-
1:777
:
2022/06/04 (Sat) 06:28:37
-
中国共産党でただ一人共産主義者だった周恩来がやった事
周恩来
2009年05月13日 (水) 22:26
http://tokaiama.blog69.fc2blog.us/blog-entry-223.html
周恩来
初代中華人民共和国総理として1949年から76年まで、27年にわたって中国を率いた周恩来を知らぬ者はいないだろう。
とりわけ、50~70年、日本訪中団のほとんどの人たちと面会し、記念写真に収まっているから、彼を直接見た経験のある日本人もたくさん存命している。
その類い希な誠意と人間的な大きさ、優しさ、暖かみに触れるなら、周恩来を嫌いだと思うような人はほとんどいない。中国でも同じで、歴史上のあらゆる指導者のなかで、もっとも深く敬愛されている人である。
中国では敬愛する偉人を神として祀る風習がある。古くは越の范蠡(陶朱公)諸葛亮・関羽・張良などだが、周恩来も新しい民衆信仰として周恩来廟が建てられて祀られているようだ。
周恩来は、1898年3月5日、まだ清時代に、江蘇省淮安市で官僚地主の家に誕生した。清が滅び中華民国となった15歳のとき天津の南開中学校に入学し、孫文が起こした辛亥革命に触れる。
1917年、日本に留学、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、明治大学政治経済科に通学。こうした体験から、周恩来は日本に対し、特別の親しみを抱いていたようだ。
1920年パリに留学する。彼は中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部書記となった。この時代の仲間には、李立三や小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いた。
ここで、中国政権を見る上で大切な視点が明らかになる。
中国における読書階級、計画的、組織的な行動をシュミレーション可能だったインテリ階級は、半奴隷(農奴)社会であった中国にあっては、地主官僚階級子弟しか存在しなかった。
農民に教育の機会は与えられず、大部分が文盲であり、黄巾党・青幇・紅幇のような宗教的結社・犯罪結社に組織されることはあっても、政治結社は官僚・地主子弟の独壇場であった。
そして、そうした特権階級は、客家出身者が多く、洪秀全・孫文・宋慶齢姉妹・朱徳・彰徳懐・葉剣英・郭沫若・蓼承志・郵小平・李鵬・朱鎗基・李登輝・蒲万長氏・許信良・呉伯雄・シアヌーク・アキノ・リーグァンユー・ゴーチョクトンらは、すべて客家である。
客家は華僑の主役でもあり、その経済的実力が抜きんでていた。この経済力を背景に、子弟たちを欧米日各国に留学させ、中国の指導階級になっているのである。
ここで、我々は、中国共産党、建国の元老たちの正体が、すべて官僚地主階級出身者である事実を見ておかねばならない。
第一次国共合作が成立した1924年に帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌年、五・四学生運動時代の恋人穎超と結婚した。26年、上海に移り、ここで労働者の武装蜂起を指導して上海市民政府を樹立したが、入城した蒋介石の北伐軍に弾圧されて捕らえられ、処刑される寸前で脱出した。
その後、国民革命軍の南昌蜂起を朱徳と共に指導した。31年、江西省の瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立されると瑞金に入り、軍事委員会副主席として活動、長征に妻と共に参加した。遵義会議では自ら自己批判をし、毛沢東に主導権を渡すのを助けた。以来、最後まで毛沢東路線を支える役割を果たした。(ウィキ引用))
周恩来は、建国以来、表向き毛沢東の政治方針に従い続けたが、実際には、紅衛兵の狂信的な横暴に対して、身を挺して阻止する場面が多々あった。
例えば、最期の清国皇帝溥儀を殺害させないために、北京植物園の庭師に変身させ、恐ろしく強靱な妻を嫁がせて身を守らせ、****をやり過ごさせた。川島芳子を守ったのも彼だ。
