-
1:777
:
2022/07/05 (Tue) 17:08:02
-
日本語のルーツは西遼河で3000年前に渡来
日本語の原郷は9000年前の「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
2021-11-13
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12710029028.html
日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
Yahoo news 2021/11/13(土) 毎日新聞
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12710029028-15031004815.html
日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。
日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。
研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。
一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。
共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。
研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】
韓国語の起源は9000年前、中国北東部・遼河の農耕民
Yahoo news 2021/11/13(土) 朝鮮日報日本語版
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12710029028-15031005547.html
韓国語がチュルク語・モンゴル語・日本語と共に9000年前の新石器時代、中国東北部で暮らしていた農耕民から始まったことが明らかになった。これまでは、それよりはるか後に中央アジア遊牧民が全世界に移住して同様の体系を持つ言語が広がったと言われていた。
ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロベーツ博士研究陣は「言語学と考古学、遺伝学の研究結果を総合分析した結果、ヨーロッパから東アジアに至るトランスユーラシア語族が新石器時代に中国・遼河一帯でキビを栽培していた農耕民たちの移住の結果であることを確認した」と11日、国際学術誌「ネイチャー」で発表した。
■母音調和・文章構造が似ているトランスユーラシア語
今回の研究にはドイツと韓国・米国・中国・日本・ロシアなど10カ国の国語学者、考古学者、遺伝生物学者41人が参加し、韓国外国語大学のイ・ソンハ教授とアン・ギュドン博士、東亜大学のキム・ジェヒョン教授、ソウル大学のマシュー・コンテ研究員ら韓国国内の研究陣も論文に共著者として記載されている。
トランスユーラシア語族はアルタイ語族とも呼ばれ、西方のチュルク語、中央アジアのモンゴル語、シベリアのツングース語、東アジアの韓国語と日本語からなる。汁などが煮え立つ時の擬声語・擬態語である「ポグルポグル(ぐつぐつ)、プグルプグル(ぐらぐら)」のように前の音節の母音と後ろの音節の母音が同じ種類同士になる「母音調和」がある点や、「私はご飯を食べる」のように主語、目的語、述語の順に文が成り立っている点、「きれいな花」のように修飾語が前にくる点も共通の特徴だ。
トランスユーラシア語族はユーラシア大陸を横断する膨大な言語集団であるにもかかわらず、起源や広まった過程が不明確で、学界で論争の対象となっていた。ロベーツ博士の研究陣は古代の農業と畜産に関連する語彙(ごい)を分析する一方、この地域の新石器・青銅器が出ると見られる遺跡255カ所の考古学研究結果や、韓国と日本で暮らしていた初期農耕民の遺伝子分析結果まで比較した。
研究陣があらゆる情報を総合分析した結果、約9000年前に中国・遼河地域でキビを栽培していたトランスユーラシア祖先言語の使用者たちが新石器初期から北東アジア地域を横断するように移動したことを確認した、と明らかにした。
■新石器時代の韓国人と日本人の遺伝子が一致
今回の「農耕民仮説」によると、トランスユーラシア祖先言語は北方と西方ではシベリアと中央アジアの草原地帯に広がり、東方では韓国と日本に至った。これは3000-4000年前、東部草原地帯から出た遊牧民が移住し、トランスユーラシア語が広がったという「遊牧民仮説」を覆す結果だ。
ロベーツ博士は「現在の国境を越える言語と文化の起源を受け入れれば、アイデンティティーを再確立できる」「人類史の科学は言語と文化、人間の歴史が相互作用と混合の拡張の1つであることを示している」と述べた。
韓国外国語大学のイ・ソンハ教授は「各分野の研究結果を立体的に総合分析し、トランスユーラシア語が牧畜ではなく農業の拡大による結果であることを立証したという点で注目すべき成果だ」「韓国の(慶尚南道統営市)欲知島の遺跡で出土した古代人のデオキシリボ核酸(DNA)分析により、中期新石器時代の韓国人の祖先の遺伝子が日本の先住民である縄文人と95%一致するという事実も初めて確認した」と語った。
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12710029028.html
▲△▽▼
2021-11-14
日本語のルーツは西遼河で3000年前に渡来ですと?
https://dokusho-chayarokurokuro.hatenablog.com/entry/2021/11/14/235413
マスコミの記事は消えるので全文引用する。
日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。
日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。
研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
f:id:chayarokurokuro:20211114232134j:plain
その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。
一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。
以上、引用終わり。
約9000年前に西遼河流域に居た民族が南下し、約3000年前に水田稲作農耕・ムギを持って日本に伝わったと。つまり紀元前1000年頃の弥生時代開始を言っている。
古い縄文語はアイヌ語として残ったと。
沖縄は11世紀に日本列島から農耕と琉球語を持って渡り、古い沖縄語と入れ替わったと。
九州や西日本は7300年前に鹿児島の鬼界カルデラ大噴火により壊滅し、その後1000年ほど人が居なくなる。約6000年前に人が住み始める。その火山灰層を鬼界アカホヤという。鬼界アカホヤは東北にまで達し、琵琶湖の底でも5cmの層が積もっているといいます。
鬼界アカホヤ層以前の縄文土器(轟A式)と、アカホヤ層以後の縄文土器(轟B式)は系統が異なる。アカホヤ以降のは南方系の土器。だから6000年前より後の九州・西日本縄文人は南方系海洋族と言われている。
その後の曽畑式(そばた)の縄文土器は、この記事が言うように中国北部や朝鮮半島の櫛目紋土器の影響を受けた物だとされるが、その担い手は変わらず南方系海洋族の縄文人だとされる。言語だけが置き換わるのだろうか。しかも3000年前の日本語をどうやって調べたのだろうか。
『梁書』(倭の五王時代の中国の南朝の国)でも日本国内で国によって言語が違うと書いてありますけど。
佐賀県唐津にある日本最古の水田跡が発見された菜畑遺跡は2600年前紀元前10世紀で、朝鮮半島の水田跡は1500年前だとか。釜山の北側にある蔚山(ウルサン)のオクキョン遺跡で紀元前11世紀ですと。
訂正すみません。
陸稲ならもっと古い。稲は縄文時代の割りと早い時期に東北まで伝わっていたらしいが、寒い地方では実らなかったのか栽培を放棄したようだと佐原真氏の書籍にあった。稲や水田農耕は本当に朝鮮半島から?
https://dokusho-chayarokurokuro.hatenablog.com/entry/2021/11/14/235413
▲△▽▼
日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
2021年11月14日
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
Natureに日本語のルーツについての新しい研究成果が発表されたと言うことで、さっそく読んでみる。
こちらの論文、"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった)"である。
Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
https://www.nature.com/articles/s41586-021-04108-8
トランスユーラシア語族というのは聞きなれない言葉かもしれないが、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、そして日本語の共通のルーツにあたると推定される言語のグループである。
これまでの研究では、トランスユーラシア語族については「紀元前2000~1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導した」という説が支持を集めていたという(これを「遊牧民仮説」という)。
これに対して今回の研究成果では、遊牧民仮説に異を唱え、紀元前9000年ごろまで遡る西遼河周辺地域の農耕民(キビ農耕民)こそがトランスユーラシア語を話す最初の人々であったと推定する。なお、西遼河というのは今の中国の東北部を流れる大河であり、キビというのはあの穀物の黍である。
せっかくなので、"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages"を読んでみよう。DeepLを使えば訳文も一瞬で取得できるので活用させていただく。
トランスユーラシア語族は紀元前2000年の牧畜民?それとも、紀元前9000年の農耕民?
まずAbstractから読んでみる。(Abstractというのは学術論文の概要をまとめたもので、その論文が新たに得た知見が先行研究の知見とどう違うのか、その新たな知見を得るためにどういうデータや資料をどのような方法で分析したのかが書かれている)
この論文が示す新たな知見は次の通りである。
従来の「牧畜民仮説」に疑問を投げかけ、トランスユーラシア言語の共通の祖先と主要な分散は、新石器時代初期以降に北東アジアを移動した最初の農民にまで遡ることができるが、この共通の遺産は青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠されていることを示している。
トランスユーラシア語族のルーツについては、従来の説では紀元前2000~1000年ごろに「東部のステップから移動してきた遊牧民」と考えられていたが、この論文はここに「疑問を投げかけ」るのである。そしてこの説に代わってトランスユーラシア語族のルーツが紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民にあることを諸々のデータから立証する。
ところでこの新説、なぜ今までは「紀元前2000年ごろの遊牧民の移動」説に比べて、もっともらしさで見劣りしていたのだろうか?
それは即ち、紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民の姿は、その後の時代の「青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠され」たからである。
*
隠されていたとはどういうことだろうか?
それはすなわち、紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民から単純なツリー状にトルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、日本語を話すグループが分岐した訳ではないからである。単純なツリー状というのは要するに、いったん幹から分かれた枝が、その後もう二度と幹や他の枝と再び一つになることなく、永遠に独立したまま伸びていく、というイメージである。
画像3
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
図で描くとこのような具合であるが、現実はこんなに単純ではない。「青銅器時代以降の広範な文化交流」とあるように、一度別れた枝はまた幹に繋がるし、別々の枝同士も絡まり合い、その絡まり合った後からまだ新たな分岐が生じ、その分岐がさらに他の枝たちの絡まり合いに絡まり合い、という具合に縺れた網目状になるのである。絡まり縺れた網、毛玉のイメージである。
画像4
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
この縺れあいの中で幹はいつしか細くなり、ほとんど見えなくなってしまう。しかもここにより太い別の「幹」から分かれてきた他所の枝まで混じり合う。
この辺りの話については、デイヴィッド・ライク氏の『交雑する人類』が詳しいのでご参考にどうぞ。
交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%A4%E9%9B%91%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E2%80%95%E5%8F%A4%E4%BB%A3DNA%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E6%96%B0%E3%82%B5%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E5%8F%B2-%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AF/dp/4140817518/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=sl1&tag=youhi0081-22&linkId=8313121f27247394a9547712219bb9a0&language=ja_JP
現代の私たちが直接観察できる言語の話者たちの集団は、一本のツリーの純粋な枝ではなく、特に濃密にきつく絡み合った網ないし毛玉の部分である。この現存する毛玉から、ルーツの残影を復元するのはとんでもなく大変なことである。
この大変な縺れを解きほぐしたのが言語学と考古学と遺伝学を統合した「トライアンギュレーション」というアプローチである。
言語の系統樹の分岐と生業
言語学と考古学(農耕遺跡の分析)の重ね合わせから、次のような知見が得られるという。
まず言語である。
ベイズ法を用いてトランスユーラシア諸語の年代順の系統樹を推定した。その結果、トランスユーラシア語族のルーツである原始トランスユーラシア語は9181 BP (5595-12793 95% highest probability density (95% HPD))、トルコ語、モンゴル語、ツングース語が統合された原始アルタイ語は6811 BP (4404-10166 95% HPD)、モンゴル語-ツングース語は4491 BP (2599-6373 95% HPD)、日本語-韓国語は5458 BP (3335-8024 95% HPD)という時間的な深さが示された(Fig. 1b).
ベイス法というのはデータを分類する手法である。この論文が採用したデータからは日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、トルコ語の共通のルーツである原始トランスユーラシア語が喋られていたのは今からおよそ9000年ほど前にまで遡る可能性が浮かび上がるという。
下記に図を引用する。参照元は次のページである。
画像1
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
図の上の a は現代の言語の分布である。緑はトルコ語、黄色がモンゴル語、青がツングース語、紫が韓国朝鮮語で、赤が日本語である。
そして図の下の方 b が、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語が、共通のルーツとなる言語(トランスユーラシア語)から分岐していく様子を表している。
まず3が「原始(プロト)トランスユーラシア語」。これは図の中で3の赤が示す通り、西遼河の流域で今から9000年前ごろに話されていたと推定される言語である。
ここから、4「プロトモンゴル-ツングース語」を話すグループと、5「プロト日本語-韓国語」を話すグループが分かれつつ、東西へ、南へと広がって行ったのである。
*
ここで、なぜトランスユーラシア語を話した人々がキビ農耕民だと推定されるかというと、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語では農耕に関する言葉、食品の生産と保存に関する言葉、定住を示唆する野生の木の実を表す言葉、織布に関する言葉、家畜に関する言葉に、共通の祖語が推定されるのである。
復元された原語の語彙の中で明らかになった農耕民族的な単語を調べる質的分析(補足データ5)により、特定の地域で特定の時期に行われた祖先の言語コミュニティの文化的診断となる項目をさらに特定した。新石器時代に分離した共通の祖語(原トランスユーラシア語、原アルタイ語、原モンゴロ・ツングース語、原日本・朝鮮語など)には、耕作に関連する言葉(「field」、「sow」、「plant」、「growth」、「cultivate」、「spade」)や、米やその他の作物ではなく粟(「millet seed」、「millet gruel」、「barnyard millet」)などの小さな核が反映されている。食品の生産と保存(「発酵させる」「すり潰す」「粉にする」「醸造する」)、定住を示唆する野生食品(「くるみ」「どんぐり」「栗」)、織物の生産(「縫う」「布を織る」「織機で織る」「紡ぐ」「布を切る」「苧麻」「麻」)、そして唯一の家畜として豚と犬が挙げられる。
トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語の共通の祖語にまで遡れる時点、つまり9000年前の時点で、既にキビの畑作に関する言葉が用いられていたということは、つまりトランスユーラシア語族の共通祖先は農耕民であったことを示しているといえる。
◇
次に考古学である。
キビの栽培の痕跡に注目すると、ちょうど今から9000年前ごろ、現在の中国東北部の西遼盆地ではキビの栽培が始まっていた。このキビ農耕の文化は5500年前ごろには朝鮮半島に達しており、5000年前ごろにはアムール河流域からロシアの沿海地方にも広まっていた。
4000年前ごろになって、このキビから始まった農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった。西遼のキビ農耕民の文化と、南方の黄河の小麦や長江の稲作農耕文化とが、遼東半島や山東半島のあたりで出会ったらしい。
青銅器時代前期(今から3300年前ごろ)には、キビ農耕に稲作や小麦をも取り込んだ西遼の複合文化が朝鮮半島まで伝わる。
そして今から3000年前ごろになって朝鮮半島から日本に伝わったのである。
*
ある言語を話す集団がある植物を栽培化したとして、永遠にその作物だけを育て続ける訳ではない。作物と技術は、言語のグループを超えて伝承する。
* *
こちらも図を引用してみよう。参照元は下記のページである。
画像2
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
図中、赤い矢印は、今から7000年前〜5000年前ごろの新石器時代のアムール族キビ農耕民の東への移動を示す。
また、緑の矢印は今から3500年前〜2900年前ごろの新石器時代後期から青銅器時代にかけて、アムール族キビ農耕民が南方の稲作を取り入れつつ、朝鮮半島へ、さらには日本列島へと移動したことを示す。
対馬海峡の部分に描かれている2900年前という年代は、九州北部で稲作農耕が始まる頃である。
*この辺りの詳細については藤尾慎一郎氏による講談社現代新書『弥生時代の歴史』が参考になる。
弥生時代の歴史 (講談社現代新書)
https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4062883309/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=sl1&tag=youhi0081-22&linkId=f5aac7f598540e146f656ba5194a813d&language=ja_JP
*
今日の日本語に連なる言語を話していた人々は、今から3000年前ごろに日本列島に到着したのであるが、その時点で言語に関してはトランスユーラシア語族に遡ることができる言語を話し、農耕の技術に関しては9000年前にまで遡るキビ農耕文化由来の要素と、南方起源の稲作文化の要素が複合した文化を携えていたという事になる。
水田を営む稲作農耕を営む人々は、定住性を高め、労働力を集約できるように一箇所に集まって生活し、地域の人口密度を高める傾向にある。一方、キビ農耕民はどちらかといえば居住エリアを広げていく傾向にあったという。
* *
ところで、キビ農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった「4000年前ごろ」といえば、ちょうど「殷」の始まりの頃である。
後に殷と呼ばれることになる王朝を開いた人々は、もともと、おそらく今のモンゴルや遼河流域、ちょうど今でキビや粟を栽培していた人々であると推定されている。それが南に移動し後に、それこそ山東あたりで稲作の文化も取り込みつつ勢力を拡大し、後に「夏」にとってかわった、と考えられる。
上の図の緑の矢印の出発地点、ちょうど赤く塗られたエリアと、緑に塗られたエリアが重なるところであるが、「殷」の発祥の地もまさにこの辺りと推定されることが興味深い。
もともとキビ農耕民だった後の殷の人々が、稲作を取り込んだことによってまさに定住性、集住性を高め、王朝まで建立するに至ったと推定することもできる。
ところで、殷の文化と、その殷を滅ぼした周の文化とでは、大きな違いがあるということを、かの白川静氏が語っている。
呪の思想 (平凡社ライブラリー) – 2011/4/9
白川 静 (著), 梅原 猛 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%91%AA%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E7%99%BD%E5%B7%9D-%E9%9D%99/dp/4582767338?pd_rd_w=Hw9wl&pf_rd_p=ae64b7f5-458b-4e9a-9b07-1feecb909091&pf_rd_r=K2XM0D0EJESTHX077617&pd_rd_r=7bada2a7-aaf6-43e5-a481-5544f158dee5&pd_rd_wg=Y6jaA&pd_rd_i=4582767338&psc=1&linkCode=sl1&tag=youhi0081-22&linkId=ddcc1e7c1cc734f8a02ef87ad4f365a4&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_tl
周の文化は今日に連なる中国の文明の直接の祖であって、「合理的」で「鬼神を語らず」の傾向がある。
それに対して殷の文化は「広くいえばシャーマニズム的なものが非常に濃厚」であると白川氏はいう。また殷には「文身(刺青)」の習慣のように、のちの中国では失われながら、いわゆる魏志倭人伝に登場する倭人の習俗には伝わる要素が含まれているという。
こうした点から白川氏は、『詩経』と『万葉』、古の日本と中国の古層との間に、「両者が共通して持っているような原体験の世界というものが見えてくるのではないか」と論ている(『呪の思想』p.21)。
*
今回の言語の系統樹の研究に依れば、殷の人々と、今から3000年前くらいに朝鮮半島から日本列島へと渡ってくることになる稲作農耕民とは、遡ること4000年ほどには同じ文化の人々であった可能性も高くなる。
もちろん、この場合の「同じ」というのも、孤立した単一の塊という意味合いではなく、すでに遡ること遥か9000年前ごろから、そしてもちろんそれよりもはるかに古い時代から複雑に絡み合い続けた動的な網の目の、一つの結び目というくらいの意味である。
* *
同じ言語的ルーツを持つグループでも、生業が変われば暮らし方も変わるし、人間の集まり方、関わり方なども大きく異なってくる。
そして何より、新たに接触した異言語を話す人々から一連の単語を借り、言語を変化させていくのである。
青銅器時代に分離したテュルク系、モンゴル系、ツングース系、朝鮮系、日本系の各亜族は、米・麦・大麦の栽培、酪農、牛・羊・馬などの家畜、農具や台所道具、絹などの織物に関連する生活用語を新たに挿入している。これらの単語は、様々なトランスユーラシア語や非トランスユーラシア語を話す青銅器時代の人々の間の言語的な相互作用から生まれた借用である。
古いにしえからの言い方を受け継ぎつつも変化し、変化しながらも古からの要素を残す。言語は同一性を反復しつつ差異化し、差異化しつつ反復するオートポイエシスのシステムともいえる。
まとめ
このとてもエキサイティングな論文"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった)"のまとめをあらためて参照しよう。
「トランスユーラシアの言語の起源は、新石器時代の北東アジアでアワの栽培を始めた人々(初期アムール人)にまで遡ることができる」
「新石器時代の初期から中期にかけて、"初期アムール人"の遺伝子を持つキビ農耕民が西遼河から周辺地域に広がる」
「新石器時代後期、青銅器時代、鉄器時代を通じてアムール人を祖先に持つキビ農耕民は、黄河、西ユーラシア、縄文の人々と各地で徐々に混血しつつ、生業にも稲作や、西ユーラシアの作物、そして牧畜を加えていった。」
この辺りの研究は今後もさらに進んでいくことだろう。
なんといっても、農耕という作物との関係で、定住なり、集団生活なりといった人間同士の関係の取り方が浮かび上がり、そうした中で、ある特定の言葉が繰り返し使われる頻度が相対的に高まり、そこが強力な伝搬の中心のようなものになってなって行ったという説は面白い。
◇ ◇
こうした研究成果は、あれやこれやの純粋性とか本質といったことが素朴に実在するだろうとする確信を揺るがせる点で、まさに科学の真骨頂といえるものだと思うのであります。
そしてそして、井筒俊彦氏が書いているような、今日現在の私たち一人ひとりにもまさに「憑依」している「言語的意味分節のカルマ」としての阿頼耶識が、そのごく細く小さな部分を、9000年も前に西遼河で暮らした人々から連綿と変容しつつ伝承されている何かの残滓だということも、大変なことであると思うのです。
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa
-
2:777
:
2022/07/05 (Tue) 18:15:38
-
雑記帳 2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究(追記有)
https://sicambre.seesaa.net/article/202111article_12.html
アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Robbeets et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。
本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。
伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。
古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。
「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。
しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。
●言語学
方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793~5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166~4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373~2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024~3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。
アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。
以下は本論文の図1です。
画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig1_HTML.png
祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。
対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。
●考古学
新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。
文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。
分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300~2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。
以下は本論文の図2です。
画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig2_HTML.png
人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。
先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。
●遺伝学
本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500~300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。
アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。
西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。
以下は本論文の図3です。
画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig3_HTML.png
主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。
アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。
朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761~紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0~95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。
Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。
本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。
沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。
●考察
言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期~中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。
以下は本論文の図4です。
画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig4_HTML.png
時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。
紀元前七千年紀~紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。
後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。
3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。
紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。
一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるのか不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。
本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761~紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。
Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。
朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(補足図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。
以下は本論文の補足図7です。
画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig11_ESM.jpg
最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。
長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった
トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。
トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。
今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。
トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000~1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。
参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
追記(2021年11月25日)
本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。
言語学:「三角測量」によって支持された、トランスユーラシア諸語の農耕に伴う拡散
言語学:トランスユーラシア諸語の中国起源
トランスユーラシア諸語(アルタイ諸語)は極めて古く、東は日本、朝鮮半島、シベリア、西はトルコまで、ユーラシア各地に広がっている。この諸語の起源および拡散に関しては盛んに議論されている。今回M Robbeetsたちは、歴史言語学と古代DNAと考古学を組み合わせることで、トランスユーラシア諸語が、約9000年前の中国東北部・遼河流域の初期のキビ農耕民、そして隣接した現在の極東ロシアのアムール川流域に端を発する遺伝子プールまでさかのぼれることを示している。この諸語はその後、この地域から北のシベリア、西のステップ、東の朝鮮半島や日本へと広がったと見られる。
https://sicambre.seesaa.net/article/202111article_12.html
-
3:777
:
2022/07/05 (Tue) 18:22:24
-
あげ111
-
4:777
:
2022/07/05 (Tue) 23:32:33
-
遼河文明を襲った異変 2018年8月19日
http://www.jojikanehira.com/archives/august2018-4
一般的にBC6200年頃(つまり8200年前ぐらい)に出現した興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)が遼河文明の始まりと考えられるようです( Liu 2006 )。ウラル語族の研究者の多くは、ウラル語族のおおもとの言語(ウラル祖語)が話されていたのはBC4000年頃(つまり6000年前ぐらい)であろうと見積もってきましたが( Kallio 2006 )、筆者も、ウラル語族内部の言語の分岐構造、語彙のばらつき・隔たり、そしてインド・ヨーロッパ語族の言語から長きにわたって取り入れられてきた語彙の積層からして、大体それらの見積りの通りであろうと考えています。ウラル語族と日本語の結びつきは6000年前よりもっと古いものということになります。例えば、上肢に関する語彙の考察のところで、フィンランド語のkäsi(手、腕)カスィ、kyynärpää(肘)キューナルパー、olka(肩)、kainalo(脇)という語を取り上げ、これらが日本語の語彙と関係していることを示しましたが、パッと見ただけでは、日本語のどの語に関係しているのか全然わかりません。何千年という時間が経過すると、このようなことになってしまいます。ウラル語族と日本語の結びつきは非常に古く、遼河文明の初期の頃のものと見られます。
遼河文明は、興隆窪文化の後、紅山文化(こうさんぶんか)(BC4500~BC3000年頃)などの文化が栄え、やがて夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)(BC2000~BC1500年頃)に至りますが、実はBC2200年頃から遼河流域で気候変動による砂漠化が始まったことが近年の科学調査でわかってきました( Yang 2015 )。それまでの生活が維持できなくなるような深刻な環境変化に見舞われていたのです。この異変を受けて、遼河流域から南のほう(黄河下流域のほう)へ移動していった人々がいたと見られます。遼河流域から北に向かうとシベリアなので、農耕を行うのであれば選択肢は当然南だったでしょう。BC2200年頃から砂漠化が始まり、まもないタイミングで遼河流域から黄河下流域のほうへ南下していくと、どのようなことになるでしょうか。
まず、この問題を考えるための前提として、遼河文明と黄河文明の初期の頃の様子から見ておきましょう。 Shelach-Lavi 2015 から引用した以下の図は、遼河文明と黄河文明の初期の各文化を示したものです(図中の1、2、3はこれらの文化の発生にいくらか先行する遺跡で、それぞれ南荘頭遺跡(なんそうとういせき)、東胡林遺跡(とうこりんいせき)、虎頭梁遺跡(ことうりょういせき)です)。
Xinglongwaはすでに言及した遼河流域の興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)、Houli、Cishan、Peiligang、Dadiwanは黄河流域の後李文化(こうりぶんか)、磁山文化(じさんぶんか)、裴李崗文化(はいりこうぶんか)、大地湾文化(だいちわんぶんか)です。BC6500年~BC5500年頃(つまり8500年前~7500年前ぐらい)の様子です。見ての通り、黄河文明の初期の頃から、有力な文化が内陸部にも下流域にも存在しました。
黄河文明はこのような状態から変化していき、遼河流域で砂漠化が始まったBC2200年頃には、黄河流域は龍山文化(りゅうざんぶんか)に大きく覆われていました。かつて大地湾文化が存在したところも、裴李崗文化・磁山文化が存在したところも、後李文化が存在したところも龍山文化の圏内になります。とはいえ、夏・殷・周の時代に入る前なので、龍山文化の圏内の言語が画一的だったはずはなく、細かく分かれたシナ・チベット語族の言語が並存していたと考えられます。
※夏王朝が実在したかどうかということについては考古学界で議論が続いていますが、夏王朝が実在したのであれば二里頭遺跡(にりとういせき)がその跡であろうという見方が支配的です。二里頭遺跡の位置は、上の地図でいうと、PeiligangとDadiwanの間のあたりです。夏王朝に関しては、禹(う)が大洪水後の治水事業を成功させ、夏王朝の創始者になった話が有名ですが、最近の科学調査で黄河の特大級の洪水の存在が具体的に示され、目が離せない展開になっています( Wu 2016 )。
殷王朝も周王朝も黄河下流域を支配下に入れましたが、殷王朝の開始はBC16世紀頃、周王朝の開始はBC1046年です。BC2200年頃から遼河流域で砂漠化が始まり、そこから南下してきた人々を待っていたのは、まだ殷王朝・周王朝の支配が存在しない、しかし遠くないうちに殷王朝・周王朝の支配が始まる、そんな時代の黄河下流域だったのです。そのような黄河下流域の言語状況はどのようになっていたのでしょうか。まだ殷王朝・周王朝の支配は始まっていませんが、黄河下流域は黄河文明の初期からその一角を担っており、内陸部と連続する龍山文化が広がっていました。
※BC2200年頃から始まった砂漠化は非常に大きな出来事だったと見られますが、それ以前に遼河流域から黄河方面への人の移動が全くなかったと考えるのは極端です。Y染色体DNAのN系統の拡散のところで見たように、遼河文明の初期の頃からユーラシア大陸の北方に大きく広がっていく人の流れがあり、最も遠いところではヨーロッパにまで及びました。そのようななかで、南方の近場への移動がゼロだったというのは考えづらいことです。
参考文献
英語
Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.
Wu Q. et al. 2016. Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty. Science 353(6299): 579-582.
Yang X. et al. 2015. Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 112(3): 702-706.
その他の言語
Kallio P. 2006. Suomen kantakielten absoluuttista kronologiaa. Virittäjä 110: 2-25. (フィンランド語)
Liu G. 2006. 西辽河流域新石器时代至早期青铜时代考古学文化概论. 辽宁师范大学学报(社会科学版) 29(1): 113-122. (中国語)
http://www.jojikanehira.com/archives/august2018-4
-
5:777
:
2022/07/05 (Tue) 23:34:12
-
日本語が来た道:遼河流域→山東省→朝鮮半島→日本列島
2022年2月20日
http://www.jojikanehira.com/archives/19730127.html
日本語は遼河流域からどのようにして日本列島にやって来たのかという核心的な問題に、いよいよ踏み込みましょう。Robbeets 2021の図を再び掲げます。
実際にどのような歴史展開があったのか考えず、単純に地図だけを見れば、遼河流域から直接朝鮮半島に移動し、朝鮮半島から日本列島に移動するのが一番手っ取り早く思えるでしょう。しかし、本記事の前の三つの記事でお話ししたように、紀元前1500年頃(つまり3500年前頃)から、遼東半島、山東省あるいはその両方から朝鮮半島にイネの栽培を導入した人たちが、先住民である狩猟採集民(かつてのアワ・キビの栽培が衰えてしまったことはすでに述べました)を圧倒する形で、朝鮮半島を支配するようになりました。そして、イネの栽培を行う人たちが支配するようになった朝鮮半島から日本語が日本列島にやって来ました。
そのようなわけで、日本語は遼河流域から遼東半島を通ってやって来たのか、それとも、遼河流域から山東省を通ってやって来たのかという点が焦点になります。しかしながら、言語だけに限った話ではないのですが、遼河流域にあったものが遼東半島を通って朝鮮半島に入る流れは盛んに注目されているものの、遼河流域にあったものが山東省を通って朝鮮半島に入る流れは驚くほど注目されていません。考古学は近年すばらしい進歩を遂げていますが、その考古学でも遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入る流れはまだ注目されていません。それだけ難しい問題あるいは気づきにくい問題なのです。確かに、山東省は遼河流域ではなく、黄河下流域にあるので、遼河流域と山東省の結びつきについて考える動きが鈍いのはよくわかります。
本ブログでもよく「遼河文明、黄河文明、長江文明」と言っていますが、遼河流域の歴史展開と、黄河流域の歴史展開と、長江流域の歴史展開は全然別々のものではなく、時代によって、遼河流域のある部分と黄河流域のある部分に密接なつながりがあったり、黄河流域のある部分と長江流域のある部分に密接なつながりがあったりします。
日本語は実は、遼河流域にあったものが山東省を通って朝鮮半島に入る流れがあったことをまざまざと示している言語です。(1)モンゴル系の言語から日本語に語彙が入り、(2)シナ・チベット語族の言語から日本語に語彙が入り、(3)タイ系の言語から日本語に語彙が入り、(4)ベトナム系の言語から日本語に語彙が入る様子を見てみましょう。(1)~(4)のことがセットで可能になるのは、どんな場合でしょうか。日本語が遼河流域から直接朝鮮半島に入った場合では、無理でしょう。日本語が遼河流域から遼東半島を通って朝鮮半島に入った場合でも、無理そうです。(1)~(4)のことがセットで可能になるのは、日本語が遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入った場合なのです。
※遼河文明の要素は、遼河流域から直接朝鮮半島に入ることもあったし、遼河流域から遼東半島を通って朝鮮半島に入ることもあったし、遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入ることもありました。日本語が遼河流域から山東省を通って朝鮮半島に入ったとしても、日本語に系統的に近い言語が、遼河流域から直接朝鮮半島に入ったり、遼河流域から遼東半島を通って朝鮮半島に入ったりした可能性は十分にあります。ここでは、日本語に系統的に近い言語ではなく、日本語そのものの移動ルートを問題にしています。同一の起源を持つ言語がそれぞれ違う方向に広がっていくのは、当然のことです。
この記事は、考古学の話を続ける前にはさんだつなぎの記事で、考古学の話を続ける前に簡単なスケッチを見せることを目的としています。ここでは、モンゴル系言語で「目」を意味する語が日本語に入ってくるところ、シナ・チベット語族の言語で「目」を意味する語が日本語に入ってくるところ、タイ系言語で「目」を意味する語が日本語に入って来るところ、ベトナム系言語で「目」を意味する語が日本語に入ってくるところを捉えます。
「目」を意味する語は、他の語とはわけが違います。人間の言語の語彙の中で自然に関する語彙と身体部位を表す語彙は変化しにくいですが、自然に関する語彙の中で最も変化しにくいのが「水」を意味する語で、身体部位を表す語彙の中で最も変化しにくいのが「目」を意味する語です。たとえ、「水」を意味していた語が「水」を意味することができなくなっても、「目」を意味していた語が「目」を意味することができなくなっても、残り方に大きな特徴があります。
前に、「目(め)」の語源の記事で、ウラル語族の「目」について論じましたが、ウラル祖語で「目」を意味していた語が、現代のウラル語族のすべての言語でも「目」を意味しているという驚くべき状況になっていました。
「目」を意味する語は、このぐらい変化しにくいのです。
実際、モンゴル系言語の「目」を見ても、シナ・チベット語族の「目」を見ても、タイ系言語の「目」を見ても、ベトナム系言語の「目」を見ても、ほとんど変化していません。過去の記事のおさらいを含みますが、ベトナム系言語の「目」→タイ系言語の「目」→シナ・チベット語族の「目」→モンゴル系言語の「目」の順に見ていきましょう。
ちなみに、ベトナム系言語の「目」はベトナム語のmắt(目)マ(トゥ)ような語、タイ系言語の「目」はタイ語のtaa(目)のような語、シナ・チベット語族の「目」は古代中国語のmjuwk(目)ミウクのような語、モンゴル系言語の「目」はモンゴル語のnüd(目)ヌドゥのような語です。
●ベトナム系言語の「目」
ベトナム系言語のベトナム語mắt(目)マ(トゥ)のような語は、日本語にma(目)として入り、のちにme(目)に変化しました(この変化はta(手)がte(手)になったのと同じ変化です)。
日本語のma(目)はわかりやすいですが、日本語のmatu(待つ)も見逃してはいけません。目を意味することができなくなった語が、なにを意味するようになるか考えてみてください。目を意味することができなくなった語が、見ることを意味するようになるのは超頻出パターンです。しかし、超頻出パターンなので、目を意味することができず、見ることを意味することもできない語が出てきます。目を意味することができず、見ることを意味することもできない語は、なにを意味するようになるのでしょうか。実は、以下の頻出パターンがあります。
ある人が立っています。親しい人が来るのを待っています。どんな様子でしょうか。親しい人が来ると予想される方向をずっと見たり、ちらちら見たりしているのではないでしょうか。見ることを意味していた語が、待つこと、待ち望むこと、望むことを意味するようなるのは頻出パターンなのです。
例えば、英語のexpect(期待する)はこのパターンです。ラテン語で、外を意味するexと見ることを意味するspectareから、待つことを意味するexspectareが生まれ、これが英語のexpect(期待する)になりました。
ちなみに、英語のwait(待つ)も見ることを意味していた語です。ただし、敵対的な視線を意味していました。待ち伏せしたり、待ち構えたりするような感じです。そこから、敵対的な意味が薄れて、一般に待つことを意味するようになりました。これも、見ることを意味する語が待つことを意味するようになったケースです。ともかく、見ることと待つことには密接な関係があります。
上の「目」→「見ること」→「待つこと、待ち望むこと、望むこと」という意味変化は重要で、後でまた出てくるので覚えておいてください。
●タイ系言語の「目」
タイ語のnaam(水)、taa(目)、naam taa(涙)は、本ブログで何度も取り上げており、おなじみでしょう(タイ語は、日本語と違って、うしろから修飾します)。
日本語のnama(生)(焼いたり、干したりしておらず、水っぽいという意味です)やnami(波)から、タイ系言語の話者が近くにいてnaam(水)のように言っていたことがわかります。
日本語のnamida(涙)(奈良時代にはnamita、namuta、namida、namudaという形がありました)から、タイ系言語の話者が近くにいてnaam taa(涙)のように言っていたことがわかります。
タイ系言語の話者がnaam(水)、naam taa(涙)のように言うのを聞いていたのなら、タイ系言語の話者がtaa(目)のように言うのも聞いていたはずです。おそらく、このtaa(目)のような語も日本語に入ろうとしたが、他の語に押し負け、namida(涙)に組み込まれて残ることしかできなかったと思われます。
ベトナム系言語の「目」とタイ系言語の「目」は上のようにして日本語に入りましたが、シナ・チベット語族の「目」とモンゴル系言語の「目」はどのように日本語に入ったのでしょうか。
長くなるので、ここでいったん切ります。
※ウラル語族の「目」(フィンランド語のsilmä(目)スィルマのような語)に日本語のziroʔ(じろっ)、ziroziro(じろじろ)、zirori(じろり)が対応していることは、「目(め)」の語源の記事でお話ししました。日本語ではかつて、*siro(目)と言っていたわけです。sira(白)→siro(白)という発音変化があったので、*sira(目)がもとの形かもしれません。
「じっと見る」のziʔ(じっ)も、ziroʔ(じろっ)、ziroziro(じろじろ)、zirori(じろり)と同源でしょう。ziʔ(じっ)は、見ることを表していたが、待つことなども表すようになり、とどまって動かないという意味が生まれてきたと見られます。
参考文献
Robbeets M. et al. 2021. Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature 599(7886): 616-621.
http://www.jojikanehira.com/archives/19730127.html
-
6:777
:
2022/07/06 (Wed) 00:05:06
-
日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ
2018年1月4日JOJI KANEHIRA
http://www.jojikanehira.com/archives/number1.html
こんにちは。金平譲司と申します。ここに「日本語の意外な歴史」と題するブログを立ち上げました。
このブログは、日本語ならびに日本語と深い関係を持つ言語の歴史を解明するものです。言語学者だけでなく、他の分野の専門家や一般の方々も読者として想定しています。
謎に包まれてきた日本語の起源
日本語はどこから来たのかという問題は、ずいぶん前から様々な学者によって論じられてきましたが、決定的な根拠が見つからず、大いなる謎になってしまった感があります。しかしながら、筆者の研究によってようやくその全貌が明らかになってきたので、皆さんにお話ししようと思い立ちました。
日本語は、朝鮮語、ツングース諸語(エヴェンキ語、満州語など)、モンゴル諸語(モンゴル語、ブリヤート語など)、テュルク諸語(トルコ語、中央アジアの言語など)と近い関係にあるのではないか、あるいはオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)と近い関係にあるのではないかというのが従来の大方の予想でしたが、これらの予想はポイントを外しています。
中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないかと考えたのは、至極当然のことで、北方の言語と南方の言語に視線を注ぐこと自体は間違っていません。問題なのは、北方のごく一部の言語と南方のごく一部の言語に関心が偏ってしまったことです。
上記の言語のうちで、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、日本語によく似た文法構造を持つことから、日本語に近縁な言語ではないかと盛んに注目されてきました。同時に、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語は、互いに特に近い関係にあるとみなされ、いわゆる「アルタイ語族」という名でひとまとめにされることがしばしばありました。日本語の起源をめぐる議論は、このような潮流に飲まれていきました。
しかしながら、筆者がこれから明らかにしていく歴史の真相は、かなり違います。日本語は、朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル諸語、テュルク諸語と無関係ではないが、別の言語群ともっと近い関係を持っているようなのです。
実を言うと、筆者は日本語やその他の言語の歴史に興味を持つ人間ではありませんでした。筆者は若い頃にフィンランドのヘルシンキ大学で一般言語学や様々な欧州言語を学んでいましたが、その頃の筆者の興味は言語と思考の関係や外国語の学習理論などで、もっぱら現代の言語に関心が向いていました。歴史言語学の講義もありましたが、特に気に留めていませんでした。
筆者が言語の歴史について真剣に考えるようになったきっかけは、ロシアの北極地方で少数民族によって話されているサモエード諸語との出会いでした。サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。
言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。言語は時代とともに少しずつ変化しています。言語は単に変化するだけでなく、分化もします。ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。
この地域ごとに少しずつ異なる言葉が方言です。しかし、これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。
あまりに違いが大きくなれば、もう方言ではなく、別々の言語と言ったほうがふさわしくなります。一律の学校教育やマスメディアが発達していない時代には、この傾向は顕著です。ある言語が別々の言語に分化するのです。分化してできた言語がさらに分化することもあります。言語学では、おおもとの言語と分化してできた諸言語をまとめて「語族」といいます。世界で最もよく知られている語族は、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる語族で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語などはこの語族に属します。例えるなら、イヌ、オオカミ、キツネ、タヌキが共通祖先を持っているように、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語は共通祖先を持っているということです。
日本語とウラル語族
英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。以下にウラル語族の内部構造を簡単に示します。
ウラル語族の言語を研究する学者の間に意見の相違がないわけではありませんが、上の図は従来広く受け入れられてきた見方です。ウラル語族の言語は、まずフィン・ウゴル系とサモエード系に分かれ、フィン・ウゴル系はそこからさらにフィン系とウゴル系に分かれます。フィンランド語はフィン系に属し、ハンガリー語はウゴル系に属します。サモエード系の言語は、ロシアの北極地方に住む少数民族によって話されています。現在残っているサモエード系の言語はネネツ語、エネツ語、ガナサン語、セリクプ語の四つのみで、特に後の三つは消滅の危機にあります。
サモエード系の言語は、フィンランド語やハンガリー語と同じウラル語族の言語ですが、フィンランド語やハンガリー語とは文法面でも語彙面でも著しく異なっています。同じ言語から分かれた言語同士でも、別々の道を歩み始め、何千年も経過すれば、似ても似つかない言語になってしまいます。特に、サモエード系の言語が辿った運命とフィンランド語・ハンガリー語が辿った運命は対照的です。サモエード系の言語は、北極地方にとどまり、他の言語との接触が比較的少なかったために、昔の姿をよく残しています。それに対して、フィンランド語とハンガリー語は、有力な言語がひしめくヨーロッパに入り込み、大きく姿を変えました。サモエード系の言語は、いわば「生きた化石」です。人類の歴史を解明するうえで、大変重要な言語です。サモエード系の言語との出会いは、筆者にとってショッキングな出来事でした。これ以降、筆者は言語の歴史について本格的に研究し始めることになります。
筆者が初めてサモエード系の言語を見た時には、「文法面ではモンゴル語やツングース諸語に似ているな」という第一印象を受けました。しかし、よく調べると、「あれっ、語彙面では日本語に似ているな」という第二印象を受けました。少なくとも言語の根幹をなす基礎語彙に関しては、モンゴル語やツングース諸語より、ウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いと思いました。なんとも不思議な感じがしました。なんで日本の近くで話されているモンゴル語やツングース諸語より、北極地方で話されているウラル語族のサモエード系の言語のほうが日本語に近いんだろうと考え始めました。様々な言語を見てきましたが、サモエード系の言語には今までにない特別なものを感じました。なにか重大な秘密が隠されている予感がしました。
フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながらフィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。
東アジアには黄河文明とは違う文明が存在した
ウラル語族の各言語の語彙を研究するうちに、ウラル語族が日本語だけでなく、モンゴル語、ツングース諸語、朝鮮語、さらには中国語にもなんらかの形で関係していることが明らかになってきたので、ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を開始しました。着実かつ合理的に歴史を解明するため、考古学および生物学の最新の研究成果を適宜参照しました。考古学も生物学も近年めざましい発展を遂げており、数々の重要な発見がありました。
かつては、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、そして東アジアの黄河文明が並べられ、世界四大文明と呼ばれていました。ところが、その後の発見によって、東アジアには黄河文明のほかに二つの大きな文明が存在したことがわかってきました(このテーマを包括的に扱った書籍はいくつかありますが、考察の広さ・深さの点でShelach-Lavi 2015が優れています)。
その二つの大きな文明とは、長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)です。日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。
生物学が発達し、人間のDNA配列が調べられるようになりました。DNA配列は、正確には「DNAの塩基配列」といい、アデニンA、チミンT、グアニンG、シトシンCという四種類の物質が作る列のことです。最近では、生きている人間のDNA配列だけでなく、はるか昔に生きていた人間のDNA配列も調べられるようになってきました。大変興味深いことに、遼河文明が栄えていた頃に遼河流域で暮らしていた人々のDNA配列を調べた研究があります(Cui 2013)。
人間は父親と母親の間に生まれるので、子のDNA配列が父親のDNA配列と100パーセント一致することはなく、子のDNA配列が母親のDNA配列と100パーセント一致することもありません。しかし、父親から息子に代々不変的に受け継がれていく部分(Y染色体DNA)と、母親から娘に代々不変的に受け継がれていく部分(ミトコンドリアDNA)があります。代々不変的に受け継がれていく部分と書きましたが、この部分にも時に突然変異が起きます。つまり、その部分のDNA配列のある箇所が変化するのです。変化していないY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝える一方で、変化したY染色体DNA配列を持つ男性がそれを息子に伝えるということが起き始めます。同様に、変化していないミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝える一方で、変化したミトコンドリアDNA配列を持つ女性がそれを娘に伝えるということが起き始めます。こうして、時々起きる突然変異のために、Y染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションができてきます。人類の歴史を研究する学者は、このY染色体DNAのバリエーション、ミトコンドリアDNAのバリエーションに注目するのです。
先ほど述べた遼河流域の人々のDNA研究は、Y染色体DNAのバリエーション(例えば、C系統か、D系統か、N系統か、O系統か)を調べたものです。その結果はどうだったでしょうか。古代の人々の研究なのでサンプル数は限られていますが、それでも大まかな傾向は十分に捉えられています。遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。
見え始めた日本語の正体
筆者もウラル語族の言語が東アジアの言語と深い関係を持っていることを知った時には大いに驚きましたが、考古学・生物学の発見と照らし合わせると、完全に合致します。日本語がウラル語族の言語と深い関係を持っていることは非常に興味深いですが、もう一つ興味深いことがあります。日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多く、ウラル語族とは全く異なる有力な言語群も日本語の形成に大きく関与したようなのです。
ウラル語族の言語と東アジア・東南アジアの言語の大々的な比較研究を行い、様々な紆余曲折はありましたが、漢語流入前の日本語(いわゆる大和言葉)の語彙構成が以下のようになっていることがわかってきました。
「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。
「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。
「その他の語彙2」というのは、日本語が縄文時代に日本列島で話されていた言語から取り入れた語彙です。
漢語流入前の日本語の語彙構成の特徴的なところは、なんといっても、語彙の大きな源泉が三つあることです。三つの有力な言語勢力が交わっていたことを窺わせます(遼河文明と黄河文明と長江文明の位置を思い出してください)。
「日本語の意外な歴史」では、ウラル語族との共通語彙、黄河文明の言語との共通語彙、長江文明の言語との共通語彙、その他の語彙1、その他の語彙2、いずれも詳しく扱っていきます。
では、日本語およびその他の言語の歴史を研究するための準備に取りかかりましょう。
外国語の単語の表記について
英語と同じようなアルファベットを使用している言語では、それをそのまま記します。言語学者が諸言語の発音を記述するのに使う国際音声記号(IPA)というのがありますが、音韻論の専門家でない限り、多くが見慣れない記号です。そのため、本ブログではIPAの使用はできるだけ控えます。特に朝鮮語は、IPAを用いて記すと複雑になるため、市販されている初心者向けの韓国語の文法書で採用されている書き方にならいました。一般の読者にとって見慣れない記号を用いる場合には、補助としてのカタカナ表記を付け加えます。慣習を考慮し、ヤ行の子音は基本的に、北方の言語(ウラル語族の言語など)では「j」で表し、南方の言語(中国語、東南アジアの言語)では「y」で表します。古代中国語のアルファベット表記の仕方は、Baxter 2014に従います。
参考文献
Baxter W. H. et al. 2014. Old Chinese: A New Reconstruction. Oxford University Press.
Cui Y. et al. 2013. Y chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. BMC Evolutionary Biology 13: 216.
Rootsi S. et al. 2007. A counter-clockwise northern route of the Y-chromosome haplogroup N from Southeast Asia towards Europe. European Journal of Human Genetics 15: 204-211.
Shelach-Lavi G. 2015. The Archaeology of Early China: From Prehistory to the Han Dynasty. Cambridge University Press.
Shi H. et al. 2013. Genetic evidence of an East Asian origin and paleolithic northward migration of Y-chromosome haplogroup N. PLoS One 8(6): e66102.
http://www.jojikanehira.com/archives/number1.html
本ブログの記事一覧 | 日本語の意外な歴史
http://www.jojikanehira.com/archives/list
-
7:777
:
2022/07/08 (Fri) 13:11:20
-
あげ547
-
8:777
:
2023/06/05 (Mon) 11:06:24
-
雑記帳
2023年06月03日
水ノ江和同『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%B5%B7%E3%82%92%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%9F%E3%81%8B-%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E5%9C%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%B0%B4%E3%83%8E%E6%B1%9F%E5%92%8C%E5%90%8C/dp/402263118X
朝日選書の一冊として、朝日新聞出版より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、縄文文化の範囲が現在の日本国の領土とほぼ重なる、と指摘します。つまり、北方は宗谷海峡と択捉海峡まで、伊豆諸島では八丈島ので、九州では対馬島と沖縄県の久米島までとなります。縄文時代にこの範囲を越えて、周辺地域由来と考えられる遺物(考古資料)が日本列島で、逆に周辺地域で日本列島由来と考えられる遺物が発見された場合、「交流」として高く評価されてきました。しかし本書は、そもそも「交流」という用語を使うことに疑問を呈します。縄文時代において、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料は必ずしも多くないので、弥生時代以降と同等の「交流」を想起させる用語を使うのは適切ではない、というわけです。本書は、縄文文化の範囲の内外で、それぞれ相手方と考えられる考古資料が発見されている事象を、「交流」ではなく「関係性」や「往き来」という用語で表現します。
次に本書は、縄文時代における海を越えた「往き来」について、これまで高く評価されてきたものの、その理由や経路などについて、考古学的研究に不可欠な形式学的検討が不充分だった、と指摘します。本書はこうした問題意識から、縄文文化とその周辺地域の文化との関係性を重視し、おもに北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島との考古学的な事実関係を検討します。なお。本書における縄文時代の時期区分は、草創期(16000~11000年前頃)→早期(11000~7500年前頃)→前期(7500~5500年前頃)→中期(5500~4200年前頃)→後期(4200~3200年前頃)→晩期(3200~2400年前頃)で、九州北部の玄界灘沿岸部のみ、2800~2400年前頃は弥生時代早期となります。なお、本書は、ユーラシア大陸東端部に位置する、現在のロシア極東から中国東部(東北と華北と華中と華南)を「大陸」と表記しています。
縄文時代と縄文文化の開始については議論がありますが、本書は旧石器時代と縄文時代の違いとして、ナウマンゾウやヘラジカといった大型動物ではなく、シカやイノシシといった動きの速い小型動物を捕獲する飛び道具としての弓矢の出現、竪穴住居の建築などに必要な木材の伐採や加工を可能にした磨製石斧の普及、温暖化による食料獲得の安定化に伴う定住生活、やや遅れるものの魚介類の捕獲増加とそれに伴う貝塚の出現および急増を挙げています。縄文時代の終焉は北海道などを除いて弥生時代の始まりとなりますが、縄文土器と考えられていた「夜臼式土器」と大陸系磨製石器や木製農具が出土し、水田の跡が確認されたことから、縄文時代最終末期にはすでに稲作農耕が始まっていたのか、それとも弥生時代の開始が早まるのか、議論になりました。その後の研究の進展により、福岡県と佐賀県の玄界灘沿岸部意外ではこうした事例が認められず、玄界灘沿岸部に限定して「弥生時代早期」という時代区分の設定が提案されました。縄文文化の世界的な位置づけとしては、新石器時代に一般的に見られる本格的な農耕と牧畜はないものの、食料も含めて資源に恵まれ、多様な装飾品も見られることから、「森林性新石器文化」と位置づける見解もあります。なお、縄文時代には西日本より東日本の方が栄えていた、との見解が有力ですが、本書はこれが研究実績の差から無意識のうちに創出されている可能性を指摘します。
本書は縄文時代における渡海について、縄文文化の島嶼部への拡散の考古資料を検証し、まず南島(元々は大隅諸島と吐噶喇列島と奄美群島を指し、その後は尖閣諸島と大東初頭以外の琉球列島の島々を指すようになります)を対象としますが、縄文文化が及ばない先島諸島は除外しています。南島は縄文時代には亜熱帯性海洋性気候で、動植物の生態は独特でした。南島では、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の縄文時代から古代に相当する期間は貝塚時代と呼ばれてきました。貝塚時代早期~中期は「本土」の縄文時代に位置づけられ、「本土」の弥生時代に相当するのは貝塚時代後期です。ただ、この貝塚時代が縄文文化に位置づけられるのか、20世紀後半に議論があり、今でも貝塚時代早期~中期を縄文時代と位置づけることは定着していないようです。本書は、日本列島の島嶼部には多様な縄文文化があることを指摘し、貝塚時代を多様な縄文文化の一つと位置づけます。九州島から沖縄本島までの距離は約530kmですが、好天時には島影を次々と目視でき、九州島から沖縄本島まで渡海できます。久米島から先島諸島の最東端である宮古島までの距離は約220kmなので、好天時でも島影を目視できないため、縄文時代の人々(縄文人)は先島諸島の存在を知ることができなかっただろう、と本書は推測し、じっさい先島諸島には縄文文化の痕跡はまったくない、と指摘します。縄文時代において日本列島内での航海はとくに前期中葉以降に盛んだったようで、黒曜石や貝の採取などが目的でしたが、沖ノ島などについては、現時点で渡海の目的は不明です。大陸と日本列島との間の経路については、北方のサハリンや朝鮮半島や東シナ海や沖縄や日本海といった経路が想定されてきましたが、本書は、これまで大陸から日本列島という一方通行のみに議論が偏り、その逆方向が軽視される傾向にあった、と指摘します。
日本列島と大陸との関係で本書が重視する考古資料は玦状耳飾です。縄文時代早期末葉~中期中葉にかけて見られる玦状耳飾が日本列島の独自起源なのか、それとも大陸起源なのか、という議論は、縄文文化をアジア東部においてどう位置づけるのか、という問題とも関わってくるからです。これに関しては長い議論がありましたが、出現期の製作遺跡が北陸沿岸部に集中することから、対馬海流を介した中華地域からの伝来説が主流となります。さらに、中国でも起源地は江南なのか東北なのか、といった問題も議論されました。本書はこの長きにわたる議論について、日本列島全体での編年研究と、大陸との類似性に関して形式や年代や製作技法や伝来経路の検討が不充分で、日本列島に近接する現在のロシア極東や朝鮮半島との関係性については未検討と指摘し、改めてこれらの問題を検証します。玦状耳飾は縄文時代早期末葉に北海道から九州まで、まず環形が一斉に出現し、北陸で最も出土数が多く、製作遺跡も集中しますが、現時点で北陸が他地域に先行することを示す直接的証拠はない、と本書は指摘します。玦状耳飾が大陸から日本列島にどの経路で到来したかも、現時点で確定は困難なようです。
上述のように、縄文文化の北方の境界は宗谷海峡と択捉海峡で、本書は北海道とサハリン、さらにはアムール川下流域(本書ではまとめて「ロシア極東」とされます)までを比較します。行政目的の発掘調査が多い北海道の考古資料は、ほぼ学術目的の発掘に限定されるロシア極東よりもはるかに多いものの、近年では比較研究が着実に進みつつあるようです。宗谷海峡を挟んで縄文時代の北海道とロシア極東との間のまとまった往き来が確認されているのは、縄文時代早期後葉の1回だけです。北海道の縄文文化の外来要素としては、東部で見られる縄文時代早期後葉の石刃鏃文化が注目されてきました。石刃鏃文化の構成要素には、環状石製品や篦状垂飾や小玉などの石製装身具と擦切石斧があります。現在では、以前には石刃鏃文化の構成要素と考えられた条痕文土器が、石刃鏃文化以前の北海道に存在することなど、北海道とサハリンのつながりが以前の想定よりも薄かった、との見解が有力になりつつあります。石刃鏃文化の集落構造が北海道西部および南部や東北と類似していることなどからも、石刃鏃文化は縄文時代早期後葉の一時期だけ北海道東部に伝来し、根づくことはなかった、というわけです。
縄文文化の南西の境界は九州と朝鮮半島との間となります。縄文時代の九州と朝鮮半島との関係は、曽畑式土器と朝鮮半島の櫛目文土器との類似性や、結合式釣針が対馬海峡西水道を挟んで曽畑式土器の出現以降に、朝鮮半島の東および南海岸と西北九州に集中して分布することなどから注目され、結合式釣針は1970年代~1980年代には、縄文時代における漁撈民の「交流の証」とされました。その後、21世紀にはそうした見解の見直しが進みます。朝鮮半島には九州由来の考古資料が、九州には朝鮮半島由来の考古資料が少なく、相手側の考古資料の出土を過大評価してきたのではないか、というわけです。本書はこうした状況を、「交流」ではなく「往き来」と評価します。
本書は、曽畑式土器の出現に朝鮮半島が関わっている可能性はきわめて低い(若しくはほぼない)と指摘しつつも、曽畑式土器には、土器の外面全体の文様や胎土への滑石の混入など、西日本の縄文土器や朝鮮半島の土器にも系譜をたどれない特徴があり、その出現系譜はまだ不明である、と問題を提起します。朝鮮半島南海岸では、在来の土器と明らかに異なる縄文土器が確認されてきており、九州の「縄文人」が持ち込んだ、と考えられてきました。しかし、よく調べると九州の縄文土器と似ているものの異なる土器も一定数存在しており、九州から朝鮮半島に到来した「縄文人」が、経時的に記憶が曖昧化していく中で製作した独自の縄文土器だろう、と推測します。本書はこうした土器を「九州系縄文土器」と呼びます。九州における朝鮮半島系の考古資料はほぼ対馬島に限られ、対馬島北西部では、朝鮮半島の新石器時代早期の隆起文土器などが多数を占め、縄文時代前期の西唐津式土器や曽畑式土器がごく少ない遺跡もあります。こうした朝鮮半島系土器の形式変化が連続的であることから、一定期間継続的に居住していた、と推測されます。しかし、対馬島におけるほぼ完全に朝鮮半島新石器時代系と言える遺跡は現時点で2ヶ所だけで、周辺の縄文時代遺跡からは、朝鮮半島系土器はほとんど出土していません。本書はこの考古学的証拠の解釈は難問としつつ、朝鮮半島には存在しない黒曜石の収集および搬出拠点として存在した可能性も指摘します。結合式釣針については、朝鮮半島では新石器時代の早期と前期(九州の縄文時代前期)に限定され、九州では縄文時代後期初頭~中葉にほぼ限られ、主体となる年代が異なることや、技術的な違いから、共通性の乏しさが指摘されています。本書は、九州の結合式釣針の起源が東日本にある、と推測しています。
本書はこれらの知見を踏まえて、縄文時代における九州と朝鮮半島との関係は縄文時代早期末葉から後期中葉まで長期にわたるものの、断続的と指摘します。朝鮮半島で出土した最多の九州系縄文土器は、縄文時代後期初頭の坂の下式土器です。縄文時代後期初頭には、関東の称名寺式土器や関西の中津式土器の系統とされる磨消縄文と呼ばれる文様が、北海道南部から九州北部にまで分布し、九州では大珠や土偶や仮面形貝製品が出現するなど、大きな動きが見られ、西北九州に出現した鈴桶技法による黒曜石製の剥片鏃が朝鮮半島からも出土することから、画期となった縄文時代後期初頭において、日本列島の大きな動きの余波として、九州から朝鮮半島への往き来もそれ以前より活発になったのだろう、と推測します。ただ本書は、全体的には、九州と朝鮮半島との間の「往き来」の回数自体は決して多いとは言えないだろう、と指摘します。本書は、弥生時代以降の九州と朝鮮半島との関係の下地・前段階となる交流が縄文時代にもすでにあった、との潜在的意識が考古学者にあり、縄文時代の九州と朝鮮半島との「交流」が過大評価されてきたのではないか、と指摘します。確かに、縄文時代の九州と朝鮮半島との間に「往き来」は間違いなくあったものの、互いの文化に影響を及ぼすほどの「交流」には明らかに遠く及ばない、というわけです。
本書は、縄文時代の日本列島において島嶼部への航海が活発だったことと、それとは対照的に、同じような距離の航海だったにも関わらず、日本列島とサハリンや朝鮮半島との関係がずっと低調だった要因として、「文化圏と言葉」を挙げています。日本列島全体では、さまざまな地域性が存在しながらも、同じ技術や約束事で縄文土器が作られており、その継承には言葉による説明が必要だった、と本書は指摘します。九州から南島、とくに沖縄本島に至る航海にはかなりの危険が伴いますが、時期による差はあれども、南島では断続的に九州の縄文文化が伝わり、影響を及ぼしていました。本書はその理由として、言葉によるある程度の意思疎通があった、と想定し、南島は大枠では縄文文化圏だった、と指摘します。一方、縄文時代において、北海道とサハリン、および九州と朝鮮半島では、言葉による意思疎通はほとんどできていなかった、と本書は推測します。この「文化圏と言葉」の関係性は、日本列島が海により隔絶していた旧石器時代には存在していた、と本書は推測します。「縄文人」は、日本列島の各島嶼部には、思疎通可能な共通の言葉を有している人々がいるものの、サハリンや朝鮮半島にはそうした人々がいないと知っていた、というわけです。一方、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した稲作農耕文化は、目で見るだけでは伝わらないので、言葉の壁を超えて意思疎通できる通訳が現れた、というわけです。ただ本書は、こうした縄文時代の日本列島とその周辺地域との関係性で説明の難しい考古資料、具体的には玦状耳飾や結合式釣針や装身具文様があることも指摘し、今後の課題としています。
以上、本書をざっと見てきました。本書は、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土と重なり、その近隣地域、つまり北方ではサハリン、西方では朝鮮半島との間には文化的に大きな影響を残した相互作用はなく、「交流」ではなく「往き来」と評価すべきである、と主張します。これは、縄文文化がほぼ日本列島に限定され、かなり孤立した文化だったことを示しているように思います。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有する状況ではなく、対馬海峡で文化圏を区分できるのではないか、との見解を以前に読んでいたので(関連記事)、本書の見解にはとくに意外ではありませんが、具体的な検証が詳しく、用語の解説もあるので、私にとって本書は大当たりでした。私のような非専門家が縄文時代の日本列島と周辺地域との文化的関係を調べるさいに、本書は長く教科書的な役割を担うことになるでしょう。
本書では古代ゲノム研究は取り上げられていませんが、改めて、遺伝と文化と民族を単純に相関させてはならいない、と痛感します。「縄文人」は、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成する独特な集団で、時空間的に広範囲にわたって遺伝的には均質だった、と考えられます(関連記事)。この「縄文人」的な遺伝的構成要素をさまざまな割合でゲノムに有する個体は、ほぼ日本列島というか縄文文化の範囲に限定されていますが、例外が先島諸島と朝鮮半島南岸で(関連記事)、現在のロシア極東の沿岸部もその例外に含まれるかもしれません(関連記事)。
上述のように、先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と本書は指摘していますが、先島諸島の紀元前9~紀元前6世紀頃の個体は、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なります。考古資料からは先島諸島に縄文文化の影響は見えないものの、言語や精神文化では強い共通性があった、と主張できるかもしれませんが、現時点でかなり苦しいことは否定できないでしょう。先島諸島にいつ「縄文人」的な遺伝的構成の集団が到来したのか、その集団は琉球諸島北部の貝塚時代の集団と言語も含めてどの程度の文化的共通性があったのか、現時点では推測が困難です。やはり、遺伝というかDNAと文化を安易に関連づけてはならないのでしょう(関連記事)。
朝鮮半島南岸では、新石器時代に「縄文人」的な遺伝的構成要素をゲノムに有する個体が確認されており、その中には遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体も存在します。本書の見解を踏まえて、これをどう解釈すべきなのか、現時点では推測の難しいところで、「縄文人」的な遺伝的構成の集団の形成過程とも関わって、さまざまな可能性が考えられます(関連記事)。たとえば、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部で形成され、日本列島へと拡散した場合、朝鮮半島南岸の人類集団において新石器時代を通じて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続した可能性も、一旦消滅して縄文時代の日本列島から到来した可能性も考えられます。あるいは、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島で形成されたものの、その主要な祖先集団の一部が朝鮮半島南岸に留まり、それ故に朝鮮半島南岸の新石器時代人類集団の中には、「縄文人」的な遺伝的構成要素とアジア北東部集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在するのかもしれません。この場合、遺伝的にほぼ完全に「縄文人」と重なる個体は、近い祖先の多くが縄文時代の日本列島に由来するのかもしれません。こうした問題については、そのうち一度まとめるつもりです。
参考文献:
水ノ江和同(2022) 『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_3.html
-
9:777
:
2023/06/10 (Sat) 18:24:41
-
雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。
●要約
言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。
一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。
●近年の研究動向
先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000~紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代~青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。
ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。
一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。
著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。
最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。
著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。
本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。
●日琉語族と朝鮮語の研究史
日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。
李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。
マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。
マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500~紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。
日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀~紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。
●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題
九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀~紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。
九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀~紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842~806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
画像
縄文時代黒川期の紀元前13世紀~紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。
黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀~紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀~紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀~紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。
土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
画像
縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。
弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀~紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。
したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀~紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。
「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。
形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1~紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。
●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明
日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。
弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
画像
三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
画像
朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。
朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1~3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
画像
偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部~中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
画像
日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
画像
朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
画像
しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。
日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。
無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。
●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明
上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀~紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。
移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。
一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。
朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。
このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です
●まとめ
言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。
偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。
日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀~紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀~紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。
紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。
日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。
参考文献:
Ahn, J. (2010). Periodization of the Korean Peninsula Bronze Age. Kokohaksi, 16 (pp. 5–56). Seoul National Museum (in Korean).
Ahn, S. (2010). The emergence of rice agriculture in Korea: Archaeobotanical perspectives. Archaeological and Anthropological Sciences 2 (Special Issue, The Archeobotany of Asian Rice, L. Hosoya, Y. Sato., & D. Fuller, Eds.), 89–98.
Bae, J. (2010). Genealogy and development of Mumun pottery: Focusing on the recent issues. Kokohaksi, 16 (pp. 57–74). Seoul National Museum (in Korean).
Bellwood, P. (2005). First farmers: The origins of agricultural societies. Blackwell.
邦訳は長田俊樹、佐藤洋一郎監訳『農耕起源の人類史』(京都大学学術出版会、2008年)
Chen, Q., & Chen, G. (1992). Periodization and related issues about Santang Neolithic site. Kaogu, 3, 232–244.
Endo, M. (2021). Geographical distribution of certain toponyms in the Samguk Sagi. Anthropological Science, 129, 35–44.
https://doi.org/10.1537/ase.201229
Fujio, S. (2021). Early grain cultivation and starting processes in the Japanese Archipelago. Quaternary, 4, 3.
https://doi.org/10.3390/quat4010003
Hudson, M., Nakagome, S., & Whitman, J. (2020). The evolving Japanese: the dual structure hypothesis at 30. Evolutionary Human Sciences, 2, e6.
https://doi.org/10.1017/ehs.2020.6
Hudson, M., & Robbeets, M. (2020). Archaeological evidence for the farming/language dispersal of Koreanic. Evolutionary Human Sciences, 2, e52.
https://doi.org/10.1017/ehs.2020.49
Janhunen, J. (2005) The lost languages of Koguryŏ. Journal of Inner and East Asian Studies, 2(2), 66–86.
Janhunen, J. (2010). Reconstructing the language map of prehistorical Northeast Asia. In Karttunen, K. (Ed.), Anantam sastram: Indological and Linguistic Studies in Honour of Bertil Tikkanen. Studia Orientalia 108 (pp. 208–305). Societas Orientalis Fennic.
Kim, J., & Park, J. (2020). Millet vs rice: An evaluation of the farming/language dispersal hypothesis in the Korean context. Evolutionary Human Sciences, 2, e12.
https://doi.org/10.1017/ehs.2020.13
Lee, S., & Hasegawa, T. (2011). Bayesian phylogenetic analysis supports an agricultural origin of Japonic languages. Proceedings of the Royal Society B, 278, 3662–3669.
https://doi.org/10.1098/rspb.2011.0518
Li, T. (2020). Transeurasian unity from an archaeological perspective. The Oxford Guide to the Transeurasian Languages (pp. 794–805). Oxford University Press.
Li, T., Ning, C., Zhushchikhovskaya, I.S., Hudson, M., & Robbeets, M. (2020). Millet agriculture dispersed from Northeast China to the Russian Far East: Integrating archaeology, genetics, and linguistics. Archaeological Research in Asia, 22, 100177.
https://doi.org/10.1016/j.ara.2020.100177
Misaka, K. (2012). Traditional period between Neolithic and Bronze Age Pottery in Southern Korean Peninsula seen from the pottery production technique. The tenth joint meeting between Kyushu Archeological Society and Yongnam Archeological Society (pp. 219–233). Yongnam Archeological Society (in Japanese and Korean).
Miyamoto, K. (2014). Human dispersal in the prehistoric era in East Asia. In Nakahashi, T. & Wenquan, F. (Eds.), Ancient People of the Central Plains in China (pp. 63–83). Kyushu University Press.
Miyamoto, K. (2015a). The initial spread of agriculture into Northeast Asia. Asian Archaeology, 3, 11–26.
Miyamoto, K. (Ed.) (2015b). Research on the Shangmashi Shell Midden Site on the Liaodong Peninsula, China. Kyushu University Press (in Japanese).
Miyamoto, K. (2016). Archeological explanation for the diffusion theory of the Japonic and Koreanic languages. Japanese Journal of Archaeology, 4(1), 53–75.
https://hdl.handle.net/2324/1812319
Miyamoto, K. (2019a). The spread of rice agriculture during the Yayoi period: From the Shandong Peninsula to Japanese Archipelago via Korean Peninsula. Japanese Journal of Archaeology, 6(2), 109–124.
https://hdl.handle.net/2324/2236690
Miyamoto, K. (2019b). Prehistoric cultural change in East Asia and Language Group. In Suzuki, H., Kurabe, K., & Endo, M. (Eds.), Papers from the workshop ‘Phylogeny, Dispersion, and Contact of East and Southeast Asian Languages and Human Groups’. Report of ILCAA Joint Research Project 2015–2017 ‘Studies in Asian Geolinguistics’ (pp. 22–27). Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies: Tokyo.
Miyamoto K.(2022): The emergence of ‘Transeurasian’ language families in Northeast Asia as viewed from archaeological evidence. Evolutionary Human Sciences, 4, e3.
https://doi.org/10.1017/ehs.2021.49
Obata, H., & Kunikida, D. (in press). Jomon people sowed rice. A re-examination of the period of influx of continental grains into Japan, the ‘Etsuji SX-1 Phase’. Journal of Archaeological Science.
Renfrew, C. (1987). Archaeology and language. Jonathan Cape.
Renfrew, C. (1999). Time depth, convergence theory, and innovation in Proto-Indo-European. Journal of Indo-European Studies, 27, 257–293.
Robbeets, M. (2020). Transeurasian homeland: Where, what, when? In The Oxford Guide to the Transeurasian Languages (pp. 772–783). Oxford University Press.
Robbeets, M., & Bouckaert, R. (2018). Bayesian phylolinguistics reveals the internal structures in Turkic. Turkic Languages, 21, 3–35.
https://doi.org/10.1002/9781118732168.ch11
Robbeets, M., & Savelyev, A. (2020). The Oxford guide to the Transeurasian Languages. Oxford University Press.
Robbeets, M., Janhunen, J., Savelyev, A., & Korovina, E. (2020). The homelands of the individual Transeurasian proto-languages. In The Oxford guide to the Transeurasian Languages (pp. 753–771). Oxford University Press.
Ruhlen, M. (1987). A guide to the world's languages, Vol. 1. Stanford University Press.
Son, J., Nakamura, D., & Momohara, A. (2010). Kernel stamp on pottery analysis using the replica method. Yaoe Gogohag, 8, 5–34 (in Korean).
Unger, J.M. (2009). The role of contact in the origins of the Japanese and Korean languages. University of Hawaii Press.
Unger, J.M. (2014). No rush to judgment: The case against Japanese as an isolate. NINJAL Project Review, 4(3), 211–230.
