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名曲 岩崎宏美『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の元ネタ

1:777 :

2022/06/04 (Sat) 09:32:15

名曲 岩崎宏美『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の元ネタ


岩崎宏美 - 聖母たちのララバイ - 1982 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bL52D-vr79c

聖母たちのララバイ 岩崎宏美 2000 昭和の歌 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8stEnG7VVCE

聖母たちのララバイ(2004version)
https://www.youtube.com/watch?v=IqWM4BItKVw

岩崎宏美 聖母たちのララバイ - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%AE%8F%E7%BE%8E+++%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%A4++


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『聖母(マドンナ)たちのララバイ』原曲・元ネタ
http://www.worldfolksong.com/songbook/sokkuri/madonna-lullaby.html?msclkid=3b29fae2d08e11ec978b8278ebbe67a9

アメリカのタイムスリップ映画サントラを元に作曲されたヒット曲
『聖母(マドンナ)たちのララバイ』は、1982年5月にリリースされた岩崎宏美のシングル。作詞:山川啓介、作曲:木森敏之(共作扱い/詳細は後述)。

「火曜サスペンス劇場」初代エンディングテーマとして1コーラス分が作曲され、その後の反響を受けてフルコーラスが製作された。

発売2週目でオリコンシングルチャート1位を獲得。累計売上は130万枚を超えるミリオンセラーとなり、同年11月には第13回日本歌謡大賞を受賞した。

岩崎宏美ベスト盤


同年末の第24回日本レコード大賞にも期待が高まったが、曲前半のメロディが1980年のアメリカ映画「ファイナル・カウントダウン」サントラからの盗作が発覚し、日本レコード大賞の対象から除外されている。

メロディの元ネタとなった映画サントラとは、一体どのような楽曲だったのだろうか?映画の概要や該当する楽曲について、簡単にまとめてみた。

ちなみに、作曲者の木森敏之は『仮装大賞テーマ曲』でもマイケル・ジャクソンの楽曲を大胆に取り入れた作曲を行っているが、こちらは『聖母たちのララバイ』のように大きな問題にはなっていないようだ。

映画「ファイナル・カウントダウン」とは?

映画「ファイナル・カウントダウン」(The Final Countdown)とは、1980年に公開されたアメリカ映画。原子力攻撃空母ニミッツが太平洋戦争中にタイムスリップする架空戦記(歴史改変SF)。

映画 ファイナル・カウントダウン The Final Countdown

イギリスの作曲家ジョン・スコット(John Scott)が音楽(サントラ)を手がけた。盗作発覚後、『聖母たちのララバイ』は木森敏之とジョン・スコットとの共作扱いに訂正されている。

『聖母たちのララバイ』の元ネタとされるサントラ『ローレル&オウエンス(Laurel And Owens)』について、どれぐらい似ているのか、YouTube動画で確認してみよう。


【YouTube】Laurent and Owens
https://www.youtube.com/watch?v=HpnsRuX1Cac


曲の前半部分が、ほぼそのまま『聖母たちのララバイ』のそれと共通している。ここまで大胆な引用もなかなか珍しい。

もともと『聖母たちのララバイ』は、「火曜サスペンス劇場」エンディングに1コーラスだけ流れる限定的な作品だったので、おそらく作曲者の予想では、こんな短い楽曲にそれほど注目は集まらないだろう、だから大胆な引用が問題化することもないだろう、と甘く見ていた部分があったのかもしれない。

歌詞にも共通点が?
元ネタとされる映画「ファイナル・カウントダウン」との共通点は、メロディだけではなく、歌詞の一部にも見られる。該当部分を次のとおり引用する。

この都会(まち)は 戦場だから
男はみんな 傷を負った戦士

<引用:山川啓介『聖母たちのララバイ』歌詞より>

「戦場」「戦士」といったキーワードが、タイムスリップ戦争映画である「ファイナル・カウントダウン」と偶然にも内容的に近接しているのが興味深い。

かわぐちかいじ「ジパング」元ネタ?
余談だが、映画「ファイナル・カウントダウン」のストーリーは、講談社の漫画雑誌「モーニング」で2000年から2009年まで連載されていた漫画「ジパング」にも影響を与えている。

漫画「ジパング」では、海上自衛隊のイージス艦が太平洋戦争中にタイムスリップし、歴史の波に飲み込まれていく。

かわぐちかいじ「ジパング」コミックス第1巻

「ジパング」も「ファイナル・カウントダウン」も、どちらも現代から太平洋戦争中へのタイムスリップであり、海上の嵐(あらし)が引き金になるという状況も似ていることから、「ファイナル・カウントダウン」は「ジパング」着想に大きな影響を与えたと考えられる。

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『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の元ネタ

前回、人間の社会的な役割を表わすペルソナという元型を見たのですが、それが
強すぎるとその人の人間性なり個性なりがなくなってしまうということを述べま
した。

人間の心の中にはそれを補償する作用のものがあります。それは夢や物語などの
イメージの世界では一般に異性の人物像で表わされます。ユングは男性の心の中
に潜むペルソナを補償する女性像を「アニマ」、女性の心の中に潜む男性像を
「アニムス」と呼びました。

