-
1:777
:
2022/05/26 (Thu) 12:42:49
-
デヴィッド・リーン『アラビアのロレンス Lawrence of Arabia』1962年
監督 デヴィッド・リーン
脚本 ロバート・ボルト マイケル・ウィルソン
音楽 モーリス・ジャール
撮影 フレディ・ヤング ニコラス・ローグ
配給 コロムビア映画
公開 1962年12月10日
動画
https://www.youtube.com/watch?v=9iP-MWymavM
設定→字幕→自動翻訳→日本語 で日本語字幕が出ます
『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)は、1962年に公開されたイギリス映画。デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、戦争映画である。日本での公開は1963年2月。
上映時間は207分。主人公の交通事故死で幕が開く衝撃的な冒頭から、彼が失意の内にアラビアを離れる余りに悲痛な終局までを、雄大に描く。その中でも、ロレンスがマッチの火を吹き消した後に砂漠に大きな太陽が昇る場面や、地平線の彼方の蜃気楼が次第に黒い人影となるまでの3分間、敵の要塞を陥落したロレンスが、ラクダに乗って夕日が照らす海岸を悠々と歩く場面、そして延々と続く広大な白い砂漠と地平線を背景にロレンスが跨ったラクダが駆ける場面等が名シーンとされている。
冒頭(序曲)と休憩とエンディング(終曲)の黒画面に音楽が流れる演出は、当時の大作映画では一般的であった。
オリジナル版制作から実に四半世紀以上が経過した1988年に、再編集を行って完全版が制作された。完全版の上映時間は227分。再編集はリーン監督自らが行い、音声素材が残っていなかった未公開シーンではオトゥールを初めとするオリジナルキャストが四半世紀ぶりに再結集して追加収録を敢行した。それに合わせて楽曲の再編成をしデジタルマスタリングしたものがCDで発売された。だが、劇場公開時のサウンドトラックは経年劣化が激しいことから、スコアを元に再録音されたCDが何枚か発売されている。
ストーリー
1935年5月13日、オートバイで走行中の男が自転車を避けようとして道路を外れ転倒し死亡。ドーセット州モートンの教会で行われたその男の葬式には多くの人が参列し、銅像も建てられることになった。新聞記者が故人について参列者に尋ねると、「素晴らしい業績をあげたがよく知らない」、「英雄だが自己顕示欲にまみれた男」、「彼ほど偉大な人物は居ない」と評価は毀誉褒貶相半ばしていた。
1916年10月、イギリス陸軍エジプト基地勤務の地図作成課少尉のロレンスは、風変わりな男として知られていた。アラビア語やアラブ文化に詳しいことから、オスマン帝国からの独立闘争を指揮するマッカのシャリーフであるスンナ派のハーシム家のファイサルと会見してイギリスへの協力を取り付ける工作任務を受けることになる。ロレンスはマッチを指で消すのがささやかな特技だったが、炎を息で吹き消すと、場面は灼熱のアラビアの砂漠へと転換する。
ラクダも初めは不慣れだったが、見事に乗りこなせるようになった。案内役のベドウィンが井戸から水を汲んでロレンスに飲ませた。蜃気楼の中から現われたアリと名乗る井戸を所有するハリト族が現れ、無断で他部族の井戸水を盗んだとして案内人を銃で殺害する。アリはロレンスには罪はなく、砂漠を旅するのは大変だろうと案内人を買って出るが、ロレンスはきっぱりと断って一人で出発する。
ロレンスが、ヤンブーにあるアラブ人の基地に到着すると、基地はオスマン帝国軍の襲撃を受けており、ファイサルが懸命に指揮するもののアラブ人は全く反撃できなかった(ヤンブー占領(英語版))。ファイサルと面会したロレンスは、独立闘争への協力を約束する。ロレンスはヤンブー・マディーナとタブークの中間にある紅海北部の海岸の町アル・ワジュからアラブ人の勇者50人を率いてネフド砂漠を渡り、オスマン帝国軍が占拠する港湾都市アカバを内陸から攻撃する電撃作戦を立てた。アカバの砲台はアカバ湾(紅海)に向いており、内陸からの攻撃には無防備だった。
延々と続く砂漠を夜間行軍中、ガシムという男が列にいないことにロレンスは気付いた。「戻って助けに行く」と主張するロレンスに、「無茶だ」「死にに行くのか」とアリは抗議する。無謀にもロレンスは、ガシムを救うために一人で今来た道を戻るのだった。ロレンスはラクダにガシムを乗せて戻ってきた。アリをはじめアラブ人達はロレンスを賞賛し、白く美しいアラブ伝統の衣装を身に着けさせ、ロレンス1人だけのアラブ部族として認めたのであった。アカバ近くでアウダ・アブ・タイが率いるハウェイタット族と遭遇した。アウダはそれまでオスマン帝国軍に協力していたが、アラブ独立のためにロレンスと共にオスマン帝国軍と戦うことにする。しかし悲劇が起こる。ロレンス側の兵士がアウダ側の兵士を殺してしまった。殺したのはガシムだった。軍の統制と団結を保つため、ロレンスは苦渋の思いでガシムを拳銃で処刑した。
1917年7月6日にアラブ軍はアカバを奇襲し、オスマン帝国軍の大砲が全て海側に向いていたアカバはあっけなく陥落した(アカバの戦い(英語版))。ロレンスはシナイ砂漠を横断してスエズ運河になんとか辿り着き、イギリス陸軍司令部に急行した。アカバ陥落と今後のヒジャーズ鉄道襲撃計画を司令部に報告し、スエズ運河などの攻撃に割くべきオスマン帝国軍の兵力が鉄道防衛に振り向けられて薄くなったら、イギリス軍が呼応してシリア・パレスチナまで反攻させるイギリス軍のための後方撹乱作戦のためである。ロレンス達がシナイ砂漠を横断中に、部下のアラブ人少年の一人ダウドが流砂に捕われて死んでしまう。司令部に到着し、ロレンスはもう一人の部下のアラブ人少年ファラージと共に建物の中に入った。汚れたアラブの衣装を身に付けたロレンスを見て、周囲の軍人は驚きを隠せなかった。そしてロレンスがアカバ陥落を告げると、その場の誰もが驚愕した。満身創痍のロレンスは、司令部内のカフェでレモネードを2つ注文した。「アラブ人は外に出せ」という文句を無視して、ファラージにもレモネード[3]を御馳走したのだ。このロレンスの行動は、アラブ反乱がイギリス軍のための単なる後方撹乱作戦という位置づけなどではなく、アラブ人にアラブを与える聖戦であるという大義の表明でもあった。