Vovin, A. (2013). From Koguryo to T'mna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean. Korean Linguistics, 15(2), 222–240.
https://doi.org/10.1075/kl.15.2.03vov
Whitman, J. (2011). Northeast Asian linguistic ecology and the advent of rice agriculture in Korea and Japan. Rice, 4, 149–158.
https://doi.org/10.1007/s12284-011-9080-0
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
関連記事
小林正史、北野博司、久世健二、小嶋俊彰(2000)「北部九州における縄文・弥生土器の野焼き方法の変化」『青丘学術論集』第17集P5-140
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
関連記事
田中良之(1991)「いわゆる渡来説の再検討」横山浩一先生退官記念事業会編『横山浩一先生退官記念論文集 第2巻 日本における初期弥生文化の成立』(研文出版)P482-505
田中良之、小澤佳憲(2001)「渡来人をめぐる諸問題」『弥生時代における九州・韓半島交流史の研究』(九州大学大学院比較社会文化研究院基層構造講座)P3-27
中橋孝博(1989)「弥生人 形質」佐原真、永井昌文、那須孝悌、金関恕編『弥生文化の研究 第1巻 弥生人とその環境』(雄山閣)P23-51
三阪一徳(2014)「土器からみた弥生時代開始過程」古代学協会編『列島初期稲作の担い手は誰か』(すいれん舎)P125-174
宮本一夫(2017)『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』(同成社)
宮本一夫(2018)「弥生時代開始期の実年代再論」『考古学雑誌』第100巻第2号P1-27
宮本一夫(2020)『東アジア青銅器時代の研究』(雄山閣)
家根祥多(1984)「縄文土器から弥生土器へ」帝塚山考古学研究所編『縄文から弥生へ』(帝塚山考古学研究所)P49-78
家根祥多(1997)「朝鮮無文土器から弥生土器へ」立命館大学考古学論集刊行会編『立命館大学考古学論集』第1巻(立命館大学考古学論集刊行会)P39-64
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
-
10:777
:
2023/06/11 (Sun) 09:55:20
-
雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。
●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題
分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。
たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。
古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。
たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。
その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。
古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。
また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。
種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。
これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。
この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。
●4万年以上前
日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。
捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。
ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。
●後期旧石器時代
ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。
もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。
日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。
●縄文時代
縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。
現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。
このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。
現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。
「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
画像
愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。
一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。
結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。
上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。
しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
画像
Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。
ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。
ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。
つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。
●弥生時代
弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。
弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。
このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。
そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。
上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。
これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。
●古墳時代以降
上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。
一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。
現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。
この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。
Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。
また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。
一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。
●琉球諸島と北海道
沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。
琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。
現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。
オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。
もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。
参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
関連記事
Gelabert P. et al.(2022): Northeastern Asian and Jomon-related genetic structure in the Three Kingdoms period of Gimhae, Korea. Current Biology, 32, 15, 3232–3244.E6.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2022.06.004
関連記事
Harris EE.著(2016)、水谷淳訳『ゲノム革命 ヒト起源の真実』(早川書房、原書の刊行は2015年)
関連記事
Huang X. et al.(2022): Genomic Insights Into the Demographic History of the Southern Chinese. Frontiers in Ecology and Evolution, 10:853391.
https://doi.org/10.3389/fevo.2022.853391
関連記事
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事
Lee DN. et al.(2022): Genomic detection of a secondary family burial in a single jar coffin in early Medieval Korea. American Journal of Biological Anthropology, 179, 4, 585–597.
https://doi.org/10.1002/ajpa.24650
関連記事
Mafessoni F. et al.(2020): A high-coverage Neandertal genome from Chagyrskaya Cave. PNAS, 117, 26, 15132–15136.
https://doi.org/10.1073/pnas.2004944117
関連記事
Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事
Miyamoto K.(2022): The emergence of ‘Transeurasian’ language families in Northeast Asia as viewed from archaeological evidence. Evolutionary Human Sciences, 4, e3.
https://doi.org/10.1017/ehs.2021.49
関連記事
Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2
関連記事
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neanderthal and Denisovan Y chromosomes. Science, 369, 6511, 1653–1656.
https://doi.org/10.1126/science.abb6460
関連記事
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
関連記事
Sato T. et al.(2021): Whole-Genome Sequencing of a 900-Year-Old Human Skeleton Supports Two Past Migration Events from the Russian Far East to Northern Japan. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab192.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab192
関連記事
Scally A. et al.(2012): Insights into hominid evolution from the gorilla genome sequence. Nature, 483, 7388, 169–175.
https://doi.org/10.1038/nature10842
関連記事
Sikora M. et al.(2019): The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene. Nature, 570, 7760, 182–188.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1279-z
関連記事
Tian Z. et al.(2022): Triangulation fails when neither linguistic, genetic, nor archaeological data support the Transeurasian narrativea. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2022.06.09.495471
Vallini L. et al.(2022): Genetics and Material Culture Support Repeated Expansions into Paleolithic Eurasia from a Population Hub Out of Africa. Genome Biology and Evolution, 14, 4, evac045.
https://doi.org/10.1093/gbe/evac045
関連記事
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事
Wang K. et al.(2023): Middle Holocene Siberian genomes reveal highly connected gene pools throughout North Asia. Current Biology, 33, 3, 423–433.E5.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2022.11.062
関連記事
Watanabe Y, and Ohashi J.(2023): Modern Japanese ancestry-derived variants reveal the formation process of the current Japanese regional gradations. iScience, 26, 3, 106130.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2023.106130
関連記事
安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
関連記事
大西秀之(2019)「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」『パレオアジア文化史学:人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 21)』P11-16
関連記事
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021a)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393
関連記事
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021b)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307
関連記事
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021c)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373
関連記事
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021d)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340
関連記事
国武貞克(2021)「中央アジア西部における初期後期旧石器時代(IUP期)石器群の追求と日本列島到来の可能性」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2020年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 32)』P11-20
関連記事
上峯篤史(2020)「存否問題のムコウ」『Communication of the Paleo Perspective』第2巻P24-25
関連記事
佐藤宏之(2013)「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』P27-62
関連記事
篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
関連記事
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231
瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
関連記事
高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
関連記事
松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
関連記事
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
関連記事
山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html
-
11:777
:
2023/06/16 (Fri) 23:09:48
-
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767
2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)
日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。
篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。
大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。
私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。
橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。
篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。
橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。
篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。
弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。
篠田 そう思います。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2
橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?
篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。
橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。
篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。
さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。
朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。
橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。
篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。
両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。
橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。
篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。
橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。
篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。
橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。
篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。
ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。
橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。
篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。
当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。
橘 すごくロマンがありますね。
篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。
弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。
古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。
篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。
古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。
橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。
篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。
政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。
篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。
橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。
篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。
篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。
弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。
橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。
篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。
橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。
篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。
次に「日本人の起源」 というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。
朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。
橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
-
12:777
:
2023/06/26 (Mon) 15:26:09
-
Brown Bag Seminar No.033 Kazuo Miyamoto 「近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散」
KyushuUniv
2023/01/24
https://www.youtube.com/watch?v=a4hLPynYKug
-
13:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:47:08
-
もし弥生人が日本列島に来ていなかったら? 2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1614606628/
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/01(月) 22:50:28.39ID:KScc5wZa
縄文人だけで日本はやっていけたのでしょうか?
前スレ
もし弥生人が日本列島に来ていなかったら?
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1577375097/
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/02(火) 16:44:43.13ID:PXreypVz
「光は朝鮮半島から」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳
① 吉野ヶ里遺跡
縄文人とは、現在の日本人とは異なるアイヌの祖先をいう。
髭が濃いが、その髭がエビのように長くて立派だということで蝦夷と毛人という名前で呼んだのである。
縄文人が狩猟・採集に満足して生活していたのに対して、朝鮮半島ではすでに紀元前一〇〇〇年から櫛目文土器の新石器時代を清算して青銅器時代に入って、新たな文明を開拓していた。
縄文人は、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表したりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したのである。
自然の豊饒のために文明の発達が遅れたアメリカ先住民の没落過程と似ている。
紀元前三〇〇年頃に突然、弥生人が登場した。定住生活をしながら稲作を行って食糧を備蓄して生きていき、青銅器を使用して集団をなして力の結集が可能だった。
こうした弥生人に、縄文人は敵わなかった。一部の縄文人は、弥生人と血を分けて暮らしたが、結局、生活の場を奪われて環境が劣悪な北方に押しやられてしまったのである。
一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見された。
縄文土器とは全く異なるものであった。朝鮮半島の無紋土器と似た無紋の土器であった。
その後、こうした種類の土器が日本各地で出土した。おおよそ紀元後三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶのである。
二三〇〇年前、ついに日本列島に文明の光が照らされました。稲作と青銅器文化が朝鮮半島から入ってきたのです。
弥生時代の遺跡からは、慶尚道の弁韓・辰韓時代のものと同じ細形銅剣、青銅鈴、無紋土器が出土しています。
朝鮮半島の三国時代のものと全く同じ半月型包丁が出土しています。鎌もでています。また、牧畜がなされました。
日本が文明の恵みを受けて弥生時代を開いていったことを証言する場所が、まさに吉野ヶ里遺跡です。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/03(水) 07:23:34.30ID:pgHzzNtl
ジャポニックは日本列島より朝鮮半島で活動してた期間のほうが長いよ
無文土器時代の開始(1500BC)から、百済の滅亡(700AD)までが、朝鮮半島におけるジャポニックの活動期間
桓武天皇の代までは、寧ろ日本の東北地方が未踏の魔境扱い、半島南部のほうがよほど身近な場所だった
白村江の戦いで大敗した倭&百済連合は、その負けた腹いせに東北アイヌの蝦夷地を侵攻
装備で劣る蝦夷を叩き潰し(※初戦では負けた)、「ウリたち強いニダ~!」とイメージの回復作戦に出た
「日本」という虚構の国号を設け、ボクの考えた新設定で日本書紀を編纂し、今日までウソの歴史を積み上げてきた
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/03(水) 07:25:14.63ID:pgHzzNtl
日本古代史の真相は,天武天皇までの歴史は,日本の島を舞台にした歴史にまちがいないが,けっして,土着日本人の歴史ではない,人間の面からいえば,朝鮮半島の人びとがこの島に進出,あるいは亡命しつづけ,ついに故国と縁を断ち切り,新生の独立国として起つまでの歴史なのである。つまり日本史の主人公は半島の人たちなのだ
((荒俣 宏))
0005名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/03(水) 12:47:43.34ID:OBAsgb+p
奈良・平安の時代から、ひきめ鉤鼻画法で表された「都会的(貴族的)」な近畿朝鮮人の顔貌は、半島の遺伝子がかなり入ったもの。
むしろ東北や南九州のようなカッペ顔のほうが元来の日本人らしい顔立ちと言える。
東北人の皆さんも、南九州の皆さんも、「カッペ」と言われても、それを恥じる必要はないですよ。
無理して都会人ぶろうとするより、自分が「カッペ」であることを認めたほうがラクですしね。
PCAにキャプションをつけたので参考にしてください
https://image.prntscr.com/image/VF_Zm8kHRUKPzzikxtjj7Q.png
鹿児島 (沖縄に向かっている)
青森・岩手 (アイヌに向かっている?)
奈良 (韓国に向かっている?)
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/04(木) 03:39:20.30ID:u6kkt+53
司馬遼太郎
「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/04(木) 03:55:33.04ID:u6kkt+53
「隋書」 列伝第四十六 倭国 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字
(訳)倭国は文字を知らず、だた木に刻みを入れたり縄を結んで記録する程度であったが、仏法を敬い百済から経典を求めて得たことによってはじめて文字を読めるようになった。
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/04(木) 03:56:54.44ID:u6kkt+53
倭 VS. 新羅
新羅 慶州 6世紀 発掘された当時の瓦
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image437.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image434.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image409.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image404.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image465.jpg
http://konotabi.com/KoreaTour2011/GeonjuMuseum/image466.jpg
古墳時代前期 服部遺跡
http://hattori-iseki.yayoiken.jp/wp-images/4.jpg
奈良 極楽寺ヒビキ遺跡 5世紀中頃 ヤマト王朝の大臣葛城氏の宮殿
https://narayado.info/wp-content/uploads/2018/04/IMG_0144.jpg
飛鳥板葺宮 7世紀末 皇極天皇の皇居
https://www.asuka-tobira.com/miya/itabukinomiya2.jpg
日本には飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。
飛鳥寺の瓦製作は、渡来した百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。
当時の日本人はその最新の建築に目を見張ったことでしょう。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/04(木) 03:57:49.07ID:u6kkt+53
「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳
① 渡来人の故郷、飛鳥
日本に住んだこともなく何の縁もない私が、日本で故郷のように感じる場所がある。
奈良県高市郡明日香村を中心とした地域、通称飛鳥である。日本という国号が初めて現れたのも飛鳥時代だった。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。
五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。
韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
飛鳥政権を建設した主役は、百済系と推定される蘇我氏一族であった。
蘇我氏の権力は大変なもので、聖徳太子の母親も蘇我氏の血を引いており、推古女王の母親も蘇我氏だった。
飛鳥南側の山裾の、高松塚古墳が眺められる檜隈には、東漢氏と呼ばれる渡来人集団がいた。
彼らの子孫は絶えることなく「渡来人出身」として、僧侶、技術者、学者、官吏として活躍した。
特に、坂上氏は、東北地方の先住民である蝦夷の征伐に功績を立てた、奈良時代の代表的な武人家門になった。
今もこの村には、渡来人を祀った於美阿志神社が残っている。
日本には飛鳥という地名をもつ場所が四〇カ所もあるという。
古代の文献には、「安須可」「飛鳥」「明日香」「安宿」などさまざまに出てくるが、すべて「あすか」と発音する。
大阪河内の「近つ飛鳥」というところは、「安宿」と表記したという。「安らかに宿るところ」という意味である。
そうだとすると、朝鮮半島を遠く離れた厳しい旅の末に、ようやく平穏に留まれる場所を得たという意味ではないだろうか。
七一〇年、都を奈良に遷すとともに飛鳥の栄光は終わり、それから一三〇〇年過ぎた現在では、偉容を誇る寺院も、宮殿跡も、邸宅もない。
しかし、山裾のあちこちに、飛鳥時代の遺跡がひしめき合っている。それを半日かけて巡るのは、夢の旅路といえる。
我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/04(木) 23:12:26.44ID:rXj5ZmhR
だから沿海州ってもう答え出てんだって
こういうのを即座に決着ツケられないからアジアンは劣等とかいわれるんだぞ
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 03:25:14.25ID:E7K16KE5
近代的な意味での史学の日本の創始者である新井白石は
記紀の記述に残存する古層の伝承は馬韓由来のものであり
古代日本の支配層が馬韓=百済からの移住者であると主張している
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 03:25:29.14ID:E7K16KE5
縄文人はアイヌのご先祖様
和人のご先祖様はこれ
デジタル復元でよみがえった百済人は顔が長く、目の間が狭い典型的な北方人の顔をしていた。
https://s.japanese.joins.com/upload/images/2012/09/20120924170621-1.jpg
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 03:26:15.79ID:E7K16KE5
日本は祖として関係の深い百済を無視して、ヤマト政権なるものを考案し嘘を吹き込んでる
0014名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 05:22:58.56ID:E7K16KE5
「卑弥呼」 は古代朝鮮の 「シャーマン」 か
100年以上の論争が続いても邪馬台国はどこにあったか未だ決着がついていない。
この論争の元になる「魏志倭人伝 (AD280~297年)」は漢字で書かれているので
漢字独特の原始性による不確定要素が、錯綜しやすい筋書きを生みやすくしている。
日本の研究者が勝手な判断によって解釈するため、様々な筋書きが公開され読者を困惑させている。
「魏志倭人伝」といえばすごい歴史書だと思うかもしれないが、中国の歴史書「三国史」の中にある一部の記事に過ぎない。
わずか2000文字の短い記事であるために、総合的な判断を下す資料としては不完備なものである。
当時、中国が日本の情報を得るのは、主として朝鮮を媒介としていた。
交通手段に欠けるため、中国から日本へ来ることは極めて困難で、危険を犯して渡来する理由は希薄である。
当時の中国人がどれだけ日本について知っていたか疑問である。
「魏志倭人伝」を基にして当時の倭国を推測しても、所詮、断片的な結論を張り合わせたものになる。
朝鮮人が倭国へ渡来する場合、森林に覆われた不毛の土地であろうとも、稲作が渡来の明白な目的であった。
広大な土地に恵まれた中国人の場合、殊更に倭国へ渡来する理由は希薄である。
まして、中国の上層階級が渡来したとは想像すらできない。朝鮮からでさえ、上層階級が渡来したのは七世紀になってからである。
邪馬台国は日本国の出発点というような大それたものではなく、当時としては他地域に見られない大集落で、
朝鮮半島(母国)からの継続性もあって、中国と交友を計ろうとする人が含まれていたかもしれない。
日本という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものであり、「魏志倭人伝<3世紀末>」が書かれてから
「記紀<8世紀>」「万葉<7~8世紀>」が書かれるまでの約400年の間に、九州・近畿いずれにもまとまった記録文献がない。
邪馬台国は現在の日本人が想像しているような国ではなく、文字を書けない者からなる大集落のようなものと思われる。
アメリカのアパッチ族を高度化したたぐいのものであったかもしれない。
卑弥呼については、AD3世紀の史料として扱えないという研究者もいる。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 12:24:27.11ID:YnaVm7aJ
日本列島「本土」集団(ヤマト人)の「内部二重構造」モデルに関する研究(Jinam et al., 2021)
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_4.html
近畿個体群がCHB・韓国人クラスタの最も近くに位置します。
2020年10月14日付けで『Journal of Human Genetics』に掲載された報告では、朝鮮半島に地理的に近い九州北部より、四国・近畿地方に渡来人の遺伝子が強く見られたと述べられています。
https://www.asahi.com/articles/ASNBG3HLFNBFULBJ00P.html
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20201014000917_comm.jpg
https://nazology.net/wp-content/uploads/2020/10/20201014101751.png
中国朝鮮-近畿四国-中国-中部-関東北海道-東北
愛媛の歌人正岡子規「人間としては下等の地に居る、死に歌詠みの公家たち」
https://pbs.twimg.com/media/Ca6J968UsAErz0e.jpg
https://pbs.twimg.com/media/Ca6J966UkAAzQPo.jpg
赤色→北海道、沖縄、北東北、鹿児島
橙色→南東北、関東、新潟、九州
黄色→近畿、瀬戸内、朝鮮半島
(国立科学博物館)
>関東出土の縄文人骨の多くは頑丈で、西日本出土の人骨は小さい(小片保)
>東日本では動物性食料資源の捕獲や調理のための道具が発達し、西日本では植物性食料資源を利用するための道具が多い(赤沢威)
http://ww3.ctt.ne.jp/~seijiham/seikatu/kyoiku/shotou/tai/taii_m_prf.gif
【身長(5~17歳、文科省「学校保健統計調査」2018年)】
東北・北海道>北陸>首都圏>北関東>関西>九州四国>東海>中国
【体重(5~17歳、文科省「学校保健統計調査」2018年)】
東北・北海道>北関東>北陸>九州四国>首都圏>関西>東海>中国
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 12:27:06.55ID:YnaVm7aJ
「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳
~~~~~~~~~~~~~~~~~
初期の渡来人が住んでいた大阪河内の「近つ飛鳥」というところは、本来「安宿」と表記したという。
「安らかに宿るところ」という意味である。
朝鮮半島を遠く離れた厳しい旅の末に、ようやく平穏に留まれる場所を得たという意味ではないだろうか。
その後、この地は渡来人が溢れるようになった。
彼らを今来とよんだ。彼らは、ここを離れてまた別の飛鳥を捜し出した。
この時から大阪の飛鳥を「近つ飛鳥」、奈良県の飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶようになった。
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/05(金) 12:27:50.64ID:YnaVm7aJ
▼マキシム・レビン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/06(土) 08:09:54.08ID:40Q1kK6P
「邪馬台国」と「卑弥呼<ヒミコ/ヒメコ>」
卑弥呼はシャーマン(巫女)として祭祀を司り、政治は男子がとっていたと言われている。
これは、古代朝鮮の各国の王の筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいたことと似ている。
シャーマンは祈祷師として、古代朝鮮の各国の政治の中心人物に含まれ極めて重要なポストにあった。
古代朝鮮は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成されているので、シャーマンが政治の場に重く位置していた。
現在でも、神社での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、災難、病などを逃れようとする人は恐るべき量に達する。
祈祷が生活に密着している先進国は、韓国・日本において最も顕著だ。
医者がいず、薬もなかった時代、病を恐れて祈祷にたよる生活が続けられていた時代、祈祷師は医者の役割を担っていた。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって消滅に等しくなり、奈良時代に新天地として倭国へ渡来した人々は、倭国を日本として独立・建国させたのである。
好むと好まずとにかかわらず、現日本人の祖先のほとんどが朝鮮半島からの渡来人である。
「魏志倭人伝」に記録されている邪馬台国なるものの軌跡は、日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書であろう。
倭国の原住民から卑弥呼なる祈祷師が生まれたとすれば説明がつかない。
彼女を支える倭人は全て渡来人(朝鮮人)であったということを信じられない人は、縄文がなぜ弥生にかわったのか、
須恵器がなぜ弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ盛んになったのか、古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳とうり二つであるかを知るべきである。
高松塚古墳の彩色壁画の婦人像の着衣が古代朝鮮の服装そのままであり、高句麗にそっくりな古墳があるのはなぜか、
荒神谷の銅剣はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか・・あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れを見ることができる。
縷々申しあげた歴史を認識しなければ、邪馬台国があったのは九州だ近畿だといつまでも論争し、邪馬台国がどのような国であったかの解明をおろそかにする。
卑弥呼なる女王について、古代の人物として朦朧たる想像の世界に追いやり、日本の古代史はわけのわからぬ神々の斟酌にとらわれることで終わる。
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/06(土) 08:11:20.36ID:40Q1kK6P
http://fukunan-blog.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/05/02/doigahama05.jpg
上の画像は1953年の第1次調査で見つかった「鵜を抱く女」という女性人骨。鵜を抱いて埋葬されたものと考えられている。
ヤマトタケルの物語でも知られているように古代,鳥は人の魂だと考えられていた。あるいは,鳥は死後の世界とこの世を結ぶ存在だと考えられていた。
そういったことから,この女性人骨はシャーマンなのではないかと考えられている。
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/06(土) 08:13:24.39ID:40Q1kK6P
高句麗の丸都山城が吉野ケ里遺跡とほぼ同時期(3世紀頃)の遺跡なので
この時点で相当な差がついてる
高句麗の丸都山城
http://www.ryugyongclip.com/contents/gisa/nation/2016/07/gisa_nation_2016-07-30_dn170_image2.jpg
ヤマトの宮殿
https://narayado.info/wp-content/uploads/2018/04/IMG_0144.jpg
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/07(日) 19:45:31.02ID:ALjwyguJ
Genome-wide SNP data of Izumo and Makurazaki populations support inner-dual structure model for origin of Yamato people
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs10038-020-00898-3/MediaObjects/10038_2020_898_Fig5_HTML.png
アイヌ-沖縄-薩摩-出雲-東北-九州-関東-北海道-中部-近畿-韓国
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/08(月) 10:48:44.13ID:GQYQ6vCJ
まとめ
ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョン) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの神 スサノオ(=韓神)
ヤマトの姫 卑弥呼(=朝鮮系シャーマン)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)
ヤマトの食 水稲・米(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)
ヤマトの墓 支石墓(=半島から伝来)
ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)
ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの言語 宮廷語(=百済人の王仁が伝える)
ヤマトの天 高天原(=朝鮮半島)
半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。
書紀で「天」は朝鮮半島を指すのだ。ウヨが言うように「チョン」と読むと
高チョン原、チョンの御中主神。チョン照らす、チョンのぬぼこ
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/09(火) 09:24:10.71ID:UkJJABLv
歯根形態と関連する遺伝子についての研究(Kataoka et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_9.html
以前の遺伝的研究では、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子(rs3827760:アミノ酸もしくはヌクレオチド配列に応じて、それぞれ370V/Aもしくは1540T/C)がシノドントおよびスンダドントの歯冠の特徴と強く関連している、と示されています。
EDAR 370V/A多型は、歯冠形態の他にも、毛髪の太さ、エクリン汗腺の密度、耳たぶの大きさ、顎の突出・後退などの形質と関連することが報告されています。
また、EDAR 370Aアリル※3は東アジアで生まれ、強い自然選択を受けて頻度が上昇してきたと考えられています(日本人においては約80%のアリル頻度)。
本研究のまとめと意義
アジア型のEDAR 370Aアリルが、単一根の上顎第一小臼歯、3根の下顎第一大臼歯、樋状(C字)根の下顎第二大臼歯などシノドントにおける歯根の表現型と有意に関連することが示されました。
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/11(木) 05:25:29.83ID:W+G7S33P
前期新石器時代~漢代にかけての、現代の中華人民共和国山東省の人類の母系の遺伝的構造に関する研究(Liu et al., 2021)が公表されました。
この研究はオンライン版での先行公開となります。
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_11.html
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/14(日) 14:09:07.01ID:f+kKUts3
ネトウヨこそ朝鮮人であった
2018.4.6 22:00
許永中氏と竹田恒泰氏
https://www.gosen-dojo.com/blog/16660/
在日韓国人実業家で“数兆円”のカネを動かし、イトマン事件などにも関わって
「金融フィクサー」「最後の黒幕」「バブルの怪人」などの異名を取った許永中氏(現在は韓国在住)。
そのインタビュー記事に“旧皇族”を名乗る竹田恒泰氏の名前が出てくる。
「私が韓国の刑務所を出た後、(竹田)恒泰君がテレビで在日を差別するような発言をしたことがありました。腹が立ったんで私は苦情を申し入れた。
すると、『誤解です』とソウルに慌て飛んできました。〈在日は日本の宝〉と記した自著を持参し、
『わが皇族は朝鮮半島に由来する。つまり、日本国民はそこから来たようなもの』とかなんとか弁解していました。
『日本に戻ってそれを発信してくれよ』と言うたら、『勘弁してください。日本でそれを発信したら、どこも私を使ってくれなくなります』と情けないことを言っていました」
おうっふ…
https://i.imgur.com/./nBmI5B7.jpg
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/14(日) 18:23:22.94ID:0ItwmKtU
山梨大学の現在の研究課題 蝦夷の真相解明まであと2年だ 楽しみにしなさい
エミシとは誰だったのか:全ゲノム解析で明らかにする東北古代人の遺伝的変遷
研究期間 (年度) 2020-04-01 - 2023-03-31
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20H03332/
宮城県の五松山洞窟(6世紀)から出土した人骨群では、その多くが西日本の弥生人に似た扁平性な顔を持つ中、
少数だが縄文人的な顔貌の個体が混じっている事実が山口敏によって明らかにされた。
大和朝廷の最前線に位置する五松山の当時の状況から、
東北北部には、仙台平野以南とは異なった形質の人々が住んでいた可能性を指摘している。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/18(木) 19:48:29.75ID:prfPs2AJ
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/18(木) 21:50:13.91ID:rVEHw3py
長州藩(山口県)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Keiheitai.jpg/880px-Keiheitai.jpg
司馬遼太郎
山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響をもっとも多く受けたものの一つですから、それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで受けつづけてきたところですから。そういうことがあって、長州的思考法というのは、ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/19(金) 20:46:20.54ID:5LoTe4YN
.
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/20(土) 20:36:58.12ID:xpLSdx5T
.
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000~7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/21(日) 19:36:38.24ID:C1yoaSXo
.
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/22(月) 12:36:56.46ID:Ky+vX/K6
で、南方からも伝わっていると中卒ギャグってる頭の中がマンガチックでむぱな
考古学者の論文は?
_ ●●● ●●●●●
/ \ ● / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ●
/ 中 ヽ● / 中 \●
| - - |● / - - |●
| 🐽 |● | 🐽 |●
| / ∈∋ ヽ | ●. | / ∈∋ ヽ |●
. ヽ| | / ● | | | | ●
ヽ ___ /ヽ ヽ /
/ |__/ ^ヽ \ /
| | | | l━━(t)━━━━┥
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/22(月) 19:22:40.77ID:k1xzeBPN
.
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
0034名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/23(火) 13:02:55.23ID:9HuwQ/c9
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
0035名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/23(火) 18:27:33.31ID:/h08QHG5
Genome-wide SNP data of Izumo and Makurazaki populations support inner-dual structure model for origin of Yamato people
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs10038-020-00898-3/MediaObjects/10038_2020_898_Fig5_HTML.png
アイヌ-沖縄-薩摩-出雲-東北-九州-関東-北海道-中部-近畿-韓国
近畿地方の集団は日本人としては非常に変わっており、
日本人全体の平均からは外れている
(埴原和郎=福岡県出身)
0036名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/23(火) 20:01:10.90ID:tWHz8H8t
.
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
0037名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/23(火) 23:19:58.18ID:jk4vzFvp
ウヨも萬世一系がファンタジーだと薄々感づいてるんだろう
畿内に朝鮮遺伝子が集結してると指摘されるとすぐ発狂するのは滑稽ですらある
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/24(水) 00:21:39.09ID:I1vBHVfs
半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。
書紀で「天」は朝鮮半島を指すのだ。ウヨが言うように「チョン」と読むと
高チョン原、チョンの御中主神。チョン照らす、チョンのぬぼこ
後は適当にやってくれい
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/24(水) 11:29:23.97ID:sEu9HT0N
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/24(水) 18:31:43.77ID:rK6CjzHM
<奈良県民意識調査>
Q:本音で言うと自分たちの顔をどう思いますか?
のっぺり顔
だと思う─┐ ┌───縄文顔だと思う9%
11% │_-ー''''''l'''''― ..、
./ .l, | `''-、
./ .l .| \
/ゝ、 l. | ヽ
./ .`'-、 l. | l
│ ゙''-、 .l,| l
| `'″ 朝鮮顔なのは |
│ 事実である ,!
l 80% ./
.ヽ /
.\ /
`'-、 /
`''ー .......... -‐'″
【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.
https://image.prntscr.com/image/VF_Zm8kHRUKPzzikxtjj7Q.png
2020年10月14日付けで『Journal of Human Genetics』に掲載された報告では、朝鮮半島に地理的に近い九州北部より、四国・近畿地方に渡来人の遺伝子が強く見られたと述べられています。
https://media.springernature.com/lw685/springer-static/image/art%3A10.1186%2Fs41065-018-0057-5/MediaObjects/41065_2018_57_Fig1_HTML.gif
奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg
飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/24(水) 19:07:05.04ID:CGPiCVBv
.
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
.
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/25(木) 21:25:03.89ID:rYbhyUq5
.
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
.
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/25(木) 21:34:02.67ID:XlWxuKcY
>>42
伝言ゲームが下手だったから!
伝言ゲームが下手だったから!
伝言ゲームが下手だったから!
伝言ゲームが下手だったから!
伝言ゲームが下手だったから!
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/26(金) 10:50:19.47ID:47nspZXQ
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2021/03/26(金) 12:31:50.35ID:8Ds73ksy
日本人の9割は朝鮮がルーツだった
なお縄文人のゲノム解析した結果、現代日本人の中に流れる縄文遺伝子は約1割程度に過ぎず、ほとんど弥生系遺伝子が占めている模様
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/16453312/
現代の日本人は祖先の縄文人が持っていたDNAの約10%を受け継いでいるとする研究結果を、国立科学博物館のチームが13日発表した。縄文人のゲノム(全遺伝情報)はこれまで部分的に解析できていたが、初めて解読した全ゲノムに基づいて分析した。
日本列島には朝鮮半島から3千年前に弥生人が渡来し、縄文人と混血したとみられている。現代人が受け継いだ「縄文人ゲノム」の割合は、北海道に住むアイヌ民族と沖縄に住む人で高かった。チームは「日本人の複雑な起源を知る手掛かりになりそうだ」としている。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/01(木) 04:14:52.92ID:6DXugyyg
神社に祀られる朝鮮神(新羅神、高麗神、百済神)
https://pbs.twimg.com/media/EvdM9m_VkAQaquq.png
ネトウヨ「当時の朝鮮人といまの朝鮮人はべ、べつものなんだよ!」
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/01(木) 07:00:56.54ID:S1Yblpx/
>>46
埼玉に高麗と言う駅がある
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/03(土) 21:20:54.11ID:6IKaTfgL
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/04(日) 05:39:33.48ID:QMdjl+bf
『被差別部落一千年史』(岩波文庫/高橋貞樹著/大分県出身)
P186
部落民の分布は、穢多の水上(えたのみなかみ)と称せられる近畿地方を中心として最も多い。
兵庫県のごときその最たるもの。
P193
近畿、山陰等は差別の程度が濃厚であって、山陽、四国、九州等はこれに次いだ差別程度である。
部落の分布の多いところほど差別が甚だしく、関東中部、北陸、東北地方に至るに従い差別の度も少ない。
特殊部落の人口と分布(大正10年7月現在)
府県名 部落数 戸数 人口
兵庫 339 18,547 107,608
大阪 60 9,773 47,909
京都 134 8,515 42,179
和歌山 105 7,438 36,072
奈良 71 6,427 32,678
滋賀 65 4,882 25,819
鳥取 81 3,006 19,022
香川 63 1,900 9,867
東京 46 1,651 7,658
大分 76 1,402 7,099
愛知 19 1,365 6,927
神奈川 33 932 5,712
茨城 47 700 4,368
新潟 32 580 2,929
千葉 22 474 2,588
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/04(日) 08:53:42.67ID:M8yTkdwS
>>41
お顔があきらかにご先祖の
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/04(日) 10:26:11.94ID:QMdjl+bf
比較言語 一致数 偶然一致率 偏差値
現代日本語 155 0.000000 26.663
琉 球 語 122 0.000000 20.807
現代朝鮮語 43 0.001476 3.271
中期朝鮮語 39 0.011733 2.477
アイヌ語(幌別) 29 0.131115 1.243
インドネシア語 42 0.003170 2.994
中国語(北京語) 37 0.039247 1.919
英 語 32 0.074783 1.583
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/04(日) 15:20:27.75ID:QMdjl+bf
弥生時代の日本語と古代朝鮮語の数詞再現実験 Pre-Old Japanese and Old Korean numerals
https://www.youtube.com/watch?v=OUGldzeI2SU
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/05(月) 03:27:01.82ID:iwrN2/mn
韓半島の初期青銅器文化と初期弥生文化 突帯文土器と集落を中心に 李 亨源
doi: http://doi.org/10.15024/00000264
[論文要旨]
韓半島の突帯文土器は、青銅器時代早期の指標土器として前期まで存続する。西日本の突帯文土器は、縄文晩期後半の指標土器として位置づけられていたが、灌漑式水田稲作が伴うことが明らかになった 1980 年代以降、弥生早期に再設定された経緯がある。
韓半島の突帯文土器は 1990 年代後半までは無文土器研究のなかではあまり注目されてこなかった。最大の理由は資料があまりにも少なかったからである。忠北堤川黄石里遺跡の調査で初めて知られることになった突帯文土器は、李弘鐘が韓半島南部と九州の刻目突帯文土器を比較してから関心をひくようになった。
李弘鐘は、九州北部で使用されていた夜臼式土器と形態が類似していることを根拠に、韓半島の刻目突帯文土器文化が九州北部に水田稲作を伝えたと主張した。日本の研究者は、弥生早期の突帯文土器である夜臼I式土器は、縄文土器から内部発展したものと考えていたので、韓半島の突帯文土器には関心を持っていなかった。
現状を打開したのは千羨幸である。千羨幸は炭素 14 年代と土器の形態を分析して以下のような結論を導き出した。瀬戸内西半部の縄文土器が、韓半島南部、南江流域圏の突帯文土器文化(刻目突帯・沈線文)を受け入れ、西日本の突帯文土器を成立させたと。
しかし、共通点は装飾面にとどまり、器形などには及んでいないため、韓半島から多くの人びとが渡海したのではなく、少数の人たちによって文様のような視覚的な情報だけが伝えられたか、縄文人が文様だけを模倣した可能性が高いと考えた。
これと似たような状況は、韓半島における突帯文土器の成立過程でもみることができる。渼沙里類型は中国東北をはじめ、鴨緑江流域と清川江流域に分布する住居構造、土器、紡錘車などが韓半島南部へ拡散して成立したものである。
人びとの移住が背景にある可能性が高いが、器形には両地域のあいだに違いが見られる。中国東北の突帯文土器文化が韓半島へ南下する時には、住居構造などを維持しつつ、土器相には多少の変化がみられることに対し、韓半島南部から西日本への影響は突帯文の文様に限定されている。
およそ前 15 世紀から前 10 世紀にかけて、中国東北を含んだ韓半島西北韓と東北韓、南部地域へ突帯文土器が拡散する様相を確認できる。この過程で西日本へも伝わったと理解される。突帯文土器文化を東アジア的な広い視点でみることが必要な時である。
突帯文土器文化と松菊里文化はある程度の時間差をおいて西日本に伝わったが、突帯文土器が文様のモチーフに限定された反面、松菊里文化は文化全般が拡散したと考えられる。
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/05(月) 03:30:37.96ID:iwrN2/mn
最後にその内容を要約しておわりとしたい。
① 形態的な類似性から韓国の研究者たちは韓半島の青銅器人が西日本の突帯文土器の成立に深く関わったと考えてきた。しかし日本の研究者たちは両地域の突帯文土器の間にあまりにも年代差が大きいことや、畑作と水田稲作という生産基盤の違いが存在すること、縄文土器からの型式変化がスムーズにたどれることなどから、両者の関連を否定してきた。
今回、新たな資料をもとに再検討した結果、韓半島の突帯文土器文化は前期後半や前期末まで存続していた可能性が高まったことで、年代差がほとんどみられなくなった。突帯文土器文化は東アジア的な観点から考える必要があり、中国東北から韓半島、日本列島に至る広範囲の地域で文化伝播が発生したという千羨幸の主張を肯定的に認める必要がある。
――日本考古学では渡来人という用語を使用しているが、筆者は韓半島の立場からこの問題をみているので、海を渡って日本列島に行くという意味をもつ、渡海あるいは渡海人という用語を使用する。
――無文土器時代という名称を使用する場合は無文土器人が適切であるが、筆者は青銅器時代という名称を使用するので、韓半島の青銅器時代の人びとを青銅器人と称する。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/05(月) 16:25:52.19ID:iwrN2/mn
日本最古級の弥生遺跡とされる菜畑遺跡や板付遺跡で発掘された松菊里型土器
弥生文化人と縄文文化人が共存していた最初期の弥生遺跡だが、この発掘は日本文化の起源を暗示するものであった
支配階級は弥生文化人で半島起源の松菊里型住居に住み、被支配階級の縄文人は従来型の竪穴式住居に住んでいた
松菊里遺跡とは古の大百済王国の文化中心地である首都プヨ(扶餘)郊外にある無文土器時代の遺跡である
ここまで書けばもう最後まで説明する必要も無かろう
弥生文化とは無文土器文化人が稲作技術を持って土着のアイヌつまり縄文人を征服して産まれたものであった
日本語の天つまりアマという言葉の起源は満洲にある
満洲から半島に移住した兀良哈の類が半島で稲作文化を学び日本列島へと移住したのだ
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/06(火) 03:57:35.97ID:MMdV3sQn
日本書紀は、百済視点で朝鮮半島との交流の記述ばかり書かれている
訳語・通事が置かれたのは、確実なところでは漢語・新羅語・湖海語・夷語
奄美等訳語(『延喜式』巻30大蔵省)、それに隼人の言語が加えられる
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/06(火) 07:48:08.84ID:MMdV3sQn
考古学からみた韓半島南部と山陰、そして勒島遺跡
https://image.prntscr.com/image/okuar-DkRhiReCyLx72Oqw.jpg
韓国国立釜山大学校考古学科 李昌熙(イチャンヒ)
無文土器とは (朝鮮・青銅器時代の土器文化)
早期 (1500BC) 突帯文土器:渼沙里式(系)
前期 (1200BC) 二重口縁土器:可楽洞式(系) 孔列文土器:駅三洞式(系) 複合文:欣岩里式(系)
中期 (900BC) 外反口縁壺:松菊里式(系)
後期 (500BC) 円形粘土帯土器 三角形粘土帯土器:勒島式
先史・古代出雲のなかの韓半島系文物
https://image.prntscr.com/image/YGZfve17RsiLDu09YYaecA.jpg
現在の国境とは異なる境界意識を解き明かすうえで出雲出土の韓半島系文物が持つ意義は大きい。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/07(水) 05:03:28.06ID:qCOeUZqS
Hypothetical Transeurasian language tree, showing the evolution of the Transeurasian languages (formerly known as Altaic).
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/Transeurasian_language_tree.png
仮説に基づいたトランス・ユーラシアン言語樹
興隆窪文化 (proto-Transueurasian) → 遼東 (proto-Japano-Koreanic) → proto-Japonic
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/08(木) 09:16:56.46ID:91LZJutC
奈良の春日大社を始め、茨城の鹿島神宮等
日本には野生の鹿を聖獣と位置付けているところは多い
同じくこの鹿を神聖視して崇めていたのが扶余族
そしてこの扶余族は百済人のルーツであるわけだ
ちなみに「扶余」とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてためた言葉
扶余族系
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/48/24/src_11482428.jpg
鹿を殺すと発狂する奈良人 10歳の少女まで容赦なく虐殺
>天文20年(1551年)10月2日には、10歳の女子が本子守町で鹿に石を投げたら当たり、神鹿を殺害したとして、
>大人と同じように縄でくくられた上で興福寺周囲の塀を馬で一周させられ(大垣回し)した後に斬首処刑され、
>家族は連座で家屋を破壊され追放された(『興福寺略年代記』[9])[10]。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/10(土) 15:20:03.10ID:Qm5YxAm/
「日本」の国号成立に百済人が関与か
https://livedoor.sp.blogimg.jp/rakushigotojyutsu/imgs/5/7/57d59532.jpg
中国の古都・西安で見つかった墓誌に「日本」の文宇が見つかった。墓誌は678年の作と考えられるとしている。
日本と名乗るようになったのは大宝律令(701年)からとの見方が有力だが、墓誌が本物ならさらに遡ることになる。
祢軍という百済人の軍人の墓誌で、676年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
百済を救うために倭国は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江の戦いで唐・羅連合軍に敗れる。
その後の状況を墓誌は「日本餘噍據扶桑以逋誅」と記述している。
墓誌銘で倭国はヘジュァ(海左:海東側)、ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記されており、
碑文の「日本」は国号を指したものではなく、中国から見る「日が昇る所」という意味で、すなわち百済を示す。
日本書紀に「傾覆百濟、君臣總俘、略無噍類」とあり、「餘噍」は、百済の君臣の残党と推定できる。
「扶桑(フーサン)」は、中国神話で東方のはてにある太陽を生む樹と言われ、またその巨木の生えている土地を扶桑国という。
後世、扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。
よって、碑文の解釈は「日本の餘噍(百済の残党)は、扶桑(日本列島)に閉じこもり、罰をのがれた」となる。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/11(日) 10:59:22.42ID:yxDXlNnV
九州の縄文時代早期人類のDNA解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2021)が公表されました
この研究はオンライン版での先行公開となります
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_12.html
東名遺跡の標本012と遺伝的に近い現代および古代の人口集団が調べられました
主成分分析では、標本012は他の縄文人とクラスタ化し(図4)
本論文で分析対象とされた縄文人全個体が同じ遺伝的集団に属する、と示唆されます
図4
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/161796910375111925217.jpg
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/12(月) 08:05:11.59ID:q6Lu9kHR
日琉語族の話者が紀元前700年~300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったことは、広く受け入れられている[59]。
(Wikipedia 日琉祖語より)
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[4][5][6][7][8]。
(Wikipedia 無文土器時代より)
百済の王族は高句麗から出ているため、彼らは扶余系高句麗語を話していたと考えられる。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている[3]。
(Wikipedia 百済語より)
高句麗語の復元については『三国史記』にある高句麗の地名の表記が手がかりとされているが、それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。
(Wikipedia 高句麗語より)
クリストファー・I・ベックウィズは、日本=高句麗語族(英語: Japanese-Koguryeoic)が紀元前4世紀に遼寧省西部に存在し、一つのグループ(弥生文化と同定される)が海から朝鮮半島南部と九州に、他のグループが満州東部と朝鮮半島北部に、他のグループが海路で琉球諸島へ移動したとしている[3]。
(Wikipedia 半島日本語 [Peninsular-Japonic] より)
東アジアの言語地図 (オハイオ大学の言語学者 J. Marshall UNGER が作成)
https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/IMG/events/Unger_2013_handout.jpg
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/14(水) 20:38:26.46ID:5VAUNr1T
まあこういうスレではいつもいうんですけどね
この日本列島は縄文人という平和的種族がね
1万年物長い間、平和に過ごしていたわけですよ。
1万年だぞ、1万年は長いぞ
一世代20年と考えて500世代だからね
もうどう考えても日本のエリアの先住民族なんですよ、縄文人は。
でねえ、そのピースフルな美を愛してきた先住民族縄文人を
偉大なる大韓からやってきた渡来弥生人が一方的に侵略しホロンぼした。
その滅亡の課程は記紀や風土記ほかの神話や伝承、民話、
または征夷大将軍に象徴される歴史的な蝦夷追討の物語で明らかだが
つまり事程左様に、そういう哀しい侵略と征服と絶滅の歴史があったわけだ。
これはねえ、まあいつもいうけど偉大なる大韓民族の渡来弥生人、
これの末裔たるチミら自称愛国者ネトウヨどもを含む自称日本民族の原罪ではあるね。
1万年もこの列島で生き最後は文字も記録も残さず無念のうちにホロンびた縄文人。
その骨すら列島と一体となり土にかえり残らなくとも縄文人のその魂魄、
これは現代の我々のことを如何様に見るだろうか? そういう話でもあるんだよ。
(え? 魂魄なんてオカルトいうなって? じゃあDNAといってもいい
一般的な日本人のDNAの中には縄文由来のそれもわずかばかりあるっていうな
つまりチミらもまたちょっとだけ縄文人なんだよ
まあ圧倒的多数は大韓由来の弥生人のそれというがねえ)
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/15(木) 00:39:14.67ID:9d4haWYk
ネトウヨって朝鮮人を忌み嫌い、さも自分たちが、日本人の代表面してるけど、あいつらの面構えって大概一重でのっぺり系の渡来人顔=朝鮮顔で、結局のところあいつらって"白村江の戦い"で敗れ新羅に敗れ日本に逃げてきた百済人の末裔で、今の朝鮮人を憎んでるのは、要するに自分たちから祖国を奪い日本に追いやった新羅の末裔だからで、結局のところ同族嫌悪でしかないんだよね(´・ω・`)まったく百済ねぇわ(´・ω・`)
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/15(木) 06:00:30.40ID:IaAWdnAD
悪者扱いされてる助役が一番日本人顔な件
https://pbs.twimg.com/media/EF9UOBjU0AAYT0p.jpg
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 00:28:44.89ID:ygBxHMez
弥生人の起源
Figure 3 のPCAプロットは、明らかに、現代人口で日本人にもっとも遺伝的に近いのは韓国人だと示します。
考古学的な証拠もまた、弥生時代の始まり(~1000 BCE)における北九州と朝鮮半島南西部の文化的類似性を支持します。
ハプロタイプ・フェージング・データを用いた現代日本人と韓国人の分岐時間の推定は、およそ3000年前に発生したという仮説を支持します。
&
-
14:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:48:04
-
2021/04/16(金) 00:28:44.89ID:ygBxHMez
弥生人の起源
Figure 3 のPCAプロットは、明らかに、現代人口で日本人にもっとも遺伝的に近いのは韓国人だと示します。
考古学的な証拠もまた、弥生時代の始まり(~1000 BCE)における北九州と朝鮮半島南西部の文化的類似性を支持します。
ハプロタイプ・フェージング・データを用いた現代日本人と韓国人の分岐時間の推定は、およそ3000年前に発生したという仮説を支持します。
>Origin of Yayoi people
>The PCA plot in Figure 3 clearly shows that the presentday population genetically closest to the mainland Japanese is Korean.
>Archeological evidence also supports the cultural similarity at the beginning of the Yayoi period (~1000 BCE) between the northern Kyusyu and the southwest Korean peninsula (Fujio, 2017).
>An estimate of the split time between present-day mainland Japanese and Koreans using haplotype-phasing data mostly supports the hypothesis that the split occurred about 3000 years ago (Kim et al., 2020).
Figure 3. Principal-component analysis of present-day and ancient East and Northeast Asians.
https://www.nig.ac.jp/nig/images/research_highlights/PR20210331_04.jpg
Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201215
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 01:56:45.01ID:ygBxHMez
残された疑問は、朝鮮半島における稲作民がどのように移住したか、もしくは定着したかです。
稲作が北九州に伝来した当時、朝鮮半島はムムン時代にあり、北九州に共通した文化がありました。
東南アジアと日韓におけるY染色体ハプログループOの結びつきは、稲作の起源が長江流域にあり、朝鮮半島と日本列島に齎されたという仮説を支持します。
私たちは、現代日本人と韓国人のいずれも、西遼河・黄河・長江流域に関連する新石器時代集団に、遺伝的に共通すると判断しました。
長江流域からのサンプルは利用できないため、福建省からの昙石山文化のサンプル(溪头村・昙石山遺跡 ~2500–2000 BCE)をプロキシーとして使用しました。
西遼河流域からのサンプルは、紅山文化のBLSM45 (~3300–3100 BCE)と、夏家店下層文化のEDM176 (~2000–1600 BCE)です。
黄河流域からのサンプル名は、龍山文化のWD-WT1H16 (~2100–2000 BCE)とPLTM313 (~2100–1900 BCE) 、後李文化のBianbian (~7600–7500 BCE)と、Boshan (~6400–6100 BCE)です。
f4-statisticは、現代日本人と韓国人のどちらも、初期新石器時代の黄河流域のサンプル(Boshan)に遺伝的に共通することを示しました。
しかし、CHBと比べてBoshanとの類似性の統計的有意性は、僅かなものです(|Z| = 2.47)。
その一方で、日韓は、新石器時代の華南人よりも、優位にCHBとより近縁関係にあることがわかり、長江流域の人びとは現代日本人と韓国人の遺伝的基盤に実質的に貢献しなかったことを示唆します。
f4 statisticsへのパラレル・パターンは、Figure 3のPCAプロットに示されます。初期新石器時代の黄河下流域のBoshanとBianbianの個体は、現代韓国人にかなり接近してプロットされました。
これまでの研究は、華北からの古代サンプルは、現代中国人よりも、北部東アジア人の遺伝的要素を有することを示しました。
結果は、現代日本人と韓国人の基底集団は、後期新石器時代の黄河と西遼河領域の集団とは、やや異なることを示唆します。
新石器時代の朝鮮半島の人びとの古代ゲノム・データが利用できるようになれば、もっと多くのことがわかるでしょう。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 02:42:01.36ID:ygBxHMez
Yang et al. (2020) は、現代日本人は、旧石器時代の北部東アジアの個体(Boshan)と縄文人の個体のadmixtureとして、0.38の縄文人系統の比率を伴い、最適にモデル化されることを示唆しました。
私たちは、同様ソースの集団(Boshanと伊川津縄文人)を使って、そのモデルをテストしましたが、はるかに小さな縄文人系統の比を得ました (0.103 ± 0.030)。
相違の理由は定かではありませんが、Yang et al. (2020)の分析で使用されたものと違う、右(外集団)集団のセットを使ったことによるとみられます。
私たちはさらに、縄文人・韓国人・ホジェン族の3方向admixtureモデルをテストしました。
3方向モデル(韓国人・ホジェン族・縄文人, χ2: 45.4)は、2方向モデル(縄文人と韓国人, χ2: 58.9)よりも、優位によりよく適合します。
縄文人・韓国人・ホジェン族の系統比は、それぞれ0.096, 0.832, 0.072と推定されますが、3方向モデルもこのデータを完全に説明するわけではありません。
もし弥生時代以降にアムール川流域からさらなる移住がなかったとすれば、f4 statisticsを用いた以前の分析で示されたように、このパターンは、弥生時代の移住者が、現代韓国人よりも東アジア北部の遺伝的要素をより多く有するかもしれないことを示唆します。
要するに、我々の分析は、現代日本人の縄文人系統は、これまでの推定値の下限の程度であり、10%を大きく超えることはないと示しました。
0069名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 03:27:07.02ID:ygBxHMez
論文の「弥生人の起源(Origin of Yayoi people)」の項を要約すると
- 日本人に遺伝的に最も近いのは韓国人
- 日本人と韓国人の分岐はおよそ3000年前に発生したとする説が有力
- 無文土器時代の朝鮮南部と、弥生時代の北九州に共通した文化があり、考古学的にも裏付けられる
- 日本人と韓国人は、西遼河・黄河・長江の古代集団のいずれにも遺伝的に関連している
- 稲作は長江から伝播したが、日韓人はCHBと優位に近縁関係にあり、
古代の長江付近の集団(XitoucunとTanshishan)は日韓の遺伝的基盤に実質的に貢献していない
- 古代の黄河流域の集団(BoshanとBianbian)は、現代の中国人よりもツングース寄り
- 現代日本人は、縄文人・韓国人の2方向モデルよりも、縄文人・韓国人・ホジェン族の3方向でモデル化したほうがより精確
- いずれにせよ、現代日本人の縄文要素は10%かそこらである
Figure 3. Principal-component analysis of present-day and ancient East and Northeast Asians.
https://www.nig.ac.jp/nig/images/research_highlights/PR20210331_04.jpg
Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data
(ゲノム規模の遺伝子データを用いて日本列島への人類の移動モデルを探索する)
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201215
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 03:33:48.83ID:ygBxHMez
>>69
「弥生人は現代韓国人よりもツングース寄り」というのを忘れてた
>If we assume that there was no additional migration after the Yayoi period from the Amur River basin, the pattern would imply that Yayoi migrants might harbor more northern East Asian genetic components than present-day Koreans do, as shown in the previous analysis with f4 statistics.
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 06:49:53.04ID:ygBxHMez
本論文は、古いトポニーム(地名)の証拠を用いて、1千年紀の前半頃の朝鮮半島における特定集団の地理的分布と相互関係を明らかにするものである。
白鳥庫吉 (1895-1896) が、『三国史記』の高句麗地名が日本語で解釈可能と指摘して以来、日本人・韓国人・西洋人の学者によって多くの研究がなされてきた。
Lee (1968) やBeckwith (2007) は、高句麗語は日本語族に属すると述べている。
しかし、河野 (1993) は、これらのジャポニック関連の地名は、朝鮮半島の中東部(現在の江原道)に住んでいた濊(Ye)によって残されたものだとしている。
彼の主張は、15世紀から16世紀にかけて、日本人が中世朝鮮で「Ye」と呼ばれていたという事実に基づいている。
以下の図に示すように、ジャポニック地名は、濊の領域のみならず、高句麗に征服される前の漢城時代の百済の領域にも広く分布している。
https://image.prntscr.com/image/brt6wkldRVeL7WgrucO3tw.png
井上(1962: 47)は、「『三国史記』の地理巻に見られる地名を分析することで、濊貊族と漢族の分布が明らかになり、これらの部族の地理的特徴も知ることができる」と述べ、自らの貢献を紹介している。
Geographical distribution of certain toponyms in the Samguk Sagi
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201229
Released: 2021/03/31
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 15:30:13.67ID:ygBxHMez
チベット高地民族の起源 (The origin of Tibet highlanders)
チベット高原のPeoplingは、日本人の起源の研究において特に重要であるが、これは縄文人、チベット人、アンダマン人に共通する特定のY染色体ハプログループ (D-M174 or D1) が、これまでの遺伝学的研究でハイライトされてきたためである。
ミトコンドリアの研究では、日本列島の状況と並び、現代チベット人の二重構造モデルが提案された。
Ausotomalゲノムの研究では、チベット人が古代旧石器時代の人々と新石器時代の移民のAdmixtureから成ることが示され、古代ゲノム・シークエンスでは、新石器時代の移民が、東アジア南部ではなく、黄河流域の新石器時代の東アジア北部の人々と近縁であることが示された。
このパターンは、シナチベット語族の中国北部起源説を言語学データから提案する研究と一致しているが、東アジア北部からのジーン・フローの推定パターンは、複数の移住の波があり、非常に複雑であったかもしれない。
しかし、旧石器時代のチベット集団の起源は不明のままである。Jeong et al. (2016) は、一塩基多型(SNP)チップデータを使用して、シェルパとアイヌの人々の間の深い共有系統を示し、それはY染色体パターンと一致するものであった。一方、Kanzawa-Kiriyama et al. (2019) は、シェルパ人と縄文人の間に優位な遺伝的関係を検出しなかった。
Yang et al. (2020) によるqpAdm分析を用いた研究では、後期・新石器時代 (Chokhopani) と、現代チベット人は東アジア北部の集団 (Boshan) と縄文人 (Ikawazu) のAdmixtureによって説明できるとし、現代日本人とチベット人の間に深い遺伝的関係があることが裏付けられた。
最近の未発表の研究 (Wang et al., 2020a) では、多くの東アジア現代人および古代人のゲノム配列を分析し、旧石器時代のチベット集団がホアビニアン/オンゲ関連の系統であることが示唆された。
現代チベット人の基底集団が、縄文人の祖先と共通の系統をもっていたかどうかは明らかではないが、上記の研究は、現代チベット人が、深く多様化した基底アジア人集団の遺伝的要素を持っているという研究を裏付けるものである。
Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201215
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 16:18:45.88ID:ygBxHMez
後期旧石器時代の南方移動ルート
現代アジア人の祖先は、南方ルートを経由して、約70000~50000年前に東南アジアとオセアニアの一部に到達したが、これはおそらく沿岸部の分散ルートを経由したと思われる。当時、ユーラシア大陸はヴュルム氷期にあった。
インドシナ半島、マレー半島、およびボルネオ、ジャワ、スマトラ、フィリピンなどの島々は、ユーラシア大陸に繋がったスンダランドと呼ばれる陸塊を形成していた。
移住者の子孫の中でも、パプア人・オーストラリア先住民・フィリピンのネグリトは、アンダマン人(オンゲ族)やマレーシアのネグリト(ジャハイ族)などの他の東アジア人よりも、デニソワ人の系統を持つゲノム断片の遺伝子移入の量が多い。
これは、デニソワ人に関連する古代人が東南アジアのどこか、あるいはその近くに住んでいたことを示唆している。
東アジアの集団が、集団間の移動を前提としない系統樹としてクラスター化されると、ほとんどの東・北東アジアの集団は、パプア人・オーストラリア人・オンゲをルート位置に置いて一つのクラスターを形成しており、南方ルートが現在の東・北東アジアの集団の遺伝的特徴を優位に形成したことを示唆している。
Upper Paleolithic southern migration route
Via the southern route, ancestors of current Asian populations reached Southeast Asia and a part of Oceania around 70000?50000 years ago, probably through a coastal dispersal route (Bae et al., 2017). At the time, the Eurasian continent was in the Wurm glacial stage. The Indochina peninsula, the Malay peninsula, and many islands, including Borneo, Java, Sumatra, and the Philippines, formed a landmass called Sundaland, which was connected to the Eurasian continent (Hall and Morley, 2004).
Among descendants of the migrants, Papuans, aboriginal Australians, and Philippine Negritos show a larger amount of introgression of genomic fragments with Denisovan ancestry than the other East Asians, including Andamanese (Onge) and Malaysian Negritos (Jehai). This suggests that archaic humans related to the Denisovan lived somewhere in (or nearby) Southeast Asia (Reich et al., 2011; Jinam et al., 2013, 2017).
When East Asian populations are clustered as a tree with no assumption of migration between populations, most East and Northeast Asian populations form a single cluster, with Papuans, Australians, and Onge people at root positions, suggesting that the Southern route predominantly shaped the genetic features of present-day East and Northeast Asian populations (HUGO Pan-Asian SNP Consortium, 2009; Mallick et al., 2016; Lipson and Reich, 2017;).
Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201215
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 22:39:46.63ID:Xd5n20cz
YDNA見ろ
縄文男が多めに渡来女をレイプしたんだって
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 22:40:38.50ID:Xd5n20cz
どっかのアイヌの動画でアイヌのおっさんが「俺はモテたから遊び回ってた」と言っていた
そういうことなんだろう
男は白人のがかっこいいだろ
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 22:42:20.79ID:Xd5n20cz
元公家のYDNAでも調べ回ったらどうか
これには本人の遺伝子は必要ない
天皇の遺伝子調べるのにも本人のものは必要ない
親族の男複数を調べてその共通遺伝子を調べるやりかたでいい
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/16(金) 22:45:03.11ID:Xd5n20cz
渡来人を考える場合
まず亀ヶ岡を渡来の第一波と考えよう
縄文時代にあの文化があった異質さを大陸と結び付けないのは不可能
亀ヶ岡のBC1000年以前を基本に置く
半島からじゃ不可能だろ
0078名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 02:05:17.78ID:z8iMR/xv
これまでの核ゲノムデータは東日本の縄文時代中期末以降の標本に限定されていました。mtDNAを用いた研究では、縄文人の地域差が示唆されていました。縄文人の遺伝的特徴を充分に解明するには、広範な地域と年代を網羅したゲノムデータの蓄積が必要です。
東名遺跡は1990年に発見され、放射性炭素年代は、7980~7460年前頃で、縄文時代早期に相当します。日本列島で最古かつ最大の湿地帯貝塚で、発掘された人類遺骸は、九州の縄文時代では最古となります。
図1
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/161796910375882267117.jpg
本論文は、東名遺跡個体の完全なミトコンドリアゲノムと部分的な核ゲノムを報告します。これは、九州縄文人の縄文時代早期のゲノムに関する初めての報告です。
標本012のミトコンドリアゲノムの深度は約47倍で、mtDNAハプログループはM7a1aでした。これまでに分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はM7a1aでした。縄文時代の九州ではM7a1aが優勢だった、と示されます。これは、N9bが優勢だった東日本とは対照的です。Y染色体ハプログループはD1bに分類されましたが、データ不足のためさらなる細分化はできませんでした。主成分分析では、他の縄文人とクラスタ化し(図4)、本論文で分析対象とされた縄文人全個体が同じ遺伝的集団に属する、と示唆されます。
図4
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/161796910375111925217.jpg
現代人口集団における縄文人のDNAの割合が推定されました。f4比検定では日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は9.7%で、これはTreeMix分析の結果に近いものでした。朝鮮人とウリチ人でそれぞれ5%と6~8%でした。
縄文人の代表的なmtHgであるM7aとN9bの割合に基づくと、現代日本人におもに遺伝的に寄与したのは、西部縄文人だった可能性があります。しかし、核ゲノム分析は、東名遺跡の西部縄文人が他の縄文人よりも現代日本人と密接に関連している、という証拠を提供しません。
Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago
doi: https://doi.org/10.1537/ase.2012132
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 02:33:33.39ID:z8iMR/xv
>>78
最後の望みの西日本縄文人もたった9.7%しか入ってない
これにて日本人≒朝鮮人確定だな
さよなら縄文人
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 02:56:02.34ID:4HjV94DR
そんなん関係ないぞw
縄文が3割の男系で残ってるだろ
縄文と言えば縄文なんだよ
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 02:56:49.67ID:4HjV94DR
沿海州説だとしたら、日本人はエベンキに近い
小便洗顔民族と関連ある可能性もある
絶対そっちがわにルーツをもっていくな
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 03:00:06.62ID:4HjV94DR
小便洗顔はツングースなど、極北、極寒の地域の民族の習俗
そこらでは水は絶対得られない
ボイラーでわかすなど不可能
火でわかすなんてのも無駄
家畜の小便が血を洗い流す唯一の手段
テントの中央に尿をためてそこで洗う
これと関わりをもってはいけない
0083名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 04:05:37.89ID:z8iMR/xv
Modern human DNA analyses with special reference to the inner dual-structure model of Yaponesian
Timothy A. Jinam1,2, Yosuke Kawai3, Naruya Saitou1,2,4,5*
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201217
Dataset 3
We now used genome-wide SNP data (see Materials and
Methods) for two Yaponesian populations (Ainu and Okinawa),
and genome data for Jomon F23 and Yamato, and three
continental East Asians (Koreans, CHB, and CHS) to estimate
their ancestral population structure. Figure 7a shows
the result of admixture analysis when the number of ancestral
components (k) was assumed to be 2?7. When k = 2, the
two ancestral components are color-coded blue and orange.
Interestingly, some Ainu individuals are 100% blue component
as in the F23 Jomon individual. The lowest blue component
for Ainu individuals was more than 50%. Whereas all
Okinawa individuals have more or less 30% blue component,
Yamato individuals are on average ~15% blue component.
Among continental populations, only Korean has ~5%
blue component, and CHB and CHS contain very small
proportions of the blue component, if any. This admixture
result for k = 2 is very similar to Supplementary Figure 2 of
Jinam et al. (2015), and fits well with the dual-structure
model of Yaponesian formation; the blue component is indigenous
(Jomon) component, and the orange component is
migrants to Yaponesia after the Yayoi period.
Figure 7. (a) Admixture result from k = 2 to k = 4. b) Cross-validation error of admixture from k = 2 to k = 7.
https://image.prntscr.com/image/pRRvDQwURXivElvmRCgY5A.png
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 16:37:26.27ID:PvfM1oKU
>>74
弥生期のある時期まではな たぶん古墳3世紀に切り替わる少し前まで
O1系が寛大だったので脱走してくるC1a1、D1a2a男は受け入れて
弥生人たちから縄文集落には手を出さなかった
ミトコンドリアD4aが増えたのもその時期だろう
その後、武装したO2・C2・N・Q集団が来訪して日本列島が統一国家として征服されると
坂東武士政権の誕生までD1a2a男は被支配層に置かれた
当然平安時代までの天皇はO2のどれかだろう 藤原は定説通りO1b2だろう
なんでDが中世に復活できたかというと近畿のO2が傭兵として九州のD-M125を使う内に
姓を与えて地方に下向させた方が効率よく支配できると踏んだためか
もしくは清和天皇の子でDQNで知られる陽成天皇が実は間男の種だったからだろう
清和源氏の陽成源氏説は昔からあるし清和源氏末裔からよくD-M125が出てくるのと矛盾しない
鎌倉時代以降も復活できなかったのがC1a1でエタ非人となって現在に至る
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 16:57:58.98ID:z8iMR/xv
弥生人きていきなり環濠集落ができるのに寛大なわけないよ
最初から武力で土地を奪い取る気満々だった
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 17:05:54.43ID:PvfM1oKU
まあここ1000年間の支配層がD1a2a1bとO1b2a1a1の2系統であったことは揺るぎない事実だ
ただしこれには縄文・弥生の文化的・形質的違いなどは関係ない
同じD1a2aでも蝦夷に多かったD1a2a2やD1a2a1c、
O1b2でも弥生期の権力抗争に破れたO1b2a1a2aは下層民として生きながらえた
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 18:01:27.72ID:PvfM1oKU
自分のYDNAが被支配層の下降物でも決して悲観することはない
支配層の種として残っているYハプロは総合しても20%程度で、
残りの日本人父系約80%は百姓であると言ってもいい
数値を見るとD1a2a1bとO1b2a1a1の両者でそれぞれ約20%が列島全土に分布し、
一見約40%が天皇、藤原に由来するように見えるが更に分けると
YFULLで見るD1a2a1bの場合、下位のD-Z1504が日本人の約10%で約2200年前誕生
つまりD-M125でも皇胤に属さない男性が半分ということになる
これは藤原のO1b2a1a1(cts713、旧47z)でもほとんど同じ比率で
YFULLだけを見ると確認できないがある韓国人の独自研究で
約20%いるO1b2a1a1のうち約9%が約1862年前に誕生した男の子孫と判明している
http://egloos.zum.com/yayul/v/2925320
>>一つは、Y-SNPハプログループのO2b1(O1b2a1a1)に属するハプロタイプで全日本人男性のサンプルのうち、約9.0%がこのモーダルタイプに対応し
>>約74 generations、1862 years agoで巨大古墳が築造され始めて、日本全体の新しい政治体制が異なる集団を圧倒する古墳時代の紀元後3世紀頃とほぼ一致する
↓のO2b1-TMがO1b2a1a1~の権力者クレードで沖縄以外で旧47zの約半分を占める
https://i.imgur.com/UHxT2eB.jpg
つまり藤原じゃないO1b2a1a1も大勢いることを示す
だから支配・被支配層の話はこれで終わり
8割の日本人は公家でも武家でもなんでもない卑種の末裔
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 20:34:15.64ID:z8iMR/xv
斎藤成也とJinam (2017) は、ヤポネシアの3ウェーブ移動モデルを提案した。
これら移住者の推定期間は以下の通り。
(1) 第一波、旧石器時代および縄文中期 (40000 years BP to 4500 BP)
(2) 第二波、縄文後期~晩期 (4500 BP to 3000 BP)
(3) 第三波、弥生時代 (3000 BP) から現代
この3つのウェーブに関係する人々は、次のような仮説を立てることができる。
第一波では、シベリア、東アジア大陸、インドシナなどから狩猟採集民がヤポネシアに移住してきた。この移動の波はよく議論されている。
私たちは、第二波の移住者として、やや謎めいた「海の民 ‘sea people’」を提案する。
彼らは、中国南部の沿岸部から山東半島、黄海、朝鮮半島にかけて分布し、主に漁業を生業とする狩猟採集民だったのではないかと考えている。
篠田謙一 (2019) は、約6300年前、朝鮮半島南東部の海岸に位置する加徳島に居住していた人々の古代DNAを分析し、
現代の韓国人よりも縄文人の割合が高いことを明らかにした。
Shima (2020) は近年、現代人の分散における漁業の重要性を強調している。
これら2つの文献は、東アジア大陸の沿岸域でおもに漁業を営んでいた古代の狩猟採集民の存在を裏付けているようにおもわれる。
「海の民」は、稲作農耕民に取って代わられ、彼らの人口規模は7000 BP~5000 BPの間で急速に拡大し、
「海の民」は最終的に縄文時代後期(4500BP~3000BP)にヤポネシアに移住したと考えられる。
「海の民」 は古代日本語を話していた可能性があり、当時の東アジア沿岸部の人々の「リンガ・フランカ」であったかもしれない。
稲作は、第三波の移住者によって3000BP頃に導入され、彼らの故郷は東アジア大陸のどこかにあった。
この移住の波は現在も続いており、日本での国際結婚は中国人と韓国人が最も多い。
Modern human DNA analyses with special reference to the inner dual-structure model of Yaponesian
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201217
Timothy A. Jinam, Yosuke Kawai, Naruya Saitou
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 21:27:35.71ID:z8iMR/xv
図7aは、祖先成分 (k) の数を 2-7 と仮定した場合のADMIXTURE分析の結果である。
k = 2 の場合、2つの祖先成分が青とオレンジで色分けされる。
Ainu個体群のいくつかは、F23 Jomon個体群と同様、100%青色成分であった。最も青色成分が低くても50%以上あった。
Okinawa個体群は、約30%ほどの青色成分であるのに対し、Yamato個体群は平均で約15%ほどである。
大陸の集団では、韓国人が5%ほどの青色成分であり、CHBとCHSはあったとしても青色成分の割合は非常に少ない
この k =2 のADMIXTURE結果は、ヤポネシア人形成の二重構造モデルとよく一致し、
青色は土着 (Jomon) 成分、オレンジ色は弥生時代以降の移住者の成分である。
k = 3 の場合、緑色とオレンジ色の成分に分離したが、青色成分の割合も僅かに変化した。
この k = 3 の状況を、斎藤成也が提案した3ウェーブ移動モデルに当てはめると、
青・緑・オレンジ色の成分は、それぞれ第一波・第二波・第三波に対応すると見られる。
k = 4 の場合、赤色成分は、大陸集団にのみ現れ、この成分はCHS個体群でとくに優勢である (70-100%)。
CHBでも赤色成分が優勢で、個体によっては50-100%となっている。
k値を変えてクロス確認 (CV) エラーを比較すると (図7b)
k = 4-7 は、k = 1(祖先成分が1つのみ)と同様に適合度が悪く、k = 2 か k = 3 がより現実的であると思われる。
Figure 7. (a) Admixture result from k = 2 to k = 4. b) Cross-validation error of admixture from k = 2 to k = 7.
https://image.prntscr.com/image/pRRvDQwURXivElvmRCgY5A.png
Modern human DNA analyses with special reference to the inner dual-structure model of Yaponesian
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201217
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/17(土) 22:55:49.37ID:TMKUkUg2
「余所でやってください」のせいで日本史板と考古学板に書き込めない
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/18(日) 07:51:12.52ID:Pi0ALEWe
>>90
特定のリンク槍杉に見られる現象
無視すると晩されるよ
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/19(月) 02:45:27.76ID:XbcM3Yiv
古代・現代のゲノム配列から分析した朝鮮民族の起源と構成
The Origin and Composition of Korean Ethnicity Analyzed by Ancient and Present-Day Genome Sequences
doi: https://doi.org/10.1093/gbe/evaa062
韓国人のY-DNA (O2b-SRY465) は、プロト・コリアンの祖先が新石器時代 (9,900-10,000 years BP) および、
青銅器時代 (3,450-2,350 years BP) にかけて中国北東部に居住していた人々と関連していることを示唆している。
一方、ミトコンドリアDNA (mtDNA) を見ると、韓国人は非常に典型的な東アジア人であることがわかる。
東アジア集団間を比較すると、韓国人も日本人も非常に似たレベルのADMIXTURE率を示しており、
fineSTRUCTURE tree の姉妹群と一致している。
中国人も共通した遺伝子組成を持っているが、地域によってADMIXTURE率が異なることがわかった。
まず、古代人から韓国人へのジーン・フローを調べることにした。
その結果、Devil's Gateのゲノムは、Man Bac (ベトナム新石器時代) よりも、
現在の北東アジアのほとんどの集団とより多くの派生アレルを共有していることがわかった。
Oakaie (ミャンマー新石器時代後期・青銅器時代) やNui Nap (ベトナム青銅器時代) から東アジア集団への局所的な遺伝的変遷が観察された。
韓国人、日本人、ホジェン族、シェ族、ウルチ族などのいくつかの東アジア集団は、依然としてDevil's Gateからの遺伝的寄与が大きかった。
注目すべきは、Devil's GateのゲノムとancSEA (東南アジア祖先) の組み合わせは、
Devil's Gateと現代の東南アジア人の組み合わせよりも、現在の韓国人をよく表していることである。
ancSEAの遺伝子成分が韓国に移行したかどうかを調べるために、外群f3-statisticsによって、現代集団との遺伝的親和性を分析した。
その結果、韓国人との遺伝的親和性が最も高い集団は日本人であることがわかった。
南方系の漢族とシェ族は、ラウ族やベトナム人よりも、韓国人との遺伝的親和性が高く、これは混血の結果と一致している 。
このことは、華南人の遺伝子成分が、Vat Komnou (カンボジア鉄器時代) やNui Napの祖先と混血した後、韓国に移入されたことを示唆している。
これらの証拠から、Devil's GateとMan Bacのゲノムを持つ集団は、おそらく気候の変化や障壁を伴って、
新石器時代までは、東・北東アジアの地域全体で混血していたという結論が支持される。
Vat KomnouとNui Napと混血した遺伝的系統は、青銅器時代以降、急速な文化的・技術的進歩により韓国に移住したと考えられる。
Y-DNA分析では、韓国人男性55人にOハプログループがかなりの割合で存在し、O2bが29%、O3が42%だった。
次に多かったハプログループはC (18%) だった。
Cはシベリアに広く分布しているのに対し、Oは東南アジアに空間分布している。
このことは、韓国人男性の二重起源を強く示唆している。Y-DNA分布とは対照的に、mtDNAはより複雑な遺伝史を反映している。
結論
古代のゲノム比較により、朝鮮民族の遺伝子構成は、沿海州の新石器時代のDevil's Gateゲノムと、
東南アジアの鉄器時代のVat Komnouの混血であることが明らかになった。
朝鮮半島の人口拡大は、単独の出来事ではなく、東アジアで起きた大規模な人口拡大とそれに伴う混血現象のパートである可能性が高い。
このような近年の急速な拡大と混血は、他の東アジア・東南アジアの集団にとっても一般的なモデルであり、
青銅器・鉄器時代の集団が拡大し、他の周辺地域の集団と混血していったと考えられる。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/19(月) 04:21:29.05ID:XbcM3Yiv
The specimen is actually from the Konyr Tobe site of the Otyrar culture and has been radiocarbon dated to the third or early fourth century CE.
