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幕末人口4000万人が1935年に7000万人に増え、日本は大陸で農地を乗っ取って解決しようとした。

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2022/06/08 (Wed) 18:37:56

幕末人口4000万人が1935年に7000万人に増え、日本は大陸で農地を乗っ取って解決しようとした。


日本が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも食料を増産するためだった


2021年07月22日
戦前も晩婚化が進んでいた 食料不足から人口抑制し現在に至る

戦前戦後の食糧不足から、日本は人口抑制を徹底した。
そのまま70年が経ち、政府はまだ人口抑制策を続けている。

引用:http://haofu.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_ec0/haofu/naissances_au_japon.jpg

戦前も結婚が遅かった

少子高齢化は日本の病理のひとつで、中でも子供が少ない少子化は、年金問題や経済の低成長などを引き起こしている。

少子化の原因は結婚しない人が増えたのと、結婚年齢が遅くなったのが原因だが、戦前は結婚が早かったわけではなかった。

1920年代(大正末期から昭和初期)はアメリカで空前のバブル景気になり、すでに個人がスポーツカーを乗り回していた。

当時は今より世界の結びつきは少なかったが、日本も好景気の恩恵を受けて「大正デモクラシー」が流行した。

伝統主義に対して西洋化、資本主義、民主主義がもてはやされ、東京では消費文化が始まりました。

サラリーマンは西洋風のスーツを着てOLが着物ではなくスカートを履き、お昼は洋食のランチを外で食べるのが流行った。


1930年代になると既に日中戦争は始まっていたが、田舎にも西洋化の波は押し寄せ、急速に晩婚化が進みました。

1920年に女性の結婚年齢は23歳だったのに、1943年ごろには25歳になり、男は平均30歳になりました。

この間出生率も低下して5.0(女性一人が平均5人出産)から1940年頃3.8くらいまで低下しました。


出生数は増減はあるものの概ね上昇し、1950年には269万人まで増加しました。

これはいわゆる人口ピラミッドの下の方が大きく、若者が多かったので、少々晩婚になっても絶対数が多かったからでしょう。

戦前から戦後10年くらいの日本は人口が増えすぎ、食料不足が大問題になっていました。

日本政府が人口を減らす政策を進めた

日本軍が朝鮮占領したのも満州や中国を占領したのも、根源的には「食料を増産するため」だったのはあまり知られていない。

人口が増えた割りに食糧増産は進まなかったので、朝鮮を占領したが、却って増えた人口を日本が養わねばならなくなった。

そこで満州を占領して食糧増産しようとしたが、今度は満州で人口が増えてしまい、日本が満州の人を養わねばならなくなった。


旧日本軍の政治は大体こんな風で、とりあえずやってみたが失敗した、というパターンが多い。

大日本帝国は最初から最後まで食糧不足に悩まされ、内地でも外地でも戦地でも食料が不足した。

皮肉な事に1945年ごろの日本で最も食料が豊富だったのは、日本が養った朝鮮や満州や樺太だった。


1945年を境に戦地から兵士が帰還して爆発的な人口増加が起こり、1947年から49年に出生数と出生率で過去最高を記録しました。

当時の製造業や農業は自動化されておらず全て人力だったので、社会は膨大な労働力を必要としていました。

日本政府はやはり人口増加による食糧不足を懸念し、戦後すぐに人口抑制政策を始めました。

子供を産んでも何のメリットもなくなった

女性の社会進出、子供の人権、中絶合法化、などがそれでいずれも女性が子供を産まなくなるように調整する目的でした。

女性が働けば子供を産まなくなり、子供の人権や教育によって子育てには金がかかり、5人以上も産むことはできなくなった。

昭和の中期以前は子供が家事や仕事の手伝いをするのは当然だったが、これも禁止したので一人当たりの養育費は高騰した。


1960年代までは「子供は産めばなんとかなる」社会だったが、以降は金がなくては子供を作れない社会に変わった。

貧乏人の子沢山という言葉があり、たくさん産んで一人でも立身出世した家族は貧乏から抜け出せたが、そういうサクセスストーリーもなくなった。

子供が多かった時代には、子供は働いたり近所の子供の世話をし、成人したら親の面倒を見るのが当然だったので、親には子供を育てる金銭的メリットがあり、愛情だけで育てたのではなかった。


