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中島みゆき「世情」_ 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?

1:777 :

2022/05/18 (Wed) 19:39:36

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中島みゆき「世情」_ 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?


中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため



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中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9B%A8%E3%81%8C+


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ


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70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D%E7%8B%A9%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C


中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか


2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌
 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。



中島みゆきさんの「結婚」につながりそうな噂

現在は独身とのこと。結婚歴もなくずっと独身ですって。
なぜ結婚しなかったのでしょうね。

そういえば、松山千春さんと熱愛したんじゃなかったっけ?〔中略〕

某ギタリストの彼氏とホテルから朝帰りする写真を撮られたことあるし。

高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか。

某プロデューサーと不倫関係で、同棲してるとか。

もっと深刻なのが、同〇愛〇だとか。

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中島みゆき名曲集

【公式】中島みゆき シングルコレクション『Nakajima Miyuki Best Album Playlist 2021』
https://www.youtube.com/watch?v=lXfyeXr-OHw

春なのに 柏原芳恵 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%98%A5%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB++%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E8%8A%B3%E6%81%B5

わかれうた・・中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6wzsb5

中島みゆき - エレーン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32317926

雨が空を捨てる日は Miyuki Nakajima / 中島 みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6rphak

時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより)
https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo&t=4s

地上の星 / 中島みゆき [公式]
https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE


中島みゆき
ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)使用
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E4%BD%9C%E8%A9%9E%E3%83%BB%E4%BD%9C%E6%9B%B2++%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%AD%EF%BC%9A1894%E5%B9%B4%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E7%A4%BE%E8%A3%BD%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%EF%BC%88%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%BC%8F%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%EF%BC%8F85%E9%8D%B5%EF%BC%89%E4%BD%BF%E7%94%A8+&sp=mAEB

中島みゆきをアンティークピアノで弾きました。

使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。

現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。
2:777 :

2022/05/18 (Wed) 19:42:05

森田童子 僕たちの失敗 _ 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?


森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション
https://www.youtube.com/watch?v=qEMhYL6E2xA

0:00 ぼくたちの失敗
3:24 蒼き夜は
7:30 雨のクロール
9:30 蒸留反応
15:23 哀悼夜曲
18:38 孤立無援の唄
24:24 さよならぼくのともだち
28:26 逆光線
31:06 サナトリウム
35:48 男のくせに泣いてくれた
39:08 春 漫
41:50 G線上のひとり
45:26 ラストワルツ


森田童子は、1975年、太宰治の絶筆と同名のファーストアルバム『GOOD BYEグッドバイ』でデビューしたシンガーソングライター。
フォーク全盛期にライブハウスを中心に活動を開始し、いまにも消え入りそうな儚い歌声と、弱さや淋しさを肯定する歌詞の世界観は学生運動に挫折した若者の共感を呼び、いつしか「地下のカリスマ」「地下の女王」などとも呼ばれはじめる。

しかしその活動期間はわずか8年にすぎない。6枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバムを世に問うた後、1983年12月26日のライブを最後に、森田童子は人前から姿を消す。残されたのは、多くの逸話と伝説。カーリーヘアに色の濃いサングラスという特徴的ないでたち、出身地はおろか、年齢や家族構成など、プライバシーを語らない姿勢も伝説化に拍車をかけた。
歌うのをやめた10年後の1993年にはドラマ『高校教師』の主題歌になった「ぼくたちの失敗」が話題を集めた。楽曲は100万枚に迫る大ヒットを記録するが、森田童子が私たちの前に姿を現すことはなく、さらに25年後の2018年4月に世を去った。



森田童子が高校を辞めたきっかけは学生運動をしていた友人が警察に「パクられた」からで、歌い始めたきっかけは友人の死だったらしい。

「ぼく」は彼女自身だ。

なぜ「ぼく」になったのかというと、

「女系家族に育ち、女の嫌な部分、ドロドロした部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった」

(1983年ラジオインタビューより)

のだという。


伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった

「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1~2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」

 全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。

「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」
3:777 :

2022/05/18 (Wed) 19:43:23


かぐや姫 神田川 _ 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?


かぐや姫 神田川 1973年9月20日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D


2018.10.03
【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!
やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!

1970年代前半に隆盛を極めたフォークソング。その筆頭格に挙げられるグループ「かぐや姫」の代表曲が「神田川」です。肩を寄せ合い同棲生活を送る男女の純愛を描いた歌詞は女性目線と思われていますが、実は、知られざる事実が。「やさしさが怖かった」理由には、当時の若者を取り巻いていた驚きの時代背景があったのです。

フォークソングの代表曲

「かぐや姫」最大のヒットソング

1973(昭和48)年9月、3人組のフォークグループ「かぐや姫」がリリースした「神田川」。

リーダーの南こうせつが、ラジオ局の放送作家だった喜多條忠(当時の表記は喜多条忠)に作詞を依頼しました。

喜多條は学生時代に同棲していた彼女との思い出をモチーフに、わずか30分ほどで書き上げたといいます。

出来上がった歌詞を喜多條からの電話で聞いた南は、その場でメロディーが浮かんだそうです。

「神田川」は、同年7月発売のアルバム「かぐや姫さあど」に収録されました。

南がDJを担当していたラジオの深夜番組でオンエアしたところ、リスナーからリクエストが殺到。

哀愁漂うバイオリンの音色も印象的な「神田川」はシングル曲としてリカットされ、ミリオンセラーを記録しました。

70年代の若者文化のシンボル的な曲で、神田川に架かる東京都中野区の橋のたもとには歌碑が建立されています。


切なくも美しい歌詞と旋律を併せ持った名曲をお聴きください。透き通るハーモニーも聴きどころです。

「四畳半フォーク」の代名詞

「神田川」の代名詞でもあるのが「四畳半フォーク」という言葉。

1960年代に米国で広がったフォークソングは、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどに代表される若者の音楽でした。

人種差別反対やベトナム反戦のメッセージを込めた、プロテストソングと呼ばれるフォークです。

同時代の日本もまた、日米安保闘争や東大・日大闘争をはじめとする学生運動が盛んでした。

プロテストソングは社会派フォークのミュージシャン、作品を生み、若い世代の閉塞感や憤りを代弁します。

しかし、国家権力にねじ伏せられた学生運動は70年代に入ると行き詰まり、リアリティーを失いました。

「虚無」に陥った若者たちの心をつかんだのは、個人のささやかな生活や恋愛を歌ったフォークソング。

生活派フォーク、私小説フォークと呼ばれる、歌詞も旋律も日本的なウェット感に包まれた音楽です。

こうした曲はやがて「四畳半フォーク」と称されるようになります。

地方の親元を離れ、東京や大阪などの大都会に出てきた当時の学生の平均的な住まいが、四畳半一間の安アパート。

彼らの生活感を象徴したキーワードが「四畳半」だったのです。

ちなみに、「神田川」の歌詞には「三畳一間の小さな下宿」というフレーズが登場します。

J-POPの源流

時代を反映する力


「四畳半フォーク」という言葉を初めて使ったのは、松任谷由実(当時は荒井由実)だったとも言われています。

貧乏じみた生活のわびしさを追憶する暗い雰囲気の曲を、揶揄(やゆ)するニュアンスが含まれています。

1972(昭和47)年に発売された、ある週刊誌には「四畳半フォーク」をプロテストソングと対比した、こんな記述が。

「去勢されたロック・フォーク」

「四畳半ムードのいかにも男女のカッタるい感じの歌」

しかし、当時の若者にとって「四畳半フォーク」の世界にこそ、リアリティーがあったことは否めません。

他愛のない日常をありのまま切り取って表現する手法は、後のJ-POPに脈々と受け継がれます。

「何でもない毎日にこそ、その時代を生きる人々の息遣いがある」という事実。

若者たちの等身大の世界を歌って共感を集めたのが「四畳半フォーク」でした。

その時代の空気を作品として永遠に残せる音楽の素晴らしさを、見事に証明してみせたといえます。

古い社会への抵抗


「四畳半フォーク」の定番と言える恋愛の舞台が「同棲」です。

婚前交渉などもっての外だったのはもちろん、自由恋愛さえ憚(はば)かられていた当時。

日本社会の古く、息苦しい価値観を打ち壊そうという若者たちの行動が「同棲」という形で顕在化したのです。

「神田川」がリリースされる前の1972(昭和47)年には、漫画「同棲時代」が大ヒットします。

時に傷付け合いながらも、深く愛し合う恋人たち。

しかし、精神的にも経済的にも未熟なカップルを待ち受けていたのは、破滅的な別れでした。

「四畳半フォーク」で歌われる2人の暮らしも困窮を極め、未来の明るさなど感じられないものがほとんど。

爪に火を灯すような生活で味わう惨めさや葛藤が、ディテールまで赤裸々につづられています。

あまりにも刹那的な純愛に全てを捧げた情念は、時代を隔てたリスナーの胸にも響くのです。

「神田川」の歌詞が意味するもの

女性目線の歌?

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


「神田川」もまた、貧しさの中で営まれた同棲生活を追憶した曲です。

神田川が流れる、都心の「三畳一間の小さな下宿」。

男女の暮らしが貧しいものであることは、容易に想像できます。

寒空の下、首に手拭いを巻いて銭湯に出掛ける2人。

相手が出てくるのを外で待つ間に、すっかり冷え切った湯上がりの髪。

凍えた身体が震えるのに合わせて箱の中で鳴る、使い古された石鹸。

そんな身体を抱くしか術がない切なさ。

貧しさゆえの。何とも言えない悲哀が伝わる描写です。

ところで、この歌詞の語り手は男性、それとも女性でしょうか。

冒頭の「忘れたかしら」という言葉遣いから、女性を連想するのが自然なように思えます。




「やさしさが怖かった」理由

実は男性目線だった?

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


曲が進むにつれ、歌詞からは別の疑問も湧いてきます。

それは「貴方のやさしさが怖かった」という告白。

「やさしさ」が怖いとは、何を意味するのでしょう。

想像されるのは「相手が何か隠し事をしているのではないか」という疑念。

あるいは、経済的に困窮する中で「相手の『やさしさ』が、いつまで続くのだろうか」という不安です。

しかし、喜多條自身は後の新聞対談で、驚くべき真相を明かしています。

学生運動の最中、機動隊と衝突する激しいデモ活動に明け暮れていた自分。

疲れ果てて帰ると、学生運動と無縁の彼女は穏やかにカレーライスを作っている。

そんな彼女を見ていると、平穏な暮らしについ心を奪われそうになる。

しかし、それは活動家としての自分の信念を揺るがせることに他ならない。

自分のために料理を作る彼女の「やさしさ」こそが、自分にとって最も怖いことなのだ。

つまり、「神田川」のサビは、男性の視点で書かれた歌詞だったのです。

男女の目線が入り混じった歌詞


新聞対談の中で、喜多條はさらなる真相も明かしています。

横丁の風呂屋の外で待たされていたのは、自分でもあるということ。

当時の若い男性の間で流行していたのは、女性と見紛うような長髪。

喜多條は「神田川」の歌詞の語り手が男性であるか女性であるかは「よく分からない」とも発言しています。

過ぎ去った同棲生活を振り返る中で、濃密な時間を共にした男女の思いが交錯した曲。

それが「神田川」だったのです。

時代の記憶

「ニューミュージック」へ

一世を風靡した「四畳半フォーク」の終焉は、あっけないものでした。

その理由は、世の中が急速に豊かになったから。

国民的規模でもたらされた経済的余裕は、若者の関心を消費生活、つまり物欲の充実に向かわせます。

若者たちは消費生活を犠牲にする「同棲」をしてまで、社会に抗(あらが)うことをやめました。

過去に追いやられた学生運動に郷愁を感じることもない彼らが熱を上げたのは、都会的な「ニューミュージック」。

重苦しい生活感を排した、ファッショナブルな歌詞とサウンドが特徴です。

荒井由実が1stアルバム「ひこうき雲」をリリースした75年、「かぐや姫」は解散します。

受け継がれる精神


21世紀の現代に「四畳半フォーク」はそぐわないでしょう。

しかし「平凡な毎日」の素晴らしさを歌い、若者の心に寄り添うフォークの精神が消えることはありません。

例えば「ゆず」「19」「コブクロ」「うたいびとはね」。

90年代後半ムーブメントを起こしたネオ・フォークのアーティストたちは、J-POPの主流であり続けています。

アコースティック・ギターを抱えた彼らの曲に、奇をてらった過激なメッセージはありません。

「四畳半フォーク」の精神は、今の音楽にしっかりと受け継がれているのです。

まとめ

70年代フォークの旗手、吉田拓郎も


「かぐや姫」と並ぶ70年代フォークの代表選手といえば、吉田拓郎。

彼もまた、激動の時代を生きた若者の代弁者でした。

60~70年代フォークソングの代表格・吉田拓郎。井上陽水などとレコード会社を設立したり、楽曲を森進一に歌ってもらったり、と何かと大反響を呼んだ超有名人です。こんな素晴らしいアーティストを時代の流れとともに風化はさせぬ!ということで吉田拓郎の珠玉のフォークソング集をご覧いただきましょう。


「神田川」の歌詞の謎 2010-01-07

『神田川』という歌をご存知だろうか。俊郎でなく、南こうせつとかぐや姫が1973年に発表した歌だ。1970年代を代表する歌といってもいいだろう。おそらく、ご両親が口ずさむのを聴いた方もおられるだろう。私自身も、父母から教えられて、自分でもよく歌っていた。

 ~~~~
貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
 ~~~~


さて、この歌詞の最後の部分、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」が、謎めいているように感じないだろうか?私は子供のときから、意味が分からず、ただ何となく、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」とぐらいにしか思っていなかった。母も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」というようなことを言っていたと記憶している。

皆さんは、この「ただ貴方のやさしさが 恐かった」の本当の意味をご存知だろうか?数年前私は、テレビか雑誌かで偶然この意味を知って衝撃を受けた。


ところで、母は別の部分も変だといってた。それは、

「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」

の件である。母が言うには、「普通、風呂の時間が長いのは女の方で、待っている男がイライラさせられるもん」だそうだ。日常的に銭湯を利用したことの無い世代に属する私には、・・・まして一緒に銭湯に行く女性もいない私には・・・実感がないことではあるが、確かに女性の方が長風呂、というステレオタイプが無根拠でなかろうとは想像に難くない。

・・・実は、この母の何気ない感想が、謎を解く鍵であったのだ。

1960~70年代は、学生闘争や革命の理想に燃えた若者たちの時代で、南こうせつたちも、革命の理想や世の矛盾を多く歌に乗せていた。

ヘルメットを被って覆面をして、機動隊のバリケードに突っ込んでいく、そんな無骨な男たちにとって、家に帰って同棲する愛する女性と過ごす、ひと時の安らぎ・・・歌の二番に描かれている、貧しくても小さな幸せ・・・

 ~~~~
貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
うまく描いてねって言ったのに

いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいってきいたのよ
 ~~~~

この静かな幸せは、当時の騒然とした学生闘争とは全くの異質だった。闘争に明け暮れる男は、この小さな幸せに一息をつき、ああ、このまま時が止まればいいのに・・・・・・と、

革命の理想も、正すべき世の矛盾も忘れてしまいそうで、

そんな風に、自分の生きがいを捨てて家庭に安住してしまいそうになるのが

「怖かった」

そうなのである。

お分かりになるだろうか?そう、この歌は、女性の心情を詠んでいるのではなく、革命に生きる男性の心情を詠んでいるのである。この歌の主人公は、男。作詞者、喜多條忠は自分の心情を詠んでいたのである。語り口が女性的なので騙されていたが・・・くどいようだが、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」というのは、「ただ貴女のやさしさが 恐かった」というのが本当で、


「やさしい貴女との幸せな日常に、自分の使命を忘れてしまうのが恐い」

という意味なのだ。


とすると、歌の第二の謎の部分、「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」で、待っていた「私」は男性ということになる。やっぱり女性は長湯というステレオタイプに沿った歌だった。

それにしても、「洗い髪」っていうと、普通の感覚では女性の長い髪を連想するのではないか?・・・と思われることだろう。1970年代・・・上に挙げたYou Tubeにあるレコード・ジャケットからも分かるように、当時は 男も長髪にするのが流行っていたんだよ。

「大丈夫、俺も今、上がったところだから」と、見栄をはる男の、湯冷めした身体をぎゅっと抱きしめて、「冷たいね」という女

萌えまくるじゃねぇか、畜生め。リア充氏ね!!

こういう事実を知ると、歌の印象、ぐっと変わってくるでしょう?

・・・・ごめんなさい、嘘つきました。

いえ、百パー嘘じゃないんです。「あなたのやさしさが恐かった」ってのは、学生闘争に明け暮れる男の心情吐露が元々なのは事実なんですね。作詞者、喜多條忠がこのフレーズを思いついたのは、上に述べた背景からです。

でも、歌自体は、男が主人公でも、女が主人公でもなく、両者の目線が渾然としているそうです。だから、銭湯の外で待ってた人、似顔絵を描いた人、「悲しいかい」って聞いた人、どれが男でどれが女か、どれが同一人物で、どれとどれが違う人なのか、分からないんだそうです。

分からないってのは、作詞者自身が、「わたしにも分かりません」といってるからなんですね。当時長髪だった作詞者は、風呂屋で待ったことも待たせたことも経験しているそうです。

ある意味、歌の聞き手が自分の経験に照らし合わせて、勝手に補い、勝手に解釈でき、十人十色に共感できる、そういう自由さが、この歌が広く売れた理由かもしれません。

だから、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」というような私の単純な解釈も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」という母の恋の駆け引き的解釈も、間違いとは言い切れないわけで。

歌謡曲でも、詩でも、和歌でも、だいたい広く親しまれているのは、オープンなんだよね。情景が頭にすぐに描けるような、詳細で緻密な表現があるのに、個人個人の心に描かれる情景は、それぞれ違っているような・・・・個性的で且つ、普遍的な性質が、求められているんだろうね。
4:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:33:03

中島みゆき も若い頃は天才だったんだ。
でも何であんな風に なっちゃったんだろう?


中島 みゆき(本名:中島 美雪(読みは同じ)、1952年2月23日 - )は、日本のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。北海道札幌市出身。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビューした。


経歴

幼年期 - デビュー前

祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父・眞一郎は北海道帝国大学医学部出身の産婦人科医で中島産婦人科院長。札幌市に生まれ、5歳のときに岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。帯広に移り、市立帯広小学校を卒業、市立帯広第三中学校に入学する。1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り、市立第六中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業する。

帯広柏葉高校3年生の時、文化祭(第20回柏葉祭・1969年9月1日)で初めてステージを踏む。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする。北海道大学フォークソングのメンバーと交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとった。「フォーク音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌っている[注 1]。1972年には「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。この時の音源は大会実況版としてLP化されている[注 2]。後年、コンテストに出場したのは交通費や弁当代が支給されるので、バイト代わりであったと述べている。大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、アマチュア活動を続ける。ジャズ喫茶オーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏んでいる。 デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得しており、オリジナル曲は既に100曲以上存在していたが、それらの一部は現在でも音源化はされていない(後述の「未音源化楽曲」を参照)。

デビュー - 1970年代後半

1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による「第9回ポピュラーソング・コンテスト[注 3]」に「傷ついた翼」が入賞した。9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコード・デビューを果たす。1975年10月の「第10回ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し、11月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを受賞した。「時代」は12月に2作目のシングルとして発売。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「LA-LA-LA」と「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコが「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度を広める[1]。翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。作詞家・作曲家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。

数少ない出演番組のひとつとして1977年から放送された『コッキーポップ』がある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつとなっている。『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。1977年発表のアルバム『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得している。

1980年代

1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーのあいだで大きな人気を集めた。1980年代前半にはミュージシャンとして更に大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、1982年の年間チャートでも6位を記録、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞した。

以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期[注 4]を振り返り、「御乱心の時代」と称している。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当した[注 5]。

「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三との出会いによって収まることとなる。中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。

1990年代

1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、中島みゆきも例に漏れず、ドラマ『親愛なる者へ』の主題歌「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。いずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーである。この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、1980年代後半よりも安定した成績を収めた。『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新した[注 6]。

1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成され、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。

1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。この審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきだけである。

2000年代以降 -

2000年には25年にわたって在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社・ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。以降現在に至るまでヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。主に中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週にわたってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。

発売当初は全くと言っていいほど話題にならなかったが、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。このアルバムを発売するにあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレームがつき[注 7]、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出演。『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。このときに初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。

2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演。歌詞以外はほとんど声を発することなく、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。

1990年代前半から本格的に行うようになった海外でのレコーディングは2000年代からは主流となり、近年では、アレンジ等にベックの父親として知られるデヴィッド・キャンベルや、ヴィニー・カリウタ、ニール・スチューベンハウス、マイケル・トンプソンなどといった有名スタジオ・ミュージシャンを迎えて毎年アルバムを制作するのが恒例となっている。

1998年に一旦休止した「夜会」は2000年から再び不定期で行われるようになり、2006年の「Vol.14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのシアターコクーンではなく青山劇場で、大阪では初めてシアターBRAVA!において上演された。

2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。シンガーソングライターとしては初の受賞者。

同年には、TOKIOに提供した「宙船 (そらふね)」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。

2007年8月から新たに設立されたヤマハミュージックアーティスト(現・ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)がマネジメントを行う。秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章。中島は受章に際して、

「 思いがけずうれしいことの表現に『棚からボタ餅』と申しますが、今の私の気持ちは『棚から本マグロ』くらいの驚きでございます。ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました。 」

とコメントした。

2010年10月から2011年1月まで3年ぶりの全国ツアー「中島みゆきTOUR2010」が27公演9会場で行われた。このツアーから各公演の様子を伝えるTwitterを開始した[注 8]。

2012年10月から2013年2月まで全国ツアー「中島みゆき縁会2012〜3」が27公演12会場で行われた。また、2013年11月から12月まで「夜会工場」と称するガラコンサートを開催した。

2014年9月よりNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌として「麦の唄」が使用され、同年12月31日の第65回NHK紅白歌合戦にも出場し、同曲を歌った。中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となった。

歌詞
中島みゆきの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多い。非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取ることができる。普遍的なテーマを歌詞にしていることも非常に多い。例えば、1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』収録曲の「永久欠番」。この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」ということをテーマにした曲で、東京書籍発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されている。対照的に、工藤静香に提供した「MUGO・ん…色っぽい」や西田ひかるに提供した「きっと愛がある」のように軽いノリの詞も存在する。ただし、この2曲に関しては、いずれもCMのキャッチコピー[注 9]にひっかける方が望ましいと中島が指示を受けていた経緯がある。大学の卒業論文では谷川俊太郎を論じており[3]、現代詩からの影響が濃い。また、中島みゆき自身の歌詞が現代詩の一つとして扱われ名詩選に収録されていることもある[4]。歌唱法基本的に、深いブレスと力強い声質を生かして朗々と歌い上げる。曲によって、また曲の中でも情景や詞が含む感情によって、いくつもの声色を使い分けている。例として、「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」の歌いまわしの違いが挙げられる。同じアルバムの中でももっと声質の大きく異なる曲が収録されることも多い。歌っているときの声と普段の喋り声とのギャップも著しい。転調が得意であるため、転調する曲が多い[5]。例として、「浅い眠り」と「空と君のあいだに」が挙げられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D


NAKAJIMA MIYUKI OFFICIAL SITE
https://www.miyuki.jp/

「中島みゆき研究所」
http://miyuki-lab.jp/
 
5:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:34:05

特段の欝状態で、生きるか死ぬかのときに、女性で誰を聴くかといえば、それは、あなた、中島みゆきでしょ@@

アルバムでは『愛していると云ってくれ』が好きだが、当時はドロドロの愛憎歌が多く、彼女のファンだった女の子が、毎日聴いてると暗くなるから、、と言っていた^^

彼女の詩質へのこだわりは谷川俊太郎との出会いが決定的だとよく言われるが、そのとおりでしょう。

アルバムのなかに「世情」というのがある。

***********************************

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

*************************************

この歌は難解であるとか、反体制・不条理とか、いろいろ枕詞が並んでいるがそんなことはない。

句読点を仮に入れればこうなる。

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
1 変わらない夢を 流れに求めて、
時の流れを止めて 2 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

対立の構図が明確だ。
前者の夢を後者の体制は卑下したように眺めいる、ここでの夢は永遠性をもった聖。
これは自然な解釈だ。

しかし、この歌を聴いていると、隠された聴きづらさが伴う。
1 と 2 は同じ夢なのか?
そう思うリスナーも出てくるのだ。

前者は無産共産主義の夢で、後者の夢 2 は現世で確立された利益、なのかもしれない。

そうなると、それぞれが自分に都合のいい夢を求めているという、むしろ、染み入ってくるような解釈になる。

そして、面白いのは「流れに求めて」という反権力志向的なデモスタイル。
当時の学生運動の根底にあったのは「暴力の肯定」であり、建前は鉄と血の意志だったはずだ。
決して流れに身を委ねたわけじゃ、あるめー

歌詞というのは、かように、面白いものなんです。
1978年当時、ベトナム戦争はすでに終結し、若者は長髪を切って社会人になった。

自由主義思想と共産主義思想のハザマを勘違いした自称共産主義者が、愚かな行動を続けていたが、多くの若者はさっさと現実に戻っていた。

この歌は、変革への情念が冷えつつあったときに、(価値観がゆっくり壊れだした)絶対と相対の相克感を歌っているような気がする。

そして、深い現実に対してなにもなしえない、知識人へのサヨナラ。
いまの民進党はそのころの残党が多いので、未来を見据えていた歌ともいえる。
しかし、それはいまだから語れる詩篇に対する評論であって、中島みゆきは、単に学生運動の敗残者に対して歌ったのかもしれない。

ここまでアタシが話を引っ張ったのは、坂本龍一がこのアルバムに参加しているからです。

坂本は高校の後輩で同じ社研にいたが、早くから吉本隆明の胡散臭さを言っていました。

アタシと同じで、根っこはアナーキストの香りがする男だ。

彼が自在な思想観を中島みゆきに伝播した結果、色彩不透明な歌詞がうまれたともいえるし、おそらくそうだと思う。

アタシはこの曲を聴くたびに、ただ涙が流れ出してよろよろして、倒れそうになるので、あまり聴かないようにしている。。。

ちなみに中島みゆきのレコードを仕切っていたのは川上源一、ヤマハの天皇といわれた男。

中島みゆきのレコードの音質がいいのは、世界のヤマハの音響技術のおかげだ。
彼女は生涯、川上への畏敬の念を失わなかったという。
https://sniperfon.exblog.jp/25835674/

▲△▽▼

「世情」という曲と、もののあはれ 2010-08-10
https://blog.goo.ne.jp/tousui-00/e/4a7c2f53bdc9a4eb9a88fa23ee0fec36


1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


初出は、1978.04.10発売のアルバム、『愛していると言ってくれ』。

中島みゆきという人は、自分の歌詞について、解釈は聴く人によって様々だから、あえて本人からは説明しないという旨の発言をしている人であるので、歌詞も、勝手に解釈してみたいと、そう思います。

ああ、その前に、最近知ったエピソードをひとつ。
実は、このアルバム、スタジオミュージシャンだった頃の坂本龍一が参加しているのだが、彼が当時の事を書いている文があり、興味深いので、それをここに書いておきます。

彼はこんなエピソードを書いています。

「当時、僕がスタジオミュージシャンだった頃、みゆきさんのスタジオに行って、リハーサルなんかやるんですが、彼女は最初の頃、今度のアルバムのこの曲はね、って言って、まず自分でギター弾いて教えてくれるんですよね、で、ある時、聴いてたら、どこかで誰かがすすり泣く声が聞こえるんで、あれ?と思って、キョロキョロしてると、みゆきさんがギター弾きながら泣いてるんだよね、驚きましたよ。だから、彼女は、最初の頃はさ、売れるとか売れないとか、まったく考えずに、ピュアーに、音楽そのものをやってたんだと思うんですよね。云々。」と。

坂本龍一自身が、1983年頃にそう書いているのですが、初期の頃、というと、このアルバムが出たのが1978年だし、彼自身も参加しているLPな訳だから、当然、すすり泣いていた頃、のみゆきさん自身のどんぴしゃの時期に当たる。

坂本龍一は、「最初の頃」には、と書いていて、その後、すすり泣く事なく、ピュアーな領域からエンタテイメントの領域へと彼女が移っていった時期がある、と、論じていく訳ですが、この辺は、僕自身とは多少考え方が異なる所があります。尤も、坂本龍一自身、そのように変わっていった事を批判しているのではなく、個人的なピュアーな所からエンタテイメントの領域へと移る際に、落ちていく人と残っていく人が分かれるが、中島は残った人で、その移り変わりの際に、彼自身の用語でいうと、サーカスのような事が行われた、と、書く訳です、が、その辺は、僕にはよく理解できませんでした。

歌の解釈に入る前に、もう少しだけ、このアルバムや曲が成立した背景を探ってみたいと思います。

以下は、

「中島みゆき研究所」
http://miyuki-lab.jp/

のこの曲のコメントを丸引きです。

「中島みゆきの通算4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』のラストに収録されている名曲。1981年3月20日放送のTBSテレビ系ドラマ「3年B組金八先生(第2シリーズ)」で中学生たちが警察に連行されるTVドラマ史に残る名場面で挿入歌として使われ話題となる。この曲を起用した演出の生野慈朗氏は1960年代の学生運動を描いたアメリカ映画「いちご白書」の主題歌、バフィー・セントメリーの「サークル・ゲーム」をイメージしたという。」

余談が続きますが、このバフィー・セントメリーの「サークル・ゲーム」と「世情」の曲調自体は、実際聞いてみればわかると思うが、全く違うと言ってもいいと思いますが、そこは、アーティスティックな演出の秘儀とでも言う他無く、それはそれで想像出来ます。唯、いちご白書という記念碑的な映画との連想は、全く同感で、この曲は、明らかに、学生運動を題材として作られた曲であると、二十歳の頃、この曲を始めて聴いた瞬間から、そう思っています。

この「世情」から10年後、みゆきさんは、「ローリング」という曲を作っていますが、その二番の歌詞が、私が思うに、将に「世情」と同じ題材、つまり、学生運動を想定していると思われ、その歌詞はまた、「世情」の歌詞を読み解く上での傍証ともなると思われますので、ここでその部分だけ、紹介しておきます。


ローリング
https://pv755.com/roringu

中島みゆき ローリング 歌詞
https://t.co/4M4HzS0l4W


「黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
 足並揃えた幻たちの場面
 それを宝にするには あまり遅く生まれて
 夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた」

と、いうものです。

ずいぶんな皮肉というか、痛烈な批判精神というか、・・・僕はこういう中島の側面も大好きな者の一人なのですが、この歌詞に、「足並揃えた幻たちの場面」とありますが、それは将に、「世情」の中で歌われる、「シュプレヒコールの波」と二重写しに見えます。

と、いうことで、前置きはここでやめて、「世情」の歌詞の、超個人解釈を以下に書かせて頂きたいと思います。

とても難しいですね、解釈が。二義性というか、どちらとも取れる言葉の連なりが横たわっています。

まず、一番から。

  世の中はいつも 変わっているから
   頑固者だけが 悲しい思いをする

ここでいう、「変わっているから」といのは、「変わり者」の変わっている、という意味ではなく、変化し続けているから、という意味ですよね。
だから、「頑固者だけが 悲しい思いをする 」。頑固者、って、誰のことでしょうか。変わり続ける世の中にあって、変わってはいけないもの、それを、誰がなんと言おうが、信じ続け、持ち続けている者、という意味でしょう。そういう人は、いつも、悲しい思いをする、という訳です。


  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

これは、「変わり続ける世の中」が、「変わらないものを」何かしらの標語に巧み、呼んで、呼ばわる度に、自分自身が崩れ(変わり、変貌し)ては、崩れ壊れ変節したのは、お前、頑固者の、そいつのせいにする、という意味で、歌われていると思います。

ファーストアルバム「あぶな坂」の一番の歌詞をここで思い出してもいい訳です。(橋を壊したお前のせいだと、口を揃えてなじるけど」と、ありますよね。)

「そいつのせい」にされた、この私、頑固者こそ、可愛そうだと思いませんか ?

