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旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった

1:777 :

2022/06/20 (Mon) 18:47:15


旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった


2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。
 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦賴親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦賴親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦賴親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦賴親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから****な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、****な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

▲△▽▼

匿名 より: 2019年5月3日 9:43 AM

愛子さまが旧宮家の男系男子の方とご縁をもたれたれればいいですねー。

女性天皇は賛成です。が、女系・女性宮家は大反対です。
特に女性宮家はいらない。
税金の無駄。
皇室の減少により、公務が大変なら公務をへらせばいいだけのこと。
また、旧宮家に悠仁さまと同年代の方が数人おられるというではないですか。
いざとなったら、こちらの方々に協力していただく手もあるのでは。

匿名 より: 2019年5月3日 10:34 AM

旧宮家って伏見宮系でしょ

あそこは途中から鍛冶屋の一族に背乗りされて、家系が変わっちゃってるよ
父方辿っても天皇に行かず、それこそ皇位を継いだら鍛冶屋の家系が皇統になっちゃう

鍛冶屋ってのは鉄器扱う家系だから、もともとは渡来系移民だった可能性もある
蘇我氏とか秦氏とか、そこら辺の今は知られざる末裔

婿取るなら、東山天皇系の鷹司家と分家の末裔あたりが確実だよ
あの辺ならまだ、男系男子の子孫がいるはず
https://rondan.net/21591


▲△▽▼

匿名 より: 2019年5月3日 6:55 PM
いわゆる旧宮家は660年前に創設された伏見宮が源流ですが、その伏見宮は途中で鍛冶屋の子孫に替わってる可能性があります

つまり、父系を辿っても天皇に繋がらない、鍛冶屋の家系になっちゃってるかもしれません

(伏見宮の皇族方が全て亡くなられた後に、伏見宮の血を引くと自称する鍛冶屋の息子がお宮を相続していますし、少なくともその父とされる当主は、その子供とされるこの男の存在を知らずに亡くなられています)

尚、明治の初頭に創設され、戦後に離脱した旧宮家は、”全て”この途中で替わったかもしれない伏見宮から派生しています

現在では遺伝子検査技術が発達しておりますので、本来ならすぐに確認できることですが、今は皇族ではなく一般人ですので、それを強要することもできない現実があります

旧皇族と世間では言われてますが、もしかすると父系で天皇に繋がっていないのでは?と、少しだけ頭に置いてみてみることもひとつです

ただ、女系では、明治天皇に繋がっていたり、東久邇の家系では昭和天皇に繋がっていたりします

そういった意味で、旧皇族と言われてるけど”女系”で明治天皇につながる人なんだ、くらいでいいと思います

尚、東山天皇系の鷹司家やその分家の家系は、現在の皇統に近く、先の伏見宮系とは全く関係はありません

そういった意味で、確実に、父系を辿ると天皇に繋がる血筋と言えます
なので、もしものときはこの家系からお願いすることになるかもしれないことは、言うまでもありません
https://rondan.net/21639  
2:777 :

2022/06/20 (Mon) 18:47:50


皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは? 有識者会議で示された「皇位継承順位系図」の中身とは
2022/02/04 05:57デイリー新潮
https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-822357.html


皇籍復帰の最筆頭「賀陽家」とは? 有識者会議で示された「皇位継承順位系図」の中身とは

次代をお支えするには……

(デイリー新潮)

 皇室のあり方を検討する「有識者会議」がまとめた報告書では、先々の皇族数確保の策として、戦後に皇籍離脱した旧皇族の男子を養子に迎える案が示された。本格的な議論はこれから始まるわけだが、現在、にわかに注目を集めている「名門」がある。その家とは……。

 ***

 明治時代に創設され、戦後に「臣籍降下」しながらも、現在の当主は天皇陛下のご学友で、かつては紀宮さまの“お相手”にも擬せられていた――。そんな唯一無二の名門「賀陽(かや)家」が目下、関係者の間でがぜんクローズアップされている。

