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被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人をエタ地域に隔離した

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2022/06/01 (Wed) 14:49:42

被差別同和部落民の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人をエタ地域に隔離した

同和部落民は日本に先住していた縄文人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


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畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


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小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


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網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


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埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。

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畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫 _ 2

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

①自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

②調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

③曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

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Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
①自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
②調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
③曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

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漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

天皇一族は

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹波 → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土


の順に朝鮮を追われて日本に移民して以降、支配地域を広げて行った様です。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。
2:777 :

2022/06/01 (Wed) 14:51:18

中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人****弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html
3:777 :

2022/06/01 (Wed) 14:51:51

大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎


仁徳天皇や天智天皇は渡来人を歓迎し、百済洲や百済郡、百済寺に百済川もあった


画像引用:地名で分かる渡来人の分布https://www.facebook.com/295367367249272/photos/a.296474680471874/298873963565279/?type=1&theater


仁徳天皇時代には百済島や百済川まであった

大阪市の生野区には日本最大の「移民地域」である鶴橋が存在しています。

鶴橋駅前から市場に入ると韓国語が通用するし、それどころか日本語が通じにくかったりする。

鶴橋の歴史は非常に古く、仁徳天皇の西暦400年ごろにはすでに大勢の百済人や新羅人が住んでいました。

大陸では東晋が滅亡する末期で、半島では百済・新羅・任那日本府が並立し、半島南部はヤマト政権の支配下にあった。

半島南部ではヤマトの大王(天皇)の支配の証である前方後円墳多数が見つかっていて、百済や新羅も日本の影響下にあった。

仁徳天皇の2代前には神功皇后の三韓征伐が行われたと記紀に記されていて、事実である可能性が高まっている。


奈良県でヤマト政権が成立したのは古墳からは西暦200年代と推測され、もっとも近い港である大阪湾が半島や大陸との交易地になった。

当時の大阪市はまだ海に島が点在している状況で、生野区や鶴橋もまだ島や海岸だったと考えられています。

百済や新羅の商人や労働者、上は貴族や王家まで様々な人が大阪や奈良に移民してきました。


これが古墳時代の渡来人で、百済滅亡によって日本に難民が押し寄せて、特に大阪の生野区に移民が増えました。

大阪湾には島が点在していると書いたが、当時は「百済洲」「新羅洲」という名前の島があり、名前の通り百済や新羅の人たちが住んでいた。

鶴橋周辺には「百済郡」があり「百済川」まで流れていたと記録されています。


半島からの移民受け入れに最も熱心だったのが仁徳天皇で、一時は大阪に住み、渡来人のようすを自ら視察したともされています。

渡来人にとって仁徳天皇は最大の理解者なので、彼らが最大級の天皇陵を大阪に作ったとしても不自然ではありません。


百済滅亡で難民が押し寄せた

時代は下って西暦660年ごろ、斉明天皇と天智天皇(母子)の時代になり、ヤマト政権は半島の支配地を失いました。


660年に同盟国の百済が羅漢同盟(新羅と漢)に滅ぼされ、663年に再興を目指した白村江の戦いで日本軍は負けてしまった。


百済滅亡より前に、任那日本府も羅漢に滅ぼされていたと考えられます。

百済滅亡にともなって大勢の百済人が日本に亡命し、縁故を頼って旧百済洲などがあった大阪に住みました。


この中の滅亡した百済の王子・善光は天智天皇の許しを得て「百済郡」の領主となり、百済王一族は長く栄えたとされている。

百済王敬福は大出世して750年に河内守となり、河内国に移住したが多くの百済人の子孫はそのまま残った。

百済郡がどこだったのかは不明だが、鶴橋は「猪飼野」と呼ばれる百済人居住地でした。


当時日本人はあまり豚やイノシシを食べず、百済人はイノシシを飼育していたのでこの名がついたとされている。

百済を滅ぼした新羅の人も日本と絶縁したわけではなく、やはり大阪を中心に多く居住していた。

こうした渡来人は日本にとっては労働力であり、当時としては進んだ技術や知識を持っていたので重宝された。


たとえば法隆寺など日本の初期の寺は、百済人やその子孫が設計や建設に関わっている。

渡来人は大阪湾の埋め立てにも動員され、習慣や文化の違いから他とは違う文化を築いていった。

秀吉の朝鮮出兵の時にも大量の渡来人が移民または連行されて、大阪城や江戸城の建設に動員されたと言われている。


韓国からの20万人大脱走

時はさらに下って明治維新後は半島からの移住者が増えて、終戦時には200万人前後に達していました。

1948年の調査では約150万人が韓国に帰国し、約65万人が残っていたが10万人は戦後に密航してきた人たちでした。

このあと1948年から1953年にかけて「済州島事件」と朝鮮戦争、保導連盟事件によって20万人以上が日本に密航してきた。


この一連の事件はアメリカが任命した韓国初代大統領の李承晩が行った大粛清が原因で、十万人I以上が日本に逃れたとされている。

当時の研究では送還された人を除いて25万人が日本に密航した可能性があると書かれている。

結局10万人ほどは朝鮮戦争が終わっても帰国せず、戦前からの居住者と混ざって「特別永住者」になっている。


李承晩が最も弾圧したのが済州島で、30万人のうち6万人が犠牲になり、10万人ほどが日本に逃れた。

鶴橋には戦前から済州島出身者が多かったので、縁故を頼って大勢の済州島民が鶴橋周辺に定住しました。

これらの人たちが現在の鶴橋を形成し、一説には住民の過半数が半島系の先祖を持っている。


日本に最初の渡来人が移住したのは縄文以前を除くと今から3000年前で、稲作を伝えたとされている。

それから定期的に渡来ブームがあり、特に半島で戦争や混乱が起きると渡来が増え、やはり縁故を頼って大阪にたどり着く。
http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html
4:777 :

2022/06/01 (Wed) 14:52:56


中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html

中国人のチベットでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html
 

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被差別部落出身の有名人は?_ 在日が同和部落に住んでいる理由
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html

ヤクザの 6割は同和、4割は在日
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/195.html

部落解放同盟は悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/152.html

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html

浄土真宗と創価学会は被差別同和部落民の宗教
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/371.html

御用学者列伝 _ 竹中平蔵
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/727.html

売国政治家列伝 _ 橋下徹
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/788.html

日本人を憎む被差別同和部落出身者 3 _ ユニクロ柳井正
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/678.html

餃子の王将の創業者の加藤朝雄は福岡県の部落出身で、部落解放同盟の上杉佐一郎に支配されていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/981.html

既に日本の政治家、官僚、経済界の中枢部は在日に乗っ取られている、というのはアホ右翼の妄想
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/893.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/649.html

日本を売った小沢一郎_ 小沢一族は日本人の戸籍を買った朝鮮人なのか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/232.html

在日朝鮮人タレント
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/515.html

若い人は何故そんなに簡単にアホ理論に洗脳されるのか? _ 被差別部落支配層の性教育
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/812.html

被差別部落支配層の性教育
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/317.html

血族結婚部落の優生学的調査概報
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/418.html

ドッグヴィルの世界 _ 奈良県 月ヶ瀬村
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/269.html

女子高生コンクリート詰め殺人事件
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/458.html

北九州一家監禁殺人事件
http://amezor-iv.net/shisou/150920200912.html

中学で一番の美少女に毎朝****を飲ませていた旭川女子中学生校内集団レイプ事件
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/738.html

尼崎ドラム缶事件 現在までに判明した事実
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/454.html

森友学園は部落利権問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/661.html

関西電力の不正金品授受問題 _ 関電が助役に逆らえなかったのは、背後に部落解放同盟の存在が在ったから
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/660.html

美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html

部落出身の柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html
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雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9~紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000~70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万~3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万~3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000~11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世~初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991~8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000~15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601~11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部~中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40~50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398~468年頃)および2号(紀元後407~535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9~56.4%、2号が42.4~51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5~6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4~5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代~鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4~5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期~中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期~中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80~90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10~20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期~中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10~15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


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https://diamond.jp/articles/-/306767

2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説

化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)


日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。

篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。


大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。

 私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。

橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。

篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。

橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。

篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。

弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。

篠田 そう思います。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2


橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?


篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。

橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。

篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。

 さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。

 朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。

橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。

篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。

 両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。

橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。


篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。

橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。

篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。

橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。

篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。

 ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。

橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。

篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。

 当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。

橘 すごくロマンがありますね。

篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。

弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。

 古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。

篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。

 古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。

橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。

篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。


政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。

篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。

橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。

篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。

篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。

 弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。

橘  国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。

篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。

橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。

篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。

 次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。

 朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。

橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
10:777 :

2023/12/03 (Sun) 04:33:08

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11:777 :

2023/12/10 (Sun) 16:44:39

雑記帳
2023年12月10日
ゲノムデータから推測される南琉球諸島の人口史
https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html

 古代人および現代人のゲノムデータから南琉球諸島の人口史を推測した研究(Cooke et al., 2023)が公表されました。本論文は、おもに2021年の研究(Cooke et al., 2021)で提示された、日本列島「本土(日本列島のうち本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする地域)」のアイヌ集団以外の現代人集団の3層の遺伝的構造に基づいて、南琉球諸島の人口史を推測しています。本論文の見解は、最近提示された沖縄諸島と宮古諸島の現代人の遺伝的起源を解明した研究(Koganebuchi et al., 2023)と整合的だと思います。ただ、2021年の研究(Cooke et al., 2021)は、弥生時代の人類集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることや、古墳時代の人類集団を一部の個体に代表させていることが問題で(関連記事)、今後は時空間的にずっと広範囲の弥生時代以降の人類のゲノムデータを考慮しつつ、日本列島の人類集団の遺伝的歴史を解明していく必要があるでしょう。


●要約

 日本人集団の遺伝的起源の3構造では、現在の人口集団は主要な3祖先の子孫である、と述べられています。それは、(1)在来の縄文時代狩猟採集民、(2)農耕の弥生時代に到来したアジア北東部構成要素、(3)ヤマト王権の古墳時代におけるアジア東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の主要な流入です。しかし、日本列島のさまざまな地域で観察された遺伝的異質性は、このモデルの適用性と適合性の評価の必要を浮き彫りにします。本論文は、日本の他地域と比較して独特な文化と歴史的背景を有する、南琉球諸島の歴史時代のゲノムを解析します。本論文の分析は、この地域において3構造が最適と裏づけ、「本土」日本人よりも顕著に高い推定割合の縄文祖先系統が見られます。それぞれの大陸由来祖先が直接的に大陸からの移民によりもたらされた日本列島「本土」とは異なり、すでに3系統の祖先を有する人々が、グスク時代の出現と一致する11世紀頃に南琉球諸島に移住し、先史時代の人々と混合しました。これらの結果は、日本列島の最南端における3構造モデルを再確認し、その構造が多様な地理的地域において出現した多様性を示します。


●研究史

 古代ゲノム配列データは、世界中の現在の人口集団の起源に関する理解を強化し、頻繁に変えてきました(Liu et al., 2021)。そうした地域の一つは日本列島で、先史時代および原史時代のゲノム解析が、現在の人口集団の起源について三者モデルを裏づけました(Cooke et al., 2021)。この枠組みでは、現在の日本人の祖先系統は主要な3供給源に由来します。それは、(1)日本列島外とはほとんど接触せず、数千年間日本列島全域に暮らしていた、在来の狩猟採集民である縄文時代の人口集団、(2)弥生時代(3000年前頃以降)に水田稲作農耕とともに日本列島に到来した、中国北部【北東部】のアムール川流域の古代の個体群で観察されたアジア北東部構成要素、(3)初期ヤマト王権の形成と関連している、古墳時代(1700年前頃以降)に到来した現在のアジア東部の人口集団(漢人など)と類似した祖先系統の大きな流入です。

 日本人集団の起源についてさまざまなモデルが、遺伝学と考古学と言語学の証拠に基づいて以前に提案されてきましたが、元々は頭蓋顔面データに基づいて体系化された「二重構造」仮説が最も広く知られており、続いています。この二重構造モデルでは、全ての日本人集団は祖先系統の主要な2供給源の漸進的な混合の子孫で、それは、当初の縄文時代の人々と、弥生時代におけるアジア北東部からのその後の移民です。二重構造モデルでは、北海道のアイヌ集団と日本列島最南端の琉球諸島の人々との間の形態学的類似性は縄文時代の人々に起因しており、その後の大陸部の供給源人口集団からの祖先系統は殆ど若しくは全くなかった、と述べられています。遺伝的異質性は、日本「本土」とこれら地理的に異なる地域の人口集団間でも観察されます。さらに、縄文時代の個体群は現在の琉球諸島住民や北海道のアイヌ集団の方と、日本列島の他地域の住民とよりも高い遺伝的類似性を有しています(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。それでも、これらの観察は、大陸部祖先系統の起源ではなく、日本全域の縄文祖先系統の差異を説明できるだけです。

 古代ゲノムデータに基づいて提案された三者モデルは、二重構造モデルと比較すると、サイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)に含まれる現在の日本人弧隊の遺伝的祖先系統に有意により適合する、と示されました(Cooke et al., 2021)。しかし、日本列島「本土」を越えて遺伝的に異なる人口集団におけるこの枠組みの適用性はまだ検証されておらず、それは、現代人の参照データセットが現時点では、日本列島の真の異質性を反映してない、「本土」日本人の小さな部分集合に限定されているからです(GenomeAsia100K Consortium., 2019、Mallick et al., 2016)。この3方向混合モデルが日本列島の多様な地域でどのように変わるのか評価することは、日本列島の人口集団の起源における違いと日本列島内の最近の歴史を示唆できるかもしれません。

 沖縄県宮古島市にある長墓遺跡の150年前頃となる歴史時代の4個体の配列データの最近の刊行(Robbeets et al., 2021)は、南琉球諸島に暮らす最近の人口集団の祖先の特性の調査を可能としました。南琉球諸島は、先行研究により強調されているように、例外的な島嶼の地理と歴史と文化で認識されています。南琉球諸島には、日本列島「本土」、さらには琉球諸島北部とさえ異なる独特な特徴があります。注目すべき一つの側面は長期間の先史時代で、それはグスクとして知られている独特な地域文化が出現する11世紀まで続きました。この長期の島嶼的および文化的孤立は、日本列島の大半に広がっていた弥生文化や古墳文化や他の歴史時代の文化の欠如に起因するかもしれません。結果として、南琉球諸島のゲノムデータは、日本人の起源の文脈における三者モデルおよびその形成過程の適用性と変動性調査の貴重な機会を提示します。本論文では、琉球諸島の歴史時代の人口集団のデータを用いて三者構造が再調査され、その祖先特性が「本土」日本人集団と比較されます。


●分析結果

 沖縄県の宮古諸島の宮古島の北半島にある長墓貝塚および岩陰遺跡(図1)で発掘された骨格遺骸から、最近の歴史時代(historic、略してH)の4個体(NAG007、NAG035、NAG036、NAG039)が標本抽出されました(Robbeets et al., 2021)。まず、対での外群f₃分析が実行され、他の古代および現在の日本人標本との遺伝的類似性が確認されました。この分析は、縄文時代と弥生時代と他の時代(古墳時代や歴史時代や現在など)の日本列島の標本のクラスタを明確に定義します。つまり、第三のクラスタ内では、歴史時代の個体群はさらに他の標本と分離意され、それは、古墳時代および現代の人口集団よりも縄文時代の個体群の方と高い遺伝的類似性に起因します。その後、これらの個体はまとめて「長墓_H(歴史時代)」という単一の人口集団にまとめられ、qpAdmを用いて、古代もしくは現在の日本列島の人口集団のどれも、祖先系統の単一の供給源としてモデル化に成功できない、とさらに論証され、これら長墓遺跡の歴史時代の住民は縄文時代集団の直接的祖先だった、との提案された見解は除外されました。これらの結果は、長墓遺跡の個体間の祖先組成における日本列島「本土」住民との違いを示唆しています。以下は本論文の図1です。
画像