現代では子供は親と別居して面倒を見ないのが当たり前になり、子供は「ただの負債」になってしまった。

戦後70年ずっと日本政府は、昭和初期に軍部が決めた人口抑制策を続け、人口がマイナスになった現在も続けています。

人口減少、少子化の犯人は誰かと言えば、それは他の誰でもなく日本政府自身でした。
http://www.thutmosev.com/archives/74335274.html  


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2022年06月08日
中国の人口危機、減少するのが分かっているのに産児制限

日中とも子供が減っているのに産児制限や抑制策を辞めようとしない


中国はなぜ不要な産児制限を辞められないか

中国では今人口危機が静かに進行していて、もうすぐ問題が水面に出て顕在化しようとしています。

人口問題は数十年前に原因が発生し、あまりにも静かなため問題は過小評価され、政府は対策せず放置します。

ある時点で数年後の人口減少が確実になるが、直近の問題が優先されるのでやはり政府は何も対策をしません。

日本の例では最近の人口減少の原因は戦前の1930年代には始まっていて、1980年代には人口減少が確実になっていた。

政府はバブル崩壊の後始末や経済対策、増加する高齢者の社会保障を重視し、出生数を増やす対策を何もしませんでした。

高齢者の増加は目に見えるし、彼らは口々に文句を言い選挙権も持っているので、高齢者対策が最優先されました。


それに比べて「生まれてこない子供」は声を出さないし文句も言わず選挙権もないので、政府はどうでも良いと考えました。

欧州は日本より先に少子化が起きたが移民を増やす事で解消しようとし、実は「自民族の子供」を減少させました。

中国も先に少子化した国と同じ間違いを繰り返し、何の対策もせず数十年が経過し、今年2022年から人口減少が予想されています。


人口減少が始まるメカニズムは各国で似通っていて、日本で言えば明治から昭和40年代までの人口増加がありました。

幕末の人口は4000万人程度だったが昭和10年(1935年)に約7000万人になり、食糧不足や国土の不足が緊急課題になりました。

その頃ニューヨーク株価暴落の影響で大恐慌が起きていて、日本政府は大陸で農地や土地、市場を獲得して苦境を乗り切ろうとしました。



人口減少したのに人口抑制続けている日本

敗戦後も日本の人口は増え続けて昭和25年(1950年)には8,400万人、昭和43年(1968年)には遂に1億人を突破しました。

日本政府は大正期には人口増加に危機感を持ち、女性を労働させて子供を産まないようにし、出生数を抑えようと考えました。

これが大正デモクラシーで女性の権利を向上させて人口増加を抑え、同時に生産力を向上させるのは当時欧米でも行われていました。


昭和10年頃日本では軍事クーデターで陸軍が****政権を樹立し、今度は強権的に女性を工場で働かせたりし出生数を減らそうとしました。

戦後の日本政府もずっと出生率を減らし人口抑制に努めてきたが、今もそれを続けているのです。

日本の学校では「子供を産む女性は劣っていて、働く女性が優れている」と教育し、子供を産まないように指導しています。


総理大臣は女性の就業率が高まったのを誇り、女性の政治参加が必要だと言って企業に女性役員を増やすよう求めている。

これら全ての始まりは戦前の人口抑制のため、女性がなるべく子供を産まないように、関心を他に向けさせるための政策でした。

中国でもやっぱり人****発の時代があって、中国政府は1人っ子政策のような人口抑制策を取り、人口が減少したのに今も続けています。


中国では1人っ子政策を2人っ子政策に緩和し、3人っ子政策にする議論をしていますが、出産は「原則禁止」なのは同じです。

日本などでは出産は個人の自由だが中国では出産は原則禁止で、政府が許可した場合だけ認められています。

それを1人っ子政策と呼んでいて、人数を増やしても根幹は同じです


日本政府は大正時代から始めた人口抑制策を未だに辞めることができず、中国も不要な産児制限を辞められない。

一度そうした制度を作ると誰かの利権になったり、社会制度に組み込まれてしまい廃止が難しくなるからです。

例えば今の日本で小学生女子に「働くのをやめて子供を産みましょう」と教えたら人権団体が大騒ぎして反対するでしょう


こうして不要な出産制限や人口抑制策が改められないまま継続します
https://www.thutmosev.com/archives/88337059.html


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朝鮮人が反日になった理由 1 _ 飢餓輸出させた


日本で米が足りなくなったのは日清戦争がきっかけでしたが、それが日露戦争のとき顕著になったと東京外語大の大月先生は語っていました。

   それ以降は米不足が慢性的になり、1918年にはそれが頂点に達し「米騒動」が起き政権が揺らぎました。

この時、政府は次の三つの対策案を練りました。

 1。タイなどから外地米を輸入する。
 2。国内産の米を増産する。
3。朝鮮や台湾など植民地で米を増産する。

第1案のタイ米はパサパサしてまずく評判がさんざんで話になりませんでした。

私も数年前にはタイ米をけっこう食べましたが、カレーやチャーハンにでもしないとなかなか箸が進みませんでした。

   第2案ですが、内地米の増産はその余地があまりなく効果は期待薄でした。

そこで結局、第3案の植民地での産米増殖計画が本格的に採用され、1920年から始まりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。