Someone should check and see how reliable the assignment of this specimen's Y-DNA to D-Z17175/D-CTS220 might be.
That clade of Y-DNA is usually found only in the Japanese Archipelago.
ID=KNT004.A0101
Archaeol.ID=K1/6m
archaeological_context_age_culture=2th-5th c. CE; Otyrar culture
Site_based_label=Konyr_Tobe_300CE
14C Age [yr BP]=1762 ±14
14C.cal (2-sigma)=236-331 AD
Sex=M
Mthap=HV18
Yhap=D1b2a (D-Z17175; D-CTS220)
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/19(月) 04:21:29.05ID:XbcM3Yiv
The specimen is actually from the Konyr Tobe site of the Otyrar culture and has been radiocarbon dated to the third or early fourth century CE.
Someone should check and see how reliable the assignment of this specimen's Y-DNA to D-Z17175/D-CTS220 might be.
That clade of Y-DNA is usually found only in the Japanese Archipelago.
ID=KNT004.A0101
Archaeol.ID=K1/6m
archaeological_context_age_culture=2th-5th c. CE; Otyrar culture
Site_based_label=Konyr_Tobe_300CE
14C Age [yr BP]=1762 ±14
14C.cal (2-sigma)=236-331 AD
Sex=M
Mthap=HV18
Yhap=D1b2a (D-Z17175; D-CTS220)
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/19(月) 08:39:32.49ID:+iupCbsy
>>55
大百済王国ですかあ。
時間がワープしてますなあ。
1000年以上違うのに、これを真実だと教えているわけか。
扶余が百済の都になったのは、高句麗に負けて首都漢城を放棄して
逃げ出した5世紀になってからですよ。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/19(月) 09:59:40.35ID:qpM5JFh4
遺伝距離
アイヌ>沖縄>韓国≒日本>临淄(Linzi)※現代>キルギス(Talas)>モンゴル>カザフ>アルタイ>キルギス(Sary-tash)>临淄(Linzi)※2000>ウィグル
https://pbs.twimg.com/media/Ekhg-JKU8AAqC3w.jpg
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/19(月) 10:28:29.48ID:XbcM3Yiv
>>96
データ古すぎて論外
情弱に発言権はないよ
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 00:02:55.21ID:ksAAfGME
現代語と古代ゲノムから推定されるプロト・ツングースの原郷
The homeland of Proto-Tungusic inferred from contemporary words and ancient genomes
doi: https://doi.org/10.1017/ehs.2020.8
ツングース語の祖先がどこから来たのか。
ここでは、言語学・考古学・遺伝学的な証拠を一つの研究に統合するという、これまでにないアプローチで取り組むことにする。
歴史的に証明されているツングース系の言語は、東はオホーツク海、西はエニセイ川、南は渤海、北は北極海まで広がっている。
Figure 1. (a) The distribution of the Tungusic languages; (b) proposed locations for the homeland of the ancestral speakers of Proto-Tungusic.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig1.png
農業の導入により、中国北東部の特定の生産地域では、これまでにない人口増加が見られた。
比較的温暖なハンカ湖の保護区域は、東アジアの新石器時代の農業の気候範囲の北端に近い領域であった。
この地域のプロト・ツングース系の言語集団は、他の集団を犠牲にして拡大していったのである。
このような拡大は、他の様々な語族に影響を与えたはずであり、アムール語族などはNivkhの言語しか残っておらず、
今では消滅したプロト・ツングース系の姉妹系統にも影響を与えた可能性がある。
現存する現代語の数から見ても、トランス・ユーラシア語系の言語は全般的に消滅率が高い。
オーストロネシア語族は1500種類もの現存言語があるのに対し、トランス・ユーラシア語族は現在までに50種類の言語も残っていない。
このことは、北東アジアでは、他の多くの言語を犠牲にして、ごく少数の言語だけが生き残ったという仮説を支持するものである。
Figure 2. Diversity hotspot of the Tungusic languages under the north?south classification in (a) as compared with the hotspot under the Manchu?Tungusic classification in (b).
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig2.png
Table 1は、考古言語学的な観点から、原郷の提案を評価したものである。
ハンカ湖起源の仮説は言語データによって最もよく支持されており、バイカル起源の仮説は最も可能性が低い。
Table 1. Evaluating the four homeland proposals for Proto-Tungusic using different archaeolinguistic techniques: 0 implausible, 1 plausible
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_tab1.png
プロト・ツングースの故郷をハンカ湖周辺に定めることは、この地域の政治形態の連続性からも支持される。
ハンカ湖周辺の靺鞨国 (AD 500?1000)、渤海国 (AD 698?925) 、女真の金朝 (AD 1115?1234)など、
新石器時代から、沿海州の文化的な最先端は北ではなく南にあった。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 00:05:08.50ID:ksAAfGME
父系から見ると、ツングース語話者はY染色体ハプログループC3-M217と関連している。
C3c-M48は、EvenkiとEvenに加えて、Oroqen、Olcha、Negidal、Udehe、Nanaiなどに多く見られ、その頻度は約20%から100%にも及ぶ。
C3-M217は、Nivkh (38%) やAinu (12.5-25%) など、アムール川流域周辺の集団でも高い頻度で存在する。
C3-M217の分散は、ツングース系の人口拡大に関連している可能性が高い。
全ゲノムの観点から、沿海州の7700年前に遡るDevil's Gate (Chertovy Vorota) Caveのデータを再解析した。
Devil's Gateのサンプルは、現在のツングース語集団とUlchiとクラスター化することがわかった。
Figure 4の主成分分析は、東アジアの人口構造は、地理および言語と強い相関関係があることを示す。
Devil's Gateのゲノムは、アムール川下流域のツングース語集団や、樺太のNivkhと遺伝的に最も類似していることが示され、
少なくとも8000年に渡り、このタイプの系統がアムール川流域に継続的に存在していたことが証明された。
EvenksとEvensは西ユーラシア人にシフトしており、qpAdm方式の推定によって西ユーラシアの系統を14~35%ほど有していることがわかる。
LD decayで推定される混血時期は、4~6世代ほど前というごく最近のものであることが示唆される。
Figure 4. Principal component analysis projecting ancient Devil's Gate, Ustlda and Jomon samples onto the variation of present-day East Eurasians.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig4.png
Figure 5のADMIXTURE分析でも、上記の観察結果を確認することができる。
Figure 5. Admixture plot from K = 2 to K = 12.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig5.png
言語学・遺伝学的にはアムール川流域がプロト・ツングースの原郷であると考えられるが、
考古学的には沿海州南部のハンカ湖周辺がより具体的な場所であることがわかった。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 02:59:04.51ID:T551jCIy
ニヴフのCとツングースのCは万年のひらきがあるから違うだろ
ツングースはネネツなんかと同じく北極圏でテント生活してた集団
だから習俗が同じだしネネツにも交じる
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 04:15:12.17ID:ksAAfGME
>>100
ソース: ボクの脳内
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 04:32:52.95ID:ksAAfGME
ネネツやガナサン人などのウラル語族は、
Devils_Gateからのジーン・フローを主軸とするツングース系やニヴフなどから遺伝的にかけ離れているな
居住地域からしてかけ離れているのだから、遺伝的に距離が開くのは当然なのだが
Distance to: RUS_Devils_Gate_Cave_N
https://image.prntscr.com/image/bKZAxTSwT62m7uO67l3JCA.png
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 16:27:21.73ID:T551jCIy
極東のC2は別物で1万年くらい離れてるはず
近いのはエヴェンキ族とネネツじゃないの
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 16:30:13.04ID:T551jCIy
CとかDだから同じと考えてはいけない
コロナの変異からルートを追うみたいなのあるだろ
あれと同じだよ
E123Dの変異が特徴的なウィルスから枝分かれしてその変異をもったままさらに変異する
その変異の一部からF456Gの部分が特徴的な変異して~みたいな
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 18:02:20.34ID:ksAAfGME
「ニヴフのCとツングースのCは万年のひらきがある(キリッ」
Y-DNA厨はいい加減なことしか言わないな
Autosomal DNAの知識が不足してるから、こんな頓珍漢な推理になる
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 18:46:11.16ID:wATTd+SH
C2a系はだいたい新モンゴロイドだろ
生息地がモンゴロイドしかいないエリアじゃん
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 21:58:21.77ID:yOlsmqm+
白村江の戦いって教育ではサラッと流してるけど国体が根底から変わった大転換なんだよ
倭国は百済と組んで唐と新羅の連合軍と戦い、敗れて
結果として北九州に唐の監視機構の都督府が置かれ、中央政府の体制が唐式になり国号も変わった
つまりこの時、倭国は百済と共に”滅亡した”
百済と倭は唐式に改めた「日本」という別の国として再編合一された
教育の場でそこまでの大事件に一切触れないのは現代日本人の民族的自尊心保つためだろうと思う
0108名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 21:59:58.46ID:yOlsmqm+
白村江の戦いの「村」をスキ、スクと読むのは朝鮮語式なんだよ
飛鳥時代の「アスカ」も元は朝鮮語の「安宿(アンスク)」
実際大阪の地名にも「安宿部(アスカベ)」が残っている
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:20:06.74ID:T551jCIy
>>106
大陸にもちょいいるよ
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:20:25.97ID:T551jCIy
アメリカ大陸な
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:27:45.65ID:wATTd+SH
>>109
>>110
アメリカ先住民はモンゴロイドだろ
何か間違ってるか?
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:46:20.77ID:T551jCIy
ネイティブアメリカンをモンゴロイドというのはやっぱ違和感ある
2万年前あたりに南米までいった第一波(アメリンド
1万2000年前あたりに北米に広がった第二波(インディアン
両方顔濃い
はプロはQだが
0113名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:47:50.45ID:T551jCIy
アメリカ先住民はその当時の東アジアの北方の人種を反映してる
平たい顔族はかなり後で広がったと考えなければいけない
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:49:38.39ID:wATTd+SH
いや髪ストレートだし、シミ出来ないし充分モンゴロイドだろ
何が間違ってるんだ?はっきり言えよ
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/20(火) 23:50:12.86ID:yOlsmqm+
新羅の名称は、記紀で2度重要なイベントに登場する
一つがスサノオが降臨した場所として、もう一つがずっと後になる神功皇后の三韓征伐
神功皇后の年代は広開土王碑あたりであると推定できるため、この新羅とは4世紀末~5世紀
スサノオの話は弥生時代の末期あたり。大国主の話も同時代とするのが自然かな
0116名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 06:31:22.51ID:6Ke4m85l
日本に青銅器時代は無い
日本のような外部勢力(渡来人)の突然的侵略と征服で生まれた国家には
石器時代・青銅器時代・鉄器時代という一般的な時代区分が当てはまらないためである
石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。日本は、その典型例である。日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。サハラ砂漠以南のアフリカにおいても青銅器時代は存在せず、銅の使用自体も鉄器伝来後、しかも装身具などわずかな使用にとどまっていた[10]。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 10:00:07.68ID:TIXE+z82
>>116
卑弥呼(姫子の蔑称)が邪馬台国(大和国の蔑称)で女王になれたのは、大陸で学んだ気象学の力で神として崇められたからである。
今でも占い者を信じる人たちがいるのと同じ。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 14:16:23.48ID:6Ke4m85l
いわば母国の百済の危機だから、大和朝廷は白村江の戦いをしたわけだ。
任那日本府こそが高天ヶ原だな。
戦に負けてその回復ができないことになったので、思い余ってこの列島を日本と名付けてしまった。
ニューヨークとかニューオリンズとかと同じ。故郷を偲んで名付けるやつ。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 14:18:15.01ID:6Ke4m85l
元々中国が東方の国に対して使っていた「日本」という名詞があり
それをなんか良いやんと気に入った扶桑島の勢力が自分たちの名前として採用した、という流れ。
要するに、日本=中国からみた東の方にごちゃごちゃある雑魚国の総称。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 15:32:54.08ID:17HZZ2Sg
とう‐い【東×夷】 の解説
1 古代中国人が東方の異民族を称した語。→西戎 (せいじゅう)  →南蛮 →北狄 (ほくてき) 
2 昔の日本で、京都の人が東国の武士を呼んだ語。あずまえびす。
0121名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 21:40:50.04ID:6Mgt4S9N
>>114
モンゴロイドシミ多いだろが
0122名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 21:57:55.16ID:Rm7sRsCA
>>121
古モンゴロイドはな
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 22:31:48.07ID:6Mgt4S9N
新モンゴロイドもシミはできるだろ
北米ネイティブって「全くできない」んだよ
で日光あびたら異常に顔が赤くなる
0124名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/21(水) 22:48:15.34ID:Rm7sRsCA
古モンゴロイドの影響受けてる奴はな
0125名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/22(木) 01:56:46.66ID:uHc/ZjIS
>>119
日本も天皇も音読みだからな
つまり当時の中国語(外国語)で読んでいた
今で言えば「エンペラー・オブ・ジャパン」を自称していたわけ
本来のヤマト言葉で読めば「ひのもと」「あますめらぎ」になる
成り立ちからして雑魚国の王まるだしなんだよな、天皇って
0126名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/22(木) 07:31:16.25ID:P6owLRx7
ネトウヨ諸君、韓国の悪口を言ったら不敬罪だからね
高松塚古墳壁画を調査しちゃってビックリ!
慌てて保存の為にすぐ閉鎖しちゃったわw
「韓国ゆかり」衝撃与えた現天皇 「統合」背負う新天皇
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASM4Q4J8ZM4QUPQJ001.html%3Fusqp%3Dmq331AQQKAGYAZ-vlJH9_YKSNLABIA%253D%253D
0127名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/22(木) 21:05:17.60ID:uHc/ZjIS
Japanese and Korean Language Similarities {English Subtitles}
https://www.youtube.com/watch?v=c9LjxyDc5PA
0128名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/22(木) 23:23:41.95ID:uHc/ZjIS
ネトウヨの脳内ルート 長江→船に乗ってどんぶらこ
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/f07885cca18d136a84dc313615d12ce8f0cda8c7.15.2.9.2.jpeg
現実 Continental Korean → Peninsula Korean → Insular Korean
https://image.prntscr.com/image/HhbavjqzTJ6WIeLX5bmuuA.jpg
0129名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/23(金) 00:25:14.66ID:2A2lV06v
>>128
長江もとんでもとわかるなら
半島から縄文変質の第一波である亀ヶ岡へたどり着くのは不可能なのわかるはず
北九州から変質が開始したのならわかるがそうではない
0130名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/23(金) 05:32:13.35ID:JWJg64nM
2017年、Martine Robbeets(マーティン・ロベーツ)は、日本語 (そしておそらく韓国語) はハイブリッド言語として誕生したと提唱した。
彼女は、テュルク語、モンゴル語、ツングース語の故地は、満州北西部のどこかであると提案した。
これらのプロト・アルタイ語 (トランス・ユーラシア語 "Transeurasian") のグループは、南に移動して現在の遼寧省に入り、
そこでオーストロネシア的な言語を話す農耕民族にほとんど同化されたのだろう。
この2つの言語が融合して、日琉祖語と朝鮮祖語が生まれたと考えられる。
https://www.researchgate.net/publication/339255935/figure/download/fig1/AS:858471322890242@1581686921486/The-distribution-and-classification-of-the-Transeurasian-languages.png
0131名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/23(金) 12:49:48.05ID:JWJg64nM
Tracing population movements in ancient East Asia through the linguistics and archaeology of textile production
doi: https://doi.org/10.1017/ehs.2020.4
これまで、北東アジアの新石器・青銅器時代については、繊維生産の分析がまったく行われてこなかった。この状況を改善するために、本研究では、古代の繊維生産に関する言語および考古学的証拠を統合する。
言語/農業普及仮説は、世界の主要な語族の拡大は、初期の話者が農業を取り入れたからだという主張である。トランス・ユーラシア語族の農業語彙もその祖先に起因するとされており、これらの言語の普及が農業主導であったという主張を裏付けている。
トランス・ユーラシア語とは、従来のアルタイ語に代わる言葉で、Figure 1に示される言語の大グループを指す。このグループには、日本語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、テュルク語族が含まれる。
Figure 1. The distribution and classification of the Transeurasian languages.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig1.png
トランス・ユーラシア祖語 (proto-Transeurasian) は、文字記録には残っておらず、最古の文字資料とは数千年もの隔たりがある。トランス・ユーラシア諸語に見られる系統的な類似性を解きほぐすことで、この言語を再構築することが可能となる。この目的のために、紡錘車(糸つむぎの器具)の証拠を持つ34の遺跡を調べる。これらの遺跡の位置をFigure 2に示す。
Figure 2. Location of the archaeological sites reviewed in this study.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig2.png
我々の目的は、これらの地域が、言語復元に現れている繊維技術を利用していたかどうかを調べることである。そのためには、雑穀 (millet) や麻 (hemp) の栽培、針 (needles) や錐 (awls)、紡錘車 (spindle whorls)、織機の重り (loom weights) の使用などのデータを比較分析することが必要である。繊維技術の伝播ルートを推測し、農業の伝播ルートとの相関関係を明らかにする。
トランス・ユーラシア祖語に、「切る」という動詞*giri-を復元することができる。この動詞から派生した古日本語や満州語の道具名詞は、いずれも布を切ることに特化した道具を意味しており、対応するテュルク語の動詞は、毛皮や布を切ることに特化していることから、この動詞は織物生産の領域で特に使われていたと考えられる。
トランス・ユーラシア祖語の繊維語彙は、テュルク語やモンゴル語ではしばしば失われているが、日本・韓国語ではよく保存されている。日流祖語・朝鮮祖語に共通の繊維語彙が3例ある。pJK *parʌ-「縫う」、pJK *pu-「紡ぐ、撚る(糸)」、pJK *pata-「織機で(布を)織る」、pJK *asa「麻」。
Robbeets (2017, 2020a) は、言語学による年代測定とトランス・ユーラシア語族の祖先ノードの位置を利用して、祖先言語と古代文化を関連付けた。Bayesian系統分析では、分離の発生時期をトランス・ユーラシア祖語は4700 BCE、アルタイ祖語は3293 BCE、テュルク・モンゴル祖語は1552 BCE,日流祖語・朝鮮祖語は1850 BCEと推定している。
0132名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/23(金) 12:51:32.42ID:JWJg64nM
Table 1. Selection of sites with textile technology in the Transeurasian linguistic region, specifying the simultaneous occurrence of millet or hemp cultivation and agricultural tools:
0 means ‘absent’, 1 means ‘present’ and ‘?’ marks uncertainty.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_tab1.png
トランス・ユーラシア言語圏における紡錘車の最古の証拠は、興隆華文化 (Xinglongwa) と招巴溝文化 (Zhaobagou) に遡る。Table 1は遺跡の概要を示したもので、雑穀の栽培、農具、麻の栽培、紡錘車、骨の針や錐の証拠があるかどうかを示している。0は「ない」 1は「ある」 ‘?’は不確定。
紡錘車の証拠は、紀元前3~2千年頃の沿海州にも続いており、これらの遺跡は、Zaisanovka文化伝統の地域的な変種を表している。ほとんどの年代はca.と記されており、炭素年代測定が行われていないことを示している。Valentin-PeresheekとSiny Gai Aでは、円錐形、双円錐形、ディスク形の紡錘車の証拠が残っている。一般に、Siny Gaiの遺物群はValentin-Peresheekの遺物群よりもやや発達しているように見える。
韓国のPibong-liでは、草で編まれた袋が、木製の船の破片の近くで発見された。4670 ± 60 BCEで、この遺跡は、新石器時代初期に植物を使った織物が行われていたことを示している。日本に近いこの遺跡は、織物が伝播した場所なのかもしれない。初期 (1300-800 BCE) と中期Mumun (800-500 BCE) における出土状況から、韓国の青銅器時代には、ほぼすべての遺跡に紡錘車と重りが含まれていることがわかる。
日本で織布の証拠が最初に現れたのは、弥生時代 (900 BC-AD 300) の初期で、韓国から米や雑穀などの農業パッケージとともに、紡績や織布の技術がもたらされたと考えられている。弥生時代の紡錘車の多くは、装飾のない平らなディスク形である。円錐形の紡錘車は、弥生時代には見られないが、古墳時代 (AD 250–700) にはよく見られる。
Figure 3. Comparison of spinning and weaving technology in Neolithic and Bronze Age Northeast Asia.
(a) Conical ceramic spindle whorls. (b) Disk-like whorls. (c) Loom weights.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig3.png
Figure 3は、紡績・製織技術を比較したものである。北東アジアの地域で、(双)円錐形、ディスク形の紡錘車、織機の重りには大きな類似性があるように思われる。
ディスク形と(双)円錐状の分布には興味深いコントラストがある。ディスク形は、西遼河流域に集中しており、もっぱら遼東半島や日本に見られる。遼河下流域の上新楽遺跡 (Upper Xinle)、アムール川のYinggelin遺跡、沿海州南部のZaisanovka文化では、(双)円錐形が見られる。また、朝鮮半島の北東部や中東部では、ディスク形よりも数が多い。
このように、遼河流域からの繊維技術の伝播には、異なる2つのルートがあったことが示唆される。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/23(金) 12:52:38.92ID:JWJg64nM
紡錘車の証拠がある新石器・青銅器時代の文化は、農業の証拠を持つ傾向がある。Table 1にある遺跡の大部分は、雑穀の栽培や農耕具の証拠として肯定的なスコアを示している。
沿海州のValentin-Peresheek遺跡とSiny Gai遺跡は、植物遺物を検出するための土壌浮遊法がまだ適用されていない1960年代から1970年代に発掘されたものであるため、雑穀や麻を栽培していたことを示す考古学的証拠はないが、これらの遺跡が属するZaisanovka文化 は、ロシア極東における最初の農耕文化として知られている。
韓国の初期新石器時代の食糧生産に関する推論は、初期の遺跡であるAmsadongがほとんどを提供してきたが、Pibong-liでも炭化した雑穀の種子が確認されている。Osan-liは漁業に大きく依存しており、すり鉢やすりこぎとともにドングリの遺物があることから、野生植物の採取で補っていたことがわかるが、雑穀を栽培していた証拠はない。中後期Chulmun遺跡では、雑穀栽培の直接的な証拠はないものの、農耕具が発見されている。Tongsamdong遺跡ではアワやキビを栽培していた直接的な証拠がある。
繊維生産の証拠がある日本の遺跡の多くが、農業の証拠や、水田、環濠集落や柵列、木製や石製の農具、初期の青銅や鉄、鯉の養殖などの大陸的な文化的特徴を持つ弥生時代の重要な集落としてよく知られている。例えば、吉野ヶ里遺跡 (Saga) では、少なくとも6つの紡錘車と、麻と絹の両方で作られた11枚の布が見つかっている。
Figure 4. The dispersal of textile technology, agriculture and language across Northeast Asia.
Archaeological sites where (bi)conical whorls have been recovered in relatively high proportions are indicated in blue.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig4.png
沿海州のBoisman (4825-2470 BCE) 、朝鮮半島の初期Chulmun (8000-6000 BCE) 、日本の縄文時代 (10000-900 BCE) のような農業以前の社会では、織物の証拠はなかったが、農業に移行すると紡錘車が現れる。
3000 BCE頃、雑穀農業が西遼河流域から沿海地方南部に伝わり、洪山文化 (Hongshan) のものに類似した円錐形やディスク形の紡錘車、織機の重りが、同じZaisanovka文化の文脈で伝わった。このルートは、Figure 4の地図では青で示される。
4000 BCE頃、雑穀農業は洪山文化 (Hongshan) から遼東半島に伝わり、3500 BCE頃には朝鮮半島に伝わった。900 BCEには、雑穀と稲を含む農業パッケージが日本に伝えられた。興隆華文化 (Xinglongwa) を思わせるディスク形の紡錘車や織機の重りは、遼東・朝鮮・日本の遺跡で、雑穀農業と同時期に現れている。このルートは、Figure 4の地図では赤で示される。
興味深いことに、地図上の赤と青の分散ルートは、言語的にも相関関係がある。トランス・ユーラシア祖語が西遼河流域に原郷を持ち、4700 BCE頃にアルタイ語の一体から分離した日流・朝鮮語派 (Japano-Koreanic) が遼東半島に定住し、その後数千年の間に朝鮮語と日流語に分離して現在の場所に移住したのである。一方、3300 BCE頃に分離したツングース語派は、沿海州南部に移動したが、これは円錐形の紡錘車の伝播を反映している。
北東アジ
-
15:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:48:51
-
興味深いことに、地図上の赤と青の分散ルートは、言語的にも相関関係がある。トランス・ユーラシア祖語が西遼河流域に原郷を持ち、4700 BCE頃にアルタイ語の一体から分離した日流・朝鮮語派 (Japano-Koreanic) が遼東半島に定住し、その後数千年の間に朝鮮語と日流語に分離して現在の場所に移住したのである。一方、3300 BCE頃に分離したツングース語派は、沿海州南部に移動したが、これは円錐形の紡錘車の伝播を反映している。
北東アジアの集団移動を、織物生産に関する言語学と考古学で追跡した。その結果、中国東北部の遼河西岸地域が、新石器時代に雑穀農業だけでなく、紡績や織物のための言葉や道具の普及の中心地であったことがわかった。織物や農耕技術に関連してオーストロネシア語族が広まったというBuckley (2012) の研究結果に沿って、本研究は、織物生産や農耕などの普及パターンと、北東アジアにおけるトランス・ユーラシア語族の普及との間に類似性があることを示している。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/23(金) 19:30:14.07ID:2A2lV06v
辰韓はチベット語じゃないの
0135名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/24(土) 12:04:38.85ID:XvF4yqpV
司馬遼太郎 「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」
韓鍛冶部(からかぬちべ)
朝鮮半島から4~5世紀に渡来し,鉄製の武器・馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。
畿内地方に住み,その技術をもって伴造に率いられ大和政権に仕えた。
《古事記》応神段に百済より韓鍛の卓素が貢上されたとあり,百済系技術者を組織したもので,
彼らは各地に居住し伴造の韓鍛冶首に率いられて宮廷工房に上番した。
陶作部(すえつくりべ)
『日本書紀』の雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。
弥生文化の名残であった土器である土師器が、5世紀頃になると須恵器に取って代わられるようになる。
鞍作部(くらつくりべ)
大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済貢上の今来才伎の中に鞍部堅貴の名がある。
《坂上系図》には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主に従って来たと記すが,
これは東漢氏の管掌下にあったことから造作されたもので,5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものであろう。
錦織部(にしこりべ)
大陸系の技術により錦,綾の織成に従事した大和朝廷の職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済より貢上された今来才伎の内に錦部定安那錦がいる。
5世紀中葉以降に百済より順次渡来した技術者を組織したものであろう。
日本音楽の歴史
継体・欽明の政権あたりから、朝鮮の音楽ついで中国の音楽が伝来した。新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。
名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽である。
百済の瓦博士
飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。
瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。
要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫
0136名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/24(土) 12:24:18.00ID:XvF4yqpV
東征神話は、扶余系民族のアイデンティティ
亀に導かれて新しい土地に建国する神武東征は高句麗などの朝鮮半島の建国神話そのものである
https://i.imgur.com/./PaduTMO.jpg
0137名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/24(土) 20:02:41.88ID:b+5Np4b9
東盟とか全然違うだろ
0138名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/27(火) 09:19:04.93ID:QLWPgiTe
ネトウヨ
「寒冷地で稲作はムリなんだよ~!」
「日本のスーパー技術が北海道で稲作を可能にしたんだよ~!」
なお、中国の最北、黒龍江省↓
咱们家乡有特产——黑龙江五常:稻花香里说丰年 「生财有道」 20200831 | CCTV财经
https://www.youtube.com/watch?v=XB-OWVqD5ls
0139名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/27(火) 15:45:23.80ID:QLWPgiTe
「わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。」
727年、平城京に渤海国の使節が訪れ、国書を奉呈した。日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。
285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、再び侵略を受け、王子の依羅(いり)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、朝鮮史書『桓檀古記』には驚くべき記事が載っている。「依慮王、鮮卑の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。明年、子の依羅(いり)立つ。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。」
名前のイリから、イリ王朝とも呼ばれる崇神天皇(第10代)だろうと推察される。崇神天皇の和風諡号の「御間城入彦(みまきいりひこ)」と、次の垂仁天皇の和風諡号の「活目入彦(いくめいりひこ)」は、共に「いりひこ」が共通している。「いりひこ」・「いりひめ」は当時の王族名に現れる特定呼称である。
神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の実在性が希薄であることから、この崇神天皇を初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性から、神武天皇と同一人物とする説もある。『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して258年もしくは318年没と推測する説も見られる。
中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種」とある。百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。
つまり、崇神天皇に連なる「イリ王朝」は扶余族の渡来王朝と言える。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/27(火) 15:53:49.15ID:QLWPgiTe
外国人に国史を書かせる国などない。百済人が「日本書紀」を編纂した以上、日本という国は百済人の国
百済人の都合で勝手に日本人にされたのが倭人
「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」
「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。」
「『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」
「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長上田正昭らの対談集)」
「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」
0141名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/28(水) 12:41:19.98ID:XerDx0Hh
肥前国風土記 現代語訳 (肥前国とは現在の佐賀県・長崎県)
https://cultural-experience.blogspot.com/2020/12/hizennokuni-fudoki.html
総記
・崇神天皇の治世、肥後国益城郡朝来名の峰にいた土蜘蛛・打猴(うちさる)、頸猴が軍勢を率いて朝廷に従わなかった
・朝廷は肥君らの祖・健緒組(たけをくみ)を派遣し征伐
小城(をき)の郡
・昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(砦)を作って隠れ、天皇に従わなかった、日本武尊巡検時、ことごとく罰して討った
賀周(かす)の郷
・昔、この里に、海松橿媛(みるかしひめ)という名の土蜘蛛がいた
・景行天皇巡検時、従者の大屋田子(おおやたこ、日下部君らの祖)を派遣して罰して滅ぼさせた
大家の嶋
・昔、景行天皇巡検時、この村に大身(おおみ)という土蜘蛛がいた
・常に天皇の命を拒み服従しなかった、天皇は勅命により罰して滅ぼした
・それ以来、漁民達がこの島に来て、家を作って住んでいる
値嘉の郷
・郡の西南の海中にある(小値賀島が遺称地)
・第一の島は小近で、土蜘蛛の大耳(おほみみ)が住み、第二の島は大近で、土蜘蛛の垂耳(たりみみ)が住んでいた
・百足は大耳達を捕らえて報告し、天皇は罰して殺させようとした、その時、大耳達は頭を下げて謝罪
・ただちに木の皮を取り、様々なアワビ料理の見本を作って献上した、天皇は温情によって彼らを許して釈放した
・この島の漁民は、容貌は隼人に似て、常に馬上から矢を射るのを好み、その言葉は世間一般の人々と異なる
嬢子山(をみなやま)
・景行天皇巡幸時、土蜘蛛の八十女人(やそおみな)が、この山の山頂にいた
・常に皇命に逆らい、服従しなかった、そこで、兵を派遣して不意を襲い滅ぼさせた
能美(のみ)の郷
・景行天皇行幸時、この里に三人の土蜘蛛がいた、兄の名は大白(おほしろ)、次の名は中白(なかしろ)、弟の名は少白(をしろ)
・彼らは砦を造って隠れ住み、天皇に従わなかった、そこで、従者である紀の直らの祖・穉日子を派遣し、罰して滅ぼそうとした
・その時、大白達三人は、ただ叩頭(のみ、頭を地にこすりつけること)、己の罪を述べ、共に命乞いをした
浮穴(うきあな)の郷
・天皇「朕は諸国を巡ってすっかり平定して来たが、まだ我が統治を受け入れない不審な者共はいるか」
・神代の直「その、煙の立っている村は、まだ統治を受け入れいません」
・神代の直をこの村に派遣すると浮穴沫媛(うきあなわひめ)という土蜘蛛がいた、皇命に従わず大変無礼だったので誅殺した
■ 頭骨比較 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜
https://image.prntscr.com/image/xduK22HTRPGSAPoL_V93Bg.png
■ PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ (Jinam et al 2012)
https://livedoor.blogimg.jp/tanokura3/imgs/a/a/aa72d74e.jpg
0142名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/28(水) 13:18:42.91ID:XerDx0Hh
和人が蝦夷から奪い取った島 粟島
粟島が初めて文献に登場するのは、808年『大同類聚方』で「粟生蝦夷」の名前が登場し、
本土の人間が入植する以前から、蝦夷と関係した先住民が生活していたとみられる。
https://lh3.googleusercontent.com/proxy/Q3TGMJca5qRF8HrSxO4AOz80-pQ3yeFSsJU2jpXgRzB-FaKWnn5VjBPsR-epdlDt5dhddxT4xzT12_DoaaUcoRdz9h3eBauGxKRO=s0?.jpg
0143名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/28(水) 21:19:31.47ID:G1U6zGFP
>>139
イザベラ・バード「朝鮮には歴史書と言えるものがほとんどなく・・・」
0144名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/29(木) 06:13:26.22ID:Wx+ECTrv
>>143
日本も大陸から漢字が輸入されるまで文字が無かった。
因みに神代文字は仏教色を嫌った江戸時代の偽作。
だから大和時代の様子は魏志倭人伝など中国の文書から得られるしか無かった。
つまり日本を発見したのは中国人となる。
日本がまだ石器時代の時期に中国では漢詩が詠われていたり、音楽が演奏されていた。
中国の戦国時代に戦乱を逃れて日本に来た人は、
気象学に長けていたので卑弥呼の様なシャーマンになれた。
0145名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/29(木) 07:09:03.68ID:2keSqBcn
逆神ネトウヨ「韓国人は穢族なんだよ~!」
なお、穢族は、韓語ではなく、ジャポニックと同系の扶余語を話していた模様
>「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「扶余国」を建てた。
>扶余(ふよ)とは穢人の言葉で鹿の意味という。
>奈良の春日大社を始め、茨城の鹿島神宮等、日本には鹿を聖獣と位置付けているところは多い。
>同じくこの鹿を神聖視して崇めていたのが扶余族で、この扶余族は百済の支配層のルーツである。
>穢族は、穢(韓国江原道)・沃沮(北朝鮮咸鏡道)・高句麗(吉林省東部+慈江道)・夫餘(吉林省北部)の四つに分かれた。
>朝鮮の東は穢の地であり、高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。
>高句麗語の研究から、穢族の言語は倭人に近かったとみられる。
>河野 (1993) は、朝鮮に残るジャポニック関連の地名は、穢(Ye)が残したものだとしている。
>彼の主張は、日本人が中世朝鮮で「Ye」と呼ばれていたという事実に基づいている。
Geographical distribution of certain toponyms in the Samguk Sagi
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201229
Released: 2021/03/31
0146名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/29(木) 07:22:11.36ID:2keSqBcn
支石墓のエリアと、稲作の伝播ルートは完全に同期する
支石墓も朝鮮半島から伝来してるから、縄文晩期(のちに弥生早期に再設定された)から半島人は大勢渡来してきてる
古代の王族・氏族ってのはほぼ100%朝鮮系の渡来人
ヨーロッパのドルメンも農耕との関係を指摘されているが、東アジアの支石墓もやはり農耕の伝播を伴った
■ ドルメン(支石墓)のエリア
http://4.bp.blogspot.com/-cJfnCZ72usU/U5VRy43i3NI/AAAAAAAABHQ/JchKHt5QTH4/s0/Dolmens_in_East_Asia.jpg
>朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることなどから、
>支石墓の担い手は日本列島、朝鮮半島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2 (Y染色体))と推定される。
0147名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/29(木) 08:02:53.72ID:2keSqBcn
穢王之印
https://pbs.twimg.com/media/C5EQswRUkAA5SRk.png
奈良公園
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/48/24/src_11482428.jpg
0148名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/29(木) 15:42:10.78ID:2keSqBcn
日本語に興味津々!日本語と韓国語!!
山陰から東北一帯にかけて「ズーズー弁」が残っていますが、よく似た発音が韓国語、とくに慶尚道(キョンサンド)地方(朝鮮半島南東部、古代の新羅に相当)の方言に現存していることも有名です。
東北弁では「おら、東京さ行ぐだ」のように、語中の清音が濁音として発音されることがあります。この濁音化は、韓国語では一般的な現象です。日本語と同じように韓国語の肯定文は「ダ」で終わり、疑問文は「カ?」で終わります。この発音は、日本の共通語よりも東北弁の「だ」と「か?」の発音に近いのです。
韓国語の「ハナ」は「ハナから(最初から)」という日本語の語源であるという説があり、大いに有り得ることだと思います。外国語で、数は最初に覚える言葉の一つだからです。「ピンからキリまで」という言葉があります。ポルトガル語でカルタの1を表す「pinta」が「ピン」となり、十字架つまり10を表す「cruz」が「キリ」となったものです。
日本独自の数え方も、高句麗の方言が元になっているという説もあります。古代の高句麗では3は「ミ(mi)」、7は「ナナ(nana)」、10は「ト(to)」と発音したのです。3才くらいまでの赤ちゃんのことを、日本語で「嬰児(ミドリゴ)」といいます。古代韓国語で周年のことを「ドル」といい、子供が3才になったことを高句麗弁で「ミドル」といいました。
「赤ちゃん」の語源は、一般にいわれている「生まれたばかりの子供の体が赤っぽい」ではなく、韓国語の「アガ」からきているという説の方が納得できます。赤ちゃんに関する言葉には、古代朝鮮語が語源と思える言葉がたくさんあります。幼児語「おっぱい」の「パイ」は、古代朝鮮語で「吸うもの」という意味です。「乳」も韓国語の「チョッ(乳)」が語源だと思われますし、「おんぶ」は韓国語の「オブバ(おんぶ)」が語源だと思われます。
韓国語で高いという意味の「ノップン」が「ノッポ」になったり、口の意味の「イプ」が「言う」になり、耳の意味の「キ」が「聞く」になり、鼻の意味の「コ」が「嗅ぐ」になったりと、韓国語が語源と思われる言葉は非常にたくさんあります。意味のない枕詞が、古代朝鮮語で読むと重要な意味を持っていたり、土地や神の名前が古代朝鮮語に由来していたりと、さまざまな分野で古代朝鮮語との深い関係が解明されてきています。
0149名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/29(木) 21:15:31.35ID:GTq9Ey7/
>>145
エベンキとワイは別民族だぞ?
理解してる?
ツングースが小便をあつめてテントの真ん中にためてた民族
0150名無しさん@お腹いっぱい。
2021/04/30(金) 00:20:17.73ID:WTPHvnAs
>>149
Evenkは北部型のツングース語族に属す集団で、トランスバイカルと極東の2種類おり
トランスバイカルのほうは平均的な日本人とは遺伝的にかけ離れている
極東Evenkのほうも特に近くはない
こうして主成分分析で見ると、一口にツングース語族といっても
遺伝的にレンジがあり、それに応じて、顔つきや骨格などもかなりバラつきがあると予想される
東アジアの集団では、朝鮮の遺伝子プールが最もコンパクトかつ綺麗にまとまっており、
ネトウヨなどが理想とする「単一民族」は朝鮮民族が最も近いことになる
Figure 2. Diversity hotspot of the Tungusic languages under the north-south classification in (a) as compared with the hotspot under the Manchu-Tungusic classification in (b).
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig2.png
Figure 4. Principal component analysis projecting ancient Devil's Gate, Ustlda and Jomon samples onto the variation of present-day East Eurasians.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig4.png
0151名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 08:13:15.70ID:XERyAgKo
新羅 しんら
百済 くだら
加羅 から
耽羅 たんら
奈良 なら
あっ・・・
0152名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 08:44:36.44ID:XERyAgKo
白村江の戦い haku-suk-inoe
村主 suk-uri
飛鳥 a-suk-a
あっ・・・
0153名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 16:29:20.88ID:sIFeENfQ
パクスクで「白い(衣服をまとった?)村」を表す
中国史書に書かれてる「百済は漢語混じりの言葉を話す」と一致してる
日本にはない要素だ
0154名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 18:17:16.83ID:aHHm1o2Q
「クダラ」は韓国人が聞くと「クンナラ」=「偉大な国」と読め
「シラギ」は韓国人が聞くと「シーラギ」=「新羅の奴」と読めるという
素直に考えると、百済を「ヒャクサイ」ではなく「クダラ」と読むのは、百済を大国・貴い国と考えていた人たち
新羅を「シンラ」ではなく「シラギ」と読むのは、新羅を憎たらしい奴と考えていた人たち
0155名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 18:47:12.23ID:sIFeENfQ
>>154
こういうトンデモ理論
日本人にもやるやついるよな
0156名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 19:06:49.55ID:aHHm1o2Q
百済(くだら)と新羅(しらぎ)の読み方だけは、日本のこう読ませた王朝と
これらの国々との関係を決定的に定義づけざるを得ない
日本人はこの事実から逃げることはできない
0157名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/01(土) 21:36:47.02ID:sIFeENfQ
くだらは馬韓の地名からだよ
0158名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/02(日) 11:26:07.52ID:YoNHE1F3
オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html
0159名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/02(日) 12:18:43.77ID:YoNHE1F3
太平洋地域の人類集団史の詳細な分析について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。
今回のゲノム研究は、ヒトの進化、ヒト族の異種交配、そして島嶼環境での生活に応じて起こる適応に関して新たな知見をもたらした。
太平洋地域は、パプアニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島を含む「近オセアニア」と、
ミクロネシア、サンタクルーズ、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、ポリネシアを含む「遠オセアニア」に分けられる。
人類は、アフリカから移動した後、約4万5000年前に近オセアニアに定住した。
遠オセアニアに人類が定住したのは、それよりずっと後の約3200年前のことで、現在の台湾からの移住だった。
この人類集団史をさらに探究するため、Lluis Quintana-Murci、Etienne Patinたちの研究チームは、
太平洋地域に分布する20集団のいずれかに属する現代人317人のゲノムを解析した。
その結果、近オセアニア集団の祖先の遺伝子プールが、この集団が太平洋地域に定住する前に縮小し、
その後、約2万~4万年前にこの集団が分岐したことが判明した。
それからずっと後、現在の台湾から先住民族が到来した後に、近オセアニア集団の人々との混合が繰り返された。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/02(日) 13:04:36.87ID:YoNHE1F3
Fig. 1: Genetic structure of Pacific populations.
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-03236-5/MediaObjects/41586_2021_3236_Fig5_ESM.jpg
ADMIXTURE ancestry components are shown from K = 2 (top) to K = 10 (bottom) for the 462 unrelated individuals.
The lowest cross-validation error was obtained at K = 6 (Supplementary Fig. 5). Populations are delimited by black borders.
Population width is not proportional to population sample size, which is indicated in parentheses.
Supplementary Figure 3. PCA of whole genomes of populations from the Pacific, East/SoutheastAsia and Europe.
https://image.prntscr.com/image/0CGP7DR0S7uNmRpLrh5osA.png
These include Europeans, East/SoutheastAsians, indigenous Australians, Papua New Guinea highlanders, Bismarck islanders, as well as the populations studied here (i.e., Taiwanese indigenous peoples, Philippine populations, Solomon islanders and ni-Vanuatu).
The variance explained by each PC is indicated in brackets. The dashed areaindicates samples with non-negligible proportions of African or European ancestry (Supplementary Table 1).
Supplementary Figure 4. PCA of whole genomes of Pacific populations.
a, PC3versus PC4, b, PC5 versus PC6.
The variance explained by each PC is given in brackets.
Supplementary Figure 51. Genetic affinities of modern humans to archaic hominins.
https://image.prntscr.com/image/bk-0NeLRQ7K0QhFI9sqhtQ.png
a, Principal Component Analysis (PCA) of modern human populations projected onto the first two PCs defined by the chimpanzee, the Altai Neanderthal, the Vindija Neanderthal, and the Altai Denisovan genomes. The right panel represents a zoomed-in version of the PCA plot on the left.
b,Derived allele sharing of Pacific populations to the Vindija Neanderthal. Z-score of a D-statistic of the form D(X, East Asia/West Eurasia/Africa; Neanderthal, Chimpanzee)is shown against Z-score of D(X, East Asia/West Eurasia/Africa; Neanderthal, Denisova).
c,Derived allele sharing of Pacific populations to Altai Denisovan. Z-score of a D-statistic of the form D(X, East Asia/West Eurasia; Denisova, Chimpanzee)is shown against Z-score of D(X, East Asia/West Eurasia; Denisova, Neanderthal). Dotted lines indicate significant derived allele sharing (|Z-score| >2). Population sample sizes are reported in Supplementary Table 1.
0161名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/02(日) 13:17:01.31ID:YoNHE1F3
>>160
K = 6がいちばんcross-validationエラーが低い
0162名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/03(月) 08:03:55.51ID:8D/QJ398
シベリア周辺の少数言語まとめ
https://www.youtube.com/watch?v=iHMW-4hTbpc
0163名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/03(月) 20:44:04.17ID:8D/QJ398
韓国には、水+田を意味する「畓」という独自の漢字があるが、日本は火+田で「畑」にした
いずれも中国にはない独自の漢字である
歴史でみると、米好きの韓国人は水田にこだわり、雑穀好きの日本人は焼畑にこだわったようだ
しかし近代に入り、寿司が日本人の国民食となり、ナショナリズムに深く関わるようになったため
ネトウヨは日本人が併合時代に韓国人に稲作を教えてあげたなどという偽歴史を広めている
https://static.news.zumst.com/images/1/2019/12/11/093cca9109b64695b363b471a65ac44b.jpg
0164名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/03(月) 21:06:49.19ID:KeX2MZ6+
>>163
石高というコメの生産量しめす言葉あるだろ
朝鮮は同時代にはコーリャンばっかだった
0165名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/03(月) 23:37:31.42ID:8D/QJ398
>>164
とネトウヨは息をするように嘘をつく
山梨大学がまとめた朝鮮半島の水田遺跡一覧(p372)
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/kenkyu/hokoku09_2014_4.pdf
0166名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/04(火) 20:00:18.66ID:afojQT26
【日本語の起源】東アジアの言語史まとめ【仮説】
https://www.youtube.com/./watch?v=EwLrtntJfCc
0167名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/04(火) 21:18:16.84ID:EX6Cvd+4
>>165
水田遺構じゃなく
常習的に大衆みんなが食べてたかという話
0168名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/04(火) 22:48:25.99ID:afojQT26
>>167
日帝支配下の満州に稲作を広めたのは朝鮮系移民
なんせ朝鮮人が水田を開墾しすぎたせいで、水利をめぐって現地の中国人農耕民と争いになり
1931年にはあの万宝山事件が起きている
まあ、歴史でみると、朝鮮人と弥生人(=朝鮮人)は米好きでよく米を食べる
0169名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/04(火) 23:30:56.49ID:EX6Cvd+4
関係ねーw
イザベラ・バード読もう
0170名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/04(火) 23:31:25.39ID:EX6Cvd+4
こういうガボン思考ってどういう人間なんだ
0171名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/06(木) 15:08:25.60ID:vW0EDBqi
>>170
自分と他者を欺き洗脳していくタイプ
麻原彰晃とかと同じ
0172名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/06(木) 15:45:47.86ID:vW0EDBqi
もしくは虐待被害者だろうね
未熟な脳に過度の刷り込みを受け
閉じ切った世界観を構築しているのが特徴
しかし本人に虐げられた自覚はない
0173名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/07(金) 20:28:45.90ID:ng+tnnzo
うん
0174名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/08(土) 15:57:49.34ID:VkzWRNPX
ウデヘだったと思うけど、狩猟の時や人目出る時にお面をつけて顔を隠したとか何かで読んだ気がするんだけど調べても出て来ない
大陸の書に出てくる「倭面土王」はお面してたんじゃないのかなって思うんだけど
過疎ってるね
0175名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/08(土) 18:07:33.51ID:VkzWRNPX
まとめ
北九州弥生人(伽耶語・倭語) ← 現代日本人のベース(平民)
土井ヶ浜弥生人(新羅語)
出雲人(新羅語)
西北九州弥生人(プロト琉球語) ← 奴隷
南九州弥生人(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷
隼人・熊襲(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷
蝦夷(夷語・プロトアイヌ語) ← 奴隷以下の非人・悪鬼
奈良飛鳥人(扶余系・百済語) ← 日本の支配層
0176名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/08(土) 20:05:55.83ID:B6cTh/av
アイヌを奴隷以下の非人と言ってるのはこいつらです
0177名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/08(土) 23:52:38.45ID:VkzWRNPX
倭の大乱(出雲と大和の戦い:178~184年)の際に、新羅は出雲の要請で味方した為め、大和朝廷の不信を買うこととなった、と云う説は説得力がある
0178名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/09(日) 01:17:21.66ID:YaPv1cwU
倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる
近畿・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある
0179名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/09(日) 05:42:38.90ID:YaPv1cwU
山陰における日朝関係史(I) 内藤正中(島根大学名誉教授)
doi: https://doi.org/10.24568/2131
新羅からは、潮流に乗って船を漕ぎ出すと自然に出雲に着岸するわけで、韓国の学者も、古代に慶尚道 - 木出島 - 風島 - 欝陵島 - 隠岐 - 出雲というコースがあったことを指摘している。出雲神話は、対岸に位置する新羅との深いつながりがあったことを教えてくれるし、新羅の神話のなかでも、新羅人の倭への移住について語られている。
733年『出雲国風土記』には、記紀にはない国づくり神話が物語られている。八束水臣津野命が、出雲国は若国である、自分が大きな国にしてあげようといって、海の彼方の地から国引きをする。初めに国引きをしたのは、「栲衾志羅紀の三埼」であり、それでもって「去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御碕」をつくったという。新羅の余りを引いてきて出雲大杜が鎮座する杵築の地をつくったという説話は、新羅人による渡来を物語るものといってよい。
720年『日本書紀』では、須佐袁命が出雲に天降ったこと、そして韓鋤之剣で八俣大蛇を退治したことを記している。『日本書紀』には「一書によると」として、須佐袁命は五十猛命とともに新羅国に天降り、曾尸茂梨の地に住んでいたが、植土で舟をつくり海を渡って出雲に到ったとある。曾尸茂梨は、新羅の都であった慶州の地であるとされており、水野佑氏によると、八岐大蛇の説話についても、慶州盆地を流れる兄江流域の溪谷につくられていた六村にはじまる新羅の建国神話にもとづくとしている。
新羅からの渡来神を祀る神杜は、『延喜式』神名帳では134杜を数えるという。国別では出雲の11杜がもっとも多く、次いで近江の10杜、そして大和。伊勢・越前・能登の各8杜などである。いずれも朝鮮半島からの渡来人が多かったといわれる地域であるが、なかでも出雲が、渡来神を祀る神杜数で傑出していることは注目されなければならない。
722年には日本の進攻に備えて新羅の毛伐郡に新しい城が築かれ、731年には300艘の日本水軍が東海岸を襲撃して撃退されたことなどが、新羅の史料にはみられる。日本側の史料でも、732年には新羅の進攻に対処するためにという理由で、山陰・西海・東海・東山の四道に節度使が任命されたことなどが出ている。779年の公的な関係断絶に至るまで、新羅と日本の敵対関係は強められていったのである。
『出雲国風土記』が勘造された733年は、山陰遣節度使が中央政府によって任命された翌年であり、同書には新羅に対する緊張関係の姿が反映されているといわれている。他の風土記とは異なって、軍団の配備や水軍の基地などについて詳細な記述があるほか、新羅からの渡来神を祀る神杜も意図的に抹消されるなど、「新羅に近し」という地理的条件にある出雲の徴妙な立場がみられるのであった。
0180名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/09(日) 10:28:24.12ID:YaPv1cwU
「三国志」魏志東夷伝には、以下のように描かれている:
1) 高句麗は「東夷旧語以為夫余別種、言語諸事多与夫余同、其性気衣服有異」
(夫余族とは別種だが、言語、諸事で夫余と同じことが多い。性気や衣服には違いがある)とある。
2) 穢(わい)は「言語法俗、大抵与句麗同、衣服有異」
(言語、法、風俗は高句麗とほぼ同じであり、衣服には違いがある)とある。(「後漢書」高句麗条(445年以前)にもほぼ同様の記述が見られる。)
3) 沃沮(東沃沮)(よくそ)は「其言語与句麗大同、時時小異」
(言語は高句麗語とほぼ同じであるが、時折小さな違いがある)とある。(「後漢書」にもほぼ同様の記述が見られる。)
これら3点の記述から高句麗語、穢語、沃沮(東沃沮)語は一つの語群をなしていると考えていいだろう。
Beckwith(2002)は、高句麗祖語が中国の呉、越のあった地域から北上し、中国東北部に至ったとし、
中期朝鮮語やツングース諸言語とは全く異なる言語であり、古代日本語は高句麗語と同系の言語であるとしている。
高句麗の地名は、どの時期の言語をさすかは議論の余地がある。
三国史記地理志の巻35,37に表された地名は現代の京畿、江原、黄海の3道とそれに接する忠北、慶北、咸南の一部を含む地域であり、
本来ここは夫余系諸語を用いた穢、または夫余系の南下支流の百済が興ったところである。
0181名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 00:17:32.19ID:5X5PMP8N
で、沃沮が沿海州だとしたら
全てがつながる
0182名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 00:18:41.30ID:5X5PMP8N
沃沮は地形が特徴的、東北にいたるほど細くなり、その先にユーロウがある
西南にいくほど広がっていく、淡路島に近い地形
ほぼハバロフスクだろ
0183名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 00:28:23.69ID:5X5PMP8N
北沃沮は山を背にして日本海側
冬は海が氷結するが夏になるとなくなるのでユーロうが船に乗って攻めてくる
その間じゅう北沃沮は山に逃れてやりすごす
東沃沮の中の川むこうには沃沮城があり、そこが滅ぼされ、第一玄兎郡が置かれた
第一玄兎は蒼海郡の地にあり、大きな海が関係するのがわかる
0184名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 00:32:47.63ID:5X5PMP8N
蒼海郡(そうかいぐん)は、紀元前128年に漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した
植民地である[1]。『漢書』武帝紀では蒼海郡、『漢書』食貨志では滄海郡と表記される。
衛氏朝鮮に服属していた?(?)の君主である南閭らが、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人
を率いて漢に投降したことがきっかけで、蒼海郡が設置されたが、2年後の紀元前126年に公孫弘
の建議により廃止された[2]。
蒼海郡の正確な場所は分かっていないが、現在の咸鏡南道・江原道など日本海に面した地域と
推定されている[3]。蒼海郡の設置は漢の朝鮮進出を促進し、紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を
滅ぼし漢四郡を設置したことにつながる[4]。蒼海郡は漢四郡の1つである玄菟郡と深い関連がある。
0185名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 01:01:46.48ID:5X5PMP8N
漢初 燕亡人衛満王朝鮮時 沃沮皆屬焉
漢武帝元封二年 伐朝鮮殺満孫右渠
分其地為四郡 以沃沮城為玄菟郡 後為
夷?所犯徒郡句麗西北 今所謂玄菟故府
是也
「漢の初期、燕の逃亡者、衛満が朝鮮で王になった時、沃沮はみな朝鮮に属した。漢の武帝の
元封二年、朝鮮を攻撃し、(衛)満の子孫の右渠を殺して、その地を分けて四郡となしたとき、
沃沮城を玄菟郡にした。後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため、郡は高句麗西北に
移った。今、玄菟故府というのがこれ(元玄菟郡)である。」
沃沮還屬樂浪 漢以土地廣遠在 單單大
領之東分置東部都尉 治不耐城別主領東
七縣 時沃沮亦皆為縣
「沃沮は(中国に)戻って、樂浪郡に属した。漢は樂浪の土地が広く遠いため、単単大領の東は
分けて東部都尉を置き、不耐城で統治して、(単単大)領東の七県を別に治めさせた。その時、
沃沮もまた、みな県になったのである。」
この「不耐城」てのはfu soで沃沮(本来はさんずい夫沮)だろうか
色々表記の揺れが重なってこうなったのか
これは沃沮城で本来の玄兎城ではないのか
だとしたら、日本海側の北沃沮の場所にあるんじゃないのか
0186名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 01:05:24.38ID:5X5PMP8N
>後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため
これはユーロウ以外、周辺民族ってあるのだろうか
同族の扶余、高句麗が荒らすか?そうなら名指しされてないだろうか
公孫が「この場所に統治機関を置くのはやめておけ」に言ったのは
ロシアの日本海側ていうおかしな場所だったからではないのか
0187名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 01:25:16.02ID:5X5PMP8N
北沃沮一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗南北皆同 與?yu婁接
?yu婁喜乗船寇鈔 北沃沮畏之 夏月恒在山?深穴中為守備 冬月
氷凍船道不通乃下居村落
「北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。
北沃沮は?婁と接している。?婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れて
いる。夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中にいて守り備えている。冬は船の通り道が氷結し、航海が
不可能になるので、山を下り村落に住む。」
置溝婁(チコウロウ)は買溝婁(マイ・ガウ・ルー)の誤字だとされていて、
これは北沃沮がユーロウに滅ぼされた後、モツキツ→靺鞨(マッハル)になった可能性がある
ツングース習俗の民族が北沃沮の地名を民族名とした
何故か?その地域に居城があったからか?
0188名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 01:27:42.32ID:5X5PMP8N
この溝婁は高句麗語のコル(城)と同語だろうと考える
0189名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/10(月) 22:36:01.66ID:0UbCBoSh
高句麗の遺民が、沿海州側に渤海国を建国したが、
その「渤海」とは、もともとは遼東半島の海域を指すものだ
失地回復を願ってそう名付けたんだろう
「日本」という国号も、似たようないきさつで誕生したんだろう
百済の遺民が故郷の半島を偲んでこの列島を日本と名付けた
0190名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/11(火) 02:57:18.86ID:w+e9dsr/
日本で最大の繁華街の心斎橋はもともと「新羅橋」と呼ばれてた
「百済橋」も「高句麗橋」も存在していた
そして日本で最初の勅願寺は枚方の「百済大寺」
渡来人が植民地にして発展したのが近畿だから当たり前の話
アメリカに「ボストン」や「ポーツマス」といったイギリス由来の地名があるのと同じ理由
0191名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/11(火) 06:52:14.45ID:w+e9dsr/
日本人の正体が公共放送でバラされた歴史的瞬間
篠田謙一「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」
http://i.imgur.com/./hr83JQD.jpg
0192名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/11(火) 21:55:12.62ID:hZXF5tZD
>>189
渤海は満州
0193名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/11(火) 21:56:02.29ID:hZXF5tZD
渤海は漢民族を取り入れ漢語を取り入れ共通語とし、自らも漢人と呼ばれた
アイデンティティも消えてる
0194名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 06:59:14.37ID:XdpEpxw0
ジャポニックの正体は扶余語族であり、縄文語は日本語にほとんど影響を与えておらず
日本人が縄文語というものを意識してしゃべるようになったのは、
漫画の『ゴールデンカムイ』が連載されてから。これがネタでもなんでもないのが悲しいところだ
列島新来のジャポニックにとって、列島先住の縄文語族(プレアイヌ)は征夷すべき異民族にしか過ぎなかった
0195名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 16:38:31.15ID:hpzQrmHA
半島じゃないの理解したか?
沿海州だ
0196名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 16:39:18.78ID:hpzQrmHA
それによれば、沿海州における新石器時代~青銅器時代の各遺跡文化層の堆積順序に
基づき、以下のようにまとめられる。ボイスマン最下層→ボイスマンⅡ・ザレチェⅠ(編目文・櫛
文が施されたもの)→ハンシⅠ・クロウノフカⅠ(縄線文)・亜布力→ボイスマンⅠ(縄線文)→
ザイサノフカⅠ・クロウノフカⅠ(ジグザグ文・雷文、ミガキ整形)の各段階である。また文化編年
は前期がルードナヤ文化・ボイスマン文化と後期のザイサノフカ文化とに分けられる。ハバロフス
ク州の同時期の詳細は不明であるが、文化編年は、アムール編目文土器の存在から前期は
ルードナヤ文化圏に含まれ、後期はヴォスネセノフカ文化(ヴォズネセノフカ上層)とすることがき
る。新石器時代土器の特徴的な体部文様として、前期-編目文・櫛目文、後期-櫛目文
・ジグザグ文・渦巻文・幾何学文・雷文が挙げられ、これらはアムール流域・沿海州ともにおお
むね一致することが指摘された。
青銅器(古鉄器)時代については、南西部と東海岸部の間の文化的差異が指摘され、南西
部-シニ・ガイ文化、東海岸部-リドフカー文化が紹介された。両者とも、土器には無文化の
傾向が見られ、青銅器を模倣したと考えられる石製品が出土するが、前者では骨角製品が多
く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。また後者では、土偶・石鍬・石包丁が出土し
、土器胎土に粉砕された貝片が混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が
指摘されているという。初期鉄器時代にもこうした南西部と東海岸部の文化的差異が受け継
がれ、南西部のヤンコフスキー文化→クロウノフカ文化(団結文化)、東海岸部のウリル文化に
ついてもあわせて紹介された。ヤンコフスキー文化の土器には高坏が見られ、体部文様には鋸
歯文が多く、クロウノフカ文化では把手のついた土器が特徴的に見られる。両者とも鉄製品を
伴うが、石器も依然残存することから、金石併用時代として性格規定できることが指摘された
なお、その後の鉄器時代・中世にはいずれの地域もポリツェ、靺鞨、女真の各文化へと順に移行している。
後期新石器から初期鉄器時代への移行期に見られる外部からの文化要素の受容としては、
特に青銅器(古鉄器)時代と初期鉄器時代に稲作文化的要素の受容が考えられている。一
方福田氏は、土器に関してはその形態的特徴から在地のものが系統的な変遷をたどって変化
した可能性を指摘する。また極東地域、中国東北部、朝鮮半島北部地域の間に文化的境
界は見られず、これらの地域を統合した視野に基づく研究の必要性を強調している。また南西
部と東海岸部の地域差については、特に東海岸部の状況に不明な点が多く、今後の研究の
重要な課題であることが指摘された。
0197名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 16:43:21.79ID:hpzQrmHA
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=66
>前者(沃沮、扶余系)では骨角製品が多く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。
>また後者(ツングース、靺鞨)では、土偶・石鍬・石包丁が出土し、 土器胎土に粉砕された貝片 が
>混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が指摘されているという
骨角は牧畜を行っていた沃沮、土器の刻みは日本へ伝わり初期の弥生土器へ
土器に粉砕した貝殻が使われているのは、粛慎などの「東は大海をもって極まる」に一致
粛慎=ユーロウ=靺鞨(女真族)の東の果ては海だった
>クロウノフカ文化では把手のついた土器が特徴的に見られる。
北沃沮は海が凍結しない夏に粛慎から侵攻を受けていた
土器に保存した食物、内陸へ売るための海産物を移動させる必要がある
>また極東地域、中国東北部、朝鮮半島北部地域の間に文化的境
>界は見られず、これらの地域を統合した視野に基づく研究の必要性を強調している。
扶余、高句麗、沃沮は同系民族であって、文化的境界がない、というのも一致
0198名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 16:50:34.42ID:hpzQrmHA
高句麗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
>407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った[38]。
>このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。
沃沮には城があり、沃沮(フソ)城として知られていたが、漢民族に支配され第一玄兎城として利用される
(蒼海郡{日本海に面した場所か}→フソ城→玄兎郡)
しかしそれも数年に過ぎず、公孫氏が「この場所は適さない」と助言し、すぐに高句麗近くへ移動(第二玄兎城)
北沃沮はマイコウロウとも呼ばれ、その「溝婁」は高句麗語で「城」の意味
北沃沮は扶余に頼り、その後「東扶余」として残ったが高句麗がその場所にある「居城」を攻め落として滅亡
つまり沃沮城はウラジオストクあたり、もしくはその北の山を背にした日本海側にある!
0199名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 17:01:35.04ID:hpzQrmHA
https://i.imgur.com/d7kAfZS.jpeg
史書のいち関係を見直さなければいけない
古代中国は思われているよりずっと広範囲の情報を得ていた
0200名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 17:06:52.02ID:hpzQrmHA
しかしこの表記のぶれが気になる
扶余はもともと夫途(fu tho)に近い音だったんじゃないのか
故に東沃沮(fu so)なんてものが生まれて
その南に南沃沮があって、そっから北沃沮?
0201名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 19:39:21.93ID:hpzQrmHA
民族の他称はその民族の「人」を表すことばか一人称になりやすいらしい
(アイヌやらフン族)
穢(我=わい?)
扶余(フト?)沃沮(フソ)
人、、、、ふと、、、、死人(しぶと)?
0202名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 20:45:01.20ID:XdpEpxw0
最新の研究でわかってきたのは
ジャポニックを系統別に分けると、おおまか4つに分かれるってこと
・関東語 (無機質日本語)
・畿内・関西弁 ←百済人の方言
・出雲語・東北日本語 (ズーズー弁) ←新羅人の方言
・西北・南九州プレ琉球弥生語 ←隼人・肥前国土蜘蛛の方言
0203名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/12(水) 22:57:41.06ID:XdpEpxw0
Evenkはツングース語族では北部型に属す集団(fig. 2a)で、トランスバイカルと極東の2種類に大別され
トランスバイカルのほうは平均的な日本人・朝鮮人とは遺伝的にかけ離れている
極東Evenkのほうも特に近いというわけではない
PCA(fig. 4)で見ると、一口にツングース語族といっても遺伝的に幅があり、それに応じて顔つきや骨格などもバラつきがあると予想される
EvenkとEvenは西ユーラシア人にシフトしており、qpAdm方式の推定により西ユーラシアの系統を14~35%ほど有していることがわかる
言語学の研究ではアムール川流域がプロト・ツングース語族の原郷であると考えられているが
さらに考古学的な証拠を突き詰めると、沿海州南部のハンカ湖(Lake Khanka)周辺がより具体的な場所であることがわかった
東アジアの集団では、朝鮮の遺伝子プールが最もコンパクトかつ綺麗にまとまっており、
ネトウヨなどが理想とする「単一民族」は朝鮮民族が最も近いことになる
Figure 2. Diversity hotspot of the Tungusic languages under the north-south classification in (a) as compared with the hotspot under the Manchu-Tungusic classification in (b).
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig2.png
Figure 4. Principal component analysis projecting ancient Devil's Gate, Ustlda and Jomon samples onto the variation of present-day East Eurasians.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200421175645641-0667:S2513843X20000080:S2513843X20000080_fig4.png
The homeland of Proto-Tungusic inferred from contemporary words and ancient genomes
doi: https://doi.org/10.1017/ehs.2020.8
0204名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 03:21:59.03ID:cCqQS9+q
「国号の由来」 喜田貞吉 1937年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html
されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。
朝鮮そのものも、また、実は****から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一??、東征二日域」とあるのも、西方には西域月氏の地を服し、東方には朝鮮日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。
叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には****がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。
****を日没処と呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。
0205名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 06:29:47.46ID:cCqQS9+q
The classification of the Japonic languages (Elisabeth M. de Boer)
[2020, The Oxford Guide to the Transeurasian Languages]
Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type
https://image.prntscr.com/image/0dgg1B_hT7uRbCaiCEqE1Q.png
0206名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 14:46:09.95ID:cCqQS9+q
喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった」
0207名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 22:10:04.78ID:iKzKJlZW
>>203
ハンカ湖とか、そんな下なわけないだろう
元々ネネツなんかと同じ生活スタイルをしてたんだよ
だから小便をためてそれで手や顔を洗うんだって
極寒の地域にいた民族
0208名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 22:22:36.91ID:iKzKJlZW
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-b36a779e0fedb93c833540f50b98bf6a
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-e720ef0e8dc635232fa2aee77e8d7db4
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-4063bc78dfbb1312f567b23842dd3dcf
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-b42f324395e9637169092a2daf7dc4db
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-bc2e288fd911eb8fc6a57437b8452d06
https://imgur.com/IRWApVf
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-d39982f0ca5cbe26cc106692ee06bd9b
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-75faf8a063f8d08dd218d478f0096a84
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-fc0da2fa82b34a97d7c1f5e94e401a6f
https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-301183caa4346d89d5b1210b28d09323
韓国は南にいくほどC2(ツングース系)が多い?
本来の原住民はツングースだったのでは
0209名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 22:38:56.97ID:cCqQS9+q
>>207
ネネツなんてツングース語族と何の関係もない
言語学では分岐が激しい地点が、その語族の故地だと考えられている
台湾がオーストロネシア語族の故地だと考えられてるのは、島内だけで20以上もの言語に分岐しているため
アウト・オブ・台湾モデルと呼ばれ、そこからオーストロネシア語族が太平洋諸島に拡大していった
このモデルをツングース語族に当てはめたところ、沿海州のアムール川で激しく分岐しており、
さらに考古学的証拠を突き詰めたところ、ハンカ湖が具体的なツングース語族の故地だと結論が下されたわけだ
0210名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 22:47:35.97ID:iKzKJlZW
そら粛慎みたいな辺境から始まって(その時から山で居住するグループもあった)
靺鞨女真を経て広がった結果だ
それは語族とは言えないだろう
生活スタイルが北方
0211名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/13(木) 23:03:21.43ID:cCqQS9+q
>>210
言語族の拡大は農耕と密接に関係しているんだよ
これは日本も例外ではなく、やはり真っ先に水稲を取り入れた北九州弥生人が最も遺伝的に繁栄している
沿海州のハンカ湖は比較的温暖で、新石器時代の農業の北端に近い領域であったため
この地域に居住していたツングース語族が最も繁栄したわけだ
ニヴフなどの古アムール語族は、農耕化の波に出遅れたため、勢力を伸ばせず消滅していった
といっても、いまではツングース語族もロシアの同化政策により消滅の危機にあるのだが
0212名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 00:39:31.38ID:izdkxbZJ
ロシアは同化政策なんかしないだろ
同化政策やるのはアイヌでやってる日本みたいな民族
0213名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 00:44:13.73ID:izdkxbZJ
>>211
農耕化なんてしてないだろ
ツングース、粛慎は周の時代に中国へ朝貢を行ったが
その後沃沮、ワイ族が対等してきてそれが途絶え、
また中国がそれらを攻撃して服属させてから朝貢した
つまり、ハバロフスクには元々ツングースが住んでいたかもしれないが
それがO1b集団(農耕民)に押し出されて、東の果て、海のある場所にまでおしやられた
それが中国の支配下に入って、また史書に名前が出るようになった
0214名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 00:47:53.64ID:izdkxbZJ
>>197
>また後者(ツングース、靺鞨)では、土偶・石鍬・石包丁が出土し、 土器胎土に粉砕された貝片 が
>混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が指摘されているという
ロシアの考古学ではハバロフスクの東の果てでは文化が違い、土器に貝殻の破片を混ぜて作る製法が行われていた
貝殻を入れるには海が必要
つまり東の果ての大海を望む粛慎がそれに一致する
ハバロフスクの東南の部分と思うかもしれないが
粛慎と同じく「北沃沮」も東は大海に極まると書かれていて、この2つは両立しないといけない
0215名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 02:22:14.25ID:7gOx81k7
>>213
おまえの脳内で自己完結した妄想史を語られてもな
現実には、1900BC頃となるBogolyubovka遺跡で雑穀栽培と農耕具が確認されているから
この頃にはすでにハンカ湖周辺のツングース語族は農耕化している
どうやら沿海州でZaisanovka文化が成立する頃に、
遼西から雑穀・紡錘車などの一連の農耕民族パッケージが伝播したようだ
https://image.prntscr.com/image/34O6xrX5R-irDorV8-5RbA.png
0216名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 02:27:56.98ID:7gOx81k7
>>212
ツングースはロシア人と混ざって半白人化してる
というかシベリア一帯そうだが
0217名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 21:14:31.08ID:izdkxbZJ
>>216
それは元からだろ
で日本以上に民族浄化してるのか?
0218名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 21:16:52.28ID:izdkxbZJ
>>215
じゃあなんで日本にツングースの痕跡、YDNAがほとんどないんだ?