八路軍に対立した新四軍派の幹部がまとめて殺戮されそうになると、劉少奇を公式に批判することで、党の処分を名目に、その命を守ろうとした。
紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。
外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」と叫び、身を挺して守った。
しかし限界があり、全体として****の嵐を止めることは出来なかった。ここに、最後まで毛沢東に忠実だった宰相・周恩来の限界があった。その象徴的事例として、彼の養女であり女優であった孫維世の悲劇がある。
孫維世は毛沢東の妻である江青の激しい憎悪の対象であった。江青のこの感情は、江青が上海で女優をしていた時、不遇だった自分に比べ脚光を浴びていたからとも、「延安四大美女」のひとり、或いは「紅色公主」(赤いプリンセス)と呼ばれていた彼女に毛沢東が関係を迫った事を知っての嫉妬だったとも言われるが、その差し金によって逮捕された孫維世は北京獄中で拷問を受けて死亡した。
しかし周恩来は養女である彼女のために何もしなかった。それどころか、孫維世へ対する“ソ連修正主義者のスパイ”という逮捕状にサインしていたのは周恩来本人だったとの証言も残されており、この様な仕打ちを受けてまで毛沢東に追従し続けた彼を批判する声は多い。
(ウィキ引用、筆者は、この事件について詳しく知らないが、後に小平が、辛い思いをこらえて、本意ではないことを、やらなければ他の人を守れなかったと、この時期の彼の立場を弁護している)
転機となったのが1971年の林彪事件であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバ2であったが、じきに毛沢東の信頼を失い、毛の暗殺を計画したが失敗(林彪は毛沢東が****で中国を破壊する事に批判を強めていたとも言われる)。
ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となって小平が復権、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は小平と協力して****の混乱を収拾しようとした。
周恩来は****の最中、長時間の紅衛兵との接見や膨大な実務に奔走した。十数時間も執務し続けることも珍しくなかった。これに前述の孫維世の件など激しい心労も加わり、彼の体は病に蝕まれていった。後に周恩来自身が侍医に「****によって寿命が十年縮まった」と語ったと言う。
1972年、膀胱癌が発見され、1976年北京の解放軍第301病院で死亡した。
後に筆者は、このとき毛沢東が病院に対して出したとされる指示を知り、我が目を疑った。
それは、「周恩来を治療してはならない」というものだった。
それは、おそらく毛の名を使った四人組、江青の指示によるものだっただろう。周恩来の最晩年は、四人組との熾烈な戦いに翻弄される毎日だった。
彼の死後、民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを四人組当局が鎮圧するという第一次****が起こった。
中国国民は****の混乱に嫌気が差しており周恩来を尊敬していた。周を孔子になぞらえて批判し失脚をはかった四人組による「****運動」が国民の支持を集めなかったのも、そこに原因があった。人々は復権した小平を事態を収拾してくれる人物として喜び四人組に反感を持っていた。
ゆえに1976年1月の周恩来の死は国内に大きな悲しみをひきおこし、周を評価し四人組を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど****全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。江青たちはこうした空気に危機感を募らせていた。
特に4月4日は清明節という中国のお盆にあたる日で、2万人近くの群衆が集まった。人々は周恩来に対し花輪や詩を捧げるだけでなく、四人組を批判する演説や「インターナショナル」を歌うなど気勢を上げた。
