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2022/06/23 (Thu) 02:09:09
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有権者たちは「勝ち馬に乗る」ことを最優先して投票行動を行っている
選挙と公約 - 内田樹の研究室
2022-06-19 dimanche
http://blog.tatsuru.com/2022/06/19_1311.html
これは『週刊金曜日』に6月8日に寄稿したもの。
為政者が明らかに自分たちに不利益をもたらす政策を実施している時に、それにもかかわらず、その為政者を支持する人たちがいる。彼らはいったい何を考えているのだろう。
多くの知識人や言論人はそういう人たちは「情報が不足している」のか「情報が歪められて伝えられている」ので、「啓蒙」努力によって政治的態度を改善することができるというふう考えている。だが、ほんとうにそうなのだろうか。私は最近だんだん懐疑的になってきている。
自分たちを苦しめる政党を支持している人たちは、その事実をたぶん(ぼんやりとではあれ)理解しているのだという気がする。どういう政策が自分たちに利益をもたらし、どういう政策が不利益をもたらすことになるかくらいのことはわかるはずである。外交や安全保障や経済政策については適否の判断が下せないにしても、賃金や税金や社会保障や教育費のことなら自分にとって何が有利かくらいはわかるはずである。それがわかった上で、自分たちをさらに苦しめる政党に投票している。そのような倒錯が国民的規模に行われていると考えないと現代日本の、あるいはロシアや中国の政治状況は説明が難しい。
『撤退論』という本を一緒に書いた政治学者の白井聡さんは、その論考の中でアメリカのダートマス大学のチームが行った日本における政党支持と政策支持の「齟齬」についての研究を紹介してくれた。直近の衆院選の選挙結果分析なのだが、それによると自民党が圧勝したこの選挙で、自民党の政策は他党に比べて高い支持を得ていない。政策別の支持を見ると、自民党は原発・エネルギー政策では最下位、経済政策とジェンダー政策はワースト2、コロナ対策と外交安保で僅差で首位。
では、なぜ政策が支持されていないにもかかわらず、自民党は勝ち続けるのか。そこで研究チームは政党名を示さないで政策の良否を判断してもらった場合と、政党名を示した場合を比較したのである。驚くべき結果が示された。自民党以外の政党の政策であっても、「自民党の政策」だというラベルを貼ると支持率が跳ね上がるのである。日米安保廃棄をめざす共産党の外交安保政策は非常に支持率が低いが、これも「自民党の政策」として提示されると一気に肯定的に評価される。つまり、有権者はどの政党がどういう政策を掲げているかを投票行動の基準にしているのではなく、「どの政党が権力の座にあるのか」を基準にして投票行動をしているのである。
これは「最も多くの得票を集めた政党の政策を正しいとみなす」というルールをすでに多くの有権者たちが深く内面化していることを示している。有権者たちは自分に利益をもたらす政策ではなく、「正しい政策」の支持者でありたいのである。だから、政策の適否とはかかわりなく「どこの政党が勝ちそうか?」が最優先の関心事になる。その政党に投票していれば、彼らは「正しい政治的選択をした」と自分を納得させられる。
選挙における政党の得票の多寡と、政党が掲げる公約の適否の間には相関がない。考えれば当たり前のことである。歴史を徴すれば、圧倒的な支持を得た政党が国を亡ぼし、正しい政策を掲げていた政党が一顧だにされずに消えた...というような事例は枚挙にいとまがない。
だが、いまの日本の有権者の多くは得票数と政策の正否の間には相関があると信じている。「選挙に勝った政党は『正しい政策』を掲げたから勝ったのであり、負けた政党は『間違った政策』を掲げたから負けた」という命題がまかり通っている。現に、政治家たちだけでなく、評論家たちも、ジャーナリストも口を揃えてこの嘘を飽きずに繰り返している。野党指導者までもが「選挙に負けたのは政策が間違っていたからだ」と思い込んで、勝った政党に政策的にすり寄ろうとする。残念ながら、諸君が選挙に負けたのは政策が不適切だったからではない。「選挙に勝てそうもなかったから」負けたのである。
しつこくもう一度繰り返すが、選挙に勝った政党は政策が正しいから勝ったのではない。「勝ちそうな政党」だったから勝ったのである。選挙に負けた政党は政策が間違っていたから負けたのではない。「負けそう」だから負けたのである。
有権者たちは「勝ち馬に乗る」ことを最優先して投票行動を行っている。その「馬」がいったいどこに国民を連れてゆくことになるのかには彼らはあまり興味がない。自分が投票した政党が勝って、政権の座を占めると、投票した人々はまるで自分がこの国の支配者であるような気分になれる。実際には支配され、管理され、収奪されている側にいるのだが、想像的には「支配し、管理し、収奪している側」に身を置いている。その幻想的な多幸感と全能感を求めて、人々は「権力者にすり寄る」のである。
次の参院選では誰もが「野党はぼろ負けする」と予測している。だから、たぶん野党はぼろ負けするだろうと私も思う。みんながそう予測しているからである。「負けそうな政党」があらかじめ開示されている時に「勝ち馬に乗る」ことを投票行動の基準とする有権者が「負けそうな政党」に投票するということは原理的にあり得ない。
2009年に政権交代があったのは「民主党が勝ちそう」だとメディアが囃し立てたからである。だから、民主党の政策をよく知らない有権者たちもが「勝ちそうな政党に投票する」という、それまで自民党に入れてきたのと同じ理由で民主党に投票したのである。それだけの話である。逆に、2012年の選挙の時は「民主党は負けそうだ」とメディアが揃って予測したので、有権者は「負けそうな政党」に自分の一票を入れることを回避したのである。
大阪都構想が住民投票で僅差で退けられた時、当時の橋下徹大阪市長が記者会見で敗因を問われたときに「都構想が間違っていたからでしょう」と述べたことがあった。聴いて驚嘆した。投票結果はそこで問われた政策の適否とは関係がない。正しい政策が否決され、間違った政策が採択されるということはいくらでもある。政策そのものの適否と採否の投票結果は無関係である。それはただ「有権者の過半がその政策の実施を望まなかった」という以上の意味を持たない。にもかかわらず橋下市長は自分が推進してきた政策を「間違っていたから否決された」と総括した。これはきわめて危険な言明だと私は思った。それは逆から言えば「正しい政策を掲げた政党は選挙に勝つ」という偽命題に正当性を与えることになるからである。「政権党は正しい政策を掲げたせいでその座にある」という偽命題に正当性を与えることになるからである。それを認めてしまったら、もう私たちは権力者に抵抗する論理的根拠を失ってしまう。だから、「正しい」というのは選挙については使ってはならない形容詞なのである。選挙というのは、勝った政党の掲げた政策の方が優先的に実施される可能性が高いというただ、それだけのものである。それ以上の意味を選挙に与えてはならない。
「正しい政策を選べ」と求められていると思うからそれが分からない有権者は棄権する。だから、これほど棄権率が高いのである。有権者は「正しい」ことを求められていない。「自分が暮らしやすい社会」を想像することを求められているのである。それほど難しい仕事だろうか。
http://blog.tatsuru.com/2022/06/19_1311.html
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2022/06/23 (Thu) 02:11:55
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内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/
内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html
内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html
比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html
民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/971.html
内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/647.html
内田樹 事大主義 権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1024.html
内田樹 パンデミックをめぐるインタビュー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/982.html
内田樹 聖者とは何も考えないアホの事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/980.html
「恥の文化」の力
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/778.html
格差について - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1133.html
国民国家 対 グローバル資本主義
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1326.html
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2022/06/23 (Thu) 02:37:54
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小泉純一郎_その人気の秘密
ある地方の小選挙区でコイズミが選挙カーに登って郵政改革を叫び始めるや、つめかけた聴衆(多くは中年女性)は涎を流さんばかりに口をあけて
「ジュンチャーン」。
そしてケータイの写真。きっとメールで「撮ったわよ」と自慢したでしょう。
そのアホぶりに私は絶望しました。しかし終わると潮が引くようにほとんどいなくなった、とある新聞にはそう書いてありました。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02179.HTML
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「自民圧勝を支えたのは都市部の働く女性」-。
労働団体・連合の関連研究所、連合総研は10日、首都圏、関西圏の会社員の男女を対象にしたアンケートから、そんな分析結果を明らかにした。
労組に加入している男女とも自民党に投票した人が多かった。従来民主党が都市部の会社員を中心にした無党派層の票を獲得してきただけに、民主党を中心に支援する連合にとってもショックな結果。
アンケート結果によると、女性は20-50代の各年代で40%以上が自民に投票。民主は最大で50代の29・8%にとどまった。男性は30代だけが自民支持40・7%と民主を上回り、ほかの世代では民主支持が多かった。
労組加入者の男女は42・1%が自民で、民主は32・5%だった。
女性セブン4/19号より、
「首相にしたい政治家No1」の素顔に大接近!
「『愛しの小泉純一郎さま(59)』ってこんな人」
そして小泉の写真の横に、小さい活字で
「林真理子さんの『抱かれたい男リスト』にも入った」
小泉純一郎さんのこと
『サラダ記念日』を読んで、短歌を作るようになったという小泉純一郎さん。
初めてお会いしたときにも、たくさんの自作の短歌を見せてくださいました。小泉さんの、簡潔でインパクトのある言葉は、短歌というトレーニングによるところが大きいのかもしれません。
そのころは、もちろん総理大臣ではありませんでしたので、対談場所のホテルに、ふらっと一人で来られたのが印象的でした。ほんとうに気さくな方で、話もはずみ、私は調子にのって、小泉さんの短歌を添削しちゃったりもしました。
『チョコレート革命』のほうも、すごく読み込んでこられ、「これは、いろっぽい歌だよなあ」なんて、的確に評されるのです。
私のまわりにも小泉ファンは大変多く、作家の林真理子さんや柳美里さんなども、めろめろのようです。
文学だけでなく、オペラや歌舞伎などにも造詣が深い小泉さん。こういう政治家が、もう少し増えてくれるとうれしいですね。
彼が総理になってから、私もにわかに政治に興味を持つようになり、国会中継や、新聞の政治面などを、熱心に見るようになりました。道路特定財源とか、特殊法人のこととか、今まで知らなかった問題を、小泉さんの指摘によって、考えることができるようになりました。こういう人、すごく多いんじゃないでしょうか。
これまで、積極的に政治家の応援というのはしたことがありませんでしたが、今回の参院選の政見放送で、小泉さんの聞き役というのを、依頼されました。これまでのご縁もあることですし、今小泉さんに会って、お話を聞けるなんて、なかなかないチャンスだと思い、お引き受けしました。
意外だったのは、質問はすべて私が考えていいということです。これまでは、事務方の人が、綿密な原稿を書いていたそうですが、「そういうのを読んでくれる人じゃないので」とのこと。
当日も簡単な打合せだけで、しかもリハーサルはナシ。
これも小泉さんの、「練習なんかすると、新鮮味がなくなるよ」という一言で、そうなりました。
収録には50人もの人が立ち会い、さすが総理大臣! という雰囲気でした。でも小泉さんが、あいかわらず気さくな態度で接してくださったので、私もそれほど緊張はしませんでした。本番直前に「自民党がいいねと君が言ったから29日は投票に行こう」という歌を思いついて、ゴキゲンの小泉さんでした。健康に気をつけて、がんばっていただきたいですね。
http://www.gtpweb.net/twr/mguest31.html
初対面の人と話をしたりした時に、フと、「あれっ?この人は文章を書いたりする人だな?」と判ることもあります。商売になるかならないかは別として、読者を意識した文章を書く人は、視点なり、表現なりがちょっと違っていたりするもの。
先の総選挙での小泉さんの演説をニュースで見ましたが、あの演説は読者を意識した文章を書ける人の言葉。読者を意識するとなると、流れの中の「緩急」というものが重要になるわけ。ダラーと一本調子だと読んでいてもツマンナイわけです。たとえその文章に内容があったとしてもね。
だから緊張と弛緩を組み合わせて、流れを「作って」いくわけ。
緊張といっても、大声を上げて緊張させるというものではなく、たとえば疑問を提示するとかするわけ。
疑問を提示されると、受け手は考えることになる。だからある種の緊張状態になるわけ。そのような疑問を続けざまに提示すると、受け手は非常に緊張することになる。その時に「これだ!」と回答を出すわけ。「疑問符」「疑問符」「疑問符」そして「感嘆符!!」と流れを作ると、受け手は緊張から劇的に開放され「カタルシス」を味わうことができるわけ。
いきなり感嘆符を連発すると、受けては強圧的に感じてしまう。疑問符の後に感嘆符だから効果があるわけです。いうまでもなく、このように緊張からカタルシスへの流れを作っていくのはオペラでは常套手段。
オペラの台本は、あまり内容を膨らませすぎず、表現のスタイルの変化で、流れを作っていきます。小泉さんの演説は、オペラの台本とすれば極めて優秀なものと言えるでしょう。
ちなみに、小泉さんの演説を「疑問形」や「感嘆符」なしに、つまり単純な句読点のみの教科書的な文章に書き換えると、何も面白くはない。まあ、オペラの台本を文学的に云々してもしょうがないようなもの。
小泉さんの演説の草稿は、小泉さん自身が書いているそうですが、あれだけの文章は、おいそれと書けるものではありませんよ。
また、「総選挙で大勝利したから小泉首相は続投だ!」と言っている人がいますが、そんな理屈はまさに凡人の論理。「総選挙で大勝利したからこそ、任期いっぱいで辞める。」と考えるのが変人の論理。言葉が読める人は、それくらいはわかるものなんですね。
http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/05-09/05-09-14.htm
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小泉さんは、呆れるほど、オペラの技法を有効に使っているんですね。
オペラというものは、何百年に渡って積み重ねられてきた、観客に「ウケル」技法の集大成みたいなもの。観客の心をつかむテクニックがテンコ盛りなんですね。
そのような古人の知恵は有効に活用すればいいでしょ?
自民党と民主党なんて、政策自体には大差はありませんが、結果的には大差がついたでしょ?それはまさに「ウケル」テクニックを駆使したhowの勝利と言えるわけです。
では、具体的に見てみましょう。
1. つかみ・・・ダチョウ倶楽部というコメディアンが「つかみはOK!」とかギャグで言っていたそうですが、ある時点で、観客の注意をつかまないと、ダラダラと流れてしまう。やがては観客の注意が切れてしまう。だから往々にして、最初の頃に「つかみ」のセリフで、注意を勝ち取るわけ。
しかし、この「つかみ」も、その状況によって使い分けをする必要があります。書き物のようなものと、ライブパフォーマンスのようなものでは違うわけ。書き物のようなものなら、本当に冒頭に「つかみ」を持っていくことが可能ですが、ライブパフォーマンスで冒頭に「つかみ」を持っていくわけにはいかない。だって、まだ会場に来ていない客もいるわけですし、座席に座ったばかりですと、観客もまだソワソワしていたりするもの。つかみそこなうと、まさに「すべる」ことになる。ということで、オペラにおいては、まず序曲のようなもので、観客の心を落ち着かせ、その後に、「ど派手」なシーンでつかみを行うものなんですね。
たとえば、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」というオペラでは序曲の後、幕が上がると、いきなりレイプと殺人のシーンになります。あるいは、多くのイタリアオペラでは、序曲があって、その後幕が上がるとすぐに「ど派手」な合唱曲やアリアが歌われたりするわけ。序曲なしにいきなり「つかみ」を行うためには、観客がかなり早くから座席に座っていることが前提になる。だからリスクが大きい。まずは、観客の気持ちを落ち着かせ、その後に「つかみ」・・・これが多くのオペラの流れ。序曲なしにいきなり派手な合唱曲をぶつけるオペラもあったりします。たとえばプッチーニの「トゥーランドット」などもそのパターン。しかし、そのような場合では、その派手な合唱曲はストーリーには関係ないものにするわけ。冒頭は聞き漏らしてもいい。それがライブパフォーマンスでのつかみの鉄則。
小泉さんの選挙演説では、まずはご当地ネタをやったそうですが、それはオペラでいうと序曲にあたるわけです。まずは聴衆の気持ちを落ち着かせる意味があるわけ。そうやって落ち着かせておいて、その後の「つかみ」を確実なものにするわけです。
2. 緩急・・・この緩急の技法については、先日の後記で触れました。観客を緊張状態にして、そこから開放させると、劇的なカタルシスがもたらされるもの。観客に疑問を投げかける形で緊張させ、その後で解答を出すことによって、緊張から弛緩への流れを作ることができるわけです。オペラの進め方では常套手段です。
3. じらし効果・・・主人公を早めに出して、その主人公を中心にオペラを進めるのは、一般的なオペラですが、凝ったオペラだと主人公が中々出て来ない作品もあります。たとえば上記のプッチーニの最後の作品である「トゥーランドット」では、主役のお姫様のトゥーランドットは前半はほとんど出てこないし、全然歌わない。チラっと顔を見せるだけ。むしろ周囲の人間が「トゥーランドット姫は絶世の美人だ!」とか「トゥーランドット姫は冷酷な人だ!」と、トゥーランドットについて散々と語るわけ。語られるのに、出てこないので、観客は「早く出て来て歌ってよ!」と思うことになります。
そうやって観客を散々じらした状態においてから、満を持して登場させると、観客は「やったー!」と思いますよね?周囲の人が語るほど、観客の期待は高まるものでしょ?今回の選挙では亀井さんが小泉さんの悪口を散々言いましたよね?「小泉さんは冷酷な人だ!」とか・・・しかし、その言葉により、観客は「じゃあ、実際の小泉さんを見てみたい!」と思うわけ。亀井さんの言葉は小泉さんの登場を引き立てる見事な役割を果たしたわけです。これってオペラにおいては端役の道化の重要な役回りなんですね。今回の選挙キャンペーンでは小泉首相の露出を公示前にはできる限り限定したそうですが、これにより、観客にじらし状態を生み出し、主役の登場にインパクトを与えたわけです。
4. 極端で単純な対比・・・この選挙では「郵政改革に是が非か?」とテーマを単純化しましたよね?このような単純な対比はオペラでは必ず行うことです。だって短時間な舞台上演に小難しい議論はできないでしょ?テーマをわかりやすく絞る必要があるわけ。オペラだったら往々にして「愛に生きるか?それとも死んでしまうか?」そんなもの。極端で単純な対比なので、観客の注意は持続するわけです。
前記の「トゥーランドット」という作品でも、「お姫様を勝ち取るか?それとも処刑されるか?」という、生きるか死ぬかの極端な対比です。「百万円勝ち取るか?罰金10万円支払うか?」という対比だったら、観客はノレないでしょ?極端で単純な対比だから、観客は手に汗を握るわけ。小泉首相はあえて「過半数取れなかったら辞職」という危機的状況を作り出すことによって、単純で極端な対比を自ら演出したわけです。
5. 周囲の反対・・・今回の解散は小泉首相の周囲は反対しましたよね?それこそ森前首相などが反対しました。しかし、この反対が今回の自民党の大勝利につながったわけ。だって考えてごらんなさいな。森前首相が「解散やっちゃえ!」などと小泉首相を応援したら、国民の支持はこんなに小泉首相に集まったでしょうか?
周囲の端役の反対があるからこそ、主役の決意の固さが強調される・・・オペラでは常套手段です。それこそオペラ「トゥーランドット」でも第1幕のラストでは、カラフという王子が周囲からの「オイオイ、自分の命を大切にしなよ!」という暖かい助言を振り切って、「姫を得るためには死をもいとわない!私に試練を与えよ!」と大見得を切って幕が降りる。
これが周囲の人がカラフを応援したら、そんなドラマティックなシーンにはならないわけ。周囲の反対を振り切って、「愛か、死か」の場面に突入して行くからこそ、観客が盛り上がるわけです。それに周囲の反対があれば、観客はこう思うもの。「周囲の人はアナタの決意の意味がわからない。しかし、ワタシはアナタの決意を応援しているぞ!」
ちなみに「姫を得るためには死をもいとわない!私に試練を与えよ!」なんて解散前後の小泉首相の立場そのものでしょ?当然のことのように怒涛の拍手が来ますよ。だって劇場で最も見栄のある瞬間なんですからね。トゥーランドットの第1幕の後に万雷の拍手とブラボーの声が上がるのと同じ。
6. 決めポーズ・・・選挙演説なんだから気合を入れてやっているでしょう。だから言葉だって「強い」言葉を使うことになる。しかし、そのような強い言葉をどのようなポーズでやっているか?ということも大変に重要なんですね。まあ、選挙演説だったら拳を握りしめたポーズというスタイルが一般的でしょう。重要なことはそれが言葉とちゃんとリンクしているのか?ということ。
強い言葉と、強いポーズがリンクすることによって、強い決意を示すことができ、観客に強いインパクトを与えることができるわけ。決めセリフと決めポーズはリンクしているものなんですね。オペラだと男性だったら剣を高々と上げ、「さあ!やるぞ!」と言った決めポーズはおなじみです。女性だったら、ひざまずいたポーズで「どうかお願い!」とか・・・
言葉だけが会話の手段ではないわけ。決めセリフと決めポーズが生み出す劇的効果なんて、オペラだけでなく、それこそ「セーラームーン」のようなアニメでもあるでしょ?というか、「セーラームーン」を見たことがありますが、あの作品もオペラとかミュージカルが好きな人間が作っているのは明白な作品。今回の自民党の大勝利と、「セーラームーン」の高視聴率って、オペラティックな手法の効果的利用の結果という点では同じなんですね。
小泉さんは決めポーズも決まっているけど、民主党の岡田さんの決めポーズって思い浮かばない。この差って大きいわけ。それだけ観客へのインパクトが少ないということなんですね。ちゃんと決めセリフや決めポーズをやることを前提にして、演説を組みたてる必要があるわけ。だから、これは緩急の問題もあるわけ。決めポーズが決まるということは、それだけ話に緩急があるということです。勿論、もともとの芝居っ気の問題もありますが。
7. 多彩な女性キャラ・・・オペラを見ていて、登場人物が男性ばかりだったら、やっぱりつまらない。やっぱりキャラが立った女性が出てこないとつまらないわけ。民主党は女性議員はいても女性キャラとは言えない。それに対し、今回の自民党ではキャラが立った女性が登場していました。
ちなみに、オペラ「トゥーランドット」では、「愛を拒むお姫様のトゥーランドット」と、「愛に殉じるはかなげな女奴隷リュー」という2人の女性キャラが対比され、オペラの中心テーマである『愛』を鮮やかに浮かび上がらせているわけです。
ちなみに、プッチーニは上記のように「愛を拒む権力者の女性と、愛に殉じるはかなげキャラの対比によって、テーマである愛を鮮やかに浮かび上がらせた」わけですが、この文章の「愛」という言葉を「改革」という言葉に変えてみましょう。まあ、岐阜の選挙での佐藤ゆかりさんは女奴隷ではありませんが、どっちかというと「はかなげ」キャラでしょ?
大体が落下傘候補なんだから、例えば静岡で出馬した財務省出身の女性候補を岐阜にぶつけてもよかったわけでしょ?しかし、大臣経験者に対し一介の民間のエコノミストが立ち向かうという構図により、「一途さ」が出てくるわけ。大臣経験者と財務省出身者の戦いでは「一途さ」は出てこないでしょ?一途なキャラというものは、観客の心をつかむ重要な要素。オペラでは常に人気キャラなんですね。
8. キャスティング・・・登場人物と役の割り振りも重要。それこそオペラでも太った女性歌手を結核病の役にキャスティングするわけには行かないでしょ?それぞれ、役にあった人物を当てる必要があるわけ。たとえば、広島で出馬したホリエモンを、岐阜の野田聖子さんにぶつけることだって可能でしょ?どうせ落下傘候補なんだから。しかし、そうなると、女性に対し男性の刺客を送ったことになり、印象が悪くなる。
相手が女性であれば、より「か弱い」女性を刺客に送る。重厚なオヤジに対しては、若造を刺客に送る。これによって、保守的な世界に、「下から」立ち向かうという構図が出来上がりますよね?そのような構図を各地で作り上げることによって、小泉さん自身が「下から」立ち向かう人間のように印象付けられるわけ。
本来なら総理大臣なんだから最高権力者でしょ?しかし、刺客の人選とキャスティングを的確に行うことによって、小泉さん自身が最高権力者であることを忘れ去られてしまうわけ。もし、女性や若い反対派に対しオヤジ系の刺客を送ったら、国民の共感は得られなかったでしょう。そのあたりもヘマをしない。見事なキャスティングですね。
9. 舞台の位置・・・オペラなどで舞台でドラマを進めるにあたって、「舞台上のどの場所でやるか?」ということも当然のことながら重要な問題です。重要なシーンを観客に見えない位置でコソコソとやっても、無意味でしょ?劇場だと座席によっては、舞台の端が見えなかったりします。やっぱり重要なシーンは観客のみんなが見える位置でやらないとダメですよね?
今回話題になった岐阜は、かつて戦国大名が「美濃(=岐阜県)を制するものが天下を制する。」と言ったそうです。まあ、織田信長が居城をおきました。それだけ交通の要所だったわけ。昔だけでなく、今だって交通は便利です。東京から行くにも、名古屋から行くにも、大阪から行くにも行きやすい。つまり報道陣が取材しやすい位置にある。報道を通じて、観客に見せることが容易であるわけ。
これが別の反対派の大物である綿貫氏が立候補した富山県だったら、ちょっと行きにくい。つまり報道されにくいわけ。おまけに女性候補同士の対決となった岐阜と、財務省出身の女性候補が立候補した浜松(こちらは徳川家康の居城があったところ)は距離も近い。取材クルーが一日目に岐阜で取材、次の日には浜松で取材というスケジュールを組むのが容易であるわけ。それだけ取材してもらえる可能性が高くなる。だから観客に注目されやすいわけ。話題になった・・・のではなく、話題に仕立て上げたわけです。オペラでいうと、舞台中央でスポットライトを当てたわけです。
今回の選挙については、多くの人が様々な分析をされるでしょう。
私は政策(=what)の問題は度外視して、純粋にhowの観点から、分析してみました。
小泉首相が無類のオペラ好きであることが、本当によくわかるでしょ?単にオペラが好きでCDやヴィデオでよく聞いているというだけでなく、舞台でのオペラ公演を相当聞いていないとできない芸当ですね。
まあ、これだけのことはやっぱり天性の芝居っ気がないと無理。芝居っ気がある人は、ピーンと来るものなんですね。
しかし、このようなことは一般的なプレゼンテーションなどにも使えるわけです。「つかみ」とか「緩急」などは必須の技法。それこそ、就職試験での採用面接の場面だって必要になります。面接官の質問に丁寧に答えるだけではダメ。面接官の質問から強引にでも、「つかみ」の言葉を切り出し、自分の主導権の元に緩急を考えながらプレゼンテーションを行うくらいでないと、面接官にインパクトを与えられないものなんですね。
実際に、小泉首相と民主党の岡田さんの間には、言葉の内容そのものには大差がありません。どう表現するか?によって、これだけ結果的に大差がつく・・・このことはどんな分野でも当てはまることです。勿論、家庭という場だってネ。
本文中で散々と引用したプッチーニの最後のオペラの「トゥーランドット」ですが、エンディングはこんな感じ。
『愛を拒んでいたトゥーランドット姫が、異国の王子カラフの熱い口付けによって、彼の心からの愛を理解し、その愛を涙を流しながら受け入れ、2人は手に手をとって幕となるわけ。』
反対派の野田聖子さんが小泉首相の口付け・・・は、ないでしょうが、ともかく小泉首相の言葉を涙を流しながら受け入れる。そして2人が手に手を取ってフィナーレ・・・なんてなったらとんでもなく劇的でしょ?
野田さんも泣くなら今のうち。その効果を誰よりもわかっている小泉さんなんだから、泣いて「彼の名は改革です!」なんて言えば、除名なんてなりませんよ。むしろ彼女の将来が開けるというもの。
http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/05-09/05-09-19.htm
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小泉純一郎さん流の「クラシック音楽への親しみ方」
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/dd1919981db69723bd0881a80323bb61
ずっと以前の元総理・福田康夫〔自民党)さんはベルリオーズの「幻想交響曲」が好みで自宅にはタンノイの高級スピーカーが設置されているという話を漏れ聞く。ヤナーチェクの音楽もお好きというから相当の通である。
それにしてもクラシック好きの総理というのはかなり珍しい。先般亡くなられた中曽根さんは「サミットでクラシックの話題に入れる」と自負されていたようだが、今回、ほぼ決定的ともいえる「菅」さんはどうなんだろう。たいへんな苦学をされた「叩き上げ」の経歴に大いに敬意を表するが、クラシックに親しむ悠長な時間の余裕があったかな。
そういえば、元総理の小泉純一郎さんはたいへんな音楽好きで、郵政大臣在任中に民間のFM局を数多く認可したことでも知られている。
それでも、どの程度お好きかは知る由もなかったが、同氏の著作「音楽遍歴」(日本経済新聞社刊)を見かけたのでざっと目を通してみた。
ところが、あにはからんや相当の通で、ほとほと恐れ入ってしまった。
また、本書は「音楽遍歴」と銘打ってはいるが、むしろ自分の音楽体験をもとにして一般の人がクラシックに親しむためのノウハウを主眼として書かれた趣がある。
いわば「これからクラシックに親しもうという人やもっと深くのめり込みたい人」に向けて書かれた指南書みたいなもので、随所にそういった表現もあり、それもかなり具体的に書かれていて随分参考になること請け合い。
以下、「小泉さん流のクラシック音楽に親しむためのノウハウ」をいくつかポイントをしぼってピックアップしてみた。
☆ 人生と切り離せないほどの音楽大好き人間と自負している。12歳のときからヴァイオリンを始め、クラシック音楽とは優に半世紀以上の付き合い。
☆ ヴァイオリン協奏曲から音楽の道に入った。バッハ、ブラームス、パガニーニ、モーツァルト、シベリウス、エルガーなどが好きになった。特にエルガーは全作品が大好き。
☆ クラシックはポピュラー音楽や演歌とは違って最初に聴いて「即いい」というのはそれほどない。何回も聴かないと良さが分からない。たった一小節でも良くなってきた後、何回も聴くと、全部良くなってしまう。ブラームス(ヴァイオリン協奏曲)がそうだった。
☆ 音楽の聴きかたはBGMから入っている。ご飯を食べているときでも新聞を読んでいるときでも知らない曲を四六時中流している。そして、これいいなと思ったら本格的に腰をすえて聴く。
☆ マーラーとブルックナー、彼らの良さが分かったのは40歳過ぎてから。ある日のことクルマに乗ってFMラジオをかけてもらい「これ何だ」と訊くと「マーラーの何番です」「ブルックナーの何番です」となった。
いいと思った曲名はすぐメモをしてレコード店に買いに行く。最初は特定の部分しか良さが分からなかったが、段々聴くうちに全部がいいと思えるようになった。
☆ オーディオ装置には全然こだわらない。生演奏に勝るものはないから。部屋全体の音響効果を考える人もいるけど私は普通でいいと思う。(そうかな?笑)
☆ 大好きなオペラとの出会いはNHKのテレビ放映でジョルダーニ作曲の「アンドレア・シェニエ」だった。メロディーの美しさ、詞の素晴らしさに感動した。
またテノール歌手のマリオ・デル・モナコの人間業とは思えない美声にびっくり。こういう歌手は50年、100年に1人だろう。いまだにデル・モナコ級は出ていない。
☆ 大人の初心者向けのオペラを紹介する。
ヴェルディ 「椿姫」「イル・トロヴァトーレ」「アイーダ」
プッチーニ 「ラ・ボエーム」「トゥーランドット」
ワーグナー 「ローエングリン」「タンホイザー」
モーツァルト 「魔笛」
「椿姫」「イル・トロヴァトーレ」「アンドレア・シェニエ」「トゥーランドット」の四作品を観てオペラの良さがわからない、あるいは感動しないという人はもうオペラを観なくていい。
以上、ほんのさわりの部分の抜粋だがプロの音楽家を目指すのならいざ知らず、趣味としてクラシックを楽しむのであればこうした小泉さん流のアプローチは「大いにあり」ではないかと思えてきた。
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あたしは、ずっと前から思ってたんだけど、小沢一郎って、自分の言葉で話さない。どんな時でも、原稿を棒読みするだけだ。それも、小学生が作文を読んでるみたいな調子で、読み方に抑揚がないから感情が伝わって来ない。実際には熱意を持ってたとしても、それが聴衆には伝わって来ないのだ。
昨日の日曜日、民主党は、都内のホテルで臨時党大会をひらいて、小沢一郎が3期目の所信表明演説をした。演説の内容は、「この一戦に政治生命を懸ける。精神的にも肉体的にも最後の一戦だ」「今こそ日本を変える時だ。日本を変えるラストチャンスと言っても過言でない」って、なかなか気合いの入ったことを言ってたけど、それが、1~2秒おきに手元の原稿に目を落として、ほとんど前を向かずに、抑揚のない棒読みを続けてるだけだったから、いつもとおんなじに熱意が伝わって来なかった。
たとえば、「この一戦に政治生命を懸ける。精神的にも肉体的にも最後の一戦だ」っていう、わずか10秒にも満たないこれっぽっちの言葉でも、この間に4~5回も原稿に目を落とした挙句、言い終わってからもずっと下を向いてる始末。これくらいのセリフ、どうして暗記して正面を向いて言えないのか。これは、リーダーを目指す者として、激しくマイナスだ。
逆に言えば、どんなに最悪な人間でも、演説さえうまければ選挙に勝てるってことだ。コイズミが演説する時は、どんな時でも原稿なんか読まなかった。顔を上げたまま、単純明快なフレーズを繰り返すだけだった。コイズミは、どんなにトンチンカンなことでも、正面を向いて自分の言葉として叫び続けたから、バカな国民たちは、コイズミのしゃべってる内容じゃなくて、その勇猛果敢な姿にこそ、リーダーとしての資質を感じて、ウッカリと支持しちゃったのだ。だからこそ、国の宝であるお年寄りたちを切り捨てる「うば捨て山制度」を作った元凶だってのに、未だにコイズミなんかを支持してるオッペケペーもいるほどなのだ。
‥‥そんなワケで、今は、このニポンが、かつて経験したこともないほどの経済的危機に立たされてる。それはもちろん、あたしたち国民が、コイズミっていう間違ったリーダーを選択したことによる、虚構の「いざなみ景気」の返り血を浴び始めたからだ。経済だけじゃなくて、食の安全の崩壊による日常的な不安から、年金制度の崩壊による老後の不安まで、すべてコイズミ改革の負の遺産によって、あたしたちの生活は根本的な部分から崩れ始めてる。この国の将来を担うハズの若者たちは、ワーキングプアにあえいで夢も希望も失い、時代に逆行した原発の乱立で、ニポン列島自体が、常にチェルノブイリの二の舞になる危険と隣り合わせの状態だ。
こんな時、大衆が求めるのは、強いリーダーシップだ。どんなにトンチンカンなことでもいいから、原稿など読まずに、前を向いて自分の言葉を発信し続ける者にこそ、「この人なら何とかしてくれるかもしれない」って期待するのだ。逆に言えば、原稿を読まなくちゃ自分の考えすら伝えられない者など、自分の考えを持ってないのも同然だと見るのが、政治家に対する国民てもんだ。だから、小沢一郎が、本気で政権交代を目指してるんなら、金輪際、原稿を棒読みするのはやめるべきだ。今、この国の大衆が求めてるのは、原稿を棒読みして素晴らしい政策を語るリーダーじゃなくて、支離滅裂なことを連呼しても、前を向いて自分の言葉を発信するリーダーだからだ。
コイズミと竹中へーゾーの売国奴コンビが、ニポン人の財産をアメリカへ献上するために計画した「郵政民営化」にしたって、あの政策の内容を正確に把握してた国民がどれだけいるのかって言えば、ほとんどいないだろう。原稿など読まずに、前を向いて自分の言葉で「改革だ!」「改革だ!」って連呼し続けたコイズミの姿を見て、「この人の言うことなら間違いないだろう」「郵政民営化が何なのかよく分からないけど、コイズミさんがここまで言うんだから、きっといいことなんだろう」って思って支持した有権者がほとんどなのだ。
その証拠に、コイズミは、「民営化することによって既得権益の仕組みを変える」とか偉そうなことをノタマッてたけど、いざ、民営化されてみたら、数多くの郵政省の人間たちが新設された関連企業に天下りしちゃって、何ひとつ変わらなかったじゃん。それなのに、当時、コイズミを支持した人たちって、誰も文句を言ってない。これこそが、ぺテン師のペテン師たるユエンてヤツで、騙されたほうが騙されたことにも気づかないってワケだ。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2008/09/post-6fca.html
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「小泉首相にワン・フレーズ・ポリティックスをアドバイスしたのは電通と聞いています」
広告業界関係者はさらりと言って、こう続けた。
「小泉政権が誕生した二〇〇一年に、小泉さんと電通卜ップとの一席が設けられ、そこで電通卜ップが広告業界の話をしたというのです。
クライアント(顧客)は一五秒のコマーシャルの中でいろいろなことを言いたがるが、
『ワン・コマーシャルでワン・メッセージでないと伝わらない』
と言っている、という内容で、これを聞いて小泉さんは、多言を弄するのではなく、ワン・メッセージで端的に言う大切さを悟ったというわけです」
「改革」を旗印にスタートした小泉政権は、
「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」などのキャッチフレーズを連発、驚異的な支持率を記録した。
自民党内にプリクラが置かれ、携帯電話ストラップまで販売された。そんな小泉人気の原動力になったワン・フレーズ・ポリティックスは、電通トップの助言がきっかけというのだ。
政治評論家の森田実は『月刊日本』(○三年一一月号)でこう指摘した。
「小泉氏は、実は二年前の春の自民党総裁選で、某広告会社にプロジェクトチームを作り、総裁選戦略を研究させた。
彼らは米国型のメディア活用方法を取り入れた。
広告会社から提案されたのが、例の
『自民党を変えます』
『日本を変えます』
『構造改革なくして景気回復なし』
という、すべて十五秒以内のスローガンの羅列――つまり、ワン・フレーズ・ポリティックスの手法だ。
この『ワン・フレーズ・ポリティックス』の手法は、商品を売る広告テクニックを政治の世界に利用したということだ」
森田の指摘と業界関係者の話は、ぴたりと重なる。
また民主党の中堅国会議員に、この森田の指摘を伝えると、「某広告代理店は電通。
小泉首相に電通がアドバイスをしているのは広告業界では有名な話です」
との即答が返ってきた。
だが、「電通があたかも国家的陰謀に関与してきたかのようなイメージは、電通を実体以上に見せる効果を与えてきた。電通もそれを知っていて、あえて否定も肯定もしないでいる」(電通OB)という側面も
http://www.asyura2.com/0505/senkyo11/msg/454.html
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小泉首相は大衆操作の達人
小泉劇場の影の演出家で、「メディア戦略のプロ」を自認する飯島勲首相書記官は、テレビを重視して次のように語っている。
「小泉はどんなにしゃべってもワンフレーズとよく言われる。しかし、テレビは限られた時間の中で政治・経済・社会・海外までニュース報道しなければならない。結果として報道されるのはワンフレーズになる。カメラがあると、どの映像にもワンショット、ワンフレーズ、一言が必要になる」
「国民は忙しくて新聞など読まない。テレビとスポーツ新聞を押さえればよい」。
要するに、小泉首相は、こうした演出家の指南に基づき、意識的にワンフレーズで語っている。はじめから政策論争なんてするつもりはないのだ。
さらに、こうした小泉陣営の大衆操作・メディア操作の手法は、実はブッシュ大統領陣営から学んだものだ。
ブッシュ大統領も、
「米国につくのか、テロリストにつくのか」とか
「正義の米国、邪悪なテロリスト」
と善悪二元論に単純化して国民に訴える(操作する)手法を得意とする。
こうしたメディア戦略は、ブッシュ自らが大統領選勝利の「設計者(The Architect)」とよぶカール・ローブ大統領次席補佐官が発案・指揮している。カール・ローブは、それこそブッシュの一挙手一投足まで演出していると言われる。小泉首相はそれをマネているのだ
http://www.asyura2.com/0505/senkyo14/msg/809.html
2005年9月11日総選挙の直前、政府とマスコミは協働して宣撫作戦を行い、国民を詐欺にかけた。これを主導したのが竹中氏や世耕氏であった。彼らがメディア戦略でやったことは、メディア・リテラシーのまったくない層、すなわち彼らが言うB層国民を主に籠絡することだった。その手法は、ナチの宣伝担当相ゲッベルズがやったような単純でインパクトのある言葉を執拗に繰り返すことだった。竹中・世耕宣撫工作班は、その宣伝に、小泉元総理のワンフレーズ・ポリティクスを繰り返して報道させるという手法をとった。
すなわち、「郵政民営化、是か非か?」、「民間にできることは、できるだけ民間に任せる」、「なぜ郵便局員が公務員でないといけないのか」と、まるで無意味なことを、お題目のように繰り返してテレビで流しまくった。こんな愚劣なものを公共の電波に乗せること自体、国民を愚弄しているが、彼らの宣撫工作と考えれば、見事な大衆操作だったと言うしかない。たしか、ヒトラーの書いた「我が闘争」だったと思うが、嘘も百回繰り返せば真実になるということが書かれてあった。洗脳報道だ。結果的に、国民はすっかりこの愚民化キャンペーンに乗せられてしまった感がある。
当時はこういう状況だったから、国民は四分社化の真の意味に頭を使う状況ではなかったと思う。小泉政権のペテン性にかなり憤っていた当時の私も、「四分社化」については、まったく意識になかったのである。当時、私は、小泉・竹中構造改革と彼らの主導した民営化そのものがペテンだとは思っていたが、四分社化の怪しさには気付かなかった。この当時の政府は異常だった。国民に法案の正しい全貌を周知させるどころか、知らせなければならない部分にベールをかけて徹底的に国民の目を逸らすことをやっている。
小泉政権は、郵政民営化に関し、ある重要な部分については、故意に説明責任を果たしていないのだ。それは郵政事業が民営化して株式会社となり、株式が上場された場合、莫大な郵貯資金と簡保資金が外国資本の支配権に委ねられることがあるのかないのか、あるとすれば、そういう敵対的乗っ取りに対して、どういう防御策が講じられるのかという側面である。国会審議も、メディアの報道も、この肝心な点については徹底的に神経質に議論を封じていた。
これを象徴する出来事は、2005年8月31日、テレビ朝日系列「報道ステーション」で、古舘一郎司会者の奇怪な行動に表れていた。番組内でゲストの小林興起議員が、郵政民営化はアメリカ政府の要求だと話し始めた途端に、古館氏は急に態度が激変し、その話の展開を遮った事実がある。これをご覧になった人は多いと思う。以下、「kobaちゃんの徒然なるままに」というブログから該当箇所を引用させていただく。
事の発端は郵政民営化問題で、日本共産党の市田忠義書記局長が 「民営化で喜ぶのは日本とアメリカの銀行や保険会社だけ」と指摘。 その後、****日本の小林興起氏が「アメリカ政府の要求だ」と話し始めた時だった。
「三百四十兆ものお金を外資に食われるような、 そんな愚の骨頂のようなことをだれがやるのか。ちょっと安倍さん」
突然強い言葉で発言をさえぎり、自民党の安倍晋三に意見を求めようとした。 古館、小林氏、安倍の声が重なり騒然となった。 市田氏が重ねて「アメリカの要求は事実」と指摘すると、再び古舘が割って入り、「アメリカに食われるために郵政を民営化するなんて… そんなに国民の目は、だまされるほどバカじゃないんで」、 「まず入り口として郵政民営化をやらなきゃいけないって考え方がある」。 最後はほとんど絶叫調だった。
これを見た視聴者から抗議の電話が殺到し、後日番組で謝罪した。私も番組中何度もTV朝日に電話をしたが繋がらず、結局メールで抗議文を送った。
私もこれは見ていた。当時はこの番組に限らず、民放各局は郵政民営化の「アメリカ策謀論」、「外資脅威論」を徹底的に封印しているのだ。つまり、郵政民営化論議中に、誰かが外資やアメリカに言及すると、司会者が考えられないような速効でその言動を排除していたのだ。私も何度か見ている。アメリカや外資というキーワードを誰かが出した途端に、司会者がすぐにその発言を制止したのだ。一つのセンテンスを言い終える間も与えなかったように思う。ゲストを招いていながら、こういう異様な司会はそれまで見たことはなかった、
つまり、小泉政権は外資脅威論やアメリカ策謀論を徹底的に封じ込める作戦を最優先に取っていた節がある。だからこそ、郵政民営化というのは最大のペテンだと思うわけである。
これ以降は、また別記事に書くが、私は、郵政の四分社化こそが、アメリカの最大の要望だったと見ている。このことと、2007年5月の三角合併解禁を思い合わせてみればいい。四分社化形態というのは、郵政民営化の中心的要件ではない。国民利益の観点から見た場合、四分社化の必然性はないと思う。この必然性があったのは、唯一アメリカ系ファンド、つまり国際金融資本側の論理から出ているのである。
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2009/06/post-37f3.html
知的レベル・政治意識の高い階層は騙すことが出来ないので、「IQの低い、イメージだけで物事を判断する傾向のある、主婦・子供・シルバー層の支持を取り付けて郵政民営化を強行しよう」というのが、小泉一派の方針だそうです。
竹中大臣の知人の会社が作成した内部文書が暴露されています。
「小泉内閣支持基盤はIQの低い「主婦層や子供、シルバー層」といった具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターだけを支持している層が多いから、その層を中心に学習を促進させれば、容易に騙すことができる」ともとれる内容の大衆扇動手段が提言されています。
質はどうであれ、数だけそろえて、小泉支持の声を上げさせているわけです。創価学会の低所得層の大量動員と同じ発想ですね。そして、民営化に反対した議員には、女性対立候補を刺客としてどんどん送り込んでいます。
これこそが、「イメージだけで判断する、あまり脳細胞を使う習慣のない主婦、子供、シルバー層」の票を狙った狡猾な手口です。
どうせ主婦なんかに、民営化の議論など解りはしないと馬鹿にされているわけです。
「改革改革」と繰り返せば、主婦や子供は、本当に改革派だと思い込んでくれる、「抵抗勢力だ」と繰り返せば、無知蒙昧な主婦層は、抵抗勢力と名指しされた人たちは、本当に悪い奴らだと思い込んでくれると計算しているのです。どんな無知無能な有権者でも、一票は一票ですから。ユダヤ人がアメリカで培ってきた選挙戦のノウハウが、そのまま投入されているように思います。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yuuseiminneika.htm
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「B層」の定義
今回の衆議院選挙の特徴は先週号で述べたように、与党である小泉自民党の主張が丸ごとデマだったと言うことと、このデマに多くの人々が引っ掛かって自民党に投票したことである。これまで日本の場合、デマは野党の手法である。しかし反対に民主党は、マニュフェストとか言う今風の政権公約を作成し、デマの要素を小さくした。例えば公的年金のため、消費税の3%増税の国民負担が必要と訴えた。
もっとも民主党の党是は「小さな政府」である。「小さな政府」を追求するのなら、この公的年金の充実や子育て支援などは、本来放っておいて良いテーマである。皮肉にも、マニュフェストでこのような政策をより明確にしたからこそ、民主党の方針の矛盾が目立つことになった言える。この点を与党に攻撃されたのである。つまり全てをデマで固めた小泉自民党が、デマの要素を小さくした民主党に、都市部で圧勝したのが今回の選挙結果である。
しかしここに重要なポイントがある。日本の国民が求める政策は、公的年金の整備、小子化対策、福祉政策の充実、派遣社員・ニート対策、景気対策、治安対策などであるが、全て小さな政府では実現不可能なものばかりである。小泉自民党と民主党は「小さな政府」が国民にとって良い政策なのだと競っているが、「小さな政府」と国民が欲している政策の間には大きな矛盾がある。実際、自民党の立候補者は幹部を除き、郵政民営化に言及せず、選挙民には他の政策を訴えていた。
政府の規模に関して、国民****だけが「政府は効率的であることは必要だが、政府の規模はその時の情勢による」とまともな主張をしている。これは本誌の主張とピタリ一致する。また景気回復には、一時的な財政支出の増大による景気対策も必要と言っている。このように訴える政策と主張する政府の規模に矛盾がないのは国民****くらいなものであった(共産・社民は政府の規模の話には言及していなかった)。さらに国民****は、巷間大きいと言われている日本の政府の純債務が、国際的に見て決して大きくないことを説明して、政府支出増大の合理性を説いている(国民は、多分にデマ話に騙されている)。筆者は、何もしない「小さな政府」なら、ない方がましと考える。
しかしそれにしても多くの人々が小泉自民党のデマに騙され、自民党に投票した。自民党が有権者をセグメントし、それに対する広報・宣伝活動をして来たことは知られている。本誌の05/7/11(第397号)「郵政法案と小泉政権の行方」で、
「『小泉内閣支持基盤である主婦・老人層=具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する』【IQの低い層】
に分類し、後者に絞って民営化チラシを配布せよ」
とチラシ受注会社が政府に提示した文章が、国会の質議を通じ公になったことを伝えた。しかしこれとは別に選挙中に「B層」という言葉が登場した。前者は政府と業者の間の文書に現れた表現であり、後者はどうも自民党の広報担当のセグメントらしい。
しかし両者に大きな差はないと見る。筆者は、自民党の広報活動はこれらの主婦・老人層を対象にしたが、これまで投票に行かないような若者までが思いがけなく大量に引っ掛かったと想像する。小泉自民党にとっては、この考えの浅い若者の投票行動は嬉しい誤算であった。
要するに「B層」を主婦・老人層や【IQの低い層】に限定することはないと考える。デマに影響されやすい層とすれば良い。
デマはマスコミを通じ流されるのだから、マスコミに影響されやすい人々を「B層」と定義すれば良いと筆者は考える。当然、多数の若者や軽いインテリもこの「B層」に含まれる。
実際、テレビの視聴時間が長い者ほど小泉政権の支持率が高いという調査結果がある。
また本誌で取上げて来た改革派無党派層とも重なる。もっとも小泉首相の4年間の国会におけるパフォーマンスも、この「B層」を対象にしたものと考える。これに対して小泉首相を忌み嫌う人々は極めて多い。この人々はほとんど保守的な人々であり、マスコミに影響されることが少ない人々である。
選挙後、この小泉自民党に投票したこの「B層」と思われる人々へのインタビューがテレビ放送されていた。凄まじいものであった。
語る言葉もたどたどしい29才フリータは、自民党に投票した理由を「郵政民営化に賛成だから」と答えていた。もちろん郵政民営化の中味は知らない。
静岡7区では、おばさんが「片山さつき氏の方が城内実氏より改革が進むから」と落下傘候補に投票していた。
まさに「B層」対象の広報活動の成果である。
ちなみに城内氏が郵政法案に反対した最大の理由は、自民党執行部による郵政法案成立のための強引な手法を危惧したことにある。これを認めたなら、次には人権擁護法案などにも同様の手法が採られると考えたからである。実際、今回、人権擁護法案についてはかなり強引な手法が用いられ、自民党内で法案提出の直前まで行っていた。
東京新聞に小泉自民党に投票したこのような20代の声が掲載されていた。
「小泉さんがいいと思ったのは、おれは死んでもいいと言ったこと。格好いいなと思った」、
「郵政民営化は賛成だが、中身はよく分からない、でも分からなきゃ投票しちゃいけないってわけじゃないでしょ。ほとんど分からないままじゃないの?」、
「ネットでみんなが自民党を支持してた。何となく行かなきゃと思って」
と言った調子である。本当に身震いがする。
悪い人切るの なんかクール
本誌がずっと主張しているように、日本のマスコミの小泉政権に対する肩入れが露骨である。大新聞の論説委員だけでなく、テレビ番組の司会者、コメンテータ、バラエティータレントまでが選挙が近付くにつれ、小泉自民党に有利に働くような言動が目立つようになった。特に郵政法案への反対票を投じた立候補者への攻撃も、投票日が近付くにつれ激しくなった印象が強い。また後ほど述べるが、一方では目立たなく巧妙に行われ、一般には分かりにくいマスコミの関与もあった。
デマがデマとして機能するには、これが人々の間に広まることが必要である。今日、これを効率的に行うことを担ったのが日本のマスコミである(どうも米国のマスコミも片棒を担いだ可能性がある。ニューズウィーク日本版が露骨な小泉支持の論調を展開していることは以前から周知の事実である。)。
マスコミを味方につけ、小泉自民党のデマはどんどん広まった。この結果、「B層」の大量投票を集めた自民党が大勝した。
前述した東京新聞の20代の声の中に
『「ぜんっぜん政治には興味ない。テレビ見てるけどバラエティーばっかりだし、ニュースになるとチャンネル変えるし。新聞は一度も読んだことない。悪いけど」
と言うのは制服姿でたばこを吸っていたコンビニ店員(21)だ。大田区の実家から通っていて、両親に誘われて「仕方なく」選挙に行ったという。
「亀井さんとか自民党の中の悪いのを敵にしてやったんでしょ、今回は。そういうのをズバッと切ったんでしょ。なんかクールっていうか格好いいじゃない」』
と言っているのである。この若者は典型的な「B層」の一員である。ところが不思議なことに新聞は読まない、ニュースを見ないというこのような人々にも、ちゃんとデマは届いているのである。
しかし筆者は、テレビ番組の中でジャーナリストの大谷昭宏氏が、自民党を追出された郵政法案に反対した議員をさかんに「汚れた鳩」と表現しているのを見て納得した。選挙中からこれに似た発言は他のテレビ出演者からも出ている。おそらくこのような発言を直接・間接に聞いた若者が、郵政法案反対派の政治家を「亀井さんとか自民党の中の悪いのを~」と思い込んだとしても不思議はない。
