本当に勉強させていただきました。河さんの研究を踏まえて、部落問題と移民労働者問題の共同研究が確立できるといいと思います。本日はあがとうございました。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html


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