数日前から四人組の指示を受けた公安部による取り締まりが、花輪の撤去や街宣車による警告、説得や拘禁などの形で始まっていたが、かえって逆効果となる。ついには取締りに当たる警官や兵士までもが人々の熱気に感化されて職場を放棄する事態となった。
四人組は党中央を動かし、これを****行為ときめつけ実力行使に出る。この犠牲者や逮捕者は不明だが、発砲が行われ、第二次****と同じ数千名の死者が出たとも噂されている。
以来、中国民衆は周恩来に対する敬意を表だって示せば当局の弾圧を食らうことになり、密かに周恩来廟を建立して、崇拝するという風習が生まれることになった。
この事件で、四人組は耄碌した毛沢東に取り入り、小平が責任を問われて処罰され失脚したが、後に76年の毛沢東死亡後、葉剣英や華国峰らによって、四人組はやっと追放され、小平も復権した。
これで数千万人の知識人犠牲者を出したと言われる****は終焉を迎えた。また四人組の極左的大殺戮の反動により、小平の指導した開放路線は、逆に右傾化した極端な資本主義化を招くことになった。
近世中国権力史にあって、****は知識人、党実権派に対する巨大な革命戦争といわれたが、なぜ、そんな事態が起きたのか? といえば、最初に述べたように、中国革命勢力の指導者は、全員、地主・官僚階級の子弟だったからだ。
文字を読み、論理的思考訓練をした階層は、特権階級しかいなかったのだ。したがって、革命後、政権が安定すれば、再び自分たちの出身階級の利益を回復しようとする傾向があからさまになる事態は避けられなかった。
これを見て毛沢東は焦り、巨大な****によって、実力で実権派を粉砕しようとしたのである。だが、****の、あまりにも凄惨な行きすぎた暴走によって、逆の結果を招いたと断言してよいだろう。
中国社会を根底で支えた知識人階級を根絶しようとした結果、社会は大混乱に陥り、行政事務から農作物管理、工業に至るまで、無知な素人が失敗を重ねるだけの結果を招き、中国民衆は****の愚かさを思い知ることになった。
そこで小平らが****をやめさせたのはよいが、これも逆暴走し、極端な官僚資本主義社会の到来を招いてしまったのである。
中国には、再び革命が必要になった。
筆者は、周恩来と直接会ったことはないが、1971年、日本での卓球代表団の警備に参加し、莊則棟などと直接交流した。このとき日本側担当女性と彼とのロマンスが生まれ、後に結婚している。
ピンポン外交で有名になった、この大会の仕掛け人は、愛大の後藤学長と周恩来であった。この当時の中国は、少年だった筆者にとっては、まさしく桃源郷、人類最高のユートピアに見えたものだ。
日本に紹介される中国の記事には、必ず周恩来の笑顔があった。そして、その温かいもてなし、優しさは、中国訪問団の全員が懐かしく語るところであった。
まだ当時は****の最中で、詳しい情報は伝わらず、1億人に迫るような膨大な虐殺があったなど、まったく想像もしていなかった。
政権幹部たちも例外でなく、毛沢東以外のすべての幹部が批判され、周恩来でさえ四人組に批判され追放されかけ、また養女を殺害されている。
周恩来は、建国以来の同志や周囲にいる人たちの命を守るため、必死になって演技をしなければならないこともあった。
しかし、その温かい人間性は変わることがなかった。周恩来に一度触れた人たちは、終生、彼を尊敬し、死ぬまで暖かい笑顔と、誠意を忘れることがなかった。
周の死後、周と穎超夫人の帳簿整理に当たった人によると、周総理の当時の所得は、給与と給与振込口座の預金残高に対する利子のみだった。支出は、食費、党費、家賃、新聞代、日用品、親戚への仕送り、職員への手当て、寄付金などがあった。残された貯蓄は、夫妻合わせてわずか5100元(約20万円)しかなかった。
これが27年間にわたって中国国家総理を勤めた人の残した遺産である。周恩来という人物が、どれほど清廉潔癖な人物であったかを証明する何よりの証拠であろう。
http://tokaiama.blog69.fc2blog.us/blog-entry-223.html
▲△▽▼
中国共産党の強欲・残虐は、どこからくるのか?