ロレンスは少佐に昇進した。イギリス陸軍からの兵器の補充を受けたアラブ軍は、オスマン帝国軍への更なる攻撃を開始する。オスマン帝国のヒジャーズ鉄道の線路に爆弾を仕掛けて機関車を爆破して猛襲するという戦法を展開した(ワジ・ムサの戦い(英語版))。この戦法は大成功を収め、ロレンスの活躍は新聞にも載って広く報道されるのだった。しかし三回目の鉄道襲撃で爆弾を設置する時に、ファラージが懐に入れておいた信管を爆発させてしまった。止むを得ずロレンスは、ファラージを苦しませないためにその場で拳銃で殺害し、鉄道爆破計画を中止した。
次にロレンスは現地の人の服を身に着けて現地人に化け、ダルアーに偵察に行った(ダルアー占領)。心配するアリに対し、「私は透明人間だ」と意気揚々だったが、オスマン帝国軍に見つかり連行された。ロレンスは服を脱がされ、ダルアーを支配するオスマン帝国軍のベイ将軍の好色の餌食となってしまう。
エルサレムでロレンスはアレンビー将軍に辞表を出すが、イギリス陸軍はそれを受理せず、サイクス・ピコ協定を知らせた上で彼をアラビアに送り戻してダマスカス侵攻を指揮させる。ロレンスは、アラブ人にアラブを与えるという大義の為にイギリス陸軍正規部隊より一足早くダマスカスに到着するためとはいえ、彼の部隊に金の為に動く殺人犯も加え、より攻撃的な部隊を編成して進軍する。ダマスカスへの進軍の途中、ロレンスの部隊はタファス村を大量虐殺したばかりの退却中のオスマン帝国軍と遭遇し、逃走してきた村人に"No prisoners!(捕虜はいらぬ=皆殺しにせよ)"と復讐を懇願される。彼が単身でオスマン帝国軍に切り込み殺されたことをきっかけに、ロレンスの部隊は復讐の連鎖の深みにはまり込み大量虐殺を行ってしまう。
凄惨なメギドの戦いの後、ロレンスの部隊は、イギリス陸軍正規部隊より一足早くダマスカスをオスマン帝国軍から解放することに成功する(ダマスカス占領)。しかし、戦闘で精神的に荒廃したアラブ人の戦士達はアラブ国民会議でエゴをぶつけ合い始め、その結果、街に電力が不足し、火事は収まらず、病院はおざなりになってしまうのだった。アラブ民族会議に失望したロレンスは「砂漠など二度と見たくない。神にかけてだ。」と言い、アラビアを去ることを決意する。ロレンスのことを「敬愛しつつ恐れたが、彼自身も、自分を恐れていた」と語るアリに「アラブに生まれたということは辛い思いをしろということだ」とアウダは言う。その言葉はロレンスの中にある外へのジハードと内へのジハードの葛藤、復讐と寛容との心の戦いを言い当てていた[4]。病院の惨状により、イギリス軍の医療隊が病院にやってきてその中の一人の男が病院を見に来ていたロレンスをアラブ人と勘違いし、平手打ちにする。それはアリとアウダに代わってロレンスとアラブ民族会議を叱責するかのようだった。
オスマン帝国軍から解放されたアラビアは、もはやロレンスを必要とはしていなかった。フサイン=マクマホン協定を信じてイラク・シリア・アラビア半島を含む大アラブ王国(汎アラブ主義) を構想する老練な族長ファイサルにとって、白人のロレンスがアラブ反乱を指揮した事実は邪魔となっていた。また、サイクス・ピコ協定によりアラブをフランスとともに分割する方針を決めていたイギリス陸軍の将軍にとっても、大アラブ王国を支持し奔走するロレンスは政治的に邪魔な存在となっていたからである。ファイサルは「もうここには勇士は必要でなくなった。私達は協定を進めます。老人の仕事です。若者は戦う。戦いの長所は若者の長所、つまり勇気と未来への希望なのです。だが、老人は平和を作る。そして平和の短所は老人の短所、つまり不信と警戒心なのだ。そうに違いない。あなたに対する私の感謝の気持ちは計り知れない」と語りかけるが、去り行くロレンスにその言葉は虚しく響くばかりだった。
ロレンスはイギリス陸軍の英雄として大佐に昇進させられながらも、アラブ人としての大きな失意を胸に抱きながらアラビアから追放されるのだった。このとき、食堂でロレンスをイギリス陸軍の英雄として褒め称え握手を求めたのは、病院でアラブ人の不寛容に怒りロレンスを平手打ちにし、ロレンスの葬式の際に教会の入り口で記者に抗議する男だったのである。誰よりもアラビアを愛した男、ロレンスを乗せて走り去るロールス・ロイスを、オートバイが追い越していった。
エピソード
映画では冒頭でバイク事故死させることでアラブ時代の自身との決別を描き、また映画の最後でロレンスの乗った車がバイクに抜き去られるシーンは、非アラブのトルコ人対アラブ人という民族対立の構図からスンナ派のハーシム家対ワッハーブ派のサウード家の部族間対立へと移り変わろうとする時代の流れに置いていかれようとするロレンス達のヒジャーズ王国を暗示していた。また、映画の公開時はイギリスがスエズ運河を失った第二次中東戦争と第三次中東戦争・第四次中東戦争の間という中東の情勢が緊張した時期であったことから、アラビアに再び起きようとする資源ナショナリズムという現実の時代の流れ、即ちソビエト連邦とエジプト・シリア・ヨルダンの行動や、米国がベトナム戦争直前の情勢緊張から中東まで手が回らないことによりイスラエルを失う可能性、イギリスがオイルメジャーの利権を失う可能性を演出する極めて劇的な政治的メッセージを持つ仕掛けだった。