取るに足らない人口しかなかった証明だろ
0219名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 23:48:19.97ID:7gOx81k7
ロシア極東における農耕の最古の証拠は、後期新石器時代となるKrounovka遺跡から発見された。
沿海州における農耕の開始時期は、当初は青銅器時代と思われていたが、のちに後期新石器時代に再設定された。
韓国でも同時期に農耕が始まっており、後期新石器時代に満州から人類の移動があったと推定される。
Fig. 1. The earliest sites with evidence of agriculture in Primorye Province:
https://image.prntscr.com/image/aeAq_A7PS_Wkt_k1Y2OLHQ.png
0220名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 23:59:08.68ID:7gOx81k7
C2のオリジナルの狩猟採集民の言語は、ニヴフの古アムール語であった可能性がある
ハンカ湖のあたりで勢力拡大したツングース語族が、古アムール語を取り込み、言語を塗り替えていった
このツングース言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎した
-
16:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:49:36
-
0220名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/14(金) 23:59:08.68ID:7gOx81k7
C2のオリジナルの狩猟採集民の言語は、ニヴフの古アムール語であった可能性がある
ハンカ湖のあたりで勢力拡大したツングース語族が、古アムール語を取り込み、言語を塗り替えていった
このツングース言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎したものなのかは定かではない
0221名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/15(土) 00:20:05.51ID:CgSN8EO1
O1bが扶余語族として日本語になったと考えた場合
そこにツングースの影響は皆無になる
日本には韓国ほどにもC2は存在しない
0222名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/15(土) 04:53:45.43ID:M6ozf8H/
土井ヶ浜遺跡の砂丘から300体人骨が発掘されているが、全て響灘に顔を向けて眠っている。
頭蓋だけが集骨されている区域でもこの原則は破られていない。
土井ヶ浜人骨(人類学ミュージアム)
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/doigahama_jinnkotu.jpg
土井ヶ浜人の視線の向こうには水田稲作伝播の最有力ルート、南朝鮮から山東半島がある。
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_05/doigahamajin_seihokunokokyou.jpg
0223名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/15(土) 06:05:32.40ID:M6ozf8H/
出雲弁の文末語にはハングルの文末語にそっくりなものが多い。
「いつ来たかや→~コヤ」 「行くけんね→~ケンネ」 「蝶がとんじょう→~ジョ」 「当然だじ→~ジ」
「おいしいがな→~グナ」 「忙しいがや→~ゴヤ」 「金がないじょ→~ジヨ」 「暇がないだ→~ダ」
「さっき来たに→~トニ」 「結婚しただに→~ダニ」 「信じちょう→~チョ」 「若いすぎるけん→~クン」
「病気になあよ→~ナヨ」 「晴れてるけんよ→~クンヨ」
出雲弁は発音もハングルに似ている。
図書館<トソクァン> → トソクァン 医大<ウィダエ> → ウィダエ 勤務<クィンム> → クィンム
過去<クァコ> → クァコ 関係<クァンケェ> → クァンケ 大家<タェクァ> → タェカ
計算<ケェサン> → ケサン 宿舎<スクサ> → スクサ 近視<クィンシ> → クンシ
修理<スゥリ> → スリ 焼却<ソゥカク> → ソカク 感謝<カンサ> → カムサ
台数<ダエスゥ> → ダエス 内科<ナエクァ> → ナエクァ 謝礼<サレェ> → サレ
朝鮮では標準語として使われているものが、出雲では方言であるというのは不思議である。
いわゆる「ずうずう弁」なるものが、出雲・日本海沿岸に存在するということは、対岸の朝鮮から伝播したと考えられる。
岩見弁では「行くけえ」「あげるけえ」「がんばるけえ」などと語末に「~けえ」をつけるが、これは朝鮮人が「~ケエ」と言うのに似ている。
山口・広島では「止めようじゃ」「雨が降るじゃ」「すぐ直るじゃ」のように文末に「~じゃ」をつけるが、朝鮮語でも「~ジャ」と言う。
これらの言葉が、朝鮮語では標準語で使われているのは何故であろうか。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/15(土) 13:25:40.63ID:IsT0/Nnl
>>223
出雲のズーズー弁は松本清張の小説に出てたね
0225名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/15(土) 23:41:03.02ID:CgSN8EO1
>>223
ツングース由来はないのか?
0226名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/16(日) 18:10:23.10ID:k5X+auRh
小学生でもわかる『ヤマト民族』の形成史 かんたん解説
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/c5.jpg
半島南部から北九州弥生人(扶余系・朝鮮人)、土井ヶ浜弥生人(韓系・朝鮮人)が侵入
西北・南九州弥生人(プレ琉球人)を奄美・沖縄に押しやり、倭国大乱(北九州王朝と出雲王朝の争い)を経てヤマト民族が誕生
さらに東征し、東日本の蝦夷(プレアイヌ)をジェノサイドし、百済の王朝を奈良(那羅)にコピペして完成
0227名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/17(月) 02:05:50.02ID:B8F+xl3V
BC10世紀に扶余系がどうやってきたかを考える必要がある
沿海州ならつじつまがあうんだよ
0228名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/17(月) 10:26:29.43ID:YEs8llP/
水野祐氏は、『豊後国風土記』や『肥前国風土記』にみられる土蜘妹は九州の海岸一帯に生活の基盤を持っていた海人集団、つまり漁撈民集団だったと説いている。さらに、土蜘蛛伝承の本体は九州にあり、それがある時期に大和へ伝播して潤色された結果、異族視されるような物語へと発展したと考えている。すなわち、土蜘蛛とは九州地方の漁撈民に与えられた名であるが、その名が大和へ伝わり、非実在的な反逆者として扱われるようになったと結論づけているのである。
0229名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/17(月) 20:11:12.97ID:B8F+xl3V
海女、潜水漁法やるために入れ墨入れてたと言われてるのに
なんで山に住んでる集団が海の集団になるんだ
0230名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/18(火) 03:02:45.62ID:HhWHOhY9
核ゲノム解析により、アイヌは日本列島の先住民で確定したが、琉球民族はどうも事情が異なる
琉球民族は、おおよそ朝鮮人70%・縄文人30%のADMIXTURE系統比でモデル化され、その原郷は西北・南九州にあるとおもわれる
北九州・半島南部で新たに誕生したヤマト民族(朝鮮人90%・縄文人10%の系統比)に勢力で押される形で
奄美・沖縄へと南下し、農耕・水稲パッケージを取り入れ、グスク時代にいまの琉球民族のベースが形成されたとおもわれる
隼人はプレ琉球人の可能性があり、720年に南九州で「隼人の反乱」が起こっているが、琉球民族の形成と何か関係があるかもしれない
同時期に編纂された「肥前国風土記」によると、土蜘蛛の容貌は隼人に似るとあり、これらの九州の風土記もプレ琉球人の実態を知るための手がかりとなる
0231名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/18(火) 05:18:00.62ID:WEQ4KDBu
【ウーマン村本】「原発処理水に関して科学を信じろという人はDNA検査をして自分が何人か調べてもらい、それを名札に貼って街を歩こう」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1621265835/
「原発の処理水に対して科学を信じろ、という人たちは、科学が正しいなら、DNA検査をして自分が本当はなに人か調べて貰えばいい。韓国朝鮮かも。みんなで一度、その科学を信じて自分がなに人なのか調べよう。そしてそれを名札で貼って街を歩こう」
0232名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/18(火) 13:40:41.89ID:HhWHOhY9
Japono-Koreanic祖語からは海に関する語彙が再構成でき、Robbeets (2017b) は、Japono-Koreanic祖語が渤海沿岸や遼東半島で話されていたと提唱した。
pJK *p?n? ‘boat’
pJK *poko ‘swellfish,Takifugu chinensis’
pJK *keni ‘crab Portunus trituberculatus’
ツングース祖語では、このような海に関する語彙の復元は不可能である。さらに、プロト・ツングースは、「(海からの)暖かい風」や「クジラ」などの海に関する語彙を、ニヴフ言語の祖先から借りていた。このことから、ツングースは西遼河から沿海州の沿岸部に到達し、そこで祖型のニヴフ語を話す先住民と接触し、海に関する語彙に親しむようになったと考えられる。
人類集団が言語・文化を伴って新しい地域に移動した場合、現地民が自分の言語を捨てて、新しく入ってきた目標言語を使うというシフトが頻繁に見られる。放棄された言語が、目標言語に何らかの痕跡を残すことがある。一方、文化拡散の場合は、現地民は自分の言語を維持しつつ、モデル言語から特定の単語を借用することが多い。
プロト・ニヴフを沿海州の沿岸部集団と関連付け、プロト・ツングースを3500 BCEに中国東北部から雑穀を持ち込んだ農耕集団と関連付けた。海に関する借用語を除いて、プロト・ツングースがプロト・ニブフから借用した単語はほとんどない。それとは対照的に、プロト・ニヴフ基層言語がプロト・ツングースに干渉していることを示す証拠がいくつかある。これらの観察は、プロト・ニヴフの集団の一部が自分たちの言語を捨てて、プロト・ツングース語を採用したという言語転換を示唆している。したがって、言語学の知見からは、文化拡散よりも人類の移動が支持される。
考古学的な証拠は、紀元前4千年紀の半ば頃に、中国東北部から沿海州に雑穀栽培が伝わったことを示している。この伝播は、同時代の東アジアにおける農業の広範な拡大の一部と考えられる。言語学的な証拠は考古学的な記録と一致しており、ツングース祖語を話す雑穀農耕民が西遼河から内陸ルートで沿海州に到達したことを示唆している。
沿海州の狩猟採集民と農耕民の間に観察された遺伝的連続性は、2つの類似した遺伝的プロファイルの混血を排除するものではなく、5000 BCE以前に遼河から沿海州にかけての地域一帯を、アムール的な遺伝子プールが覆っていたという Ning (2018a,2018b) の結論と一致する。
Fig.7.Language dispersals associated with millet farming in Neolithic Northeast Asia. Map by M. O’Reilly, MPI-SHH
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2352226719300534-gr7_lrg.jpg
Millet agriculture dispersed from Northeast China to the Russian Far East: Integrating archaeology, genetics, and linguistics
doi: https://doi.org/10.1016/j.ara.2020.100177
0233名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/18(火) 23:39:43.79ID:0bm1NeT6
むしろその農業を伝えたのがO1bで
ツングースは殷王朝の時代に中原と関係が途絶えた
それが周の時代に周が東夷を支配するようになると粛慎が歴史に現れるようになる
BC1500年前あたり~・・O1bが沿海州を侵略、ツングースをレイプ
BC1000あたり・・・・・・山東半島、半島などに稲作、日本にも稲作、東夷を周が支配し礼儀を伝える、粛慎と関係が回復
だから最終的に女真族にほろぼされるのは因果応報だったのかも
0234名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/19(水) 00:01:47.06ID:8f+eqDry
Yhap C2の狩猟採集民の言語は、Tungusicではなく、Amuric(ニヴフ語)であった可能性がある
一般的にツングース語族やモンゴル語族というとC2のイメージがあるが、
彼らの言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎したものなのかは定かではない
3500 BC頃、ツングース語族が西遼河から沿海州に移動して雑穀農耕を持ち込み、
ハンカ湖を拠点にして人口を増大させ、Zaisanovka文化複合体が出現する
アムール川の集団を取り込んで在来の言語を塗り替えていったため、最終的にニヴフ語が孤立化した
つまりツングース語族は日本語・朝鮮語族と祖を共有する農耕集団であった
0235名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/19(水) 00:58:27.46ID:fso3S4J1
ないない
孤立言語を無理やりあわせないように
0236名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/19(水) 00:59:40.55ID:fso3S4J1
ツングースが渡来してるなら
日本にハプロC2がもっといるはずだろ?
全くいない、そしてツングース語もまったく痕跡がない
いきなり突然あらわれたO1bが、そのまま沿海州から海渡ってきて、そんで亀ヶ岡が渡来第一波
0237名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/19(水) 01:02:31.45ID:8f+eqDry
>>235
>>236
北東アジアにおける農耕の源流は南満州(初期・新石器時代)にあり、
c.7500-6500 BP (c.6200-5100calBC) 頃からすでに雑穀が栽培されていた。
沿海州では、雑穀栽培の登場は、Zaisanovka文化複合体の文脈において、
後期・新石器時代のc.4700-4600 BP (c.3600-3400calBC) に位置づけられる。
韓国でも同時期に農耕が始まっており、南満州から人類の移動があったと推定される。
先史時代の沿海州の発展は、ローカル・プロセスと北東アジアの近隣地域からの影響が組み合わさったものであった。
Fig. 1. The earliest sites with evidence of agriculture in Primorye Province:
https://image.prntscr.com/image/aeAq_A7PS_Wkt_k1Y2OLHQ.png
The beginnings of prehistoric agriculture in the Russian Far East: Current evidence and concepts
doi: https://doi.org/10.4312/dp.40.1
0238名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/19(水) 13:29:05.43ID:Ei+xYCkD
>>226
西北・南九州弥生人の遺伝子は今の長崎や鹿児島にも残ってる。
決して沖縄に追い出されたわけではないし、五島列島人も西北九州弥生人の特徴が強い。
長崎弁や鹿児島弁の二型アクセントは西北・南九州弥生人の名残と言われる。
0239名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/19(水) 15:23:37.56ID:Qs8i+U8n
>>236
C2相当数いると思うが
なんでも韓国人と比較するから少なく思うんじゃね
0240名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/20(木) 00:59:55.88ID:TM/zTuDY
>>239
https://blog.goo.ne.jp/japanorigen/e/913a14fc04a493f6814ad824e763aa0a
沖縄とかになるとほとんどいなくなる
C1aはいる
0241名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/20(木) 14:24:29.52ID:/xmgizkM
そりゃ本土がツングースってことだろ
https://i.imgur.com/KdAdexy.png
沖縄にも悪魔の門洞窟と同じL1373までいるがな
0242名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/20(木) 18:49:57.73ID:G39lX6Sb
小保方「STAP細胞はありまーす」
ジャップ「神武天皇は実在しまーす」
なにが違うのこれ?
0243名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/20(木) 21:57:19.21ID:TM/zTuDY
>>241
そら琉球を日本にしてから渡った日本人も当然いるだろ
それにしてもC1aの率が高すぎないか?
一番高いのが四国の山奥なのが関係してるのか
0244名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/21(金) 06:38:05.66ID:SZo+8JiA
>>243
意味不明
沖縄C2は近年の移住だって言いたいの?
小橋川っていう沖縄由来の日系人からC2出てるけど
0245名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/21(金) 22:44:30.50ID:0NHyr8Nf
沖縄は島ごとのYDNA調査ないのか
それの比較できればすぐわかりそうだが
変な作為入れる人間がいるかな
ここのムムンみたいなのが調査すると自分に有利になるように捏造する
そういうタイプ
0246名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/22(土) 04:05:44.68ID:NmFrXq2Y
>>245
沖縄人は、西北・南九州弥生人(隼人・肥前国土蜘蛛)の末裔で、学術的に決着しつつある
>琉球民族のゲノムは華南・マレー系などの影響はほとんどなく、日本人ゲノムクラスターの延長にきます。
>平均的な琉球人の持っている全ゲノムのうち、縄文人由来の割合が25~30%程度であるという。
>全ゲノム研究によると、本土日本人の影響を強く受けており、華南とはかなり遠いと判明した。
>さらに言うと、華北の影響を受けているが、これは本土から南下した弥生人がもたらしたものである。
>沖縄には国内最古級の旧石器時代の遺構は多数あるものの、縄文時代の遺跡が殆どなく、空白の時代であるため、
>比較的新しい時代に本土から縄文系の集団(特に西北九州や南九州弥生人)が南下してきて、
>縄文人由来の遺伝子が陸封され、現在の琉球民族を形成したと考えられる。
>喜界島城久遺跡などの考古学的知見や琉球祖語の拡散年代を鑑みるに、
>琉球民族の祖先は九州から南下してきた縄文遺伝子の強い人々(琉球弥生人)でほぼ間違い無いです。
>彼らは平安時代前期(9世紀ごろ)に九州辺境にいた農民や武士であり、
>華南や台湾先住民との遺伝的関係はほとんどないと思われます。
>西北九州弥生人は水稲を行わず、海上交易と沿岸漁労のみの生活を行なっていたので、
>南西諸島には稲作は伝えられず、結果として南西諸島への水稲到達は本土のおよそ10世紀以上も後になります。
>(日本の中では水稲を行う気候条件に最も恵まれているにも関わらず)
>琉球弥生人は、この西北九州弥生人が定住したものの末裔であると考えられます。
>日本本土では古墳時代半ばごろに突如として南海産貝輪の流通がストップするので、
>この時期に西北九州弥生人が南西諸島に定住し始めたのだと思われます。
>琉球祖語は、日琉祖語から奈良時代以前に分岐したとの説が有力である。
>トマ・ペラールは、琉球祖語の保存された音素から弥生時代末期から古墳時代に分岐したのではないかとしている。
>九州に9~11世紀まで在地しながら日本語と接触し強い影響を受けた後、
>琉球列島へグスク文化の一要素として移民によって伝播した、としている。
■ 頭骨比較 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜
https://image.prntscr.com/image/xduK22HTRPGSAPoL_V93Bg.png
■ PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ (Jinam et al 2012)
https://livedoor.blogimg.jp/tanokura3/imgs/a/a/aa72d74e.jpg
0247名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/22(土) 04:07:44.77ID:NmFrXq2Y
このお話をすると長くなるのですが、琉球というのは基本的にはグスクの時代に大量に人口が増えますので、恐らくそのときの影響が一番今の琉球の人たちにとって大きいと思われます。
つまり、日本列島というのは、いつ農耕を受容するかで、集団の姿形、形態が決まってくると考えておりまして、そのような意味では、最後まで農耕を基本的には受容しなかった北海道とは歴史が違っているのではないか、と考えます。
0248名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/22(土) 14:39:19.89ID:hIZi8AJx
アイヌって白人なの?
0249名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 01:03:57.56ID:xTzYfMi2
>>246
10世紀の第一波が琉球人を作ったが
それは本丸というより土台
その後で倭人の支配うけて入れ替わったんだから
島ごとのDNA列挙するほうがわかりやすい
0250名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 01:58:39.32ID:r5oLqN6w
>>245
C2なら在日とか考えてる人間じゃないだろうな
0251名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 07:37:39.26ID:rgfXQejq
>>249
倭人(北九州・土井ヶ浜型)の支配を受けて、入れ替わったのは南九州まで
沖縄は西北九州型がグスク時代にベースを形成してから今日まで大きな遺伝的変化はないと思われる
言語学者が提唱している「農耕/言語 同時拡散仮説(Farming/Language Dispersal Hypothesis)」は妥当なものと思われる
農耕を最初に取り入れたグループによって、その集団の遺伝子プールは決まり、このモデルはとくに日本と沖縄に当てはまる
日本で最初に農耕化(水稲・雑穀)したのが北九州型で、沖縄で最初に農耕化したのが西北九州型であったんだろう
0252名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 07:40:59.24ID:rgfXQejq
奄美は、先月公開された論文だと、「本土日本人と沖縄人の中間ポジションに来る」と報告されている
>We found that the Amami islanders showed genetically intermediate position between mainland Japan and Okinawa in mtDNA and Y-STR.
Genetic lineage of the Amami islanders inferred from classical genetic markers
doi: https://doi.org/10.1101/2021.04.18.440379
Posted April 19, 2021.
0253名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 19:22:44.87ID:xTzYfMi2
>>251
本島とその他で全然顔立ち違うと言われるのに
琉球侵攻のが影響大きいだろ
0254名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/26(水) 08:43:35.13ID:oFukeo/T
A Brief Introduction to Hypothetical Peninsular (Para-)Japonic Languages
https://www.youtube.com/watch?v=OWpfp1yq9-0
0255名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/26(水) 10:13:20.24ID:oFukeo/T
Spread of agriculture (rice and millet)
https://image.prntscr.com/image/Kr0ucUH-SjKYi6tX0gQf3Q.jpg
0256名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/26(水) 12:01:54.32ID:oFukeo/T
北東アジアにおける農耕(雑穀)の起源は遼西(紅山文化)にあり、およそ3500BCに沿海州のハンカ湖、北朝鮮へと同時期に拡散する
農耕を受容したツングース語族が、農耕による人口増で、沿海州に在地していたAmuric(ニヴフ語族)を征服し
それら狩猟採取民の原始言語を塗り替え、最終的にニヴフ語だけが孤立化することになる
稲・雑穀の複合栽培の起源は、山東半島にあり、この農業パッケージはやがて遼東・韓国・日本へと拡散する
支石墓(ドルメン)の分布とも密接に関連しており、このものたちは日流祖語か朝鮮祖語を話していた可能性が高い
考古学的に実証された中国最古の王朝(1600BC - 1046BC)の「殷」に山東半島は含まれておらず、
東夷(Dong-yi)と呼ばれた過去がある。ならば、この時代までは山東半島で日流祖語か朝鮮祖語が話されていたのだろう
ドルメン(支石墓)のエリア
http://4.bp.blogspot.com/-cJfnCZ72usU/U5VRy43i3NI/AAAAAAAABHQ/JchKHt5QTH4/s0/Dolmens_in_East_Asia.jpg
Language dispersals associated with millet farming in Neolithic Northeast Asia.
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2352226719300534-gr7_lrg.jpg
0257名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/27(木) 16:08:44.37ID:GKmMVV/3
司馬遼太郎
「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」
「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。王朝文化は百済と同じ。ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。」
「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。」
「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模條したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」
「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」
「卜占という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬からはじまっているのである。対馬の道を往きつつ右のように考えてくると、日本の神道が決して日本列島固有のものではなかったということがわかる。神道というものの原型が、 朝鮮からきたか、 表現を変えれば共通の時期があったと想像することは、 想像という言葉が大げさなほどに自然なことである。」
「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」
「朝鮮は水がなすくない上に、しばしば大きなひでりがあり、そういう年の冬には、「対岸へいこう」という連中が多かったであろう。 日本列島は幸いにも初夏に梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由しない。われわれ日本人の血に朝鮮半島通過の血液がまじるのは、日本の水がそれを呼び、この海域を吹く風がそれを運んできたものにちがいない。」
「日本側にとって朝鮮侵略は国内を疲弊させただけでなんのもたらすところもなかった。ただ室町期からつづいた茶の美術の隆盛期にこの侵寇戦争は起こっている。朝鮮の民衆が用いるめし茶碗や雑器が、海をわたって日本の美意識の中に入りこむと、美学という人類が持った最高の錯覚に照射されて宝石以上のかがやきを持った。」
「鎖国体制下にあって、長崎が唯一の開港場であったことは、世界に知られている。ところが佐須奈もそうであったことは知られておらず、日本史の教科書も黙殺している。対馬宗氏は、李氏朝鮮国に寄生していたといっていい。」
「さらに朝鮮から貿易米で食っている者が七千人。計一万四千人。要するに朝鮮からの貿易米で七千人が食っているのである。何度もいうが、 韓国にとってはこれはあくまで恩恵であって、得になることではなかった。」
「いまの高知市にもその町名が残っているが、城下の鏡川の北岸に唐人町というのがあり、秀吉の朝鮮侵略のときに連れて帰った唐人に屋敷地をあたえて住ませたという。かれらに豆腐の専売権をあたえて他の者にはやらせなかったというから、高知の豆腐はひょっとするとこの系列が相当ながくつづいたかもしれない。」
「自分を日本人と規定するより倭人と規定するほうが、ずっと自分がひろがってゆく感じがする。」
0258名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/27(木) 21:51:17.31ID:jhUpiGFG
百済が日本語とか本気で言ってるのか?
魏志倭人伝は日本語地名ではないと?
0259名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/01(火) 20:03:56.87ID:TKUwYDfF
電話もラジオも無い時代にこの列島を統治するなんて馬賊でないと無理
この列島で馬に乗って駆けずり回ってる奴というのは半島から来た馬賊だ
日本に神社を広めた秦氏は高句麗の騎馬民族だ
そしてその秦氏から天皇が出ているとされる
これで間違いないだろう
だから馬賊の渡来人が来る前には天皇なんて居なかった
仮にいたとすると、その天皇一派は徒歩で何してたん?という話になってくる
毎日50kmくらい歩いて村人に「おいら天皇だ、飯食わせてくれ」と言って支配ができるか
そもそも言葉が通じないぞ
日本各地で言葉を通じさせようと試みたのは江戸時代から
0260名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/01(火) 21:57:41.92ID:hPYpNIok
馬は百済由来かもしれないな
馬(ma)という漢語がそのまま使われてるのを見ても
百済は漢語をそのまま使っていたから
0261名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/02(水) 04:35:54.03ID:jhNkOa3a
後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。
この研究はオンライン版での先行公開となります。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_1.html
0262名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/02(水) 17:36:45.41ID:jhNkOa3a
弥生人は複数の言語集団であった
彼らはおもに3つに分かれる
扶余系(ヤマトタケル)、韓系(イズモタケル)、プレ琉球系(クマソタケル)
0263名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/03(木) 17:14:45.47ID:mHbKSGjs
長州藩の高杉晋作は、奇兵隊に部落・被差別民が入り込んでいるのを知ると、容赦なく殺したらしいな
長州藩(山口県)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Keiheitai.jpg/880px-Keiheitai.jpg
司馬遼太郎
>山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響をもっとも多く受けたものの一つですから、
>それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで受けつづけてきたところですから。
>そういうことがあって、長州的思考法というのは、ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。
0264名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/03(木) 17:15:07.55ID:mHbKSGjs
江戸時代の身分による骨格の違い
https://i.imgur.com/./AKBOdAG.png
https://i.imgur.com/./hxrkUVE.jpg
https://i.imgur.com/./NXRvqCg.jpg
0265名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/04(金) 18:18:16.18ID:Uj5vJmB8
蘇我蝦夷(ソガノエミシ)はもともと蘇我愛瀰詩であったんだろう
蔑称である蝦夷をそのまま名前に使っていたとは考えづらい
蘇我蝦夷が生まれたのが586年、「蝦夷」がはじめて歴史書(新唐書)に登場するのが663年
この間に「愛瀰詩」から「蝦夷」に変わったと推測できる
0266名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/04(金) 23:10:55.95ID:DoymIt9q
もともと蘇我毛人
0267名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/05(土) 01:15:03.24ID:KsrXVc4W
初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散に関する研究(Vallini et al., 2021)が公表されました。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_4.html
0268名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/05(土) 21:34:12.13ID:KsrXVc4W
弥生時代の日本語で会話 [from Pre-Proto-Japonic to Modern Japanese]
https://www.youtube.com/watch?v=lrBuftKQQQY
0269名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 10:58:16.48ID:seOlS6Np
文書行政の輸入や中国の政治制度の輸入は、果たして中国直輸入だったのかということを考えると、たぶんそうではないだろうと思われます。私が特に強調してお話したいのは、常に中国大陸と日本列島との間に朝鮮半島が介在していて、それが非常に重要であるということです。なにしろ、朝鮮半島と日本列島は一衣帯水です。そういう状況を考えると、朝鮮半島との交流が継続的な本流としてあり、常に影響があっただろうと思われます。
例えば、日本の8世紀の資料である『古事記』や『日本書紀』には、「応神天皇の時代(5世紀)に百済から王仁(わに)という人が『論語』と『千字文』を持参した」と書かれています。これが日本での漢字の始まりという説話になっているわけです。あるいは朝鮮半島では、12世紀の『三国史記』、13世紀の『三国遺事』という歴史の本がありますが、その『三国史記』には、「428年に百済が倭の国に対して50人の使いを派遣した」という記事が出てきます。このような記事からも、日本と朝鮮半島は常に交流があることが分かり、朝鮮半島の影響は濃いと思われます。
0270名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 11:18:07.56ID:seOlS6Np
中国語は動詞や形容詞が活用しません。朝鮮半島の言語の活用語尾が漢字では書けないので、それをどう書くかというために作られたのが、「吏読(りとう)」です。この方法は、漢字の音読みを使って朝鮮半島の言語の発音を書くというやり方で、名前が「官吏」の「読」と書いてあるように、役人たちが文書行政で行った用字法の1つです。『三国史記』や『三国遺事』には、新羅の時代に、この方法で固有名詞を書いた記録がたくさん載っています。これが日本に伝えられて万葉仮名のお手本になり、そしてさらには仮名になっていきます。
さらに、朝鮮半島では漢字の訓読みも行われていました。しかし、朝鮮半島では後々無くなっていきます。高麗時代にハングルが発明されますが、そのあたりを境目にして、朝鮮半島の言語はハングルで書き、漢字で書く言葉は全部音読みをして、漢語としてしか使わないように朝鮮半島ではなっていくのです。一方日本では、漢字を音で読むだけではなくて、訓でも読み、そして自分の国の単語に当てはめて読むという読み方を朝鮮半島から学び、それが定着するのです。
0271名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:32:16.81ID:KZa/EFWW
ここから「魏志倭人伝」を読んでいきます
テキストは百衲本です
原文と読み下し文、その後に疑問点を述べます
・倭人在帶方東南大海之中 依山?為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
・倭人は帯方東南、大海の中に在り 山島に依り国邑を為す 旧百余国 漢の時、朝見する者有り 今、使訳通ずる所は三十国
疑問① 帯方郡はどこにあったか 帯方郡は204年から313年の109年間、
中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点ですが
その比定地は諸説あります 帯方郡を邪馬台国への行程の起点と考えれば
このことは重要です
疑問② 「漢時有朝見者」これは西暦107年に後漢に朝貢した帥升のことか
疑問③ 倭人はもと100余の国に分かれていたのが、今使訳通ずるところが30国であるのはなぜか
疑問④ 「今使譯所通三十國」の「今」とはいつのことか
0272名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:32:56.28ID:KZa/EFWW
第2節にいきます
・從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
・郡より倭に至るは 海岸に循いて水行し 韓国を歴て 乍南乍東 その北岸狗邪韓国に到る 七千余里
疑問① 「循海岸水行」の水行とはどういう意味か、渡海とどう違うのか
疑問② 韓国とはどこのことか 魏志韓伝には「韓は帯方の南にあり」とあるので
朝鮮半島の帯方郡以南をまとめて韓国と呼んでいたのか
疑問③ 「到其北岸狗邪韓國」で狗邪韓國はどこか 金官伽耶(現大韓民国 慶尚南道 金海市)周辺のことか
疑問④ 「到其北岸」で「その北岸」とはどこの北岸なのか
疑問⑤ 「七千余里」で一里は現在の単位で何mか
0273名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:33:33.33ID:KZa/EFWW
第3節にいきます 文字化けはご容赦ください
・始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶?
方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
・始めて一海を度る 千余里 対海国に至る その大官は卑狗と曰い
副は卑奴母離と曰う 居する所絶島、方四百余里ばかり
土地は山険しく深林多し 道路は禽鹿の径の如し
千余戸有り 良田無く、海物を食し自活す 船に乗り南北に市糴す
疑問① 「對海國」は對馬國の誤記なのか (魏略逸文では對馬國)
疑問② 「其大官」とあるが、これは邪馬台国から任命された官なのか
それとも現地の王のことか
疑問③ 「卑狗」は「比古(彦)」、「卑奴母離」は「夷守」という説があるがどうか
疑問④ 「方可四百餘里」は島を正方形に見立てた一辺のことか
疑問⑤ この里程は目視による概算なのか、それとも実測したものか
疑問⑥ 「乗船南北市糴」とは、倭と韓の両方に通商していたということか
0274名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:33:55.39ID:KZa/EFWW
第4節にいきます
・又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
・また南 一海を渡る 千余里 名は瀚海と曰う 一大国に至る
官はまた卑狗と曰い 副は卑奴母離と曰う 方三百里ばかり
竹木叢林多し 三千ばかりの家有り やや田地有り 田を耕すも
なお食するに足らず また南北に市糴す
疑問① 「一大國」は「一支國」の誤記か (魏略逸文では一支國)
疑問② 「千餘里」の部分で海上の里程はどうやって測ったのか 所要時間からか
疑問③ 官名が対海國と同じなのはなぜか
疑問④ 「瀚海」とは倭人の呼び名か、それとも中国からのものか
疑問⑤ 原の辻遺跡(長崎県壱岐市芦辺町・石田町)が一大國の国都か
疑問⑥ 原の辻では三韓土器・楽浪土器が出土するが、どのような交易が行われていたか
0275名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:34:54.46ID:KZa/EFWW
第5節にいきます
・又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
・また一海を渡る 千余里 末盧国に至る 四千余戸有り 山海に浜して居す
草木茂盛し 行くに前人を見ず 魚鰒を捕るを好み 水の深浅なく 皆 沈没してこれを取る
疑問① 末盧國とは松浦半島のことか
疑問② 松浦半島だとしたらその中心地は
疑問③ なぜ官名が記されてないのか
疑問④ この記述は一大國から末盧國に渡ったということか
もしそうだとしたら直接伊都国に行かない理由は何か
それとも、たんに地誌的に九州北部沿岸を西から東に紹介しているのか
0276名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:35:39.58ID:KZa/EFWW
第6節 ひじょうに問題の多い部分です
・東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
・東南陸行 五百里 伊都国に到る 官は爾支といい、副は泄謨觚 柄渠觚という
千余戸有り 世々 王有り 皆 女王国に統属す 郡使往来し常に駐する所
疑問① 伊都國は糸島半島なのか
疑問② 糸島半島だとしたら国都はどこか
疑問③ 官の「爾支・泄謨觚・柄渠觚」とはどのようなものか
疑問④ 「丗有王」とあるが、上記の官と王の関係は
疑問⑤ 「皆統屬女王國」は「女王国の支配下にあった」と解釈するのが定説であるが
伊都国が女王国を支配していたとする見解も一部にはあります
疑問⑥ 「郡使往來常所駐」は福岡県糸島郡前原町の三雲遺跡群か
疑問⑦ なぜ末廬國から伊都國まで陸行したのか 水行のほうが楽ではないのか
疑問⑧ 「有千餘戸」は正しいのか (魏略逸文では戸万余)
疑問⑨ 伊都國と平原遺跡との関係は
0277名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/06(日) 22:36:45.36ID:KZa/EFWW
第7節にいきます
・東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
・東南 奴国に至る 百里 官は?馬觚と曰い 副は卑奴母離と曰う 二万余戸有り
疑問① 邪馬台国位置問題には「放射説」というのがあります
伊都國以後の行程は伊都國を起点とした放射状に読むというものですが
はたしてこれは成り立つのか
疑問② 官名の「?馬觚 副日卑奴母離」で卑奴母離の登場はこれで3度めです
疑問③ 奴國は現在の福岡市や春日市などか その国都はどこか
疑問④ 57年、後漢光武帝から印綬を与えられた倭奴国との関係は
疑問⑤ 「二萬餘戸」はかなりの数ですが、人口とすればどのくらいか
またこれらの戸数は正しいのか
0278名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/11(金) 00:19:32.65ID:WE+S/7le
なんで畿内クラスターがいちばん韓国に近づいてるんだ?
説明しろよバカウヨ
http://i.imgur.com/tBBUTrT.png
0279名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/11(金) 01:00:00.78ID:WE+S/7le
韓神 からかみ
『古事記』や『延喜式』神名帳などにみえる神。「韓」は朝鮮の意。よって,神名は朝鮮国の神の意。
朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神。
『古事記』には,須佐之男の子である大年神と伊怒比売との間に生まれた第2子としてその名が挙げられており,新羅国の都である徐伐(現在のソウル)をそのまま名とした第3子の曾富理神と共に,古代朝鮮との密接な関係を反映する。
0280名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/11(金) 01:10:45.25ID:nzV4Dulp
小便顔洗浄
0281名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/11(金) 01:29:17.51ID:WE+S/7le
曾富理神 そほりのかみ
韓神・曾富理神を、『延喜式』神名帳に見える宮内省に鎮座する韓神・園神と同神とみる説がある。
邇邇芸命の降臨地を書紀の一書第六に「添山(ソホリノヤマ)峰」とするのを、新羅の神話において神童君臨の所を「徐伐」(Sio-por)というのと同源であるとした上で、新羅の王都を意味するソフルが神霊の来臨する聖処を原義とするとし、「曾富理」が京城の意で、この神を京城・帝都の守護神とする説がある。
百済の王都泗?も「所夫里」と呼ばれ、書紀第八段第一書に素戔嗚尊が五十猛神を率いて新羅国に降り「曾尸茂利」(ソシモリ)にいたとある。現『古事記』が平安初期に成立したものとする立場から、この神が、遷都に際して平安の新京の護り神として秦氏が奉斎した神であるとし、秦氏がその根拠地に平安京を誘致することに成功したことで、朝鮮半島の京城の護り神である曾富理神を新たに勧請したものとする説がある。
これに対して、古代朝鮮語の「徐伐」の原義が神霊の光り来臨する所で、第一に聖林を指すとされることから王都に限ることはできず、この神の性格を王都の守護神と断定はできないとする説がある。
0282名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/11(金) 01:34:35.34ID:nzV4Dulp
おいムムン
0283名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/12(土) 01:09:14.23ID:kN4TLoZv
第8節にいきます
・東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
・東行 不弥国に至る 百里 官は多摸と曰い 副は卑奴母離と曰う 千余家有り
疑問① 不彌國はどこか 對海國が対馬 一大國が壱岐 末盧國が松浦 伊都國が怡土志摩郡
奴國が後代の儺県・・・まではだいたい定説と言ってよいと思いますが
不彌國については、宇美(福岡県糟屋郡宇美町)、穂波(同県飯塚市)、大宰府(太宰府市)付近
宗像郡津屋崎(現・福津市)、箱崎(福岡市東区)、糟屋郡新宮町 などと研究者によって意見が分かれます
疑問② 邪馬台国の行程記事において、對海國について説明した字数が最も多く
以下順次少なくなっていきます これには意味があるのか
0284名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/12(土) 01:44:30.52ID:kN4TLoZv
第9節
・南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
・南 投馬国に至る 水行二十日 官は弥弥と曰い 副は弥弥那利と曰う 五万余戸ばかり
疑問① 投馬國とはどこか 日向国都萬、薩摩国説、備後国鞆、出雲国など諸説あります
疑問② 水行はどういった形だったか これは九州説内でも九州島西廻り、東廻り、河川航行説があり
近畿説でも瀬戸内通行説と日本海通行説があります
疑問③ 投馬國への出発地は不弥国(連続説)か、伊都国(放射説)か
疑問④ 水行二十日はどの程度の距離か、また、なぜ日数表記になったのか
疑問⑤ 官の「弥弥、弥弥那利」とは
疑問⑥ 五万余戸は奴国の2倍以上であるが、どのていどの広さの国か
0285名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/12(土) 01:44:51.85ID:kN4TLoZv
では第10節 いよいよ邪馬台国に到着します
・南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七萬餘戸
・南 邪馬壱国に至る 女王の都とする所 水行十日陸行一月 官は伊支馬有り 次は弥馬升と曰う
次は弥馬獲支と曰う 次は奴佳?と曰う 七万余戸ばかり
疑問① 邪馬台国はどこか 九州各地、近畿、四国、近江、吉備など諸説あります
疑問② 「女王之所都」という記述には違和感があります 魏からすれば卑弥呼は倭王であり
その都地が邪馬台国であるという意味なのでしょうか
疑問③ 「水行十日陸行一月」は「水行十日+陸行一月」でよいのか
そう読むのが自然だと思いますが「水行すれば十日、陸行すれば一月」という説があります
また、「水行十日陸行一月」は帯方郡からの総日数という説もありますね
疑問④ 「七万余戸」はかなり広大な領域が想定できますが
疑問⑤ 官は「伊支馬有、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?」と四種が登場し政治機構が整っているようですが
0286名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/13(日) 08:50:11.68ID:Kf/rVtil
最新DNA研究が解き明かす!『続・日本列島人の起源と歴史』6月11日(金)からオンデマンド配信スタート【NHK文化センター】
https://news.allabout.co.jp/articles/p/000000053.000071793/
1.東ユーラシアのなかの日本列島人 【 配信期間 :6/11~6/30 】
2.アイヌ語の歴史 【 配信期間 :7/9~7/31 】
3.アイヌと縄文をつなぐ 【 配信期間 :8/6~8/31 】
4.クマ送りとヒグマ 【 配信期間 :9/10~9/30 】
5.北方の言語 【 配信期間 :10/8~10/31 】
6.遺伝子からみた日本人 【 配信期間 :11/12~11/30 】
7.もう一つの日本語 琉球語 から見えるもの~ 【 配信期間 :12/10~12/31 】
8.内なる二重構造 【 配信期間 :2022年 1/14~1/31 】
9.ヤマト王権における北と南の影響 【 配信期間 :2022年 2/10~2/28 】
10.琉球列島の多様性:ことば 【 配信期間 :2022年 3/11~3/31 】
11.琉球列島の多様性: DNA 【 配信期間 :2022年 4/8~4/30 】
12.最初に日本列島へ渡来した人々 【 配信期間 : 2022年5/13~5/31 】
※各回のお申し込みが必要です。
講座名:【オンデマンド】続・日本列島人の起源と歴史1.「東ユーラシアのなかの日本列島人」
講師:国立遺伝学研究所教授 斎藤 成也
配信期間:2021年6月11日(金)00:00~6月30日(水)23:59
受講料金:NHK文化センター会員・一般(入会不要) 税込 2,200円
0287名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/13(日) 08:59:40.14ID:Kf/rVtil
第11節
・自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
・女王国より以北 その戸数道里は略載を得べきも その余の旁国は遠絶にして 詳を得べからず
疑問① 「女王國以北」とは対海國~不彌國までのことか 投馬國も入るのか
0288名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/13(日) 09:00:46.65ID:Kf/rVtil
第12節
・次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國
次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
・次に斯馬国有り 次に巳百支国有り 次に伊邪国有り 次都支国有り 次に弥奴国有り 次に好古都国有り
次に不呼国有り 次に姐奴国有り 次に対蘇国有り 次に蘇奴国有り 次に呼邑国有り 次に華奴蘇奴国有り
次に鬼国有り 次に為吾国有り 次に鬼奴国有り 次に邪馬国有り 次に躬臣国有り 次に巴利国有り
次に支惟国有り 次に烏奴国有り 次に奴国有り ここに女王の境界尽きる所
疑問① これらの国々は冒頭で出てきた「今使譯所通三十國」なのか
疑問② 最後の「奴國」は前に出てきた国と同一か
0289名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/14(月) 02:05:45.22ID:/muVq3qA
Japonic: 濊、倭、扶余、高句麗、濊貊、沃沮、百済(扶余系)、伽倻(扶余系)
Koreanic: 新羅、百済(韓系)、伽倻(韓系)、古代出雲
Tungusic: 粛慎、挹婁
Mongolic: 東胡、鮮卑
Figure 2. Classification of Japano-Koreanic based on classical comparative historical linguistic inferences (adapted from Robbeets, 2015).
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20201112154947009-0781:S2513843X20000493:S2513843X20000493_fig2.png
0290名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/15(火) 15:07:26.39ID:PoOEwuQA
縄文人の土器はすげぇ!(←こっちアイヌの先祖)
同時期のチョンの無文土器はショボいwww (←こっちが大多数の日本人の先祖です)
0291名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/15(火) 18:56:17.67ID:PoOEwuQA
図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41598-021-91357-2/MediaObjects/41598_2021_91357_Fig3_HTML.png
これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。
0292名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/16(水) 14:55:30.41ID:w/Aewh8l
日本神話ののっけから「ここは対岸に韓国が見えていい土地だ!」だからな
0293名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/16(水) 14:56:51.92ID:w/Aewh8l
日本書紀も読み物として面白いんだよな
耽羅国(現在の済州島にあったとされる国)の位置を南としるしていたり
そこが百済に朝貢してたのが百済が滅亡してから急に日本に朝貢するようになったり
いろいろと察するもんがある
0294名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/16(水) 22:02:42.41ID:6XmHRqzj
【酒類の提供制限】 首相は下戸だから、お店で飲みたくても飲めない人の気持ちが実感として湧かず、悩んでいる
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1623836771/
0295名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/17(木) 01:07:33.54ID:diL4FT/4
>>293
じゃあ日本が三国を支配してたことも受け入れようよ
つまみぐいじゃなくてさ
0296名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/17(木) 06:04:17.80ID:LwvGkv/S
>>295
神風が吹かなかったら日本も歴史上元になっていたな
0297名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/18(金) 16:54:19.67ID:cN0tTrcQ
江上波夫は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代の農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲の松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。「国際的視点からの古代史考」では4世紀ころから辰国の辰王族が倭国の各地の沖積平野に移動した。馬はこのころ到来した。
すなわち、大陸東北部に半農の騎馬民族が発生したが、その内、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」的な国家を形作ったという。
0298名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/18(金) 17:26:12.97ID:cN0tTrcQ
三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀の記述によれば入れ墨族は
大王族やらにひたすら殺戮されていく蛮族
0299名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/18(金) 19:18:50.77ID:n0tnJ5Vv
そら入れ墨が悪とされた時代に書かれたからだろ
0300名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/20(日) 10:54:38.47ID:6cvsXGff
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
0301名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/20(日) 14:36:05.91ID:6cvsXGff
近江朝=日本=百済=扶余勇=天智天皇です。
旧唐書劉仁軌の条によれば扶余豊を王となしたのは顯慶五年(660)、百済崩壊の年である。
扶余豊はjapanから福信の待つ百済の地に渡った。扶余豊を送り出してjapanに残って応援した百済餘【口焦】の長は扶余勇である。
旧唐書に「餘豐在北,餘勇在南」や「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」から推測される。白村江の戦い(663)を迎える。
倭百済連合は惨敗し、扶余豊は高句麗に逃げ、百済にいた貴族の多くがjapanに渡ってきた。多数の百済貴族は扶余勇と合一したと思われる。
最早百済の地での百済の再興は短期的には不可能となり、北九州に根を張った。
これが、大宰府の50km以上に及ぶ羅城や水城や大野城などの防衛施設である。
これらは日本書紀では天智天皇が作らしめたとあるので、天智=扶余勇であると推定される。
一方、倭国は旧唐書によれば、劉仁軌の条に「麟德二年(665),封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,」とあり、倭国王は封禅の儀に列席させられる予定になっている。
白村江の罪で唐の言うことを聴かなければ成らない状態である。
こういう状況下で、扶余勇はjapanで勢力を広め、朝鮮山城を各地(北九州から関が原以西)に造り、それを版図とし、
兄弟の善光王を難波に住まわせるなど、倭国の要を押さえ、近江に遷都し、即位する。
百済貴族に官位を与え、要人として登用する。天智天皇が即位したのは西暦668年2月で、時期的には高句麗が唐に敗れ行くさなかにある。
扶余豊(百済王)が捕らえられた時期は不明だが、資治通鑑の668年12月「扶餘豐流嶺南」によると、流刑に処せられている。
天智に即位したのは扶余豊が捕縛されたことに基因すると想像される。
旧唐書東夷伝「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は近江まで進出し倭国の地に根を張った百済の扶余勇の政府をいい、
新唐書東夷伝の「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」はその近江朝が壬申の乱で倭国に敗れたことを指し、国名として倭国号を冒し日本国号となったといっている。
ざっとまとめると以上です。これ以外の結論が思いつきません。
0302名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/20(日) 16:10:55.29ID:1Rr1979r
東アジア唯一の白人国家になってただろうな
縄文人は古代コーカソイドで独自の文明を持ってたし
0303名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 12:02:41.94ID:+K9W7BDZ
2021年06月22日
アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html
0304名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 12:48:36.77ID:AAJGvY8f
アジアは北西部のアルタイ方面から人類が拡散した痕跡はあるけど、
南方から北上した痕跡がないんだよね
新石器時代になるまで東アジア以北は凍土で、食料であるマンモスなどの大型獣は
石刃技法を使った石槍でしか仕留める事ができない訳だが、これは中央アジアから
アルタイ経由で東アジア以北に広がったもの
華南以南は新石器時代になるまで礫石器文化であり、南方から北上してきた痕跡が
ないのである
0305名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 14:08:11.37ID:+K9W7BDZ
縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。
縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。
0306名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 14:26:12.92ID:+K9W7BDZ
今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、
逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。
たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、
三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。
古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)
における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されて
-
17:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:50:19
-
2021/06/22(火) 14:26:12.92ID:+K9W7BDZ
今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、
逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。
たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、
三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。
古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)
における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています。
0307名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 14:32:02.32ID:64lK6N9h
>>305
西遼河から渡来定着した痕跡がないじゃないの
沿海州南部から渡来定着した痕跡ならあるが
0308名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 14:48:32.01ID:+K9W7BDZ
>>307
EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。
これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。
0309名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/22(火) 20:51:40.97ID:lhSqo1Y5
>>308
逆だろ
アンダマン諸島人にチベット方面から13000年前以降に南下した系統が
混ざってるんだろ
華南は旧石器時代より永らく礫石器文化だったが、13000年くらい前に
それより北の細石刃文化に置き換えられた
モンゴロイドが華南に侵入して先住のオーストラロイドと交雑した事を窺わせる
イラワジ平野でもその頃に同様の事が起こっていたんだろう
そしてアンダマン諸島にも間接的にモンゴロイドの遺伝子が及んだ
だいたい華南から凍土の華北に北上して、どうやって礫石器で食料の大型獣を
確保できるんだ?
おまえら遺伝子屋は考古学的見地に基づく人間生活が見えていない
足元が見えていないんだよ
0310名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/24(木) 01:26:37.49ID:coUGj6hF
アンダマン人弓矢持ってるしな
2万年前のアジアだったらアトラトルしか使ってないはず
0311名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/24(木) 08:08:13.95ID:SwvL1uw0
日本に弓矢が登場するのは石鏃の出土から16000年くらい前
樺太経由で入ってるから、弓矢はアルタイ経由で東~北方アジアに広がっている
おそらく3万年くらい前に中央アジアからアルタイ地方に伝わったのではないか?
槍や投槍器に取り付ける石刃や弓矢の石鏃は石刃技法で作らないと食料である
マンモスなどの大型獣を仕留める事ができない
礫石器の石刃や石鏃ではマンモスを仕留める事はほとんど不可能
だから華南以南の東南アジアから東アジアや北方アジアに北上していない事が分かる
東アジアや北方アジアに拡散しているのはアルタイから入ってきた石刃技法を
持った人々である
0312名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/24(木) 20:47:09.34ID:SWOgmP9S
江戸時代には騙し討ちをかましたあげく、ウイグルジェノサイドもビックリの勢いで殺し
大日本帝国時代も容赦なく殲滅を続けて人口の九割が消えた。
戦後の安倍時代ともなるとついに浄化が完了したのか
支配的政権与党の自由民主党所属の議員が『アイヌなどもういない』と勝ち誇る事態となった
0313名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/24(木) 22:17:22.41ID:coUGj6hF
>>311
アメリカ大陸3波のイヌイット系もアトラトルしかもってない
2波の北米インディアン、1波のアメリンドなんかは当然持ってない
2万5000年前には北方に弓矢は浸透してなかった
0314名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/24(木) 23:26:23.06ID:SwvL1uw0
青森あたりで16000年くらい前の石鏃が出土してるから
弓矢がシベリア東部あたりに伝わったのは2万年くらい前だろうな
朝鮮半島経由ではなく樺太経由だから華南から北上したものではない事が分かる
シベリア東部が2万年くらい前ならアルタイに伝わったのは3万年くらい前だろう
0315名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/24(木) 23:56:48.47ID:KswZRTdJ
アイヌ=縄文人だろ
そして朝鮮系が弥生人だろ
見りゃすぐわかるよ
日本人をDNA鑑定すればアイヌの遺伝子は入ってるし縄文人の直系の子孫がアイヌなのもわかっている
第一外見の特徴ですぐわかる
それをかたくなに認めないネトウヨってなんなんだろう
日本人は特別だと思いたいのかよくわからん
0316名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/25(金) 00:23:46.94ID:57Iwnxar
「天孫降臨」
天照大御神さまは、孫の瓊瓊杵尊(にぎぎのみこと)に高天原から葦原中国へ降りることを命じられた。
稲穂を渡し「この稲を育てて葦原中国を治めなさい」と。これは「斎庭稲穂の神勅」。稲を育て、この国を繁栄させるということ。
すでに先に葦原に住んでいた、戦いを繰り返していた先住民(大国主尊)に
「慈愛で国を作りますので、必ずや平和になるでしょう」と伝え、国譲りをしていただいた。
つまり稲を育てた「弥生時代」が、日本の歴史の最初ということ。縄文時代は「ニギギノミコト」が降臨する前だった。
0317名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/25(金) 00:34:00.59ID:5+Qzlqyn
>>315
底辺高卒?
おまえの考古学偏差値、30ないぞ
パッパラパー♪パッパラパー♪パッパラパッパパッパラパー♪
0318名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/25(金) 21:47:40.13ID:tVnOFxUo
>>314
北米インディアンはケット人と同じ系統だからシベリアあたりから東アジアまで広く広がっていた?
でもアトラトルしかもってない
1万~2万年前あたりでもなかったんじゃないだろうか
0319名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/25(金) 21:48:29.64ID:tVnOFxUo
しかしケット人と北米インディアンの言語の一致って、バベルの塔はどうなるのだろうか
0320名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/25(金) 22:32:33.64ID:lO844Ls7
>>318
伝わっても石鏃が3cm程度の大きさだからマンモスなどの大型獣には使えんわな
だからシベリアでは弓矢はあっても長い間、狩猟道具のメインになかった
一方、日本列島では弓矢と同じ頃に樺太経由で入ってきた細石刃が狩猟道具の
メインになるが数千年で消えてしまった
これは氷河期が終わり大型獣が消滅してしまったため、不要になったからである
そして小型獣の狩猟道具として弓矢の時代がやってきた
0321名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/25(金) 22:37:23.05ID:tVnOFxUo
旧石器って捏造ばっかでしょ
0322名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/26(土) 01:02:44.71ID:gOjdQ75V
【古代】「文明など、ろくなものではない」 農耕が“戦争”を引き起こす…縄文人が「中国文明」を拒んだ本当の理由
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1624629039/
0323名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/26(土) 21:51:58.39ID:zU9s3Hdf
>>321
旧石器捏造事件なら10年以上前に収束してるよ
今の考古学は旧石器時代の石器のうち、疑わしいものは全部排除して動いている
0324名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/26(土) 22:05:52.93ID:Z9zScAsu
どうやって排除すんのよ
石叩いてつくったら旧石器で誰も見分けつかんかったんだろ
0325名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/26(土) 23:17:53.78ID:zU9s3Hdf
>>324
事件以前のものをひとまず排除して、事件以降に出土したものと
整合するものだけで判断すれば良いだけ
事件からもう20年以上経ってるんだよ
この20年もの間に出土した石器なんかワンサカあるの
0326名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/27(日) 01:37:12.29ID:PgWrX9sU
エベンキ族は韓国人とはいうほど関係がないのはゲノム解析で明らかになってる
韓国人はむしろ日本人とほぼ同じであることが科学的に明らかになってて
これは頭のおかしい糞ウヨがどれだけ火病ろうがどうにもならん話だ
0327名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/27(日) 01:44:20.50ID:PgWrX9sU
実際に奈良県に行くと分かる
純日本というより半島っぽさがあるんだよ
外貌といい、風習といい
異国情緒というやつ
日本にいて百済の古都に訪れたような朝鮮気分を味わえる
0328名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/27(日) 06:06:10.04ID:yIv8Gz44
>>327
民族分布図を見れば一目瞭然だな
http://i.imgur.com/DUcTfTp.jpg
0329名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/27(日) 07:26:17.18ID:PgWrX9sU
現代の日本人が「日本的」と思い込んでいる寺社建築の様式は、飛鳥時代には異国情緒の象徴だった。
0330名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/27(日) 08:16:20.94ID:vPoaPniY
大阪、京都、奈良、滋賀、神戸
まさに朝鮮帰化人が置かれた場所だなw
でも朝鮮帰化人って、そんなに来てないんだよ
日本人口が3~500万人くらいの時代にトータルでも1万5千~2万人くらい
日本人口の1%にも満たないの
だから頭形の形質遺伝は中頭よりも短頭の方がはるかに強い事を証明する点で
価値がある表であって、決して血統のほとんどが半島人であるかのような勘違いを
しないように
0331名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/27(日) 21:25:25.10ID:PgWrX9sU
私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びととがきわめてよく似ており、形質上は同じであると指摘されている点です。さらに衝撃的だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。
小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、関西では少なからずあったと思います。
これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。
小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。
(網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波現代文庫,2013)137-138頁)
0332名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/28(月) 05:37:15.62ID:2RlOqivs
11000年前頃以降の現在の中華人民共和国広西チワン族自治区一帯の人口史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。
この研究はオンライン版での先行公開となります。
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html
0333名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/28(月) 18:25:02.84ID:2RlOqivs
群馬の渡来古墳人
群馬県は下戸遺伝子も多く関東の中では渡来人が最も多く来た地である
https://pbs.twimg.com/media/Ei5ZvOpVoAA61vN.jpg
0334名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/28(月) 23:53:33.33ID:2RlOqivs
安重根と大正天皇
https://i.imgur.com/BpxTKjA.jpg
同じ人種と言わざるを得ない。
0335名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/29(火) 00:53:56.95ID:lYeNPdhG
>>333
じゃあ何で短頭化してないの?
0336名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/29(火) 00:57:06.35ID:lYeNPdhG
>>334
Tゾーンの立体感がぜんぜん違うじゃないの
眼科逝けよ
0337名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/29(火) 10:23:41.35ID:DBx9xxlE
Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago
doi: https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867421006358-fx1_lrg.jpg
Figure1. Geographic, temporal, and genetic information for newly sequenced individuals
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867421006358-gr1_lrg.jpg
FigureS1. Genetic structure of new individuals, related to Figure1
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867421006358-figs1_lrg.jpg
Figure2. Genetic structure and admixture of prehistoric Guangxi individuals
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867421006358-gr2_lrg.jpg
FigureS3. Genetic components of historical Guangxi populations and present-day East Asians, related to Figure 3
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867421006358-figs3_lrg.jpg
0338名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/29(火) 22:06:29.69ID:DBx9xxlE
ADMIXTUREパターンを見るかぎりでは
縄文人はふつうに
古代インド人(Harappan, Juang) ホアビニアン(G1)と
アムール・北方モンゴロイド(AR_EN, AR_Xianbei_IA)の混交だな
0339名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/30(水) 00:04:15.25ID:h1OlhAJS
>>335
どこの地域も短頭だらけだろ
0340名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/30(水) 07:40:22.03ID:s59+J1wL
沖縄出身なんだけど、初めて東京行った時の異国感は忘れられない。
飛行機の便を間違えて中国に来たかと思った。
東京で出会った人に、昔中国だったんでしょ?って質問されるたびに、やまとんちゅは自分たちの薄い顔のルーツをあまり意識しないのだろうか?って思う
0341名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/30(水) 07:57:05.23ID:+D6K4yBj
>>340
どちらにせよ大陸から来た文字や言葉を使っている点は同じ。
しかし文化で見ると伝統的な5音音階なのは同じだが、
沖縄の音階はポリネシア民族の音階に似てる。
日本音階はピアノの黒鍵だけで弾けるが(炭坑節や男はつらいよ)
ちなみに沖縄音階は白鍵のドミファソシになる。
0342名無しさん@お腹いっぱい。
2021/06/30(水) 23:03:36.01ID:s59+J1wL
天皇って日本人・沖縄人・アイヌを殺す以外になにか実績あんのか
って聞いても誰も答えない
0343名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/01(木) 00:20:31.56ID:xnAe+yxv
沖縄出身とか虚言大丈夫か
0344名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/01(木) 06:32:56.37ID:9ixWt+fd
>>342
平成になって右翼が天皇に対して別れたよ
天皇に対してご乱心を諌めるタイプと
天皇の言う事は全て正しいと言うタイプ
そう言えば昭和の226事件の時も正規軍反乱軍
どちらも天皇陛下の命だと言ってたな
0345名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/02(金) 04:02:21.36ID:48WNszeD
まぁどの国でも歴史は美化されているだろうな
不名誉な事実を言っても取り合わず鎮まるのを待つ
人間は大脳を持っているから誘導されやすい
大脳が小さければ本能が反抗させることもあるのだが
人間は好んで騙されるのだから手の施しようがない
0346名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/02(金) 04:07:39.59ID:48WNszeD
中国の歴史は漢の時代に書かれた「史記」によって書き換えられ
現代日本の歴史は古事記・日本書紀によって書き換えられた
国の正史を制定するというのは、雑多な真の歴史を消すためにある
すなわち、中国や日本の正史とされる歴史書の方が偽史である
0347名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/02(金) 05:37:45.29ID:48WNszeD
日本史だと思っているのは関西史にすぎない
0348名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/02(金) 06:07:10.36ID:KaRZrP7G
中国の人が日本に来て三国志と三国志演義が同じように見られてる事に、驚いたそうだ。
中国では三国志演義は戦国時代を面白く脚色した文学で有り、歴史書では無いと認識されている。
桃園の契りも創作。貂蝉と言う美女も創作。
吉川英治の三国志も三国志演義をもとになっており、
横山光輝三国志は吉川英治作品を基に描かれた。
0349名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/03(土) 19:02:07.03ID:GvKH8Cjk
【岩手】坂上田村麻呂が討ち取った蝦夷の将の亡骸埋めた「鬼死骸村」は今
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1624704777/
0350名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/06(火) 16:53:19.25ID:9AkqqNlI
アイヌ語が語源とみられる主な東北地方の地名
http://ss344468.stars.ne.jp/dctouhoku1.jpg
0351名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/07(水) 13:00:59.58ID:1puvmvHZ
スーパーサイエンスハイスクール(SSH)コンソーシアムによる日本人のY 染色体とミトコンドリアDNA ハプログループ地域分布調査
青森 O3(現O2) …27.8%
https://i.imgur.com/ZOxLsXc.jpg
地味に旧O3が最高頻度で現れたのが青森
やはり坂上田村麻呂による民族浄化が原因か
なお被験者は当時の学生で
南部地方出身者が中心と思われる
八戸北高・平成22年 15人
八戸北高・平成23年 44人
三本木高・平成24年 21人
0352名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/09(金) 04:12:45.95ID:mP7t0CeQ
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html
本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析に関する研究を教えていただき、調べてみたところ『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集に本論文が所収されていると分かったので、購入しました。
0353名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/09(金) 04:39:45.16ID:mP7t0CeQ
本論文がDNA解析の対象とした人類遺骸は、側頭骨が残存する個体のうち、オオツタノハ貝製腕輪を装着した5次8号支石墓の熟年女性(以下、大友8号)です。
年代は弥生時代早期で、支石墓の下部構造は土壙墓です。側頭骨錐体部はDNAの保存状態が良好な部位とされます。大友8号のmtHgはM7a1a6です。
南西諸島の古代人のmtDNA分析(本書に所収されている別論文、今後当ブログで取り上げる予定です)から、南西諸島集団のmtHg-M7aは下位区分では九州以北の古代人や日本列島本土現代人集団とも異なる、と明らかになっており、大友8号のmtHg-M7aは本土集団と共通します。
核DNAを用いた主成分分析では、大友8号は縄文人クラスタの範疇に収まり、大陸系集団との混血の影響は見られませんでした。これは人骨の形態的特徴と矛盾しません。
西北九州弥生人の中でも、早期の大友8号とは異なり、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は渡来集団との混血がかなり進んでいます。
大友遺跡人類遺骸の同位体分析による食性分析では、時代が下るとともに、当初の漁撈依存から穀物依存の度合が高まる、と明らかになっています。
0354名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/10(土) 16:57:27.68ID:ppOBx94y
Ateri
@s90513240
#香川県 #高松茶臼山古墳 出土の古墳前期人骨2体のDNA分析の結果、
mtDNAでは渡来系集団に由来するD4m1が茶臼山3から、暫定的ではあるが縄文系のM7a2が茶臼山1から検出されました。
茶臼山3については核DNA分析も行われ、現代日本人の範疇に収まることやY染色体はC1a1であることもわかった。#前方後円墳
0355名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/11(日) 02:13:39.47ID:XRW7w+i3
天皇や貴族の前に日本に渡った渡来だろ?
実際は騙し討ちで日本人を殺してきたやつらだからな
0356名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/11(日) 12:39:57.46ID:6pVGoiKV
【ネット】在仏歴54年の国際言語学者・小島氏(75)にレスバトルで論破された西村博之(44)、ライト層に馬鹿がバレ始める「辞書に書いてあることすら知らない不勉強な自称・専門家に騙される人が多いんだなぁ、と」★10
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1625971311/
0357名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/11(日) 15:52:54.75ID:9ZK72/xf
大凌河というC1a1中国人はここ見てるんだろうが
yfull頼りでO1b2の拡大が3000年前と決めつけるのは短慮だね
D-Z1500とほぼ同時期(1862年前)、同程度(9%)のO1b2クラスターが存在するのは確実だ
http://pds22.egloos.com/pds/201204/28/76/d0022076_4f9b9780d01bc.jpg
https://i.imgur.com/lmQGQMc.jpg
O2b1(O1b2a1a1)から出た上記のTenno modalと定義されたハプロタイプは、日本全域に広く広がっているだけではなく、Klysovが提案した方法に応じて、全体のハプロタイプのメンバーの起源年代を推定しても、
約74 generations、1862 years agoで巨大古墳が築造され始めて、日本全体の新しい政治体制が異なる集団を圧倒する古墳時代の紀元後3世紀頃とほぼ一致する。
0358名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/11(日) 18:52:42.63ID:wEpkLf6a
けっきょく
山東・遼東 → ムムン(朝鮮) → 北九州
がジャポニック(日流語族)の移動ルート最有力候補だろ
これ以外にないからな
縄文人は、ふつうに 古代インド人(Harappan)+古代アムール人(北方モンゴロイド) の混交だろうなあ
0359名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/11(日) 19:21:21.83ID:wEpkLf6a
天コロが日清戦争で遼東の先っぽに拘ってたのはやっぱり理由があるんだろうなあ
0360名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/12(月) 02:30:21.91ID:OsLZPArN
だから沿海州だって
縄文人は2万年前あたりに陸続きの樺太とおってやってきたってのが常識になって教科書に乗ってるように
沿海州説も教科書にのることになる
こういう結論は常にひとつに行き着くからだ
そのひとつの結論に至るように予想しろ
でなければ劣等種だと考えろ
0361名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/13(火) 15:56:47.00ID:MQ3xZjzv
日帝は百済そのもの
0362名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/15(木) 08:28:50.13ID:ckz6Oa7z
YHg-O1b2は、日本人と韓国人においてそれぞれ29.3%と31.4%と高頻度で見られる主要なYHgで、
他のアジア北東部やアジア南東部の集団でも低頻度で見られます。
YHg-O1b2でも祖型とその下位区分の出現頻度は、日本人と韓国人で異なります(前者では7.7%と22.0%、後者では33.3%と4.0%)。
0363名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/15(木) 19:24:53.43ID:/J+hMlNK
韓国の現地民、馬韓とかはハプロなんだろう
やっぱCかな
韓国はDNA抽出やらんし
0364名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/19(月) 15:29:05.03ID:xYAC4Whk
ウィキペディア 大和民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%B0%91%E6%97%8F
(中略)
ハプログループD1a2aの系統は日本人に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人には全く見られない
固有種であることも判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌに88%見られることから、
D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だとされる。また本州日本人は35%にみられるなど、約3人
に1人の割合でこの系統に属している
Y染色体とミトコンドリアDNAとの頻度の違いは縄文人が渡来系弥生人集落への一方的流入を起こした分布
となることから、分子生物学による研究の結果、渡来人が一方的に縄文人を支配したとする従来の学説は根
拠を失った
DNA解析の結果、大和民族と遺伝的に最も近縁なのは琉球人とアイヌ人であるとされている
日本人は古モンゴロイドで大陸の国とは人種が違うって事だな。
近畿がチョンだの、アイヌが原住民で日本人は渡来系って構造は誤りであると。
稲作が出来る経済力のある弥生人が、獲物が無くなって飢えてる縄文人を集落に入れて
仲良く混血したんだな。
ネットで階級差別して日本人を排外する大陸のカスと弥生人(日本人の先祖)の差が解る。
0365名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/19(月) 16:16:20.72ID:iFxQGWCe
Dはアフリカ東部が起源
かつては中国にも朝鮮半島にもあったが消滅しただけの話
縄文人の祖先の旧石器人の侵入は朝鮮半島経由の方が先
38000~35000年くらい前
樺太経由の旧石器人の侵入はだいぶ後
2万年くらい前
弥生人は朝鮮半島経由しておらず、沿海州南部から直接渡来している
朝鮮半島人が帰化しだしたのは古墳時代の4C後半以降
これらはすべて考古学の成果である
遺伝学では何にも分からない
解明したのはすべてすべて考古学の成果である
0366名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/19(月) 17:18:23.65ID:sGF4PNeu
ハプロC以降は全部ユーラシア由来
ネアンデルタールと混血した証拠がCであって、アボリジニが持ってる古いCも同じ
0367名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/19(月) 22:54:39.79ID:iFxQGWCe
じゃあ何でDの最古タイプがアフリカで見つかるの?
0368名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/19(月) 23:45:06.38ID:sGF4PNeu
混血して逆流したから
10万年前に出アフリカしてた痕跡があり、そこで混血が起きたが
トバカタストロフの寒冷期に一回引っ込んでしまった
0369名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/20(火) 06:30:56.00ID:dIT9j1D2
琉球諸語の系統的位置
・南日本語派のひとつであり,日本祖語からの最初の分岐「琉球語派」ではない。
・南部九州語(薩隅方言)と姉妹関係にある。
・第1音節の子音が/k/であり第2音節の子音が/t/である形は,九州と琉球列島にのみ観察される。
・九州と琉球列島におけるマトリョーシカ分布.交差せずかつ含意階層をなす等語線を少なくとも9本引くことができる。
https://i.imgur.com/KVkkuqP.png
https://i.imgur.com/o06tyq6.png
https://i.imgur.com/JDguyih.png
https://i.imgur.com/nn6vO9m.png
0370名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/20(火) 07:15:25.16ID:y6BHnIsm
>>369
頴娃語は琉球語と似てると言うことですか?
0371名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/20(火) 07:33:08.73ID:JSFXmpBC
沖縄は1万年以上前に南方からの渡来人が幾度かあった痕跡があるが、
いずれも定着できず短命で滅んでいて無人島状態が続いた
そこに8000年前に突如として九州系縄文土器が登場して連続していくが、
沖縄独自の縄文土器が登場するのが4~5000年くらい前のため、
沖縄に縄文人が定着したのは4~5000くらい前からだと見られている
九州と沖縄の言語の間にもそれくらいの時間差があると考えられる
0372名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/20(火) 18:51:01.95ID:dIT9j1D2
>>370
端的にいえば、隼人が喋っていた言語が琉球語だね
0373名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/22(木) 06:05:56.44ID:m5RAGwpu
元々日本は縄文人(アイヌ・琉球)の地。
畿内エリアを中心に渡来系弥生人が進出。勢力を伸ばし日本列島を支配していった。
だから関西圏を中心に同心円状に弥生人比率が高く、縄文ドーナツ化現象を維持。
0374名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/22(木) 06:32:52.19ID:m5RAGwpu
横穴式石室は高句麗から肥前の唐津辺りに伝播して、
九州に広まり近畿でも採用されるようになった。
この墓制からヤマトは高句麗によって支配されたことが分かる。
0375名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/22(木) 08:22:23.49ID:x5pcLiMr
>>1短足と平面顔はなかったわな
0376名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/22(木) 08:44:13.59ID:m5RAGwpu
韓国の三国時代の人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_23.html
mtDNAハプログループ(mtHg)分類は、13-1号がG2、20号がB4c、27-1号がD5b、30号がB5でした。
27-1号と30号のmtHgはそれぞれD5b1b1とB5a2a1bで、APLP分析と矛盾しません。
「縄文人」のmtHgではmtHg-B5a2a1bおよびD5b1b1は確認されていません。
一方、弥生時代の鳥取市青谷上寺遺跡で出土した人骨では、mtHg-B5およびD5が確認されており、
弥生時代中期の「渡来系弥生人」である福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された個体もmtHg-B5でした。
青谷上寺遺跡の「弥生人」のmtHgは大半が「渡来系」と推定されています。
慶北高霊池山洞44号墳の出土人骨では今後核DNA解析も予定されているとのことで、研究の進展が期待されます。
0377名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/23(金) 02:20:57.43ID:5xfwWgtn
Y染色体ハプログループ
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/digx/20180310/20180310121531.png
D1b(縄文系)
アイヌ89>旭川63>沖縄40~45>千葉・群馬40>東京37~40>静岡・愛知・福岡33>兵庫・和歌山27>韓国3.8
0378名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/23(金) 17:19:04.47ID:NVymxuFv
>>377
朝鮮系の多かった関東で高頻度な時点で怪しいよ
0379名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/23(金) 19:45:19.02ID:FHsBIoOd
何があやしい?