2021年03月30日
http://tokaiama.blog69.fc2blog.us/blog-entry-1448.html
私は、1970年頃から日中友好協会正統本部に出入りし、ピンポン外交の現場で警備を担当したこともある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%E5%A4%96%E4%BA%A4#:~:text=%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%E5%A4%96%E4%BA%A4%EF%BC%88%E3%81%B4%E3%82%93%E3%81%BD%E3%82%93%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%86,%E4%B8%80%E9%80%A3%E3%81%AE%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%82%92%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82
当時は、毛沢東中国革命に憧れ、毛沢東の講話集を読みふけり、新島淳良の「星火燎原」に興奮し、ML派の集会に馳せ参じ、紅衛兵バッジを胸につけ、バリバリの中国派を自認していた。
しかし、転機が訪れたのは、毛沢東の指示により林彪が撃墜死したことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BD%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
私は、八路軍物語における周恩来と林彪に心酔していたのだ。その二人とも毛沢東の指示により死に至ったとの情報が流れた。
http://tokaiama.blog69.fc2blog.us/blog-entry-223.html
それから、中国共産党の負の情報に目を通すようになると、出るわ出るわ、恐ろしい虐殺と隠蔽、捏造、とりわけ****における凄絶な実話を目にし、毛沢東が無類の女好きで、立場を利用して、手当たり次第に女漁りをしていたことなど、それまでの毛に対する畏敬と信頼が一挙に崩壊するような情報と出会って、一気に反中国共産党の立場に変化させられた。
それからというもの、中国史を学び、中国と中国共産党の真の姿、歴史を理解しようと、さまざまな情報に目を通した。
そして、神格化された毛沢東の真の姿は、単なる「思いつき人間」であり、数千万の民衆の死の責任が自分にあるにもかかわらず、一顧だにせず独善にふける人物であると理解した。
具体的にいえば、大躍進と****である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96#:~:text=%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96%EF%BC%88%E3%81%A0%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%8F,%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%A2%97%E7%94%A3%E6%94%BF%E7%AD%96
毛沢東による現実を無視した、非科学的な民衆への妄想強要によって、大躍進運動の期間中、数千万人の人々が餓死させられた。それを中国共産党内部で、劉少奇や鄧小平が毛を批判したことで、政治的に追い詰められた毛は、自分のカリスマ性を利用した権力闘争に打って出た。それが****だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD
****も、大躍進同様、数千万人の人々を大衆運動によって殺害した。
ひとつには、中国は儒教国家であり、儒教の本質は人間に序列をつけて差別し、底辺の人々を奴隷化することで地主階級の利権蓄財を確保する体制が、強固な文化として存在した。
こうした差別は、魯迅の「阿Q正伝」に衝撃的に描写されているし、パールバックの「大地」からも伝わってくる。
こうした土着的差別体制への底辺の民衆の憎悪・憤懣が累積していたことが、****大虐殺の背景であり、本質といえるだろう。
中国は、人の命の値段が安い国であり続けた。
http://tokaiama.blog69.fc2blog.us/blog-entry-1418.html
大躍進や****の死の海のなかで、多くの人々がカリバニズムに遭った。
https://www.afpbb.com/articles/-/3086883
中国では、人の命は豚よりも安かった。だから、殺人があまりにも、ありふれた日常風景であった。人々はいとも簡単に命を絶たれるのが普通だった。しかも遺体は食べられる。
以下は、インドや中国などの人口推移である。
jinkousuii01.jpg
上のグラフから読み解ける真実は、中国・インドでは、有史以来、1900年前後まで、人口推移がほとんど変化しなかったことだ。
この意味するところは、「余分に増えた人は死んだ(殺された)」ことである。
社会全体が養える人口は限られていて、それをはみ出した人口は、いとも容易に始末されたのだ。
それが、1946年の中国共産党成立から、いきなり平均寿命が急上昇して世界平均に追いついている。
これが、中国共産党の存在理由であり正義であると言い換えてもよい。
インドでも同じように寿命が二次関数で伸びている理由は、結局、第二次世界大戦が、この正義をもたらしたと解釈することができるだろう。
「大戦争による大量死が、その後の安定社会を生み出し、人口を急に増やした」のである。
1900年頃までの中国の平均寿命は、おそらく30歳に満たなかったと思われる。(データがないが)、このとき日本人の平均寿命は30~40歳程度だった。
大陸は生き延びる条件が厳しい。生命力の強い若者でなければ生き抜けなかった。
死ぬ理由は、いくつかあるが、最大のものが戦争であり、次に飢饉と疫病である。今、我々はコロナ禍という疫病淘汰に直面していることから類推してみればいい。
例えば、2500年前に「臥薪嘗胆」で知られる呉越戦争があり、呉が敗戦国民となった。当時は、人口を支える土地生産力が限られていたから、敗戦国には「坑刑」というジェノサイドが行われるのが普通だった。
これを怖れて、水郷国(蘇州)、呉の人々は、得意な操船技術を用いて国外に逃げ出した。
その行き先は、台湾・朝鮮半島南岸・そして九州だった。それが「弥生人」となった。その末裔が邪馬台国を創建したのは想像に固くないし、それを裏付ける史料もある。
ただ、真実が明らかになると天皇家万世一系説が揺らぐので、日本では隠されているだけだ。
中国の飢饉の規模は凄まじいものだった。例えばくり返し襲ってくる蝗害は、パールバックの大地に描写されている。