http://adpweb.com/eco/eco406.html
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亡国のリーダー?ゴルバチョフと小泉純一郎
ところで、共産党の解体を視野に入れていた共産党書記長というと、「自民党をぶっ壊す!」といった自民党総裁を思い出す。実際に、この時期以降のゴルバチョフは、小泉首相と不思議に似ているのだ。
まず、二人とも、国家と癒着した万年政権党――ソ連共産党も自民党もその点では同じだ――のリーダーとして、活力を失った社会の建て直しを過大にして登場した。それをゴルバチョフは「ペレストロイカ」、小泉は「声域なき構造改革」とスローガン化したわけだが、二人とも、スローガンは繰り返すものの、何のためのペレストロイカか、何のための構造改革化、国民にきちんと説明しようとしない点もよく似ている。
そして、「ウスカレニエ(加速化)」、「ノーヴォエ・ムィシュレーニエ(新思考)」、「グラスノースチ(情報公開)」など次々にキャッチフレーズを打ち出しては耳目をそれにだけ集中させて局面を乗り切るワンフレーズ・ポリティクスの点でも、ゴルバチョフは小泉の大先輩である。
ゴルバチョフは、ワンフレーズで事態のすべてを説明しようとした。
ぺらぺらよくしゃべるのだけれど、キーはいつもワンフレーズ。
それによって短い局面での風をつかみ、その連続で状況対応的に動いていく。
この政治スタイルは小泉とも実によく似ている。
それは裏返せば、もともとリーダーとしての政治理念、哲学、政策体系を持っていなかったということなのだ。
この点でも二人は共通している。ただ、後付として理念を打ち出したりしたが、それも抽象的であいまいなものだった。そして、その後付の理念として、「自由化して競争を導入すればみんな上手く行く」というような市場原理・民営化万能論を持ち出す点においても、ゴルバチョフと小泉は共通していたといえる。
また、この時期以降のゴルバチョフは、党書記長でありながら、党の問題、党内での対立を党内に訴えることによって解決していくのではなく、うちの問題を外に出して国民に訴えることによって党内の力関係を変えていく手法をとっていった。これは、党内の意見の相違を党内で論議して解決するのではなくて、国民に訴えて反対勢力を「抵抗勢力」として排除していく小泉のやり方と酷似している。
そもそも、他人の意見を聞くのが嫌なのだ。****者というよりは独善者なのだ。****者というのは、****の責任を一身に負うもののことだが、二人ともそんなことは使用とはしない。そして、二人とも党や政府のリーダーでありながら、「大統領的書記長」「大統領的首相」を目指し、それに近いふるまいをしてきた点でも共通している。
特に、1989年3月に複数候補制による人民代議員選挙を実施して、守旧派の共産党役員を大量に落選させ、党内の力関係を買え、国会に当たる人民代議員大会に確固たる権力基盤を築いたゴルバチョフの手法は、2005年8月に郵政民営化法案が参議院で否決されたとき、衆議院を解散して「郵政民営化の是非を問う国民投票」だと称し、反対派を落選させて、党内の力関係、国会での権力基盤を劇的に変えた小泉の手法とよく似ているし、発想が殆ど同じだ。
例えば外交手腕の違い、教養の差など、二人の間にはいろいろな違いはある。ゴルバチョフは、さすがに他国首脳との付き合い方、交渉の仕方を身につけていたけれど、小泉はまるでだめだ。ブッシュの肩をたたいて「サン・ライジング、ジャパン」と叫ぶだけだ。
ゴルバチョフは、旧約聖書を正確に引用でき、プーシキンを語ることができたが、小泉はせいぜい信長を書いた時代小説に読み耽るだけだ。
だが、このように政治スタイル、手法においてココまで共通しているということは、なにやら不気味な結末を暗示しているように思われてくる。ともあれ、ソ連では、ゴルバチョフのこうしたスタイルと手法が、急速に破滅を招きよせて言ったのだ。日本でも、同じことになるのは十分に考えられるのではないか。憂慮を深めざるを得ない。
http://www.asyura2.com/0601/senkyo20/msg/1015.html
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2022/06/23 (Thu) 02:39:35
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小泉純一郎先生に演技指導したのは電通:
「小泉首相にワン・フレーズ・ポリティックスをアドバイスしたのは電通と聞いています」
「小泉政権が誕生した二〇〇一年に、小泉さんと電通卜ップとの一席が設けられ、そこで電通卜ップが広告業界の話をしたというのです。
クライアント(顧客)は一五秒のコマーシャルの中でいろいろなことを言いたがるが、
『ワン・コマーシャルでワン・メッセージでないと伝わらない』
と言っている、という内容で、これを聞いて小泉さんは、多言を弄するのではなく、ワン・メッセージで端的に言う大切さを悟ったというわけです」
「改革」を旗印にスタートした小泉政権は、「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」などのキャッチフレーズを連発、驚異的な支持率を記録した。
自民党内にプリクラが置かれ、携帯電話ストラップまで販売された。そんな小泉人気の原動力になったワン・フレーズ・ポリティックスは、電通トップの助言がきっかけというのだ。
「小泉氏は、実は二年前の春の自民党総裁選で、電通にプロジェクトチームを作り、総裁選戦略を研究させた。
彼らは米国型のメディア活用方法を取り入れた。広告会社から提案されたのが、例の『自民党を変えます』『日本を変えます』『構造改革なくして景気回復なし』という、すべて十五秒以内のスローガンの羅列――
つまり、ワン・フレーズ・ポリティックスの手法だ。
この『ワン・フレーズ・ポリティックス』の手法は、商品を売る広告テクニックを政治の世界に利用したということだ」
「小泉首相に電通がアドバイスをしているのは広告業界では有名な話です」http://www.asyura2.com/0505/senkyo11/msg/454.html
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小泉批判をしてテレビ画面から消えた森田実
「ご意見番」の森田実氏がスクリーンから姿を消してから2年近く経つ。
森田氏は、フジテレビの番組に毎朝着物で登場、格言や引用を使いながら政治の動きを視聴者に説明した。その独特のスタイルは視聴率を上げ、最も人気のある朝のニュース番組の一つとなった。しかし、小泉純一郎首相誕生直後から、森田氏に対するメディアの対応に変化が見られるようになった。生番組の出演が減っていき、ビデオ出演が多くなった。テレビスタッフが彼のインタビューを1時間録画しても、実際に使われるのはそのうちの30秒から1分ほどだったと森田氏はふり返る。小泉氏に対する批判のため、メディアが森田氏の発言を神経質にチェックするようになったからであろう。
森田氏は、小泉政権の世論調査の支持率が80%台の時でさえ、政権の政策を批判する数少ない政治評論家の一人であった。「小泉前首相は、日本の戦後政治史上、最も無責任で軽薄な首相だった―これが私の見方である。小泉前首相は、安定した日本を壊すだけ壊し、日本を崩壊させたまま、政権から去った」と森田氏は自分のホームページのコラムに書いている。
テレビ東京の夜の生番組「ワールドビジネスサテライト」で竹中平蔵経済産業相(当時)と森田氏が討論するという予定で招かれたときでさえ、竹中氏は森田氏との討論を拒んだ、と番組のスタッフが控え室で待っていた森田氏に告げた。テレビ東京・広報部は5年前の番組に関して覚えている人はいないと回答し、森田氏が言う出来事は起きたように思えないと彼は言った。
「当方のスタッフの伝え方が悪いことが原因となって、森田さんに誤解を与えてしまった可能性が高いように思います……政権に対して批判的であるか好意的であるかは人選の判断基準には含まれません」とテレビ東京広報部は回答した。
2005年8月に参議院で小泉首相(当時)の郵政法案が否決されると、小泉氏は衆議院を解散した。森田氏は、翌朝フジテレビの番組で小泉氏は憲法41条(「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」)に違反であると述べ、小泉首相は国会に従わなくてはならないと主張した。
誰も森田氏に反論はしなかったが、彼のコメントは総理官邸を怒らせたようであった。それ以降、大メディアが彼に連絡してくることはなくなった。フジテレビ広報部はなぜ森田氏が出演しなくなったかという理由は述べなかったが、「各番組の出演者は、多角的な視点を提供できるようにそれぞれの番組で選ぶことになっています」と返答した。
森田氏がテレビスクリーンから消えたことはとくに驚くことではないという専門家は少なくない。なぜなら、日本の大メディアによる自己検閲の問題は国内外で批判されているからだ。日本の大メディアは「権力と共謀しているのです。問題は権力の強さでなくメディアの弱さなのです」と以前名古屋の椙山女学園大学でジャーナリズムを教えていたNHKの元政治記者川崎泰資氏は言う。
日本の最大の問題は、日本の大メディアが「ほとんど一致してしまっていて、マスメディアが政治権力と事実上、一体化してしまったことなのです」第二次世界大戦時のマスメディアが全部一本化して軍国主義政権の宣伝機関となったように、と森田氏は言う。森田氏の兄の正氏は勤勉で他人からも尊敬されていたが、21歳の時、中国で戦死した。
森田氏は、メディアに対して過度の影響力を持ち、日本の広告業界のトップに君臨して「聖なる牛」とまで言われている電通をも批判した。彼が電通を批判すると、ジャーナリストと思われる数人から匿名の手紙が来た。手紙には「今後、森田さんはマスコミと付き合うことができないと思います。原因は電通です。森田さんは電通を批判しました。今まで電通を批判するなんていう人はいませんでした」などと書き記してあった。
http://www.asyura2.com/07/hihyo6/msg/592.html
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マスコミ研究者の友人Aから貴重なレポートが届いた。日本のマスコミの現状についての調査報告である。
(1)日本のマスコミは堕落した。芸能、スポーツ、娯楽の分野はとくに堕落が顕著だ。
(2)日本のマスコミの堕落の諸悪の根源は何か。一言でいえば、日本の広告業界を牛耳っている巨大独占体「電通」の存在である。
日本のマスコミはこの大独占体・電通の支配下に置かれている。
民放の報道の右翼化・劣悪化も、民放による「日本人総白痴化」政策も、電通の存在と無関係ではない。電通は米国の世界政策の協力者である。
(3)最近の民放の報道番組は堕落した。キャスターやコメンテーターが傲慢になった。ジャーナリストが、誰からも「傲慢」といわれるようになるとは、まことにお粗末である。傲慢の背景にあるのは、政治権力との癒着、マスコミの政治権力への参加である。
「電通は、金儲けのためなら日本の伝統・文化を平然と破壊する米国巨大ファンドの日本における最大のパートナーだ。
金儲けのためなら何をしてもよいという悪しき資本主義の申し子だ。
電通は、米国のブッシュ政権、日本の小泉政権の日本における最大の協力者である。民放はこの電通に支配されている」
日米関係に通じている友人によると、米国は日本を思うように動かすためにはまずマスコミを握らなければならないと考え実行してきた。そして、民放についてはほぼ目的を達した。
民放を支配するのは比較的簡単だったという。広告業界が一元化されており、広告の巨大独占体である電通を押さえれば、民放を支配できる、というのである。
民放で働いている知人は、「電通に睨まれたら民放はやっていけなくなる。個人的にも電通に睨まれたら民放では働く場所がなくなる」と語っている。
電通を媒介にした米国による民放支配はほぼ完了した、といわれている。民放の報道番組はブッシュ政権と小泉政権の広告塔になった、というのが米国在住の友人の見方である。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02024.HTML
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小泉政権は来るべき政治決戦=総選挙を「マスコミを使って勝つ」との基本戦略を立てて実行している。
日本のマスコミのほとんどが、放送法に規定された「不偏不党」=中立主義を放棄して、ブッシュ・小泉反平和・****政治体制の支配下に入ってしまった。
8月7日(日)昼頃、広告・マスコミ業界と裏情報に詳しい友人A氏から電話がかかってきた。非常に深刻な話なので、私のコメント抜きでA氏の話を以下に記す。
《日本の広告業界は、事実上、丸ごと、アメリカに買収された。
日本の広告業界は巨大独占体のもとに一元化されている。この巨大独占体がアメリカ巨大資本に事実上買収され、アメリカのコントロール下に置かれれば、日本のマスコミを自由に操ることができる。
マスコミ企業は広告巨大独占体に睨まれたら倒産させられてしまう。生きるためには巨大独占体の言うとおりにしなければならない。
いまや巨大独占体はアメリカそのものといって過言ではない。ブッシュ政権の意向は、日本の広告業界、マスコミ界にそのまま通るようになっている。
アメリカの広告業界はブッシュ政権の影響下にある。小泉首相はブッシュ大統領にとって最良のジュニア・パートナーである。したがって日本の広告独占体もブッシュ世界戦略の道具と化している。
ブッシュ政権の対日戦略の第一はブッシュ政権の傀儡政権である小泉内閣を保持させ、強大化すること。小泉内閣はブッシュ大統領にきわめて忠実である。
小泉内閣はいまや衆院解散・総選挙に向かって突進している。9月4日か11日が投票日だ。ここで小泉首相を勝たせるため、アメリカと日本の巨大独占体は各テレビ局と大新聞に対して、小泉を勝利させるために総力をあげるよう工作を強めている。各テレビ局と大新聞は、この要求を受け入れ、全力をあげることを誓った、との情報が広告業界とテレビ界で流れている。
これから日本の民放テレビ、大新聞は、広告巨大独占体の指導のもとに、総選挙で小泉政権を勝利させるため大キャンペーンを行うことにしている。同時に反対派に対するネガティブキャンペーンを準備している。
このためには、民放テレビ局と大新聞は、対抗勢力の民主党と綿貫・中曽根****勢力を徹底的に叩き、イメージダウンを図る方針をもう決めている。
8月7日、日曜日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、亀井静香元政調会長を出演させ、キャスターの田原氏(テレビ界では小泉首相の盟友といわれている)と田原チルドレンのコメンテーターがいっせいに亀井氏を叩いたのは、総選挙戦への小泉派の攻撃開始の第一弾といわれている。田原氏が1994年の政変(細川・羽田内閣を倒し村山政権を成立させた)まで持ち出して、亀井氏のイメージダウンを図ったのも、ブッシュ・小泉体制の総選挙戦略にもとづくものだ、というのが広告界の見方だ。田原氏は小泉首相の用心棒といわれている。
フジテレビ「報道2001」の黒岩キャスターが、小泉首相側近の山崎拓元幹事長に対しては猫なで声で媚びへつらいながら、岡田民主党代表や自民党反対派の藤井孝雄・小林興起両衆議院議員には非礼きわまりない挑発的言辞を浴びせたのも、総選挙が行われた場合に小泉首相を勝利させるとの広告戦略に従ったものだ、といわれている。黒岩氏は「第二のタハラ」ともいわれている。。
肝心なことは、日本の民放テレビ局と大新聞が、ブッシュ・小泉戦略に組み入れられていることだ。日本国民が考えるべきことは、総選挙戦の間、マスコミを通じて、小泉首相は「善」、批判者の亀井静香氏らは「悪」、民主党も「悪」との大宣伝が繰り返され、総選挙の結果に多大の影響を及ぼすおそれがあるということだ。良心を失ったマスコミが日本の進路を決めるのは日本の悲劇である。
アメリカによる日本のテレビと大新聞の支配は、根本的には日本国民全体をマインドコントロールして、米国のために牛馬のごとく働かせ、日本の富を巻き上げ米国の世界戦略に日本を利用するためである。さらにいえば、日本国民のマインドコントロールによる奴隷化政策である。テレビ朝日の田原キャスターも、フジテレビの黒岩キャスターも米国の日本奴隷化のための小道具として使われようとしている。
総選挙になったら、民放テレビと大新聞が、小泉首相を勝たせるために、何を始めるかわからない。ひどいことをするだろう。これを警戒し、阻止し、告発する体制をとっておくことを勧めたい。
以上、日本のマスコミはブッシュ・小泉体制の支配下に入ってしまっているという事実のみ報告します。
なお、一言つけ加えますが、8月7日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、田原氏が亀井静香元政調会長に向かって「大新聞の社説が一致して郵政民営化に賛成している。それでも反対か」と傲慢に言い放って、あたかも亀井氏が世論に反した行動をとっているように印象づける発言をしたが、これはむしろ大新聞がすべて小泉内閣に屈服して、手先となったことを意味する。
日本のマスコミが小泉内閣と小泉内閣をバックアップしているアメリカ側の「賛成か反対か、賛成ならそれを新聞紙上で書けと命令され、屈服した結果だ。
最近になって日本の大新聞がいっせいに郵政民営化支持を社説で打ち出したことは、大新聞が小泉政権の圧力に屈した結果だ。大新聞の堕落の見本として歴史に記録されるだろう。》
小泉戦略のおそるべき狙い
8月7日夕方、政界の中に多くの知り合いをもっている経済人の友人B氏より電話があった。
《総選挙は勝利する、と小泉首相側近は豪語している。理由について、「大テレビ局と大新聞があげて小泉支持の報道をすることになったからだ」と言っている。
マスコミが早朝から深夜まで、小泉首相が有利になり、反対派と民主党が不利になるように報道するようにさせれば、勝利間違いないと、考えているようだ。
選挙中に反対派が民主党の選挙違反者を摘発して、大新聞とテレビに大々的に報道させれば、反対派をつぶすことは容易だ、などとも言っている。
マスコミを使っての総選挙の勝利、これですべてが解決する。小泉首相の指導権が強大になる――これが小泉一派の考えである。》
またテレビ人民裁判
《森田さんは以前、テレビ朝日「サンデープロジェクト」の人民裁判的やり方を批判していましたが、今日またやりました。この前は道路公団の談合問題で脇雅史参議院議員を出演させてテレビ人民裁判にかけましたが、今日は亀井静香さんでした。
田原キャスターをはじめコメンテーター陣がいっせいに亀井さんのイメージダウンを図ろうとして攻撃を集中しました。キャスター、コメンテーター全員が小泉支持です。亀井さんは百戦錬磨だからなんとか切り抜けましたが、小泉首相のパートナーとなった田原氏とチルドレンたちの行うテレビ人民裁判は大いに問題です。一種の魔女狩りです。テレビが節度を失い、政権の番犬化しています。許せません。
実は、小泉首相と首相官邸、自民党執行部は「総選挙で勝利する」と考えているのは単なる強がりではないようです。これから投票日まで、民放テレビを小泉政治の宣伝のために使えると考えているのです。》
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02036.HTML
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電通は前身は「日本電報通信社」といい第二次大戦の満州国の満州鉄道の調査部としてあの悪名高き関東軍の嘱託として対外宣伝と宣撫工作を担っていた。その設立者が里見甫(さとみはじめ)といい裏社会ともつながり、アヘンの密売で巨額の利益を上げその金を関東軍の資金にしたという犯罪行為の一端を担っていたのは意外に知られていません。
この通信社は明らかに当時の軍国主義下の国策通信社で、その阿片マネーから児玉誉士夫、笹川良一といった人間につながり、阿片を利用し戦争指揮をとったのは東条英樹、「満州は私の作品」と豪語する岸信介と、日本の右翼勢力と元々密接な関係がありました。ここで注目すべきは中国の裏社会、つまりマフィアとのつながりが元々あったということです。
戦後になると満洲や上海から引き揚げて来た者を引き受け、旧軍人や満鉄関係者を大量に採用して、戦後における一種の情報機関として機能。GHQや日本政府にも食いこみ、影の情報局とか築地CIAと呼ばれて、その威力を天下に知られるほどの実績を築きました。
その先頭に立ったのが電通の第四代社長となった吉田秀雄なる人物で、この人物は政界、アメリカCIA、そして日本のヤクザと広範囲に影響力を持つようになり、その人脈は現在の電通に生かされています。
特に戦後、GHQとの関係をきっかけにCIAとも綿密な関係を持つにいたり、電通は日本国内の最大最強のCIAエージェントという人もいます。
また山口組を始めとする暴力団との裏のコネに豊富で、電通の「実力行使」のために毎年かなりの金額が暴力団に第三者を通じて流れているともいわれています。
つまり単なる圧力だけでなく、電通はCIAや暴力団を使って「実力行使」を行うことが可能な会社なのです。
これが電通がバケモノであるという根拠で自分たちの目的のためにはテロや要人暗殺も不可能ではありません。
電通の孫会社が暴力団と共同でイベント会社を設立したことは知られていますが(といってもメデイアでこのことが語られることは殆どないですが)これは街頭でのイベント等をスムーズに行うという意味もありますが、それ以外にもこの「実力行使」を行う意味もありました。
http://ofureko.exblog.jp/9158601/
▲△▽▼
電通はサイバー軍事部隊
広告大手の電通の業績上昇が著しい。
元々、CIAの対日ブランチとして創立された日本の広告大手企業・電通が、この「ネット監視業務」を担当する。
その売上増加の大部分を占めるているのが、インターネットの「監視ビジネス」である。依頼を受けた企業・人物の名前を24時間ネット上で検索するソフトを使い、万一、その人物・企業に対する批判記事があった場合には、コンピューターが自動的に反論記事、または批判と正反対の内容の記事・意見を作成し、ネット上で数万、数十万件、大量に流し、「世論を誘導する」ビジネスである。
時には反論記事作成のプロが、反論を書き、また法的措置を取ると相手に脅迫・威圧を加える担当者も常駐している。
批判記事の内容が「事実であるか、どうか」は関係が無い。金を払ってくれた企業の「良いイメージ」だけを大量に流し、「批判を封殺する世論誘導」ビジネスである。
ナチス・ドイツの宣伝隊長ゲッペルスが、「ウソも100万回、繰り返せば、真実に見えてくる」と言った事の、ビジネス版である。
これは軍隊のサイバー部隊の行っている仕事の「民営化版」である。
ネット上で「同一意見」が多数、存在し、多数派となった意見は、こうして「金で買われたデマ宣伝」になる。多数派の意見が「政策として実現される」民主主義は、一部の金持ちの****政治と同義語になった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/104938130.html
企業が事故や不祥事を起こすとブログやSNSで話題となるだけではなく、
その企業に対する誹謗・中傷に発展するケースがあるほか、企業に関係する
人間がネット上に書き込んだちょっとした情報が膨らんでマスコミ沙汰
となるという事件も見受けられます。そんなネット上のリスクの芽や風評を
迅速に把握してマネジメントし対応策までをサポートしてくれる
「ネット風評被害バスタ-ズ」が結成されたそうです。
インターネット上の風評被害対応コンサルティングで4社連携
「ネット風評被害バスターズ」として、8月21日よりサービス開始
| PR会社 電通パブリックリレーションズ
「ネット風評被害バスターズ」は株式会社電通パブリックリレーションズ
(電通PR)、株式会社ガーラバズ、TMI総合法律事務所、AIGコーポレート・
ソリューションズ(AIGCS)株式会社の4社が連携して8月21日(金)から
開始するサービスで、ネットリスクモニタリングを行うガーラバズ、
イシュー・リスクへの広報コンサルティングを行う電通PR、違法性の判断
など法務コンサルティングを行うTMI、企業損害保険の観点から
リスクマネジメントを行うAIGCSの4社で、インターネット上の風評被害で
困っている企業をトータルサポートするというもの。ネット上での消費者の
声を迅速に把握してマネジメントしたり、対応策のコンサルティングや
信頼回復までをサポートしてくれるそうです。
ソースのソース:電通パブリックリレーションズ
インターネット上の風評被害対応コンサルティングで4社連携
「ネット風評被害バスタ-ズ」として、8月21日よりサービス開始
206 :無党派さん:2008/06/02(月) 17:32:48 ID:pxMm0/9a
2chで、このスレ変だな。とか、なんか醜いレスが目立つな、っと
おもったら、たいていこいつらの仕業。
=========================================
電通パブリックリレーションズ http://www.dentsu-pr.co.jp/
ピットクルー 株式会社 http://www.pit-crew.co.jp
株式会社 ガーラ http://sales.gala.jp/cybercops/index.html
イー・ガーディアン 株式会社 http://e-guardian.co.jp/e-guardian/index.html
株式会社 ガイアックス http://solution.gaiax.co.jp/solution/supportdesk/
日本エンタープライズ http://www.nihon-e.co.jp/solution/support.html
株式会社 ライトアップ http://www.bc-manage.jp/
=========================================
結構もうかるので、最近この手の会社が増えてきた。
つまり、このスレでもこいつらは、相当数活躍しているということ。
一人おかしいヤツが居たら、最低20人はコイツラが潜んでいると思ったほうが良い。
その会社の中でBCマネージのサイト(http://www.bc-manage.jp/)見たら、このページにこんな文があった。
↓
http://www.bc-manage.jp/cat_a_service.html
>24時間コメントチェックから書き込み盛り上げまでサポート。
こりゃあ、ネットショッピングにあるレヴュー等は信じない方が良いな。
▲△▽▼
「絶対笑わないでください。笑顔を見せてはダメです」
9月 11日夜。歴史的な大勝利をおさめた自民党の党本部。午後9時を過ぎたあたりから、NHK・民放テレビ各社の総選挙特番は、党本部の会見室と中継でつなぐ。各局の呼びかけに応じて安倍晋三幹事長代理、武部勤幹事長、青木幹雄参院議員会長、そして小泉純一郎首相らが会見のために次々と登壇する。ところが、その幹部らを直前に一人一人呼び止めて「笑わないで」と声をかけ続ける男がいた。
今回の選挙のために党内に設置された「コミュニケーション戦略チーム」の責任者である世耕せこう弘成・参議院議員である。
「このままいくと単独で過半数、いや300にまで届く勢いです」
幹部に迫るその表情は厳しかった。
「怖いのは反動です。嬉しくて冗談のひとつも言いたい気分でしょうが、大勝したとたんに気が緩んだと、国民には映ります。謙虚に謙虚に、責任の重さを痛感していることをアピールしなければダメです。有頂天になっていたら、今日、われわれに投票してくれた無党派層は、明日から反自民・民主支持に変わってしまいますよ」
「わかった」
「はい。じゃあ、行きましょう。いいですか。絶対笑ってはダメです」
たしかに、この夜、テレビに映る自民党幹部たちはほとんど笑わなかった。とりわけ小泉はそうだった。
その様子をテレビの解説者は「(硬い表情は)責任の重さを痛感しているのだろう」と伝え、翌日以降の新聞・雑誌も「予想以上の勝利に対し、結果を出さなければという重圧と責任感を感じていた」などと形容した。
勝利に浮かれることなく、真摯に政権運営に臨のぞむ――という真面目な自民党のイメージが国民に伝わり、まさに世耕らの狙い通りの展開になったのだった。
今回の取材を通じて選挙の舞台裏で起こっていた真実をつかむたびに背筋が寒くなる思いを幾度かした。
実は戦略的に練り上げられた刺客候補のセリフ。
同じく戦略的に仕掛けられたテレビ出演。
そしてそれに気づかず報道していたマスコミ。
その情報をそのまま受け取る有権者たち。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/de6e88e4450036810c61d7a1a2b4c51b
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小泉元首相に学ぶ、話のインパクトを強めるコツ(プレジデント)
プレジデント 10月14日(月)8時15分配信
■小泉元首相の特徴的な“強弱”を学ぶ
先日、小泉純一郎元首相のお話を聞く機会をいただいた。原発の是非について、最初は比較的淡々と話をなさったかと思うと、場の空気を読んだのか、ふいに歴史の混沌の中で日本人がいかに順応してきたかといった話に切り替えていく。すると、言葉の強弱がずいぶんとはっきりしてきた。
小泉元首相の話し方は特徴的だ。言葉が短く、自己を投影したエピソードが多く、強弱の付け方がはっきりしており、誰にでもわかりやすい表現が多くみられるなど、スピーチの上手である。私たちが人に伝えるときにも有効な面から、今回は特に言葉の強弱を見ていきたいと思う。
今回の小泉元首相のスピーチデータを起こしていくと、ところどころ言葉がかすれるように小さくなって書き取りにくかった。理由は、自分が強調したい言葉を強く発声し、そのあとの助詞や、その言葉の意味を補うフレーズがとても弱く、小さな声で話されることによる。
語気が強くなり、アクセントを置く単語が続くほどに、<強・弱・弱・弱>とリズムを刻むかのような話し方になる。強調した言葉を太字にし、ほかを弱く読んでいく風を書き起こすと、たとえばこんな風である。
■キーワードを強く読むテンポと“間”
「『ピンチ』は、『何か』を変える『チャンス』なんだ。『いかなる変化』にも『対応』していかなければならない。『変化』に『対応する能力』を日本国民は持っている。そういうことから私は、限られた時間でありますれども、なんとか日本を夢のある国にと。その『ひとつ』に、自然をきれいにする、『変化がある社会をつくろうと』、そういうチャンスがあるととらえて動きだせば、『必ず』国民もその他の国も協力してくれるのではないだろうか」(『』内は強調)
普通に読むと不自然な強弱でも、“間”を上手にとることで、この強弱が生かされる。そしてここには、英語の発声に似た抑揚が見られる。
日本語はそれぞれの音が同じ間隔でポツポツ平坦に話され音節型であり、一方の英語は強勢型と呼ばれて、強く読む部分と弱く読む部分がはっきりする。小泉首相の話はこの英語に似た強勢があることでリズムとテンポをつくり、ポイントを印象付けているようだ。
ちょっと脇道にそれるけれども、強弱の典型的な例として、こんな英文を見てみよう。
The 『actress』 will 『sing』 a 『song』 on the 『stage』 英語は、重要な意味を持つ言葉を強く読み、aやon theなどのあまり意味を持たない、「機能語」と呼ばれる言葉は弱く、急いで発音される。そのために音が消えたり、くっついたり、変わったりするのだ。しかも、弱い言葉は何語あろうとほぼ同じペースになるために、on the を小さな声で「オナ」と変え、sing a は「シンガ」と一続きに読んでしまう。(*)
こうした強勢がそもそもの原因で、日本人が「英語が聞き取れない」問題が発生し、リスニングで苦労することになる。けれども、逆に強い部分だけを聞き取れれば「意味内容」の理解としては差支えがないし、むしろ強調されるべきところが引き立ってくるから、自分が得意な専門分野は強調された単語がわかりやすく理解しやすくなるわけだ。
小泉元首相の強弱は、まさに“重要な意味の言葉”を強く読み、機能語や補足的なフレーズは流していた。
一方、ある実業家の方のお話を聞いたとき、話の内容も活動もすばらしいのに、意味のない語尾にアクセントが置かれていたことがある。私自身も覚えがあるけれど、つい「~『で』、」や「~といったこと『から』、」などに力が入るので、語尾ばかりが強く目立ってしまう。これでは本当に伝えたいキーワードが弱くなり、せっかくの話なのにキーワードが強調されずに流されて終わってしまうかもしれない。
さらに、小泉元首相のスピーチには言葉に強弱があることに加えて、強調したい内容のときには両手を広げて肩より少し上げ、その言葉をカッコでくくるかのように掲げていた。これで印象付けたい内容にさらに意識が向けられるから、どこが重要な言葉なのか、聞き手は一目瞭然となる。
そして、文字を起こして感じたもうひとつの特徴は、その変化に富んだ語尾にあった。先ほどと同じ部分で、今度は視点を語尾に移してみる。
■変化に富んだ語尾で躍動感を演出
まずは、スピーチの語尾を見てみよう。
「ピンチは、何かを変えるチャンス『なんだ』。いかなる変化にも対応していかなければ『ならない』。変化に対応する能力を日本国民は持って『いる』。そういうことから私は、限られた時間でありますれども、なんとか日本を夢のある国に『と』。そのひとつに、自然をきれいにする、変化がある社会をつくろうと、そういうチャンスがあるととらえて動きだせば、必ず国民もその他の国も協力してくれるのではない『だろうか』」(『』内は語尾)
聞いたままに書き起こしたのだけれど、その語尾は単なる“です・ます”に終始せず、変化に富んでいる。言いきったかと思うと、体言止めに近い言い方で止めたり、「~ではないだろうか」と問いかけも含まれていたりする。言葉尻に変化を持たせると話に躍動感が出るものだ。
今回、小泉元首相のスピーチから盗むべきポイントは、キーワードを大きく強く読んで印象付け、単調にならないように語尾などで変化と躍動感を持たせることである。そして、少しのボディランゲージが大きく言葉を強調してくれる。こうした言葉の強弱が、伝えたい内容を強めて印象付けてくれることだろう。
[参考資料]
* 『名作映画いいとこだけの英会話』(上野陽子 2011 ダイヤモンド社)
上野陽子=文
http://www.asyura2.com/13/senkyo154/msg/869.html
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政治評論家の有馬晴海氏が言う。
「中曽根さんの時代もそうですが、野党がだらしないから、何をやっても政権はひっくり返らない。自民党の中を抑えていれば、政権は続けられるのです。だから、国民向けの発言は、その場しのぎでオーケーとなってしまう。危機感や緊張感はゼロです。
かつて中曽根さんは、
『女性はネクタイをいちばん見る。 何を言ったか覚えていない』
と言い放った。そんなふうに見下しているから、欺いても平気なのでしょう。地元に帰ったときは『消費増税反対』と言いながら、東京に戻れば増税賛成派に転じる。そんな議員は大勢います」
http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/420.html
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女は「白か黒か」「ゼロか100か」「護憲、平和か戦争」のようなオールオアナッシングにしか投票しない。
2016年08月04日
レンホー党首で社会党化する民進党 キャッチコピー連呼か
分かり易いキャッチコピー、綺麗事、レッテル張り、ゼロか100かの極端な思考が社会党化。
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/4/6/46d60fe3.jpg
蓮舫は土井たか子か
2016年9月に民進党の代表選立候補が行われ、蓮舫代表代行が立候補を表明しました。
他には細野元環境大臣と長島元防衛副大臣も立候補を予定しているが、知名度で大きく劣る。
その前に「民進党なんてあったっけ?」と多くの人が思ってるが、鳩山や菅首相を出した民主党の事でした。
民主党に「維新の会」の左派系議員約20人が加わり「民維」と呼ばれていたのが、2016年3月に民進党になった。
野党勢力を結集して共産党とも統一するらしいが、何だかよく分からない政党です。
左派政党に女性党首で思い出すのが社会党の土井党首でした。
1986年に日本の最大野党(共産党と公明党しかかなったが)だった社会党は選挙に大敗して、土井たか子を党首にした。
土井は日本初の女性党首になり、大ブームを巻き起こし次期総理確実と言われた事もあった。
理論立った話は苦手なので、分かり易いスローガンやキャッチコピーを重視し、それが受けた。
「だめなものはだめ」「女性の視点」などの言葉が現在の女性政治家の活動の雛形になった。
面倒な議論は避けて、キャッチコピーとレッテル貼りを連打すると、男性候補は応戦できずダメージを受ける。
こうしたイメージ戦略で社会党は議席を増やし、ついに自民党を倒して細川連立政権の与党第一党になった。
分かり易い女性党首の主張
だが快進撃はここまでで、野党の間はイメージだけで良かったが、現実に直面すると何もできなかった。
既に冷戦が終わり湾岸戦争が発生し、日本は新しいパワーバランスを作る必要があったが、そうした理屈が理解できなかった。
多くの女性政治家は「戦争は悪」「軍隊を無くせば平和になる」を繰り返すだけだった。
細川政権を離脱した社会党は自民党と連立を組んで村山総理を送り出したが、そこに襲ったのが未曾有の国家危機だった。
オウム****事件、阪神大震災、超円高と次々に大事件が発生し、社会党政権はどれにも対応できませんでした。
やがて自民党にも切られてしまった社会党は社会民主党と改名し、福島瑞穂を党首にして「日本女性党」と名乗っていた。
相変わらず「反戦、平和、護憲」のキャッチフレーズを繰り返し叫ぶだけの戦略で、面倒な議論は決してしない。
議論や理屈を女性は嫌うからで、レッテル貼りとキャッチフレーズのほうが女性に好まれる。
民進党の党首選に立候補する蓮舫も土井たか子に似たところがあり、議論を嫌い同じ言葉を連呼するのが得意だ。
蓮舫が鳩山政権で仕分けをしていた時に言っていた「無駄はあってはならない」は、土井たか子の「だめなものはだめ」と同じ発想です。
必要な無駄もあるとか、経済とはそもそも無駄なものだと説いても、女性に通じないのは過去の選挙を見れば分かる。
女性は「白か黒か」「ゼロか100か」「護憲、平和か戦争」のようなオールオアナッシングにしか投票しない。
原発は危険となったら全部廃止、自衛隊は野蛮だから廃止、イジメは禁止、全部賛成か全部拒否、現実を認めて解決しようという発想はない。
分かり易いキャッチコピーの女性党首が大人気になると、福島瑞穂のような「日本女性党」になってしまう可能性が高い。
民進党はこれから急速にそうなるかも知れません。
http://thutmose.blog.jp/archives/64685501.html
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後藤百合子 2017年05月19日
民主主義という究極のポピュリズムを制す「かわいさ」
■冷血な人殺しでも人気絶大なプーチン大統領
2000年3月、ボリス・エリツィン大統領の後任としてウラジミール・プーチンがロシアの第2代大統領に正式に選出されたとき、ある方が新大統領を評して「何十人も人を殺してきた目をしてる」と言われたのが今でも忘れられません。
当時、プーチン氏は政治家としても大統領候補としても世界的にはほぼノーマークで、元KGBの優秀なスパイという以外ほとんど情報がありませんでした。プーチン大統領就任により、ゴルバチョフ、エリツィンと続いた民主主義ロシアがどうなってしまうのか、という危惧を多くの人々が抱いたと思います。
しかしプーチン大統領は、現在世界を震撼させているトランプ大統領の「ロシア・ゲート」も含め、自らのスパイとしての経験と手腕を最大限活かして政権を維持。白昼堂々とホテルに核物質を送り付けたり、夜のニューヨークのビルから突き落としたりと、独創的かつ強引な手法で反対勢力陣営の人々を排除していく様子も、これまでの民主主義国家の政治家像を大きく逸脱しています。
最近では、ウクライナ問題でプーチンを説得するためにわざわざクレムリンまで出向いた独メルケル首相に会う際、メルケル首相が大嫌いな大型犬連れで登場して威嚇するなど、ある意味、トランプ大統領にも通じるパフォーマンス政治家という側面ももっているようです。
ただし、ソ連時代ならいざしらず、現在のロシアはいちおう民主主義国家で、大統領も国民選挙で選ばれます。強引かつ強圧的な手段で治世するプーチン大統領が国民に恐れられ忌み嫌われ、人気も低いかというとそれがまったくの逆で、2012年の大統領選挙時には、63.6%と約2/3の得票。現在の支持率は90%近いとも言われます。
しかも毎年、「プーチンカレンダー」なるものが発売され大人気。
Vladimir Putin's inspirational 2017 calendar - CNN.com
http://edition.cnn.com/2016/10/19/europe/vladimir-putin-calendar-2017/
上半身裸で釣りをしている写真や、映画スターさながらにサングラスにラフなジャケットで歩いている様子に混じって、花をもってポーズを決めたり、猫や犬と戯れていたり、まるでアイドルスターのようです。
このカレンダーを誰が買っているかは写真を見れば一目瞭然でしょう。ロシアの女性たちに圧倒的な人気を誇るのもまた、プーチン大統領の一面なのです。
■「かわいい」政治家に投票してしまう私たち
私たちが選挙で投票行動をする時、意識するかしないかの程度の違いはあっても、最も重点が置かれるのは「政策」ではなく、実は「政治家の人間性」であると私は思います。
比例区では政策で政党を選ぶ人も多いかもしれませんが、小選挙区で所属政党の政策に共感はできても、外見や話し方に嫌な感じをもってしまう候補者より、支持政党ではなくても好感をもてる候補者に投票した経験のある方は決して少なくないのではないでしょうか。
しかし、実際にはその候補者がどんな人間かは顔に書いてありません。もちろん本人や推薦人はいかに候補者の人間性が素晴らしいかを強調するでしょうが、その言葉が必ずしも事実とは限らないのです。
そこで私たちが人間性を判断する基準は、性別を問わず、その候補者に「かわいさ」を感じられるかどうかになります。単にハンサムであるとか美人であるとか(もちろん容姿は良いに越したことはありませんが)にとらわれず、その人を「かわいい」=「人間として好ましい」と思えるかどうか、が問題となってくるのです。
声や話し方、言葉の使い方、しぐさ、表情など、その人の内面からにじみ出てくるようなかわいらしさは、いくら頑張って作ろうと思っても決してマネできるものではありません。逆に、プーチン大統領のように実際には冷血な殺人者であっても、ふとした拍子にこぼれる笑顔などに、女性をはじめ一部の男性もかわいらしさをつい感じてしまうのです。
■「かわいい」政治家はしぶとい。
そのような視点で世界の民主主義国家の政治家たちを見てみると、興味深い事実が浮かび上がります。
つい先週の選挙でフランス大統領に選ばれたマクロン氏ですが、すでに欧州メディアが盛んに報道している情報によると、誰にでもすぐに好かれ(悪い言葉で言えば「取り入って」)相手の信頼を得ますが、それを裏切る場面も多々あったとされます。24歳年上の略奪愛妻と連れだって歩くマクロン氏の計算し尽くされた笑顔と、政党の創立者である実父を追放し、政党内で重責を担う姪との不仲も伝えられるル・ペン氏のドヤ顔とを比べたら、どちらが「かわいい」かは一目瞭然でした。
同じことは、昨年の米大統領選のクリントン氏対トランプ氏との闘いにも言えます。どこにもつけいる隙のない完璧なクリントン氏と、暴言・放言には事欠かず、何度も自爆しながらも子どもっぽい野次を飛ばすトランプ氏。憎まれガキのようなその態度は、ある意味、「かわいい」と言えないこともありません。
そして日本。
小泉純一郎元首相が大変女性に人気があったのは周知の事実ですが、現在の安倍晋三首相と麻生太郎副首相兼財務大臣のコンビが、ここまで長く政権の中心に存在している理由がわからない、という男性にはぜひもう一度きちんと研究していただきたい。
昭恵夫人も言っている通り、自民党の中には彼らより立派な経歴や学歴をもっている方々がごまんといますし、間違っても安倍総理や麻生副総理のような漢字の読み間違いはしないでしょう。しかし、この2人は、現在の自民党議員の中では際立って「かわいい」のです。恐らく小泉元首相が自分の後任に安倍首相を指名したのも、この「かわいさ」が大きな理由だったのではないかと私は推測しています。
同じことは稲田防衛大臣にも言えます。
彼女はウルトラ・ライトともいえる思想の持主ですが、まだ、当選一回目の頃の講演会で、あの舌ったらずの声で1時間以上にわたり「南京大虐殺はでっちあげ」「慰安婦の強制連行はなかった」との持論を滔々とぶつのを聞いたとき、私はただただ目が点になっていたのにもかかわらず、同じ会場で一緒に聴いていたおじ様たちは、まるで魔法にかかったようにうっとりと彼女の話に引き込まれていました。渡部昇一氏が会長を務める「ともみ組」という後援会組織もあり、まるで芸能人のファンクラブのように熱心に彼女を応援しています。
国会で涙ぐんでさんざん叩かれた稲田大臣ですが、ともみ組の支援者たちにとっては、その涙さえ好ましいものに映っているでしょう。その意味で、かわいい政治家ほど叩かれても叩かれても強力な支援者たちの支えによって蘇る、打たれ強い、しぶとい政治生命をもつのだと思います。
■政治家は自分が有権者に与える印象についてもっと研究すべき
SNS時代、「聡明な」「仕事ができる」「強い」だけの政治家がもはや大衆の共感を得ることができないのは、昨年のアメリカ大統領選、今年のフランス大統領選の結果をみても明らかです。(余談ですが、メルケル首相は恐らく再選を果たすと思います。彼女も非常に優秀な政治家ですが、難民問題にみせた情の厚さや、市井のおばさん然とした風貌がかわいらしさを醸し出しているからです)
そんな中、多くの選挙民が求めるものは、現在のさまざまな問題を解決し、将来の日本を形成していくための政策のみならず、「この人なら信頼して政治を任せたい」と思える人柄、つまり「かわいさ」です。
残念ながら、野党のみならず自民党の中にさえ、なかなかそれを真剣に考え実行している人がいないように思えます。(この点、マクロン大統領は非常に長けていると欧州マスコミは報道しています)
民主主義とは、良くも悪くもポピュリズムの政治形態です。
政策の立案は企業経営でいう「戦略」にあたりますが、それを実現させるための「戦術」の一環として、選挙ポスターのときだけ考えるのではなく、日ごろから自らの「かわいさ」をどうアピールしていくのか、真剣に研究して実践してほしいのです。それが最終的には最大の目標である政策の実現につながるのですから。
http://blogos.com/article/224069/
▲△▽▼
2017年06月12日
イギリスと日本、失われた10年の共通点
イギリスの細川護煕ことキャメロンが首相に選ばれた理由は、イケメンで女性に人気があるからだった。
こんな理由で首相を選んだイギリス国民が悪い、
young-David-Cameron
引用:http://i2.mirror.co.uk/incoming/article6484368.ece/ALTERNATES/s615b/young-David-Cameron.jpg
イギリス版「失われた10年」の始まり
イギリスは2016年6月にEU離脱国民投票を実施し、離脱が多数になり離脱する事に決めた。
ところが1年後の2017年6月の総選挙で与党保守党が敗北し、それも嫌だと言い出した。
1年前にキャメロン首相が辞任したばかりなのに、メイ首相も辞任しろとマスコミや国民は責任を追及している。
通貨のポンドは乱高下しイギリス経済は停滞しているが、経済そっちのけで政治闘争に明け暮れている。
これは25年前の東洋の国、そう日本とうり二つの状況と言えるのではないでしょうか。
政治混乱が引き金になり、イギリス版「失われた10年」が始まる可能性が、かなり高まっている。
まず日本の失われた10年だが、1971年7月15日の米ニクソン大統領の訪中あたりから、既に日本はおかしくなっていた。
ニクソン大統領は(当たり前だが)戦前生まれで、日本人が「鬼畜米英」と教わったように「日本人を人間と思うな」と教わった世代でした。
心の底から日本人を憎悪していたらしく、日本より第二次大戦を共に戦った中国に親近感を抱いており、米中国交回復で中国を国際社会に招きいれた。
テロ組織扱いだった中国はトントン拍子に出世してあっという間に国際連合常任理事国になり、世界の5大国に加わった。
同時にニクソンは金の兌換停止によって変動相場制に切り替え、この日から円は天井知らずの円高になっていった。
1985年にはレーガン大統領の元で「プラザ合意」が行われて、1年ほどの間に円の価値は2倍になった。(1ドル240円から120円になった)
日本の「失われた10年」
中曽根総理は円高対策として民営化と市場原理導入、低金利政策によってバブル経済を起こして不況を乗り切った。
だがバブルは想像を超える高騰を引き起こし、財務省と日銀は土地取引の禁止や利上げによって、強制的にバブルを終わらせた。
通常経済の過熱を抑えるには少しずつ金利を上げたり、加熱を抑えるが、この時は「昨日100だったものを今日はゼロ」という急激な変更を行った。
バブルは静まったが日本経済そのものが崩壊してしまい、この時から財務省は自らの失敗を隠すために消費税導入にまい進する。
経済崩壊で政治も大混乱をきたし、1993年には自民党政権が崩壊し、細川連立政権が生まれ、改革路線の経済運営を始めた。
選挙のたびに改革を唱える政治家が当選し、国民は「改革」を聞くと必ず賛成したが、改革とは経済的に言えば物価を下げる事と言い換えられる。
もし何かを改革して、その物の値段が上がったら「改革は失敗した」となり、改革の結果値段が下がれば「改革は成功した」事になります。
つまり改革すればするほど物価が下がりデフレになり、日本人は自分の意思でデフレ不況を作り出した。
改革して値段を下げて良いのはバブル期のようい経済が過熱しているときで、不況で物価が下がっているのに改革したら、もっと不況になるだけです、
国民はチャンネルを変えるように投票先を変えた
これに輪を掛けたのが財務省の消費増税で、不況なのに増税を強行してますます不況を悪化させ、GDPが縮小して税収も減ってしまいました。
日本経済はますます破綻して国民は不満に思い、毎年総理を交代して自民がダメならXX****、民主党にまた自民党とコロコロ投票先を変えて混乱に拍車を掛けた。
すると政治混乱がさらに経済を悪化させ、経済が悪化すると国民は政治のせいにして首相交代や政権交代を要求しました。
客観的に見れば日本人自身のせいで政治混乱を起こして不況にしたのだが、なぜ政治が混乱すると経済が悪化するのでしょうか。
選挙は民主主義で国民の意思を反映させる唯一の機会なので、政治が混乱すると政府は国民の意思を代表しなくなり、国民は常に「政権交代」を求めるようになります。
短期間で政権交代を繰り返して政治や経済が良くなる事は無く、事態はますます悪化するだけでしょう。
日本は80年代から「謝罪外交」を繰り返して学校の教科書でも子供に謝罪を要求したが、これは国内で深刻な政治対立を引き起こし、現在も右派と左派は対立している。
国民の意思が短期間に変わるので政治家は芸人のようにその時々で「受ける」事をやろうとし、有権者は芸人のネタ投票のように選挙で投票するようになる。
こうしたポピュリズムがさらに混乱を生み出し、さらに経済が悪化し、国民はもっと頻繁に政権交代を求めるようになる。
政治家がダメなのは国民がダメだから
これが日本の失われた10年ならぬ25年の姿で、元をただせばその時々で「受ける政治」を求めた国民が悪いのです。
テレビはチャンネルを変えれば面白い番組をやっているかも知れないが、まず有権者がしっかりしないと、政治家や政府だって国民の意思を反映しようがないです。
イギリスもこういう状況に入りこみつつあり、テロが起きれば「政治家のせい」、経済悪化も「政治家のせい」といってコロコロと政権交代し、経済は悪化していくでしょう。
まずイギリス人自身が正気に戻って判断しないと、首相が変わっても良くなるとは思えません。
イギリスの混乱の始まりは2010年にキャメロンが首相になってからだが、保守党がこの男を党首にしたのは「イケメンだった」というだけの理由だった。
保守党が政権を取るには女性票を必要としており、当時キャメロンは「イケメン」として女性に人気だったので党首にしたら圧勝した。
有権者がこんな事で政党や政治家を選んでいたら、混乱するのも自業自得かも知れない。
その後キャメロンは移民の大量移住や中国に依存する経済政策をはじめ、国民対立の原因をつくった。
キャメロンは「アメリカは没落するから、英米同盟を破棄して中国と同盟国になる」とまで宣言していました。
http://www.thutmosev.com/archives/71322153.html
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5:777
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2022/06/23 (Thu) 02:40:13
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植草さんの時は電通工作員(?)はマスコミでもネットでも大活躍だったね:
植草氏を擁護するブログには、執拗(しつよう)な批判を書き込む人が必ず居座る。2チャンネルにも。あらゆるメディアを横断する植草氏への悪評流布は、大掛かりな組織がなければ不可能に思われる。あるサイトには、このキャンペーンに大手広告代理店が関与しているとの指摘もあった。
痴漢えん罪にちらつく権力の結束
ブログで植草氏を擁護しているある男性は、何度も警察に暴力的な職務質問を受けている。普通の痴漢事件でないことは確かだ。2003年のりそな銀行救済時に外資系ファンドが大もうけした際、大規模なインサイダー取引があった疑いを植草氏は指摘している。一部国会議員も関与した可能性を示唆している。植草事件は警察権力だけでなく、司法、立法、マスコミの4大権力が結束して真相を隠ぺいしているのかもしれない。
http://news.livedoor.com/article/detail/3273674/
女性セブン7回示談報道に関することを話題にしたトンデモ・テレビ番組
「過去7回示談」の件は「女性セブン」誌のほかに、
独自の情報ソースで、放送あるいは報道したメディアはない。これはあ
るはずがない。なぜなら、旧官邸サイドが植草氏冤罪説、あるいは植草
氏国策捜査説がネット等で流されているのを見て非常な憂慮を持ち、窮
余の策として女性セブン誌に「駄目押し報道」をやらせた
この駄目押し報道をさらに駄目押しする役目を買って出ていたのが宮崎哲弥や橋下徹弁護士である。
植草一秀氏が朝日放送に対し、名誉毀損で提訴したとの事です。
2006.9.21に朝日放送の番組『ムーブ』にて、小学館の『女性セブン』の記事を取り上げ事実無根の内容を放送したことに対する名誉毀損の裁判です。
私もこの放送は当時確認しましたが、大変悪質です。
わざわざこの動画を出すことなどはしませんが、番組には弁護士の橋本徹、宮崎哲弥、大谷昭宏が出演しており、女性セブンの記事を画面で紹介し、その記事に対しこの3名がコメントするという内容でした。
番組は、週刊誌の記事の事実確認もせずそれをあたかも事実であるかのように放送し、無実を訴えている植草氏を嘲笑の的にした。
結果その事は事実無根であり、植草氏の名誉を傷つけ、植草氏の周りの人も傷つけた。 無責任でとても悪質だと思います。
紹介された内容を受けて、前述した3名は植草氏に対する誹謗中傷のコメントをしていました。
宮崎哲弥氏は完全に悪意を持ったコメントをしていました。
まるで事情通であるかのように、あることない事発言する。
http://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/897.html
宮崎哲弥は慶応大学法学部を2年で中退。その間何やってたかわかりません。
空白の2年。これってジョージ・マーシャル国務長官と同じパターン。
電通に急に気に入られてテレビにやたらとでまくる:
あんな評論家業界で小僧扱いされる宮崎が竹中総務相時代に
「NHK民営化を考える会」に入れる訳ないし、
(いくら電通に気に入られているからといって)CM出演して、
女優『藤原紀香』と共演して、鼻の下伸ばしまくれるはずがない。
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6:777
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2022/06/23 (Thu) 02:40:44
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2009年7月14日 (火)
植草さんのレクチャーの何が小泉純一郎氏を激怒させたのか!?