ロレンスは、ダマスカス攻撃後にロンドンに戻り、外務省や植民地省でアラブ処遇問題の解決に努めた。その後、イギリス陸軍戦車隊、航空隊を経て1935年に除隊するも、その後まもなく、1935年5月13日に、ブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中の交通事故で死亡した。このオートバイは「オートバイのロールスロイス」とも例えられる高級車である。ロレンスは、アラブ反乱時のイギリス首相デビッド・ロイド・ジョージの名前をとって、愛車に「ジョージ」というニックネームをつけていた。この愛車「ジョージ」が事故を起こすことも皮肉めいている。1936年、ロイド・ジョージはドイツ総統アドルフ・ヒトラーを評して「老人に信頼され、若者に理想視されるダイナミックな性格」と語ることになるからである。
アラブ反乱に対して「イギリスの三枚舌外交」と呼ばれる三つの協定、即ちフサイン=マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言を締結した事が、後に一連の矛盾外交によって生じたパレスチナ問題や、現在も不自然な国境で分断されているクルド人問題などの遠因となったとも言われている。
ロレンスが所属するイギリスのカイロ領事はハーシム家を支援していたが、ジョン・フィルビーの所属したイギリスのインド総督府はワッハーブ派のサウード家を支援していた。アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードはイギリスとの戦力差をわきまえており、反抗することはなかった。1920年にはそのイギリスの支援を背景にしてアブドゥルアズィーズは中部アラビアのリヤド周辺一帯のナジュドを支配下に置いた。
ロレンス達が建国に貢献したスンナ派のハーシム家によるヒジャーズ王国は、ナジュドのスルタンとなったアブドゥルアズィーズ・イブン=サウードに侵攻され、わずか9年(1916年 - 1925年)で終焉を迎える。その後ワッハーブ派のサウード家によるナジュド及びヒジャーズ王国 (1926年–1932年)を経て、サウジアラビア (「サウード家によるアラビアの王国」の意味)が1932年に成立する。
史実との相違点
実際のロレンスは身長165 cmで、当時の英国のエスタブリッシュメントとしては小柄であったが、彼を188 cmの長身であるピーター・オトゥールが演じている。
映画では1916年10月からロレンスがアラブ反乱に参加したと脚色されているが、史実ではそれ以前のマッカの戦い(英語版)・マディーナ包囲戦(英語版)・ターイフの戦い(英語版)等の戦闘にも参加した。
西欧諸国では本作で描かれているような「アラブ諸国の独立に尽力した人物(アラブ人にとっての英雄)」として認識されているが、アラブ側からは「中東における行動は一貫してイギリスの国益のためのものだった(アラブ側を利用していた)」とする指摘もある。
キャスト
役名 俳優 日本語吹替
日本テレビ版 テレビ朝日版 テレビ東京版
トーマス・エドワード・ロレンス ピーター・オトゥール 岸田森 井上孝雄 山寺宏一
ファイサル王子 アレック・ギネス 内田稔 大塚周夫 小林尚臣
ハウェイタット族(英語版)のアウダ・アブ・タイ(英語版) アンソニー・クイン 北村和夫 小松方正 坂口芳貞
ハリト族の“シャリーフ(英語版)・アリ” オマー・シャリフ 新克利 内海賢二 磯部勉
アレンビー将軍 ジャック・ホーキンス 佐野浅夫 鈴木瑞穂 瑳川哲朗
ジャクソン・ベントリー新聞記者 アーサー・ケネディ 穂積隆信 池田勝
ブライトン大佐 アンソニー・クエイル 宮川洋一 石田太郎 小川真司
ベイ将軍 ホセ・フェラー 森山周一郎 大木民夫 中村正
ドライデン顧問 クロード・レインズ 神田隆 真木恭介 永井一郎
アーチボルト・マーレイ将軍 ドナルド・ウォルフィット(英語版) 小林清志 滝口順平
ヒジャーズ王国の創始者フサイン国王の三男として生まれたファイサル王子は1920年にダマスカスのアラブ民族会議により、シリア・アラブ王国の初代国王に選ばれ、後にイラク王国の初代国王となる
ハリト族の“シャリーフ・アリ”(Sherif Ali ibn el Kharish)は架空の人物で、ハリト族も架空の部族である。
ジャクソン・ベントリー新聞記者Jackson Bentleyは架空の人物で、Lowell Thomasをモデルにしている。
ブライトン大佐(Harry Brightonは架空の人物である。
ドライデン顧問Mr. Drydenは架空の人物で、ロバート・ボルトとデイヴィッド・ホガース(英語版)の二人がモデルになっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9
-
2:777
:
2022/05/26 (Thu) 12:55:28
-
純真なアラブ人を騙した極悪人ロレンスに鉄槌を!!!
この映画の背景を説明するとなると、
キーポイントとしては、”産業革命”、”オスマン帝国の衰退”、
”第一次大戦”が挙げられると思います。
*18世紀末に起こった産業革命により、機械化が進み、発展を
とげた国々は、原料(石油等)や市場を求めて、第三世界の国々
を侵略しはじめた→イギリス、フランスなど
産業革命により、著しい貧富の差が生れた事で、社会主義、共産
主義の思想が生れた→ロシア
*オスマン帝国は、かつて広大な領土を保有していたが、20世紀初め
になると、ロシアから攻められたり、バルカン半島では独立戦争が起こったり
青息吐息の状態だった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E...