また米の品種も、早神力など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。(早神力を番組では「わせしんりき」と発音していました)


こうした努力の結果が、朝鮮の食生活を少しでも豊かにしたのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら忘暮楼さんの指摘通り、米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。

   その実状を、番組は具体的にある農家の回想をとりあげ紹介していました。

秋に農民が米を70俵収穫しても、水利税や肥料代などもろもろ差し引かれ手元には15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうでした。

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の中に埋めたり隠したりしたのですが、冷酷な借金取りもさるもの、針金で地面をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm007.html#No.61


当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と思われます。

米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版


この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定されました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。
それに加え、タイなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億8500万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしんりき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。

   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。


こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放さざるを得ませんでした。

その実体を表すのが次の表です。これは米どころの全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でどのように変化したかを示すものです。


          全羅北道、五水利組合の土地移動
                       (単位は町歩)
      日本人所有  朝鮮人所有   その他    合計
 1920年    3,674    4,181    2,694    10,549
 1931年    8,999    3,545    7,292    19,836
(東畑精一「朝鮮米穀経済論」)

  この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。

  この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年にかけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大しました。

  灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていったのが植民地の現実でした。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187


要するに、日本人が酷使する農奴の数が増えただけ.

できた米はすべて日本に持って行かれる.

李朝時代は独立農だったのが食うや食わずになった.

感謝するバカは一人もいない.


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朝鮮人が反日になった理由 2 _ 農民の土地を奪った


1910年の併合強行後、日本は朝鮮の植民地化を進めるが、その第1歩は、
土地の所有権の確定を目的とした土地調査事業であった。

国内における地租改正がそうであったのと同じように、それは植民地財政の基盤を固める意図からでたものであったが、その過程で耕作関係があいまいな多くの土地が、総督府に奪われることになる。

国有地に編入された耕地面積は朝鮮域内の全耕地の20分の1に達し、その多くは日本人に安価に払い下げられ、大規模な日本人地主が誕生した。

土地を失った朝鮮の民衆は、小作農化するか、あるいは日本や中国大陸へと流失していく。

民族の自立を損なう弾圧的な植民地か政策の展開は、第一次大戦後になると、
激しい独立運動の展開による抵抗に遭遇することになった。

1919年3月1日に朝鮮では独立を宣言して蜂起した民衆運動によって、それまでの植民地支配の枠組みを見直さざるを得なくなる。

 歴史上、「文化統治」への転換と評される斉藤総督の統治政策は、一方で「同化政策」を柱とする「民族としての抹殺」を意図するものであると同時に、農業振興政策による民衆生活の改善によって、日本による支配への不満を融和させようとするものであった。


朝鮮からの人口流失    人  

  日本へ 中国へ

1914 4,179 10,631
1915 5,046 13,281
1916 7,225 13,501
1917 17,463 18,911
1918 27,640 36,627
1919 35,975 44,344
1920 40,759 22,210


