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邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
邪馬台国をなぜ 「ヤマタイ国」と読むようになったのか -皇国史観の呪縛ー
2019年05月18日 |
これは先の私のブログ ー「ヤマタイ国」はなかったー の続編に当たる。どう考えても「ヤマト国」としか読めない「邪馬台国」を無理やり「ヤマタイ国」と読ませるようになったのはなぜか。その理由を書く。(「台」は万葉仮名で乙類の「ト」であり、「古事記」表記の「夜麻登(ヤマト)」の「登」も同じく乙類の「ト」であり一致している)
-『日本書紀』の編者は「ヤマト国」と読んでいたー
日本で「魏志倭人伝」の記事が最初に登場するのは『日本書紀』の「神功皇后紀」である。そこに2ヵ所「倭人伝」の本文(倭女王の魏への遣使部分)をそのまま筆写して載せている。それには「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝献・・・」とある(「倭人伝」と多少の違いはあるが)。これは何を意味しているのか。「書紀」編纂の史官たちは「魏志倭人伝」にある「邪馬台国」を「ヤマト国」と正確に読んでいたからである。つまり、「ヤマト国」である以上、それは大和朝廷にほかならず、女王・卑弥呼にふさわしい人物を探すと、当然、神功皇后以外には見当たらない。そこで、卑弥呼は神功皇后のことであろうと考え、「書紀・神功皇后紀」に書き入れたと思われる。(「書紀」によると、神功皇后は優柔不断な夫、仲哀天皇の死後、半島に出兵し新羅を征討した。まさに女帝にふさわしい事蹟がある)。
勿論、「書紀」史官の見た『魏志』は残っていないが、そこには「邪馬台国」とあった証明にもなる。もし、古田武彦の言うように「邪馬壱国」とあったら、史官たちは大和朝廷とは違う別の国だと判断して無視したはずである。古田氏が使っている『魏志』はずっと後の12世紀、南宋代の版木本である。五世紀に書かれた『後漢書』にはちゃんと「邪馬台国」はあるのである。それと、この部分(倭人の条)、『後漢書』は明らかに『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。また、七世紀初頭に成立した『梁書』も『魏志』を筆写しており、そこにも「邪馬台国」と「台与」はある。(今でいうコピペである)
-江戸時代に「邪馬台国」はどう認識されていたのかー
本居宣長(1730 ~1801)は「書紀」編者とは全く別の見方をした。ただ、「邪馬台国」を「ヤマト国」と読むのは同じだが、「魏志倭人伝」にある女王遣使記事は大和朝廷の女帝ではなく、九州の熊襲(くまそ)あたりの女酋長が、大和の神功皇后の名をかたって勝手に魏に遣使したものだと断定した(熊襲偽僭説)。つまり、大和の天皇家が中国(魏)に朝貢などするはずがないとの皇国史観の魁(さきがけ)である。(本居宣長著『 馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』)
これを受けて幕末の国学者、鶴峯戊申は中国や朝鮮の史書にある「倭」「倭人」「倭国」などすべて大和朝廷ではなく、南九州の「襲(そ)」の国が大和の天皇家をかたって通交したものだと主張した。なんと、五世紀の「宋書・倭国伝」にある「倭の五王」すら襲国の王が大和の天皇を勝手に僭称したものだと言って憚らなかった(『 襲国偽僭考 』)。 明治の世になっても歴史学者(国学者でもある)の古代日本の認識は江戸時代とさほど変わらなかった。しかし、これら皇国史観にどっぷりつかっていた国学者たちでさえ、邪馬台国は「ヤマト国」と正しく読んでいた。だからこそ、大和の天皇家ではないと否定したかったのである。大和朝廷の天皇が中国に朝貢して冊封を受ける、そんなことは絶対にあってはならないことなのである。この時点では「ヤマタイ国」は生まれていなかった。ではいつから奇妙な「ヤマタイ国」が出現したのか・・。
-東大の白鳥庫吉と京大の内藤湖南の論争ー
この二人は共に最幕末の生まれであり、明治の教育を受けた人である。江戸後期の狂信的な国学者とは一線を画していた。当然、邪馬台国は「ヤマト国」と読むべきであると考えていたであろうが、時代的制約があり、そこで妥協案として思い付いたのが「ヤマタイ国」という世にも不思議な架空の国名であったと思われる。「ヤマタイ国」は大和朝廷とは違うとの言い訳ができる。日本人のこのような思考法は得意技でもある。現行憲法には陸・海・空の戦力を保持しないとあるのに、実際は強力な軍隊を持っている。かって、自衛隊は戦力ではないとの迷答弁をした首相もいた。
それはさておいて、この両人の論争、白鳥の九州説、内藤の大和説の激しい論争は有名である。そうしてこの論争は今も続いている。しかし、戦後、日本と中国での考古学上の発掘の結果、京大系の大和説はすでに破綻している。それでも、いまだに三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏鏡であるとの自己信念のみに固執しているのが現状である。本家の中国では、後漢、魏、晋(二~五世紀)の発掘調査が飛躍的に進み、出土した鏡も写真入りで出版されている。ごく最近、なんと魏王朝の開祖・曹操の墓さえ発見された。それでも三角縁神獣鏡はただの一枚も出ていない。中国の学者は日本製と断定している。(元々、鏡の神獣文様は中国南部の呉地方で流行したもので、北部の魏領域ではまず使われない。実際、呉地方では神獣鏡は数多く出土している・・中国学者の見解)。それと、いまだに「ヤマタイ国」という架空の国名が使われている不思議さ。それなのに、「宗女・台与」は「トヨ」と万葉仮名で読ませる矛盾、奇妙としか言いようがない。「記紀」を編纂した八世紀の史官も江戸時代の国学者たちも「邪馬台(ヤマト)国」と正しく読んでいたのに・・。戦前の皇国史観はいまだに日本に生きているのである。
なお、津田左右吉は自著『古事記及び日本書紀の研究』の中で「魏志倭人伝」の邪馬台国を「ツクシのヤマト国」と正確に読んでいる(津田は九州説)。しかし同時に、ヤマトの大和朝廷は悠久の昔からヤマトにあり、この両者の関係についての言及はない。あえて避けたようである。この本で、神武東征や神功皇后の三韓征伐を史実ではないと否定したため、紀元2600年祝典(昭和15年)前に不敬罪に問われ、早稲田大学教授の職を追われた。
<追記>
いまでも古代史や考古学で、日本の古墳時代の始まりは三世紀中葉とか三世紀末と書かれた論文や出版物を数多く目にする。三世紀にこだわる理由は、女王・卑弥呼が三世紀半ばの人だからである。三世紀中葉説の人は箸墓古墳は卑弥呼の墓だと決めてかかり、三世紀末説の人は箸墓古墳は宗女・台与の墓に比定しているからである。この両説とも何の根拠もない。発掘調査すらされていない古墳を、実在した歴史上の人物の墓だと決め付けることに学者としてのうしろめたさを感じないのであろうか。(こんな例は世界に無い)
21世紀にノーベル科学省をもらった人の数では日本が世界一である。自然科学の世界では当然、英語で論文を発表するので世界中の学者の批判に耐えなければならない。日本の古代史といえども、鏡の場合は本家の中国の学者の意見にも耳を傾けるのが常識であろう。それとも、中国の古鏡研究能力など低すぎて論評にも値しないとでも思っているのだろうか。日本には虫メガネの鑑定で中国(魏)製か日本(倭国)製か判別できる神の目を持った学者がいるのだからと・・!? 卑弥呼がもらった銅鏡百枚は三角縁神獣鏡だとの説は学問というより最早宗教に近い。この学説に反論する者は宗教的異端者として排斥されるのがオチであろう。(勿論、中国の学者も異端者である)
少し前、テレビで大英博物館特集番組があり、そこの日本コーナーには鎧、甲冑、刀剣など貴重な品々と共に、古墳時代の出土物も数多く展示されていた。私が驚いたのは英語と日本語の説明文であった。そこには、日本の古墳時代の始まりは三世紀中期と明確に書かれていた。おそらく、この古墳時代展示物に日本の邪馬台国・大和説の学者が協力したのであろう。同じような事例は日本全国の歴史博物館にも少なからず見うけられる。地元の古墳から出土した三角縁神獣鏡を「中国・魏鏡(三世紀)」と説明している。かって、故・森浩一氏は強く批判していた(森氏は日本製説)。しかし、選挙のように投票で決めたら、邪馬台国=大和説派が圧勝するのが現実である。三角縁神獣教(鏡)というカルト宗教そのものである。日本人の病根は深い。
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/466e4dfe3d9d414815e583481321a835
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2022/06/02 (Thu) 08:50:49
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邪馬台国が奈良県以外では有り得ない理由
2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生 伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
1.伊都国と邪馬台国 柳田康雄先生
私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。
平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。
今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。
■ 弥生時代のクニと国の出現
弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。
現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。
そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。
銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15~16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。
弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。
少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8~10個出土した甕棺が出現する。
福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6~7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。
弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。
これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。
三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。
2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。
なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。
井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。
最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。
九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。
このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。
後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。
吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。
■ 平原遺跡
平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。
王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。
王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。
鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。
棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。
10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。
墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。
頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。
墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。
出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。
この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。
また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。
しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。
また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。
つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。
平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。
平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。
耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。
耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。
平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。
平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。
右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。
平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。
三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。
ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。
伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。
■ 弥生終末から古墳時代
福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。
このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。
弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。
この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。
北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。
近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。
近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。
近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。
弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。
考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。
平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。
2.柳田先生の論点 安本美典先生
邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。
■ 考えの一致する部分と異なる部分
柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。
また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。
邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。
いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。
北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。
骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。
■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について
洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。
下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。
平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。
奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147~160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。
柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。
ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。
3.対談 柳田康雄先生 VS 安本美典先生
■ 平原遺跡について
安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?
柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。
安本:女性の墓か?
柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。
また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。
■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現
安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?
柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。
■ 庄内式土器
安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?
柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。
庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。
九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。
■ ホケノ山古墳
安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留Ⅰ式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?
『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。
柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。
一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。
また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。
■ 伊都国と女王国の位置関係
安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。
ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?
柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。
大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。
文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。
■ 三種の神器
安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?
柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?
安本:璧という字は下に玉がついているので・・・
柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)
璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。
東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
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2022/06/02 (Thu) 08:55:26
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雑記帳
2022年04月02日
小林敏男『邪馬台国再考 女王国・邪馬台国・ヤマト政権』
https://sicambre.at.webry.info/202204/article_2.html
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E5%86%8D%E8%80%83-%E2%80%95%E2%80%95%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%83%BB%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E6%94%BF%E6%A8%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%95%8F%E7%94%B7-ebook/dp/B09Q8XDCR5
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2021年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はまず、江戸時代にまでさかのぼって邪馬台国に関する学説史を簡潔に解説し、問題点を整理しており、この点は一般層の読者に親切な構成になっていると思います。本書のこの構成は、邪馬台国に関する重要な論点の多くはすでに第二次世界大戦前に提起されていた、との認識に基づいています。本書は、現代につながる邪馬台国問題の研究の出発点が江戸時代の新井白石と本居宣長にさかのぼる、と指摘します。
江戸時代から明治にかけて、邪馬台国の場所では九州南部(鹿児島県)説が次第に支持を集めるようになります。そうした状況で、邪馬台国の所在地について大和説と九州北部説の本格的な論争が始まり、その後の邪馬台国論争の枠組みに大きな影響を及ぼします。大和説の代表格は内藤湖南、九州北部説の代表格は白鳥庫吉でした。内藤は邪馬台国をヤマト政権(大和朝廷)の枠組みで、白鳥は九州北部の邪馬台国と畿内のヤマト政権の併存を主張しました。第二次世界大戦後の邪馬台国論争では、考古学の影響が次第に強くなっていきます。
本書は、『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」と記紀の比較から、帝紀にも旧辞にも卑弥呼と壹与との事績はなく、卑弥呼と壹与は記紀と接点をまったく持っていないことになるので、卑弥呼と壹与の女王国を畿内ヤマトの地には想定できない、と指摘します。九州北部のヤマト国である女王国(卑弥呼と壹与の国)と畿内のヤマトの邪馬台国とを別の国として把握し、その併存・対立の関係性を考察するわけです。前者は、九州北部沿岸諸国と宗主国であるヤマト国(筑後国山門郡山門郷一帯)の連合体制で、ヤマト国の卑弥呼を倭国王として共立した、というわけです。この卑弥呼は、シャーマニズムを統括する最高位の宗教的職能者だった、と本書は推測します。
一方、『三国志』に見える邪馬台国(ヤマト国)は畿内の新興国で、投馬国とともに大国だった、と本書は推測します。本書では、九州北部のヤマト国である女王国と、畿内の邪馬台国(ヤマト国)との関係は、単純な対立関係や支配・従属という政治関係で固定化されるものではなく、通交・交易などの関係性において多様で流動的だった、と想定されています。本書は、この畿内の邪馬台国(ヤマト国)が初期ヤマト政権としてヤマト王権(本書では、畿内のヤマト政権が朝鮮半島に関わる4世紀半ば以降に成立した、と推測されています)に連続していく、と想定します。ヤマト王権確立・拡大の過程で本書が重視しているのは、前方後円墳です。記紀の天皇の実在性については、本書では崇神「天皇」以降が認められており、崇神の没年は258年頃で、九州北部の女王国の滅亡はその2代後の景行「天皇」の時と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202204/article_2.html
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2022/06/03 (Fri) 22:43:46
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2022/06/05 (Sun) 15:21:54
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2024/02/28 (Wed) 18:55:11
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邪馬台国の謎
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/09/11
https://www.youtube.com/watch?v=O_3AGnmJJbs&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=4
葛木御歳神社の宮司が、 邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP https://www.mitoshijinja.jp/
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2024/03/23 (Sat) 19:05:26
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生贄の風習
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16845233
世界ミステリーch - YouTube
https://www.youtube.com/@sekaimystery/videos
https://www.youtube.com/@sekaimystery/playlists
邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007801
卑弥呼が眠っている!?箸墓古墳
https://www.youtube.com/watch?v=3G92G5lhqKg
天皇家は伊都国を本拠地として奴隷貿易で稼いでいた漢民族系朝鮮人
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007686
天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後 に天孫降臨した
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007799
神武東征 _ 当時世界最大の水銀生産地は奈良で、神武東征も水銀獲得の為だった
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007798