*1914年、第一次世界大戦が始まると、三国同盟(ドイツ、イタリア
オーストリア)対三国協商(イギリス、フランス、ロシア)の争いとなる。
オスマン帝国は、ロシアと敵対している為、ドイツ側に就く。
イギリスは、大部族ハシム家の長に、オスマンに対し反乱を起こせば、アラブ
王国として独立させてやる、と約束し、ロレンスを派遣した。
オスマンは、その後降伏したが、約束は守られなかった。
ロレンス達が戦っている間にイギリスは、のちに有名となる、”三枚舌外交”
を行っています。
1、は前述の通り、オスマン帝国で反乱を起こすこと。
2、アメリカのロスチャイルド家に、ユダヤ人が戦費を賄ってくれたら、パレスチナ
にユダヤ人国家建設を認める→イスラエル建国
3、第一次大戦後フランスとの間で、オスマン帝国領を、イギリス、フランス、ロシア
で山分けしようと秘かに約束を交わしていた。
この結果、イギリスは、スエズ運河、ペルシャ湾(石油運搬の為)、イラク北部を
委任統治という形で、見事手に入れました、とさ。おしまいです。
-
3:777
:
2022/05/26 (Thu) 12:56:46
-
アラブが見たアラビアのロレンス スレイマン・ムーサ 2005年 02月 27日
映画「アラビアのロレンス」のロレンスを見たため、ロレンス本を探す。これはアラビア側が書いたもので、ロレンスを英雄視している人にはショックな内容だろう。つまり、ロレンスはアラビアの反乱時には指揮権など持っておらず、単にイギリス軍人としてアラビア側に同行していただけだったが、イギリスの上司にはさも自分がアラビアの王たちに影響力があり、作戦を考え指示したように報告していたこと、著書では話を大きく書いていること(人はこれを嘘と呼ぶ)、そしてアラビアの独立時には、ロレンスはアラブとイギリスを繋ぐ重要人物になっていたのだが、彼はアラブの信頼を裏切りユダヤ人のパレスチナ入植を積極的に支持したこと(これがアラブにとっては最も許せないことだろう)など、多数ある。
まず彼の著書「知恵の七柱」では、ファイサル王子から大叔母から贈られた金の刺繍入りの婚礼衣装となっているアラブ服だが、これは単なる白い絹の服で、アラブ人にとっては客人や支持者に服を贈ることは当たり前のことだった。
映画ではロレンスが奇襲を仕掛け大活躍するアカバ占領だが、これはファイサルとアウダによって練られた計画で、ロレンスは自分がこの計画の指導者だと主張しているが、実際は地雷の埋設を助けるから一緒に連れて行ってくれと、有名な砂漠の戦士だったアウダに頼み同行しただけだった。映画ではアウダやアラブ人は金の亡者で金のためだけに戦闘に加わっているが、実際は多くのベドウィンが反乱への忠誠を示そうとアウダのもとに集結していった。そして映画では、砂漠を数週間で強行突破して通り抜ける所が強調されているが、アウダ軍は5月から7月にかけての長期にわたる移動であり、途中線路を爆破したりトルコ兵と戦闘したりしている。7月のトルコ兵との戦いでは、ロレンスは自分の銃弾が自分のラクダに当たりラクダが死んでしまい、ロレンスは戦闘が終わるまで失神していた。そしてアウダは、アカバでは守備隊を降伏させ、アラブ軍の主力隊の包囲によりトルコは降伏した。つまり、映画でのロレンスが砂漠を渡り、その際自分だけ砂漠に戻ってラクダから落ちたアラブ人を助けるなんて自己犠牲のお話は全く作られた映画での盛り上がりを作るための美談だった。
またロレンスが書いた「アラブ通信」では、トルコ兵が半トルコのアラブのシェイフを4頭のラバにくくりつけて八つ裂きにしたと載せているが、そういった名前の人物は存在せず、かつ動物に人をくくりつけて処刑するのは中世ヨーロッパのやり方で、トルコではこんなことは実際にしない。またロレンスはトルコ兵が婦女子を殺したとしているが、筆者が調べたところそういった部族の人たちはそれを否定している。
汽車を襲撃した件では、ロレンスは著書の中で、怯えきったアラブ人の老婦人を助けたため後に絨毯を送ってもらったと書いている。が、友人にあてた手紙には、”戦利品の絨毯”が出てくる。映画では絨毯は出てこないが、アウダらアラブ軍が汽車の中から馬や時計など乗客の荷物を盗んで行きロレンスが怒っているが、実際にはロレンスも同様に襲撃した車内から盗んでいたわけだ。
1917年11月デラアでロレンスは、トルコ兵に捕まり鞭で失神するまで打たれると著書と映画にある。そしてバーナード・ショーの妻に後日出した手紙で、この時犯されたのだと告白している。この件の前に、ロレンスは列車爆破の任務をしており、爆発の際に怪我をしている。本書の著者はロレンスが10日ほど前の怪我があるにもかかわらず、数日間あちらこちらを回り、デアラから直ちにアズラクへ戻っていることに疑問を呈している。もし本当にデアラで拷問を受けたのなら、生死の境をさまよいながら翌朝にはアズラクへ、そしてアカバへの600kmの道を行けたのだろうか。ロレンスのアズラク滞在を知る人物によると、ロレンスはアズラク滞在中、どこにも出かけていなかったようだ。
イギリスがパレスチナにユダヤ人国家建設を支持したバルフォア宣言は、力を持つアメリカのユダヤ人組織の支持を取り付けアメリカを参戦させるため、そしてエジプトとスエズ運河でのイギリスの地位を強化するためパレスチナを防波堤として確保するためだった。また石油目当てのイギリス、フランス両国であったが、イギリスはファイサル王子にフランスの野望の餌食にならないため、アメリカ人を味方につけないとシリアを救済できないと思わせ、ファイサルにバルフォア宣言を認めさせた。シオニストのワイツマンは、ファイサルに、ユダヤ人はパレスチナを支配するつもりはなく、避難所を持つことを目的としていると口説いた。
ロレンスはシオニズムにはっきりと賛成し、そして彼は常にイギリスの利益のために働いていた。イギリス女性が、イギリスの親シオニスト政策に抗議するためアラブ人やイギリス人を招いてパーティーを開いたが、ロレンスは反シオニズムはイギリスの国益に沿わないので、自分は出席しないと断っている。