植草案件は小泉政権以降の自民党にとって、依然として国政を左右する大きな象徴となっている。ただ、多くの国民はこの事実を知らないと思う。マスコミが徹底して封じているからだ。今この時期に植草さんがもうすぐ収監されることの政治的な意味を考えれば、そのことがよくわかる。植草さんは今日の記事で、情報発信が絶たれることへの憤懣を表している。
「決戦の総選挙が行なわれ、選挙後に新政権が発足する最も重要な時期に、発言を封じられることに、激しい憤怒の念を拭えないが、政権交代を希求する多くの国民が賢明な選択を示してくれることを私は確信している」
先月(6月)25日、最高裁の近藤崇晴裁判長は、植草さん側の上告を棄却、懲役4月の実刑を出した1、2審判決が確定したが、収監の時期が刻一刻と近づいている。裁判官の主文は以下の通りであるから、120日(懲役4月)から未決拘置日数の60日を差し引いて、実効的に収監される日数は60日(2ヵ月)だと思われる。
【主文】
1 被告人を懲役4月に処する。
2 未決拘置日数中60日をその刑に算入する。
3 訴訟費用は被告人の負担とする。
13日、麻生太郎首相は衆院解散総選挙に関し、「今月21日の週に解散、8月30日投開票」とすることを決めた。今までの麻生政権のダッチロール(迷走)状況を見れば、8月の解散総選挙はある程度予想されていたと考えても不思議ではない。現権力側は、この時期を睨んで植草さんの強制収監を決めたものと見える。もとより、植草事件は二度とも、小泉官邸主導(****)政治の謀略であり、典型的な言論弾圧事件である。
(1)2004年4月の国策捜査事件 : 品川手鏡事件、非番警察官の付け狙ったかのような不自然な追尾、官憲側によって、モニター証拠画像が故意に消去隠滅された。
(2)2006年9月の国策捜査事件 : 一審第二回公判に検察側が用意した目撃証人が現れたが、その信憑性はきわめて低いものだった。管理人もこの公判を傍聴しているが、この証人は植草さんを取り押さえた一人を「車両の前方の方から私服の男性があらわれて、女子高生に話しかけました 」と言っている。(第二回公判速記録の481参照)
(※ 2006年の事件では、確度の高い情報によれば、電車の中で異常な膂力(りょりょく=腕力)の人間が植草さんを押さえつけながら駅員室に連れて行く途中、その片方の者が、携帯電話で警察署に直接電話している風景を複数の駅員たちが目撃しているのだ。一般人による逮捕事例ならほとんどあり得ないできごとだと言ってよい)
事件について詳しいことは、植草さんの赤いデザインの著書「知られざる真実ー勾留地にてー」やその他にも書かれている。管理人は、植草さんが2006年9月13日に、2回目の国策捜査事件に遭遇した翌日、14日から植草事件について調べてきた。権力側は植草さんの性癖論を固定化するためにメディアを使い、本人が抗弁できない環境で、警察が一方的に垂れ流した「国策報道」を怒涛(どとう)のように報道した。
植草事件を仕掛けたのが官憲であることはほぼ推測が付くが、それを指揮命令した大元の人物(個人か複数)が政治中枢にいたことは間違いない。仕組んだ者は、小泉・竹中構造改革路線をマクロ政策として定め、それについて、きわめて大きな決定権を持つで人物であることだけは間違いない。警察、検察、裁判官を、己(おのれ)の描くストーリーどおりに動くことを命令し、事件直後、京浜急行電鉄にいきなり緘口令(かんこうれい)を敷いた存在が何者であるかを考えた時、この事件の巨大な政治的背景を想起しないほうがおかしいのである。
植草さんが糾弾した小泉政権の対象は実は二つある。一つは小泉政権のマクロ政策への批判である。植草さんは、第一次小泉内閣発足の一年前に、日経新聞社長・杉田亮毅氏の仲介で小泉純一郎氏へ進講(レクチャー)に行った。この時、小泉氏と一緒にいたのが中川秀直氏であった。あまり知られていない話だが、小泉政権の官邸主導政治を確立した人物が中川秀直氏である。中川秀直氏と言えば、竹中平蔵氏とは別な意味で最もラディカルに小泉構造改革を推進した人物である。郵政民営化反対議員の復党問題の時、安倍元首相の権限を逸脱して「踏み絵」を行ったのもこの人物だ。
この時、小泉氏は植草さんのレクチャーをまともに受けず、怒って遮り、自論を滔々(とうとう)と述べたらしい。管理人の直感だが、この時、小泉氏が植草さんが行ったレクチャーの何に怒り狂ったのか、かなり自信を持って言えることがある。それは、おそらく双方の緊縮財政政策への見解の相違からではない。植草さんが郵政民営化改革について、小泉純一郎氏の逆鱗に触れることを意識せずに語ったからだ。
植草さんはこの時、小泉氏に二つの意見を言っている。その一つが1990年代の日本経済と経済政策の相関関係の説明である。経済の安定成長を重視しないと税収回復も中長期的な財政再建も難しいということ、やみくもに緊縮財政を行うと実体経済も駄目になるということを言った。小泉氏の意に沿わなかったようだが、マクロ政策の一つの提言であるから、政治家たるものは反対でも黙って聞く度量を持つべきである。
さて、管理人は小泉氏が怒り狂った真の理由は、植草さんの次の正論を聞いたからだと確信する。それは、「政府が郵貯や簡保の資金を集めて、それを道路公団や政策金融機関、あるいは公益法人に流すという巨大な財政投融資の仕組みがある。ここに日本の非効率があるという点については私も同意する。しかし資金の『入り口』である郵貯・簡保より、『出口』である事業実施機関や特殊法人、公益法人のほうに無駄がある。だから改革をするなら、入り口よりも出口の方が大事だ」 (「売国者たちの末路」P86から)
植草さんは、すでに2000年(?)のこの時点で、郵政民営化について、至極まっとうな方向性を示唆していた。もし民営化するなら、郵政資金を管理する金庫をどうするかではなく、運用先の改革、健全化こそが本質だと言っているのだ。ところが小泉純一郎氏はこれに著しく機嫌を損ねたようだ。その理由は管理人が何度か最近の弊ブログで指摘したことと大いに関係がある。賢明な読者さんならもうお気づきだと思うが、それこそが『四分社化』なのだ。
小泉純一郎氏の頭の中には、国民のための郵政民営化という視点などはまったくなかったのだ。したがって、彼の頭の中にある民営化構想は、『出口』改革は皆無であり、『入り口』だけだったと思う。340兆円に及ぶ莫大な郵政資金が収納されている『郵政三事業一体』をばらすことで分社化し、金庫の扉を開けようと頭に描いていたからだ。
野中広務氏は、鳩山邦夫氏とのテレビ対談の中で、(小泉政権は)郵政公社法案をこれ以上の改革はしないと決めておいて、いきなり民営化の方向に走ってしまったわけだから、そこにはどんな変化があったのか、アメリカの動きと比較して検証する必要があると言っている。これは管理人の言い方をするなら、郵政公社という三事業一体経営から、民営化と称して四分社に移行した経緯が、理由や必然性を含めて不明瞭だということになる。
四分社化は故・吉川元忠氏が断言したように、分社化することによっ、外資がM&Aをやり易くすることが目的なのである。日本郵政株式会社の経営権さえ掌握すれば、郵政グループが抱える国有財産(国民の共有財産)はどうにでもできる。あと恐ろしいのは、郵貯・簡保が蓄えている膨大な個人情報が米系外資に筒抜けになることだ。(国富消尽P98参照)
政権交代直前のこの重要な時期に、植草さんに情報発信させないように、今このタイミングで植草さんを牢獄に閉じ込めることは、政権を奪取した民主党が小泉政権の悪を暴露する時、植草さんが最も有力な人物となることをよく知っているからだ。彼ら(偽装CHANGE勢力)にとって、植草さんは真相を暴露する最も厄介な存在と言っていいだろう。
http://www.asyura2.com/09/senkyo67/msg/249.html
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2022/06/23 (Thu) 02:41:13
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民主主義って本当に大丈夫なの?
ヒトラーを****者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。
彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。
ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。
彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。
当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html
ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの****者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。
ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、
ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に****者になったということである。
ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。
そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。
ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。
1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。
そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。
こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。
その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html
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ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持した理由
マイナス金利政策を巡る顛末からも分かる通り、現在の日本が抱える問題は、
「特効薬が効かない!」
という話ではなく、普通の薬を飲まず、特効薬を追い求めている、という点に本質があります。
と言いますか、ここまで一貫して普通の薬(財政政策)から目をそらし、効果のコミットができない特効薬を探し回る光景は、もはや喜劇です。普通の薬は、効果について事前にコミットできるにも関わらず、頑なにそこから目をそらす。
実は、現在の日本や欧州同様に、主要国の政策担当者が病的なまでに財政均衡にこだわり、国民経済を貧困化させるという光景が、80年前にも見られました。
『[FT]21世紀におぼろに見えるドイツ帝国銀行総裁の影
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO97052220Y6A200C1000000/
ジョン・ワイツによるヒャルマー・シャハトの伝記『Hitler’s Banker(邦訳:ヒトラーを支えた銀行家)』を読み返したら、これまで筆者が考えていなかった1930年代と現在の興味深い共通点に気づいた。
ヒトラーが再軍備計画の資金を賄うために、配下の中央銀行総裁だったシャハトに頼ったことは、よく知られている。
だが、ワイツは――そしてここが今日のユーロ圏に潜在的に関係するところだが――、シャハトがライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)で非伝統的な政策を追求できたのは、ひとえに****者の後ろ盾があったからだとも指摘している。(中略)
欧州北部諸国に共有されているブリュッセルとフランクフルトの現在の正統的政策には、30年代に一般的だったデフレマインドとの類似点がいくつかある。
今日の政治家と中央銀行家は、財政目標と債務削減に固執している。30年代前半と同様に、正統的な政策には病的なところがある。今日の中央銀行家は、言うことが尽きると「構造改革」に言及するが、そうした改革が一体何を達成するのか決して口にしない。
原則としては、ユーロ圏の経済問題を解決するのは難しくない。欧州中央銀行(ECB)が市民一人ひとりに1万ユーロの小切手を手渡せばいい。物価の問題はものの数日で解決されるだろう。あるいは、ECBは独自の「IOU(借用証書)」を発行することもできる。
シャハトが行ったのは、それだ。
または、欧州連合(EU)が債券を発行し、ECBがそれを買い上げてもいい。紙幣を印刷する方法はたくさんある。どれも皆、素晴らしい方法だ。そして違法でもある。(後略)』
ナチスがドイツで政権を握ったのは、デフレーションで国民の間にルサンチマンが蔓延し、「攻撃的」な政党が喜ばれるという形で社会が歪んでしまったためです。
とはいえ、ナチスが「支持された」のは、これはもう、ヒトラーとシャハトのコンビが、各国が財政均衡主義の魔物にとらわれ、緊縮財政政策を推進する中において、アウトバーン建設に代表される大規模景気対策を打ったおかげなのです。
ヒトラーが率いるナチスは、1932年には43%(!)だった失業率を、五年間で完全雇用に持ち込んでしまいました。
それはもう、ドイツ国民がナチスを熱狂的に支持したのも、無理もない話なのです。
ちなみに、わたくしは別にナチスを賛美したいわけではなく、「人類」は歴史的に財政均衡主義を「愛し」、デフレ期の財政出動という普通の薬を飲むことができず、デフレの原因を(なぜか)、
「構造改革が不足しているから」
という、意味不明というか逆効果(構造改革はインフレ対策)の政策を採用。
緊縮財政と構造改革、つまりは需要縮小策と供給能力拡大策によりデフレを深刻化させ、
「国の借金で大変だ~っ!」
「構造改革が足りないからだ~っ!」
と、バカの一つ覚えのように自縄自縛となる愚かな政策を繰り返してきたという話です。
特に、デフレ期には単なる「債務と債権の記録」に過ぎないおカネに国民総じて固執し、政府が普通の薬(財政出動)を飲もうとすると、
「政府は無駄なカネを使うな!」
と、やるわけです。結果、デフレギャップは埋まらず、国民が貧困化し、ルサンチマンが蔓延し、最後には「他の国民を攻撃する」ことで人気を博すポピュリスト政治家が権力を持ち、民主主義が壊れます。
あるいは、貧困化が行き着くところまで行き着き、国家は虎の子の供給能力を失い、発展途上国化します。
民主主義の破壊や、発展途上国化を回避するために必要なのは、「特効薬」でも「万能薬」でもありません。しつこいですが、普通の薬、財政出動を中心とした景気対策という普通の政策なのです。
それにも関わらず、政治家や国民が「普通の薬」について議論しようとさえしない現状に、わたくしは恐怖すら覚えるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12128570302.html
▲△▽▼
現在の状況は、1930年代のヨーロッパとそっくりです。
1929年のNY株式大暴落に端を発した大恐慌により、ドイツは失業率が43%(32年)に達してしまいました。国民のルサンチマンがピークに達した状況で、ナチス・ドイツが政権を握り、ヒットラーが首相の座に就きました。
ナチスはヒャルマル・シャハト(ライヒスバンク総裁)の下で、大々的な財政出動を実施。アウトバーンや国道が建設され、WW2開戦までに、3860kmが建設されました。ナチス・ドイツという****的な政権の下で、ドイツ経済は瞬く間に回復。わずか五年間で、失業率が完全雇用の水準に至りました。
当然ながら、ドイツ国民はナチスを熱狂的に支持します。
妙な話ですが、現在や大恐慌期のような需要低迷期には、なぜか「民主主義国」の方が大々的な財政出動に踏み切れず、状況が悪化します。逆に、****国は政府が剛腕をふるい、財政を拡大し、国力を強化してしまうのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12137232005.html
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8:777
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2022/06/23 (Thu) 03:07:57
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貧しいほど****求める? 英研究チームが発表 世界で調査 朝日新聞
経済的に不安定な人は、他人の言うことに耳を傾けない****的な政治家を支持しがちになる――。英国の研究チームが、世界の14万人へのアンケートを分析した論文を、米科学アカデミー紀要に発表した。
チームは2016年の大統領選を前にした米国の750人を調査。トランプ氏はクリントン氏より「****的」とみる人が多く、貧困率や失業率が高い地域に住んでいる人ほど、トランプ氏に投票すると答えた。
米国以外でも同じかどうかを確かめるため、69カ国の13万8千人を調べた。失業率が高い地域の人ほど、「議会や選挙を気にしなくてもいい強い指導者」を好んだ。「人生を自分でどれだけコントロールできているか」を自己評価した点数が低い人ほど、強い指導者を求めていた。
チームはこの結果について、「世界の有権者が****的な指導者を選び続けるわけを説明するものだ」と考察している。(小宮山亮磨)
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9:777
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2022/06/23 (Thu) 03:12:41
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ドイツ人を変えた超天才ヒトラー奇跡の演説
Eine Rede von Adolf Hitler (アドルフ・ヒトラー氏の演説) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hHOBS1QUIak
【日本語字幕】ヒトラー 演説 "世界は我々を裁けない!" - Hitler Speech "The world cannot judge us!" - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tIYsrBPG8Jo&t=88s
【日本語字幕】ヒトラー首相就任演説 - Hitler Speech "Proclamation to the German Nation"
https://www.youtube.com/watch?v=0KU7UM3i4qw&t=762s
アドルフ・ヒトラーとナチ党はドイツの今までの内閣や大統領、君主達が得ることのできなかった大きな権力を表面上合法的に手中にした。この権力掌握の過程は大きく分けて二つの時期に分類される。ナチ党が国内有数の政党になってから、1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内外の政敵をほぼ一掃し、立法権・行政権・司法権の三権を含むドイツ国内の権力を、党・国家そしてヒトラーが支配するまでの期間である。後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。
00:00 ゲッベルスによる前座
08:16 会場実況
12:00 ヒトラー演説
14:48 第一次世界大戦におけるドイツ国民の罪
15:22 政治の現状
17:35 マルクス主義について
19:36 ワイマール政府によるドイツの現状
24:31 ドイツ文化の衰退
25:36 ドイツの歴史教育
26:49 ワイマール政府によるドイツの経済状況
29:20 地方の財政状況
31:31 ドイツ国民への約束
33:27 自由と幸福は突然と空から降ってはこない
33:58 国民自身が国民を向上させるのだ
34:55 人生の法則と基盤
36:36 ドイツ民族復活のあり方
37:00 ドイツ国民に対する決意
38:53 偉大な帝国
39:45 ゲッベルス閉会宣言
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ヒトラーを****者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。
彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。
ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。
彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。
当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html
ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの****者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。
ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、
ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に****者になったということである。
ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。
そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。
ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。
1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。
そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。
こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。
その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html
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錬金術師と呼ばれた総裁
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/
ナチスの経済的錬金術
Germany 2Germany 11Germany 7
(左 : ハイパーインフレに苦しむドイツ人 / 中央 : 札束で遊ぶ子供たち / 右 : 紙幣を燃やして料理を作るドイツ人女性 )
話を戻す。現在の日本はデフレ経済で苦しんでいるけど、こんな状態になるのは昔から分かっていたんじゃないか。筆者だって長谷川慶太郎の本を読んでいたから、「あぁ~あ、こりゃ重症になるぞぉ~」と思っていた。しかし、バブルが弾けた後の処方箋は比較的簡単で、民間企業が元気をなくしているなら、政府が公共投資を増やして景気を回復するしかない。小室直樹先生のファンなら、ケインズの経済学を想い出すかも知れないし、一番分かりやすいのはヒトラーの経済政策だ。
戦勝国から巨額の賠償金を課せられ、ルール地方まで奪われたドイツは、ハイパーインフレの嵐に見舞われ絶望の淵に沈んでいた。(それでも、李氏朝鮮よりマシだろう。) 極度の疲弊は歴史に刻まれている。例えば、
1923年のベルリンではパン1斤の値段が4千280億マルクで
1kgのバターを買うとなれば5兆6千億マルクを払わねばならない。
新聞を読もうとすれば「2千億マルクになります」
と言われ、ギョッとする。
電車賃でさえ1千500億マルクもしたんだからしょうがない。(Constantino Bresciani-Turroni, The Economics of Inflation : A Study of Currency Depreciation in Post-War Germany, G. Allen & Unwin Ltd., London, 1937, p.25.)
さらに、世界大恐慌で失業者が巷にドっと溢れ出したんじゃ、もう泣きっ面に蜂みたいで毎日が青色吐息。
企業の倒産や金融危機が荒れ狂うドイツでは、国内総生産がガタ落ちで、1932年の失業者数は約558万人に上ったそうだ。
(Deutsche Bundesbank, ed. Deutsches Geld und Bankwessen in Zahlen 1876-1975, Knapp, Frankfurt am Main, 1976.)
このように滅茶苦茶になったドイツを救おうとしたのがヒトラーで、彼は1933年2月に新しい経済計画を発表する。この元伍長は、公共事業による失業者問題の解決や価格統制を通してのインフレ抑制を図ったのだ。一般の労働者を支持基盤にするヒトラーは四年間でドイツ経済を何とかすると約束し、その実現を目指して強権を発動した。
今の日本人はヒトラーを狂暴な****者とか、ユダヤ人を虐殺した悪魔と考えてしまうが、当時のドイツ庶民にしてみたら結構評判の良い指導者だった。ユダヤ人に対しては閻魔大王みたいだったけど、ドイツ人労働者に対しては親方みたいな存在で頼りになる。ヒトラーは偉大な救世主を目指したから、国民の福祉厚生に力を入れ、社会の底辺で苦しむ庶民の生活水準を上げようとした。
Schacht 2( 左 / ヒャルマー・シャハト)
誰でも大々的な公共事業をやれば景気が良くなると分かっている。が、肝心要の「お金」が無い。傘が無ければ井上陽水に訊けばいいけど、資金が無ければ優秀な専門家を探すしかないから大変だ。
でも、ヒトラーは世界的に著名なヒャルマー・シャハト(Horace Greeley Hjalmar Schacht)博士に目を附けた。奇蹟の復興を目論む総統は、シャハトを口説き落とし、ドイツ帝国銀行の総裁および経済大臣になってもらうことにした。
ヒトラーの抜擢は功を奏し、シャハト総裁はその手腕を発揮する。ドイツ経済はこの秀才のお陰で潤滑油を得た歯車のようにグルグルと動く。
マルクの魔術師はドイツの経済状態を診断し、インフレを起こさない程度に国債を発行する。ナチスに元手が無ければ、ドイツ人が持つ「労働力」を担保にすればいい。
労働者を雇っている事業主が、その労働力に見合った手形を発行し、それを自治体が受け取り、銀行に割り引いてもらう。すると、銀行は自治体にお金を渡して、自治体は公共事業を請負業者に発注する。
こうして、仕事が増え、手形がお金に変わって、世の中をクルクルと回ればみんなハッピーだ。「すしざんまい」の木村社長みたいに笑顔がこぼれる。
ドイツ人のみならずアメリカ人までもが、「シャハト博士は錬金術師か?」と思うほど、彼は金本位制からの脱却に成功した。戦前、通貨の発行は金の保有量を考慮せねばならず、政府が無闇矢鱈に欲しいだけ紙幣を刷るなんて暴挙だった。確かに、当時のドイツを観れば理解できよう。
1935年当時、ドイツの帝国銀行が保有する金は、たったの56mt(メートル・トン)しかないのに、通貨額は約42億マルクもあった。(換算すると1,800,441 troy ounces)
ちなみに、外国が持つ金の保有量を見てみると、
ブリテンが1,464mt、
フランスは3,907mt、
アメリカだと8,998mt、
ネーデルラントは435mt、
ベルギーが560mtで、
スイスは582mt
となっていた。(Timothy Green, World Gold Council and Central Bank Gold Reserves : A Historical Perspective Since 1845, November 1999を参照)
国債反対より、何に使うのかを議論せよ !
Hitler 7Hitler & kids 1
(写真 / ドイツの子供たちから歓迎されるヒトラー)
ナチスの経済計画でドイツの国民総生産が増大したのは有名だが、注目すべきは公共事業費の流れ方だ。つまり、ヒトラーはアウトバーンなどのインフラ整備を目指したが、その際、末端の労働者に充分な賃金が行き渡るよう心掛けたという。建設工事にかかる支出の約46%までが労働者の給料になったのだ。これにより、一般労働者の懐が温かくなり、前から欲しかった衣料品を帰るようになった。
日本だと、政府や議員がゼネコンに丸投げし、たっぷりピンハネしてから子会社に仕事を回すのが普通だ。そして、この中抜きには「続き」がある。子会社は更なるピンハネを行って、立場の弱い孫会社に分配するから、下っ端の職人が手にするのは雀の涙ていど。これじゃあ、地上波テレビ局と同じだ。例えば、ドラマを制作するためにスポンサーがフジテレビに1億円払えば、局がごっそりピンハネして、子飼いの制作会社に丸投げ。受注した制作会社もピンハネして孫会社に任せ、その孫請けが曾孫会社を使って実際の番組を作るんだから、出来上がった作品が貧相な代物になるのも当然だ。もしも、このドラマがブラック企業をテーマにした作品なら、お金を払って俳優を雇わず、社員の日常を撮影してドキュメンタリー・ドラマを作った方がいい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/
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10:777
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2022/06/23 (Thu) 03:13:59
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哲学者ハイデガーのノートに反ユダヤ主義の記述。 2014年4月1日
https://maash.jp/archives/25119
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http://www.nytimes.com/2014/03/31/books/heideggers-notebooks-renew-focus-on-anti-semitism.html?_r=0
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思想史の中で重要な位置に立つドイツの哲学者ハイデガーだが、彼の私的ノートブックが出版化され、物議を醸している。
彼がナチスに共鳴する国家社会主義者だったことは誰もが知っているが、そのノートブックによって、彼の反ユダヤ主義の心情があからさまになったのだ。
ノートは1931年から41年までのノートで、本のタイトルは『ブラックノートブック』。
その41年の部分でこういうメモがある。
“World Jewry, is ungraspable everywhere and doesn’t need to get involved in military action while continuing to unfurl its influence, whereas we are left to sacrifice the best blood of the best of our people.”
世界のユダヤ民族は、掴み所がなくいたるところにいるが、軍事活動に巻き込まれることはない。
しかし、その影響力は広がり続けている。
一方で我々は、自分たちの人々のために血を犠牲にしている。
こういった反ユダヤ的主張は3冊のノートの2冊と半分を占め、1200ページにおよぶ。
彼が反ユダヤ主義に傾倒していたことは明らかで、ドイツ国内のユダヤ人を問題視していたことも間違いない。
そのため、ナチスの反ユダヤ政策の哲学的・知的リーダーとしての影の役割があったと言っても否定できない。
ハイデッガーはフライブルグ大学総長になった1933年にナチス党に入党。
ナチス革命を賞賛し、大学をナチス的にしようと改革を試みた。
また、ヒトラーを説得して物質的から自然的な社会の復権を目指したという。
ただし、ナチス党がユダヤ人を迫害しはじめたころから距離を置くようになり、ナチスの監視も受けている。
ホロコーストのころに指導的役割を担っていたとは言いがたい。
反ユダヤ主義はニーチェもそうだったように、高度化する資本主義社会への警鐘でもあった。
ドイツではユダヤ人が都市を中心とした資本主義で成功し、中流以上の家庭を築いていた。
一方でドイツ人は労働者が多く、ユダヤ人に雇われることも多かった。
しかし、当時ドイツのユダヤ人は社会主義思想に目覚め、ワイマール政権が生まれていたのだが、ナチスはそれらを否定した。
経済的にドイツ人が主導できるように、ドイツ人による国家的な社会主義を目指したのだ。
ナチスとは、熱狂だ。
ヒトラーもハイデガーも、おそらくユダヤ陰謀論に深く傾倒していた。
世界的なユダヤ組織が、世界征服を目論んでいるというものだが、ドイツ国内のユダヤ人はすでにドイツ国民であるという意識が強く、第一次世界大戦にも兵士や将校として参加していた。
彼らからすると、迷惑な噂だ。
しかし、ユダヤ陰謀論は人を「知らない世界を知っている」という気分にさせ、高揚させる。
まるで現代のNASA陰謀論のようにヒトラーとハイデガーを熱狂させた。
同じように熱狂があったロシアでは、ユダヤ人の村ごと迫害するポグロムが起き、多くの敬虔なユダヤ人がドイツに難民として登場した。
神秘的な彼らの姿。それが陰謀論に火を注いだのだ。
偉大な哲学者ハイデガーも、結局は盲目だったと結論づけたい。
https://maash.jp/archives/25119
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11:777
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2022/06/23 (Thu) 03:14:29
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米国の資本家はスターリンを倒す為にヒトラーを支援した
2021年07月31日
ナチスを育てた米国の資本家 / 隠された西歐史
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html
ヒトラーに資金を流した黒幕
Hitler 2232J.P. Morgan 221
(左 : ドイツ兵を前にするヒトラー / 右 : ウォール街の大物 J.P.モルガン)
西歐世界における歴史教育は非常に厄介だ。なるほど、歐米諸国では優秀な大学教授や有名な研究者が、膨大な資料に基づき様々な歴史書を出版してきたし、現在も続々と新刊本が出ている。かつてのソ連圏や****、朝鮮で出版される歴史書なら、「こんなのは政治プロパガンダの一種だろう」と笑われてゴミ箱行になるところだが、名門大学の権威者が世に出した“学術書”となれば話は別だ。一般人は準聖書の如く扱い、謙虚な心を以て恭しくその青史を繙く。まさか、歴史の真実を隠蔽するための偽典とは思わない。なぜなら、多少、解釈や判断の違いがあっても、あからさまな捏造は無いからだ。しかし、高名な学者であっても、何らかの“不都合な事実”を葬るため、意図的に言及を避けたり、陰謀論として却下するから一般国民には注意が必要だ。
従来の学校歴史観だと、英米はソ連を同盟国にして、極悪のドイツ、イタリア、日本を成敗したことになっている。さらに、英米の勝利は「ファシズムに対するデモクラシーの勝利」となっているから片腹痛い。なぜなら、どうして極悪の共産主義国、すなわち全体主義のソ連が同盟国となっているのに、リベラル・デモクラシーの勝利と宣言できるのか? しかも、アメリカは大虐殺を厭わない毛沢東を支援して、****大陸の赤化を推進した張本人。朝鮮戦争だって、ディーン・アチソンやジョージ・マーシャルの不可解な言動を調べれば、米ソの「出来レース」だと判る。東アジアは米国から遠く離れた化外の地。冷たい“緊張状態”が続くことは、エスタブリッシュメントにとって必ずしも損な状態ではない。ノルマンディー上陸作戦だって甚だ怪しく、ポーランドを含めた東歐諸国をソ連に貢ぐための策略じゃないのか、と思えてくる。もし、本当に歐洲を救いたければ、フランスの海岸じゃなくバルカン半島から上陸し、北上しながら反撃すればいいじゃないか。英米の一般人は、ポーランドがヒトラーの手から解放され、スターリンの懐に入ったから嬉しいのか?
Normandy D Day 001WW II Battle-of-Stalingrad
(左 : 「ルマンディー上陸作戦」に参加したアメリカ兵 / 右 : 第二次大戦で勝利したロシア兵)
もちろん、一般のアメリカ国民や連合軍の将兵は、米国と歐洲を救うべく、多大な犠牲を払ったと思っている。しかし、大戦が勃発する原因や経緯、戦後の経済体制や国際秩序を冷静に見つめてみれば、何となく割の合わない結果であることに気づく。普通のアメリカ人やイギリス人は絶対に口にしないけど、「どうも、腑に落ちない。日独に勝ったとはいうものの、俺達の生活は良くならないどころか、以前よりも悪くなっている。第一、ナチズムを一掃したら、今度は故郷に有色人種が増えちまった。アーリア人を殺して、アフリカ人が隣人なんて真っ平御免だぞ。これなら、ドイツと一緒に組んでユダヤ人を中東に叩き出しておけばよかった。あれだけ多くの血を流したのに、その結果がこの程度なんて・・・」と嘆いてしまう。そもそも、大戦前にブリテン帝國の崩壊と英国病を予想したイギリス人は、いったい何人いたんだ? また、南洋戦線で日本兵を撃ち殺した白人兵は、本国での人種平等、つまり黒人との混淆やユダヤ人との共生を望んでいたのか?
第二次世界大戦の隠された目的は、独立を高めるドイツ帝國への懲罰処分にあった。我々はナチ・ドイツがヨーロッパ諸国を侵掠し、ユダヤ人を迫害したから、正義と秩序を守る英米が蹶起(けっき)した、と習っている。しかし、こんなのは子供騙しの御伽噺だ。大戦の理由は幾つかあるけど、そのうちの一つは、歐米世界を牛耳る闇組織の誤算にあった。ロスチャイルド家の指令を受けたウォーバーグ銀行が、レーニンのボルシェビキに資金を流したことはよく知られている。日本人は「ロシア革命」と思っているが、実質的には「ユダヤ人によるクーデタ」と呼んだ方がいいだろう。嘘だと思う日本人は、ボルシェビキの幹部を一人一人じっくりと眺めてみれはいい。
ポグロムを以てユダヤ人を度々迫害してきたロマノフ朝ロシアは、ユダヤ人にとったら不倶戴天の敵であるから、一家皆殺しは当然の結果である。しかし、革命の目的はそれだけではない。ロシアの富を収奪しようとする連中にとって、買収の効かないロシア皇帝は邪魔者でしかなかった。もし、外国人勢力がロシアの天然資源を根こそぎ奪い、民衆を低賃金労働者にして搾取すれば、必ずやロマノフ王朝は介入してくる。おそらく、外国企業は国外追追放になってしまうだろう。でも、子飼いのレーニンが支配者になれば、共産党が唯一の窓口になるから、党の幹部に甘い汁を吸わせておけば、後は国際企業のやりたい放題。巨大な資金を有するオルガルヒのような悪党、つまりロシア人の“フリ”をしたユダヤ人が、ロシアの至る所で跋扈し、ロシアの石油や稀少金属を掘り出して巨万の富を得るだろう。もちろん、ボルシェビキの一般党員は「赤色革命」の輸出に夢中だ。しかし、裏から資金を流していた連中は違う野望を抱いていた。そして、世界政府の樹立を目論む大富豪は、レーニン亡き後の指導者にレフ・トロツキーを充てようと考えていたのだ。
Lenin 00321Trotsky 661Stalin 231
(左 : ウラジミール・レーニン / 中央 : レフ・トロツキー / 右 : ヨシフ・スターリン )
ところが、グルジア人のヨシフ・スターリンが、国際金融業者の計画に大きなズレをもたらした。スターリンは巧妙な策略を用いてトロツキーを欺き、レーニンの葬儀に参列できないよう仕組んでしまう。意識朦朧のレーニンから「後継者の指名を受けた」スターリンは、****者として赤いロシアに君臨する。しかも、冷徹な目で現状を捕らえる大元帥は、トロツキーの永続革命論を斥け、一国社会主義で自分の土台を固めようと考えた。これはトロツキーを「操り人形」にしようと考えていた資金提供者にとっては番狂わせのパプニングだ。彼らはスターリンを甘く見ていたのかも知れない。知識人型のレーニンと違って、暴君型のスターリンは金持ちどものペットになる気は更々無かった。レーニンは資本家の足元にひれ伏したが、スターリンは彼らの尻(ケツ)を舐めるのが大嫌い。ユダヤ人のパトロンに頭を下げるくらいなら、自前で金を稼ぐ方がいいと考えた。実際、スターリンは金に困って強盗になったし、バイシュン婦を搾取する女衒にもなっていた。やはり、革命家は暴力団の闘士でなきゃ。
ボーダレス・エコノミーを夢見る資本家達は、「絶大な権力を手に入れたスターリンを何とか制禦しなければ !」と思い、このグルジア人を懲らしめる政敵を創ろうと考えた。そこで目に附けたのが、当時、まだ駆け出しの政治家であったアドルフ・ヒトラー。なんと、ロンドンやウォール街を牙城とする大物ビジネスマンは、現地の企業を通してヒトラーに活動資金を渡していたのだ。この経緯については、アンソニー・サットン教授が詳しく述べている。フーバー研究所に属していたサットン教授は、ウォール街とボルシェビキの関係を明らかにしたことで有名だ。彼の三部作を読めば、どんな人物がヒトラーのパトロンになっていたかが判る。
Anthony Sutton 1Emil Rathenau 002Walther Rathenau 001
(左 : アンソニー・サットン / 中央 : エミール・ラーテナウ / 右 : ヴァルター・ラーテナウ )
ヒトラーの台頭を助けた企業として挙げられるのは、米国の有名企業である「ジェネラル・エレクトリック社(General Electric)」である。この会社はベルリンにある「ドイツ・ジェネラル・エレクトリック社(Allgemeine Electricitäts Gesellschaft / A.E.G.)」と提携し、国家社会主義者のヒトラーを支援するスポンサーになっていた。「A.E.G.」というのは、エミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)がトマス・エジソンの特許を取得して設立した、「ドイツ・エジソン電器会社(Deutsche Edison Gesellschaft für angewandte Electricität)」が前身となっている。そして、エミールの息子というのが、ワイマール共和国で外相を務めたヴァルター・ラーテナウ(Walter Rathenau)ときている。彼は1922年に暗殺されてしまうが、元々は父親の跡を継いでA.E.G.の経営を担っていた人物だ。
ドイツでA.E.G.をパートーナーにしていたのが、アメリカの「ジェネラル・エレクトリック(GE)」で、GEの経営陣には、日本でも有名なオーエン・ヤング(Owen D. Young)とジェラルド・スウォープ(Gerard Swope)がいた。第一次大戦後、ベルサイユ体制で痛めつけられたドイツは、不況とハイパー・インフレーションに見舞われ、賠償金の返済にも困っていた。これを憂慮したアメリカは、ドーズ案とかヤング案を用いてドイツの経済復興を助けようとした。当時のカルヴィン・クーリッジ大統領は、特別委員会を設置し、元銀行家で副大統領になったチャールズ・ドーズ(Charles Dowes)を委員長にしてドイツへ派遣する。オーエン・ヤングが議長となった委員会では、「ヤング案」という計画が作成され、これが新たな賠償方式となった。このヤング委員長はGEの会長で、復興支援を模索する傍ら、ドイツの電器産業を束ねる計画、すなわちカルテルを結成しようと目論んでいたのだ。彼は他の企業の経営にも携わっており、「Radio Corporation of America」の会長や「OSRAM」と「A.E.G.」の経営者、ニューヨークのFRB副議長も務めていた。(註 / 「オスラム : OSRAM」というのは、電球などの照明器具を製造するドイツ企業で、ここの日本法人は神奈川県にある。)
Owen D. Young 22Gerard Swope 001Charles Dowes 1
(左 : オーエン・ヤング / 中央 : ジェラルド・スウォープ / 右 : チャールズ・ドーズ )
ジェラルド・スウォープはGEの社長で、「A.E.G.」や「OSRAM」の経営にも携わっていた。彼も様々な役職を兼ねており、RCA(ヤングが創設したラジオ局や電気機器、レコード会社を手掛ける多国籍企業)、NBC(三大ネットワークの一つ)、ニューヨークの「National City Bank」の経営陣にもなっていたが、ヤングと同じくモルガン商会の代理人であった。J.P.モルガンの手下は他にもいて、GEの経営陣に属するクラーク・ヘインズ・マイナー(Clark Haynes Minor)は、「International General Electric(I.G.E.)」の社長であった。ヴィクター・カッター(Victor M. Cutter)もGEの経営陣に加わっており、彼はボストンの「First National Bank」を任されていた。
ドイツの経済界でカルテルを形成しようと図るGEは、大手企業のA.E.G.を傘下に納めようと画策した。1929年8月、1,400万マルク相当の株がGEの手に渡り、両者の人的関係や技術提携は濃密になった。1930年1月になると、A.E.G.の重役会議にはGEの三人衆、すなわちクラーク・マイナーとジェラルド・スウォープ、E. アーサー・ボールドウィン(E. Arthur Baldwin)が送り込まれた。(註 : ボールドウィンは「International General Electric Company」の副社長を務めていた。) GEの野望は壮大で、このアメリカ企業はドイツの大手企業である「シーメンス&ハルスケ(Siemens & Halske)社」にも食指を伸ばし、電器業界の独占を目指していたのである。しかし、GEの目論見は達成されず、シーメンス& ハルスケ社は独立を保つことができた。(このS&H社はシーメンス社の一部門で、かのシーメンス社は電気・通信技術をはじめ、発電機やロータリー・エンジンなどの開発も手掛ける大手企業。大正3年に発覚した「シーメンス事件」は有名で、帝國海軍の高官が贈賄を受けたとのスキャンダルが騒がれ、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。)
ウォール街からやって来た投資家や企業家は、貪欲にもドイツ企業の支配に励んでいた。GE社の「International General Electric(I.G.E.)」は、「A.E.G.」株の約30%を取得し、「Gesellschaft für Electrische Unternemungen」社の株だと全体の約25%、「Ludwig Lowe & Co.」も餌食となって、全体の約25%を占められていた。(「G.E.U」は投資会社から始まった電力供給会社で、鉄道事業も手掛けていたドイツ企業。「Ludwig Lowe」の方は、機械製造の会社で、武器弾薬の生産も行っていた。) IGEはOSRAMにも影響力を持ち、A.E.Gの経営陣を通して操っていたという。
シーメンス社が間接的にヒトラーへ献金を行った事はあっても、直接的に渡したという証拠は無いらしい。でも、「A.E.G」や「OSRAM」からの資金提供は明らかで、「国家信託機構(Nationale Treuhand)」を介して資金を流していたそうだ。(Anthony C. Sutton, Wall Street and the Rise of Hitler, Seal Beach, California : '76 Press, 1976, p.53.) 米国のビジネス業界と連動するドイツ企業もヒトラーに資金提供をしており、染料や肥料、窒素の生産で有名な「I.G. ファーベン(Interessengemeinschaft Farbenindustrie)」も直接的に献金を行っていた。A.E.G.から数名の役員がI.G. Farbenに出向しており、A.G.Eの会長を務めるヘルマン・ブュヒャー(Hermann Bücher)とユリウス・フレッチハイム(Julius Flechtheim)、そしてヴァルター・フォン・ラス(Walter von Rath)の三名は、I.G. Farbenの重役でもあった。
A.E.G.のウァルター・ファーレンホルスト(Walter Fahrenhorst)は、「フェニックス社(Pheonix A.G.)」や「ティッセン社(Thyssen A.G.)」、「デマグ社(Demag A.G.)」の重役を兼ねており、この三社はともにヒトラーへの献金を行っていたという。(上掲書、p.57) また、潜水艦や戦車に使われるバッテリーを製造していた「Accumulatoren Fabrik 社」もA.E.G.の重役二名、アウグスト・フェファー(August Pfeffer)とギュンター・クァント(Günther Quandt)を迎えており、2万5千ライヒス・マルクの献金をヒトラーに渡していた。ちなみに、クァントは「Accumulatoren Fabrik 社」が発行する株の75%を個人的に持っていたそうだ。A.E.G.のポール・マムロス(Paul Mamroth)とハインリッヒ・ファールス(Heinrich Pferls)は「OSRAM」の重役で、同社はヒトラーに4万ライヒス・マルクの献金を行っていた。
鉄鋼業から始まり兵器産業へと進出した「クルップ社(Krupp)」も「I.G.E」と繋がっていた。GEは子会社の「Carbolony Company」を使ってクルップ社とカルテルを組み、「炭化タングステン(tungsten carbide)」の値段を吊り上げた。1920年代、この素材は1ポンド当たり50ドルしかしなかったのに、Carboloyが特許を用いて独占を図ると、1ポンド当たり453ドルまで高騰したという。これにより、両社は大儲け。I.G.E.と提携したクルップは、60万ライヒス・マルクの資金をヒトラーに提供していた。
学校の教科書を疑わない日本人は、ナチスとヒトラーの話を聞けば、直ぐにホローストや侵略戦争を頭に浮かべてしまうが、「誰が伍長上がりの活動家に銭を渡したのか」を考えることはない。政治家になるには理念や情熱だけでは不充分で、必ず活動資金が必要となる。ユダヤ人の害悪を訴える退役伍長は、大企業の御曹司でもなければ、貴族の道楽息子でもない。露骨に言えば、大勢の乾分(こぶん)を抱えたルンペン親分だ。潰しの利かない武闘派の手下に飯を与えるだけでも精一杯。だから、アメリカやブリテンからやって来た怪しいビジネスマンでもOKとなる。「シドニー・ウォーバーグ(Sidney Warburg)」というペンネームで出版された『Financial Origins of National Socialism』によれば、ウォーバーグ自身が1929年から1933年にかけて、5回ほどヒトラーと会談し、このドイツ人が資金を欲していると分かったので、約2500万ドルを送金したという。
Paul Warburg 11James Paul Warburg 221max_warburg_1905Eric Warburg 11
(左 : ポール・ウォーバーグ / ジェイムズ・ポール・ウォーバーグ / マックス・M・ウォーバーグ / 右 : エリック・H・M・ウォーバーグ )
Mathilde Ludendorff 001(左 / マチルデ・ルーデンドルフ)
もちろん、この「シドニー・ウォーバーグ」というのは実在の人物ではない。しかし、巷ではこの本がポール・ウォーバーグ(Paul Warburg)の息子であるジェイムズ・ポール・ウォーバーグ(James Paul Warburg)によって書かれたんじゃないか、という噂が流れた。なぜなら、第一次大戦で有名になったドイツ軍のエーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍の再婚相手で、未亡人となったマチルデ(Mathilde Friedrike Karoline Ludendorff)夫人が、ニュルンベルク裁判でジェイムズ・P・ウォーバーグがウォール街とナチスの橋渡しになっていた、と証言したからだ。しかし、マックス・M・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)の息子であるエリック・H・M・ウォーバーグ(Eric Hermann Max Warburg)は大激怒。マチルデ夫人の言説を「でっち上げただ!」と言い放った。この「シドニー・ウォーバーグの虚説」に対して憤慨したエリックは、これを掲載した各新聞社に抗議し、正式に取り消してもらったそうだ。(ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ : ユダヤ財閥の興亡』 下巻、青木榮一 訳、日本経済新聞社、1998年、 pp.298-299.)