1978年というと、みゆきが、26歳の時、です。26歳にして、この洞察は、驚くべき事ですね。音楽家の洞察ではなく、むしろ、文学者の洞察だと思います。

そして、曲はサビの部分に入っていきます。


  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


うむ、これも難しい。両義的であり、軽々しく判断する事を拒む表現ですね。
まず、肯定か否定か、という判断はお預けにして、辿ると、これは、何を言っているかというと、変わり続け、変貌し続け、ある意味で変節し続ける、臆病でズルイ、人間たち、当然、この自分もその中に入っているのであろう、頼りない、情けない、爪も牙もない獣のような者達が、その「変わり続け変節し続ける流れこそが、変わらない夢なんだと、自ら、集団的に信じ込み続けながら、あの悲しい無口な頑固者をやっつけようと、戦うために、足並み揃えて、シュプレヒコールを繰り返し、見よ、今もまた、通り過ぎていく」と、歌っているのです・・・、きっと。

いやぁ、・・・すごいもんだ、おおげさに聞こえるかもしれませんが、これはもはや、予言的な洞察力と、表現力です。

さて、二番は、一番の展開部という事になります。


  世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる
  

この二連のフレーズは、ほぼそのまま言葉通りですね。説明はいらないと思います。

注目すべきは、臆病者の猫がつく嘘、を、「包帯のような嘘」と、言っていることです。
本当は、傷つき、痛みを感じつつ、その嘘は付かれているのかもしれない、という、彼女のやさしい眼差しがある。
このモチーフは、「あぶな坂」にも息づいています。

唯、歌詞の解釈からちょっと離れて、二十歳の頃、この曲を初めて聴いた時に感じた事なのですが、この、「世の中はとても 臆病な猫だから」という冒頭の、臆病な猫、という直喩が、ちょっとわざとらしいというか、ださい、と感じました。

しかし、今はちょっと違って、・・・彼女は或る一定の語句を繰り返し、何かしらの詩的イメージとして、異なった場面で繰り返し用いる所があって、「猫」、は、他の曲でも使われていて、その類推をすると、改めて納得性のあるものとなって、現れてくる、という事を、リスナーである僕は度々経験しました。

一見、奇妙な風にも感じられる場合がある直喩には、揺らがない、彼女自身の底意が息をしている。

それをここで少し言うと、「猫」は、まず、「やまねこ」という曲で全面的に表現されていますが、一番の冒頭に、

  女に生まれて喜んでくれたのは
   菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
   嵐あけの如月壁の割れた産室
  生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった


と、あります。これは、第二の性としての女性が置かれた場所、を言っているのですが、底にあるのは、共苦の感情、だと思う。少しオーバーな表現で言えば、受難。パトス的で、非戦闘的な、本質的な意味での女性性・・・。

また、「あした」という曲のサビでは、


  もしも明日 私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たない やせた猫になっても
  もしも明日 あなたのため何の得もなくても
  言えるならその時 愛を聞かせて


と、ある。

「ただの心しか持たない やせた猫になっても」・・・言えるならその時、愛を聞かせて、・・・これはもう、極北の言葉だ、と言っていいと思います。

 因みに、が、多くて申し訳ないのですが、・・・因みに、「世情」から20年後、「瞬きもせずに」という曲の中では、女性・女を暗示する「猫」は、より一層進化し普遍化して、「獣」という表現を得ます。歌詞としては、こうです。

ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ痛むための涙だけを持って生まれた
 裸すぎる獣たちだ

「やまねこ」は「世情」の8年後に発表された曲ですが、その中では、この山猫は、

  傷つけるための爪だけが
  抜けない棘のように光る
  天(そら)からもらった贈り物が
  この爪だけなんて この爪だけなんて

と、嘆きながら、怒りながら、女性という同じ性を持つ者としての共苦として歌われていますが、更にその12年後には、猫は「獣」となり、女性をも男性をも含む「人」の比喩として登場し、上のように歌われるに至っている、という事です。


さて、話を元に戻して、2番の歌詞の続きをやりましょう。


続きと言っても、あとは、

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

が、3回繰り返しとなるだけで、言葉としての展開はありません。しかし、歌い方、の展開があり、最後の「戦うため」の絶唱には、その声自体に、言葉を超えた、或いは、言葉の基底部にある、意味がある、とも言えるもので、将に、この解釈自体が、一番難しいと感じます。

例えば、或る人と直接話していて、非常に重要な場面では、言葉だけではなく、いや、むしろ、言葉ではなく、相手の声の感じとか、目の表情とか、微妙な息遣いなどをじっと聴き取り、見入り、その底にある本当の意味、を、探ろうとする事がありますが、中島みゆきの歌には、この「世情」だけではなく、リスナーをして、自然に、必然的に、そういう場面まで引きずり込むという、著しい特徴があると思います。

この「世情」の、最後の「戦うため」という歌唱には、遥か遠い、雷、・・・遠雷の遥かな轟きのような感があります。

曲の一番最後の声を長く伸ばすことで、言葉以上のことばを訴える例として、「泣かないでアマテラス」の最後、それから、「思い出だけではつらすぎる」のラストにも、同じような、非常に深い感情を喚起させる、いわば、卓越した歌唱の力が、彼女にはあって、中島みゆきを聴く事は、これを聴くかどうかで、彼女の歌自体の意味が著しく異なる、と言えるような気がします。

だから、「世情」の歌詞の解釈は、ラストの、この「戦うため」という、声の姿をどう感じるか、という所に帰す。

これは、聞き手の責任という事になります。一般的な解は無い、という事にもなるのだと思います。彼女自身も、そのような意味の事を言っている。

僕自身の聴き方、としては、こうです。
これは、先にも言ったように、肯定か否定か、という事ではなくて、まぁ、いわば、許容量の問題というか、彼女自身は、頑固者も、シュプレヒコールを繰り返して歩き流れていく者たちも、同じように悲しい、と言いたいのではないでしょうか。

無論、本人にたとえ会えたとしても、そして、訊ねてみたとしても、けして答えはしないでしょうが。ならば、聴いた私自身が、どう感じたかを、告白するほかない訳で、それを自分の言葉で言うと、こうなります。

「世の中」や「世間」と、「世情」とは、質の異なる、次元の違うものとして、捉えなければなりません。
だから、臆病な猫(世の中)がつく嘘も、その「包帯のような」嘘を見破って「世間」を見破ったと、その気になってはしゃいでいる学者も、もっと大きな、宿命的なと言ってもいい「世情」の湛える澄み切った底なしの悲しみのなかにある、という、存在的な認識が、ここで、歌として、その声として、露わになっている、と受け取るべきでしょう。

この認識に最も近いことばは、僕は繰り返し考えた末、やはりこう言わざるを得ないのだが、それは、宣長などのいう、「もののあわれ」という事です。

すると中島みゆきは、信じがたい事に、表現者として、同時代の誰彼ではなく、(笑わないで欲しいのだが)、紫式部と同じような地平・・・というか、式部が立っていたであろう大地と同じ大地に彼女は立っていて、そこから、彼女は歌、というものを育み生み出している、と言う他無いと、思うのです。

そのような傍証はいくつかある。まずひとつは、彼女自身、もともと国文出身だったという事と、また、夜会では、古事記からの取材で訳本も書いているという事などもある。

宣長の「古事記伝」はつとに有名だが、彼はまた、「紫文要領」や「いそのかみの私淑言」という、源氏論も書いている。頭のいい、国文を専攻した彼女が、学生時代から、これらのいわば基本書を読まなかったとは想像し難い。

更に想像を廻らせれば、小林秀雄が大著、「本居宣長」を「新潮」に連載していたのが、1966年から1977年まで。みゆきさんが、12歳から23歳までで、最後の方は彼女の学生時代と重なるし、1978年には出版もされ、それによって日本文学大賞も受賞している。新潮社から複数の著作も出している中島みゆきさんでもあるし、もともと、作家的な才能も豊かな人だから、氏の「本居宣長」も、もしかしたら新潮連載時から読んでいた可能性も、僕はあると想像している。

氏の「本居宣長」では、式部の源氏から宣長がどのようなものを汲み取ったかという、真率で丁寧な、ものあはれ論も展開されている。

変な言い方だが、中島みゆきを、単なる「はやり歌歌い」としてだけで見ていると、どこか頓珍漢な評価に陥る危険があると、僕は思っている。いずれにしても、彼女の表現の世界は、その根は、わが国の文化の、非常に深い所から自生していることは確かだと思われる。

無論、「世情」の最後の絶唱から、直接紫式部を連想する、という事ではないのだが、あの声の響きと揺れが告げるものは、この世界に生きる私たち人間の、宿命的で根源的な、哀しみ、どうしようもないあわれさへの、彼女自身の魂の涙なのだ、・・・そう、この歌を受け取ります。

冒頭に、坂本龍一のエピソードを紹介した。

ギターを弾きながら、すすり泣いていた曲は、何だったのだろう。
それは、同じアルバムのなかの「海鳴り」でも、この「世情」であっても、一向に構わない、と、・・・僕は一人で想像している。
  




「宙船」

その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか
流されまいと逆らいながら
船は挑み 船は傷み
すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


その船は自らを宙船(そらふね)と 忘れているのか
その船は舞い上がるその時を 忘れているのか
地平の果て 水平の果て
そこが船の離陸地点
すべての港が灯りを消して黙り込んでも
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
https://blog.goo.ne.jp/tousui-00/e/4a7c2f53bdc9a4eb9a88fa23ee0fec36
6:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:34:52



2017.11.06
中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。
○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!
https://otokake.com/matome/T2BvU3

他の誰も真似できない歌声と楽曲でたくさんの人を魅了し続ける中島みゆき。中でも『世情』は「3年B組金八先生」の名シーンで流れたことから一躍有名になった曲です。でもその歌詞はかなり難解との噂。曲が作られた時代背景と共に歌詞の意味を深掘りしてみました。

ジークレー 珊瑚色


中島みゆきってどんな人?

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


祖父は市議会議員、父は中島産婦人科の院長というエリート一家に育った中島みゆきは、大学時代に音楽活動を本格的に開始します。

そして1975年、ヤマハのコンテストで入賞したことをきっかけに『アザミ嬢のララバイ』でデビューを果たしました。

同じ年に開催された世界歌謡祭では『時代』を歌ってグランプリを受賞。翌年にはファーストアルバム『私の声が聞こえますか』をリリースしています。

その後は70万枚のセールスを記録した『わかれうた』、研ナオコが歌ってレコード大賞金賞を受賞した『かもめはかもめ』などのヒット曲を量産し、シンガーソングライターとしての地位を確かなものにしました。

ラジオパーソナリティとしても人気に


1979年には「中島みゆきのオールナイトニッポン」が開始され、その語り口が大人気に。

歌から受けるイメージとは正反対の軽く明るい話し方に多くの人が魅了されることとなります。

歌手への楽曲提供がすごい!

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


そして自分で歌う以外にも、歌手へ楽曲を提供していることでも有名です。数え上げたらきりがないので、代表的なものをピックアップしました。

「この曲、中島みゆきが作ったんだ!」と驚くかもしれません。

•工藤静香『FU-JI-TU』
• 〃  『MUGO・ん…色っぽい』
• 〃  『群衆』
• 〃  『黄砂に吹かれて』
• 〃  『私について』
• 〃  『慟哭』
•柴崎コウ『思い出だけではつらすぎる』
•TOKIO『宙船』
•中島美嘉『愛詞(あいことば)』
•ももいろクローバーZ『泣いてもいいんだよ』
•平原綾香『アリア-Air-』
•研ナオコ『かもめはかもめ』
•柏原芳恵『春なのに』
•薬師丸ひろ子『未完成』

『世情』の時代背景って?


ではさっそく、難解だと言われている『世情』の歌詞を紐解いてみましょう。

でもその前に、この曲が作られた時代背景を知る必要があります。

安保闘争が背景に

『世情』が発売されたのは1978年。4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』の収録曲でした。

今の若者世代にはピンとこないでしょうが、1960~70年代にかけて、日本では大規模な反政府運動が起こっていました。

日米安全保障条約の改定に反対し、国会議員のみならず労働者や学生までも参加してあちこちでデモが行われました。

中心となったのは大学生で、勉強どころではなく学内は争いの場に。

東京大学の安田講堂を占拠して機動隊が突入した「東大安田講堂事件」に代表されるように、火炎瓶や投石が飛び交う激しい争いが繰り広げられていました。

中島みゆきが大学生だったのはちょうどこの時代。

先輩たちがシュプレヒコールをあげてデモをする様子を日常的に見ていたそうです。

そして、その様子を見た時の想いを歌にしたのがこの『世情』だと言われているのです。

歌詞の解釈に挑戦!

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像

世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする

変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を流れに求めて

時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため

出典: 世情/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


<世の中は変わり続けるものだから、

 変わらないことを大切にする人は頑固者とけなされて、

 悲しい思いをしてしまう。

 頑固者は悪のように例えられて、

 何かがうまくいかないといつも

 「お前のせいだ」と言われてしまう。

 シュプレヒコールをあげてデモをする人々は、

 変わらないことで得られる夢を求めている。

 時の流れを止めて同じように

 変わらない夢を見たがっている者たちと戦うために。>

安保闘争のむなしさを表現している?
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続き
https://otokake.com/matome/T2BvU3?page=2


「頑固者=安保改定という変化に反対する学生たち」とするとこんな風に解釈できます。

<学生たちは変わらないことで

 未来の夢を手に入れようとしている。

 一方政府は、安保改定の調印をして

 未来の夢を手に入れようとしている。

 時を止めて、今の平和がこれからも

 永遠に続くことを確定させるために。

 だとしたら、学生も政府も同じ夢を見て、

 同じように時の流れを

 止めようとしているのではないか。>

こう読みとってみると、平和と幸福を求める気持ちは同じなのに、激しく争う安保闘争のむなしさを表現している歌詞だと感じることができます。

俯瞰する中島みゆき

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像

世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつも ついている

包帯のような 嘘を 見破ることで
学者は 世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて

時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

出典: 世情/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


<世の中はとても臆病で、

 自分を守るために他愛のない嘘をつく。

 でもその嘘は、傷を隠して守る包帯のように

 ほどけやすいものだ。

 学者たちはその包帯を自慢げに剥ぎとって、

 「真実を見た」としたり顔をする。>

安保闘争を全てわかったような顔で説く見識者たちを皮肉る表現ですね。

こうしてみてくると、歌詞の中には「学生」と「政府」と「学者」という3つの姿が描かれていることがわかります。

そしてタイトルは『世情』です。世情とは「世間の事情」という意味を持つ言葉。

中島みゆきは安保闘争を世間という立場になって俯瞰して眺め、とてもむなしく悲しい争いだと感じた気持ちを歌ったのではないでしょうか。

金八先生の名シーンで有名に!

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『世情』が注目されたのは、1981年に放送された『3年B組金八先生』の第2シリーズ、「卒業前の暴力(2)」がきっかけでした。

“腐ったミカン”と呼ばれた加藤優が、古巣の中学校の校内暴力に巻き込まれ、結果的に放送室を占拠。

校長から謝罪の言葉を引き出したものの、通報によって駆けつけた警察に学校の中で逮捕されてしまいます。

逃げまどう加藤たち。警察には渡すまいと必死に追いかける金八。でも集まった生徒たちが邪魔になって先へ進めません。

音声はなく映像はスローモーション。そこに『世情』の泣くような叫ぶような歌声だけが流れます。

一度だけの挿入歌だったにもかかわらず、残した印象は強烈で、金八先生の最大の名シーンとともに語り継がれることになったのです。

改めて聴き入ってみよう

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


『世情』はシングルカットもされていませんが、中島みゆきの隠れた代表作とも言える1曲です。

時代背景が違うとはいえ、彼女の歌い方や歌詞は今の私たちの心のどこかにも刺さるはず。

たくさんの歌手がカバーして『糸』が広く知られるようになったように、『世情』も一度聴けば虜になってしまう名曲です。聴く人の年齢を選ばないでしょう。

ぜひ一度、じっくり聴いてみてください。
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▲△▽▼

泣きながら歌った歌。 2007/1/16
 坂本龍一が、中島みゆきのアルバム 「あ・り・が・と・う」 のスタジオミュージシャンとしてでスタジオに行った時、みゆきが 「こういう曲よ」 といって、今回の収録曲を自ら歌って紹介し始めた。 しばらくして、辺りから嗚咽が聞こえ始め 「誰か泣いているのかな?」 とキョロキョロ見回してみたら、そこに泣きながら歌っている中島みゆきがいた…。

 このことに、坂本龍一はかなり驚いたらしい。

 みゆきが泣きながら歌った歌とは?
 それはどうやら、みゆきの父の死を歌った 「まつりばやし」 だったらしい。


 「北海道の夏の終わりはもう冷たい風が吹いているんです。
 その風の中をお祭がやって来るんです。どの家も軒にも、紙で作った赤い花を飾って、お祭を待つんです。

 寒い朝でした…。…脳溢血でした。
 救急車の音の中で、何がどうなったのか、わかんないままに、三日待てって言われて、三日待っても目が覚めなかったら、もう諦めてくれって。

 着の身着のまま徹夜で一日待って、徹夜で二日待って、徹夜で三日待って。
 …お祭でした。日が暮れるまで待ったけど、目は覚めませんでした。何日もかかって準備したお祭の支度は、うちだけ無駄になりました。

 病院の外をねえ、まつりばやしが通って行くんです。綺麗で賑やかでねえ。まつりばやしを追いかけて、浴衣を着た子供が走り出すと、その子の父親が、追いかけて、走って行くんです。
 走って…行くんです」

 当時コンサートで 「まつりばやし」 を歌った時の話である。


まつりばやし
https://pv755.com/matsuri-bayashi


 まつりばやし  詞・曲:中島みゆき

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね
けれど 行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの 後ろ姿だった
もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まつりばやしは 静かに あでやかに通り過ぎる
もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづける おまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ
もう 紅い花が 揺れても
もう 紅い花が 揺れても
もう 紅い花が 揺れても
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2557151.html


▲△▽▼

坂本龍一 2007/1/14

 「坂本龍一」 といえば、アカデミー賞やグラミー賞などを受賞した世界的にも有名なアーティストであるが、スタジオミュージシャンとして活動していた時期に、中島みゆきの3rdアルバム 「あ・り・が・と・う」 の制作に参加している。

 「プロデューサーとアレンジャーとで、アルバムを練り上げていくっていう、今もとっている方法がこの頃から始まります。
 この時来たメンバーは坂本龍一さんとか、癖の強い人が多かった。スタジオが野性動物園と化した(笑)。

 坂本さんが 『今日出がけに金魚食べてきた。不味かった』 と言ったのを覚えています。それで彼、スタジオではみかんばっかり食べてなかなか弾いてくれないんです。

でも、全部食べて手もなめて、ポロッと弾いたらこれがすごくいいタイミング。

 天才はこういうものだ! と思いました」
 と、アルバム制作の時の坂本龍一のことを、みゆきはこのように語っている。

 あるインタビューに坂本龍一が当時のことを語っている。

 「…中島みゆきのアルバム 『あ・り・が・と・う』 にどういう経緯で参加したか、いまはっきり覚えてないんだけど。

 エピソードとして思い出すのは、僕たちがスタジオ・ミュージシャンとして行くと、みゆきさんが 『こういう曲よ』 って自分でギター弾いて聞かせるんですが、そのうち、しばらくして嗚咽が聞こえてくるんです。

 誰か泣いているのかなと思ってキョロキョロしていたら、みゆきさんが歌いながら泣いているわけね。それで、ちょっと、びっくりしたんです。オソロシかったですね。 

 当時は、居直りとかなくて、つまり、あまり衆人環視されていなかったわけです。レコード売上枚数とかにかかわりなく、存在として、ピュアな真剣さだけでやれたと思うんです。

 しかし、それが時間を経て、気持ちの上でも断層というか、切断が現れて、自分に対して客観視せざるを得なくなった時期があったはずなんで、そこでエンターテイメントとして落ちる人と浮上する人とが別れるという気がします。

 僕がスタジオ・ミュージシャンとしてやっていた時のみゆきさんは、純粋なシンガー・ソングライターだったと思いますね。そのままではエンターテイメントになれないという意味でね」

 
坂本龍一プロフィール

52年東京生まれ。
東京芸術大学大学院卒。

スタジオミュージシャンとしての数々の活動を経て、'78年アルバム「千のナイフ」でデビュー、同時に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に参加、その世界的な成功により80年代テクノポップ・ブームの立役者として名を知らしめる。

'84年映画「戦場のメリークリスマス」('82年公開)の音楽を担当し、英国アカデミー賞音楽賞を受賞。'83年にYMOを散会した後、映画「ラスト・エンペラー」('87年公開)の音楽を担当、'88年にアカデミー賞作曲賞他多数受賞、続く'89年グラミー賞映画・テレビ音楽賞を受賞。その後も世界的に幅広く活動中。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2491529.html?type=folderlist

▲△▽▼

女なんてものに 2007/1/17

 当時の彼女は、このようなことを語ったことがあるそうである。

 「私の歌を聴いて、どこかにひとりドキッとする人がいるはずなのよ」


その歌の一つが、このアルバム 「あ・り・が・と・う」 に収録されているらしい。

 それは本人が語ったわけではないが、巷で言われていることである。
 その曲とは 「女なんてものに」 である。

 アルバム発売前の1年くらい前に、彼女は作家の故・吉行淳之介氏と 「プラトニック・ラブ」 について対談をしている。

 その中で彼女は実に面白いことを言っている。

 「私は欲ばりですから、たぶん、肉体的な愛を待ち構えている時期をプラトニック・ラブというんじゃないかと…きっとそうなるだろうけど、待て待てしかし…と言ってる間がプラトニック。
 たとえばネコがネズミに飛びかかる前に、身を低くしてねらっている、そのときがそう」

 しかし、気になるのは次の対談部分である。

中島:「私、いつもわからなくなるのは、男性が女性を本当に好きだからふれないでおこうというのと、本当に好きならふれないではいられないというのと、どっちが本当だろうということなんです」

吉行:「後のほうが本当でしょうね。好きだから手もふれないというのはスリカエているわけなんだ。十代の終わりごろの男のセリフでね。それは女、並びに性行為がこわいんですよ。
 だが、男はこわいと言えないから、そういうロジックを立てる場合が多いね。
 はじめて自分の武器を使う場合に醜態を演じるんじゃないかというおそれがあるから、それを精神的なものにすりかえて自己を正当化するわけでしょう」

中島:「でもプラトニックでいるほうが恋愛が長続きするようね」

吉行:「恋愛とは、その構造基盤からいっても 『情熱』 でしょう。すると持続できないような構造ですよね。

 もう何十年も前に岡本かの子がすでに書いているが、愛を長続きさせるには、技巧を用いて努力する必要がある…。つまり 『愛』 の要素には 『努力』 がいるが、 『恋』 のほうはただやたらに燃えるわけです。

 しかしここでは愛については一応切り捨てて考えないと話がやっかいになるからね。だが、やむを得ない障害によって、プラトニックであらざるを得ないなら、長続きする、とは言えますね」

中島:「ああ、つまり障害もないのに、ふれないでもすむようなのは、大した恋じゃない」

吉行:「ええ。しかしぼくは疑っているんだが、女の人って恋愛感情を持てるのかな。
 本当に、持ってるの?」

中島:「は? まア (笑)」

吉行:「一生の計算で言ってるんじゃないのかな。努力して一流商社勤めの男性を獲得したいのを、自己暗示にかけてほれほれしたって言ってるのかもしれない。あのハンドバッグがほしいと思うような情熱を、恋愛の情熱と錯覚してるんだ。

 もっと言えば、女の人には観念的、抽象的な能力が、あまりない。恋愛感情というのは、かなり抽象的なものだよね。その能力がないものが、抽象的なものに支えられていることができるかという疑いを持っているんだ、ぼくは」

中島:「そうかなア」


 みゆきは 「女の人って…」 と言われたことに深く傷ついたのかもしれない。その思いが 「女なんてものに」 の中で歌われている。


女なんてものに
https://pv755.com/onna-nante-mono-ni

 女なんてものに  詞・曲:中島みゆき

女なんてものに 本当の心はないと
そんなふうに言うようになった
あなたが哀しい
女なんてものは 心にもないことを
平気で言うと人を諭してる
あなたが哀しい
笑ってごらん なんて なぐさめを
あたし これから 信じないわ
泣いても どうにも ならないけれど
笑っても あなたは 帰らないじゃないの

女なんてものは 愛などほしがらないと
笑いながら 言うようになった
あなたが哀しい
女なんて奴の 涙は 売り物だと
泣いてる人を指さして言う
あなたが哀しい
忘れていれば なんて 言い方を
あたし これから 信じないわ
呼んでも どうにも ならないけれど
忘れても あなたは 帰らないじゃないの

笑ってごらん なんて なぐさめを
あたし これから 信じないわ
泣いても どうにも ならないけれど
笑っても あなたは
忘れても あなたは 帰らないじゃないの


吉行淳之介 (よしゆき じゅんのすけ) 

1924年~1994年 
東京大学英文科中退。

'54年 「驟雨」 で第三十一回芥川賞を受賞。
その後、 「砂の上の植物群」 「暗室」 などの本格的な長編や、軽妙なエッセイなどを多数発表している。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2637971.html

7:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:36:07


あ・り・が・と・う

 1977年6月25日、3rdアルバム 「あ・り・が・と・う」 をリリース。
 
 前作の2作の編曲が、当時ヤマハ所属の 「エジソンと発明王」 というグループに委ねられていたため、サウンド的にどちらかというとフォーク的な色が強かったような気がする。

 しかし 「あ・り・が・と・う」 では、スタジオミュージシャンが変わり、サウンド面でも前作とは全く違う洋楽的要素が組み込まれ、奥行きが深くなったように感じる。

 また、歌詞も、一曲一曲の中に登場する主人公たちの姿や心情が具体化され、情景が目に浮かんでくるぐらいその表現は研ぎ澄まされ始めたようである。

① 遍路
https://pv755.com/henro

② 店の名はライフ

③ まつりばやし
https://pv755.com/matsuri-bayashi

④ 女なんてものに
https://pv755.com/onna-nante-mono-ni

⑤ 朝焼け

⑥ ホームにて
https://pv755.com/homu-nite

⑦ 勝手にしやがれ

⑧ サーチライト

⑨ 時は流れて
https://pv755.com/tokihanagarete

主人公の恋愛遍歴を遍路巡礼に例えた①。
 
みゆきが札幌の女子大生の頃に、実際に行きつけだった店のことを歌った②。
 
みゆきの父が倒れてから亡くなることを歌った③。
 
ある作家との対談の時に言われた言葉で作ったと言われる④。
 
思いを寄せる人が違う女の元へ去り、ひとり眠れぬ夜を過ごす⑤。
 
地方から都会へ出て来た者たちの郷愁の思いを歌った⑥。

 
などなど、このアルバムには中島みゆきの実体験的な歌も収められている。

 そして、単調なワルツのリズムで始まるが、徐々にみゆきの押さえ切れない感情が涙声に変わり、次第に壮大になっていくラストの⑨は、感動的で胸を打つ。

 このアルバムのライナーノーツには下記のようなことが書かれている。

 「いつだって 物語のようになんか いかなかった。
  別れは みっともなかったし
  愛は お笑い沙汰だった。
  言えばよかった筈でも とても
  ありがとう なんて 言えなかった。
  言えばよかったこと そして 言わなければよかったこと…
  いつだって 物語のようになんか いかなかった。
  だから 今夜。」

 恋破れ人と別れ、その哀しみも癒えた頃、ふと思い出を振り返った時にこのような素直な気持ちになれるのだと思う。

 このアルバムに収められている曲の主人公たちが、歌の中では哀しみにいたとしても、 「ありがとう…」 と言える時がいつか来る…。それがこのアルバムのテーマなのだろう。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2240109.html
8:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:36:46



中島みゆきの父・中島真一郎氏は産婦人科の開業医である。彼女は常に生命の誕生を肌身に感じていたのではないだろうか。

 真一郎氏はどうやら 「赤ヒゲ」 的な開業医だったらしく 「医者にもピンからキリまでありまして、ウチの場合はキリでした。家には10万円のお金もなかったのよ」 と彼女はある雑誌の対談の中で話している。

 その中で父親のことを次のように語っている。

 「人間としてやっちゃいけないことは、殴ってでも許さなかったですネ。私が音楽やること、やれとは言わなかったけれど、反対はしませんでした。世間に対しては、まるで不器用な処し方しかできない人でしたネ。そう、生きること自体が下手だったんです。」 

「頑固で融通が利かなかったンですねぇ。私と同じで愛想も悪くて」

 そんな父に対して世間が何と言おうと、彼女は自分自身を「ファザコン」と自称するほど父を尊敬している。

 一人静かに焼き鳥屋で酒を飲む父親の相手をしてあげていたようである。

 1975年9月。彼女の元にデビュー曲 「アザミ嬢のララバイ」 のサンプルレコードが届く。

 しかし、彼女はそのレコードを直ぐには父に見せなかったようである。正式にデビュー曲が発売される9月25日に見せようと考えていた。

 そしてもう一つ考えていることがあった。それは、翌月に行われる第10回ポピュラーソングコンテストで賞を貰うことができたら、その賞金で父にはオーバーを買ってあげようということであった。間もなくやって来る北海道の厳しい冬に向けて最高のプレゼントになる筈だった。

 そんな矢先のことである。

 「九月だった。寒い朝に父が倒れたの…。脳溢血。家は小さな病院だけど、その日の診察料で食べるような生活だったの」

 救急車で運び込まれた病院で 「3日待っても目が覚めなかったら諦めてほしい」 と宣告され、着の身着のまま徹夜で3日待った。が、真一郎氏の目は覚めなかった…。

 そんな中、中島みゆきはレコードデビューをし、そして翌月10月12日に第10回ポピュラーソングコンテストを迎える。

 本選会では、予選の時の歌を歌うのが通常であるが、彼女は予選の時に歌った歌とは違う 「時代」 に急遽変更し本選会に臨んだ。


時代
https://pv755.com/jidai-pv


 彼女は父が目を覚ますことを願って 「時代」 を歌い上げたかったのだろう。

   旅を続ける 人々は
   いつか故郷に 出逢う日を
   たとえ今夜は 倒れても
   きっと信じて ドアを出る
   たとえ今日は 果てしもなく
   冷たい雨が 降っていても
 
     めぐるめぐるよ 時代は巡る
     別れと出逢いを くり返し
     今日は倒れた 旅人たちも
     生まれ変わって 歩き出すよ

 「時代」 は見事グランプリに輝き、翌月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを獲得した。

 彼女は、このことを誰よりも父に報告したかったに違いない。

 しかし、真一郎氏の目は、倒れてから一度も覚めることはなかった。愛する娘のデビューと成功を見ることもなく、翌年の1月、真一郎氏は静かに旅立って逝った。

享年51歳。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/596380.html
9:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:37:47

愛する娘のデビューと成功を見ることもなく、真一郎氏は静かに旅立って逝った。
1976年1月のことである。
 「ポピュラーソングコンテストで賞を貰うことができたら、間もなくやって来る北海道の厳しい冬に向けて、その賞金で父にはオーバーを買ってあげよう」 と考えていたその賞金は、全て父の葬儀代へと変わってしまった。

 しかし、みゆきはいつまでも父との別れを悲しんではいられなかった。
 一家の大黒柱を失った家族の生活が、一気に彼女の肩にかかってきたのである。

 彼女には3歳年下の弟が一人いる。その弟は医大生になっていた。父の志を引き継ぎ医者を目指していた彼の夢を叶えるために、彼女はプロとしてやっていく決意をしたのだと思う。

 彼女は仲間たちに 「弟が医者になるまで頑張る」 と告げ、北海道と東京を往復しながらプロとして活動を開始した。

 彼女は対談などで一度も「残された家族のためにプロになった」とは話したことはない。父の死後、家族の生活を守るのは自分しかいない。それは当然のことだと思っていたのだと思う。

 以前、某テレビ局で、熱烈なみゆきファンの著名人を集めてそれぞれがみゆきについての思いを熱く語るという企画の深夜番組をやっていた。

 その一人、登山家で医師でもある今井通子女史が 「私は医師である中島さんの弟さんを知っているのですが、彼は今でもお姉さんのみゆきさんのことを尊敬してますねぇ」と話していた。
 
 「時代」 で第6回世界歌謡祭グランプリ受賞直後のインタビューでは次のように応えている。

 「あの頃って、アマチュアでやるのにもイヤ気がさしていたし、それにもう歌う場所がなくなりかかっていて、本当に悲しかったわ。まだ他にも私と同じように自分を殺しかかっている人もたくさんいるでしょうに…。私は幸運だったんですね。」
 