「アニマ」とはラテン語で「たましい」という意味で、「アニムス」はその男性
形です。

アニマとして分かりやすいのは理想の女性像として現れる場合です。有名な例で
は、ダンテにおけるベアトリーチェ、ダビンチにおけるモナリザのようなもので
しょうか。

アニマには色々なレベルのものがあります。ユングはこれを、生物的なアニマ、
ロマンチックなアニマ、霊的なアニマ、叡智のアニマ、と4つに分類しました。
生物的なアニマというのは、とにかく女であれば何でもいいというレベルのもの
で、性的なもの・肉体的なものが強調されます。夢魔などはこのレベルのアニマ
とも考えられます。

ロマンチックなアニマでは、相手の人格がそなわって来ます。一般的には美人で
優しく情感のある女性、理想の女性像として表現されます。昔話や伝説、文学作
品などにその多くの例を見ることができるでしょう。

最後の2つはちょっと区別が付かない感じですが、神聖な存在にまで高められて
いて、ヨーロッパなら聖母マリアや女神アテネなど、日本の感覚で言えば観音菩
薩や天照大神のような存在でしょう。

Robert Wang の「ユングのタロット」ではアニマは女教皇のカード、アニムスは
魔術師のカードで表わされています。これはそのまま聞くと違和感を感じるかも
知れませんが、自分が男性であったとしてアニマのカードを探すとやはり女教皇
でしょうし、自分が女性であったとしてアニムスのカードを探すとやはり魔術師
になりそうです。

しばしば男性は人生の半ばに差し掛かった辺りで、ペルソナを取るかアニマを取
るかという二者択一を強いられることがあります。そういう時ペルソナを取った
人は社会的にはどんどん成功して大きな収入を得るようになりますが、数年後に
突然奥さんから離婚要求を突き付けられたりして困惑します。またアニマを取っ
た人は家庭生活はより充実したものになりますが、今まで築いてきた社会的信用
を失い、会社をクビになったりします。アニマはときには強力な破壊者としても
作用するのです。

恋人や夫婦というのは、お互いのアニマ・アニムスまで考えると実は4人の関係
であるという見方ができます。つまり夫は自分の中にアニマを持ち、妻は自分の
中にアニムスを持ち、夫・妻・アニマ・アニムスという四角関係が存在するので
す。夫は妻・自分のアニマ・妻のアニムスとの関係を維持しなければなりません
し、妻は夫・自分のアニムス・夫のアニマとの関係を維持しなければなりません。

つまりそこには6本の関係の糸があり、そのバランスが崩れると、その男女関係
にはひずみが発生し、長い期間にわたってその状態が続くと、どちらかが堪えら
れなくなって、破局に至ります。男女関係というのは実に難しいものです。

占星術的に言えば、太陽が夫、月が妻、金星がアニマで火星がアニムスでしょう。

岬兄悟の「ラヴ・ペア」シリーズでは、主人公はアニマ・アニムスの世界からや
ってきた理想の女性と文字通り合体してしまいます。アニマ・アニムスはもとも
と宇宙からやってきた精神的生命体で、それにより人類は高等生物に進化したの
だ、というのは面白い設定です。
http://www.ffortune.net/spirit/sinri/genkei/gen08.htm



ユングの元型論と変容論 ① 影とアニマ

ユングの言う「アニマ」は男性の中にある未熟な女性である。男性が眺める女性は多かれ少なかれ理想化されている、つまりアニマが投影されている。このアニマの観念は「影」と並行して考える事でより良く理解される。影が同性として現れる事が多いのに対しアニマ、アニムスは異性である所が異なるが、心理的機能は影と同じ様に考えられているからだ。

(1)まず「影」は人間が幼児期のある段階で無意識の中に抑圧した自分自身の一部である。それは表の人格と反対の性格を持つ「自分が否定したい自分」「受け容れられない価値観」である。
影は普段は抑圧され社会的鍛錬を経ていないため、暗く未熟で原始的、情動的であり、反社会的である場合もある。

アニマも同じである。幼児は両性具有的であり、その後多くは社会的ジェンダーの圧力により女性性が抑圧され隠される。そして影と同様にまずは「否定的エネルギー」として作用する。

(2)影とアニマは「投影」される点でも共通している。
自分自身の影を他人の中に見る事をユングは「投影」と呼んだ。投影は激しい感情、多くは怒りを伴う。例えば或る人の陰湿な面に理不尽とも言える激しい怒りを感じる時、それは自分の奥に同じ陰湿さが隠されている事を否定したいためかもしれない。