中国の古い史跡にある土塀を解体したりすると、かなりの割合で大量の人骨が出土する。いったい、どれほどの人々が殺されたのかを端的に示すものだ。
坑刑で大穴に埋められた遺体は、鼠が食べて大量に増殖する。そして、それは人々の大切な食料となる。
中国における儒教は、序列によって権力を維持するシステムだが、従わない者は片っ端から殺した。その遺体は塩漬けにされて食料となった。
孔子の大好物が、このような「人醤」だったことが知られている。
http://blog.livedoor.jp/mappkakr/archives/9662241.html
これが中国における「人の命」の意味なのだ。
だから、私は前世紀末に、江沢民が法輪功を弾圧し、信者を不法に拘束して生きたまま臓器を奪って売り飛ばしたという情報を得ても、さほど驚かなかった。
それが中国だからだ。人は大切な食料なのだから、「臓器を売る」発想は、その延長である。
中国は人が増えすぎた。2021年度現在、14億人と公表されているが、もちろん信じる者はいない。中国における人口抑制策の柱であった「一人っ子政策」は、戸籍に載らない「闇の子」を大量に産んだ。これをヘイハイズ(黒亥子)という。
このヘイハイズは、一切の人間的権利を持たないので、経営者は食べさせるだけで事実上、無賃金で雇用してきた。
これが世界経済で中国の低価格による圧倒的な勝利を起こさせた本当の正体である。
中国共産党は、本当の奴隷階級であるヘイハイズのおかげで圧倒的な権力を手中にしたのだ。
ヘイハイズがどれくらいいるかといえば、2010年段階で、少なくとも4億人、つまり中国の本当の人口は18億人であり、20億人と推計する知識人も少なくない。
この20億人を、環境に負荷のかからない自然循環サイクルのなかで、「持続可能な未来」を保証できるかといえば、まともな手段では無理だろう。
中国人は、生き延びるために侵略強奪を繰り返さねばならないのだ。
これが中国共産党の強欲と残虐に満ちたウイグル政策、法輪功政策になっているし、また尖閣諸島強奪作戦も、そうした強欲の思想性が前提になっている。
中国人、中国共産党にとっては、「愛の世界」=公序良俗という倫理は何の価値もない軽いものだ。
そこにあるのは、迫り来る飢えの恐怖から、他国を侵略・簒奪し、自分たちの利権を実力で確保するという短絡的発想だけだ。中国4000年の歴史には、そんな強奪の論理が刷り込まれているといってよい。
現在、中国共産党は、尖閣どころではない、北海道・沖縄を強奪するために策謀を巡らし、民間に隠れて大規模に土地を買収している。自民党には二階(竹中平蔵一派)という中国の飼犬がいて、党内で中国の買収を阻止するという声が出ると、それを押さえ込んでしまう。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21650
https://honichi.com/news/2019/09/25/chinahokkaido/
https://www.fnn.jp/articles/-/28131
このまま、自民党の支配が続けば、尖閣ばかりか、北海道も沖縄も中国に乗っ取られてしまう可能性がある。彼らは合法的に土地買収を進め、菅政権はじめ自民党政権は、「経済最優先」という錦の御旗にしがみついて、北海道の買収が、どんな意味を持っているのか知ろうともしない。
中国共産党と中国人が、世界の安定調和を目指すかといえば、それはありえない。「中国共産党の支配による安定」しかありえないのだ。
それは権力に従わない民衆を拘束し、生きたまま内臓を抜き取って売りさばくような価値観にある。
私は20歳前に、毛沢東思想を信仰していたが、それが、まさか、このような恐ろしい集団に変貌するとは予想もしていなかった。
しかし、歴史を振り返れば、孔子が儒教によって権力を維持する思想を普及させたことで、その結末がこうなることは、ごく自然な必然性だった。
根拠のない「序列思想」がもたらすものは、底辺の奴隷化しかないのだ。
私は、中国共産党の自滅崩壊が目の前に来ていると思っている。
中国流の価値観は世界には通用しない。西欧キリスト教文明と儒教中国文明の対立=世界戦争は目前である。
日本にも、竹中平蔵のような売国奴がいる以上、日本が、どちらに与するかを判断するのは容易ではない。あるいは、戦争の****のなかで、我々日本人は溺死させられるのかもしれない。
参考記事 中国の植民地政策
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6389199
http://tokaiama.blog69.fc2blog.us/blog-entry-1448.html
-
2:777
:
2022/07/04 (Mon) 02:32:05
-
あげ18
-
3:777
:
2022/08/25 (Thu) 02:21:49
-
あげ555
-
4:777
:
2022/08/25 (Thu) 02:54:35
-
林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青のライバルは周恩来を中心とする実務派になる。
江青は「****」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
毛沢東が周恩来の****工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていた。
http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm
周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。
毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。
http://blog.ohtan.net/archives/50955629.html
周恩来の死
周恩来は田中角栄との日****同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。
実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。
その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された****期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。
どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。
では、同じように行政手腕に長けた劉少奇と鄧小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また****初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も****期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。