 どうしてアマチュアでやっていくことにイヤ気がさしていたのか、ある対談で次のように話している。

「機材を持っているアマチュアっていないからね。それにアマチュアだけのコンサートなんてやってくれないし、アマチュアがでれて機材もあるっていったら、とりあえずコンテストぐらいしかないんだよね。学生やアマチュアが集まるのもやっていたけど、機材が全然問題にならなかったしね。PAも専門家だし、スタッフもいてくれるし、コンテストはね。」

 丁度その頃は、反戦フォークを歌う若者達が新宿西口にあふれ、それを機動隊に排除されてしまう 「新宿西口の騒ぎ」 があった頃である。

 ギターを持って歌うことが認められなくなっていった時代である。
 
 自分の心の中の叫びを歌にして伝えたい。その残された場所が 「プロでやっていく」 ということだったのかもしれない。

 彼女はプロになりたくて歌ったのではなく、歌を歌う場所を求めて、そして家族の生活を守るために 「プロ」 という道を選んだのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/662894.html
10:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:38:36

中島みゆき難解な名曲「誰のせいでもない雨が」2011-10-24
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11057745125.html


You Tube で この歌を カバーしている 人が

1番を砂川闘争 2番を学生運動 はともかく
3番を洞爺丸事故と 想定した

と 書いてあったが、突拍子も無い同じ事 想像する人 世の中に いるんですね 
驚いたよ  


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

中島みゆき 難解な名曲の1つです

みゆきさんの歌は 多くのインテリが様々な解釈をしています

しかし本人は 「ああ こういう解釈もあるのかぁ」といっさい

弁解や解説は致しません

それがまた 多くの 解釈を生むのでしょう


学生運動 左翼系の活動家の心情がテーマとして歌われている

というのが 定説になっているようです


1番の歌詞は どこか「砂川闘争」を思わせるような 感じです

2番の歌詞

「怒りもて石を握った指先は」
「眠れる赤子をあやし抱き」
「怒りもて罪を穿った唇は」
「時の褥に愛を呼ぶ」
「されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は」
「されど 私の裏切りは」

七・五調の文学的表現ですが どのフレーズも ???一見なんのこったか 

しかし 元活動家が 過去を想い 志半ばで 挫折した己の 現在の心情と見ると 

なるほどそうかな とも思えてきます

3番 最も難解な歌詞

私はなぜか 飢餓海峡の「洞爺丸事件」を想像してしまいました

 岩内で放火強盗殺人事件が起き 町は大火となります

 その日 港を出る 洞爺丸が台風で沈み 大勢の犠牲者がでます 

岩内といえば みゆきさんの 故郷ですね なにか結び付けたくなります

そして いきなり出てくる「滝川」と「後藤」とはいったい何者か


「月日すべての悲しみを癒せ  おおぅお~」

無邪気な少女が 意味も分からず 口ずさんでいるような 

たどたどしい 歌い方で歌い終えています


消し去りがたい 過去を引きずる者にとって 

最後の 「おおぅお~」 は 

胸を掻き毟られることだろう


みゆきさんは 数ある歌の引き出しの中から

敢えて意図して この歌い方をしたのだろうか
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11057745125.html



▲△▽▼


学生運動の歌をあらためて聴く 「誰のせいでもない雨が」(中島みゆき)

 今回は中島みゆきの「誰のせいでもない雨が」を、私なりに解釈していこうと思います。

 「神田川」で、いっしょに暮らしていた二人は、運動の志のせいかどうかはわかりませんが、結局は別れてしまいました。

 一方、この「誰のせいでもない雨が」は、「神田川」の主人公が恐れた、まさにその通りになった、女性活動家の歌だと思います。
 道浦母都子に、

ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく

という句があります。

 大義を掲げた運動をしていて、いくら目的に関係のないものはみんな排除しようとしても、「人間らしさ」というものは抑えきれないのでしょう。

 中島みゆきのこの歌の女性は、誰かと恋愛関係になり、子供が生まれ、結局、高邁な目標よりも平凡な日常を選んで、運動から降りてしまいます。

 学生時代、権威に反対する運動へ身を投じた人の多くは、結局は世の流れに呑み込まれ、男は平凡な勤め人に、女は平凡な母親に、恐らく彼ら・彼女らが「こうした人生には埋没したくない」と思っていたその人生に落ち着いていきました。

 自分の変わり身に何の痛みも覚えず、さっさと会社で出世している人もたくさんいますが、罪悪感のような落ち着かない気持ちを抱えて毎日を送っている人もいます。

 この歌の女性は明らかに後者であり、この歌の「雨」は彼女が感じている後ろめたさ、やり場のない気持ちの象徴です。

 黒い飛行機がそっと通るくらいですから、世界は、彼女が考えるまともな場所に、全くなってはいません。

 それでも彼女は今では、かつて投石した手で赤ん坊を抱き、罪を糾弾した唇で愛情を囁きます。

 運動から降りてしまった自分は非難されても「仕方ない」、でも、人間である以上、りんごが自分の重さで落ちていくように、今の生活を選び、落ち着いていったのもまた「仕方ない」ことだ、彼女に降るのはたぶんそんな「雨」です。

 「寒さに痛み呼ぶ片耳」とは、活動中に怪我を負った耳を指すのかもしれないし、活動家たちのメッセージを、今では全身を傾けては聞けないが、さりとて無視したくもないという落ち着かない気持ちの比喩なのかもしれません。

 その他、私の勝手な想像ですが、「港を出る前に沈んだ船」は、改革が何らかの具体的な実行段階に移される前に、頓挫させられたこと、「火を止めに来る早過ぎる伝令」とは、もうあきらめなさいと囁く、体制側の声のような気がします。
それでも船は沈みきれず、火の海で燃えます。

 運動から降りてしまった彼女は、そうした成り行きや、かつての仲間である滝川と後藤が逮捕されたという知らせをやりきれない思いで受け止めながら、時間が気持ちを鎮めてくれるのをひたすら待っている、これはそういう歌ではないかと思います。


 あらためて考えてみると、「誰のせいでもない雨」って、すごい言葉です。

 この一言で、「私にはこうするしかなかった」「どう思われようと受け入れるしかない」「世界の現状の中で暮らしていくしかない」

 「人間とは悲しいものだ」等、様々なイメージが喚起されます。

 中島みゆきは、本当に凄い歌手だと思います。
http://nekosabu.blog.fc2cn.com/blog-entry-69.html
11:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:39:32

中島みゆきさん『生きていてもいいですか』―「エレーン」と「ヘレン」
http://bund.jp/?p=14806


 初めて中島みゆきさんの「エレーン」という曲を聞いたのは高校生の頃だったでしょうか。まだネットなんて影も形もなく、音楽はレコードとカセットテープで聞いていた時代で、その手の情報は主にラジオの深夜放送という頃でした。

 一般にはそんなにヒットしたという印象はありませんが(シングルカットもされてなかったと思う)、不思議と印象に残る曲で、みゆきファンの間では最高傑作にあげる人もいる有名な歌です。私も長らく心に残る曲として覚えていましたが、ネット時代に入ってから、これが実話であることを知り、大変にショックを受けました。中島みゆきさん本人が、コンサートであかしたそうで、すでにファンの間では大変に有名な話だったそうです。

 中島さんが20代の頃、ヒット曲に恵まれて都内に拠点を設けるにあたり、「有名人の居宅」として騒がれるのを嫌って、麻生の外国人専用マンションを選んだそうです。そこに「ヘレン」と名乗る外国人娼婦が住んでいました。中島さんはヘレンと知り合い、時おりカタコトの英語で会話をかわすようになります。

彼女は髪を金髪に染め、いつも派手な化粧と、ファッション雑誌から切り抜いたような派手な衣装を着ていました。自分をモデルと自己紹介しましたが、夜になると何度か住人以外の日本人男性がやってきて、ヘレンのドアをノックし「ハウマッチ?」などというところを目撃するようになります。


 そんなある日、警察が中島さんのマンションを訪ねてきました。
ヘレンが殺されたので、住人にも聞きこみをしたいというのです。

ヘレンは顔面を潰されて絞殺された上に、****でゴミ捨て場に捨てられていたそうです。
顔が潰されているので、しばらく身元も特定できなかったとのこと。

手口と状況から見て、所持品目当ての犯行という疑いよりも、「客」がいざこざから犯行に及んだとの疑いが濃いとのことでした。


 中島さんは訪ねてきた刑事に

「だったらヘレンの客にあたって事情を聞けばいいのでは?」

と質問してみました。刑事の答えは

「それはわかっているが、誰が彼女のことを話したがりますかね?」

だったといいます。

聞き込みなんてしても、どうせ誰もヘレンのことを知っていたとさえ話したがらないだろうと、だから最初から無駄なことだと言うのです。中島さんは絶句するしかありませんでした。

 これだけ無残な大事件なのに、新聞はたった数行の扱いでした。前述のように警察の動きも鈍く、結局は犯人もわからないまま早々に迷宮入りします。

ヘレンには身内もおらず、やむなく管理人がヘレンの荷物を整理しましたが、華やかにみえた衣装は実はすべてが安いまがい物で業者も引き取らず、ゴミとして出すしかなかったそうです。

 私でさえ大きなショックを受けた話です。若き日の中島さんは、自分と同年代のこの女性の死を、どういう思いで受け止めたでしょうのでしょうか。

そしてこの歌ができました。


中島みゆき『エレーン』の歌詞
http://www.kasi-time.com/item-18203.html


 歌詞の「生きていてもいいですか」はアルバムのタイトルとなり、この歌は同アルバムの中心的な曲となっています。

 重要なことですが、中島さんは曲の中で、決してヘレンの生き方を美化も肯定もしていません、まして安易な同情を歌っているわけでもない。ただ、ヘレンを金で抱きながら、口をつぐんで悪口を流す世間への嫌悪感、そしてただ哀しみを歌っています。同情でも美化でもないこの哀しみが、この曲が心に残る所以だったのかなと思います。

 人の死は平等ではない。そのことがただ哀しい。同じように惨殺された人でも、大きく報道されて世間の同情を集め、何年でも警察が威信をかけて捜査することもあれば、同じような目にあいながら、わずか数行しか報道されず、さっさと迷宮入りあつかいされてしまう人もいる。

 刑事が訪ねてくる数日前、おそらくはヘレンが殺されるまさにその前日、中島さんがマンションのランドリーで乾燥機を回しているヘレンを見かけます。その時のヘレンはいつもとは違い、濃い化粧が抜け落ちていて、珍しく沈んでいるようにみえました。「これが私の普通の顔よ」と言って恥ずかしそうに笑って振り向いたヘレンの素顔は、普段よりもふけてみえたが、一番きれいだったと中島さんは語っています。

 学生時代に調べた正当防衛の判例で、ホテルの密室に呼びだされた娼婦が、客の男性から酷い「SMプレイ」を強要され、殺されるかもしれないという恐怖に逃げ回っているうちに、あやまって男性を突き飛ばして死亡させたという事例がありました。この事例では弁護士の努力にもかかわらず、正当防衛が認められずに実刑となり、女性は刑務所にいきました。理由は女性は娼婦なのだから、男性の要求をある程度は受け入れるのが当然だからということでした。

 同時に調べた別の事例では、空き巣にはいった泥棒に遭遇した男性が、逃げる空き巣を家の外まで追いかけて、そのままバッドで殴り殺したという事例がありました。この場合は正当防衛が認められ、男性は無罪になります。男性の「自身ではなく家族を守るためにやった」という証言が決め手になったそうです。

 人の死のあとに残るのはその人の生き様だけです。それに安易な肯定も同情も美化もしません。ただ、あとから作られた社会の価値観によって、自分だけは手を汚していないような顔をしながら、人の死に優劣をつけて分類していく、そんな世間の仕組みを見ながら、それがとても哀しい。

 そういう、人ならば当然に感じる人間らしい感性を「中二病」などと切り捨てたり、そんな人間らしい感性を失っていくことが大人になることだとか、それをなくすことが求められるような社会が哀しい。だからどうだとか言う前にただ哀しいのです。

 せめて、中島さんの歌を通じて、ヘレンという女性がいたことをいつまでも覚えていたいと思います。「エレーン」は今日も私たちの食卓を窓から眺めていると思うから。

 私は(そしてわりと多くの人もそうだと思うのですが)この話を聞いて、聖書で一般に「姦通の女」と呼ばれている話を思いだしました。中島さんの通っていた藤女子大学は北海道で唯一のカトリック系の女子大だったそうです。中島さんも、おそらく刑事の話を聞いた時、この話を思い浮かべたのではないかと思います。


 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、 御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。
 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」
 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
 「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
(ヨハネによる福音書、第8章の1~11節)

http://bund.jp/?p=14806
12:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:40:25

学生運動の歌をあらためて聴く(1) ローリング(中島みゆき)
 この間あることで「ブサヨク」と決めつけられたのですが、これをきっかけに、ふと、学生運動に関する歌をまとめて聴いてみたくなりました。

 私と同い年の音楽仲間Kさんは、大学に入ったら必ず学生運動に参加しようと思っていたとよくライブで話していますが、 私たちが大学に入る頃には、もう学生運動は終っていて、大学側と学生が対立するようなことなどなく、学内はいたって平穏でした。

 私が通っていた大学は敷地が広いので、勝手に車で来る学生も多く、特に大学祭の時期などは構内に車が溢れるようになっていましたが、 これを憂えた大学側は門に警備員を置き、学生の車は許可証なしでは学内に入れないようにしました。

  「車の規制はいいとしても、学生に相談もなく制服の警備員を常駐させることに、きみたちは抵抗がないのか」と、英文学の講義中、教授に呆れられ、言われてみればそうかもしれないとやっと気づくくらい、私たち学生は管理されることに鈍感になっていました。

 それでも、上からの一方的な押し付けや権力を嫌う空気はまだ残っていて、運動を継続しようとする学生も多少はいました。

  「○○首相訪米阻止」などと大書された立看板が、翌朝には叩き壊されている、などということはまだよくありました。

  でも、ヘルメットで武装した学生など1度も見たことはないし、世の矛盾を声高に糾弾するような者は周囲から浮いていました。

 私も含め、学生の多くは政治などどうでもよく、楽しい時間を過ごせればそれでいいと思っていました。

 そんなわけで、私は学生運動とはほぼ無縁で、かろうじてその残り香にふれたくらいでした。

 インターネットでちょっと見てみると、若い人達は概ね学生運動を大変否定的にとらえているようで、「ゴミ」「基地外」などの言葉がやたらと目につきます。

 まあ、ネットに匿名で無責任に書くのは所詮こんな程度の人間なのでしょうが、それでも、頭のイカれた無責任な人達が、ヘルメットをかぶり、顔をタオルで覆い、ゲバ棒を持って暴れた、

というのが、今の若者が持つ、学生運動のイメージのようです。

 確かに、末期には先鋭化した幹部が仲間を殺したり、テロ行為に走ったりと、単なる犯罪者と成り果てた者もいます。

 また、当時、激しく体制を批判しながら、その後大変器用に体制に順応して、平然と企業の幹部に納まっている人もきっとたくさんいます。

 でも私は、匿名性を利用してインターネットに放言したり、ナンパ、合コン、車などに明け暮れている学生より、犯罪行為は別として、当時運動に参加していた学生をどうしても好意的に見てしまいます。

 歌で自分の思いを伝えるという、今では当たり前のことがこの時代に生まれたことからつい贔屓目に見てしまうのですが、それでも彼ら、彼女らのほとんどは、少なくとも運動の最中は、本当によりよい世界構築のために行動していたのだと思います。

 インタビューなどを読んでも、当時運動に関わっていた人の9割は、本気で世界をよりよい方向に変えようとしていたことがわかります。

 その後の個々の進んだ道は様々ですが、学生たちが一時にせよ、自分の時間とエネルギーをその時点で正しいと信じたことに傾けたのは事実だと思います。
 「金と暇を持て余した学生の遊び」などと言われたりもしますが、私はもし自分がそのとき大学生だったら、銀色の盾を持って向かってくる機動隊に対峙する勇気が自分にあったかどうか、正直疑問です。

 地雷除去や反原発で有名な坂本龍一のように、自分の才能を活かして、その後も社会的な活動を、もちろん合法的に続けて世界中から評価されている人もいます。

 現在私たちは、民衆はただ上からの指示に従うだけの存在ではない、という意識を当たり前のように持っていますが、
この常識を根付かせたのは、学生運動の功績ではないかと思います。


 前置きが長くなりましたが、まず、中島みゆきの「ローリング」です。

 1952年生まれの中島みゆきは、学生運動の志に共感を覚えながらも、結局は参加しなかったと言われています。

 運動に参加することができず、それを大昔の出来事とも見ることができないどっちつかずの自分の年代を、彼女は Rolling Age と呼んでいるような気がします。

 この歌は学生運動そのものを歌っているわけではありませんが、2番の歌詞を聴くと、運動に参加しなかったこと、運動に幻滅したことが、中島みゆきにとっては乗り越えなければいけない課題だったのではないかと思われます。

 中島みゆきの曲では、この他に、「まつりばやし」「世情」「誰のせいでもない雨が」「永遠の嘘をついてくれ」などが、学生運動に関わりのある歌だと言われているようです。
http://nekosabu.blog.fc2cn.com/blog-entry-65.html


▲△▽▼


中島みゆき 「ローリング」2012-04-03
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11211158342.html


工事ランプの凍る路地をたどって
探しあぐねた たむろできる場所を
昨夜騒いだ店は 客を忘れて
一見相手の洒落た挨拶を配る
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


9桁の数字を 組み替えて並べ直す
淋しさの数と同じ イタズラ電話
ボックスを叩く街の風が冷たい
どうしても1つだけ押せない組がある
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は 荒野にいる
僕は僕は 荒野にいる

70年代の匂いのする   男歌

なんといっても 歌い方が かっこいい

以下 勝手な イメージ

革命思想にかぶれ 上京し 都会の大学へ 

学生運動に身を投じたが 既に波は過ぎ去り

結局 革命などは 起こせるはずもなく

就職にも失敗

日々の労働で 食いつないでいるが

今のままでは 郷里に帰ることも叶わず

でもまだ 握りこぶしの中に 持っている 

もう 2年 もう 10年 忘れ捨てるまで・・・

 

そんな感じです

学生運動は 70年安保を境に その燃えるスクラムの波は 過ぎ去り 

一部過激な者達が アンダーグラウンドに潜り

72年 浅間山荘事件 連合赤軍事件を引き起こす

みゆきさんは当時 二十歳の女子大生 

音楽を通じ 北大の学生達と交流があったと聞く 

その中に まだ学生運動の 夢のかけら を追いかけて 

あぶな坂を転げ落ちていく エリート達を見ていたのかもしれない

 軽く軽く傷ついてゆけ

学生運動をしていた事で 採用試験に失敗 

本当はショックだったが 

エリートのプライドからの やせ我慢か

  笑いながら  荒野にいる
 
笑っているのは 自分の生き様に対し プライドからくる自嘲なのか 

 荒野は 望まない職場か 肉体労働かもしれない


みゆきさんの "歌" の根っ子の1つが 「哀しき父への鎮魂歌」ならば

もう1つの 根っ子は この  「Rollin' Age」  

転げ落ちていく 群像への レクイエムだろうか


「世情」 「誰のせいでもない雨が」 「君の昔を」などにも 
この 「Rollin' Age」 の影が見える 
 

 

中島みゆき 数ある曲のなかでも 常に人気上位の曲  

この曲に対する 思いや 解釈も 皆それぞれ と思います 
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11211158342.html
13:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:42:02

百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9
みゆきさんは、最近聞いた事が無くて申し訳ありません。

大御所になるとバックの抱えている人数が違います・・

うぶな頃の曲しか興味が無くて申し訳ありません。

何でも初々しいままでいられないのでしょう・・

やはりデビュー仕立ては、魅力がありますが・・何年も経つと・・以下略・・

1年前 No.852 

雲龍 @steiner777 ★iPhone=hxAEwl8GlZ

「いつからそうではなくなったのか?」

これはハッキリとは中島みゆきに聞かなければ分かりませんが、アルバム的には「愛していると言ってくれ」からでしょう。

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

久しぶりにみゆきさんの新曲を聞きました・・やはり気迫が感じられません・・
デビューしてから数年の旬の歌がいいですね・・

雲龍 @steiner777 ★iPad=U7R3mnzrE6

もう還暦だからねえ。
しかし彼女とうとう結婚しなかったね。
http://mb2.jp/_swn/122_801.html#UPG

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

中島みゆきの「世情」はファンでなくても大体知っているほど有名だ。

しかし、この曲の歌詞の意味する所は人によって解釈が違うようだ。

http://m.youtube.com/?hl=ja&gl=JP#/watch?v=O3ZODWsWCPM


「世の中はいつも変わっているから

頑固者だけが悲しい思いをする

変わらない物を何かに喩えて

そのたび崩れちゃそいつのせいにする」


(1)全共闘運動が背景に有る事は間違い無いから、「頑固者」とは機動隊を導入した教授の側だ、というのが最も単純な解釈だ。


(2)逆に、いや全共闘の側こそ頑固者の象徴として歌われているのだ、という解釈も成り立つ。


(3)三つ目は中島みゆき自身が頑固者なのだ、という解釈だ。


さて、皆さんはこの歌を聴いて頑固者を誰と見るだろうか?


僕はずっと(1)の解釈をして来たが、それではこの曲はあまりに薄っぺらな気がする。

(1)+(3)と考える事でこの曲のイロニーが浮かび上がる、と今では考えている。

4年前 No.709 

高知の片隅で ★LQZwOZniVZ_9G6

葉山さんこんにちは。

世情という曲の歌詞の"頑固者″についての解釈を自分なりにしてみました。

この曲があくまでも、中島みゆきの目線で書かれた歌詞ならば
"悲しい思いをする頑固者"とは、自身が学生時代、自分よりちょっと上の
学生運動に参加し主義主張をシュピレヒコールしていた先輩たちのことではないでしようか。

少なくても、権力側、体制側に立つ頑固者たちには
"悲しい"という形容詞は不似合のような気がします。

ただ、過激派と呼ばれ反社会的な破壊活動をした人物たちではなく
純粋に学生として大学の在り方に疑問を呈したり、この国の将来を憂いて
シュプレヒコールをしながら通り過ぎていった若者たちのことだと思いますが。

世情についてご本人は
「学生時代がちょうど学生運動の時期と重なってたんで
私よりもちょっと上の先輩たちがこのシュピレヒコールを上げてた
先輩たちだったんですよね。
~中略~
しょっちゅう耳にしてたので、ごく日常的な言葉で使っちゃったんですけどね」
と述べていますね。
https://www.youtube.com/watch?v=DDpGyIiVwlY#t=20

学生運動をリアルには知らない1961年生まれの、もしかしたら的外れかもしれない解釈です^^;


葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

高知の片隅でさん、どうも初めまして!

レスいただき大変嬉しいです。

今は時間が無いので、9時か10時頃にでもレスします。

4年前 No.711 


葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

高知の片隅でさん、

改めて初めまして。

今までもこのスレに何度もレスしていたんですね。

今後も拓郎への思い入れをぜひ語って下さい。

世情の解釈ですが、貴方の解釈も一理有ると思いました。

そこで僕の解釈は(1)+(2) +(3)に変わりました。(笑)

中島みゆきが当時の学生運動に対しどういう立ち位置を取っていたか?
それによって解釈は変わってくるでしょう。

僕の見方は、彼女はユーミンと同じで、一時は心情的に共鳴していたが積極的に参加はしなかった、 というものです。

そういう者達は活動家に対して屈折した感情を持っています。

つまり、大学当局=権力=悪、 全共闘=反権力=善、という様な単純な見方はしていない筈だと思います。

サビの部分で、シュプレヒコール を上げる側が「変わらない夢を流れに求め」

権力者の側は「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」と描かれています。

どちらも「変わらない夢を見ている」、この言葉が中島みゆきの立ち位置を示していると思います。


多くの学生がこういう立ち位置にいました。

学生運動側に共感したのは、やはりテレビや新聞で流されるベトナム戦争の映像が強烈だったからでしょう。

積極的に参加できなかったのは、 三派系全学連の暴力的スタイルや 古臭いマルクス主義の理論を支持できなかったからであり、また自 分の就職という現実を考えたからでしょう。

また、その学生運動の側もその後の凄惨な内ゲバやリンチ殺人を見ると、彼等自身も権力者と同じ精神構造を持っていた、とも思えま す。

この曲を作った時、既にそういう状況がハッキリしていました。

この事を考えた時、権力者側と学生運動側、どちらも頑固者で悲しい存在であり、またどちらの立場にも徹底できなかった自分も悲しい存在である。

そういう心情を歌ったのだと僕には思えます。

二番の「世の中はとても臆病な猫だから、たわいの無い嘘をいつもついている」

これなどはみゆき自身の事と考えるのが一番自然でしょう。

4年前 No.712 

高知の片隅で ★LQZwOZniVZ_9G6

葉山さん、こんばんわです。


>世情の解釈ですが、貴方の解釈も一理有ると思いました。

拙い解釈をお汲み取り下さりありがとうございます。
その作品を作ったご本人には申し訳ないかもしれませんが
楽曲は聴く側がその年齢や経験によりいろんな解釈ができる(許される)点が面白いと感じます。

>そこで僕の解釈は(1)+(2) +(3)に変わりました。(笑)

ほほぉ(笑)

>中島みゆきが当時の学生運動に対しどういう立ち位置を取っていたか?
>それによって解釈は変わってくるでしょう。

まさに、おっしゃる通りですね( ゚ー゚)( 。_。)ナットク


>僕の見方は、彼女はユーミンと同じで、一時は心情的に共鳴していたが積極的に参加はしなかった、 というものです。
>そういう者達は活動家に対して屈折した感情を持っています。
>つまり、大学当局=権力=悪、 全共闘=反権力=善、という様な単純な見方はしていない筈だと思います。

いつの時代にも、その世代の主流となる物事の見方があるにせよ皆が皆「右向け右」ではなかったはずですよね。
(表面的にはそれらしく振舞っていたとしても)

中島みゆきさんという人は、けしてみんなで手を取り合って主義主張を繰り広げるタイプの性格ではないように思います。

>サビの部分で、シュプレヒコール を上げる側が「変わらない夢を流れに求め」
>権力者の側は「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」と描かれています。
>どちらも「変わらない夢を見ている」、この言葉が中島みゆきの立ち位置を示していると思います。

サビの4連、みゆきさんがこの作品で表現したかった意図はここにあると思います。
なにせ、くどいと思えるほどリピートさせてるわけですから(笑)
戦うために通り過ぎてゆく人の群れをみゆきさんはどのような心境で見送っていたのでしょうね。

>権力者側と学生運動側、どちらも頑固者で悲しい存在であり、またどちらの立場にも徹底できなかった自分も悲しい存在である。

言葉のあやというか屁理屈かもしれませんが「悲しい存在」=「その存在が悲しい」と置き換えることが可能ならば
葉山さんがおっしゃるとおりだと私も思います。

4年前 No.713 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

高知の片隅でさん、

再レスありがとうございます。

まあ、彼女が実際はどういう目で見ていたか、いろんな噂も有りますが、本当の所は分からないので、いろんな解釈があって良いと思います。


ところで、ネットでこの歌の解釈を幾つか見たのですが、面白い解釈が有ったので紹介します。

この頑固者は新撰組など、佐幕派の事を歌ったもの、と解釈すると、学生運動よりもっとぴったり来る様な気がします。

シュプレヒコールを上げる側とは薩摩の軍勢の「宮さん、宮さん、お馬の前のちらちらするもの何じゃいな」と歌いながら江戸へ進軍する様子であり、

時の流れを止める夢を見る者が佐幕派、という事です。

もちろんコジツケですが、こちらの方が歌の最初の「世の中はいつも変わっているから、頑固者だけが悲しい思いをする」という一句がジワジワ来ます。(笑)

4年前 No.714 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

ついでに言うと、これは全くのデタラメという訳でもありません。

2・26事件を自分の思想的原点と考えた三島由紀夫と全共闘の学生たちが意外な共振現象を起こしていた事を考えると、それなりに深い意味が有るようにも思えます。

4年前 No.715 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

しつこい様ですが、また世情の話です。

上の動画に金八先生が出て来るのが不思議だったのですが、金八先生のラストシーンにあの曲が流れたんですね。

全く金八先生はトコトン偽善番組です。

中島みゆきを汚しやがって!

許せん!


葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

そもそも現代の教育荒廃の根本原因は教育が「様々な職業に人間を配分する」という差別・選別機能を持たされている点にある。

「熱血教師」が出て来て解決する様な甘ったれた話ではないのだ。

金八先生という番組の本質はその様に社会問題を矮小化し、核心を隠蔽する事にある。

学生運動を徹底的に矮小化して描いた三田誠宏の「僕って何?」が芥川賞を取ったのと同じカラクリがそこに有る。

4年前 No.717 

まこっち ★M0gPGdWDJy_M0e

学生の頃に流行った「時代」で中島みゆきの存在を知りました。

ヒット曲も多く、ファンでなくとも常にその存在感を意識させるアーティストです。

私も一定のイメージを持っていましたが、みゆきさんのラジオ番組のトークを初めて聞いた時にはぶっ飛びました。

何とハイテンションな人なんだろう!と。

女の情念を歌うみゆきさんとあのトークはどうしても結びつきませんでした。

そして、拓郎のおっかけをしていたという話には、二度ビックリ。

その後、みゆきさんがどんどんスーパースターへの道を歩み始め、拓郎も意識し始めたようです。

あまり他のアーティストを褒めない拓郎も、しっかりリスペクト。

そのクライマックスが、2006年のつま恋ライブだったと思います。

会場の大半は、拓郎(かぐや姫)のファンで占められたはずですが、天女のように舞い降りたみゆきさんを見たファンのどよめき・歓声は本当に凄かった。

幸い、最前列のブロックで見られた私も、あのオーラには圧倒されました。

みゆきさんは、いわゆる美人にはあたらないと思いますが、ステージで歌う彼女は、本当に美しかった。

私のように中島みゆきを意識する拓郎ファンは、結構多いのでは。

4年前 No.722 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

まこっちさん、初めまして。

妻恋をライブで見たんですね。羨ましい限りです。

僕はYouTubeでしか見てないのですが、みゆきが出て来て拓郎がどんな合わせ方をするのかな?と変な事に注目して見ました。

みゆきが歌う間の拓郎の伴奏、曰わく言い難しです。(笑)

特に張り切るでもなく、恥ずかしがるでもなく、普段と同じ様にギターを弾いているのですが、それでもみゆきに対する気持ちが手に取る様に分かりました。

拓郎はシブいですね。(笑)

みゆきが惚れるのも無理ないですね。
http://mb2.jp/_swn/122_701.html#UPG
14:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:42:47


心 人、 ★4P7XD2RRXb_Id2

今夜は前にも言いましたが、みゆきの『ホームにて』を語らせてもらいます。

この曲は彼女のサードアルバム【ありがとう】に収録されてますね。
他にも『店の名はライフ』とか『まつりばやし』とか自分の好きな曲が入ってるアルバムなんです。

この『ホームにて』はお登紀さんが唄っても合いそうな感じがするのですが、、、。
そのお登紀さんの初期の曲「帰りたい帰れない」をふと彷彿させることもありました。
望郷の想いを綴ってますが、その表現が、、、。


 >♪振り向けば 空色の汽車は
   今ドアが閉まりかけて
   灯りが灯る窓の中では帰り人が笑う。♪<


故郷へ帰れる人を羨んでいる。そう!お登紀さんの歌のように♪帰りた~い帰れない、♪


本当は帰りたいけど、、、。帰れないのは何の事情かは説明がない。
人それぞれなのでしょう。


 >♪走り出せば間に合うだろう、かざり荷物をふり捨てて
  街に街に挨拶を、
  振り向けばドアは閉まる。♪<


駅のホームにはさまざまなドラマがある。旅行者が楽しそうに駅弁を食べ、はしゃいでる光景、
ご無沙汰親子が再会を喜んでいる光景、サラリーマンがキオスクで缶ビールを買い疲れた横顔を見せている。
ホームの影ではカップルがしばしの別れを惜しんで女性は泣いている男性は肩を抱き慰めている。
おそらく遠距離恋愛のカップルだろう。
そんなさまざまな人間たちの中で、ここにもひとつのドラマがある、


 >♪ふるさとは 走り続けたホームの果て 叩き続けた窓ガラスの果て
  そして手のひらの残るのは白い煙と乗車券♪<


帰りたいけど帰れないのは何故なのか?最初の歌詞では


 >♪ふるさとへ向かう最終に乗れる人は急ぎなさいと
  優しい優しい声の駅長が町仲に叫ぶ♪<


とある。だから時間的な物理的な理由ではない! 意地なのだろうか?