産米増殖計画の推進には、日本市場に適した品種の米を生産するという、輸出志向型の農業への切り替えが必要であり、この品種転換の強制と輸出志向は、朝鮮域内での食糧供給の不足、つまり「飢餓輸出」に帰結する。

日本国内では、1920年代に入って、つまり産米増殖計画が軌道に乗って、日本向けの米の輸出(移出)が増加しはじめるころには、当初の思惑とは異なって米の価格は低迷していたからである。

こうした農業振興政策の展開は、植民地を日本経済の一環に組み込み、日本への食糧供給基地化するという役割を果たすものであった。

しかも、このような飢餓輸出を生むような食糧供給基地化は、代替的な食料としての粟や高梁などの供給を、満州に求めることによって、東アジアにおける独自の経済圏を形成させることになる。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-06.htm


1918年6月18日は、朝鮮総督府が植民統治の基盤を固めるために
1910年から8年間にわたり全国を対象に行った土地調査事業が終わった日だ。

同事業で大韓帝国の皇室と政府が所有する土地、村または門中の公有地、
そして荒蕪地はすべて総督府の所有になり、土地を奪われた農民ら数百万人は小作農に転落した。

大地主になった総督府は土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする不二興業など土地会社と移住者に安価で譲った。

官吏の制帽と圓衫(韓国女性固有の礼服)で身を装った年老いた新郎・新婦(写真=独立記念館所蔵)は、当時朝鮮に渡って大地主になった日本人夫婦だ。

2人は伝統的な両班(ヤンバン 朝鮮時代の特権的な官僚階級)の地主とは異なる顔の「吸血鬼」だった。

当時の日本による帝国主義は領土を略奪したドラキュラだったというのが、韓国市民社会の普遍的な歴史の記憶だ。

ドラキュラに吸血されていなければ一世紀前の開化期にすでに自力で近代化を成し遂げたはずなのに、
日本の帝国主義のために実現できなかったということだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116883&servcode=100§code=140


日本の土地調査事業であぶり出された農民たちが職を求めて日本へ渡った。
具体的にはこの政策で新しく地主になった日本人の所有する鉱山や工場の労働者としていったり、先に渡って生活基盤を作った親戚を頼って渡った。

世界史で習った土地の「囲い込み政策」を。あれとほぼ同じ現象だ。

日本に来るきっかけとなった「土地調査事業」は、明治43年に朝鮮を植民地にした日本が、その直後から朝鮮全土で実施した、地形、所有権、地価などについての調査である。それまで朝鮮には土地の登記制度が確立していなかった。そこに登記制度を導入し、税収入の増加を狙ったのである。

 朝鮮の村では、共同所有地など所有権がはっきりしない土地が多く、急に登記せよといわれても無理だった。

また、手続きは複雑で、農民が自分で申請することは難しかった。
登記をしなかった土地はすべて、朝鮮総督府のものとなった。


耕していた農民は、追い出されるか、高い小作料に泣かされることになった。
多くの農民が、貞鎬さんの父母のように生活に困り、日本へ出稼ぎに行くことになった。

総督府に取り上げられた土地の多くは、後で国策会社である東洋拓殖株式会
社に払い下げられた。

東洋拓殖はさらに、日本からの移住者に土地を売り、日本の農家の二男、三男らがこの土地を買って、農業を始めた。

朝鮮の村には日本人の地主が増え、土地を取られた朝鮮人が日本人を恨み、今も消えない根強い反日感情が残った。

 朝鮮では、明治43年の日韓併合から、昭和5年までの20年間に、人口
が約30%増えた。土地調査事業と人口の増加により、慶尚南道など南部の人
を中心に、日本に出稼ぎに行くようになった。その数は昭和五年までで40万
人近くにのぼる。

総督府に接収された土地は、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会)によれば、約12万町歩に及ぶ。又定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないため接収された耕地が約2万7千町歩あり、接収された耕地は合計14万7千町歩である。当時の全耕地面積は 450万町歩であり、約3%である。

 これに正当な売買により取得した土地を加えた、1922年(大正11年)末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5千町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5千町歩で、全耕地面積の6%弱である(朝鮮総督府『調査資料2ー7朝鮮における内地人』)。


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日本占領下、ベトナムで200万人が餓死
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-14/12_01ftp.html