アラブは独立のため大戦に参加したが、列強が協定や約束や保証を破り、アラブ諸国を分割統治してしまった。大シリアは分割され、イラク、シリア、トランスヨルダンとなる。ファイサルはイギリスが統治していたイラクに自治権を与えることを交渉し、イラクは独立しファイサルはイラク王となった。また兄のアブドッラーは、トランスヨルダンの首長となった。
ロレンスはチャーチルのもとで、ファイサルの父であるフセイン王に、シリア分割とユダヤ問題を受け入れることを迫った。が、フセイン王は「アラブの民は彼らの祖国の大義を私の両手に委ねた。そのため、住を求める彼らの要求から逸脱するような権限を私は持っていない」と、アラブ諸国に対する帝国主義的政策を容認することを拒絶した。
1919年9月のロレンスの手紙には、「アラブが最初の褐色の大英帝国自治領であるべきで、我々の最後の褐色植民地となるべきではないのです」とある。著者は、ロレンスの礼賛者たちは、ロレンスがアラブの地位を”植民地”から”自治領”へと格上げを望んでいたことに喜ぶのかもしれないと皮肉を書いている。そしてロレンスが支持し、ファイサル王に承認をせまったユダヤ人の民族的郷土政策により、パレスチナからアラブ人が追い出され、ユダヤとアラブの間に現在まで続く憎しみと戦いが行われている。
ロレンスはベドウィンの食事や閉鎖的習慣にも嫌な顔をしないイギリス人であり、ベドウィンは彼を仲間として受け入れていたことは確かだ。また彼は、アラブにはイギリスで自分が力があるように、そしてイギリスにはアラブで力を持っているように振舞うことで、双方の信頼を集めていた。根本的に役者だったロレンスは、大戦後にパリやロンドンをアラブ服で歩いた。アメリカ人記者トマスは、ロレンスを英雄に仕立て上げたわけだが、ロレンス自身「どちらかといえば、私は真実よりもウソを好むが、特に自分に関係がある時はそうだ。」とか「歴史なんて容認されたウソの積み重ねにすぎない」と言っている。
アラブにとって反乱は、アラブの目的のためにアラブによって行われたアラブの出来事であり、ロレンスたち外国人たちは、爆破技術支援のために連合国から派遣された軍事顧問団であり、ロレンスが反乱の指導者であるというのは、西洋人に作り上げられた英雄像でしかない。
ロレンスはアラブの勝利を望んでいた。なぜなら、アラブはイギリスの同盟者であり、アラブが勝てばエジプトからイギリス軍が侵攻しやすくなるからだった。またダマスカス入城を一番乗りしたのは、フランスにシリア拠点を取られたくなかったからだ。
ロレンスは本国に戻った後、偽名で入隊し、また著作でもうかった金を受け取ることを拒否している。こうした面はロレンスを謙虚であるとか、またはアラブに対して罪悪感を感じていたためとか言われている。著者は以下のように結論付けている。
ロレンスは、心の奥底では、自己の名声の大部分が欺瞞に基づいていることを知っていた。彼は又、もしも彼の仲間のようなより正直な道を歩んでいたら、大戦後の晴れ舞台や偉大な人物からの支援をほしいままにするのは出来なかったことも知っていた。それゆえに、彼の罪悪感が彼を空軍や戦車舞台へと追いやったのであり、そうすることで自分をひそかに苦しめていた以前の過ちの償いを臨んだのである。
https://nekotamago.exblog.jp/2130515/
-
4:777
:
2022/05/26 (Thu) 12:58:04
-
砂漠の反乱 T・E・ロレンス
アラビアのロレンスの言い分も読まなくてはということで、読んだ。関心は、「アラビアのロレンス」の映画との係わりにあったので、その箇所をあげる。
仲の悪いアテイバ族とアゲイル族の喧嘩から、一人が殺された。その犯人をロレンスが双方に属していないものとして裁いて殺した。映画では、先にロレンスが砂漠から助け出した男を殺したが、砂漠から助け出す話はない。
「私も馬鹿でないから、戦争さえ勝利に終われば、アラブ人にたいしる約束などは、反古同然の空文におわるであろうということはわかっていた。私が名誉を重んずる謀将だったら、アラブ人たちをみんな家郷に帰し、こんな無意味な仕事に命をかけるのはよせということろでもあろうが、しかし、東洋の戦線で勝利を博するために、今絶対に必要なのはアラブ人の情熱である。だから私は、イギリス政府は必ずその約束を守ると断言したのである。アラブ人はこの確信に元気づけられて、あの功業をなしとげたのだ。だが、私はその結果を誇りとするどころか、その時以来どうにもならないほど激しい恥辱をほとんど絶え間なく感じ続けたものである。私はそのお返しとして、心に固く誓った。アラブ反乱を、単にエジプト方面のイギリス軍にとっての有利な素材として出なく、アラブ人所期の目的に向かって邁進させることを。また列強をして、アラブ人の道義的要求に対する正統な考慮を払わざるをえないようにさせるため、このアラブ反乱を遮二無二最後の勝利まで推し進めて見せようと言うことを。」
「私はけっきょくのところ、アラブ人の崇高な理想を利用し、彼らの自由にたいする熱望を、イギリスの野望に達するための道具に使ったことになるのだ」
アカバからシナイ半島横断の話は、アカバに食料がなかったので8人で49時間で横断したとある。映画の二人の少年を連れて、またそのうちの一人を流砂で亡くす話はない。村をトルコ兵に襲われたアラブ人が逆上し、怪我をしたトルコ兵たちを虐殺する場面は、あり。
「アラブ人は、自由を勝ち取るために戦いに参加したのであり、アラブ人の武力によるアラビアの古都の回復こそが、彼らの戦いの大義名分であるのだ。ダマスクスに最初に突入するのはアラブ人でなければならぬ。」
***************************
ロレンスの著書だけを読んでいると、彼はアラブが好きで、イギリスがアラブを騙していることは知っていたが、そのことに良心の呵責を感じ、出来る限りのことをしてやろうと頑張った若者、しかし戦い終わって冷酷な政治の流れについてゆけず、アラブを去った。そして悲劇の死を迎えたということになろう。これは映画でも同じコンセプト。結局、ロレンスの言い分を聞けばそういうことになろう。しかし、アラブ側の見方からすれば、ロレンスが書かなかったその後、パレスチナ問題を無理やりアラブ側に承諾させたことは、それまでいくら仲間として一緒に戦った相手だとしても、許すことの出来ない行為だろう。