 >♪たそがれには彷徨う街に 心は今夜もホームに佇んでいる。
  ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券♪、


ネオンライト、かざり荷物 の表現がいいですね。
結局 しがらみ なのかな?


 >♪ふるさとは 走り続けたホームの果て 叩き続けた窓ガラスの果て
   そして 手のひらにに残るのは 白い煙と乗車券♪<


この歌は帰れる想いを立ち切って都会での暮らしにしがみつく気持ちを唄ってるのだと思います。


 >♪涙の数 ため息の数 濁って行く空色の切符
  ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券♪<

ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券、が何度も出て来ますね。
そして空色の汽車、空色の切符、
空色とは何の意味か?単なる汽車の色なのか、きっとふるさとの空のことだと思います。

ふるさと行きの乗車券をネオンライトでは燃やせないのは、ふるさとへの想いは都会の歓楽では立ちきれないのではないかな。
それだけ故郷への想いが強いことでしょう。

またこの歌は都会に骨を埋める覚悟は出来ていても家を捨てた筈でも故郷への思い入れまでは捨てきれない想いを
唄った歌だとも思います。


___

ミトラ ★1VBAC8U5ZM_1G6

心人さん「ホームにて」ですが、貴方の解釈はその通りだと思いますが、「エレーン」と同様に、また違った解釈もあり得るという事を書きたいと思います。

「ふるさと」は「世間並みの幸せ」を意味していると僕には聞こえました。
恋愛、結婚、温かい家庭、かわいい子供、要するに女性にとっての幸せです。

何故そう感じたかというと、次の句からです。

 「ふるさとは走り続けたホームの果て 叩き続けた窓ガラスの果て」

この一句には相当の激しい号泣、涙が枯れるほど泣き続けた過去を思わせます。

「私から去らないで!」と彼をどこまでも追いかけ、とうとう去った後の長い涙。「ひまわり」の最後の場面を思い出します。

そのつもりで聴いてみると「灯りともる窓の中では帰りびとが笑う」は「エレーン」の2番を連想します。幸せな人々の姿が不幸な自分にはあまりに痛すぎる。

「かざり荷物をふり捨てて走り出せば間に合うだろう」プライドをかなぐり捨てれば幸せにたどりつける。しかし躊躇している内にドアは閉まります。

「ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券」またも幸せを逃したみゆきは、都会のネオンライトに憂き身をやつします。

「涙の数 ため息の数 溜まってゆく 空色のキップ」青い空を見るたびに、今まで一体いくつの幸せを逃したのか、と涙とため息がでる。

僕にはこの歌は「エレーン」と同じモチーフを歌った歌に聞こえました。

6年前 No.449 

心 人、 ★4P7XD2RRXb_Id2

 ミトラさん、
 なるほど、みゆきの『ホームにて』をそう云う風に解釈されたのですか。
 〝ふるさと〟を〝世間並みの幸せ〟ですか、フムフムなるほど。

 そして、映画【ひまわり】のラストシーンを、、、、、、、、。随分奥深く捉えたんですネ。

 貴方って深い感性があるんですね。
 自分はやっぱりふるさとへの望郷への強い想いを唄ってるように聞こえます。

 望郷の歌としてもう少し話を進めますが、。

 メロディも緩やかでいいですねぇ、アコギのアルペジオでみゆきが淋しく唄いますが、
 ひとつのフレーズの後の余韻がたまらなく切なくて、、、。
 ここで唄われてるのはお分かりいただいてると思いますが、単なる一時的な里帰りではことではないですね。


   >♪灯りともる 窓の中では 帰り人が笑う、♪<


 笑顔でふるさとへ帰る人々は、、単なる里帰りかも知れないけど?そんな人々を羨んでる。

 都会で傷つき?疲れ果てている。
 もし、帰ってふるさとで暮らすとしても、きっと昔の友人たちや恋した人も違う世界で暮らしているのだろう。
 都会での人間関係も出来、しがらみも多い、


   >♪たそがれには彷徨う街に 心は今夜もホームにたたずんでいる。
     ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券♪<

 だからネオンライトではなかなか燃やせないように思います。

 たしかにミトラさんの仰る〝かざり荷物をふり捨てて走り出せば間に合うだろうプライドをかなぐり捨てれば幸せにたどりつける。しかし躊躇している内にドアは閉まります〟でしょうネ。

 でもミトラさんの解釈のように聴けばまた違った歌にも聞こえて奥が深いですね 映画、小説と一緒で観た人読んだ人聴いた人の
 数だけドラマがあるものだと思います。
6年前 No.450 

心 人、 ★4P7XD2RRXb_Id2

 前 >>450 で書き忘れましたが、

 〝ふるさと行きの乗車券〟のふるさと〝行き〟を〝雪〟と解釈した人もいるそうです。
  つまり〝ふるさと雪の乗車券〟と

  みゆきは北海道出身ですからね、
http://mb2.jp/_swn/122_401.html#UPG
15:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:45:42

故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-1


先日、高村智恵子について書いた中で『逃避願望というか、回帰熱』という事を書きましたが、そのことについて友人から質問を受けましたので、ちょっと敷衍しつつ、雑文をば。

「回帰熱」という言葉は、中島みゆきがアルバムのタイトルに使っていますが、彼女の作品には故郷の喪失感というか、故郷に対する憧憬と諦念が同居しています。

それは最初のアルバムの、最初の作品である『あぶな坂』に、ハッキリと見えます。まずは、以下をジックリと読んでくださいませ。

『あぶな坂』 -アルバム【私の声が聞こえますか】より-

 あぶな坂を越えたところに
 あたしは 住んでいる
 坂を越えてくる人たちは
 みんな けがをしてくる
 橋をこわした おまえのせいと
 口をそろえて なじるけど
 遠いふるさとで 傷ついた言いわけに
 坂を落ちてくるのが ここからは見える
 
 今日もだれか 哀れな男が
 坂をころげ落ちる
 あたしは すぐ迎えにでかける
 花束を抱いて
 おまえがこんな やさしくすると
 いつまでたっても 帰れない
 遠いふるさとは おちぶれた男の名を
 呼んでなどいないのが ここからは見える

 今日も坂は だれかの痛みで
 紅く染まっている
 紅い花に魅かれて だれかが
 今日も ころげ落ちる
 おまえの服が あんまり紅い
 この目を くらませる
 遠いかなたから あたしの黒い喪服を
 目印にしてたのが ここからは見える


けっこう難解な内容で、ファンによっても解釈はいろいろあります。ただ、故郷への喪失感というキーワードを最初に頭に置いてみると、わりとすんなり理解できるんじゃないでしょうかね。自分の大好きな演歌や浪花節では、故郷というのは肯定される存在です。これは、アジア全体、漢字文化圏に共通の心情のような気がします。東洋のユダヤ人と言われる中国架橋にしても、最終的には故郷に帰る、故郷に錦を飾るというのを非常に重要視しています。

王貞治監督の父親である仕福さんも、そういった行動を取られていらっしゃいます(詳しくは鈴木洋史『百年目の帰郷』(小学館文庫)を一読いただけると、王貞治監督の背負ってしまった物の正体も含めて、非常に興味深く読めると思います)。千昌夫の歌とか典型的ですが、カルビーのカールのCMフレーズ「いいもんだぁなぁ ふるさとはぁ♪」なんかに代表される、故郷肯定の感情ですね。演歌や浪花節では、まず否定的には語られないですよね。

【2004.05.17 Monday 08:00】 author : 土岐正造
「生きていてもいいですか」の「キツネ狩り」がとても怖い歌ですよね
(歌詞だけでなく歌唱法?も)
| Doblogコメント移植 | 2009/05/31 12:01 AM |


アレも、解釈に幅のある歌ですよね。
一応、名曲『世情』と『誰のせいでもない雨が』と重ね合わせて、全共闘の挫折体験(内ゲバによる仲間殺し)という解釈も可能でしょうか。

しかし、ずいぶんと鋭いところを突いてきますね。
詞の怖さを指摘する人はまぁまぁいますが、歌唱法の怖さまで感じる人って、少数派じゃないでしょうか。突き抜けた、乾いた狂気が宿っている歌い方だとは、自分も漠然と感じてはいましたが。
[ motowota ] [2004/05/18 11:43] [ Myblog ] [ 削除 ]


全共闘シリーズ? は「はじめまして」の「僕たちの将来」でひと段落着いている気がしますね。
救いようのない絶望で一旦死に、「はじめまして」で転生すると。
以上、猪木の独り言でした(違います)。
[ 土岐正造 ] [2004/05/18 11:54] [ Myblog ] [ 削除 ]


「あぶな坂」知らなかったんで歌詞だけの印象ですがモロ男女モノで想像しました。
「ふるさと」を失くした男と「ふるさと」になれない女、みたいな。=都会、というのは「ほぉ」と。
故郷モノ(?)で谷山浩子の「ネコの森へは帰れない」を思い出しました。
ば、漠然としたヒトリガタリですいませんー
[ motowota ] [2004/05/18 16:37] [ Myblog ] [ 削除 ]

[ 土岐正造 ] [2004/05/21 10:57] [ Myblog ] [ 削除 ]
>>motowotaさん
そこら辺の、全共闘の挫折に対する中島みゆき論は、いつかまとめてやりたいですね。いやマジに。
イラクの3人組とか見ていますと、人間は相変わらず同じような失敗と過ちを繰り返しているようですしね。

時代は変われど人は変わらず……って自分の作品のキャッチコピーですな(苦笑)。

▲△▽▼

故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-2

「予言者、故郷に容(い)れられず」という言葉があります。新約聖書でイエスが故郷で「大工の息子が、なんだしゃんどえりゃあ偉そうなことぬかしおって、ちょうすいとりゃあせんきゃ?」と、拒絶されたことを言うのですが、これは孔子にしても故郷を亡命し、14年にも渡る流浪の生活を送ったわけですから、宗教家にしろ思想家にしろ芸術家にしろ、突出した自我と行動を起こそうという人間は、故郷にはじみづらいのでしょう。


さて、本題に戻って中島みゆきの『あぶな坂』です。

『あぶな坂』とは、いったい何のメタファー(隠喩)なのでしょうか? そして詞中の『あたし』とは? 勘の良い方は気づいてらっしゃるかもしれませんが、自分は

 あぶな坂=故郷と都会との境界線
 あたし=都会

のメタファーだと考えています。

 この詞で唄われているのは、1番の歌詞では明らかに「ふるさと→都会(あたし)」というルートをたどっています。

遠い故郷で傷つき、あぶな坂を越えてきています。そして、怪我をした理由を「橋をこわした おまえのせい」と非難し、なじっているわけです。

橋とはなんでしょうか? 

これも故郷と都会との境界線とも考えられますが、「あぶな坂=故郷と都会との境界線」というメタファーがすでに提示されているわけですから、もっと踏み込んで「故郷と自分の連続性」と、定義した方がよりイメージに近いのではないでしょうか。

都会の生活に疲れ、しかし自分を温かく迎えてくれるはずの故郷で拒絶され、精神的に傷ついた人間が、橋=故郷との連続性を壊した、あたし=都会を非難する、というメタファーだと解釈すると、かなりスッキリしませんか? 

ところが「あたし」の方から見ると、それは「言いわけに 坂を落ちてくるのが ここからは見える」訳です。

都会の否定。

それは、しばしば都会に住む田舎者の口から語られます。

人情がない、冷たい人間関係。しかし、都会とは本来そんなものです。
イヤ、人間関係が希薄だからこそ、都会は都会たり得るわけです。

濃密な田舎の人間関係というのは、そこにどっぷりつかっていると楽な部分が多々あります。少なくとも、老人が死んで白骨化するまでほっておかれるような悲しい事態は少ないでしょう(0ではない)。ただ、それは同様にプライベートが無くなるという部分と引き替えにあるわけです。


 「隣の家に勝手に上がり込んで冷蔵庫の中野ジュースを飲むような関係」だからこそ、借金で困っていれば相談にも乗るし、晩飯のお裾分けやら、独居老人の家にこまめに訪問するという良い部分も成立するわけです。

田舎の無神経さは濃厚な人間関係の裏返しであり、そういうプライベートを侵害される部分を我慢する、あるいは同化すれば、これほど住みやすい場所もないわけです。

もっと進めた考えると、故郷に錦を飾る、つまり一時帰国的な場合、故郷は温かく迎える(もちろん嫉妬や羨望も混じりながら)訳です。でも、故郷を捨てて都会に出て行った人間が、落ちぶれて帰ってきたら? 

「遠いふるさとは おちぶれた男の名を 呼んでなどいないのが ここからは見える」わけです。ここ、そう都会の側からは、田舎のそういった排他性が見えるわけです。そして、都会でプチな成功もささやかな幸せを見つけられなかった人間は、帰るべき故郷に帰れない理由を、傷ついた言い訳同様に「都会の優しさ」になすりつけるわけですな。

人は、都会のきらびやかさ=赤い花に惹かれて、故郷を捨てて旅立ちます。

まぁ、意外と都会はプチな成功やささやかな幸せを与えてもくれるのですが、そうでもなかったりします。田舎の窮屈さは田舎の良さと表裏一体であるように、都会の良さも悪さも、表裏一体であるわけです。

それは鮮やかな赤い服に見えながらも、プチな成功もささやかな幸せも見つけられなかった敗北者を弔う喪服でもあるわけです。


 自分の個人的な経験をひとつ。

昔、東京に住む従兄弟の奥さんが、田舎に住む旦那の義兄に、トレーナーを買ってプレゼントしてくれたことがありました。ところがそれは、当時はやっていたピンクのトレーナーだったのですが、ウチの田舎ではそれは着られない色な訳です。東京だとピンクだろうがラメだろうが、まぁ普通に着ていても言い訳ですが、田舎では漠然と、しかしハッキリと男が着るべき色というのが存在知るわけです。

これは色に限らず、東京ではモヒカンにしてようが鼻ピアスしていようが、駅の構内でディープキスしていようが、ほとんどの人は気にもとめない。でも、田舎ってのはこれらが全部不可な訳です。文化的に(笑)。田舎出身の人は、素直に首肯できるでしょうが。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1114


故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-3

以前テレビで、東京のオカマバーの人が、故郷の名古屋に帰るという企画がありました。20年ぶりに帰る故郷。テレビカメラという存在の前で、ピンクのラメフクに色とりどりのマダラ模様に染めた長髪で、派手な化粧をした息子に対して、今にも泣きそうな引きつった顔で迎えていたお母さんが、印象的でした。お父さんは出演拒否してましたね、確か。

名古屋は巨大な田舎と良く揶揄されますが、同じように人口数万程度のウチの田舎でも、オカマとして生きること自体が許されないわけです。もっと言えば、田舎には浮浪者が存在し得ない。それは、環境的な貧富の差という部分もありますが、もしも自分の親類縁者友人知人が浮浪者になろうものなら、寄ってたかって助けてくれる、田舎の人情に寄るところが大きいでしょう。

 ただ、それは地縁血縁がもたらす温かさであって、よそ者に対しては「犬と芸人入るべからず」の立て看板を村境に置く、非常さとも表裏一体です。これは、田舎のルールに従わない人間に対しても、同様です。宗教家や思想家や芸術家のように(ついでにオカマも)、突出した自我を持ってしまった人間にとっては、田舎のそういった個人阻害ってのは大変息苦しい。

「東京は故郷なき人間の故郷」と言われます。前出のオカマさんも、東京に戻ってきて、やっと自分の居場所に戻ってきたようでホッとしたという意味のことを言っていました。都会の無関心、非人情というのは、実はだからこそ素晴らしいものであるという逆説でもあるわけです。そういう冷たさが、温かさでもあるという逆説。そこを突いているからこそ、中島みゆきの詞は詩たり得るのでしょう。

故郷とそこにいられない自分との相克という意味では、『異国』というこの曲が、代表的な作品でしょうか。『あぶな坂』に比較しても、わりとストレートな故郷の喪失感を描いているようです。凡百の解説なんかよりも、実際に読んで味わってもらうのが一番分かり易いのではないでしょうか。
16:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:47:24

『異国』 -アルバム【生きていてもいいですか】より-


 とめられながらも去る町ならば
 ふるさとと呼ばせてもくれるだろう
 ふりきることを尊びながら
 旅を誘うまつりが聞こえる

 二度と来るなと唾を吐く町
 私がそこで生きてたことさえ
 覚えもないねと町が云うなら
 臨終の際にもそこは異国だ

 百年してもあたしはしねない
 あたしを埋める場所などないから
 百億粒の灰になってもあたし
 帰り仕度をしつづける

 悪口ひとつも自慢のように
 ふるさとの話はあたたかい
 忘れたふりを装いながらも
 靴をぬぐ場所があけてある ふるさと

 しがみつくにも足さえみせない
 うらみつくにも袖さえみせない
 泣かれるいわれもないと云うなら
 あの世も地獄もあたしには 異国だ

 町はあたしを死んでも呼ばない
 あたしはふるさとの話に入れない
 くにはどこかときかれるたびに
 まだありませんと うつむく

 いやぁ、重いっす。「まだありません」。人至る所青山ありとは言いますが、故郷は故郷に「なる」ものなのかもしれないなぁと、漠然と思ったりもします。ちょっと話しは外れますが、戦後の混乱期、多くの日本人女性が米兵について海を渡っていきました。英語がまったくの苦手で米がないと生きていけない自分などは、気持ちひとつでほとんど予備知識もなく環境も文化も違う世界に飛び込んでいった女性のたくましさに圧倒されます。

が、言語学の教授に「男は生まれた場所の方言とかボキャブラリーを生涯手放さないんだけど、女性の場合は適応力が高くって、婚礼先の方言やボキャブラリーに染まりやすいので、言語採集の時は気を付けないといけない」と言われて、そこら辺の男の弱さと女性の強さってのは、世界共通なのかな?とも思ったりします。

例えば、グレイシー柔術の祖である前田光世は、晩年は寝たきりになると日本語だけをしゃべって、日本語がわからないブラジル人の奥さんを困らせたそうですが、明治の時代に生き、若くして海外雄飛し、2000試合とも言われる格闘義戦を戦い、ブラジル移民事業に心血を注いだ前田光世にしてからが、最期は望郷の念にさいなまれていたというのは、同じ男としてその気持ちには非常に共感を覚えたりもします。

あぶな坂を転げ落ちてくるのは、男なのですから。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1118


故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-4


続きまして、『エレーン』。中島みゆき自身の小説(なのか実話体験なのかは上手にぼかしてありますが)の中でも登場するエレーンは、異国の地で生きる娼婦という設定です。中島みゆきには『白鳥の歌が聞こえる』という名曲もありますが、こちらも娼婦をモチーフにしています。ですが年齢的な円熟もあるのでしょうが、こちらの方では「男を癒す存在」としての娼婦という側面が、より強くなっています。

そう言う意味では、初期の作品である『エレーン』の方が、より故郷の喪失感に比重が置かれています。歌い手としての自分(=中島みゆき)の存在と、居場所のなさをモチーフにした作品というのは、『流浪の歌』や『流星』などのように、繰り返し描かれています。

ただ、中島みゆきの「居場所のなさ」というのは、基本的に“自分で選択したい場所のなさ”という感じがします。



『エレーン』 -アルバム【生きていてもいいですか】より-

 風にとけていったおまえが残していったものといえば
 おそらく誰も着そうにもない
 安い生地のドレスが鞄にひとつと

 みんなたぶん一晩で忘れたいと思うような悪い噂
 どこにもおまえを知っていたと
 口に出せない奴らが流す悪口

 みんなおまえを忘れて忘れようとして幾月流れて
 突然なにも知らぬ子供が
 ひき出しの裏からなにかをみつける

 それはおまえの生まれた国の金に替えたわずかなあぶく銭
 その時 口をきかぬおまえの淋しさが
 突然私にも聞こえる

 エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
 エレーン その答えを誰もが知ってるから 誰も問えない

 流れて来る噂はどれもみんな本当のことかもしれない
 おまえは たちの悪い女で
 死んでいって良かった奴かもしれない

 けれどどんな噂より
 けれどおまえのどんなつくり笑いより、私は
 笑わずにいられない淋しさだけは真実だったと思う

 今夜雨は冷たい
 行く先もなしにおまえがいつまでも
 灯りの暖かに点ったにぎやかな窓を
 ひとつずつ のぞいてる

 今夜雨は冷たい

 エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
 エレーン その答えを誰もが知ってるから誰も問えない
 エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
 エレーン その答えを誰もが知ってるから誰も問えない


『エレーン』の作品中では、観察者としてのポジションにあるせいか、そんなエレーンを見ていた『私』という存在に対する描写が希薄です。「笑わずにいられない淋しさだけは真実だったと思う」私って誰?って事ですね。まぁ、無難に中島みゆき自身というのが普通の解釈でしょうし、妥当だとは思います。ただ、自分からの問題提起として私を、[エレーンと同じように居場所なく、それでも村落共同体に同化せざるを得ない自我に苦悩を抱えている存在]とするのか、[おまえを忘れて忘れようとしていた人々の内の一人]とするかで、だいぶ解釈が違ってくるような気もします。


 例えば、小林信彦はエッセイの中で、夜中に寝ようとしてふと昔の屈辱(それも何十年も前の)を思い出し、眠れなくなって夜明けを迎えてしまうこともしばしばだと語っています。これは筒井康隆もそうで、疎開中に田舎の体力のあるガキどもにいぢめられたことを思い出すと、庭に飛び出して絶叫したくなる(そこまではやらないけど)と書いています。中島らもなど、口喧嘩で負けた何日も後に「あのときこう反論していれば、負けなかったのに!」と思うこともしばしば(その結果『口先の魔術師』という、古今東西の減らず口を集めた本を執筆してしまった)だそうです。

だいたいが、文筆を生業としてる人間ってのは、漫画家もそうですが、そういった内向性と昔のことをいつまでもグチグチグズグズと引きずる性癖を持っています。カラッとしていない。「ああすれば良かった、こうすれば良かった」という後ろ向きな態度が、逆に経験値として蓄積されるからこそ、それが作品の中に生かされるわけです。じゃあ、そういう後ろ向きで陰湿なタイプならば、作家に向いているかと言えば、そうだともいえます。

ただし、そこからもう一歩踏み込んで奥行きのある作品(売れる・売れないは別にして)を書くには、そういう自分が傷つけられた記憶だけに拘泥している人間ってのは、ダメだと自分の師匠に言われました。自分が傷つけられたのと同様に、例え自分にその意図はなくても、他人を傷つけてしまう自分というのに対する自覚と畏れがないヤツは、自己中心的でご都合主義的な作品しか書けないよ、と。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1115


故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-5


まぁ、これが行きすぎると「生まれてきてすいません」って発想になってしまうのですが、自分が傷つけられた経験から、傷つけてしまう可能性にたいして思いを致すだけの客観性がないと、作品というのは主観の押しつけにしかならないような気がします。そういう意味で、エレーンを哀れむ「私」は、ではどこのポジションにいるのかに、思いを致すのもまた作品を多層的にしてくれるような気がします。

さて、最期に再び「自分の居場所」に対する中島みゆきの思いについて。突出する自我というのは、村落共同体のルールから飛び出してしまわずにはおかないエネルギーを内包しています。まぁ、これは男女の恋愛に関してもそうなんでしょうが。

 研ナオコに提供した初期の代表作『かもめはかもめ』では、そういった自分の生き方の肯定と、それに伴う痛みを引き受ける覚悟を、雄々しく歌い上げています。

中島みゆき かもめはかもめ 動画
https://pv755.com/kamome-wa-kamome


『かもめはかもめ』 -アルバム【お色直し】より-(2番を抜粋)

 あきらめました あなたのことは
 もう ゆくえも 知らない
 あなたがどこで 何をしても
 何ひとつ 私では 合わない

 かもめはかもめ 孔雀や鳩や
 ましてや 女には なれない
 あなたの望む 素直な女には
 最後まで なれない

 この海を 失くしてでも
 ほしい愛は あるけれど

 かもめはかもめ
 ひとりで海を ゆくのがお似合い

中島みゆきの作品の底に流れる、故郷の喪失感と憧憬と、それでも突出せざるを得ない自分の自我を引き受ける雄々しさ。ところで、かもめに仮託される自分って、いったいなんでしょうか? 昔はピンと来なかったのですが、かもめのメタファーを一番的確に表現されたのが、漫画家の大和和紀先生の『ヨコハマ物語』でした。

この中で、

 白鳥=帰るべき場所から離れられない女
 カモメ=港港を自由に渡っていく存在

と表現されてらっしゃいました。にゃるほど、そういう意味でカモメを居場所なき自分のメタファーとしていたのかと。自由に生きていくには痛さや悲しみが表裏一体であるという重さ、覚悟。二十代の初期の頃から、中島みゆきの姿勢は一貫していますね。

愛する男の望む色には染まれない自分。恋愛を唄っているようで実は、恋愛至上ではない不思議な世界。故に、中島みゆきの世界は奥が深いのかなと、ファンの勝手な解釈をしつつ、ようやく脱稿。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1116


もう一丁、中島みゆきの世界の補足

ついでに、故郷の生きづらさ、自我を抑圧して平均化してしまう共同体の悪意というかプレッシャーについて、名曲『ファイト!』では、このように表現されています。

出て行く以上、故郷を捨てていくというイメージ。そこには、共同体からの離脱を意味します。ウチの田舎のように、外に出て行かざるを得ない土地柄だったりしても、わりと地元のおばちゃん達は「すっかり東京の人になったねぇ」なんて嫌みを、平気で言ったりしますからね。

 一旗揚げて帰ってくる故郷と、室生犀星のように断ち切ってしまわなければならない故郷は、やはり別物であって、そこに根っこがあるかないかの差は大きいのではないでしょうかね。


『ファイト!』 -アルバム【予感】より-

 薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
 出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
 うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
 あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき

 ファイト! 闘う君の唄を
 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト! 冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ


自分の思想方面の師匠でもある呉智英夫子も嘆いていますが、「中島みゆき=演歌」という、安易で凡庸で薄っぺらなことを言う音楽評論家がままいます。ですが、その内容をつぶさに見れば、演歌や浪花節で唄われているような、そういう共同幻想(=故郷肯定)とは相容れないところに、中島みゆきは存在するのになぁ……と思います。彼女が唄っているのは、女の情念などという個人的な主観のみに依拠したモノではなく、存在に対する突出性であり、それを客観的に認識してしまった者だけが持つ痛みと、自我の相克なのに。

さらに、もう一つ。自分が大好きな『彼女の生き方』という作品も、紹介しておきます。唄われてる世界は、最低最悪な生き方。ただ、それを自分で選び取った力強さと、不自由を引き受ける強さを、この中に見ます。普通は、こうは生きられない。東京にあって「人情がある」と評価される下町は、実はプチ田舎。人間が生きていく以上、そうならざるを得ないのも事実ですが、そこには精神の不自由がつきまとう訳です。そこを見事に活写していますね。


 普通で、善良で、常識的なはずの下町のオカミさんが、やってしまう阿漕なマネ。それは、自己保身であったり既得権益の確保であったりするのでしょうが、主観的にはどこまでも普通で、善良で、常識的な人達は、己の醜さには気づかない。そういう事なんでしょうね
17:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:48:01


『彼女の生き方』 -アルバム【みんな去ってしまった】より-

 酒とくすりで 体はズタズタ
 忘れたいことが 多すぎる
 別れを告げて来た中にゃ
 いい奴だって 居たからね

 死んでいった男たち
 呼んでるような 気がする
 生きている奴らの
 言うことなんか 聞かないが

 彼女の人生 いつでも晴れ

 そうさあたしは タンポポの花
 風に吹かれて 飛んでゆく
 行きたい町へ 行きたい空へ
 落ちると思えば 飛び上がる
 
 浮気女と 呼ばれても
 嫌いな奴には 笑えない
 おかみさんたちよ あんたらの方が
 あこぎな真似を してるじゃないか

 彼女の人生 いつでも晴れ

 思い通りには 動かない
 世の中なんて 何もかも
 だけど あたしだって 世の中の
 思い通りなんか 動かない

 彼女の人生 いつでも晴れ

 ああ今日もまた 裏街は
 うわさ話の 花盛り
 浮気な風を追い払え
 裏切り者を 叩き出せ

 そうさあたしは タンポポの花
 風に吹かれて 飛んでゆく
 行きたい町へ 行きたい空へ
 落ちると思えば 飛びあがる
 
 彼女の人生 いつでも晴れ

やっぱり、深いわ。横並びを強要する共同体から自由であることの痛みは、喜びでもあるというこの雄々しさ。見習いたいモノですね。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1119
18:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:50:02


474 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:18
あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の音音は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。

475 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:19

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。


476 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24
>>475
中島みゆきは、いろんな説がある。
当時の彼が北大マルだったとか。

松任谷由実自身もマルだったという話もあるが、それはさすがにガセでしょう。
当時、彼女が通っていた多摩美はマルの拠点校ではあったが。数なんて、しれてる。

477 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24

松任谷のほうは本当のようです。


478 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:26

    まつりばやし                   

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

けれど行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの後ろ姿だった

 もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まうりばやしは 静かにあでやかに通り過ぎる

 もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづけるおまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ

 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても

479 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:29

坂本龍一や根津じんぱちが中核派だったということは本当だし
猪瀬もそうだし、中村敦夫参議院議員もそうだったときく。

カクマルも、舛添とか松任谷の弟もいたわけだから
松任谷由実が弟のオルグをうけて支持したことはあるでしょう。

だって、学生運動に挫折したような世代にもぞくしてるでしょ
あの人たち。

彼女のうたにもそれをかもしだす歌がありますからね。

480 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:31

      いちご白書をもう一度

 いつかきみと行った映画がまたくる
     授業を抜け出して二人で出かけた
     悲しい場面では涙ぐんでた
     素直な横顔が今も恋しい
     雨に破れかけた街角のポスターに
     過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

    僕は無精ひげと髪を伸ばして
     学生集会へも時々出かけた
     就職が決まって髪を切ってきた時
     もう若くないさと君に言い訳したね
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

481 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:32

中核にはそのほか、糸井重里や梨本茂もいたらしい。
新谷のり子は、中核の選挙を支持していましたね。

また、いちご白書をもう一度をつくった杉田らは
立命民青だしね。

482 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:39

いちご白書をもう一度をつくった杉田<???


483 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:41

なしもとだけは嘘であってほすぃ


484 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

いちご白書をもう一度というアメリカの反戦運動
をモチーフにした映画が当時流行していました。

立命民青の杉田らが、それをふまえていちご白書をもう一度
をつくったわけです。
あと戦争をしらない子どもたちという歌も、彼等がつくりましたね。

485 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

梨本は、法政社会学部だけどチュンではないよ


486 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

杉田とばんばひろふみのバンドですよ。


487 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

荒井由美だよ<いちご白書

488 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:46

>戦争をしらない子どもたち

それのある意味アンチとして
パンダが「戦争しか知らない子供達」を作り、熱狂的な支持を受けていきます

489 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:50

梨本民青説をふいている人がいますが、それはうそです。

梨本は学生部を追求したことがあるらしく
学生部とはそりがあわなかったといっています。
当時法政大学は当局そのものが共産党色がつよく
学生部は共産党といえます。

法大生協が共産党だったために、学生会館には設置
できなかったらしいですね。

梨本が共産党であれば、共産党の学生部を追求するよりも、追求する
学生を排除する活動をいうはずです。

共産党民青は当時は今よりも相当セクト主義だったのですからね、

490 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:50

ということは杉田と有田と穀田はつながっているのか
立命の3田か

491 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:53

荒井由実時代はおそらく、カクマルにカンパしていたとおもわれますね。

ところで琉球カクマルの松任谷由実の弟は足をあらったのでしょうか。

492 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

立命館民青全盛の時代ですね。

493 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

中島みゆきは、内ゲバの周辺にいたことは明らかだね。
「まつりばやし」は学生運動へのレクイエムだろうか


495 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:58
>>493
学生運動へのレクイエムでいえば「世情」でしょう

494 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:57

荒井由実には、カクマル臭は全く感じないが。


496 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:59

松任谷由実の初期を聴いても、
どう考えても
マルとは対極のセンス。w

497 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:00

パンタですか、懐かしい。

498 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

「まつりばやし」の方が表現が間接的な分、意味深長に読める。
「世情」は、一度はなれてから、客観視してる印象。

499 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

おそらく中島みゆきは北海道全学連共闘シンパだつたのでしょう。

また松任谷由実の弟は沖縄マル学同でしたね。

500 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:04

まだ現役なのだろうか、松任谷由実の弟は。

501 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:38

ちゃうちゃう。中島みゆきはノンポリ。全く関係ない。

502 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:04

北大の音楽サークルらしいから、当事者だったかどうかは知らないが、いろいろ見てるよ。


503 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 22:05

地上の星ってまさか…

504 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:10

昔、「中島みゆきの弟が、革マルの(元)活動家で、その弟への『仕送り』的な意味で革マルのシンパである」という噂を耳にしたことがあります。

あ、あと松任谷由美は、学生時代革マルの活動家だった、とか。

『卒業写真』は、活動をやめたころの彼女の心境を歌っている、なんて言われてました。
真偽のほどは定かではありません。

505 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:22

ちゃうよ。

松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマル派。
仕送りしていたのは松任谷由実。

中島みゆきのほうが、カクマル活動家だったらしい。

いちご白書が弟のことをおもったもので、
世情などがカクマル時代の中島みゆきをうたったものだと
いわれています。

504さんは意図的にすりかえていますね。

中島みゆきは北大ではありません。
ただ北大のサークル連合はカクマルが掌握し
シンパもいたといえます。

みゆきは全学連北海道共闘系だったということでしょうか。


507 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:33

実は、内ゲバのテーマソング?

 キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね

508 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:34

話題が松任谷の弟になったからですか、カクマルよ。

現役かどうかはしらんが転向していたとしたら、
いい資金源をうしなったわけですがね。

509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:50

また、趣味者相手にカクマルですか。マル厨が涌きますので止めてください。


510 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:58

元カクマルの趣味者かな


511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:04

マルがマルネタで面白がってもな。

つ・ま・ら・ん


512 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:09

コケマル趣味者か・・・
ほんと、つまらん。


515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:49

あのね、中島みゆきは違うんですよ。(キッパリ)

516 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:56

もともと北海道には「中島みゆき=革マル(シンパ)説」なんてなかったんです。
今は、本州からその「説」が流れ込んできていますが。

北海道の、その年代のいろいろな潮流の活動家に聞いても「そんな説は知らん」
といいますよ。

北大は革マルがおさえていましたが、「北大祭」と言えばそんなことは関係なく
地元では大きなイベントなんです。そのイベントに、隣の大学(藤女子大)にいた
彼女が参加しても何の不思議もないのです。

517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 11:08

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる

518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:23

北大祭は革マルがやってんだろ。
動労とか総動員してさ。

早稲田祭のように動労を動員させて、記念集会みたいのやっていたわけだろ

519 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:35

北大農学部自治会て?
http://www.milkcafe.net/test/read.cgi/hokudai/1073889974/

北海道大学農学部自治会
http://www1.odn.ne.jp/~adu56780/index.html


520 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:49
>>518
農学祭だろ


521 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 13:04

いいえ北大祭じたいでしょう

522 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 19:01
  
転び上手の子守歌

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

523 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/11 02:49

くすはっ。
「北へ・・・」観たが、マルのマの字も出やしねぇ。
ちなみに舞台は北大な。

北大にマルはい・ら・ね・え。
失せろ、北大の恥。
http://fc2masaki.blog.fc2cn.com/blog-entry-42.html
19:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:50:45

革労協スレッド31

186革命的名無しさん2017/10/28(土) 07:37:19.79
>>182
お前のようなモノには、革命も解放も永遠に理解できないだろうな。
関係無いけど、中島みゆきの歌を思い出したよ。

「闘う君のことを、闘わない奴がわらうだろ。冷たい雨の中を、、、」だったかな。


187革命的名無しさん2017/10/28(土) 12:33:46.54
>>186
解放派が、中島みゆきを賛美しちゃダメでしょ。
革マルなんじゃなかったの。


189革命的名無しさん2017/10/28(土) 17:17:26.00
>>187
おい、中島みゆきは本当に革マルなのか?
証拠は?

190革命的名無しさん2017/10/28(土) 17:21:11.93

ないが、趣味者界隈じゃ常識だろ。


192革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:30:17.08

中島みゆきは革マルじゃないよ。
あんないい歌を創る人が革マルであるはずが、ないじゃないか。

194革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:41:13.56

内田樹が元革マル  解る
中島みゆきが元革マル  嫌

195革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:51:35.50>>204

いや、中島みゆきは元革マルだ!
なぜなら北海道出身だからだ!
北海道は革マルの牙城なので、
ゆえに中島みゆきも革マル派以外の何者でもない!ww

それにしても「世情」は、
いつ聞いてもいい曲だな!
党派や時代を超えて、
人々の胸を打ち続ける!


200 195 2017/10/28(土) 19:51:19.78>>202

今、YouTubeで「世情」を改めて聞いてみた!

「シュプレヒコールの波、通り過ぎて行く、
変わらない夢だけを、流れに求めて」

この部分は、
新左翼各派の人間が共通に抱く感情!


だが、しか~~~~し!
その後の…

「時の流れを止めて、変わらない夢を、
見たがる者たちと、戦うため~~♪」

なんじゃ、こりゃ!
新左翼各派と対峙してきた、
公安or革マルのことかいな?!(?_?;


202革命的名無しさん2017/10/28(土) 20:12:17.28
>>200
世情のその歌詞は、私も以前から疑問でした。みゆき本人にきかないと分かりませんね。
ところで、私が歌詞を間違って紹介したのはファイトのほうです。
別に屈折したエリート主義の歌じゃないですよ。
力弱き人たちが世の不条理と闘う、そのことへの応援歌ですよ。
革マルと正反対じゃないですか。

203革命的名無しさん2017/10/28(土) 20:22:39.99

ンダ、ンダ。解放派への応援歌だ。

204革命的名無しさん2017/10/29(日) 01:49:21.93
>>195
すげえな。それなら北海道出身者は全員革マルだな。
解放派にも拠点大学がいつくかあったが、
ではそこの学生はみんな解放派の活動家かシンパなのかといえば違うだろ。

と、ネタにマジレスしてみる。

205革命的名無しさん2017/10/29(日) 02:20:45.59
>>204
そうだよ!
あの松山千春も鈴木宗男←(ってこの字だったかな?!(-_-;))先生も、
隠れ革マル派シンパだよ!
ってなわけねうだろうが…(ノ`△´)ノ

ところで確か小樽水産大学←(でしたっけ?!)も、
かつては解放派の拠点大学とか書いてあったけど、
まあ、昔々大昔のことなんでしょうねえ!

2061952017/10/29(日) 04:47:03.55>>207

深夜に目が覚めてしまい暇だったので、
中島みゆきの「世情」の歌詞の解釈について、
いろいろとググってみた!


皆さん一様に、
「この歌は難解だ」「その歌詞に二重性がある」と感じているようだ!


中島みゆき 「世情」の歌詞の解釈
http://nvc.halsnet.com/jhattori/Spirits/NakajimaMiyukiSejyou.htm


中島みゆき「世情」の二重性
http://blog.goo.ne.jp/daslebenistschoen/e/d6ac2321fe3736b755a245c9c6d51d0c


「世情」という曲と、もののあはれ 山桜
http://blog.goo.ne.jp/tousui-00/e/4a7c2f53bdc9a4eb9a88fa23ee0fec36


【歌謡曲批評】中島みゆき「世情」
http://mantenbook.seesaa.net/article/229392150.html


でもやっぱり自分としては、
昔から趣味者界隈で流布されている←(自分の思いこみや記憶違いかもしれないが)、
「中島みゆきの世情は革マル派の応援歌」といった説が、
今のところは一番しっくりくるのだが…(-_-;)


207革命的名無しさん2017/10/29(日) 06:39:59.78
>>206
革マルを応援するモノなどいない。みゆきは、もちろん、誰も革マルなど応援しない。
革マルを応援するのは、革マル自身と国家権力、ヤツラノ****性を知っているファシストくらいのものだ。

208革命的名無しさん2017/10/29(日) 07:28:44.27

現実に戻ると(笑)。

「世情」は、「3年B組金八先生」の第2シリーズ(1980年10月~1981年3月放映)の第23話の

「加藤優(直江喜一)」が不当に刑事に連行されるシーンのバックに流れた曲として有名らしい。

つまり、1981年に10代であった1960年代後半以降生まれの人たちにも、とても良く知られた曲らしい。彼ら彼女らは、「世情」に涙ぐむ。

209革命的名無しさん2017/10/29(日) 08:29:36.92>>210>>212

中島みゆき=革マル説の根拠は、せいぜい歌詞にある「ライフ」という店が革マルのたまり場だった
ということ以外は、聞いたことがない。

しかし、革マルって特定の店をたまり場にする習性があったっけ?

彼女が北海道にいたころは、革マル一色ではなく、旧三派いずれも北海道でそれなりに勢力を持っていた。

中核などは「北大戦争」と称して数十人の竹竿部隊をだだっ広い北大に投入して、丸一日構内を彷徨っても、遭遇せずに帰ったなどというのを数次にわたり実施した。
(このあたり、早稲田に登場して革マルを蹴散らした解放派とは違うな)

70年夏の例の一件以降、中核の学生部隊は北大などから一掃。されど、アゲハが71年の沖縄闘争に40~50上京して、他の府県の高校生より多かったという話もあるから、それなりに残存していたらしい。

ブントも中央の日向対12.18の分裂に際し、独自の立場に立っち、「北海道戦旗」を名乗って活動。

解放派については、ここの住人の方が詳しいでしょ。
ようするに、いろんな人たちがいたんだから、革マルであると限らない。
 

ちなみに、清歌手で革マルなのは、松任谷由美。
100万もの金をカンパしたとか、三里塚闘争に賛同した長谷川きよしや山崎ハコを恫喝した話は有名。

松任谷と中島の作風を考えれば、中島が革マルであるという説は信用しがたい。


210革命的名無しさん2017/10/29(日) 09:08:32.92
>>209
中島みゆきが革マルでないことは、最早、明確になった。

しかし、ユーミンが革マルと云うのも、眉つばではないか?
プロレタリア統一戦線戦闘団の服務規律をまとめた書物の名称は「ルージュの伝言」だぜ。
ユーミンが革マルだと、非常にまずい。


212革命的名無しさん2017/10/29(日) 12:43:04.83
>>209

丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
その頃までには北海道には さまざまな党派が現れていたのですね!

自分は

「たまたまみゆきさんが、革マル派の主催した集会か何かに、それとは知らずに呼ばれて歌ったところ、それ以来、革マルシンパの話が生まれた」

みたいなことを、かつてどこかで聞いたような覚えがあります!

ユーミンが革マル派だったのですか?!
いや、ほんと、このスレは、いろいろと勉強になります!
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1507656442/
20:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:51:24

159 :Track No.774:2013/01/02(水) 08:45:06.11

「誰のせいでもない雨が」について思う所を聞かせてくれないか?

以下は私の意見。

黒い飛行機=在日米軍戦闘機
怒りもて石を握った指先、罪をうがった唇という歌詞から

歌の主人公はかつて日米安保条約に反対していたが
今は平穏な生活を送っている元活動家で
3番の歌詞は回想であり

私たちの船は計画を意味するのかも知れない
それを警察が知って実行前に乗り込まれた
早すぎるというのは誰かがその情報を教えたから

滝川と後藤は計画前に
仲間の元に帰らなくなり
燃える船の中にはいない
だから寒いだろうと

自分と泣いている女は
船の外の同じ場所に立っている

裏切りとは船に乗らずに普通の生活を選んだこと
もしくは仲間を警察に売ったことではないだろうか

674 :Track No.774:2014/02/10(月) 19:06:12.90

ひさしぶりにきたら
なんでも答えてくれる方がいらっしゃるようなので

「誰のせいでもない雨が」は何をあらわした曲なのか解釈をお聞かせください!


676 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:54:25.98
>>674
 世情という曲があります。みゆきさんは自分がやっている曲は元々ロック
だと答えたそうです。体制や不条理に対する抵抗者である、そんな曲を作って
来たという意思表示かも知れません。

 雨が誰かのせいで降るわけじゃないのはあたりまえですが、雨が降ったり
夜が濡れたりするのは、自身の今が誰のせいだとも言えない、生きて行く上で
止むを得ない結果なのと同じだと感じているのです。

 しかし、その成り行きに忸怩たるものが有り、時が早く過ぎれば全ての憤り
を忘れる事が出来るかも知れない、そんな感情を「癒せ」という言葉で表して
いるのだと思います。


677 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:55:01.74
>>674
「誰のせいでもない雨が」の歌詞はすべて比喩で表せていますね。

非常に難解な比喩で表されている一つ一つの比喩を説明していたら、ここでは解釈や説明が、出来ません。かなりのインテリでも無理です。

簡潔に解釈したいと思います。歌の主人公の心理状態、状況の説明から入っても解説が非常に難しい。
個人的で勝手な解釈ですが、学生運動などの活動家の心情が歌われているように感じます。

七五調の文学的表現を使っているが何のことか、一見分かりにくい。難しい、とりあえず勝手な解釈で
元活動家の過去を想い志半ばで挫折した己の現在の心情風景が垣間見れる。過去の回想。

哀れな己の姿を思い浮かべ早く忘れたい。すべて比喩語で描かれているので、最後に言えることは
「ファイト!」とは違う密かなエールを送っている。早く忘れろ、すべては終わったんだ 
終わったことは一刻も早く忘れろ 一刻も早く忘れろ 

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

726 :Track No.774:2014/02/13(木) 01:25:34.77
>>676 >>677
「誰のせいでもない雨が」について答えてくれた方、ありがとうございます。
でももうちょっと具体的に聞きたいです。

たとえば1、2番の歌詞は日常から過去を語っていますが、

3番「船は港を出る前に~」からの歌詞がかなり緊迫した状態になりますが
これは日常自体が緊迫した状況へ変化したのでしょうか?

それとも過去の映像がフラッシュバックしてるような感じでしょうか?

738 :536:2014/02/13(木) 21:05:59.41
>>726
 私たちの船は永く火の海を沈みきれずに燃えている
が、前の文章を解く根拠となるでしょう。倒置法です。
怒りや憤りや後悔を引きずっているという感じです。

 つまり、伝令とは体制に抵抗する者たちに警告を与える存在です。
学生運動なんかやると碌な事はないぞ、人生の航海を始められず、
後悔する事になるという警告です。

 かつての同士である滝川と後藤の噂を悲しみながらも、彼らを裏切り
家庭を持ち安住している主人公は、やり切れない気持ちを癒せるのは
月日が過ぎる事以外にはないと考えている、そういう詩だと思います。
 

741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム****事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。

751 :Track No.774:2014/02/14(金) 22:01:18.13
>>738>>741
よくわからないんですが
つまり「誰のせいでもない雨が」の3番は1、2番以前の回想という意見ですか?

752 :Track No.774:2014/02/15(土) 12:08:14.01
>>751
 >>738です。>>741さんの解釈はかなり過激で僕の意見とは少し違います。(笑)
決してオウムを容認するような詩ではなく、学生運動、政治活動の主な対象は
日米安保だと特定していいと思います。黒い飛行機がそれを示しています。

 一番から三番まで同じ時間の思いです。伝令があったのは過去です。デモを
止めるように拡声器で警告した警察とか、大学教授などの大人たちからの将来
に関する注意です。

 その過去と今日までの自分の生活を、船の航海(想念)によって喩えているんです。
滝川と後藤は昨日捕まった、或いは死傷したので、回想ではありません。


779 :Track No.774:2014/02/17(月) 23:09:28.44
>>752
「私たちの船」というのは日米安保に対する思いみたいなもの?で
それは過去から現在まで「燃えている」ということですか?

滝川と後藤は現在における昨日まで活動家をしていた
つまり主人公は子供が生まれて活動家を止めたけど
そんなに時間はたっていなくて、仲間との連絡も取り続けていたってことですか?


781 :Track No.774:2014/02/18(火) 18:37:04.29
>>779
 >>752です。そうです。炎は赤いので、或いは赤軍派だとか共産党を
示す象徴かも知れません。

 そうです。滝川と後藤は同志でしょう。連絡はどうかわかりません。
別の同志から噂を聞いたんです。


928 :Track No.774:2014/03/02(日) 15:04:08.05

>>676 >>738 >>781が僕のレスです。

 伝令は命令を伝えるだから、「沈んだと」が指すのは私たちとは別のグループでしょう。
当局、警察、大学などからの私たち(の活動)への警告や命令です。
 しかし、火は消えず、沈みきれずに燃えているのだから、仲間からの連絡や
グループ自体は存続していて、潜伏しているというところでしょうか。
 滝川と後藤は過去ではなく、現在のきのう帰らなかったんだと思います。
それで、女は(誰のせいでもない)雨の中で泣いているんです。

 船に乗り続けているんだと思います。


935 :Track No.774:2014/03/02(日) 18:54:54.78
>>928
沈んだ船と沈みきれずに燃えている船は別の船という解釈ですか。
たしかにその可能性もあるかもしれませんね。

私は「さむかろうね」という言葉と「燃えている船」は対照的だと感じました。
だから滝川と後藤は船から降りた者だと考えました。
一般的にはやはり滝川と後藤は船に乗っていて
女はどちらかの恋人という解釈なんですかね。

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/
21:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:51:55


2010年11月17日
民主党、隠れ革マル派の見分け方・・・中島みゆきだった!


 中島みゆきが、警視庁の「革マル派シンパ」リストに名前があがっていることを知っているのは、限られた人だけだった。

 ほぼ同年代で、中島みゆきと同じ北海道出身のボスによると、

「ま、北海道は革マル派の牙城というか、学生運動=革マル派という時代があったから、その手の集会に顔をだしたら、革マル派シンパと認定される可能性があった。高校の後輩が、道警に就職したが、こいつも革マル派シンパか?と査問されたことがある。つまり、北海道では日教組、ロシアのスパイの次ぐらいに前職、元職をいれて革マル派が多い」

 と、のんきなことをいっている。
 こんなことだから、北海道はロシアの植民地にされかねないのだ。

 さて、民主党に革マル派が浸透しているという話だ。
 平沢勝栄先生が国会で追及したJR総連出身の参院議員のことだけをいっているのでない。秘書なのだ。民主党国会議員の秘書に革マル派が増殖中。
 どれくらい増殖中かというと、゜「自民党に浸透した統一教会・勝共連合出身の秘書にせまる勢い」(公安調査庁の担当者)
 という。

参考:JR総連・「松崎明」の運転手兼ボディガードでしられる「田城郁」 民主党から参院比例は難航・・・

 ところで問題は、
 以下の中島みゆきの「世情」である。

「シュプレヒコールの波・・」で有名になって、「革マル派のテーマソング」といわれていた時期がある。

 市民団体主催の反戦運動や集会で、この曲がでたら、「革マル派主催」といわれたものらしい。
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/51115354.html
22:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:53:28

中島みゆきの噂

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:30

ある?


2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:47

視力が0.1にも満たないらしい。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:51

下北に住んでるらしい。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:57

昔、高校時代の写真が某音楽雑誌に載ってたけど、
お下げ髪にセーラー服姿だった。

>>2にも書いてあったけど、とても近眼で、牛乳瓶の底みたいな
レンズの眼鏡を掛ける事があるけど、本人はけっこう気にしてるみたい。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 21:07

男関係は?大昔、松山千春と噂あったよね。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 00:30

どだ?

7 :奈々氏:2001/07/08(日) 08:11

結局結婚しないのかな?あの人。

ちーさまとの噂はなんかの本で見たな。

ちー様 ヲレ達結婚するらしいな(藁
みー  あっはっは!らしいね(大藁

こんな感じの。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 08:36

夜曲の「街になーがれーるー歌をーきいーたーらーきづいてー」
って誰に向けて歌ってるのかな?当時好きだったひと?

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 11:19

ずっと不倫してたよね。どうなったんだろ。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 11:27


誰とですか?

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 20:48

いい年こいてニンジンが嫌いだそうな。

いっぺん椅子に縛り付けて無理矢理喰わせてみたい。
歌姫のプライドを引き裂く恥辱プレイだね。(w

12 :名無しさん:2001/07/08(日) 22:23

人参じゃなくて
セロリなんじゃなかった?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 22:40

カップラーメンが好きなんだよね。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/07/08(日) 22:40

>>12
両方嫌い。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 23:20

ユーミンよりは美人だね

16 :大人の名無しさん:2001/07/09(月) 01:15

みゆきさんが一方的に
千春のこと好きだったみたい
千春は勘弁してよ~って感じでした。
この間テレビで千春本人が暴露してました。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/09(月) 01:28

>>16
そうだったの?じゃああいつに向けて書いた曲もあるんだろうね。
昔は髪ふさふさで結構かっこ良かったもんね。>松山

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/09(月) 01:41

>>16
結婚すればビックカップルだったのに、惜しいね。

19 :ななし:2001/07/09(月) 02:30

》10  「36.5゜」あたりから、いっときプロデューサーをやった、椎名和夫さんでしょ。         当時、『エンマ』っていう写真誌にすっぱぬかれて、結局おわったみたいよ。 プロデューサーが今の瀬尾さんに変わったのも、そのせいと思われ。

20 :名無しさん:2001/07/10(火) 22:29

瀬尾師匠から新しいプロデューサーに
替わるにはマスコミに
すっぱぬかれなきゃ無理かな?(藁

21 :名無しです:2001/07/10(火) 22:50

でもその瀬尾師匠と組んでもう10年以上…
今更すっぱ抜くも何も業界では「暗黙の。。。」
ってやつでしょう。
現時点では瀬尾師匠も独身なわけだし。

22 :禁断の名無しさん:2001/07/11(水) 05:12

>>21
やっぱそうなんだろうね…。
瀬尾師匠って独身だったんだ~。意外。
中島さんが原因でわかれたの??

23 :名無しさん:2001/07/11(水) 12:25

そいじゃぁプロデューサーが
替わるのって・・・
大分先になるのかな?

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:19

あれ?千春だったっけ?
「うらみます」は当時いい仲だった山下達郎にあてて書いた歌だと
いとこに聞いたことがある。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:24

心の病で通院してるところを見たという書き込みを2chで見たことがある。
この人は「躁鬱病」を演じてるだけの人だと思ってたんだけど、その書き込みがホントなら
本物の躁鬱病ってことになるな。作風の背景にもそれがあると思われ。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:26

松山の言うことを鵜呑みにしてはいけません。
その証拠に、みゆき嬢はあれ以来、松山のまの字も言いません。
その反対に、松山は、ことあるごとにみゆきの話題を出します。
TVやコンサートetc
松山のコンサート言ってみ、絶対1回はみゆき嬢の話をします。
松山未練たらたら。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:30

そうだね。「俺は気がなかった」っていうのは照れ隠しだろうね。

28 :名無しです:2001/07/11(水) 15:04

>>22
みゆきさんが原因で離婚したと言う噂も
聞いたことはあるけど、私自身もよく知らないです。
でも瀬尾師匠が独身なのは、5~6年前に
親友である拓郎のラジオにゲストで出た時、
拓郎が言ってたから確かなはず。
(確かハワイの話題の時、「僕も瀬尾ちゃんもよく
行くんだよ。僕の場合は家族と、まぁ瀬尾ちゃんの場合
は一人だけど…」と言ってた)

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 15:21

元革マル

30 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/11(水) 22:01

瀬尾師匠と…とか思うと、『妹じゃあるまいし』のはもりが、なんだかラブラブって感じに聞こえてきたわ。
そういう曲じゃないのに…。
ファンの間では有名なお話だったのね。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:39

>元革マル?ほんとですか?
みゆきが10数回堕胎したという話は聞いたことある。
子供が産めない体らしいね。小説にも書いていたけど

32 :名無しさん:2001/07/11(水) 22:43

>>31
その小説って「寒雀」のこと?
みゆきさん、産婦人科医の娘なのに
本当に堕胎したことあんのかなぁ・・・?

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:57

>そうです。寒雀ですね。
それからエッセイでも、書いてますよ。
子供を持ってる友達と対比して
自分ことをWITHOUT BABYと言って、子供が作れない
女としての人生感を語っていました。
まだ30代の頃の話で結婚願望の強い人なのに
かわいそうですよね

34 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/11(水) 23:06

旦那が英国人の女友達だったっけ?

子供が作れないじゃなくて
子供が居たら仕事や恋愛に差し障るから
作ろうとはしなかったと思ってたよ。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:25

そうです。旦那が英国人の友達のこと。
しかしあなたも相当のみゆきファンですね。
私も自他共に認めるみゆきファンですけどね。
彼女のCDも本のできる限り集めてますよ。
理想の女性ですからね。
今好きな女もみゆきにそっくりですがね。顔が。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:46

すごいねここ。
あることないこと・・・
あぁ、噂板だからいいのね。
でも、小説と現実を一緒くたにする人っていったい・・・(それもうろ覚えの)
(歌と現実を一緒にする人と同類?)

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:53

ごちゃごちゃうるせいな。
私は、みゆきのことは、だいたいわかってるんだよ。
行間を読めということだな

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 00:03

あぁ、ごめんね。
ネタだったのね。それは、失礼しました。
でも、小説をネタ元にするのは、噂じゃなくって、妄想でしょ?

39 :ななし:2001/07/12(木) 01:00

》37  おいおい(藁 それだけ強気の発言をする程のみゆきオタなら、かって某対談で「わたしの中に『私小説』なんて言葉は無い」と言ってた事を、まさか!?知らない訳じゃ、ないだろに。(藁藁

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 01:18

いずれにせよ、貞操観念は堅そうだね。
よって、ロストヴァージンも遅そう。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 01:26

新曽根崎心中とか聴いてると、年下の男を調教するのが上手そう。
あの歌もなんか筆下ろしを連想させる。(w

42 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/12(木) 06:23

噂じゃなくて妄想じゃん・・・。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 06:29

>>42 文句いうならネタだせやゴルァ

44 :禁断の名無しさん:2001/07/12(木) 11:24

憶測でも妄想でも何でも良い
面白ければ許す。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 20:09

>
37  おいおい(藁 それだけ強気の発言をする程のみゆきオタなら、かって某対談で「わたしの中に『私小説』なんて言葉は無
い」と言ってた事を、まさか!?知らない訳じゃ、ないだろに。(藁藁

もちろん知ってるよ。その対談。私の歌は、すべて自分の体験ですと言ったのを
私小説と書かれたという話だったよ。つまり私小説ととらえてもらって
結構だという事だ

46 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/12(木) 20:14

某サイトで話題になった
さ○○○雨 って
囁く雨だったんだね。

47 :ななし:2001/07/13(金) 01:35

》45     だめだコリャ(藁  いいから、もういっぺん過去のインタビュー記事を読み返しに逝っといで。      あの対談の後からも、もう何べんも「いちいち歌の数ぶんの経験なんて実際にしてたら、とても身がもたないわよね(笑)」という趣旨の事を言ってるだろが!

勝手な思い込みはヤメマショネ(藁

48 :36=38:2001/07/13(金) 03:02

>>44 面白ければな。
つまり、ネタ作るんならもっと上手くすれってこっちゃ。
ちなみに、42とは、別人だからな。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 06:47

お前こそ、もう一回あのインタビューを読めよ。
俺は、ちゃんと確かめて書いてるよ。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 08:01

この人のオナニー観って聞いてみたいね。
かなり身近なテーマと思われるのに、
そういうようなことしゃべった記憶なし。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 12:51

オナニー観って・・・(w
誰か、ほかにそんな観しゃべっている人いるのか?

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 18:03

>>51 江角マキコ

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 18:23

ひとり上手はオナニーの歌なの?

54 :ななし:2001/07/14(土) 00:28

》49  なにを確かめたんだか。(藁

本人が聞いたら、のたうち回りそーだ。(大藁

ついでになんだが、アナタに『おまえ』呼ばわりされるすじあいは、無いと思うが?

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 01:11

>>51
江角マキコか・・・。何て言ってんだ?
でも、個人的には、みゆきと江角マキコを一緒にして欲しくなかったりして・・・。

56 :革マルみゆき:2001/07/14(土) 08:32

みゆきが卒業した大学を含め
北海道の大学は北大中心に革マル派が牛耳ってたらしいね。

革マル:日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派
中核派:日本革命的共産主義者同盟全国委員会マルクス主義学生同盟中核派

もともと同じ母体らしい。

57 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 19:49

>>56

お前さん、ひょっとして
懐柔吐かせなんかじゃないよね!?

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 19:53

柳美里は中島みゆきの大ファソ。小説はみゆきの歌そのまま逝ってるな。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 21:54

本名は中島美雪。医者の娘で藤女子大・・・。典型的お嬢ですな。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 22:47

お嬢だったのね。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 02:52

お嬢だよ。
おじいさんは、北海道でも名士。
中島公園は、そのおじいさんの名前を取って名付けられた。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 02:57

この人って結婚してるのですか?

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 03:04

天理教

64 : :2001/07/15(日) 03:52

age

65 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/15(日) 08:53

みゆきさんは結婚はしてないよ。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 22:56

革マルってのは、本当か?
北大軽音に出入りしていたのは、本当だが

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 22:58

振られる歌ばかり歌うのでブス扱いされるが、
よく見ると美人ですよね。そそる顔と体をしている。
もてる歌を歌いたがるユーミンの100倍は美人だ。
育ちの良さも感じるし。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:06

学生の頃、バイト先の同僚のオバチャンに聞いた話。
オバチャンが学生の頃、北大近くのアパートに住んでたらしいんだが、
隣が中島みゆきの彼氏の家だったらしい。
相当の修羅場があったらしく、ドアをガンガン叩いて暴れたりとか、
廊下で寝てたりとか、すごいことになってたらしい。
さすがあんな歌詞書く人よね~と
しみじみ語っておりました、オバチャン。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:13

>>68 それすごい。デビュー前のことか。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:19

>68
ほんとすごい。
情が深そうな顔しているものね。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/07/16(月) 23:39

中島みゆきに惚れられたら、地獄の果てまで追いかけてくると思われ。
ある意味スッポン。(w

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:56

今の気分的にはそれもいいかもとか思っちゃうぜー。
なんか誰かにめちゃくちゃ愛されたい。愛したいって感じなのさ。最近(w

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 00:04

『 愛していると云ってくれ 』ってやつ?

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 00:08

しかし、情念は諸刃の剣だからね・・・
「愛したい」って叫ぶ人は、結局は自分が好きなだけかも。

75 :68:2001/07/17(火) 00:20

私は中島みゆきさんをそんなに存じてないのでわからないのですが、
当時彼女は藤女子大の学生だったと思われます。
なので、もしかするとデビュー前でしょうか?

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 18:26

デビューは、卒後だが、大学時代からアマで活動してたよ

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/18(水) 19:49

68さん。中島の彼氏は、北大生のはずだが、そのおばさんも
北大生なの?

78 :68:2001/07/19(木) 22:55

>>77
いや、そこまでは知りません。
68で書いてるように、北大近くのアパートで、中島みゆきの彼氏の
隣の部屋に住んでたって話だけですから。
でも、年齢的なことを考えると、大学生とか短大生だったとおもいますよ、
おばさんも。

79 :名無し愛もーど:2001/07/24(火) 16:13

椎名和夫氏以前のブロデューサーで仲良かった人っていたの?

80 :名無しさん:2001/07/25(水) 10:05

プロデュ-サー でっすよん。
http://mimizun.com/log/2ch/uwasa/994505456/#22
23:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:54:20

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆきが吉田拓郎に提供した楽曲「永遠の嘘をついてくれ」は一説によると、夢破れた全共闘世代の胸の内を表現した歌とされています。

彼らの夢は日本の「赤化」、つまり「共産革命」であり、それこそが人民にとっての理想だったのでしょう。

しかし、共産主義の実態はそんな甘っちろいものではなく、
コミュニストの本家ソ連はもろくも崩壊してしまった。

彼らが青春を費やした革命ごっこは「永遠の嘘」だったというわけです。

吉田拓郎は反体制シンガーとして彼らの象徴的存在にまつり上げられましたが、のちに彼自身が「そんなつもりはなかった」と吐露しています。流行歌の歌手などに成り下がってほしくない、そして「嘘」に踊らされた自分たちを認めたくない全共闘世代は「拓郎よ、種明かしなんかするな。永遠に嘘をつき続けてくれ」とエールを送っているのです。

彼らは「嘘」と知りつつ、信じ続けることしかできないのでしょう。自己否定なんかしたくないから。

歌詞の一節にこうあります。

「たとえ繰り返し何故と尋ねても 振り払え風のように鮮やかに
人は皆望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから」


「望む答え」とは何でしょう?