関東のが顔が濃い
BuckTickの櫻井みたいなかんじの
0380名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/23(金) 23:32:39.28ID:NVymxuFv
関東内部で差があるんだろ
部落ごとにゲノム調べなきゃ意味ないよ
0381名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/24(土) 03:21:31.20ID:cytFOgdr
>>378
日本人口が400万人くらいのときに関東にトータルです2千数百人ばかりが、
しかも隔離されて置かれただけだぞ
関東に人口が100万人いたとしたら、わずか0.25%ほどだぞ
それ以前に王族以外はほとんど定着できずに消えていき、
在地人に置き換えられてしまった可能性も高い
貴族がいきなり帰農したんだからな
ほとんど帰農できないだろ
0382名無しさん@お腹いっぱい。
2021/07/26(月) 03:28:32.59ID:cmn3mb8B
朝鮮半島東海岸沿い、のち高句麗の主部族、穢カイ族の出身拠点
日本と韓国の統合式釣針の分布。釣針の針と軸を別々に作りつなぎ合わせたものが特徴的
http://bbs.jinruisi.net/blog/wp-content/uploads/nihontokankokunoketugousikituribari_Rnobunpu.jpg
図1 渡辺誠 「朝鮮海峡における漁具の分布」
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/digx/20161123/20161123215250.gif
0383名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/10(火) 22:28:51.26ID:qtuNL4m+
日本列島に最初に人類が到達したのは10万年以上前、マンモスハンターと言われた
北方経由の新モンゴロイド。南方系民族が日本列島に大量流入したのは当時、東南アジアに
あったスンダランド大陸が、氷河期の終焉で海に沈んだ事に端を発する、民族大移動の結果。
スンダランド大陸沿岸部に居住していた海洋民族が、大陸の消失の結果
押し出されるようにして大航海を経て日本列島にまでたどり着いた。
これが5~1万年前頃の話。主食となっていたマンモスが絶滅して、食い扶持を失った
新モンゴロイドを吸収しつつ、温暖化した日本で南方系民族が主流派の地位を形成するに至った。
その後、紀元前1000年頃から、中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった。これが弥生人のルーツ。ようするに弥生人とは大半が中国人。
そりゃ原始人みたいな生活してた縄文人が、当時すでに文明化されていた中国人に
敵う訳がない。そういう訳で、少数の難民中国人はあっという間に人口を増やし、
日本列島で主流派の地位を形成した。
元々、日本にいた縄文人はインディアンみたいに絶滅させられたわけではなく、
流入してきた弥生人=中国人と混血し、最終的に一体化し大和民族=日本人になった。
つまり今の日本人は始めに日本に来た北方系モンゴロイド、氷河期の終わりと共に
日本にやってきた南方系民族、中国の戦乱を逃れてきた中国人。この3者を
主な先祖として成り立っている。
0384名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/10(火) 22:48:04.32ID:qtuNL4m+
遺伝子的には北方モンゴロイド3:南方系3:中国系3:日本独自1
といった所。朝鮮人はやたら日本人のルーツが朝鮮人という事にしたがるが、
弥生人は中国人が主流であった事はほぼ確定事項。
ちなみに中国の戦乱を逃れた中国人は一部が朝鮮南部にもたどり着き、
一時同地域も占拠した。だから彼らと同根の大和朝廷初期まで朝鮮南部は
日本民族の勢力下にあった。ここから妄想を膨らませたのが朝鮮人による
大和朝廷、朝鮮人説という訳。
日本人と朝鮮人に類似性があるのは一つには元々の北方系新モンゴロイドの系統
として同根であるから。だがそれは数万年も前の話。弥生時代の民族流入は
中国人が大半で、要するにこの頃中国大陸からの直接航路が既に開拓されており、
遅れた朝鮮から態々文化を吸収する必要など日本にはなかった。
0385名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/10(火) 22:51:24.83ID:qtuNL4m+
その後も遣唐使、遣隋使と言われるように日本は常に中国から直接、最新技術を導入して
おり、韓国人の日本に文明を教えてあげた論が、妄想の類に過ぎない現実は明らか。
むしろ日韓併合前には世界最貧国であった朝鮮を、わずか数十年で世界の先進地域にまで
押し上げたのは日本の方。今の日本と韓国が文化的に近いのもその時、日本から近代文明を
学んだ結果である事実を無視して、日本と韓国が似ているのは韓国が歴史的に文明を日本に
教えてあげたからだ。と妄想しているのが韓国人の実態。全く救いようのない馬鹿どもだよ。
朝鮮人の自己中、自信過剰、被害妄想、攻撃的、火病などの特異体質は有史以来、
中国に虐められ続け、優秀層や美男美女を中国に差し出さなければならなかった
歴史的背景と、伝統文化の****の影響と思われる。その文化を共有してない
日本は、どうやってもチンピラ、精神病気質の朝鮮人と価値観を共有する事が出来ない。
日本人にとって、地理的に近い韓国、朝鮮人より、中国人がまだマシに見えるのは
そういうカラクリ。
0386名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/11(水) 21:25:40.93ID:NFn36eM0
レバントに人類が現れた瞬間に日本に飛んできたのか
0387名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/14(土) 16:52:59.05ID:Q0d8UDei
邪馬台国前後の古代日本史(あやしい)
https://www.youtube.com/watch?v=G6QPd28PkB8
0388名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/16(月) 17:22:22.48ID:Lc7Gj0Tt
>>383-385
ナンポーチンコロのおまえの馬鹿馬鹿しすぎる願望創作乙
10万年以上前なんて新モンコロイドどころかモンコロイド自体がまだ存在してねえわカス
それに華南以南は13000年くらい前まで石刃技法がないんだぞ
ところが日本列島は35000年くらい前の日本列島最古の人類の足跡である石器から石刃技法石器だ
スンダランドから来てる訳がねえんだわ
そもそも石刃技法は5万年以上前にレバントあたりで登場し、45000年くらい前にアルタイ地方に
現れて、その1万年くらい後の35000年くらい前に日本列島最古の人類の足跡として日本列島に
現れるんだ
アフリカ→中東→アルタイ地方→日本列島
これが日本列島最古の人類がたどったルートだ
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州島以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居文化である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
空引機と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
.
0389名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/16(月) 18:03:31.95ID:7192N+Hf
>>388
3万年前の石器とか捏造だろ
0390名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/17(火) 17:27:42.88ID:52QNf6GF
>>389
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州島以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居文化である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居跡と
空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
考古学専攻のウハウハ考古学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の中間種みてえな顔面をしたクッサイ汚らしい醜悪すぎるナンポーチンコロのおまえ
0391名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/18(水) 18:04:50.16ID:nUWrHZRF
>>389
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面をしたナンポーチンコロのおまえ
0392名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/19(木) 17:11:31.61ID:D9xj29CD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%BC%9D%E6%9D%A5
この辺にも書いてるけど稲のDNA解析で朝鮮には存在しない中国系稲が
ジャポニカ米の主流を形成してるから弥生人=中国人説はほぼ確定だろうな
ジャポニカ米は朝鮮を経由せずに中国から直接日本に伝来したのはもう疑いようがない科学的事実
弥生人=水耕稲作技術を日本に導入した種族
ジャポニカ米=朝鮮に存在しない中国系稲
という事は弥生人=中国人でファイナルアンサーだろう
残念だったね日王=朝鮮人説のチョチョンがチョンw
0393名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/19(木) 17:23:26.57ID:1QJYrErU
>>392
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
.
0394名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/19(木) 17:38:28.38ID:1QJYrErU
>>392
弥生人は渡来時に稲作なんか伝えていない2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1455671752/
.
0395名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/19(木) 18:37:37.17ID:amBarZeC
>>392
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面をしたナンポーチンコロのおまえ
0396名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/20(金) 12:05:23.17ID:JgGrHcvd
>>392
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面をしたナンポーチンコロのおまえ
0397名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/20(金) 20:42:34.66ID:ASlE/Bip
藤原氏は源平より先に地方に天下りO系のY染色体をまき散らしたので
皮肉なことに蝦夷の土地だった東北で最も渡来人の男性が繁栄したことになる
青森 O3(現O2) …27.8% (日本全国平均18%)
https://i.imgur.com/kdVzX9p.jpg
白人農場でレイプされたアメリカ黒人と同じく
東北人はも藤原荘園でレイプされた子孫だったんだよ
0398名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/20(金) 21:30:42.85ID:q88Cj+Sy
むしろ亀ヶ岡の時代に中国系が多かったんじゃないだろうか
0399名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/20(金) 22:06:36.95ID:mVnC4VIR
>>398
中卒乙
で、亀ヶ岡の時代の中国系の生活痕遺構は?
で、亀ヶ岡の時代に中国系が多かったなんて中卒ギャグ飛ばしてる
マンガチックでむぱ頭脳のウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
.
0400名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 03:09:24.36ID:8/Yb7UmP
2021/08/19
北東アジアの言語族間の遺伝的および文化的多様性の相関関係を解明
~文法が遺伝的歴史の指標である可能性を示唆。文化的な関係と遺伝的な関係の違い明確に~
https://www.yokohama-cu.ac.jp/news/2021/202108shimizu_SA.html
本研究では、北東アジアとその周辺地域にまたがる11の言語族【図1】の関係に焦点を当て、言語、音楽、ゲノムを比較する分析を行いました。
https://user.pr-automation.jp/release/media/1706/50303/20210818141500611c97540acba.jpg
研究グループは、言語(文法、音韻、語彙)、音楽、ゲノムの5要素を主成分分析や主座標分析を用いて、同じデータ形式に落とし込みました。
そして5つの要素の類似性の可視化を行いました【図2】。
https://user.pr-automation.jp/release/media/1706/50303/20210818142424611c9988a3325.jpg
0401名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 03:21:05.92ID:8/Yb7UmP
>>400
日本語族は、ゲノム・文法・音楽でもっとも朝鮮語族に接近している
しかし音韻だけはなぜかアイヌに近い
日本語は、百済人がもってきた扶余語に、アイヌ訛りが混ざって完成した言語だろう
0402名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 07:10:50.94ID:uD72ce8H
藤原“コリアンヒーロー”秀郷の後裔を名乗る武家氏族
名字ごとのY染色体ハプログループ頻度。
佐藤 鈴木 高橋
C-M130… 7% 9% 6% (日本人平均10%)
D-M174… 24% 45% 38% (日本人平均35%)
O1b-M268… 31% 22% 30% (日本人平均30%)
O2-P198 … 30% 22% 23% (日本人平均20%)
その他… 7% 2% 2%
https://www.nature.com/articles/s10038-020-00884-9/tables/1
藤原秀郷の末裔、佐藤氏は鈴木、高橋と比べ渡来系のO1b,O2系統が多かった
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c0/Yoshitoshi_Fujiwara_no_Hidesato.jpg/800px-Yoshitoshi_Fujiwara_no_Hidesato.jpg
奥州藤原氏も頭蓋骨や子孫の遺伝子から朝鮮系と判明
>>平安時代後期の武将で、平泉に中尊寺を開基した奥州藤原氏の祖・藤原清衡(Fujiwara no Kiyohira, 1056-1128)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)。
>>これは、奥州藤原氏四代のミイラに対する骨格の調査や、子孫複数名から得られたサンプルの解析結果などによる(注2)。藤原清衡の血液型はAB型。
https://famousdna.wiki.fc2cn.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93O1b2a1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1
宮城県民のY染色体40人中17人がO1b2。
その頻度約42.5%で日本国内でも最高レベル(平均30%)。
https://i.imgur.com/sv8MULl.jpg
O1b2 (17/40) D1a2a (11/40) O2 (9/40)
C1a1 ( 1/40) C2b1 (1/40) O1a1 (1/40)
0403名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 07:34:34.96ID:8/Yb7UmP
日本語の起源(仮説)
https://www.youtube.com/watch?v=TNKY7507XPY
比較言語学、分子人類学、考古学、史書など学際的知見に基づいた仮説の一例です。1000年刻みなので所々雑な表現になっています。実際はきれいに住み分けているのではなく、バイリンガルも含めて話者が雑居していると考えてください。
【暫定見解メモ】
①日本語とオーストロネシア語族は、かつて本邦の学者によって語られたように日本本土において接触したのではない。最近提唱されているように大陸においてオーストロネシア祖語よりも古く分かれた側派(パラ-オーストロネシア祖語)が接触したと思われる。
0404名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 16:35:03.53ID:PsL3xr9l
>>399
でなければ渡来人のO2はどっから来たんだ?
0405名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 16:36:25.92ID:PsL3xr9l
沃沮が沿海州人だとしたら、箕子朝鮮の時代に明らかに漢民族とつながりがあった
というか支配されていただろう
そのためにO2やC2が東北に多い?
0406名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 18:50:29.67ID:aQSooFnQ
>>392
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面をしたナンポーチンコロのおまえ
0407名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 19:18:59.28ID:aQSooFnQ
>>404
沿海州南部
縄文末の渡来人、いわゆる弥生人は土器から見ても骨から見ても
沿海州南部から渡来した集団なのは明白
0408名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/21(土) 21:47:34.63ID:PsL3xr9l
>>406
日本に来たのはO1bのレイプされて中華系YDNAが刻みついたやつだろう
0409名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 03:18:08.00ID:0ssa5CoL
>>403
・日本語族 時計回り移動ルート(山東→遼東→朝鮮→九州)
・穢倭同系説
・古代出雲人=韓系諸語
・ハンカ湖=ツングース語族の原郷
は同意する
九州土着勢力をオーストロネシア語族にしているが
隼人・熊襲・肥前国土蜘蛛(西北九州弥生人)などは全部プレ沖縄人だと思っている
琉球大が論文で「沖縄人と台湾原住民の間に遺伝的関連性はまったくない」と結論づけているし
西北九州弥生人のサンプルをPCAプロットすると現代沖縄クラスターに限りなく接近する
彼らが沖縄の遺伝子プールのベースを形成したのだろう
北海道最北のオンコロマナイ遺跡(縄文晩期)から発掘された人骨はそのまんまアイヌだそうだから
そのときまでアイヌ語族が北海道全体を支配していたんだろう
オホーツク人はそのあと樺太から下ってきた
0410名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 03:37:02.11ID:0ssa5CoL
天コロが日清戦争で遼東半島の先っぽに執心していたのは
なにか理由があるんじゃないかと思っている
そして平成天皇の「百済にゆかりを感じる」発言
皇族どもは公式には失われた扶余・高句麗・百済などの歴史書を所持しているのではないか
0411名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 11:44:33.90ID:NiEwYWU5
>>409
底辺高卒?
山東のシナチベット語がどう逆立ちすれば日本語になるんだよ?
それに、何で朝鮮半島にも日本にも中国土器がない?
朝鮮半島にも日本にも中国大陸から入植した痕跡がないんだぞ
それに、穢と倭が同系なら穢系土器がメインの土器遺構が日本から出まくるはずだろ
それに、古代出雲人が韓系諸語なのを証明する出雲の韓系土器遺構は?
おまえは考古学の基礎がなっていない
まず衣食住に関する人間生活の痕跡を第一に考えろよ
0412名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 12:00:19.22ID:N4Hb7wfX
>>411
中国語はピンインだと日本語より英語にちよっと文法的に近いな。
日本語に1番よく似てる言語は朝鮮語ニダ。
0413名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 14:02:02.83ID:0ssa5CoL
>>411
俺はハーバード卒業してる
中国最古の王朝の領土に山東半島は含まれていない。その頃の山東人は東夷(Dong-Yi)と呼ばれていたから東夷の言語を喋っていたんだろう
考古学的には、偏堡文化(遼東)→ムムン文化(朝鮮)→弥生文化(九州)の系譜でほぼ確定してる
日本も朝鮮もシノスフィアに属すよ。その証拠におまえは漢字を使っている
斎藤成也は穢倭同系説を支持している。言語学者からもかなり支持されているようだ
日本海側に分布するヒトデ型の墳丘墓「四隅突出型墳丘墓」は倭語族ではなく韓語族が作ったものだろう
考古学とかもうオワコンだから、核ゲノムの論文をもっと読んだほうがいいぞおまえ
この数年で中国の研究機関から革命的なゲノム論文がいくつか発表されたから、それ読んでないとマジで情弱になる
0414名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 15:57:20.99ID:qgHVSpNA
>>413
ハーバード卒って中卒並みなんだなw
偏堡文化は中国土器文化じゃないし、弥生人が朝鮮半島から来たなら
朝鮮無文土器から弥生土器が始まっているはずだろうが
ところが弥生土器は同期する沿海州南部と特徴が一致する土器から始まっている
そのときの朝鮮無文土器は孔列文土器だから、弥生人が朝鮮半島から来たなら
孔列文土器から弥生土器が始まっていないと話がおかしいね
日本に漢字があるのは単に応神天皇が百済から輸入したからだが、
朝鮮半島に漢字があるのは楽浪郡を遼東漢人が建てたからだ
遼東人はウラルアルタイ語族だったが戦国時代末に燕に併合されて漢化した
名のみの漢人
しかし併合されても中国大陸から遼東に人が入植した訳じゃないから中国土器がない
だから楽浪郡の土器は中国土器ではないし、朝鮮半島にも日本にも中国土器がない
という訳だ
斎藤成也はおまえよりはまともだが、何の考古立証もできんね
穢系の土器がメインの生活痕遺構がこちらにないんだから
陵墓のスタイルはいくらでも輸入できるから渡来人には使えんね
四隅突出型墳丘墓が山陰にあっても、朝鮮半島からの人の渡来定着を証す
韓式土器遺構も朝鮮系大壁建物遺構もオンドル遺構もないね
こちらが陵墓のスタイルだけパクっただけだから
で、山東人が元はウラルアルタイ語族だったと謳っている論文は?
.
0415名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 16:04:39.89ID:qgHVSpNA
>>413
こっちも早いとこ頼むわ、真夏の公衆便所みたいなクッサイ汚らしい醜悪すぎるニオイを
いつも顔面から放っている華南ブタ広鼻インドシナ半ニグロのおまえ
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する九州以北の
スンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻考古学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面をしたナンポーチンコロのおまえ
0416名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 17:10:35.94ID:4NzEgq/B
ムムンは暗記しないのな
0417名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 17:13:42.73ID:4NzEgq/B
>それに、穢と倭が同系なら穢系土器がメインの土器遺構が日本から出まくるはずだろ
穢はそもそも位置が間違えられてるからな
史書には半島の東すべて穢と書かれてる
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kai/gisi_kaiden.htm
そこの土器は多分沿海州と近いだろう
沿海州が沃沮で半島山むこうの東すべて穢だとすると史書と符号する
0418名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/22(日) 17:26:00.12ID:qgHVSpNA
そんなおまえ一人がほざいてるだけの虚説イラネ
0419名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 00:27:39.25ID:c9ctWSS3
アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_22.html
アジア北東部集団間の遺伝と文化の相関関係に関する研究(Matsumae et al., 2021)が公表されました。
0420名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 01:00:21.09ID:ZFLXJhBC
考古学以外での割り出しは不可能だよ
遺伝子も言葉も音楽も常に変化してるんだから
例えば遺伝子も言葉も音楽も全く同じ種族を日本と朝鮮半島と沿海州と
シベリア北東部とシベリア北西部に置いて3000年後に調査したとしたら、
各地の遺伝子と言葉と音楽はかなりのズレが生じている事だろう
実際、琉球人は4~8000年前に九州から渡った縄文人が定着したものだと
考古学から分かっているが、琉球人と九州人の遺伝子と言葉と音楽は
大きく変わってしまっている
0421名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 04:01:07.53ID:c9ctWSS3
「古日本語」のルーツは
偏堡文化 → ムムン文化 → 弥生文化
ですでに決着ついてる
"An archaeological explanation for the diffusion theory of the Japonic and Koreanic Languages" Miyamoto, Kazuo (Kyushu University)
「原日本語・原韓国語伝播説を
-
18:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:51:01
-
0421名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 04:01:07.53ID:c9ctWSS3
「古日本語」のルーツは
偏堡文化 → ムムン文化 → 弥生文化
ですでに決着ついてる
"An archaeological explanation for the diffusion theory of the Japonic and Koreanic Languages" Miyamoto, Kazuo (Kyushu University)
「原日本語・原韓国語伝播説を考古学的に考える」 宮本一夫 (九州大学)
Table 1. Cultural change in the four stages of agricultural development in Northeast Asia
https://image.prntscr.com/image/zSriyVD1TsSC9enXk3lB-A.png
Stage 1 (c.3300 BC)
Crop: millet (雑穀)
Tools: Stone mortar and pestle, hoe (石臼, すりこ, くわ)
[from NW KorPen to KorPen, sRFE]
Culture: Chulmun (櫛目文土器文化)
[from Middle western KorPen to Southern KorPen] (西朝鮮~南朝鮮)
Replacing: Early Neolithic Korea
Society: Horticulture
Stage 2 (c.2400 BC)
Crop: wet-rice (水稲)
Tools: pol. stone axe, adze, reaper (土器, 石斧, 鍬, 穂摘み具)
[from Shandong P. to Liaodong P.]
Culture: Pianpu (偏堡文化)
[from Eastern Liaoxi district to Liaodong] (東遼西~遼東)
Replacing: Wujiacun culture
Society: Millet farmer
Stage 3 (c.1500 BC)
Crop: irrig. wet-rice, millet, wheat (灌漑水稲, 雑穀, 麦)
Tools: pol. stone axe, adze, reaper (土器, 石斧, 鍬, 穂摘み具)
[from Shandong P. to Liaodong P. >KorPen]
Culture: Mumun (ムムン文化)
[from Liaodong to Southern KorPen] (遼東~南朝鮮)
Replacing: Final Neolithic Korea
Society: Rice farmer and rise of chiefs
Stage 4 (8c BC)
Crop: irrig. wet-rice (灌漑水稲)
Tools: pol. stone adze, reaper (土器, 石鍬, 穂摘み具)
[from Southern KorPen to N. Kyushu]
Culture: Yayoi (弥生文化)
[from Southern KorPen to Northern Kyushu] (南朝鮮~北九州)
Replacing: Jomon
Society: Rice farmer
0422名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 04:16:40.53ID:c9ctWSS3
>>421
The first stageが朝鮮語族の移動ルート
The second and the third stageが日本語族の移動ルートとすると
先に半島に住んでいたのは朝鮮語族で、日本語族はあとからやってきた可能性があるな
0423名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 20:12:32.08ID:hvIAraUf
>>421-422
おまえも宮本一夫も、 文化の伝播=入植 だと勘違いしてねえか?
ほとんどの文化の伝播は入植を伴わない隣人から隣人へと伝わっていくリレー式伝播か
単なる輸入だぞ
入植による文化の伝播なんかほんの極一部だぞ
ただ、入植による文化の伝播は文化が確実に伝わるし、オリジナルそのものが伝わるし、
故郷の衣食住に関する生活密着文化と住居がほとんど伝わるし、しかも文化の持続期間が
長い傾向がある
偏堡文化には鬲鼎などの中国土器も見られたが、すぐに三環足器という独自の器種になり、
短命で消滅していった
それらが入植を伴わない単なる輸入文化、あるいは遼西からリレー式伝播で
伝わってきた外来文化だからだ
しかも偏堡文化は竪穴式住居で、中国には8000年前からある木骨泥墻などの土壁の
住居が伝わっていない
中国から入植なんかしてないからである
確かに朝鮮無文土器文化は偏堡文化の影響で成立している
しかし稲作は偏堡文化から伝わっていない可能性もある
朝鮮半島からは漢江下流域で4000年くらい前の稲籾が出土しているが、
遼東半島からは3000年くらい前までの稲作遺構しかないからだ
漢江下流域は山東半島から直接、稲作を輸入した可能性もある
もちろんそこには中国土器も中国系住居もないから入植を伴わない単なる輸入である
事だけは確実だが
そして、もちろん弥生文化は朝鮮無文土器文化の影響を受けて成立しているが、
最古水田遺構の弥生人集団は朝鮮無文土器を全く作っていない
稲作が入植を伴わない単なる輸入だったからだ
彼らが作っていた土器は山陰方面から入ってきた刻目突帯文土器であり、
刻目突帯文土器は沿海州南部のヴォズネセノフカ文化後期からシニ・ガイ文化初期に
かけて盛行した土器である
よろしいですかな?よろしいですかな?
ハー馬鹿奴卒のナンポーブタニグロチンコロのおまえw
0424名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 20:30:02.93ID:hvIAraUf
>>421-422
こっちも早いとこ頼むわ
真夏の公衆便所みたいなクッサイ汚らしい醜悪すぎるニオイを
いつも顔面から放っている華南ブタ広鼻インドシナ半ニグロのおまえ
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する
九州以北のスンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻学者の論文は?
で、山東人がウラルアルタイ語族だったなんて中卒ギャグ飛ばしてる
マンガチックでむぱ頭脳のウハウハ学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面を
したナンポーチンコロのおまえ
0425名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 20:42:19.17ID:zzVT7O+Q
山東半島遼東半島は非漢語だったんじゃないのかな
(S)OV系で遼河文明に近い民族か
0426名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/23(月) 23:09:37.53ID:hvIAraUf
>>425
遼東半島が元はウラルアルタイ語族圏だったのは常識だが、
山東が元はウラルアルタイ語族圏だったなんて話は聞いた事がないね
で、山東人がウラルアルタイ語族だったなんて中卒ギャグ飛ばしてる
マンガチックでむぱ頭脳のウハウハ学者の論文は?
早く持ってこいよ
0427名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/24(火) 00:01:55.45ID:tHzhlPOp
>>426
そんなんは確かめようがないだろう
じゃあ半島の紀元前2000年はどういう言語だったのかとかわかるのか?
0428名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/24(火) 00:09:24.64ID:cTd/t4eq
>>427
ハーバード卒が何の根拠もなく、山東が元ウラルアルタイ語族圏だと
ほざいてる訳じゃないよな?
で、山東人がウラルアルタイ語族だったなんて中卒ギャグ飛ばしてる
マンガチックでむぱ頭脳のウハウハ学者の論文は?
早く持ってこい持ってこい持ってこいよ華南ブタニグロ
0429名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/24(火) 00:22:33.41ID:tHzhlPOp
山東半島がいちばん遼河文明が残ってたんじゃないだろうか
0430名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/24(火) 13:00:27.78ID:0f17Ws0m
水を張った田んぼを作る水稲は百済由来
0431名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/24(火) 15:41:11.20ID:rtdiz/Tg
>>429
だから、その証拠論文を持ってこいっつってんだバカ!
で、スンダランドから大航海を経て日本列島にまでたどり着いた事を証明する
九州以北のスンダランド系の礫石器遺構は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになった事を証明する中国系の証拠遺跡と、その生活痕たる中国系の
衣食住に関する生活密着文物と住居遺構である
三足や環足や耳の付いた中国系土器の炊飯器や調理器や飲食器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の戸建の中国系住居跡と
高機(たかばた)や空引機(そらひきばた)と
漢服と
龍信仰と
亀卜と
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、紀元前1000年頃から中国で続く戦乱を逃れた難民が多数、日本列島に
たどり着くようになったなんて中卒ギャグ飛ばしてるマンガチックでむぱ頭脳の
ウハウハ考古学専攻学者の論文は?
で、山東人がウラルアルタイ語族だったなんて中卒ギャグ飛ばしてる
マンガチックでむぱ頭脳のウハウハ学者の論文は?
早く言えよブタとボルネオ黒人の合いの子みてえなクッサイ汚らしい醜悪すぎる顔面を
したナンポーチンコロのおまえ
0432名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/24(火) 20:48:16.94ID:tHzhlPOp
山東半島は周王朝時代に「夷」という国があってそれが東夷になってるだろ
朝鮮半島には箕子朝鮮がBC1000年あたりに支配して
その他東夷もこれに服属した
これが渡来人と関係あるんだろう
0433名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/25(水) 04:14:28.92ID:1b3jFLGX
3千年前に渡来した弥生人はどのような遺伝的特徴をもっていたのでしょうか。中国での古代ゲノム解析で多くのことが明らかになっていますので、簡単にまとめてみます。紀元前8000年-6000年ごろのゲノムを調べたところ、黄河流域を中心とする北部、華南を中心とする南部の遺伝的特徴に現在よりも大きな違いがみられました。北部はツングース系に遺伝的に近く、南部は台湾や東南アジアに遺伝的に近くなっています。オーストロネシア語族が南方の古代人と遺伝的に近くなっています。
南北の遺伝的な違いは、新石器時代の進行とともに徐々に小さくなっていく傾向が明らかにされています。新石器時代の始まりには、黄河流域、長江流域を中心として、アワ・キビ栽培、イネ栽培が始まっています。長江流域の古代人ゲノムは解析されていませんが、これらふたつの異なった遺伝的なグループが農耕を開始し、次第に融合していった過程が読み取れます。
韓国人と縄文人との混合で日本人を説明すると、およそ10%が縄文由来という結果が得られました。さらに、北東アジア人(ホジェン、オロチョンなど)を祖先集団として加えると、データの当てはまりが有意によくなることを見つけました。半島経由で渡来した弥生人が、韓国人よりもやや北方東アジア人の要素を強く持っていたと解釈することができます。韓国人が弥生人よりも南方東アジア人の遺伝的特徴をもっているのは、3000年前の時点ですでに異なっていたのか、その後の大陸からの影響によるのかについては現時点では判別がつきません。朝鮮半島における今後の古代人ゲノム解析に期待しましょう。
さらに、古代東アジア人と、現代日本人との関係を探りました。遼河文明に属する紅山文化および夏家店下層文化、黄河下流域(山東半島)の後李文化および河南龍山文化、福建地方の曇石山文化に注目して解析を行いました。図3の主成分分析図にはこれらの古代人がプロットされています。日本人にもっとも近縁な集団は韓国人、最も近縁な古代人は黄河下流域の前期新石器時代人ということが示されました。稲作文化とのつながりを考えて、渡来人が長江流域からやってきたという説は根強い人気がありますが、ゲノムに関しては、南方東アジア人の影響は大きくないことが分かります。
Figure 3. Principal-component analysis of present-day and ancient East and Northeast Asians.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase/129/1/129_201215/_figures/129_201215_3.jpg
遼河 - 紅山文化 (Hongshan culture ~3300-3100 BCE) 夏家店下層文化 (Lower Xiajiadian culture ~2000-1600 BCE)
黄河 - 後李文化 (Bianbian ~7600-7500 BCE) (Boshan ~6400-6100 BCE) 龍山文化 (Longshan culture ~2100-2000 BCE)
長江 - 曇石山文化 (Xitoucun and Tanshishan sites, ~2500-2000 BCE) ※福建省のサンプルをプロクシーとして使用
Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data
doi: https://doi.org/10.1537/ase.201215
0434名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/25(水) 15:07:00.28ID:1b3jFLGX
最新PCA(神澤秀明)
https://pbs.twimg.com/media/E7ok7MTVIAITXve.jpg
追加:
韓国Janghang 2号 8号
西北九州の大友8号
東名縄文人
0435名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/25(水) 15:27:08.44ID:1b3jFLGX
>>434
大友遺跡人骨の核DNA分析でわかったこと
弥生早期まで西北九州(長崎・佐賀県)は続・縄文時代がつづいていた。(→大友8号)
弥生人との混血がはじまると、漁労依存から穀物依存の度合いが高まっていった。
ヤマト人(北九州・土井ヶ浜集団)と比べると、弥生後期になっても縄文人の影響がかなり残っていた。(→下本山3号)
東名遺跡 縄文時代早期人骨
mtDNAハプログループはM7a1a。Y染色体ハプログループはD1bに分類。
主成分分析では、他の縄文人とクラスタ化し、縄文人が同じ遺伝的集団に属する、と示唆される。
現代日本人におもに遺伝的に寄与したのは、西日本縄文人だった可能性があるが
核ゲノム分析は、東名遺跡の西日本縄文人が他の縄文人よりも現代日本人と密接に関連している、という証拠を提供しない。
韓国のJanghang
シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
0436名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/26(木) 02:27:46.47ID:4M6z5diL
宮本一夫 『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』
「無文土器に見られる土器製作の新しい四つの技術が古日本語を象徴するものならば、古日本語の出自は偏堡文化に求められ、そしてその故地は遼西東部ということになる。」
「古日本語は紀元前2400年頃の偏堡文化に由来し、その後の紀元前1500年頃に朝鮮半島南部まで稲作農耕文化を受容したことになる。」
「中国東北地方で4400年前に日本語が成立し、それが南下していく中で、長江由来の稲作文化を受容し、朝鮮半島南部から日本列島に移動した。」
「朝鮮半島の無文土器文化社会(弥生文化によく似た社会)の人びとが使用していた言語は古日本語だと考えられています。」
「一方、古韓国語は「古日本語より新しい段階に分化して朝鮮半島に広がった。その時期は紀元前5世紀で、初期鉄器時代(細形銅剣文化と同じ時期)に遼東から朝鮮に南下した」
0437名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/26(木) 03:59:51.11ID:4M6z5diL
奈良には 百済人 高句麗人 新羅人 伽?人 穢貊 中国系朝鮮人 遼東系朝鮮人
朝鮮半島にいた民族はすべて奈良にいた
奈良(=那羅)は、朝鮮半島の民族のるつぼ、多ミンジョク国家だった
0438名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 06:45:31.48ID:L09FbxqX
縄文時代は、プレアイヌ時代
弥生時代は、無文土器文化時代
古墳時代は、先住民ジェノサイド時代
飛鳥時代は、百済王朝コピペ時代
に名称変更すべき
0439名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 06:46:52.70ID:L09FbxqX
耽羅は、"tam(耽)ra(羅)"で"tam(耽)"が閉音節になるが、
百済からは"ta(耽)mu(牟)ra(羅)"と呼ばれたことが記録に残っている。
百済は、朝鮮語とは発音が異なる開音節の言語を使っていたことが見て取れる。
0440名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 20:21:47.57ID:3czDby0x
だから沿海州だって
紀元前1000年あたりからはじまる弥生時代はムムンなんて主流じゃない
0441名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 22:09:11.77ID:L09FbxqX
>>440
ケンブリッジ大学の言語学者の見解はこうだ
日本語族の移動ルート
遼東 → 遼東・山東 → 南満州・半島・北九州
The linguistic landscape of the Korean peninsula in time and space.
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20201112154947009-0781:S2513843X20000493:S2513843X20000493_fig1.png
0442名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 22:17:31.66ID:3czDby0x
そんなアホな説を何度書いても真実にはならん
科学の真実ってだいたい結論はひとつだから
そのひとつの結論を求めるように思考しろ
0443名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 22:21:49.32ID:3czDby0x
山東半島の周王朝時代の国「夷」
これが東へ渡って(かどうか)東夷という呼称がある
ブタニグロさんこの見解はどう思う?
0444名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/27(金) 22:38:20.38ID:L09FbxqX
わかってきた「古日本語」のルーツ: 偏堡 → ムムン → 弥生
遼東 偏堡文化 (5000年前~4500年前)
朝鮮 無文文化 (3500年前~2300年前)
日本 弥生文化 (3000年前~1800年前)
稲作伝播ルート:
山東 揚家園遺跡(4000年前)
遼東 大嘴子遺跡(3500年前)
朝鮮 大坪里遺跡(3200年前)
日本 菜畑遺跡(3000年前)
Japonic:
倭、扶余 (穢、高句麗(貊)、沃沮、百済、加羅)
0445名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/28(土) 00:06:46.50ID:jXhJ8Ufv
扶余 (穢、高句麗(貊)
これら語族は半島にはいなかったろ?
なんか部分部分受け入れておかしなことになってるぞ
0446名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/28(土) 00:07:36.06ID:jXhJ8Ufv
無文土器はおそらく馬韓とかの原住民が使ってたスタイルで倭とは何の関係もない
史書みても言語につながりもまったくない
0447名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/28(土) 00:08:03.63ID:jXhJ8Ufv
こういう論理が通じないタイプってコロナは何派なんだろうか
0448名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/28(土) 05:33:16.41ID:KcRLZGoy
1941年に日本学術振興会によって行われた遼東半島上馬石貝塚の発掘は、長い間その資料が公開されないままであった。
それは、新石器時代から青銅器時代さらに初期鉄器時代に至るまで連綿と続く遺跡であり、本地域の基準的な土器編年網を構築できる遺跡であった。
これによって作り出された遼東土器編年は、中国中原と朝鮮半島さらには北部九州を結ぶことができるものであり、弥生の実年代を考古学的手法によって唯一解明できるものである。
その結果、北部九州の弥生時代の開始は紀元前8世紀頃にあることが証明された。
さらには、韓国無文土器文化の起源を土器製作技法から繙き、遼東の偏堡文化の拡散と関係することを初めて明らかにした。
こうした土器製作技術の解明は、朝鮮半島の無文土器の始まり、さらには弥生土器の起源を明らかにすることに繋がった。
また、韓国初期鉄器時代に相当する粘土帯土器の出自が遼東にあることを、初めて実証的に示したのである。
0449名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/29(日) 05:29:59.25ID:pARS/v+o
「遼東半島土器編年からみた弥生開始期の実年代研究」 宮本 一夫
A reseach of dating of the beginning of Yayoi period viewed from the chronology of pottery in the Liaodong Peninsula
https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-22520769/22520769seika.pdf
土器の製作技術に着目すると、朝鮮半島の無文土器や日本列島の弥生土器などに見られる土器製作技術が、遼東の偏堡類型(三堂1期)にあることを突き止めることができた。それは、幅広の粘土帯の外傾接合、刷毛目調整の存在(図2)などを根拠とするものである。すなわち、朝鮮半島の新石器時代や日本列島の縄文時代とは異なった土器製作技術の起源が、遼東半島の偏堡類型にある可能性が高まったのである。
また、土器の植物種子圧痕分析からは、遼東における農耕作物の時代的な変化を明らかにすることができた。これによると、新石器時代後期の偏堡類型からアワなどの雑穀が認められ、青銅器時代になるとこれにコメ(図3)とダイズが加わることが明らかとなった。青銅器時代のコメは山東半島からもたらされたものである。
従来、遼東半島の大嘴子遺跡の双?子3期文化段階から炭化米などが出土していたが、この土器圧痕分析でも、その内容を追随した成果が示された。なお、広鹿島の小珠山遺跡からは、小珠山下層の住居や文化層から炭化アワが出土しており、本来アワ栽培は小珠山下層段階から始まっていた可能性である。但し、上馬石貝塚の小珠山下層土器からは、アワの圧痕は発見されていない。
上馬石貝塚で出土した石器の分析や石器の使用痕でも明らかなように、朝鮮半島の無文土器社会や日本の弥生社会は、生業的には山東半島を起源とする稲作農耕文化にあることを再確認した。しかしながら、朝鮮半島無文土器時代の土器作りなど基本的な生活習慣は遼東の偏堡類型にあるように、無文土器時代の文化内容は遼東に起源することが明らかとなったのである。
したがって遼東起源とする文化に、生業的には山東から遼東半島に流入した水稲農耕文化を基本とした朝鮮半島無文土器文化が生まれ、これが日本列島の弥生文化の基層となったことが理解されるに至ったのである。
0450名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/29(日) 05:50:06.79ID:pARS/v+o
宮本一夫氏の卓越した論文を読んですべてが氷解
ついにわかってきた古日本語のルーツ: 偏堡(Pianpu) → ムムン(Mumun) → 弥生(Yayoi)
水稲は山東からきたが、土器作りなどの生活習慣は遼東の偏堡文化が基盤
すなわち日本語族の故地は遼東半島にあった
O1b2、O2、N、C2の混成グループは、やはり遼河周辺で発生したと考えたほうが合理的だ
その中から朝鮮に南下したものがムムン(無文土器人)になり、さらに九州へと南下したものが弥生人になったのだ
北東アジアの集団(日鮮満・内蒙古)が遺伝的に類似しているのは、遼河集団という共通祖先をもっているためだろう
ADMIXTURE分析
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-03336-2/MediaObjects/41586_2021_3336_Fig7_ESM.jpg
0451名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/29(日) 16:53:05.16ID:2BtuDiYN
南下した時期は何年よw
BC12世紀まで遡るのか?
亀ヶ岡が最初期の渡来と考えたほうがしっくりこね?
0452名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/30(月) 18:34:37.54ID:WPN2ZKua
北東アジアにおける農耕の起源は内蒙古・遼寧省(6200-5100 BC 興隆窪文化)にあり、
Xinglonggou遺跡から雑穀の最初期の証拠が見つかっている。
沿海州では、雑穀の登場は、Zaisanovka文化複合体の文脈において、後期・新石器時代(3500BC)に位置づけられる。
朝鮮半島でも同時期に雑穀栽培が始まっており、南満から人類の移動があったと推定される。
農耕を受容したツングース語族が人口を増大させ、沿海州に在来していたAmuric(ニヴフ語族)を征服し
それら狩猟採取民の原始言語を塗り替えたため、最終的にニヴフ語だけがアムールで孤立化することになる。
稲・雑穀 (rice and millet) の複合栽培の起源は、山東半島にあり、この農業パッケージはやがて遼東・韓国・日本へと拡散する。
支石墓(ドルメン)の分布とも密接に関連しており、この担い手は日韓祖語を話していた可能性が高い。
ヨーロッパのドルメンも農耕との関係を指摘されているが、東アジアの支石墓もやはり農耕の伝播を伴った。
考古学的に実証された中国最古の王朝(1600-1046BC)の「殷」に山東半島は含まれておらず、
東夷(Dong-yi)などと呼ばれていた。この時代まで山東半島では東夷の言語が話されていたのだろう。
沖縄は農耕社会が確立されたグスク時代(AD1000-1100)に人口が増えるので、そのときの影響が現代沖縄人にとっていちばん大きいと思われる。
日本列島は、いつ農耕を受容するかで集団の姿形が決まる。
九州、西日本、東日本、沖縄、そして最後まで農耕を受容しなかった北海道(アイヌモシリ)ではやはり歴史が違っている。
Martine Robbeets: "Spread of agriculture (rice and millet)"
https://i.imgur.com/gCeIRxN.jpg
ドルメン(支石墓)のエリア
http://4.bp.blogspot.com/-cJfnCZ72usU/U5VRy43i3NI/AAAAAAAABHQ/JchKHt5QTH4/s0/Dolmens_in_East_Asia.jpg
0453名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/31(火) 08:30:49.31ID:wBiHqx97
なんか必死な朝鮮人がいるけど、さすがに近現代は証拠が多すぎて
もう日本に韓国が文明を教えてあげた論がさすがに通用しなくなってきて、
数千年も土に埋まってた土器の欠片とかで妄想を膨らませれば
何とでも言える古代の話に縋り付くようになったって所かねえ?
いや、仮に朝鮮から日本に文明が伝わったとしたってそれって
クロアチア人がイタリア人にギリシャ文明を教えてあげたのは俺たちだー!!
と言い張ったり、デンマーク人が北欧人に西欧文明を教えてあげたのは俺らだぞ控えおろう!!
と言ってるようなもんだけど、そんな馬鹿な話でマウント取ろうとするのは
実際には朝鮮人ぐらいなんだよね。
0454名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/31(火) 08:47:10.76ID:wBiHqx97
だってそれって単に文明の通り道だっただけの話で、その通り道ですら
大昔の話で海上ルートだったのか、陸上ルートだったのかも定かではない。
そんな大昔のよく分からん話で、事実としてもただの通り道・・。
いやそんな話で、マウント取ろうと思う時点で朝鮮人の知能が知れるって話。
さすが日本に植民地にされるまで世界最貧国で、19世紀にもなって
まだ染料技術もろくになくて白装束の乳だしチョゴリ着て、ウンコを
その辺に垂れ流して生活してた民族だけの事はある。
日本統治で道路も、橋も、鉄道も、ダムも、発電所も、学校、警察も
近代法も、すべて日本本土の税金持ち出しで作って貰って、
僅かな期間で人口も、所得も、平均寿命も倍増、経済大発展させて
貰ったくせに、今の韓国経済の屋台骨を支える財閥の発祥も
ほとんど日本統治時代で、その前の暗黒時代と経済面でも
文化面でも断絶が起きてる事もすっかりなかった事にして、
日本統治は世界に類を見ない悪逆非道な物で、朝鮮人は奴隷扱い
されてひどい目にあった。俺らが独力で国造りしてればもっと凄い
国になってたとか事実と真逆の歴史を教えているのが
朝鮮人だからなあ。
いやほんと凄い民族だよ。歴史捏造にかけたら奴らの右に出る
勢力はいないだろうね。よく分からない古代の話なんて、
朝鮮人の歴史捏造能力にかかったら、コロッと全部日本文明は
朝鮮人の創作による物!!
という事にされるのも時間の問題だろうね。朝鮮人は何でも朝鮮起源説も得意だけど、
在日に日本人名を名乗らせて、日本人のふりして朝鮮人の主張を代弁させるのも大得意だからなあw
0455名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/31(火) 09:18:15.47ID:W5RBFdsk
>>454
都合が悪いと全て朝鮮人ガーにしちゃうのかな?
0456名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/31(火) 12:14:41.98ID:Kz5l1bP0
>>452
日本史の教科書ではぜんぜんイメージできなかった。
ある時期現れた墓の形式としか認識してなかった。
日本は支石墓文化のごく周縁なのね。
0457名無しさん@お腹いっぱい。
2021/08/31(火) 12:25:41.99ID:Kz5l1bP0
>>454
韓人が日帝統治による近代化を否定したいのとまったく同じで
百済の影響でなし得た文明化をなかったことにしたいのが倭人。
受けた恩はすぐ忘れ、恨みだけは根に持ち続けるチョン族の特徴そのもの。
半島から列島まで全部チョンだったんです。日本人なんて端からいなかったんですね
0458名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/05(日) 00:45:22.25ID:kLCpLwUg
大陸倭語 Peninsular Japonic / 日本語の起源
https://www.youtube.com/watch?v=4JUYxjkgCJw
0459名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/05(日) 21:18:47.66ID:CzwgNzn4
弥生時代の世界情勢
http://i.imgur.com/ZikOv3P.jpg
弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代~
初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島
では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前
700年頃には青銅器、紀元前300年頃には鉄器が伝わり
普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州
地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土して
おり、弥生時代の福作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島
からの人々が関わったことを示峻しています。 吉野ヶ里
遺跡でも、朝鮮系無文土器が多数出土しています。
0460名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/05(日) 22:15:09.35ID:CzwgNzn4
こういう関西顔って朝鮮半島に多いからね
やっぱ幾内にあった大和朝廷って朝鮮人の末裔じゃね?
https://i.imgur.com/E7zrnar.jpg
https://i.imgur.com/IvpW2lo.jpg
https://i.imgur.com/IsULrW9.jpg
0461名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 00:05:14.76ID:1et3BsWk
なんかここ在日が住みついてて同じことばっか言ってる
0462名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 01:04:53.96ID:PLctoPU9
縄文由来の核ゲノムが10%しかなく大半は朝鮮由来の和人が
縄文ゲノム70%のアイヌをザイヌ扱いしてるのが笑えるよな
たった10%のくせに縄文人気取り
これがもしやネトウヨの言う「背乗り」ってやつなのか?
0463名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 20:42:50.70ID:fU4+w2Bn
アイヌが70%なら縄文ってほとんどアジア顔やん
アイヌyoutuberみて見た目で判断できるか?
0464名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 21:02:05.81ID:jQpRrx1h
生粋の縄文はオーストラロイドと東南アジアの中間だから東アジア人だよ
0465名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 22:06:27.40ID:fU4+w2Bn
アホかと
どこにオーストラロイド要素あるんだ
0466名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 23:01:20.34ID:QWgg5MAi
縄文のハプログループはD。オーストラロイドはC1b2、MS、K。
もしオーストロネシアンと勘違いしてるとしても、ハプログループはO1aで縄文とは関係ない。
0467名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 23:05:46.83ID:jQpRrx1h
Yハプロの話なんて一切してないがなに勘違いしてるの?
0468名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 23:25:54.20ID:jQpRrx1h
縄文はネグロイドだとでも言いたいのか?
0469名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 23:26:33.80ID:jQpRrx1h
そんな間抜けはガボンだけで十分だよな
0470名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/06(月) 23:29:49.21ID:jQpRrx1h
それともあれか?
Eが原始コーカソイドで、縄文が属すDも白人だってのたまう
いつものクロマニョンバカか?
0471名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/07(火) 12:43:22.02ID:4Wca17Wk
>>466
強いて言えば早期縄文系のC1a1がオーストラロイドのC1b2と遠い親戚にあるけどな。
因みに縄文系は主流のD系だけでなくC1a1も旧石器時代から日本にいた。
0472名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/07(火) 12:47:17.65ID:lt22JDgE
で、旧石器人骨か縄文人骨からC1A1が出てというソースは?
0473名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/07(火) 12:56:36.78ID:lt22JDgE
まあこれを見れば
>>464なのは一目瞭然なんだけどな
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180706-00.jpg
0474名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/07(火) 18:57:52.06ID:cB0i6fdU
C1a1は縄文遺跡からも他国の古代遺跡からも一つも見つかってない
現状C1a1について言えることは殆ど何もない
ネットでC1a1について書いてあることは殆ど根拠なしのデタラメ
Y-DNAは勝手に脳内ストーリーつくって解釈する馬鹿が多いから有害
0475名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/07(火) 19:15:42.77ID:lt22JDgE
>>474
だよな
彼らには想像力の無駄遣いが多すぎるね
0476名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/08(水) 05:16:44.57ID:G3Gx3Fzi
ADMIXTURE分析みれば日本人の正体が一発でわかるぞ
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/digx/20161208/20161208164651.gif
0477名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/08(水) 21:19:49.23ID:z//6Ehu9
C1a1は四国に多く、東北には少なく、アイヌにはほとんどいない
沖縄にもいる
これらから導き出せる答えは?
0478名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/09(木) 11:57:19.33ID:LUIqeph1
アカホヤ噴火前の南九州貝文土器文化の担い手はC1a1だったかもしれないという説もあるらしい。
そこでC1a1は一旦大きく数を減らしたのではないかな。
0479名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/09(木) 22:52:51.96ID:xdjEjt2N
宮本一夫氏の論文を簡単にまとめると
・遼西、遼東、黒龍江省という三土器地域圏(新石器時代)
・その地域圏の決定的崩壊が青銅器時代(遼西から青銅器が伝播)
・新しい土器組成が拡散し、地域圏が拡大
・しかしながら、その土器組成の変革は瀋陽地区以北に限られている
・燕文化が伸長した段階でも、遼東半島から西北朝鮮の土器には地域性がある
・中原の文物が朝鮮半島に本格的に流入するのは、秦漢帝国の成立に至ってから
0480名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/11(土) 01:52:33.55ID:9GTSPtsY
ぴたりと一致している
縄文時代の東日本交易路網
https://i.imgur.com/C1WGKBn.png
ヤマトタケルの東征ルート(=渡来人の侵略ルート)
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg
0481名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/12(日) 04:58:31.16ID:Byc89wzb
縄文時代に稲作はあったのか
https://i.imgur.com/64Es3YQ.jpg
「縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。 縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、土器についた籾の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼるとみなされていたのです。
しかし、籾圧痕にシリコンを注入して 顕微鏡で観察した結果、籾にあるはの針状の突起、「禾」を確認できませんでした。またコメを食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調 べられましたが、じつはコクゾウムシはコメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲 作は弥生時代早期からというのが最近の研究者の大方の見解です。 」
0482名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/12(日) 22:42:20.33ID:AT5zInBI
ガボンと同じで話きかんな
0483名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/13(月) 10:53:02.04ID:M7Sk1hqv
古代日本語と古代朝鮮語の雑居 Peninsular Japonic / 日本語の起源
https://www.youtube.com/./watch?v=NFjpHHeYGBo
0484名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/13(月) 11:50:52.15ID:EaFgfW7c
>>483
高松塚古墳を調査したら壁画が朝鮮のものと酷似してたので、慌ててバレないように蓋をしました。
本当の理由は外気に触れる事による壁画の劣化防止の為だそうです。
0485名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/13(月) 13:31:19.50ID:MtsRhmTn
平面顔の不細工が少なかっただろう
しかしワキガ率は相当上がったはず
0486名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/14(火) 00:21:47.76ID:9Mb5r2l3
以前NHKで、父系、母系のDNAを探るで、スタジオにいた人たちのDNAを調べていったら
最初、母系を調べたら、あなたはインドネシア系、あなたは中国系、あなたは蒙古系とスタジオ内でけっこう笑っていたのに、父系を調べたら、大阪吉本系お笑い芸人の父系が全員朝鮮半島系だったので、アナとか途中で言葉に詰まっていたら
DNAを調査した医師が、「父系といっても古い時代ではなく、おそらくお父様が朝鮮半島の人間だったと言うぐらい近いDNAです。」
って答えたら、アナが突然話を変えてごまかしていたわw
あれには笑った。
0487名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/14(火) 12:18:36.50ID:HGD3A4r9
>>486
>おそらくお父様が朝鮮半島の人間だったと言うぐらい近いDNA
在日2世3世か帰化人というのがバレバレ
0488名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/14(火) 13:11:16.30ID:pJ/vCYD3
>>487
タレントや歌手や芸能人なんか在日2世なんて珍しくないやん
カミングアウトしてない人もおるし
それに国籍で差別されなく実力とかルックスの世界だからな
0489名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/14(火) 13:12:28.44ID:pJ/vCYD3
正確に言うと親や祖父母が在日2世
0490名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/16(木) 01:57:26.32ID:vYCL32HR
君らの頭の中にある天皇のイメージは、明治に英国が作ったものだ
日本人に戦争させるために英国がデザインした天皇だ
菊の御紋も、宮中祭祀も、明治以降に始めたものだ
誰も見に来ない宮中祭祀をやるバカはいない
古代からの天皇というものは普通に侵略者であり
征夷大将軍という日本人狩り部隊を組織し
天皇は百済由来の厳格な身分制度を作り、日本人を最下層の農奴にした
武士は天皇が半島から連れてきた殺戮部隊だが
武士が農民を強姦しようが、首を落とそうが自由だった
そこまでの身分差は何が起点になったか考えてみることだ
普通に、侵略する側と、された側にしか見えないではないか
天皇は国の平和と民の幸せを祈った?バカぬかせ
天皇が来てから日本は殺し合いの国になった
戦うときには、日本人である農民に刀を持たせて、日本人同士が戦い
それで決着がつくと半島人武士のおでましになる
百済と新羅の戦いが日本列島に持ち込まれ、そこに日本人農民が無理やり参加させられたのだ
ゴミチョン天皇によってだ
0491名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/16(木) 07:09:37.10ID:vYCL32HR
2021年09月16日 和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_16.html
0492名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/16(木) 07:10:02.79ID:vYCL32HR
mtDNAの解析結果とmtDNAハプログループ(mtHg)の分類は以下の表1に示されています。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/163160519302225360574.jpg
4号石室出土人骨のmtHgは3個体ともM7a1aで、ダイレクトシークエンスの結果も分析できた範囲で同一でした。第5号および第6号石室出土人骨のmtHgはそれぞれD4b2a2a1およびM7a1b1と推定されました。
検出されたY染色体ハプログループ(YHg)は、第1号石室1号がO1b2a1a1、第1号石室2号がD1b(現在の分類ではD1a2aだと思いますので、以下D1a2aで統一します)でした。
主成分分析によりアジア東部の現代人・古代人と比較した結果、第1号石室2号人骨は本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」現代人クラスタの近傍に投影されましたが、1号人骨は「本土」日本人と「縄文人」クラスタの間に位置しました(図1)。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/163160519333880455716.jpg
傾向としては、西北九州弥生時代の長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡2号・3号と類似しています。
本論文は、古墳時代の近畿地方においても、日本列島「本土」現代人集団よりも顕著に高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素の個体が存在したことを示しています。
磯間岩陰遺跡の事例は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません。
磯間岩陰遺跡は「周辺部」に位置し、「縄文人」的な遺伝的構成要素が遅くまで残りやすかったのではないか、というわけです。
0493名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/18(土) 05:38:37.89ID:zbQWEJW/
発掘50年、磯間岩陰遺跡の研究まとまる
https://news.yahoo.co.jp/articles/26eca88a175cb06478c48c49b5dc0a08f31b8e14
0494名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/18(土) 06:48:13.65ID:zbQWEJW/
磯間1-1(南関西古墳人=漁労系)も、下本山3号(西北九州弥生人=漁労系=肥前国土蜘蛛)も、
現代日本人よりも縄文人に近い位置にPCAプロットされた
Y-DNAは、磯間1-1がO1b2、下本山3号がO(コンタミネーションにより細分化できず)と報告されている
端的にいってしまえば、弥生オスが縄文メスを孕まして生まれた個体であろう
和歌山の辺境地とはいえ、古墳時代の関西に縄文人由来の核ゲノムを高く有する集団がいたのは
それなりのニュースだとおもわれるが、日本の報道メディアはガン無視している
青谷上寺地遺跡の研究報告では「父系で縄文が優勢」などというミスリードを大々的に行っていたが
(実際は、青谷弥生人のサンプル109体のうち、わずか4体のY-DNAの決定に成功したに過ぎず
核ゲノムではいずれも現代日本人の範疇に入った、という肝心の論文報告は伏せて報道していた)
PCA
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/163160519333880455716.jpg
参考資料
・磯間岩陰遺跡の研究分析・考察
・西北九州弥生人の遺伝的な特徴 ―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―
・鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土弥生後期人骨のDNA分析
0495名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/19(日) 05:38:54.10ID:a0hxI3l6
遺伝子解析から見た東アジアの民族関係 I 斎藤成也 敎授(国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室)
https://www.youtube.com/watch?v=nb5euntzGa0
ゲノムからみる弥生時代人 I 神澤秀明 博士(国立科学博物館)
https://www.youtube.com/watch?v=Aed59M-oKqw
0496名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/19(日) 06:59:13.49ID:a0hxI3l6
加徳島獐項 (Janghang) 遺跡
https://i.imgur.com/XBNoaQz.png
・6300年前の新石器時代人骨
・4体分析し、2体から結果を得た
・ミトコンドリアDNAハプログループはD4b1とD4a
・核ゲノムの約12%, 18%をそれぞれ決定
・性別は両方とも女性
0497名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/19(日) 13:42:02.18ID:a0hxI3l6
日本水稲農耕の起源地に関する総合的研究 宮本一夫
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16251004/
>膠東半島の趙家荘遺跡では龍山文化期の不定型な畦畔水田が発見されており、
>水田のような灌漸農耕が山東において始まった可能性が明らかとなった。
>山東東南部の黄海沿岸では龍山文化期にイネがアワ・キビより主体であることが明らかとなった。
東アジアにおける農耕の拡散・変容と牧畜社会生成過程の総合的研究 宮本一夫
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19H05593/
研究期間 (年度) 2019-06-26 - 2024-03-31
>宮本が山東大学歴史研究院欒豊実教授と共同研究の協議を行い、
>科研期間の5年間の発掘調査を含めた共同研究が可能になった。
>この結果、これまでの知見よりさらに古い段階の紀元前4000年頃には、
>山東半島東端の煙台地域までイネが伝播しているという新発見を得るに至った。
0498名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/21(火) 16:32:24.37ID:Ij3BPBpu
今回新たに公開されたゲノムデータ
古墳末期 石川・岩出横穴墓 現代日本人の範疇
https://i.imgur.com/DHlWvP2.png
https://i.imgur.com/YM3TQtL.png
https://i.imgur.com/QyZLQbo.png
弥生早期 佐賀・大友 縄文100%
弥生中期 長崎・下本山 縄文60%
https://i.imgur.com/a4AAf9z.jpg
弥生中期 福岡・安徳台 現代日本人の範疇
https://i.imgur.com/jg13GYh.jpg
弥生後期 鳥取・青谷上寺地 現代日本人の範疇
https://i.imgur.com/ogS1Emj.png
古墳時代 関東・羽根沢台 現代日本人の範疇
https://i.imgur.com/4aXZS6l.jpg
古墳時代 島根・猪目 現代日本人の範疇
https://i.imgur.com/EbFy58e.png
0499名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/26(日) 01:13:02.09ID:bY2rVVEU
日本人+北部中国人+そう多くないツングース=韓国人
という感じでしょうか
0500名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/26(日) 14:07:13.19ID:S0KJjPnT
2021年09月26日 オホーツク文化人のゲノム解析とアイヌ集団の形成過程
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_28.html
オホーツク文化人のゲノム解析結果を報告した研究(Sato et al., 2021)が公表されました。
0501名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/29(水) 02:11:56.37ID:alSPdI6A
魏志倭人伝の完全解読・最新私見(暫定) とりあえず人名のみ
https://www.youtube.com/watch?v=ysz7RjReCOI
0502名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/29(水) 20:15:26.78ID:HN+ZnFI5
>>499
書き換えると
韓国人+縄文人ー北部中国人ーツングース=日本人
といったところでしょうか
このページでは朝鮮民族はモンゴルより凄い北部モンゴロイドになってますが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%83%A8%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89
0503名無しさん@お腹いっぱい。
2021/09/30(木) 18:51:27.68ID:n4C4doTF
>>502のリンクのWikipediaの殆ど最後には脚注で朝鮮民族が核DNAが
遼河人(北部モンゴロイド)のままである様に書かれていますが
私の見た核DNAの図などの多くは韓国人は中部の集団になっていますが
どちらが正しいのでしょうか
私の調べたところ脚注は2017年頃に書かれている様で
核DNAでの研究も始まっていた様です
脚注
^ 朝鮮は古くは遼河文明圏であり、遼河人(北部モンゴロイド)由来の
ハプログループN(Y染色体)が高頻度であったと考えられるが、
中国江南より無文土器を携えたハプログループO1b2 (Y染色体)、
のちに漢族(ハプログループO2 (Y染色体))がやってくるなり、
父系(Y染色体)がNからO1b2、O2に置き換わったと考えられる。
一方の母系(mtDNA)(およびおそらく殆どの核DNA)は遼河人起源のまま保たれ、
江南起源Y染色体O1b2・漢族起源Y染色体O2-遼河人起源のmtDNA・核DNAのセットの
朝鮮民族が形成されたと考えられる。これが、朝鮮民族が北方系の形態を持つにもかかわらず、
Y染色体のみが南方系である所以である。
0504名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/03(日) 19:15:05.92ID:CmqyDxZi
>>503
今の色々なデータからいうと
韓国人の殆どの核DNAが遼河人というのは間違いじゃなかろうか?
形質から言っても北部モンゴロイドと中部モンゴロイドの中間ぐらいじゃないの?
0505名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/04(月) 15:51:51.93ID:263RK1OM
>>503
最近の核DNAの結果だと韓国人と日本人はとても近いようだけど
昨今の韓国人の活躍を見ていると
もしかすると日本人と違って韓国人はすごいDNAを持っているかもしれない!
かもと俺は思う
0506名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/05(火) 13:19:07.61ID:h3nhkpjD
ところで結局韓国人は核DNAが遼河人なの?
それとも日本人とそう変わらないの?
0507名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/07(木) 15:01:38.12ID:qkGzw2Fr
>>506
私は答えがわかりません
誰か教えてあげればいいのに
506さんはきっと聞ける友人などがいないんだと思います
偉い先生にくだらない質問をするのも勇気がいるし
同じような質問を見たことがあるのですが506さんは心の病気をもっておられるの
かもしれません
そういう方は一つの事に執着するので似た様な質問をしてしまいます
0508名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/19(火) 11:55:49.05ID:aFbueDUU
まあひどい!!
>>502さん達が必死で聞いているのに教えてあげないなんて!
早く教えておあげなさい!
0509名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/20(水) 21:26:48.65ID:75vTSuVW
納税義務者一人当たり課税対象所得
01.新宿区…555万5123円 25.高松市…327万2522円
02.横浜市…409万3624円 26.甲府市…326万1738円
03.名古屋…406万2662円 27.福井市…322万8964円
04.千葉市…400万7177円 28.熊本市…321万6881円
05.サイタマ・…395万6730円 29.長野市…319万9982円
06.奈良市…370万6378円 30.札幌市…318万6221円
07.神戸市…367万3814円 31.富山市…318万3250円
08.京都市…363万4564円 32.盛岡市…317万8103円
09.大津市…356万4908円 33.山形市…313万6511円
10.福岡市…356万0072円 34.佐賀市…313万2512円
11.宇都宮…350万2245円 35.松山市…311万4530円
12.岐阜市…349万3717円 36.大分市…311万1687円
13.広島市…348万7826円 37.福島市…311万0592円
14.仙台市…346万9242円 38.山口市…309万6003円
15.大阪市…344万6756円 39.鹿児島…304万8605円
16.水戸市…344万1704円 40.高知市…302万7757円
17.金沢市…341万4112円 41.新潟市…301万1561円 wwwwwwwwwwww 貧乏なお百姓しか住んでいない新潟市 佐賀山口高知未満で松江とライバル
18.徳島市…334万5684円 42.松江市…297万4815円
19.那覇市…331万3918円 43.宮崎市…297万4369円
20.和歌山…330万5899円 44.秋田市…297万1043円
21.岡山市…330万4435円 45.長崎市…296万6148円
22.前橋市…329万6830円 46.鳥取市…279万9281円
23.静岡市…329万6788円 47.青森市…277万6880円
24.津_市…329万5727円
出典
総務省『市町村税課税状況等の調査』
2020年度の納税義務者1人当たりの課税対象所得
01.横浜市…409.4万円
02.川崎市…407.8万円
03.名古屋…406.3万円
04.千葉市…400.7万円
05.サイタマ・…395.7万円
06.神戸市…367.4万円
07.京都市…363.5万円
08.福岡市…356.0万円
09.広島市…348.8万円
10.仙台市…346.9万円
11.大阪市…344.7万円
12.堺_市…344.1万円
13.相模原…341.7万円
14.浜松市…334.7万円
15.岡山市…330.4万円
16.静岡市…329.7万円
17.熊本市…321.7万円
18.札幌市…318.6万円
19.北九州…315.4万円
20.新潟市…301.2万円 wwwwwwwwwwww 新潟にはまともな地元企業もなければ、大企業の支店や営業所にも総合職採用がいなくて現地採用の安月給ばかりだからこうなる。
0510名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/23(土) 23:29:04.78ID:dYolhsZF
東京女子医科大学皮膚科、株式会社エムティーアイ、株式会社スタージェンは、ビッグデータ解析技術※1を用い、
約1万人のゲノムと特徴のデータを解析した結果、皮膚科に関する7つの特徴
(「シミのできやすさ」「ソバカスのできやすさ」「まぶたの一重二重」「眉毛の濃さ」「髪質」「毛深さ」「汗のかきやすさ」)と関連の強い遺伝子領域をそれぞれ発見しました。
ゲノムと特徴のデータは、株式会社エムティーアイの子会社である株式会社エバージーンの遺伝子解析サービスのプラットフォームを利用し、
エムティーアイが運営する『ルナルナ』ユーザーの協力者約2万人を対象に、自宅で採取した唾液より抽出したDNAから約60万SNP※2の遺伝子情報を読み取り、
その中から精度の高い検体およびSNPのみを抽出して得た11,311人、約54万SNPの遺伝子情報と体質に関するWEBアンケートの結果から得られたものです。
1.シミ・ソバカスのできやすさ
アンケートにて「シミができやすい」「ソバカスができやすい」と回答した人において、5番染色体および10番染色体に特徴的な遺伝型の組み合わせが存在することが明らかになり、
それぞれPPARGC1B、RAB11FIP2と呼ばれる遺伝子領域でした。また、「ソバカスができやすい」と回答した人にのみ、9番染色体のBNC2、10番染色体のHSPA12A、
また、17番染色体のAKAP1およびMSI2と呼ばれる遺伝子領域において、特徴的な遺伝型の組み合わせがあることも判明しました。これらの遺伝子は、メラニンの形成や蓄積などに何らかの関与をしている可能性が推測されます。
2.まぶたの一重二重
アンケートにて自分に当てはまる身体的特徴として「二重まぶた」を選択した人に、10番染色体のEMX2と呼ばれる遺伝子領域に特徴的な遺伝型の組み合わせが存在することが明らかになりました。
EMX2は骨や神経の発達に重要な遺伝子であることが知られており、頭蓋骨顔面の形成に関わっていることも報告されていることから、二重まぶたの形成に何らかの影響を及ぼしている可能性が推測されます。
3.髪質・眉毛の濃さ・毛深さ
自分の髪質の特徴に関するアンケート項目にて「ストレート」を選んだ人と「くせ毛」を選んだ人の間で異なる遺伝型の組み合わせが、
2番染色体のEDARという遺伝子領域に存在することが明らかになりました。
また、身体的特徴として「眉毛が濃い」を選んだ人と、「体毛が毛深い」を選んだ人には同じ領域に特徴的な遺伝型の組み合わせが存在することがわかり、
この遺伝子は、毛髪の太さに関連する遺伝子として既に報告されています。
さらに、「体毛が毛深い」を選んだ人にのみ特徴的な遺伝型の組み合わせが、1番染色体のTBX15、2番染色体のGCC2およびLIMS1、
18番染色体のBCL2と呼ばれる遺伝子領域にあることがわかりました。BCL2は毛包(毛根周辺の細胞)の細胞死と成長のサイクルに関わる遺伝子であることが知られており、
他の遺伝子も毛包の成長や毛の伸長などに何らかの関与をしている可能性が推測されます。
※1ビッグデータ解析技術:膨大なデータをコンピュータとアルゴリズムを用いて解析する技術。
ゲノム解析では様々な方法が用いられますが、今回は GWAS(ゲノムワイド関連解析)の技術を用いました。
これは、全ゲノム上の遺伝子マーカー(SNPなど)を網羅的に調べ、表現型(疾患や体質などの特徴)との関連の強さを解析する統計的手法です。
※2 SNP : 単塩基多型。約30億のヒトゲノム配列の中の、個人ごとに異なる1箇所。
0511名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/23(土) 23:29:24.08ID:dYolhsZF
日本人における鼻の高さ(鼻根部の高さ)
鼻根とは、両目の間の位置する鼻の付け根の部分のことを言います。鼻根の高さが高いと鼻筋が通って見え、顔が整った印象を与えます。そのため、整形手術の1つとして、鼻根を高くするものもあるようです。
PAX3遺伝子はPAXファミリーに属する転写因子の一種であり、胎児期の発生において重要な役割を果たす転写因子である。この遺伝子がAG型GG型の場合、鼻根の高さが高い傾向にあると報告されています。
頭蓋骨の鼻根部(鼻骨)の3次元的な高低を決定する原因遺伝子として、PAX遺伝子群のPAX3が報告されている。
ある遺伝子検査キット会社の調査によると、鼻根部を高くするPAX3バリアント出現頻度が、現代日本人では50%近くに登っており、近現代以降の日本人の顔面立体化現象との関与が想定される。
日本最古の住民、縄文人はいわゆる古モンゴロイドであり、彫りは深く鼻根部は高く隆起していた。
続く弥生時代、北東アジアから新モンゴロイドが水稲稲作を伴って大陸から日本列島に流入し、日本人(弥生時代人)もその遺伝的影響を受けている。
歴史上縄文人の鼻が最も高く、現代日本人は高い人と低い人がほぼ半々となっている。
現代日本人の鼻根が高くなっていく現象は、AA型AG型よりGG型の方が生存戦略的に子孫を残しやすい淘汰圧が現在進行形で働いている影響と思われる。
0512名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/27(水) 06:19:31.89ID:Kgn6XTYl
ゲノム解析から見た日本列島とその周辺の集団の近縁関係 I 斎藤成也 敎授(国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室)
https://www.youtube.com/watch?v=oGPly2tacx0
0513名無しさん@お腹いっぱい。
2021/10/29(金) 22:34:10.30ID:swJ7pqAk
>>512
この講義だと韓国人は遼河人より日本人に近い様ですね
0514名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/10(水) 20:50:22.51ID:+c5LrpNN
弥生人っていうのは日本人が半島から拉致してきた民族のことだよ
古来よりハプログループDはハプログループOを武力でもって支配してきた
皇族、武士の子孫からはD1a2a1といった縄文ハプロが検出される
百姓やエタヒニンからはO1b2やO2といったシナ朝鮮系ハプロが検出される
0515名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/11(木) 10:00:56.27ID:eYU0KnGE
>>514
前の天皇陛下は高松塚古墳壁画の朝鮮絵で、皇室は朝鮮半島とゆかりが有りますと発言されたが。
0516名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/12(金) 07:29:51.93ID:9D3nl8+w
アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
Fig. 1: Distribution of Transeurasian languages in the past and in the present.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig1_HTML.png
Fig. 2: Spatiotemporal distribution and clustering of sites included in the archaeological database.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig2_HTML.png
Fig. 3: Spatiotemporal distribution and admixture of ancient genomes.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig3_HTML.png
Fig. 4: Integration of linguistic, agricultural and genetic expansions in Northeast Asia.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig4_HTM
-
19:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:51:48
-
0516名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/12(金) 07:29:51.93ID:9D3nl8+w
アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html
Fig. 1: Distribution of Transeurasian languages in the past and in the present.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig1_HTML.png
Fig. 2: Spatiotemporal distribution and clustering of sites included in the archaeological database.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig2_HTML.png
Fig. 3: Spatiotemporal distribution and admixture of ancient genomes.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig3_HTML.png
Fig. 4: Integration of linguistic, agricultural and genetic expansions in Northeast Asia.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig4_HTML.png
Extended Data Fig. 7: Ancient genomes plotted on PCA displaying the genetic structure of present-day East Asians.
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig11_ESM.jpg
Extended Data Fig. 8: Ancient genomes plotted on PCA displaying the genetic structure of present-day Eurasians.
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig12_ESM.jpg
Extended Data Fig. 9: Ancient genomes from Bronze Age, Iron Age, West Liao and Amur plotted on PCA displaying the genetic structure of present-day Eurasians.
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig13_ESM.jpg
Extended Data Fig. 10: Ancient genomes from Primorye, eastern steppe and Yellow River plotted on PCA displaying the genetic structure of present-day Eurasians.
https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig14_ESM.jpg
0517名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/12(金) 08:51:18.24ID:9D3nl8+w
分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。
これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。
これらの作物は前期青銅器時代(3300~2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。
以下は本論文の図2です。
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig2_HTML.png
0518名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/12(金) 12:31:46.91ID:9D3nl8+w
本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の古代人19個体のゲノム分析を報告し、図3では、5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。
その遺伝的構成要素とは
アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡
黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化
縄文人を表す六通貝塚
黄河およびアムール川のゲノムで構成される西遼河の紅山(Hongshan)文化
夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化
黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)のLate Neolithic時代は、高いアムール祖先系統を示しますが、西遼河の雑穀農耕民は、黄河ゲノムへと移行する割合を示します。西遼河のEarly Neolithic時代のゲノムは欠けていますが、アムール祖先系統は、新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。以下は本論文の図3です。
Fig. 3: Spatiotemporal distribution and admixture of ancient genomes.