 長墓_Hの三者構造の適合性を評価するため、3つの異なる祖先構成要素による遺伝的構成がモデル化されました。それは、縄文時代の12個体(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、McColl et al., 2018)、アジア北東部(Northeast Asian、略してNEA)祖先系統を表す、北方のアムール川地域の高水準の祖先系統を有する中国で発見された古代人2個体(Ning et al., 2020)、つまり西遼河(West Liao River、略してWLR)の青銅器時代(Bronze Age、略してBA)の外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)および、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡の中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)個体(HMMH_MN)と、アジア東部祖先系統を表すSGDPパネルから得られた現在の漢人です(Mallick et al., 2016)。三者モデルは長墓_Hにうまく適合し(裾確率は0.591)、その内訳は、縄文祖先系統26.7±4.9%、NEA祖先系統30.5±10.3%、アジア東部祖先系統42.8±7.5%です(図1)。興味深いことに、長墓_Hにおいて縄文祖先系統の割合は古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代日本人(15.0±3.8%)と比較して約2倍です(Cooke et al., 2021)。

 長墓_H人口集団での三者構造のモデル化の成功は、二重構造仮説可能性を除外しません。長墓_Hにおける3方向混合モデルの適合性を包括的に評価するため、三者構造内の2方向混合(つまり、縄文とNEA、縄文とアジア東部、アジア東部とNEA)の仮定的状況の可能性の適合も検証されました。これらのモデルのうち2つ(縄文とNEA、NEAとアジア東部)は完全に却下されましたが(p<0.05)、縄文とアジア東部の二重構造では充分と分かりました(p=0.061)。どのモデルが最適なのか結論づけるため、検証された三者モデルと各2方向モデルとの間のそれぞれの比較について、入れ子になったモデルでp値が計算されました(表1)。その結果、三者モデルが入れ子になったモデルの全てよりも有意にデータと適合する、と分かりました。これは、三者構造が歴史時代の琉球諸島人口集団の起源を説明するのに最適なモデルという明確な証拠です。

 南琉球諸島の独特な歴史的および文化的背景を考えると、この地域における三者構造の形成過程は日本列島「本土」とは異なっていたかもしれません。古代ゲノム解析は以前に、この地域の先史時代個体群が遺伝的には縄文時代個体群だった、という証拠を提供しました(Robbeets et al., 2021)。したがって、大陸部祖先系統は、2つの追加の非縄文構成要素をすでに有していた人々によりもたらされた可能性が高そうです。この仮説を検証するため、縄文時代の個体群と古墳時代もしくは現代日本人の個体群との間の2方向混合モデルにより、長墓_Hがモデル化されました(表2)。以下は本論文の表2です。
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 検証された全モデルは長墓_Hの遺伝的祖先系統に適合し、この混合モデルは古墳時代もしくは現代の日本人集団どちらかの単一の祖先系統モデルよりも有意でした。これらの結果から、図1で示されるように、長墓_Hの遺伝的構成の説明には追加の縄文祖先系統が必要になる、と示唆されます。DATESを用いて、この混合は975年前頃(もしくは11世紀)に起きた、とさらに推定され、この年代は先史時代(つまり無土器時代)末およびグスク時代の開始と一致します。本論文の分析は、三者構造の形成においてさまざまな地域がさまざまな歴史を有しており(図2)、それが日本列島全域のゲノム差異に寄与したかもしれない、という見解を裏づけます。以下は本論文の図2です。
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●考察

 琉球諸島で暮らす人口集団は繰り返し、日本列島の他地域に暮らす集団とは遺伝的な異なる、と示されてきました。それにも関わらず、広範な混合モデル化を通じて、日本人集団の起源について三者構造が南方地域の歴史時代の個体群の人口においてうまく維持されている、と論証されます。日本列島「本土」の人口集団の代表で以前に観察されたように(Cooke et al., 2021)、このモデルは、琉球諸島人口集団が縄文時代個体群の直接的な子孫と仮定する、長年の「二重構造」の枠組みよりも有意に適合します。この結果から、縄文時代後の移民による主要な遺伝的寄与、つまり最初は弥生時代におけるアジア北東部祖先系統、その後の古墳時代におけるアジア東部祖先系統は、日本列島「本土」に限定されず、遠く日本列島の最南端に到達した、と示唆されます。しかし、これら大陸部祖先系統は以前には、異なる人口集団から別段階で日本列島「本土」に到達した、と示されましたが(Cooke et al., 2021)、南琉球諸島にはそのずっと後の段階で、すでに三者構造を有しており、南琉球諸島の先史時代集団と混合した単一の祖先人口集団によりもたらされたようです(図2)。

 外群f₃分析では、長墓_H人口集団は古墳時代もしくは現代の日本列島「本土」個体群よりも、縄文時代個体群と高水準の遺伝的浮動を共有している、と示されました。長墓_H人口集団はその後、26.7±4.9%の縄文祖先系統を有している、と示され(図1)、これは古墳時代(13.1±3.5%)もしくは現代(15.0±3.8%)の日本列島の個体群で観察された縄文祖先系統(Cooke et al., 2021)の約2倍です。追加の縄文組成を組み込んだこの人口集団のモデルは同様に、古墳時代もしくは現代の日本人祖先系統のみに基づくモデルよりも適合する、と分かりました。これらの結果は、縄文時代個体群と琉球諸島現代人との間の高い遺伝的類似性に関する以前の調査結果(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)と一致します。本論文は、南琉球諸島における縄文祖先系統の過剰をもたらした混合過程のより詳細な全体像を提供します。

 考古学的記録は、宮古諸島を含めて琉球諸島の南部が、日本列島「本土」もしくはさらに北琉球諸島と比較して、独特な変化を経てきた、という見解を裏づけます。先史時代の北琉球諸島と縄文文化との間で示唆される文化的かながりはありますが、これらのつながりは南琉球諸島では、その独自の物質文化の発展のためさほど明らかではありません。しかし、長墓遺跡の先史時代(3600~2600年前頃)個体群の遺伝学的分析(Robbeets et al., 2021)は、この地域における縄文祖先系統の存在を確証しました。

 日本列島「本土」の生活様式は、3000年前頃以降に急激な変化を遂げ始め、まず採食から稲作農耕へ、その後で1700年前頃以降に国家形成へと至りました。対照的に南琉球諸島では、無土器文化として知られている完全に異なる文化が2500年前頃に出現し、これはこの地域の先史時代の最終段階を示しました。この文化は貝殻の手斧と土器の製作もしくは利用の欠如により特徴づけられ、約1700年間存続しました。その結果、縄文時代以降の日本列島「本土」で起きた文化的変容は11世紀まで南琉球諸島に影響を及ぼさず、11世紀にグスク文化が始まり、多数の人々が北琉球諸島から南琉球諸島へと移住しました。無土器文化がどこから到来したのか、縄文時代個体群的な先史時代の人々が無土器文化期に南琉球諸島に居住し続けたのかどうか、まだ不明ですが、縄文祖先系統と日本列島「本土」祖先系統との間の混合が起きた年代の本論文の推定値は、この人口移動の時期【11世紀】と一致します。この結果から、日本列島全域の三者構造の形成過程には地域的差異があった、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
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 この研究は、南琉球諸島の宮古島の4個体から構成される人口集団に限定されていますが、琉球諸島が遺伝的に均質な地域ではなく、宮古諸島自体も均質ではない、と注意することは重要です。時空間的により密な標本抽出が、琉球諸島全域の遺伝的特性に関して移住の真の影響を理解するのに必要です。そうしたデータが利用可能になった時には、この人口集団と、日本列島全域の他の歴史時代および現在の人口集団との間の三者分類において、どのような類似性もしくは違いが存在するかもしれないのか、評価するのはとくに興味深いことでしょう。この研究は、さまざまな地域における人口集団の起源の理解を変える、古代ゲノムの力を改めて示しています。この研究は、確立された結論と関連する新たなデータが利用可能になった時に、古代ゲノムに基づいてなされた調査結果と提案された見解の再調査の利点も示します。


参考文献:
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
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Cooke NP. et al.(2023): Genomic insights into a tripartite ancestry in the Southern Ryukyu Islands. Evolutionary Human Sciences, 5, e23.
https://doi.org/10.1017/ehs.2023.18

Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2
関連記事

GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z
関連記事

Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415
関連記事

Koganebuchi K. et al.(2023): Demographic history of Ryukyu islanders at the southern part of the Japanese Archipelago inferred from whole-genome resequencing data. Journal of Human Genetics, 68, 11, 759–767.
https://doi.org/10.1038/s10038-023-01180-y
関連記事

Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202
関連記事

Mallick S. et al.(2016): The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations.
https://doi.org/10.1038/nature18964
関連記事

Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
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https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_10.html
12:777 :

2023/12/30 (Sat) 11:39:21

被差別部落出身の女性芸能人・有名人11選【※西成地区・ 崇仁地区】
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16832797



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柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口
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日本人を憎む被差別同和部落出身者 1 _ 橋下徹
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日本人を憎む被差別同和部落出身者 3 _ ユニクロ柳井正
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餃子の王将の創業者の加藤朝雄は福岡県の部落出身で、部落解放同盟の上杉佐一郎に支配されていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/981.html


▲△▽▼


中川隆 _ 被差別部落、在日朝鮮人関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/814.html

日本の被差別同和部落の縄文系女性には世界最美の遺伝子が伝わっている
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被差別部落出身の有名人は?
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html

在日朝鮮人タレント
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/515.html

京都にだけは住んではいけない
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/918.html

魅力度ランキング2位「京都」に住んでわかる理想と現実 _ 京都は殆どが部落地区 _ まともな人間は一人もいない
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https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14150248

【閲覧注意…】禁断。。日本の被差別同和部落 6選
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16828229

被差別部落支配層の性教育
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/317.html

血族結婚部落の優生学的調査概報
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/418.html

戸叶和男【日本奇習紀行シリーズ 西日本】|TOCANA
https://tocana.jp/?s=%E6%88%B8%E5%8F%B6%E5%92%8C%E7%94%B7&submit.x=0&submit.y=0

戸叶和男 日本奇習紀行の最新ニュース記事 まとめ|TOCANA
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被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007586

浄土真宗と創価学会は被差別同和部落民の宗教
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/371.html

部落解放同盟は悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/152.html

ドッグヴィルの世界 _ 奈良県 月ヶ瀬村
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/269.htmll
13:777 :

2023/12/31 (Sun) 05:25:18

【向野村】食肉産業で栄えたかつての被差別部落。血染めの川。 東除川とは…
ジョーブログ【CRAZY CHALLENGER】
2023/12/18
https://www.youtube.com/watch?v=vcai_ClZZ24
14:777 :

2024/03/02 (Sat) 09:16:13

雑記帳
2024年03月02日
藤尾慎一郎『弥生人はどこから来たのか 最新科学が解明する先史日本』
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_2.html

https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%EF%BC%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%97%A5%E6%9C%AC%EF%BC%8D-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%97%A4%E5%B0%BE%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E-ebook/dp/B0CW19Y4BM


 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2024年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、おもに考古学の観点から弥生時代を検証し、近年飛躍的に発展しつつある古代ゲノム研究にもかなりの分量を割いていることが特徴です。まず、弥生時代の前提として、日本列島において穀物栽培がまず始まったのは現在の島根県や福岡県であり、その最初の年代は縄文時代晩期最終末~弥生時代早期なので、縄文時代後期および晩期に穀物を対象とした農耕はなかった、と指摘されています。プラント・オパールや籾痕土器を根拠に縄文時代中期まで稲作がさかのぼる、との見解も以前に提示されましたが、プラント・オパール自体の年代測定の難しさや、後世のプラント・オパールの混入を否定できないことや、籾の圧痕による肉眼観察での種同定の難しさなどから、日本列島において縄文時代に穀物農耕は晩期最終末を除いてなかった、との見解が現在では有力になっています。一方で、縄文時代には1万年前頃からダイズやアズキなどの一種の栽培化が行なわれていたことも指摘されています。ただ、縄文時代には、そうしたマメ類は社会を質的に転換させるほど生産されてはいなかったようです。

 本書でまず詳しく解説されているのは、著者も関わった弥生時代開始年代の繰り上がりに関する議論です。この研究成果が公表されたのは2003年5月でしたが、その数年前に刊行された寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』(講談社)では、玄界灘地域への水稲農耕の伝播は紀元前400年頃で、その前の紀元前8世紀頃に畑稲作や支石墓が朝鮮半島から九州に伝わった、とされています。弥生時代の指標とされる水田稲作の開始は紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、との発表には高い関心が集まり、一般向けに大きく報道されました。この弥生時代の開始は紀元前10世紀頃までさかのぼるかもしれない、とする仮説に対しては、当初から厳しい批判が寄せられ、2010年代半ばの時点でも完全に否定する見解が提示されていました(岩永., 2013)。

 この論争は2010年代後半に、酸素同位体比年輪年代法の登場と、宮本一夫氏による弥生時代早期の炭化米を試料とした放射性炭素(¹⁴C)年代測定に大きな影響を受けました。これにより、紀元前5~紀元前4世紀頃を弥生時代開始年代とする、弥生時代後期華夷施設(弥生短期編年)はほぼ否定され、弥生時代の紀元前10世紀~紀元前9世紀頃となる早期開始説(弥生長期編年)説が主流になっていきます。ただ、弥生時代の開始年代について、著者も含めて歴史民俗博物館(歴博)主体の紀元前10世紀後半説と、宮本氏などの紀元前9~紀元前8世紀説の違いは残っています。歴博説では、水田稲作の開始から環濠集落や戦いなど農耕社会成立を示す指標の出現まで3世代ほど要することになりますが、宮本氏などの説では、水田稲作の開始と農耕社会の成立は同時になります。本書は、水田稲作開始などの経済的変化と農耕社会の成立が同時に見られるのが、論争のある九州北部沿岸地域を除くと、現時点では近畿や東海から「渡来系弥生人」が移住したかもしれない中部高地と関東南部だけになる、と指摘します。また本書は、酸素同位体比年輪年代法が、弥生時代前期初頭以降の歴博の編年と整合的であることを指摘します。この新たな弥生時代開始の年代観を前提とすると、日本列島において水田稲作が始まった頃は、過去3000年間で最も寒冷だったそうです。

 本書の古代ゲノム研究への言及は、著者の昨年の論文(藤尾., 2023)をほぼ踏襲していると思いますが、本書は一般向けなので、藤尾., 2023の方がより専門的になっています。縄文時代から弥生時代への移行が人類集団の変容や置換を伴っていたのか、そうだとしてどの程度だったのかについては、本書でも簡潔に言及されていますが、近代黎明期から1990年代頃までの広い視野で検証した新書もあります(坂野., 2022)。本書は、弥生時代前期後半の愛知県朝日遺跡のゲノム解析された個体から、縄文時代晩期末以降に日本列島に到来した集団と縄文時代以来の日本列島在来集団との遺伝的混合が、水田稲作の開始期ではなく、しばらく経過してからと推測され、それは在来系土器の割合が紀元前6世紀以降に少しずつ増えることと整合的なのではないか、と指摘します。

 ただ、本書も指摘するように、弥生時代前期までの人類のゲノム解析数は少なく、今後の研究の進展が期待されます。本書でも改めて、弥生時代の日本列島の人類集団の遺伝的多様性が指摘されており、少なくとも一定以上は考古学とも相関しているようです。年代的にも地理的にも比較的近接している、伊勢湾沿岸地域の愛知県の朝日遺跡と伊川津遺跡では、それぞれ遠賀川系土器と条痕文系土器が使用されており、核ゲノムが解析された個体では、前者が「縄文人」との遺伝的混合をさほど示さない「渡来系」、後者が他の「縄文人」と一まとまりを形成する、と分かりました。現時点での古代ゲノム研究を自分なりの理解で述べた私見については、著者の昨年の論文(藤尾., 2023)を取り上げた記事で述べました。