アニマの場合、投影は対象の中に自分の理想化された異性像を見る事である。ユングはそれを4つの発展段階論に整理した。

① 生物的アニマ
性的、肉体的な色彩が強く、性格、心情より容姿が優先される。アプロディテがこの代表だろう。

② ロマンチックなアニマ
性的な面を残すが、性格も顧慮され、美的で恋愛の対象である。「ロミオとジュリエット」など悲恋物語に出て来る女性。

③ 霊的アニマ
無償の愛、無限の慈悲などの癒しを求める。乙女の清浄さと母親の暖かさを併せ持つ。聖母マリアや観音菩薩が例として挙げられる。

④ 叡智的アニマ
近づき難い神聖さと知恵を持つ。性的要素は完全に消える。女神アテナやモナリザの微笑がもたらすもの、また河合隼雄氏は弥勒菩薩を挙げている。

一方アニムスの発展段階論はユングの死後、妻のエンマによって提案されたが、ユング自身はアニムスはアニマと比べて不定形で捉えがたいものと考えていて、ユング派の中でも彼女の説を認めない学者もいる。ここではユング心理学の中心になる影とアニマに限定しアニムスの段階論は参考資料を挙げるにとどめる。比較神話の中で必要になったら再考したい。

徹底解説!ユング心理学 : アニムスの変容で女性の心の成長度がわかる
http://blog.livedoor.jp/brgj/archives/925859.html

(3)影は社会と断絶しているのではなくむしろ意識よりも周囲の雰囲気に影響され易く集団ヒステリー的な状態になり易い。伝染性のエネルギーを持っているのである。
ユングの弟子、マリー=ルイス・フォン・フランツは例として悪魔に取り憑かれた修道女や現代アメリカのKKKなどを挙げている。もちろんナチスもその良い例となるだろう。

これは意識よりも無意識の方が他者と繋がっているとするほとんどの神秘主義者の説と一致する。ダイアン・フォーチュンによれば「呪い」は相手の無意識に働きかける事であり、その秘訣は相手の「裏庭の鍵を握る」事である。

アニマも同様に人の運命を左右するほどのエネルギーを持つ。恋愛は時には人間に死を恐れない強さを与える一方、時には悲惨なほど堕落させる場合もある。僕が日本思想史の記事で書いた「政治と恋愛の相似」はユング的に言えば「影とアニマの相似」という事になる。

(4)従って影やアニマに対し正面から向き合い、対決し、同化する事が最良の対処法である。

「影の同化」によって人間は影の強力なエネルギーを使いこなしギリシャ神話的英雄となる。ヘラクレスの12の功業がその例として挙げられている。
逆に影が意識と切り離され孤立するほど不可解な魔術的な形で意識に危険な作用を及ぼす事になる。影は無視され誤解されることにより敵対的なものとなる。影は表の人格に対して毒にも薬にもなりうる両義性を持っているわけである。

アニマも同様に両義性を持ち、(2)の4段階を経て表の人格に統合されるとユングは考えた。アニマの両義性はグレイトマザーの両義性に繋がっている。これについてはまた次回に。
ttp://bashar8698.livedoor.blog/archives/15686973.html



男性を惹きつける「真珠の耳飾りの少女」のなぞ
有名人の絵
http://aurorashakti.blog117.fc2blog.us/blog-entry-126.html?sp

少し前まで、上野の美術館に
フェルメールの最高傑作「真珠の耳飾りの少女」が来ていたね。
この絵が好きな人は多いよね。
新聞に書いてあったけど、
皇太子は、この絵を何度も見に行ったとのこと。
なんかわかる気がするね~。
特に男性は惹きつけられる人が多いだろうね。
なぜ、この絵は人を惹きつけるのか! 
今日は、ユング心理学とアートセラピーの観点からそこに迫っていくよ。


まず、ユング心理学から見てみよう!

ユングの元型(アーキタイパルイメージ)の中には、
男性の心の中にある理想の女性像、アニマと
太母と言われるグレートマザーがあるね。

1番目にアニマを、
2番目にグレートマザーの生の側面から、
3番目にグレートマザーの死の側面を、そして、
4番目に男性の心の中にある娼婦的な女性像を、
5番目に淑女的な女性像を説明するね。

まず一つ目は、男性の心の中にあるアニマ像だね。
この「真珠の耳飾りの少女」に代表される永遠の少女。
かわいく、楚々としてあどけなさが残る少女。
男性は、このタイプの女性には弱いね。
自分が完全に自由にでき、優位に立てる見目が美しい女性像だね。
しかも、フェルメールが描いたこの作品は、
現実の女性像を描いたのではないかと
言われているにもかかわらず現実味がなく、
ある意味、理想的な美しいアニマとして考えられるくらい、
見る人の想像をかきたて、夢見る余地を残している。
だから、男性はアニマにとりつかれて、
一目で恋に落ちてしまったりする。

そして2つ目は、グレートマザーの生の側面。
聖母マリアに象徴されるはぐくみ育てる母なるもの。
絵画でいうとレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」。
男性は、無限大に受容される暖かな母なるものを
「モナ・リザ」に投影することができるね。

3つ目は、死のグレートマザーね。
男性を呑みこみ殺してしまう母なる元型だね。
これは鬼子母神などに象徴される悪女。
男性を征服するアマゾネスのような女性像。
こわいよね。
アニムス(女性の中にある男性原理)に乗っ取られた
現代の行動的、論理的女性にも通じるものがあるやり手の女性像。
女性は自戒しないとね。
でも、今日は省くね。