ちなみに、チャーナウの翻訳本は全訳ではなく、大切な「註」も省略しているので、本の価値が半減している。せっかくの労作なのに、肝心の註を省いたから台無しだ。まぁ、数頁にわたる脚注を附けると値段が高くなるから割愛したんだろうが、翻訳者の青木氏と日経新聞社はアホな事をしたものだ。
話を戻す。「シドニー・ウォーバーグ」の本は元々、ネーデルラントのアムステルダムにある「Van Holkema & Warendorf」という老舗の出版社から刊行された書籍である。ところが、この小冊子は極めて少数しか販売されなかったので、今では稀覯本となっている。ただし、ここに隠れた価値を見出した人がいたので、スイスでドイツ語版が出版されたという。さらに、ドイツ語版を基にして英訳本が出版され、 1980年代に入って「Research Publications」が復刊した、という次第である。現在は、「Omnia Veritas社」が出版しているので、日本人でもアマゾンで購入できる。原書の『De geldbronnen van het nationaal socialisme : drie gesprekken Hitler』(Amsterdam : Van Holkema & Warendorff, 1933)が誰によって書かれたのかが不明だから、安心して信用できる資料とはならないが、もしかすると、内情に詳しい誰かがこっそりと暴露したのかも知れない。全くの素人が出鱈目を書いたとは思えないから、たとえウォーバーグ家が否定しても、幾つかの箇所は事実なのかも知れないぞ。日本の歴史学者は、こうした点に目を附けて詳しく調べるべきなのに、ユダヤ人の書いた学術書ばかりを有り難がるんだから本当に情けない。
我々は学校で社会科の授業を受け、テレビや雑誌でも第二次世界大戦について聞いている。しかし、その歴史観、あるいは説明の枠組みを誰が作ったのか、に関しては興味が無い。生前、外務省の外政官でサウジ・アラビアやタイに赴任した岡崎久彦大使が語っていたけど、敗戦国では戦時プロパガンダが暴露され、様々な嘘が明らかにされているが、戦勝国では戦時プロパガンダがそのまま残ってしまうらしい。不正確な情報が否定ささず、修正もされないまま温存され、やがてそれが「定説」となってしまうのだ。ナチ・ドイツに関する「歴史」もその危険性があり、ナチス側の反論は悉く斥けられ、英米の学者やユダヤ人の一方的な解釈と論説で「正統な歴史書」が綴られている。
そもそも、事後法に基づくニュルンベルク裁判自体が違法だし、検事と判事が“グル”なんて論外だ。勝者側の裁判官はドイツ側の弁護士が証拠の提出を求めても却下するし、英米側が持ち出してくる「証拠」だって、どんな「味付け」がなされているのか分からない。公式な報告書だって巧妙な捏造かも知れないし、調査官が米国側の工作員という可能性もあるのだ。日本人はユダヤ人の証言を鵜呑みにするが、科学的捜査に基づく物的証拠も無いのに、それを「真実」と思うのは間違っている。だいたい、「宣誓証言」でもない「噂話」や「感想」を「事実」と宣伝するのは異常だ。もし、米国と英国の政府がドイツと日本を裁くなら、英米の極秘ファイルも公開すべきだろう。しかし、いくら日本の弁護士が機密資料の公開を求めても米国は応じまい。つまり、英米は「疚しい過去」や「不都合な真実」を隠したまま、日独を裁いたということになる。たぶん、アメリカの弁護士や裁判官は、心の底でこうした魔女裁判を「リンチ法廷」と見なしているはずだ。でも、自分の社会的地位を守りたいから、誰もが口をつぐんで知らぬ顔。悧巧な者は無口だ。
Deborah Lipstadt 001David Irving 222
(左 : デボラ・リプシュタット / 右 : デイヴッイド・アーヴィング )
歐米の知識人に勇気のある人は少ない。A.J.P.テイラーやパトリック・ブキャナンのように、従来の「歴史観」に刃向かったら、ユダヤ人勢力の総攻撃を食らって自滅となる。日本でもそうだけど、有名になる知識人というのは、民衆から尊敬されたいと望み、出来ることなら優雅な生活を送りたいと欲する高級種族。しかも、綺麗事を語るのが大好きな偽善者。日本学術会議にたむろってい連中をみれば判るじゃないか。リムジン・リベラルの先生達は、真実を喋って貧乏暮らしなんて真っ平御免である。英国のデイヴッイド・アーヴィング(David Irving)は、普通の大学教授が怠けて調べないドイツの一次資料を丹念に調べ、驚きの事実を数々公表したが、歐米ではネオ・ナチとか異端の歴史家扱い。ユダヤ人学者のデボラ・リプシュタット(Debora Lipstadt)から目の敵にされたアーヴィングは、「ホロコースト否定論者」との因縁をつけられ、訴訟沙汰に巻き込まれて多額の罰金を科せられた。こうした迫害を受けたアーヴィングは、憐れなことに破産状態へと陥った。こんな惨劇を見れば、普通の知識人はビビってしまうだろう。だから、ちょっと賢い歐米人は、どんなにユダヤ人が事実をねじ曲げ、勝手な歴史観をバラ撒こうが、絶対に反論しようとは思わない。日本人は自由な言論空間にいると思っているが、それは鉄壁の枠組みが透明で目に見えないからだ。しかし、勇気を持って主流の枠組みから逸脱し、「陰謀論」と馬鹿にされる世界に立ってみれば、別の景色が見えてくるかも知れないぞ。
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2022.04.24XML
米英金融資本とナチスの緊密な関係
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2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領を排除することに成功した。ヤヌコビッチは選挙で選ばれた大統領であり、言うまでもなくクーデターは憲法を否定する行為である。このクーデターを否定しない人物が「護憲派」を名乗ることはできない。ヤヌコビッチは2004年から05年にかけての「オレンジ革命」でも排除されたが、この「革命」を仕掛けたのはアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権だ。
オバマ政権はクーデターを実行するため、ネオ・ナチを戦闘員の主力とする「右派セクター」を使った。この組織はドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーが2013年11月に組織している。
そのヤロシュは2007年にNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。その年の5月に欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議がウクライナのテルノポリで開かれたが、その議長をヤロシュが務めている。
ウクライナのネオ・ナチはステパン・バンデラを信奉している。バンデラはOUN(ウクライナ民族主義者機構)のメンバーだったが、この組織は1938年5月に指導者のイェブヘーン・コノバーレツィがソ連の工作員に暗殺されると分裂、反ポーランド、反ロシア感情の強いメンバーはバンデラの周辺に集まった。
ウクライナをドイツが占領していた時代、OUNはドイツと結びついて「汚い仕事」を引き受けた。当時、ウクライナでは90万人のユダヤ人が行方不明になったとされているが、それもOUNが行ったと言われている。
1941年3月になるとOUNの内部対立は頂点に達し、OUN-M(メルニク派)とOUN-B(バンデラ派)に分裂、ドイツはOUN-Bへ資金を提供し、バンデラ派のミコラ・レベジはゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入っている。ドイツ軍がソ連へ攻め込んだバルバロッサ作戦が始まったのはこの年の6月。ドイツ軍はウクライナのリビウへ入った。
リビウを制圧したドイツ軍とウクライナ人は6月30日から7月2日にかけてユダヤ人の虐殺を開始、犠牲者は4000名から8000名だと推測されている。対象地域をウクライナ西部に地域を広げると、7月に殺されたユダヤ人の数は3万8000名から3万9000名に達するという。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)
8月になるとゲシュタポは暴走を始めたOUN-MとOUN-Bなどウクライナの「ナショナリスト」を摘発し始め、12月にOUN-Bは1500名のメンバーがナチスに逮捕されたと発表している。メルニクを含めて約2000人が逮捕されたともいう。(前掲書)
ドイツ軍は1941年6月にソ連への軍事侵攻を開始している。「バルバロッサ作戦」だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令。西側から攻めてこないことを知っていたかのようだ。
ドイツ軍は7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたのだが、12月にソ連軍が反撃を開始、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的になった。
1943年春になるとOUN-Bの戦闘員はUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立した。ゲシュタポから摘発されていたはずのOUNやUPAの幹部だが、その半数近くはウクライナの地方警察やナチスの親衛隊、あるいはドイツを後ろ盾とする機関に雇われていたと考えられている。(前掲書)
ドイツ軍の敗北を見てアメリカとイギリスは慌てて動き出し、この年の7月に軍隊をシチリア島へ上陸させた。シチリア島を含むイタリアで支持されていたコミュニストへの対策ということもあり、アメリカの情報機関はこの時にマフィアからの協力を得ている。
アメリカやイギリスの支配層、つまりウォール街やシティの住人はナチスを手先と考えていた。ナチスの戦争犯罪を研究しているアメリカン大学のクリストファー・シンプソンによると、1920年代後半にアメリカからドイツへ融資、あるいは投資という形で多額の資金が流れている。ヨーロッパ大陸全域でアメリカの投資額が激減している中、1929年から40年の間に約48.5%増えているのだ。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995)
アメリカからドイツへの投資は限られた金融機関を通して行われていた。その中心になっていたのがディロン・リードとブラウン・ブラザーズ・ハリマンだ。
ドイツへ資金を流すため、1924年にユニオン・バンキングが設立されるが、その重役にはプレスコット・ブッシュやW・アベレル・ハリマンが含まれている。ブッシュとハリマンはいずれもエール大学でスカル・アンド・ボーンズという学生の秘密結社に所属したいた。
プレスコットが結婚したドロシーの父親はウォール街の大物、ジョージ・ハーバート・ウォーカー。プレスコットは1924年、ウォーカーが社長を務める投資銀行A・ハリマンの副社長に就任、ウォール街でも名の知られた存在になる。そうしたことからウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しくなる。プレスコットの息子、ジョージ・H・W・ブッシュがCIA長官に就任するのは必然だった。
こうしたウォール街人脈にとって、1932年のアメリカ大統領選挙の結果は衝撃だった。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。そこでJPモルガンをはじめとするウォール街の住人たちはクーデターでニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立しようとした。
クーデターの司令官を誰にするかについてウォール街の住人たちはパリで協議、選ばれたのはスメドリー・バトラー退役少将だった。軍の内部で圧倒的な人望があり、この人物を抱き込まないと計画を成功させられないと判断したからのようだ。
しかし、JPモルガンはバトラーがラディカルすぎると考えて嫌っていたという。この金融機関が考えていた人物は陸軍参謀長だったダグラス・マッカーサー。この軍人が結婚したルイス・クロムウェル・ブルックスの母、エバ・ロバーツ・クロムウェルが再婚したエドワード・ストーテスベリーはJPモルガンの共同経営者だった。
ウォール街の住人はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。こうした計画を聞き出した上でバトラーはカウンタークーデターを宣言、議会で告発している。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
バトラーはその一方、信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse, 2007)
その後、ルーズベルトは1936年、40年、そしてドイツや日本の敗北が間近に迫っていることが明らかだった44年の選挙でも勝利する。戦争が終われば、ウォール街とナチスとの関係が調べられ、責任を問われることも予想されたが、45年4月12日に急死してしまった。そして始まるのが「赤狩り」、つまり「反ファシスト派狩り」だ。
第2時世界大戦の終盤、ドイツの敗北が決定的になるとアレン・ダレスたちはナチスの幹部と接触し始める。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。つまりラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などだ。
ドイツでナチスが権力を握る頃からウォール街はファシストと緊密な関係にあった。その関係は大戦後も続き、ウクライナでもその人脈が生きている。
そうした実態を新聞、出版、放送、映画、最近ではインターネットを支配するハイテク企業が封印、事実と違うイメージを広めている。ナチスは人びとの抱くイメージをコントローするすため、啓蒙宣伝省を設立していた。その機関を動かしていたのがヨーゼフ・ゲッベルスだ。啓蒙宣伝省を「民営化」すると西側の有力メディアになると言えるだろう。
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ドイツ軍がソ連侵攻に失敗する迄は西側の国々はドイツと戦おうとしなかった
1939年9月にイギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告、41年6月にドイツはソ連に対する奇襲攻撃を始める。「バルバロッサ作戦」だが、この作戦でドイツはソ連攻撃に310万人を投入、西側には約90万人だけを残した。西側からの攻撃を考慮しない非常識な作戦はアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。実際、西側の国々はドイツ軍と戦わない。事実上、レジスタンスだけが戦っていた。その主力はコミュニストだ。1940年9月から41年5月までドイツ軍はイギリスを空爆しているが、これはバルバロッサ作戦の準備を隠すための陽動作戦だろう。
当初、イギリスのウィンストン・チャーチル政権やウォール街のアレン・ダレスたちはドイツが圧勝すると予測、静観していた。ドイツ軍は1941年7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達。ドイツだけでなく、イギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたという。
しかし、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入するものの、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的で、日本の負けは決まった。
この敗北に慌てたイギリスはアメリカとその年の5月に協議、両国軍は1943年7月にシチリア島へ上陸している。シチリア島でもコミュニストが住民に支持されていたため、アメリカ軍はコミュニスト対策として犯罪組織と手を組んだ。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。
1943年の後半にアメリカとイギリスの情報機関はレジスタンス対策のため、特殊部隊を組織した。「ジェドバラ」だ。フランスでの作戦が一段落すると、隊員の多くは東南アジアへ移動して日本軍と戦う。
大戦が終了するとジェドバラは解体されるが、人脈は消えない。一部は軍の特殊部隊になり、一部は極秘の破壊工作部隊OPCになる。この極秘機関は1950年10月にCIAへ吸収され、翌年1月にはアレン・ダレス副長官としてCIAへ乗り込んできた。このOPC人脈が中心になり、破壊工作を担当する計画局が設置された。1970年代に計画局の存在が議会の調査で明らかにされると、名称を作戦局へ変更、2005年10月にはNCS(国家秘密局)になり、15年3月には再び作戦局へ名称を変更する。
大戦後、要米諸国は植民地の再支配を目論み、アメリカやイギリスは中国をコミュニストの手から取り戻し、ソ連を殲滅する作戦を始動させる。フランスはベトナムで戦争を始めた。
しかし、ベトナムでフランス軍は1954年5月にディエンビエンフーで敗北、その直前の54年1月にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてアレン・ダレスが率いるCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。この段階でアメリカの「ベトナム戦争」は始まっている。この軍事介入を終わらせようとしたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
CIAは特殊部隊と手を組み、1964年2月から北ベトナムに対する破壊工作をスタートさせる。そして同年8月にトンキン湾事件を引き起こして本格的な軍事介入を開始、67年から住民を皆殺しにする「フェニックス・プログラム」を始動させた。抵抗の基盤になる共同体の破壊が目的だったとも言われている。
1968年3月に南ベトナムのカンガイ省ソンミ村のミライ集落とミケ集落で、ウィリアム・カリー大尉が率いる小隊が住民を虐殺した。アメリカ軍によると犠牲者の数はミライ地区だけで347名、ベトナム側の主張ではミライ地区とミケ地区を合わせて504名だという。この虐殺はフェニックス・プログラムの一環だった。
カリー大尉の小隊は第23歩兵師団に所属していたが、この師団に後の国務長官もいた。コリン・パウエルだ。1968年7月に少佐としてベトナム入りしているが、2004年5月にCNNのラリー・キング・ライブに出演した際、その師団がソンミ村で住民を虐殺したことを認め、自分も現場へ入ったと語っている。パウエルは「上官が聞きたくない情報」をもみ消すことが役目だったという。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108310000/
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2022/06/23 (Thu) 03:15:03
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ナチスの亡霊で苦しむ西歐人 / 「血と土」の哲学
黒木 頼景
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自分の人種を自慢してよい権利
Hitler 6German family 1Jew 442
(左: アドルフ・ヒトラー / 中央 : ドイツ人の家族 / 右 : ユダヤ人の男性 )
敗戦後、ドイツ人はナチスの「戦争犯罪」を糾弾され、ユダヤ人を虐殺した“極悪人”との烙印を額に押されてしまい、その罪科を贖うために、歐洲で一番の「人権国家」になろうとした。英米から去勢された、このゲルマン人国家は、どんなに厭な種族であれ、一旦“移民”として受け容れてしまえば、貴重な「ドイツ国民」の身分を与え、至れり尽くせりの“おもてなし”をしようとする。こうした手厚い福祉を聞きつけた別のアフリカ人やアジア人は、「ドイツこそ夢に見た黄金のエルドラドなんだ!」と思い込み、「難民」を装って雪崩れ込んだ。リベラル思想に洗脳されたゲルマン人は、当初、「外人労働者なんて所詮“臨時労務者”だろう」と高を括っていたが、それは致命的な誤りだった。トルコ人やアラブ人、アフリカ人は図々しいから遠慮なくドイツ各地に押し寄せてくるし、福祉にタカるどころか、故郷から家族や親戚まで呼び寄せる始末。最初は渺(びょう)とした小川でも、黒や褐色の盲流が合流すれば、それは徐々に大きな濁流となり、最終的には手が付けられない程の津波となる。この水害に飲み込まれるのは“お人好し”のドイツ人で、生き残るのは人権を利用する移民や難民だ。ドイツ人って、まるでノアの箱船に乗り損ねたネズミのようだ。
10月下旬、ドイツでは地方選挙があって、ヨーロッパではちょっと話題になった。何と、チューリンゲン州の選挙では、“極右”と呼ばれる「ドイツのための選択肢(AfD)」が大躍進。日本でも「右派勢力」と呼ばれるAfDだが、実際はドイツ国民を第一に考える保守派政党だ。その証拠に、投票箱の蓋を開けてみると、23.8%の得票率であったという。これは第二位の得票率になるそうで、アンゲラ・メルケル率いる「キリスト教民衆党(CDU)」は顔面蒼白。というのも、CDUの得票率はAfDよりも低く、22.5%であったからだ。しかし、もっと悲惨なのは「社会民衆党(SPD)」で、こちらの得票率はたったの8パーセント。社民党の凋落は日本だけじゃなかった。で、気になる第一位は? これまたドイツらしく、極左政党の「リンケ党(Die Linke)」ときている。人権教育で頭がおかしくなった国民は救いようがない。
Bjorn Hocke 5Alexander Gauland 1Jerome Boateng 2
(左 : ビョルン・ホッケ / 中央 : アレグザンダー・ガウランド / 右 : ジェローム・ボアテング )
メルケル首相のプライドをズタズタにしたAfDだが、今回の地方選挙で特筆すべき候補者は、なんと言ってもビョルン・ホッケ(Björn Höcke)である。真っ赤な頭の人物が「良心的」とされるドイツでは、ゲルマン系ドイツ人の生活を一番に考え、ドイツ国家の利益と文化を優先する政治家なんか、レイシストの「極右」である。AfDの幹部もマスコミから吊し上げを喰らっていた。党首のアレグザンダー・ガウランド(Alexander Gauland)は、かつて黒人系サッカー選手のジェローム・ボアテング(Jérôme Boateng)について失言をしたことで責められた。曰わく、「みんな彼のことを好きだが、隣人にしたいとは思わない」、と。(彼の母親はドイツ人だが、父親はガーナ人であるという。) そりゃそうだろう。黒い「ドイツ人」なんて本当のドイツ人じゃない。また、離党した元代表のフラウケ・ペトリー(Frauke Petry)は、国境警備の強化と移民規制を訴え、フェミニストにも反対したから、相当なバッシングを受けたらしい。(現在、彼女は創設した「青の党」の党首になっている。) アリス・ワイダル(Alice Weidel)も「PC(政治的に正しい言葉使い)」に嫌気が差し、「あんなのは歴史のゴミ箱に葬るべき」と発言したから、マスコミの標的にされてしまった。ベアトリックス・フォン・ストーチ(Beatrix von Storch)も、BBCの番組に出演したとき、キャスターから吊し上げを食っていた。
Frauke Petry 1Alice Weidel 3Beatrice Storch 1
( 左 : フラウケ・ペトリー / 中央 : アリス・ワイダル /右 : ベアトリックス・フォン・ストーチ )
他の党員と同じく、ホッケもマスコミの「タブー・コード(禁忌規則)」に叛旗を翻し、ドイツ人が心の底で思っている事を口にした。左翼ジャーナリストは彼をコテンパンに叩いていたが、ホッケはゲルマン人の男らしい德を備えており、リベラル派やユダヤ人の批判に屈しなかった。例えば、彼はドイツに建設されたホロコースト記念館を「恥ずべき遺物」と評していた。(Justin Huggler, "germany's new Hitler poised to lead AfD to regional elections gain", The Daily Telegraph, 27 October 2019.) ドイツや歐米のメディアは非難囂々だったけど、ホッケの見解は正しい。少なくとも、ユダヤ人の脅しに屈服するCDUの政治家と比べれば、遙かに立派じゃないか。ユダヤ人のシナゴーグ(礼拝の会堂)があるだけでも不愉快なのに、迫害されたことを大々的に宣伝する記念館なんて目障りだ。街の景観を損ねるばかりか、子供達の生育にも有害である。だいたい、なんでユダヤ人は“他国”に自分たちの記念物を設置しようとするのか。
Edouard Drumont 1(左 / エドワルド・デュルモン)
そもそも、「ユダヤ人迫害」の原因はユダヤ人側にあって、異教徒のユダヤ人が昆虫みたいにドイツへ寄生したことが元兇だ。もし、ユダヤ人がロシアのポグロムを恐れて、外国に逃亡したいなら、逃避先はドイツやオーストリアじゃなく、イェルサレムがあるパレスチナに向かうべきだった。それなのに、ガリシア地方の賤民ときたら、“より良き生活”を求めて、西歐世界へと雪崩れ込んだ。これなら西歐各地で、根強い反ユダヤ主義が沸き起こったのも当然である。フランス人などは戦後、「ナチスに抵抗した善人」のフリをしていたが、彼らは昔からユダヤ人が大嫌いで、エドワルド・デュルモン(Édouard Drumont)が書いた『ユダヤ人ノフランス(Le France juive)』はベストセラーだったじゃないか。フランスの庶民はドイツ軍が忌々しいユダヤ人を排除してくれたら万々歳だった。「協力者(コラボ)」が多かったのも不思議じゃない。とにかく、ユダヤ人はヨーロッパから立ち去って、懐かしい中東アジアに戻り、アラブ人と“共生”しながら、適当に殺し合っていればいい。ユダヤ人は同類と喧嘩しながら暮らすのが自然である。
今回の選挙で「台風の目」となったホッケは、演説集会に現れる度に、リベラル思想に抑圧されたドイツ国民を励まし、民族意識を鼓舞することで勝利を得た。選挙中、彼は聴衆に向かい「我々は我々なんだ ! (つまり、ゲルマン系ドイツ人という意味 / Wir sind Wir !)」とか、「我々は同じ民族なんだぞ ! (Wir sind das Volk !)、「私は自らが属する民族を愛する ! (Ich liebe mein Volk !)」と述べていた。こうしたキャッチフレーズを聞けば、集まったドイツ人が熱狂したのも納得が行く。ドイツは先祖代々「祖父の土地」に住むゲルマン民族の国家であり、人格と容姿が卑しいユダヤ人やアラブ人、何のゆかりも無いアフリカ黒人の国じゃない。一つの国家、一つの民族、一つの運命がドイツ人のモットーで、異人種との雑居と混淆、イスラム教やユダヤ教徒の共存なんて真っ平御免だ。ドイツ人にはドイツ人だけで楽しく暮らす権利がある。「永遠の放浪者」であるユダヤ人は、ドイツ人のナショナリズムに不満なら、さっさと荷物をまとめて故郷のイスラエルに“帰還”すればいい。イスラエル政府は世界各地に離散した「同胞」の帰りを待っているんだから。
民族の血と国家の大地
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(左 : ナチスが称讃したゲルマン系女性 / 右 : ナチスが増やそうとしたアーリア人の赤ん坊)
鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクは、1888年2月6日の帝国議会で演説を行い、「我々ドイツ人は、天主以外の何者をも懼れない (Wir Deutsche fürchten Gott, aber sonst nichts in der Welt) 」と豪語た。しかし、現在のドイツ人はどうか? 懼れないのは天主の裁きだけで、自己批判を繰り返す左翼陣営や、歐米諸国の主要メディア、レイシズムを糾弾する人権屋からの抗議に遭えば、膝から崩れ落ちて土下座する。もっと情けないのは、隠然たる勢力を誇るユダヤ人から「仕置き」された時で、皇帝ハインリッヒ4世よりも卑屈な態度になってしまう。もし、民族派のドイツ人が「我々ははユダヤ人よりも遙かに美しく、何千倍も気高く、勇敢である !」なんて口にしたら、たちどころにユダヤ人から袋叩きだ。まるで、針の筵(むしろ)というより、釘で串刺しになる「鋼鉄の処女(中世の拷問器具 / Eiserne Jungfrau)」の中に閉じ込められたような状態になってしまうだろう。実際に殺されなくても、社会的地位(職業)と名声を一瞬で失うから、ドイツ人はどんなに愛国者でも決して本音を吐かないよう注意している。言論の自由があるのは日本だけだ。
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(左 : 陽気なユダヤ人青年 / 中央 : ユダヤ人の美女 / 右 : 敬虔なユダヤ人 )
ドイツのみならず、ブリテン、フランス、デンマーク、ネーデルラント、スウェーデンでも保守的な国民の間でナショナリズムが芽生えているが、西歐人が滅多に口にできないのは、国家と結びついた人種についてである。基本的に西歐人は各地をうろつく遊牧民ではない。農業を基盤とする定住民族だ。交通機関が発達する前なら、結婚相手は近場の異性で、同じ種族の者同士で子孫を残すのが普通だった。今とは異なり、ユトランド半島の片田舎に住むデイン人の娘が、パキスタン出身のイスラム教徒や北アフリカ出身のアラブ人、あるいは西インド諸島からやって来たジャマイカ人と結婚するなんて想像できなかった。もしあったら一大事。両親はおろか、祖父母や親戚、友人、隣人がびっくりするし、親兄弟の誰もが「やめてくれ !」と号泣するに違いない。こうした「国際結婚」は衝撃的だから、「何があったのか?」と地元の新聞に載ってしまう程だ。
Winston Churchill 1(左 / ユダヤ人好きのウィンストン・チャーチル)
昔のヨーロッパ人なら家系を重んじ、自分と同じような容姿の子孫を残そうとしたし、それが当たり前の「常識」だった。とりわけ、王侯貴族にとって血統は最重要課題で、黒人やアジア人との婚姻なんて御法度。たとえ、白人系のユダヤ人だって忌み嫌われていたんだから。一緒にディナーを取ることだって穢らわしく、ワインを片手に談笑というのも滅多に無かった。となれば、息子や娘の婚約相手なんか論外だ。しかし、イングランドの名門貴族、マールバラ公爵のチャーチル家は別だった。ランドルフとウィンストンはユダの金貨が大好き。失業中だったウィンストンはユダヤ人のパトロンから養われていたから、首相になった時、昔の恩返しをすべく、ヒトラーの和平交渉を一蹴り。ドイツのユダヤ人を救うためなら、同胞のイギリス兵を何十万も犠牲にしようが平気だった。(チャーチルの正体を説明すると長くなるので省略する。) この裏を知らないイギリス人は今でもチャーチル首相を「英雄」と思っている。どこの国にも馬鹿はいるものだ。
ちなみに、ユダヤ人はアーリア人と結婚するのが大好きで、白人の女をモノにするのは一種のステータスになっている。例えば、不動産屋の倅(せがれ)であるジャレッド・クシュナー(jared Kushner)は、トランプ大統領の娘であるイヴァンカと結婚した。ベンジャミン・ネタニヤフ首相の息子であるヤイル・ネタニヤフ(Yair Netanyahu)も白人娘が大好き。2014年にはキリスト教徒の家庭で育ったノルウェー人女性のサンドラ・レイカンガー(Sandra Leikanger)と付き合ったし、翌年にはユダヤ系デンマーク人モデルのリー・レヴィー(Lee Levi)と交際していた。ユダヤ人は社会的に成功したり、裕福な家庭に生まれると、無性にヨーロッパ系白人女性と接近したがる。イスラエルの保守的ユダヤ教徒は口々に、「どうしてビビ(ベンジャミン)の倅は非ユダヤ人と付き合うんだ?」と不満を漏らしていたけど、ユダヤ人青年にとったらブロンドの「上等な女」を恋人にしただけだ。ハリウッドのユダヤ系女優を見渡せば分かるけど、人気藝人となるのは矢鱈と「歐洲系」が多い。ユダヤ人の男はユダヤ的容姿の女性に興味が無いらしい。
Yair Netanyahu 2Lee Levi 1Yair Netanyahu & Sandra Leikanger
(左 : ヤイル・ネタニヤフ / 中央 : リー・レヴィー / 右 : ネタニヤフとサンドラ・レイカンガー )
敗戦後、ドイツ人はユダヤ人から悪魔の如く糾弾されたが、それは単に虐殺の対象にされたからではない。ユダヤ人が心の底からドイツ人を憎むのは、このゲルマン民族がセム種族の“肉体”を槍玉に挙げたからだ。優生学や人種衛生学を重視するナチスの理論家たちは、優秀なアーリア人が持つ遺伝子プールに、穢らわしい遺伝子が混入する事を恐れた。ドイツ人にとって、金髪碧眼の北方種族が「理想的な人間」である。だから、この容姿を醜くする、ユダヤ人の精子や卵子が赦せなかったのだ。ナチスを批判するフランス人だって、発言とは別に本音があって、白いケルト人の遺伝子を守りたいと思っているし、イギリス人も腹の中ではアングロ・サクソン人の容姿を保存したいと願っている。
現在のヨーロッパ人やアメリカ人、および彼らの主張を鵜呑みにする日本人は、無意識のレイシストになっている。リヘラル派はアフリカ人やアラブ人、あるいはインド人やベンガル人などに同情しているが、これらの非ヨーロッパ人が持つ独自の美意識を決して認めようとしないのだ。彼らは無意識的に有色人種の容姿は醜いと思っている。例えば、ウガンダ人が大きな尻や太い腰を持つ女性を「綺麗」と思うことに違和感を感じているが、現地の黒人にしたら、艶のある黒い肌と脂肪が詰まった頑丈なボディーは魅力的なのだ。ホッテントットの女性は自分の性器を自慢して、他人に見せびらかしていた。一方、インド人女性はイギリス人のような白い肌に憧れ、高価な「美白クリーム」を買っているが、歐米の左翼がこれに触れないのは欺瞞だ。イスラエルの東歐系ユダヤ人は、「俺達は洗練された白人なんだ !」と自慢し、パレスチナ系ユダヤ人を褐色の田舎者と馬鹿にしていたけど、何故か、これは大きなニュースにならなかった。
ヨーロッパのリベラル派や人権派というのは、「良心」を売り物にしているが、実際は、偽善的な差別主義者である。地球上には様々な種族が存在しているから、「絶対的な美」というものはない。あるのは、「相対的な美」くらいで、「別嬪」や「男前」というのは十人十色。ヨーロッパ人の基準や評価で他国の美意識を否定するのは間違っている。したがって、ドイツ人が自らの肉体を自慢しようが、そんなのは「手前味噌」にすぎず、目くじらを立てる程のものではない。品川や新橋で飲んでいるオヤジが「俺の娘は江戸一番の美女」と自慢したって、そんなのは親馬鹿の戯言(たわごと)だ。もし、こんな自慢を本気にして、「何だとぉぉ~、それは外見差別になるぞ !」と噛みつくのは野暮天しかいないだろう。まともな大人は、「そうかい。良かったねぇ~。確かに、娘さんはアンタと似ていないや!」と笑ってお終いである。これが解らないのは、大学でクルクルパーにされた優等生だけ。
ドイツ人にとっては素晴らしかった理論
Walther Darre 1( 左 / ヴァルター・ダレ)
歐米諸国でも似たり寄ったりかも知れないが、日本の書店ではナチス時代のドイツを暗く描いた翻訳書や歴史書ばかり。北方種族のアーリア人を増やすべく、「生命の泉(Lebensborn)」計画を実行したハインリッヒ・ヒムラーや、「血と土」を強調したヴァルター・ダレ(Walther Darré)は評判が悪く、非人道的な政策を行った極悪人にされている。しかし、どうしてゲルマン系ドイツ人を増やすことが悪いのか? 日本政府は少子化を懸念し、若い女性に「もっと子供を産んで下さい !」と呼びかけ、出産手当とか育児手当、保育所の増設に教育の無償化などを実行している。しかし、誰もこれをネオ・ナチ政策とは言わないだろう。また、日本人が日本の国土を愛し、日本人の子孫を残しても異論は無いはずだ。日本に住み着く****人や朝鮮人は「排外主義だ !」と激怒するが、そもそも日本は日本人の国で、アジア人が幸せになる為の国ではない。もし、優秀な****人や朝鮮人がいるのであれば、彼らこそ真っ先に祖国へ戻り、国家の発展に寄与すべきだ。我々は下品な****人とかヤクザの在日鮮人なんて要らないぞ。
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(左 : ハインリッヒ・ヒムラー / 中央 : ドイツ人少女とヒムラー / 右 : アルフレート・ローゼンベルク)
現在、大学やマスコミでは「多文化主義」や「多民族共生思想」が真っ盛りだが、ドイツの文化はドイツ人が維持・継承すべきで、移民労働者として居着いたトルコ人や、紛争を逃れて潜り込んだシリア人が担うものじゃない。ドイツ人を糾弾するイギリス人やオランダ人でも、自国の文化は先祖代々の子孫が受け継ぐべし、と考えているはずだ。ところが、中流階級はおろか、上流階級のドイツ人でも、左翼やユダヤ人の前では腰砕けとなり、ドイツ人の遺伝子プールを守るのは駄目、街から異邦人を追放することも厳禁、非西歐人との混血なら称讃、と悉く非ドイツ化政策が取られている。良識的な公民さえ、ドイツらしいドイツを存続させようとしないのだ。ところが、ユダヤ人は同胞の為なら何でもする。彼らはドイツに寄生するため、あるいは外国からやって来る仲間のため、民族主義に基づいて多文化主義とか人種的多様性を大宣伝。しかし、彼ら自身はアラブ人やアフリカ人と混血したがらないし、イスラエルはユダヤ人とユダヤ教のために建てられた民族国家であると断言してはばからない。テレビ局、新聞社、教育界、藝能界に陣取るユダヤ人は、示し合わせたかのように協力し合っているから、ある意味、立派というか狡猾である。
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(左 : ドイツ人の軍人 / 中央 : 軍服を着たドイツ人少女 / 右 : ナチス時代のドイツ人女性 )
それなら、ドイツ人が自国をアーリア種族だけの国、つまり北方種族だけが幸せに暮らせる楽園にしたい、と考えてもいいんじゃないか。元々、ドイツ人が主体のゲルマン国家なんだから。サウジ・アラビアなんてサウド家の所有物だし、イランはシーア派のイスラム教で疑問を持たない。日本の歴史家は馬鹿の一つ覚えみたいにナチスを糾弾するが、もし、モザンビークやコンゴが黒人だらけの国家になったら、彼らはアフリカに渡って抗議デモを起こすのか? 日本の学者は日本国内に留まって、反抗する日本人を批判するだけだ。譬えて言えば、弱い後輩だけに威張り散らす不良と同じである。彼らは朝鮮高校の兇暴な不良の前だと、借りてきた仔猫のように「おとなしく」なり、因縁を付けられても「ニャンとも言えない」とばかりに無抵抗主義を貫く。情けないけど、これが和製知識人の実態である。
日本の保守派は西歐人にペコペコしているが、白人のほとんどは「ハッタリ」が得意なだけの弱虫だ。だいたい、どうして西歐人は正直に「白人だらけの国がいい」と言えないのか? 自分の国なら、嫌いなユダヤ人やジプシーを叩き出してもいいはずだ。例えば、日本人の高校生が自分の部屋にアイドル歌手のポスターを貼ろうが、デス・メタルの音楽を聴こうが、ワンピースのフィギュア人形を飾ろうが、隣人は一向に構わない。なぜなら、自分の邸宅や敷地にある部屋じゃないからだ。ドイツ人はドイツ国内で、イギリス人はイングランド国内で、同胞だけと一緒に暮らす権利がある。そして、今を生きるドイツ人やイギリス人には、先祖から継承する血統を損なわず、きちんと子孫へ手渡す義務があるんじゃないか。祖父母と容姿が違う子孫なんて悲しすぎる。
Franz Boas 1Ashley Montagu 1(左 : フランツ・ボアズ / 右 : アシュリー・モンタギュー )
西歐人は愛国心を尊び、国防を担う軍人は命に代えても祖国を護ると言い張る。が、丸腰の移民が来ると腑抜けになってしまうから、「見かけ倒しじゃないか」と軽蔑したくなる。民族の血筋や文化、国土を守ってこそ、真の国防だ。異人種との混血を許し、伝統文化の劣化を奨励し、さらに国境までも開放するなんて馬鹿げている。リベラル教育で洗脳されてしまったからしょうがないが、愛国者であれば日本の戦国武将のように鋼鉄の意志を持つべきだ。フランツ・ボアズ(Franz Boas)やアシュリー・モンタギュー(Ashley Montagu)のような文化人類学者は、「人種なんて社会的に構築されたもの」と宣伝するが、現実的には「人間の種類」は存在する。(ボアズとモンタギューは共にユダヤ人。
ちなみに、「モンタギュー」は偽名で、本名は「イスラエル・エレンバーグ」である。) 日本人ならせせら笑ってしまうが、ユダヤ人にはオーストラリアの「アボリジニ(原住民)」とアングロ・サクソン系の白人が“似たり寄ったり”の人種に見えるのか? 左翼学者は熱心に平等思想を宣伝するが、一般人は同族の者と一緒に暮らしたいと考えている。何よりも、祖国で気持ちよく生活できるなら「非科学的」でも「人工的」でもいいじゃないか。
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(左 : ドイツ人女優のヒルデガルト・クネフ / ナチスが理想としたアーリア系女性 / ユダヤ人フェミニストのベティー・フリーダン / 右 : イスラエルに住むユダヤ人女性 )
Arthur Gutt 01 (左 /アルトゥール・グート )
今では、ヴァルター・ダレやアルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)の主張は全面的に否定され、悪魔の思想となっているが、国家運営や国民の統合には非合理的な神話(宗教)や科学では解明できない国民の絆が必要なのだ。例えば、SS少将のアルトゥール・グート(Arthur Gütt)は、人種文化および遺伝担当の大臣アドヴァイザーを務めていて、ドイツ人の人種的遺伝が如何に神聖であるかを述べていた。
ゲルマン貴族は自らの遺産を神聖な祖先の種から得ている。その血(生殖用の物質)は最も純粋な形で子孫に継承されねばならない。(Arthur Gütt, "Die Bedeutung von Blut und Boden für das deutsche Volk", Schriftenreihe des Reichsausschusses für Volksgesundheitsdienst, Vol. 4, Berlin : Reichsdruckerei, p.4.)
また、『第20世紀の神話』で有名なローゼンベルクも、ゲルマン民族の血統に関して持論を述べていた。
こんにち、新たな信仰、すなわち血の神話が勃興した。これは血を通して人間の神聖なる本質を守る信念である。(Alfred Rosenberg, Der Mythus des 20. Jahrhunderts, Munich, Hoheneichen Verlag, 1935,p.114.)
親衛隊上級大佐のカール・モッツ(Karl Motz)も、「血と土」を強調する文章を書いていた。
如何なる民族主義があろうとも、その基盤となるのは、我々の祖国にある聖なる地と血の関係である。(Karl Motz, Blut und Boden : die Grundlagen der deuschen Zukunft, Berlin, Zeitgeschichte Verlag, 1934, p.7.)
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(写真 / ドイツ人少女の歓迎を受けるヒトラー)
これらの理論家よりも、さらに激しく糾弾されるのがドイツ総統のアドルフ・ヒトラーである。もちろん、この****者は戦争末期、自らの地位に固執し、多くのドイツ兵を無駄死にさせたから、徹底的に批判されねばならない。しかし、ナチスが行った人種政策はドイツ国民にとって、本当にマイナスであったのか? ヒトラーはゲルマン人らしいドイツ人を保存したいと望み、国家が必要とする健全な青少年を育成しようとした。また、ドイツ社会を破壊する共産主義を執拗に攻撃したが、これは本当に「悪い事」なのか? ヨーロッパ人は認めたくないだろうが、優生学はドイツ人のみならず、ブリテン、フランス、ネーデルラント、スウェーデンなどでも盛んで、当時としては国家のプラスになったはずだ。ヒトラーの『我が闘争』を読んでみると、意外にも「まっとうなこと」が書かれており、戦前のヨーロッパ人が持っていた本音を語っている。例えば、次のような箇所はイギリス人やアメリカ人でも賛同する人が多いはずだ。
自然は雑種を好まない。特に、第三、第四、第五世代あたりの雑交の初期に生まれてくるものは、はなはだしく苦しまねばならない。かれらは本来最高の成分のもっている価値を、雑交によって失ってしまうのみならず、血の統一を欠いているために、生存一般のための意志力や決断力の統一をも欠いているのである。(アドルフ・ヒトラー 『わが闘争』 (下) 平野一郎・将積茂 訳 角川文庫 p.49)
また、ヒトラーは優越人種が劣等種族と交わった場合の危険性についても述べていた。
・・・・その結果はまず、水準自体が低下するだろうが、さらに子孫が人種的に混血していない周囲のものに比して虚弱化するだろう。最もすぐれた人種の側からの血がそれ以上混入することを完全にさまたげられるならば、お互いに雑種同士の雑交をつづけることによって、雑種は自然によって抵抗力が低下させられるために死滅するか、あるいは幾千年かの間には種々雑多な雑交によって、本来の単一的な要素が完全に混合し、したがってその単一な要素がもはや認められないような新混血物が形成されるであろう。(上掲書 p.50)
・・・・最も神聖な人権はただ一つあるだけである。そして、この権利は同時に最も神聖な義務である。すなわち、それは最もすぐれた人類を保持することによって、人類のより尊い可能性を与えるために、血を純粋に保つよう配慮することである。それとともに民族主義国家は、人間と猿との間の生まれぞこないではなく、神の似姿を生むことを任務としている結婚に神聖さを与えるために、まず第一に、結婚を絶え間ない人種汚染の水準から高めてやらねばならない。(上掲書 pp.52-53.)