 上述のように、日本列島において穀物栽培がまず始まったのは現在の島根県や福岡県であり、その最初の年代は縄文時代晩期最終末以降ですが、水田稲作が始まった玄界灘沿岸地域ではなく、九州東北部から中国西部にかけての地域で、土器の様式構造や社会の質的変化をもたらしたわけではなく、多様な食料獲得手段の一つにすぎなかったようです。この水田稲作よりわずかにさかのぼる穀物栽培の担い手や伝播形態は、まだよく分かっていません。弥生時代早期前半となる紀元前10世紀後半に玄界灘沿岸地域で灌漑式水田稲作が始まり、日本列島各地に穀物栽培が広がっていきます。灌漑式水田稲作ではなく、紀元前11世紀に奥出雲で始まった網羅的な生業構造の一環としての穀物栽培は、アワやキビやイネも含んでいたかもしれず、紀元前9世紀後半~紀元前8世紀前葉にかけて、中国や四国から関東にかけて広がった可能性があるようです。これら網羅的な生業構造下での穀物栽培では、社会的側面が質的に変化せず、縄文時代晩期の文化伝統が祭祀的側面も含めて、やや変容しつつ継続していきます。

 一方で水田稲作は、紀元前7世紀には西日本のほとんどの地域で行なわれていたようです。ただ、同じ地域でも水田稲作に適した土地とそうではない土地があるわけで、水田稲作民とアワやキビを栽培する狩猟採集民は共存していたのではないか、と本書は推測し、その土器指標として、前者については遠賀川系、後者については突帯文系の長原式を挙げています。選択的な生業構造での水田稲作を選択した前者と、網羅的な生業構造の中で採集や狩猟や漁撈やアワとキビの栽培などを行なっていた後者、と本書は把握しています。後者では、縄文時代以来の土偶祭祀や石棒祭祀が継続されていました。ただ、こうした生業構造の違いが常に集団間の遺伝的差異を伴っていたのか否かについて、本書は今後の遺伝学的研究の進展を俟つ、としています。本書は、穀物栽培段階を経ずに定型化した灌漑式水田稲作が始まった地域と、網羅的な生業構造の一環としての穀物栽培の後に水田稲作が始まった地域との違いとして、前者では外部から完成した生業構造の導入事例が多いのに対して、後者では発展段階的な農耕の定型化過程が見られる、と指摘します。

 東北地方北部で紀元前4世紀前葉と意外に早く水田稲作が始まったことは、比較的よく知られているように思います。これは日本海側の津軽地域ですが、それ以前の穀物栽培の痕跡はまだ確認されていません。ただ、この津軽地域の初期水田稲作の代表的な遺跡である砂沢では、生業面で水田が選択されただけで、それ以外では縄文時代晩期から続く既存の道具が用いられています。木製農具はなく、石庖丁ではなく剥片石器で穂摘み(収穫)が行なわれている、というわけです。杭や矢板を用いた用水路や畦畔は設置されず、高低差を利用した自然の水の流れで水が引き込まれており、石材の供給体制も縄文時代晩期と変わりません。祭祀も含めて社会面では「弥生時代的」要素は完全に欠落しており、縄文時代の土偶祭祀が継続しており、本州と四国と九州において、津軽は水田稲作と土偶祭祀がともに行なわれていた唯一の地域です

 本書は、北海道と琉球諸島を除く日本列島の農耕受容について、以下のように4通りに分類しています。それは、(A)灌漑式水田稲作が突然始まった玄界灘沿岸地域、(B)穀物栽培の後で灌漑式水田稲作が始まった西日本と伊勢湾沿岸地域、(C)穀物栽培の後で農耕文化複合を経て灌漑式水田稲作が始まった中部高地や関東、(D)Cが農耕文化複合のまま灌漑式水田稲作が始まった利根川以北です。これらの担い手の遺伝的構成はたいへん注目され、BとCとDでは紀元前10世紀後半以降もある時期までは、「縄文人」的な遺伝的構成要素で完全にモデル化できる集団が残っていたのではないか、と予測され、今後の研究の進展が期待されます。

 弥生時代はかつて、当初から鉄器を使用しており、水田稲作と鉄器の使用が同時に始まる世界で唯一の先史時代文化と位置づけられていましたが、弥生時代開始の根問題が紀元前10世紀後半までさかのぼり、弥生時代早期から前期末までの約600年間は、鉄器のない石器時代と明らかになりました。しかし本書は、水田稲作の開始を単なる生産経済の始まりとして経済的側面で把握するだけではなく、遼寧式青銅器文化の生産基盤として始まったのかどうか、考察することにより、縄文時代的な生業構造の延長上で栽培可能なアワやキビを対象とした穀物栽培とは一線を画した、西日本における紀元前4世紀前葉(弥生時代前期末)以前の約600年間を、世界史の枠組みで把握することが可能になる、と指摘します。本書は、石器が主流で、わずかに青銅器の再加工品が存在する前期末までの弥生時代の数百年間について、朝鮮半島で政治的に劣勢にあった集団が日本列島に到来したため、青銅器が本格的に流通しなかった可能性を指摘します。玄界灘沿岸地域で青銅器を保有する層が登場するのは、紀元前4世紀後半(弥生時代中期初頭)以降です。本書はこうした特徴を示す弥生時代早期~前期末を、世界史において初期青銅器時代段階と把握できる、との見解を提示します。


参考文献:
岩永省三(2013)「東アジアにおける弥生文化」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P101-134
関連記事

坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
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寺沢薫(2000)『日本の歴史02 王権誕生』(講談社)

藤尾慎一郎(2023)「弥生人の成立と展開2 韓半島新石器時代人との遺伝的な関係を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第242集P35-60
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000021
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藤尾慎一郎(2024) 『弥生人はどこから来たのか 最新科学が解明する先史日本』(吉川弘文館)

https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_2.html
15:777 :

2024/05/06 (Mon) 02:15:41

【最新研究】これまでの日本人の起源が覆ります!!
世界ミステリーch 2024/05/04
https://www.youtube.com/watch?v=85UP41o32_k

これまで日本人の起源は縄文人と弥生人の混血とされてきました。これは二重構造説と言います。しかし、新たな研究によってこの定説が覆ることになりました。それが日本人の起源は縄文人と弥生人、そしてもう一つの人々の混血というもの。今回はこの新しい説を解説していきます。

参考: 引用:
2024年4月18日 理化学研究所
全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴
-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
16:777 :

2024/06/07 (Fri) 18:24:58

1500年前の日本の関西、朝鮮半島の祖先が住んだ場所だった
2023-10-10
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607


『渡来人の考古学と歴史』発刊 
米国の学者が古代韓日交流史をまとめた本

全羅南道咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳だ。古墳の各所に石を積んだ跡(葺石)が見え、周囲を溝で囲む日本式の前方後円墳の典型的な姿をそのまま示している=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社
 最近、韓国人が最も多く訪れる海外の観光地の一つが、大阪のある日本の関西地方だ。日本で最大規模のコリアンタウンがあることでも有名なこの地域について、多くの韓国人は、20世紀初めに植民地となった祖国を離れた多くの朝鮮人が生計のために定着したところだと認識している。

 しかし、歴史的な真実は、関西に刻まれた古代の祖先の驚くべき足跡を伝える。『続日本紀』の8世紀初めの人口調査記録によると、1300年前の関西地方の中心だった南部の奈良盆地に住んでいた人の80~90%が百済系移民だった。それを立証するのが、関西地方に5世紀後半から登場する百済特有の墳墓の様式である横穴式石室墳で、6世紀まで爆発的に増加し、高安などの地域に「1000個の墓」という意味の千塚古墳群が雨後の筍のように登場する。一部のエリートの墓は王陵級であり、非常に大きいうえ、銅鏡、鉄製短剣、刀、金のイヤリング、玉・ガラス製品などが出土し、百済と馬韓系統の住民と支配者の存在を示している。未発掘の古墳は数百基にのぼり、関西地方だけでも少なくとも1000基を超える百済系の古墳群が造られたと推定される。歴史考古学者の石渡信一郎氏は「千塚と呼ばれる巨大な墳墓の主が朝鮮半島西南部出身の渡来人とその子孫であることを考えれば、紀元後475年から600年までの125年間に、少なくとも100万人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきたものと考えられる」と推定した。


『渡来人の考古学と歴史』表紙//ハンギョレ新聞社
 こうした事実は、米国で研究中の3人の考古人類学者が、韓国と日本で刊行された膨大な考古学と歴史学の刊行物の書誌情報をもとに分析・整理した学術書『渡来人の考古学と歴史』(周留城出版社)に出てくる内容だ。米国オレゴン大学のイ・ソンレ考古学名誉教授、オレゴン大学のメルビン・エイケンス人類学(考古学)名誉教授、英国ダラム大学のジナ・バーンズ日本学名誉教授が共同で執筆し、韓国伝統大学融合考古学科のキム・ギョンテク教授が翻訳した。この本は、紀元前1000年以前の無文土器時代から紀元後7世紀の三国時代まで、朝鮮半島から日本列島に渡った移民の経路と、これらの人たちが日本の文化と社会の発展に寄与したことを、朝鮮半島からの「渡来人」の活動状況を通じて集中的に探求する。

 この本は、古代の朝鮮半島からの渡来人の話を7つの質問を通じて解き明かしていく。これらの人たちはどこから来て、その歴史的・社会文化的な背景は何であり、なぜ朝鮮半島を去り、日本列島のどこに定着して何をしたのか。これらの人たちを日本列島の人たちはどのように待遇し、また彼らは日本社会にどのような貢献をしたのかについて、最近の研究成果をもとにわかりやすく解いていく。時代別に、稲作の伝来、青銅器文明の伝播、鉄器の伝播、宗教・文化的文物の大規模伝播などに区分される古代朝鮮半島の祖先の日本列島移住文化史は、絶えず流れる「河川のようなもの」であり、渡来人の話は、日本の始まりというミステリーの箱を開く重要なカギだとする洞察によってまとめられている。著者らは「日本が5~6世紀に古代国家の基盤をつくった革命的な変化は、技術と技能を持った人たちが入ってきて、技術的・文化的な革命を成し遂げたことによって可能だったもの」だとし、渡来人は古代日本の国家基盤を作った必須の要素だったと指摘する。


『古代韓日交流史』表紙//ハンギョレ新聞社
 今年上半期に出版された中堅考古学者のパク・チョンス教授(慶北大学)の力作である『古代韓日交流史』(慶北大学出版部)も、伽耶・百済・新羅からの文化伝播が4~6世紀の日本の古代国家成立の軸になったことを、考古学的な発掘の成果で論証した大作だ。3~5世紀の日本列島と隣接した朝鮮半島南部の伽耶圏の文化が日本との交流の主軸であり、金官伽耶と大伽耶の順に交渉の主体が移り、その後、新羅の伽耶吸収によって百済に交流の中心が移ることになる過程を、パク教授が集めた日本各地の詳細な考古学的な発掘成果を通じて論証し展開していく。日本とは敵対的な関係に変わったとされている新羅の日本との交易や文物交流は、一般的に言われているのとは違い、5世紀以降も活発に継続し、百済滅亡後は唐に対応する両国の外交的な必要によってよりいっそう深まったという事実を、日本各地の新羅系古墳遺跡の事例を通して示しているのが興味深い。
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48030.html?utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=headlines&utm_content=20240607
17:777 :

2024/07/17 (Wed) 17:08:01

雑記帳
2024年07月17日
夏家店上層文化の人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html

 現在の中国の北東部地域における青銅器時代人類集団の遺伝的多様性を報告した研究(Zhu et al., 2024)が公表されました。本論文は、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域南部の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化関連の1個体のゲノムデータを報告しています。この個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン(Chifeng)市カラチン・バナー(Harqin Banner)のヨンフェン(Yongfeng)県牛家営子(Niujiayingzi)鎮マジアジシャン(Majiazishan)村で発見され、アムール川(Amur River、略してAR)集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が高い西遼河西部の夏家店上層文化関連個体群とは異なり、黄河(Yellow River、略してYR)流域の後期新石器時代集団的な祖先系統でゲノムが完全にモデル化できます。この遺伝的構成の違いは、西部では牧畜が、南部では雑穀農耕が行なわれるという、生業の違いはと対応しています。

 ただ、西遼河南部の夏家店上層文化については、まだ1個体しかゲノムデータが報告されていないので、断定的に一般化はできません。しかし、本論文は日本人起源論との関連でたいへん注目される分析結果を提示しており、日本人起源論との関わりについては最後に「私見」の項目で述べます。なお、時代区分の略称は次の通りで、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。


●要約

 西遼河および黄河流域は、中国北部における雑穀農耕の二大中心地です。浮遊分析と遺跡の空間分布の結果から、農耕と牧畜という二つの異なる生存戦略が西遼河の南部と北部でそれぞれ採用されていた、と示唆されます。西遼河西部地域の古代の人口集団の先行研究は、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜経済と黄河農耕民との遺伝的類似性低下との間の相関を示唆しました。しかし、西遼河南部の人口史は、おもに古代人の遺伝的データの不足のため不明です。

 本論文は、夏家店上層文化と関連する後期青銅器時代の西遼河南部地域のマジアジシャン遺跡の古代の1個体のゲノムデータを報告します。西遼河西部の個体群とは異なり、この個体の祖先系統は完全に後期新石器時代黄河農耕民に由来します。夏家店上層文化の古代の人口集団の遺伝的構造が見つかり、これは西遼河の西部と南部の生計戦略の違いと一致します。気候悪化は、西遼河の西部と南部にそれぞれ異なる集団、つまり西部ではアムール川からの遊牧民集団が、南部では黄河からの農耕民集団が居住することにつながりました。


●研究史

 近東の肥沃な三日月地帯からアメリカ大陸やさらにその先まで、農耕の出現と拡大はヒトの歴史と文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の発展に顕著な影響を及ぼしました。雑穀はアジア東部北方で何千年にもわたって主食で、最初は黄河下流域で早くも紀元前9000年頃に利用され、その後、黄河中流~下流および西遼河地域で少なくとも紀元前6000年頃までには広く栽培されていました。一方で、中期新石器時代には、おもに安定した雑穀生産のため複雑な社会がおもに黄河および西遼河地域で出現し、それは人口増加と文化的革新につながりました。雑穀農耕のこの拡大では、中国北部では黄河および西遼河地域、と中国南東部の方では台湾、中国南西部では四川盆地が、アジア東部における乾燥地農耕の起源と拡大にとって重要な地域と認識されています。

 西遼河地域にはとくに、前期新石器時代から後期青銅器時代にかけての興隆窪(Xinglongwa)文化や趙宝溝(Zhaobaogou)文化や紅山(Hongshan)文化や小河沿(Xiaoheyan)文化や夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化など、連続的な雑穀農耕関連文化があります。この文化的過程では、主要な生計戦略が「低水準」の食糧生産から充分に発展した穀物栽培へと変わり、新石器時代においては、動物の消費への依存が減少し、キビやアワの消費が増加しました。興味深いことに、雑穀農耕が主要だったことを特徴とする夏家店下層文化の後に、西遼河地域の西部では畜産が重要な役割を取り戻しました。前期青銅器時代の夏家店下層文化と比較して、夏家店上層文化における「文明」と農耕の水準は、後期青銅器時代における気候の悪化と関連して明らかに低下しました【本論文のこの評価が妥当なのかは、判断を保留します】。この生計の変容に関して、アムール川の狩猟採集民からの遊牧【遊牧を行なっていれば、狩猟採集も同時に行なっているとしても、一般的には狩猟採集民とは呼ばれないように思いますが】が、気候による食糧不足のため、後期青銅器時代における西遼河人口集団の生活様式に影響を及ぼした、と推測されています。対照的に、夏家店上層文化人口集団はじっさい、西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団である、との推測もあります。

 以前の遺伝学的研究(Ning et al., 2020)では、前期新石器時代(紀元前5520~紀元前5320年頃)から鉄器時代(鮮卑、紀元前50~紀元後250年頃)までの、アムール川人口集団の長期の遺伝的安定性が見つかりました。具体的には、後期新石器時代西遼河人口集団(WLR_LN、夏家店下層文化)は、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN、紅山文化)よりも、雑穀農耕の黄河人口集団の方と高い遺伝的類似性がある、と観察されました。それと比較して、部分的な牧畜青銅器時代西遼河人口集団(WLR_BA、夏家店上層文化)は、WLR_LNと比較して、黄河人口集団との遺伝的類似性が低く、このWLR_BAに含まれる外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)には、アムール川集団とクレード(単系統群)を形成する遺伝的特性がありました。その研究(Ning et al., 2020)は、経時的な西遼河人口集団における遺伝的特性の頻繁な変化と生計戦略の変化との間にはつながりがあることを示唆し、それは第二の仮定【夏家店上層文化人口集団は西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団】を裏づけます。