4つ目は娼婦像。
セックスアピールがあり、本能的にそそられる女性像。
広くとらえると愛人タイプの女性像とも考えられるね。
これも今日は省くね。

5つ目は淑女像。
つつましやかな女性像だね。
これは良妻賢母にもつながる昔ながらの女性のお手本。
これを男性は今でも女性に期待しているところがあるね。
これも今日は省き。

男性の心の中には、
この5つのタイプの女性像が混然一体としてあるんだけど、
フェルメールの「真珠の首飾りの少女」は、
まさに典型的な1番目のアニマ・タイプなんだね。

そして、次に、アートセラピーから、この絵に迫っていくよ。
この絵で特徴的なのは、この少女が左を向いていること、
そして、左に光源があるということ。
多分、同時代の画家のレンブラントとはここが大きく違うかな。
空間表象の見方として画面の左側は、
女性的な部分・過去・心の内界の領域だね。
おそらく、フェルメール自身が、
男性的で目的達成的であったり、行動化する右側の領域より、
画面の左側に象徴される心の内界や人々の生活に興味があり、
追求する画家だったんじゃないかな。
特に、左側の光源は、
暖かさや認められたい気持ちや包まれたい気持ちを表し、
彼自身もそれを求めていたかもしれないね。

色彩の点から言っても、
真黒な背景から浮かび上がってくる青と黄色の補色の組み合わせは、
見る人をどきっとさせるね。
不調和の色の重ねが見事に生きている絵だね。

次に人物だよ。画面の中央は現在を意味したね。
そこに、少女の顔の表情が浮かび上がるように焦点づけられ、
アップで描かれている。
物言いたげで、純粋無垢な感じだけれど、すごい色気だね。
なぜだと思う? 
それは、半開きの口と振り向いている姿勢からだよ。
ふくよかなどこか肉感的な唇、柔らかな目、
まるで闇から浮かび上がってきた
この世のものとは思えないくらいの美しさだね。

そして、振り向くという行為は、一瞬をとらえている。
飾らない命の輝きがそこにあるんだ。
一瞬であるがゆえに永遠。
呼びかけられたのか、それとも待っていたのか…、
振り向く一瞬には意図がまるでない無垢の美しさがあり、
それゆえ女性の色気を感じさせる一要素にもなっていて、
男性にはたまらないね。
だから、美人画に見かえり美人が多いのもうなずけるね。

ちなみに、京都の永観堂にある「みかえり阿弥陀像」を知っている? 
この阿弥陀様は、弟子に振り向いて「遅し」って言うんだよ。
つまり「早く来い」ってこと。すごい言葉だよね。
もし、この言葉をこの少女がこの姿勢で口にしたら…
ほとんどの男性はついていっちゃうだろうね(笑)。

フェルメールは、最近広く知られるようになった画家だけど、
今、この絵がこれだけ脚光を浴びる背景には、
現実の女性より架空の女性に癒されたいという
男性の心理があるかもしれないね。
肉食系男子が少なくなったと言われるけど、
思うようにならない現実の女性より、
望み通りになる架空の少女への支配欲みたいなものを
投影しているのかもしれないね。

今日は、ユング心理学やアートセラピーから
フェルメールの絵を見てみました。
いろんなことが見えてくるね。どうだったかな?
それでは、またね!
http://aurorashakti.blog117.fc2blog.us/blog-entry-126.html?sp



母、娘、太母、そしてマリアから叡智へ

 母、娘、太母( たいぼ )は、ギリシャ神話ではデメテル、コレー、ヘカテーです。易経流に言うと巽、兌、坤と成ります。
 『 女性の三相 』などと呼ばれていますが、それぞれは『 元型 』でもあります。

 モナリザに描かれた、少女、娘、母、太母( 大巫女 )。
 これに対して故、河合隼雄博士は、その記念すべき処女作『 ユング心理学入門 』( 培風館 p204 )で、

 アニマが分析を通じて追求されるとき、それは一つの発展の過程をたどるように思われる。


 と述べられ、アニマの大きなアウトラインを次のように提示されました。

 これをユングは四段階に分けて、第一段階を生物学的な段階、次にロマンチックな段階、そして霊的( spiritual )な段階、最後のは叡智( wisdom )の段階としている。(p205)

 モナリザのモデルを考える時、これは大きなヒントになる ……… いや、ほとんど答えに近いのではないでしょうか?

 ( ここで少し耳寄りな情報を挿入しておきますと、コレーはそもそも、創造・維持・破壊という存在の三相(つまり循環)を一身に受け持っていた女神だと言うのです。ダ・ヴィンチはこれも意識していたのかも知れません。リンクを張っておきます。)
ウィキペディアのコレーの項目
 さて、生物学的な段階とは「 娼婦型アニマ 」で、アニマの歩みは性的な魅力から始まります。女の子もおませさんなら、小学校の中学年くらいにも成ると、お化粧に厚い関心を示し、自分の髪を事務ハサミで切り、とんでもなく不細工に成った顔を鏡に写し、そのサイケな美しさに感動し頬を紅潮させ、親を絶叫させる事があります。( 笑 ) 中学生くらいに成ると髪を染めたくてたまらなくなり、自分が耳飾りなどして町を歩く姿を想像するだけで、心がはずむ。もう、世界全部が自分のものに成ったような気がするようです。結構な事です。