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-021-04108-8/MediaObjects/41586_2021_4108_Fig3_HTML.png
アムール祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。
韓国の古代人ゲノムの分析により、縄文人が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました。Early Neolithic時代の安島(Ando)がほぼ完全に紅山文化集団に由来するのに対して、煙台島(Y?ndaedo)と長項(Changhang)は紅山文化集団と縄文人の混合としてモデル化できるものの、煙台島個体の解像度は限定的でしかない、ということです。欲知島(Yokchido)は、ほぼ95%の縄文人系統を含んでいます。
本論文の分析では、Taejungni個体の祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化系統として最もよくモデル化でき、わずかな縄文人の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への縄文人の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における縄文人系統の混成(0~95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。
Taejungni個体における縄文人要素の欠如から、現代韓国人は、稲作との関連で朝鮮半島に移動し、ある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本と網羅率のため、本論文にはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川および黄河地域からの遺伝子流動と関連づけられ、雑穀の導入は紅山文化集団で、追加の稲作は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。
日本列島について、弥生時代農耕民はゲノム分析により、在来の縄文人と夏家店上層文化系統との混合としてモデル化できます。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。
沖縄県宮古島の長墓遺跡のゲノムは、完新世人口集団は台湾から琉球に到達した、との以前の知見とは対照的に、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文人から弥生人の遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の遅い到来を反映しています。
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages
doi: https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
0519名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/13(土) 04:23:53.24ID:6pIb8o6+
ネイチャー掲載だから今後取り消しがなければ
これが有力説になり南方説は科学的論拠に乏しい傍説となる
宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html
宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。
論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。
論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。
0520名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/13(土) 05:42:50.08ID:6pIb8o6+
査読前論文になります
社会的に複雑な三国時代のガヤ地方の韓国人の間で発見された多様な北アジアおよび縄文関連の遺伝的構造
Diverse northern Asian and Jomon-related genetic structure discovered among socially complex Three Kingdoms period Gaya region Koreans
doi: https://doi.org/10.1101/2021.10.23.465563
Fig. 1: Three Kingdoms Period genomes from Korea
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2021/10/25/2021.10.23.465563/F1.large.jpg
TK_1 (blue icon), and TK_2 (red icon), the percentage bar graph shows the genetic ancestry proportions of: North-China Iron Age ancestry (blue), Jomon-related ancestry (red). Crown depicts a main burial, and a shell depicts the shell mound burial, the samples without a distinct marking are human sacrifices.
Table 1: Main descriptive information of the analyzed individuals.
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2021/10/25/2021.10.23.465563/T1.medium.gif
Out of the three male individuals in this study, we successfully called Y chromosome haplogroups for two: AKG_10203 (D1a2a1) and AKG_10204 (O1b2a1a2a1b1). The third male, AKG_10218, ecould not offer fine resolution, but was nonetheless able to be assigned an O haplogroup. Haplogroup O is the most common Y haplogroup shared by more than 73% of Korean males (9), and haplogroup D is more common in the present-day Japanese population (30).
C) Individual AKG_10203, Burial 12
Individual AKG_10203 is the owner of tomb. He is found inside a wooden coffin together with gold and bronze artifacts from the early 5th century. Probably this individual belongs to a warrior class or to the low-nobility, as the tomb is not one of the richest ones. He is therefore classified as a privileged individual.
D) Individual AKG_10204, Burial 12
Male sacrifice of tomb 12, representing a non-privileged individual.
G) Individual AKG_10218, Burial 62
Individual AKG_10218 is the tomb owner of Burial 62, the relics found in the burial date to the mid 4th century AD. The objects found in the tomb suggest a privileged individual. This individual is a male.
Results also suggest that the main burials and the human sacrifices were not associated with separate genetic substructures as both Korea-TK_1 and Korea-TK_2 groups are not based on social status.
However, the information inferred from the artefacts was limited due to poor grave preservation and missing artefacts due to tomb robbery acts prior to excavations. For example, male AKG_10203 was identified as a possible main burial of a warrior class or a lower class noble while female AKG_10207 was possibly a human sacrifice. The remaining gilt bronze artefact and arrow quiver ornaments are insufficient to accurately determine the social status of AKG_10203.
Due to aforementioned issues, we could not identify the owner of each grave, which is also the case for AKG_10207, who was a sacrifice for a possibly high-class noble as indicated by iron spear and bronze mirror findings. Among the Korea-TK_2 group, AKG_10218 was the main burial while the rest of the samples were sacrifices for different main burials. It is also notable that we could not ascertain the relationship between the sex and social status in Daeseong-dong tumuli, even though the two main burials were of males, it might have been affected by the small sample bias, as human sacrifices clearly belonged to both sexes.
Fig. 2: TK period Korean genomic context:
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2021/10/25/2021.10.23.465563/F2.large.jpg
A) Principal components analysis performed with present-day East-Asian populations and 96 projected ancient individuals, including eight TK period Korean samples. B) ADMIXTURE plot (K=9) of the most representative populations used in the analyses show a shared genomic profile across ancient and modern East Asians, including TK Koreans and present-day Koreans.
0521名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/13(土) 15:07:01.16ID:nf+jHn2A
>>519 山頂洞人の系統ということか
南方北方論争ではなぜか「濃い顔族」が北方にいなかったかのように考えられてるけど、当然「平たい顔族」は寒い地域にいた濃い顔族から進化したわけで。
こういう結果が出てもおかしくない
0522名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/13(土) 15:09:45.96ID:nf+jHn2A
でも華北の農耕文化がゼロではないにしてもかなり退化したのは、農耕民マオリから狩猟採集民モリオリになったのと同じ変化か?
とくに宮古島なんか気候が相当違うし
0523名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/15(月) 02:30:08.47ID:ea7n7oel
>>520
欽明天皇の遺言
「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」 (日本書紀)欽明天皇(九十二)
「(朕(ワレ)は病気が重い。後の事をお前に引き継がせよう。お前は新羅を打ち、任那を再建するべきだ。また任那と夫婦となって、昔のようになれば、死んでも恨むことは無いだろう。)」 欽明は、最後まで任那復興を夢見ながら崩御したという
朝鮮から追い出されたのがよほど悔しかったと見えるwww
0524名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/15(月) 11:20:19.37ID:ea7n7oel
「日本の弥生文化、韓半島が本流…干ばつ難民が移動して作った」(1) 2021.11.15 07:44
https://s.japanese.joins.com/JArticle/284777
ソウル大学地理学科のパク・ジョンジェ教授
--日本の弥生文化を築いたのが韓半島(朝鮮半島)から渡来した気候難民だと書いている。
「突然の気候変化の衝撃で韓半島の農耕民が南に移住し、その一部は日本に渡って行ったという仮設だ。3000年前、錦江(クムガン)の中・下流に松菊里(ソングンニ)文化があった。青銅器時代に米作りをしていた人々だ。ところが2800~2700年前、韓半島にひどい干ばつが発生した。この時期に堆積した花粉の中で木の花粉の比率が顕著に低いが、これは干ばつで木の花粉の生産性が非常に良くなかったことを意味している。興味深いのは、この時期に住居地の数も大幅に減少した点だ。稲作ができそうなところを探してさまよっていたということだ。その後、松菊里文化は韓半島南部を経て日本に渡って行ったと考えられる。稲作は温暖で湿潤な九州地域のほうがずっとやりやすかったはずだ。弥生文化は2500~2300年に始まったといわれているが、時期的にも合致する。私がこの時期の気候問題に対する論文を2019年に出したが、偶然に中国でも3カ月後に同じような論文が発表された」
--中国も同じようなことがあったのか。
「この時期の干ばつは『2.8ka(killo annum・千年。すなわち2800年前)イベント』と呼ばれる世界的な現象だ。当時米作りをしていた中国遼東居住民が韓半島に南下してきたが、松菊里の住民たちも日本に移動するというドミノ現象が起きた。おそらく韓半島初めての気候難民ではないかと考えられる。初めて見る移住民との葛藤、環境破壊、食糧不足などは、そうでなくても気候変化で困難と戦っていた韓半島に大きな衝撃を与えた。稲作で人口が急増したため状況はさらに深刻化した。現在もしっかり振り返ってみるべき歴史だ」
0525名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/15(月) 19:11:54.57ID:O4zHA8lZ
>>524
中国の戦国時代に戦乱を逃れて日本列島に流れ着いた説は?
0526名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/17(水) 10:35:49.28ID:HTMAzAqB
言語についてはつい最近なんか研究成果が発表されたな
日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
https://img.news.goo.ne.jp/image_proxy/compress/q_80/picture/mainichi/m_mainichi-20211113k0000m030100000c.jpg
研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
0527名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/17(水) 10:42:55.93ID:HTMAzAqB
接頭語のTrans-は「あっち側」で、Cis-は「こっち側」という意味
同性愛の文脈でもよく使われている
学術用語ではバイカル湖もTrans-BaikalとCis-Baikalの区分で分けられることがある
0528名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/18(木) 13:06:38.10ID:MnvxxFfQ
>>526 大陸側では任那と高句麗を残して歴史時代に入るまでに衰退した?
0529名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/18(木) 20:20:22.55ID:ZTwTLZuP
>>526
ウラル語がとりあげられてないが、ウラル語はトランスユーラシア語かな?
あとウラル系はアメリカに渡ってないがメルカトルだと遠いが地球儀だと近いでしょ?
0530名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/20(土) 13:25:37.36ID:yxwzfPL4
考古学から見た夫余と沃沮 宮本一夫
Fuyu and Woju Viewed from an Archaeological Perspective
doi: https://doi.org/10.15024/00001695
夫余は『魏志』烏丸鮮卑東夷伝によると、南に高句麗、東に?婁、西に鮮卑と接し、北に弱水があるという。弱水に関しては白鳥庫吉(1896)以来検討されてきているが、今の黒龍江あたりを考えるのが最も妥当である。夫余のおおよその範囲は、それらの位置関係からして、第二松花江流域の吉長地区ということになろう。
東団山遺跡が位置する吉林市域はもともと西団山文化が存在する地域であり、鬲や鼎などの三足器が分布するという意味では、私の言う牧畜型農耕社会の東端にあり、三足器を持たない東夷地域とは接触する地域である[宮本 2007b]。一方、西団山文化が変化した泡子沿類型には三足器は認められない[張偉 2005]。
土器組成からみれば、この段階に於いて第二松花江流域の吉長地区は東夷の範囲に収まったとすることができるかもしれない。泡子沿類型こそが東団山遺跡が存在する時期の土器様式であり、夫余という歴史上の古代国家が存在した地域である。
また、この時期の嫩江中・下流域から松花江上流域にかけては、白金宝文化から漢書二期文化が変化した平洋文化が存在する[張偉 2005]。平洋文化の内容は、オロンバイルの完工墓地に見られる初期鮮卑の土器に近いものがあり、平洋文化を含めて鮮卑の領域と考えてよいであろう。
したがって、吉長地区は夫余、そしてそれ以北が鮮卑ということになり、さらに土器組成でみれば、牧畜型農耕社会の鮮卑と東夷である夫余というふうに区分できる。
朝鮮半島の先史社会を考えるとき、文化的な系統や系譜問題、あるいは地域間関係を考えるとき、常に西海岸を巡る地域文化の動態と東海岸を巡る文化動態の二つに注意しなければならない。新石器時代から青銅器時代においても農耕の伝播を考えるときは西海岸の動きに注目されるし[宮本2007c]、一方では漁具の伝播過程では東海岸の動き[渡辺 1995]に注目された。
その点で今回問題にした初期鉄器時代にあっては、細竹里-蓮花堡類型あるいは楽浪郡という西海岸の動きとともに、触角式銅剣やクロウノフカ文化に見られる夫余・沃沮という東海岸あるいは内陸部との文化接触や地域間関係にも注目すべきということができるであろう。
また前者の細竹里-蓮花堡類型や楽浪郡が燕や漢王朝という殷周文化の系統にあるものに対して、夫余・沃沮はその外縁にありながら、一方では匈奴などの北方青銅器文化との接触を持ちながらも、燕や漢王朝に接する外縁にあることによって大きな社会変化を生んだ地域社会でもある。
夫余や沃沮を含む東夷という地域は、燕・漢や匈奴との直接的あるいは間接的な接触によって、個々の地域社会が古代国家への歩みを牽引させた地域社会という共通の歴史的な認識を持つことができるであろう。
0531名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 00:50:48.37ID:4v1UcXxp
>>518
そのドイツ人は、コメ、イネ は 朝鮮語で ピョ、サル と言うことを
知らないようだな。
朝鮮語と日本語が、語彙、発音、文法で まったく異なることも知らないようだな。
言語学者じゃないな。
コメの語源はベトナム語の com だから、そいつの説は笑いものになるだけだ。
0532名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 07:38:19.72ID:qWVttQ+M
>>531
朝鮮語と日本語ってよく似てるんだな。
朝鮮語の入門書には必ず日本語と朝鮮語はよく似てますと書かれている。
両国の言語だけの見られる特徴は、
漢語を基礎としたかな(ハングル)混じり文で文法がよく似てる
他の言語には無い「私は」「私が」の区別がある
英語や中国語と違い敬語の体型が発達している
ただし日本語は相対敬語、朝鮮語は絶対敬語の違いがある
数字の数え方が漢語由来と民族独自の2種類ある
また語順も日本語と朝鮮語は非常によく似てる。
中国語とは似ていない。
多分4000年前位に日本人と朝鮮人は分化したのと考えられておる。
0533名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 07:43:27.54ID:qWVttQ+M
だから朝鮮語は日本語に似てるニダ
こういう表現は英語や中国語では出来ないな
英語や中国語は主語+動詞+目的語
日本語と朝鮮語は主語+目的語+動詞
だからな
0534名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 10:27:21.27ID:bdjRley9
>>532
天皇の称号ミコトは 高貴なる言葉 という意味だ。
これを朝鮮語に直訳すると、オマル になる。
オマルは日本語では、子供用のウンコ受け という意味だ。
朝鮮語と日本語が同じなら、朝鮮の王は子供用のウンコ受けだったことになる。
朝鮮語と日本語の語彙と発音は全く違う。
動詞の活用も変化のシステムが全く違う。
オマエは朝鮮語を習ったことはないんだな。
0535名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 10:35:43.44ID:zcGlUWvM
>>532
オナラ の語源は御鳴らしでちょっと音がでちゃったの意味だ。
同様に、クダラ は日本語では 下らし の省略性と理解されて、
下痢便の意味になる。よって百済は日本語では下痢便国の意味になる。
自分から下痢便国と名乗る民族は想定できないので、クダラは日本語ではなく、
別の言語の単語で、別の意味であったことが確実だ。
0536名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 10:41:15.26ID:zcGlUWvM
日本人が百済に言ったときに、百済人は激辛を食って、
下痢便を我慢できなくて、そこら中にウンコをまき散らしていたのかも。
だから日本人はクダラし、下痢便国となずけたのかもな。
こういう国では、子供用のウンコ受けが 国王の称号になるのかもしれない。
0537名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 11:28:15.44ID:bdjRley9
訂正
日本人が百済に行ったときに、百済人は激辛を食って、
0538名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 11:34:31.77ID:bdjRley9
朝鮮人はトンスルという名で、ウンコから酒を造るから、
下痢便をすることが奨励されていて、特に子供のウンコが重宝されて、
朝鮮王はオマルで子供のウンコを集めていたのかもね。
恐怖のスカトロジー民族だな。
0539名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 12:01:11.24ID:mPvEP/r5
朝鮮語と日本語ってよく似てるんだな。
朝鮮語の入門書には必ず日本語と朝鮮語はよく似てますと書かれている。
両国の言語だけの見られる特徴は、
漢語を基礎としたかな(ハングル)混じり文で文法がよく似てる
他の言語には無い「私は」「私が」の区別がある
英語や中国語と違い敬語の体型が発達している
ただし日本語は相対敬語、朝鮮語は絶対敬語の違いがある
数字の数え方が漢語由来と民族独自の2種類ある
また語順も日本語と朝鮮語は非常によく似てる。
中国語とは似ていない。
多分4000年前位に日本人と朝鮮人は分化したのと考えられておる。
0540名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 12:05:24.90ID:bdjRley9
>>539
オマエはトンスルが日本語に聞こえるのか?
0541名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 12:10:44.10ID:mPvEP/r5
日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大
2011年5月5日 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ フランス ]
https://www.afpbb.com/articles/-/2798334?act=all
日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大
【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。
◎日本語は、世界の主要言語の中では唯一、起源をめぐって現在も激しい議論が戦わされている。
◎主要な説は2つある。1つ目は、定住が始まった3万年~1万2000年前の石器時代文化に直接由来しているというもの。この時代は原始的な農業も一部で行われていたが、主に狩猟採集生活が営まれていた。アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、言語発達にはほとんど影響を及ぼさなかったというのがこの説の主張だ。
◎もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。
0542名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 12:12:54.83ID:bdjRley9
>>539
弥生人 O1b2-47z と 朝鮮人 O1b2-L682 は
7000年前に分岐していて、弥生人は山東半島あたりまで南下した。
朝鮮人は朝鮮半島でホモロンギと異種交配をした可能性が高い。
最新の研究では朝鮮人は6万か所でホモサピエンスには見られない遺伝子を
持っている。例えば激辛を好む遺伝子だ。
よって朝鮮人は異人種ということになる。
0543名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 12:18:30.37ID:bdjRley9
>>541
コメ、イネ は 朝鮮語 では ピョ、サル と言う。
朝鮮語が日本語の起源なら、日本語でも、ピョ、サル と言わないとおかしい。
その説はコメような根本的な語源の違いも説明出来ていない。
デタラメだよ。
0544名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 12:43:40.15ID:xfHDLOuU
日本語は朝鮮無文土器文化人の話していた言葉だった
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1596586891/l50
最新の縄文人ゲノム解析で、本州縄文人はアイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであることを示している。
2020/08/25 縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/
有本香と小野寺まさるは完全なバカの詐欺師だった
2020年07月25日 有本香氏と小野寺まさる氏のアイヌに関するやり取り
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_30.html
0545名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 13:02:23.80ID:bdjRley9
>>544
全然朝鮮語と日本語の語彙が一致していない。
まず なんでミコトがオマルで、
コメがピョなのが説明してみろよ。
0546名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 13:16:47.33ID:xfHDLOuU
天皇陛下も朝鮮とゆかりがあると発言されたのは無視ですか?
「韓国ゆかり」衝撃与えた現天皇 「統合」背負う新天皇
https://www.asahi.com/articles/ASM4Q4J8ZM4QUPQJ001.html
日本民族の概念https://pbs.twimg.com/media/Eg5ZUsxVoAcugQM.jpg
0547名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 13:30:31.30ID:xfHDLOuU
韓国語は日本語に一番近い言語?!語順や文法など共通点がたくさん!
「韓国語は日本人が最もマスターしやすい言語である」そのように言われていることはご存知ですか?
日本から見て最も近い外国であり、語順や文法が似ている、共通点が多いという理由からそのように言われているようです。
実際に同じ意味で発音がよく似ている単語も多くありますし、日本語の中には韓国語に由来していると言われている言葉もたくさんあります。
https://kvillage.jp/column/14038
0548名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 14:53:18.47ID:bdjRley9
>>547
それは朝鮮人が日帝時代に日本語と和製漢語を習ったからだ。
例えば、家族は朝鮮語では、カジョク で、中国語では家人という。
それ以外の基本語彙は全く異なっている。
分法でも活用も違っているし、形容詞と形容動詞の違いもない。
0549名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 14:56:07.73ID:bdjRley9
高貴な言葉は 朝鮮語では オマル になる。
スメラオマルを日本語で解釈すると、荒ぶる子供のウンコ受けだ。
朝鮮の王は本当に 荒ぶる子供のウンコ受け と名乗ったのか?
0550名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 15:36:47.85ID:2rnFo8nM
みなさん、こんにちは。チェゴハングルのシュニと申します。今回は「韓国語と日本語の気になるあれこれ」について解説していきます!
日本語と韓国語って「言葉が似ている」とか「日本人にとって最も学びやすい言語」などと言われたりしますよね。この記事を読めばその理由がまるわかり!ぜひ最後までお付き合いください。
https://kvillage.jp/column/14038
0551名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 15:37:30.43ID:2rnFo8nM
韓国語と日本語の似ている語彙特集!おもしろいくらい似ている韓国語をご紹介!
韓国ドラマのワンフレーズが日本語だと錯覚してしまう、空耳アワー……実は現実だったということも珍しくありません。
それくらい、韓国語と日本語には似ている語彙がたくさんあります。
https://kvillage.jp/column/14038
0552名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 15:39:35.97ID:2rnFo8nM
韓国語には日本語と似ている言葉がたくさんある。
大韓航空やアシアナ航空に乗ったとき、機内アナウンスで「サンソマスク(酸素マスク)」、「アンジェンタイサク(安全対策)」といった言葉を聞き取ることができて「おっ」と思った。
また「カジョク(家族)」、「コウソクドロ(高速道路)」、「シミン(市民)」といった韓国語もある。
https://yukashikisekai.com/?p=25301
0553名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 15:43:32.22ID:2rnFo8nM
日本語の発音と似ている韓国語50個
https://ameblo.jp/bluebird827/entry-11239698105.html
韓国語雑学】ハングルが日本語に聞こえる?歴史をひも解くことで同じ発音がされる理由が明らかに!
https://www.nslajapan.com/koreanlanguagehistory1/2019/
0554名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 15:45:49.04ID:2rnFo8nM
日本と韓国は中国から伝わってきた「漢字」を昔から使用してきました。
同時期に中国から流入された「漢字」や
中には朝鮮半島経由で日本に伝わった「漢字」もありました。
漢字読みの言葉で、両言語の発音は本当に似ています。
それは発音のルーツが中国の「漢字」をもとにしているからなのです。
https://www.nslajapan.com/koreanlanguagehistory1/2019/
0555名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/25(木) 20:21:36.86ID:LoVma4XK
>>552
「カジョク(家族)」、「コウソクドロ(高速道路)」、「シミン(市民)」といった韓国語もある。
これは日本人が作った和製漢語だ。
朝鮮人が昔から使ってはいない。
朝鮮語と日本語の単語で似ているのはこれらの和製漢語だけだ。
その他の単語はまったく似ていない。
トンスルは日本語では解釈不可能だ。
オマエの知能指数はいくらだ?
0556名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/26(金) 08:07:10.57ID:/TWHQdqT
日本語と韓国語はそっくり
韓国語を勉強していると、日本語とそっくりの単語が沢山出て来ます。
その理由は、言葉のルーツが漢字にあることです。
似ている単語を覚えて語彙を増やすのは、韓国語学習の賢い方法の1つ。
そこで今回は、日本語と似ている韓国語の単語をまとめてご紹介したいと思います。
0557名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/26(金) 08:17:20.47ID:/TWHQdqT
>>555
日本語と韓国語が似てる証明お疲れさまです
似てるから煮た言葉だらけになるのですね
韓国は漢字語が60%以上とも言われているので、同じ発音だったり似ていたりする発音は割とあります。
「準備」=「ジュンビ」でそのままです^^
日常会話より政治・経済など難しい話の方がもっと漢字語が多いので、ニュース(北朝鮮・韓国関係の報道)を見ていると聞き取れる単語があるかもしれません。
今はほとんど漢字は使いませんが、70年代~80年代までの新聞や映画ポスターなんかは漢字で書かれているので、ハングルがわからない日本人でも意味がほとんどわかるぐらいです。
「中国と日本」より、「韓国と日本」の方が漢字語で使っている漢字が一致する場合が多いと思います。
0558名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/26(金) 22:10:20.50ID:+An2O8v3
>>557
似ているのではなく、それらの単語は元々日本語で、
日帝時代に朝鮮人が使うように強制されただけだ。
0559名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/26(金) 22:17:43.21ID:+An2O8v3
家族は中国語では、同族、一族を意味し、
日本語の家族の意味では、家庭、家人と言う。
0560名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/27(土) 03:24:34.37ID:pbrhcBzx
>>531 下戸遺伝子も日本と同じくらいの比率は中国南部にみられるしな(ミャオ・ヤオ系由来?)
朝鮮はもっと高い
仮に北ルートで稲作が伝わったとしても、その系統の末裔は朝鮮半島ではほぼ遺伝的には消えてしまったのでは
もちろん消滅は文化面でも
それが証拠に日本語と漢字語彙以外は全く似ていない
0561名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/27(土) 03:25:36.82ID:pbrhcBzx
朝鮮はもっと高い→朝鮮はもっと低い
0562名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/27(土) 06:23:46.67ID:YvFiq2Qv
韓国語と日本語が似ているのは単語だけでは有りません
韓国語の文法は日本語とそっくりニダ
語順は日本語と同じニダ
助詞の使い方をマスタースミダ
漢字語を極めるニダ
外国語を学ぶ際に必要となるのが文法の勉強。
韓国語と日本語の文法は比較的似ていると言われています。
なので、日本人にとって韓国語の文法を習得するのは、そんなに難しいことではありません。
韓国語の基本的な文法をみていきましょう。
語順は日本語と同じ
韓国語の語順は日本語とほぼ同じで、「主語-目的語-動詞」の型です。
英語や中国語などは、「主語-動詞-目的語」の語順なので、日本人にとって学習するのが簡単ではありません。
しかし、韓国語については、日本語で考えた文章をそのまま韓国語の単語に置き換えるだけで文が作れるので、日本人には習得しやすいと言えます。
韓国語の修飾語は、被修飾語の前につきます。
これも日本語と同じですよね。
例えば、日本語では大きい人という場合、「大きい」が修飾語、「人」が被修飾語で、「修飾語-被修飾語」の語順になります。
韓国語の場合も同様に、「큰(大きい)사람(人)」と言い、「修飾語-被修飾語」の語順です。
0563名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/27(土) 06:31:40.16ID:YvFiq2Qv
日本語と韓国語の親和性を語る証拠ニダ↓
韓国語は機械翻訳が難しい…英語に訳すにはまず日本語に1次翻訳
韓国語を英語に翻訳したり英語を韓国語に翻訳する場合、日本語を間に入れて「韓国語→日本語→英語」、
「英語→日本語→韓国語」の順で機械翻訳をすると正確度が高まる。
これをピボット(飛び石言語を利用して機械翻訳をすること)という。
https://s.japanese.joins.com/JArticle/221778?sectcode=A00&;servcode=A00
0564名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/27(土) 08:05:10.73ID:pRvuq17m
>>558
民族独自のやまと言葉で日本語を作れなかった日本人
困ったから中国からの漢語の造語力に頼るしかなかった
いわゆる漢語のパクリ製作を大自慢(笑)
やまと言葉の造語力の無さは
クロガネの道→鉄道
イカズチが落ちる→落雷
ハリガネだより→電信
ところが戦争に負けるとナウなフィーリングをキープする
状態
百合子知事なんかに特に顕著に見られる(笑)
日本語や韓国語では新語を外来語パクリに頼らなければ国語が成り立たない状態なのは同じ
中国語やフランス語ではデジタル・アナログなどのIT用語も自国語に訳されている
日本語と韓国語の単語は中世に中国語化して現代は欧米語化している運命共同体
だから相互に分かりやすい
まあ元号も令和までずっと中国古典からのパクリだからしょうが無いね
0565名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/29(月) 01:03:48.91ID:F5HLvKEE
弥生時代の日本語の響き (日本書紀歌謡から祖語形に変換)
https://www.youtube.com/watch?v=2VidH0sjfsM
0566名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/29(月) 08:22:34.30ID:c2n3vbt9
>>565
中国語と朝鮮語を足して2で割った感じだな
0567名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/29(月) 08:58:21.34ID:W3djzudp
日本語は発音は南方系で文法は北方系と言われてるんだよな
ちなみにワープロやパソコンやナイターは昔の南北伝来に関係無く立派な日本語
欧米人には通じないw
0568名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/29(月) 09:55:40.43ID:IPZ4ix5S
欧米語はラテン語の影響を受け
漢字文化圏は中国語の影響を受けた
0569名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/29(月) 18:30:14.53ID:tZAUd8Ku
【動画】 ニトリ会長 「日本人の先祖は中国人だと思う。中国人のDNAを引いてるから我々も知能が高い」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1638162474/
0570名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/30(火) 09:15:59.14ID:jCH479NS
漢字文化圏
中国 将来漢字を廃止する為にラテン文字化は完璧だが発音の練習だけの普及
日本 漢字は廃止出来ないしラテン文字化は不完全
韓国北朝鮮 漢字は原則廃止ラテン文字化は不完全
ベトナム チュノム(ベトナム漢字)廃止で完全ラテン文字化に移行
0571名無しさん@お腹いっぱい。
2021/11/30(火) 09:22:38.52ID:jCH479NS
台湾 漢字廃止は無し発音練習は中国式ラテン文字では無く注音符号を使用
中国 簡体字
韓国 台湾 繁体字
日本 GHQ漢字
0572名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/02(木) 00:08:11.20ID:BNf/4W36
関西弁とかいうけど、実際はただの百済人(百残)の方言だよ
0573名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/02(木) 03:33:15.51ID:BNf/4W36
近年Natureなどで発表されている核ゲノムの解析結果と
最も整合性が取れているのが
宮本一夫が唱えてきた「古日本語=偏堡文化(Pianpu)」説
東北アジアの考古学は、宮本氏の研究がマスターピース
「原日本語・原韓国語伝播説を考古学的に考える」 宮本一夫 (九州大学)
https://i.imgur.com/rGyizod.png
宮本一夫 『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』
無文土器に見られる土器製作の新しい四つの技術が古日本語を象徴するものならば、古日本語の出自は偏堡文化に求められ、そしてその故地は遼西東部ということになる。古日本語は紀元前2400年頃の偏堡文化に由来し、その後の紀元前1500年頃に朝鮮半島南部まで稲作農耕文化を受容したことになる。中国東北地方で4400年前に日本語が成立し、それが南下していく中で、長江由来の稲作文化を受容し、朝鮮半島南部から日本列島に移動した。朝鮮半島の無文土器文化の人々が使用していた言語は古日本語だと考えられている。
0574名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/02(木) 23:35:15.59ID:PkOxiRUd
長江の稲作民もひょっとするとと同じルートを通って偏堡文化人より先に朝鮮半島に入ってたってこと?
あるいは山東省辺りから船で渡った?
縄文海進の頃の温暖期が朝鮮半島に稲作が渡った時期?
でも温暖期に稲作が北上したのなら、遼西東部ですでに稲作を知っていて、逆に寒冷化で稲作適地を求めて朝鮮半島へと南進を余儀なくされた?
ひょっとすると偏堡文化人自体の成立が長江の稲作民と関係?
0575名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/03(金) 18:19:16.74ID:hAS1wTd2
弥生人の多くが朝鮮半島から来たのはわかるが、
下戸遺伝子が、日本の関西と中国南部に多くいるのはなぜなのかな?
本当は中国東北部や朝鮮人も酒は弱いのだろうか?
あるいは、中国や韓国側が嘘のデータを出したのであろうか?
0576名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/03(金) 19:42:59.64ID:guEcZ32n
>>575
下戸遺伝子(=Asian Flush)の頻度は日本人と韓国人で大差ないよ
Genotype frequency distribution of ALDH2 (rs671)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/ALDH2_rs671_genotype_frequency.png
下戸遺伝子の論文を読んでも、やはり大して変わらない。アジア全体で4000人しか調べてないから、数%の差は統計の誤差に過ぎない
Refined Geographic Distribution of the Oriental ALDH2*504Lys (nee 487Lys) Variant
doi: https://dx.doi.org/10.1111%2Fj.1469-1809.2009.00517.x
0577名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/03(金) 21:21:04.39ID:hAS1wTd2
>>576
ありがとうございます。
縄文系が入ってる分、酒は日本人の方が強いと思ってましたが、
ほとんど変わらないんですね。
以外でした。
0578名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/11(土) 05:40:01.06ID:NIGBfqYp
縄文の末裔を土蜘蛛とよび異種として排斥したヤマト=渡来勢力
0579名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/16(木) 13:00:27.83ID:m7yFFKkS
>>577
弥生人の歴史的経路は、
中国南部→揚子江河口→山東半島・青東周辺→朝鮮半島南部→北九州→近畿。
朝鮮半島南部時代に朝鮮半島北部や更に北方の人達から押し出されてきた人達だから、
弥生人と現在の朝鮮人とは遺伝子的にちと違う。
同じ新モンゴロイド系ではあるけど。
0580名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/16(木) 14:55:11.61ID:Lzcya685
縄文海進の時期に江南が海面上昇で水没して北に移住を迫られたか
あの頃長江の河口はどこまで後退したんだろう。崇明島は海の底、というかまだ存在しなかったか
0581名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/19(日) 08:29:40.22ID:dwZLKFSR
この研究って正直ピンとこないよな
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/page/7200/
四国が最も弥生人の血が濃いらしいが、愛媛なんかは濃い顔が多い気がする
0582名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/19(日) 11:12:46.73ID:2FrP2BuZ
もうちょっとまともなら顔が多かっただろうな
弥生人ってガンバレルーヤとかみたいな顔だろw
0583名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/19(日) 15:42:55.12ID:jtcTq8kO
結局、天皇なんてヨーロッパの王族と変わらない
日本の原住民を狩り、奴隷にし、言葉も文字も文化も奪って消し去った
沖縄の洞窟に文字や壁画が残っていたので米軍を使って破壊させたのだ
日米戦争は八百長だったのだから、沖縄のあの異常な激戦の意味を考えないといけない
首里城を再建し、そこに沖縄の貴重な文化財を集めて丸焼きにした
侵略者は現地の文化を破壊するものだ
インカ・マヤ・アステカ文明を消滅させたスペイン人も、文化を消す作業を熱心に行った
0584名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/21(火) 11:24:14.26ID:TN/kWosH
無知の極み
0585名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/21(火) 11:30:36.95ID:TN/kWosH
九大ってその程度なのか
0586名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/21(火) 20:40:49.84ID:OgtUpYMW
朝鮮人の田村麻呂が縄文人の阿弖流為を騙して殺した
0587名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/24(金) 17:38:36.73ID:IXr6bi/5
天皇の称号 ミコト は 高貴なる言葉 の意味で、
これを朝鮮語に直訳すると、オマル となる。
オマルは日本語では、子供用のウンコ受け という意味だ。
日本語が朝鮮語なら、朝鮮王は 子供用のウンコ受け となるが、
それでいいのか?
0588名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/25(土) 10:13:20.45ID:C7ZWEgJo
>>581 逆に北陸はもっと弥生成分多めでもいいと思う
地形や気候のせいで山間部の500m以上の高標高地に縄文人が隠れ住めるような場所は日本海側の豪雪地帯には少ない
愛媛や高知は久万高原や天狗高原があるよな
0589名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/26(日) 11:24:49.48ID:aEkOTRsH
四国が弥生的ってのはまったくピンと来ないな
高知県人なんか沖縄鹿児島の次くらいに縄文顔だと思うけど
0590名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/26(日) 14:46:06.45ID:aqaJquWj
>>589
遺伝的に見れば、四国の縄文人男が、弥生女を分捕って来たということだ。
四国の男は縄文人っぽいが、女は弥生系ということ。
0591名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/26(日) 16:02:47.74ID:MXmMdzbM
>>590
四国はY染色体Dが平均25%で日本で最も低く
O1b2の頻度がやたら高い。繁栄したのは弥生男の方だな。
0592名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/26(日) 22:18:31.04ID:aEkOTRsH
一口に四国と言っても高知と他三県は一緒にしたらいけないのかもしれない
0593名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/27(月) 09:50:52.30ID:2ZQnRArD
>>592
四国のイメージってこんなもん
高知の地酒 亀泉は越乃寒梅より上手い はちきんw
徳島 電車走っとる? 阿波踊り
香川 うどん 京急や名市交の懐かしい電車が見られる
松山 道後温泉 坊っちゃん
0594名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/30(木) 00:12:10.61ID:KruOEgAc
>>591 O系でもアウストロネシア系から入った線もあるのかな?台湾やフィリピンの系統
0595名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/30(木) 08:09:45.34ID:Hz6BE3vE
新入りなもんでよくわかってない(ってことなのかもよくわかってないけど)んすけど前提として弥生系はほぼ専ら北方系ってことでいいの?
モンゴルだのシベリア方面から来た人たち?
日本語の系統ってのもよくわかってないようだけど文法は韓国語とほとんど共通なのにそのわりに基本語で同源と思われるものが少なく(共に漢語由来のモノはウンチャカあるが)単語は南方系のが近いとは聞いたが
0596名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/30(木) 19:33:16.06ID:jXhQbHYH
>>595
核ゲノムの分析により、弥生人はアムール川起源で超北方系だが、
山東半島辺りまで南下して水田稲作を習得して、日本に来たらしい。
弥生人と縄文人は中が良かったようで、1000BCに混血が始まった。
0597名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/30(木) 19:36:29.60ID:jXhQbHYH
四国人はウンコ酒トンスルを作らないから朝鮮人ではないな。
0598名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/30(木) 23:02:06.06ID:Hz6BE3vE
>>596
当時は半島北部では稲作出来なかったんだよね?山東→半島南部→九州と二度に渡って海を越えて来たってことすかね?
中学だか高校の日本史の資料集(四半世紀以上前…)で
1.中国南部から稲作が出来なかった半島北部経由で伝わるのは不自然
2.台湾から沖縄の島伝いなら九州南部から始まるはずなのでこれも違う
3.よって中国南部から直接伝わったと考えられます
…ってあったんだけど
4.中国南部→半島南部→九州北部
っていう一番ありそうな伝達ルートがなんで挙がってない?と思った覚えがあるけど両方の伝播が同じ人たちの移動だとは思わなかった
しかし山東だと南部とは言えないように思うけど当時でもその辺まで稲作できたのか
小松左京だったか豊田有恒だったかの小説で縄文大海進の時代に島になってた山東が蓬莱山の正体って匂わせてるのがあったな
山東だと
0599名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/31(金) 07:54:22.58ID:IxBjppfz
>>595-598
日本での土器の出土分布から、
弥生土器の始まりと稲作の始まりが必ずしもリンクしてないようだから、
弥生土器と稲作は同時に持ち込まれたようでは無いようですね。
弥生土器の方が早く持ち込まれたようだよ。
0600名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/01(土) 09:11:54.87ID:/cr1xF2o
日本人が縄文人だけで構成されていたら、二重率はほぼ100%だっただろうね
0601名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/01(土) 12:25:28.64ID:BeXkw9A8
弥生初期~中期は大陸は戦国~楚漢戦争の頃で邪馬台国の頃は黄巾の乱~三國時代っしょ?
弥生人も直接ではないにしろ間接的にそういう動乱で押し出されて来たんだろしたまたま彼らが日本までたどり着くことがなかったとしても誰かしら来たっしょ
千年二千年誰も移住してこないなんてあり得ないと思うな
0602名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/03(月) 23:36:47.79ID:n3baw0dm
最近の若い人って波状毛が少ないな
特に男
10センチも伸ばしたら直毛と波状毛の違いははっきりしてくるはず
直毛の長毛の男性って弱そうに見えるんだけど
直毛を良しとする価値観も弥生由来?
何だったら波状毛を「くせ毛」として忌み嫌う
0603名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/05(水) 19:22:35.19ID:tC2uHVJk
>>598
当時はコメの栽培種の北限が山東半島あたりで、それより北ではコメ栽培は不可能。
だから山東半島、中国江南からコメが来たのは確実だ。
0604名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/07(金) 12:59:41.62ID:GksClany
>>603
それは当たり前の話でだから実質的なルート推測としては
1 中国南部から直
2 中国南部→半島南部→九州北部っていう間接渡来
の二択で人の方の渡来は圧倒的に半島からの方が多かったはずだから2の方が確率が高いと思ったんだけど
0605名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/08(土) 16:02:42.13ID:RzdFfiP6
朝鮮半島の稲作の遺跡は漢江河口地帯が一番古いのかな
0606名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/09(日) 22:26:19.78ID:nK/XJUf/
二重で直毛が一番いいんだよ。多分。
0607名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/12(水) 17:14:12.34ID:AYk/THJg
>>605
一番古いのは朝鮮南岸でオクキョンだ。
0608名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/12(水) 18:18:27.46ID:1mhV62je
>>607
それ日本(九州北部)と比べてどっちが古いかわかってないんすかね?
もし半島のが古いなら>>604の2の方の状況証拠にはなるだろうし逆なら1の方の状況証拠になるか?
0609名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/27(木) 04:31:17.84ID:KxN5IIpD
稲は確かに人によってもたらされたが、
民の移動とは別に考えた方がいいかも。
0610名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/27(木) 15:49:53.50ID:j7ZjCWqj
>>607 山東半島から近い場所が最古じゃないってことは、1年だけ対岸でお試しに田んぼをして気候が合わないとそそくさと南に移った?
移動するにしても機動力がいるけど、優れた航海術があったのかな
そして38度線付近のお試し田んぼの跡はあまりに希薄すぎてとっくに磨耗して消えた?
あるいは海流のせいで山東半島から南東に流された?
0611名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/28(金) 08:57:13.48ID:78L8S1Cw
最初に日本に人類が来たときは大陸と地続きだったのかと思ってたらその頃は北海道以外は既に島だったらしい縄文人のさらに先祖の旧石器人の話
台湾から葦舟だの筏(イカダ)だの作って日本列島への初渡航を再現しようとしてる人の書いた本読んだんだが面白かった
大陸の文明中心地近辺には当然ながら半島南部より渡航技術においても進んでたはずではあるけど最初に稲を運んできた人たちが山東かもっと南方から狙って日本に来たとは考えにくい日本の存在すら知らずに流れ着いた可能性の方が高いだろう
この点半島については少なくとも日本よりは狙ってたどり着いた可能性が高い
0612名無しさん@お腹いっぱい。
2022/01/28(金) 12:22:06.92ID:78L8S1Cw
最初に日本に人類が来たときは大陸と地続きだったのかと思ってたらその頃は北海道以外は既に島だったらしい縄文人のさらに先祖の旧石器人の話
台湾から葦舟だの筏(イカダ)だの作って日本列島への初渡航を再現しようとしてる人の書いた本読んだんだが面白かった
大陸の文明中心地近辺には当然ながら半島南部より渡航技術においても進んでたはずではあるけど最初に稲を運んできた人たちが山東かもっと南方から狙って日本に来たとは考えにくい日本の存在すら知らずに流れ着いた可能性の方が高いだろう
この点半島については少なくとも日本よりは狙ってたどり着いた可能性が高い
0613名無しさん@お腹いっぱい。
2022/02/21(月) 05:41:08.99ID:fuodP0DQ
2022年02月18日
古代DNA分析から推測される龍山文化期の親族関係
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_18.html
0614名無しさん@お腹いっぱい。
2022/02/24(木) 06:29:48.38ID:nrkYS0+q
エミシとは誰だったのか:全ゲノム解析で明らかにする東北古代人の遺伝的変遷
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20H03332/
核ゲノム解析として、新たに
青森県東通村浜尻屋貝塚出土の中世人骨、
山形県米沢市戸塚山137号墳出土女性人骨、
山形県高畠町羽山古墳出土人骨、
宮城県石巻市五松山洞窟遺跡出土古墳時代人骨
の解析が現在順調に進行中である。よって、本研究の進捗状況は順調と考える。
上記の浜尻屋貝塚出土中世人骨、戸塚山137号墳出土人骨、羽山古墳出土人骨、五松山洞窟遺跡出土古墳時代人骨についてはゲノムの数十%を既に決定できているので、論文として報告することを目指す。また、岩手県アバクチ洞窟遺跡出土弥生人骨のゲノムデータについても論文報告をおこなう予定である。
0615名無しさん@お腹いっぱい。
2022/03/01(火) 02:35:56.27ID:Z34X8ihU
弘前に水路を引いた鬼はいったい何者だったのか
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/school/jitoku/2014-1127-kisinn-denndetu.html
>鬼の正体には、田村麻呂に追われ岩木山麓に隠れ住んだ落武者であるとか、卓越した製鉄技術、潅漑技術を持っていることなどから、大陸から漂着した渡来人ではないか、という説もあるが、定かではない。
0616名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/12(火) 09:31:17.85ID:k0f6heCu
今年2月に出た篠田謙一の新書「人類の起源」内訳によると
明治以来行われてきた形質人類学の結果、日本列島集団には二重構造モデルと言われるふたつの大きな特徴が明らかにされています。
2006年に初めて30億塩基対全ゲノム解析が行われてからは日本人の成り立ちが遺伝子から裏付けられました。
現代の日本列島は大まかに縄文7割のアイヌ・縄文3割の沖縄・縄文1割の本土の3集団に分かれる。
ただし、本土の中でも近畿集団は最も渡来人に近く九州集団は最も縄文人に近い。
(出村2021より引用 図6-1 核ゲノムの都道府県別SNP解析ヒートマップ)
このことは以前から頭骨の計測値の解析結果によって指摘されており、畿内を中心とした地域では渡来系集団の影響が強く、周辺域では縄文人の遺伝的な影響がより強く残っていると理解されています。(内なる二重構造)
0617名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/23(土) 21:21:00.47ID:WOkq+OgO
アイヌ語の南限が岩手県や秋田県というのは信用ならない話しだ
何故ならば仙台平野以南は倭人が支配してより何度かの言語交代が起きているからだ
分かっている範囲でも古代の東国方言から西日本方言への上書きが起きており基層言語の痕跡は消滅してしまっている
似たような話として先史時代のギリシアの例が上げられよう
ヨーロッパの先史時代のギリシアクレタ文明は最初ギリシア語イオニア方言話者に制服され、更にその後にドーリア方言話者の征服を受けた結果、クレタ文明の言語は完全に消滅してしまい、彼らの使っていた線文字Aの発掘物は大量にあるのに、今でも全く解読できていない
恐らくアイヌ語は古くは縄文人の言葉として広く日本を覆っていた
韓半島から日本に移住していった無文土器文化人が未開の縄文人を征服して縄文アイヌ語は消滅したのだろう
特に韓半島
-
20:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:52:28
-
0617名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/23(土) 21:21:00.47ID:WOkq+OgO
アイヌ語の南限が岩手県や秋田県というのは信用ならない話しだ
何故ならば仙台平野以南は倭人が支配してより何度かの言語交代が起きているからだ
分かっている範囲でも古代の東国方言から西日本方言への上書きが起きており基層言語の痕跡は消滅してしまっている
似たような話として先史時代のギリシアの例が上げられよう
ヨーロッパの先史時代のギリシアクレタ文明は最初ギリシア語イオニア方言話者に制服され、更にその後にドーリア方言話者の征服を受けた結果、クレタ文明の言語は完全に消滅してしまい、彼らの使っていた線文字Aの発掘物は大量にあるのに、今でも全く解読できていない
恐らくアイヌ語は古くは縄文人の言葉として広く日本を覆っていた
韓半島から日本に移住していった無文土器文化人が未開の縄文人を征服して縄文アイヌ語は消滅したのだろう
特に韓半島に近い西日本ほどその傾向は強かった
かろうじてアイヌの痕跡が見られるのは関東地方
例えば利根川のネなどはアイヌ語のナイの転訛だろう
幾度に渡る言語交代で基層言語としてのアイヌ語の痕跡はほぼ完全に隠されてしまったのだ
一部のネトウヨは縄文文明などと馬鹿な発言をしているが今の日本人は弥生人の末裔であり縄文アイヌは日本人の先祖によってジェノサイドされていたのである
0618名無しさん@お腹いっぱい。
2022/05/06(金) 04:24:29.02ID:Wb50NZsN
ネット上で調べると新羅は水洗、倭は厠、日本貴族は樋箱
どうみても樋箱は百済由来
平安貴族が樋箱を使っていたのは今昔物語の平中の恋狂いでわかる
大学の日本史で高貴な人の糞は重箱のような物にいれて下賜されたと教えていた
昭和の御代まで侍従医が毎日調べていたのはその名残
背理法で源流は百済以外にないだろう
日本貴族は百済王族のあれをうやうやしく拝領し奉る
「香の物」の語源はこれではないか
0619名無しさん@お腹いっぱい。
2022/06/24(金) 21:45:18.07ID:1LxJTMDe
東北アジアの言語・文化および民族の起源 l マルテイン . ロッベエツ 敎授(Prof. Martine Robbeets, Max-Planck-Institut(Germany))
https://www.youtube.com/watch?v=jmC5eCLSpCY
0620名無しさん@お腹いっぱい。
2022/06/24(金) 22:30:11.14ID:1LxJTMDe
宮本一夫氏の最新論文(2022年)
The emergence of ‘Transeurasian’ language families in Northeast Asia as viewed from archaeological evidence
doi: https://doi.org/10.1017/ehs.2021.49
「私が唱えてきた古日本語のルーツを南満州の偏堡文化に求める考古学的仮説は
言語学者たちが唱えているトランス・ユーラシア語仮説に相反するものではない
それどころか支持するものである」
だってよ、どうする?
偏堡文化人(ピアンプ) → 無文土器人(ムムン) → 弥生文化人(ヤヨイ)
で決まりだろ
0621名無しさん@お腹いっぱい。
2022/06/26(日) 19:01:23.69ID:eKViaTyU
縄文のままでは今の日本はパプアニューギニアのような暮らしをしているだろう。
0622名無しさん@お腹いっぱい。
2022/06/29(水) 08:42:36.87ID:uJTXdyh9
パプアから欧米の侵略を経てブラジルやメキシコのようになっていたかもね。
0623名無しさん@お腹いっぱい。
2022/06/29(水) 09:05:19.27ID:gypheu04
東アジアで完全に植民地化を免れたタイだけかな?
植民地時代ではタイが1番先に先進国になると予想されてたようだな
因みに沖縄は日米地位協定によりアメの植民地
本土も米軍に制空権を奪わたまま
中国本土からの「歯舞色丹」な金門島は中華民国台湾の支配下にあるが
大陸側と台湾の旗を両方掲げている
なぜかと言うと対岸の高層ビル群から観光で来る大陸人の経済に頼っているからねwww
お土産で一番人気は毛沢東軍が撃ち込んだ大量の砲弾で作った中華包丁w
金門島だけでは台湾有事なんてどこを吹く風なんだな
0624名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/02(土) 10:02:09.59ID:ARIOwGG0
なぜにタイが一番先に先進国になると思われてたのかな?
0625名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/05(火) 14:09:54.68ID:Amubc57N
2022年07月05日 三国時代の伽耶の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202207article_5.html
朝鮮半島の三国時代の伽耶の人類のゲノムデータを報告した研究(Gelabert et al., 2022)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。
0626名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/06(水) 07:04:44.55ID:SnXj9/uD
Figure 5. Spread of Proto-Japonic and Proto-Koreanic
https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20220218093604774-0175:S2513843X21000499:S2513843X21000499_fig5.png
0627名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/06(水) 07:05:09.62ID:SnXj9/uD
縄文人はアイヌのご先祖様や。君たちの先祖ちゃうよ
和人の先祖はこれ!
土井ヶ浜弥生人
http://www.iokikai.or.jp/doigahama161.jpg
>核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどは土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
0628名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/07(木) 19:14:14.93ID:gx0/O7it
2022年07月07日 ミクロネシアへの人類の5回の主要な移住
https://sicambre.seesaa.net/article/202207article_7.html
ミクロネシアへの人類の移住に関する研究(Liu et al., 2022)が公表されました。
Fig. 1. Map and PCA.
(A) Map showing five inferred streams of migration into Micronesia. (B) PCA results. Axes are computed with Dai, Nasioi, and Papuans; others are projected.
https://www.science.org/cms/10.1126/science.abm6536/asset/b131512a-db91-44b4-8eb8-b16b4f5b0650/assets/images/large/science.abm6536-f1.jpg
0629名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/07(木) 19:19:44.73ID:gx0/O7it
PCA見る限り、グアムのチャモロ族は、台湾原住民のアミ・タイヤル族とほぼ同人種ってことか?
>今回の研究結果によると、マリアナ諸島の人々はリモートオセアニアでは唯一パプア人祖先を持たない人々だと考えられるという。
0630名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/14(木) 11:23:59.67ID:uu+jZmsi
【リアルデスノート】山上「計画通り。安倍晋三を潰せば、日本に巣食う朝鮮カルト・世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に非難が集まると思った。表に引き摺りだしたかった」★14 [Stargazer★]
ttps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1657765076/
0631名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/23(土) 17:58:28.65ID:VG2cNNFg
1 : 2021/08/22(日) 10:39:49.49 ID:LNhyMsyXM
アスペ ⇔ 日本人
言葉をそのまま受け取る ⇔ 言葉の裏の意味を読み取れる
自分の世界に篭りがち ⇔ 人の顔色や世間体を気にしてばっかり
合理的、先進的 ⇔ 非合理的、伝統的
無表情 ⇔ いつもヘラヘラ愛想笑いばっかしてる
無愛想。媚びない ⇔ 長いものに巻かれる。上の言いなり
個人主義 ⇔ 集団主義
要はアスペって「日本人とは正反対の人種」ってだけちゃうの???
0632名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/24(日) 02:30:13.85ID:FWmV5vys
>>629
いいねぇ。やはり台湾原住民がポリネシア人になったわけだなぁ
グアムとかは海をさらに渡って屈強なポリネシア人にまではならなかった人たち
0633名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/24(日) 05:53:26.32ID:Ss2YUGkz
>>632
高砂族はそうだろ
大陸から移住した漢民族とは言語も風習も違うし
0634名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/27(水) 00:42:34.39ID:uU3g7P7A
橘 篠田謙一さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河の流域に雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?
篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。
橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。
篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。さらに誰が日本に渡来したのかは、難しい話になっています。これまでは縄文人と、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。
橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。
篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。
橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。
0635名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/27(水) 00:45:46.97ID:uU3g7P7A
篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。
橘 その人たちが、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。
篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した中で、大陸の遺伝子を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかも弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。
篠田 弥生時代、最初に日本に入ってきたのは、我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクションがあって、今の私たちが出来上がったんだというのが正しい書き方だと思うんですよね。
https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/8/7/1080m/img_878725a4d5171de2153285726f053f58195014.jpg
弥生時代以降の日本列島への集団の流入『人類の起源』より
0636名無しさん@お腹いっぱい。
2022/07/31(日) 19:38:12.94ID:69S1Rk9S
>635の地図の点線矢印「仮定される稲作の直接伝播のルート」って直接伝播と言いつつ半島をかすめてるように見えるな
半島南部を経由してるなら間接伝播というべきでは?(>>598~>>604)
0637名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/01(月) 08:07:07.36ID:jhSqDGDG
歴史修正主義界隈で「縄文を捉えなおす」とか「世界に冠たる縄文文化」とか異様な縄文アゲしてるよな
しかも、そういうことの多くは中国韓国との歴史的・遺伝的近さを否定する文脈の中で出てる
こないだも現代ビジネスで宇山が、日本人は中国南方苗族の末裔です、遺伝的にも近似していますと与太記事書いてた
まあこれは縄文主体説とは違うんだが根っこは同じ
日本人との遺伝的類似性は半島人が一番高くて、北方中国人、南方中国人と順に低くなっていくというのは明白な事実なんだが
韓国中国(華北集団)との関係を否定するために、その中で一番遠いはずの南方中国人が遺伝的に一番近いとか書いちゃう
で、Twitterでそれを真に受けたアホがリツイートして「教科書が書き換わる日も近い」とか吹け上がってる。クラクラするわ
0638名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/02(火) 06:32:01.40ID:9kYh1cGL
>>637
言いたいことはわかるけど北方の半島~華北との関係を否定したい(薄めたい)なら少なくとも弥生系よりも南方の血が濃い縄文系を持ち上げるのは理にかなってるだろう「イエスはアーリア人」とかいうのよりはだいぶんマシ
個人的には半島中華に対して特に思うところはないけど稲作を中心とした文化
である弥生人が言わば「小麦人」の子孫てのに違和感はあるね
稲作が中国南部から直接伝わったとしても人(弥生系)は半島経由なのは確かなワケで何時何処で交錯(置き換わり?)が起きたんだろか?
0639名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 13:12:07.06ID:BIc5pYZy
日本人自体が朝鮮人だから
大体奈良、飛鳥時代の天皇って皇居に百済宮とか名付けて他じゃねえか
どこの国に他国の名前の宮殿立てる国があるんだよ
東京の皇居の名前がアメリカ宮とか名付けてあったらへんだとおもうだら
0640名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 13:12:37.31ID:BIc5pYZy
朝鮮半島の古墳と日本の古墳の埋葬品調べてる学者がいうには
日本の古墳の埋葬品は低品質粗悪品で、朝鮮半島の古墳の埋葬品はしっかりと作られてる
そのことからしてだいたい想像つくだろ
0641名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 13:17:18.86ID:BIc5pYZy
奈良って全国でも一重瞼の割合が一番高いんだよな
これもう確定だろ
0642名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 13:23:31.89ID:BIc5pYZy
つーか大和で飛鳥文化を築いた蘇我氏はどう見ても百済の先遣隊だろ
仏教をつかって現地土民を教化して支配してるんだから
遺物も百済産、墓制も百済式w
0643名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 13:30:24.43ID:q8xRw2n6
クダラ、カラに並ぶ「~の国」の接尾語「ラ」である可能性はあるだろうなあ
シラギがシルラ城であるように「ラギ」の並びも「クニの城」だろう
沢良宜、葛城、茨城あたりも一般名詞からきてるかもな
0644名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 13:33:43.57ID:q8xRw2n6
法隆寺に代表される飛鳥時代の建築はほぼ渡来人の技術
「最後の宮大工」と言われた西岡常一は時代が下がるほど
木の本質を理解しない恰好だけの建築になっていくと嘆いていた
要は日本人は木造建築技術を威張るけど実はたいして判って無かった
江戸時代の当時の建築技術の粋を集めた日光東照宮より
1000年前の渡来人の技術で作られた法隆寺の方がずっと優れてるそうな
0645名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 15:47:47.66ID:J3bsAPUG
天皇家は半島南東部まで進出した濊貊族の末裔
濊貊族は扶余系民族で太陽神崇拝をしていた
彼らの国章は始祖東明王を導いた三本足のカラス
なので日本の皇祖神は太陽神アマテラス
神武天皇を導いたのも八咫烏ということになった
天皇にまつわる神話は扶余の模倣なの
0646名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 16:40:20.04ID:eEkVyeq3
新ウィキリヒト関係者おる?
0647名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/11(木) 16:43:25.21ID:eEkVyeq3
Twitterで新ウィキリヒトを検索して、おれのアカウントをフォローしてくれ
0648名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/12(金) 13:10:42.29ID:6kzZCQIf
バカウヨ「最近の研究で稲作は日本から朝鮮半島に伝わったと判明」
→ 考古学者が論破
→ なぜかバカウヨたちが発狂
0649名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/12(金) 13:19:44.08ID:Id1MK3Ht
>>648
ネトウヨは農水省のweb見たほうが良い
https://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_tanken/ine/01.html
0650名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/13(土) 00:07:38.69ID:RFJZ/EtA
ネトウヨは米と刀の話になると割と頭おかしくなるからな
あと富士山か、ナショナリズムの象徴かそれらが
0651名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/14(日) 09:58:09.03ID:INppxXUv
日本全体が東北か沖縄になってただけだよ
弥生と縄文以外の人種が見えない日本の朝鮮系アカデミック
蝦夷熊襲蝦夷は普通にいるんだが
0652名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/14(日) 21:04:03.06ID:TEuFFewC
沖縄は、中国文化もやはり濃いな。
てか台湾にも琉球というところがあってリウチウと読むが、沖縄語での発音と近いな
0653名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/15(月) 18:47:29.42ID:iWqaurD4
遣唐使の初期に制服した北の蝦夷の民を同伴して俺ントコは(オマイラと同様)異民族を従えてるんだぞ!同格だ!とアピールしたことがあったらしい(唐の側は東夷がそんな図々しい主張をするなんて想定外過ぎて意図に気が付かなかったんだと思われる/最初の遣隋使の際のように蛮夷無礼なり!となった記録はない)
同様に南の異民族を同伴して「これリュッキュー人」と紹介したのが琉球の語源らしいのだがこのリュッキュー人てのは屋久島より向こう(南)を雑にまとめてヤク人と言ったのがそう聞き取られたんじゃないかって説があるそうで
実際沖縄じゃなく奄美辺りの住人だった可能性が高いが唐の方でも九州より南 台湾より西の島を雑にまとめて琉球としちまったと
0654名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/17(水) 18:25:39.39ID:XbQeKtXG
明仁さんのゆかり発言忘れたのか
仏教公伝は百済からだぜ?桓武は宮中で韓神祭までやってたみたいだし
0655名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/17(水) 18:27:00.23ID:XbQeKtXG
桓帝霊帝の時代に韓と濊貊が強勢になって楽浪郡で制御できなくなったんだよ
その時代に倭国大乱も起きた
つまり韓か濊貊が南方にも強勢になってて列島に攻め込み倭国大乱を起こしたんじゃないかな
濊倭同系説にも繋がる
0656名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/17(水) 18:28:11.15ID:XbQeKtXG
そもそも古墳の遺物見るに、あれだけ規格品の鉄兜や鉄剣が日本中から出土するって
東大の大陸系騎馬民族征服説がただしい気がする
0657名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/18(木) 03:32:19.25ID:knKKIYTB
古代はご近所感覚で戦争してるのに、その後は海の向こうの国みたいな扱いになってて距離感わかんねえ
百済と倭は通訳なくて通じてるが新羅とはまったく通じてない。何を意味するか?
0658名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/18(木) 06:25:36.75ID:m9XIPIlG
百済は「くだらない」の語源となったけんのう。
0659名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/19(金) 18:57:55.37ID:tnVP41jW
2022年08月19日朝鮮半島三国時代の古代ゲノム研究の解説
https://sicambre.seesaa.net/article/202208article_19.html
朝鮮半島三国時代の古代ゲノム研究の解説(Wang R, and Wang CC., 2022)が公表されました。
0660名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/19(金) 19:31:38.99ID:tnVP41jW
調査結果から、西遼河関連農耕民は朝鮮語祖語を広めたかもしれない、と示唆されました。西遼河農耕民の祖先系統が現代朝鮮人では支配的だからです。次に、朝鮮語祖語集団は、西遼河的祖先系統を現代日本人の遺伝子プールにもたらしました。現代日本人は、縄文時代個体群と関連する基底部アジア東部系統からの限定的な遺伝的遺産(9%)と朝鮮人(91%)の混合として表すことができ、例外は縄文時代の人々の直接的子孫とみなされているアイヌです
興味深いことに、縄文関連祖先系統は少なくとも紀元後5世紀まで朝鮮半島南部において高水準で存続しました。これらの調査結果は新たな問題を提起します。縄文時代の人々の地理的範囲、あるいは縄文祖先系統はかつてアジア東部もしくは北東部本土に到達しましたか?朝鮮半島で最初の農耕民は誰でしたか?
0661名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/20(土) 00:11:52.61ID:3KRZVXQv
日本書紀は朝鮮人(百済人)がつくった
内容は嘘ばっか
息をするように嘘を吐くアノ民族によるもの、と考えたら納得がゆく
0662名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/21(日) 03:16:21.61ID:uDnABqUp
藤原氏の出現があまりにも唐突で不自然だものな
0663名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/21(日) 06:01:30.26ID:Bk/sxnF8
古代朝鮮の伽耶には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1656071245/
縄文人が朝鮮半島に移住していた可能性
ウィーン大学で行われた研究によって、古代朝鮮の南部に存在した「伽耶」の古墳において、
日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたことが判明しました。
0664名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/21(日) 07:29:02.94ID:FLUUMsMx
>>663
だから日本書紀を書いたのは朝鮮人なんだよな
朝鮮にいた日本人が日本にやって来たから
O1b2(L682) 朝鮮人固有の遺伝子
https://i.imgur.com/kGlXV47.png
[青色] 韓国、大阪府、京都市、神戸市、香川県
0665名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/21(日) 20:39:08.11ID:3tyRGpbS
縄文人は二重だろうが鼻不細工だからあかんわ。弥生人やチョンは鼻の形がよい。
0666名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/22(月) 00:31:48.06ID:KMn+c5yy
縄文崇拝者は、かっこいい要素は全て縄文由来と思ってるからな
0667名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/25(木) 04:19:01.59ID:teGmmryT
近代的な意味での日本最初の歴史学者である新井白石の主張が
天皇家は馬韓=百済の子孫であるというもの
綱吉死後の江戸幕府の思想政策の最高責任者となった
新井白石の学説は以降の江戸幕府の定説となる
明治以降の日朝同祖論もこの新井白石以来の定説を論拠としていた
0668名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/25(木) 04:21:22.31ID:teGmmryT
百済人も日本書紀を作って必死に万世一系、神、土着を主張している
百済が日本と名乗ったのは、百済ぼかし。つまり唐の百済残党狩り逃れなんだな
日本(くだら)でいいじゃん
0669名無しさん@お腹いっぱい。
2022/08/29(月) 08:36:24.87ID:Tu86l2u6
2022年08月28日 マレーシア先住民の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202208article_28.html
マレーシア先住民の起源に関する研究(Aghakhanian et al., 2022)が公表されました。
何世紀にもわたって記録されてきたこの驚くべき多様性にも関わらず、マレーシア先住民の遺伝的歴史と構造はまだ充分には研究されていません。これらの人々、とくにマレーシアのネグリートの遺伝的歴史についてより深く理解するため、この研究はマレー半島の5先住民集団とボルネオ島の1先住民集団に属する15個体の全ゲノムを高網羅率(30倍)で配列しました。
0670名無しさん@お腹いっぱい。
2022/09/03(土) 10:52:05.83ID:u+/PzC87
この鳥取人は自分の遺伝情報も明かさず何様のつもりなんだ?
外部から見れば、糖質はお前とお友達の連中だろ
遠見三謀太@カテキン中毒者
@tgs5555tgs
・
8月11日
@ kaeru reiwaさん、なんか凍結紛いの状態になってて大変だな。
糖質臭いのに絡まれてるっぽいし
https://twitter.com/tgs5555tgs/status/1557493830383194112
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0671名無しさん@お腹いっぱい。
2022/09/06(火) 11:25:10.95ID:P76iuAQ1
>>670
リツイートばっかでこいつ本人のツイートには基本いいね0で草
0672名無しさん@お腹いっぱい。
2022/10/03(月) 20:35:12.10ID:JiPsT2/w
https://youtu.be/YxKWZsnxd54
https://youtu.be/MYVa8H1wZvI
https://youtu.be/yq14YnFOewQ
https://youtu.be/JSEYTN0CYq4
https://youtu.be/DM9rKOD4Y4I
https://youtu.be/FU9U07u-UZM
https://youtu.be/pfgMGGIwb9s
落書き アルゼンチン ロンドン
壁 電車 ローマ
0673名無しさん@お腹いっぱい。
2022/10/14(金) 03:44:16.40ID:hNsqYfyx
台湾で約6000年前の人骨を発見、語り継がれてきた古代先住民のものか?
https://switch-news.com/science/post-82948/
頭蓋骨の大きさや形は、現在の南アフリカの一部やフィリピンに住んでいたネグリト人に似ていることも判明したそうだ。
今回の研究では、台湾に古代人がいたことが判明したが、その後彼らに何が起きたのかは明らかになってない。研究者は、他のオーストロネシア語族が台湾に到着し始めた頃には、彼ら(古代人)がいなくなっていたと考えている。
研究者らは、秦王朝の文書に小型で浅黒い肌の人々について言及されていること、また現在台湾に住む16のオーストロネシア語族グループのうち1つを除くすべてのグループが、かつて山に住んでいた小柄で浅黒い肌の人々の逸話を伝承していることにも注目している。
しかし、そのような話はグループによって異なり、あるグループはその先住民が自分たちの祖先であると信じている一方、あるグループは先住民を敵視しており、1000年前に古代人の最後の一人を殺してしまったと主張しているグループもいるそうだ。
0674名無しさん@お腹いっぱい。
2022/10/14(金) 05:16:19.73ID:Y1Hd03jP
台湾の高砂族はフィリピン系の民族
0675名無しさん@お腹いっぱい。
2022/10/15(土) 03:36:20.57ID:bquwsmDQ
台湾は中国からきちんと切り離して、東南アジアに入れて保護した方がよい。
0676名無しさん@お腹いっぱい。
2022/10/15(土) 06:22:08.18ID:TxkLAqkr
台湾はまた日本の植民地に戻せば良い
露がウクライナでやってるように
0677名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/03(木) 00:52:17.04ID:naVaTJ8C
2022年11月01日 三国時代の朝鮮半島の甕棺に埋葬された複数個体のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_1.html
三国時代の朝鮮半島の甕棺に埋葬された複数個体のゲノムデータを報告した研究(Lee et al., 2022)が公表されました。
0678名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/19(土) 22:13:32.08
人類学界隈のツイッタラーはまず自分の遺伝情報を開示せよ。C1a1の中国人を見習え。
0679名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/24(木) 14:01:03.46ID:4C/xyCgh
@katotoorera0君さぁ、
自分のハプログループくらい開示しろよ。
それとも調べてすらいないの?
Yハプロを使って政治プロパガンダを行うより先に
自らが何者であるか証明しなくちゃ
0680名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/25(金) 04:41:24.93ID:SZ8+lRgh
遠見三謀太@カテキン中毒者はなぜ自分のYハプロは明かさないんだ?調べてあるんだろ
0681名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/25(金) 04:52:42.20ID:SZ8+lRgh
自分のゲノムデータも明かせない者に公共の場で民族や人種を語る資格があるの?
0682名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/27(日) 01:56:18.56ID:JAgEoUIP
遠見三謀太のYハプロはCあたりか?
やけにC1a1中国人と仲良くしている辺り怪しい
0683名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/27(日) 01:58:16.62ID:JAgEoUIP
Y-C系統の人間はインターネット上だと声がデカくなる傾向にある。
0684名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/02(金) 23:27:44.68ID:KoQyyZac
鳥取のバカは己の所属するハプログループをさっさと明かせよ。何か不都合があるのか?
0685名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/05(月) 01:07:37.46ID:8ngDr3aj
Vol.66 日本の「藤」姓と韓国
日本人の名前に「藤」の一字が多く使われている。伊藤、加藤、後藤、藤井、藤川、藤田・・・・と使われる一字だ。前に後ろに、後藤田のように中央に、いくらでも出てくる。
これは日本人が藤原鎌足に繋がる藤原家にあやかろうと、藤の一字を付けたためだが、必ずしも藤原家と繋がっている訳ではない。どこぞの寺院か思い出せないが、「藤原家に繋がる姓と繋がらない姓一覧表」を貰ったことが有る。
よくよく歴史を勉強すると判るのだが、大化の改新で名を挙げた藤原家は、平安時代で亡んだのではなく、現代まで藤のツルのように天皇家にまとわりつき、生き延びている。
このツルのような生き方が日本人的でなく、もともと朝鮮系だと言われる中臣鎌足だが、天智天皇の蹴鞠に乗じて仲を通じ、同じく朝鮮系の蘇我氏を滅亡させて藤原姓を賜り、出世していく。
奈良時代に北家、南家、式家、京家に分かれた藤原四家は、太宰府の菅原道真のように他者を強引なまでに退け、その子孫を含めて平安中期、西暦1000年前後の道長時代に全盛期を迎える。
藤原氏の公家諸家は、平安末期から鎌倉時代以降、公式文書以外では「藤原」を使わず「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」など各家の名称を名乗り、維新後もそれを名字とした。戦前の近衛文麿首相のように。
しかし逆に鎌倉以降の農民は「藤」の一字を姓に付け、上述のように貴種の憧れから勝手に名乗った結果が、「藤」姓の氾濫である。
90%以上の韓国人が「日本は韓国が作った」と真剣に思っている。昔、韓国訪問時に通訳の若い女性に尋ねたら「そうじゃないんですか?」と逆に質問された。学校で教育されているのだろう。
韓国の日本領地「任那」ではないが、蘇我、藤原まで遡ると、往来が頻繁で国境など無い時代だ。この韓国の一方的なプライド、作ってやった日本を見下す姿勢が、今日の日韓関係に繋がっているような気がしてならない。
0686名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/05(月) 01:11:33.97ID:8ngDr3aj
名字ごとのY染色体ハプログループ頻度。
佐藤 鈴木 高橋
C-M130… 7% 9% 6% 日本系(日本人平均10%)
D-M174… 24% 45% 38% 日本系(日本人平均35%)
O1b-M268… 31% 22% 30% 朝鮮系(日本人平均30%)
O2-P198 … 30% 22% 23% 朝鮮系(日本人平均20%)
その他… 7% 2% 2%
https://www.nature.com/articles/s10038-020-00884-9/tables/1
藤原秀郷の末裔、佐藤氏は渡来系のO系統が多数派。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c0/Yoshitoshi_Fujiwara_no_Hidesato.jpg/800px-Yoshitoshi_Fujiwara_no_Hidesato.jpg
奥州藤原氏も頭蓋骨や子孫の遺伝子から朝鮮系と判明
>>平安時代後期の武将で、平泉に中尊寺を開基した奥州藤原氏の祖・藤原清衡(Fujiwara no Kiyohira, 1056-1128)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a1(O-CTS10145, CTS11723)である(注1)。
>>これは、奥州藤原氏四代のミイラに対する骨格の調査や、子孫複数名から得られたサンプルの解析結果などによる(注2)。藤原清衡の血液型はAB型。
https://famousdna.wiki.fc2cn.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93O1b2a1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1
0687名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/05(月) 16:37:10.29ID:8ngDr3aj
Twitterの藤原くん ここ見ていて草
0688名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/05(月) 16:37:23.01ID:8ngDr3aj
「こいつチョンだろ?」とストレートに言えないTwitterはやりにくそうだね
0689名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/05(月) 16:37:40.14ID:8ngDr3aj
朝鮮人なのはホゼワラのY染色体では?