 しかし、西遼河の南部の古代人のゲノムデータが必要なためこれまで、青銅器時代西遼河地域人口集団の遺伝的特性の包括的理解が妨げられています。本論文では、夏家店上層文化と関連する放射性炭素年代測定結果が得られている、マジアジシャン遺跡の古代人1個体のゲノム規模データが報告されます。マジアジシャン遺跡は、WLR_BAとWLR_BA_oが発見された竜頭山(Longtoushan)遺跡の南方約100kmの、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン市カラチン・バナーのヨンフェン県牛家営子鎮のマジアジシャン村の近くに位置しています。この新たに報告された1個体(標本識別番号はDSQM2、集団分類表示はWLR_BA_o2)は、先行研究(Ning et al., 2020)で報告された青銅器時代西遼河の両人口集団(WLR_BAとWLR_BA_o)と異なる遺伝的特性を有しているものの、こうが農耕民と密接に関連している、と分かり、これまで検出されていなかった西遼河地域の遺伝的特性を示唆しています。


●標本と手法

 マジアジシャン遺跡(図1)の古代人の標本1点から、歯が収集されました。1点の人骨標本が加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で年代測定され、非較正年代が得られました。放射性炭素(¹⁴C)年代は、OxCal第4.4.2版およびIntCal20較正曲線を用いて較正されました。古代DNAの信頼性は、脱アミノ化パターンから評価されました。標本DSQM2の遺伝的性別は、X染色体とY染色体のゲノム網羅率が常染色体と比較されました(Fu et al., 2016)。この場合、男性ではX染色体の網羅率は常染色体の網羅率の約半分となり、女性ではほぼ同じとなります。Y染色体では、男性の網羅率は常染色体の半分に、女性の網羅率はゼロとなります。標本DSQM2のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)も決定されました。標本DSQM2の遺伝的データは、他のデータ(Damgaard et al., 2018、Sikora et al., 2019、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020)と統合されました。124万SNPヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で、遺伝的関係が調べられ、1親等もしくは2親等の関係にある2点以上の標本では、既知の古代および現代の人口集団のデータと統合するさいに、網羅率のより高い標本が下流分析に含められました。以下は本論文の図1です。
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 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、現代人集団を用いて主成分(PC)が計算され、古代人標本が上位2構成要素に投影されました。PCの計算には、470607ヶ所のSNPが用いられました。ADMIXTURE分析では、220388ヶ所のSNPを用いて、教師なし分析が実行され、2~10のK(系統構成要素数)が検証されました。f統計では、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、X)のf₄統計が実行されました。標本DSQM2から黄河とアムール川と西遼河の人口集団Xを区別できる参照人口集団を見つけるため、参照としてアジア東部のさまざまな人口集団が用いられました。現時点での解像度を考えると、人口集団Xのすべてのf₄結果の有意ではないZ得点からは、人口集団X がWLR_BA_o2と密接な遺伝的関係を有する、示唆されます。混合モデル化はqpAdm第810版を用いて実行され、標本が1~3のあり得る供給源の組み合わせとしてモデル化され、潜在的供給源として選択されなかった人口集団は外群に追加されました。


●分析結果

 標本DSQM2の非較正の直接的な放射性炭素年代は、夏家店上層文化と関連しています。標本DSQM2のmtDNA汚染率は2%未満と推定されました。標本DSQM2のmtDNAハプログループ(mtHg)はD4jで、その性別は男性でした。2点のSNP一覧、つまり、アフィメトリクス(Affymetrix)社「ヒト起源(Human Origins、略してHO)」とイルミナ(Illumina)社「124万」標本(Fu et al., 2015、Haak et al., 2015、Mathieson et al., 2015)を用いて、標本DSQM2の疑似半数体データが生成されました。それぞれのSNP一覧で、79460ヶ所と154754ヶ所が得られました。次に、これらのデータはさらなる分析のため、以前に刊行された古代人および現代人のゲノムデータ(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020、Wang et al., 2021)と統合されました。


●WLR_BA_o2の全体的なゲノム構造

 WLR_BA_o2の全体的な遺伝的構造を調べるため、まずさまざまなアジア東部人集団でのPCAが実行されました(図2)。PCAの結果では、WLR_BA_o2と西遼河地域の他の古代の個体群は、黄河集団とアムール川集団との間に投影されました。WLR_BA_o2は、後期新石器時代~鉄器時代集団(YR_LNとYR_LBIA)の最も近くに投影されたWLR_LNとクラスタ化します(まとまります)が、WLR_MNとWLR_BAはアムール川集団およびWLR_BA_oに向かって、完全にアムール川集団とクラスタ化します(図2)。同様の結果は外群f₃分析で観察でき、WLR_BA_o2は黄河集団とクラスタ化し、WLR_MNとWLR_BAはともにクラスタ化し、次に黄河集団とクラスタ化しとます。対照的に、WLR_BA_oはAR_鮮卑_IAとクラスタ化し、古代アジア北部(Ancient North Asian、略してANA)集団との高い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図2です。
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 モデルに基づく教師なしADMIXTURE分析では、ユーラシア草原地帯人口集団で最大化する青色の構成要素と、ANA人口集団で最大化される黄色の構成要素と、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)で最大化される橙色の構成要素が観察されました(図3A)。WLR_BA_o2はYR_LNおよびYR_LBIAと類似した遺伝的特性を有し、黄河集団とクラスタ化しており、WLR_LNとWLR_BAはWLR_BA_o2と比較してANA関連祖先系統をより多く有していますが、WLR_BA_oはANA集団と一致しました。まとめると、これらの結果は、後期新石器時代黄河農耕民とのWLR_BA_o2の密接な遺伝的類似性を示唆しています。以下は本論文の図3です。
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●銅器時代の西遼河地域における遺伝的多様性を示すWLR_BA_o2のゲノム特性

 WLR_BA_o2と黄河(YR)およびアムール川(AR)および西遼河(WLR)の集団との間の遺伝的差異を定量化するため、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR/AR/WLR)のf₄統計で始めて、WLR_BA_o2の遺伝的特性がこれら3集団(YR/AR/WLR)と直接的に比較され、ここでの参照はアジア東部およびユーラシア草原地帯の95の現代および古代の人口集団を含む参照人口集団の一式です。WLR_BA_o2はYR集団のほとんどに対して有意でないZ得点、つまり、YR上流_LNを除くf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR集団)の範囲(−3.11 < Z < 2.50)と、AR集団のほとんどに対する有意なZ得点、つまりf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、AR集団)の範囲(−3.27 < Z < 5.52)を示す、と観察されました。WLR_BA_o2はYR_LNと最も密接な遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR_LN)の範囲(−2.24 < Z < 1.65)です。

 西遼河地域に焦点を当てると、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN)と比較して、WLR_BA_o2はSEA祖先系統とより高い遺伝的類似性を、ANA祖先系統とより低い遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が−2.13と、f₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が3.71超です。この場合、SEAは台湾先住民のアミ人(Ami)、ANAはモンゴル_N_北方によってそれぞれ表されます。WLR_BA_o2はWLR_LNおよびWLR_BAと比較して有意ではないZ得点を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)の範囲(−2.637 < Z < 2.349)です。しかし、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)のほとんどの負の値範囲(−0.124 < Z < −1.340)との、わずかにより高いSEAとの遺伝的類似性を依然として観察できます。最後に、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点−3.18とf₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点5.05として示されるWLR_BA_oと比較して、SEA集団とのより高い遺伝的類似性と、ANA集団とのより低い遺伝的類似性を観察できます。

 次に、qpAdm混合モデル化を用いて、青銅器時代WLR集団の祖先系統の割合が調べられました。黄河とアムール川と西遼河の3集団を用いて、WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2がモデル化されました(図4)。その結果、これら3集団の構成間で明確な区別が見つかりました。具体的には、WLR_BA_oはAR_EN祖先系統が93.8~100%と残りの黄河集団祖先系統でモデル化でき、WLR_BA_o2は黄河集団に100%由来するものとしてモデル化できます。対照的に、WLR_BAは黄河集団からの祖先系統57.6~61.1%と残りのAR_ENもしくはハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(HMMH_MN)の祖先系統でモデル化されました。一般的に、青銅器時代の3集団(WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2)の組成では有意な違いが観察され、これは青銅器時代西遼河集団の遺伝的多様性を示唆しています。以下は本論文の図4です。
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●考察

 西遼河は、内モンゴル自治区チーフォン市のヘシグテン(Keshiketeng、Hexigten)鎮の南西部から始まります。西遼河は、遼河へと合流し、最終的には渤海へと注ぐ前に、シラムレン(Xilamulun、Xar Moron、西拉木倫河)川や白岔(Baicha)川や紹浪(Shaolang)川や老哈(Laoha)川などいくつかの上流の支流と合流します。西遼河領域(北緯41度17分~45度41分、東経116度21分~123度43分)は面積が13万km²にわたり、中国北東部に位置しています。西遼河流域は、内モンゴル高原と松遼(Songliao)平原との間の移行帯に位置しています。この地域は、中華「文明」の発祥地の一つです。興隆窪文化と紅山文化と夏家店文化の繁栄は、中華「文明」の起源に重要な意味を有しています。興隆溝(Xinglonggou)遺跡に代表される興隆窪文化は、主要な作物としてキビとモロコシで乾燥地農耕活動を始めて、それは中国北部における乾燥地のうこうの重要な起源のひとつと考えられています。遼寧省の牛河梁(Niuheliang)遺跡に代表される紅山文化と遼寧省の二道井子(Erdaojingzi)遺跡に代表される夏家店文化も、中華「文明」の起源に顕著な影響を及ぼした、と考えられており、恐らくはそれぞれ、中原「文明」の起源の一つでした。西遼河流域の典型的な青銅器時代文化として、夏家店文化は1960年代に、内モンゴル自治区チーフォン市ソンシャン(Songshan)地区に位置する夏家店遺跡の発掘に因んで命名され、夏家店下層文化と夏家店上層文化の2種類が含まれます。

 この地域は、雑穀農耕民と畜産を行なっている人々の交差点に位置しています。以前の学際的研究では、局所的な人口集団の生計戦略は気候変化とともに変わる、と分かりました。先行研究(Ning et al., 2020)は古代ゲノムの観点からこうした結論を裏づけ、遺伝学的変化を気候変動による人口移動と関連づけています。しかし、その研究(Ning et al., 2020)で報告された古代人の全個体はホルチン砂丘原(Horqin Dunefield)の北側に由来し、おもに畜産生計戦略と関連する西遼河の西部地域における人口集団の遺伝的特性を表しています。浮遊を通じての植物遺骸の回収と遺跡の空間分布から、異なる生計戦略が西遼河の西部地域と南部地域で採用されていたかもしれない、と示唆されます。しかし、後期青銅器時代におけるホルチン砂丘原の南側の人口集団の遺伝的特性は不明なままなので、この地域におけるゲノム特性の包括的理解が妨げられていました。

 本論文では、先行研究(Ning et al., 2020)で報告されたホルチン砂丘原の北側の個体群とは明確に異なる、YR_LNとを形成する遺伝的祖先系統を有する青銅器時代のホルチン砂丘原の南側の1個体が報告されました。これは、西遼河南部地域における農耕活動が西部地域より相対的に強い、という以前の調査結果とも一致します。西遼河西部地域は比較的標高が高く南部地域より気温が低くなり、キビやモロコシに基づく広範な農耕活動に適していません。したがって、西遼河西部地域の人々は、ウシやヒツジの飼育など、畜産活動により従事しなければならなかったでしょう。気候悪化により遊牧民人口集団はアムール川から南方へと移動し、西遼河の西部に居住しましたが、黄河から到来したおもに農耕に従事していた人口集団は依然として、西遼河の南部の広範な地域に居住していました。

 本論文は概して、後期青銅器時代の西遼河地域のホルチン砂丘原の南側の古代人1個体を報告し、この個体は先行研究で報告された個体群とは異なるゲノム祖先系統を有しており、遺伝的多様性の存在を示唆し、ある程度は、西遼河地域における遺伝的構造の知識を向上させます。この違いは、ヒトの移動における気候悪化に起因した可能性が高そうです。本論文は、この結論が不充分な標本規模に制約されており、この地域におけるさらなる考古学的研究が必要であることを認識しています。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化集団における、生業の違いに起因する遺伝的差異の可能性を示しており、ゲノムデータが得られている西遼河地域南部の夏家店上層文化集団はまだ1個体だけてなので、断定はできませんが、夏家店上層文化集団において生業の違いに対応した遺伝的構成の違いがあった可能性は高そうです。こうした遺伝的構成の違いは、気候悪化とともに、後期新石器時代~青銅器時代にかけて、アムール川地域から西遼河地域西部への人口移動があったためと考えられます。

 アジア北東部人類集団の遺伝的構造は地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置しますが、黄河地域や西遼河地域では完新世に人類集団の遺伝的構成がかなり変容したようで(Ning et al., 2020)、これは、アムール川地域において少なくとも14000年前頃までさかのぼるかもしれない、人類集団の長期の遺伝的安定性(Mao et al., 2021)とは対照的なようです。また、黄河地域と西遼河地域の人類集団の遺伝的構成の変容には違いがあり、西遼河地域集団は、アムール川地域集団的な祖先系統と黄河地域集団的祖先系統の割合の変化が反映され、黄河地域集団では、黄河流域での後期新石器時代以降における稲作農耕の痕跡の増加とともに、前期新石器時代華南集団的な祖先系統(Yang et al., 2020)の割合が高まります(Ning et al., 2020)。

 冒頭で述べたように、本論文は日本人起源論との関連でも注目されます。学際的な先行研究(Robbeets et al., 2021)では、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統でモデル化されています。しかし、この見解に対して、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化集団関連祖先系統と夏家店上層文化集団関連祖先系統は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、夏家店上層文化集団関連祖先系統の代わりに紅山文化集団関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 さらに、こうした弥生時代以降の日本列島の人類集団の主要な祖先系統を夏家店上層文化集団関連祖先系統で一様にモデル化するのではなく、弥生時代と古墳時代とで、日本列島の人類集団のゲノムに占める主要な祖先系統には違いがあり、弥生時代にまず夏家店上層文化集団関連祖先系統のようなアジア北東部祖先系統が日本列島に到来し、古墳時代以降に黄河流域集団関連祖先系統のようなアジア東部祖先系統が日本列島に到来した、との見解も提示されています(Cooke et al., 2021)。これは、「縄文人」関連祖先系統と弥生時代以降の大陸から到来した一様な祖先系統との遺伝的混合により本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団のゲノムが形成された、とする従来の二重構造説に対して、三重構造説とも言えそうで、現代日本人の大規模で高品質なゲノムデータを分析したその後の研究(Liu et al., 2024)でも、三重構造説と整合的な結果が得られました。

 しかし、この三重構造説(Cooke et al., 2021)は、弥生時代集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体のみに代表させている点で問題があるように思われます。それは、「縄文人」関連祖先系統の割合が現代「本土」日本人集団と同じくらい低い(つまり、アジア北東部とアジア東部を区別するのかはともかく、大陸部アジア東部的な祖先系統の割合が高い)弥生時代の個体が下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在するからです(Robbeets et al., 2021)。そのため、三重構造説では、「縄文人」関連祖先系統との推定混合年代は、アジア東部祖先系統(1748±175年前)よりもアジア北東部祖先系統(3448±825年前)の方が早いとはいえ、単純に、弥生時代に日本列島に到来したのが夏家店上層文化集団関連祖先系統的なアジア北東部祖先系統で、古墳時代に日本列島に到来したのが、黄河流域集団関連祖先系統とは、現時点で断定できないように思います。

 重要なのは、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統や黄河流域集団関連祖先系統でモデル化できるとしても、夏家店上層文化集団や後期新石器時代以降の黄河流域集団が現代日本人の直接的な祖先集団と証明されたわけではなく、あくまでもそうした遺伝的構成要素でモデル化できるにすぎないことです。そこで注目されるのが本論文の知見で、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化において、アジア北東部祖先系統の割合の高い集団と、アジア東部祖先系統でゲノムを完全にモデル化できる集団が共存していたことから、西遼河地域およびその周辺地域を含めて黄河流域より北方のアジア北東部が、後期新石器時代~青銅器時代にかけてそうした状況だった可能性は高いように思います。つまり、日本列島への到来で、アジア東部祖先系統が(古墳時代よりも早くても)アジア北東部祖先系統より遅かったとしても、それは黄河流域からの直接的な到来ではなく、直接的な起源は西遼河地域およびその周辺地域にあり、朝鮮半島を経由したのではないか、というわけです。