自分たちがヘルメットをかぶり、ゲバ棒を振るったのは
決して間違いではなかった―という「答え」なのでしょうか。
それに対するポスト全共闘世代の当方の「答え」はこうです。

「いつまでも甘ったれてんじゃねぇ!!」

エコノミックアニマルと蔑まれても日本国家再建と豊かな生活実現のため歯を食いしばって頑張った戦前、戦中世代の皆さんへの敬意を捨て、
現実離れした妄想を膨らませてごっこ遊びに興じた自分を恥じ、靖國神社で深々と頭を下げて来いと申し上げたい。

ちなみに「永遠の嘘をついてくれ」は当方の愛唱曲でもあります。いつまでも悪あがきする人間の業に対し、戒めを込めた歌として口ずさんでおります。

投稿: やす | 2018/04/26 11:25
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2018/04/post-66b3.html



▲△▽▼

【永遠の嘘をついてくれ/吉田拓郎】
中島みゆきの深い想いが込められた歌詞を徹底解釈!アルバムも紹介♪
https://otokake.com/matome/AQIHr0


古くから関係があった中島みゆきさんからの提供楽曲「永遠の嘘をついてくれ」を紹介します。自身で作詞作曲していた吉田拓郎さんが何故、楽曲の提供を頼むようになったのでしょうか。


中島みゆきさんからの提供楽曲

吉田拓郎さんは昭和を代表するシンガーソングライターの一人です。

多くのミュージシャンが自身のルーツに吉田拓郎さんを上げるほど、多くの人に影響を与えてきました。

今回紹介させていただく、「永遠の嘘をついてくれ」を楽曲提供した中島みゆきさんも、吉田拓郎さんをルーツに挙げています。

中島みゆきさんとの関係

中島みゆきさんは元々、吉田拓郎さんのファンだったそうで、追っかけをしていました。

吉田拓郎さんの楽屋に出入りするほどで、多くの人に認知されていたようです。

中島みゆきさんがデビューしてからも、吉田拓郎さんをルーツにしていることを感じさせる歌詞の曲があります。

吉田拓郎さんは字余り、字足らずな歌詞の曲が特徴的ですが、それに似た曲がちらほらあります。それほど吉田拓郎さんから影響を受けていたのでしょう。

作詞作曲を頼んだのは初めて


吉田拓郎さんがこれまでに出してきた楽曲の作詞作曲はほとんど自身で手がけていました。

ですが、中島みゆきさんの「ファイト」を聴いて「もう自分はこんな詞を書くことは出来ない」と言ったそうです。

そこで中島みゆきさんに「遺書のような曲を作って欲しい」と頼んだそうです。

吉田拓郎さんは引退を考えていて、最後の曲として中島みゆきさんに書いてもらった歌を歌おうとしていたのかもしれません。

吉田拓郎さんの曲で、一人のアーティストに作詞作曲をしてもらったというのは初めての試みでした。
歌詞解説

ニューヨークは粉雪の中らしい
成田からの便は まだまにあうだろうか
片っぱしから友達に借りまくれば
けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい
なのに 永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている
永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ 二人とも旅の途中だと
君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 何もかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


成田からニューヨークまでは12時間かかります。お金だってかなりかかりますが友達から借り集めれば行けないわけではないです。

ですが、そこまでして会いに行きたいと思う人はいますか?

永遠の嘘を聞きたくて、永遠の嘘をついてくれと言っているのは、本当のことを知りたくないからでしょう。

本当のことを知ってしまうと、それは悲しみに変わることが分かっていたのでしょう。

騙す為の嘘ではありません。ここで出てくる嘘は人を思いやる嘘です。

この国を見限ってやるのは俺の方だと
追われながらほざいた友からの手紙には
上海の裏街で病んでいると
見知らぬ誰かの 下手な代筆文字
なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる
永遠の嘘をついてくれ 今はまだ二人とも旅の途中だと
君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


ここで注目してもらいたいのは2行目までの歌詞です。「この国を見限った友達は追われている」と書かれています。

追われながら、ということは何かの罪を犯したのでしょう。この国を見限ったということは海外にいることが分かるので、海外で逃亡生活をしていたのでしょう。

友人が遠い街で病気になったことを知らせる手紙が届いてきます。

2番の歌詞には上海の路地裏と出てきますが、1番の歌詞で歌われているのはニューヨークです。

時系列的には上海のから手紙が届いた後、ニューヨークに行くか悩んでいるという順です。

つまり、友人がいるのは上海ではなく、ニューヨークに行くことが分かったというのは、自分で上海に行って教えてもらったか、人伝で突き止めたのか、といったところでしょう。

海外に住む友達が手紙をくれるというのは、よっぽど仲が良かったか、よっぽどひどい病気でこの先長くないことを伝えたいかのどちらかでしょう。

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく
放っておいてくれと最後の力で嘘をつく
嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに
たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに
人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから
君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ

出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


友人はもう自分のことを探さないでくれ、という思いを込めて手紙を送ったのでしょう。

実際に病気だったのか、もうすぐ死んでしまうのかは分かりません。

ですが友人に迷惑をかけたくないとか、困らせたくないからという理由で嘘をついてしまうのでしょうね。

人を騙しているわけではないのです。愛を持って嘘をついているのです。

中島みゆきさんのラブレター?


歌詞の意味を解釈するのが非常に難しい楽曲だと思います。この楽曲には当時の背景があったと思うからです。

吉田拓郎さんは「遺書のような曲を作って欲しい」と頼んでいますが、かけ離れています。

この曲は中島みゆきさんが吉田拓郎さんに送るラブレターのようなものではないか、という説もあります。

曲が作れなくなった、と言う吉田拓郎さんに対して中島みゆきさんが「永遠の嘘をついてくれ」と言っているのかもしれません。

最後に「一度は夢を見せてくれた君じゃないか」という歌詞がありますが、それは中島みゆきさんからの叱咤激励にも聞こえます。

何にせよ、リスナーに沢山想像させたり、含みを持たせる文章を書くのがとても上手いですね!

吉田拓郎さんはどんな気持ちでこの歌を歌っていたのでしょうか。気になりますね(笑)

本人が作詞したのかと思わせる歌詞


中島みゆきさんが作詞した曲であることを調べるまで気が付きませんでした。

この曲は吉田拓郎さんの色がとても出ている楽曲になっています。

作詞の技術があるのももちろんだと思いますが、中島みゆきさん自身、ずっと吉田拓郎さんの曲を聴いて育ってきた人だから書けた歌詞なのでしょう。

歌うというより、語りに近い歌詞は吉田拓郎さんにとても似ています!
https://otokake.com/matome/AQIHr0
24:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:55:32

■学生運動をした芸能人~吉永小百合、坂本龍一

11革命的名無しさん2006/02/24(金) 10:25:08

所属も分かる範囲で。

芸能人じゃないんだけんどナベツネ、戦前日共東大細胞。
坂本は新宿高校→中核派と聞いた。
糸井も法大チュン。佐世保闘争で中核メットかぶりHNKからインタビューされてた。
宮崎美子は熊大の労働青年団、

中島みゆきは北海道時代、革マルシンパ。

吉永小百合は早大馬術部だろーが!
加橋かつみはマリファナだろーが! 

後は知らんなあ。

209革命的名無しさん2006/09/03(日) 11:15:54

浜田省吾

高校時代、広島でデモに参加してた

中島みゆき
藤女子大時代の彼氏が札医大の革マル派学生(現在も現役)

316革命的名無しさん2008/02/05(火) 10:40:11

中島みゆきって学生運動でバリケード作って大学に泊り込んでるときに
自分の好きだった男と友達の女がセクロスしてるのを目撃してショック受けて
そのまま運動やめて家に帰ったんだよね。

https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1140679815/

▲△▽▼

44 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 11:41:29.77 ID:lNIVgYI10
みゆきは学生運動に関わってたから学園祭とか呼ばれないのよ<藤

学生が呼びたかったのを先生方が反対して、二度と行かねぇみたいな
話になってるんだって。
代わりに清水ミチコが来てみゆきの真似して行った事があったとかw


45 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 11:54:54.99 ID:QJkTuccZ0

みゆきが入学した時は派手な学生運動は終わってたでしょ


46 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 12:04:19.46 ID:lNIVgYI10

北海道は時差があるからw
まあ「世情」とか出してるし
弟も関わってたんだってさー<学生運動

52 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 15:56:19.19 ID:yiHifc2A0
>>46
弟は4歳も年下の医大生よね
証拠も無しにネット上に書かれてたのを鵜呑みにしてるんじゃないの?

みゆきが本当に学生運動に関わっていたか気になった人がいて
その人が道内の活発に学生運動してた何人かに連絡を取って聞いたところ
誰からもみゆきが学生運動に関わっていたという証言は得られなかったそうよ。
これもネットに書かれてたことだけどねw

54 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 16:55:18.82 ID:6Y9pF+n30

学生運動に参加してないことはアルバム「中島みゆき」が出た当時の
雑誌のインタビュー記事と、「女歌」にしっかり書いてある。

55 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 18:16:12.49 ID:cP1yy4Kq0

天理教信者ってほんとかな。
みゆきさんでも信仰無しで生きられないものなんだろうか。

56 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 18:52:06.94 ID:R42aUsp80

生まれた時からの家の宗教じゃ仕方ない部分もあるんでは?
特に母親が熱心らしい。
本人は今はそんなに熱心でもないみたいだけど輪廻転生はずっと信じてるよね。



59 :可愛い奥様:2013/06/03(月) 00:59:17.27 ID:LOVQvsx/0

天理時報(号外)のことを知らない人がいるなんてビックリ。
そうなると、当然、コンサートのMCで「この近く(天理)にオヤジが眠っていまして・・・」って言ったのも知らないんでしょうね。


302 :可愛い奥様:2013/06/20(木) 11:18:56.47 ID:dsVudmUC0 

中島みゆきが、天理教の熱烈なる信者であることは、周知のことである。
中島家は祖父母の代からの天理教信者である。

 1994年9月30日付の「天理時報」(号外)に、中島みゆきは「幸せというものに」という詩を載せている。

 「幸せというものになってみたいと だれしも望むところではあるが さてだれのよいなと問われたら迷う」という書き出しだ。

人から幸せですかと訊かれて、いつから否定する癖がついたのだろう。
妬みが怖いのか。
ちっぽけな幸せなのに、幸せですと大きくうなずくのが惜しいのか。
そういった後、「そんなことで怯えなくていいんだよ そんなことで真実は傷つきはしないから」

と書いている。

305 :可愛い奥様:2013/06/20(木) 20:22:49.23 ID:xTXfywUsO

「糸」が今や結婚式の定番曲になってる事を考えれば
創価のように嫌われていない証拠だね。
みゆきさんも今は父親の供養ぐらいしか関わってないみたいだけど。

6 :可愛い奥様:2013/06/01(土) 11:31:53.58 ID:tqAy7G8V0

毒女とか言いつつ、瀬尾十三や松山千春、甲斐よしひろ、筒美京平なんかと浮名を流していたよね。
この人ずっと処女なのかな、と思っていたんだけど、妄想だけであんなに情念の曲を量産できないしね。

♪た•わ•わ
お前を殺したい♪
もなんか嫌な曲だ。


490 :可愛い奥様:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:BhdWWjBS019
彼氏いない歴774年[sage] 投稿日:2012/02/02 02:17:59  ID:B4QSRErT(1)

みゆきが咥えた皆さん

松山千春
甲斐よしひろ
瀬尾一三
松任市正隆
椎名和夫
長渕剛
吉田拓郎
工藤静香
柏原芳恵

492 :可愛い奥様:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:zgzfRm+t0
>>490
後藤次利
鈴木茂
斎藤ノブ
布袋寅泰
坂本龍一
前川清
上柳昌彦
亀渕明信
太田亮
世良公則
福山雅治
グーフィー森

書くなら全部書きなさいよw


565 :可愛い奥様:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:bS4LfVpJ0

後藤次利にも
長渕剛にも
松山千春にも
さだまさしにも
瀬尾一三にも
籍を入れていただくことを許されず
性のお慰みにしか扱われず
所詮、二号さんにしかなれない超絶根暗喪女

71 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 10:56:17.32 ID:yv0Y5hwT0

瀬尾一三に辿り着くまでに、アルバムプロデューサーを数人変えてきたよね。
中には松任谷正隆もいたけど、やっぱり寝ただろうね。

グッバイガールという意味深なアルバムから、瀬尾一三に乗り換え20年以上寄り添ってきたのだから、よっぽどSEXの相性がいいのだろう。
みゆきは精神上の少女に別れを告げ、オンナに生まれ変われたのだ。

75 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 11:48:23.23 ID:UNA5nIuaO

別にいいんじゃない?二人にとってその方がいい関係なら。
みゆきには元々世間の目をあまり気にしない強さがあるのよ。
だからああいう作風や活動を長年やってるのよ。

77 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 11:57:17.21 ID:yv0Y5hwT0

そんな強さがみゆきにあるのなら、
初期の頃のあの女々しい振られ歌オンパレードは何?
自ら赤裸々な失恋ソングを書いて自浄するしかなかったからメンタル弱かったはず。
メンタル強けりゃそんなもん書かんわいw

瀬尾と男女の関係を始めてから女々しい歌はガクンと減ったし、
吹っ切れたように軍歌や菩薩歌が増えた。

女って所詮そんなもの。
男で女は変わるよ。


79 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 12:11:21.84 ID:UNA5nIuaO

メンタル強いから心のストリッパーみたいな歌を公表できるんじゃない?
普通はもっと自分をよく見せようと飾るよ。

80 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 12:20:30.16 ID:yv0Y5hwT0

北海道大学くらい出てたら知性が邪魔して、今の作風には決してならないと思うがやはり藤女子大学の知能だからw
北大を受験したけど滑ったと聞いたから、納得がいく。


82 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 12:32:44.17 ID:yv0Y5hwT0

みゆきは不合格の烙印を押されたのにいけしゃあしゃあと合同サークルに入って北大をうろついてたらしい。
私は早稲田だったけど、我が物顔でキャンパスに上がり込んでる大妻や本女、学女、山脇なんかのチャラ牝がうっとおしかった。

118 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 17:34:03.09 ID:kNyneyNc0

今はどうだか知らないが、藤女子は当時はお嬢様学校。
クリスチャンで寮があって、校内に聖母像とかが立ってるようなそんな所。

藤女子の国文出てる有名人は知る限り中島みゆきと故氷室冴子。
2人とも独特の感性を持った作品を送り出している。

氷室冴子は前編だけや、連載中に絶筆した作品もあるが、
国文科らしい平安時代やもっと前のヤマトの頃の本もある。
個人的には、大半がのほほんお嬢だが、変わり種がたまに出るいい大学だと思ってる。


119 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 18:15:23.40 ID:nFMOcUJl0

北海道って大学無いからねw
女の子が道外に出るのは反対されるし、北大行ける人でも
ヨメにいけなくなるって藤にされたりね
面白い人が藤に集中する時代は確かにあったと思うよ
今はアレだけど。

123 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 06:43:31.78 ID:6zju4Btd0
>>119
でもみゆきは、嫁に行けなくなるからあえて藤女子大学にしたのではなく明らかに能力不足だったために北海道大学受験に失敗しているし、それもコンプレックスのひとつになっているんじゃないかな。


522 :可愛い奥様:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:lvDDsdN30

北大受かってたらどんなふうになってただろうね。
いい所の奥さまになったんじゃないかな。


527 :可愛い奥様:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:4UbmG82t0
>>522
いやもっと暴走していたかもしれん

ほとんど北大に入り浸ってたらしいけど多少なりとも
シスターやお嬢様に囲まれた学生生活も送っていたわけで
その辺は二重生活みたいなのを楽しんでたんじゃないかな
いやならみゆきの性格上きっぱり退学しそうだし

当時の藤女子大は道内の有名お嬢様大学の一つだよ
レベルも低くはない


996 :可愛い奥様:2013/10/14(月) 09:32:28.44 ID:fKW/tGOR0

北大受験した話はあなた以外聞いたことないけど
親父は北大医学部卒だけど


133 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 11:10:37.16 ID:6zju4Btd0

これだけ振られ歌を歌ってきて、いろんな男を乗り回してモノにできず、幸せな結婚もとうとうできずに
還暦を超えた今も働き続けねばならないなんて、よっぽど不幸に見舞われた一生だったよね。

135 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 11:40:22.82 ID:OMz5TXyrO

へ~?しゃべりが綺麗とは意外。
歌好きだけど、ものすごく喪女体質なのは確かでしょ。
スラッとしてるのと、整形大成功なのは羨ましい。

136 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 15:02:36.57 ID:mYz7xzYvP
>>135
喪女の神って感じだよねw
整形してるの?
紅白に出た時、えらい綺麗なオバサンになったなと思ったけど

138 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 16:15:40.48 ID:Zv/XJBqX0
>>136
歯をいじっただけよ
手入れは怠りないと思うけど元々色白で肌はきれいだし
ほんと僻みが非道いねw

142 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 21:42:54.04 ID:RKrBtO7t0

整形はそんなにしてないかもしれないけどしわ取り注射は打ちまくってるだろうね
紅白歌合戦では小皺だらけのおばあちゃんだったのに
5年後のライブDVDではつやつやの張りのある肌になってたw

143 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 21:59:17.31 ID:CMK2kXwU0

観察力が足りないわよ
いつでも目の周りは小皺があるけど、それ以外はつやつやきれいよ


155 :可愛い奥様:2013/06/07(金) 01:03:46.79 ID:G5Xp67940

世界歌謡祭の中島みゆきは曽我ひとみさんみたいだった。
顔は不細工だし歌も金切り声で下手糞だし
とても40年近く活躍する人には見えなかった。

157 :可愛い奥様:2013/06/07(金) 02:41:47.71 ID:qv4ZC/fo0
>>155
努力をすれば歌は上手くなるってことの証明だね。
みゆきさんは30代後半に本格的なボイトレをやったから
還暦過ぎた今でも歌声だけでじゅうぶん堪能できるライブをやれる。

158 :可愛い奥様:2013/06/07(金) 19:21:19.07 ID:licYZo3c0

若いみゆきの方が歌はよかった
予感あたりまでは本当に天才だったと思う
夜会も文化村まではなんとか見られた

けど瀬尾と付き合ってからはまったくダメ
コンサートも恥ずかしいような演出
真横斜め上の歌い方は見てるこっちが恥ずかしい

瀬尾はみゆきの才能をなくしてしまったな


268 :可愛い奥様:2013/06/17(月) 18:03:05.17 ID:wg0ueUm10
>>158
なんか物足りなくなった感じはするね

瀬尾時代よりも椎名時代~が好きですね
まあ瀬尾時代でもいいものはいいんだけど、なんか違う


449 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:l72Bz2u+0

みゆきが不倫体質なのは、もはや否定し難い事実でしょ?
それより瀬尾と事実婚になってから、音楽活動の幅が狭くなったわ。

そもそもみゆきに人類愛だの命の尊さなど期待してないのに。
むしろ、生きてもいいですか?的なアイロニーを期待してるわ。


333 :可愛い奥様:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:bKsFhbP+P

デビュー当時からずっとヤマハの幹部の愛人なんだよね。
なんだか哀れな人生。

336 :可愛い奥様:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:ZLDltHNR0
>>333
幹部っていうか天皇と言われた会長の愛人か何かでしょ

でも今やヤマハの役員だし
文科省の国語審議会委員務めたり紫綬褒章も授与されてて
結婚してなくてもお金はおろか本人の地位や名誉もあるでしょ
もともとの血筋も悪くないし勝ち組じゃない
歌の主人公とは全く違って哀れとは思えない

337 :可愛い奥様:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:zJrn0SR7O

愛人て根拠の無いただの噂でしょ
本当に愛人だったら親族が献歌をみゆきさんに歌わせないと思う

338 :可愛い奥様:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:/1IPtrgY0
>>337
愛人かどうかは知らないけどすごいワンマンな会長に
ヤマハのリゾート地をあちこち連れ歩かれてたのは確か
可愛がられていたみたいだね

島を貸切状態で料理人を連れてクルーザーやヘリでリゾートめぐり
バブル時代とは言えそういう体験を自分もしてみたいわ

339 :可愛い奥様:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:zJrn0SR7O

ヤマハのリゾート地を連れ歩かれてたのは谷山浩子さんも一緒よ

342 :可愛い奥様:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:P4eFYCqf0

みゆきは、愛人で終わる女でない。ヤマハの役員にまでなった。昔オールナイトでヤマハの爆破事故のお詫びを言っていたけど、まさか役員になるとはね~
あの頃から狙うものがそこらの河原乞食と違っていた。

431 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:l72Bz2u+0

しかし川上の葬式の時代って結構意味深だわ。だって愛人が葬式で歌うのでしょ?
まーみゆきにとっては、愛人をも超えた関係なのかもしれないが。
あの時代の笑いこそみゆきの暗黒時代を彷彿させるわ~


439 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:l72Bz2u+0

確かに川上の家族公認というか、あーいう破天荒な人の家族って黙認なんでしょ。
でもみゆきの献歌で涙している家族の映像とか意味深だわー。愛人の歌で何を泣いてたのかしら。
みゆきって写真集にも何度も撮られているほど、不倫体質なのは間違いないわ。芸のこやしとぐらいに本人は、割り切っているのかしらね~


440 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:7vt3qFidO

何度も撮られたとか凄い捏造w
撮られたのは一度だけでしょ
だからネットは全く信用できないのよ

441 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:KhTGMgyZ0
>>439
何度もって椎名和夫との不倫騒動と
夜会の演出家の2人だけじゃなかった?
現場写真はエンマにスッパ抜かれた
椎名和夫との密会だけだし。

442 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:KhTGMgyZ0

あとみゆきの「写真集」ってヤマハ出版から出てる歌暦一冊だけよw

200 :可愛い奥様:2013/06/12(水) 11:09:54.44 ID:ejU2z7I90

ちじょうの犯人(ホシ)でロングヒットを収めて惜しまれつつ引退してればよかったのに、
もう還暦過ぎて、皺くちゃの老婆だし、ヒット曲も書けない、
歌詞も覚えられない、上りの傾斜は険しくなるばかりの晩年•中島みゆきサンw
引っ込みどきを間違え、引っ込みつかなくなっていい気味w

248 :可愛い奥様:2013/06/16(日) 10:56:19.05 ID:d5B/nXtU0

売れてた頃の中島みゆきの曲は平易な表現でリスナーの共感を呼ぶ歌詞が多かったよ。
最近の詞はべつに歌いたいことがなくなったのか
堅い単語や言葉遣いを羅列してお茶を濁してるきらいはあるけれども

253 :可愛い奥様:2013/06/16(日) 16:04:03.99 ID:9D3Z93iUO

なんでいつもがなって歌うの?
昔の若い頃は普通の歌いかただったのに
懐かしい歌謡曲のVTRを見る番組でワイプゲストに最近のは失笑されてる

399 :可愛い奥様:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN ID:fow6KJa00

中島みゆきってご乱心の時代を経て、軍歌とメロディックパワーメタルに開眼し、
しかし実力不足で消化しきれずに
今みたいな訳わからん糞曲をヒリ出すようになったよね。
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/ms/1370020637/
25:777 :

2022/05/19 (Thu) 11:57:22

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」の正しい解釈 15年7月執筆


 吉田拓郎の、というより中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」は、佳曲と名曲と名曲中の名曲しかない中島みゆきの、90年代の大傑作で、吉田拓郎に提供することを前提に作られた

“いかにも拓郎っぽい”歌詞とメロディでありながら、それでいて中島みゆきの曲以外の何物でもないという、“神”に不可能はないことを改めて思い知らされる作品だが、拓郎・みゆき、どちらもアルバム収録曲でシングル・カットはされていないにも関わらず、かなり広く知られているようで、ストリート・ミュージシャン稼業でたまにやってると立ち止まる人も多い。


 が、とくに私と同世代ぐらいとか、それ以下の世代だと、この曲をすごく好きな人であっても、歌詞の意味をちゃんと理解していない場合がほとんどなんだろうなと以前から思っている。

「永遠の嘘をついてくれ」は、簡単に云えば「まつりばやし」とか「誰のせいでもない雨が」などの系列の、要するに明白に“学生運動ソング”で、聴く人が聴けばもう反射的にそのことに気づくのだが……

そんなこと分かってるよ、という人もあるかもしれないが、試しに「永遠の嘘をついてくれ」で検索すると上位にアホみたいな誤読解説も出てきたことだし

「自分の許を去った男に向かっての未練」の歌なんだってさ!

無粋を承知で解説したい。

 たぶんもう何十年も会っていない古い友人、語り手の人生にとってかなり重要な存在であるらしい友人が、どうやら遠い異国で病で死にかけている、という状況が歌われる。

友人は「俺」と云ってるし男だろうが、語り手もおそらく男である
(そもそも吉田拓郎に歌わせるのが前提でもあるし)。

前記の誤読解説者が云うような恋愛方面の歌ではなく、ある種の“男の友情”的な歌である。


 相手が死にかけている場所は「ニューヨーク」なのか「上海」なのか分からない。たぶんニューヨークだろう。「上海の裏町で病んでいる」という「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」の手紙が突然舞い込んだわけだが、手紙は「探しには来るなと結」ばれていたわけだし、相手は自分の本当の居場所を伝えてきたわけではない可能性が高い。語り手の側が、独自に手をつくして探した結果、実はニューヨークにいることが判明したので、冒頭で語り手は急遽ニューヨークへ飛ぶかどうかと迷っているわけだろう。


 これが“学生運動がらみ”の歌だと分かるのは、2番の冒頭のフレーズからである。

「この国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友」

と云っている。これだけでもうピンとこなければならない。


 この友人は要するに学生運動上がりの“国際テロリスト”か何かである。
たぶん70年代初頭に国内での何らかのテロ事件の容疑者として指名手配されるかして(したがってこの時点ではまだ“国際”テロリストではない)、国外逃亡したのである。

そして間違いなく友人は国外へ渡った後も革命運動に少なくともしばらくは挺身している。そのことを語り手はずっとニュースで知ることができていただろう。

ところがどこかの時点で友人は一切消息不明となる。生きてるいるのか死んでいるのかも分からない、という長い期間があり、最近になって突然、死にかけているという手紙が本人から届いた、というわけである。

「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」なのは、日本の公安当局の監視を警戒してのことであるに決まっている。


 語り手の側は、若い頃、おそらく学生時代に新左翼運動に関わった時期があり、しかし短期間で運動を離れて、フツーに就職して、そうした運動体験は過去のものとして、“平凡な一市民”としての人生を送ってきた人間である。

もちろん死にかけている友人との関係は、“同志”的なものか、それに近いものだったろう。印象としては、党派の同志というよりも、“何々大学全共闘”とかの同志で、闘争が後退する過程で友人はテロ路線に走って地下に潜り、語り手は運動を離れた、という雰囲気である。

史実にムリヤリ当てはめると、例えば友人は赤軍派に加盟し、弾圧され追いつめられてアラブへ渡ったとか、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に身を投じて逮捕されたが、日本赤軍のハイジャック闘争によって“超法規的措置”で獄中から奪還され国外へ出た、みたいなことだろう。

もちろん歌詞の内容はあくまでフィクションなわけで、“おおよそそんな感じのこと”という意味で私は解説しているまでである。


 要するに語り手は“日和って”運動から脱落したわけだが、今も世界のどこかで闘っているはずの友人の存在が、いつでも語り手の人生において影のようなものとして意識され、負い目の対象であったり、挫折した自分の代わりに“志”を貫いてくれている救いであったりしたのだろう。

もちろん、いつしか消息が途絶えて以降は、友人が引き続き革命を目指して闘い続けているのかどうか、そもそもその生死すらも分からない状況となっていた。

語り手は、今も闘い続けていてほしいと願ってきたが、一方で、彼が今もどこかで生きてはいるとしても、すでに革命への希望を失って、自分の闘いはすべてムダだったと、敗残者として抜け殻のような“余生”を送っているのかもしれないという不安も常に抱いていた。


 そこへ突然の手紙である。現時点では、まだ生きていたということだけが分かり、消息が途絶えて以降の友人がどのような人生を歩んだのかは不明である。闘い続けていたのか、すでに負け犬と化していたのか、まだ分からない。語り手は、答えを知るのが怖いという気持ちを持っている。たぶん友人もどこかの時点でとうに挫折していたのではないかと薄々思っている。


 「永遠の嘘をついてくれ」というのは、「ずっと闘っていたし、今でも闘っている」と云ってくれ、の意である。

「まだ旅の途中だ」と云ってくれというのは、「我々の革命はまだ途上である」つまり「まだ革命をあきらめてはいない」と云ってくれ、の意である。

「嘘をついてくれ」と云っているのだから、そのように「強がってみせてくれ」ということである。

「永遠のさよならの代わりに」、つまり友人はもう死ぬわけだが、最後までその「嘘」をつきとおしてくれ、と。


 「やりきれない事実」というのは、友人もとうの昔に挫折して異国でただ無意味な“余生”をいつしか送るようになっていたという事実である。友人もそのような姿を語り手にさらすことを恥じ、ずっと闘っていたし今も闘っているという「永遠の嘘をつきたくて」、「探しには来るな」と書き添えたのである。


 世間の連中はこういう、大それた夢を描いてどこぞへ飛び出していったような連中の“悲惨な末路”を見たいのである。

「オレが間違っていた。革命なんて幻想だった」と云わせて安心したいのである。

「みな」が「望む答え」とはそういう答えであり、語り手は、そのような答えを引き出そうとつきまとってくる連中を「風のようにあざやかに振り払え」と云っている。


 「一度は夢を見せてくれた君」が見せてくれた「夢」とは、テルアビブ空港事件とか、三菱重工爆破とか、そのテの何かであるはずだ。

「出会わなければよかった人」というのは、塩見孝也とか太田竜とか、とにかく友人をそのような道へと誘い込んだ誰かだろうが、「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」というのはもちろん、「自分の人生は結果としてこのような形になったが、決して後悔などしていない」と云ってくれ、ということである。


 私はべつに自分が読みたいように勝手な読み方をしているわけではない。この曲の歌詞はおおよそこのようにしか解釈のしようがないものである。

 嘘だと思うならこの歌詞を書いた本人に訊いてみなさい、と云いたいところだが「神は何も語らない」のがセオリーなので、私のように神の言葉をちゃんと聞くことのできる「預言者」の声に、迷える子羊の諸君は耳を傾けるしかないのである。


 付記

なお90年代の中島みゆきの名曲中の名曲中の名曲である「二艘の舟」もおおよそ似たようなテーマの、もっと抽象化された歌である。

男女の恋愛の歌にも聞こえるようにわざと作ってあるが、絶対に違うと預言者として請け合う。
http://www.warewaredan.com/miyuki.html
26:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:07:15

喫茶「ライフ」(北海道札幌市)
http://miyuki-lab.jp/gallery/spot/life.shtml

かつて北海道大学正門前にあった、アルバム『あ・り・が・と・う』収録の『店の名はライフ』のモデルとなった喫茶店。

写真撮影当時は漫画喫茶「ニューライフ」と改名。歌詞に登場する自転車屋は文具店に変わっていた。1992年に取り壊され、現在は、ホテル「北栄館」になっている

___


北大前にあった喫茶店「ライフ」は、のちにうどん屋に商売替えをし、さらには札幌駅に近い札幌国際ビル地下に移転してしまいました。

現在は「味処あずま」という店名で営業しています。
喫茶店時代からあり、中島みゆきもよく注文した「豚丼」は、今でも健在です。
https://wiki.chakuriki.net/index.php/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3

店の名はライフ 1977.06.25
中島みゆきの通算3枚目のオリジナル・アルバム『あ・り・が・と・う』収録曲。

1970年代、北海道札幌市北区、北大正門の近くにあった喫茶店「ライフ」がモデル。
歌詞のとおり、隣には自転車屋があった。

当時、藤女子大の学生として店を訪れていた中島みゆきについて、「ライフ」の“ママ”は、

「化粧っけも無く、地味な感じのお嬢さんだったけど、店が込むと、そっと手伝ってくれたんですよ。よく覚えています」

と語っている(1999年5月3日付「北海道新聞」より)。



□ REVIEW

この作品の3番の歌詞の「抜け道は左 安梯子」と言う部分は、小説「女歌」の「もう一人のmiss M.」のなかで昔の思い出として描写されている一部分

(公安関係者の捜索を受けた時に店を抜け出して走って逃げたという主旨の描写)