 有識者会議は昨年末、最終報告を政府に提出したばかりである。

「報告は“女性皇族が結婚後も皇室にとどまる”“旧皇族の男系男子を養子に迎える”の2案を軸にまとめられました。女性・女系天皇の是非など、本来の議題である皇位継承策については先送りし、ひとまず皇族数の確保を優先した格好です」(皇室ジャーナリスト)

 ここで言う「旧皇族」とは、1947年10月、GHQの意向を受けて皇籍離脱した11宮家51人を指す。以来75年、一般人として生活してきたその末裔には、2700年にわたって受け継がれてきた皇統の「Y染色体」を有する未婚の男性が少なからずいる。彼らを養子として迎え入れ、次代以降の皇族数を増やすとともに、皇位の安定的継承にも備えようというのが、案の趣旨である。

「先日のNHK世論調査では『旧皇族の男系男子を養子に迎える』案について賛成41%、反対37%と二分されました。旧皇族といっても、離脱された方々は現在の皇室とは男系で約600年の隔たりがある。子孫らは普通の暮らしを営み、文字通り世俗にまみれてきました。世間の実感としては“いきなり皇族を名乗られてもピンとこない”との思いもあるでしょう」(同)

GHQの意向で失われた仕組み
 それでも、皇室制度に詳しい国士舘大学の百地章特任教授は、

「室町時代以降、皇統は4家の『世襲親王家』によって支えられてきました。天皇家に男系の血筋が途絶えた時はその家から天皇を出すという“血のリレー”を続けてきたのです。4家のうち伏見宮の家系だけが続き、それが離脱した11宮家の方々へと連なりました。GHQの意向で失われたこの仕組みが今回、再び日の目を見たのは画期的なことだと思います」

 肝心の皇位継承権者は秋篠宮さまと悠仁さま、常陸宮さまのお三方しかおらず、

「将来、悠仁さまのご家庭に男子がお生まれになれば望ましいですが、万が一の際は、お支えする宮家がなくなってしまうおそれもある。すみやかに旧宮家の男系男子を皇室にお迎えし、その体制を整えていくことが重要だと思います」(同)

独身の若い男系男子がいる4家
 もっとも現行の皇室典範では、皇室が養子を迎えることは禁じられている。

「明治に入って永世皇族制度が採用され、皇族が増えていく中、国の財政的見地から皇族数の増加を抑える必要が生じ、養子が禁止されてしまったという経緯があります。反対に現在は皇族数の減少が懸念されているのですから、例えば皇室典範と一体をなす『養子特例法』を作って迎え入れ、独立する際に新しい宮家を創設してもよいのではないでしょうか」(同)

 実際に、離脱した旧宮家の中には「その時」に備えるかのように男系の血脈を受け継いでいる家庭も少なくない。冒頭の賀陽家は、まさにその筆頭なのである。先のジャーナリストが言う。

「11宮家のうち、現時点で独身の若い男系男子がいるのは賀陽家、久邇家、東久邇家、竹田家の4家。あわせて10人は下らないといいます」

 なかでも6人の男系男子を擁する東久邇家は、2019年に亡くなった当主・信彦氏(掲載図の25番目)のご母堂が上皇さまの姉にあたるなど令和の皇室とも極めて近しく、皇籍復帰の“最有力候補”とも目されてきたのだが、

「実はこの4家のうち、現在の皇室に最も近い男系男子を擁するのは、賀陽家なのです」(同)

 というのだ。

皇位継承順位系図
 現に、昨年末まで開かれていた有識者会議において、事務局である内閣官房の皇室典範改正準備室が作成した資料には、離脱した11宮家もあわせた47年当時の「皇位継承順位系図」が示されている(掲載の図)。図では、賀陽宮家の当主だった賀陽恆憲氏(78年に77歳で死去)から連なる男子に、4家の中で最上位の順位がつけられているのだ。