 日本列島にアジア北東部祖先系統や アジア東部祖先系統をもたらした集団が、いつどこからどのように日本列島に到来したのかは現時点で不明と言うべきで、そのより確かな推測には日本列島とユーラシア東部大陸部の時空間的にさらに広範囲のゲノムデータが必要になるでしょう。おそらく、完新世において日本列島だけではなく朝鮮半島でも人類集団の遺伝的構成のかなりの変容があったのでしょう。朝鮮半島南岸では、中期新石器時代に日本列島「本土」現代人集団のゲノムと似たような割合の「縄文人」関連祖先系統とアジア東部および北東部祖先系統でモデル化できる個体が存在しますが(Robbeets et al., 2021)、これら朝鮮半島南岸中期新石器時代個体群により表される集団が、本当に「縄文人」を祖先に有しているのかはまだ断定できませんし(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団における「縄文人」由来のゲノム領域の断片化の程度を考えると、そうした集団が日本列島「本土」現代人集団の主要な祖先である可能性はきわめて低そうです(藤尾.,2023)。

 日本列島と朝鮮半島の両地域では、現代人のような遺伝的構成は紀元前千年紀以降に形成された可能性が高いように思います。また、そうした形成過程では複数の多方向の移動があった可能性は高そうで、単純化には注意すべきでしょう。おそらく日本列島には、縄文時代晩期以降、まずアムール川地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が、その後で弥生時代のある段階以降に黄河地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が到来し、複雑な混合過程を経て日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が形成されたように思います。この間、日本列島「本土」の人類集団の遺伝的構成は、とくに弥生時代にはかなり不均一だったようで(藤尾.,2023)、日本列島「本土」における人類集団の遺伝的構成の形成過程を、時空間的に広範にわたって一様に解釈してはならないでしょう。
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html
18:777 :

2024/07/25 (Thu) 15:35:24

日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究
2024.07.24
内城喜貴 / 科学ジャーナリスト、共同通信客員論説委員
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/

 「日本人の祖先はどこからやってきたのか」。このロマンに満ちた問いに対しては、祖先は縄文人と大陸から渡来した弥生人が混血したとする「二重構造モデル」が長くほぼ定説となっていた。そこに日本人のゲノム(全遺伝情報)を解析する技術を駆使した研究が盛んになり、最近の、また近年の研究がその説を修正しつつある。

 日本人3000人以上のゲノムを解析した結果、日本人の祖先は3つの系統に分けられる可能性が高いことが分かったと理化学研究所(理研)などの研究グループが4月に発表した。この研究とは別に金沢大学などの研究グループは遺跡から出土した人骨のゲノム解析から「現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ」と発表し、「三重構造モデル」を提唱している。

 理研グループの「3つの祖先系統」説は「三重構造モデル」と見方が重なり、従来の「二重構造モデル」の修正を迫るものだ。日本人の祖先を探究する進化人類学はDNA解析、ゲノム解析の技術という有力手段を手にして、大陸からさまざまな人々が渡来して現代の日本人につながった複雑な過程が見えてきた。今後さらに詳しい私たちのルーツが明らかになっていくだろう。それは「私たちの本質は何か」という壮大な探究テーマの回答を知ることにつながる。

大規模な日本人のゲノム解析により日本人集団の遺伝的構造を明らかにする研究の概念図(理研などの研究グループ提供)


祖先は「縄文系」「関西系」「東北系」の3つに

 母から子へ受け継がれるミトコンドリアにはわずかながらDNAが含まれ(ミトコンドリアDNA)、これを解析することにより、母系の血縁の有無が分かって遺伝的なルーツを調べることができる。細胞核に存在する核DNAは両親から半分ずつ子に伝えられる。このため、その配列や突然変異の規模などを解析することで人類の混血、交流や移動を調べることができる。

 「3つの祖先系統」説を発表したのは、理研生命医科学研究センターゲノム解析応用研究チームの寺尾知可史チームリーダー、劉暁渓上級研究員や東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センターの松田浩一特任教授ら。寺尾氏は静岡県立総合病院の免疫研究部長や静岡県立大学薬学部特任教授を兼任し、同総合病院や同大学も研究に参画した。

 寺尾氏らの研究グループは、多くの人の血液や遺伝情報を集めて保存している組織「バイオバンク・ジャパン」を活用。北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄の7地域の医療機関に登録された日本人3256人分のDNAの全配列を詳細に分析してゲノムの特徴を明らかにする膨大な作業を続けた。

 その結果、日本人の祖先は主に、沖縄県に多い「縄文系」、関西に多い「関西系」、そして東北に多い「東北系」の3つに分けられることが分かった。さらに調べると縄文系の遺伝情報の割合(祖先比率)は沖縄県が一番高く28.5%、次いで東北で18.9%、関西では最も低く13.4%だった。

「二重構造モデル」に疑問提示

 この祖先比率は縄文人と沖縄の人々の間に高い遺伝的親和性があるとの以前の研究とも一致し、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。また、東北系も縄文人との遺伝的親和性が高く、沖縄県・宮古島の古代日本人や韓国三国時代(4~5世紀)ごろの古代韓国人に近かったという。

 こうした研究成果は、縄文時代の狩猟採集民族である縄文人と弥生時代に大陸の北東アジアから渡来した稲作移民の弥生人の混血により現代の日本人が形成されたとする「二重構造モデル」に疑問を投げかける内容という。

 現代人の祖先はネアンデルタール人やデニソワ人と交雑したとされている。一連のゲノム解析では、現代の日本人にネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだとみられるDNA配列も見つかっている。

 デニソワ人から受け継いだ配列には興味深いことに2型糖尿病に関連するものも含まれていたという。DNAの解析は「病気感受性」をも明らかにして個別化医療に道を開くと期待されている。さらに詳しい分析が待たれる。研究論文は4月17日付の米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。

ゲノム解析による7地域の日本人集団は3つの集団に分けることを示す図。日本人の祖先が沖縄系(K1)、東北系(K2)、関西系(K3)の「3つの祖先系統」に分かれることを示す。(地域ごとの縄文系の祖先比率を示すグラフではない)(理研などの研究グループ提供)


人骨のゲノム解析から「三重構造モデル」提唱

 理研などの研究グループの発表に先立つ2021年9月。金沢大学などの共同研究グループは、縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム解析した結果、現代の日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つことが分かったと、同じくサイエンス・アドバンシズに発表している。

 この共同研究グループには当時の金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教や中込滋樹客員研究員のほか、アイルランドのダブリン大学のダニエル・ブラッドレイ教授や鳥取大学の岡崎健治助教、岡山理科大学の富岡直人教授、富山県埋蔵文化財センターの河西健二所長ら多くの研究者が参加した。

 覚張氏らは、縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町)、縄文時代前期の小竹貝塚(富山市)、船倉貝塚(岡山県倉敷市)、縄文時代後期の古作貝塚(千葉県船橋市)、平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期の岩出横穴墓(金沢市)の 6 遺跡で出土した人骨から計12人分のゲノムを取得し解析した。そして既に報告されている国内の他の遺跡や大陸の遺跡の人骨ゲノムと比較した。

 その結果、縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。そして弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定できたという。

 この研究成果は、大陸の集団から分かれた縄文人が暮らしている日本に古墳時代までに2段階にわたって大陸から遺伝的に異なる集団が流入したことを示唆しているという。そして研究グループは、従来の「二重構造モデル」に対して、新たに「三重構造モデル」を提唱した。

ゲノム解析に使われた試料の人骨が出土した遺跡の場所。○は新たな人骨ゲノムデータが得られた遺跡(金沢大学などの研究グループ提供)

縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷を示すグラフ。本州での現代日本人集団は古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持している(金沢大学などの研究グループ提供)


ゲノム解析と進化人類学の融合の賜物
 金沢大学などの研究グループによる研究は、日本人の祖先を巡る見方に科学的根拠をもって新たな説を提示する画期的な成果だった。ただ、古人骨のゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていた。理研などの研究は大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいてこの三重構造モデルを裏付けた形だ。

 これらの研究のほか、東京大学大学院理学系研究科の大橋順教授と渡部裕介特任助教らの研究グループは現代日本人のゲノムの中から縄文人に由来する遺伝的変異を検出する独自の手法を開発。都府県別にどの程度縄文人を受け継いでいるかという「縄文人度合」を推定し、その研究成果を2023年2月に発表している。

 その度合には地域差があり、東北の青森、秋田、岩手、宮城、福島の各県や関東の茨城、群馬の両県、鹿児島県や島根県などは度合いが高く、近畿や四国の各県では低かった。「度合い地図」では縄文人度合いが飛び抜けて高いことが確実に予想された沖縄県と分析に重要なアイヌ人のデータが得られなかった北海道は除かれている。

 また、縄文人は渡来人と比べて遺伝的に身長が低いことや血糖値が高くなりやすく中性脂肪が増えやすい傾向も分かったという。縄文人は農耕を営んでいた渡来人より炭水化物への依存度が低く、血糖値などを高く維持することで狩猟生活に適応していた可能性があるという。興味深い見方だ。

 現代日本人のベースになっているのは弥生時代以降の渡来人であることは分かっていたが、東アジアの中で日本人を特徴付けるのは縄文人から受け継いだ遺伝的要素で、東京大学のこの研究は現代人の成り立ちは地域によってかなり異なることを示している。

都府県別「縄文人度合」。色が濃いほど度合いが高いことを示す(東京大学の研究グループ提供)


祖先集団の移動や複雑な混血の実相明らかに
 今春発表された理研の研究成果も、それに先立つ金沢大学や東京大学の研究成果も、DNA、ゲノム解析の技術が進化人類学と融合した賜物(たまもの)と言える。日本人のルーツだけでなく、人類のさまざまな集団が持つ遺伝的変異の系統が明らかになって人類がどのように世界中に広まっていったかが分かってきた。

 人類進化の研究に新たな視点を提供したデニソワ人の名を命名したのは、2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したドイツ・マックスプランク進化人類学研究所のスバンテ・ペーボ教授だ。教授は約4万年前に絶滅したネアンデルタール人の骨片のゲノム解析を行ってゲノム配列を2010年に発表。欧州やアジアに住む現代人のゲノムの1~4%がネアンデルタール人に由来し、ネアンデルタール人が現生人類と交雑していた証拠を示した。

 ペーボ教授はまた、2008年にロシア・シベリアのデニソワ洞窟から出土した骨片の核DNAの全配列を決定してデニソワ人と命名。世界各地の現生人類の核DNA配列と比較して東南アジアの集団では全DNAの4~6%がデニソワ人から受け継いでいることも突き止めている。進化人類学を大きく前進させた業績がノーベル賞受賞につながった。

 日本の進化人類学や分子人類学研究の第一人者である国立科学博物館館長の篠田謙一さんによると、1981年に人間のミトコンドリアDNAの全配列が解読された。その後DNAを増幅する技術「PCR法」ができるなどして20年が経過し、2001年に人間一人分の核DNAの全塩基配列が明らかになった。「次世代シーケンサー」と呼ばれる装置の登場で核DNAの解析を短時間で大量にできるようになり、2010年以降、進化人類学は新しい段階に入ったという。

現生人類のホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人と交雑してそれぞれの遺伝子の一部を引き継いでいることを示すイメージ図(ノーベル財団提供)


時空を超えて人類、日本人の本質に迫る
 篠田さんは日本人の成り立ちを探るために2018~22年に実施された「ヤポネシアゲノムプロジェクト」に主要メンバーとして参画し、日本人成立のシナリオを明らかにする数多くの研究成果を残している。ヤポネシアとはラテン語を組み合わせた造語で日本列島を表す。

 今年1月に開かれた日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)主催の講演会(月例会)で篠原さんは「このプロジェクトで現代日本人につながるプロセスは弥生時代で止まっておらず古墳時代まで延びることが分かった」「縄文人のゲノムは全て読めているが本州の日本人では(平均)10%が縄文人の遺伝子で90%は弥生時代以降入ってきた遺伝子だ」などと説明した。

 さらに「弥生時代にはたくさんの遺伝的変異を持った人たちがこの日本列島で暮らしていた。弥生人と言うが誰か1人をもって弥生人の代表とは言えない」と指摘。「日本人はどこから来たのかとよく言う。私も『我々はどこから来たのか』と自分の本のタイトルに書いたが、アフリカから来たことは分かっているので『日本人の成り立ち』と考える方がいい」と述べた。

 さまざまな年代や地域で得られた試料のDNAを比較することが可能になり、出土された骨の形状の違いだけでは判別できなかった私たちの祖先の集団の移動や複雑な混血の経緯が分かってきた。日本人の成り立ちが、そして日本人のルーツは多様であることがはっきりしてきた。

 「古代の人々のゲノムを調べることで当時の社会を知ることができるようになった。このことがこの10年のゲノム研究の進歩だ。こうした科学の進歩により社会とか人間とかを深く知ることができる」。篠田さんはこう強調している。

 DNA解析、ゲノム解析は明らかに考古学や人類学を大きく変えた。約31億塩基対の「遺伝情報文字」が詰め込まれている細胞核のゲノム。それを読み解く現代の技術は時空を超えて人類や日本人の本質に迫っている。


関連リンク

理化学研究所「全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴」
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html

金沢大学「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/96414/

東京大学「縄文人と渡来人の混血史から日本列島人の地域的多様性の 起源を探る」
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8252/

https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
19:777 :

2024/08/21 (Wed) 20:55:54

大阪コリアタウンに済州島移民が多い理由
2024.08.21
https://www.thutmosev.com/archives/80758770ytrnd.html

コリアタウンは1500年以上前から半島出身の移住者や貴族が住んでいた

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多くは韓国から逃げてきた済州島民

大阪生野区は外国人が多いことで知られていて、住民の21%が外国籍で、そのうち17%が在日韓国人だった。(ウィキペディアより)

生野区住民で半島由来の人の割合は半数とも2/3とも言われるが、かなり多いと言われながら良くわかっていません

なぜ生野区にこれほど半島系の住人が多いかは韓国内の騒乱や内戦に原因があり、多くが済州島にルーツを持っている

済州島は韓国の西側の島で、日本統治時代には島民が30万人居たが、朝鮮戦争後の騒乱で3万人以下に減少していました

済州島は1950年に始まった朝鮮戦争で北朝鮮に占領されず攻撃もされなかったのに、韓国政府の弾圧によって島民8万人がなくなりました

島に残ったら命がないので島民のほとんどは島外に逃げ、1950年代に最大10万人が日本に密航したとみられています

日本に密航した済州島民が向かったのは戦前から済州島の移民が多かった九州と大阪で、特に大阪には半島出身者が多く親戚や知人が多かった

済州島民をきっかけに韓国で迫害され日本に逃げてきた済州島民は大阪生野区に集まるようになり、現在のコリアタウンを形成しています

済州島出身者は一部の人が言っているような日本に「強制連行」されたわけではなく、実際のところ不法に密航してそのまま住み着いた

4.3済州島事件や保導連盟事件、そして朝鮮戦争による犠牲者を合わせると200万人に達しこれは当時の人口の1割を超えます

国民の1割以上がなくなったので数十万人が日本に密航して脱出し、そのまま住んでいる人たちが現在の在日韓国人のかなりを占めています

韓国で済州島民が弾圧された理由は北朝鮮支持者が多いなど政治的な事もあるが、もっと根源的には別の人種だったからです

弥生時代から大阪に半島系渡来人が多かった
日本の縄文時代から弥生時代の半島には縄文人に近い人々が住んでいたが、中国の内戦で朝鮮族が移住してきました

朝鮮族は北から南下してきたので、北側ほど朝鮮族に近く、釜山や済州島、特に済州島は文化や人種的な違いが残っている

この辺はヤマトとアイヌ、琉球の違いに近いが、朝鮮族系の韓国人は済州島民を激しく嫌ってきた

韓国人に差別されるより日本で差別された方がましだったので、日本に逃げてきました

渡来人は古墳時代以前に半島や大陸から移住した人々を指すが、始まりは紀元前1000年くらいに北九州の海岸に上陸した集団でした

彼らは海岸近くに日本で初めての水田を作り、縄文人と交じり合って「弥生人」になりました

弥生人はさらに四国や中国地方の縄文人と交じり合い、次いで近畿や関東の縄文人とも交じり合って日本列島が弥生化していきました

こうしてキリストが産まれた頃には大阪も弥生化し、奈良でヤマト王権が樹立し大阪は首都に最も近い港になった

西暦400年前後、神功皇后の時代に日本は三韓征伐によって半島南部を支配下に置き、大勢の労働者が日本に渡来しています

おそらく自発的にではなく労働者として連れてきたと考えられ、大阪湾の埋め立て工事や港湾労働に従事していました

現在の大阪市の海側はまだ海だったが、生野区は陸地の海岸線であり、百済や新羅の商人や貴族たちも暮らしていました

神功皇后の孫は巨大古墳の仁徳天皇で、仁徳時代に渡来人がもっとも多かったと推測されている

労働者として働いた渡来人はそのまま大阪に居住するようになり、現在も近畿や九州は半島由来の人々が多い

その後天智天皇の 白村江の戦い、秀吉の朝鮮征伐、日韓併合などで大量の渡来があり、大阪は新たな半島系住民を吸収していった

日本側は半島から移住者が来ると昔から居た半島系住民と一緒にし、日本人とのトラブルを避けようとした

このように2000年以上前から定期的に半島から移住者がやってきて、新たな移住者が増える事で今もコリアタウンは拡大している
https://www.thutmosev.com/archives/80758770ytrnd.html
20:777 :