 〈問い〉 日本占領下のベトナムで200万人が餓死したというのは本当ですか?(三重・一読者)

 〈答え〉 60年前のアジア太平洋戦争は、アジアで2000万人以上の犠牲者をだしました。日本がおこなった各国への侵略と加害の歴史を私たちは忘れてはなりません。日本占領下のベトナムで起きた大量餓死もその一つです。1944~45年、中部クアンチ省から北部にかけて、当時の人口の10分の1にあたる推定200万人が餓死したとされています。

 92~95年に日本の学者と共同で餓死の調査をした歴史学者のバン・タオ教授は「調査で、200万人という数字が誇張でないことがよりはっきりした。45年当時、北部ハイズオン省で教師をしていたが、教え子の約半数が餓死した」と本紙特派員に答えています。

 日本は、インドシナを支配していたフランス植民地当局に圧力をかけ、40年9月22日に結んだ協定で、日本軍のベトナム北部駐留を認めさせ、翌日から駐留を強行(仏印進駐)。アジア太平洋戦争開始の翌日、41年12月9日に結ばれた日本・仏印協定で日本支配はより強化され、フランス植民地機構は日本支配の下請けと化しました。45年3月9日には、仏植民地機構を武力で解体、単独支配を敷きました(仏印処理)。こうした状況で起きたのが、大量餓死という同国史上空前絶後の惨事でした。

 原因として、バン・タオ教授は、(1)日本がフランス植民地機構を下請けにして、食料を安い価格で強制的に買い付けた、(2)ジュートなど戦略物資を得るために稲作面積を減らした、(3)北部で天候不順による凶作が起きた、(4)豊作だった南部から米が北部に運ばれなかった―という4点をあげています。

 しかし、問題は、何が致命的原因になったかということです。同教授は、凶作が不可避だったとしても他の原因がなければ、飢餓はずっと軽微ですんだはずだと指摘しています。

 01年11月、ホーチミン市にある戦争証跡博物館などの主催で、ベトナムに対する戦争犯罪に関するシンポジウムが開かれましたが、北部の飢餓の最中にも、仏植民地当局がサイゴンに35万トン、チョロンに20万トンのもみを、日本軍もサイゴンに20万トンの米を備蓄していたと報告されました。(俊)

 〔2005・4・14(木)〕 
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-14/12_01ftp.html  


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日本がアジア人から嫌われた理由

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万~200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万~200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427


1945年ベトナム飢饉は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。200万人が餓死したといわれている。

天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。

ホー・チ・ミンによる1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。  


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敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

2017-06-20
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427


敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]

 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万~200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万~200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

1946年の食糧危機
しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]

 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)
「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)
「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて しね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。

朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200~1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]

 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。
「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」
 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]

(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)
 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

お通しもの
平貝
胡瓜
ノリ
酢のもの
おでん
鮪刺身
焼物
から揚げ
御煮物
竹の子
フキ
このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]

 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

2:777 :

2022/06/08 (Wed) 18:39:17


漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史


・朝鮮で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる

・朝鮮の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める

・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作り、日本人奴隷(生口)を青銅器・鉄と交換する奴隷貿易で稼いでいた。後漢の光武帝が贈った金印(漢委奴国王印)の「委奴」は「いと」と読む。

・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで****隷にした。

・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで****隷にした。

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで****隷にした。

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで****隷にした。

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた台湾先住民をジェノサイド

・豊臣秀吉の 朝鮮 出兵 → 朝鮮 で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の 朝鮮 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙してバイシュン婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・朝鮮 の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、朝鮮 女性を****隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、朝鮮 の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を****隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党**** → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった

・朝鮮戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償請求権を放棄させた

・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした。アメリカは10年間で総額430兆円の公共投資の実施を日本政府に約束させ、意図的に平成バブルを起こさせた。

・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから売り攻勢をかけ 7607円まで暴落させるのに成功した。 更に日銀に金融引き締めをさせ、外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・韓国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた

・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・韓国の工場で行って、中国製品・韓国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・韓国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。

が、大まかな流れです。

▲△▽▼

日本の支配者は今も昔も 朝鮮 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのです
今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。

天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(朝鮮の無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。

ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョx) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの神 スサノオ(=韓神)
ヤマトの姫 卑弥呼(=朝鮮系シャーマン)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)
ヤマトの食 水稲・米(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)
ヤマトの墓 支石墓(=朝鮮半島から伝来)
ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)
ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの言語 宮廷語(=百済人の王仁が伝える)
ヤマトの天 高天原(=朝鮮半島)

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。書紀で「天」は 朝鮮 半島を指すのだ。
________

明治維新は田布施の 朝鮮人 による日本の乗っ取り:

明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【田布施システム】朝鮮系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html
3:777 :

2022/06/08 (Wed) 18:45:45

明治維新と太平洋戦争の真相

鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)
キッシンジャーと中曽根(00:57:00)
使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)  


▲△▽▼


鬼塚氏を中傷するコメントをネット上で見かけるが、


一、あなたが鬼塚氏の何の本を読み
二、どこの箇所を指して事実を捻じ曲げて妄想で書いていると確信を持てたのか
三、その根拠たる文献資料を示されたい。


鬼塚氏ほどあらゆる文献資料を網羅し、
かつ眼光紙背に徹するが如く読み込んでいる人を私は寡聞にして知らない。
プロパガンダをまんま信じて洗脳されている歴史作家があまたある中で、
まさに掃き溜めの鶴、恩寵、僥倖のような存在である。


鬼塚氏を中傷するコメントは、
秦郁彦がバーガミニの『天皇の陰謀』を偽書と決め付けた手法と同じ。
”バーガミニの主張に該当する資料は、杉山元メモのどこにも見つからなかった”
などとと事実無根の主張をしている。


秦は防衛庁に職員として潜入していた草である。
秦のような田布施村王朝の関係者が、国家規模の資料改竄をしていると私は思う。
日中戦争拡大の現場証言も同様である。
池田純久が近衛文麿に責任転嫁する有名な証言は、その代表例である。


田布施村王朝は実に真摯な態度で、一貫して偽史を捏造してきた。
秦や白洲次郎や松本重治などの確信犯がプロパガンダを流布し、
それに御用作家やマスコミが追随してきたが、


鬼塚氏が膨大な資料を微分積分して導いた結論は、『仮説』ではなく真実である
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
 

▲△▽▼


鬼塚英昭とディビット・バーガミニの学説は既に定説になっています:

鬼塚 英昭とディビット・バーガミニの二人は昭和天皇の研究者として有名ですね。タブーに触れるので他の研究者はその分野は全く研究していないから、現在では二人の学説が定説になっています、既に関係者が全員死んでしまって、当時の話を聞けないので新しい調査・研究はもう不可能なんですね:


鬼塚 英昭の著書
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E9%AC%BC%E5%A1%9A+%E8%8B%B1%E6%98%AD


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm
4:777 :

2022/06/08 (Wed) 18:46:30

明治維新は朝鮮系の人たちの日本乗っ取り
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/358.html

表に出始めた明治維新の真実
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/742.html

イギリスが薩摩や長州を支援して徳川体制を倒した理由は日本人を使って中国内陸部を支配するためだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/743.html

日本列島は欧米の侵略の拠点で日本人は手先。イギリスもアメリカも日本がアジアの国々と友好的な関係を結ぶことを許さない
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/136.html

戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html

麻薬王 岸信介
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1170.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

こんな女に誰がした (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

からゆきさん
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/315.html

昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/614.html

山本五十六の真実
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1050.html

ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html

寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html

餓死した英霊たち
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/975.html

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

近衛上奏文
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1126.html

天皇一族は反日売国奴でアメリカ金融資本のエージェントだった
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/105.html

鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.html

鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1051.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html

関東大震災とJPモルガン
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/278.html

****者列伝 _ 昭和天皇
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/799.html

ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html


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日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
2021.11.12
https://tocana.jp/2021/11/post_225242_entry.html

日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説・第二弾! ロスチャイルドとバチカンと日本の歴代首相…知られざる真実!
2021.12.16
https://tocana.jp/2021/12/post_227530_entry.html
5:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:40:29

朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html
6:777 :

2022/10/15 (Sat) 05:51:31

餓死者続出、累々たる屍が街角に放置された天明の大飢饉は、なぜ起きた?
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14054884

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