 男性の中のアニマも、お色気優先です。とにかく直接的に子供を生むような事が中心です。
 この段階のアニマは、まだ人格や個性とは関連していません。

 そして次のロマンチックな段階とは、センチメンタルな段階ではないと河合博士は注意を呼びかけます。

 ロマンチックアニマは、まさに西洋の文学が多大の努力を払って描き続けたものであり、古来の日本においてはあまり発達させられていなかったものといえるだろう。(中略) 実際的に、この段階にまでアニマを開発させている日本人は、現在においても、非常に少ないように思われる。(p206)

 と言いますから、なかなか一筋縄ではいきません。ほとんど人間として最高の段階であると思います。私はこのアニマは『 創造性 』が特徴であると思っています。と言うのも、もっぱら天才の男子の仕事と言われる創造は、基本的に女性原理に属するものと私は考えており、彼はまさに身を削って産み出すのです。
 娼婦型アニマと、その周辺の僕たち、つまり怒りや妬み、憎しみ、恐怖、死を中心とした自他の区別のない攻撃性など、自分の下位意識、影との全面対決をして、それらを取り込んで練り上げた内面を持つ人々。
 最も憎むべき、それを排斥するのに全人格を賭けて戰って来たものが、まさに自己の中にあると認め、それを受け入れた自己を許すだけではなく、しかも「 真 善 美 」への志向をやめない人。
 前に進まざるを得なかったため、これらの不可能事を成し遂げた、泣きながら大切なものを置き去りにして来て、後にそれそのものを永遠に手に入れた人 ……… 
 それは特に著名人、偉人でなくても、自分の人生を本当に創り上げて行った人々の内面の、人格化された何かであると思います。

 アニマの第三の段階は霊的な段階で、聖母マリアによって典型的に示される。(中略)
 これは母でありながら、同時に処女であり、母親としての至高の愛と、乙女の限りなき清らかさを共存せしめている。(p206)

 母であり娘でもあるもの! それはマリアであったか!
 ( マリアと言えば、レオナルドが繰り返し描いた姿、そしてその奥にいるマリアの母アンナ。モナリザにはそれが共に描かれている?!)

 何か、モナリザを解説するための文章のようですね。愛欲、下位の意識は神聖な愛に昇華されて、マリアの本質にさえ変容しています。
 マリアの名は、「 モナリザのモデルは母親説 」の周辺で、常に囁かれています。
 深く練り上げられた人格は、ついに気高い宗教的な色彩を帯びて来、この段階が最も聖なる、最上の段階であると言われています。

 しかし最上の次にはいつも、美しく何かを放棄した形で、すべてを統べる、その上がある事に成っています。河合博士はこの不思議に対し、

 これは、たぶん、「ときとして、たらないものは過ぎたるものにまさるという真実によるものであろう」(p207)

 と言うユング自身の言葉を引用しておられます。
 確かに完成してしまったら、動きがなくなります。そしてこれは易の方でやかましく言うのですが、変易こそが存在の性質です。仏陀にように涅槃に入ってしまったら、欠落を求めて遊行せねばなりません。
 しかしいったい、神のように、この世界の全てを認識する事が出来たら、我々はどんな表情をすれば良いのでしょう?
 ショウペンハウエルは、「 この世界の苦痛と快楽をすべて知る者が、地上が月面のように何もかもなくなったのを見れば、前と比べてどれだけ良い事に成ったかと思うだろう。」と、強烈な皮肉でごく若い私を爆笑させ、また、「 この世界の苦痛と喜びの比率を知りたければ、食うものの快楽と、食われるものの苦痛を比べてみるがいい。」とも言いましたが、いや、これは笑い事ではなかった。
 しかしもし、自分が世界そのものに成ったら?
 食べるために殺しながら、同時にこの世界の存続のために殺されており、しかも風や光や水でもある存在に成ったら?
 岡倉天心がモナリザを表現した通り、「 心に暗愁をいだきて笑みて 」と成るのではないでしょうか?
 巨大な苦悩はわずかの歓喜と完全に均衡(きんこう)を保ち、静かに、いつまでも回転しているからです。
 これは『 叡智のアニマ 』と呼ばれるもので、河合博士はその例として、ゼウスの頭から鎧(よろい)を着て生まれて来たギリシャの女神アテネを挙げた後、

 この段階のアニマ像としてわざわざギリシャの女神をあげなくとも、我国の有名な中宮寺の弥勒菩薩像があげられると筆者は考える。(p207)

 と述べておられます。あの、半跏思惟像(はんかしゆいぞう)ですね。お顔がよく写っている中宮寺のHPの『 本尊 』や、楽しいブログ などがお勧めです。
 そして中宮寺『 本尊 』のページには、弥勒菩薩が、

 数少い「 古典的微笑( アルカイックスマイル )」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「 世界の三つの微笑像 」とも呼ばれております。