とつながるのではないでしょうか。

歌ではさらっと流していますが、現実はいろいろあったという感じで。

4番の歌詞は時代は変わったという表現だと思いますが、「ぬり込めてしまった」というフレーズには意味深長なものを感じます。(猫左衛門/50代・男性)
http://miyuki-lab.jp/disco/song/ba043.shtml


▲△▽▼

中島みゆき ミルク32 1978.04.10
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+++%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AF32&sp=mAEB

北海道大学の学生のたまり場となっていた喫茶店「ミルク」がモデル。

喫茶ミルクの中島みゆきと猫 2014年01月24日
https://ameblo.jp/takemasa723/entry-11756610237.html


先日、若い女性と飲んでいるときに「みゆき」と「ちはる」の話をしたら、「みゆきとちはるって誰ですか?」と聞かれてしまったタケマサです。


私の中では「みゆき」と「ちはる」と言われれば、「中島みゆき」さんと「松山千春」さんです。


さて、先日、あの「学生街の喫茶店」を絵に描いたようなお店に行ってきました。


地下鉄北18条駅から516m(食べログから)


札幌市東区北20条東1にある ミルク


ミルク - 北13条東-喫茶店 [食べログ]
https://tabelog.com/hokkaido/A0101/A010202/1007836/

40年前に出来たお店


マスターは元シンガー・ソングライター


(藤女子大学在学中に)北海道大学フォークソング研究会の初代メンバーだった中島みゆきさんもお店にも来ていたとのこと。



訪問時のお客さんは私ひとり。


なので、マスターの奥さまからいろいろなお話を聞くことが出来ました。


マスターは若手バンドの育成をしていて、デビュー前の中島みゆきさんと人気を二分していたシンガーでこの店でもバイトしていたのは宮越屋珈琲の社長さんという話や藤女子高校出身の大黒摩季さんもこのお店に来ていたとか。


と、ここで、お店の中で猫ちゃんを発見


捨て猫が住み着いて5年半


名前は「さぶ」ちゃん


最初はブサイクなので「ぶさ」ちゃんと名前をつけたそうですが、それではかわいそうなので、逆さにして「さぶ」ちゃんにしたとのこと。


まるで「怪傑ゾロ」のような「さぶ」ちゃんでした。



奥さんとの話に夢中になり、珈琲の写真を撮るのも忘れてしまいましたが、とても美味しい珈琲でした。(380円)


この店に訪問する前に食事したお店の有線で、偶然にも中島みゆきさんの「糸」


縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に出逢えることを
人は仕合わせと呼びます


学生時代にタイムスリップした「しあわせ」なひとときでした。
https://ameblo.jp/takemasa723/entry-11756610237.html

▲△▽▼

中島みゆきとミルク

投稿者 : エリック 登録日 : 2008年9月22日16時52分

中島みゆきと言えば「ミルク」をおもいだします。喫茶店の名前です。札幌の藤女子
大学に通いながら練習してた場所が大学近くのミルクでした。当時の喫茶店のマスタ
ーに取材したことがありますが、とにかく喫茶店の2階でいつも練習してたようです
ね。そして、ヤマハのポップコーンで才能が一気に爆発したのです。当時のヤマハプ
ロデューサーの橋田が生みの親とか橋田本人が言ってましたが。ミルクは歌の歌詞に
もまっているほど中島さんにとって愛着があるのです。時代を超えても「時代」は歌
われ続けてます。

Re:中島みゆきとミルク
投稿者 : 阿部@管理人 登録日 : 2008年9月23日16時53分
リンク : http://miyuki-lab.jp/


コーヒーハウス「ミルク」のマスター、前田重和さんは、
今年2月にNHK札幌で放送された「北海道ひと物語」でも
若手ミュージシャンたちを支援する様子が紹介されてました。
ちなみに、現在は「ミルク60」です。

その中で、みゆきさんの『ミルク32』の紹介があり、
みゆきさんがアマチュア時代に出演した前田さん後援の
フォークイベントのチケットが、ちらっと映ってました。

「??まなフォークコンサート」
 第30回不況克服ソロ特集
 1974年5月10日(金)道新8Fホール
 午後5時半開場、6時開演予定、おふたり様¥500
 出演:宮越陽一、中島美雪、こみやさんと室内バンド 他
 後援:コーヒーハウス ミルク(北20通り)

タイトルの一部が画面からはみ出して見えませんでした。
これがわかれば【公演記録】に追加できるんだけど。

喫茶店の開店は昭和49年なんですが、
当時は2階が練習スタジオだったんですね。
現在あるスタジオ「ミルク」は、喫茶店から徒歩2分ほどの所にあり、
昭和52年に父親の持っていたアパートを改装して開業したそうです。

p.s.
ヤマハの橋田さんって「橋田ペッカー正人」さんのことですか?
『親愛なる者へ』あたりからアルバム制作に参加してます。
http://miyuki-lab.jp/bbs/pslog/bbs_f/plgafree204.html


▲△▽▼

コーヒーハウス「ミルク」訪問記  ―中島みゆきからの「問い」の再発見―
投稿日: 2016年9月23日 投稿者: jun
https://soiree.belle-neige.net/essays/295
昨年末の『一会』年内最終公演のレポート以来、またしても長らく開店休業状態が続いていたこのブログ――だが、その怠惰から私を覚醒させる不意の一撃ででもあるかのように、つい先日、私の30数年間にわたる中島みゆきファン歴の中でも真にエポックメイキングな出来事に遭遇した。そのことを書きたい。

9月上旬、札幌への出張の最終日の日曜、幸い少しだけ時間ができたので、当地にお住まいのFacebookの友達Uさんのお誘いで、コーヒーハウス「ミルク」を訪れた。

今から24年前、みゆきファンの友人二人と北海道へ、いわゆる「聖地巡礼」をしたときにも、この店の前までは行ったのだが、そのときはまだ開店前で、シャッターの前に立った私の間抜けな写真が残っている。

中島みゆきの熱心なファンのあいだでは、このコーヒーハウスは、「ミルク32」 (1978年のアルバム『愛していると云ってくれ』収録曲) の舞台のモデルとしてよく知られているだろう。マスターの前田重和さんは、学生時代、宮越陽一さん (札幌の喫茶店、宮越屋珈琲の現社長) 、そして中島美雪と3人でフォーク・グループを組み、音楽活動をしていたかたである。

この日は、営業時間 (14時開店) を前もって調査し、Uさんと15時に現地で待ち合わせることにした。定刻少し前に到着すると、お店はまだすいていて、マスターに「長年の中島みゆきさんのファンなので……」と正直に打ち明けると、学生時代当時のことをはじめとして、色々な興味深いお話をゆっくり伺うことができた。

それらの貴重なお話の中でも、とりわけ強く印象に残ったのは、中島みゆきは、40数年前のアマチュア時代からずっと変わることなく、心の奥底に直接に響くように、「あなたは、人は、社会はこのままでいいのか」という問いを鋭く突きつけてきた――ということ。

当時、「彼女の歌には社会性が足りない」などという批評もあったが、今から思えばそれはとんでもない的外れで、彼女ほど社会の本質を深く、鋭く捉えていた者はいなかった――というお話もあった。

前田さんご自身は、最近はあまり頻繁に彼女のライブに出かけるわけではないけれど、2,30年ほど前のコンサートで、学生時代と同様、中島みゆきと1対1で向き合っているかのように、その問いかけの迫力に圧倒され、客席にいながら、まるで飛行機が離陸するとき加速で座席に強く押し付けられるかのような圧迫感を感じた、と率直に語られた。

この店は、隣接する「スタジオ・ミルク」と連携しながら、北海道・札幌の若いミュージシャンたちの活動拠点ともなっていて、私たちがいるあいだも、重そうな機材や楽器をかかえた人たちが時折、訪れていた。

前田さんは、そうした若いミュージシャンたちを育てることで、学生時代に中島美雪から突きつけられた問いに今も答えようとしているのかもしれない。

私自身、今から36年前に彼女の存在を最初に意識した時以来、まだ記憶に新しい夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』、そしてスペシャルコンサート『一会』に至るまで、中島みゆきからは幾度も、そうした――直ちに応えることの困難な――自己や人間や社会についての根底的な問いかけを突きつけられてきた。それらの記憶が、今も私にとって、中島みゆきという存在がもつ意味の原点になっている。

――が、若き日の彼女を直接に知る前田さんの言葉で、改めてそれが彼女の変わらぬ姿勢であると証言されたことは、私にとってきわめて重く、その原点を鮮明に、新たな光の中に再発見させられる思いだった。1対1の関係の中で、中島みゆきから渡された問いというバトンを、未来へと引き継いでゆこうとする意志を――まるで中島みゆき自身の肉声で呼びかけられたかのように――これまでになく強く鼓舞される思いでもあった (Uさんも同じ思いだったと、後から聞いた)。


なお、少し補足しておくと、前田さんと私たちは、何も上記のようなシリアスで重い話ばかりをしていたわけではない。前田さん――そして、コーヒーハウスとスタジオを共同で切り盛りされている奥さんの彰子さんも、途中で話に加わっていただいたが――ご夫妻お二人とも、とても気さくで明るく、かつ穏やかな方々だった。

そういえば、中島みゆきの、あのシリアスな歌とコミカルなトークでバランスを取ろうとする独特のスタイルも、学生時代からまったく変わっていない――というのも、前田さんの貴重な証言のひとつであった。

私もUさんも、中島美雪がいつも坐っていたというカウンター席に坐らせてもらい、その頃から降り積もった時間が堆積しているこの空間の心地よさと懐かしさの中に、ひとときのあいだ身を委ねることができた。

――このような貴重な、まさに一期一会の機会をつくっていただいた前田さんご夫妻とUさんに心より感謝するとともに、いつか再びこの場所を訪れる時がめぐってくることを、強く願っている。



コメント


めんとれ より: 2016年9月24日 10:17 PM

拝読させて頂き、みゆきさんが3人のグループで歌っていたのは、何年間なのだろうか、又いつ頃なんだろうか、どんな曲を歌っていたのか、などなど興味が湧きます。

大学進学で札幌に出たのが、1970年4月。1972年1月にはソロで地区予選に出場。3人の活動期間は、大学1年2年の頃としたら、意外と短かかったんだなと。
人との繋がりを大切にされているようにお見受けするみゆきさんですが、こと音楽で接した人々に関しては客観的に対処されているように思えて仕方ありません。

学生時代に一緒に歌ったグループのメンバーからは、その後の交流の話題が漏れ伝わって来ません。そして、帯広時代のことと同様に、みゆきさん自身の口からも(曲を除いて)あまり話題が出てきません。
ミルクの話題から、ふと そんなことを感じました。

JUN より: 2016年9月25日 12:02 AM

そう言われてみれば、グループの活動期間やレパートリーなど、当時の具体的なことはほとんどお聞きせず (というか、そうした質問自体を思いつかず)、もっぱら前田さんから見たみゆきさんの人物像についてのお話を伺うことに集中していました。

みゆきさんの藤女子大での学生時代は1970年4月から1974年3月までの4年間ですが、ちょうどその半ば、3年生の1972年にフォーク音楽祭全国大会に出場し、課題詞として提示された谷川俊太郎さんの「私が歌う理由」に大きな衝撃を受けた、という有名なエピソードがありますね。その前後の時系列については具体的にはお聞きしなかったのですが、お話のニュアンスでは、それ以降も札幌での3人の活動は続いていたような印象を受けました (次に訪問する機会があれば、確認してみます)。

一般論として、みゆきさんのアマチュア時代については (卒業後の帯広時代のことも含め)、ご指摘のとおり彼女自身があまり語っていませんし、ごく断片的な情報 (当時の少数の新聞記事など) しか手に入らないので、なかなかはっきりしたことを知るのは難しいですね。

ただ、「ミルク」が開店したのは、みゆきさんの卒業後の1974年9月のことで、「ミルク32」の歌詞から伺われるように、それ以降もずっと――おそらく現在に至るまで――前田さんとみゆきさんとのあいだには、若き日の仲間同士としての気の置けない信頼関係が続いていることが感じられました。そのことを確認できただけでも、この訪問は私にとって価値ある経験だったと思います。


追伸
このブログ記事によると、NHK北海道ローカルで2008年に放送された「北海道ひと物語」というドキュメンタリー番組に前田さんが出演し、1974年5月にみゆきさんや宮越さんが出演したライブのチケットを見せてくれた、ということです。
http://58447802.at.webry.info/200802/article_5.html

そうするとやはり、(必ずしもグループというかたちではなくても) 3人の音楽的つながりは、みゆきさんの卒業後も続いていたと言えそうですね。



めんとれ より: 2016年9月25日 2:57 PM
あるブログに、ミルクのマスターから聞いたことが書かれていました。

思い切ってマスターとみゆきさんが組んでいたバンド「壊れた蓄音機」の時代のこともうかがってみた。最初ボーカルは女性2名で始まったのだという。やがてみゆきさんだけになり、その活動期間は2年間ほどだった、ということがわかる。様々な有名バンドのコピーを演奏するバンドとして活動していた、とのこと。みゆきさんがオリジナルを披露するようになるのは、そのあとに研究会をするようになったときからだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/m19520223/54588939.html

ところで、このブログの方をご存知でしょうか。

JUN より:2016年9月25日 5:58 PM

このブログの著者は、内容から推察すると、放送当時のNHK札幌のスタッフ(ディレクター?)のかたのようですね。私は初見です。

この記述からすると、「壊れた蓄音機」として活動していたのはみゆきさんの学生時代前半の2年間ほどで、後半 (フォーク音楽祭出場以降) は、北大フォークソング研究会に参加する一方、ソロとしてオリジナル曲を歌うようになった、というような時系列が推測されますね。

前田さんのお話は、どちらかといえばその後半期の印象を中心に語っておられたのかもしれません。

なお、北大フォークソング研究会は現在も存続、活動しているようです。
http://hokudaifken.webcrow.jp/


https://soiree.belle-neige.net/essays/295


▲△▽▼

北海道 札幌巡り②【中島みゆき ミルク32】2019年02月18日
https://ameblo.jp/mejirotabi/entry-12439895308.html
2019年2月の北海道ツアーの参加旅行記です。

クラブツーリズムのツアー2泊3日に参加してみました。

1日目は札幌雪まつりを散策してますが、少し時間が余ったので、ロック巡礼をしていきます。タクシー拾って、あるお店に向かいました。

中島みゆきの1978年のアルバム「愛していると云ってくれ」というアルバムに、「ミルク32 」という曲があります。


札幌市内に実在する「ミルク」という喫茶店が舞台なんですね。そこにやってきました。中島みゆきは北海道の名士のお嬢さんだったんでした。札幌の大学に通っていて、このお店にもよく来ていたんですね。

「ミルク32 」はこのお店のマスターのことを歌ってるそうですね。振られて愚痴る客(=みゆき)と優しいマスターみたいな設定だったと思います。中島みゆきの歌詞にありがちな設定でした。


中島みゆき「ミルク32 」


ねえ ミルク またふられたわ
忙しそうね そのまま聞いて
ゆらゆら 重ね上げた
お皿と カップの かげから

ねえ ミルク またふられたわ
ちょっと 飛ばさないでよ この服高いんだから
うまくは いかないわね
今度はと 思ったんだけどな

あんたときたら ミルクなんて飲んでてさ
あたし 随分 笑ったわね
いつのまに バーボンなんて
飲むように なったのよ

https://ameblo.jp/mejirotabi/entry-12439895308.html

▲△▽▼

2015年5月31日のゲスト
http://www.hbc.co.jp/radio/genkibito/backnumber/2015/interview150531.html

前田 重和さん/音楽プロデューサー
「コーヒーハウス ミルク」マスター
「STUDIO MILK」経営

札幌市出身。68歳。
子どもの頃から音楽好きで、中学・高校では合唱部に在籍。高校2年の頃は、当時流行っていたアメリカンフォークにのめり込みバンド活動に夢中になる。札幌大学在学中には「北大フォーク研究会」とも交流をもち、デビュー前の中島みゆきさんと知り合う。そして1974年、大学を卒業して2年目で中島みゆきさんの歌にも登場する「コーヒーハウスミルク」を開店。1979年には、練習スタジオ「STUDIO MILK」をオープンした。


■コーヒーハウスミルク40周年記念 ザ感謝ライブ■
6月26日(金) OPEN 18:00~/START 18:30~
6月27日(土) OPEN 16:00~/START 16:30~
ペニーレーン24で両日開催
チケットの取り扱いは、ローソンチケットかコーヒーハウスミルク

◎コーヒーハウスミルク&STUDIO MILKのHP
 http://www.milk32.com/
村井裕子のインタビュー後記

 朝の連続テレビ小説。この3月までの「マッサン」の主題歌は、中島みゆきさんの「麦の唄」。ごく易しい言葉なのに物語の真髄が浮かび上がってくるような素晴らしい歌だった。

 確か年明けの回だったと思う。歌い出しを聴いて「あれ?変わった?」と思った。心をグイッと鷲掴みにされたような衝撃があり、あれよあれよという間に涙が止まらなくなった。

 なぜ?と思って録画を聴き直してみると、聴き慣れていた一番が二番に変わっており、その歌い方が一番の時とは格段に違っていたのだ。思いを込めているとか、深みがあるとか、簡単には表現できない中島みゆきさん特有の「凄み」といったらいいか。「朗読」表現で言えば、ここぞという言葉を発する時の「息づかい」の妙味に溢れていて、それからの毎朝、「大好きな」とか「愛する」という言葉に差し掛かると決まって涙を誘われ、メイクしたての時などはほんとうに困ったものだった。

 中島みゆきさんの真骨頂を再確認した主題歌だったが、歌であれ何であれ「テクニック」で人は泣かない。たぶんすごく簡単に言ってしまうと、「魂」の歌い手だからなのだろう。

前田重和さん 魂の込められた歌、嘘偽りのない歌、ほんものの歌・・・それは、人の人生をも揺さぶり、力強く前に踏み出す勇気を与えてくれる。今回の「ほっかいどう元気びと」は、そんな「ほんものの歌」を歌う人を世に送り出したくてミュージシャンの卵達を応援し続けてきた人。

 札幌の東区で40年間「コーヒーハウス ミルク」のマスターとしてコーヒーを淹れながら、音楽プロデューサーとしても活動してきた前田重和さん 68歳。喫茶店の開店から5年後の1979年には、バンドの練習が出来るようにと「STUDIO MIKL」も手掛け、格安でミュージシャン達の技を磨く場を提供してきたという音楽一筋の人だ。

 前田さん自身も若い頃から音楽に情熱を傾け、バンド活動やシンガーソングライターとしてメジャーを目指した時期もあったというが、応援する側に回ったのは、中島みゆきさんに会ってしまったからだという。70年代、音楽の世界も新しいものを生み出そうとするエネルギーが渦巻いていた時代、前田さんと中島みゆきさんは「北大フォーク研究会」で知り合い、初めて中島さんの歌を聴いて衝撃を受けた前田さんは、「自分はこういう人を世に送り出す手助けをしなくては」との思いで、卒業後にライブハウスも兼ねた喫茶店「ミルク」を手作りで完成させたのだという。

 中島さんの「ミルク32」という歌に出てくるマスターはやっぱり前田さん?と訊くと、満更でもなさそう。ただ、「中島(みゆきさん)に会ってしまったおかげで、中島を超えるようなミュージシャンを世に出したいと、とてつもなく高い目標になってしまった」と、その達成に向けてまだまだやりたいことは山ほどあるとの志を力を込めて語ってくれた。

 共感したのは、スタジオに練習に通うミュージシャンの卵達との距離の取り方。決して近くなりすぎないように、でも、なんとか伸びてほしいので、喫茶店から少し離れたスタジオに掃除に行ったついでに、漏れてくる音を聴く。その音がそれまでよりもより良く変化していたら、タイミングを逃さずに伝える。誉める。なぜならば、本人達は「変わった」ことに案外気づかないから。どこが、とんなふうに、どうより良く変化しているかを誰かが捉えて指摘してあげることでそこからまたグンと伸びる。それは経験でわかると、前田さんは言う。

 そして、音楽で成功する人の秘訣は、なんと言っても練習にあり。人並み外れた練習の出来る者だけが自分で自分の力を引き出すことが出来る。だからこそ、場を提供し、そっと寄り添い、ここぞという時に誉めて、気づかせ、誰かに繋ぐ仲立ちをする。音楽という、底知れぬ魅力の吸引力があり、同時に生半可な覚悟では弾かれてしまうような厳しい世界を目指す人への愛情がずっと継続しているのだということが伝わってきた。

 そして、「“ほんもの”だからヒットに恵まれるとも限らない。それは売れる売れないのビジネスと相容れないところもあって、そこが大きな悩みどころ」とジレンマも語る前田さん。とはいえ、そういう答えが出ない難問や課題も、80歳、90歳に到達した段階で解ける知恵が授かるかもしれない。自分は人間の遺伝子が可能とされる120歳まで生きると目標を置いて、答えを見つけるのを楽しみに歳を重ねていきたいと、意識付けこそが命を伸ばすという超前向き独自理論を語ってくれた。

前田重和さん そんな前田さんの「宝もの」は?

 「モノにはこだわらないから・・・無いなあ。でも、大事なものなら・・・やっぱりカミさん」

 苦労を共にしてきた大切な存在。前田さんは、「人間として尊敬している」と、きっぱりと言う。伴侶のことを、特に男が妻のことを「尊敬している」と言えるというのはなんと素晴らしいことだろう。前田さんは、若い頃にフォークを始めた時点でもう見栄も評価して貰いたいという気持ちもないし、夫婦の間でも嘘がない・・・と話されていたが、人と人との間で「尊敬」ほど輝く宝はないと私は思う。

 「尊敬」=「respect」は、「re(もう一度、遠く)+spect (見る)」という意味。「距離をとって見つめる」ということだと何かで読んだことがある。近くに見えすぎて感情的になる間柄を少し離して再び見てみるというのは、夫婦の間柄でこそ欠かせない視点だ。

 音楽を目指して集まる若者達にも前田さんはそんな眼差しで接しているのだろう。一般的な「誉める」という上からの評価ではなく「尊敬」の視点で良さを見つけ、言われた人に勇気が湧くような水平の言葉掛け。40年にも渡って多くの人達が前田さんの元に集ってきた理由は、そのあたりにもあるのではと感じた。

 これから高齢者人口の圧倒的割合を占めるのは、前田さんのような団塊の世代の人達。その年代の人達の生きる姿勢と発する言葉が世の中の空気を左右する時代が必ずやってくる。

 話を聴き終えて思った。女性も男性もなく、年が上だの下だのも関係なく、人のいいところを「いい」と言える尊敬のまなざしを持てる人があちらこちらに溢れてほしいな、と。そして、やはり、「ほんものを求める心」「何が大事か」を貫き続ける気概を見せ続けて欲しい。

 そんな「フォーク」な、或いは「ロック」な魂で生きるニュー高齢者が益々増えたら、この世の中、この北海道、何かがきっと変わるに違いない。

(インタビュー後記 村井裕子)
http://www.hbc.co.jp/radio/genkibito/backnumber/2015/interview150531.html
27:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:08:40

71 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 19:58 ID:MsxWbGRD

ここにも、みゆきファンが多いね。
私も彼女を見つづけている一人ですが、
彼女の隠されたキーは、彼女が共産主義者だったということです。
学生時代は、バリバリの活動家でアジっていたらしい。革マル派。

きのう、滝川と後藤が帰らなかったてねえ
今ごろ寒かろうね つらかろうねえ


74 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:03 ID:MsxWbGRD

握りこぶしのなかにあるようにみせた
夢を遠ざかる誰のために振りかざせばいい?
歌姫 スカートのすそを
歌姫 潮風に投げて
夢も悲しみも欲望も歌い流してくーれー

それとなく共産主義運動の挫折を歌っている個所が
ずいぶん出てきます。
私は歌姫が好きです。


77 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:23 ID:MsxWbGRD

彼女は、共産主義は捨てたんだよ
80年代に東欧諸国を旅をして
その現実に幻滅したことをある本に
書いている。


85 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 05:34 ID:reMFs4D2
>>77
それ、人違いじゃなくって?何て本?


86 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 07:13 ID:UoaOFwBi

ほんとほんと。
彼女は、80年代東欧諸国を旅行しているよ。
その旅の目的は、共産主義思想を捨てるためだ。
昔から東欧諸国を旅行することで共産主義思想の現実を把握し共産主義嫌いになるということが ひとつのパターンになっている。
安部公房もそうだ。
みゆきも、自分へのけじめとして旅行したかったんだろうね。

87 :  :03/09/27 08:19 ID:VAhdzvbS

歌で稼いで、共産主義なんてダメだわ!と気づき、
私は資本主義の世の中で、がっぽり稼ぐのよ~って感じ?

立場が変われば思想も変わるクズ?


89 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 08:32 ID:Qitq5+Ff

中島みゆきの書く詩が共産主義思想についての詩だったのかと思うとなんだかな。
もっと人間の弱さと強さとか普遍的な人間というものを歌ってたのかと思ったよ。


92 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 11:20 ID:NzBGVwNR

私も共産主義思想の詩だとは思わなかった。。。
でも、もうその考えは捨てたんだよね。
そのことが書いてある本、読んでみたい。


93 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:02 ID:UoaOFwBi

彼女の歌に通奏低音のように響いているのは、 共産主義だ。
まあ、日本の映画作家や作家とかには、かなりいるけどね。
トラさん映画もそうだし、宮崎駿のそう。


94 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:47 ID:vABnYv7w

>共産主義どうこう

根拠をあげてくれればいいのに


98 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 19:22 ID:JSJjYWgC

根拠は、上げた。いくつも。
彼女が学生運動を激しくやっていたのは藤女子大の先生その他複数の証言がある。

歌詞もいくつもあげた。
彼女自身が書いた本もある。
極めて熱心なファンは知っている。
俺がそう。俺は彼女の容姿が好きなんだ。
彼女の顔も体も特に体の線がいいね。
あの腰からケツにかけたラインがすばらしい。
50になってもきれいだ。
昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

334 :^^:03/12/18 00:10 ID:a7z7WtIt

みゆきが、革マルだったのは有名な事実だが
新事実が出てきました。
なんとヤマハ会長の愛人だったって

109 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 13:14 ID:IV4TWm0U

>50になってもきれいだ。 昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

50くらいで整形したんでしょうか。
北海道にいるころは垢抜けないお姉さんだった。


110 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 18:48 ID:m0tO8Hh/

歯を矯正して、化粧を変えただけ。
元々、目鼻立ちの整った顔をしていた。


111 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:04 ID:+stqq9hU

もともと、スタイルは、抜群だしね。
身長は、165センチ前後らしい。


114 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:11 ID:+stqq9hU

医者の娘でしょう。母親はミス札幌
ブスなわけないじゃん。

121 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 23:43 ID:hHB+4UEQ
>>114
なるほど、医者の娘でないと母親がミス札幌でないと成功なんかできないんだな。
共産主義には走れないんだな。


122 : :03/09/29 00:45 ID:e4gAmVwF

俺の好きな宮沢賢治に通じるものがあるな。

129 : :03/09/29 01:04 ID:e4gAmVwF

賢治もみゆきも金持ちの生まれで弱者の味方。
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている・・・


137 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 13:57 ID:GrAKVIOA

ローリングエイジ寂しさを
ローリングエイジ人に言うなあ
軽く軽く傷ついてゆけえ


90年代に入って彼女の歌は、あんまりよくなくなったね、
70年代が一番だし続いて80年代、そして今はあんまりよくない。
しかしポップスとしては他とくらば傑出しているのは、確かだ。
柳美理も彼女の大ファンだし、大岡正平も大ファン。
こんなポップス歌手ほかにいない。


140 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 15:48 ID:lu3ub98Y

中学高校と施設にいたんだけど「ホームにて」聞くと盆暮れ正月に帰省
したとき思い出して涙がでますわ。


144 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 18:45 ID:GrAKVIOA

ホームにて
 
あれは、帰ろうとするふりをするけども
なぜか、帰ることができない歌なんだよね。
実家に帰ることができない歌です。

145 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 18:57 ID:eVdb70tj

ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰り人が笑う

走り出せば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる


振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
ふるさとは 走り続けた ホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券

涙の数 ため息の数
溜まってゆく 空色のキップ
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

たそがれには 彷徨う街に
心は今夜も ホームにたたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券


151 :三年寝たろう ◆lr.SvCnhCc :03/09/30 01:46 ID:qqpb7Zlw

中島みゆきさんのコンサートってどんな雰囲気なんですかね?
もしかしたら、あのラジオ番組のノリでやってるんですかね?
ちょっと気になります。

152 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/30 05:59 ID:ZMd9+vBs

昔はよく泣きながら歌ってたみたいよ。
客を冗談で笑わしたかと思うと、次はしみじみ思い出を語りつつ泣きながら歌ったり(「まつりばやし」とかね)。

これは 70 年代の話だから、今はちょっと分からない。
「歌暦」はあるけど、あれが日常のライブの姿だったのかどうかもよく分からないしね。

233 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/19 05:25 ID:YaM57bRa

生きていてもいいですか?


235 :^^:03/11/19 06:11 ID:IP+ZDD1F

まさに、みゆきは、このアルバムを発表した1980年
生きていてもいいですか?と日本中に問いかけたのである。
もっといえば生きていてもいいことありますか?と問いかけたのである。
実際、その後の日本の状況はひどいもので、ますます人間が住んでいくことには、不可能なほどの生き辛い社会
いきぐるしい社会に変わっていく1980年という其のときに生きていてもいいですか?と問いかけた。

その後のみゆきの出すアルバムは、気の抜けたコーラのように味気ないものに変わり、みゆき自身も生きていないような歌に変わっていきます。

それに日本人も生きているのか死んでいるのかわからない状況で生きているのである。


260 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 05:56 ID:Hgd3QL82

根雪を始めて聞いた時に好きになった。25年位前だったと思う。
何か変わったような気がしてファンクラブもやめたのは日WING、月WING あたりからかな。
昔のアルバムは今でも聞く。


261 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 17:50 ID:NAm82bzX

アルバム買わなくなったの10年位前からかな・・・
みゆきも変わったんだろうけど、自分が変わったんだろう。
・・・同じく口ずさむのは昔の歌だなー


262 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 23:10 ID:Q+n4RJk5
>>261
漏れも EastAsia 以降買ってないなあ。

> みゆきも変わったんだろうけど、自分が変わったんだろう。

うんうん。


677 :名無しさん@毎日が日曜日:04/02/19 09:23 ID:MOIbSfZK

昔は心にしみる歌が多いね。
今はひどいね。
声が高くて早口で歌ってるだけだもんな。
歌詞も薄いし。

https://qb3.5ch.net/test/read.cgi/dame/1063795169/
28:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:09:28

中島みゆき『時代』が今日も歌い継がれる理由~縁の深い3人が、その答えを出した
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48297

今年1月にセブンイレブン限定で発売された『週刊現代スペシャル』が、kindleでも読めるようになりました(詳しくはこちらをクリック)。今回は同誌のなかでも最も反響の大きかった「中島みゆき『時代』を語ろう」を特別に公開いたします。

「つま恋」での出会い

八神純子
’58年愛知県生まれ。歌手。’78年『思い出は美しすぎて』でデビュー。'16年1月ニューアルバム『There you are』発売


上柳昌彦
’57年大阪府生まれ。ニッポン放送アナウンサー。『オールナイトニッポン』を通して中島みゆきと親交を深める。現在は『金曜ブラボー。』のパーソナリティ


田家秀樹
’46年東京都生まれ。音楽評論家・ノンフィクションライター。中島みゆきが定期的に開く舞台『夜会』公式サイトに文章を寄せるなど、親しい付き合いがある


八神 中島みゆきさんの『時代』が発表されてから、もう40年近くが経ったんですね。

田家 僕がみゆきさんと出会ったのは、じつは『週刊現代』がきっかけだったんです。'75年か'76年に東京の豊島公会堂で『週刊現代』の記者が主催した作家や歌手との交流イベントがあって、僕もそれに誘われて出かけていった。そしたら、まだデビューしてまもないみゆきさんがゲストで来ていて、楽屋で紹介されたんです。彼女はジーパンはいて、白いシャツを着ていました。

上柳 へぇ、そうだったんですか。みゆきさんの姿が目に浮かびます。

田家 ええ。髪は後ろで結んでいました。

八神 ファーストアルバムのジャケット写真と同じ。

田家 そのイベントには作家の中上健次さんもゲストで来ていて、「愛唱歌だ」と言って、みゆきさんとふたりでデビューシングルの『アザミ嬢のララバイ』を歌っていました。

上柳 そんなことがあったんですね。僕は'81年にニッポン放送に入社して、'83年に『オールナイトニッポン』の月曜第2部のパーソナリティを担当することになったんですが、月曜の第1部の担当がみゆきさんだったんです。それが出会いのきっかけでした。

第1部と第2部は同じスタジオで放送していたので、僕がスタジオに入って椅子に座ると、まだみゆきさんのお尻の温もりが残っていて……。なんて軽々しく言うと、みゆきさんのファンから「無礼者!」と叱られちゃいますが(笑)。

田家 みゆきさんとの出会いは、僕よりも純子さんのほうが古いんじゃないでしょうか。

八神 私が初めて彼女にお会いしたのは、'75年5月の「ポピュラーソングコンテストつま恋本選会」です。みゆきさんはまだデビュー前でしたね。荷物と一緒にみんな地べたに座っているような楽屋で、私から声をおかけしました。そのコンテストで彼女が『傷ついた翼』を歌っていて、すごくいい曲だなと思ったので、それを伝えに行ったんです。そしたら、あまり反応がなくて。

田家 きょとんとしたような?