戦前から1960年代まで、アメリカ社会において白人が黒人と結婚することは忌み嫌われていた。特に、南部だと一層顕著で、現在とは違い、民衆党の大物が熱烈な人種差別主義者であったことは周知の事実。例えば、リベラル派の長老だったロバート・バード(Robert Byrd)上院議員は、若い頃、KKKのウェスト・ヴァージニア支局に属していたし、ジョージア州の知事を務めたクリフォード・ウォーカー(Clifford Walker)とユージン・タルマッジ(Eugene Talmadge)は、黒人が大嫌いで、黒人の政治参加に猛烈な反対を示していた。アラバマ州にも沢山の白人至上主義者がいて、デイヴッド・グレイヴス(David Bibb Graves)知事や連邦最高裁のヒューゴ・ブラック(Hugo Black)判事は有名だ。彼らは共にKKKを支持。もちろん、こうした「レイシスト」はユダヤ人も大嫌い。アイヴィー・リーグの大学は、なるべくユダヤ人の学生を排除しようと様々な対策を講じていたものだ。
Claude Lanzmann 1(左 / クロード・ランズマン )
ところが、日本の歴史学者は悉くユダヤ人や黒人の味方で、ドイツ史について論文を書けば、決まって追放されたユダヤ人に同情を寄せてしまう。蛸壺型の思考しかないから仕方がないが、別の角度、すなわち「ドイツ人の視点」でドイツ史を見ることができないのだ。要するに、彼らはユダヤ人学者の言説を繰り返しているだけ。そもそも、「ホロコースト」なる用語が、どのように定義されているのかよく解らない。日本の歴史学者は検死報告書や物的証拠も示さずに、都市伝説でしかない「ガス室殺人」を頭から信じている。フランスのユダヤ人で映画監督のクロード・ランズマン(Claude Lanzmann)が、様々なホロコースト生存者を集め、その証言を映像に収めて『ショアー(Shoah)』というドキュメンタリー・フィルムを制作したが、これらの証言はどれも「証拠」とはならない。なぜなら、法廷での宣誓証言でもなければ、反対尋問を受けた証言でもないからだ。偽証罪に問われず、気楽に話せる噂話を「真実」と称しているんだから、日本の学者は脳天気である。こんなヨタ話が信用されるなら、『週刊実話』の記事だって、みんな「真相」になってしまうじゃないか。
まぁ、迫害や虐殺に遭ったユダヤ人は気の毒だが、久々にユダヤ人が消え去ったヨーロッパというのは結構気持ちがいい。ユダヤ人やクルクル左翼が記す歴史本には、「可哀想なユダヤ人」という“お涙頂戴”話が満ちあふれているけど、当時のドイツ人からすれば、「あの穢らわしい賤民が居なくなってせいせいした」という気分であった。それに、当時のドイツ人労働者はヒトラーの経済政策により、惨めだった生活水準が向上したし、ゲルマン人だけが暮らす住宅地も建設されて大喜び。イギリス人だって羨むほどだ。現在、戦勝国になったはずのブリテンには、ユダヤ人が政財界にウジャウジャいて、アングル系やケルト系の国民は密かに嘆いたり、憤慨したりと気分が優れない。したがって、「こんな風になるなら、ナチ・ドイツに占領された方がマシだ」と言いたくなるイギリス人の“ぼやき”も分かる。
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(左 : マイケル・レヴィー / ジャック・ストロー / エド・ミリバンド / 右 : デイヴィッド・ミリバンド )
ブリテンの政界はユダヤ・マネーに汚染され、誰も彼もが親イスラエル派だ。多民族共存が実現したブリテン島には、「イギリス人」の振りをするユダヤ人議員が普通にいて、中には「愛国者」を演じることで国民を騙そうとする奴がいる。保守党を見てもユダヤ人が多いし、労働党を見回してもユダヤ人が目につく。例えば、トニー・ブレアのパトロンはマケイル・レヴィー(Michael Levy)だし、外務大臣のジャック・ストロー(Jack Straw)は移民賛成派で、バーバラ・ロッシュ(Barbara Roche)に至っては確信犯的移民推進派であった。労働党の代表になったエドワード・ミリバンドと兄のデイヴィッドは親譲りのマルキスト極左ときている。一方、保守党にはマイケル・ハワード(Michael Howard)やマイケル・リフキンド(Michael Rifkind)のようなユダヤ人が多い。でも、一番腹立たしいのは、下院議長席に腐敗の帝王、ジョン・バーコウ(John Bercow)が坐っていることだ。 焼肉屋じゃあるまいし、あっちでジュージュー、こっちでジュウジュウの状態なんだから、イギリス人だと目眩がしてくる。
Barbara Roche 11John Bercow 1Michael Howard 2Michael Rifkind 1
(左 : バーバラ・ロッシュ / ジョン・バーコウ / マイケル・ハワード / 右 : マイケル・リフキンド )
ドイツ内外にヒトラーのユダヤ人迫害を非難するドイツ人がいるのは分かるが、彼らは北方種族のゲルマン人を増やした廉でヒトラーを譴責するのか? 現在、ブリテンやフランス、ネーデルラント、スウェーデンでは、移民や難民の有色人種が雪崩れ込んでしまい、深刻な「多民族社会」となっている。そこで、もしも、イングランドやデンマークからアジア人やアフリカ人が一掃され、白人だらけの国家となったら、どのような現象が起きるのか? まさか、リベラル派の白人が大量に逃げ出し、各地で不動産価格が下落するとは考えにくいし、一般国民が嘔吐を催すとも思えない。むしろ、人気の移住先となるんじゃないか。例えば、アメリカやカナダからこぞって白人が流入し、国籍取得を希望するかも知れないぞ。西歐人は決して口にしないが、ユダヤ人はお金の臭いに敏感だから、イスラエルからも不動産業者が参入し、猛烈な「土地転がし」が発生する可能性だってある。白人用の高級住宅地となれば結構な儲けになるし、建築業者や開発業者になればもっと儲かるから、このチャンスを見逃す手はない。巨額の資金を調達できるユダヤ人だと、ライバルを蹴落とすことが出来るから、かなり有利だ。
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(左 : ナチス時代のドイツ人少年 / 中央 : ナチス時代のドイツ人少女 / 右 : 現代のゲルマン系西歐人女性)
とにかく、ドイツを破滅に陥れたヒトラーを批判するのは構わない。しかし、ヒトラーがしたことを全て否定することは間違いだ。例えば、もしヒトラーがキリスト教を保護したり、「ヨーロッパの文化だから大切にせよ」と発言したら、アメリカ人はキリスト教を邪教と考え、「ネオ・ナチ好みの宗教だ」と毛嫌いするのか? また、もしも、ナチ党が軍人魂を称讃し、「祖国のために命を懸けることは崇高な行為だ !」と宣伝したら、ヨーロッパ人は尚武の精神をゴミ箱に捨てるのか? キリスト教や勇敢な行為はナチスがなんと言おうとも尊い。「善いもの」は誰が口にしても「善いもの」だし、悪事はイギリス人やアメリカ人が行っても正当化されるものではない。
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(左 : ドイツ人少女と面会するヒトラー / 右 : 健全なドイツ人少女たち)
自国の生活環境を良くするためなら、タカリ賤民のユダヤ人や、不愉快な移民・難民を追放しても非難されるべきことではないだろう。第一、ユダヤ人には同胞が暮らすイスラエルがあるじゃないか。アフリカ難民は元々「避難民」なんだから、永住せずにさっさとアフリカへ戻り、どこかの国で農作業でもすればいい。あれだけ広大な地域なら、ブッシュマンみたいに暮らせるはずだ。もし、それが厭なら、パプア・ニューギニアとかフィリピンに移住する選択肢もあるじゃないか。ヨーロッパの左翼は自国の保守派ばかり責めているが、「上等な先進国」を意図的に目指す移民や難民を批判しないのはおかしい。アフリカ難民は他のアフリカ諸国が受け容れるべきだし、シリア難民とかイラク難民は、イスラム教国のサウジ・アラビアとかヨルダン、イランなどが率先して保護すべきである。異邦人を排斥したい保守派は、もっと強靱な精神を持つべきだ。先祖から受け継いだ国家と将来を担う子孫を考えれば、左翼からの苦情・罵声など「ウサギの糞」程度じゃないか。左翼分子は敵の弱点を突くのが上手い。真の愛国者は「ネオナチ」とか「極右」といったレッテルを恐れず、自分の血統をなるべく純粋に保ち、生まれ育った郷土を「自分たちの国」とすべきである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68786228.html
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2019.11.18
ラテン・アメリカとヨーロッパを結びつけるファシスト
ラテン・アメリカで新自由主義を巡る戦いが激しくなっている。新自由主義は一部の人びとへ全ての富を集中させる仕組みを作り上げ、富を独占する私的権力へ国を上回る力を与えることを目標にしている。それに対する反発が強まっているのだ。
ラテン・アメリカはアングロ・アメリカの「裏庭」だと言われてきた。ラテン・アメリカの資源をアングロ・アメリカを拠点とする巨大資本が独占するという宣言とも言える。
かつてのスペインやポルトガルの支配層と同じように、アメリカの支配層はラテン・アメリカの資源を略奪、私的な富の源泉にしてきた。そのラテン・アメリカが真の意味で独立することを彼らは許さない。
第2次世界大戦の後、アメリカの支配層はラテン・アメリカをナチスの残党たちを匿うために利用した。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街やシティ、つまり米英の金融資本はナチスのパトロン的な存在だった。1933年から34年にかけての時期にウォール街の住人がフランクリン・ルーズベルト政権を倒すためにクーデターを計画した理由もそこにある。
ナチスに率いられたドイツは1941年6月にソ連侵略を開始する。バルバロッサ作戦だ。その時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人にすぎなかったと言われている。西側の守りを懸念するドイツ軍の幹部は軍の半分を残すべきだとしたが、アドルフ・ヒトラーがその進言を退けたという。そこで、ヒトラーは西側から攻めてこないことを知っていたのではないかと推測する人もいる。
ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでイギリスやアメリカは協議、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。
スターリングラードでの戦いにドイツ軍が敗れると、ナチスの親衛隊はアメリカ側と接触を始める。そのアメリカ側の人間は情報機関OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたち。
ダレスたちは1944年になるとドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将と接触しているが、その仲介役はダレスの部下で、ウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。ちなみにOSSの長官だったウィリアム・ドノバンはダレスの友人で、自身もウォール街の弁護士だ。
大戦が終わった直後、ローマ教皇庁の要職にあったジョバンニ・バティスタ・モンティニなる人物がナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめている。
モンティニは後のローマ教皇パウロ6世で、ヒュー・アングルトンというアメリカ人と親しくしていた。ヒューのボスにあたる人物がアレン・ダレス。ヒューの息子であるジェームズ・アングルトンはCIAで秘密工作に深く関与することになる。このローマ教皇庁が協力した逃走ルートは一般的にラッテ・ラインと呼ばれている。
ダレスたちは大戦後の1948年からナチスの元幹部や元協力者の逃走を助け、保護し、雇い入れる「ブラッドストーン作戦」を始めている。この作戦で助けられた人物の中には親衛隊の幹部だったオットー・スコルツェニーやゲシュタポ幹部で「リヨンの屠殺人」とも呼ばれていたクラウス・バルビーも含まれていた。
元ナチス幹部たちを逃がした先がラテン・アメリカ。ナチスの元幹部たちはまずアルゼンチンへ運ばれ、そこから分かれていき、アメリカの秘密工作に協力したと言われている。バルビーが1980年にボリビアでのクーデターに協力したことは本ブログでも書いた通り。
このクーデターにはステファノ・デレ・キアイエなる人物も協力している。NATOの加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在、イタリアの組織はグラディオ。(Jeffrey M. Bale, “The Darkest Sides Of Politics, I,” Routledge, 2018)
デレ・キアイエはグラディオの工作に参加していた。この秘密部隊は1970年にイタリアでクーデターを試みて失敗しているが、これにもデレ・キアイエは加わっている。クーデターに失敗した後、彼はスペインへ逃亡、1973年にはCIA主導の軍事クーデターを成功させたチリを訪問、オーグスト・ピノチェト政権の幹部たちと会っている。
こうしたネットワークはラテン・アメリカだけでなく、アングロ・アメリカやヨーロッパにも広がっていて、それは今でも消えていない。ウクライナでネオ・ナチが登場したのも必然なのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911170000/
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2020.02.18
ドレスデン空爆で米英軍が市民を虐殺して75年
今から75年前の2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの空軍はドイツのドレスデンを空爆した。市街は廃墟と化し、約2万5000名の市民が殺されたと言われている。当時は文化都市として有名で世界的に知られた芸術作品がそこにはあったのだが、爆撃によってその多くが失われた。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。
ドイツがソ連へ向かって進撃を始めたのは1941年6月のことだった。バルバロッサ作戦だ。アドルフ・ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡った翌月のことである。その時にヘスはイギリス政府の首脳と会談したはずだが、その内容は未だに明かされていない。
ソ連を侵略するためにアドルフ・ヒトラーは約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)
軍の幹部が東と西で半々にしようと提案したのは西側からの攻撃にも備えなければならないという判断からだが、ヒトラーはそうした攻撃に備える必要がないと考えていたとしか思えない。そこで、西側からイギリスなどが攻撃してこないことをヒトラーは知っていたのではないかと推測する人もいるが、ありえないとは言えないだろう。
ドイツ軍が東へ向かっている様子をイギリスやアメリカは傍観している。両国が動き始めるのはスターリングラードでドイツ軍が降伏した後。
ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するのだが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。
それを見たイギリスやアメリカは5月にワシントンDCで会談し、ドイツに対する軍事作戦を作成、7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸した。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。この上陸作戦に対する防衛を巡り、ドイツ軍の内部でヒトラーへの不審が強まり、暗殺計画につながったとする見方もある。
その1944年当時、OSSの幹部でウォール街の弁護士でもあるアレン・ダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領には無断で1944年にドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触していた。その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナーだ。大戦後、ウィズナーは極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる。
ウォール街の要人たちはナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。
こうした作戦を推進したグループとは違って反ファシズムの立場だったルーズベルト大統領は1945年4月に急死、5月上旬にドイツは降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われ、成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、世界は核兵器の時代へ移行していく。
トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。その翌年にはアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
ドレスデンへの空爆は広島や長崎への原爆投下と同じように第2次世界大戦の終結との関係性は薄い。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002180000/
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2021.03.10
ラテン・アメリカで民主勢力が逆襲の動き
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103100001/
ブラジル最高裁のエドソン・ファシンは3月8日、ルイス・シルバに出されていた全ての判決を無効にすると言い渡した。2022年の大統領選挙に出馬する道が開かれた。まだ最高裁****廷での審理が残っているものの、アメリカの私的権力は苦々しく思っていることだろう。
シルバは2017年7月に汚職容疑で懲役9年6カ月の有罪判決を受けたのだが、その事件は裁判所と検察が共謀したと疑われていた。2019年6月にはインターネット・メディアのインターセプトがこの疑惑を証明する会話記録を公表している。
インターセプトの記事によると、最初の裁判を担当したセルジオ・モロ判事は捜査が始まった直後から検察側の責任者だったデルタン・ダラニョールに対し、裁判や投獄に関するアドバイスや指示をしていた。この捜査はバラク・オバマ政権の司法省が支援していたと言われている。
現在のブラジル大統領、ジャイル・ボルソナロは2019年1月に就任したが、その2カ月後にアメリカを訪問した。その際、ドナルド・トランプ大統領と会う前にCIAの本部を訪れ、ジーナ・ハスペル長官と会談している。彼の正体を象徴する出来事だ。
ブラジルに限らず、民意に基づいて選ばれた政権はアメリカを拠点とする私的権力の利権にとって好ましくないことが少なくない。第2次世界大戦の前には海兵隊が介入していたが、大戦後にはCIAの秘密工作部門が現地の手先を使ってクーデターを起こしている。
例えば、1953年6月にはイギリスの要請を受け、ウォール街の弁護士であるジョン・フォスター・ダレス国務長官(当時)とアレン・ダレスCIA長官(同)をの強大はイランのムハマド・モサデクを倒している。
ラテン・アメリカの1948年4月にコロンビアのホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺され、54年6月にはグアテマラのヤコボ・アルベンス・グスマン政権が軍事クーデターで潰された。1973年9月にはチリのサルバドール・アジェンデ政権もクーデターで倒されている。
勿論、アメリカの私的権力に破壊された政権はこれらに留まらない。その大半が民主的に選ばれていた。アメリカは「民主主義を押し売りしている」と言う人がいるが、実際は民主主義を破壊してきたのだ。本ブログでは繰り返し書いてきたが、ウォール街に巣くう私的権力はアメリカでもファシズム体制の樹立を目指し、1933年から34年にかけてクーデターを目論んでいる。
ウォール街の金融資本がナチス体制へ資金を供給していたことは研究者やジャーナリストによって明らかにされてきた。ダレス兄弟のような弁護士にとって、ドイツの巨大企業も大切な顧客だ。その巨大企業の利権とナチスは結びついていた。
ウォール街とナチスを結ぶ仕組みで中心的な役割を果たしていたのがディロン・リードやブラウン・ブラザーズ・ハリマンといった金融機関。ブラウン・ブラザーズ・ハリマンはW・A・ハリマンがブラウン・ブラザーズを買収してできた会社で、W・A・ハリマンが創設された1919年当時に社長を務めていた人物がジョージ・ハーバート・ウォーカーである。
このウォーカーの孫がジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュであり、ひ孫がジョージ・ウォーカー・ブッシュ。つまり、第41代アメリカ大統領と第43代アメリカ大統領だ。
大戦中、アレン・ダレスはスイスのベルンで秘密工作を指揮していたが、ここでナチスと接触していたと見られている。スイスには資金面でナチスとつながっていたと言われているBIS(国際決済銀行)が設立されていた。BISの初代頭取ゲイツ・マクガラーはリチャード・ヘルムズの祖父。ヘルムズはダレスの側近として秘密工作に従事、1966年から73年にかけてCIA長官を務めている。
ウォール街とシティ、つまりアメリカとイギリスの金融資本はファシストのスポンサーだと言わざるをえない。フランクリン・ルーズベルトをはじめとするニューディール派は第2次世界大戦が終わった後、こうした関係を暴くつもりだったかもしれないが、これは実現していない。ドイツが降伏する直前、1945年4月12日にルーズベルトが急死したからだ。
ルーズベルトと同じように反ファシストで副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスは民主党の幹部たちによって1945年1月にそのポストから引きずり下ろされている。後任はシオニストの富豪を後ろ盾としていたハリー・トルーマンだ。戦後、アメリカではジョセフ・マッカージー上院議員を中心に「赤狩り」が展開され、反ファシスト派は粛清されてしまう。その間、CIAはナチスの元高官や協力者を救出、保護、さらに雇用している。日本でも似たことが行われた。
少なからぬナチスの関係者をアメリカの政府機関はラテン・アメリカへ逃がした。「ブラッドストーン作戦」だ。逃走した人びとはそこでアメリカの巨大資本のために活動している。
逃走ルートは「ラット・ライン」と呼ばれているが、この逃走工作をローマ教皇庁の大物が協力していた。ジョバンニ・モンティニ、後のパウロ6世である。その背後にはアレン・ダレスやジェームズ・アングルトンのような情報機関の大物がいた。
モンティニは戦後、ナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けている。「ラット・ライン」を1947年から動かしていたのはアメリカ陸軍第430CIC(対諜報部隊)のジェームズ・ミラノ少佐。ミラノに逃走支援工作を任されたのがポール・リオンズ中尉で、リオンズの接触した相手がクルノスラフ・ドラゴノビッチ神父だった。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
この逃走ルートを利用して逃げたナチのひとりが「リヨンの屠殺人」と呼ばれたクラウス・バルビー。この人物は大戦中、フランスのリヨンでゲシュタポの指揮官を務めていた。
バルビーもラテン・アメリカで活動、1980年7月にはボリビアのクーデターに加わっている。このクーデターも背後にはアメリカの私的権力が存在、現地の軍人と大物麻薬業者が手を組んで実行した。このクーデターに限らず、ラテン・アメリカでクーデターや「死の部隊」を指揮してきた軍人の大半はSOAの出身者。
この施設は1946年にアメリカ政府がパナマで設立、対反乱技術、狙撃訓練、ゲリラ戦、心理戦、軍事情報活動、尋問手法などを教えていたが、1984年にパナマ政府から追い出され、アメリカのジョージア州にあるフォート・ベニングへ移動。2001年には「西半球治安協力研究所(略称はWHISCまたはWHINSEC)」へ名称を変更した。
ブラジルもこうした軍人たちによって支配されていたが、同じような国はアメリカ政府の下、連携していた。1975年9月ころにはチリ、アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、パラグアイ、そしてウルグアイの軍事政権の情報機関が参加し、巨大資本の利権にとって目障りな人びとを誘拐したり暗殺したりしている。その連合体が「コンドル」だ。
1999年にベネズエラでウゴ・チャベスが大統領に就任して以来、そのラテン・アメリカへ民主化の波が押し寄せた。例えば2003年にブラジルでルイス・シルバ、アルゼンチンでネストル・キルシュネル、06年にはボリビアでエボ・モラレス、ホンジュラスでマヌエル・セラヤ、07年にはエクアドルでラファエル・コレアがそれぞれ大統領に就任している。
こうした民主的な政権を支えていたのがベネズエラの石油だったのだが、石油相場の急落もあり、ウォール街の逆襲にあった。ベネズエラに対するクーデター作戦は進行中だ。
しかし、そうした流れを再び民主化の方向へ戻そうとする力も働き始めている。そのキーパーソンはメキシコのアンドレ・マヌエル・ロペス・オブラドール大統領だろう。2018年に就任している。ロックダウンなどによって人びとを封じ込めようとしているヨーロッパ各国の首脳を激しく批判する一方、新自由主義に反対している。
メキシコはCIAを後ろ盾とする麻薬業者に支配されてきた国で、クーデターで倒される恐れもあるが、民主化を目指す力が強まっていることは否定できない。ブラジルでの判決もこうした流れが影響しているのだろう。
ラテン・アメリカだけでなく、東アジアでも中東でもジョー・バイデン政権は力で押し切ろうとしているようだ。すでにルビコンを渡った彼らとしては死に物狂いで押し切ろうとするだろうが、裏目に出る可能性がある。COVID-19の幻影が消えたなら致命的だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103100001/
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2022/06/23 (Thu) 03:15:44
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2021.05.10
第2次世界大戦でナチスは敗れたが、ナチスの黒幕は生き残り、戦争を続けている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105090000/
5月9日はロシアの「戦勝記念日」である。ウラジミル・プーチン露大統領はこの日、ある勢力が第2次世界大戦から何も学ばず、ロシアに対する攻撃的な計画を抱いていると指摘したうえで、国民の利益を守るという決意を述べた。好戦的なジョー・バイデン政権やその僕たちを意識しての発言だろう。
ドイツとソ連の関係が悪化するのはナチスが台頭してからでる。十月革命でボルシェビキ体制が成立して以来、ソ連とドイツとの関係は良好だった。ナチス時代の1941年6月にドイツ軍はソ連を侵攻した。バルバロッサ作戦だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令である。まるで西側から攻めてこないことを知っていたかのようだ。
ドイツ軍は7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたのだが、日本軍が真珠湾やマレー半島を奇襲攻撃した12月にソ連軍が反撃を開始、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏する。
この段階でドイツの敗北は決定的になったが、慌てたイギリスやアメリカはすぐに善後策を協議、その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸した。その後、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始める。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。ラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などだ。
アメリカやイギリスの金融資本はナチスを資金面から支えていた。例えばディロン・リード、ブラウン・ブラザース・ハリマン、ユニオン・バンキングなどがそうしたパイプだった。その経営陣にはョージ・ハーバート・ウォーカー、その義理の息子であるプレスコット・ブッシュ、ブッシュと同じエール大学のスカル・アンド・ボーンズに入っていたW・アベレル・ハリマンも含まれている。そのほかスイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。
そもそも、ウォール街は1930年代からファシストと関係があった。そのウォール街の傀儡だったハーバート・フーバーが1932年の大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗北すると、アメリカの金融資本は在郷軍人会を利用してクーデターを行おうと計画している。
計画の中心的な存在だったJPモルガンは司令官としてダグラス・マッカーサーを考えていたが、人望があり、軍の内部への影響力が大きいスメドリー・バトラーを取り込まないとクーデターは無理だという意見が通り、バトラーに働きかけた。
しかし、この人物は憲法を遵守するタイプの人物。そこで計画内容を聞き出した上でカウンタークーデターを宣言し、議会で詳細を明らかにした。
ウォール街のクーデター派はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領への信頼感を失わせるようなプロパガンダを展開、50万名規模の組織を編成して恫喝して大統領をすげ替えることにしていたという。
バトラーの話を聞いたジャーナリストのポール・コムリー・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。金融資本は親ファシズムだった。ナチスへ資金を提供し、ナチスの幹部や協力者を救出、保護するのは必然だった。その延長線上に冷戦はある。バラク・オバマやジョー・バイデンの政策も同じだ。
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2021.05.11
ナチスが台頭する前のドイツがソ連と友好的だったのは英国という敵がいたから
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105110001/
ボルシェビキがソ連を作り出してからドイツでナチスが台頭するまでの期間、ソ連とドイツとの関係は良好だった。その理由を理解するためには1917年のロシアにおける二月革命と十月革命、その背後で暗躍していたイギリスの情報機関について知る必要がある。
崩壊する直前の帝政ロシアは大地主と産業資本家によって支えられていたのだが、第1次世界大戦において、このふたつの柱の利害は対立していた。産業資本家はイギリスと組んでドイツと戦うことに賛成していたのだが、大地主は戦争に反対していたのだ。大地主の代弁者的な人物がグレゴリー・ラスプーチンという修道士である。
やはり戦争に反対していた皇后は1916年7月13日にラスプーチンへ電報を打つが、それを受け取った直後にラスプーチンは見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。
そして1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺される。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれていた。最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発明は前頭部に命中し、これで即死したと見られている。暗殺に使用された銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだった。
暗殺したのはフェリックス・ユスポフという有力貴族を中心とするグループだったが、その背後にはイギリスの情報機関MI6が存在していたのだ。
ロシアをドイツとの戦争へ引きずり込みたいイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を中心とするMI6のチームをロシアへ送り込んでいる。その中にステファン・アリーとオズワルド・レイナーが含まれていた。アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家の家庭教師で、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれている。レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。イギリスはロシアをドイツとの戦争に引きずり込もうとしていた。
イギリス外務省のお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月の終わりから11月半ばにかけて6回にわたり運んだという。またユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)
ラスプーチンが殺されて間もない1917年3月にロシアでは二月革命があり、資本家を後ろ盾とするカデット中心の臨時革命政府が成立する。労働者や兵士を支持母体とするメンシェビキも「ブルジョア革命」を目指していた。そして戦争は継続することになる。
その結果、ドイツは両面作戦を続けなければならなかった。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキだ。そこで国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名をドイツは1917年4月に「封印列車」でロシアへ運んだ。そうした指導者のひとりがウラジミル・レーニンだ。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになるのだ。
しかし、ドイツ軍は迅速に部隊を西側へ移動させられなかったことやアメリカの参戦もあって1918年11月に敗北する。その3カ月前にイギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはロシアに軍隊を派遣して干渉戦争を始めている。
そうした経緯があるため、アドルフ・ヒトラーが出てくるまでドイツとソ連との関係は悪くなかった。米英の金融資本と結びついていたのはロシアの臨時革命政府やナチスだ。シティやウォール街がナチスを支援した理由はドイツとソ連を戦わせることにあったと言えるだろう。
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2021.06.02
欧州を支配するためにその指導者を監視する米国の情報機関
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ヨーロッパの指導者をアメリカの電子情報機関NSAが監視していることを知る人は多いだろう。その工作にデンマークの情報機関が協力していることが判明したと報道されている。
アメリカの電子情報機関NSAが全ての通信を傍受、記録、分析している。この情報機関が創設されたのは1952年10月。NSAとイギリスの電子情報機関が中心になってUKUSA(ユクザ)が編成され、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが参加した。いわゆる「ファイブ・アイズ」だが、あくまでも中心はアメリカとイギリス。残りは下部機関にすぎない。(西)ドイツ、フランス、イタリア、南ベトナム、日本、タイなどは「第3当事国」と呼ばれているが、「ファイブ・アイズ」の手先だ。NSAやGCHQと対等の関係にあるのはイスラエルの8200部隊だろう。
2014年7月、ドイツで自国の情報機関BND(連邦情報局)で働くエージェントが逮捕され、ドイツ軍の防諜部門に所属する兵士がCIAへ情報を流していた疑いで取り調べを受けたと伝えられたが、アメリカの情報機関が「友好国」の要人を監視していることは公然の秘密だ。2015年にはウィキリークスが公表した資料により、ドイツ政府の高官をNSAが長期にわたって監視していたことが判明した。
BNDがアメリカの情報機関と緊密な関係にあることは有名な話。この情報機関を創設したラインハルト・ゲーレンは第2次世界大戦中、ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長として東方(ソ連関係)の情報を担当していた情報将校だが、ドイツの敗北が決定的になっていた1944年に彼はアメリカの情報機関OSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループと接触している。ウィズナーはウォール街の弁護士で、ダレスの側近。大戦後、破壊活動を目的とする秘密機関OPCの責任者を務めている。
1945年5月にドイツが降伏すると、すぐにゲーレンはアメリカ陸軍のCIC対敵諜報部隊)に投降、同部隊のジョン・ボコー大尉はゲーレンたちを保護する。その後ろにはアメリカ第12軍のG2(情報担当)部長だったエドウィン・サイバート准将、ヨーロッパの連合国軍総司令部で参謀長を務めていたウォルター・ベデル・スミス中将、そしてダレスがいた。サイバート准将とゲーレン准将は1946年7月に新しい情報機関の創設を決め、ナチスの残党を雇い入れるが、それがBNDの母体だ。
ゲーレンの機関は1949年7月からCIAの監督下に入り、資金の提供を受けはじめる。1954年に作成された秘密メモにはゲーレン機関の少なくとも13パーセントが筋金入りのナチスだと書かれている。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)
アメリカはドイツに配下の情報機関を創設しただけでなく、秘密工作を実行するためのネットワークはヨーロッパ全体に広げられた。その工作を指揮するために設置されたのがCCWU(西側連合秘密委員会)。北大西洋条約が締結されてNATOが登場するとその秘密部隊は「NATOの秘密部隊」になり、1951年からはCPC(秘密計画委員会)の下で活動するようになった。
SACEUR(欧州連合軍最高司令官)の命令でCPCの下部組織として1957年にACC(連合軍秘密委員会)が創設された。イタリアで「緊張戦略」を実行、人びとの恐怖を煽り、コミュニスト勢力を弱体化させ、治安システムを強化させたグラディオもACCの元で活動してきた秘密部隊のひとつだ。今でもNATOはアメリカがヨーロッパを支配するための機関として働いている。
アメリカでは第2次世界大戦後、国内でも監視システムを築いた。そのため、NSA以外の機関も国民を監視するプロジェクトを開始。例えばFBIが1950年代に始めたCOINTELPRO、CIAが67年に始めたMHケイアスだ。私的権力にとって好ましくない政治家、学者、活動家、ジャーナリストが狙われたが、そうした個人のレベルにとどまらず、戦争に反対する団体もターゲットになった。集会やデモに配下の者を潜入させ、平和運動を支援していた著名人を尾行し、電話を盗聴、郵便物を開封、さらに銀行口座の調査も実施している。
1970年代に電子技術が飛躍的に進歩、通信傍受は世界規模になる。1965年4月に本格的な商業衛星インテルサット1号が打ち上げらたが、66年にNSAはPROSTINGというプログラムを始める。その中で西側の通信を傍受するためにNSAやGCHQが開発した地球規模の通信傍受システムがECHELON。ソ連の通信衛星をターゲットにしたプログラムはTRANSIEMTだ。(The Northwest Passage, Yakima Research Station (YRS) newsletter: Volume 2, Issue 1, January 2011 & Volume 3, Issue 7, July 2012)
ECHELONの存在が明るみに出たのは1988年。ロッキード・スペース・アンド・ミサイルで働いていたマーガレット・ニューシャムが議会でそのシステムについて議員に話したのだ。彼女によると、NSAは共和党のストローム・サーモンド上院議員の電話を盗聴対象にしていたという。(Duncan Campbell, 'Somebody's listerning,' New Statesman, 12 August 1988)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202106020000/
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2022/06/23 (Thu) 03:16:18
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超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
週刊スモールトーク (第280話) 超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
■哲学者ニーチェの妹
哲学者ニーチェの人生は波瀾万丈である ・・・ 皮肉に満ちて。
正気の時代は無名で、気が触れると「狂気の哲学者」で有名になり、死して後、「ナチスの予言者」となった。
天才画家ゴッホを彷彿させる切ない人生だが、ゴッホ同様、ニーチェに責任があるわけではない。じつは、ニーチェの名声は彼が正気を失った後、偽造されたものなのである。しかも、偽造したのがニーチェの妹だというから、皮肉な話だ。
とはいえ、偽造されなければ、ニーチェは無名で終わっていた。
偽りの名声か、ありのままの無名か?
まさに、究極の選択だが、ニーチェが生きていたら、きっと、後者を望んだだろう。プラトンなみに理想論と抽象論を愛した人物だから。
では、「ニーチェ」はいかにして偽造されたのか?
ニーチェは、発狂した時点で、哲学者としての寿命は尽きていた。しかも、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェが世に出る術はない。
ところが、その術を提供した人物がいた。ニーチェの実の妹、エリザーベト・ニーチェである。彼女は、兄ニーチェの価値を見抜き、一山当てようともくろんだのである。
エリザーベトは、兄ニーチェの2歳年下で、目がクリっとした愛くるしい女性だった。だが、問題はそこではない。彼女は羊の皮をかぶった怪物だったのである。
■天才プロデューサー
エリザーベトは、商売の天才、まれにみる辣腕プロデューサーだった。しかも、その小さな身体の中には、「鉄の心臓」と「小型原子炉」が秘められていた。それが、揺るぎない信念と無尽蔵のエネルギーを発生し、とてつもない大業を成し遂げたのである。
彼女がプロデュースしたプロジェクトは3つ。
1.哲学の至宝「ニーチェ・ブランド」を確立したこと。
2.南米パラグアイにドイツ人植民地「新ゲルマニア」を建設したこと。
3.ニーチェをナチスのプロパガンダに利用し、ナチスを正当化し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたこと。
一目して、AKB48、テーマパーク、村おこしとは一線を画すことがわかる。すべて、歴史を変えた大プロジェクトなのだから。そのすべてが、愛くるしい一人の女性によって成し遂げられたことに驚かされる。
エリーザベト恐るべし ・・・
そもそも、エリーザベトには、尋常ではない信念があった。人の道にはずれ、利にさとく、日和見的ではあったが、その時々で迷いがみじんもないのだ。
それは信念ではなく、思い込みでは?
ノー!
単純な思い込みではない。
エリーザベトの「望み」は、たいてい、「真実」や「正義」に反するものだったが、彼女の中では完全に一体化していた。つまり、「望み=真実=神の摂理」だから、みんな私に従って当然、と本気で信じていたのである。彼女の「望み」が「真実」なら、変わるはずがないのだが、目先の利益にしたがってコロコロ変わった。ところが、彼女がそれに気付いた形跡はない。自己実現への熱い思いが、真っ当な論理を溶解したのである。
だから、エリーザベトの信念は思い込みではない。本人も気付かないほど巧みに偽装された「真実=信念」なのである。これほどタチの悪い”信念”はないだろう。
とはいえ、「鉄の心臓」が生んだ信念と、「小型原子炉」が発生する無限のエネルギーは、とてつもないものを生み出した。発狂した無名の学者から、哲学史に残る「ニーチェ・ブランド」を創造し、ナチスのプロパガンダに利用し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたのだから。
なるほど ・・・
ニーチェ・ブランドとナチスの予言者はつながった。では、南米パラグアイのドイツ人植民地は?
じつは、この3つには共通項がある。
エリーザベトには3つの信念があった。人の道にはずれた「人種差別(反ユダヤ主義)」と「国粋主義」と「全体主義」である。この3つは、言わずと知れたナチスのテーゼ、だから、エリーザベトがナチスに加担したのも無理はない。
でも、それと、ドイツ人植民地とどんな関係が?
じつは、最初にこの植民地計画を立案したのは、エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターだった。彼は、狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、南米パラグアイに新天地を求めたのである。それに、心から賛同し、率先して計画を推進したのが妻エリーザベトだった。
というわけで、ニーチェ・ブランド、ドイツ人植民地、ナチスの予言者は、すべて、エリーザベトの信念にもとづいている。
話をナチスとニーチェにもどそう。
エリーザベトが、ニーチェ・ブランドをナチスのプロパガンダに利用したのは、ナチスに心酔したからだが、理由はそれだけではない。彼女は利にさとく、商売上手だった。つまり、ソロバンをはじいたのである。
具体的には ・・・
ナチス政権に加担し、その見返りとして、国から資金を引き出し、ニーチェ・ブランドの諸経費にあてる。あっと驚く厚かましいソロバンだが、それが現実に成功したのだから、仰天ものである。
ということで、エリーザベトは、ナチスのイデオロギーをニーチェ哲学で理論武装しようとした。
ところが、一つ問題があった。
ニーチェは、人種差別、国粋主義、全体主義を嫌悪していたのである。つまり、ナチスのイデオロギーとは真逆。
■ニーチェとナチス
ニーチェは人種差別主義者ではなかった。
当時、ドイツのみならず、ヨーロッパ中が反ユダヤ主義に染まっていたが(デンマークは除く)、ニーチェはそれを嫌っていた。
一方、ニーチェがユダヤ教を批判したことは事実である。ただし、彼が批判したのはユダヤ教の教義であって、信者のユダヤ人ではない。実際、ニーチェはユダヤ教だけではなく、キリスト教も同じ論理で批判している。つまり、人種とは何の関係もないのだ。
では、ニーチェはなぜそれほどユダヤ教・キリスト教を嫌ったのか?
ユダヤ教もキリスト教も、現実世界で国家権力に敗北したが、その恨みを晴らすために、精神世界をでっちあげたと考えたのだ。
具体的には ・・・
われわれは国家権力に迫害され、虐殺されたけど、本当に負けたわけじゃない。精神世界、つまり、道徳の観点でみれば、暴力をふるった方が負け。つまり、われわれは本当は勝者なのだ。
負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか?
そこで、ニーチェはこれを「奴隷道徳」とよんで、さげすんだ。弱者を救済するための方便と考えたのである。詭弁を弄して、正当化しようが、根本はひがみとねたみではないか。ニーチェは、このような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。
つまり、ニーチェは、ユダヤ教とキリスト教の道徳的価値観を否定したのであって、ユダヤ人を差別したわけではない。
さらに、ニーチェは、国粋主義も全体主義も嫌悪していた。
国粋主義は民族主義のお仲間である。自分の国や民族は最高で、自分たちさえ良ければ、他はどうなってもいい。たとえ、我々に滅ぼされようとも(いますよね、こんな国や民族)。
一方、全体主義は、個人より国家の利益を優先する。国が戦争が勝つためには国民が何十万、何百万人死のうが関係ない!
ヒドイ ・・・ やっぱり、全体主義は「悪」?
じつはそうでもない。現実は複雑なのだ。
たとえば、戦争は勝ってなんぼ。負けたら「個人」の不幸度は極大化するから。第二次世界大戦で、原爆を落とされ、領土を割譲され、戦後70年経っても悪者呼ばわりされる哀れな日本をみれば、明々白々。
つまり、戦争をやるからには絶対に勝たねばならない。そのためには、全体主義が必要なのである。君どうしたの?体調悪いんなら敵前逃亡してもいいよ、など、個人の都合を優先して、戦争に勝てるわけがないではないか。
しかし、プラトン主義的な理想と抽象の世界にハマったニーチェは、現実世界で有効な全体主義を理解できなかった。というか、国家や組織のような「集合」の力を考えようともしなかった。「個」の力の偉大さを神話のように語り続けたのである。
ニーチェは、民主主義、社会主義、全体主義、国粋主義、民族主義 ・・・ イデオロギーと名のつくものは、すべて否定した。イデオロギーは「大衆=マス=集合」を支配する概念で、「個」の力を削ぐと考えたのだろう。
ニーチェは、人間はかくあるべしと考えた ・・・
健全な欲望、たとえば、権力欲、金銭欲、名誉欲、欲望を押し殺してはならない。それは自然の摂理に反するから。ニーチェは、このような純粋な欲望を「力への意志」とよび、それを秘めた人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。
さらに、ニーチェは「超人」と「ルサンチマン」がせめぎ合う未来も予言した。
ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。
その結果 ・・・
誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。
その瞬間、道徳も崩壊する。
なぜか?
一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるから。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。
神が死んで、道徳が崩壊すれば、よりどころを失ったルサンチマンは滅ぶ。しかし、超人は生きのびる。何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」で、新しい価値観を生み出せるから。
これが、ニーチェの「超人思想」である。
こんな粗野で、暴力的で、背神的な思想をぶち上げ、大胆にも「アルコールとユダヤ教・キリスト教を二大麻薬」と言い切ったのである。
一方、ヒトラーは、第9回ナチス全国党大会で、「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)とキリスト教は二大麻薬」と宣言した。
なんか似ている?
似ているどころではない。
ニーチェの教義は、「力への意志」、「超人」、「背神」 ・・・
「力への意志」は、女流映画監督レニ リーフェンシュタールが撮ったナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」を彷彿させる。さらに、「超人」も「背神」も、ナチスの理念そのもの。力強く、斬新で、カッコイイ、でも、暴力的で危険だ。根っこにあるのは「力への賛美」、「反宗教」 ・・・ ナチスまんまではないか!
エリーザベトはココを突いた。
ニーチェの原稿から、文脈を無視して、大衆を惹きつける威勢のいい語句をピックアップし、断片的に散りばめて、ナチスのイデオロギーを正当化したのである。
つまり、エリーザベトにとって、ニーチェの創作物は便利な宣伝の道具にすぎなかった。もちろん、ナチスにとっても。
とはいえ、エリーザベトに悪意はない。彼女の名誉のために一言付け加えなければならない。
エリーザベトは、自己実現のために兄とナチスを利用したが、それに負い目も引け目も感じていなかった。神経が太いのではない。考えがおよばなかったのだ。エリーザベトは、兄ニーチェの哲理を心から崇拝し、それが、ナチスのイデオロギーと一致していると信じ、それを融合させようと真剣にプロデュースしたのである。ニーチェと違い信心深かったエリーザベトは、それが神の摂理だと、信じて疑わなかった。
この世で、もっとも恐ろしいのはこの手の錯覚である。
私利私欲ではなく、立派な大義があり、神の助けがあると信じているから、一切の迷いがなく、無敵なのだ。歴史に残る大業は、この手の錯覚から生まれたものが多い。そもそも、ふつうの信念、ふつうの努力、ふつうのやり方で、大業がなせるわけがないではないか。
というわけで、ニーチェは死して後、ナチスのシンパにされてしまった。それどころか、ナチスのイデオロギーの理論付けに加担させられたのである。ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という、決定的かつ相容れない矛盾があるにもかかわらず。
だからこそ、エリーザベトは偉大なのである(皮肉ではなく)。誰も成し遂げられない難事業を一人でやってのけたのだから。たとえ、それが人の道に反していたとしても。
プロデューサーとは無から有を生み出す魔術師である。場末のステージで歌っていたパッとしないユニットも、名プロデューサーにかかれば、国民的大スターにのしあがる。捏造(ねつぞう)だろうが、でっち上げだろうが、成功して価値を生むようになれば、ホンモノである。これが、プロデューサーの醍醐味だろう。
では、エリーザベトは、いかにして大業を成し遂げたのか?
まずは、原点「ニーチェ・ブランドの確立」から。
■ニーチェ・ブランド
大哲学者フリードリヒ・ニーチェは、勇ましい「超人思想」をぶちあげ、自ら「超人(オーヴァーマン)」たらんとしたが、行き着いたのは狂気の世界だった。
1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま気が触れたのである。
ところが、このとき、ニーチェはまだ無名で、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェは歴史年表から消える。
さて、ここで、名プロデューサー、エリーザベトの登場である。
ニーチェは、発狂後、精神病院に入れられたが、たった半年で医者に見放された。その後、ナウムブルクの実家にもどって自宅療養したが、その頃から名が知られるようになった。新聞が、「ナウムブルクの狂気の哲学者」として書き立てたからである。
ナウムブルクに巣くう精神異常の天才哲学者 ・・・ 大衆の野卑な好奇心を惹き付けるにはうってつけのネタである。次に何が起こるか?
エリーザベトはこのチャンスを見逃さなかった。
まず、彼女が目をつけたのがニーチェの未発表の原稿である。
ナウムブルクの狂気の哲学者、未発表の原稿が発見される!
ブレイク間違いなし ・・・
事実、ニーチェは、発狂した時、膨大な未発表の原稿を残していた。ところが、それは原稿というより、思いつきやアイデアのたぐいで、メモ用紙に殴り書きされていた。何の脈絡もない、断片的な語句 ・・・ これでは出版はおぼつかない。
では、エリーザベトはどうしたのか?
エリーザベトにとって、兄の原稿はチンプンカンプンだった。哲学の素養以前に、思考力に問題があったのだ。のちに、エリーザベトが創設したニーチェ館のメンバーのルドルフ・シュタイナーは、こう言っている。
「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている。昨日は間違いなく赤かったものが、今日は青かったと確信しているのだ」(※1)
見込みなし ・・・
ところが、エリーザベトは典型的な問題解決型人間だった。問題の難しさなどどこ吹く風、問題解決にまっしぐら、解決のためなら手段を選ばず。自分ができなければ、できる人間にやらせればいいのだ。
ニーチェの落書き原稿は、手に負えないものだったが、それを解読できる者が一人だけいた。ニーチェの友人ペーター・ガストである。エリーザベトは、ガストを雇い、ただちに、原稿の編集を命じた。
一方、ナウムブルクの実家に移されたニーチェは、母フランツィスカが面倒を見ることになった。
エリーザベトの凄いのは、この二つを完全に自分の管理下においたことである。
原稿の編集をガストに、ニーチェの身の回りの世話を母フランツィスカに任せ、注意深く管理したのである。
エリーザベトは、
1.未発表の原稿を出版する。
2.ナウムブルクの狂気の哲学者の”悲劇ぶり”を継続的にアピールする。
この二つが、「ニーチェ・ブランド」の両輪であることを見抜いていたのである。
ところが、このような多忙な時期に、エリーザベトはもう一つのプロジェクトをスタートさせる。
南米パラグアイのドイツ人植民地である。
しかも、このプロジェクトは、プロデュースしただけではない。あろうことか、夫と連れだって、自ら辺境の地パラグアイに旅立ったのである。
歴史的大プロジェクトを3つ同時進行させる?
このようなパワーは一体どこから生まれるのか?
「鉄の心臓」と「小型原子炉」 ・・・
兄ニーチェは「超人」を目指して破綻したが、妹のエリーザベトは正真正銘の「超人・オーヴァーマン」だったのである。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
週刊スモールトーク (第281話) アーリア人植民地計画Ⅰ~人種の純化~
2015.03.07
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/
■「人種の純化」計画
男が熱く語り、女が大げさに相づちをうつ。愛を語り合う恋人同士ではない。 女は、目が大きく、愛くるしい顔立ちで、名をエリーザベトといった。かの大哲学者ニーチェの妹である。男は、ハンサムで背が高く、名をフェルスターといった。この二人は夫婦で、よからぬ話題で盛り上がっていたのである。
その話題というのが ・・・ 南米パラグアイで、ドイツ人のドイツ人によるドイツ人のための植民地を建設する。 「ドイツ人」を「アーリア人」に読みかえれば、ナチスの「人種の純化」計画そのもの。人の道に外れた危険な計画である。
この計画を最初に思いついたのは夫のフェルスターだった。フェルスターは狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、地球の裏側でドイツ人植民地を建設すると、触れ回っていた。 「南アメリカなら我々の新しいドイツが見つけられる。そこでは、ドイツ人が純粋なドイツ精神を育むことができるのだ。パラグアイの未開の地の真ん中に築かれる『新ゲルマニア』は、いつの日か、大陸全体をおおい尽くす、誉れ高き新しい祖国の核となるであろう」(※1)
抽象的で雲をつかむような話だが、意味するところは重大である。 われわれは、南アメリカで「新ゲルマニア」を建設する。そこは、純粋なドイツ精神が宿る心臓である。その精神は、やがて南アメリカ全土をおおい尽くし、ドイツの第二の祖国となるだろう ・・・ と言っているのだから。
不吉なことに、「新ゲルマニア」は50年後に成立するドイツ第三帝国の世界首都「ゲルマニア」を暗示していた。そして、皮肉なことに、どちらも見果てぬ夢で終わったのである。 とはいえ、「南アメリカ移住」は、この時代、珍しいことではなかった。1880年代前半までに、すでに、数十万人のドイツ人が南アメリカに渡っていたからである。ただし、彼らの動機は「人種の鈍化」のような高邁なイデオロギーではなかった。単に食い詰めていたのである。
1871年、ドイツ帝国(帝政ドイツ)が成立し、ドイツが統一された後も、ひどい不況が続いていた。何千、何万というドイツ人が貧困にあえぎ、移住に望みをつないだのである。さまざまな移民協会が設立され、多くのドイツ人が南アメリカに渡った。 行き先は、たいてい、ブラジルかアルゼンチンだった。すでに、多くのドイツ人が住んでいたからである。ところが、フェルスター夫妻が目指したのは、実績のないパラグアイ。 なんで、よりよってそんな所に? 変わり者だから? たしかに。 でも、それだけではない。じつは、「パラグアイ」がとりわけ突飛というわけではなかったのだ。フェルスターの前にパラグアイに入ったヨーロッパ人がいたのである。
■南アメリカ探検
大航海時代、多くのヨーロッパ人が、一山当てようと、新大陸に押しかけた。ポルトガル人アレヒオ・ガルシアもその一人だった。彼はアメリゴ・ベスプッチの探検の後を継いで、漁夫の利を得ようとしていた。 ベスプッチは「アメリカ大陸の第一発見者」の名誉を巡って、コロンブスと争ったイタリアの航海者である。コロンブスが上陸したのはアメリカ大陸ではなく、周辺海域の小島だった ・・・ それに最初に気づいたのがベスプッチだった。
彼は、「ヨーロッパ人で初めて北アメリカに到達したのはこの私だ」 と主張して譲らなかった。 結果、新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名された。コロンブスの名を冠した「コロンビア」とはならなかったのである。 その後、ベスプッチは、ブラジルの海岸沿いに南下して、のちにラプラタ川と呼ばれる川を発見した。ベスプッチは、この川のどこかを抜ければ、南アメリカ大陸の反対側に出て(太平洋側)、スパイスアイランドに行けると考えた。ところが、ベスプッチは探検を途中で中止してしまった。 そこに目をつけたのが、アレヒオ・ガルシアである。ベスプッチの探検を継承し、手柄を横取りにしようとしたのである。
もし、成功すれば、「ヨーロッパ → 南アメリカ → (太平洋) → スパイスアイランド」の新航路を独占し、莫大な富が得られる。 ガルシアは、スペイン人の水先案内人ファン・ディアス・デ・ソリスを雇い、意気揚々、船出した。1515年の夏、探検隊はラプラタ川の河口に到着した。ベスプッチが探索を中止したあたりである。ガルシアはそこから調査を開始した。 ガルシア隊がマルティン・ガルシア島につくと、チャルア・インディアンの一団がいかにも親切そうに身振り手振りで水先案内人を差し招いた。ファン・ディアス・デ・ソリスは浜にあがった。そして、かわいそうにたちまち食べられてしまった。先導者を失った一行は逃げ去った(※1)。
こうして、ガルシアの目論見は頓挫した。ところが、その後、原住民から、耳寄りの話を聞いた。南米の山奥に財宝ザクザクの帝国があるというのだ。それを奪う方が、新航路を発見して貿易でチマチマ稼ぐより、よほど手っ取り早い。そう考えたガルシアは、早速、行動を開始した。ところで、この財宝ザクザクの帝国だが、かの「インカ帝国」である。 1524年頃、ガルシア隊は、現在のパラグアイの首都アスンシオンに入った。そこで、ガルシアは2000人のインディアン(チルグアノ族)を仲間に引き入れた。その後、川をさかのぼって、インカ帝国のはずれに到着した。そこで、住民を殺して回って、莫大な財宝を手に入れた。こうして、ガルシアは征服に必要な兵力と資金を手に入れたのである。あとは、インカ帝国を征服するのみ。
ところが ・・・ 1525年の暮れのこと、突然、ガルシアに災難が降りかかった。ガルシア隊のインディアンが裏切って、ヨーロッパ人を一人残らず殺したのである。その後、インディアンは遺された財宝を山分けして、何が気に入ったのか、その場所に住みついた。アンスシオン(現在のパラグアイの首都)の北方、150マイルのあたりである。その360年後、ここに、新ゲルマニアが建設がされるのである。 こうして、インカ帝国征服の手柄は、1533年、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロに転がり込んだのである。歴史は、いや、人生は何が起こるかわからない。
ということで、パラグアイに入った最初のヨーロッパ人は、アレヒオ・ガルシア。フェルスターではなかったのである。 ところで、ガルシア隊が全滅したのに、なぜ、最期の状況が分かるのか? ガルシア隊の消息を追った人物がいたから。名をセバスチャン・カボットというスペイン人航海者である。 なんと物好きな? ノー、ノー! お目当てはガルシアが略奪した金銀財宝。 1526年、カボットは4隻の船と600人の部下を引き連れて、パラグアイを北上した。その後、アスンシオンの北方、150マイルあたりで、川岸に住むグアラニー部族と遭遇した。未開の部族で、暮らしぶりも貧乏なのに、どういうわけか、大量の銀を貯えている。 これは怪しい、ガルシアの財宝に違いないと、にらんだカボットは、無慈悲にも財宝を取り上げてしまった。それがよほど嬉しかったのか、記念に、その川をラプラタ川(スペイン語で「銀の川」)と命名した。
ではその後、パラグアイはどうなったのか?
200年間のスペイン植民地をへて、1811年に共和国として独立を宣言した。ところが、その後、歴史上もっとも凄惨な戦争に巻き込まれるのである。
■史上最悪の三国同盟戦争
戦争は、いつの時代も凄惨だ。 史上初の世界戦争、第一次世界大戦では1000万人が戦死した。つづく、第二次世界戦では7000万が犠牲になった。そのうち3000万人が、ドイツとロシアが戦った東部戦線である。しかも、半数が民間人というから、独ソ戦の凄まじさがわかるというものだ。この戦いは、英雄も、超兵器も、胸のすくような戦術もなく、肉切り包丁で斬り合う消耗戦だったのである。 第二次世界大戦は、空爆の被害も突出している。
たとえば、1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾は、広島市の92%の建物を破壊し、20万人の命を奪った。 さらに、ドイツの都市ドレスデンへの無差別爆撃も凄まじい。1945年2月13日から15日にかけて、イギリスとアメリカの重爆撃機1000機以上が出撃し、街の85%を破壊した。さらに、ドレスデン市民数万人が即死し、最終的に20万人が死んだ。 ドレスデン生まれの作家エーリヒ・ケストナーはこう書いている。 「あの都市美を創造するのに300年以上の歳月を要したのに、それを荒れ地と化すのには数時間でこと足りた」 驚くべき残虐行為だが、戦争は勝てば官軍、どんな残虐行為も正当化されるのだ。それが最も顕著だったのが第一次、第二次世界大戦だろう。
ただし、”凄惨さ”において、これを凌駕する戦争がある。 1864年~1870年、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟とパラグアイが戦った「三国同盟戦争」である。 この戦争の何が凄惨なのか? 負けた側のパラグアイの死亡率 ・・・ 全人口の50%。 戦争で国民の半分が死んだ?!
イエス。
パラグアイの人口の推移をみれば明らかだ。戦前は52万なのに、戦後は21万人。 ラテンアメリカ、いや、世界史上もっとも凄惨な戦争といっていいだろう。 この戦争は5年で終了したが、その後もゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされた。さらに、パラグアイの領土は戦前の3/4にまで減らされ、イギリスの支配下に組み込まれ、国体も失った。 ところが、さらに深刻な問題があった。軍が壊滅的な損失をこうむり、成人男子のほとんどがいなくなったのである。国や組織を支えるのは、ヒト・モノ・カネ、中でも重要なのは「ヒト」である。パラグアイはそこが欠落していた。これでは、国家再建は難しい。
■未開のパラグアイ
そんな荒廃したパラグアイに人生を賭けたのがフェルスターだった。 一体、なぜ? 未開の土地と住民は、真っ白なホワイトボードのようなもの。人の道に外れた人種差別だろうが、独りよがりのイデオロギーだろうが、はた迷惑な植民地だろうが、思う存分描けるから。
フェルスターは「反ユダヤ」の妄想に取り憑かれていた ・・・ ユダヤ人どもは、ドイツの芸術や道徳を堕落させ、その悪意にみちた陰謀の一環として、出版界まで支配しつつある。自分が書いた本が売れないのも、そのせいだと。 さらに、フェルスターは、宗教改革の創始者マルティン・ルターの言葉を座右の銘にしていた。
「キリスト教徒よ、おぼえておくのだ。悪魔を除けば、本物のユダヤ人ほど残酷で悪辣で暴力的な敵はいないことを」(※1)
つまり、フェルスターは、生死に関わる生活の困難さや不便さよりも、イデオロギーを選んだのである。 しかし ・・・ どう考えても、パラグアイは間違いだった。 パラグアイの暑さは殺人的で、土地は痩せ、穀物も育たない。インフラは皆無で、鉄道はもちろん、道らしい道もない。水道もなく、井戸を掘ってもすぐに枯れ、飲み水にも事欠く。こんな不毛の土地で、文明化されたドイツ人が生きていけるはずがないではないか。
ところが、そんな劣悪な環境でも、鉄の心臓と小型原子炉をもつ超人エリーザベトは平気だった。しかし、夫のフェルスターはそうはいかない。勇ましいのは反ユダヤ主義だけで、あとは”並”だったから。 人間は、身の丈を超えて、大言壮語を吐くのは危険である。行動に移すのはさらに危険である。ヘタをすると命を落とすから。そして、フェルスターもご多分に漏れずそうなった。勇ましい演説とは裏腹に、哀れな最期をとげたのである。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/
週刊スモールトーク (第282話) アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~
カテゴリ : 人物思想歴史2015.03.21
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/
アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~
■優生学の時代
アーリア人の神話は強力である。
最強の人種にして、文明を担う者、そして、地球の支配者、それがアーリア人 ・・・ だったはずなのに、今では、カスピ海周辺からイランやインドに流れ着いた集団、で落ち着いている。
ではなぜ、それが神話にまで登り詰めたのか?
ことの発端は、19世紀、フランスで出版された書「人種の不平等論」までさかのぼる。この中で、著者アルテュール・ゴビノーは、白人が最も優秀で、とりわけアーリア人が一番で、「支配人種」とまで持ち上げたのである。
さらに、ゴビノーは恐るべき警告を発している。
「黒、黄、白の肌の色の違いは、自然が設定した人種の『壁』、だから温血は禁じるべきである。混血で人種の『壁』が崩壊し、文明が退化するから」
混血で、なぜ文明が退化するかわからないが、「黒、黄」側にしてみれば、心穏やかではない。ところが、これを正当化したのが「優生学」だった。
「優生学」は、19世紀、フランシス・ゴルトンを起源とする気味の悪い学問である。一言でいうと「人間の品種改良」。
本来なら、倫理的な非難をあびてしかるべきなのだが、当時、世を騒がせていた「ダーウィンの進化論」に後押しされた。結果、20世紀初頭に大きな成功をおさめるのである。
というのも ・・・
ダーウィンの進化論のキモは「自然淘汰と適者生存」 ・・・ 弱者が滅び、強者が生き残る、つまり、自然による生物改良。
一方、優生学のキモは「生殖による人間改良」 ・・・ 優秀な人間同士が結婚し、優秀な子孫を残す。つまり、人為的な人間改良。
というわけで、優生学の「人間改良」は進化論の「生物改良」によって理論付けされたのである。こうして、優生学はヨーロッパで広く認知されていく。ところが、その結末は恐ろしいものだった。ナチスドイツが、優生学を盾に、ゲルマン人至上主義、ジェノサイド(民族絶滅)を正当化し、歴史上最大のユダヤ人迫害を引き起こしたのである。
ところが、それも長く続くかなかった。
第二次世界大戦後、アウシュヴィッツをはじめナチスの強制収容所の蛮行が明らかになると、世界は震撼した。結果、優生学はナチスのお仲間にされ、「疑似科学」の烙印までおされたのである。
しかし ・・・
遺伝子とDNAが解明された今、優生学は疑似科学とは言えない。そもそも、優生学のキモ「生殖による人間の品種改良」は古くから行われてきた。支配者や成功者が、自分の娘に頭の良い婿を迎え、優秀な子孫をのこそうとしたのは、その一例である。
実際、IQの高い両親からは、80%の確率で、IQの高い子供が生まれるというデータもある。身長はもっとわかりやすい。突出して背の高い両親からは、ほぼ間違いなく背の高い子供がうまれる。この相関関係は統計学で、因果関係は遺伝学で説明できるので、真実といっていいだろう。
というわけで、人間も生物なのだから、「農作物の品種改良」がアリなら、「人間の品種改良」もアリ ・・・ 倫理的な問題はさておいて。
ただし、優生学が成立したからといって、「ユダヤ人が劣等で、アーリア人が優等」とは限らない。この二つは別の話だから。それどころか、ノーベル賞受賞者とお金持ちにユダヤ人が多いのだから、「ユダヤ人が優等」かもですよ。
ところが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。
■ヴァーグナーの世界
そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。
では、ヴァーグナーは?
夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。
リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。
さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。
そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。
「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」(※1)
さらに、ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中で、公然とヴァーグナーと賛美した。その卑屈な論調に、大きな批判が巻き起こった。一方、ヴァーグナーは大喜びで、「こんな美しい書物は読んだことがない」と絶賛した(あたりまえですね)。
そんなこんなで、ニーチェのヴァーグナーへの入れ込みようはハンパではなかった。1870年7月には、妹のエリーザベトまでトリプシェンの邸宅に引き入れている。しかも、ヴァーグナー家の子供達のベビーシッターとして。なんと、卑屈な!
ところが、エリーザベトは、たちまち、ヴァーグナー・ワールドのとりこになった。
一方、ニーチェのヴァーグナー熱はだんだん冷めていく。その時期、ニーチェは不眠症、頭痛、嘔吐感に悩まされたが、それが原因だったかはわからない。
ではなぜ、ニーチェはヴァーグナーに失望したのか?