 とあります。

 もちろんダ・ヴィンチは、突然あわられた訳ではありません。それまでのヨーロッパの文明、文化の背景、キリスト教の下地、美術や技術の蓄積の上に、出るべくして出たのです。しかし二つの文明圏に対し、一人の人間が一枚の絵で堂々渡り合うなど、途方もない事です。『 個人 』と言うものを、つくづく考えさせられてしまいます。と言うのも、私達だって、個人なのですからね。たぶん、すべてはここから生まれたからです。そしてこれからも、産まれて行くからです。
 この、いとも簡単になぶり殺しにされてゆく、個人から ………

 河合博士は、

 モナ・リザも、西洋における、この段階のアニマ像の表現の一つと考えられる。(p207)

 として、アテネ神、弥勒坐像、モナリザの共通項として、観世音菩薩を引き合いにしながら、この段階のアニマが、

 男性のようでもあれば女性のようでもある( むしろ女性的と思われる )(p207)

 と、まさにモナリザの中核に言及しています。更に言うならモナリザは、はっきりと女性であり、その正面には男性の顔が現れており、その奥には、神がまします。

 母であり、理想の女性であり、世界そのもの、つまり自己自身でもあるもの。その形成には母親が重要な役割を果たし、そしてそれは目の前の一個人モデルに投影される事もある。

 ……… 何か、思い出す概念はありませんか?
 そう、今まで見てきた通り、ユングの言う『 アニマ 』の概念に、非常に正確に合致します。それは『 自己 』と呼ばれる自分のたましいが、あるいはこの宇宙が、女性的な人の姿に表現されたものです。
 この答えにも驚かされましたが、私はむしろ今、教科書通りに暗記していたユングの『 アニマ 』の概念が、これほどまでに豊穣であった事に驚いています。これはモナリザに取り組まねば絶対に、一生わからないでいた事でしょう。
 そうしてダ・ヴィンチは、すべてのアニマ像を残らずこの一枚に結晶させたのでしょう。

 ちょうど透明なダイヤモンドが、その形の中に全ての色を宿していて、見る側の目がさまざまに色を拾い、みずから魅了されるように、それが多彩であると言う事を教えてくれるのです。
 目が色を拾うのは、目の中にすでに全ての色の光があるからです。アニマは我々の心の中に、種々の階層をなしてある。
 アニマは最下位から最上位の意識まで、地下から天上までを貫く一本の柱のようにある。
 人の心の中には、最初から全ての女性像が、複合された合成画のように、一つの人格として統合されてある。
 ダ・ヴィンチはそれをそのまま描いたのだと思われます。
 これが『モナリザのモデルは誰か?』に対する答えだろうと思います。
 しかしいったい人間にそんな事が? ……… たった四本のラインだけで? ……… ダ・ヴィンチの天才に、改めて驚嘆せざるを得ません。

 我々が「モナリザのモデルは?」と問う時、それは「絵画中央の女性」を意味している筈です。
 その答えは出たと言って良いのではないでしょうか?
 我々は「モナリザのモデルは誰か?」と言う問いで、「アニマとは何か?」を論じていたのではないでしょうか?

 モナリザ中央の女性は、『 正確な意味でのユングの言うアニマ像 』
 少女であり娘であり、母であり聖母でもある、人類の意識に普遍的に存在する女性像。
 投影の題材として使われたのは、夫人(モナ)リザ(エリザベッタの愛称)・デル・ジョコンダ。

 ところがモナリザは、これで終わりではありません。
 人はアニマによって、意識の堂奥へと導かれるものだと言います。
 ダ・ヴィンチが完全なアニマ像を描いたのは、まさにそこへ、「 世界へ 」と、人を導くためと思われるからです。
 だからこれはむしろ、入り口かも知れないのです。
https://monalisa-nazo.sakura.ne.jp/honnbunn/hahamusumemaria.html



中年の恋愛?深層心理から紐解くミドルエイジ男性の恋愛
【現役カウンセラーが解説】中年男性が時に直面する激しい恋愛感情。普段は真面目で冷静な【心理カウンセラーが解説】真面目な中年男性が、突然道ならぬ恋に溺れてしまうことがあるのはなぜ? C.G.ユングの深層心理学の理論をもとに、この心理を解説します。
大美賀 直子

中年期こそ、思わぬ恋愛感情に溺れやすい理由

恋愛に夢中になった中年男性

真面目に人生を歩んできた中年男性が、ふと目の前に現れた魅力的な女性に心を奪われ、恋に落ちていくことがあります。それが不倫であったり、立場をわきまえない恋愛だったりすると、家族の信頼や社会的信用を失ってしまうことも……。こうした出来事を今は他人事に感じていても、いつそれが自分事になるかわかりません。

深層心理学の大家、C.G.ユングは40歳を「人生の正午」と呼びました。40代に入ると、人は若いころに設定した人生目標からのシフトチェンジを迫られ、後半生の生き方を模索するようになるのです。この中年期に、多くの人は「中年の危機」を体験し、激しい感情の波に振り回されます。

中年の危機にはさまざまな現象が起こりますが、たとえば、それまで恋愛にさして関心をもたなかった男性が、ある女性に訳もなく惹かれて恋愛感情に溺れしまう、といったこともあるのです。C.G.ユングの深層心理学理論の中に「アニマ」という概念があり、この概念が中年男性の恋愛感情を理解する一つのヒントになるかもしれません。