ちなみに映画のもとになったのは、ロレンスの著作と、ロバート・グレーヴズの「ロレンスとアラブ」。後者に関しては、ロレンスは草稿に目を通し承諾をしたが、内容に関しては責任を負わないことや、序文にロレンスがそのようなことをしなかったことをにおわせる一文を追加するよう求めていた。
https://nekotamago.exblog.jp/2145584/
-
5:777
:
2022/05/26 (Thu) 12:58:55
-
アラビアのロレンスを探して 揺れる英雄像 スティーヴン・E・タバクニック 2005年 03月 06日
当初英雄だったロレンスが、戦後20年サド・マゾ・同性愛者といった倒錯した心理に注目されるなど、ロレンス像が、時代によって求められる姿に変化したことを紹介している。
デアラ事件に関しては、ロレンスがスターリング少佐に書いた手紙では、ロレンスを捕らえたトルコのハジム・ベイはロレンスと知った上で同性愛の相手をさせようとしたが、ロレンスは抵抗。結局病院に連れて行かれたが、ベイが思っているような深手ではなかったので夜明け前に脱走したとある。
映画に関しては、脚本はロバート・ボールトがかなりエピソードを脚色し新しい話をでっちあげていることを説明。これも当時、ロレンスのサド・マゾヒズムに注目する時流に乗ったものとしている。フィクションの部分は、始めにロレンスが自分の指を火傷させ火を消すシーン、ダウドとファラージュを連れてシナイ横断の件(ダウドはロレンスが実際にイギリスに連れて行ったダフームとの同性愛関係を示唆するもの。ただしダフームはアラビア反乱が終わる前にチフスで死亡)、ガシムを処刑するのが楽しかったと告白するが、これも処刑されるのはムーア人のハメッドで一緒にアカバまでの遠征をした仲間ではなく、またロレンスは一言も著作の中で人殺しが楽しいとは言っていない。彼は権力に自分が夢中になってしまうことを危惧しているだけだ。またアカバ途中の戦い、北方遠征が省略されている。そしてアラブ統一を信じているように描かれていたが、実際は彼は団結をうたったにすぎず、統一など不可能だと信じていた。また映画の始めでロレンスがアラブを野蛮だと非難するが、ロレンスはアラブ人を侮辱してはならないと注意し、そういった態度は取らなかった。またアリーがロレンスのガイドを撃ち殺すが、アリーの性格は全く異なっており、この事件もなし。しかし映画では有名になることを楽しみながら、一方で名声を嫌悪する姿や、アラブらしさを演じるロレンスとアラブに浸りきるロレンスの曖昧さといった神秘的なロレンスを描き出すことに成功している。
スレイマン・ムーサの「アラブが見たアラビアのロレンス」に関しては、北方遠征がなかったとするが資料があると反駁、デアラ事件はムーサは信憑性に欠けるとしているが、これもロレンスの体に傷があるので事件はあったとしている。しかしこのあたり、どうも矛盾しているのが、ムーサは鞭で打たれて重症ならその後すぐにきつい砂漠での遠征など出来ないのでは、としているのだが、この著者は背中の傷があったことを反論材料にしている。その一方で遠征に出かけたことへの反論としてロレンスが後に手紙で傷は深手ではなかったと言っているものを出している。不思議なのは、深手ではない傷がその後何年も人目につくほどの傷として残るのだろうか。またロレンスは、飛行機事故やら銃撃戦での怪我などもあったようだが、そういった怪我の痕はなくすぐに逃げ出せ遠征できたほどの怪我の痕だけが残るのだろうか。またタファスのトルコ兵虐殺はあったと多くの軍人が証言している。またロレンスのシオニズムに関して、著者はロレンスがアラブにもユダヤにも同情的で、双方の主張をなんとか結び付けようと努力したことは、誉められこそすれ非難されるいわれはないとしている。
ロレンスの鞭痕について面白い記事は、ナイトリーとシンプスンの著書の中で、スコットランド人のジョン・ブルースへのインタビューで、彼が空軍に入りなおした1923年から12年間ロレンスの希望により、樺の枝を使ってロレンスに鞭打ちをほどこしていたという私生活の暴露だろう。デアラ事件を含め、ロレンスにサド・マゾの倒錯趣向があったことを暴露する話であるが、先にあげたロレンスの鞭の痕とは、デアラ事件ではなく、その後の趣味の世界によってできたものと言う可能性があるのではないだろうか。著者はこのあたり、全く無視している。
どうやらこの本の著者タバクニックは、従来言われているようにロレンスは天才で、アラブの反乱はほとんどロレンスが指揮していた、または彼が指導して計画した、そして頭の中に天才の常である矛盾した考えを幾つも抱き、時代の正統に従わず、常識はずれにアラブとユダヤを友人として、ベドウィンと英国貴族を尊敬したと結論付けている。
気になったのは、ムーサを始めアラブ側の見解、つまりロレンスに指揮権などなかった、またシオニズムとの関連、アラブを助けたのは結局は英国軍人として英国の要請に応じフランスを牽制するためという点については反駁している点だ。特にシオニズムに関して、ファイサルがユダヤがイスラエルに入ることをOKしたのは、ロレンスの差し金でいやいやではなく、ファイサル自身が協力構想を評価したとしている。そしてアラブとユダヤを協定させたのは、カーター大統領を除いて歴史上ロレンスただ一人だと持ち上げている。アラブとユダヤの協調を幾度と強調しているが、このあたり、ムーサの著書ではファイサルが当時の状況ではサインをせざるを得なかったと説明しており、それでもまだサインに躊躇し、幾つかの条件を出していたにも関わらず、その点は無視して事が運ばれてしまった、しかもファイサルの父王については、この調印をまったく拒絶したのだが、本書ではそれについては触れられていない。なぜ著者がこのようにロレンスがユダヤの友だと強調しているのかを考えてみた。著者の履歴を読むと、NY生まれで1971-1984年までイスラエルのベングリオン大学外国文学部で教えている。なんだ、ということはこの人はユダヤ人か、もしくは親ユダヤということか。ならばこのユダヤ側への肩入れも納得。逆を言えば、彼のユダヤがらみの発言は、相当割り引いて読まねばならないだろう。