 今回の有識者会議でもヒアリングを受けた、皇室に詳しい麗澤大学の八木秀次教授は、

「特に意義があるのは、この図が現行の憲法および皇室典範のもとで定められた順位だという点です」

 そう指摘する。日本国憲法は1946年11月、現・皇室典範は47年1月にそれぞれ公布されており、

「旧皇族は決して“過去の人たち”ではないということです。その上で図を見ると、皇籍離脱の時点で賀陽宮恆憲王の皇位継承順位は8番目。筆頭は明仁親王(上皇さま)で、6番目が寛仁親王でした。7番目は山階宮武彦王となっていますが、男子が生まれなかったため、賀陽宮に生まれた6人の男子が、長兄から順に9〜14番目まで皇位継承権を有していました。この順位は引き継がれるため、世代が移っても賀陽家の男子の皇位継承順は、他の旧宮家の男子よりも高いと考えられます」(同)

愛子さまのお婿さんになるようなことがあっても……
 恆憲氏の6人の男子はいずれも物故者だが、注目すべきは三男の章憲氏(94年に65歳で没)の家系である。長男の正憲氏は現在62歳。学習院初等科から天皇陛下のご学友で、87年に陛下と雅子皇后が東宮御所(当時)でお会いになった時には「取り持ち役」も務めているのだ。前出のジャーナリストによれば正憲氏は、

「学習院大学法学部卒業後はメーカー勤務を経て英国に留学。帰国後は大手信託銀行に職を得たのち、宮内庁に転職しました。そのまま外務省に出向し、在デンマーク大使館1等書記官などを経て、現在も同省の儀典官室に職員として勤務しています」

 とのことで、

「かつて正憲氏は紀宮さま(黒田清子さん)のお相手として名が挙がったこともありましたが、当時、写真週刊誌『FOCUS』の取材に“私には交際女性がいる”と、完全否定。現在は26歳と24歳になるご子息がおり、上のお子さんは学習院高等科から早大政経学部へ進みました。お家の格付け、また年齢的にも、こちらのお二人に期待が寄せられるのは自然なことだと思います」(同)

 この兄弟と対面したことのある賀陽家の縁戚も、

「きちんとして見栄えもする坊ちゃんたちです。二人とも、もし皇室に入って愛子さまのお婿さんになるようなことがあっても、決して恥ずかしくない振る舞いが身に付いています」

 などと、気の早いことを口にする。むろん今回の案は、あくまで既存の宮家への養子入りを基本としており、独身の内親王や女王方との縁組を想定しているわけではない。とはいえ、父に続いて息子たちも「プリンセスのお相手」に擬せられるとは、やはり名門の面目躍如といったところか。

「2番目の兄の孫に小学生の男の子が」
「皇籍離脱した当時の伏見宮さま(伏見博明氏)が最近、ご自身にまつわるオーラルヒストリーを出版されました。そこでは『天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、これはもう従わなきゃいけない』と語っている。旧宮家の中には、やはりそうした想いを持つ方もいるのではないでしょうか」

 とは、前出の百地氏。実際に、久邇宮家の血を引き、掲載の図で18番目に位置付けられている久邇朝宏氏に尋ねたところ、

「私は昭和19年の生まれで皇籍復帰にはご縁がないでしょうが、久邇家を見渡すと、2番目の兄の孫に小学生の男の子がいて、学習院に通っているはずです」

 そう明かしながら、

「男系が後を継ぐというのは大いに結構で、それしかないと思っています。天皇家というのは、有力者が王様になってきたような欧州の王室とは異なり、大昔から続いている家系。その点からも、男系によって統制していくべきでしょう」

 あらためて、前出の八木教授が言う。

「旧宮家のご当主の方にお聞きしたところ、現在4人ほど“必要があれば皇籍に復帰する”という覚悟を持っている若い男性がいるとのことです。そうした意思を自ら示すことはありませんが、ひとたび話があれば、引き受ける気持ちでいることでしょう。また年齢からして、賀陽家の男子お二方が愛子さまのお相手候補に入っているのも、間違いないところだと思います」

 将来のお世継ぎたる悠仁さまはまだ15歳。とはいえ“備えあれば憂いなし”は金言に違いない。

「週刊新潮」2022年2月3日号 掲載

https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-822357.html  
3:777 :

2023/07/23 (Sun) 17:26:47

茂木誠 _ 皇統の危機/「旧宮家」について説明します
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14132283



皇室がDNA公開を厳禁している理由
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/242.html

秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007930

旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14014079

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