ユングの提唱する「アニマ」とは……男性の中に潜む女性らしさ
私たちは通常、自分の性別に基づいた「男性らしさ」「女性らしさ」を意識しながら生きていることが多いものです。しかし、C.G.ユングは、人間の潜在意識には、自覚する性別と真逆の性別、つまり、男性の中には女性らしさ、女性の中には男性らしさが潜んでいると説きました。この男性の中に潜む女性性を「アニマ」と呼び、女性の中に潜む男性性を「アニムス」と呼びます。ここでは、男性の中の「アニマ」についてお話しします。

多くの男性は普段、自分の中のアニマを意識せずに生活していますが、実はそうした中でも、時折、アニマ的な要素が表出されそうになる瞬間があります。そんなとき、男性はたいてい「メソメソしてはダメだ」「女々しいな、俺は」というようにその要素を否定し、男らしくあることをより強く意識しようとするものです。

しかし、人生の転換期である中年期には、若いころに抑えていた潜在意識下の要素が湧出しやすくなります。そのため、それまで「男らしさ」にこだわってきた人ほど、潜在意識に潜むアニマが急に湧き出し、女性的な感情に振り回されることがあるといわれています。


その結果として引き起こされる現象の一つに、「中年期の恋」があります。つまり、自分の心に潜むアニマのイメージに符合する女性にめぐり合うと、無性にその女性に惹きつけられ、統合したくなってしまうのです。

段階によって異なる「アニマ」のステージ

では、アニマとは具体的にどのようなものなのでしょう? たとえば、甘やかさや優美さ、神秘性や感情の豊かさ、繊細さ、包み込むような優しさ……こうした女性的なイメージが「アニマ」です。これらは、力強く、論理的で厳格な男らしさとは、対極にあるものといえます。


こうしたアニマにはいくつかのステージがあり、その人の精神性によって、アニマのイメージが異なると言われています。

アニマ未満のレベルは、「お母さん」的な女性への思慕の念や「近所のおばさん」のように身近で優しい女性に対する愛着の念だといわれます。その上が恋愛感情にも通じるアニマのステージであり、ユングはこれを4つの段階に分類しました。

第1段階は「生物学的なアニマ」。****を満たしてくれそうな肉感的な女性に惹かれます。女性の精神性には関心がなく、若さや体形、セクシーさに惹かれます。たとえば、グラマーなモデルやグラビアアイドルは、この層のアニマのイメージに近いものと思います。

第2段階は「ロマンティックなアニマ」。女性の人格に着目し始め、女性の清らかさや優雅さに憧れを抱きます。アニメやSF映画のヒロインに憧れる感情、といえば分かりやすいでしょうか。たとえば、映画『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロインであるクラリスや、『スター・ウォーズ』のレイア姫は、この層のアニマのイメージに近いものと思います。

第3段階は「霊的なアニマ」。聖母マリアのように純粋で清らか、同時に母性的な強さや包容力も持ちあわせた深みのある女性性への尊敬です。女優にたとえるなら、往年の吉永小百合さんやオードリー・ヘプバーンはこの層のアニマのイメージに近いものと思います。

第4段階は「叡知のアニマ」。この段階まで来ると、人間のレベルを超えた神々しい女性性への崇拝になります。モナリザや観音菩薩、弥勒菩薩といった、現実の女性を超越した気高さ、穏やかな中にある力強さ、女性的な神仏に象徴されるイメージに静かに心打たれる心境です。

中年期の恋愛の注意点……恋に溺れるか、統合された自分になるか
多くの男性は若い頃には、自分の男性性を満足させることで自信を得ていこうとするものです。ところが後半生に入ると、それだけでは自分の人生を満たすことができないことを、心の深い部分で感じるようになります。

こうした中、「アニマ」つまり自分の中にある女性性をも満たしていくことに心が向かい、自分自身の男性性と女性性を統合させ、心の全体性の完成を目指す――。これが中年期に行う人生課題の一つなのだと、C.G.ユングは説いています。

しかし、アニマのイメージに符合する現実の女性に惹かれすぎて、その人との恋におぼれ、それまで築いてきた自分の人生を破棄してしまったら、「統合」という人生課題に向き合うどころか、破滅と後悔の道に進んでしまうかしれません。また、アニマのイメージばかりを膨らませて実際に付き合い始めると、その女性も結局「ただのつまらない女」だと知って失望し、かといって自分にはもう戻る家庭もない、ということにもなりかねません。

大切なのは「中年のこの時期に、なぜこの女性に無性に惹かれるのか」、そうした自分の感情の意味と向き合い、深く考察することです。すると、その女性を現実的に手に入れるより、自分のアニマの象徴として憧れや尊敬の念をもって接していた方が、自我とのバランスを保ちながら長く健康的に成長できるということがわかるようになると思います。

こうして自分の中のアニマと向き合い、アニマも自分自身を構成する大切な一部であることを受け入れることによって初めて、男性は人間としての「心の全体性」の実現に向かっていくことができるのです。