失笑物だったのが、「ロレンスの能力と、ほぼあらゆる事件で彼が主導的な役割を果たしたことの間接証拠のひとつは、ロレンスがアラビアを離れ、彼の助言が得られなくなると、ファイサルはシリア王としての地位を失い、その父シャリーフ・フサインはアラビアをイブン・サウードに奪われたという事実だ。」という文章。どうしてロレンスがいなくなったからファイサルがシリア王でなくなったと言えるのだろうか。またそういった歴史的事実から、逆にロレンスが全てのアラブ反乱で主導的役割を果たしていたとどうして言ってしまえるのか?このあたり、著者が必要以上にロレンスを崇め、フサイン側をロレンスがいなくては何も出来なかった、いわば彼らはロレンスの操り人形だったと貶めている。しかし、実際にロレンスが相手にしなかったファイサルの兄が治めることになったヨルダンは、結局国として現在まで続いているし、ファイサルのイラクも彼が生きている間は王制をしいていた。アラブとしてみれば、英国などの欧米の力を使うことで、自分の統治を行っていたわけで、上手く英国などを使ったと言えよう。どうも全体にこの著書は、イギリスなどの欧米の押し付けの視点(あくまでも自分たちが主)が見られた。
https://nekotamago.exblog.jp/2194003/
-
6:777
:
2022/05/26 (Thu) 12:59:48
-
現在、世界を戦乱へと導いているのはアメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟、そしてイギリスとフランスのサイクス・ピコ協定コンビだ。
サイクス・ピコ協定はオスマン帝国の領土分割などを決めた秘密協定で、イギリスのマーク・サイクスとフランスのフランソワ・ジョルジュ-ピコの協議で原案が作られたことからこう呼ばれている。
後にロシアも参加するが、1917年11月のロシア十月革命で実権を握ったボルシェビキ政権によって協定の存在が暴露されている。ちなみに、ウラジミル・プーチン露大統領はイギリスやフランスを含む勢力の中東支配プランに加担していない。
この協定が結ばれた翌月、つまり1916年6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせている。
その部署にトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」も所属していた。
このロレンスが接触、支援したアラブ人がフセイン・イブン・アリ。この人物にイギリスのエジプト駐在弁務官だったヘンリー・マクマホンはアラブ人居住地の独立を支持すると約束している。フセイン・マクマホン協定だ。
イブン・アリは1916年にヒジャーズ王国を建国しているが、このアリはイブン・サウドに追い出されてしまう。そして1932年にサウジアラビアと呼ばれる国が登場した。サウジアラビア建国の背後ではイギリスが蠢いている。
サイクス・ピコ協定が露見した2年後、つまり1917年11月に「バルフォア宣言」、つまりイギリスのアーサー・バルフォア外相の名義でウォルター・ロスチャイルド宛てに送られた書簡が書かれた。その宣言の中で「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束している。
イギリス政府が言う「ユダヤ人の民族的郷土」は1948年に作られた。この年の4月4日にシオニストはダーレット作戦を発動、デイル・ヤシンという村をシオニストのテロ部隊であるイルグンとスターン・ギャングは襲い、住民を惨殺する。襲撃の直後に村へ入った国際赤十字のジャック・ド・レイニエールによると254名が殺され、そのうち145名が女性で35名は妊婦。イギリスの高等弁務官、アラン・カニンガムはパレスチナに駐留していたイギリス軍のゴードン・マクミラン司令官に殺戮を止めさせるように命じたが、拒否された。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この虐殺を見て多くのアラブ系住民は避難を開始、約140万人いたパレスチナ人のうち5月だけで42万3000人がガザ地区やトランスヨルダン(現在のヨルダン)に移住した。その後の1年間で難民は71万から73万人に達したと見られている。シオニストが占領した地域にとどまったパレスチナ人は11万2000人にすぎないという。
イギリスの学者で地政学の父とも呼ばれているハルフォード・マッキンダーは1904年、世界制覇のためのプランを発表した。彼は世界支配を実現するためにカギはロシアにあると考える。広大な領土を有し、豊富な天然資源、多くの人口を抱えるからだ。この理論に基づいてズビグネフ・ブレジンスキーも戦略を立てている。
そのロシアを締め上げるため、マッキンダーはユーラシア大陸の沿岸地域に広大な弧を想定する。西ヨーロッパ、中東、インド、東南アジア、朝鮮半島をつなぐ三日月帯で、西の端にはイギリス、東の端には日本がある。この三日月帯の上にイギリスはサウジアラビアとイスラエルを作り上げた。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201804190000/
-
7:777
:
2022/05/26 (Thu) 13:00:15
-
2011年当時から言われていたが、イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定(小アジア協定)」のコンビ。第1次世界大戦の最中、16年5月にイギリスとフランスは帝政ロシアも巻き込んで利権の獲得を目的とした秘密協定を結び、6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせたのだ。