0690名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/06(火) 20:18:57.01ID:na4zNZK8
藤のツルのように有名人にまとわりつきクソリプ送ることで生きながらえる←まんまホゼワラじゃん
0691名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/10(土) 14:28:48.37ID:rZYp7Zi+
落ちぶれ公家の末裔が他人さまを百姓扱いすんなよw
0692名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/10(土) 14:35:54.87ID:rZYp7Zi+
その笑える美女アイコンは不細工な藤原顔を隠すためなのか?真面目に聞くけど
0693名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/14(水) 18:25:11.29ID:3u50BVSA
O塚もT見も安定の藤姓ですね
【名字】櫛野
【読み】くしの
【全国順位】 9,514位
【全国人数】 およそ780人
現大分県中南部である豊後国宇佐郡櫛野村が起源(ルーツ)である、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流大友氏族。
近年、九州北部に多数みられる。「野」は自然のままの広い地を表す。
0694名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/14(水) 18:32:55.73ID:3u50BVSA
西国人はただ東国に屈すればいい この国の首都は東京だ
0695名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/14(水) 20:46:06.99ID:3u50BVSA
バカッター やめちまえ バーカ
0696名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/14(水) 20:50:40.63ID:3u50BVSA
山陰から日本憂いてどうすんだよ…さっさと広島岡山に併合されとけ
0697名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/16(金) 18:34:54.52ID:nBAKpAjl
櫛野姓まで晒しながら、なぜ遺伝型は公表できないのか?そこに負い目がある証拠だ。
0698名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/16(金) 18:37:55.77ID:nBAKpAjl
ハプロスレに書き込んでおいて今更後戻りはできんぞ。
0699名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/16(金) 18:54:28.63ID:nBAKpAjl
父母双系社会を支持するなら、
YDNAやmt-DNAを明らかにできるはずだ。
対立を避ける臆病者には無理だろうがな。
0700名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/16(金) 18:59:38.68ID:nBAKpAjl
それとも遺伝子を調べていないのか?だとしたら相当、生温い世界を生きてるね。
0701名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/16(金) 19:03:47.22ID:nBAKpAjl
遠見三謀太、このスレの存在を知っているな?
0702名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/16(金) 19:14:22.76ID:nBAKpAjl
鳥取とか滅び行く共同体でプライド拗らせてるのか知らんが誠意は示せよ?
0703名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/22(木) 00:37:55.48ID:KUSxP0u4
鳥取とか帰化人入植させて奴隷農園にした方が生産性上がるね
0704名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/22(木) 00:47:08.37ID:KUSxP0u4
Twitterのノリってきしょいな、そのうち見向きもされなくなる。
0705名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/22(木) 00:53:36.69ID:KUSxP0u4
いくら政治を語っても何も変わらん。たとえ政治が変わってもお前の惨めな人生は変わらん。
0706名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/26(月) 01:59:03.29ID:g8Xw+rSE
---嫌韓は世界の常識--- 世界で嫌われ嘲笑されてる韓国朝鮮人
www
1.アルゼンチンで追放したい民族第一位に選ばれたことがある。 実際に追放
2.タイでは韓国に絶対に行くなと報道
3.メキシコでは共存できない民族と報道
4.モンゴルでは反韓感情が急激に高まっている
5.フィリピン当局が自国女性に「韓国人警戒令」を出したことがある
6.アメリカ合衆国1992年、黒人のロス暴動の原因は韓国朝鮮人
7.アメリカ政府は1999年、韓国人によるレ○プ注意警告を公式に出した
8.経済協力開発機構(OECD)加盟国で初めて「自由言論弾圧監視対象国」に指定
9.台湾人とは犬猿の仲。台湾のタクシーや店ではNo Koreanのステッカーがいたる所に貼ってある
10.小泉首相がサミットの席上で「韓国もG7に入れてはどうだろう」と言った所
「ナイスジョーク」として爆笑されたのは有名な事実
11.フランスの某女優は「韓国人は嘘吐きばかりで嫌いだ」と発言
12.ロシア人ダンサーからは「韓国は地獄だった」と苦情
13.スイスでは「韓国人を見たら犯罪者と思え」と報道
14.カンボジア、韓国人男性との結婚を禁止
15.EUからは「韓国は世界最大の偽造品輸出国」と批判
16.アメリカ合衆国でまた朝鮮人が黒人に襲われる←NEW
17.日本安倍晋三射殺の原因はやはり韓国朝鮮人のカルト宗教だった←NEW
18.バイデン大統領のノールック握手←NEW
0707名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/26(月) 02:06:19.52ID:g8Xw+rSE
日本の古墳時代(古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。)=広開土王陵碑に記される倭国軍が朝鮮半島北上時期と同じ
だから騎馬民族征服王朝説とは全く真逆で、倭人日本人が朝鮮半島を北上してる
笑笑
馬は任那加羅地方から輸入出来たし
朝鮮半島の百済や新羅を攻めてる時に奪って日本列島にお持ち帰りも出来る
大爆笑
高句麗を脅かして広開土王陵碑を立てさせた時に、、、騎馬民族が朝鮮半島からやってきたのでは無くて、、
倭人日本人が逆に朝鮮半島を大規模に北上してヒャッハーしてた笑笑笑
古墳時代(こふんじだい)とは、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指す。
広開土王陵碑
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで高句麗王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが
「多くの倭人が新羅に侵入し、
王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」
と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
0708名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/27(火) 14:06:08.71ID:tuZbCSv7
飯能の事件、最初@katotoorera0が起こしたかと思ったわ
0709名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/27(火) 19:32:26.10ID:tuZbCSv7
糞以下の文章に値段つけて売ってるような乞食だし 相当カネに困ってると見える
https://oreranitsuite.com/about-us/
0710名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/27(火) 19:34:14.98ID:tuZbCSv7
ネオ儒教とか新手の詐欺だから 誰も買わねえよばーかw
0711名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/27(火) 19:43:29.45ID:tuZbCSv7
言われてんぞ 〇藤w
?????@celli1445 12月25日
>>この人、世の中や言説を見る目が偏りすぎているのでまともに議論は出来ないですね。
>>あなたの偏見をわざわざ正すために労力を割くことは出来ないのでブロックです。さようなら。
>>自分の民族認識を表明しろと一方的に要求してくる態度も勝手に人を「中間種」とかいう謎用語で同定してくるのも、
>>およそ他者と敬意を持って議論する姿勢ではないし傲慢ですよ。
>>勝手に大きな物語に身を置いて、異を表明するマイノリティを狙い撃ちする手法も下劣極まりない。
0712名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/27(火) 19:45:08.12ID:tuZbCSv7
おれにYハプロ開示を要求されたのがトラウマになったか?超攻撃的になってんじゃん
0713名無しさん@お腹いっぱい。
2022/12/27(火) 19:51:55.65ID:tuZbCSv7
糞藤くん、ガ〇ジ芸が出来なくなっても犯罪起こすんじゃないぞw
0714名無しさん@お腹いっぱい。
2023/03/12(日) 17:21:44.90ID:I3uxVzvl
てす
0715名無しさん@お腹いっぱい。
2023/03/30(木) 14:03:26.87ID:HdWmOhz8
加藤くんの印象って安倍を撃てなかった山上徹也なんだよな
0716名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/08(月) 10:11:02.73ID:4FAlIBBX
>>2
韓国の学者も韓国の古墳は日本人を埋葬したものだと
481:名無しさん@お腹いっぱい。:2022/03/21(月) 07:05:04.91 ID:LYNw4xJZ
日韓関係「戦後最悪」きっかけとなった歴史問題は古代にも!?
https://youtu.be/tF0bWvT2yGY
https://i.imgur.com/1pclByM.jpg
https://i.imgur.com/BcC7GXA.jpg
https://i.imgur.com/5gxwo7r.jpg
https://i.imgur.com/jUwozvb.jpg
https://i.imgur.com/braIfed.jpg
(韓国南部の古墳に埋葬されていた人物)
倭人(日本人)でその出身は
石室の形態から見ると福岡
0717名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/21(日) 16:30:32.29ID:ccvKLpsi
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0718名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/21(日) 17:07:15.26ID:T6Mb0UMD
白村江で日本に渡った百済貴族が余りに多く、
天武自身も扶余勇と同じ扶余家であったので、「日本」を称したのである。
百済人は倭国を乗っとり「百済」のかわりに「日本」と号したのであった。
支配層は新古の違いはあっても全員半島人。
百済人が移動してきて倭国号を日本国号に変えた。
同化ではなく乗っ取り。過去における政権交代も半島人の乗っ取りだろう。
原住民倭人に王朝文化は有り得ない。
0719名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/22(月) 03:41:41.44ID:u2aJH8XN
まあ、日本の源流は半島にあるのはほぼ間違いないだろうな。
・古い新羅の地名は倭語で解釈する事ができるという
・半島東北部に居たワイ族が扶余系民族と言語がほぼ同じであったという中国の文献
このことから、半島倭人と言われる人々は = ワイ族だった可能性がある。
倭人の源流は伽耶地方に南下してきていたワイ族の一派が日本に渡ったものである可能性はかなり濃厚。
で、彼らは扶余系民族とも言語が近かった。だから百済人との親和性も高かった。
0720名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/22(月) 03:42:42.17ID:u2aJH8XN
記紀からして、ウソの神話で始まり、あたかもジャップが日本列島の古来から存在してきたように見せかけ
しらーっと史実に移り、「さあ、東征してバケモノども(土着の毛人=アイヌ)を退治しにいくぞ!」って荒唐無稽な矛盾
いや、おまえら明らかに朝鮮半島の百済から降って湧いた侵略者だろ、ってツッコミ待ちのギャグ内容だからな
0721名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/22(月) 03:59:54.80ID:u2aJH8XN
考えてみりゃ、渡来系の天皇を崇めるのもなんかアホらしくなってきたな
天皇ってオウム麻原並に胡散臭いヤツだぜ
ただの半島人のくせに「ウリは天孫族じゃ」とかほざいてる痛い奴
元祖統一教会みたいなもん
0722名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/22(月) 08:04:02.79ID:Y4u9ky55
中国人に発見された邪馬台国(大和国の蔑称)そもそも卑弥呼(姫子の蔑称)だって大陸の戦乱から逃れた人
諸葛孔明みたいに気象学に長けていたから先住民から神と崇められたんだろうな
天皇も大陸からの優れた文化を持ち込んで来たから先住民から神と崇められた
0723名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/25(木) 15:26:14.05ID:yCD9Lms0
2023年05月21日 中国北東部におけるマンジュ人と朝鮮人の遺伝的構造および混合
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_21.html
中国北東部におけるマンジュ(満洲)人と朝鮮人の遺伝的構造および混合に関する研究(Sun et al., 2023)が公表されました。
0724名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/30(火) 16:28:20.96ID:2cv4X6nG
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない。
0725名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/30(火) 16:30:46.59ID:2cv4X6nG
日本(百済を指していた一般名詞)の残党が扶桑に逃れて国号を日本としただけ
日本と倭は別種であるときを堺(おそらく大宝律令以降)に国号を日本と名乗ったと旧唐書にも書かれている
日本書紀の日本も百済のことを指している
古代の日本列島のことについては郡評論争で明らかになったとおり偽書ではあるが、殊百済に関しては史実性が高いとみられている
つまり百済の歴史書
0726名無しさん@お腹いっぱい。
2023/05/30(火) 16:32:36.79ID:2cv4X6nG
旧・新唐書で「日本」と改号した使者の理由付けに「疑」とあるのは、ごまかしたからだ。
「百済」を名乗ると唐から更なる攻撃の可能性があったので、改号したのが真相。
0727名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/02(金) 22:35:50.00ID:j9rjw/MU
今いちばん本質に迫ってるのが 「濊倭同系」 説
斎藤成也 @Saitou_Sayer
日本語系統論共同研究会で、伊藤英人先生が開陳された濊倭同系説に深く興味を持ちました。
そこから私の妄想がはじまり、倭(わ)とは、朝鮮半島の東西南沿岸から遼東半島、山東半島、
さらに南下して台湾島の反対側あたりまでの海岸一帯に居住していた人々ではなかろうかと・・・
0728名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/02(金) 23:40:10.26ID:j9rjw/MU
大陸倭語の「濊語」とか充分な史料が無かったために無かったかのように扱われてきた訳で
研究方法の発達でそれが変わることが歴史研究の真骨頂かと思う。
「濊倭同系説」も東京大学教授の福井玲氏が発表してても簡単には世の中に広まりそうに無いと思っていたが
現代日本人のDNAの8~9割が遼寧地域に由来するとなると現実のものになってきた。
濊は渡来系弥生人の祖先の大陸側に残った集団と見られる。
0729名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/04(日) 04:01:01.09ID:ALXyNr6j
天皇家は半島南部まで進出した濊の末裔
濊は扶余系民族で太陽神崇拝をしていた
彼らの国章は始祖東明王を導いた三本足のカラス
なので日本の皇祖神は太陽神アマテラス
神武天皇を導いたのも八咫烏ということになった
天皇にまつわる神話は扶余の模倣
0730名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/04(日) 04:39:07.62ID:ALXyNr6j
桓帝霊帝の時代に韓と濊貊が強勢になって楽浪郡で制御できなくなったんだよ
その時代に倭国大乱も起きた
つまり韓か濊貊が南方にも強勢になってて列島に攻め込み倭国大乱を起こしたんじゃないかな
濊倭同系説にも繋がる
0731名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/04(日) 09:25:07.67ID:KI5lKHSG
これは何方様のお言葉ですか?
私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
0732名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/05(月) 00:26:54.74ID:RqKWwYI3
濊人と倭人 西北大学考古学部 王建新
中国の学者は古代の倭人についてあまり研究していません。
日本の学者はこの分野を重視していますが、国民感情よって制限されるため客観的に議論することはできません。倭人の起源は未解決の問題です。
1996年から1999年にかけて、著者は北東アジアの青銅器時代に関する研究を実施し、日本で「北東アジアの青銅文化」という本を出版しました。
著者は研究に基づいて、濊人と貊人と倭人などの古代北東アジアの集団を体系的に分析しました。
「山海經・海内北經」「後漢書・鮮卑伝」「論衡」などの文献には、古代倭に関する記録があり、多くの学者が日本列島の倭人と関連づけて研究しています。
しかし、文書に記録されている倭の状況から判断すると、彼らは日本列島に住んでいる倭人ではなく、
遼東、吉昌、長白山周辺及び朝鮮半島北部に住んでいた古代濊人です。
0733名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/05(月) 00:27:16.16ID:RqKWwYI3
日本の源流は半島にあるのはほぼ間違いないだろ
・古い新羅の地名は倭語で解釈する事ができるという
・半島東北部に居た濊族が扶余系民族と言語がほぼ同じであったという中国の文献
このことから、半島倭人と言われる人々は = 濊族だった可能性がある
倭人の源流は伽耶地方に南下した濊族の一派が日本に渡ったものである可能性はかなり濃厚
彼らは扶余系民族とも言語が近かった。だから百済人との親和性も高かった
0734名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/05(月) 01:08:19.09ID:RqKWwYI3
半島日本語グループ → 扶余・濊・百済・先高句麗 (Peninsula Japonic)
列島朝鮮語グループ → 出雲 (Archipelago Koreanic)
日本神話でヤマタノオロチが暴れてる場所は
朝鮮語族の勢力圏
0735名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/06(火) 03:23:06.11ID:qrTzzpgz
ネトウヨは韓国人の先祖を不潔な濊人などと言っていたが
濊は倭と同根であり半島日本語(Peninsular Japonic)の話者だと言われているんだよな
見事なネトウヨブーメランで笑いが止まらない
0736名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/08(木) 06:48:34.92ID:G0KxeDu9
2023年06月07日 考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源(宮本一夫)
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html
考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。
0737名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/11(日) 15:52:16.94ID:8he3ZEf7
日本語と朝鮮語の起源地は満洲南部で
日本語は紀元前2700年頃の偏堡文化に由来し、朝鮮半島へ広がって無文文化を形成し、九州北部に到達して
やがて日本列島の「縄文語」系統を(北海道以外でほぼ)駆逐しました。
朝鮮語は現在の北京付近の燕国の拡大に伴い紀元前5世紀頃に朝鮮半島へと到来し
やがて朝鮮半島に存在した日本語系統を駆逐しました。
この見解は、確定的ではないものの、近年大きく発展した古代ゲノム研究と整合的かもしれません。
0738名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/12(月) 04:19:24.23ID:thiUSxGb
>耽羅国の王統
>もとは九韓の一つで、一説に九韓の時代に亡羅との国号を付け、
>新羅から耽羅という名で封ぜられ、百済から耽牟羅という名で封ぜられたという。
ここから推察されるのは、
新羅では「閉音節 tam-ra」、
百済では「開音節 ta-mu-ra」の言語が
使われていただろうということだ。
0739名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/12(月) 05:02:25.26ID:thiUSxGb
天皇って要するに秦氏・藤原氏の王
それでこいつら百済から渡来した奴らだから、
つまり天皇って百済の王
0740名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/13(火) 04:44:17.89ID:78WjBUJQ
Brown Bag Seminar No.033 Kazuo Miyamoto 「近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散」
https://www.youtube.com/watch?v=a4hLPynYKug
0741名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/14(水) 05:38:01.31ID:MgVdfu+g
設定ガバガバすぎて笑えてくる初期天皇 神武天皇(127歳没) 景行天皇(143歳没)
0742名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/14(水) 05:38:49.71ID:MgVdfu+g
中国「この日本人とかいうヤツラなんだか嘘くさい・・・。」
『旧唐書』巻一九九上 列伝第一四九上 東夷「日本国伝」
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
(和訳)
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。
東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
0743名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/20(火) 04:02:06.37ID:9mkv7AI3
ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」。
ジャレド・ダイアモンドは、その世界的なベストセラー『銃、病原菌、鉄』で、
「朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺したので、
弥生時代という縄文時代とは根本的に性格を異にする新しい時代が始まった」
という主張をかなりの説得力を持って示している。読めば納得、というやつだ。
しかしなんと、『銃、病原菌、鉄』が和訳される時、その章だけ訳されなかった。
「日本人=朝鮮人」という真実がそんなに都合悪いのか。
その訳し飛ばされた部分を訳してくれた人がいる。
https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html
0744名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/20(火) 08:47:14.43ID:ozHaKP1A
>>743
なぜその章だけ訳されなかったのか?
もちろん、そんな中卒ギャグすぎる考古事実なんかないから
朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺して
弥生時代が幕開けしたなら、弥生時代は九州北部から土器型式が朝鮮土器で
幕開けするはずである
ところが弥生時代は沿海州南部と一致する刻目突帯文土器という土器型式で幕開けし、
しかも縄文末の山陰の出雲あたりからその土器は始まっている
イネの粒種や農具の系統から見て明らかに朝鮮半島から取り入れられている最古の
稲作遺構ですら朝鮮土器は一切作られなかった
朝鮮半島との交流を示す朝鮮土器の壺が一つ見つかったのみである
弥生中期になると朝鮮半島から搬入した朝鮮土器やそのコピーである擬朝鮮土器などの
朝鮮系土器が出土する遺構が多くなるが、朝鮮半島から入植した事を示す典型的な
オリジナルの朝鮮系土器がメインの遺構というのがほとんどなく、弥生終焉まで
朝鮮土器が列島の土器型式になる事はなかった
青銅器や鉄器などの最古の金属器の製造遺構でさえそのような状態である
列島側から積極的に朝鮮半島から先進文化を取り入れた痕跡はあるが、
朝鮮半島から入植してきた痕跡遺構はほとんど見られないのである
これは朝鮮半島の典型的なオリジナルの朝鮮陶質土器や韓式土器と区別が付かないほど
精巧な朝鮮系土器がメインで見られる遺構が多い古墳時代中期と比べると至極対照的な
事で
-
21:777
:
2023/07/01 (Sat) 07:53:41
-
0744名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/20(火) 08:47:14.43ID:ozHaKP1A
>>743
なぜその章だけ訳されなかったのか?
もちろん、そんな中卒ギャグすぎる考古事実なんかないから
朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺して
弥生時代が幕開けしたなら、弥生時代は九州北部から土器型式が朝鮮土器で
幕開けするはずである
ところが弥生時代は沿海州南部と一致する刻目突帯文土器という土器型式で幕開けし、
しかも縄文末の山陰の出雲あたりからその土器は始まっている
イネの粒種や農具の系統から見て明らかに朝鮮半島から取り入れられている最古の
稲作遺構ですら朝鮮土器は一切作られなかった
朝鮮半島との交流を示す朝鮮土器の壺が一つ見つかったのみである
弥生中期になると朝鮮半島から搬入した朝鮮土器やそのコピーである擬朝鮮土器などの
朝鮮系土器が出土する遺構が多くなるが、朝鮮半島から入植した事を示す典型的な
オリジナルの朝鮮系土器がメインの遺構というのがほとんどなく、弥生終焉まで
朝鮮土器が列島の土器型式になる事はなかった
青銅器や鉄器などの最古の金属器の製造遺構でさえそのような状態である
列島側から積極的に朝鮮半島から先進文化を取り入れた痕跡はあるが、
朝鮮半島から入植してきた痕跡遺構はほとんど見られないのである
これは朝鮮半島の典型的なオリジナルの朝鮮陶質土器や韓式土器と区別が付かないほど
精巧な朝鮮系土器がメインで見られる遺構が多い古墳時代中期と比べると至極対照的な
事である
0745名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/23(金) 19:18:33.36ID:pUSbhfYr
縄文人 → 弥生人に乗っ取られる
大和朝廷 → 滅亡した百済の王族に乗っ取られる
明治 → 朝鮮系長州人に徳川幕府が乗っ取られる
現代 → 自民党が統一教会に乗っ取られる
日本の歴史は半島に乗っ取られの歴史
0746名無しさん@お腹いっぱい。
2023/06/25(日) 13:15:13.46ID:S+9tK1Bz
.
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
-
22:777
:
2023/12/11 (Mon) 13:56:37
-
【最新研究】東アジア人(モンゴロイド)の形成史と寒冷地適応/縄文人は朝鮮半島にも住んでいた/黄河集団と長江集団の起源/Y染色体ハプログループDの謎/縄文人と繋がるホアビン人(ホアビニアン)とオンゲ族
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=x4x5lVOjL_Y2023/12/04
東アジア人類集団人の形成過程に関する研究はヨーロッパに比べ遅れていましたが、ここ数年で東アジアでも古代DNAデータが揃いつつ有り、多くの研究成果が報告されています。
今回は近年の研究で明らかになってきた東アジア人の起源について解説していきます。
参考書籍
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK
交雑する人類 古代DNAが解き明かす 新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
-
23:777
:
2023/12/18 (Mon) 16:54:48
-
雑記帳
2023年12月17日
弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_17.html
考古学と古代ゲノムの研究も踏まえて弥生時代の日本列島の人類集団の成立と展開に関する概説(藤尾.,2023)が公表されました。本論文は、私がほとんど把握できていない朝鮮半島の考古学的研究や、当ブログでまだ取り上げていない日本列島の古代DNA研究が取り上げられており、私にとってたいへん有益で、補足しつつ詳しく見ていきます。本論文は、弥生時代の人類集団の遺伝的起源および構成とその時空間的差異の現時点での研究の進展を把握するのに最適で、この問題に関心の日本語を読める人々にはお勧めの概説です。
●要約
本論文は、朝鮮半島では新石器時代島嶼よりアジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有さない人類集団が南岸に存在していた、との知見(Robbeets et al., 2021)に基づいて、朝鮮半島との関連で、日本列島における弥生時代の人類集団の遺伝的構成の起源および構成とその時空間的差異を概観します。朝鮮半島新石器時代集団は遺伝的に、アジア東部沿岸古代人集団的な遺伝的構成要素を有する集団(朝鮮半島系)と、有していない集団(西遼河系)など、前期から多様と考えられます。本論文は、多様な遺伝的構成の朝鮮半島青銅器時代集団と、そうした集団が水田稲作を九州北部に伝えた場合の弥生時代人類集団について、以下の4通りを想定します。それは、
(1)渡来系弥生時代集団I:西遼河系+在来(縄文)系の遺伝的構成で、具体的には福岡県安徳台遺跡(篠田他.,2020)や鳥取県青谷上寺地遺跡(神澤他.,2021a)など弥生中期~後期の遺跡です。
(2)渡来系弥生時代集団II:朝鮮半島系(西遼河系+古代アジア東部沿岸系)の遺伝的構成で、具体的には弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡ですが、在来(縄文)系弥生時代集団との遺伝的混合はほぼ認められません。
(3)在来系弥生時代集団:渡来系弥生時代集団IもしくはII+在来(縄文)系弥生時代集団の遺伝的構成で、具体的には長崎県下本山遺跡(篠田他.,2019a)や熊本県大坪貝塚(神澤他.,2023)など、弥生時代後期以降の遺跡で、いわゆる「西北九州弥生人」です。
(4)在来(縄文)系弥生時代集団:縄文時代集団(縄文人)と同じ遺伝的構成で、具体的には佐賀県唐津市大友遺跡(神澤他.,2021b)や愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡(Gakuhari et al., 2020)です。
●研究史
朝鮮半島新石器時代の獐項遺跡個体の核ゲノムでは、後期旧石器時代(上部旧石器時代)にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上した古代アジア東部沿岸集団と、アジア東部大陸部北方の新石器時代集団の混合と2019年に示されました(篠田他.,2019)。古代アジア東部沿岸集団とは、後期旧石器時代にアジア南東部からアジア東部沿岸を北上してきた現生人類(Homo sapiens)で、アジア東方の沿岸部や島嶼部に存在し、朝鮮半島の新石器時代集団や「縄文人」の共通の祖先と本論文では把握されています【この問題については「私見」の項目で後述します】。
この遺伝的構成は弥生時代前期後半以降に見られる「渡来系弥生人」と呼ばれている集団と類似しているため、アジア東部北方系と古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有する青銅器文化集団が「渡来系弥生人」の候補の一つとして想定され、在来(縄文)系弥生時代集団と混合しなくとも「渡来系弥生人」集団は成立する、と予想されました。遺伝的混合がなければ、弥生時代初期に移住してきた青銅器文化集団は自ら水田稲作を行ない、その子孫も、「在来(縄文)系弥生人」と混合しなくとも、日本列島への渡来から400年ほどで伊勢湾沿岸地域まで到達したことや、遠賀川系甕単純の甕組成の一因を説明できるのではないか、というわけです。
その直後の2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)では、古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有さない、西遼河流域の紀元前4500~紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化集団と同じ遺伝的構成要素でモデル化できる個体が、韓国全羅南道の新石器時代(非較正で紀元前6300~紀元前3000年頃)の安島(Ando)遺跡で確認され、韓国慶尚南道の欲知島(Yokchido)遺跡で発見された後期新石器時代個体は、獐項遺跡個体よりも古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の割合が高い、と示されています。Robbeets et al., 2021では、古代アジア東部沿岸集団を千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表させ、朝鮮半島南岸新石器時代の一部の個体を「縄文人」との遺伝的混合と解釈していますが、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないので(水ノ江.,2022)、本論文においては「縄文人」ではなく古代アジア東部沿岸集団と表現されます【この問題については「私見」の項目で後述します】。
Robbeets et al., 2021の調査結果は、縄文時代前期同時代の朝鮮半島南部には、著者【藤尾慎一郎氏】が想定していた古代アジア東部沿岸集団と中国北部系新石器時代集団との混合割合の異なる集団だけではなく、中国北部新石器時代直系集団【安島遺跡個体に代表されます】まで存在していたことを意味するので、朝鮮半島新石器時代集団の核ゲノムでの遺伝的多様性はきわめて多様だった、と示唆されます。朝鮮半島青銅器時代人類のゲノムデータは、網羅率の低いTaejungni遺跡の1個体(紀元前761~紀元前541年頃)しかないので詳しい分析は困難です(Robbeets et al., 2021)。
三国時代になると、伽耶の政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある大規模な埋葬複合施設で発見された紀元後4~5世紀頃の8個体(Gelabert et al., 2022)や、金海柳下里貝塚で発見された人類遺骸や、5世紀の高霊池山洞44号墳の人類遺骸や、5~7世紀の永川完山洞古墳群で見つかった人類遺骸にも、中国北部系と古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的混合の痕跡が確認されており【韓国の西部沿岸地域の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ばの6個体のゲノムについては、縄文系の遺伝的構成要素が示されていません(Lee et al., 2022)】、青銅器時代の朝鮮半島にもそうした遺伝的構成の人類集団が存在していた可能性は高そうです。そのため、上述のような「渡来系弥生人」の成立に関する単純な想定はもはや困難です。
そこで本論文は、獐項遺跡以外の朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡から出土した人類遺骸の遺伝的構成と文化について説明したうえで、その子孫である青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合のなかから、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」がどのようにして成立するのか、再度検討します。
●朝鮮半島新石器時代集団の遺伝的構成と文化
ここでは、朝鮮半島の安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡が対象です。図1には、本論文で取り上げられる朝鮮半島の新石器時代と日本列島の縄文時代~古墳時代の遺跡の分布が示されています。朝鮮半島の3ヶ所の新石器時代遺跡(安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡)は、いずれも朝鮮半島本土ではなく、その沖合の島嶼部に位置します。ここで取り上げられる日本列島の遺跡の大半は縄文時代および弥生時代となりますが、種子島の2ヶ所の遺跡(上浅川遺跡と広田遺跡)は古墳時代となります。図1の遺跡を示す灰色は、核ゲノム解析は行なわれていないものの、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では古代アジア東部沿岸集団系(縄文系)と示された遺跡を表しています。以下は本論文の図1です。
画像
図1では、核ゲノムが解析されている個体については、「縄文人」と「在来(縄文)系弥生人」の縄文系、西遼河新石器時代集団的な遺伝的構成の中国北部系、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の混合である渡来系、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」の混合である西北九州系に分類されています。朝鮮半島新石器時代では、安島個体が中国北部系、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系です。上浅川遺跡と広田遺跡の個体は、古墳時代となりますが、縄文系に分類されます。
環朝鮮海峡地域とよばれる地域は1980年代より、朝鮮半島沿岸から九州北部および西北部も含めた地域に共通する漁撈具の存在が知られています。それは、大型の魚類を釣る西北九州型結合式釣針やオサンリ型釣針、突き刺して獲る石銛などです。新石器時代集団や「縄文人」は魚を求めて季節的にこの地域を移動していたと推測されるので、航海中に立ち寄った港で中国の玦状耳飾りや佐賀県伊万里市にある腰岳の黒曜石を入手し、各地の産物と交換していたと考えられます。これは高倉洋彰氏の指摘する漁撈民型交流です。こうした漁撈活動を担っていた朝鮮半島側の個体の核ゲノムが、一部ながら解析されています。
安島貝塚は韓国麗水市の沖合の安島にある前期新石器時代の墓地遺跡で、合計5 体の人骨が調査されました。1 号墓は20 代女性と30 代男性の2 体の合葬墓、2 号墓と3 号と4 号墓は1 個体ずつ葬られ、いずれも基本的に仰臥伸展葬です。人骨に抜歯は認められませんでしたが、潜水漁を行なう人によく見られる外耳道骨腫が確認されています。一方で、シベリアのようなアジア大陸の北方域の人びとによく見られる下顎隆起、「渡来系弥生人」の特徴であるエナメル質感形成(2・3 号)や上顎切歯シャベル型(2・3 号)が見られます。1号人骨の20代女性のゲノムは、紀元前4700~紀元前2900年ごろの河北省北部から内モンゴル自治区東南部および遼寧省西部にみられた紅山文化集団的な遺伝的構成要素で完全にモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。紅山文化集団のゲノムは、仰韶(Yangshao)文化集団的な遺伝的構成要素とアムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体的な遺伝的構成要素との混合でモデル化されており(Robbeets et al., 2021)、本論文では中国北部系と分類されます。以下本論文では、篠田謙一に従って、中国北部系は西遼河系と呼ばれます。
上述のように、欲知島個体と獐項個体が朝鮮半島新石器時代系に分類され、安島個体とあわせると、縄文時代前期に該当する年代には、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有さず、西遼河系の遺伝的構成要素を有する集団が朝鮮半島南岸にまだ到達していた、と示されます。日本列島では、西遼河系の遺伝的構成要素で完全にモデル化できる(混合していない)個体は見つかっていません。安島貝塚と欲知島遺跡と獐項遺跡の個体の核ゲノムから、朝鮮半島では前期新石器時代から人類集団は遺伝的に多様だった、と予想されます。
20~60 代の男女(親族関係は不明)が葬られた安島貝塚から出土した遺物には中国系の玦状耳飾、縄文系の轟式土器や石匙や結合式釣針、佐賀県腰岳産の大量の黒曜石片などがあり、黒曜石の出土数は朝鮮半島において一遺跡としては多い方で、剝片数は220 点です。また、タマキガイ科の貝で作られた貝釧を装着した人類遺骸が見つかるなど、九州西北部の縄文文化との共通性が見られます。安島貝塚の状況は、西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体が存在する一方で、縄文系の道具を有している人がいる点で、文化的にも多様です。安島貝塚の集石付近で見つかった骨片や貝殻を対象に放射性炭素(¹⁴C)年代測定が行なわれていますが、土壙墓出土人骨自体の¹⁴C年代測定は行われておらず、2008 年以前の測定なので較正曲線はIntCal04で、較正年代は7430~6620年前頃でした。安島貝塚出土人骨では、日本列島と朝鮮半島において現時点では唯一のゲノムを西遼河系で完全にモデル化できる個体が見つかっており、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)データに基づく主成分分析(principal component analysis、略してPCA、図4)に投影すると華北の現代中国人集団に入り(篠田謙一氏の指摘)、韓国の現代人よりも中国の現代人―にきわめて近くなります。以下は本論文の図4です。
画像
韓国統営市沖合の欲知島には前期新石器時代墓地遺跡があり、2ヶ所の土壙墓から3個体の人骨が見つかっています。1 号墓には壮年の背が高い男性が葬られており、大腿骨の筋付着部がよく発達していて頑丈なことから男性と判断され、上顎右第1小臼歯も見つかっています。2 号墓は、壮年~熟年の男性と20歳前後の女性との合葬墓です。男性については側頭骨と尺骨が2体分検出されており、左側に顕著な外耳道骨腫が見られ、潜水を生業としていたことが明らかです。女性については側頭骨と四肢骨が見つかっており、華奢な感じとされています2個体の核ゲノム解析の結果、2個体とも西遼河系と古代アジア東部沿岸集団系の混合である朝鮮半島新石器時代系、西遼河系の割合は2個体間で異なっていました。欲知島遺跡では、西唐津海底式の特徴を持つ縄文土器、シカの骨や角で作られた骨角器、佐賀県腰岳産の黒曜石で作られた打製石鏃、イノシシ形土製品など九州西北部の縄文系遺物などが発見されており、九州西北部の縄文文化と密接に交流していたことが窺えます。
洛東江三角州の西南海上の釜山特別市加徳島獐項遺跡は、前期新石器時代の墓地です。土壙墓などから人骨48体が出土し、発見された隆起線文土器や押引文土器から縄文時代前期と同年代の前期新石器時代に比定されています。山田康弘氏によると、加徳島獐項遺跡の人類遺骸は形態的に「縄文人」と異なるようで、墓壙が弥生時代の甕棺墓に見られるような列状に並んでいるなど、縄文文化には見られない特徴があります。2号および8号人骨の¹⁴C年代は6300年前頃です。加徳島獐項遺跡2号および8号のmtDNAは日本列島において弥生時代以降に見られるハプロタイプで、核ゲノム解析から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合で、現代日本人と類似しているものの、典型的な現代韓国人とは異なる、と示されました。また、2号と8号のゲノムにおける混合割合は異なっており、遺伝的多様性が窺えます。
加徳島獐項遺跡個体から、朝鮮半島南部では弥生時代開始の3000年以上前から、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素の混合が見られる、と分かります。これについて篠田謙一氏は、まず旧石器時代からアジア東部太平洋沿岸の島嶼部や沿岸部には「縄文人」や朝鮮半島の新石器時代集団などを含む代アジア東部沿岸集団に遺伝的に分類できる個体群が存在しており、その後、大陸から隔離されていた「縄文人」は、大陸内部の新石器時代集団と遺伝的に混合しなかったものの、陸続きである朝鮮半島の新石器時代集団と大陸内部の新石器時代集団との間では早くから遺伝的混合が進み、遅くとも6300年前頃には現代日本人と同程度まで混血が進んでいた個体も存在した、と指摘していますこの問題については「私見」の項目で後述します】。
南岸に限定されますが、これら朝鮮半島新石器時代個体群の遺伝的構成は、西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成要素と古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素で示され、前者のみの個体(西遼河系)と、前者と後者のさまざまな割合での混合の個体(朝鮮半島新石器時代系)とが確認されています。朝鮮半島では完全な古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体はまだ確認されていませんが、日本列島と同様に存在しても不思議でありません。一方で、西遼河系の個体は日本列島では縄文時代のみならず弥生時代でも見つかっておらず、存在していたのか否かも不明です。この西遼河系新石器時代集団的な遺伝的構成を日本列島にもたらした集団と関連で注目されるのが、朝鮮半島の青銅器時代遺跡です。
●朝鮮半島青銅器時代後期の慶尚北道達城平村里遺跡
洛東江の上流域に位置する慶尚北道達城平村里の青銅器時代中期~後期の集落・墓地遺跡では、考古学的に弥生文化の祖型と言えるような痕跡が見つかっています。集落域は北側のI地区にあり、青銅器時代中期の孔列文土器の段階で、壁際に小さな柱を隙間なく並べて支えられた壁と複数の炉があり、間口が狭く細長い長方形の住居を特徴とします。南側のII地区にある墓地(石棺群と土器棺群)の時期は青銅器時代後期で、かつて先松菊里類型といわれていた段階です。合計28 基の石棺と3基の土器棺などが検出され、28個体の人骨が出土しました。本論文では、代表的な3号石棺と20号石棺が取り上げられます。
3号石棺は長側壁を短側壁で挟み込む形(報告書では石軸形)になっており、長さは167cm、幅は49cmで、ほぼ全身の骨が屈葬で埋葬されていました。上腕骨の長さから身長は173cmと推定されています。歯は全体的にエナメル質の摩滅が多いことから30~34歳と推定されています。磨製石剣1本と磨製石鏃9本が、左腹付近に散在するような状況で見つかっています。20号石棺は3号と同じ石軸形の石棺で、長さは150cm、幅は52cmです。ほぼ全身の骨が出土しており、推定身長は3号石棺出土人骨と同じく173 cmです。磨製石剣1本が右腰付近、磨製石鏃12本が左足下に、切先を下に向けて副葬されていました。腸骨の¹⁴C年代(4590±60年前)は、考古学的な年代よりもかなり古く出ています。
土器棺では、壺棺1基と日常の甕を転用した甕棺2基が出土しています。安在晧氏は、壺棺が焼成前に丹を塗った丹塗磨研土器で有明海沿岸の弥生早期に見られる長胴壺と類似していることと、甕棺は松菊里式の甕を利用したもので甕の外面に縦方向の刷毛目調整が施されている点に注目しています。安在晧氏は、もともと松菊里型甕を棺として再利用する手法は朝鮮半島の中西部地方が起源で、これまで朝鮮半島東南部の嶺南地域ではあまり知られていなかったものの、近年少しずつ見つかりつつあることから、松菊里文化の拡散と関係があると考えています。棺の埋置方法には、直立と斜めと横置きがあり、これに石の蓋を組み合わせると、壺棺は石蓋直置、甕棺は石蓋斜置と横置の3種類が認められます。排水や防湿目的で、底部に穴を空けた状態の土器棺が6~8m間隔で分布しています。
石棺墓の副葬品は磨製石剣と磨製石鏃と玉の組み合わせです。紀元前9世紀(夜臼IIa式)の福岡市雑餉隈遺跡の木棺墓に見られるものと、玉や副葬小壺を除けば共通しています。雑餉隈遺跡では人骨が残っていなかったので正確な副葬箇所は不明ですが、磨製石剣と磨製石鏃が切っ先を脚下に向けて束ねるようにまとめて納められている点に違いが認められる程度です。また磨製石剣の石材も共通しており、玉はヒスイで、半円形と穀玉があります。奥歯の外側にあたる頬の部分から出土しているので、耳飾りのような垂飾品の一部と考えられています。
紀元前7世紀の青銅器時代後期に比定されている平村里遺跡のある洛東江の上流域は、以前より九州北部で出土する丹塗磨研壺の故地という見解がある地域だけに、紀元前7世紀(板付IIa式併行)と同年代だったとしても、「渡来系弥生人」の故郷との関連が予想されます。しかし、壺棺や甕棺に使われている土器を見ると、比率を除くと、弥生時代早期の夜臼単純段階と同年代の土器との共通性が認められます。とくに甕は外反せずに直行する口縁部を有しており、口唇部に直接刻目を施すなど、玄界灘沿岸地域で夜臼I式に伴う板付祖型甕と共通します。さらに、刷毛目調整を縦方向に施すという点まで共通しています。基本的に刷毛目調整を施さない朝鮮半島青銅器時代後期の甕とは明らかに異なっています。
●「渡来系弥生人成立」の推測
著者【藤尾慎一郎氏】の以前の見解は表6にまとめられています。それによると、「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団が弥生時代早期以降に出現すると想定するのがA説で、縄文時代にいたと想定するのがB説です。現在までに「縄文人」の核ゲノムは150個体分ほど解析されていますが、「渡来系弥生人」に類似する遺伝的構成の個体は見つかっていないので、基本的にはA説が妥当です。ただ、福岡県芦屋町山鹿遺跡で見つかっている長頭の個体群のような、「渡来系弥生人」と類似する形質の個体群の存在を縄文時代に想定する見解は以前からあり、岡山県倉敷市中津貝塚から見つかった縄文後期末~晩期初頭の人骨には、「渡来系弥生人」の特徴の一つであるシャベル状切歯が見られたので、現段階では「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の個体が縄文時代に存在した可能性を完全に否定することはできない、と予想されます。さらに、朝鮮半島南部には縄文時代前期と同年代から「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の個体(獐項遺跡)が見つかっているので、そうした遺伝的構成の個体が九州西北部で見つかる可能性を否定できませんが、大量に見つかることも考えにくいでしょう。以下は本論文の表6です。
画像
このように、B説を完全には否定できないものの、大枠ではA説が妥当と考えられます。A説は、水田稲作開始期に海を渡って九州北部に到来した人々、つまり「渡来人」が、到来後すぐに「縄文人」の直系である「在来(縄文)系弥生人」と混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-1説(移住・混血説)と、渡来直後には混血せず、しばらく経ってから混血することで「渡来系弥生人」が成立するA-2説(混血説)に分かれます。A-1説は金関丈夫氏以来の移住・混血説ですが、A-2説は、福岡県三国丘陵を舞台とした田中良之氏や片岡宏二氏、朝日遺跡(篠田他.,2021)を舞台に石黒立人氏らが想定していた、移住当初は混血しないという見解です(この場合は遠賀川系土器を使用する集団の移住)です。
A-1説は、「渡来人」の遺伝的構成によりaとbに分かれ、「渡来人」が古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を有していない場合(a)と有している場合(b)で、aは松下孝宰氏がかつて想定したような山東半島の新石器時代集団などがあり、bは未確認で分析は行なわれていませんが、朝鮮半島系新石器時代集団の系統の朝鮮半島青銅器時代集団を想定できます。著者の以前の見解はRobbeets et al., 2021の公表前にまとめられており、西遼河系(中国北部系)の存在自体が前提になかったので、山東半島新石器時代人集団などを念頭に推測されていました。しかし、仮に山東半島から渡来してきた集団がいたとしても、「在来(縄文)系弥生人」と関わった可能性を支持する考古学的な証拠は弥生開始期の土器にみられる叩き技法ぐらいで、石器などに見られる特徴から推測して可能性が高いのは、朝鮮半島青銅器時代集団が日本列島に渡来してきて、「在来(縄文)系弥生人」と関わった想定です。朝鮮半島において青銅器時代に中国系であることを示す人骨は具体的に知られていませんでしたが、たとえばそうした集団が渡来後に「在来(縄文)系弥生人」とあまり遺伝的に混合せずに東方へ移動したならば、朝日遺跡13号人骨のように、「在来(縄文)系弥生人」とほとんど混合していないことを示す遺伝的構成要素の「渡来系弥生人」が成立するだろう、と予想されました。
次に、「渡来系弥生人」と類似した遺伝的構成の朝鮮半島系新石器時代集団の系統が渡来してきたならば、遺伝的に混合せずとも安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人」が出現し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合したならば、「西北九州弥生人」のような遺伝的構成の集団が成立します。現時点では、いずれも日本列島への到来後しばらく経過してから遺伝的に混合するA-2説に相当します。このように朝鮮半島新石器時代系集団が日本列島に到来した「渡来人」の場合は、あまり遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人」と類似した遺伝的混合となり、遺伝的に混合すると西北九州弥生人が生まれるので、やや複雑な事例です。
また朝鮮半島新石器時代系「渡来人」の場合は、「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こった時期も重要です。まだ形質だけを指標に想定していた20世紀には、福岡県三国丘陵では前期後半、朝日遺跡では前期後半の新段階と、いずれも、その地で水田稲作が始まった時ではなく、しばらく経過してから遺伝的混合が始まる、と考えられてきました。それは、これ以前の時期の「渡来系弥生人」の骨が見つかっていなかったからです。「在来(縄文)系弥生人」と朝鮮半島新石器時代系「渡来人」との遺伝的混合の有無や、遺伝的に混合した場合の時期については、弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析を継続していけば、いずれ明らかになるでしょう。松下孝宰氏が「渡来人」の故郷として想定した山東半島にしても、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団にしても、想定に用いたのは新石器時代個体の遺伝的構成だけに、青銅器時代に水田稲作を持ち込んだ青銅器時代後期集団の遺伝的構成の特定は困難ですが、上述のように三国時代にも新石器時代に確認されている遺伝的構成の系統を受けついだ個体が認められている以上、青銅器時代集団にも存在していた可能性は充分にあるでしょう。
こうした想定に基づいて、新たな知見(Robbeets et al., 2021)を踏まえて表6を改めたのが表7と図9です。まず、縄文時代の日本列島について「渡来系弥生人」と類似する遺伝的構成の集団の有無で区別するのは旧説と同じで、存在しなかったのがA説、存在したのがB説です。ただ、B説はまだ証明できていないので、さらに検討されるのはA説だけです。A説は、「渡来人」のゲノムの遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な構成要素が含まれないのか(a)、含まれるのか(b)によってaとbに分かれ、さらにそれぞれが「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合していないのか(1)のか、したのか(2)により分かれるので、合計4通りを想定できます。旧説では獐項個体のような朝鮮半島新石器時代集団的な遺伝的構成要素を有する「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」が遺伝的に混合すれば、「西北九州弥生人」の成立を想定でき、混合しなければ青谷上寺地遺跡にも見られるような「渡来系弥生人」の存在を想定できてしまったので、そうした不具合が解消されました(図9)。以下は本論文の表7です。
画像
A-a-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団が渡来し、「在来(縄文)系弥生人」(図1の青色)と遺伝的に混合しなかった事例、つまり西遼河系の遺伝的構成要素のみの「渡来人」は現時点で見つかっていませんし、そうした遺伝的構成の個体は朝鮮半島南部の青銅器時代でも明らかになっていません。安在晧氏が達城平村里遺跡の墓地の分析を踏まえて想定したように、九州北部に水田稲作を伝えたのが、山東半島付近の叩き技法を用いる土器製作者だとしたら、そうした集団の遺伝的構成はA-a-1説で想定されているものだったかもしれません。以下は本論文の図9です。
画像
A-a-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含まない西遼河系の青銅器時代集団人が日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、安徳台遺跡個体のような「渡来系弥生人I」(図1の紫色)が成立します。現時点では、朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体は確認されていませんが、紀元前1世紀の安徳台遺跡や紀元後2世紀の青谷上寺地遺跡などで多数の「渡来系弥生人I」が確認されています。遺伝的構成からはその上限がまだ紀元前1世紀となりますが、形質からみると「渡来系弥生人」は紀元前7世紀の福岡市雀居遺跡で見つかった前期中頃(板付IIa式)の人骨が最古級なので、この段階まではさかのぼるかもしれません。対象となる雀居遺跡出土人骨などの核ゲノム解析が期待されます。
A-b-1説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合があまりなければ、在来(縄文)系の遺伝的構成要素の割合がひじょうに少ない、「渡来系弥生人II」が誕生します。現時点では朝鮮半島南部の青銅器時代でさえこうした遺伝的構成の個体はまだ確認されていませんが、紀元前6世紀の朝日遺跡13号人骨に代表されます。こうした遺伝的構成の集団が朝鮮半島南部から直接的に伊勢湾沿岸地域に到来した可能性は低いので、まず九州北部に到来した後でしばらくして東方へ移動してきたとすれば、その上限年代は、九州北部では水田稲作開始年代の紀元前10世紀後半までさかのぼるかもしれません。
A-b-2説では、「渡来人」の遺伝的構成要素に古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素を含む朝鮮半島新石器時代系の「渡来人」が日本列島に到達しても、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば、形質的には「縄文色」の強い、いわゆる「西北九州弥生人」が誕生します。現時点では、紀元前後の長崎県下本山遺跡の人骨が最古級です、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)M7aの人類遺骸は、紀元前3世紀の熊本市笹尾甕棺や福岡県行橋市長井遺跡で見つかっているので、紀元前3世紀までさかのぼるかもしれません。
著者はこれまで、A-a-2説で「渡来系弥生人I」の成立を考えてきましたが、現時点では「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した相手である西遼河系の「渡来人」は、青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の西日本でも見つかっていません。それに対して新たに確認されたのがA-b-1説で、まだ朝鮮半島南部の青銅器時代に朝鮮半島新石器時代人系の青銅器時代個体は見つかっていませんが、上述のように三国時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果(Gelabert et al., 2022)からは、青銅器時代の朝鮮半島に存在した可能性は高そうです。ただ、朝鮮半島新石器時代系集団と朝日遺跡13号人骨ではPCA(図4)のY軸上にズレが見られることや、神澤秀明氏の指摘からは、まだ解決したとは言えない状況です。獐項個体の遺伝的構成要素がそのまま日本列島にもたらされているとしたら、現代日本人のゲノム上にある縄文由来のDNA断片は組換えによりもっと断片化されているはずであるものの、そうはなっていないので、獐項個体に代表される朝鮮半島新石器時代系集団の現代日本人における影響はそこまで大きなものではなかったと考えられる、と神澤秀明氏は指摘しています。
核ゲノムから判断すると、「渡来系弥生人IおよびII」の形成過程は以上のように推測されますが、これではとくに弥生時代開始期に見られる考古学的な事象を充分に説明できないことも確かです。それは、土器や石器などの水田稲作関連の道具に当初から見られる九州北部独自の在地的変容です。朝鮮半島青銅器文化の文物と完全に同じではない土器や石器の存在をどう説明するのか、という問題です。たとえば、九州北部玄界灘沿岸地域の弥生時代早期の甕形土器の組成では、青銅器時代後期系のいわゆる板付祖型甕は10%程度しかなく、残りの90%は砲弾型と屈曲型の突帯文土器です。また下條信行氏が指摘するように、大陸系磨製石器や石庖丁に見られる在地的変容の問題もあります。弥生時代開始期個体の核ゲノムは、佐賀県大友遺跡から出土した「在来(縄文)系弥生人」しか分かっておらず(神澤他.,2021b)、渡来系弥生人にいたっては、II型が板付IIb式に併行するI期中段階の朝日遺跡に存在していたことしか分かっていません。
渡来人の集団居住地と言えるような遺跡が弥生時代開始期の玄界灘沿岸地域で見つかっていないため、「在来(縄文)系弥生人」との共住もしくは日常的な接触交流、さらにはやや極端な言い方ではあるものの、青銅器文化集団による「在来(縄文)系弥生人」への強制力などを想定しない限り、在地的変容をみせる文物が存在する理由の説明は困難です。したがって、考古学的には稲作開始の当初から交流があったことを前提に、遺伝的な混合があったのか否かを知るためには、まず形質的に最古級の「渡来系弥生人」と報告されている福岡市雀居遺跡第7次調査の2号土壙墓から出土した成年女性の抜歯のある人骨の核ゲノム解析の必要があります。この成年女性が渡来系弥生人IなのかIIなのか、それとも「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した「西北九州弥生人」なのかによって、少なくとも弥生時代前期中頃の人類の遺伝的構成を知ることができます。
●「西北九州弥生人」の成立過程
旧説では、これまで「西北九州弥生人」とよばれてきた個体群に、遺伝的には「縄文人」と分類できる個体(弥生時代早期の大友遺跡)から、「在来(縄文)系弥生人」と「渡来系弥生人」が遺伝的に混合した個体(2000年前頃の下本山岩陰遺跡)まであり、下本山岩陰遺跡の2個体については「在来(縄文)系」と「渡来系」の遺伝的構成要素の割合が異なっていて、その分布は熊本県や鹿児島県や西日本など、西北九州に限定されない可能性があることや、その出現時期は現時点状では紀元前後が最古級であるものの、弥生時代中期前葉の紀元前3世紀まではさかのぼる可能性があること、さらに、朝鮮半島新石器時代系の青銅器時代集団が日本列島に到来し、弥生時代早期に「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合した場合でも成立するかもしれない、と指摘されました。これら九州西北部に限定されない、朝鮮半島新石器時代系集団と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合個体の広範な分布からは、「西北九州」というような地域を限定する呼び方の妥当性、出現時期、混合度合いなどについて今後、核ゲノムデータが増えていけば自ずと整理されるでしょう。本論文は、いわゆる「西北九州弥生人」という用語ではなく、「在来系」の遺伝的構成要素が主で、「渡来系」の遺伝的構成要素が従であるという意味で、「在来系弥生人」と仮称し、これがどのような過程で成立したのか、推定しました。
渡来系弥生人Iは、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない朝鮮半島の西遼河系青銅器時代集団が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すれば成立し、「渡来系弥生人II」は、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有している朝鮮半島系青銅器時代集団が、さほど「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合しなくても成立します。「在来(縄文)系弥生人」と西遼河系青銅器時代集団との遺伝的混合によって「渡来系弥生人I」が成立することについて異論はありません。著者は、の時期が弥生時代早期前半のうちだろう、と考えてきました。朝鮮半島の青銅器時代集団が血縁集団単位で日本列島に到来し、「在来(縄文)系弥生人」がおもな生活の舞台としていなかった平野の下流域に入植し、水田を拓いて、水田稲作を行なうことになりましたが、木製農具や石斧類や石庖丁を作るにしても、素材として適した石材や木材のありかに関する情報を持つ「在来(縄文)系弥生人」との協調関係のもと情報交換が必要であることや、水田造成および環壕掘削に必要な労働力不足を補うためにも、また近親婚防止の点からも、「在来(縄文)系弥生人」が必要とされたことや、その対象となるのは好奇心旺盛な「在来(縄文)系弥生人」の若い世代であることなどが、未開拓領域理論(採集狩猟民の地理空間に農耕民が入ってくると、すでに両者の接触を想定するモデルで、採集狩猟民の一部が両者を結びつけ、結果的に地域全体に農耕が拡大する、と想定されます)で説明されてきました。
ただ、当時は遺伝学との統合がほとんど進められていなかったので、青銅器時代集団と「在来(縄文)系弥生人」の遺伝的混合で「渡来系弥生人」が誕生することや、「西北九州弥生人」は「渡来人」と遺伝的に混合していない「縄文人」直系集団と理解されていました。しかし、核ゲノム解析結果を踏まえると、そのような単純なものではありませんでした。まず、「渡来人」自身、古代アジア東部沿岸集団系の遺伝的構成要素を有していない「西遼河系渡来人」と、有している「朝鮮半島系渡来人」の二者が存在し、前者が「在来(縄文)系弥生人」と混血すると「渡来系弥生人I」が成立するものの、後者が「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合すると「西北九州弥生人」と言われてきたような「在来系弥生人」が成立することや、さほど遺伝的に混合せずとも「渡来系弥生人II」が成立することも分かりました。
現時点では、朝鮮半島系の「渡来系弥生人II」が紀元前6世紀には存在しているのに対して、西遼河系との遺伝的混合である「渡来系弥生人I」は最古級でも紀元前後までしか確認できていません。どちらが先に成立していたのかは分かりませんが、前期新石器時代の朝鮮半島南部に西遼河系も朝鮮半島系も存在していたことを考えると、水田稲作を伝えた青銅器時代集団のなかには、当初から複数遺伝的構成要素の血縁集団が存在し、「在来(縄文)系弥生人」と混血した個体群もいれば、あまり遺伝的に混合しなかった個体群も存在した、ということでしょう。もちろん、1血縁集団のなかにさえ、複数の遺伝的構成要素を有する個体が存在した可能性も否定できません。「渡来系弥生人」の核ゲノム解析はまだ少なく、研究の端緒に入ったばかりなので、今後の調査と分析が期待されます。
●まとめ
本論文は、旧説に基づき、2021年11月に刊行された研究(Robbeets et al., 2021)を踏まえて、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」とよばれてきた集団の成立過程について再度検討してきました。その結果、以下の6点が想定されます。
(1)新石器時代の朝鮮半島南部には、縄文時代早期~前期と同年代の7000年前頃から、さまざまな遺伝的構成要素の集団が存在していました。古代アジア東部沿岸集団の遺伝的構成要素を有していない、中国北部由来の西遼河系(安島貝塚個体)、西遼河系と古代アジア東部沿岸集団が遺伝的に混合した朝鮮半島系(獐項遺跡個体や欲知島遺跡個体)、未確認ではあるものの、古代アジア東部沿岸集団の直系集団です。こうした集団と盛んに交流していた九州西北部の「縄文人」の核ゲノムには、後世に遺伝的影響を及ぼすほど新石器時代集団と遺伝的に混合した個体が存在したことを示す考古学的な証拠は得られていません。したがって、縄文時代の頃において、朝鮮半島南部と日本列島の集団の遺伝的構成は基本的に異なっていたと考えられ、両者の間には後世に遺伝的な影響を残すような混合なかったことが前提に考えられました。
(2)考古学的には青銅器時代後期になって朝鮮半島南部の青銅器時代集団が渡海して日本列島へと到来し、水田稲作を生産基盤とする遼寧式青銅器文化を九州北部にもたらした、と考えられています。また朝鮮半島については、青銅器時代後期時代個体の核ゲノム解析は行なわれていませんが、三国時代の個体群の遺伝的構成要素から考えて、新石器時代前期に存在した多様な遺伝的構成要素が青銅器時代に引き継がれていると考えられるため、「渡来系弥生人」や「西北九州弥生人」など各種「弥生人」の成立事例が4通り想定されました。
(3)「渡来系弥生人」には、「在来(縄文)系弥生人」と遺伝的に混合して成立する安徳台遺跡個体や青谷上寺地遺跡個体のような「渡来系弥生人I」と、遺伝的混合がさほど見られない朝日遺跡のような「渡来系弥生人II」が見られました。「渡来系弥生人I」は西遼河系の遺伝的構成要素を有する個体群が移住して「在来(縄文)系弥生人」と混合した結果形成され、金関丈夫氏以来想定されていました。ただ、西遼河系は青銅器時代の朝鮮半島南部でも弥生時代の日本列島でもまだ確認されていません。「渡来系弥生人II」は朝鮮半島系集団が移住はするものの、「在来(縄文)系弥生人」とはさほど遺伝的に混合せず、これまで想定されていませんでした。
(4)いわゆる「西北九州弥生人」には、佐賀県唐津市大友遺跡8号支石墓出土人骨のように「在来(縄文)系弥生人」遺伝的構成要素を100%継承している個体から、「渡来系弥生人」の遺伝的構成要素を一定量含む個体までが存在し、後者の時期は現時点で、紀元前後の下本山遺跡個体が最古級です。ただ、西日本の「縄文人」が有するmtHg-M7aを有する弥生時代個体は、弥生時代中期前半の福岡県行橋市長井遺跡や熊本市笹尾遺跡で見つかっているので、いわゆる「西北九州弥生人」は紀元前3世紀までさかのぼる可能性があります。おそらく「渡来系弥生人」が水田稲作とともに拡散することによって、西北九州に限らず各地で「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が起こる、と考えられます。したがって、特定の地域名である「西北九州」を冠するのは適当ではなく、「在来系弥生人」との呼称が相応しいと考えられます。
(5)形態学的には、「渡来系弥生人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合は、水田稲作開始期ではなく、しばらく経ってから始まると考えられてきましたが、その根拠は、すべての土器型式の存続期間が均等であることを前提とした弥生短期編年下における人口増加率模擬実験だったり、在来(縄文)系弥生文化の土器と遠賀川系土器との折衷土器の成立時期であったり、縄文系第二の道具である土偶や石棒などの出現時期(春日井市松河内遺跡など)だったりしました。しかし、すべての土器型式の存続期間が均等でないことを前提とする弥生長期編年下ならば、水田稲作開始と同時に遺伝的混合が始まっていたとしても、一型式100年ほどの長い存続期間を考えれば、当初人口は増えません。また田中良之氏が三国丘陵で指摘しているように、弥生時代前期後半の板付IIb式頃から遺伝的混合が増え始めることを考えると、遺伝的混合の開始時期はとくに限定されない、と推測されます。後世に遺伝的影響を及ぼすようになる混合の開始が板付IIb式以降であることを考えると、形態学的観点から言われてきた遺伝的混合の開始時期と、基本的に同じ結果となりました。
(6)上述の(5)から考えると、水田稲作開始当初から西遼河系青銅器時代集団の「渡来人」と「在来(縄文)系弥生人」との遺伝的混合が始まっていれば、「渡来系弥生人I」の数が急激に増えなくて、土器と石器に在地的変容が起こることは矛盾なく説明できます。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成とその形成過程について、考古学的研究も踏まえつつ、現時点での遺伝学的証拠に基づいて推測しています。本論文の注目点の一つは、「古代アジア東部沿岸集団」の想定です。本論文が指摘するように、Robbeets et al., 2021は朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムについて、0~95%の「縄文人」的な遺伝的構成要素とそれ以外の紅山文化集団的な遺伝的構成要素との混合でモデル化しています。他の研究でも、アジア東部北方沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代個体群が、モンゴル新石器時代集団的な遺伝的構成要素(87%)と「縄文人」的な遺伝的構成要素(13%)の混合でモデル化されています(Wang et al., 2021)。
これらの研究からは、「縄文人」がアジア東部北方沿岸に渡海し、遺伝的痕跡を残したようにも見えます。しかし本論文は、朝鮮半島新石器時代に「縄文人」の遺伝的影響が強くのこるほどの事態が想定される考古学的な証拠は存在しないと指摘し、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体の遺伝的構成要素として、「縄文人」ではなく「古代アジア東部沿岸集団」を想定しています。ただ、縄文文化が朝鮮半島南岸に定着したとはとても言えないとしても、縄文土器の分布から、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸に渡った可能性は高そうで(水ノ江.,2022)、その意味では、朝鮮半島南岸の複数の新石器時代の複数個体のゲノムの一部が「縄文人」的な遺伝的構成要素と想定しても大過はないようにも思います。ただ、本論文で引用されている神澤秀明氏の見解から推測すると、6300年前頃の獐項遺跡個体により表される集団が、現代日本人の遺伝的構成に大きく寄与した可能性はきわめて低そうです。
ここで重要なのは、これらの個体の遺伝的構成要素のモデル化は既知の古代人もしくは現代人個体(あるいは集団)を用いており、直接的な祖先集団を証明しているわけではない、ということです。そこで問題となるのは、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムが、「縄文人」的な遺伝的構成要素なしでもモデル化できることです。この場合、モンゴル新石器時代集団に代表されるアジア東部北方的な遺伝的構成要素(71%)とアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(29%)の混合とモデル化されており、「縄文人」はアジア東部南方沿岸部的な遺伝的構成要素(46%)とアンダマン諸島のオンゲ人集団と相対的に近い初期ユーラシア東部集団的な遺伝的構成要素(54%)の混合でモデル化されています(Huang et al., 2022)。Huang et al., 2022では、ユーラシア東部系集団が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部南方沿岸部)に分岐した、と推測されています。つまり、ボイスマン遺跡の中期新石器時代個体群のゲノムは、「縄文人」的な遺伝的構成要素を含んでいるのではなく、「縄文人」と比較的近い過去に祖先集団を共有していたらか、とも解釈できるわけです。
同様のことは、現代日本人の平均よりもやや多い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化された朝鮮半島南岸の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡の前期新石器時代個体(Robbeets et al., 2021)にも言えます。以前の研究で「縄文人」とユーラシア東部沿岸集団との類似性が報告されたこと(Yang et al., 2020)も踏まえると、Huang et al., 2022のモデルは現時点で最も実際のユーラシア東部の人口史に近いかもしれません。その意味で、本論文が朝鮮半島南岸の新石器時代個体のゲノムの一部を、「縄文人」的ではなく「古代アジア東部沿岸集団」的な遺伝的構成要素として把握したのは、Robbeets et al., 2021よりも適切かもしれません。ただ、朝鮮半島南岸の欲知島遺跡の後期新石器時代個体とボイスマン遺跡の中期新石器時代の外れ値の1個体は、それぞれ95%(Robbeets et al., 2021)と30%(Wang et al., 2023)程度の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できるので、とくに欲知島遺跡の後期新石器時代個体については、日本列島からの「縄文人」の直接的到来と遺伝的影響(95%よりはずっと少ない割合としても)を想定すべきかもしれません。
本論文で提示される日本列島の弥生時代の人類集団の遺伝的構成は多様で、弥生時代の人類集団の遺伝的多様性(関連記事)が改めて示されています。さらに言えば、弥生時代には青谷上寺遺跡のように1ヶ所の遺跡で遺伝的多様性を示す事例も確認されています(神澤他.,2021a)。また、種子島では日本列島の多くの地域が古墳時代を迎えても、「縄文人」的な遺伝的構成要素のみでモデル化できる個体が存在していたようで、日本列島における現在のような遺伝的構成が古墳時代でもまだ確立していなかったことを示唆しています。弥生時代以降の日本列島における遺伝的構成要素として、「縄文人」的なものとともに西遼河系的なものを想定する本論文の見解との関連で注目されるのは、古墳時代に弥生時代とは異なる遺伝的構成要素が日本列島にもたらされ、それが現代日本人集団では大きな影響を有している、と推測した研究(Cooke et al., 2021)です。Cooke et al., 2021では、現代日本人集団の主要な遺伝的構成要素は「縄文」と「アジア北東部」と「アジア東部」で、縄文時代には「縄文」のみが存在し、弥生時代に「アジア北東部」が、古墳時代に「アジア東部」がもたらされた、と推測されています。
一方で、これら主要な3種類の遺伝的構成要素について、「縄文」と「アジア北東部」および「アジア東部」との違いと比較して、「アジア北東部」と「アジア東部」の違いはずっと小さくなっています。本論文で弥生時代の人類集団の祖先としてモデル化されている西遼河地域の人類集団について、経時的な遺伝的構成の変化が指摘されていることも踏まえると(Ning et al., 2020)、弥生時代、さらには古墳時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成過程はかなり複雑だったとも考えられ、解明は容易ではなさそうです。アジア北東部の完新世人類集団の遺伝的構成は、地理を反映して一方の極(北方)にアムール川流域、もう一方の極(南方)に黄河流域があり、西遼河地域はその中間的特徴と経時的変容を示します(Ning et al., 2020)。これはその後の研究(Robbeets et al., 2021)でも改めて示されていますが、黄河流域新石器時代集団的な遺伝的構成要素の割合は、紅山文化から夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化では高くなり、その後の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では低下しています。
西遼河もしくはその周辺地域で夏家店上層文化以降も同様の遺伝的変容が起きたならば、弥生時代以降の日本列島、さらには後期新石器時代以降の朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容は、単調なものではなく複雑なものだった可能性が高そうです。Cooke et al., 2021では、弥生時代集団は現代日本人集団の平均よりずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素と残りのアジア北東部的な遺伝的構成要素で、古墳時代集団はアジア東部的な遺伝的構成要素の大きな割合の流入によりモデル化されており、古墳時代に現代日本人集団の遺伝的構成が形成された、と推測しています。一方で、Cooke et al., 2021が弥生時代集団の代表としたのは、「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合が現代日本人集団の平均よりずっと高い下本山岩陰遺跡の2個体で、本論文でも取り上げられている、下本山岩陰遺跡の2個体よりずっと低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる安徳台遺跡個体は検証されていません。
また、古墳時代については、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」的な遺伝的構成要素の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素でモデル化できる個体が存在することは、日本列島では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆しています。
これらを踏まえると、西遼河もしくはその周辺地域において経時的な人類集団の遺伝的構成の変容があり、それが朝鮮半島、さらには日本列島にも波及し、Cooke et al., 2021が想定したように、日本列島において弥生時代以降に到来した人類集団の遺伝的構成は、時期により大きな違いがあった可能性も考えられます。朝鮮半島における人類集団の遺伝的構成の変容について確証はありませんが、網羅率が低く信頼性に欠けるとはいえ、青銅器時代のTaejungni個体のPCAでの位置づけ(Robbeets et al., 2021)から推測すると、朝鮮半島において紀元前千年紀に人類集団の遺伝的構成の大きな変容が起きた可能性も考えられ、それは、朝鮮半島において朝鮮語系統の言語が紀元前5世紀頃に到来した、と推測する言語学も踏まえた考古学的知見(Miyamoto., 2022)とも整合的かもしれません。また、本論文でも他の研究(Gelabert et al., 2022)でも、三国時代の人類集団にも存在した古代アジア東部沿岸集団的な遺伝的構成要素(他の研究では「縄文人」的な遺伝的構成要素)は、朝鮮半島南岸において新石器時代からずっと継続していた、と推測されていますが、こうした遺伝的構成要素が一旦朝鮮半島で失われ、弥生時代もしくは古墳時代以降に日本列島からもたらされた可能性もあるとは思います。
本論文が依拠した研究(Robbeets et al., 2021)については、弥生時代以降に日本列島にもたらされた遺伝的構成要素について、夏家店上層文化集団でモデル化としているものの、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体的な遺伝的構成要素と夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体的な遺伝的構成要素を選択的に割り当てられた集団は、その代わりに紅山文化的な遺伝的構成要素でも説明できる、と批判されています(Tian et al., 2022)。
こうした批判も踏まえると、弥生時代以降の日本列島の人類集団の遺伝的構成の起源と形成はかなり複雑だった可能性が高そうです。弥生時代の比較的早い段階で日本列島に到来した人類集団は、西遼河もしくはその周辺地域起源で、朝鮮半島から日本列島に到来したのでしょうが、その後に朝鮮半島では西遼河もしくはその周辺地域起源の異なる遺伝的構成の集団が到来し、在来集団と遺伝的に混合しつつ拡散し、一部が日本列島に到来したのではないか、と現時点では考えています。つまり、弥生時代早期に朝鮮半島から日本列島に到来した人類集団と、古墳時代、もしくは弥生時代のある時点以降に日本列島に到来した人類集団とでは遺伝的構成が異なっており、それが現代日本人集団の遺伝的構成に反映されているのではないか、というわけです。この仮説の検証には、今よりも多くの一定以上の品質の日本列島と朝鮮半島と西遼河地域も含めて中国の広範な地域の古代ゲノムデータが必要となるでしょう。
参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
関連記事
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
h
-
24:777
:
2024/05/06 (Mon) 02:16:45
-
【最新研究】これまでの日本人の起源が覆ります!!
世界ミステリーch 2024/05/04
https://www.youtube.com/watch?v=85UP41o32_k
これまで日本人の起源は縄文人と弥生人の混血とされてきました。これは二重構造説と言います。しかし、新たな研究によってこの定説が覆ることになりました。それが日本人の起源は縄文人と弥生人、そしてもう一つの人々の混血というもの。今回はこの新しい説を解説していきます。
参考:引用:
2024年4月18日 理化学研究所
全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と 特徴
-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
-
25:777
:
2024/05/28 (Tue) 22:12:38
-
【最新DNA解析】日本人三重構造説「我々はどこからきたのか?」【日本人のルーツ】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】2024/05/10
https://www.youtube.com/watch?v=SCy6BPAX3QU
【動画目次】
00:00 オープニング
01:12 遺伝子学とDNA
05:10 日本人は特異な民族?
10:36 日本人二重構造モデル
15:07 DNA系統別
22:53 日本人三重構造説
今回の動画では、DNAからみた 日本人の特異性とは?
日本人はどのようにして成立したのか?
「日本人三重構造説」とは?