2024/08/23 (Fri) 23:57:23

日本語の成立をDNAで解き明かす
みどりTV 2024/08/23
https://www.youtube.com/watch?v=VFcdAKfK5ek

弥生時代以降の日本人のルーツを探るには、DNAだけでは限界があることが見えてきました。そこで、他の方法も合わせて考えることで、仮説を作っていきたいと思います。
その中で一番信頼がおけるのが、語族との関係で考えることです。

■参考書籍
・安本美典「日本語の成立」:https://amzn.to/3SQInnu
・加藤重弘「言語学講義」:https://amzn.to/3AxNx1G
・折口信夫「日流祖語論」:https://amzn.to/3WRZW7N
・篠田 謙一 新版「日本人になった祖先たち」DNAが解明する多元的構造 NHKブックス:https://amzn.to/4cS5Qg0
・篠田 謙一 「DNAで語る 日本人起源論」 (岩波現代全書):https://amzn.to/3y8ptkW
・斎藤成也「最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生」:https://amzn.to/3Wx3g9K
・斎藤成也「DNAから見た日本人 (ちくま新書)」:https://amzn.to/3LzM5Os
21:777 :

2024/10/23 (Wed) 08:43:59

雑記帳 2024年10月17日
土井ヶ浜遺跡の弥生時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html

 土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体のゲノムデータを報告した研究(Kim et al., 2024)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本語の解説記事もあります。山口県下関市豊北町にある土井ヶ浜遺跡は、弥生時代の「渡来系」とされる人類集団が発見されたことで有名です。本論文は、土井ヶ浜遺跡の弥生時代の女性1個体(D1604)のゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人集団と比較することで、D1604が、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団的な3系統の遺伝的構成要素をすでに有している、と示しました。その遺伝的構成要素とは、「縄文人」関連とアジア東部および北東部関連です。

 本論文は、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的な形成過程の解明に大きく貢献するでしょうが、弥生時代の人類集団においては遺伝的異質性が高いことにも注目せねばならないでしょう。こうした点も含めて、最後に「私見」の項目で日本列島「本土」現代人集団の形成過程について少し言及します。査読前論文(Ishiya et al., 2024)ですが、土井ヶ浜遺跡ではD1604だけではなく男性1個体のゲノムデータも得られており、こちらはD1604よりずっと高品質で、さらに、群馬県吾妻郡長野原町にある居家以岩陰遺跡の縄文時代早期の女性1個体の高品質なゲノムデータも報告されているので、査読誌に掲載されたら当ブログで取り上げる予定です。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は以下の通りです。新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)。


●要約

 本土日本人は、在来の縄文人とユーラシア東部大陸部からの移民に由来する二重祖先系統を有している、と認識されてきました。大陸から日本列島への移住は弥生時代から古墳時代にかけて続きましたが、これらの遺民、とくにその起源に関する理解は、弥生時代の高品質なゲノム標本の不足のため不充分なままで、混合過程についての予測を複雑にしています。これに対処するため、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体の全核ゲノムが配列決定されました。土井ヶ浜遺跡弥生時代1個体と、アジア東部とアジア北東部の古代および現代の人口集団の包括的な集団遺伝学的分析から、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体は古墳時代個体群および現代本土日本人と同様に、縄文関連とアジア東部関連とシベリア北東部関連の異なる3遺伝的祖先系統祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有していた、と明らかになりました。非日本人集団のうち、アジア東部関連とシベリア北東部関連祖先系統を有する韓国人集団が、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体との最高度の遺伝的類似性を示しました。弥生時代個体群と古墳時代個体群と現代日本人についての混合モデル化の分析は、縄文関連と韓国関連の祖先系統を仮定する2方向混合モデルを裏づけました。これらの結果から、弥生時代と古墳時代の間の日本列島への遺民の大半はおもに朝鮮半島に由来した、と示唆されます。


●研究史

 日本列島の先史時代は、新石器時代である「縄文時代」により表されます【縄文時代が新石器時代と言えるのか、異論もあるかもしれませんが】。「縄文」という名称は「縄の文様」を意味しており、縄を用いて製作される固有の文様のある土器によって特徴づけられる、縄文文化の独特な特徴を反映しています。縄文時代の期間についてさまざまな意見がありますが、考古学的証拠では、16500年前頃に始まり、少なくとも1万年間ユーラシア大陸部から孤立して存続した、と広く裏づけられています。縄文時代の主要な生計活動は狩猟と採集でした。水田での稲作は日本の九州北部へと3000年前頃となる縄文時代晩期末にもたらされ、弥生時代の開始を示しています。稲作はその後、中期~後期弥生時代に日本全域へと次第に広がりました。

 日本人の歴史を説明するさまざまな仮説がありました。たとえば、「変容モデル」では、人々ではなく文化だけが大陸から到来した、と仮定されました。「置換モデル」は弥生人による在来の縄文人の完全な置換を示唆していますが、「交雑モデル」は在来の縄文人と大陸からの遺民との間の混合を提案しています。現時点では、古代の縄文時代と弥生時代の個体群の骨格の特徴に基づいて埴原和郎氏によって提案された、交雑モデルの一つである「二重構造モデル」が広く受け入れられています。集団遺伝学的研究を通じて、二重構造モデルを裏づける強力な証拠が蓄積されてきました。アジア東部大陸部の人々で一般的に見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の存在だけではなく、ユーラシア大陸部の人々では一般的ではないものの、縄文人では一般的であるN9bおよびM7aなどのmtHg[8]や、D1a2a1a(M125)などのYHg[11]も、日本列島における縄文人とユーラシア大陸部からの遺民との間の交雑との仮説を裏づけます。

 常染色体上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)に関する研究では、現代日本人の遺伝的構成要素は、アイヌ関連祖先系統とアジア東部大陸部関連祖先系統の混合として説明できる、と示唆されてきており、二重構造モデルの追加の証拠を提供します。さらに、地理的距離にも関わらず北海道のアイヌ集団と沖縄県の琉球諸島集団との間のより密接な遺伝的類似性を明らかにした研究は、日本列島本土へのユーラシア大陸部の人々の移住を示唆しています。二重構造モデルは基本的に正しいと考えられていますが、本土日本人の間では遺伝的異質性があり[19]、これは部分的には、縄文関連祖先系統の割合の差異に起因します[21]。これは、縄文人とユーラシア大陸部の遺民の混合が日本列島本土全体で均一に進行しなかったことを示唆しています。いくつかの研究も、古代の核ゲノムの解析を通じて、縄文人の起源を調べました。縄文人のゲノム解析から、縄文人系統は他のユーラシア東部系統の基底部に位置する、と明らかになりました[22~24]。しかし、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島へと移住したユーラシア大陸部の移民の起源は、弥生時代個体群の高品質な核ゲノムデータの不足のため、不明なままです。

 最近の研究[25]は、古墳時代の3個体の新たに報告されたゲノムと、日本の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の以前に刊行されたゲノム[26]を用いて、弥生時代と古墳時代との間の日本人【日本列島の人類集団】の遺伝的特性における突然の変化を報告しました。先行研究[25]は、弥生時代と古墳時代の個体間の遺伝的構成要素の違いに基づいて、弥生時代にシベリア北東部から遺伝子流動が起き、古墳時代には、中国の漢人などアジア東部人からの独立した遺伝子流動が起きた、と示唆し、現代本土日本人の3方向混合モデルを提案しました。

 しかし、3方向混合モデルを提案した論文[25]で提示された分析の特定の側面は、さらなる検討が必要です。大きな懸念は、使用された弥生時代標本の代表性です。九州北部とその周辺地域から発掘された弥生時代のヒト骨格遺骸は、測定分析に基づいて主要な2群に分類されてきました。九州北西部地域(長崎県とその近隣地域が含まれます)の弥生人は、低い顔面と低身長など縄文人と類似した形態学的特徴を示します。対照的に、九州北部と山口県地域の弥生人は、縄文人と比較してのより高い顔面と身長によって特徴づけられ、移民からの顕著な遺伝的影響が示唆されます。先行研究[25]で使用された弥生時代標本、具体的には下本山2号および3号は九州北西部集団に属しており、縄文人とアジア大陸部から到来した移民両方の構成要素を有している、と示されました[26]。弥生人の遺伝的特徴の包括的理解を得るためには、九州北部と山口県の集団からの標本調査も不可欠です。さらに、下本山2号および3号の配列データの品質は高くなく、網羅率は0.1倍未満です。したがって、弥生人と古墳人との間に顕著な遺伝的差異があったのかどうか、という問題にはさらなる研究の余地があります。

 この研究では、日本の山口県の土井ヶ浜遺跡の古代の弥生時代1個体の全核ゲノム配列が決定されました。この個体は九州北部および山口県の弥生時代集団に属します。弥生時代から古墳時代にかけてのユーラシア大陸部からの移民の起源を解明するため、混合モデル化を含めて、土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体のさらなる集団遺伝学的分析が行なわれました。


●資料と手法

 山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期~中期の墓地である土井ヶ浜遺跡では、300点以上の弥生時代の個体の骨が発見されてきました。この研究では、ほぼ全身骨格を含む、土井ヶ浜遺跡で発見された標本ST1604のDNA解析が実行されました。ST1604の年齢は、3点の頭蓋縫合線の内側と外側が両方とも開いていることで証明されているように、若い世人と考えられています。ST1604の性別は、眼窩上弓に隆起がないことと、大坐骨切痕の角度がより大きいため、女性と考えられています。大腿骨の最大長から、ST1604の身長は149cmと推定されました。注目すべきことに、ST1604は長い形態の顔や高身長など、縄文人の典型的な形態学的特徴とは異なる独特な特徴を示しました。ST1604標本の放射性炭素(¹⁴C)年代は、2305±20年前(非較正)でした。IntCal20を用いての較正年代(95.4%の確率)は、紀元前405~紀元前361年(90.7%の確率)、紀元前275~紀元前263年(3.1%の確率)、紀元前243~紀元前235年(1.7%の確率)の範囲でした。本論文では以後、ST1604標本は、DNA解析の対象であるD1604標本と呼ばれます。

 DNAはD1604の右側錐体骨から抽出され、mtHgが決定されました。核ゲノム解析には1本鎖ライブラリが用いられました。D1604の性別はX染色体とY染色体のマッピング(多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)された読み取りの数に基づいて推定されました。他集団との比較のため、古代人についてはAADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1.p1版の124万SNPデータセット[51]、現代人についてはヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)[52]とサイモンズゲノム多様性計画(Simons Genome Diversity Project、略してSGDP)[53]が用いられました。KING血縁係数で0.0844以上の各組み合わせから、1個体が無作為に除外されました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)の結果が信頼できないと思われる、外れ値個体も除外されました。124万データセットからユーラシア古代人のゲノムも抽出され[25、26、56~58]、さらに日本もしくは韓国の古代人のゲノム[23、26、59]が統合されました(古代人遺骸が発見された遺跡の場所は補足図1で示されます)。以下は本論文の補足図1です。
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 PCAでは、現代の個体群から計算された主成分(PC)空間に古代人のゲノムが投影されました。ADMIXTUREはK(系統構成要素数)=2~5で実行されました。TreeMix第1.3版を用いて、最尤系統樹が再構築されました。縄文時代個体群は「縄文」の分類表示で1群に統合され、単純な系統樹が描かれました。フランス人、パプア人、ミヘー人(Mixe)、ウリチ人(Ulchi)、韓国人、日本人、漢人、シェ人(She)、アミ人(Ami)といった現代の個体群もしくは人口集団と、土井ヶ浜_弥生(D1604)、日本_本州_古墳、韓国の金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)遺跡で発見された個体群(韓国_金海_大成洞)[56]、縄文人など古代の個体群もしくは人口集団が含められました。いずれの集団にも呼び出し情報のないSNPの除外後に、940570のSNPが残りました。

 f統計ではまず、ムブティ人を外群とするf3(ムブティ人;土井ヶ浜_弥生、X)が計算され、Xは本論文のデータセットのうち1人口集団です。外群f3は、土井ヶ浜遺跡弥生時代標本と最も密節那遺伝的類似性のある現代の人口集団の特定に用いられました。次に、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)でf4統計が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性の観点ではどの人口集団も現代の韓国人もしくは日本人集団を上回らない、との仮説が厳密に検証されました。これらの分析では、標準誤差の単位でのゼロからのf統計の偏差であるZ値も計算されました。さらに、f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)が計算され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との遺伝的類似性がきわめて高いことを示す、縄文時代の下位集団が調べられました。縄文人1と縄文人2は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の個体(JpKa6904)に代表される日本_四国_縄文時代早期、縄文時代前期となる岡山県倉敷市の船倉貝塚の個体(JpFu1)に代表される日本_本州_縄文時代前期_船倉、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚の4個体に代表される日本_本州_縄文時代前期_小竹、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚の4個体に代表される日本_本州_中後期縄文、愛媛県愛南町の縄文時代後期となる平城貝塚の1個体(JpHi01)に代表される日本_四国_縄文時代後期、千葉市六通貝塚の縄文時代個体群に代表される六通_縄文、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる縄文時代2個体に代表される船泊_縄文、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)に代表される伊川津_縄文から選択されました。混合モデル化では、これら縄文人集団が「縄文人」という分類名称の単一集団に統合されました。qpF4ratio第400版を用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の混合モデルの適合性と混合比が評価されました。フランス人が外群(outgroup、略してo)と設定されました。古代と現代両方の日本人(x)について、潜在的なユーラシア東部からの遺伝子流動源(b)と縄文人供給源(c)で混合モデルが検証されました。想定モデルの詳細は図1に示されています。以下は本論文の図1です。
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 qpWaveとqpAdm第1520版も実行され、ユーラシア大陸部人口集団の祖先系統もしくは遺伝子流動の最適な供給源での混合モデルが見つかりました。qpAdmモデル化の外群として、ムブティ人、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡の上部旧石器時代の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)個体[66]に代表される北イタリア_ヴィッラブルーナ_HG、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群[67]に代表されるイラン_ガンジュダレー_N、北京近郊の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体[68]に代表される田園洞、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River、略してUSR)で発見された11600~11270年前頃の1個体(USR1)[69]に代表されるUSR1、アミ人、中国山東省の變變(Bianbian)遺跡の9500年前頃の個体に代表される變變_EN[70]、中国福建省連江県の亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体[70]に代表される亮島_EN、シェ人が用いられました。qpWaveが実行され、P=0.01の閾値で外群人口集団の独立性が評価された後で、qpAdmを用いて、古代と現代の日本人集団の祖先系統の供給源として、縄文人とアジア東部大陸部人口集団で2方向混合モデルが検証されました。さらに、標的人口集団について祖先系統の供給源として縄文時代とアジア東部とアジア北東部の人口集団を用いて、以前に提案された3方向混合モデルが評価されました。先行研究[25]で潜在的な遺伝子流動供給源として提案された、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(中国_HMMH_MN)がアジア北東部関連祖先系統の供給源として含められ、3方向混合モデルの適合性が判断されました。