この部署に所属していたひとりがトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」である。
この人物を主人公としたイギリス映画がデビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で作られた理由は言うまでもないだろう。
2018.09.22
フランスとイギリスがシリア侵略で積極的な歴史的背景
ロシアの電子情報支援機IL20の撃墜に絡み、IFF(敵味方識別装置)の問題が指摘されている。IFFが機能していればシリア政府軍が****したS200によってロシア軍機が撃ち落とされることはないだろうというわけだが、ロシア国防省は輸出用のS200にはIFFが搭載されていないとしている。S200は1960年代の後半から使われている旧型のミサイルだということもあり、ロシア側が主張するようにIFFは搭載されていなかったようだ。
しかし、IL20が撃墜されるタイミングでフランス海軍のフリゲート艦オーベルニュがミサイルを****しているとロシア国防省は発表している。イスラエル軍のF16戦闘機4機による攻撃とオーベルニュの攻撃が無関係だとは思えない。イスラエル軍とフランス軍は連携してシリアを攻撃したのだろう。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、2011年春にリビアとシリアに対する侵略戦争が始まった当初からフランスとイギリスは積極的だった。アメリカに強制されたとは言えない。
ジョージ・H・W・ブッシュ政権で国防次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツは1991年にシリア、イラン、イラクを殲滅すると発言したとウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官が語っている。
1991年1月から2月にかけてアメリカ軍はイギリス、フランス、サウジアラビア、クウェートの軍隊を引き連れてイラクへ軍事侵攻(砂漠の嵐作戦)したが、サダム・フセインを排除しなかった。
ウォルフォウィッツなどネオコンはブッシュ大統領の決断に怒り、シリア、イラン、イラクを殲滅するという発言につながったのだが、ロシア軍が出てこなかったことにも注目している。ロシア軍はアメリカ軍の行動に手を出せないと判断したのだ。
当時、ロシアは西側巨大資本の傀儡だったボリス・エリツィンが実権を握っていた。ロシア軍に軍事介入する力はあったのだが、アメリカに逆らわなかったのだ。21世紀に入り、ウラジミル・プーチンが大統領に就任すると状況が変化、アメリカ従属はの力は弱くなり、2008年にはジョージア軍を使って南オセチアを奇襲攻撃したが、ロシア軍の反撃で惨敗している。
ジョージア軍は何年にもわたってイスラエルとアメリカから軍事訓練を受け、兵器の提供も受けるなど長い準備期間を経ての作戦だった。その作戦自体、イスラエルが立案したと推測する人もいる。そのジョージア軍と反撃してきたロシア軍は同程度の規模だったのだが、ロシア軍が勝利するまでに要したのは96時間だけだった。
ロシア軍とアメリカ軍が衝突した場合、アメリカ軍に待っているのはジョージア軍と同じ運命。そのためか、2011年にリビアとシリアを侵略する場合、バラク・オバマ政権はサラフィ主義者(ワッハーブ主義者やタクフィール主義者と渾然一体)やムスリム同胞団を主力とするジハード傭兵を使った。
リビアではこうしたジハード傭兵(アル・カイダ系武装集団)とNATO軍の連携が機能してムアンマル・アル・カダフィ体制は2011年10月に倒され、カダフィ自身は惨殺される。ところがシリアは違った。シリア軍の強さもあるが、国内事情の違いもあった。国内にアメリカなど外国勢力が使える反政府勢力が存在しなかったのだ。
ところで、ネオコンは遅くとも1991年にシリア侵略を考えているが、1988年から93年にかけてフランスの外相を務めたロラン・デュマによると、イギリスとフランスは2009年の段階でシリア侵略を目論んでいた可能性が高い。彼はあるパーティーでイギリス人とフランス人のふたりからシリア政府の転覆工作に加わらないかと声をかけられたというのだ。そのふたりが誰かは語られていないが、ニコラ・サルコジ政権やフランソワ・オランド政権はシリアでの平和を望んでいないとデュマが判断するような相手だったという。
また、シリア駐在のフランス大使だったエリック・シュバリエによると、2011年3月にシリアでは大規模な反政府行動があり、政府が暴力的に参加者を弾圧しているとする報道があった際にシュバリエは現地を調査、抗議活動は大規模な者でなく、すぐに平穏な状況になったことを確認し、そのようにパリへ報告したのだが、ジュッペ外相はそれを無視するだけでなく、シリアのフランス大使館に電話して「流血の弾圧」があったと報告するように命じたというのだ。「****者による民主化運動の弾圧」というストーリーをフランス政府は求めていた。勿論、侵略を正当化するためだ。
2011年当時から言われていたが、イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定(小アジア協定)」のコンビ。第1次世界大戦の最中、16年5月にイギリスとフランスは帝政ロシアも巻き込んで利権の獲得を目的とした秘密協定を結び、6月にイギリス外務省アラブ局はアラブ人を扇動して反乱を起こさせたのだ。この部署に所属していたひとりがトーマス・ローレンス、いわゆる「アラビアのロレンス」である。この人物を主人公としたイギリス映画がデビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演で作られた理由は言うまでもないだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/