について、わかりやすく解説しています。
-
26:777
:
2024/07/17 (Wed) 17:08:32
-
雑記帳
2024年07月17日
夏家店上層文化の人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html
現在の中国の北東部地域における青銅器時代人類集団の遺伝的多様性を報告した研究(Zhu et al., 2024)が公表されました。本論文は、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域南部の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化関連の1個体のゲノムデータを報告しています。この個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン(Chifeng)市カラチン・バナー(Harqin Banner)のヨンフェン(Yongfeng)県牛家営子(Niujiayingzi)鎮マジアジシャン(Majiazishan)村で発見され、アムール川(Amur River、略してAR)集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が高い西遼河西部の夏家店上層文化関連個体群とは異なり、黄河(Yellow River、略してYR)流域の後期新石器時代集団的な祖先系統でゲノムが完全にモデル化できます。この遺伝的構成の違いは、西部では牧畜が、南部では雑穀農耕が行なわれるという、生業の違いはと対応しています。
ただ、西遼河南部の夏家店上層文化については、まだ1個体しかゲノムデータが報告されていないので、断定的に一般化はできません。しかし、本論文は日本人起源論との関連でたいへん注目される分析結果を提示しており、日本人起源論との関わりについては最後に「私見」の項目で述べます。なお、時代区分の略称は次の通りで、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。
●要約
西遼河および黄河流域は、中国北部における雑穀農耕の二大中心地です。浮遊分析と遺跡の空間分布の結果から、農耕と牧畜という二つの異なる生存戦略が西遼河の南部と北部でそれぞれ採用されていた、と示唆されます。西遼河西部地域の古代の人口集団の先行研究は、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜経済と黄河農耕民との遺伝的類似性低下との間の相関を示唆しました。しかし、西遼河南部の人口史は、おもに古代人の遺伝的データの不足のため不明です。
本論文は、夏家店上層文化と関連する後期青銅器時代の西遼河南部地域のマジアジシャン遺跡の古代の1個体のゲノムデータを報告します。西遼河西部の個体群とは異なり、この個体の祖先系統は完全に後期新石器時代黄河農耕民に由来します。夏家店上層文化の古代の人口集団の遺伝的構造が見つかり、これは西遼河の西部と南部の生計戦略の違いと一致します。気候悪化は、西遼河の西部と南部にそれぞれ異なる集団、つまり西部ではアムール川からの遊牧民集団が、南部では黄河からの農耕民集団が居住することにつながりました。
●研究史
近東の肥沃な三日月地帯からアメリカ大陸やさらにその先まで、農耕の出現と拡大はヒトの歴史と文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の発展に顕著な影響を及ぼしました。雑穀はアジア東部北方で何千年にもわたって主食で、最初は黄河下流域で早くも紀元前9000年頃に利用され、その後、黄河中流~下流および西遼河地域で少なくとも紀元前6000年頃までには広く栽培されていました。一方で、中期新石器時代には、おもに安定した雑穀生産のため複雑な社会がおもに黄河および西遼河地域で出現し、それは人口増加と文化的革新につながりました。雑穀農耕のこの拡大では、中国北部では黄河および西遼河地域、と中国南東部の方では台湾、中国南西部では四川盆地が、アジア東部における乾燥地農耕の起源と拡大にとって重要な地域と認識されています。
西遼河地域にはとくに、前期新石器時代から後期青銅器時代にかけての興隆窪(Xinglongwa)文化や趙宝溝(Zhaobaogou)文化や紅山(Hongshan)文化や小河沿(Xiaoheyan)文化や夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化など、連続的な雑穀農耕関連文化があります。この文化的過程では、主要な生計戦略が「低水準」の食糧生産から充分に発展した穀物栽培へと変わり、新石器時代においては、動物の消費への依存が減少し、キビやアワの消費が増加しました。興味深いことに、雑穀農耕が主要だったことを特徴とする夏家店下層文化の後に、西遼河地域の西部では畜産が重要な役割を取り戻しました。前期青銅器時代の夏家店下層文化と比較して、夏家店上層文化における「文明」と農耕の水準は、後期青銅器時代における気候の悪化と関連して明らかに低下しました【本論文のこの評価が妥当なのかは、判断を保留します】。この生計の変容に関して、アムール川の狩猟採集民からの遊牧【遊牧を行なっていれば、狩猟採集も同時に行なっているとしても、一般的には狩猟採集民とは呼ばれないように思いますが】が、気候による食糧不足のため、後期青銅器時代における西遼河人口集団の生活様式に影響を及ぼした、と推測されています。対照的に、夏家店上層文化人口集団はじっさい、西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団である、との推測もあります。
以前の遺伝学的研究(Ning et al., 2020)では、前期新石器時代(紀元前5520~紀元前5320年頃)から鉄器時代(鮮卑、紀元前50~紀元後250年頃)までの、アムール川人口集団の長期の遺伝的安定性が見つかりました。具体的には、後期新石器時代西遼河人口集団(WLR_LN、夏家店下層文化)は、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN、紅山文化)よりも、雑穀農耕の黄河人口集団の方と高い遺伝的類似性がある、と観察されました。それと比較して、部分的な牧畜青銅器時代西遼河人口集団(WLR_BA、夏家店上層文化)は、WLR_LNと比較して、黄河人口集団との遺伝的類似性が低く、このWLR_BAに含まれる外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)には、アムール川集団とクレード(単系統群)を形成する遺伝的特性がありました。その研究(Ning et al., 2020)は、経時的な西遼河人口集団における遺伝的特性の頻繁な変化と生計戦略の変化との間にはつながりがあることを示唆し、それは第二の仮定【夏家店上層文化人口集団は西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団】を裏づけます。
しかし、西遼河の南部の古代人のゲノムデータが必要なためこれまで、青銅器時代西遼河地域人口集団の遺伝的特性の包括的理解が妨げられています。本論文では、夏家店上層文化と関連する放射性炭素年代測定結果が得られている、マジアジシャン遺跡の古代人1個体のゲノム規模データが報告されます。マジアジシャン遺跡は、WLR_BAとWLR_BA_oが発見された竜頭山(Longtoushan)遺跡の南方約100kmの、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン市カラチン・バナーのヨンフェン県牛家営子鎮のマジアジシャン村の近くに位置しています。この新たに報告された1個体(標本識別番号はDSQM2、集団分類表示はWLR_BA_o2)は、先行研究(Ning et al., 2020)で報告された青銅器時代西遼河の両人口集団(WLR_BAとWLR_BA_o)と異なる遺伝的特性を有しているものの、こうが農耕民と密接に関連している、と分かり、これまで検出されていなかった西遼河地域の遺伝的特性を示唆しています。
●標本と手法
マジアジシャン遺跡(図1)の古代人の標本1点から、歯が収集されました。1点の人骨標本が加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で年代測定され、非較正年代が得られました。放射性炭素(¹⁴C)年代は、OxCal第4.4.2版およびIntCal20較正曲線を用いて較正されました。古代DNAの信頼性は、脱アミノ化パターンから評価されました。標本DSQM2の遺伝的性別は、X染色体とY染色体のゲノム網羅率が常染色体と比較されました(Fu et al., 2016)。この場合、男性ではX染色体の網羅率は常染色体の網羅率の約半分となり、女性ではほぼ同じとなります。Y染色体では、男性の網羅率は常染色体の半分に、女性の網羅率はゼロとなります。標本DSQM2のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)も決定されました。標本DSQM2の遺伝的データは、他のデータ(Damgaard et al., 2018、Sikora et al., 2019、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020)と統合されました。124万SNPヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で、遺伝的関係が調べられ、1親等もしくは2親等の関係にある2点以上の標本では、既知の古代および現代の人口集団のデータと統合するさいに、網羅率のより高い標本が下流分析に含められました。以下は本論文の図1です。
画像
主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、現代人集団を用いて主成分(PC)が計算され、古代人標本が上位2構成要素に投影されました。PCの計算には、470607ヶ所のSNPが用いられました。ADMIXTURE分析では、220388ヶ所のSNPを用いて、教師なし分析が実行され、2~10のK(系統構成要素数)が検証されました。f統計では、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、X)のf₄統計が実行されました。標本DSQM2から黄河とアムール川と西遼河の人口集団Xを区別できる参照人口集団を見つけるため、参照としてアジア東部のさまざまな人口集団が用いられました。現時点での解像度を考えると、人口集団Xのすべてのf₄結果の有意ではないZ得点からは、人口集団X がWLR_BA_o2と密接な遺伝的関係を有する、示唆されます。混合モデル化はqpAdm第810版を用いて実行され、標本が1~3のあり得る供給源の組み合わせとしてモデル化され、潜在的供給源として選択されなかった人口集団は外群に追加されました。
●分析結果
標本DSQM2の非較正の直接的な放射性炭素年代は、夏家店上層文化と関連しています。標本DSQM2のmtDNA汚染率は2%未満と推定されました。標本DSQM2のmtDNAハプログループ(mtHg)はD4jで、その性別は男性でした。2点のSNP一覧、つまり、アフィメトリクス(Affymetrix)社「ヒト起源(Human Origins、略してHO)」とイルミナ(Illumina)社「124万」標本(Fu et al., 2015、Haak et al., 2015、Mathieson et al., 2015)を用いて、標本DSQM2の疑似半数体データが生成されました。それぞれのSNP一覧で、79460ヶ所と154754ヶ所が得られました。次に、これらのデータはさらなる分析のため、以前に刊行された古代人および現代人のゲノムデータ(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020、Wang et al., 2021)と統合されました。
●WLR_BA_o2の全体的なゲノム構造
WLR_BA_o2の全体的な遺伝的構造を調べるため、まずさまざまなアジア東部人集団でのPCAが実行されました(図2)。PCAの結果では、WLR_BA_o2と西遼河地域の他の古代の個体群は、黄河集団とアムール川集団との間に投影されました。WLR_BA_o2は、後期新石器時代~鉄器時代集団(YR_LNとYR_LBIA)の最も近くに投影されたWLR_LNとクラスタ化します(まとまります)が、WLR_MNとWLR_BAはアムール川集団およびWLR_BA_oに向かって、完全にアムール川集団とクラスタ化します(図2)。同様の結果は外群f₃分析で観察でき、WLR_BA_o2は黄河集団とクラスタ化し、WLR_MNとWLR_BAはともにクラスタ化し、次に黄河集団とクラスタ化しとます。対照的に、WLR_BA_oはAR_鮮卑_IAとクラスタ化し、古代アジア北部(Ancient North Asian、略してANA)集団との高い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図2です。
画像
モデルに基づく教師なしADMIXTURE分析では、ユーラシア草原地帯人口集団で最大化する青色の構成要素と、ANA人口集団で最大化される黄色の構成要素と、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)で最大化される橙色の構成要素が観察されました(図3A)。WLR_BA_o2はYR_LNおよびYR_LBIAと類似した遺伝的特性を有し、黄河集団とクラスタ化しており、WLR_LNとWLR_BAはWLR_BA_o2と比較してANA関連祖先系統をより多く有していますが、WLR_BA_oはANA集団と一致しました。まとめると、これらの結果は、後期新石器時代黄河農耕民とのWLR_BA_o2の密接な遺伝的類似性を示唆しています。以下は本論文の図3です。
画像
●銅器時代の西遼河地域における遺伝的多様性を示すWLR_BA_o2のゲノム特性
WLR_BA_o2と黄河(YR)およびアムール川(AR)および西遼河(WLR)の集団との間の遺伝的差異を定量化するため、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR/AR/WLR)のf₄統計で始めて、WLR_BA_o2の遺伝的特性がこれら3集団(YR/AR/WLR)と直接的に比較され、ここでの参照はアジア東部およびユーラシア草原地帯の95の現代および古代の人口集団を含む参照人口集団の一式です。WLR_BA_o2はYR集団のほとんどに対して有意でないZ得点、つまり、YR上流_LNを除くf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR集団)の範囲(−3.11 < Z < 2.50)と、AR集団のほとんどに対する有意なZ得点、つまりf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、AR集団)の範囲(−3.27 < Z < 5.52)を示す、と観察されました。WLR_BA_o2はYR_LNと最も密接な遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR_LN)の範囲(−2.24 < Z < 1.65)です。
西遼河地域に焦点を当てると、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN)と比較して、WLR_BA_o2はSEA祖先系統とより高い遺伝的類似性を、ANA祖先系統とより低い遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が−2.13と、f₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が3.71超です。この場合、SEAは台湾先住民のアミ人(Ami)、ANAはモンゴル_N_北方によってそれぞれ表されます。WLR_BA_o2はWLR_LNおよびWLR_BAと比較して有意ではないZ得点を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)の範囲(−2.637 < Z < 2.349)です。しかし、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)のほとんどの負の値範囲(−0.124 < Z < −1.340)との、わずかにより高いSEAとの遺伝的類似性を依然として観察できます。最後に、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点−3.18とf₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点5.05として示されるWLR_BA_oと比較して、SEA集団とのより高い遺伝的類似性と、ANA集団とのより低い遺伝的類似性を観察できます。
次に、qpAdm混合モデル化を用いて、青銅器時代WLR集団の祖先系統の割合が調べられました。黄河とアムール川と西遼河の3集団を用いて、WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2がモデル化されました(図4)。その結果、これら3集団の構成間で明確な区別が見つかりました。具体的には、WLR_BA_oはAR_EN祖先系統が93.8~100%と残りの黄河集団祖先系統でモデル化でき、WLR_BA_o2は黄河集団に100%由来するものとしてモデル化できます。対照的に、WLR_BAは黄河集団からの祖先系統57.6~61.1%と残りのAR_ENもしくはハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(HMMH_MN)の祖先系統でモデル化されました。一般的に、青銅器時代の3集団(WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2)の組成では有意な違いが観察され、これは青銅器時代西遼河集団の遺伝的多様性を示唆しています。以下は本論文の図4です。
画像
●考察
西遼河は、内モンゴル自治区チーフォン市のヘシグテン(Keshiketeng、Hexigten)鎮の南西部から始まります。西遼河は、遼河へと合流し、最終的には渤海へと注ぐ前に、シラムレン(Xilamulun、Xar Moron、西拉木倫河)川や白岔(Baicha)川や紹浪(Shaolang)川や老哈(Laoha)川などいくつかの上流の支流と合流します。西遼河領域(北緯41度17分~45度41分、東経116度21分~123度43分)は面積が13万km²にわたり、中国北東部に位置しています。西遼河流域は、内モンゴル高原と松遼(Songliao)平原との間の移行帯に位置しています。この地域は、中華「文明」の発祥地の一つです。興隆窪文化と紅山文化と夏家店文化の繁栄は、中華「文明」の起源に重要な意味を有しています。興隆溝(Xinglonggou)遺跡に代表される興隆窪文化は、主要な作物としてキビとモロコシで乾燥地農耕活動を始めて、それは中国北部における乾燥地のうこうの重要な起源のひとつと考えられています。遼寧省の牛河梁(Niuheliang)遺跡に代表される紅山文化と遼寧省の二道井子(Erdaojingzi)遺跡に代表される夏家店文化も、中華「文明」の起源に顕著な影響を及ぼした、と考えられており、恐らくはそれぞれ、中原「文明」の起源の一つでした。西遼河流域の典型的な青銅器時代文化として、夏家店文化は1960年代に、内モンゴル自治区チーフォン市ソンシャン(Songshan)地区に位置する夏家店遺跡の発掘に因んで命名され、夏家店下層文化と夏家店上層文化の2種類が含まれます。
この地域は、雑穀農耕民と畜産を行なっている人々の交差点に位置しています。以前の学際的研究では、局所的な人口集団の生計戦略は気候変化とともに変わる、と分かりました。先行研究(Ning et al., 2020)は古代ゲノムの観点からこうした結論を裏づけ、遺伝学的変化を気候変動による人口移動と関連づけています。しかし、その研究(Ning et al., 2020)で報告された古代人の全個体はホルチン砂丘原(Horqin Dunefield)の北側に由来し、おもに畜産生計戦略と関連する西遼河の西部地域における人口集団の遺伝的特性を表しています。浮遊を通じての植物遺骸の回収と遺跡の空間分布から、異なる生計戦略が西遼河の西部地域と南部地域で採用されていたかもしれない、と示唆されます。しかし、後期青銅器時代におけるホルチン砂丘原の南側の人口集団の遺伝的特性は不明なままなので、この地域におけるゲノム特性の包括的理解が妨げられていました。
本論文では、先行研究(Ning et al., 2020)で報告されたホルチン砂丘原の北側の個体群とは明確に異なる、YR_LNとを形成する遺伝的祖先系統を有する青銅器時代のホルチン砂丘原の南側の1個体が報告されました。これは、西遼河南部地域における農耕活動が西部地域より相対的に強い、という以前の調査結果とも一致します。西遼河西部地域は比較的標高が高く南部地域より気温が低くなり、キビやモロコシに基づく広範な農耕活動に適していません。したがって、西遼河西部地域の人々は、ウシやヒツジの飼育など、畜産活動により従事しなければならなかったでしょう。気候悪化により遊牧民人口集団はアムール川から南方へと移動し、西遼河の西部に居住しましたが、黄河から到来したおもに農耕に従事していた人口集団は依然として、西遼河の南部の広範な地域に居住していました。
本論文は概して、後期青銅器時代の西遼河地域のホルチン砂丘原の南側の古代人1個体を報告し、この個体は先行研究で報告された個体群とは異なるゲノム祖先系統を有しており、遺伝的多様性の存在を示唆し、ある程度は、西遼河地域における遺伝的構造の知識を向上させます。この違いは、ヒトの移動における気候悪化に起因した可能性が高そうです。本論文は、この結論が不充分な標本規模に制約されており、この地域におけるさらなる考古学的研究が必要であることを認識しています。
●私見
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化集団における、生業の違いに起因する遺伝的差異の可能性を示しており、ゲノムデータが得られている西遼河地域南部の夏家店上層文化集団はまだ1個体だけてなので、断定はできませんが、夏家店上層文化集団において生業の違いに対応した遺伝的構成の違いがあった可能性は高そうです。こうした遺伝的構成の違いは、気候悪化とともに、後期新石器時代~青銅器時代にかけて、アムール川地域から西遼河地域西部への人口移動があったためと考えられます。
アジア北東部人類集団の遺伝的構造は地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置しますが、黄河地域や西遼河地域では完新世に人類集団の遺伝的構成がかなり変容したようで(Ning et al., 2020)、これは、アムール川地域において少なくとも14000年前頃までさかのぼるかもしれない、人類集団の長期の遺伝的安定性(Mao et al., 2021)とは対照的なようです。また、黄河地域と西遼河地域の人類集団の遺伝的構成の変容には違いがあり、西遼河地域集団は、アムール川地域集団的な祖先系統と黄河地域集団的祖先系統の割合の変化が反映され、黄河地域集団では、黄河流域での後期新石器時代以降における稲作農耕の痕跡の増加とともに、前期新石器時代華南集団的な祖先系統(Yang et al., 2020)の割合が高まります(Ning et al., 2020)。
冒頭で述べたように、本論文は日本人起源論との関連でも注目されます。学際的な先行研究(Robbeets et al., 2021)では、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統でモデル化されています。しかし、この見解に対して、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化集団関連祖先系統と夏家店上層文化集団関連祖先系統は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、夏家店上層文化集団関連祖先系統の代わりに紅山文化集団関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。
さらに、こうした弥生時代以降の日本列島の人類集団の主要な祖先系統を夏家店上層文化集団関連祖先系統で一様にモデル化するのではなく、弥生時代と古墳時代とで、日本列島の人類集団のゲノムに占める主要な祖先系統には違いがあり、弥生時代にまず夏家店上層文化集団関連祖先系統のようなアジア北東部祖先系統が日本列島に到来し、古墳時代以降に黄河流域集団関連祖先系統のようなアジア東部祖先系統が日本列島に到来した、との見解も提示されています(Cooke et al., 2021)。これは、「縄文人」関連祖先系統と弥生時代以降の大陸から到来した一様な祖先系統との遺伝的混合により本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団のゲノムが形成された、とする従来の二重構造説に対して、三重構造説とも言えそうで、現代日本人の大規模で高品質なゲノムデータを分析したその後の研究(Liu et al., 2024)でも、三重構造説と整合的な結果が得られました。
しかし、この三重構造説(Cooke et al., 2021)は、弥生時代集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体のみに代表させている点で問題があるように思われます。それは、「縄文人」関連祖先系統の割合が現代「本土」日本人集団と同じくらい低い(つまり、アジア北東部とアジア東部を区別するのかはともかく、大陸部アジア東部的な祖先系統の割合が高い)弥生時代の個体が下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在するからです(Robbeets et al., 2021)。そのため、三重構造説では、「縄文人」関連祖先系統との推定混合年代は、アジア東部祖先系統(1748±175年前)よりもアジア北東部祖先系統(3448±825年前)の方が早いとはいえ、単純に、弥生時代に日本列島に到来したのが夏家店上層文化集団関連祖先系統的なアジア北東部祖先系統で、古墳時代に日本列島に到来したのが、黄河流域集団関連祖先系統とは、現時点で断定できないように思います。
重要なのは、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統や黄河流域集団関連祖先系統でモデル化できるとしても、夏家店上層文化集団や後期新石器時代以降の黄河流域集団が現代日本人の直接的な祖先集団と証明されたわけではなく、あくまでもそうした遺伝的構成要素でモデル化できるにすぎないことです。そこで注目されるのが本論文の知見で、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化において、アジア北東部祖先系統の割合の高い集団と、アジア東部祖先系統でゲノムを完全にモデル化できる集団が共存していたことから、西遼河地域およびその周辺地域を含めて黄河流域より北方のアジア北東部が、後期新石器時代~青銅器時代にかけてそうした状況だった可能性は高いように思います。つまり、日本列島への到来で、アジア東部祖先系統が(古墳時代よりも早くても)アジア北東部祖先系統より遅かったとしても、それは黄河流域からの直接的な到来ではなく、直接的な起源は西遼河地域およびその周辺地域にあり、朝鮮半島を経由したのではないか、というわけです。
日本列島に アジア北東部祖先系統やアジア東部祖先系統をもたらした集団が、いつどこからどのように日本列島に到来したのかは現時点で不明と言うべきで、そのより確かな推測には日本列島とユーラシア東部大陸部の時空間的にさらに広範囲のゲノムデータが必要になるでしょう。おそらく、完新世において日本列島だけではなく朝鮮半島でも人類集団の遺伝的構成のかなりの変容があったのでしょう。朝鮮半島南岸では、中期新石器時代に日本列島「本土」現代人集団のゲノムと似たような割合の「縄文人」関連祖先系統とアジア東部および北東部祖先系統でモデル化できる個体が存在しますが(Robbeets et al., 2021)、これら朝鮮半島南岸中期新石器時代個体群により表される集団が、本当に「縄文人」を祖先に有しているのかはまだ断定できませんし(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団における「縄文人」由来のゲノム領域の断片化の程度を考えると、そうした集団が日本列島「本土」現代人集団の主要な祖先である可能性はきわめて低そうです(藤尾.,2023)。
日本列島と朝鮮半島の両地域では、現代人のような遺伝的構成は紀元前千年紀以降に形成された可能性が高いように思います。また、そうした形成過程では複数の多方向の移動があった可能性は高そうで、単純化には注意すべきでしょう。おそらく日本列島には、縄文時代晩期以降、まずアムール川地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が、その後で弥生時代のある段階以降に黄河地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が到来し、複雑な混合過程を経て日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が形成されたように思います。この間、日本列島「本土」の人類集団の遺伝的構成は、とくに弥生時代にはかなり不均一だったようで(藤尾.,2023)、日本列島「本土」における人類集団の遺伝的構成の形成過程を、時空間的に広範にわたって一様に解釈してはならないでしょう。
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html
-
27:777
:
2024/07/25 (Thu) 15:34:12
-
日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究
2024.07.24
内城喜貴 / 科学ジャーナリスト、共同通信客員論説委員
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
「日本人の祖先はどこからやってきたのか」。このロマンに満ちた問いに対しては、祖先は縄文人と大陸から渡来した弥生人が混血したとする「二重構造モデル」が長くほぼ定説となっていた。そこに日本人のゲノム(全遺伝情報)を解析する技術を駆使した研究が盛んになり、最近の、また近年の研究がその説を修正しつつある。
日本人3000人以上のゲノムを解析した結果、日本人の祖先は3つの系統に分けられる可能性が高いことが分かったと理化学研究所(理研)などの研究グループが4月に発表した。この研究とは別に金沢大学などの研究グループは遺跡から出土した人骨のゲノム解析から「現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ」と発表し、「三重構造モデル」を提唱している。
理研グループの「3つの祖先系統」説は「三重構造モデル」と見方が重なり、従来の「二重構造モデル」の修正を迫るものだ。日本人の祖先を探究する進化人類学はDNA解析、ゲノム解析の技術という有力手段を手にして、大陸からさまざまな人々が渡来して現代の日本人につながった複雑な過程が見えてきた。今後さらに詳しい私たちのルーツが明らかになっていくだろう。それは「私たちの本質は何か」という壮大な探究テーマの回答を知ることにつながる。
大規模な日本人のゲノム解析により日本人集団の遺伝的構造を明らかにする研究の概念図(理研などの研究グループ提供)
祖先は「縄文系」「関西系」「東北系」の3つに
母から子へ受け継がれるミトコンドリアにはわずかながらDNAが含まれ(ミトコンドリアDNA)、これを解析することにより、母系の血縁の有無が分かって遺伝的なルーツを調べることができる。細胞核に存在する核DNAは両親から半分ずつ子に伝えられる。このため、その配列や突然変異の規模などを解析することで人類の混血、交流や移動を調べることができる。
「3つの祖先系統」説を発表したのは、理研生命医科学研究センターゲノム解析応用研究チームの寺尾知可史チームリーダー、劉暁渓上級研究員や東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センターの松田浩一特任教授ら。寺尾氏は静岡県立総合病院の免疫研究部長や静岡県立大学薬学部特任教授を兼任し、同総合病院や同大学も研究に参画した。
寺尾氏らの研究グループは、多くの人の血液や遺伝情報を集めて保存している組織「バイオバンク・ジャパン」を活用。北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄の7地域の医療機関に登録された日本人3256人分のDNAの全配列を詳細に分析してゲノムの特徴を明らかにする膨大な作業を続けた。
その結果、日本人の祖先は主に、沖縄県に多い「縄文系」、関西に多い「関西系」、そして東北に多い「東北系」の3つに分けられることが分かった。さらに調べると縄文系の遺伝情報の割合(祖先比率)は沖縄県が一番高く28.5%、次いで東北で18.9%、関西では最も低く13.4%だった。
「二重構造モデル」に疑問提示
この祖先比率は縄文人と沖縄の人々の間に高い遺伝的親和性があるとの以前の研究とも一致し、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。また、東北系も縄文人との遺伝的親和性が高く、沖縄県・宮古島の古代日本人や韓国三国時代(4~5世紀)ごろの古代韓国人に近かったという。
こうした研究成果は、縄文時代の狩猟採集民族である縄文人と弥生時代に大陸の北東アジアから渡来した稲作移民の弥生人の混血により現代の日本人が形成されたとする「二重構造モデル」に疑問を投げかける内容という。
現代人の祖先はネアンデルタール人やデニソワ人と交雑したとされている。一連のゲノム解析では、現代の日本人にネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだとみられるDNA配列も見つかっている。
デニソワ人から受け継いだ配列には興味深いことに2型糖尿病に関連するものも含まれていたという。DNAの解析は「病気感受性」をも明らかにして個別化医療に道を開くと期待されている。さらに詳しい分析が待たれる。研究論文は4月17日付の米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。
ゲノム解析による7地域の日本人集団は3つの集団に分けることを示す図。日本人の祖先が沖縄系(K1)、東北系(K2)、関西系(K3)の「3つの祖先系統」に分かれることを示す。(地域ごとの縄文系の祖先比率を示すグラフではない)(理研などの研究グループ提供)
人骨のゲノム解析から「三重構造モデル」提唱
理研などの研究グループの発表に先立つ2021年9月。金沢大学などの共同研究グループは、縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム解析した結果、現代の日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つことが分かったと、同じくサイエンス・アドバンシズに発表している。
この共同研究グループには当時の金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教や中込滋樹客員研究員のほか、アイルランドのダブリン大学のダニエル・ブラッドレイ教授や鳥取大学の岡崎健治助教、岡山理科大学の富岡直人教授、富山県埋蔵文化財センターの河西健二所長ら多くの研究者が参加した。
覚張氏らは、縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町)、縄文時代前期の小竹貝塚(富山市)、船倉貝塚(岡山県倉敷市)、縄文時代後期の古作貝塚(千葉県船橋市)、平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期の岩出横穴墓(金沢市)の 6 遺跡で出土した人骨から計12人分のゲノムを取得し解析した。そして既に報告されている国内の他の遺跡や大陸の遺跡の人骨ゲノムと比較した。
その結果、縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。そして弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定できたという。
この研究成果は、大陸の集団から分かれた縄文人が暮らしている日本に古墳時代までに2段階にわたって大陸から遺伝的に異なる集団が流入したことを示唆しているという。そして研究グループは、従来の「二重構造モデル」に対して、新たに「三重構造モデル」を提唱した。
ゲノム解析に使われた試料の人骨が出土した遺跡の場所。○は新たな人骨ゲノムデータが得られた遺跡(金沢大学などの研究グループ提供)
縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷を示すグラフ。本州での現代日本人集団は古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持している(金沢大学などの研究グループ提供)
ゲノム解析と進化人類学の融合の賜物
金沢大学などの研究グループによる研究は、日本人の祖先を巡る見方に科学的根拠をもって新たな説を提示する画期的な成果だった。ただ、古人骨のゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていた。理研などの研究は大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいてこの三重構造モデルを裏付けた形だ。
これらの研究のほか、東京大学大学院理学系研究科の大橋順教授と渡部裕介特任助教らの研究グループは現代日本人のゲノムの中から縄文人に由来する遺伝的変異を検出する独自の手法を開発。都府県別にどの程度縄文人を受け継いでいるかという「縄文人度合」を推定し、その研究成果を2023年2月に発表している。
その度合には地域差があり、東北の青森、秋田、岩手、宮城、福島の各県や関東の茨城、群馬の両県、鹿児島県や島根県などは度合いが高く、近畿や四国の各県では低かった。「度合い地図」では縄文人度合いが飛び抜けて高いことが確実に予想された沖縄県と分析に重要なアイヌ人のデータが得られなかった北海道は除かれている。
また、縄文人は渡来人と比べて遺伝的に身長が低いことや血糖値が高くなりやすく中性脂肪が増えやすい傾向も分かったという。縄文人は農耕を営んでいた渡来人より炭水化物への依存度が低く、血糖値などを高く維持することで狩猟生活に適応していた可能性があるという。興味深い見方だ。
現代日本人のベースになっているのは弥生時代以降の渡来人であることは分かっていたが、東アジアの中で日本人を特徴付けるのは縄文人から受け継いだ遺伝的要素で、東京大学のこの研究は現代人の成り立ちは地域によってかなり異なることを示している。
都府県別「縄文人度合」。色が濃いほど度合いが高いことを示す(東京大学の研究グループ提供)
祖先集団の移動や複雑な混血の実相明らかに
今春発表された理研の研究成果も、それに先立つ金沢大学や東京大学の研究成果も、DNA、ゲノム解析の技術が進化人類学と融合した賜物(たまもの)と言える。日本人のルーツだけでなく、人類のさまざまな集団が持つ遺伝的変異の系統が明らかになって人類がどのように世界中に広まっていったかが分かってきた。
人類進化の研究に新たな視点を提供したデニソワ人の名を命名したのは、2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したドイツ・マックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ教授だ。教授は約4万年前に絶滅したネアンデルタール人の骨片のゲノム解析を行ってゲノム配列を2010年に発表。欧州やアジアに住む現代人のゲノムの1~4%がネアンデルタール人に由来し、ネアンデルタール人が現生人類と交雑していた証拠を示した。
ペーボ教授はまた、2008年にロシア・シベリアのデニソワ洞窟から出土した骨片の核DNAの全配列を決定してデニソワ人と命名。世界各地の現生人類の核DNA配列と比較して東南アジアの集団では全DNAの4~6%がデニソワ人から受け継いでいることも突き止めている。進化人類学を大きく前進させた業績がノーベル賞受賞につながった。
日本の進化人類学や分子人類学研究の第一人者である国立科学博物館館長の篠田謙一さんによると、1981年に人間のミトコンドリアDNAの全配列が解読された。その後DNAを増幅する技術「PCR法」ができるなどして20年が経過し、2001年に人間一人分の核DNAの全塩基配列が明らかになった。「次世代シーケンサー」と呼ばれる装置の登場で核DNAの解析を短時間で大量にできるようになり、2010年以降、進化人類学は新しい段階に入ったという。
現生人類のホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人と交雑してそれぞれの遺伝子の一部を引き継いでいることを示すイメージ図(ノーベル財団提供)
時空を超えて人類、日本人の本質に迫る
篠田さんは日本人の成り立ちを探るために2018~22年に実施された「ヤポネシアゲノムプロジェクト」に主要メンバーとして参画し、日本人成立のシナリオを明らかにする数多くの研究成果を残している。ヤポネシアとはラテン語を組み合わせた造語で日本列島を表す。
今年1月に開かれた日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)主催の講演会(月例会)で篠原さんは「このプロジェクトで現代日本人につながるプロセスは弥生時代で止まっておらず古墳時代まで延びることが分かった」「縄文人のゲノムは全て読めているが本州の日本人では(平均)10%が縄文人の遺伝子で90%は弥生時代以降入ってきた遺伝子だ」などと説明した。
さらに「弥生時代にはたくさんの遺伝的変異を持った人たちがこの日本列島で暮らしていた。弥生人と言うが誰か1人をもって弥生人の代表とは言えない」と指摘。「日本人はどこから来たのかとよく言う。私も『我々はどこから来たのか』と自分の本のタイトルに書いたが、アフリカから来たことは分かっているので『日本人の成り立ち』と考える方がいい」と述べた。
さまざまな年代や地域で得られた試料のDNAを比較することが可能になり、出土された骨の形状の違いだけでは判別できなかった私たちの祖先の集団の移動や複雑な混血の経緯が分かってきた。日本人の成り立ちが、そして日本人のルーツは多様であることがはっきりしてきた。
「古代の人々のゲノムを調べることで当時の社会を知ることができるようになった。このことがこの10年のゲノム研究の進歩だ。こうした科学の進歩により社会とか人間とかを深く知ることができる」。篠田さんはこう強調している。
DNA解析、ゲノム解析は明らかに考古学や人類学を大きく変えた。約31億塩基対の「遺伝情報文字」が詰め込まれている細胞核のゲノム。それを読み解く現代の技術は時空を超えて人類や日本人の本質に迫っている。
関連リンク
理化学研究所「全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴」
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
金沢大学「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/96414/
東京大学「縄文人と渡来人の混血史から日本列島人の地域的多様性の起源を探る」
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8252/
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
-
28:777
:
2024/07/28 (Sun) 05:33:51
-
弥生古墳渡来人の大移動をDNAで見てみよう!
みどりTV 2024/07/24
https://www.youtube.com/watch?v=iu6fGqAwzmQ
今日は古人骨のDNAで渡来系弥生人、古墳人の動きを見てみたいと思います。特に古墳時代は民族大移動の一つと言えそうです。
■参考書籍
・篠田 謙一 新版「日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 NHKブックス:https://amzn.to/4cS5Qg0
・篠田 謙一 「DNAで語る 日本人起源論」 (岩波現代全書):https://amzn.to/3y8ptkW
・斎藤成也「最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生」:https://amzn.to/3Wx3g9K
・斎藤成也「DNAから見た日本人 (ちくま新書)」:https://amzn.to/3LzM5Os
■参考文献
・三国時代の朝鮮半島の甕棺に埋葬された 複数個体のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_1.html
・Genomic detection of a secondary family burial in a single jar coffin in early Medieval Korea
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/ajpa.24650
-
29:777
:
2024/07/29 (Mon) 05:00:09
-
弥生土器を開発したのは縄文人だった!?【日本の古代史シリーズ】
みどりTV 2024/06/04
https://www.youtube.com/watch?v=UyAhvPEIPfc
今回は「縄文人は遼河文明で弥生土器の技術を開発したか?」を調査します。
遼河下流域の偏堡文化で、弥生土器の特徴を備えた土器が開発されました。
そして、突帯文土器などが作られ、九州にも渡来してきます。
今回は現代人のYハプロで分かる範囲で調査していきます。
偏堡文化は、遼河文明では珍しいつぼ型土器を作った文化ですが、例えばアカホヤ大噴火で朝鮮に渡ったYハプロC1a1が偏堡文化に行けば、つぼ型土器も作るだろうと考えられるからです。上野原文化では既に弥生土器のつぼ型土器にそっくりな土器が出土しています。大陸は陶器が中心になっていくため、縄文人が偏堡文化で土器を改良したと考えると自然だと思います。
■参考書籍
・地図で スッと頭に入る縄文時代:https://amzn.to/46jUoX3
・宮本 一夫「農耕の起源を探る: イネの来た道」 (歴史文化ライブラリー 276) :https://amzn.to/3Vzzv7P
・遠藤典夫「日本人と日本文化の起源を探る 第1部 朝鮮半島の先史考古学―旧石器時代から初期鉄器時代まで―」:(https://amzn.to/4bZESlW)
・安田喜憲「日本神話と長江文明」 (環太平洋文明叢書 2): https://amzn.to/4apjlls
-
30:777
:
2024/08/23 (Fri) 23:58:22
-
日本語の成立をDNAで解き明かす
みどりTV 2024/08/23
https://www.youtube.com/watch?v=VFcdAKfK5ek
弥生時代以降の日本人のルーツを探るには、DNAだけでは限界があることが見えてきました。そこで、他の方法も合わせて考えることで、仮説を作っていきたいと思います。
その中で一番信頼がおけるのが、語族との関係で考えることです。
■参考書籍
・安本美典「日本語の成立」:https://amzn.to/3SQInnu
・加藤重弘「言語学講義」:https://amzn.to/3AxNx1G
・折口信夫「日流祖語論」:https://amzn.to/3WRZW7N
・篠田 謙一 新版「日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 NHKブックス:https://amzn.to/4cS5Qg0
・篠田 謙一 「DNAで語る 日本人起源論」 (岩波現代全書):https://amzn.to/3y8ptkW
・斎藤成也 「最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生」:https://amzn.to/3Wx3g9K
・斎藤成也「DNAから見た日本人 (ちくま新書)」:https://amzn.to/3LzM5Os
-
31:777
:
2024/10/23 (Wed) 08:45:00
-
雑記帳 2024年10月17日
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体のゲノムデータを報告した研究(Kim et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本語の解説記事もあります。山口県下関市豊北町にある土井ヶ浜遺跡は、弥生時代の「渡来系」とされる人類集団が発見されたことで有名です。本論文は、土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体(D1604)のゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人集団と比較することで、D1604が、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団的な3系統の遺伝的構成要素をすでに有している、と示しました。その遺伝的構成要素とは、「縄文人」関連とアジア東部および北東部関連です。
本論文は、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的な形成過程の解明に大きく貢献するでしょうが、弥生時代の人類集団においては遺伝的異質性が高いことにも注目せねばならないでしょう。こうした点も含めて、最後に「私見」の項目で日本列島「本土」現代人集団の形成過程について少し言及します。査読前論文(Ishiya et al., 2024)ですが、土井ヶ浜遺跡ではD1604だけではなく男性1個体のゲノムデータも得られており、こちらはD1604よりずっと高品質で、さらに、群馬県吾妻郡長野原町にある居家以岩陰遺跡の縄文時代早期の女性1個体の高品質なゲノムデータも報告されているので、査読誌に掲載されたら当ブログで取り上げる予定です。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は以下の通りです。新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)。
●要約
本土日本人は、在来の縄文人とユーラシア東部大陸部からの移民に由来する二重祖先系統を有している、と認識されてきました。大陸から日本列島への移住は弥生時代から古墳時代にかけて続きましたが、これらの遺民、とくにその起源に関する理解は、弥生時代の高品質なゲノム標本の不足のため不充分なままで、混合過程についての予測を複雑にしています。これに対処するため、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体の全核ゲノムが配列決定されました。土井ヶ浜遺跡弥生時代1個体と、アジア東部とアジア北東部の古代および現代の人口集団の包括的な集団遺伝学的分析から、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体は古墳時代個体群および現代本土日本人と同様に、縄文関連とアジア東部関連とシベリア北東部関連の異なる3遺伝的祖先系統祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していた、と明らかになりました。非日本人集団のうち、アジア東部関連とシベリア北東部関連祖先系統を有する韓国人集団が、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体との最高度の遺伝的類似性を示しました。弥生時代個体群と古墳時代個体群と現代日本人についての混合モデル化の分析は、縄文関連と韓国関連の祖先系統を仮定する2方向混合モデルを裏づけました。これらの結果から、弥生時代と古墳時代の間の日本列島への遺民の大半はおもに朝鮮半島に由来した、と示唆されます。
●研究史
日本列島の先史時代は、新石器時代である「縄文時代」により表されます【縄文時代が新石器時代と言えるのか、異論もあるかもしれませんが】。「縄文」という名称は「縄の文様」を意味しており、縄を用いて製作される固有の文様のある土器によって特徴づけられる、縄文文化の独特な特徴を反映しています。縄文時代の期間についてさまざまな意見がありますが、考古学的証拠では、16500年前頃に始まり、少なくとも1万年間ユーラシア大陸部から孤立して存続した、と広く裏づけられています。縄文時代の主要な生計活動は狩猟と採集でした。水田での稲作は日本の九州北部へと3000年前頃となる縄文時代晩期末にもたらされ、弥生時代の開始を示しています。稲作はその後、中期~後期弥生時代に日本全域へと次第に広がりました。
日本人の歴史を説明するさまざまな仮説がありました。たとえば、「変容モデル」では、人々ではなく文化だけが大陸から到来した、と仮定されました。「置換モデル」は弥生人による在来の縄文人の完全な置換を示唆していますが、「交雑モデル」は在来の縄文人と大陸からの遺民との間の混合を提案しています。現時点では、古代の縄文時代と弥生時代の個体群の骨格の特徴に基づいて埴原和郎氏によって提案された、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」が広く受け入れられています。集団遺伝学的研究を通じて、二重構造モデルを裏づける強力な証拠が蓄積されてきました。アジア東部大陸部の人々で一般的に見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の存在だけではなく、ユーラシア大陸部の人々では一般的ではないものの、縄文人では一般的であるN9bおよびM7aなどのmtHg[8]や、D1a2a1a(M125)などのYHg[11]も、日本列島における縄文人とユーラシア大陸部からの遺民との間の交雑との仮説を裏づけます。
常染色体上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)に関する研究では、現代日本人の遺伝的構成要素は、アイヌ関連祖先系統とアジア東部大陸部関連祖先系統の混合として説明できる、と示唆されてきており、二重構造モデルの追加の証拠を提供します。さらに、地理的距離にも関わらず北海道のアイヌ集団と沖縄県の琉球諸島集団との間のより密接な遺伝的類似性を明らかにした研究は、日本列島本土へのユーラシア大陸部の人々の移住を示唆しています。二重構造モデルは基本的に正しいと考えられていますが、本土日本人の間では遺伝的異質性があり[19]、これは部分的には、縄文関連祖先系統の割合の差異に起因します[21]。これは、縄文人とユーラシア大陸部の遺民の混合が日本列島本土全体で均一に進行しなかったことを示唆しています。いくつかの研究も、古代の核ゲノムの解析を通じて、縄文人の起源を調べました。縄文人のゲノム解析から、縄文人系統は他のユーラシア東部系統の基底部に位置する、と明らかになりました[22~24]。しかし、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島へと移住したユーラシア大陸部の移民の起源は、弥生時代個体群の高品質な核ゲノムデータの不足のため、不明なままです。
最近の研究[25]は、古墳時代の3個体の新たに報告されたゲノムと、日本の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の以前に刊行されたゲノム[26]を用いて、弥生時代と古墳時代との間の日本人【日本列島の人類集団】の遺伝的特性における突然の変化を報告しました。先行研究[25]は、弥生時代と古墳時代の個体間の遺伝的構成要素の違いに基づいて、弥生時代にシベリア北東部から遺伝子流動が起き、古墳時代には、中国の漢人などアジア東部人からの独立した遺伝子流動が起きた、と示唆し、現代本土日本人の3方向混合モデルを提案しました。
しかし、3方向混合モデルを提案した論文[25]で提示された分析の特定の側面は、さらなる検討が必要です。大きな懸念は、使用された弥生時代標本の代表性です。九州北部とその周辺地域から発掘された弥生時代のヒト骨格遺骸は、測定分析に基づいて主要な2群に分類されてきました。九州北西部地域(長崎県とその近隣地域が含まれます)の弥生人は、低い顔面と低身長など縄文人と類似した形態学的特徴を示します。対照的に、九州北部と山口県地域の弥生人は、縄文人と比較してのより高い顔面と身長によって特徴づけられ、移民からの顕著な遺伝的影響が示唆されます。先行研究[25]で使用された弥生時代標本、具体的には下本山2号および3号は九州北西部集団に属しており、縄文人とアジア大陸部から到来した移民両方の構成要素を有している、と示されました[26]。弥生人の遺伝的特徴の包括的理解を得るためには、九州北部と山口県の集団からの標本調査も不可欠です。さらに、下本山2号および3号の配列データの品質は高くなく、網羅率は0.1倍未満です。したがって、弥生人と古墳人との間に顕著な遺伝的差異があったのかどうか、という問題にはさらなる研究の余地があります。
この研究では、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の古代の弥生時代1個体の全核ゲノム配列が決定されました。この個体は九州北部および山口県の弥生時代集団に属します。弥生時代から古墳時代にかけてのユーラシア大陸部からの移民の起源を解明するため、混合モデル化を含めて、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体のさらなる集団遺伝学的分析が行なわれました。
●資料と手法
山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期~中期の墓地である土井ヶ浜遺跡では、300点以上の弥生時代の個体の骨が発見されてきました。この研究では、ほぼ全身骨格を含む、土井ヶ浜遺跡で発見された標本ST1604のDNA解析が実行されました。ST1604の年齢は、3点の頭蓋縫合線の内側と外側が両方とも開いていることで証明されているように、若い世人と考えられています。ST1604の性別は、眼窩上弓に隆起がないことと、大坐骨切痕の角度がより大きいため、女性と考えられています。大腿骨の最大長から、ST1604の身長は149cmと推定されました。注目すべきことに、ST1604は長い形態の顔や高身長など、縄文人の典型的な形態学的特徴とは異なる独特な特徴を示しました。ST1604標本の放射性炭素(¹⁴C)年代は、2305±20年前(非較正)でした。IntCal20を用いての較正年代(95.4%の確率)は、紀元前405~紀元前361年(90.7%の確率)、紀元前275~紀元前263年(3.1%の確率)、紀元前243~紀元前235年(1.7%の確率)の範囲でした。本論文では以後、ST1604標本は、DNA解析の対象であるD1604標本と呼ばれます。
DNAはD1604の右側錐体骨から抽出され、mtHgが決定されました。核ゲノム解析には1本鎖ライブラリが用いられました。D1604の性別はX染色体とY染色体のマッピング(多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りの数に基づいて推定されました。他集団との比較のため、古代人についてはAADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1.p1版の124万SNPデータセット[51]、現代人についてはヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)[52]とサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)[53]が用いられました。KING血縁係数で0.0844以上の各組み合わせから、1個体が無作為に除外されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)の結果が信頼できないと思われる、外れ値個体も除外されました。124万データセットからユーラシア古代人のゲノムも抽出され[25、26、56~58]、さらに日本もしくは韓国の古代人のゲノム[23、26、59]が統合されました(古代人遺骸が発見された遺跡の場所は補足図1で示されます)。以下は本論文の補足図1です。
画像
PCAでは、現代の個体群から計算された主成分(PC)空間に古代人のゲノムが投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2~5で実行されました。TreeMix第1.3版を用いて、最尤系統樹が再構築されました。縄文時代個体群は「縄文」の分類表示で1群に統合され、単純な系統樹が描かれました。フランス人、パプア人、ミヘー人(Mixe)、ウリチ人(Ulchi)、韓国人、日本人、漢人、シェ人(She)、アミ人(Ami)といった現代の個体群もしくは人口集団と、土井ヶ浜_弥生(D1604)、日本_本州_古墳、韓国の金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)遺跡で発見された個体群(韓国_金海_大成洞)[56]、縄文人など古代の個体群もしくは人口集団が含められました。いずれの集団にも呼び出し情報のないSNPの除外後に、940570のSNPが残りました。
f統計ではまず、ムブティ人を外群とするf3(ムブティ人;土井ヶ浜_弥生、X)が計算され、Xは本論文のデータセットのうち1人口集団です。外群f3は、土井ヶ浜遺跡弥生時代標本と最も密節那遺伝的類似性のある現代の人口集団の特定に用いられました。次に、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)でf4統計が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性の観点ではどの人口集団も現代の韓国人もしくは日本人集団を上回らない、との仮説が厳密に検証されました。これらの分析では、標準誤差の単位でのゼロからのf統計の偏差であるZ値も計算されました。さらに、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性がきわめて高いことを示す、縄文時代の下位集団が調べられました。縄文人1と縄文人2は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の個体(JpKa6904)に代表される日本_四国_縄文時代早期、縄文時代前期となる岡山県倉敷市の船倉貝塚の個体(JpFu1)に代表される日本_本州_縄文時代前期_船倉、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚の4個体に代表される日本_本州_縄文時代前期_小竹、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚の4個体に代表される日本_本州_中後期縄文、愛媛県愛南町の縄文時代後期となる平城貝塚の1個体(JpHi01)に代表される日本_四国_縄文時代後期、千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表される六通_縄文、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる縄文時代2個体に代表される船泊_縄文、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)に代表される伊川津_縄文から選択されました。混合モデル化では、これら縄文人集団が「縄文人」という分類名称の単一集団に統合されました。qpF4ratio第400版を用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の混合モデルの適合性と混合比が評価されました。フランス人が外群(outgroup、略してo)と設定されました。古代と現代両方の日本人(x)について、潜在的なユーラシア東部からの遺伝子流動源(b)と縄文人供給源(c)で混合モデルが検証されました。想定モデルの詳細は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
画像
qpWaveとqpAdm第1520版も実行され、ユーラシア大陸部人口集団の祖先系統もしくは遺伝子流動の最適な供給源での混合モデルが見つかりました。qpAdmモデル化の外群として、ムブティ人、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の上部旧石器時代の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)個体[66]に代表される北イタリア_ヴィッラブルーナ_HG、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群[67]に代表されるイラン_ガンジュダレー_N、北京近郊の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体[68]に代表される田園洞、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River、略してUSR)で発見された11600~11270年前頃の1個体(USR1)[69]に代表されるUSR1、アミ人、中国山東省の變變(Bianbian)遺跡の9500年前頃の個体に代表される變變_EN[70]、中国福建省連江県の亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体[70]に代表される亮島_EN、シェ人が用いられました。qpWaveが実行され、P=0.01の閾値で外群人口集団の独立性が評価された後で、qpAdmを用いて、古代と現代の日本人集団の祖先系統の供給源として、縄文人とアジア東部大陸部人口集団で2方向混合モデルが検証されました。さらに、標的人口集団について祖先系統の供給源として縄文時代とアジア東部とアジア北東部の人口集団を用いて、以前に提案された3方向混合モデルが評価されました。先行研究[25]で潜在的な遺伝子流動供給源として提案された、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(中国_HMMH_MN)がアジア北東部関連祖先系統の供給源として含められ、3方向混合モデルの適合性が判断されました。
●標本のゲノム情報
集団遺伝学的分析の実行前に、D1604のゲノム情報の品質が評価され、データの信頼性が確かめられました。正確な数値指標は補足表3および4に示されています。D1604の常染色体平均網羅率は2倍をわずかに超えており、124万SNPの常染色体SNPのうち約84.5%(1150639ヶ所のうち971776ヶ所)を網羅しています。これは、他の刊行されている弥生時代個体のゲノム[26、57]の網羅率が0.1倍を超えず、網羅されている124万SNPの数が5万ヶ所を超えないため、とくに注目に値します。
D1604標本の遺伝的性別は、性染色体のマッピングされた読み取り数に基づいて評価されました。この手法では、RY指標(Y染色体/[Y染色体+X染色体])信の頼区間(confidence interval、略してCI)95%の上限が、0.016未満ならば女性、0.075超ならば男性と分類されます。D1604のRY指標は0.00051で、95%CIの上限が0.00053なので、D1604の性別は女性と推定され、形態学的評価と一致します。
●mtHg
平均深度297倍で、D1604の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。ミトコンドリアゲノム全体の一致率は0.993超でした。この配列は古代DNA的な脱アミノ化パターンを示した、と確証されました。D1604のmtHgはD4h1a2と推定されました。mtHg-D4hの下位系統(つまり、D4h1b、D4h1d、D4h1e、D4h3b)は、中国の北部および中央部で顕著と報告されました[71]。
●D1604の古代および現在の韓国人集団との遺伝的類似性
土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)やアジア東部の古代人および現代人を含めてのPCA図は、図2で示されています。縄文時代個体群は本論文で調べられた他のアジア東部人口集団とは明確に離れて位置しており(図2A)、縄文人の祖先は他のアジア東部人と最初に分岐した、と示唆されます。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は古墳時代個体群とともに現代日本人クラスタ(まとまり)内に収まり、縄文クラスタとアジア東部大陸部クラスタの間に位置しています。日本人と韓国人と漢人の個体群のみのPCAでは、弥生時代の土井ヶ浜遺跡個体は遺伝的に、中国の漢人とよりも現代と古代両方の韓国の個体群と密接である、と示唆されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
画像
●D1604の遺伝的祖先系統
ADMIXTURE分析では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)の遺伝的祖先系統が、アジア東部とシベリア北東部の現代人、日本列島と朝鮮半島の古代の個体群とともに推定されました。交差検証誤差値に基づいて、K=3が現在の人口集団一式にとって祖先供給源人口集団の最も妥当な数と判断されました(図3A)。混合棒図示では、赤色と青色と黄色の構成要素が、それぞれ縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統に由来する、と解釈されました。以下は本論文の図3です。
画像
以前に報告されたように[25、72]、現代日本人は3系統の遺伝的構成要素を示しました。現代日本人28個体のうち、縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の平均割合は、それぞれ約10%と約80%と約10%でした。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の各祖先系統の割合は、縄文関連が約7%、アジア東部関連が約67%、シベリア北東部関連が約26%でした。この割合は、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代1個体や古墳時代個体群や現代日本人と類似していました。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体におけるアジア東部関連構成要素の顕著な量の観察は、アジア東部関連祖先系統の人口集団が古墳時代に日本列島へと移住した、と主張した上述の先行研究[25]と矛盾します。
興味深いことに、一部の古代の韓国の個体は、かなりの縄文関連祖先系統を有していました(図3B)。たとえば、朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡から発掘された1個体(TYJ001)は、先行研究[57]で報告されたように、ほぼ100%の縄文祖先系統を示しました。対照的に、現代の韓国の個体群は縄文関連祖先系統をほとんど示しませんでした。
●D1604とアジア東部人口集団との系統発生的関係
TreeMixを用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)とアジア東部人口集団との系統発生的関係が調べられました(図4)。混合事象を仮定下系統樹は本論文では示されず、それは、妥当な仮定的状況が再現されなかったからです。TreeMix系統樹では、縄文人集団がアジア東部大陸部クラスタと日本人クラスタの分岐前に他のアジア東部人口集団と分岐し、縄文人系統が系統発生的に他のアジア東部人口集団の基底部に位置することを裏づけます。以下は本論文の図4です。
画像
アジア東部人口集団は、図4では異なる2クラスタに区分されました。一方のクラスタには、現代の韓国人や中国の漢人やシェ人やアミ人などアジア東部大陸部人口集団が含まれました(アジア東部大陸部クラスタと呼ばれます)。もう一方のクラスタは、現代日本人や土井ヶ浜遺跡弥生時代個体や日本_本州_古墳や韓国_金海_大成洞といった人口集団で構成されています(日本クラスタと呼ばれます)。アジア東部人口集団のうち、現代韓国人集団は日本人クラスタの共通祖先に最も近い、と特定されました。この観察はPCAの結果と一致します(図2)。これらの結果から、韓国の個体群は遺伝的に中国の漢人の場合よりも日本人に近い、と示唆されます。
古代韓国の人口集団である韓国_金海_大成洞は、日本クラスタに含まれました(図4)。この明らかなクラスタ化は、先行研究[56]で示唆されているように、縄文人集団から韓国_金海_大成洞人口集団への遺伝子流動に起因するかもしれません。韓国_金海_大成洞人口集団と日本人集団との間の関係は、TreeMix系統樹から推測されるように、将来の研究で慎重に調べられるべきです。
●D1604と遺伝的に近い人口集団
2人口集団間で共有される浮動を明らかにする手段である外群f3統計分析で、日本人集団(古代の日本_本州_古墳と現代日本人)が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と遺伝的に最も密接で、古代と現代の韓国の人口集団がそれに次いで近い、と明らかになりました(図5)。韓国の古代人のうち、安島(Ando)遺跡の新石器時代個体(韓国_安島)は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な類似性を示し、弥生時代における日本列島への移民は、韓国の古代の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ば個体群や金海の大成洞遺跡個体群とよりも、韓国_安島の方と遺伝的に近い、と示唆されます。日本の古代人および現代人集団と現代の韓国人集団についてのf3統計は他のアジア東部現代人集団よりも大きかったものの、|Z|≤1の範囲を表す誤差棒は、一部のアジア人口集団と重なりました。以下は本論文の図5です。
画像
さらに、f4(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)が計算され、日本人集団と韓国人集団が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な現代人集団なのかどうか、確認されました。人口集団Xは|Z|=3の境界に基づいて分類されました。Z≥3の人口集団Xは観察されませんでしたが、−3 < Z < 3を示す人口集団Xは、日本の古代人集団か日本の現代人集団か韓国の古代人集団か韓国の現代人集団がXだった場合のみ検出されました。他のすべてのモデルで、Z値は−3未満でした。したがって、少なくとも本論文で検証された現代人集団では、日本人および韓国人集団に匹敵する程度で土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と遺伝的に密接な人口集団は存在しない、と結論づけられました。
●D1604と縄文時代個体群との間の遺伝的類似性
f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)のf4検定が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と最高の遺伝的類似性を有する縄文人集団が特定されました。本質的に、f4統計は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が遺伝的に縄文人2よりも縄文人1の方と密接な場合に正となり、逆の場合は負となります。この分析にはさまざまな期間とイセキの縄文人集団が含められました。各人口集団の古代人のゲノムの数が限定的であることを考えて、結果は|Z|=2の緩やかな基準を用いて解釈されました。f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;日本_四国_縄文時代後期、他の縄文人個体)ではZ < −2の負の値が得られ、日本_四国_縄文時代後期は他の縄文人個体と比較して土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と有意により強い類似性を示した、と示唆されます。
注目すべきことに、日本_四国_縄文時代後期が発掘された四国地域は、本論文のデータセットの他の縄文人標本が発掘された地域では、地理的に土井ヶ浜遺跡の最も近くに位置しています。この観察から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の縄文関連祖先系統は山口県の近くの地域に暮らしていた縄文人に由来した、と示唆されます。高品質な古代人のゲノムの限定的な数のため、決定的な証拠はまだ報告されていませんが、この結果は、縄文人集団における人口分化の可能性を示唆しています。これは、日本列島全域のさまざまな遺跡の高品質な縄文人ゲノムを用いて、さらに調べられるべきです。
●D1604の混合モデル化
モデルの適合性を評価し、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)を含めて古代と現代の日本の個体群における縄文関連祖先系統の割合を推定するため、f4比検定が実行されました。[0, 1]区間外にある混合割合は、モデルにおける適合性の欠如を示唆します。補足表6では、そうしたモデルの混合割合が赤色で示されています。図1で現代韓国人を「b」、他のアジア東部人を「a」に割り当てると、モデルが適切に整合しました。しかし、他のアジア東部人を「b」、現代韓国人を「a」と仮定する逆の筋書きは、混合割合(α)が1を超過したように、良好な適合を示しませんでした。シベリア北東部人と遺伝的に近い人口集団である、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)もしくはオロチョン人(Oroqen)のいずれかを「b」として仮定するモデルは、良好に適合しませんでした。これは、シベリア北東部系統と縄文人系統との間で共有される祖先系統に起因するようです[23、24]。
したがって、縄文人と現代韓国人を混合の供給源として仮定し、フランス人漢人をそれぞれ「o」および「a」と指定して、日本人集団について混合割合が推定されました(図6A)。このモデルでは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は韓国人関連祖先系統を89.6%、縄文人関連祖先系統を10.4%有している、と推定されました。古墳時代個体群と現代日本人も、約6~7%の縄文関連祖先系統を示しました。一方で、下本山岩陰遺跡の弥生時代1個体の縄文関連祖先系統の割合は、他の個体より顕著に高くなっていました。これはPCAの結果と一致し、PCAでは、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は縄文人の近くに位置していました(図2B)。以下は本論文の図6です。
画像
最後に、qpAdm分析が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体を含めて日本人集団について混合モデルが検証されました。この分析では、ひじょうに低いP値のモデルはデータと一致せず却下でき、[0, 1]区間外の推定された混合割合は無意味です。したがって、そうしたモデルはデータに不適切と考えられました。2方向混合モデルについて、縄文人および漢人祖先系統を仮定するモデルは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体に適合しませんでした。対照的に、縄文人祖先系統と韓国人祖先系統を仮定するモデルは土井ヶ浜遺跡弥生時代個体のみならず、古墳時代個体群および現代日本人でもより良好に適合しました。qpAdm分析から得られた日本人集団の混合割合の棒図は、図6Bに示されています。
qpAdm検定では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は12.9%の縄文人関連祖先系統と87.1%の韓国人関連祖先系統を有する、と説明されました(図6B)。qpAdm分析は外群人口集団一式の選択に対して顕著に敏感ですが、上述のf4比検定と類似の結果が得られ、本論文のqpAdm分析における外群一式は適切だった、と示唆されます。
同じ外群一式を用いて、縄文人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とアジア北東部関連祖先系統という、祖先系統の3供給源を仮定した3方向混合モデルの適合性も調べられました。この分析では、アジア東部関連祖先系統の供給源として漢人もしくは現代韓国人個体群が用いられた一方で、中国_HMMH_MNはアジア北東部関連祖先系統の供給源として用いられました。中国_HMMH_MNの1個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区のホルチン左翼中旗(Kezuozhongqi、科爾沁左翼中旗)のHMMH遺跡で発掘された古代人の標本1点です。中国_HMMH_MN個体がアジア北東部関連祖先系統の供給源として選択され、それは、中国_HMMH_MN個体が3方向混合モデルを提案した先行研究[25]でこの目的のため用いられたからです。漢人をアジア東部人口集団とみなすと、3方向混合モデルは日本人集団について適切な混合割合をもたらしませんでした(つまり、1もしくは複数の推定された混合割合が[0, 1]区間外となりました)。現代韓国人をアジア東部関連祖先系統の供給源として用いると、混合割合は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳については許容可能な範囲内に収まりました。しかし、中国_HMMH_MNの混合割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳が対象の事例では標準誤差より小さく、推定された混合割合が強く裏づけられなかったことを示唆しています。したがって、本論文の分析では、調べられた3方向混合モデルが限定的だったものの、3方向混合モデルが2方向混合モデルより優れて至る、との結論を裏づける肯定的結果は得られませんでした。
●考察
本論文の重要な調査結果の一つは、すべての分析において、現代人集団のうち、韓国人集団が日本人を除く他のアジア東部人口集団よりも土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との多くの遺伝的類似性を示したことです。これは、弥生時代における日本列島への移民がおもに朝鮮半島に由来することを示唆します。したがって、縄文人と移民の混合に関する遺伝学的研究はまず、韓国人が日本列島への移民の主要な供給源だった可能性を考慮すべきです。最も妥当な供給源人口集団を混合モデル化に用いない場合、結果は実際の歴史から大きく逸れるかもしれません。
本論文では、現代と古代の韓国の個体群は、先行研究[74]と一致して、かなりのユーラシア北東部関連構成要素とアジア東部関連構成要素を有している、と分かりました。したがって、縄文人集団との韓国人集団の混合、およびそれに続く日本列島の混合人口集団内の遺伝的浮動が、日本人で観察される主要な遺伝的祖先系統を説明できるかもしれません。日本人のゲノムにおける、縄文人構成要素に加えてアジア東部関連構成要素とシベリア北東部関連構成要素の両方の存在は、一方は弥生時代におけるシベリア北東部関連祖先系統を有する人口集団、もう一方は古墳時代におけるアジア東部関連祖先系統を有する人口集団と、別々の2人口集団が日本列島に独自に移住したことを必ずしも意味しない、と強調せねばなりません。
先行研究[25]では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体と古墳時代個体群で見られるユーラシア北東部関連構成要素は弥生時代にもたらされ、古墳時代個体群で観察され、弥生時代個体群では観察されない新たなアジア東部関連構成要素は古墳時代に出現した、と主張されました。しかし本論文では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体より年代の古い土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、縄文人関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統のみならず、かなりのアジア東部関連祖先系統も有している、と分かりました(図3B)。先行研究[25]では3方向混合モデルが提案されましたが、弥生時代と古墳時代と現代の日本の個体群に関する混合モデル化の本論文の分析は、縄文人関連祖先系統と韓国人関連祖先系統を仮定する2方向混合モデルを強く裏づけました。
先行研究[25]と本論文の間の不一致は、先行研究で分析された下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の独特な遺伝的特性に起因したのかもしれません。これら下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は、遺伝的に縄文人に近い、と報告されてきました[26]。本論文では一貫して、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体はPCA図では縄文人の近くに位置し(図2B)、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体における縄文人関連祖先系統の推定割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体よりもずっと高くなりました(図3B)。移民はアジア東部大陸部から到来したので、遺伝的に縄文人からより遠く、アジア東部大陸部人により近い弥生時代個体群は、移民の起源を解明するための分析により適しているようです。この文脈では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体ではなく土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、日本列島における混合の研究において弥生時代個体群の代表として用いられるべきです。
外群f3の分析から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は他の古代韓国の個体とよりも、現代韓国人および韓国_安島の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました(図5)。したがって、弥生時代における日本列島への移民は、現代韓国人もしくは韓国_安島と遺伝的により近い人口集団に由来していたかもしれません。現時点では、朝鮮半島のどの地域に移民の起源があるのか明確ではなく、弥生時代の始まった3000年前頃以降の多くの韓国の古代人のゲノムが、朝鮮半島からの移民がおもにどの地域に由来するのか、判断するのに役立つかもしれません。
ユーラシア東部人口集団は、南北の軸にそって遺伝的勾配を示す、と報告されてきました。ユーラシア東部大陸部では、より北方の人口集団がより高い割合のシベリア北東部関連祖先系統を有する一方で、より南方の人口集団はより多くのアジア東部関連祖先系統を有する傾向があります。本論文のすべての結果を考慮すると、最も妥当な仮定的状況では、アジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の両方を有する朝鮮半島の人口集団が、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に連続的に移住した、となります(補足図4)。この移住には、在来の縄文人との混合が含まれていました。現代本土日本人は、この混合人口集団の子孫と考えられます。日本列島のさまざまな遺跡の弥生時代と古墳時代の個体のゲノムのさらなる分析は、移民が縄文人と混合しながら日本列島全域にどのように拡大したのかについて、光を当てるでしょう。以下は本論文の補足図4です。
画像
●私見
本論文は弥生時代の「渡来系」とされる人類の遺跡として有名な土井ヶ浜遺跡で発見された女性1個体の、他の弥生時代個体よりも高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん貴重な成果として注目されます。本論文は、日本列島における人類進化史について、弥生時代にアジア北東部(本論文ではシベリア北東部)関連祖先系統を有する集団が到来して縄文時代から日本列島に存在する在来人類集団と混合し、古墳時代にアジア東部関連祖先系統を有する集団が到来して、弥生時代人類集団と混合して現代の日本人集団の遺伝的構成が形成された、とする先行研究[25]で提示された三重構造説に否定的な結果を提示しています。
確かに、本論文が新たに提示したゲノムデータは土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体(D1604)だけです。しかし、土井ヶ浜遺跡出土の男性1個体の高品質なゲノムデータを報告した査読前論文(Ishiya et al., 2024)とも大きく齟齬しない結果のようです。さらに、土井ヶ浜遺跡で発見された多数の人類遺骸の形態学的分析からも、D1604が土井ヶ浜遺跡の弥生時代人類集団において外れ値個体である可能性は低そうです。故に、すでに弥生時代中期の西日本においてアジア東部関連祖先系統をかなりの割合で有する人類集団が定着していた可能性はきわめて高そうという意味で、先行研究[25]で主張された三重構造説は支持されないことが示されたように思います。先行研究[25]でも、すでに弥生時代に古墳時代以降の人類集団と類似した遺伝的構成の集団の存在の可能性が指摘されており、その懸念が的中したわけです。
ただ、本論文でも改めて示されたように、D1604より新しく、地理的にも九州北西部と土井ヶ浜遺跡から比較的近い下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体で、D1604よりずっと高い割合の縄文人関連祖先系統が確認されたことは、弥生時代における日本列島の人類集団の遺伝的異質性の高さと、複雑な人口史を再び強く示唆しているように思います。弥生時代中期にはすでに現代日本人的な遺伝的構成の集団が日本列島本土に広く存在したわけではなく、日本列島本土現代人集団の形成過程はかなり複雑だった可能性が高そうです。じっさい、古墳時代にも、日本列島本土現代人集団よりもずっと高い割合の縄文人関連祖先系統を有する個体が確認されています(安達他.,2021)。現時点では思いつきにすぎませんが、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成の確立は、10世紀における多くの古代集落の消滅、その後の中世後期~近世にかけての「伝統社会」の成立まで見据える必要があるのではないか、と考えています。もちろん、近代や高度成長期における人口移動も無視できません。
本論文の見解をより深く理解するには、ユーラシア北東部の完新世の人口史を把握する必要があります。ユーラシア北東部の完新世人類集団の遺伝的構造は、ユーラシア西部現代人とアメリカ大陸先住民に大きな遺伝的影響を残した古代北ユーラシア人からの遺伝的寄与をひとまず考慮しないと、地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置します(Ning et al., 2020)。アムール川地域の完新世人類集団の遺伝的構成は比較的安定しているのに対して、西遼河地域の完新世人類集団の遺伝的構成は、アムール川地域関連祖先系統と黄河新石器時代関連祖先系統の割合が経時的に大きく変化します(Ning et al., 2020)。黄河地域完新世人類集団の遺伝的構成も経時的に変化しており、後期新石器時代には前期新石器時代華南集団関連祖先系統の割合が増加します(Ning et al., 2020)。分析対象集団やK(系統構成要素数)の異なるADMIXTUREの結果を安易に比較できませんが、本論文のアジア東部関連祖先系統とはおおむね、黄河新石器時代関連祖先系統を主体としつつ、前期新石器時代華南集団関連祖先系統が混合したもので、本論文のシベリア北東部関連祖先系統とは、おおむねアムール川地域関連祖先系統に相当する、と把握するのが妥当なように思います。
最近の研究(Zhu et al., 2024)で、西遼河地域南部の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、アムール川地域関連祖先系統が4割程度の個体群や、ほぼ完全にアムール川地域関連祖先系統でモデル化できる外れ値個体が確認されている一方で、雑穀農耕地帯の1個体のゲノムは、ほぼ完全に黄河地域後期新石器時代集団関連祖先系統でモデル化できる、と示されています。完新世の西遼河地域は、本論文で云うところのシベリア北東部関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統の交わる地域で、本論文によると、朝鮮半島も少なくとも中期新石器時代以降の人類集団は両祖先系統の交錯する地域で、三国時代の頃までは、これに縄文人関連祖先系統も加わっていたわけです。韓国の古代の個体でも、青銅器時代のTaejungni遺跡個体はほぼ完全にシベリア北東部関連祖先系統でモデル化されており、弥生時代の日本列島や青銅器時代までの西遼河地域と同様に、朝鮮半島でも少なくとも青銅器時代まで遺伝的異質性が高かったことを示唆しています。
ただ、こうした解釈には問題があります。それは、青銅器時代のTaejungni遺跡個体のゲノムデータの品質がひじょうに悪いことです[56]。これは、PCAでもADMIXTUREでも不正確な結果を招く危険性があります。同じことは、本論文で提示された宮古島の長墓遺跡個体群の解析結果にも当てはまります。長墓遺跡の2800年前頃の個体群は、ADMIXTUREほぼ完全に縄文人関連祖先系統で占められており、これは先行研究[57]と整合的です。しかし、4000年前頃の1個体(NAG016)は、PCAでは長墓遺跡の2800年前頃の個体群と明らかに離れて位置し、ADMIXTUREでは4割近くがシベリア北東部関連祖先系統で占められています。これは、宮古島の人口史における重要な手がかりとなるのかもしれませんが、先行研究(Jeong et al., 2023)で指摘されているように、NAG016の汚染が重度だったことと、その網羅率が低いことから、正確な遺伝的関係を反映していない、と考えるべきかもしれません。本論文で提示された日本列島と朝鮮半島の古代人のゲノムで高品質なのは北海道の北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃となる1個体(F23)だけでしょうから、日本列島や朝鮮半島やその周辺地域の高品質な古代人のゲノムデータを蓄積することで、これらの地域のより高精度な人口史を再構築できるようになるでしょう。
ゲノムデータの品質の問題とともに、本論文の 見解の一般層の受容においてもう一つ問題になるのは、古代人個体A(によって表される集団)と古代人個体B(によって表される集団)の遺伝的混合で現代人集団Cのゲノムがモデル化できるとしても、現代人集団Cの直接的な祖先が古代人個体Aによって表される集団と古代人個体Bによって表される集団と証明されたわけではない、ということです。本論文では、現代韓国人もしくは中期新石器時代の韓国_安島と遺伝的により近い人類集団が、弥生時代以降に日本列島に継続的(あるいは何度かの大きな移民の波があったのかもしれませんが)に到来した移民の祖先だった可能性を示唆します。ただ、これは現時点でゲノムが解析されているごく少数の古代人との比較からの推測です。朝鮮半島やその周辺地域においてゲノム解析された古代人の数はまだ限定的であることを考えると、弥生時代以降に日本列島に到来した現代日本人の主要な祖先集団はまだゲノム解析されていない可能性が高そうですし、そうした集団が中期新石器時代の時点ですでに朝鮮半島、さらには朝鮮半島南岸にまで達していたかはまだ不明で、当時は朝鮮半島以外の西遼河地域やその周辺地域に存在した可能性もじゅうぶんに考えられるでしょう。たとえば、そうした集団が西遼河地域やその周辺地域に存在し、現代韓国人の主要な祖先集団もその近くに存在して遺伝的に近縁だったならば、現代韓国人集団と縄文人集団で現代日本人集団をモデル化できることになりそうです。現代韓国人集団の主要な祖先集団が中期新石器時代からずっと朝鮮半島に存在したとは限らず、朝鮮半島でも新石器時代から三国時代にかけて、人類集団の遺伝的構成が大きく変容した可能性も、私は想定しています。
本論文は、現代本土日本人集団の遺伝的形成について、先行研究[25]の三重構造説に否定的な結果を提示し、上述のようにこの見解自体はおおむね妥当と思われます。ただ、これで二重構造説が復権したとは断定できず、日本列島やユーラシア東部大陸部の古代人の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、さらに細かい遺伝的区分が可能となり、三重構造説よりずっと複雑な日本列島の人口史が浮き彫りになるかもしれません。ただ、今後の現代本土日本人集団の遺伝的形成に関する研究がどう展開していくのか、現時点では想像が難しいところだとしても、縄文時代の日本列島の人類集団からの現代本土日本人集への遺伝的影響が、地域差はあれども10%前後でかなり小さい、との見解が大きく変わる可能性は低そうです。現代本土日本人集団の遺伝的形成について、述べ忘れていることがかなり多そうですが、気力が続かないので今回はここまでとします。
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html