●標本のゲノム情報

 集団遺伝学的分析の実行前に、D1604のゲノム情報の品質が評価され、データの信頼性が確かめられました。正確な数値指標は補足表3および4に示されています。D1604の常染色体平均網羅率は2倍をわずかに超えており、124万SNPの常染色体SNPのうち約84.5%(1150639ヶ所のうち971776ヶ所)を網羅しています。これは、他の刊行されている弥生時代個体のゲノム[26、57]の網羅率が0.1倍を超えず、網羅されている124万SNPの数が5万ヶ所を超えないため、とくに注目に値します。

 D1604標本の遺伝的性別は、性染色体のマッピングされた読み取り数に基づいて評価されました。この手法では、RY指標(Y染色体/[Y染色体+X染色体])信の頼区間(confidence interval、略してCI)95%の上限が、0.016未満ならば女性、0.075超ならば男性と分類されます。D1604のRY指標は0.00051で、95%CIの上限が0.00053なので、D1604の性別は女性と推定され、形態学的評価と一致します。


●mtHg

 平均深度297倍で、D1604の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。ミトコンドリアゲノム全体の一致率は0.993超でした。この配列は古代DNA的な脱アミノ化パターンを示した、と確証されました。D1604のmtHgはD4h1a2と推定されました。mtHg-D4hの下位系統(つまり、D4h1b、D4h1d、D4h1e、D4h3b)は、中国の北部および中央部で顕著と報告されました[71]。


●D1604の古代および現在の韓国人集団との遺伝的類似性

 土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)やアジア東部の古代人および現代人を含めてのPCA図は、図2で示されています。縄文時代個体群は本論文で調べられた他のアジア東部人口集団とは明確に離れて位置しており(図2A)、縄文人の祖先は他のアジア東部人と最初に分岐した、と示唆されます。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は古墳時代個体群とともに現代日本人クラスタ(まとまり)内に収まり、縄文クラスタとアジア東部大陸部クラスタの間に位置しています。日本人と韓国人と漢人の個体群のみのPCAでは、弥生時代の土井ヶ浜遺跡個体は遺伝的に、中国の漢人とよりも現代と古代両方の韓国の個体群と密接である、と示唆されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
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●D1604の遺伝的祖先系統

 ADMIXTURE分析では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)の遺伝的祖先系統が、アジア東部とシベリア北東部の現代人、日本列島と朝鮮半島の古代の個体群とともに推定されました。交差検証誤差値に基づいて、K=3が現在の人口集団一式にとって祖先供給源人口集団の最も妥当な数と判断されました(図3A)。混合棒図示では、赤色と青色と黄色の構成要素が、それぞれ縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統に由来する、と解釈されました。以下は本論文の図3です。
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 以前に報告されたように[25、72]、現代日本人は3系統の遺伝的構成要素を示しました。現代日本人28個体のうち、縄文関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の平均割合は、それぞれ約10%と約80%と約10%でした。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の各祖先系統の割合は、縄文関連が約7%、アジア東部関連が約67%、シベリア北東部関連が約26%でした。この割合は、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代1個体や古墳時代個体群や現代日本人と類似していました。土井ヶ浜遺跡弥生時代個体におけるアジア東部関連構成要素の顕著な量の観察は、アジア東部関連祖先系統の人口集団が古墳時代に日本列島へと移住した、と主張した上述の先行研究[25]と矛盾します。

 興味深いことに、一部の古代の韓国の個体は、かなりの縄文関連祖先系統を有していました(図3B)。たとえば、朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡から発掘された1個体(TYJ001)は、先行研究[57]で報告されたように、ほぼ100%の縄文祖先系統を示しました。対照的に、現代の韓国の個体群は縄文関連祖先系統をほとんど示しませんでした。


●D1604とアジア東部人口集団との系統発生的関係

 TreeMixを用いて、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)とアジア東部人口集団との系統発生的関係が調べられました(図4)。混合事象を仮定下系統樹は本論文では示されず、それは、妥当な仮定的状況が再現されなかったからです。TreeMix系統樹では、縄文人集団がアジア東部大陸部クラスタと日本人クラスタの分岐前に他のアジア東部人口集団と分岐し、縄文人系統が系統発生的に他のアジア東部人口集団の基底部に位置することを裏づけます。以下は本論文の図4です。
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 アジア東部人口集団は、図4では異なる2クラスタに区分されました。一方のクラスタには、現代の韓国人や中国の漢人やシェ人やアミ人などアジア東部大陸部人口集団が含まれました(アジア東部大陸部クラスタと呼ばれます)。もう一方のクラスタは、現代日本人や土井ヶ浜遺跡弥生時代個体や日本_本州_古墳や韓国_金海_大成洞といった人口集団で構成されています(日本クラスタと呼ばれます)。アジア東部人口集団のうち、現代韓国人集団は日本人クラスタの共通祖先に最も近い、と特定されました。この観察はPCAの結果と一致します(図2)。これらの結果から、韓国の個体群は遺伝的に中国の漢人の場合よりも日本人に近い、と示唆されます。

 古代韓国の人口集団である韓国_金海_大成洞は、日本クラスタに含まれました(図4)。この明らかなクラスタ化は、先行研究[56]で示唆されているように、縄文人集団から韓国_金海_大成洞人口集団への遺伝子流動に起因するかもしれません。韓国_金海_大成洞人口集団と日本人集団との間の関係は、TreeMix系統樹から推測されるように、将来の研究で慎重に調べられるべきです。


●D1604と遺伝的に近い人口集団

 2人口集団間で共有される浮動を明らかにする手段である外群f3統計分析で、日本人集団(古代の日本_本州_古墳と現代日本人)が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と遺伝的に最も密接で、古代と現代の韓国の人口集団がそれに次いで近い、と明らかになりました(図5)。韓国の古代人のうち、安島(Ando)遺跡の新石器時代個体(韓国_安島)は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な類似性を示し、弥生時代における日本列島への移民は、韓国の古代の群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の6世紀半ば個体群や金海の大成洞遺跡個体群とよりも、韓国_安島の方と遺伝的に近い、と示唆されます。日本の古代人および現代人集団と現代の韓国人集団についてのf3統計は他のアジア東部現代人集団よりも大きかったものの、|Z|≤1の範囲を表す誤差棒は、一部のアジア人口集団と重なりました。以下は本論文の図5です。
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 さらに、f4(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;現代の韓国人もしくは日本人、X)が計算され、日本人集団と韓国人集団が土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と最も密接な現代人集団なのかどうか、確認されました。人口集団Xは|Z|=3の境界に基づいて分類されました。Z≥3の人口集団Xは観察されませんでしたが、−3 < Z < 3を示す人口集団Xは、日本の古代人集団か日本の現代人集団か韓国の古代人集団か韓国の現代人集団がXだった場合のみ検出されました。他のすべてのモデルで、Z値は−3未満でした。したがって、少なくとも本論文で検証された現代人集団では、日本人および韓国人集団に匹敵する程度で土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と遺伝的に密接な人口集団は存在しない、と結論づけられました。


●D1604と縄文時代個体群との間の遺伝的類似性

 f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;縄文人1、縄文人2)のf4検定が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)と最高の遺伝的類似性を有する縄文人集団が特定されました。本質的に、f4統計は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が遺伝的に縄文人2よりも縄文人1の方と密接な場合に正となり、逆の場合は負となります。この分析にはさまざまな期間とイセキの縄文人集団が含められました。各人口集団の古代人のゲノムの数が限定的であることを考えて、結果は|Z|=2の緩やかな基準を用いて解釈されました。f4形式(ムブティ人、土井ヶ浜_弥生;日本_四国_縄文時代後期、他の縄文人個体)ではZ < −2の負の値が得られ、日本_四国_縄文時代後期は他の縄文人個体と比較して土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と有意により強い類似性を示した、と示唆されます。

 注目すべきことに、日本_四国_縄文時代後期が発掘された四国地域は、本論文のデータセットの他の縄文人標本が発掘された地域では、地理的に土井ヶ浜遺跡の最も近くに位置しています。この観察から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体の縄文関連祖先系統は山口県の近くの地域に暮らしていた縄文人に由来した、と示唆されます。高品質な古代人のゲノムの限定的な数のため、決定的な証拠はまだ報告されていませんが、この結果は、縄文人集団における人口分化の可能性を示唆しています。これは、日本列島全域のさまざまな遺跡の高品質な縄文人ゲノムを用いて、さらに調べられるべきです。


●D1604の混合モデル化

 モデルの適合性を評価し、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体(D1604)を含めて古代と現代の日本の個体群における縄文関連祖先系統の割合を推定するため、f4比検定が実行されました。[0, 1]区間外にある混合割合は、モデルにおける適合性の欠如を示唆します。補足表6では、そうしたモデルの混合割合が赤色で示されています。図1で現代韓国人を「b」、他のアジア東部人を「a」に割り当てると、モデルが適切に整合しました。しかし、他のアジア東部人を「b」、現代韓国人を「a」と仮定する逆の筋書きは、混合割合(α)が1を超過したように、良好な適合を示しませんでした。シベリア北東部人と遺伝的に近い人口集団である、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)もしくはオロチョン人(Oroqen)のいずれかを「b」として仮定するモデルは、良好に適合しませんでした。これは、シベリア北東部系統と縄文人系統との間で共有される祖先系統に起因するようです[23、24]。

 したがって、縄文人と現代韓国人を混合の供給源として仮定し、フランス人漢人をそれぞれ「o」および「a」と指定して、日本人集団について混合割合が推定されました(図6A)。このモデルでは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は韓国人関連祖先系統を89.6%、縄文人関連祖先系統を10.4%有している、と推定されました。古墳時代個体群と現代日本人も、約6~7%の縄文関連祖先系統を示しました。一方で、下本山岩陰遺跡の弥生時代1個体の縄文関連祖先系統の割合は、他の個体より顕著に高くなっていました。これはPCAの結果と一致し、PCAでは、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は縄文人の近くに位置していました(図2B)。以下は本論文の図6です。
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 最後に、qpAdm分析が実行され、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体を含めて日本人集団について混合モデルが検証されました。この分析では、ひじょうに低いP値のモデルはデータと一致せず却下でき、[0, 1]区間外の推定された混合割合は無意味です。したがって、そうしたモデルはデータに不適切と考えられました。2方向混合モデルについて、縄文人および漢人祖先系統を仮定するモデルは、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体に適合しませんでした。対照的に、縄文人祖先系統と韓国人祖先系統を仮定するモデルは土井ヶ浜遺跡弥生時代個体のみならず、古墳時代個体群および現代日本人でもより良好に適合しました。qpAdm分析から得られた日本人集団の混合割合の棒図は、図6Bに示されています。

 qpAdm検定では、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は12.9%の縄文人関連祖先系統と87.1%の韓国人関連祖先系統を有する、と説明されました(図6B)。qpAdm分析は外群人口集団一式の選択に対して顕著に敏感ですが、上述のf4比検定と類似の結果が得られ、本論文のqpAdm分析における外群一式は適切だった、と示唆されます。

 同じ外群一式を用いて、縄文人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統とアジア北東部関連祖先系統という、祖先系統の3供給源を仮定した3方向混合モデルの適合性も調べられました。この分析では、アジア東部関連祖先系統の供給源として漢人もしくは現代韓国人個体群が用いられた一方で、中国_HMMH_MNはアジア北東部関連祖先系統の供給源として用いられました。中国_HMMH_MNの1個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区のホルチン左翼中旗(Kezuozhongqi、科爾沁左翼中旗)のHMMH遺跡で発掘された古代人の標本1点です。中国_HMMH_MN個体がアジア北東部関連祖先系統の供給源として選択され、それは、中国_HMMH_MN個体が3方向混合モデルを提案した先行研究[25]でこの目的のため用いられたからです。漢人をアジア東部人口集団とみなすと、3方向混合モデルは日本人集団について適切な混合割合をもたらしませんでした(つまり、1もしくは複数の推定された混合割合が[0, 1]区間外となりました)。現代韓国人をアジア東部関連祖先系統の供給源として用いると、混合割合は土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳については許容可能な範囲内に収まりました。しかし、中国_HMMH_MNの混合割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体と日本_本州_古墳が対象の事例では標準誤差より小さく、推定された混合割合が強く裏づけられなかったことを示唆しています。したがって、本論文の分析では、調べられた3方向混合モデルが限定的だったものの、3方向混合モデルが2方向混合モデルより優れて至る、との結論を裏づける肯定的結果は得られませんでした。


●考察

 本論文の重要な調査結果の一つは、すべての分析において、現代人集団のうち、韓国人集団が日本人を除く他のアジア東部人口集団よりも土井ヶ浜遺跡弥生時代個体との多くの遺伝的類似性を示したことです。これは、弥生時代における日本列島への移民がおもに朝鮮半島に由来することを示唆します。したがって、縄文人と移民の混合に関する遺伝学的研究はまず、韓国人が日本列島への移民の主要な供給源だった可能性を考慮すべきです。最も妥当な供給源人口集団を混合モデル化に用いない場合、結果は実際の歴史から大きく逸れるかもしれません。

 本論文では、現代と古代の韓国の個体群は、先行研究[74]と一致して、かなりのユーラシア北東部関連構成要素とアジア東部関連構成要素を有している、と分かりました。したがって、縄文人集団との韓国人集団の混合、およびそれに続く日本列島の混合人口集団内の遺伝的浮動が、日本人で観察される主要な遺伝的祖先系統を説明できるかもしれません。日本人のゲノムにおける、縄文人構成要素に加えてアジア東部関連構成要素とシベリア北東部関連構成要素の両方の存在は、一方は弥生時代におけるシベリア北東部関連祖先系統を有する人口集団、もう一方は古墳時代におけるアジア東部関連祖先系統を有する人口集団と、別々の2人口集団が日本列島に独自に移住したことを必ずしも意味しない、と強調せねばなりません。

 先行研究[25]では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体と古墳時代個体群で見られるユーラシア北東部関連構成要素は弥生時代にもたらされ、古墳時代個体群で観察され、弥生時代個体群では観察されない新たなアジア東部関連構成要素は古墳時代に出現した、と主張されました。しかし本論文では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体より年代の古い土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、縄文人関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統のみならず、かなりのアジア東部関連祖先系統も有している、と分かりました(図3B)。先行研究[25]では3方向混合モデルが提案されましたが、弥生時代と古墳時代と現代の日本の個体群に関する混合モデル化の本論文の分析は、縄文人関連祖先系統と韓国人関連祖先系統を仮定する2方向混合モデルを強く裏づけました。

 先行研究[25]と本論文の間の不一致は、先行研究で分析された下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体の独特な遺伝的特性に起因したのかもしれません。これら下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体は、遺伝的に縄文人に近い、と報告されてきました[26]。本論文では一貫して、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体はPCA図では縄文人の近くに位置し(図2B)、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体における縄文人関連祖先系統の推定割合は、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体よりもずっと高くなりました(図3B)。移民はアジア東部大陸部から到来したので、遺伝的に縄文人からより遠く、アジア東部大陸部人により近い弥生時代個体群は、移民の起源を解明するための分析により適しているようです。この文脈では、下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体ではなく土井ヶ浜遺跡弥生時代個体が、日本列島における混合の研究において弥生時代個体群の代表として用いられるべきです。

 外群f3の分析から、土井ヶ浜遺跡弥生時代個体は他の古代韓国の個体とよりも、現代韓国人および韓国_安島の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました(図5)。したがって、弥生時代における日本列島への移民は、現代韓国人もしくは韓国_安島と遺伝的により近い人口集団に由来していたかもしれません。現時点では、朝鮮半島のどの地域に移民の起源があるのか明確ではなく、弥生時代の始まった3000年前頃以降の多くの韓国の古代人のゲノムが、朝鮮半島からの移民がおもにどの地域に由来するのか、判断するのに役立つかもしれません。