しかし、こうした彼の行動については追放された鄧小平自身も理解を示しています。鄧小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら****の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの****期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。
その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次****につながることとなりました。
日本人は「****」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「********」、私は「第二次****」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は****は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。
その第一次****ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から****を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の****同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。
その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していた鄧小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺して鄧小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。
しかし、この鄧小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、****の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。
http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_9187.html
/ \
/ / ∠三ミレ-- 、 ヽ
/ / //─'''´ ̄ ̄`ヽ ゙i
/ / // ゙iヽ ヽ |
,' / // | ヽ ', |
| | / l,、、,,_ -‐''" ̄`゙i. | | |
| | / ノ,.t-、 'Tッ'Tゝ ヽ|レ‐、| |
゙i |/ ,ィ`' _L.,! ` ┴' リ‐、 } |
.!///゙! , ノ__/ .!
|/ | ', ゙ / | |
|! | \ ゚ / | .!
{ | | | ゙ヽ、 / | | | 共産革命は
゙、 ', | | | `l'"´ ゙、| |i | 唯の時代劇だったのよ
ヽ ヽ | | レ'′ \ || /
/ヽ \! |  ̄ `` r'´ ` ̄``ヽ
/ ヽ ヽ ノ ヽ
| 〉 V | |
| / / \ ヽ、 |
| / / /| ヽ \
.! / { ヽ| ... ゙、 ヽ
| { ゙i ヽ ::r.;:. l ::_)
.! \ ト、 | `゙" / /
| ト| | ∧ / /
| / / /|| ゙ヽ、 __ ,. -'" ` ーr┬ '′
| / / | ヽ、 | /
-
5:777
:
2023/05/28 (Sun) 13:52:55
-
雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227
中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。
本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。
次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。
本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。
戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。
1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに****の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に****を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、****否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、****の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、****はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では****支持派が勢力を有し、****批判派を排除したばかりか、後に****の実態が明らかになっても、****支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された****批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)****支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。
1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の****の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や****の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、****以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。
こうした日中の 「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の****以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。****で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html