エリザーベトは、トリプシェンの邸宅の様子をこう書いている。
「大広間をのぞいてみると、そこには少なくとも40人ほどの楽長、若い音楽家、文筆家たちがヴァーグナーとの面会を待っていた。年配の人たちは低く抑えたような声で語り、若い人々は美しい畏敬の表情で耳を傾けていた」(※1)
卑屈な追従者に囲まれ、それにご満悦のヴァーグナー ・・・ そんな世界が、ニーチェには安っぽく見えたのである。彼はこう書いている。
「まさに身の毛もよだつ人間たちの集まりだ。出来そこないは一人とて欠けてはいない。反ユダヤ主義者さえもだ。哀れなヴァーグナー、なんという境遇に陥ってしまったことか!豚に囲まれている方がまだましだ!」(※1)
一方、エリザーベトはこの安っぽい世界がお気に入りだった。
それにしても、ヴァーグナーのカリスマには驚くばかりだ。音楽を解さない者まで虜にするのだから。じつは、そんな門外漢の取り巻きがもう一人いた。のちにエリザーベトと結婚するベルンハルト・フェルスターである。
■フェルスターの企て
フェルスターは、この頃、ベルリンの学校教師をしていたが、トリプシェンのヴァーグナー・ワールドに入り浸りだった。
ヴァーグナーに取り入って、反ユダヤの援助をとりつけようとしていたのである。ところが、ゼンゼン相手にされない。そこで、ヴァーグナーお気に入りのニーチェ兄妹の妹エリーザベトに近づいたのである。
フェルスターはエリーザベトに「反ユダヤ主義とドイツ人の魂の復活」を熱く語った。彼女はすぐに賛同した。似た者夫婦だったのだろう。ところが、兄ニーチェはそれが気に入らなかった。フェルスターが信奉する人種差別と国粋主義を嫌悪していたから。
ニーチェは、人種と国家を超えた個人主義を尊んだ。なかでも、健全な欲望を実現しようとする人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。これがニーチェの超人思想である。
フェルスターはエリーザベトという同志を得て、ますます自信を深めた。そして、反ユダヤ主義を加速させていく。
1880年11月8日、フェルスターは、ベルリンで事件を起こした。仲間たちと「反ユダヤ」で盛り上がったあと、ユダヤ人と乱闘騒ぎをおこしたのである。フェルスターは逮捕され、90マルクの罰金を払ったが、人種差別主義者たちの間で、大いに株を上げた。
フェルスターの主張は単純だった。
「ユダヤ人はあこぎな商売をして、ドイツ文化を破壊しようとしている」
そして、東ゴート族の法典の一節を付けくわえるのだった。
「祖国を裏切った者は、みな裸の木に吊されるのだ」
フェルスターは、ユダヤ人をおとしめるのに労を惜しまなかった。学校教師をしながら、時間をどうやりくりしたのかわからないが、「反ユダヤ」署名を26万7000もかき集め、嘆願書を添えて首相官邸に持ち込んだのである。
ところが、反応はゼロ。というのも、このとき、ドイツ帝国の首相は名宰相ビスマルク。彼のような合理主義者・現実主義者が、浮ついたイデオロギーに賛同するはずがない。というわけで、フェルスターの努力はムダに終わった。
一方、ニーチェの方は、病状が悪化し、バーゼル大学を辞職せざるをえなくなった。その後、ヨーロッパを放浪しながら、在野の哲学者として活動を続けた。
しかし、ニーチェの哲学は自らを破滅に追い込んだ。彼の哲理は、粗野で暴力的で、神をも怖れない、しかも、水も漏らさぬ論理で、一寸のスキもなくたたみ込んでいく。一瞬の安らぎも許さないのだ。
このような救いのない哲理は、ニーチェの女性観にも反映されている。37歳のとき、彼はこう書いている。
「真の男が求めるものは2つある。危険と遊びだ。それで真の男は女性を求めるのだ、もっとも危険な遊びとして」
ニーチェは街の女と遊んで****に感染したが、もちろん、それを言っているのではない。とすれば、皮肉な話ではないか。
また、このような女性観はニーチェの感情的未熟さをあらわしている。万華鏡のような女性の多様性、多面性を見ようともしないのだから。
話をフェルスターにもどそう。
乱闘騒ぎを起こした2年後の1882年、フェルスターは度を超した人種差別主義が祟って学校を追放される。一方、エリーザベトとの関係は良好だった。人の道に外れた反ユダヤ主義で盛り上がったのだろう。
そして、1880年、フェルスター夫妻にとって決定的な出来事が起こる。二人が信奉するヴァーグナーが「宗教と芸術」のなかで、もってまわった言い方で、こう主張したのである。
「高貴な人種と高貴ならざる人種との混合が、人類最高の特質を損ないつつある。アーリア人種の純粋さを保つことによってのみ、人種の復活は成し遂げられる ・・・ 食糧を供給するのに十分肥沃な『南アメリカ大陸』に人々を移住させることを阻むものは一つもない」(※1)
フェルスターはこれに飛びついた。あのヴァーグナーが南アメリカ大陸移住を正当化してくれたのだ。そもそも、「南アメリカ移住」はフェルスターにとって一石三鳥だった。第一に、ヴァーグナーの忠実な信奉者であることをアピールできる。第二に、ユダヤ人に汚染されたドイツから脱出できる。そして、なにより、フェルスターは失業中だった。
■新ゲルマニア
フェルスター夫妻の南アメリカ移住の目的は恐るべきものだった。アーリア人共和国「新ゲルマニア」の建設、つまり、「人種の純化」にあったのだから。
1883年、フェルスターは南アメリカに旅立った。新ゲルマニアを建設する場所を探すために。出発する前、彼はエリーザベトに2つの約束をした。ドイツに帰ったら結婚すること、栄えある第一次開拓団の共同指導者となって、南アメリカに渡ること。ドラマチックで芝居がかったことが大好きだったエリーザベトは大喜びだった。
一方、 ヴァーグナーは自分のアイデア「南アメリカ移住」を実践するフェルスターに気を許したのか、励ましの電報を打っている。
「ヴァーグナーより一言挨拶を。君の夢に祝辞を贈る。よい旅を」
フェルスターにとって幸先のよいのスタートだった。
その後、フェルスターは2年かけて、南アメリカ大陸中央部を調査した。そして、ついに、「新ゲルマニア」にふさわしい国を見つけた。パラグアイである。理由は、三国同盟戦争で人口が半減していたこと、ユダヤ人に汚されていない未開の地であること。また、パラグアイの移民局も有利な条件で土地を譲渡してくれそうだった。
この間、エリーザベトは、夫にせっせと手紙を書き送っている。
「やがてあなたの旗のもとに、開拓者たちが群がり集まることでしょう。この計画はきっと成功します」
内助の功というか、なんというか、NHKの大河ドラマ「功名が辻」の山内一豊の妻を彷彿させる。エリーザベトもまた夫をその気にさせる天才だったのだろう(この時まだ結婚していなかったが)。
フェルスターの留守中も、彼女は精力的に働いた。人種差別を鼓舞するパンフレットを配り、「新ゲルマニア」建設の資金と同志を集めたのである。
このような人種差別主義は、ベルリンのような都市部では眉をひそめられたが(表向きは)、ドイツ南部の田舎では受け容れられた。ビアホールで一席ぶつと、泡立つビールを前に、テーブルを叩いて賛同してくれる者がいたのである。彼らはドイツの経済的困窮はユダヤ人のせいで、自分たちを父祖伝来の土地から追い出したのもユダヤ人だと信じていた。
1885年3月、フェルスターはドイツに帰国し、エリーザベトと結婚した。ところが、兄ニーチェは結婚式に出席しなかった。憎むべきフェルスターが、最愛の妹を奪う結婚式を、なぜ祝わなければならないのか!
その後、エリーザベトとフェルスターは国中をまわり、ヴァーグナー協会で、移民協会で、ビアホールで、「新ゲルマニア」を熱く語った。その甲斐あって、移住希望者が100名ほど集まった。それが多いか少ないかはビミョーだが、人気のブラジルやアルゼンチンならいざ知らず、ロクな実績もない未開のパラグアイに、なぜ移住する気になったのか?
人間は千差万別、だから、こんな物騒な話にのる者がいるのである。
たとえば、
1.熱烈な反ユダヤ主義者。
2.食いっぱぐれて後がない者。
3.天国の下僕より、地獄の帝王を望む者。
4.単にだまされやすい人たち。
こんな一癖も二癖もある開拓団が、三癖も四癖もあるフェルスター夫妻に率いられ、パラグアイに移住したのである。もちろん、結末は惨憺たるものだった。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
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2022/06/23 (Thu) 03:20:34
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週刊スモールトーク (第283話) アーリア人植民地計画Ⅲ~パラグアイ移住~
カテゴリ : 思想歴史2015.04.04
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アーリア人植民地計画Ⅲ~パラグアイ移住~
■出航
1886年2月15日、ボロボロの蒸気船がドイツのハンブルク港を出航した。ドイツ南部で結成された開拓団である。南米パラグアイに移住して、アーリア人植民地「新ゲルマニア」を建設しようというのである。
ここで、「移民団」ではなく「開拓団」と強調したのは理由がある。目的地がブラジルやアルゼンチンのような開拓済みの植民地ではなく、三国同盟戦争で焦土と化したパラグアイだから。何もない新地から町を建設するのである。
事実、この開拓団の意識は高かった。他の植民団のように「食いつなぐ」ためではなく、「アーリア人植民地=人種の純化」というイデオロギーを支えにしていたから。たとえ、それが人の道に外れたものであっても。
開拓団は、14家族100名で構成され、ニーチェの妹エリーザベトとその夫フェルスターが共同指導者に就いた。元々、この計画はフェルスターの独断と偏見の産物だったからである。
開拓団のメンバーのほとんどが、ドイツ南部のザクセンの出身だった。共同指導者のフェルスター夫妻がザクセン出身なので、手っ取り早く、出身地で募集した、わけではない。募集はドイツ全国で行われていた。
ではなぜ、参加者がドイツ南部に集中したのか?
「新ゲルマニア=アーリア人至上主義」をかかげていたから。この時代、ヨーロッパでは反ユダヤ主義が吹き荒れていたが、首都ベルリンはまだ良識が残っていた。だから、公然と反ユダヤを叫ぶことは、分別のないこととされたのである。
ところが、ザクセンは違った。
ドイツが経済的困窮にあるのは、ユダヤ人があこぎな商売をして、ドイツ人から搾取しているから ・・・ が共通認識になっていたのである。実際、ビヤホールで反ユダヤ主義をぶちまけると、酔っ払いが、ビールジョッキの泡を飛ばして、喝采してくれた。
そもそも、ドイツ南部のザクセン(州都:ドレスデン)や、バイエルン(州都:ミュンヘン)は、古くから、反ベルリン(反体制)の意識が強かった。ヒトラー率いるナチスが政界に進出したときも、ミュンヘンでは支持されたが、ベルリンではなかなか票が伸びなかった。つまり、ベルリンが嫌えば、ドイツ南部のバイエルンやザクセンが好む、そんな風潮があったのである。
それに ・・・
ドイツ人にとって、パラグアイは地球の裏側にある未知の国だった。ライフラインも一から手造りという有様で、「文明」の「ぶ」の文字もない。じつは、それまでにも、パラグアイに入植したヨーロッパ人はいた。ところが、ほとんどが命を落とすか、行方不明になっていた。そんな物騒な所に移住するのは、よほど切羽詰まっているか、ものを知らない田舎者である。少なくとも、インテリを自負するベルリン市民ではない。
とはいえ、プライドの高いアーリア人(ザクセン人)がそれを認めるはずがない。
そんな風潮の中、フェルスターが、
「ユダヤ的害悪を廃した共同体をパラグアイでつくろう!」
と言い出したので、うってつけの大義名分ができたのである。
つまり、冒頭の開拓団は全員「アーリア人種基準」で選ばれた人々だった。少なくとも、開拓団員はそう信じていた。
ところで、開拓団は、その後どうなったのか?
■到着
開拓団が乗った船は、蒸気船とは名ばかりの、いつ沈んでもおかしくない老朽船だった。
NewGermania航海は困難をきわめ、さながら大航海時代の奴隷船だった。女子供を含む100人の団員は、虫の食ったビスケットをかじりながら、半分腐った水をすすりながら、食いついないだのである。1ヶ月後、南アメリカのモンテビデオに着岸したときは、全員が疲労困憊だった(鉄人エリーザベトを除いて)。
とはいえ、370年前に、この地に上陸したマゼラン隊にくらべればまだマシだろう。
というのも、マゼラン隊に同行したピガフェッタの航海記によると、
「ビスケットは粉くずになって、虫がわき、水は腐敗していた。牛の皮、オガクズ、ネズミ、何でも食べた。隊員の歯茎が腫れて食べれなくなり、19人が死に、30人が重病になった。健康な者はわずかしかいなかった」
そこまでして、金銀財宝が欲しい?
なんて余裕をかましている人は、いつまでたってもビンボーのまま。いい思いをしたければ、リスクを冒さなくては!(程度にもよるが)
その程度を超えたのがマゼラン隊だった。3年におよぶ大航海を終え、スペインのサン ルカール港に帰還したとき、5隻の船は1隻に、265名の乗員は18名に減っていた。
生還率「7%」!?
しかも、隊長のマゼランも、フィリピンの戦闘で、大岩に直撃され即死していた。だから、新ゲルマニア開拓団の航海などマゼランの世界周航からみればピクニックみたいなもの ・・・ とまでは言わないが、次元が違うのだ。
とはいえ、新ゲルマニア開拓団の苦労もハンパではなかった(現代人からみれば)。
腐ったビスケットと水を飲み込みながら、やっとモンテビデオに着いたのに、そこがゴールではなかったのだ。さらに、小型の蒸気船でパラナ川を北上するのである。夜になると、蚊の大群が襲いかかり、団員の皮膚の下に卵を産み付けた。かゆいのでかくと、皮膚がただれ、腫れ上がる。苛酷な気候に耐えきれず命を落とす子供もいた。
モンテビデオを出航して、5日後の1886年3月15日、開拓団はアスンシオンに着いた。現在のパラグアイの首都である。つまり、ここでやっとパラグアイ。
このとき、フェルスターは43歳、エリーザベトは39歳、「知力×体力×気力」が人生で最も充実する時期である。
じつは、フェルスターの最終目標は、パラグアイ植民地「新ゲルマニア」の建設ではなかった。南アメリカ全土を包含する「アーリア人共和国」の建国 ・・・ 壮年よ大志を抱け!というわけだ。
とはいえ、たった100名でどうやって領土を拡大するのか、を考えた形跡はない。
フェルスターは誇大妄想だった?
あたらずとも遠からずだが、驚くべきことに、計画の成功をフェルスター以上に信じる者がいた。妻のエリーザベトである。
エリーザベトは、開拓団の中で一際目立っていた。小柄な身体で、コマネズミのように動き回る。酷暑なのに、黒ずくめの服装を脱ごうともしない。まさに、鉄の心臓と小型原子炉を内蔵した怪物なのだ。
ところで、アスンシオンに着いた開拓団は、その後、どうなったのか?
足止めを食らって、前に進めなかった。
なぜか?
信じがたいことに、土地の譲渡契約がまだ締結されていなかったのである。
フェルスターが、「新ゲルマニア」に選んだのは、アスンシオンの北150マイルにあるカンポ・カサッシアという地域だった。面積は600平方キロメートルで、今の金沢市ぐらい。とはいえ、三国同盟戦争ですっかり荒廃し、インフラは皆無だった。だから、どう考えても二束三文。
ところが ・・・
地主のソラリンデは、欲をかいて、法外な値段をふっかけてきた。フェルスターは仰天した。土地譲渡の契約がまとまらなければ、開拓団はドイツに引き返すしかない。
そこで、フェルスターは、パラグアイ政府を巻き込むことにした。
余談の許さない交渉が続いたが、ついに、落としどころがみつかった ・・・
1.フェルスターはパラグアイ政府に手付け金2000マルクを支払う。
2.パラグアイ政府は地主ソラリンデに8万マルク払う。
3.ソラリンデはフェルスターに4万エーカーを譲渡する。
本来、フェルスターが払うべき「8万マルク」が「2000マルク」で済んだのだから、フェルスターの一人勝ち?
ノー!
そんなうまい話はない。とんでもない条件がついたのである。2年以内に最低140家族が入植しないと、土地は没収!
ちなみに、このときフェルスター夫妻率いる第一次開拓団は14家族だった。2年で、その10倍の家族が入植する ・・・ 絶対ムリ。とはいえ、実現しなかったら、土地はすべて没収され、入植者から集めた金を返納しなければならない。そうなればフェルスターは破産だ。
ところが、こんな物騒な契約書に、フェルスターは嬉々としてサインした。
なぜか?
2年で140家族なんて楽勝!と思ったのだ。
一体、何を根拠に?
何の根拠もない ・・・ だから、3年後に自殺に追い込まれるのである。
こうして、命と引き替えの契約書が締結された。その後、開拓団はアスンシオンを出発し、パラグアイ川を船でさかのぼった。それから、ウシと牛車で陸路を行き、一週間後に目的地に到着した。新ゲルマニアの予定地カンポ・カサッシアである。
そのカンポ・カサッシアだが、写真で見るかぎり、ジャングル ・・・
■建設
そのジャングルで、新ゲルマニアの建設が始まった。まずは、家とライフライン、中でも優先されたのが、フェルスター夫妻の邸宅だった。1888年3月、大邸宅は完成し、盛大な落成式がおこなわれた。このとき、エリーザベトは42才、アーリア人植民地「新ゲルマニア」の母であり、ゆくゆくは、ドイツ第二の祖国「アーリア人共和国」の女王になるのだ。
得意の絶頂にあったエリーザベトは、ドイツにいる兄ニーチェに手紙を書いた。
「新ゲルマニアには輝ける未来があります。兄さんも早くパラグアイに来てください」
それに対し、ニーチェはこう返信した。
「反ユダヤ主義者は、みんなまとめてパラグアイへ送りだしたらどうだろう?」
フェルスター夫妻の邸宅は完成したが、植民地建設はこれからだった。2年以内に140家族が入植しないと、土地は没収されるのだ。そこで、フェルスターとエリーザベトは、入植者を集めるため、新ゲルマニアを「希望の楽園」として宣伝した。
いわく ・・・
現在、学校は建設中です。牧師を呼ぶための基金の計画も進んでいます。もうすぐ、新ゲルマニアと外部世界を結ぶ鉄道も開設されます。純朴なパラグアイ人が召使いになるために集まってきます。食べ物は木に成っているので、不自由しません。まるでエデンの園です。
さらに、「早い者勝ち」をあおることも忘れなかった。
いわく ・・・
新ゲルマニアには、すでに、パン屋、靴屋、大工、鍛冶屋、製材所があります。でも、まだチャンスはあります。洋服屋、皮なめし職人、配管工、ビール醸造業者なら大歓迎です。
こんな希望に満ちた話が、ドイツのケムニッツ植民地協会の会長マックス・シューベルトに届けられた。そして、それが、そのまま入植希望者に。
ふつうに考えればキナ臭い話なのに、真に受ける者がいた。
というのも、その後2年間で、40家族がパラグアイに旅立ったのだ。ところが、その1/4が途中で断念し、結果、100の分譲地のうち70が売れ残った。
なぜか?
新ゲルマニアはフェルスター夫妻が言うような「希望の楽園」ではなかった。地上の「地獄」だったのである。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)長澤和俊 著「世界探検史」白水社
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2022/06/23 (Thu) 03:21:08
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週刊スモールトーク (第284話) アーリア人植民地計画Ⅳ~新ゲルマニア伝説~
カテゴリ : 思想歴史2015.04.18
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-284/
アーリア人植民地計画Ⅳ~新ゲルマニア伝説~
■新ゲルマニアの真実
フェルスター夫妻は、新ゲルマニアを「希望の楽園」と喧伝したが、本当は「地獄」だった。 でも、現地に行けばすぐ分かるのに、なぜそんなウソを?
2年以内に、140家族以上入植しないと、新ゲルマニアの土地が没収されるから。そうなれば、新ゲルマニアは破綻し、フェルスターは破産する。だから、「楽園」と言い切って、入植者を募るしかなかったのである。
いわく ・・・ 気候は快適です、食べ物は木に成っています、純朴なパラグアイ人が召使いになりたがっています、もうすぐ学校と教会ができます、そのうち、鉄道も開通するでしょう ・・・ ようこそ、アーリア人のユートピア「新ゲルマニア」へ! ところが、現実は ・・・ 気候は殺人的で、大地を焦がすような暑さが続く。
かと思えば、突如、バケツをひっくり返したような猛雨が襲う。動物は溺れ死に、柵は跡形もなく押し流される。雨水が天井を突き抜けて、家の中は水浸し ・・・ 一体、どこがユートピアなのだ?
しかも、土壌は粘土質で、耕すのに骨が折れ、作物は育たない。井戸は30メートル以上掘らないと水源に達しない。しかも、水量が少ないのですぐに干上がる。 それに ・・・ 食べ物は木に成っています ・・・ そんな木、どこにあるのだ? 純朴なパラグアイ人が召使いになりたがっています?
では、パラグアイ人と接触したヨーロッパ人の証言を紹介しよう。
「パラグアイ人は男も女も素っ裸で暮らしている。父が娘を売り、夫は妻を売る。ときには兄が妹を売ったり、食料や物と交換したりする。捕虜を捕らえると、まず、太らせてから食べる。われわれが豚を太らせるのと同じだ。そして、おおむね、彼らは怠惰で仕事が嫌いである」(※1)
家族を売り飛ばし、人肉を食うのが、純朴? 怠惰で仕事が嫌いなのに、召使いになりたがる? ところが ・・・ しばらくすると、ドイツ人はパラグアイ人の悪口を言わなくなった。 「勤勉」なドイツ人がパラグアイ人なみに「怠惰」になったのである。 日中は何もせず、寝て過ごす。暑い時に、ムリして働くと、熱射病にかかるから。つまり、「怠惰」はパラグアイ人が生き残る術だったのである。
というわけで、新ゲルマニアの建設は遅々として進まなかった。2年たっても、水道も道路もなく、住居は不衛生な共同住宅のまま。世界に冠たるドイツ人が、こんな惨めな暮らしをしていたのである。 一体、これのどこが、ユートピアなのだ? もし、これがドイツ本国に知れたら? 誰も新ゲルマニアに来なくなる。 そこで、フェルスターはウソの上塗りをするしかなかったのである。しかし、ウソはいつかばれる。そして、その日がついに来たのである。
■新ゲルマニアの暴露本
1888年、ユリウス・クリングバイルという陰気な男が、妻と二人で新ゲルマニアにやって来た。アーリア人のユートピアで一旗揚げようと。 クリングバイル夫妻は、まず、フェルスター邸を訪れた。偉大な共同指導者フェルスター夫妻に敬意を表するために。
ところが ・・・ クリングバイルは邸宅をみて仰天した。場違いなほど立派なのだ。美しく飾り立てられた壁、豪華な家具、ピアノまである。夕食には上等のワインまで振る舞われた。他の入植者たちのみすぼらしい共同住宅とは大違い。この格差は何を意味するのか? それにもまして落胆したのが、フェルスター夫妻だった。
夫のフェルスターは、落ち着きのない男で、一カ所にじっとしていられない。視線も定まらず、相手の顔を正視することもできない。これが、ドイツで英雄視されているあのベルンハルト・フェルスターなのか? 一方、妻のエリーザベトも負けず劣らず変人だった。 うだるような暑さの中、黒服で身を包み、手と口と足を同時に動かしながら、部屋中をぐるぐる歩き回る。コマネズミみたいで、ひどく滑稽なのだ。 そして、ロクに相手の顔も見ずに、機関銃のようにまくし立てる。植民地が成功していること、分譲地がどんどん売れていること、ゆくゆくは南米大陸をおおうアーリア人共和国になること ・・・ 現実と真逆の空虚な自慢話を、延々と聞かされたのである。
クリングバイル夫妻はウンザリした。こんな所で、一旗揚げようと思った自分たちがバカだった ・・・ そして、ときに、第一印象が未来を予言することがある。このときもそうだった。クリングバイル夫妻は、ささいなことでエリーザベトと大げんかし、植民地を去ったのである。 ところが、帰国した後も、二人は腹の虫がおさまらなかった。そこで、腹いせに暴露本を出すことにした。タイトルは、「ベルンハルト・フェルスターの植民地・新ゲルマニアの真相を暴く」。
いかにも挑発的だが、1889年の暮れに出版されるや、大反響をよんだ。 そして、内容は、タイトルよりはずっと挑発的だった ・・・ アーリア人のアーリア人による植民地などまがい物で、フェルスターは大ペテン師である。夫婦そろって愛国者をきどっているが、じつのところ、貧しい者を食い物にしている大悪党である。実際、自分は、新ゲルマニアの宣伝を真に受けて、とんでもない目にあった。こんな悪事を放置してはならない。政府は、ただちに介入すべきである。 ・・・ 身もふたもない。 もちろん、エリーザベトは黙っていなかった。彼女に好意的だった「バイロイター・ブレッター」紙上でクリングバイルを大いに非難したのである。
さらに、入植者たちに自分と夫を賛美する手紙を書かせた。 いわく ・・・ ベルンハルト・フェルスター(エリーザベトの夫)は誠実で信頼できる人です。また、エリーザベトはクリスマスに子供たちのためにケーキを焼いてくれます(※1)。 ケーキがどうしたというのだ? いまだに、入植者は掘立小屋暮らしだというのに。
この騒動をみて、ケムニッツ植民地協会のマックス・シューベルト会長はフェルスターに疑いを持った。 彼の言っていることは本当なのか? そこで、シューベルトは、真相を見極めるまで、植民地基金を新ゲルマニアに送金しないことにした。 フェルスターにとって、これは命取りだった(比喩ではなく)。すでに、銀行に多額の借金があり、利子の返済すらできなくなったのだ。 フェルスターは大言壮語だが、じつのところ、小心者だった。借金を返すあてもなく、入植者は増えるどころか、減るばかり。このままでは、新ゲルマニアは破綻する。そうなれば、フェルスターも破産だ。
嫌気がさしたフェルスターは、アスンシオン(現在のパラグアイの首都)に近いドイツ人居住区サン・ベルナルディノに移り住んだ。 そして、ホテル「デル・ラーゴ」に引きこもり、酒びたりの毎日。ところが、気が晴れるどころか、酒の量は増えるばかり ・・・ 典型的な「アル中&うつ病」である。 一方のエリーザベトはすこぶる元気だった。逃げ出した夫に、励ましの手紙を書き送るほどだった。
じつは、エリーザベトとフェルスターは似たもの夫婦だった。 神、ヴァーグナー、反ユダヤ主義、ドイツ万歳!そして、自己中 ・・・ ここまでは同じなのだが、違うところもあった。 フェルスターは凡人で、エリーザベトは兄チーチェが言う超人(オーヴァーマン)だったのだ。 実際、フェルスター夫妻をこきおろしたクリングバイルでさえ、こう言っている。 「彼女(エリーザベト)は賞賛すべき人になっただろう。もし、その英雄的な才能をあのような邪悪な目的に使わなかったら」 誉めているのか、けなしているのか? もちろん、誉めているのだ。
■フェルスターの死
1889年6月2日、フェルスターはエリーザベトに手紙を書いた。 「私は苦しんでいる。いつになったら事態は好転するのだろう」 自分を哀れんで、神頼み? 「おまえはもう死んでいる」( 北斗神拳ケンシロウの決め台詞) ・・・ そして、それが現実になった。 翌朝、ホテル・デル・ラーゴの一室で、フェルスターは遺体となって発見されたのである。46年の生涯だった。
ところが、エリーザベトは転んでもタダでは起きなかった。痛ましい夫の死を利用したのである。 いわく ・・・ 「わが夫ベルンハルト・フェルスターは敵の中傷と、植民地に対する責任から、心を病んで死んだのです」 さすがはエリーザベト ・・・ でも事実は違った。 フェルスターは自殺したのである。ストリキニーネとモルヒネの死のカクテルあおいで。これに慌てたのがホテル側である。酒代を踏み倒されたのだから。ホテル側は、酒代を新ゲルマニアの分譲地でチャラにするよう説得され、しぶしぶ受け入れた。
結局、4年たっても、新ゲルマニア事業は進展しなかった。土地の所有権さえ、まだ手にしていないのだ。このままでは、新ゲルマニアは破綻する。新しい経営者が必要だ。 1890年、新ゲルマニア事業は「パラグアイ新ゲルマニア植民地会社」に買い取られることになった。引き受けたのは、ドイツ人、イタリア人、スペイン人、イギリス人、デンマーク人からなるグループである。
ところが、エリーザベトは気に入らなかった。アーリア人のユートピアを、なぜ、外国人にくれてやるのだ! さっそく、エリーザベトはドイツに帰国した。新ゲルマニアを取り戻す資金を集めるために。 エリーザベトは「ベルンハルト・フェルスターの植民地・新ゲルマニア」を編集して、1891年春に出版した。これで、資金と入植者を一網打尽にしようというのである。 この本の中で、エリーザベトはいつものノリで、嘘八百をならべたてた ・・・
「パラグアイの気候は私には天国です。あちらの食べ物はすばらしくかつ安価で、入植者たちはみんな一様に健康で幸福です。じつのところ、パラグアイについて言っておかなければならない最悪のことは、暑さのためにクリームがうまく固まらないということです」
新ゲルマニアを取りもどすためなら、この程度のウソは屁でもなかった。エリーザベトは鉄の心臓と小型原子炉をもった超人なのだ。 1892年8月、エリーザベトは新ゲルマニアに良い知らせをもち帰った。牧師の派遣が決まったのである。 牧師? 牧師が一体何をしてくれるというのだ? 気候を温暖にしてくれる? 穀物の収穫を増やしてくれる? 飲み水を増やしてくれる?
銀行マンが(お金をもって)来てくれるほうがよっぽどマシではないか。 そして ・・・ ここで、大事件が起こる。 新ゲルマニアの内部から裏切り者が出たのである。古参メンバーのフリッツ・ノイマンが、本国のケムニッツ植民地協会にちくったのだ ・・・
「(新ゲルマニアは)水道もなければ、道路もありません。われわれは自然の力によって追い出されてしまいました。小屋も農地も崩壊しています。フェルスターの事業は完全な失敗でした。そもそも、ここに人々を連れてきたことからして罪深いことですが、さらにそのあとにつづくように他の人々を説得したことは犯罪です」(※1)
・・・ 身もふたもない。 この報告を読んだケムニッツ植民地協会のマックス・シューベルト会長はついに決断した。エリーザベトを新ゲルマニアから追放する!
■新ゲルマニアの黄昏
エリーザベトは計算高く、機を見るに敏だった。見込みがないなら、傷口が広がる前に撤収あるのみ!
タイミング良く、兄ニーチェの病状も悪化していた。兄の面倒をみるために、ドイツに帰らなければならない。エリーザベトにとって渡りに船だった。 そうと決めたら、エリーザベトの行動は早かった。家と土地を売っ払い、新ゲルマニアに別れを告げたのである。憤激した入植者の一団が追いかけてきたが、彼女は振り向かなかった。歩いて立ち去ったのである。1893年8月、エリーザベトはアスンシオンを出航し、パラグアイに二度と戻らなかった。
帰国後、1895年1月に、エリーザベトは、こんな弁解がましい記事を寄稿している。 「私には、別の仕事が私の時間とエネルギーを要求しています。たった一人の愛する兄、哲学者ニーチェの世話をすることです。兄の著作を守り、その人生と思想を記述しなければなりません」(※1) この発言は注目に値する。もし、この決断がなかったら、哲学者ニーチェが名声を得ることも、ナチスの教義がニーチェの哲理で正当化されることもなかったのだから。 新ゲルマニアであれだけの失敗をやらかし、ペテン師、大悪党と罵倒されてもどこ吹く風、誰が何を言おうが知ったこっちゃない。それが、鉄の心臓と小型原子炉をもつエリーザベトなのだ。
そもそも、新ゲルマニアは壮大にみえるが、本当は砂上の楼閣だった。イデオロギーという実体のない概念で組み立てられていたのだから。 結局、フェルスターは自殺し、エリーザベトは新しい人生を見つけた。ところが、新ゲルマニアの入植者は未だに地獄から抜け出せない ・・・ 誰がだまして、誰がだまされたかは明らかだ。
とはいえ、フェルスター夫妻は、詐欺師でも大悪党でもなかった。 ただ、自分の欲望に忠実だったのである。自己中と言われれば、それまでだが、ニーチェに言わせれば、己の欲望を直視し実行する「超人(オーヴァーマン)」なのだ。 こうして、新ゲルマニアは空中分解した。南米大陸を支配するアーリア人共和国にも、ドイツの第二の祖国にもならなかったのである。 ところが ・・・ 新ゲルマニア伝説はそれで終わらなかった。
新ゲルマニアは植民地として今も存続しているが、問題はそこではない。ナチスの戦犯ヨーゼフ・メンゲレがからんでいるのだ。 メンゲレは、ナチスドイツのマッドサイエンティストで、「死の天使」として怖れられた。アウシュヴィッツ第2収容所「ビルケナウ強制収容所」の主任医師として、数々の人体実験を行ったのである。
■メンゲレ伝説
メンゲレは、第二次世界大戦後、他のナチス高官同様、南アメリカに逃れた。南アメリカはドイツ人植民地が多く、ドイツ人に寛容だったからである。とくに、パラグアイはドイツとは馴染みが深かった。1888年にドイツ人植民地「新ゲルマニア」が建設され、1932年には、南アメリカ初のナチ党が結成されている。
メンゲレの逃亡は謎が多いが、定説によると ・・・ 1959年、パラグアイの市民権を獲得。その後、ノイローゼになってブラジルの片田舎に移り住み、1979年に水泳中に心臓発作で死亡。遺体は1985年に掘り出されて、国際的な専門家チームによって本人と確認された。 ところが、1991年、専門家の一人がサンパウロのエンブ墓地から掘り出された遺体はメンゲレでないと言いだしたのだ。こうして、メンゲレ伝説はよみがえった。しかし、最期はどうであれ、メンゲレが1980年頃まで生きて、パラグアイとブラジルにいたことは確かだ。であれば、メンゲレが新ゲルマニアにいたとしてもおかしくない。
1991年3月、イギリスの作家ベン マッキンタイアーは、100年前にエリーザベト夫妻が住んだ大邸宅フェルスターホーフの前に立っていた。現在の新ゲルマニアを取材するためである。その集大成が著書「エリーザベト・ニーチェ(※1)」だが、その中に、興味深い証言がある。 証言しているのは、現在の新ゲルマニアに暮らすドイツ人入植者だが、内容は驚くべきものだ。
「私は(新ゲルマニアで)メンゲレを目撃した」
と言っているのだから。もし、それが本当なら、メンゲレ伝説にあらたな一章が加わる。さっそく、その証言を紹介しよう。
【マグダレーナ・フィッシャーの証言】
1950年代に、ブラントと称する男が農機具を売りに植民地にやってきた。その男は医者でもあり、貧しいドイツ人の家族の面倒を見ながら、山の方へよく旅をしていた。子供たちにはとてもやさしかった。しかし、人とはつきあわず、その理由をせんさくする人もいなかった。そして、ブラントは1960年頃から姿を見せなくなった。ブラントの正体(メンゲレ)がわかったのはずっと後になってからだ。
【機械部品店を経営しているヘルマン・シュテルンの証言】
1979年に、フリードリヒ・イルクという男が植民地にやってきた。70才くらいで、髪はグレー、前歯が1本なかった。空軍のパイロットをやっていたそうだ。正真正銘のナチで、ヒトラーは誤解されていたんだ、といつも言っていた。小さな土地をもっていて、そこでせっせと働いていた。やがて、うつ病にとりつかれるようになった。とても神経質な男だった。いつも全然眠らないみたいで、朝方3時、4時でも、彼の小屋にはローソクの火が見えた。医学の本を何百冊ももっていて、いつもそれを読んでいた。 その後、イルクは頭がおかしくなって、アスンシオンの精神病院にいれられた。
1985年7月、イルクは自殺した。 2年後、ヘルマンは、メンゲレの死体発掘の新聞記事をみて、メンゲレの昔の写真を見た。その瞬間、メンゲレがイルクだと確信したという。ヘルマンによれば、イルクは食事のときのナイフの持ち方が独特で、鉛筆のように握っていた。メンゲレもそういう食べ方をしていたという。
もし、これが事実なら、1979年に水泳中に心臓発作で死亡し、埋められたのはメンゲレではない。 注目すべきは、ブラジルで死亡したとされる1979年が、イルクが新ゲルマニアにやって来た年と一致すること。つまり、メンゲレは1979年に、ブラジルで死を偽装し、パラグアイに逃れ、新ゲルマニアで第二の人生を送ろうとしたのかもしれない。 「あの男(イルク)はメンゲレだった。私にはわかるんだ」 とヘルマン・シュテルンは断言する。 マグダレーナ・フィッシャーはブラントがメンゲレだと言い、ヘルマン・シュテルンはイルクがメンゲレだと言う。だれもが自分なりのメンゲレ伝説をもっているわけだ。
ところで、彼らは新ゲルマニアの創始者、フェルスター夫妻のことを覚えているのだろうか? 世代は代わったが、伝説は語り継がれているという。 フェルスターは尊大な男だった。一方、エリーザベトは勇敢な女性だった。それに美しかった。彼女の魅力はおそろしく耐久力があることだった。 というわけで ・・・ 現在の新ゲルマニアでも、エリーザベトは鉄の心臓と小型原子炉を持った超人として語り継がれている。そして、新ゲルマニア伝説とはエリーザベト伝説のことなのである。
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)長澤和俊 著「世界探検史」白水社
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2022/06/23 (Thu) 03:21:43
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週刊スモールトーク (第285話) エリーザベト伝説Ⅰ~ニーチェブランドの創作者~
カテゴリ : 人物歴史2015.04.25
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エリーザベト伝説Ⅰ~ニーチェブランドの創作者~
■第二の人生
パラグアイのドイツ人植民地「新ゲルマニア」は崩壊寸前だった。
植民地の悲惨な状況が暴露され、入植する者がいなくなり、創設者のフェルスター夫妻でさえ植民地を去ったのだから。妻のエリーザベトは故郷のドイツへ、夫のベルンハルトは黄泉の国へと。もっとも、エリーザベトの場合は、去ったのではなく、追放されたのだが。
ところが、エリーザベトは落ち込まなかった。第二の人生を見つけたのである。兄ニーチェの著書を独占販売して金儲け!
兄の名声で金儲け? このバチ当たりが!
・・・ ではなく、事実はその逆。
じつは、現在に到るニーチェの名声は、妹エリーザベトのおかげだったのである。もし、エリーザベトがいなかったら、ニーチェは無名の学者で終わっていただろう。ニーチェが発狂した時点で、主要な著書はまだ発表されていなかったから。もっとも、その場合、「ナチスの協力者」という汚名を着せられることもなかったが。
それにしても、エリーザベトの頭の切りかえの早さ、変わり身の早さはどうだろう。
人生をかけたプロジェクトが失敗し、夫が自殺したのに、落ち込むこともなく、新しいプロジェクトに、打ち込めるのだから。一体どんな神経をしているのだ?
と、悪口をいう前に、彼女を見習うべし!
彼女の辞書には、後悔、悩み、ストレスなど、金にならない単語は登録されていないのだから、と、誉めているのか、けなしているのか、自分でもわからない。
というわけで、エリーザベトは、第二の人生に胸を膨らませて、ドイツに帰国した。彼女が、ナウムブルクの実家に帰ると、ニーチェは以前より大人しくなっていた。大声をあげることも、暴れたりすることもない。一日中、黙って、宙を見すえているのだ。
ところが、エリーザベトは、この”痛ましい姿”をお金に替えることを思いついた。
兄の心の病で金儲け?
あさましい! と責める前に、一体どうやって?
天才哲学者、狂気の世界へ、波瀾万丈の人生 ・・・
でも、そんなベタなやり方でうまくいく?
同情で気を惹いても、一過性の話題で終わるのは見えている。大衆は、飛びつきやすく、飽きやすいものだから。
ところが、エリーザベトはこの難儀なプロジェクトを成功させた。驚くべき手法で。
■ニーチェ・ブランド
エリーザベトの兄ニーチェは優れた哲学者だったが、自分が構築した哲理に押し潰されてしまった。勇ましい「超人思想」をぶち上げ、自ら実践した結果、心の病にとりつかれたのである。しかも、最も重い統合失調症に。老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま発狂したというから、ことは深刻だ。
ところが、エリーザベトはその「痛ましい姿」を「超人」に昇華させたのである。
どうやって?
「狂人=弱者」→「狂人=普通じゃない=超越的存在=超人」
目の覚めるようなコペルニクス的転回だ ・・・
でも、そんなカンタンにいく?
それが、うまくいくのだ。
じつは、狂人を超人にすり替えるのは難しいことではない。常識と論理を捨てればいいのだ。そもそも、正攻法で考えても、答えは見つからないから。
ではどうすればいい?
「神話」にすればいい。神話なら、なんでもアリだから。
ただ、エリーザベトが、論理的に考えて、この手法にたどり着いたとは思えない。そもそも、「自分が神話を作っている」ことにも気付かなかっただろう。彼女は筋道立てて考えるということができない。つまり、行動した結果、「ニーチェ神話」ができあがっていたのである。バカにしているのではない。天才だと言っているのだ。
じつは、天才エリーザベトには協力者がいた。彼女の側近のルドルフ・シュタイナーである。彼は詩人であり、詐欺師でもあったが、その才能を用いて、ニーチェをこう讃えた。
「ニーチェが、ひだのある白い部屋着に身を包んで横たわり、濃い眉の下の深くくぼんだ目を見開いて、バラモンのように凝視し、問いかけるような謎に満ちた顔をして、思索家らしい頭を獅子のように威厳に満ちて傾けるのを見れば、だれしも、この男が死ぬなどということはなありえない、この男の目は永遠に人類の上に注がれることだろう、という感じがするのだった」(※1)
だまされていはいけない。ここに書かれているのは、自分の身の回りの世話さえできない廃人なのだ。それが、シュタイナーの呪文にかかると、バラモン、獅子 ・・・ 超人?!
これほど見事に人をだませるのは、詐欺師しかいないだろう。
これが、言葉の力、宣伝の力、プロデュースというものなのである。
ところが、詐欺師、いや、協力者は他にもいたのだ。ニーチェの信奉者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は、慎重に言葉を選びながら、シュタイナーの主張を増幅させた。いわく、
「彼はソファーで眠っていた。その巨大な頭を右に傾けて垂れ、胸に沈めていた。まるで、重すぎて首では支えきれないかのようだった ・・・ 病人とか狂人というよりも死人のようだ」
そして、驚くべきことに、協力者は音楽界にもいたのである。
1896年、音楽家リヒャルト・シュトラウスが、ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」をモチーフに交響曲を書いたのである。曲名もそのまま、「ツァラトゥストラはかく語りき」。この楽曲は、スタンリー・キューブリックのSF映画のカリスマ「2001年宇宙の旅」に使われ、一躍有名になった。
こうして、ニーチェは正気を失った後、急速に名声を得ていく。もちろん、すべて、エリーザベトのおかげ。ニーチェは自分の身の回りのことさえできないのだから。
ここで、エリーザベトの名誉のため少しフォローしておこう。このままでは腹黒い守銭奴で終わりそうなので。
じつは、エリーザベトは腹黒い守銭奴ではなかった。彼女は、兄ニーチェが有名になるのを心底望んでいたのである。兄ニーチェを心から尊敬し、偉大な哲学者、預言者だとかたく信じていたから。だから、複雑な守銭奴なのである(フォローになったかな)。
とはいえ、エリーザベトは自分を有名にすることも忘れなかった。彼女はこう言い切っている。
「フリッツ(フリードリヒ・ニーチェのこと)には、どこかたぐいまれなところがあることを幼いときから見て取り、その確信を口にした、たった一人の女の肉親が、妹のこの私なのである」(※1)
さらに ・・・
エリーザベトは、ニーチェ本の編集にまで口を出した。
ちょっと待った、彼女は哲学を理解できるの?
ムリ。
エリーザベトの側近のルドルフ・シュタイナーによれば、
「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている」(※1)
やっぱり、ムリ。
ところが、エリーザベトの編集付きのニーチェ本は評判がよかった。というか、飛ぶように売れたのである。エリーザベトは哲学の素養も論理的思考も持ち合わせていなかったが、セリフのセンスだけは抜群だったのだ。
たとえば ・・・
新ゲルマニアはまがいもので、それを喧伝するフェルスター夫妻はペテン師だと、非難されたとき、エリーザベトは反論したが、返す刀で、反ユダヤ同盟を一刀両断にしている。反ユダヤ同盟は、夫のフェルスターと同じ反ユダヤ主義なのに、夫に資金援助をしなかったからである。
そのときのエリーザベトのセリフがふるっている。
「おお、反ユダヤ主義のみなさん、恥知らずにも、あなた方のもっとも理想的な指導者の一人を見捨てることが、あなた方の誠実さですか、勇敢さですか ・・・」(※1)
エリーザベトは哲学や論理は苦手でも、大衆をたぶらかす言霊(ことだま)には精通していたのである。
■エリーザベトの野望
狂人を超人に仕立て上げ、話題性を高め、本の販売数を増やして一儲けする ・・・ エリーザベトの野望はそんなものではなかった。もっと、大きな野望があったのである。
「ニーチェ・ブランド」の確立。
そのための最初のステップが「ニーチェ資料館」の設立だった。この資料館をニーチェ・ブランドの象徴にすえて、露出を増やし、有名にして、書籍以外の商売をもくろんだのである。
具体的には、ニーチェの著作(ワンソース)を、多角的に活用して、書籍以外の形態で収入を得る。これは、現在のデジタルコンテンツの最先端手法で、「ワンソース・マルチ展開」とよばれている。
つまり、エリーザベトは、100年未来の最先端手法を駆使していたのである。プロデューサーの訓練も受けていないのに、どうやって閃いたのだろう。
1894年2月2日、ナウムブルクの実家で「ニーチェ資料館」が開館した。ニーチェの著書、手紙、そのほか、ニーチェにまつわるあらゆるものが詰め込まれた。ここに来れば、ニーチェ・ワールドが堪能できるわけだ。
1897年4月20日、ニーチェの身の回りの世話をしていた母フランツィスカが他界した。エリーザベトは、これを機に、兄とニーチェ資料館をヴァイマルに移そうと考えた。ヴァイマルは、ドイツ古典研究の中心であり、ゲーテー、シラー、リストなど著名な文化人を輩出している。だから、ニーチェにふさわしい町だと考えたのである。
とはいえ、ヴァイマルで新しい資料館を開館するには大金が必要だ。それはどうしたのか?
ニーチェを崇拝する友人で、お金持ちのメータ・フォン・ザーリスが出した。そのお金で、ヴァイマルを見渡す丘の上にある豪壮なジルバーブリック館を買い取り、資料館に改造したのである。一階には、ニーチェの著書、手紙、日記、絵画が展示された ・・・ ところが、その横に、パラグアイ時代のエリーザベトにまつわる品々、ベルハンルト・フェルスターの胸像まで展示された。ニーチェ資料館、それとも、エリーザベト資料館?
ヴァイマルに新しいニーチェ資料館(ジルバーブリック館)が開館すると、ヨーロッパ中の知識人が押しかけた。悲劇の天才哲学者ニーチェの世界を堪能しようと。こうして、ニーチェの知名度は増し、著書は難解な哲学書にもかかわらず、売れ続けた。ニーチェの健康が悪化すると、さらに名声は高まり、本の販売数もうなぎのぼりだった。すべて、エリーザベトの思惑通り。
そして、いよいよ「ワンソース・マルチ展開」の大攻勢が始まる。
1898年10月に、アルノルト・クラーマーが「椅子にすわる病めるニーチェ」と題する彫像を製作した。もちろん、アートとして。それを見たエリーザベトは閃いた。これで一儲けできる!
クラーマーの彫像をテンプレートにして、サイズの違うレプリカを製造・販売したのである。居間や書斎に飾れば、最強の知的オブジェになるし、いっぱしの哲学者気分にもひたれる。実際、このレプリカは飛ぶように売れた。エリーザベトの商売上手には脱帽だ。
1900年8月25日、ニーチェは風邪をこじらせて、あっけなく死んだ、まだ、55歳だった。
エリーザベトはこの機会を逃さなかった。「ニーチェの死」が下火になる前に、ジルバーブリック館を大改装し、「ヴァイマルにニーチェあり!」を大々的にPRしたのである。
ところが、エリーザベトの野望はこんなものではなかった。
この頃、毎年、バイロイトでワーグナー歌劇祭(バイロイト音楽祭)が開催され、多くの知識人が訪れていた。そのため、バイロイトはドイツ文化の中心の感があった。
そこで、エリーザベトは「ニーチェのヴァイマル」を得意の宣伝でピカピカに飾り立て、「ワーグナーのバイロイト」を蹴落として、ドイツ文化の中心にすえようとしたのである。
■力への意志
さらに ・・・
エリーザベトは、ニーチェの著書を売るだけでは満足しなかった。なんと、ニーチェの未完の書まで出版したのである。
ニーチェは死んでいるのに、どうやって?
じつは、ニーチェのメモを理解できる人物が一人だけいた。ニーチェの信奉者で、親友のペーター・ガストである。そこで、エリーザベトはガストを再雇用した。
ガストは、ニーチェが書いたり、棄てたりした、試行錯誤の産物を継ぎはぎして、一冊の本を創りあげた(恐ろしいことにエリーザベトの指示に従って)。この怪しげな本は「権力への意志」と命名され、1901年にドイツで出版された。そして、ニーチェの代表作の一つになったのである。
しかし、忘れてはいけない。ニーチェは「権力への意志」という本は書いていない。書いたのはエリーザベトとその仲間なのだ。
とはいえ、この本がニーチェの哲理から大きく逸脱しているとは思えない。
なぜなら、エリーザベトにそんな創造力はないから。
この本に登場する「力への意志」は、ニーチェ哲学の根本をなす概念で、人間が高みを目指す力の源を意味している。この言葉は、ニーチェの代表作「ツァラトゥストラはかく語りき」に初めて登場し、超人思想やルサンチマンの土台となった。
というわけで、エリーザベトは、ニーチェの未完の書までお金に替えたのである。まるで、ギリシア神話のミダース王ではないか。触ったものすべてを黄金に変えるのだから!
こうして、ニーチェが死んだ後も、エリーザベトはこの世の春だった。ニーチェの著作で実入りはいいし、寄付を申し出る奇特な金持ちも後を絶たなかったから。
その中の一人が、スウェーデンの銀行家エルネスト・ティールだった。ある日、彼からエリーザベトに一通の手紙が届いた。寄付の申し出なのだが、金額がハンパではない。彼はニーチェの熱烈な崇拝者だったのである。
エリーザベトにとって、願ったり叶ったり、ところが、一つ問題があった。エルネスト・ティールはユダヤ人だったのである。エリーザベトは極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたからと、わざわざ、遠路パラグアイまで行って、アーリア人植民地を建設したのだから。
そんなわけで、ユダヤ人から寄付は受け取れません! ・・・ なら、いさぎよかったのだが、そうはならなかった。1907年9月、エリーザベトは30万ライヒスマルクを受け取ったのである。その後も、エリーザベトは、お金が必要になると、ティールに無心するのだった。それでも、ティールは文句一つ言わず、お金を出し続けた。30年間の寄付の総額は数十万マルク。もちろん、エリーザベトは、気がとがめることもなく、すべてを使い切った。
なんという女 ・・・ いや、待てよ、むしろ、いさぎよいのではないか?