 ユーラシア東部人口集団は、南北の軸にそって遺伝的勾配を示す、と報告されてきました。ユーラシア東部大陸部では、より北方の人口集団がより高い割合のシベリア北東部関連祖先系統を有する一方で、より南方の人口集団はより多くのアジア東部関連祖先系統を有する傾向があります。本論文のすべての結果を考慮すると、最も妥当な仮定的状況では、アジア東部関連祖先系統とシベリア北東部関連祖先系統の両方を有する朝鮮半島の人口集団が、弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に連続的に移住した、となります(補足図4)。この移住には、在来の縄文人との混合が含まれていました。現代本土日本人は、この混合人口集団の子孫と考えられます。日本列島のさまざまな遺跡の弥生時代と古墳時代の個体のゲノムのさらなる分析は、移民が縄文人と混合しながら日本列島全域にどのように拡大したのかについて、光を当てるでしょう。以下は本論文の補足図4です。
画像


●私見

 本論文は弥生時代の「渡来系」とされる人類の遺跡として有名な土井ヶ浜遺跡で発見された女性1個体の、他の弥生時代個体よりも高品質なゲノムデータを報告しており、たいへん貴重な成果として注目されます。本論文は、日本列島における人類進化史について、弥生時代にアジア北東部(本論文ではシベリア北東部)関連祖先系統を有する集団が到来して縄文時代から日本列島に存在する在来人類集団と混合し、古墳時代にアジア東部関連祖先系統を有する集団が到来して、弥生時代人類集団と混合して現代の日本人集団の遺伝的構成が形成された、とする先行研究[25]で提示された三重構造説に否定的な結果を提示しています。

 確かに、本論文が新たに提示したゲノムデータは土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体(D1604)だけです。しかし、土井ヶ浜遺跡出土の男性1個体の高品質なゲノムデータを報告した査読前論文(Ishiya et al., 2024)とも大きく齟齬しない結果のようです。さらに、土井ヶ浜遺跡で発見された多数の人類遺骸の形態学的分析からも、D1604が土井ヶ浜遺跡の弥生時代人類集団において外れ値個体である可能性は低そうです。故に、すでに弥生時代中期の西日本においてアジア東部関連祖先系統をかなりの割合で有する人類集団が定着していた可能性はきわめて高そうという意味で、先行研究[25]で主張された三重構造説は支持されないことが示されたように思います。先行研究[25]でも、すでに弥生時代に古墳時代以降の人類集団と類似した遺伝的構成の集団の存在の可能性が指摘されており、その懸念が的中したわけです。

 ただ、本論文でも改めて示されたように、D1604より新しく、地理的にも九州北西部と土井ヶ浜遺跡から比較的近い下本山岩陰遺跡の弥生時代2個体で、D1604よりずっと高い割合の縄文人関連祖先系統が確認されたことは、弥生時代における日本列島の人類集団の遺伝的異質性の高さと、複雑な人口史を再び強く示唆しているように思います。弥生時代中期にはすでに現代日本人的な遺伝的構成の集団が日本列島本土に広く存在したわけではなく、日本列島本土現代人集団の形成過程はかなり複雑だった可能性が高そうです。じっさい、古墳時代にも、日本列島本土現代人集団よりもずっと高い割合の縄文人関連祖先系統を有する個体が確認されています(安達他.,2021)。現時点では思いつきにすぎませんが、日本列島本土現代人集団の遺伝的構成の確立は、10世紀における多くの古代集落の消滅、その後の中世後期~近世にかけての「伝統社会」の成立まで見据える必要があるのではないか、と考えています。もちろん、近代や高度成長期における人口移動も無視できません。

 本論文の見解をより深く理解するには、ユーラシア北東部の完新世の人口史を把握する必要があります。ユーラシア北東部の完新世人類集団の遺伝的構造は、ユーラシア西部現代人とアメリカ大陸先住民に大きな遺伝的影響を残した古代北ユーラシア人からの遺伝的寄与をひとまず考慮しないと、地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置します(Ning et al., 2020)。アムール川地域の完新世人類集団の遺伝的構成は比較的安定しているのに対して、西遼河地域の完新世人類集団の遺伝的構成は、アムール川地域関連祖先系統と黄河新石器時代関連祖先系統の割合が経時的に大きく変化します(Ning et al., 2020)。黄河地域完新世人類集団の遺伝的構成も経時的に変化しており、後期新石器時代には前期新石器時代華南集団関連祖先系統の割合が増加します(Ning et al., 2020)。分析対象集団やK(系統構成要素数)の異なるADMIXTUREの結果を安易に比較できませんが、本論文のアジア東部関連祖先系統とはおおむね、黄河新石器時代関連祖先系統を主体としつつ、前期新石器時代華南集団関連祖先系統が混合したもので、本論文のシベリア北東部関連祖先系統とは、おおむねアムール川地域関連祖先系統に相当する、と把握するのが妥当なように思います。

 最近の研究(Zhu et al., 2024)で、西遼河地域南部の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、アムール川地域関連祖先系統が4割程度の個体群や、ほぼ完全にアムール川地域関連祖先系統でモデル化できる外れ値個体が確認されている一方で、雑穀農耕地帯の1個体のゲノムは、ほぼ完全に黄河地域後期新石器時代集団関連祖先系統でモデル化できる、と示されています。完新世の西遼河地域は、本論文で云うところのシベリア北東部関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統の交わる地域で、本論文によると、朝鮮半島も少なくとも中期新石器時代以降の人類集団は両祖先系統の交錯する地域で、三国時代の頃までは、これに縄文人関連祖先系統も加わっていたわけです。韓国の古代の個体でも、青銅器時代のTaejungni遺跡個体はほぼ完全にシベリア北東部関連祖先系統でモデル化されており、弥生時代の日本列島や青銅器時代までの西遼河地域と同様に、朝鮮半島でも少なくとも青銅器時代まで遺伝的異質性が高かったことを示唆しています。

 ただ、こうした解釈には 問題があります。それは、青銅器時代のTaejungni遺跡個体のゲノムデータの品質がひじょうに悪いことです[56]。これは、PCAでもADMIXTUREでも不正確な結果を招く危険性があります。同じことは、本論文で提示された宮古島の長墓遺跡個体群の解析結果にも当てはまります。長墓遺跡の2800年前頃の個体群は、ADMIXTUREほぼ完全に縄文人関連祖先系統で占められており、これは先行研究[57]と整合的です。しかし、4000年前頃の1個体(NAG016)は、PCAでは長墓遺跡の2800年前頃の個体群と明らかに離れて位置し、ADMIXTUREでは4割近くがシベリア北東部関連祖先系統で占められています。これは、宮古島の人口史における重要な手がかりとなるのかもしれませんが、先行研究(Jeong et al., 2023)で指摘されているように、NAG016の汚染が重度だったことと、その網羅率が低いことから、正確な遺伝的関係を反映していない、と考えるべきかもしれません。本論文で提示された日本列島と朝鮮半島の古代人のゲノムで高品質なのは北海道の北海道礼文島の船泊貝塚の3700年前頃となる1個体(F23)だけでしょうから、日本列島や朝鮮半島やその周辺地域の高品質な古代人のゲノムデータを蓄積することで、これらの地域のより高精度な人口史を再構築できるようになるでしょう。

 ゲノムデータの品質の問題とともに、本論文の見解の一般層の受容においてもう一つ問題になるのは、古代人個体A(によって表される集団)と古代人個体B(によって表される集団)の遺伝的混合で現代人集団Cのゲノムがモデル化できるとしても、現代人集団Cの直接的な祖先が古代人個体Aによって表される集団と古代人個体Bによって表される集団と証明されたわけではない、ということです。本論文では、現代韓国人もしくは中期新石器時代の韓国_安島と遺伝的により近い人類集団が、弥生時代以降に日本列島に継続的(あるいは何度かの大きな移民の波があったのかもしれませんが)に到来した移民の祖先だった可能性を示唆します。ただ、これは現時点でゲノムが解析されているごく少数の古代人との比較からの推測です。朝鮮半島やその周辺地域においてゲノム解析された古代人の数はまだ限定的であることを考えると、弥生時代以降に日本列島に到来した現代日本人の主要な祖先集団はまだゲノム解析されていない可能性が高そうですし、そうした集団が中期新石器時代の時点ですでに朝鮮半島、さらには朝鮮半島南岸にまで達していたかはまだ不明で、当時は朝鮮半島以外の西遼河地域やその周辺地域に存在した可能性もじゅうぶんに考えられるでしょう。たとえば、そうした集団が西遼河地域やその周辺地域に存在し、現代韓国人の主要な祖先集団もその近くに存在して遺伝的に近縁だったならば、現代韓国人集団と縄文人集団で現代日本人集団をモデル化できることになりそうです。現代韓国人集団の主要な祖先集団が中期新石器時代からずっと朝鮮半島に存在したとは限らず、朝鮮半島でも新石器時代から三国時代にかけて、人類集団の遺伝的構成が大きく変容した可能性も、私は想定しています。

 本論文は、現代本土日本人集団の遺伝的形成について、先行研究[25]の三重構造説に否定的な結果を提示し、上述のようにこの見解自体はおおむね妥当と思われます。ただ、これで二重構造説が復権したとは断定できず、日本列島やユーラシア東部大陸部の古代人の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、さらに細かい遺伝的区分が可能となり、三重構造説よりずっと複雑な日本列島の人口史が浮き彫りになるかもしれません。ただ、今後の現代本土日本人集団の遺伝的形成に関する研究がどう展開していくのか、現時点では想像が難しいところだとしても、縄文時代の日本列島の人類集団からの現代本土日本人集への遺伝的影響が、地域差はあれども10%前後でかなり小さい、との見解が大きく変わる可能性は低そうです。現代本土日本人集団の遺伝的形成について、述べ忘れていることがかなり多そうですが、気力が続かないので今回はここまでとします。
https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html
22:777 :

2024/10/25 (Fri) 17:03:25

日本人の遺伝的ルーツ新事実
2024年10月22日
https://news.nifty.com/article/item/neta/12363-3476399/

「私たち日本人はどこから来たのか?」

そんな遺伝的ルーツの謎について、新たな事実が明らかになりました。

これまでの説によると、現代日本人は在来の「縄文人」と朝鮮半島から来た「渡来人」の混血によって誕生したとされています。

しかし、この渡来人とは何者なのか? という遺伝的ルーツはよくわかっていませんでした。

そんな中、東京大学が山口県の土井ヶ浜遺跡で見つかった弥生時代の人骨を遺伝的に解析。

その結果、渡来人は弥生時代に朝鮮半島から入ってきた「東アジア系」と「北東シベリア系」の遺伝子を合わせ持つ集団であることが判明したのです。

これは遺伝的に見ると、現代の韓国人に近いようです。

研究の詳細は2024年10月15日付で科学雑誌『Journal of Human Genetics』に掲載されました。

目次

渡来人はいつどこから入ってきたのか?
渡来人の遺伝的ルーツを解明!今日の「韓国人」に近い
渡来人はいつどこから入ってきたのか?
現代日本人(※)の遺伝的な形成過程にはいくつかの説があります。

(※ ここで現代日本人とまとめていますが、遺伝的にまた別の特殊なルーツを持つアイヌと沖縄の方々は除きます)

その中でも特に、著名な人類学者であった埴原和郎(はにはら・かずろう、1927〜2004)の提唱した「二重構造モデル」が研究者たちに広く受け入れられてきました。

これは「旧石器時代の後期(※)に日本列島に流入した集団の子孫である『縄文人』と、弥生時代から古墳時代(※)にかけて日本列島に入ってきた『渡来人』との混血によって現代の日本人が生まれた」という説です。

(※ 旧石器時代の後期は約1万2000年前で、弥生時代は紀元前10世紀〜紀元後3世紀頃、古墳時代は3〜7世紀頃です)


現代日本人はどのように誕生したのか? / Credit: canva
二重構造モデルは元々、古代日本人の頭骨の形態分析にもとづいて提唱されたものですが、これまでの遺伝子研究により、実際に現代日本人が縄文人と渡来人の混血集団の子孫であることが科学的に支持されています。

それらの遺伝子研究によると、現代日本人の核ゲノム(※)の成分は、

・縄文人に由来する成分(縄文系成分)

・東アジア系集団に特徴的な成分(東アジア系成分)

・北東シベリア系集団に特徴的な成分(北東シベリア系成分)

の3つに大別されることがわかっています。

(※ 核ゲノム:常染色体と性染色体の全遺伝情報のこと。ヒトの染色体は1つの細胞に46本あり、うち44本が常染色体で、2本が性染色体。

常染色体はタンパク質合成などの情報を持つ染色体で、性染色体は男女の性別の情報を持つ染色体です)

現代日本人の遺伝子を見ると、縄文人の遺伝子の割合はわずかに2割、残りの8割は東アジア系と北東シベリア系が占めています。

しかしこれら8割の成分を現代日本人がどのように獲得したのか、すなわち「渡来人がいつどこからきたのか」が具体的にわかっていなかったのです。

そこでチームは、山口県にある土井ヶ浜遺跡で見つかった弥生時代人の遺骨を調べてみました。

渡来人の遺伝的ルーツを解明!今日の「韓国人」に近い
土井ヶ浜遺跡は山口県の西端、下関市の豊北町(ほうほくちょう)にある弥生時代の遺跡です。

本調査では、この遺跡で発掘された約2300年前の弥生時代人の遺骨を対象としました。

土井ヶ浜遺跡ではこれまでに約300体の遺骨が出土しており、それらの形態を調べてみると、弥生時代人は縄文人に比べて顔が長く、平坦な顔つきをしており、平均身長が2〜3センチ高くなっていたことがわかっています。

これらは渡来人のDNAによって付け加えられた特徴のようです。


DNAを抽出した約2,300年前の弥生時代人骨 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
チームは今回、土井ヶ浜の弥生人骨からDNAを抽出し、全ゲノム配列を解析することに成功しました。

そして渡来人のルーツを明らかにするため、縄文人・古墳時代人・現代日本人、さらに東アジア系および北東シベリア系集団のゲノムデータと合わせて統計解析したところ、次のことが確認されています。

(1)土井ヶ浜の弥生時代人は、現代日本人と同様に3つのゲノム成分を有していた

(2)土井ヶ浜の弥生時代人は、解析した集団の中で古墳時代人に最も遺伝的に近く、次いで現代日本人、古代韓国人、現代韓国人の順に近縁であった


新たに判明したゲノムの割合 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
これを踏まえてチームは次に、東アジア系および北東シベリア系の両方のゲノム成分を有する「現代韓国人」を日本列島に渡来した集団と仮定し、その集団が縄文人と混血して現代日本人が生まれたというモデルを評価しました。

その結果、この単純でシンプルなモデルが見事に、土井ヶ浜の弥生時代人、古墳時代人、および現代日本人のゲノム成分をうまく説明できることが判明したのです。

これらの結果は、東アジア系と北東シベリア系のゲノム成分をあわせもつ集団が弥生時代に朝鮮半島から日本列島に流入し、縄文人と混血して誕生した集団が現代日本人の祖先となったことを強く支持しています。

つまり、渡来人は今日の韓国人に近い東アジア起源であり、彼らが弥生時代に日本に流入し、土着の縄文人と混血したことで今日の日本人が誕生したと考えられるのです。


渡来人は現代韓国人に近い東アジア起源の集団 / Credit: 東京大学 – 弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る(2024)
本研究の成果から、渡来人の具体的なルーツが解明されたことで、現代日本人の遺伝的な形成過程に対する理解が一層深まることが期待されています。

これまでの予想通り朝鮮半島から来た渡来人と縄文人の混血が日本人のルーツという考え方が変わるわけではありませんが、渡来人の遺伝的なルーツが明らかにされることで、よりはっきりと私たち日本人に至るまでの古代の人々の流れが見えてきました。

今日の私たちはどこから来て、どのように誕生したのか、その遺伝的な道筋が完全解明される日は近いでしょう。

参考文献

弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10527/

元論文

Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago
https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w

https://news.nifty.com/article/item/neta/12363-3476399/

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