女性の「アニムス」に関しては

「力と知性に目覚めた女性が「いばらの道」を歩むわけ」
https://allabout.co.jp/gm/gc/450391/

をご覧ください。
https://allabout.co.jp/gm/gc/449673/


アニマ・アニムスの4つの発達段階

アニマ、アニムスについておさらいです。
アニマとは、男性の内面にある女性性(女性像) アニムスとは女性の内面にある男性性(男性像)でしたよね。

そして、男性性とは、「能動性」と「切り分ける機能」を特徴とした男性原理を表現した性質で 「論理性」「合理性」「理性」「競争志向」をキーワードに「判断する」「評価する」「分析する」性質でした。

女性性とは、「受動性」と「融合・結合する機能」を特徴とした女性原理を表現した性質で、「情緒性」「感受性」「感性」「イメージ」「協調志向」をキーワードに「受容する」「共感する」「あるがままに見つめる」性質でしたね。

このアニマ・アニムスには、それぞれ4つの発達段階があり、より高次なアニマ・アニムスに成長することで全体としての自分も成長でき魂が磨かれてゆくことになります。

ユング博士によるアニマの4つの発達段階

(1)肉体的なアニマ
アニマの第1段階は、肉体的なアニマです。
これは、アニマの最も未熟な段階なのですが、この段階では、性的な面が強調されます。
この段階のアニマを持つ男性は、それを女性に投影するので、女性に対して内面よりも肉体的・性的な魅力を求める傾向があります。

(2)ロマンティックなアニマ
アニマの第2段階は、ロマンティックなアニマです。
第1段階の肉体的なアニマでは、性的な魅力のある女性であれば誰でもよかったのですが、第2段階のロマンティックなアニマでは、女性を一人の人格として認め、特定の一人の女性に対して、その内面的な女性らしさに魅力を感じるようになります。

(3)霊的なアニマ
アニマの第3段階は、霊的なアニマです。
この段階のアニマを持つ男性は、女性に対して、その精神性の高さに魅力を感じるようになります。
この霊的なアニマの代表的な象徴の一つとしては、聖母マリアがあります。
聖母マリアは、母親でありながら処女でもあります。
母親として子どもを育てる存在であり、かつ、乙女のような清らかな精神性をも持った存在でもあります。
つまり、対極的な要素を統合することによる、成熟した精神性が、このアニマの特徴です。

(4)叡智のアニマ
アニマの発達の最終段階は、叡智のアニマです。
この段階に到達している男性は極めて稀だと言われていますが、この段階においては、内なる女性性が叡智にまで高められ、もはや女らしさが強調されることはありません。
叡智のアニマの代表的なイメージとしては、ギリシアの女神アテナや、絵画のモナリザがあります。
東洋では、観音菩薩や弥勒菩薩などがこれにあたります。
いずれも中性的、あるいは両性具有的ですね。これが叡智のアニマの特徴です。


エンマ・ユング(ユング博士の妻)によるアニムスの4つの発達段階

(1)力のアニムス
アニムスの第1段階は、力のアニムスです。
この段階のアニムスを持つ女性は、それを男性に投影するので、肉体的な力強さを持つ男性に惹かれる傾向があります。
思春期の女の子は、この段階のアニムスを持っていることが多く、彼女たちが、有名なスポーツ選手や、ちょっと不良っぽい先輩、運動部で活躍する同級生の男子、躍動感あふれるダンスをする男性アイドル等にあこがれるのは、力のアニムスの投影によるものと考えられます。

(2)行為のアニムス
アニムスの第2段階は、行為のアニムスです。
この段階のアニムスを持つ女性は、強い意志にもとづいて行動力を発揮する男性に惹かれる傾向があります。
肉体的な力強さとは違って、強い信念や意志力などの精神性がベースになっているのが特徴です。

(3)言葉のアニムス
アニムスの第3段階は、言葉のアニムスです。
この段階のアニムスを持つ女性は、ものごとを的確に表す言葉、人の心を動かす言葉、論理的でわかりやすい言葉、など、これらの言葉を使う能力に長けた男性に惹かれる傾向があります。
言葉を使って、価値観の違う相手と対話し、理解し合ったり、利害の対立する相手と上手に交渉したり、理不尽なことを言う相手に理性的に抗議をしたり、そんな力を有しているのが、第3段階のアニムスです。
「ロゴス」という言葉があります。
これは、「論理、理性、言語」を意味する言葉なのですが、第3段階のアニムスは、このロゴス性が開花した状態ともいえます。

(4)意味のアニムス
アニムスの発達の最終段階は、意味のアニムスです。
この段階のアニムスを持つ女性は、ものごとを言葉で的確に説明するだけでなく、ものごとに秘められた意味をも解き明かしてくれる男性に惹かれる傾向があります。
この段階のアニムスのイメージは、老賢者です。

それぞれのアニマ・アニムスが発達してゆけば、それに見合った相手と出会えることになるわけですね。

であるとすると、パートナーや恋人の足らないところを探すのではなく、自らのそしてお互いのアニマ・アニムスを高められる関係性を継続してゆくことがより豊かな生活につながってゆくのでしょうか?
https://ameblo.jp/noma-nouen/entry-12493592282.html

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