「ニーチェ・ブランド」という大義ために、偏屈な人種差別を我慢したのだから。
ノンノン、そうではない。
エリーザベトの反ユダヤ主義は、単に日和見的なものだったのだ。後に、エリーザベトはこのユダヤ人富豪が大好きになり、家族ぐるみで付き合うようになったのだから。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
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週刊スモールトーク (第286話) エリーザベト伝説Ⅱ~ドイツ革命~
カテゴリ : 人物歴史2015.05.09
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エリーザベト伝説Ⅱ~ドイツ革命~
■第一次世界大戦
1914年7月28日、第一次世界大戦が始まった。
アーリア人至上主義、国粋主義、菜食主義に凝り固まったエリーザベトは血をたぎらせた。さっそく、気合いの入った論文を新聞に寄稿している。
「ツァラトゥストラは立ち上がれ、戦えという、ドイツ人への大いなる呼びかけである。すべてのドイツ人の中に、戦士が息づいている」
「ツァラトゥストラ」は、哲学者ニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」に登場する主人公で、「超人」の象徴である。
つまり、
1.ツァラトゥストラは超人である。
2.ツァラトゥストラはドイツ人に宿る。
3.ゆえに、ドイツ人は超人である。
こんなベタな三段論法で、国民をそそのかしたのである。とはいえ、このような煽動は、ドイツ政府にとっても好都合だった。超人が戦争に負けるはずがない、たとえ、それが信じられなくても、国民の戦意ベクトルは増大するだろうから。
そこで、ドイツ政府はニーチェの著書「ツァラトゥストラはかく語りき」を前線の兵士に配布することにした。結果、「ツァラトゥストラはかく語りき」は大ベストセラーになり、版元のエリーザベトは大儲けだった。さすがはエリーザベト、商売上手ですね!
とはいえ、「ツァラトゥストラはかく語りき」を著した本人のニーチェは、草葉の陰で泣いていたことだろう。
ニーチェの高邁な哲理が、戦争のプロパガンダと金儲けに利用されたのだから。実際、このプロパガンダ本は、1914年から1919年にかけて16万5000部も売れた。今の日本で、3万部売れればベストセラーなので、「爆買い」ならぬ「爆売れ」である。
戦争まで商売に利用するとは、一体どういう性根なのだ!と憤慨する前に ・・・ じつは、エリーザベトは、本気で戦争に興奮していたのである。金儲けと戦争のどっちが大事だったかは、今となっては知る由もないが、この場合、大した問題ではないだろう。
戦争によほど興奮したのだろう、エリーザベトはこんな寄稿もしている ・・・
「神の正義とドイツ国民の優れた力とは、この巨大で邪悪な嵐に打ち勝つことを我々に許すのだ。かくして、我々は多大の痛ましい犠牲は払ったものの、ドイツが伝説の英雄にして勝者となって、このまことに困難な時を乗り切るであろうことを、神とともに確信することができるのである」(※1)
何が言いたいのかサッパリだが、
「戦って死んでね、きっと、いいことあるから」
ぐらいの話だろう。
ところが、ドイツ兵がいくら死んでも、いいことはなかった。
ドイツは戦争に負けたのである。
■背後からの一突き
1918年11月10日早朝、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、全財産を特別列車に詰め込んで、オランダにトンズラした。国の最高指導者がイの一番に逃亡するのはいかがかと思うが、もっと大きな問題があった。残されたドイツである。上を下への大混乱に陥ったのである。
戦後のドイツは、君主制から共和制に移行し、国名も「ドイツ帝国」から「ヴァイマル共和国」に変わった。初代大統領は社会民主党のフリードリヒ・エーベルト、つまり、「社会主義革命」が起こったのである。この政変は「ドイツ革命(11月革命)」とよばれるが、日本では意外に知られていない。「フランス革命」は有名なのに、不思議な話だ。
ちなみに、エーベルトは元馬具職人だった。これに驚愕したのがドイツ国民である。ドイツ帝国の輝けるホーエンツォレルン王朝が一夜にして消滅し、馬具職人あがりの社会主義者が政権をとったのだ!
さらに、驚愕を超えて憤怒したのが、エリーザベトだった。彼女は、極めつけの保守主義者で、どこの馬の骨ともわかない馬具職人(かけことば?)が国家元首になるのが我慢ならなかったのである。
エリーザベトは、ドイツ国民にむかってこう訴えた。
「社会主義者が、勇敢なドイツ兵士たちを背後から刺したのだ!」
さらに、首相のマックス・フォン・バーデン公に戦争続行を訴える手紙を書き送った。ヴェルサイユ条約のような屈辱を受け容れればドイツは二度と立ち上がれないと。
とはいえ、ドイツ革命の引き金は、キール軍港のドイツ水兵の反乱である。戦争が嫌で反乱を起こしたドイツ兵を、どうやって戦場にもどすのだ?
こんなエリーザベトの行状を憂いだ人物がいた。ニーチェの崇拝者、ハリー・ケスラー伯爵である。彼は日記にこう書いている。
「この老婦人(エリーザベト)は、70代になってもなおハイティーン娘で、あの男にこの男にと、17才の少女のようにお熱をあげてしまうのだ」(※1)
ちなみに、「背後の一突き」は、歴史的名文句となった。つまり、エリーザベトの言い分は、あながち的外れというわけではなかったのだ。
事実、この時代、大多数のドイツ国民はこう考えていた ・・・
ドイツは戦いに負けたのではない。社会主義の連中とユダヤ人どもが、卑怯にも背後からとどめを刺したのだ!
さらに、社会主義者たちはもう一つの汚名も着せられた。
「11月の犯罪者たち」。
1918年11月11日、パリのコンピエーニュの森で、第一次世界大戦の休戦条約が締結された。「休戦条約」とは聞こえはいいが、ドイツの「敗戦条約」である。しかし、問題はそこでははない。条約に署名したドイツ側の代表は、社会主義ドイツ「ヴァイマル共和国」のマティアス・エルツベルガーだったのである。つまり、「背後の一突き」の主犯。そこで、社会主義者たちは調印式の「11月11日」をとって、「11月の犯罪者たち」とよばれたのである。
皇帝の戦争の後始末をさせられた挙げ句、これでは浮かばれない。
■エリーザベトの破産
こうして、エリーザベトはムカツク毎日を送っていたが、1923年、さらにムカツク事件がおこる。この頃、ドイツはハイパーインフレが進行し、マルクが通貨としての用をなさなくなっていた。
1923年の為替レートを見てみよう。
・6月:1ドル=100万マルク
・8月:1ドル=500万マルク
・10月:1ドル=10億マルク
・11月:1ドル=4兆2000億マルク
マルクがドルに対し大暴落しているのがわかる(5ヶ月で42万分の1)。輸入物価が暴騰するのはあたりまえ。1ドルの輸入品を買うのに支払うマルクが、
「100万マルク→500万マルク→10億マルク」
とつり上がっていくのだから。
じつは、2015年の日本も、同じトレンドにある。政府が円安に誘導し、輸入物価が上がり、国内品の物価も上昇基調にあるのだ。
もっとも、日本の場合は、
・2011年10月:1ドル=75円
・2015年5月:1ドル=120円
4年間で「40%」の下落なので、大したことはない。1923年のドイツの「42万分の1」にくらべれば。
ちょっと待った!大事なことを忘れている。
1923年のドイツがどうであれ、ドルベース(世界基準)で円資産が40%も目減りしているのだ!インフレと円安から財産を守る手を打たないと、気が付いたら、財産が半減していたなんてことになりますよ。
話を1923年のマルクにもどそう。
11月15日、ドイツ政府は無価値になった「マルク」を廃止し、新通貨「レンテンマルク」を採用した。
これに仰天したのがエリーザベトである。それはそうだろう。80万ゴールドマルクにのぼるニーチェ基金が紙切れになったのだから。しかし、究極のプラス志向人間、エリーザベトはこう考えた ・・・ お金なんか、どこかのカモに、貢がせればいいのだ、ドンマイ、ドンマイ。
カモ?
ニーチェの崇拝者のこと。
事実、エリーザベトは「カモ」を取っ替え引っ替え、たくましく生き抜いたのである。
その中の一人が、ガブリエーレ・ダンヌンツィオだった。
ダンヌンツィオは、イタリア・ファシズムの先駆者で、****者ムッソリーニにも影響を与えた出来物である。もっとも、本業は詩を書くことで、ニーチェを讃える詩を書いてエリーザベトに捧げた。
さらに ・・・
1908年、先のムッソリーニが、ニーチェの「権力への意志」を読んで感銘をうけ、エッセイ「力の哲学」の中で大いに讃えた。いわく、
「ニーチェは、19世紀最後の4半世紀で最も意気投合できる心の持ち主だ」
エリーザベトの照準がムッソリーニに向けられたことは想像に難くない。あとは、実弾を****するのみ。その機会は20年後に訪れた。ムッソリーニが大出世したのである。
1929年2月11日、すでに、イタリアの政権をとっていたムッソリーニが、ローマ教皇とラテラノ条約を締結したのである。この条約の締結は、ムッソリーニの名声とカリスマをいやが上にも高めた。イタリア王国とローマ教皇庁の69年続いた対立「ローマ問題」を解決したからである。
ラテラノ条約により、ローマ教皇庁のあるエリアが「バチカン市国」としてイタリアから独立した。さらに、カトリックがイタリアで特別の宗教であることも認められた。そのかわり、ローマ教皇庁は対外的には中立であること、イタリア国内の政治に口出ししないことが定められた。
エリーザベトはこの機を逃さなかった。さっそく、ベルリンのイタリア大使に宛てて、こんな手紙を書いている。
「私は、もはや、閣下にムッソリーニ首相への私の全身全霊からの賞賛の意を表さずにはいられません ・・・ 首相閣下はヨーロッパばかりでなく全世界の卓越した政治家であられますが、その尊敬すべき偉大な首相の行動力のうちに、いくばくかのニーチェ哲学が潜んでいることを見いだすことができましたことを、私はまことに誇りに存じております」(※1)
なんとも卑屈な文面だが、「ニーチェ哲学が潜んでいる」と手前ミソな文言を混入することは忘れていない。さすがはエリーザベト。
とはいえ、先のケスラー伯爵に言わせれば ・・・ 「また、新しい男を見つけてお熱を上げた」。
つまり、詩人であれ、ファシストであれ、聖人あれ、悪党であれ、ニーチェを讃える者は、すべて、エリーザベトのカモなのだ。
ちょっと言い過ぎたカモ。
くだらないシャレはさておき、エリーザベトの財政難はどうなったのだろう?
マルクが紙切れになり、ニーチェ基金が空になったのだから、ジルバーブリック館(ニーチェ資料館)の維持はムリだし、贅沢な暮らしもおしまい。というのも、これまでの大スポンサー(大カモ)のエルネスト・ティールが破産寸前だったのである。
■新たなスポンサー
エリーザベトは痛感した。
どんな金持ちでも、個人には限界がある。長期間、安定して、資金援助できるのは巨大な組織のみ、たとえば政党、できるなら政権政党がいい。国家権力の保護を受けるのだから、これに優るものはない。
そこで、エリーザベトが目を付けたのが ・・・ なんと、ナチスだった。
悪魔に魂を売った老婆!と弾劾されそうだが、事実は少し違う。
元々、ナチスとエリーザベトは似た者同士だったのである。
ナチスの教義は、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義、全体主義、侵略主義 ・・・ どれをとっても人の道にはずれたものだが、エリーザベトもその熱烈な信奉者だったのである(日和見的ではあったが)。つまり、ナチスを悪魔というなら、エリーザベトも同類で、断じて、魂を売ったわけではない。
誉めているのか、けなしているのか ・・・ まぁ、どっちでもいいだろう。
ところが、この頃のナチス(ナチ党)は、政党の体をなしていなかった。演説も、ビヤホールで、酔っぱらい相手に、共和国政府と外国(特にフランス)を口汚くののしるだけ。
さらに、驚くなかれ、この頃、ナチ党の党首アドルフ・ヒトラーはムショ暮らしだった。クーデター(ミュンヘン一揆)に失敗し、刑務所に拘置されていたのである。
ナチ党は、与太者やゴロツキの集まりで、いわゆる烏合の衆だった。そこへ、親分のヒトラーが戦線離脱したものだから、党は大混乱。内部分裂をおこし、権力闘争にあけくれていた。1925年、ヒトラーが釈放されて、ナチ党を再結成したものの、国会の議席数は「14」。一方、第一党の社会民主党は「150」。これで、どうやって政権をとるというのだ?
ところが、1929年10月24日、ウォール街で株が大暴落すると、世界大恐慌が発生した。世界にとっては災難だったが、ナチ党には恵みの雨だった。ナチ党が大躍進し、ヒトラー内閣が誕生する原動力になったのだから。
じつは、世界大恐慌で最もダメージをうけたのはドイツだった。すでに、ハイパーインフレと大量失業で国は破綻寸前だったのに、未曾有の大不況が襲いかかったのだ。弱り目に祟り目とはこのことだろう。
こんな食うや食わずの状況で、平和や協調を訴えたところで、カエルの面にションベン。そこで、ナチ党は、敵をでっちあげて、猛攻撃し、大衆の怒りに火をつけたのである。「怒り」はどん底で生き抜く最良の栄養源なのである。
そんなナチ党の成長を、エリーザベトは注意深く見守っていた。
ナチ党は信条的には、エリーザベトのお仲間である。だから、ナチ党に取り入れば、資金援助を引き出せるかもしれない。そうなれば、昔のように、ジルバーブリック館をピカピカに飾り立て、エリーザベト自身も贅沢な暮らしができるというわけだ。
そのための条件は二つ。ヒトラー内閣が成立すること、政権内部にコネをつくること。
それを、エリザーベトは虎視眈々と狙っていたのである。
そして、そのときが、ついに来る。ヒトラーが政権をとったのである。しかも、合法的に。
それは、歴史の方程式が創り出した必然ではなかった。俗物図鑑から抜け出てきたような俗物どもが、私利私欲をぶつけ合ってできた産物、つまり、予測不可能な歴史だったのである。
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録 20645日の軌跡」 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-286/
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2022/06/23 (Thu) 03:22:50
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週刊スモールトーク (第287話) エリーザベト伝説Ⅲ~ヒトラー内閣誕生の謎~
カテゴリ : 人物歴史2015.05.16
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-287/
エリーザベト伝説Ⅲ~ヒトラー内閣誕生の謎~
■世界大恐慌とナチス
ナチ党(ナチス)が政権をとって、ヒトラー内閣が誕生する ・・・ などというのは荒唐無稽のSF小説のようなものだった。少なくとも、1932年までは。
1928年5月20日、第4回国会総選挙の結果を見ると、
1.社会民主党(153):穏健な左派
2.国家人民党(78):保守的な右派
3.中央党(61):カトリック系の中道派
4.共産党(54):過激な左派(ナチ党と社会民主党の天敵)
5.人民党(45):リベラルな右派
6.民主党(25):リベラルな左派
7.ナチ党(12):国家社会主義(民族主義×全体主義×侵略主義)
※()内は議席数。
ナチ党は第7位で議席数は「12」、第一党の社会民主党は「153」。これで、どうやって政権をとるのというだ?
このまま、世界が推移していれば、ナチ党は過激な発言で世間を騒がすゴロツキ政党で終わっていただろう。その場合、「ヒトラー内閣」は誕生しないので、第二次世界大戦が勃発する確率は激減する。
ところが、1929年の世界大恐慌がすべてを台無しにした。
この頃、ドイツは第一次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を課せられ、マルクが暴落し、輸入物価は暴騰していた。しかも、深刻な物不足でハイパーインフレが発生し、コーヒーを注文して飲み終わると値段が2倍!というウソのような世界だった。
さらに、10年続いた大不況で、企業や農場が次々に閉鎖され、国中に失業者があふれていた。
そこへ、世界大恐慌が直撃したのである。インフレに持ちこたえていた唯一の金融資産「株」が暴落し、経済は完全に破綻した。異次元の大不況が発生し、1928年に「130万人」だった失業者は、1932年末には「600万人」に膨れ上がった。このときの失業率は「40%」、労働者の半分が失業したのである。
ところが、政府の失業対策は雀の涙のようなものだった。失業手当がもらえるのは、申請者の10人に1人、それもわずか6週間だった。それが過ぎると、福祉団体のスープ配給所に行くよう指示されたのである。この頃、ドイツの国民食は「塩漬けのニシンに家庭菜園のジャガイモ」というつつましいものだった。
そんな中、ナチ党が掲げたのが「ヴェルサイユ条約の破棄」だったのである。ところが、初めから、ドイツ国民が諸手を挙げて賛同したわけではない。
「ヴェルサイユ条約」は、ドイツの植民地をすべて取り上げ、莫大な賠償金を課し、軍備まで制限していた。屈辱的だが、条約を破棄すれば、連合国との協調が壊れ、国際的に孤立する。それを怖れたのである。
とはいえ ・・・
2人に1人が失業しているのに、協調や孤立やら悠長なことを言っていられない。こうして、ドイツ全体が「ヴェルサイユ条約の破棄」に傾いていく。もちろん、それはナチ党の躍進を意味していた。
それに拍車をかけたのが、ヒトラーの巧みな演説だった。彼の演説は独善的で教条的だが、カンタンで分かりやすい。しかも、核心を突く。
たとえば ・・・
1935年5月1日、テンペルホーフ飛行場でのヒトラーの演説 ・・・
「我々は一体何をもっているか?一平方キロに137人の人口がある。しかも、植民地はまったくない。原料もない。外国為替も資本もない。あるものといえば、過重な負担、犠牲、課税、そして低賃金ではないか。我々は何をもっているか?ただ一つのものしかもっていないのである。それは我が国民である」(※2)
ヴェルサイユ条約が我々を破滅に追い込んでいる。だが、私にはドイツ国民がいる ・・・ 国民がどう思うかは明らかだ。
そもそも ・・
ドイツ国民は、「第一次世界大戦の全責任はドイツにある」というヴェルサイユ条約の前提に反発していた。しかも、この条約で、ドイツ陸軍は10万人に制限され、飛行機も戦車も持てないのだ。警察に毛が生えた程度の兵団では、敵軍に攻め込まれたらひとたまりもない。デモ隊ぐらいならなんとかなるだろうが。
だから、「ヴェルサイユ条約破棄」が国民に支持されるのはあたえりまえ。
さらに、ヒトラーは、国民が最も望んでいることも約束した。失業をなくすこと。実際、ヒトラーは「失業ゼロ」を最大の公約にしていた。
1929年9月28日、国家人民党のフーゲンベルクは、「解放案」を政府に提出した。国家人民党は保守派の代表格で、社会民主党に次ぐ大政党である。
ところが、内容は小野党のように過激で挑発的だった。
1.ヴェルサイユ条約の戦争責任および一切の賠償金支払い義務を撤廃すること。
2.ドイツの披占領地区から、連合軍は即時撤退すること。
3.諸条約に署名したドイツ政府の大臣もしくは代表者を、反逆罪で処罰すること。
ナチ党が言い出しそうなことではないか!
ところが ・・・
この案を起草したのはナチ党のヴィルヘルム・フリックだった。というのも、国家人民党は反リベラル、反社会主義という点でナチ党のお仲間だったのだ。ちなみに、国家人民党は後にナチ党に吸収されている(国家人民党首フーゲンベルクはためらっていたが)。
こうして、1929年の世界大恐慌を境に、ナチ党の支持者が急増していく。この年の12月末には、ナチ党員は17万6426人、ナチ党の私兵「SA(突撃隊)」は10万人に達した。
ナチ党の私兵? SA(突撃隊)?
SA(突撃隊)は、ナチ党の政治集会を警備する目的で創設されたが、実質は党の軍隊だった。
それが、10万人?
ここで、先のヴェルサイユ条約を思いだそう。ドイツに許された陸軍は10万人。つまり、ナチ党の私兵団はドイツ陸軍と同数だったのである(装備は国軍が上だったが)。さすがはナチス、政府やライバル政党に無言の圧力をかけるため、武力まで用意していた?
そうではない。
当時のドイツは、政党が私兵団をもつのは”普通”だったのである。
たとえば、
・ナチ党:SA(突撃隊)
・国家人民党:鉄兜団
・社会民主党:国旗団
・共産党:赤色戦線闘争団
ちなみに、SA(ナチ党)と赤色戦線闘争団(共産党)の路上の乱闘騒ぎも”普通”だった。
■ナチス12議席から第一党へ
1929年の世界大恐慌に始まり、1931年のドイツの金融恐慌を経て、1932年末の「失業率40%」で、失業者はこぞってナチ党の支持に回った。
ところが、ナチ党に加担したのは失業者だけではなかった。大企業の社員や公務員までがナチスに票を入れたのである。彼らは職を得ていたが、至る所で「失業」と「貧窮」を目にしていた。そこで、明日は我が身かも ・・・ と不安に駆られたのである。その漠然とした不安がナチ党の躍進を後押ししていた。
ヒトラーは、それを見逃さなかった。
彼は、国難にあって、無為無策の共和国政府、ドイツの富を奪い、名誉を踏みにじった冷酷な連合国、この二つの忌まわしい災厄を、一刀両断にしたのである。彼はいつでもどこでも、国民の側に立っていた。上から目線ではなく国民の目線で訴えたのである。彼は、高みに立つ皇帝でも大統領でもない、国民と同じ場所に立つ頼れる護民官なのだ。
そして、その護民官が目指したのは「大ドイツ帝国」の復興だった。ドイツ国民はそれに賭けたのである。
その結果 ・・・
ナチ党は、1928年の「12議席」から、4年後に「230議席」を獲得し、第一党に上りつめた。そして、翌年には、ヒトラー内閣が誕生したのである。
2015年の日本に当てはめると、4年後に、社民党や共産党が政権をとるようなもの。もちろん、このようなイベントが、歴史の方程式に従って、理路整然と生まれたわけではない。
では、どうやって生まれたのか?
これまで、歴史学では、歴史はいかにして作られるかが論じられてきた。原因と結果の因果律が作るという「決定論」。そして、「個人と偶然」が作るという「偶然論」である。本来、この二つは異質なロジックなので、どっちが正しいか論じることは不毛。とはいえ、歴史学では「決定論」が優勢である。たとえば、「歴史の必然性」を著したイギリスのアイザイア・パーリンは「決定論」を「個人の力」で変えることはできないと言い切っている。
とはいえ、「ヒトラー内閣」のようなレアなイベントは、「個人と偶然」で説明するのが手っ取り早い。実際、この歴史は、超がつくほど個性的なキーマンの産物だった。あのヒトラーでさえ影が薄くなるような ・・・
ニーチェの言う「超人」?
ノー、俗物。
ではさっそく、その俗物キーマンを紹介しよう。
第一のキーマンは、ドイツのヒンデンブルク大統領。ドイツ(ヴァイマル共和国)の国政の最高責任者は首相だが、首相の任命権は大統領にあった。しかも、大統領は、閣僚の任命権、国会の解散の決定権を有し、内乱などの非常時には国民的諸権利を停止し、軍を動員することができた。
帝政とどこが違うのだ?
皇帝がいないこと。
もっとも、大統領は疑似皇帝のようなものだが。
じつは、ヒンデンブルクは生粋の政治家ではない。軍人出身で、第一次世界大戦でロシア軍を破った英雄である。しかも、生まれも育ちも貴族。であれば、ガチガチの保守主義者、権威主義者をイメージするが ・・・ ビンゴ。実際、ヒンデンブルクは、民主主義も平和主義も大嫌いだった。信じがたいことに、彼は国民も政治家も信用せず、軍だけを信頼していたのである。
第二のキーマンは、クルト・フォン・シュライヒャー。軍人出身だが、政治的陰謀が大好きで、「政治将軍」の異名をとった。ヒンデンブルク大統領の信任が厚いのをいいことに、やりたい放題。自分が出世することしか頭になく、ドイツの未来など二の次という超俗物だった。しかも、偏屈で、根に持つタイプで、やり方がエゲツなかった。そのため、支持者といえるのはヒンデンブルクと軍人時代の部下ぐらいだった。
第三のキーマンは、フランツ・フォン・パーペン。彼も軍人出身だが、特技は乗馬だけという、何の取り柄もない男だった。じつは、特技以前に、知能の低さが取り沙汰されるほどだった。しかも、不誠実で野心家というから、極めつけの俗物である。
ではなぜ、こんな男が、混乱の時代にキーマンになれたのか?
貴族出身で、金持ちの娘と結婚したから。それに、ヒンデンブルク大統領の覚えもめでたかった。では、英雄ヒンデンブルクが、なぜ、こんな小者をひいきにしたのか?
パーペンが仲間を裏切って、ヒンデンブルクについたから。
パーペンは、中央党に属していたが、1925年の大統領選挙で、中央党の候補マルクスではなく、ヒンデンブルクを支持したのである。あまりの無節操さに、中央党から除名されそうになったが、カネにものいわせて、難をまぬがれていた。
ここで、ヒトラーもキーマンに入れるべきなのだが ・・・ 入れていいものやら。というのも、この物語の主役はシュライヒャーとパーペンなのである。この二人の個性の強さはどん引きもので、ヒトラーの影が薄くなるほど。しかも、彼らは犬猿の仲、かつ天敵で、熾烈な権力闘争を繰り広げたのである。その結果 ・・・ ひょうたんから駒、それが「ヒトラー内閣誕生」だった。
そこに至る歴史は、ドンデン返しに次ぐドンデン返し、まさに、真実は小説より奇なり。
では、その驚くべき歴史を紹介しよう。
■パーペン内閣
世界大恐慌が始まって、3年後 ・・・
ドイツ(ヴァイマル共和国)は混乱の極みにあった。経済システムは破壊され、国民生活は破綻し、政権は目まぐるしく交代した。
当時のドイツの有力な政党は、
1.社会民主党(左派)
2.国家人民党(右派)
3.中央党(中道)
の3党だったが、いずれも単独過半数にはとどかず、合従連衡をくりかえしていた。
1932年5月30日、中央党を核とするブリューニング内閣が瓦解した。世界大恐慌の対応に失敗したのである。じつは、ブリューニング内閣の仕掛人は第二のキーマン、シュライヒャーだった。彼は次期内閣も自分が取り仕切ろうと画策していた。首相の任命権はヒンデンブルク大統領が握っていたが、シュライヒャーはその側近中の側近だったのである。
ブリューニング内閣崩壊後、シュライヒャーが首相に推した人物は ・・・ なんと、パーペンだった。なぜ、犬猿の仲、天敵のパーペンなのか?
この頃、シュライヒャーは、パーペンは頭が弱いのでカンタンに操れると考えていたのだ。実際、シュライヒャーの周囲からはこんな声が上がった。
「パーペンは人の上に立つ器ではない。どうして、あんな者を推すのか?」
これに対し、シュライヒャーはこう答えたという。
「そんなことは百も承知だ。あいつに人の上に立たれては困るんだ。彼は帽子みたいなもんだからね」
こんな身もフタもない理由で、1932年6月1日、パーペン内閣が成立したのである。ただし、すべてシュライヒャーの力というわけではない。ヒンデンブルク大統領が個人的にパーペンを気に入っていたのである。保守主義、貴族主義、権威主義のお仲間だったから。
一方、黒幕のシュライヒャーは国防相に就任した。フィクサーとして、パーペン内閣を影から操ろうというのだ。ちなみに、この内閣は、閣僚9人のうち7人が貴族出身者だった。メディアからは「男爵内閣」と揶揄され、国民の人気も最低だった。口の悪いナチ党のゲッベルスに言わせれば、
「ブルジョア的な与太者内閣」
言い得て妙、さすがナチ党の宣伝担当。
さらに、他の政党からは、嫌われるか、バカにされるか、無視されるか、支持者は皆無で、世にも希な不人気内閣だった。
ところで、パーペンの所属する中央党はどうしたのだ?
じつは、数々の裏切り行為によって、パーペンは中央党から除名されていたのである。
ところが ・・・
ヒトラー率いるナチ党だけは、内閣批判を控えていた(支持はしていない)。
なぜか?
ヒトラーとパーペンは裏取引をしていたのである。ナチ党はパーペン内閣を批判しない、そのかわり、パーペンはナチ党に2つの便宜を図る。
一つ目は、当時、ナチ党のSA(突撃隊)が数々の暴力沙汰で、禁止命令を受けていたが、それを解除する。二つ目は、国会を解散する。ヒトラーは、今、国会を解散し、総選挙に持ち込めば、第一党になれると踏んでいたのである。
とはいえ、ヒトラーはパーペンにベッタリというわけではなかった。彼はパーペンから入閣を要請されたが、拒否している。不人気なパーペン内閣に与し、ナチ党のイメージが悪化するのを怖れたのである。つまり、つかず離れず。一方、ナチ党のゲッベルスは、この「ブルジョア的な与太者内閣」と一刻も早く手を切るべきだと考えていた。
1932年6月2日、パーペンは、首相就任宣誓で国会解散を要求した。6月4日、ヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が決まった。さらに、SA(突撃隊)の禁止命令も解除された。パーペンはヒトラーとの約束を守ったのである。
1932年7月31日、総選挙の結果、ナチ党は第一党にのぼりつめた。改選前の107議席から230議席と急伸したのである。得票率は37.4%で、過半数にはおよばなかったものの、正真正銘の第一党。これで、ヒトラー内閣誕生!?
そうはならなかった。
首相を任命するヒンデンブルク大統領がヒトラーが嫌いだったから。
ヒンデンブルクは貴族主義と権威主義と保守主義の権化で、ヒトラーのような、出の悪い、学のない、成り上がり者を蔑んでいた。だから、初めから、ヒトラー内閣の芽はなかったのである。とはいえ、国民が選んだ第一党のナチス党から入閣させないと、国民が不満をもつ。
そこで、パーペンはナチ党に閣僚のポストを提供することにした。ところが、ヒトラーはこの申し出を断った。首相以外は受けない、と言い放ったのである。
1932年8月5日、今度は、シュライヒャーがヒトラーと面会し、副首相として入閣するよう求めた。しかし、結果は同じだった。そこで、シュライヒャーはヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに提言したが拒否された。
8月13日、このドタバタに業を煮やしたヒンデンブルクは、ヒトラーと会談し、副首相になるよう求めた。ところが、ヒトラーは「首相以外は受けない」を繰り返すばかりだった。
そこで、パーペンは大きなニンジンをぶら下げた。もし、ヒトラーが副首相として入閣するなら、その後に首相の地位を譲ってもいい ・・・ ところが、それでもヒトラーは首を縦に振らなかった。
普通の政治家なら、乗ってしかるべき譲歩案なのに、ヒトラーはなぜ拒否したのか?
副首相という「ナンバー2」に甘んじたら最後、国民は、ナチ党を妥協的で日和見的とみなすだろう。だから、完全無欠の「ナンバー1」か、それとも、「ゼロ」かの二択。
芝居がかった美学を好むヒトラーの考えそうなことだ。
こうして、政府首脳とナチ党の会談は決裂した。
ところが、ここで、ナチ党内部で不満の声があがる。
ナチ党が第一党なのに、なぜ、ヒトラー内閣ではなく、パーペン内閣なのだ?
とくに、ナチ党のSA(突撃隊)の不満は大きく、武装蜂起を求める声まであがった。SAは、軍事訓練は受けていたが、ドイツ正規軍のような「しつけ」はされていない。しかも、隊員のほとんどは、20歳前後と若く、仕事にあぶれた、粗暴で無教養な集団なのだ。
ところが、狡猾なヒトラーはこれを利用した。
「荒くれどものSAが武装蜂起をたくらんでいる」という情報をそこら中に流し、パーペンにプレッシャーをかけたのである。パーペンは縮み上がり、ヒトラーを首相にすることも考えたが、ヒンデンブルクに拒否された。
1932年9月12日に国会が召集され、パーペンが所信表明演説をしようとしたとき、異変が起きる。共産党議員がパーペン内閣不信任の緊急動議を提出したのである。議会は大混乱に陥り、一旦、休会することになった。
パーペン内閣は貴族主義・保守主義の権化なので、共産党は天敵である。だから、共産党がこんな挙に出ても不思議ではない。とはいえ、共産党だけでこの動議を通すことはできない。
ところが ・・・
共産党の天敵のナチ党がこの動議に賛成したのである。結果、不信任決議案は512対42の大差で可決された。
追い込まれたのがパーペンである。残された道は一つ、議会を解散するしかない。さっそく、ヒンデンブルク大統領に泣きつき、解散に持ち込んだのである。ところが、それを狙っていたのがヒトラーだった。「内閣不信任 → 議会解散 → 総選挙」で議席数をさらに伸ばす。たとえ、過半数はとれなくても、議席が増えれば、偏屈なヒンデンブルクもヒトラー内閣を認めざるをえないだろう。
ところが ・・・
1932年11月6日、総選挙の結果、第一党のナチ党は前回の「230議席」から「196議席」へ大きく議席数を減らした。さらに、第二党の社会民主党も「121議席」に後退する。
では、どの党が増えたのか?
共産党。「100議席」を獲得し、第二党の社会民主党に肉薄したのである。
これを見て震え上がったのがパーペンだった。右派の権化のパーペンにとって、左派の権化、共産党は天敵だから。これで、ナチ党の協力が欠かせなくなった。
11月9日、パーペンは、ヒトラーに副首相就任を再度要請した。ナチ党も議席数を減らしたので、今度は乗ってくるかもしれないと考えたのだ。ところが、ヒトラーは強気だった。「首相以外は受けない」を繰り返したのである。
これに業を煮やしたのがシュライヒャーだった。
パーペンの体たらく、無能ぶりに腹を立て、パーペンに総辞職を求めたのである。ヒンデンブルクもこれに同意し、11月17日、パーペン内閣は総辞職した。
■シュライヒャー内閣
一方、ヒンデンブルクは、日替わり定食のような政権交代にウンザリしていた。彼の望みは、議会の第一党が過半数をとり、安定政権を樹立すること。但し、保守派に限られるのだが。
1932年12月1日、ヒンデンブルク大統領は、混乱した事態を収拾するため、パーペンとシュライヒャーを招集した。追い詰められたパーペンは、恐るべき提案をする。国軍を出動させて、議会を停止し、憲法を変えて、大統領権限を強化するというのだ。早い話が軍事クーデター。
ところが、シュライヒャーはこれに反対した。
国軍を使ってクーデターを起こすなんて、政治家としての信義にもとる、と考えたわけではない。これを機に、パーペンを失脚させ、自分が首相になろうとしたのだ。
シュライヒャーの提案は、「政治将軍」の名に恥じないものだった。頭のてっぺんから足のつま先まで陰謀、陰謀、陰謀。
その陰謀、いや、提案というのが ・・・
まず、シュライヒャーが首相に就任し、その後、ナチ党の一部を取り込んで分裂させる。これで、ナチ党のリスクは軽減されるはずだ。さらに、シュライヒャーは閣僚にこう言って恫喝した。
「ぐずぐずしていると、ナチがSAを使って内乱を起こすかもしれない。そうなれば、国軍が鎮圧するのは不可能」
国の正規軍が、党の私兵に負ける?
その可能性はあった。ヴェルサイユ条約によって、ドイツ陸軍は「10万人」に制限されていた。しかも、戦車も航空機もない、警察予備隊のようなもの。一方、SAは私軍なので、ヴェルサイユ条約の効力がおよばない。実際、この時期、SAの兵数は国軍より多かった。しかも、2年後の1934年には、兵数「300万人」というからどっちが国軍かわからない。
というわけで、「SAの軍事クーデター」は閣僚を脅すには十分だった。結果、シュライヒャーを支持する声が大勢を占め、パーペンに退陣を求めたのである。パーペンはヒンデンブルク大統領に泣きついたが、事がここに及んでは是非もない。パーペンの泣き言は却下された。
12月2日、パーペン内閣は瓦解し、シュライヒャーが首相に就任した。
どんでん返しにつぐどんでん返し、恐ろしい権力闘争である。
首相に就任したシュライヒャーは、さっそく、ナチ党の分裂をはかった。彼が目を付けたのは、ナチ党の有力幹部グレゴール・シュトラッサーである。この頃、ナチ党内部には、首相に執着し、入閣を拒否するヒトラーに不満を抱く一派があった。このままでは、いつまでたっても野党のままだから。そして、この不満分子が、シュトラッサーの周辺に集結していたのである。
だから、シュトラッサーとヒトラー離反させれば、ナチ党は分裂し、脅威は半減する、とシュライヒャーは読んだわけだ。
ところが ・・・
このシュライヒャーとシュトラッサーの接触を嗅ぎつけた人物がいた。パーペンである。パーペンは自分の内閣を崩壊させたシュライヒャーに恨み骨髄で、シュライヒャーの失脚を虎視眈々と狙っていた。
そんなとき、シュライヒャーとシュトラッサーが密談したというから、飛んで火に入る夏の虫、パーペンはさっそくヒトラーにちくった。
当然、ヒトラーは激怒した。党員が、党首をさしおいて首相と密会したのだから。シュトラッサーは党の役職を解任され、完全に影響力を失った。シュライヒャーの計画は失敗したのである。
これで、パーペンの腹の虫が治まったわけではない。シュライヒャーへの復讐はまだまだ続く。
1932年12月16日、紳士クラブの席上、パーペンはシュライヒャーの退陣とヒトラーの入閣を声高に説いた。その後も、ことあるごとに、シュライヒャーに噛みつくのだった。
こうして、慌ただしい1932年が終わろうとしていた。
年が明けて、元旦、風刺誌「ジンプリチシムス」1933年1月1日号に、こんな記事がのった。
「確かに言えることは一つだけ、俺たちはそれで万々歳さ、ヒトラーはおしまいだ、この総統の時代は過ぎた」(※3)
国内外のほとんどの新聞の年末年始のコメントも、この見解で一致していた。というのも、ナチ党は議席数を減らしつつあり、そもそも、第一党になっても組閣の見込みがないのだから。だから、ドイツの民主主義は守られた、ヒトラーはもうおしまいだ、と。
ところが、その真逆の予言をした者がいた。ベルリンの有名な占星術師ハヌンセンである。
1933年1月1日、ハヌンセンは、ヒトラーのオーバーザルツベルクの山荘に訪ねて、1月30日の首相就任を予言したのである。
さて、どっちが的中したのか?
現実は、不吉な方に向かっていた。
1933年1月4日、大銀行家クルト・フォン・シュレーダーの邸宅で、ヒトラーとパーペンの会談が行われた。
そこで、5つの合意が成立する。
1.シュライヒャー内閣を倒すこと。
2.ヒトラーとパーペンの対等の内閣を樹立すること。
3.ヒトラーが首相に就任すること。
4.社会民主党、共産党、ユダヤ人を国家中枢から追放すること。
5.ナチ党の債務を解消すること(銀行家シュレーダーが莫大な資金援助を約束)。
この会談は、ヒトラーとパーペンにとって実りのあるものだった。ヒトラーにしてみれば、党の深刻な資金難が解消され、首相への足掛かりができる。一方、パーペンは宿敵シュライヒャーを首相の座から引きずり下ろせる。メデタシ、メデタシ ・・・
これを聞き知ったシュライヒャーは激怒した。さっそく、ヒンデンブルクのもとに飛んで行って、自分が同席しない限りパーペンと会わないようクギを刺したのである。ところが、この時すでに、ヒンデンブルクの腹は決まっていた。シュライヒャーに替えて、パーペンを首相にしようと ・・・ その前は、パーペンに替えてシュライヒャーを首相にすえたのにね。
1933年1月22日、ナチスの幹部リッベントロップの自宅で、重大な会談が行われた。出席者は、ヒトラーとパーペン、さらに、ヒンデンブルク大統領の息子オスカー・フォン・ヒンデンブルク。オスカーはヒンデンブルクの息子で、大統領の信任が厚かった。
この会談の6日後、1月28日、パーペンとオスカーは、口をそろえて、ヒンデンブルクにこう進言した。
「ヒトラーを首相に指名しても、何の問題ありません」
これで、ヒンデンブルクの腹は決まった。ヒトラーは気に入らないが、この政治的難局を乗り切るには、第一党の党首を首相にするしかない。それにお気に入りのパーペンと息子のオスカーも問題ないと言っていることだし。
仰天したのがシュライヒャーである。劣勢を挽回するには、ヒトラーを寝返らせるしかない。
そこで ・・・
1月29日、シュライヒャーは、腹心の陸軍統帥部長クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ送り込んだ。そして、パーペンの悪口を山ほど吹き込んだあげく、寝返るよう説得したのである。しかし、ヒトラーの気持ちは変わらなかった。首相の任命権はヒンデンブルク大統領にあり、その息子オスカーがパーペン側についている。なんでわざわざ、負け犬と手を組む必要があるのだ?
シュライヒャーの敗北は決定的だった。
そこで、シュライヒャーの腹心、陸軍統帥部長ハンマーシュタインは恐るべき提案をする。それは ・・・ 起死回生の軍事クーデター。ハンマーシュタインは、そこまでして、ヒトラー内閣を阻止したかったのである。というのも、彼はヒトラーが大嫌いで、ヒンデンブルク大統領に、
「何があっても、ヒトラーを首相にしてはいけません」
と再三訴えていた。
ところが、肝心のシュライヒャーが、土壇場でクーデターに反対したのである。
なぜか?
クーデターを起こせば、ヒトラーとパーペンを抹殺し、恩あるヒンデンブルク大統領の顔に泥を塗ることになる。それに、万一失敗したら、ただではすまない。反逆者として銃殺されるだろう。そのプレッシャーに耐えられなかったのだ。こうして、シュライヒャー派の軍事クーデターは歴史年表から消えた。
ここで、歴史のIF ・・・ もし、このとき、国軍のクーデターが起こっていたら?
不意を突かれたヒトラーは落命していた可能性が高い。そうなれば、歴史は大きく変わっていただろう。その後のヒトラーの****もなく、第二次世界大戦も起こらないから(たぶん)。
■ヒトラー内閣誕生
1933年1月30日午前11時15分、アドルフ・ヒトラーが首相に任命された。ヒトラー内閣が誕生したのである。黒幕のパーペンはナンバー2として、副首相に就任した。
ここで、思い出し欲しい。
1933年1月1日、占星術師ハヌンセンが、1月30日ヒトラーの首相就任を予言したことを。怪しい八卦占いの類が、理論に基づく予想に勝ったのである。
意気消沈したシュライヒャーは、これを機に、政治の第一線から退いた。ところが、腹の虫が治まらなかったのか、その後、ヒトラー批判を始める。心配した友人は、控えるよう警告したが、シュライヒャーは止めなかった。偏屈で、根に持つ性格がそうさせたのである。
いつの世でも、このような性癖は災厄を招く。
翌1934年6月30日、ナチ党内部で大規模な粛清が行われた。「長いナイフの夜」事件である。ヒトラーに批判的だったSA(突撃隊)トップのエルンスト・レームが逮捕されたのである(後に銃殺)。ところが、同日、シュライヒャーが妻とともに、ゲシュタボに射殺された。シュライヒャーはSA(突撃隊)とは何の関係もなかったのに。つまり、シュライヒャー夫妻は”ついでに”殺されたのである。
冷静に考えれば、この事件は重大である。軍の最高幹部が夫婦で射殺されたのだから。しかも、誰がやったかも分かっている。
ところが、軍部はこれを一切追求しなかった。新しい指導者ヒトラーに遠慮したこともあるが、シュライヒャーの人望がなかったのも一因だろう。
「偏屈と恨み」は、時として身を滅ぼすことがある。
これは肝に銘じておくべきだろう。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶというが、このような経験からは学べない。後がないから ・・・
《つづく》
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録 20645日の軌跡」 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房
(※3)ヒトラー権力掌握の20ヵ月 グイド クノップ (著), 高木 玲 (翻訳) 中央公論新社
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-287/
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2022/06/23 (Thu) 03:23:19
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週刊スモールトーク (第288話) エリーザベト伝説Ⅳ~ナチスを利用した女~
カテゴリ : 人物歴史2015.05.23
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-288/
エリーザベト伝説Ⅳ~ナチスを利用した女~
■エリーザベトの標的
ヒトラー内閣が誕生して、最も恩恵をうけたのは、言うまでもない、エリーザベト・ニーチェである。
お仲間のナチ党が政権をとったのだから、うまく取り入れば、「国の資金援助」も夢ではない。そうなれば、ルバーブリック館(ニーチェ資料館)は安泰だし、エリーザベトも贅沢な暮らしができる、メデタシ、メデタシ ・・・
ところが、一つ問題があった。ナチスの誰に取り入ればいいのか?
党首のヒトラー、大幹部のゲーリングやゲッベルスは最高なのだが、敷居も最高。というのも、エリーザベトは有名といっても、虎(兄ニーチェ)の威を借るキツネにすぎないから。とはいえ、下っ端相手では「資金援助」など夢のまた夢。やはり、閣僚ではなくては ・・・
この時、ヒトラーをのぞけば、入閣したナチ党員は二人いた。ナチ党のナンバー2のゲーリング無任相と、ヴィルヘルム・フリック内相である。ゲーリングは第一次世界大戦のドイツ空軍の撃墜王で、愛想がよく、雄弁なので、経済界と国民に人気があった。ところが、何でも欲しがる「クレクレタコラ」で、とくに絵画には目がなかった。
一方のフリックは、法学博士で弁護士、司法の専門家だった。そんな経歴を見込まれて、ドイツの司法のナチ化を担当していた。ところが、司法の独立にこだわったり、ゲシュタポの無法な捜査に憤慨したり、ブレまくりだった。それが災いして、党内の出世街道からはずれていく。特に、権力の亡者、ヒムラーとの権力闘争に敗れたのは致命的だった。
とはいえ、ヒトラー内閣が誕生した時点では、フリックはナチ党の有力な幹部で、内相(内務大臣)という要職にあった。しかも、ナチ党員のゴロツキや、ほら吹きの中にあって、ピカピカのインテリ。それは風貌にも表れている。
ここに、1923年のミュンヘン一揆の裁判の際に撮られた写真がある。眼光鋭いヒトラーや、胸を張った勇ましい将官に混じって、途方にくれたような紳士が立っている。物憂げで、遠くを見つめる目は、うだつのあがらない会計士だ。ところが、エリーザベトが標的に定めたのがこのフリックだった。
フリックが内相に就任すると、エリーザベトは、すぐに歯の浮くような祝辞を送っている。すると、フリックからさらに歯の浮くような返事が返ってきた。
「奥様、私は、奥様もいつの日か、尊敬する兄上(ニーチェ)のような戦士として、ドイツ国民の自由を求める運動に身を捧げてくださる、と信じております」
もちろん、フリックは本気でそう思ったわけではない。
エリーザベトにヨイショして、ニーチェの超人哲学を、ナチスの教義に利用しようとしたのである。
事実、フリックは、エリーザベトのご機嫌取りに奔走した。まず、ニーチェの著作権の期間を延長する法案を議会に提出した。それが棄却されると、今度は、ジルバーブリック館の公的助成金の交付を約束した。もちろん、エリーザベトは大喜びだった。
そのときのエリーザベトの礼状が面白い。
「私は、ヒトラー氏がニーチェのなかに見出したものが理解できます。それは、私たちに必要不可欠な英雄的タイプです。国家社会主義とニーチェを結ぶものは、両者に宿るこの英雄的精神なのです」
うまいこと言うが、だまされてはいけない。
たしかに、国家社会主義とニーチェは英雄的精神を包含するが、だからといって、この二つが「つながっている」ことにはならない。むしろ、現実はその逆。というのも、ニーチェは国家社会主義を忌み嫌っていたから。つまり、「国家社会主義とニーチェを結ぶもの」は何もないのだ。というわけで、ニーチェは、エリーザベトとナチスから利用されていたのである。
■第一のカモ、ヴァーグナー
じつは、ナチスに利用されたのは、ニーチェだけではなかった。19世紀ドイツの大音楽家リヒャルト・ヴァーグナーもしかり。
ヴァーグナーは、ロマン派オペラの王様で、楽曲は荘厳で、英雄崇拝、力への信仰を彷彿させる。気分を高揚させて、若者を戦場に送り込むにはうってつけだ。さらに、ヴァーグナー自身、反ユダヤ主義、アーリア人至上主義、国粋主義の信奉者だった。ヒトラーのお仲間がここにもいたのである。
ヒトラーは、1923年5月の青年時代からヴァーグナー家に出入りしていたが、首相になってからも続いた。また、ヴァーグナーの歌劇・楽劇を演目とするバイロイト音楽祭には必ず出席していた。
1933年7月のバイロイト音楽祭にも、ヒトラーはヴァーグナー家を訪ねている。この頃、大音楽家リヒャルト・ワーグナーはこの世になく、ヴァーグナー家は代替わりしていた。ただし、代替わりといっても、ワーグナーの血統ではない。息子のジークフリートの妻ヴィニフレート・ヴァーグナーである。ジークフリートが死去し、妻のヴィニフレートがヴァーグナー家を取り仕切っていたのである。
ではなぜ、ヒトラーは、ヴァーグナーと血のつながりもないヴィニフレートを訪ねたのか?
ヴィニフレートに惹かれていたから。
彼女は36歳と若く、しかも、熱烈なヒトラー賛美者だった。そんなこともあり、二人は相思相愛、再婚のウワサまであった。では、二人はどの程度の関係だったのだろう。
1942年3月10日夜、ヒトラーは気を許した部下にこう言っている。
「若い頃の私には、多少の孤独癖があって、人とつきあわずにいられた。しかし、私はずいぶん変わった。今は孤独には耐えられない。何よりも好きなのは綺麗な女性と一緒に食事をすることだ」(※2)
ヒトラーは女好きだった?
一方、極端にストイックなところもあった。だから、関係の深度は、今となっては知る由もない。とはいえ、スキャンダラスな話は残っていないので、ストイックが優勢だったのだろう。
こうして、「ヴァーグナー」はヒトラーにとって至高のブランドとなった。彼は、ナチスの曲にヴァーグナーの音楽を多用し、バイロイトをナチスの音楽の聖地にしようとした。さらに、バイロイト音楽祭とヴァーグナー家を援助し、ヴィニフレートをバイロイト音楽祭の総監督に就任させたのである。
そして ・・・
1933年、ナチスが政権を取ると、ヒトラーのヴァーグナーびいきは加速した。バイロイト音楽祭には、ヒトラーだけでなく、ナチス首脳全員を出席させたのである。
エリーザベトは、それが羨ましかった。
そこで、彼女は、「バイロイト音楽祭 & ヴァーグナー家」に対抗して、「ヴァイマルのジルバーブリック館 & ニーチェ家」を目論んだ。バイロイトが「音楽の聖地」なら、ヴァイマルは「哲学の聖地」というわけだ。そうなれば、ジルバーブリック館とエリーザベトはヒトラーの援助が受けられる。それはドイツ帝国の庇護を意味するのだ。
■第二のカモ、ニーチェ
1933年2月2日、エリーザベトはドイツの内相フリックに手紙を書き送った。
「喜びあふれる熱狂の****が、全ドイツに打ち寄せています。愛するべき総統アドルフ・ヒトラーが、今やドイツ帝国の頂点に立たれたからです。その歓喜の奔流の中には、国家人民党と鉄兜団が入っています。これは心に愛国的な感性をもつ人々が夢見てきた状況であり、国家人民党と鉄兜団(国家人民党の党軍)を帝国内閣に受け容れたときの総統の立派な行動が与えた深い感銘は、言葉ではとても言い表わすことができません」(*1)
何が言いたいのかよくわからないが、
1.ヒトラーがドイツの政権を取ったことは喜ばしい。
2.国家人民党を受け容れたヒトラーは寛大である。
ぐらいの話だろう。
文面から、ヒトラーへの熱い思いが感じられるが、じつのところ、エリーザベトのナチズム支持は日和見的なものだった。ただし、日和見を意識したわけではない。その瞬間は本気だったのである。
エリーザベトは、フリック内相を口説き落とすと、いよいよ、本丸攻略にかかった。言わずと知れたヒトラー総統である。
エリーザベトはヒトラーに歯の浮くような賛美の手紙を書き、ジルバーブリック館を訪れるよう催促した。ヒトラーが来訪すれば、ジルバーブリック館とエリーザベトに箔がつく。そうなれば、ニーチェブランドの価値は急上昇し、彼女の実入りも増えるというわけだ。
で、ヒトラーはどうしたのか?
驚くなかれ、7回もジルバーブリック館を訪れている。
しかも、ヒトラーはパーフォーマンスも忘れなかった。感慨深げにニーチェの胸像を眺めたり、ニーチェの著作を熱心に読むフリをしたり。そして、最後にエリーザベトに敬意を表するのだった。エリーザベトが狂喜乱舞したのは言うまでもない。
では、ヒトラーはなぜそこまでして、エリーザベトに気を遣ったのか?
ヴァーグナーの楽曲同様に、ニーチェの哲学に感動したから?
ノー!
そもそも、ヒトラーはニーチェの著作は読まなかった。彼の読書は、歴史、地理、戦記に偏っていたのである。第一次世界大戦中、戦場でショーペンハウアーを読んだという記録もあるが、たぶん、つまみ食いだろう。
しかし ・・・
ヒトラーは著作は読まなくても、ニーチェの何が利用できるかを知っていた。
ヒトラーが目を付けたのは、ニーチェの哲理ではなく、「言霊(ことだま)」。つまり、文言のロジックではなく、エモーション、つまり、人間の意識を高揚させる「霊力」である。
たとえば ・・・
「力への意志」、「超人」のような勇ましい言葉や、神話を彷彿させる芝居がかった言い回し。それらはすべて「力の賛美」であり、若者を戦場に送り出すための方便だった。そして、そのような文言が、何の脈絡もなく抽出され、断片的に引用されて、ナチスの教義に利用されたのである。
しかし ・・・
ニーチェは、民族主義、国粋主義、民主主義、ありとあらゆるイデオロギーを毛嫌いしていた。さらに、彼は盲目的に力を賛美したわけではない。既存のイデオロギーに左右されず、自分の内なる声に従って、自己実現せよ、と説いたのである。つまり、ニーチェの力の賛美は「個人主義」であって、ナチスの「全体主義」ではない。つまり、主義主張が真逆なのだ。
では、ヒトラーはそれに気付いていた?
そこは重要ではないだろう。ニーチェの哲理が真逆のロジックで適用されたことが問題なのだ。
そして、これに加担したのはヒトラーだけではなかった。エリーザベトも同罪である。
彼女は、ニーチェの著作から、文脈を無視した引用や、一部分だけの引用によって、反ユダヤ主義をほのめかしたのだから。
たとえば ・・・
「ニーチェはつねにはっきりと見ていた、ユダヤ人の振る舞いがドイツにおいてはいかに相容れないものかを」
ニーチェがこのような曖昧で不正確な主張をするはずがない。ところが、それが本当かもしれないと思えてくるから不思議だ。これは、核心部分を抽象化し、黙示的に物語る、手の込んだ引用なのである。
そもそも、ニーチェはユダヤ人を差別しなかった。ユダヤ教は批判したが、キリスト教と同じロジックで、一神教の教義を非難したのである。
ニーチェの宗教観は道徳に向けられていた ・・・
ユダヤ教もキリスト教も世俗の支配者に迫害されたが、力で反撃することはできない。そこで、「道徳」という概念を作り上げ、力に訴える者は「悪」、それを享受する者を「善」としたのである。つまり、現実世界の敗北を、概念世界で復讐したわけだ。ところが、ニーチェはこのような者を「ルサンチマン(ひねくれ者)」とよんで蔑んだ。
つまり、ニーチェはユダヤ教やキリスト教の「道徳」を非難したのであって、ユダヤ人を差別したわけではない。
早い話、ニーチェは妹の金儲けとナチスの教義に利用されていたのだ。ところが、不思議なことに、彼はそれを予言していた。彼の著書にこんな一文があるのだ。
「最悪の読者は、略奪団のような真似をする。彼らは利用できるあれこれのものを持ち去るのである」
ニーチェは自分の未来の予言者でもあったわけだ。
■崩壊するニーチェ・ブランド
ニーチェとナチスが一体化するにつれ、ドイツ国外でのニーチェの価値は下落する一方だった。
たとえば、ノーベル文学賞を受賞した哲学者バートランド・ラッセルは、
「ニーチェは、ただの誇大妄想狂で、丘の上のリヤ王、不能者で危険分子で、警察国家の予言者である」(※1)
当たらずとも遠からず。でも、ちょっと言い過ぎ。
さらに、ナチスが大嫌いで、ドイツを脱出した社会学者ジョージ・リヒトハイムによれば、
「もし、ニーチェがいなかったら、SS(ナチス親衛隊)は東ヨーロッパにおける大量殺人計画を遂行しようというインスピレーションを欠いていたといっても過言ではない」(※1)
こちらは、「過言」どころか「暴言」。
というのも、SSは「大量殺人」のインスピレーションをニーチェから得たわけではない。単に、ヒトラーに命令されたのである。事実、ヒトラーは、東ヨーロッパに生存圏を拡大することが、ドイツが生き残る唯一の道と信じていた。
その証拠もある。
1939年8月22日朝、外相のリッベントロプは、ソ連との不可侵条約をまとめるためモスクワに向かった。そのとき、ヒトラーはリッベントロプにこう言っている。
「ソ連との条約は締結されるだろう。ポーランド戦はまもなく起こる。ポーランドとの戦争目的は『ポーランドの絶滅』にある」
ポーランドの絶滅!?
そう、ヒトラーはポーランド人を支配しようとしていたのでない。ポーランド人を抹殺して、ドイツ人を入植させるつもりだったのである。
つまり ・・・
ヒトラーはニーチェに感銘を受けたわけではない。彼のブランドと著書を利用しただけなのである。そして、ニーチェの資料館「ジルバーブリック館」は、「ナチの予言者」としての宣伝効果は絶大だった。だから、ヒトラーはジルバーブリック館に足を運んだのである。
「ヒトラーのジルバーブリック館訪問」は、ヒトラーにとってはナチズムのため、エリーザベトにとってはニーチェブランドと自分の贅沢な生活を維持するため、つまり、ヒトラーとエリーザベトはお互いに利用していたのである。ニーチェを媒体にして。
哀れなのはニーチェ、きっと、草葉の陰で泣いていただろうが、嘆き悲しむ人物がもう一人いた。ニーチェの崇拝者ハリー・ケスラー伯爵である。彼は、ニーチェがこれ以上ひどい目にあうのを見ていられないと言い残し、パリに亡命した。
1934年、エリーザベトはヒトラーの秘書ハンス・ハインリヒ・ラマースから一通の手紙を受け取った。
「兄上の仕事の普及につとめておられるあなたの奉仕に対し、月額300ライヒスマルクの名誉終身恩給を給付いたします」
エリーザベトの計略は、まんまと成功したのである。ところが、それも長くは続かなかった。
■エリーザベトの死
1935年11月初め、エリーザベトはインフルエンザに感染した。それでも、元気に口述筆記を続けていたが、11月8日、突然ベッドに倒れ込んだ。そして、二度と立ち上がらなかった。享年89歳、鉄の心臓と小型原子炉がついに停止したのである。
11月11日、エリーザベトの追悼式が営まれた。午後1時、ナチスのSS(親衛隊)、SA(突撃隊)、ヒトラーユーゲントがジルバーブリック館への道筋に整列した。午後3時、ヒトラーが到着。ヒトラーは、自ら、月桂樹をエリーザベトの柩の上においた。さらに、ニーチェ家の墓のある小さな教会には鉤十字が飾られた。それは、ニーチェとナチスの蜜月時代の終着駅でもあった。
それから4年後、第二次世界大戦が始まった。ドイツ軍は、航空機と戦車を連携させる画期的な「電撃戦」により、イギリス大陸軍を本国に追い返し、ヨーロッパの大半を征服した。ところが、ソ連侵攻でつまづき、アメリカが参戦すると状況は一変した。西方から米英軍、東方からソ連軍に挟み撃ちにされ崩壊、1945年5月7日、ドイツは無条件降伏した。
1946年12月、ソ連軍はヴァイマルに侵攻した。ナチスに加担したジルバーブリック館は閉鎖され、職員は逮捕されるか、殺害された。ニーチェ財団は解体され、ニーチェの名声も地に落ちた。
それから45年経った、1991年 ・・・
東西ドイツが統一され、ジルバーブリック館は博物館として蘇った。
博物館?
そう、ジルバーブリック館は、超人の象徴から、超人たちの夢の跡に成り果てたのである。
参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」 ベン マッキンタイアー (著), Ben Macintyre (原著), 藤川 芳朗 (翻訳)
(※2)「ヒトラー全記録 20645日の軌跡」 阿部良男 (著) 出版社: 柏書房
(※3)ヒトラー権力掌握の20ヵ月 グイド クノップ (著), 高木 玲 (翻訳) 中央公論新社
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-288/
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2022/06/23 (Thu) 03:23:57
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超天才ヒトラーは覚醒剤中毒で破滅した
天才ヒトラーの精神が異常になった経緯
ヒトラーとドラッグ:第三帝国における薬物依存 – 2018/9/26
ノーマン・オーラー (著), 須藤 正美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511
内容紹介
「錠剤の形をしたナチズム」の実態に迫る
ヒトラーの主治医テオドール・モレルは、一本の注射で体調不良を解決する頼りがいのある医師だった。
ヒトラーはホルモン剤、鎮痛剤、覚醒剤、そしてモレルへの依存を深め、不調のたびに投薬や注射を求めるようになった。
第二次世界大戦が始まり、ヒトラーは誇大妄想にとりつかれ、現実遊離が目につくようになり、軍事作戦能力も徐々に失われていった。足を引きずり、腰も曲がって、くたびれた老人のように見えた。
一方、前線兵士は薬物によって「猛獣と化す」ことが目標とされ、無謀な作戦に投入され、総統大本営も制御を失い、もはや究極の破滅に突き進むしかなかった……。
ヒトラーとモレルの危険な関係は、大戦の命運を左右したのか?
本書は、ヒトラーと第三帝国が薬物に深く依存していたことを暴き、世界的ベストセラーとなった歴史ノンフィクションだ。歴史学者ハンス・モムゼンが本書の「あとがき」で、「これまでの全体像を変える本」と評したのをはじめ、イアン・カーショー、アントニー・ビーヴァーら専門家も賛辞を寄せている。著者は作家らしく、逸話を満載し、史料もきちんと渉猟し、早く続きを読みたくなるような、手に汗握る展開をみせる。
内容(「BOOK」データベースより)
「患者A」と主治医の危険な関係、大戦の命運は左右されたのか?「錠剤の形をしたナチズム」の恐るべき実態に迫る、傑作ノンフィクション!英『ガーディアン』年間最優秀図書(歴史部門)選出!
カスタマーレビュー
yasq di Fontana
兵士には覚醒剤を、総統には麻薬を! 驚きのドラッグワールド・第三帝国
2018年11月12日
覚醒剤メタアンフェタミン(1893年に日本人長井長義が合成し1919年にこれまた日本人緒方章が結晶化に成功)が太平洋戦争中の特攻隊で使われていたという話はよく聞くが、これをさらに徹底的に使ったのがナチス・ドイツだった。あの電撃的なポーランド・ベルギー・フランスへの快刀乱麻ともいうべき進攻のスピードは兵士に大量投与された覚醒剤によるものだったとは!
一方で、ヒトラーは戦況の悪化とともに主治医モレルに投与されるオキシコドンに依存。軍首脳部もほとんどがジャンキー状態。暗殺未遂後はコカインまでも加わる。
こうして、上層部はジャンキーの集団となり安全な地下壕みたいとところから無茶苦茶な指示を乱発し、兵士は戦場で覚醒剤漬けにされ独ソ戦の頃にはダメダメな状態に。
最後にベルリンに籠った頃にはヒトラー用のドラッグも底を尽き彼は激しい離脱症状の中で自殺。
あまりにも戦況の変化と薬物乱用がきれいにシンクロするのに驚く。最高指導者がドラッグ依存だとしたら、だれも彼へのドラッグ投与を拒めない。世界史的な出来事がドラッグで突き動かされ得るという恐怖。
当時の日本の軍中枢にこんなことがあったとは聞かないが、本土決戦前に証拠が消されたのかもしれない。まあ、しらふでヒトラーと同じようになっていたと考えるとそれもまた怖い話だが。
オキシコドンはアメリカでは近年も安易に鎮痛薬として処方されてかなり問題になっていますね。日本に持ち込もうとして逮捕された某自動車メーカーの外国人役員も。決して過去の話ではない。
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ヒトラーは「ヤク中」だった?
ナチス・ドイツの驚くべき薬物事情を暴く『ヒトラーとドラッグ』 2018/10/10
辻田真佐憲 作家・近現代史研究者
『ヒトラーとドラッグ 第三帝国における薬物依存』白水社
ノーマン・オーラー/著 須藤正美/翻訳
戦時下の日本では、苛酷な戦闘や労働をやり抜くため、「ヒロポン」などの覚醒剤が広く使用された。本書は、同じく(いやそれ以上に)ドラッグ漬けだった、かつての同盟国ナチス・ドイツの驚くべき「ヤク中」ぶりを明らかにする。
ドイツ版の覚醒剤は、「ヒロポン」と同じメタンフェタミンの「ペルビチン」だ。著者はこれを「錠剤の形をしたナチズム」と呼ぶ。****体制下の厳しい肉体・精神労働も、数日間ぶっ通しの電撃戦も、これなしには考えられなかった。
「いわゆる覚醒剤は爆弾のように的確に命中し、ウィルスのように瞬く間に広まり、食卓の切り分けられたパンや一杯のコーヒーのようにありふれたものとなった」。ナチスのスローガン「ドイツよ、目醒めよ!」は、覚醒剤によって達成されたのである。
もちろん、ナチス・ドイツも薬物天国だったわけではなく、コカインやヘロインは取り締まられていた。だが、1938年に誕生した「ペルビチン」は画期的な新薬として放置(それどころか推奨)された。この点は、戦時下の日本とよく似ている。
だが、最高指導者が「ヤク中」だった点は、ナチス・ドイツでしか見られない。そう、ほかならぬヒトラーもまたドラッグ漬けだったのだ。
自身の健康状態を詮索され、あれこれ指図されることを嫌うヒトラーは、体調不良を注射1本ですぐに治してくれる便利な医者を求めた。それに応えたのが、主治医のモレルだった。
モレルは、求められるがまま、あらゆる薬剤を合成してヒトラーに注入した。戦局が悪化すると、そこにはコカイン、コデイン、オイコダールなどの依存性が高い向精神薬も多く含まれるようになった。そして「ペルビチン」も。たしかに体調はすぐに回復する。だが、薬が切れると体調は以前より悪くなる。するとまた注射を求める――。悪循環だった。
著者はドイツやアメリカの公文書館を訪れ、モレルのメモを読み解いて、「患者A」に注入されたホルモン調合剤、ステロイドその他の有効成分、医薬品などをリストアップしている。その数の多さには驚かされる。
総統大本営では、それまで塞ぎ込んでいたヒトラーが、突然元気になって、自信に満ちて作戦指導する姿も見られたという。「ハイル・ヒトラー」ならぬ「ハイ・ヒトラー」。支離滅裂な作戦は、ドラッグで高揚した状態のなかで指示されていたかもしれないのだ。
表紙の呆然としたヒトラーの写真は1944年秋に撮られた有名なものだが、これほど本書にふさわしいものもあるまい。薬物にこじつけすぎとの指摘もあるものの、それをおいても、読み応えのある一冊である。
https://honsuki.jp/review/9035.html
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歴史学者ら「ヒトラーは重度の薬物中毒だった」 2015年09月11日
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/
アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。
中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。
麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。
La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。
アドルフ・ヒトラーは何種類もの麻薬を使用していた。中でもお気に入りはメタンフェタミンだった。麻薬を投与していたのは主治医テオ・モレル氏だ。La Stampa のドイツ特派員、トニ・マストロブオニ氏が発表した。InoPressaが伝えた。
第三帝国ではスポーツ選手、芸術家、軍人、さらには主婦も麻薬を使用していたという。
「メタンフェタミンは特に第二次世界大戦時のナチスドイツで流行していた」とマストロブオニ氏。
麻薬は元気を出し、長時間にわたり多幸感を持続させるための薬として使われていた。調合を行なったのはフリッツ・ハウシルト医師。この医師は1936年のベルリン五輪で活躍した米国人スポーツマンに対する「ベンゼドリン」の効力に注目した。しかし薬物には依存性があり、悲惨な結果がもたらされた。メタンフェタミンはすぐに第三帝国で人気となった。スポーツ選手、歌手、試験期間中の学生らが服用した。メタンフェタミン工場は主婦用に有効成分入りのお菓子まで開発した。
第二次世界大戦が始まると、兵士の間で薬物が急速に流行した。「Der totale Rausch(完全なる陶酔)」という著書をもつノルマン・オーラー氏は、麻薬は対仏電撃戦(1940年)だけでなくヒトラー自身の行動にも影響した、と主張している。「医師と麻薬がナチズムの内部構造の多くを説明してくれる」とオーラー氏。
オーラー氏によれば、1941年以降、ヒトラーは奇行が目立つようになった。演説にも麻薬の影響が明らかに出始めた。ヒトラーは1349日の間に800回以上メタンフェタミン、ステロイドその他薬物の注射をうち、1100錠以上の錠剤を飲んだ。
ヒトラーがメタンフェタミンを常用していたことは昨年英国の学者らによって発見されている。第二次世界大戦中に米国軍事諜報班によって集められた書類によれば、兵士もメタンフェタミンを使用していたし、ヒトラー自身も愛用していたという。
https://jp.sputniknews.com/life/20150911884675/
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南京大虐殺等の日中戦争での日本兵の残虐行為も覚醒剤が原因だった:
あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました
覚せい剤服用
日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。
特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。
出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。
九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。
日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。
この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php
ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく
1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。
ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。
戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。
この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。
「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。
戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。
だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。
終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった
ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。
漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。
無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。
織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。
何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。
芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。
そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。
ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。
この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。
荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。
萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。
私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。
無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。
ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった
ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。
凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。
この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。
英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。
(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html
別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。
アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。
言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。
副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。
ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。
覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える
戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。
そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。
そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。
しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。
今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。
覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。
覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。
自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。
現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。
そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。
いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html
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知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史~芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!
辻田 真佐憲
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659
芸能界の薬物汚染と太平洋戦争
近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。
漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。
いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。
いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分を困らせた。
いわく、樋口静雄は、幻覚症状に陥って、目が機械のように「チャっと」異様な動きをし、「天井の隅で今おれをねらっている刺客がいる」と妄想を語ったりした(第101回国会、社会労働委員会、第11号より)。
なぜ彼らは揃いも揃って、重度の覚醒剤中毒に陥ってしまったのだろうか。
その理由についても、下村は次のように証言している。
「昭和20年代(引用者註:1945〜1954年)にはヒロポン中毒というのがありまして、これは旧軍が持っていたものを市中にばらまいたと言っても過言ではないと思うんです」
つまり、日本軍の保管していた覚醒剤が、敗戦後市中に出回り、「ヒロポン中毒」を引き起こしたというのである。
このように日本の薬物汚染は、戦争の歴史と無縁ではない。それどころか、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの薬物は、日本の植民地統治とも深く関係していた。
薬物事件が注目される今日、こうした暗い歴史を紐解くのも決して無駄ではあるまい。以下では、世界有数の「麻薬大国」だった日本の知られざる一面を紹介したい。
なお、現在日本の法律では、「覚醒剤」「大麻」「麻薬及び向精神薬」「アヘン」が区別されているが、本稿では一括して「薬物」もしくは「麻薬」と呼ぶことにする。
台湾領有とアヘン専売制のはじまり
日本と薬物中毒との本格的な接点は、1895年の台湾領有にさかのぼる。
日本ではそれまで、政府の厳格な取り締まりによって、アヘンの蔓延と無縁だった。ところが、日清戦争の勝利により事情が急変した。清より割譲された台湾は、中国でもっとも早くアヘン吸煙がはじまった場所のひとつであり、同地にはアヘン吸煙者が大勢住んでいたからである。日本はここでアヘン問題に対応せざるをえなくなった。
この問題に対し、日本は「漸禁政策」で臨んだ。いきなりアヘン吸煙を禁止にするのではなく、徐々に減らしていく。そうすることで、混乱を防ぎ、植民地統治を円滑に行おうとしたのだ。そのため、台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、アヘンの売買・所有には「特許」が必要となった。
だが、不幸なことに、ここで日本はあることに気づいてしまう。海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで、濡れ手で粟のように利益が得られる。これは、植民地統治の財源になるのではないか――、と。この結果、アヘン専売は「金のなる木」とみなされ、「漸禁政策」は実態を失い、有名無実と化していった。
台湾におけるアヘン吸煙特許者の数は、最大時(1900年)で約16万6千人(台湾人口の6.1%)にも達した。同年度の台湾総督府のアヘン収入は約423万円である。小学校教員の初任給が10円ほどだった時代の話だ。
なお、念のため付け加えておけば、アヘン中毒者に対する矯正事業は、国際的な批判を受けて、1930年以降に推進された。台湾におけるアヘン吸煙は、常習者の死亡や原料の供給停止もあり、太平洋戦争下にようやく根絶された(劉明修『台湾統治と阿片問題』)。
アヘンの専売は、1905年に租借権を獲得した遼東半島先端の関東州でも行われたが、やはりここでも多くの富を日本にもたらした。
アヘン専売制に味をしめた日本は、その後アヘンの国産化にも着手。原料であるケシの生産地には、消費地の台湾ではなく、アヘンが厳禁されていた内地(主に和歌山県、大阪府)と朝鮮が選ばれた。生産地と消費地を分けることで、アヘンの管理・統制を効率的に行い、利益の最大化を図ったのである。
こうして日本は、次第にアヘンのもたらす利益に魅入られ、蝕まれていった。
「麻薬大国」への道とモルヒネ密売
鎮痛剤のモルヒネは、アヘンを原料に作られる。医療用にも使われるが、麻薬としての使い道もあった。
日本は長らく英国とドイツよりモルヒネを輸入していた。ところが、第一次世界大戦の勃発とともに供給がストップしたため、急遽国産化に踏み切ることになった。1915年には、星製薬(社長の星一は、小説家・星新一の父)がモルヒネの製造に成功。その後、他社でもモルヒネの製造が開始された。
このような国産モルヒネは、当初より麻薬として流通した。特に、朝鮮ではそれが顕著だった。
朝鮮では、モルヒネの量産化とともに第一次世界大戦が終結し、在庫がだぶついてしまった。そこで日本政府は製薬会社を保護するため、朝鮮でモルヒネの販売制限を緩和し、在庫の処分を図った。アヘンは禁止なのに、モルヒネは許可。これは明らかにダブルスタンダードだった。この結果、朝鮮では10万人規模のモルヒネ中毒者が出現した
(倉橋正直『阿片帝国・日本』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4763410342/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4763410342&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22
その後も、日本の麻薬の生産は拡大し続け、1935年の国際連盟の統計によれば、日本のモルヒネ生産額は世界第4位に達した。モルヒネより合成され、より依存性が高いヘロインの生産額にいたっては世界第1位。コカの葉より生産されるコカインの生産額も、やはり世界第1位となった(倉橋、前掲書)。日本は、ついに世界有数の「麻薬大国」になったのである。
当然ながら、これだけの量の麻薬は国内で消費しきれない。ではどうしたのか。今日、日本人(朝鮮人含む)の密売人たちが、国産モルヒネを中国(特に租界があった天津や上海など)で大量に売りさばいていたことが判明している。在留邦人は治外法権で守られていたので、中国側は逮捕や処罰ができない。密売人たちはこの仕組みを悪用し巨万の富を得たのである。
日本は、麻薬取り締まりに関する国際条約に調印・批准していたが、邦人の密売取り締まりには消極的だった。麻薬の密売は、国内で食い詰めた者の貴重な資金源でもあったからだ。こうした日本の態度は国際的にも批判されたが、取り締まりは遅々として進まなかった。
麻薬の利益でアジア太平洋戦争の戦費を賄う
1930年代に入り、日本が中国大陸に侵出するようになると、麻薬の生産・販売は一層組織的に行われるようになった。
日本が中国各地に作ったいわゆる「傀儡政権」では、財源確保のため、ことごとくアヘンの専売制が敷かれた。満洲国、蒙疆政権、冀東防共自治政府、汪兆銘政権(南京政府)などがそうである(広中一成『ニセチャイナ』)。
1932年に成立した満洲国では、主に熱河省でアヘンが生産され、ほかの地域に供給された。生産地と消費地を区別し、管理する手法は、ここで応用されたわけだ。
同じ手法は、中国本土にも適用された。中国本土では、主に蒙疆政権の綏遠省がアヘンの生産地に選ばれた。中国にはもともとアヘン吸煙者が大勢いたため、アヘンは売れに売れた。こうしてもたされた莫大な利益は、日本の戦費・占領統治費を賄ったのである。
たとえば、日本軍占領下の南京市では、占領1周年の1938年12月に、月間の市収入の23.1%をアヘン販売で賄っていた(小林元裕『近代中国の日本居留民と阿片』)。この結果、蔣介石政権のもとで減少しつつあったアヘン吸煙は、ふたたび増加に転じてしまった。
これほどまでアヘンを生産・販売・使用した戦争はほかに例を見ない。そのため、日中戦争の実態はアヘン戦争だったという指摘もある(江口圭一『日中アヘン戦争』)。その指摘に納得するほどに、日本の麻薬政策は大規模かつ巧妙だった。
なお、1941年12月に太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジアでもアヘンの専売に着手した。シンガポールでは、英国のアヘンを押収し、精製工場を復旧して、マレー、スマトラ、ボルネオなどに製品を供給。こうしたアヘンの収入は、1942年3月から9月分までで570万7500ドルに達し(当時1ドル=1円)、第25軍(シンガポール攻略担当)軍政部の経常部歳入の約50%、臨時部歳入を加えた全歳入の約25%を占めた(江口、前掲書)。
戦時中の日本は、「日満支(中)の提携」「東亜新秩序」「アジアの解放」「大東亜共栄圏」などのスローガンを高らかに掲げていた。だが、その実態はかくのごとしであった。日本の理想は、薬物で醜く黒ずんでいたのである。
戦争のために配布された覚醒剤
一方、1940年代に入ると、日本本土でも薬物の害が蔓延しはじめた。日本で主に使われたのは覚醒剤である。
覚醒剤の成分は、メタンフェタミンもしくはアンフェタミンである。このうち、メタンフェタミンは、日本の薬学者・長井長義によって19世紀末にエフェドリンより抽出された。
ただし、その中枢神経興奮作用は1930年代に入ってドイツで発見され、「ペルビチン」の名前で商品化された。ちょうどナチス・ドイツの時代だ。
なお、アンフェタミンも同じころに製品化され、英米では「ベンゼドリン」、ドイツでは「エラストン」などの名前で商品化された。これらの商品は、眠気を覚まし、疲れを吹き飛ばす特効薬として、大いにもてはやされた。その危険性はいまだ認識されていなかったのである。
ちなみに、ヒトラーは、1930年代後半より主治医となったモレルよりアンフェタミンを投与され、健康を害したといわれている。
このような欧米の動きを受けて、日本でも1940年代にメタンフェタミンやアンフェタミンが次々に商品化された。メタンフェタミンでは、大日本製薬の「ヒロポン」、参天堂製薬の「ホスピタン」、小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」。アンフェタミンでは、武田薬品工業の「ゼドリン」、富山化学工業の「アゴチン」などがあげられる。1940年代に覚醒剤を製造した会社は23社にのぼったという
(佐藤哲彦ほか『麻薬とは何か』)。
https://www.amazon.co.jp/gp/product/410603638X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=410603638X&linkCode=as2&tag=gendai_biz-22
この時期に覚醒剤が量産されたのも、戦争と無縁ではなかった。日本はこのころ日中戦争の泥沼にはまり、太平洋戦争の開戦も控えていた。労働力や戦力の拡大のため、覚醒剤は「魔法の薬」と考えられたのである。「ヒロポン」開発に関わった医学者の三浦謹之助は、当時、覚醒剤の開発について「最も目下の時局に適合するもの」とあからさまに述べている。
副作用の認識がなかったこともあり、覚醒剤は軍需品として大量生産された。特に、激務の航空部隊に配布されたようで、冒頭に名前をあげた参院議員の下村泰(陸軍の飛行戦隊に所属)も、戦時下に使用したと証言している。なお、覚醒剤はアンプルのほか錠剤でも配布されたという。
このような覚醒剤は、1945年8月の敗戦により不要となり、市中に流出してしまった。その結果、冒頭で引いたようにひとびとが「ヒロポン中毒」になったのである。昼夜を問わず多忙な芸能人の間には、特に蔓延したといわれる。
覚醒剤の有害性は戦後になって広く認識されるに至り、1951年ようやく法律で規制された。
国家が麻薬に取り付かれる恐ろしさ
このように、日本における麻薬の生産・販売・消費は、植民地統治や総力戦と密接に結びついていた。現在でも、日本では他の国より覚醒剤の使用が多いというが、そんなところにもかつての麻薬政策の影響が残っている。
覚醒剤といえば、北朝鮮が外貨獲得のために製造し、密売しているとも指摘される。事実ならば批判されるべきだが、それはまさにかつて日本がやっていたことでもある。歴史を知らず、「日本こそやっていたではないか」と反論され、口ごもるようではあまりに情けない。歴史を学ばなければならない所以である。
個人が麻薬の魅力に取り付かれるのはおそろしいことだ。だが、国家が麻薬の魅力に取り付けられることはもっと恐ろしい。「麻薬大国」日本はまさにそうだった。
その歴史は、反面教師として、今後も参照され続けなければならないだろう。有名人の薬物事件も、そうした歴史を知るきっかけになれば怪我の功名かもしれない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659
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2022/06/23 (Thu) 03:24:26
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「ヒトラーは薬物中毒だった」
ドイツ人作家が描く新たなナチス像
2019/6/5 17:47 (JST)
https://this.kiji.is/507449169787913313?c=39546741839462401
ナチス・ドイツの****者ヒトラーは薬物に依存していた。ビタミン注射に始まり、鎮痛薬や覚醒剤。会議前に1本、気分が優れず1本…。第2次大戦で旧ソ連との戦闘が激しくなると、ほぼ毎日注射した。依存度が高まるにつれ手の震えもみられる。やがて統率力を失い、ナチスは内部崩壊した―。そんなドイツ史の知られざる一面を描いた歴史書が2015年、ドイツで刊行され、話題を呼んだ。30カ国以上に翻訳され、映画化も企画されている。日本では
『ヒトラーとドラッグ―第三帝国における薬物依存』(須藤正美訳、白水社)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0-%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%96%AC%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4560096511
として出版された。著者はベルリン在住の小説家ノーマン・オーラー氏で、薬物を処方したヒトラーの主治医テオドール・モレルのカルテなど史料数千点をドイツや米国の公文書館で調べ、史実を掘り起こした。3月下旬、来日したオーラー氏にナチス・ドイツの薬物依存の実態や著書に込めた思いを聞いた。
(共同通信=外信部・平野雄吾)
―ヒトラーと薬物の関係を調べ始めたきっかけは?
直接のきっかけはディスクジョッキー(DJ)をしている友人の勧めです。彼の友人がベルリンで1940年代に建てられたアパートから覚醒剤の錠剤を偶然見つけたらしく、DJの彼が実際に飲んでみたらとてもハイになったと教えてくれました。この話を聞いて調べたくなりました。友人が飲んだのはペルビチンという商標名の覚醒剤で、1錠に約3ミリグラムのメタンフェタミンが含まれています。1錠飲むとコーヒー100杯分の効果があり、2~3日間眠らなくても問題なく、エネルギーも湧き出て多幸感が得られるとされています。
実は、ドイツは覚醒剤の大量生産を始めた世界で最初の国家です。メタンフェタミンを初めて合成したのは日本の薬学者、長井長義ですが、ドイツ人科学者がペルビチンの生産手法を確立しました。その結果、気分を高揚させるとしてペルビチンは社会に広く出回り、主婦は服用して家をもっときれいにしたし、労働者はさらに働くようになりました。生産性が高まるので、ナチス政権にとっては非常に好都合でした。余談ですが、食欲が減退するのでダイエット効果があるとしてチョコレートにさえメタンフェタミンが混ぜられ、女性たちに飲まれました。友人のDJが飲んだのはこの時代に製造された錠剤です。
―薬物の危険性を誰も指摘しなかったのか。
当時の保健大臣レーオ・コンティは一時のメリットの後に悪影響があり、国民がまひしていくと指摘しています。彼は1939年11月、ペルビチンを購入時に処方箋が必要な薬剤に指定しましたが、実際には多くの薬局で処方箋がなくても購入できました。
疲労と眠気を克服できるペルビチンは当然、ドイツ軍で重宝されました。軍は兵士にペルビチンを服用させ戦闘に向かわせます。特に1940年のフランス侵攻(いわゆる電撃戦)では効果が絶大でした。戦車を運転する兵士は昼夜を問わず進軍できたのです。フランス兵は眠るが、ドイツ兵は眠らない。薬物による戦略的アドバンテージがドイツ軍にはありました。その結果、フランス軍は敗北。フランス人はドイツ人を超人だと思ったようですが、単なる薬物効果でした。
ヒトラーの薬物依存を暴いた「ヒトラーとドラッグ―第三帝国における薬物依存」(左) 著者のドイツ人作家ノーマン・オーラー氏(右)
―調査の経緯は?
テオドール・モレルというヒトラーの主治医の名前は多くのドイツ人に知られています。ただ『変わり者の医者』として扱われ、何をしたのかについてはほとんど分かっていませんでした。ドイツ連邦公文書館のサイトでモレルに関する史料が西部コブレンツの公文書館にあると分かり、訪ねてみるとモレル手書きのカルテなどが大量にありました。これらを見つけられたのは大変幸運でした。史料の閲覧記録を見ると、私の前は約20年前に1人見ただけで、この50年間にも2~3人しかいません。主治医というヒトラーをよく知る立場だったにもかかわらずモレルの記録が軽視されていた証しで、歴史家たちの怠慢だと思っています。
モレルはベルリンの開業医でしたが、ビタミン剤を患者に注射する診療所として人気でした。ヒトラーの友人で写真家のハインリヒ・ホフマンがここの患者だった関係でモレルはヒトラーに出会い、1936年以降、主治医になります。ほぼ連日のようにヒトラーの診療に当たり、「患者A」という名前の記録を付け続けました。注射した薬物の名前やヒトラーの容態などを書いています。なぜなら、ヒトラーに何かあった場合にゲシュタポ(秘密国家警察)から追及されるのを恐れ、証拠を残しておく必要があったのです。
連合国軍のドイツへの空爆が激しくなると、生産工場が破壊され薬物が入手できなくなります。注射を打てなくなったモレルは1945年4月に解雇され、ドイツ南部バイエルン州の小さな村に疎開しますが、書き続けた記録は常に持っていたのです。ドイツ降伏後、米軍に発見され2年間にわたり尋問を受けました。記録は米軍が押収、その後、一部がドイツ政府に引き渡され、最終的に公文書館に移されます。私は米首都ワシントンの公文書館にも行き、合計数千点の史料を渉猟しました。
―ヒトラーの薬物効果は?
ヒトラーは、より健康になるためにビタミン剤を注射するようになりました。ヒトラーは菜食主義者で酒も飲まず、健康のイメージを作り上げていましたが、薬物に依存していきます。独ソ戦が始まっていた1941年8月、重いインフルエンザにかかり戦況会議を欠席しました。ビタミン剤よりも強い薬が必要となり、ホルモン剤や新陳代謝の促進剤、ペルビチン、ついにはオイコダールと呼ばれるアヘン系鎮痛薬を日常的に使用するようになります。1943年7月の独伊首脳会談で、気分が優れなかったヒトラーはオイコダール注射で乗り切ります。イタリアの****者ムッソリーニは戦況悪化から同盟関係の見直しを模索していましたが、ヒトラーは薬物効果で多弁になり3時間ぶっ通しで話したのです。ムッソリーニを圧倒し、戦線離脱の話をさせませんでした。言わばドーピングのヒトラーとしらふのムッソリーニです。モレルは「閣下は私に、今日の成功は君のおかげだとおっしゃった」と記録しています。
―この著書で訴えたいことは?
ヒトラーは薬物に依存し、ドイツ軍にもドイツ国民にも薬物がまん延していた。いずれも重要な話です。ナチス・ドイツは薬物で妄想的になり、現実を理解できない非理性的な社会に陥ったと言えます。ナチス・ドイツは人種イデオロギーを掲げましたが、そのイデオロギーを浸透させる手段として薬物も利用したのです。そして自ら内部崩壊しました。
この本の直接の執筆動機は友人らが見つけたペルビチンの話ですが、もともと私はナチス・ドイツについて本を書きたいと思っていました。私が10代だった1980年代、祖父がナチスやヒトラーを賛美していました。「ナチス時代は社会に秩序や規律があった」と言うのです。戦争中、鉄道技師だったという祖父はドイツ東部出身で、ソ連軍の侵攻からドイツ西部へ逃げた経験もあって、****主義者だったのですが、戦後40年以上たってもヒトラーを支持していました。私は祖父の姿勢に疑問を持ち、ナチス・ドイツにはずっと関心を抱いていました。
ヒトラーは酒を飲まず菜食主義者の健康的なイメージを作り上げる一方で、薬物に依存。社会には秩序や規律があるように思い込ませる一方で、覚醒剤がまん延する。ナチス・ドイツはうそで塗り固められていたのです。こうしたナチス神話のようなものを脱構築するというのが今回の私の挑戦でした。多くの歴史家は薬物については詳しくなく、これまで調べなかったのでしょう。もしナチス時代に薬物がなかったら?そうしたら1940年の段階でドイツ軍は英仏軍との戦いに負けていたでしょう。これはあくまで推測に過ぎませんが、そういう小説を書くのも面白いかもしれません。
インタビューに答えるノーマン・オーラー氏
○ノーマン・オーラー氏 1970年2月4日、ドイツ西部ツバイブリュッケン生まれ。北部ハンブルクのジャーナリズム学校やベルリン大で学ぶ。米ニューヨークなどでジャーナリストとして活動した後、ミステリー小説「クォータマシーン」(未邦訳)で1995年、小説家としてデビューした。
https://this.kiji.is/507449169787913313?c=39546741839462401
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2022/06/23 (Thu) 03:24:54
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ヒトラーの様な覚醒剤中毒者が経験する被害妄想と恐怖体験はこの動画に上手く描写されています:
映画史上で最も怖い映画 コワイ女ーカタカタ
コワイ女 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B3%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%A5%B3
コワイ女 - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/so18761987
「カタカタ」・・・結婚を控えた加奈子(中越)は、婚約者と会った帰り道で”カタカタ…”という奇妙な音を聞く。その直後、マンションから何かが落下し彼女を直撃。さらに帰宅した彼女を待ち受けていたのは、赤いワンピースを着た異形の女だった…。
「鋼 –はがね-」・・・自動車整備工場で働く関口(柄本)は、工場の社長(香川)の妹とデートすることになる。写真で見る限り、彼女は笑顔がまぶしい美女だったが、約束の日に関口が社長の家を訪ねると、ズタ袋をかぶった人間が一心不乱にミシンを踏んでいた…。
「うけつぐもの」・・・母の冴子(目黒)と共に、祖母の住む田舎の民家に越してきた道男(須賀健太)。彼は 鴨居に並んだ遺影の中に、まだ幼い少年の写真を見つける・それは7歳で行方不明になった冴子の兄・正彦のものだった。その頃から冴子の様子が徐々におかしくなっていく…。
(C) 2006「コワイ女」製作委員会
▲△▽▼
コワイ女ーカタカタは統合失調症患者や覚醒剤中毒者が体験する世界を描いたものです:
統合失調症患者が体験する世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/419.html
覚醒剤中毒者が体験する世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/423.html
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24:保守や右翼には馬鹿しかいない
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2023/01/03 (Tue) 14:17:29
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『ストーリーが世界を滅ぼす』書評 - 内田樹の研究室
2023-01-03 mardi
http://blog.tatsuru.com/2023/01/03_1002.html
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%BB%85%E3%81%BC%E3%81%99%E2%80%95%E2%80%95%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E8%84%B3%E3%82%92%E6%93%8D%E4%BD%9C%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB/dp/4492444696
『ストーリーが世界を滅ぼす』(ジョナサン・ゴットシャル、月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022年)の書評を頼まれて、東洋経済オンラインに寄稿した。
「ポスト真実の時代の指南書」
「ポスト真実の時代」という言葉が私たちの時代を形容する語としてふさわしいものであると実感されたのはいつか。これについてはかなり厳密に時日を挙げることができる。それは2017年1月22日である。その日に放送された「ミート・ザ・プレス」のインタビューにおいて、アメリカ合衆国大統領顧問ケリーアン・コンウェイは、ホワイトハウス報道官ショーン・スパイサーが、第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプ大統領就任式には「過去最大の人々が就任式をこの目で見るために集まった」と虚偽の言明をしたことについて問われ、その言明は「もう一つの事実(alternative facts)」を伝えるものだとして報道官の発言を擁護したのである。
この世界には単一の、客観的な現実などというものはもう存在しない。存在するのはさまざまな視座から眺められ、さまざまなフレームで切り取られ、さまざまなコンテクスト上に配列された、似ても似つかぬ事実たちである。
alternative factsを日本のメディアは「もう一つの事実」と訳したけれど、よく見るとわかるとおりコンウェイはこのとき複数形を使っている。「もう一つ」どころじゃないということである。
このようなシニカルな態度は「ポストモダニズムの頽落した形態」だと診断する人たちがいる。傾聴に値する知見だと思う。
ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑に止まることに疲れて、やがて「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。
彼らはこういうふうに推論した。
「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている(これは正しい)。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない(これは言い過ぎ)。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である(これは誤り)。」
こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。
ロシアのウクライナ侵攻は「ウクライナの指導部はナチだ」という「ロシアのナラティブ」の帰結であるが、政策の淵源が妄想的なナラティブであることは戦争で現実に人々の身体が破壊され、都市が焼かれることを妨げない。いや、むしろ妄想的なナラティブほど強い現実変成力を持つ。
ジョナサン・ゴットシャルの『ストーリーが世界を滅ぼす』はこのようにして「物語は世界を滅ぼしつつある」現実についての豊富な実例の提示と、そこからの離脱の企て(これは希望的観測にとどまる)を記したものである。その問題意識は次の言葉に尽くされるだろう。
「政治の分極化、環境破壊、野放しのデマゴーグ、戦争、憎しみ―文明の巨悪をもたらす諸要因の裏には必ず、親玉である同じ要因が見つかる。それが心を狂わせる物語だ。本書は人間行動のすべてを説明する理論ではないが、少なくとも最悪の部分を説明する理論である。
今、私たちがみずからに問うことのできる最も差し迫った問いは、さんざん言い古された『どうすれば物語によって世界を変えられるか』ではない。『どうすれば物語から世界を救えるか』だ。」(29-30頁、強調は著者)
物語が私たちを魅了するのは、それに確かな実効性があるからだ。ゴットシャルによれば、私たちが今も愛用しているナラティヴの原型は新石器時代からそれほど変わっていない。最新の人類学的知見は狩猟採集民がとてもフレンドリーで相互扶助的なコミューンを形成していたということを教えている。
「狩猟採集民の生活の大原則は非常に単純だ。仲間を結束させることは何でもせよ。仲間割れの元になるようなことはするな。分断の種を蒔くな(食物、セックスパートナー、注目など)自分の分け前以上を独り占めするな。腕力に恵まれていてもそれを誇示するな。狩りの才能や魅力的な容姿があっても他人にひけらかすな。つまりは良い人であれ。」(161頁)
そのような原始の共同体を安定的に維持するためにストーリーの太古的な原形が創り出された。宗教や道徳や経済活動や親族形成についての規範をメンバーたちが深く内面化するための最も効率的な道具が物語だったからだ。「私たちは物語を通して最も多く、最もよく学ぶ」(45頁)。物語を通じて集団の若き成員たちは、集団の宇宙観と価値観と美意識と行動規範を身につける。
けれども、物語が狩猟採集民由来の太古的な起源を持つという事実そのものが物語の限界にもなる。
物語は発生的には結束力のある、同質性の高い小集団を形成するための装置だった。ということは、それは同時に「他者」「外部」との間に決定的な境界線を引くための装置でもあったということである。
排他的な暴力の起源が自分の属する集団への過剰な帰属感、共感の過剰であることを私たちは知っている。テロリストが敵に鉄槌を下さなければならないと感じるのは、敵によって苦しめられている同胞に対して深い共感を覚えるからである。身内に対する共感が敵を罰するインセンティブになる。
「強い憎しみの裏には強い愛がある。その憎しみと愛はすべて物語によって―実際の歴史、古代の宗教神話、悪の陰謀物語への耽溺によって吹き込まれた。」(177頁)
たしかに「ストーリーテリングのビッグバンは共感のビッグバンをもたらした」のだけれども、それと同時に「物語は共感の数だけ非情を生む」ものでもあった。(177頁)。「共感」には「ダークサイド」がある。
この「ダークサイド」のもたらす害をどうやって抑制し、最少化するか。それがゴットシャルの物語論の実践的な主題である。「どうやって物語から世界を救うか」がポスト真実の時代の喫緊の学的課題であるというゴットシャルの意見に私は深く同意する。
「物語から世界を救う」手段をゴットシャルは二つ挙げている。
一つは他者への共感を育てることのできるタイプの物語。もう一つは科学である。
物語はもともとは小さい集団を結束させるための装置であり、集団の外部や他者との間にコミュニケーションの回路を立ち上げるための装置ではなかった。けれども、すぐれた物語は読者や聴き手を「他者の心の中」に送り込むという想定外の機能を発揮することができた。
「物語は共感装置だ。これが機能するとき、私たちは別の世界、別人の心の中に飛ばされる。物語をお互いを他者として見るのを、究極の形で止めさせてくれる。つまり『彼ら』が『私たち』になる。物語の力が最大限に発揮されるとき、私たちは相手との違いは幻想であり、偏見には根拠がないことを教えられる。」(173頁)
ゴットシャルが引用している歴史学者リン・ハントによれば、18世紀になってから奴隷制、家父長制、拷問などが「突如として非難されるようになった」ことの大きな原動力は「新しいストーリーテリングの形態、すなわち小説の登場」だったそうである。
「ハントによれば、小説は自分の家族や血族や国やジェンダーの外にいる人々に共感することを教え、それによって人類史において最も重要な道徳革命のきっかけを作った。」(174頁)
これはストーリーテリングについての気の滅入る話ばかり読まされてきた読者にとっては例外的な朗報である。ハントによれば、共感能力は筋肉のようなもので、フィクションを消費すれば消費するほど共感の「筋力」は強化されるのだそうである。にわかには同意しがたい意見だけれども、文学的素養のない人たちが他者の内面についての想像力の行使を惜しむ傾向があるのはたしかな事実である。
ゴットシャルが期待するもう一つの知的な装置は科学である。
「科学は本質的に、現実に関するナラティブのどれが真実でどれが偽物かを見つけ出すために人間が考え出した、最も信頼のおける手法である。(...)科学は、私たちのエゴや物語が私たちに見せたいものではなく、私たちの目の前に実際にあるものを強制的に見せる一つのツールである。」(238頁)
この科学への信頼という点で(プラトンへの手厳しい批判と併せて)ゴットシャルがカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』の熱心な読者だったことが推察される。
「ロビンソン・クルーソーは科学的であり得るか?」というわかりやすい例を挙げて、ポパーは「科学性とは何か」について独特の定義を下した。
無人島に漂着したロビンソン・クルーソーが孤島に研究室を建て、そこで精密な観察と分析を行って学術論文を書いたとする。孤独な研究者が発表したその論文の中味は現在の自然科学の到達点とみごとに一致するものであった。さて、クルーソーは「科学者」だと言えるだろうか?
ポパーは「言えない」と答える。ロビンソンの科学には科学的方法が欠如しているからである。「彼の成果を吟味する者が彼以外におらず、彼個人の心性史の不可避的な帰結であるもろもろの偏見を訂正しうる者が彼以外にはいない」からである。
「人が判明でかつ筋道の通ったコミュニケーションの修練を積むことができるのは、ただ自分の仕事をそれをしたことのない人間に向かって説明する企てにおいてだけであり、このコミュニケーションの修練もまた科学的方法の構成要素なのである。」(『開かれた世界とその敵』、強調は内田)
ロビンソンの知見が「科学的でない」と判定されたのはロビンソンの科学的知見が間違っていたということではない(実際に正しかった)。そうではなくて、ある言明が科学的であるか否かは、その言明が「真か偽か」のレベルにではなく、「公共的か否か」のレベルにおいて決されるということなのである。
「私の言うことは真理である。誰が反対しようが私の言明の真理性は揺るがない」と揚言する人の語る言葉は(たとえ真であっても)科学的ではない。「私の仮説は間違っているかも知れない。それについての事後的検証を待ちたい」と語る人の言明は(たとえ間違っていても)科学的である。そういうことである。
「われわれが『科学的客観性』と呼んでいるものは、科学者の個人的な不党派性の産物ではない。そうではなくて科学的方法の社会的あるいは公共的性格の産物なのである。そして、科学者の個人的な不党派性は(仮にそのようなものが存在するとしてだが)この社会的あるいは制度的に構築された科学的客観性の成果なのであって、その起源ではない。」(同書、強調は内田)
科学が科学的であり得るのはそれが「社会的あるいは公共的性格」を持つときだけである。科学者は個人的な努力によって科学的であることはできない。自分が語る科学的言明の真偽、当否についての検証と判断を社会的・公共的な場に委ねることによってはじめて科学的であり得る。
科学のそういういささか込み入った性格にゴットシャルは「物語からの離脱」の手がかりを見る。
ただ、ゴットシャルはどうやって科学に対する信頼を私たちの中にもう一度根づかせるかについて、特に効果的なアイディアを持っているわけではなさそうである。それは仕方がないと思う。世界を覆い尽くしているこのコミュニケーション・ブレークダウンを解決する方法まで彼に望むのは「ねだり過ぎ」というものだろう。
それでも、ゴットシャルは、著作の最後の方で、私たちが自分の信念が真実であるかどうかを自己決定することができない以上、自分と異なる信念を持つ他者に対して、せめて「敬意」と「畏怖」を持つことを私たちに勧めている。
「『彼ら』の―あなたにとっての『彼ら』が誰であれ―世界観の物語があなたの物語とは噛み合わずに気に障ったとしたら、彼らはかわいそうな人なのかも知れない、場合によっては恐るべき相手なのかもしれないが、軽蔑の対象ではないと理解しよう。あなたがそうすれば、『彼ら』があなたに対して同じ敬意を払ってくれる可能性は高い。」(219頁、強調は内田)
他者との相互理解はたぶん不可能である。だったらせめて「敬意」くらいは持ってもよいのではないかとゴットシャルは書いている。その通りだと思う。
「敬」という漢字の原義は白川静先生によると「羊頭の人の前に祝祷の器を置く形。羌人(きょうじん)を犠牲として祈る意」というなかなか血なまぐさいものである。そこから「つつしむ、神事につかえる、うやまう」などの意が生じた。「敬」を用いた最も印象的なフレーズは「鬼神を敬して之を遠ざく。之を知と謂うべし」である。
ゴットシャルがポスト真実の時代に立ち向かうときの実践的結論としてたどりついたのがもし「他者は敬してこれを遠ざく」という知見であったとしたら、それは孔子が「知」と呼んだものと図らずも符合する。私はそのことに深い感興を覚えた。
(2022年8月14日)
http://blog.tatsuru.com/2023/01/03_1002.html