八神 「え?」みたいな。当時私はシャイで、初対面の人に声をかけるのはとても勇気がいることだったんですね。いま思えば、私の声が小さかったので、たぶんはっきりと声が聞き取れなかったんだろうなと思います(笑)。

田家 みゆきさんもとても人見知りをする性格だから、彼女も緊張してしまって、うまく話せなかったのかもしれませんね。

上柳 誰にでも愛想をふりまける器用な人ではないですから。


75年。それは最も重要な年だった

田家 彼女が『時代』を発表した'75年というのは、音楽シーンの上ではとても重要な年なんです。この年には「キャロル」が解散して、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が「フォーライフレコード」を設立した。「フォーライフレコード」は、それまで契約される立場だったミュージシャンが、みずから経営者になって契約する側に回ったという意味で、ひとつの革命でした。また、女性のシンガーソングライターが多数出てくるのも、ちょうどこのころからです。

八神 そうそう。私よりも少し前に尾崎亜美さんや渡辺真知子さんがデビューして。

田家 '60年代の終わりに藤圭子さんが登場して、'70年代になると五輪真弓さんと荒井(現・松任谷)由実さんが出てくる。その数年後にみゆきさんがデビューしたという流れですね。'70年代に入っていろいろなスタイルで歌う女性シンガーが出はじめて、'75年に一気に花開いた。そのなかに中島みゆきさんの『時代』があったわけです。

上柳 八神さんは最初に『時代』を聴いたとき、どんな印象を受けましたか?

八神 じつは私、『時代』をはじめて聴いたとき、すぐには好きになれなかったんです。

上柳 え! そうだったんですか?

八神 ええ。まず『時代』という仰々しいタイトルがなんだかとっつきにくいなと思った。それに、当時プロミュージシャンになるための登竜門だった「ポプコン」や、「世界歌謡祭」でグランプリを獲るために狙って書いた曲のように見えてしまって、どうにも好きになれませんでした。

上柳 それは意外なお話ですね。

八神 でも、あとになって、みゆきさんが『時代』を書いたのは、彼女の才能を見出した、川上源一さん(ヤマハ社長=当時)と、お父さまの存在が大きかったのではないかな、と気づきました。

みゆきさんのお父さまは彼女がデビューする直前に脳溢血で倒れられて、デビュー翌年に亡くなられています。そんな大変な状況のみゆきさんを見て、川上さんは自分がお父さまの代わりになって彼女を応援しよう、絶対に世に出してやろうと思ったのではないでしょうか。

そして、みゆきさんも川上さんの期待に応えたい気持ちがあった。そのためにも『時代』という大曲を作って、川上さんに感動してもらいたい、恩返しがしたいと願っていたのだと思います。


田家 なるほど。八神さんは東日本大震災以降、被災地を回りコンサートを開かれていますよね。そこでよく『時代』を歌われている。どのような経緯であの曲をカバーするようになったのですか。

八神 被災地を訪ねるなかで、ある町長の「中島みゆきの『時代』が聴きたいな、来てくれないかな」という言葉を人づてに聞いたのがきっかけです。それならば私が歌わせてもらおうかなと(笑)。私、カラオケを持って被災地を回っていましたから。

上柳 ご自身で『時代』を歌われるようになって、あの曲の存在をどう感じるようになりましたか。

八神 被災地でコンサートをするうちに、『時代』という曲の持つ力を痛感するようになりました。コンサートというのは毎回雰囲気が違うもので、みんなとうまくつながることができないなと感じる瞬間もある。でも、そういうときに『時代』を歌うと、すぐに聴く人たちと一緒になれるんです。

田家 それこそが『時代』の懐の深さですよね。誰にだって生きていれば辛いこと、悲しいことがあります。『時代』は、誰もが経験したことのある人生の苦境を歌にしている。とても普遍的な歌詞であり、メロディです。

八神 そう思います。東日本大震災の前と後では日本はずいぶん変わってしまいました。その状況で〈今日は別れた恋人たちも生まれ変わってめぐりあうよ〉というフレーズを歌うと、震災前には考えもしなかった意味を持ちますよね。『時代』というのは、時、場所によってその姿を変えながら、聴いた人を励まし続ける歌なんです。

田家 悲しいことがあるけども立ち上がって歩きだすという歌詞も、当てはまらない人はいない。

八神 岩手県一関市の千厩でコンサートをしたときに、あるお医者さんご夫婦が来られたんですね。そのご夫婦は被災して病院も自宅もすべて失い、絶望して「もう死のうか」と思いながらコンサートに来られた。そのときも私は『時代』を歌ったんですが、コンサートが終わると、「また病院を建てよう」と思い直したそうです。

上柳 そういえば、『オールナイトニッポン』の担当になってしばらくして、ふとみゆきさんが番組で『時代』をかけないことに気づいたんです。なんでだろうと思ってディレクターに聞いたら、「『時代』をかけると『私のためにかけてくれてありがとう』っていう人が多すぎて困るんだよ」と言っていました。「この曲は自分のためだけに中島みゆきが届けてくれたんだ」と感激するリスナーが多く、意味を持ちすぎて軽々しくかけられないというわけです。

実際、私はいまだに番組で『時代』がかかると、つい身構えてしまいますよ。若いディレクターなんか気軽にポンと『時代』を選曲しますけど、そのたびに僕は「そんなに簡単に流して!」と思ってしまう。言いませんけど(笑)。

田家 曲をかける時期やタイミングを読み違えると、影響力が大きいだけに意図したものと違った受け止め方をされてしまう可能性もあるのでしょうね。


瞬間のひらめきで曲をつくる

上柳 こんなこともありました。'10年にみゆきさんの東京国際フォーラムコンサートを観にいったときのことなんですが、僕の前に座っていたのが中年の男性だったんです。その人がコンサート中ずっとわさわさと動いていて、「なんだか落ち着かない人だな」と思っていました。ところがみゆきさんが『時代』を歌うと途端に曲に聴き入り、嗚咽を漏らし始めたんですよ。

田家 みゆきさんといえば、アーティストとしては静かな求道者のイメージがありますよね。けれども、ラジオではとてもハイテンションで話す。上柳さんは素顔の中島さんをよくご存知だと思いますが、どちらが本当の彼女の姿なのでしょう。

上柳 難しい質問です。多分どちらも本当のみゆきさんなんでしょうね。彼女にインタビューをしていると、最初ハイテンションでバーッとおしゃべりするんですが、音楽の話になった途端に、ふっとシリアスな、アーティストのみゆきさんになる。僕はその瞬間が好きなんです。「あ、いま音楽家のモードに入ったぞ」と。

どんなときでも本当に真剣に物事に取り組む人なんだと思います。ラジオの放送前も、いつも番組で取り上げるハガキを熟読されていました。そして番組が終わる深夜3時からすぐにスタッフとミーティング。私の番組が早朝の5時に終わっても、まだ会議をしていることもありました。

田家 さまざまな面があるのも、彼女の魅力なんですね。歌うときも、シャウトする彼女と、ささやく彼女、いろいろな顔を持っていますよね。

上柳 それについても、本人に聞いたことがあるんですよ。曲を作る段階でここはシャウトして、ここはささやくように歌って、とあらかじめ決めるんですかと聞いたら、みゆきさんは「そんなこと、曲を書いているときはまったく考えていないのよ」と言っていました。

曲ができて最初のリハーサルのときに、バンドのみんなで「せーの」でポンと歌いだしたときに、たまたま自分がシャウトで歌ったら、それ以降もその部分はシャウトにするとおっしゃっていました。

八神 その瞬間のひらめきで曲を作り上げていくんですね。

上柳 だからラジオ番組のあのテンションも、初めてラジオ局のマイクの前に座ったとき、追い詰められてポンと出たのがあのテンションだったと思うんです。それまでは、コンサート会場でお茶を出すアルバイトをしていて、ラジオから受ける印象とは真逆の、まったく目立たない女性だったそうですから。

田家 僕なんかも、中島みゆきというと、ジーパンに白シャツという地味なイメージが離れない。



永遠の名曲

上柳 そうでしょう。でもじつは、本人は赤が好きなんです。真っ赤なトレーナーに真っ赤なパンツとか。そういう格好で深夜にいらっしゃる。

田家 それは意外ですね。たしかに赤といえば、彼女のファーストアルバムの1曲目に『あぶな坂』という歌があります。これは、様々な事情で怪我をした男たちがその坂を越えようとして転げ落ちていくという歌です。

その曲のなかに、紅い花に魅せられてみんなが坂を登ってくるというくだりがある。赤が象徴的な色として歌われているんです。自分の思うように生きられなかった人たちに向けられた『あぶな坂』と、もっと俯瞰的に人生を包みこむ『時代』。僕はこの2曲が彼女の原点だと思いますね。

八神 『時代』は進化する歌です。時代が変わるごとに、進化し続けていく。

田家 すぐれた歌というのは、結局そういうことなんでしょうね。誰が歌っても、その歌っている人の歌になるし、みんなの歌になる。『時代』はこれからもずっと、歌い継がれていく永遠の名曲なんだと思います。

(週刊現代スペシャルより)
29:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:11:20

中島みゆきの代表曲「時代」は天理教の歌
天理教の生死感を見事に歌詞に載せ代弁している。
 生まれ変わりと、人生は魂の旅だと表現している。素晴らしい。

 一般の人が全く気付かない点も素晴らしい。
 宗教臭い厭味(いやみ)ったらしい所が無い。

______

天理教 と 中島みゆき 130年祭の最中に不謹慎ですが。 2016/01/31
https://hikino-effect.at.webry.info/201601/article_18.html


 シンガーソングライター 中島みゆきは天理教の信者(だった?)

 知っている人は知っていると思う。
 今は脱会したと噂が流れている。

 天理教の教理(天理教の教え)を知っている人は、中島みゆきの歌詞=天理教の教理 と認識できる曲が多くあると知っている。


 天理教幹部のための曲も作っている。 

 「糸」 

糸 中島みゆき (1992年) 歌・坂本冬美 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?list=RDz3pkmjqnbHY&v=srBRgYF6LVo


 彼女の代表曲「時代」も天理教の歌だ。

 「時代」

時代 -ライヴ2010~11- (東京国際フォーラムAより) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo


 天理教の生死感を見事に歌詞に載せ代弁している。
 生まれ変わりと、人生は魂の旅だと表現している。素晴らしい。

 一般の人が全く気付かない点も素晴らしい。
 宗教臭い厭味(いやみ)ったらしい所が無い。

 また、彼女の名前も素敵だ。
 中島 みゆき ・・・ 中山みき (天理教教祖)

 姓の島を 山 だけにして名の ゆ を抜くと 何となく教祖の名前が連想されてしまう。親が考えて付けたのだろうか。

 それは良いとして、なぜ脱会したか。
 それを考えると、TOKIOの 「宙船」 作詞曲:中島みゆき が頭に浮かぶ。 


TOKIO Sorafune Live YouTube - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=L-XTB8RvxIM


 何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
 何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
 その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

 私と同じで、組織が嫌になったのではなかろうか。

 今、教団は金が無い。金で裁かれ金で秤(はか)られ、金を狙って付き合っている。
 なぜなら、船(教団)を動かす金が絶対的に不足しているからだ。
 そして、信者たちに、中島みゆき は
 自分の船をおまえの手で漕いでゆけと言う。
 自分の考えで漕いでゆけ(おまえのオールをまかせるな)と言う。

 中島みゆき はそこまで考えて書いたのだろうか。

 いま日本の状況も同じだ、天理教では天理教本部を鏡屋敷と言う。
 日本を映す鏡だと言う意味だ。まさに見事に映っている。
・・・金で裁かれ金で秤(はか)られ、金を狙って付き合っている。

 中島みゆきは日本人一人一人に政治を当てにせずに、自分で考えて生きろと言っているようだ。

https://hikino-effect.at.webry.info/201601/article_18.html


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2018.02.13
中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?信者の芸能人は?
https://芸能ニュース速報.com/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%AF%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99%EF%BC%9F/
Contents

1 天理教とはどんな宗教?
2 天理教信者の芸能人一覧
3 中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?

芸能ブログライターのkomichiです。

今回は、現在話題となっている「中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?信者の芸能人は?」です。

まさに日本の元祖歌姫とも言える中島みゆき、個人的に知らなかったのですが彼女は以前天理教に入っていて脱退したということですが何故信仰していた宗教から離れたのでしょうか?

天理教には他にも数多くの芸能人が入信していると言われています、誰が信者なのかまずはご紹介していきましょう!


天理教とはどんな宗教?

中島みゆきも以前は信仰していたという天理教とは、いったいどんな宗教なのでしょうか?

江戸時代末に成立した天理教は、新宗教の一つで中山みきを教祖としている宗教団体になります!

中山みきは、寛政10年に現在の天理市見昧田町にあった前川家の長女として誕生します。

この家は大庄屋だったと言われていて信心深い心優しい人間へと成長し、13歳で中山家に嫁ぎます!

天保9年41歳のときに神の啓示を受け、彼女の体に親神様が入りました。

嘉永7年に妊婦が安心して出産できるように「をびや許し」を始め、これが日本全国へと広まりました!

彼女の言動を快く思わない他の宗教から迫害を受けながらも、天理教は人々から親しまれ広まっていったそうです。

をびや許しは、妊娠6ヶ月以上の女性やその夫、夫婦の両親であれば代理で受けることが出来ます。

奈良県天理市に本拠所を置いていて、信者と教祖で作る法人格を持った包括宗教団体で、天理教の傘下にある一般教会は各地に存在します!

天理教の神名は天理王命(てんりおうのみこと)で、別名親神、親神様とも呼ばれています!

そして、芸能人の中島みゆきも所属していた天理教は「陽気ぐらし」というのを世界に実現しようとしている団体です!

教祖の中山みきは明治20年に死去していますが、天理教では目に見える現身(げんしん)を隠しただけで、その魂は教会本部に留まっていて人々の暮らしを見守り守護していると考えています!

この「教祖存命の理」という考え方が、天理教の信者にとって精神的な支柱になっているということです!

2018年2月11日現在の統理者は「真柱(しんばしら)・中山善司」になります!

天理教の信者は基本的にハッピを平服の上に着るのですが、黒字で背中には天理教と書かれています。

そして、天理教は神道の影響が強く根本教義には次のようなことが書かれています!

「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」

人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしを実現することで、親神の守護と恵みによって生かされているという謙虚な気持ちを持って欲を捨てて、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要。

さらに、天理教では人間社会の根本理念として親子関係や夫婦関係が重要視されています!

結婚に関して天理教では男女の両性が愛し合うことが前提ですが、離婚は否定していません。

全国各地の天理教の教会は、ぢばの方角に建てられていて信仰している人たちは、ぢばに向かって人の幸せや救いを親神様に向かって祈ります!

本部神殿は、365日24時間開かれていていつでも参拝出来ます!

天理教信仰の中心になるぢば一帯はもともとは、大和の国の庄屋敷村と名づけられた小さな村だったのですが多くの人がやってくるようになり、親里村と呼ばれるようになりました。

親里は人間の帰りを待っていてくれる親神様がいて、人類の故郷であると考えています。

そして、芸能人にも信者が多いと言われる天理教は明治時代から海外へも広がっています!

集団移民した日本人がいる場所やアメリカのハワイ、ブラジル、ペルー、コロンビア、アルゼンチン、パラグアイ、インド、オーストラリア、英国、フランス、メキシコ、チリ、香港、ニュージーランド、ウガンダ、ゴンゴ、ケニア、フィリピン、ネパール、シンガポール、タイなどの世界各国にあります!

教義の基礎は「お筆先(おふでさき)」「神楽歌(みかぐらうた)」「御指図(おさしづ)」の3種類の掲示書に示されています!

毎年1月5~7日に教会本部で「お節会」という行事が行われていて、この期間中は人類の故郷と考えられているぢばに帰り、参拝した人には鏡餅を雑煮にしたものが振る舞われています!

現在の宗教法人天理教の教えは、元祖の教祖であった中山みきの教えと明らかな違いがあるという指摘がされています!

天理教信者の芸能人一覧

ここからは、天理教の信者だと言われる芸能人をご紹介していきましょう!

● 李香蘭(山口淑子)
天理教信者であったのは事実のようで、神殿で見たという目撃情報が多いのです!

● 元チェッカーズ 高杢禎彦
がんになったことで、天理教の信者になったと言われています

● 加護亜依
子供の頃に、天理教が毎年夏休みに行っている子供向けのお泊まり会「こどもおぢばがえり」に参加していたと語ったことがありますが、これは信者でなくても参加出来るのでそうであるのかは不明です!

● 渡辺徹
ご両親は天理教だったことから、渡辺徹もそうではといった説や一時期週刊誌にもそう書かれていたと言われています

● 伊東美咲
学生時代素行が悪かったことから、大阪の天理教の分教会に下宿に出されたそうです。

● 畑恵
目撃情報が多いようで、信者だったのではという説が浮上しています!

中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?

芸能人の中島みゆきは天理教の信者だったといいますが、脱退した理由はいったいなんでしょうか?

それを紐解いて行く前に、中島みゆきとはどんな人物なのかご紹介していきましょう!

1952年2月23日北海道札幌市生まれの65歳(2018年で66歳)、日本のシンガー・ソングライターでラジオパーソナリティでもあります。

1975年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー、父親は産婦人科医だったといいます。

ご存知のとおり、芸能人として日本で知らない人はいないと思われる中島みゆきは数々のヒット作を自身が歌う以外にも、他の歌手に楽曲提供して世の中に送り出しています!

1979年にニッポン放送の「中島みゆきのオールナイトニッポン」が放送開始され、リスナーから大きな支持を受けます。

1983年になると、柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞で作曲賞を受賞するなど数多くの賞をもらい、日本の音楽業界を牽引していきました!

さまざまな活躍をしてきた中島みゆきは、2009年11月3日に紫綬褒章を受賞しています!

芸能人としての中島みゆきの活躍の裏には、天理教が色濃く影響されていると言われていて、言葉遣いや衣装などに強い影響を与えていたといいます。

両親が信者で、父は産婦人科医だったのに赤ひげ先生のような生き方を実践しお金のない人からは出産費用を取らなかったと言われているほど、熱心に天理教の教えを守っていたといいます。

その意志を引き継いで、中島みゆきは芸能人として活躍をしながら天理教の教えを歌の歌詞に込めて、多くの人に広めていったと言われています。

1992年に発表された「糸」という曲は、天理教の代表者「中山善司氏」の結婚式のために作られた曲だと、天理教機関新聞1992年4月12日号に書かれているそうです!

この歌の歌詞に次のようなものがあり、脱退の噂がある中島みゆきの歌詞が好きすぎて天理教に入りたくなるファンもいると言われています。

「縦の糸はあなた、横の糸は私、会うべき糸に出会えることを人は幸せと呼びます」

この曲は、人を糸にたとえて人と人が出会うことで布が出来上がる、という意味がある素敵な作品となっているそうです!

そんな中島みゆきが天理教を脱退したという噂が出ていますが、実はこれに関しては本当か噂なのか憶測の域を出ていないと言われています。

ただ、先程も書いたように中山みきが生きていた頃から考えると現在の天理教はただお布施集めに熱心で、教えが捻じ曲げられている面があると言われていて、それにうんざりしている信者の方もいるようですから、芸能人の中島みゆきがそれにうんざりして脱退した可能性は否定できないと考えることも出来るようです!

どんなものを信仰するかは個人の自由です!

こんな映画もありますので、参考にされてください!

宗教大国欧米の大手メデイアが唸ったと言われる、個人的にも好きな作品です。

ちなみに、PKとは酔っ払いという意味です!

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天理教 と 中島みゆき 130年祭の最中に不謹慎ですが。2 2016/02/01
https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_1.html


 『糸』 作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


中島みゆき 糸 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E7%B3%B8+&sp=mAEB


 ひきのeffect が 天理教で解説してみましょう。


     なぜ めぐり逢うのかを
     私たちは なにも知らない
     いつ めぐり逢うのかを
     私たちは いつも知らない
     どこにいたの 生きてきたの
     遠い空の下 ふたつの物語

 天理教では「神にもたれる」といいます。

 私たち自身には分からないが、神を信頼して任せれば(不安を除いて生きていけば)安心して暮らしていける。との意味。

 けれども、ここは曲の導入部なので、「知らない」・・・まだ分からなくて不安な雰囲気を醸(かも)し出しています。


     縦の糸はあなた 横の糸は私


 天理教 元初まりの話 より

 縦の糸 ⇒  あなた (貴方)男、しやち(鯱)が象徴 縦方向の働き
 (男一の道具および骨つっぱりの道具)

 横の糸 ⇒  わたし 女、かめ(亀)が象徴 横方向の働き 
 (ふんばりも強くて容易には転(ころ)ばないものであるから、女一の道具および皮つなぎ)

 ですから、縦糸が男で横糸が女です。

     織りなす布は いつか誰かを
     暖めうるかもしれない


 布=神 天理教は中山ミキを今も生きている(存命の理)として、着物を神前に供え、それを赤衣(あかき)と称してい ます。その赤衣を細かく切った『布』をお守りとしています。


 私のお守り
https://hikino-effect.at.webry.info/201602/img1_1.145433509173604550179.html

 織りなす布・・・神の技ですね。それが包み込むとの意味でしょう。

 最後に曲を完成させるためにこの段階では『かもしれない』です。

 天理教において赤衣は重大な意味を持つが本題でないので割愛する。


     なぜ 生きてゆくのかを
     迷った日の跡の ささくれ
     夢追いかけ走って
     ころんだ日の跡の ささくれ
     こんな糸が なんになるの
     心許なくて ふるえてた風の中


 天理教用語 ⇒ 節から芽が出る

 人生で大きな問題に出会うことを天理教では『節』と言います。
 竹などの真っ直ぐな植物にある途中の枝の出た固い部分。

 順調にやってきたのに、この節というのは、人には妨げになることです。しかしその節(問題)が、大きければ大きい程、それを乗り越えた時、『大きな 幸福』 を感じることができます。
 それを「節から芽が出る」と言います。

 この歌詞では、それを「ささくれ」で表現しています。そして、感じる『大きな 幸福』が次からの歌詞の題になります。


     縦の糸はあなた 横の糸は私
     織りなす布は いつか誰かの
     傷をかばうかもしれない

     縦の糸はあなた 横の糸は私
     逢うべき糸に 出逢えることを
     人は 仕合わせと呼びます

 《まとめ》

 神の道理(天理)を信頼して生きれば、男と女が出会い、神の計(はか)らいで幸せに生きて行ける。

 となります。
 どうでしょうか。

 天理教が中山ミキの教えを、中島みゆきの楽曲の様に教えてくれれば、もっと現代の人にも理解してもらえるし、信者が増えたと思います。

 しかし、残念ながら今の天理教にはそれができません。

 中島みゆき 作詞作曲の 楽曲はカラオケでも人気があります。中山ミキ の思想に依っていることを一般の人は気付かずに歌っています。

 気付かずに歌っていると言うよりも、中島みゆきの 楽曲は私達・自分達の中に自然にある、備わっている、神性に気付かせてくれる楽曲と位置付けることができるかもしれません。だからみんな歌うのかもしれません。

 宗教色は排して、素直に感じればいいと思います。

 中山ミキ婆さんも中島みゆきも素晴らしいですね。

 また 『宙船』でも歌っちゃいますかね。

https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_1.html


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天理教 と 中島みゆき 130年祭の最中に不謹慎ですが。3 : 2016/02/07
https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_5.html



 中島みゆき の楽曲 これに 天理教 とくれば、それしか知らない人は、彼女がさも暗く陰気な人間のように感じるかもしれない。

 しかし、ラジオ放送のパーソナリティーとしての彼女を知っている人は、その声があまりにも明るくて素敵なことを知っている。

 宗教と言うと厳(おごそ)かとか、幽玄(ゆうげん)・・・などの静かな厳粛(げんしゅく)な印象があるが、天理教は本来もの凄く明るい宗教だ。

 従って、私は彼女の歌の重みと、ラジオの声に違和感を感じない。むしろ天理教信者本来の、明るさ、無邪気さ、生きることの楽しさを感じる。


 では、今の天理教は?

 天理教関係者ならご存知と思うのであまり言わないが、一言でいえば「陰気」である。

 中山ミキによると、神が人間を作ったのは、「人間の陽気遊山が見たいから」である。わたしも、色々なことをしているが、楽しいからである。もちろん周りには死んでいく人もいるし、数々の苦楽のドラマが展開している。私自身、歳もとり、3歳の甥っ子に「ジジィ」呼ばわりされるが。

 それをどう感じるかは自分次第であり、それを見ているのが神である。で、神は楽しいものを見たいのだ。

 中山ミキの教えを素直に実践しているのが、中島みゆき だと思う。

https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_5.html


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天理教信者の中島みゆきが書いた世情 私見 ひきのエフェクトのブログ : 2016/09/28
https://hikino-effect.at.webry.info/201609/article_21.html

 中島みゆき 世情  1978年4月10日 リリース

 1960年ごろから始まった学生運動のことを知らないとこの歌の本来の意味は理解できません。

 60年安保の時代は大衆運動は労働組合や政治結社が主体でした。
 時代が進むにつれて、大学生が主体となります。

 ベトナム戦争反対運動
 東大安田講堂攻防戦
 70年安保闘争
 三里塚闘争 成田空港建設反対運動
 全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)

というのがあって、1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代のことです。


 1970年

 私は10歳でした。
 ですから、学生運動のことは遠い世界のことでした。都会は火炎瓶が飛び交い大変なことになってるらしい。ぐらい。

 中島みゆきさんは、18歳。
 直接かかわらないにしても、大きな影響を受けたであろうと想像できます。
 現在を生きる、若者世代は理解できないとおもいます。
 革命を本気で夢見た若者たち。・・・私もよくわからない。


 個人的には、全共闘世代・・・ほぼ団塊の世代・・・無責任な大量の人たちだと思っています。 あれだけ大騒ぎをして、知らない顔で社会人をしていました。・・・まだ元気ですがこれから老人になり反省のないまま消えてゆくでしょう。自業自得ある意味悲惨です。
 
 中島みゆきさんは、歌の意味について説明されません。
 そしてその意味の受け取り方は、聞く人それぞれの経験や考え方で変わってくる、別にそれでいいと思います。

 長い前書きになりました。私見ということで書いてみます。

 まず 原詞

 中島みゆき 世情


・世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが 悲しい思いをする

・変わらないものを 何かにたとえて その度崩れちゃ そいつのせいにする

 ※シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて
 時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため※

・世の中は とても 臆病な猫だから 他愛のない嘘を いつもついている

・包帯のような嘘を 見破ることで 学者は世間を 見たような気になる

 (※くり返し×4)


 長くはありませんが意味は深そうですね。
 
 頑固者をどう見るか・・・これで今後の展開が大きく変わります。

 彼女は天理教で育っています。私もです。どうしても、頑固者を・・・神様・・・にしてしまいます。

 (頑固者を時代についていけない者・・・との意見があります・・・単純すぎます)

 すると最初の一行で、後にくる言葉をまとめてしまっています。総括が一番最初にある。


・世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが 悲しい思いをする


 世の中はいつも神の想いと違う方向へ変わっていくので、神の視点からみると、流されていく者たちが不憫で、神は悲しい思いをしている。

変わらないもの・・・安寧、平和、愛・・・

これを何かにたとえて・・・形あるものにして・・・偶像、バリケード、壁新聞、ビラ、モニュメント、契約書

その度崩れちゃ そいつのせいにする・・・形にしたものが、形があるゆえに崩壊してしまう。

そいつ・・・代名詞にして特定しない。

・変わらないものを 何かにたとえて 作るたびに崩れちゃ そいつのせいにする


 変わらないもの、愛や安寧をバリけードや壁新聞にして、作るたびに崩れちゃ人のせいにして自分のせいじゃないと無責任なことばかり言う。


・シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて


  デモ行進が波のように過ぎていく 波・・・おしてはかえしながら・・・小さくなってゆく・・・いずれは消え去る。
 変わらない夢・・・平和などの恒久なもの・・・だけど夢(消えてしまう)
 恒久なものを デモ行進などの流れ・・・変わってゆくものに求める・・・この矛盾
 流れは・・エネルギー・・・力・・・暴力・・・となって戦うに続く


・時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため※

 時の流れを止めて・・・書面や契約書、条約などを作ってこれで、恒久に 平和などが約束されると夢を見たがる・・・実現しないと知っていながら、実行に移そうとする者

 夢を見ている者と、実現しないと知っていながら、実行に移そうとする者の闘い。

 学生運動の虚しさを表現しています。


・世の中は とても 臆病な猫だから他愛のない嘘を いつもついている


 猫の目 物事がその時どきの事情によって目まぐるしく変わる様子。
 猫なで声 優しげで媚を含んだ声
 猫ばば 悪いことを隠して素知らぬ顔をする
 真実を隠し、すぐばれるような嘘ばかりつく

 
・包帯のような嘘を 見破ることで


 大きな傷(社会の矛盾)が隠されている、傷を治さずに覆っているだけの包帯
 包帯を嘘と見破るだけで、本質・・・傷には触れず何もしない。

 
・学者は世間を 見たような気になる


 頭でっかちな学者は、それで世界を解明したかのようなことを言う。
 嘘を見破っただけで傷の本質(社会の矛盾)は何もわかってはいない。治そうとしない。
 また、新しい包帯に換えられる。

 文章が長くなってしまいました。

 TBSの金八先生でこの曲が使われ感動を呼んだと聞きます。私は金八先生が嫌いで見ていませんでした。中学生の不良と学校の対立だったかな。番組では不良中学生の権利の主張みたいな・・・
 いかにもTBS的です。…学生運動の残滓

 
 この歌の基調になる

 世の中はいつも神の想いと違う方向へ変わっていくので、神の視点からみると、流されていく者たちが不憫で、神は悲しい思いをしている。

 いまでも、変わりません。

 戦争法案反対デモ 貧困たたき反対デモ
 原発・・・実現しないと知っていながら、実行に移そうとする。
 
 頑固者だけが 悲しい思いをする。

 この歌を聞いて、私たちはどう行動するべきでしょうか。
30:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:12:08

中島みゆき の楽曲と 脳科学者:ひきのエフェクトのブログ 
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_12.html

中島みゆき の楽曲を脳科学者の茂木健一郎氏と小堺一機氏が語らっている動画を見た。

 ⇒ かたらふ~ぼくたちのスタア~ 2016年09月03日

 茂木健一郎氏の専門の『脳科学』・・・によると


 『時代』 は メタ認知

 メタ認知とは 認知を認知すること。 人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。 それをおこなう能力をメタ認知能力という。


 『地上の星』『ヘッドライト・テールライト』 は グリットソング

 グリット 目的を達成するためにとてつもなく長い時間粘り強く努力することによって最後までやり遂げる力
 グリットソング・・・応援歌


 『ファイト』 は 究極のグリットソング


 コメディアンの小堺一機氏と一般人のチャラチャラした会話ならばこの内容でいいだろう。

 大人気の脳科学者茂木健一郎氏が中島みゆきの楽曲をこの程度の薄っぺらな理解しかしていないことに驚く。口をついて出てくる単語はなるほど難しい、しかし読みはあきれるほど浅い。

 中島みゆきの楽曲を深く理解するためには、宗教的な見方(霊的な感性)が不可欠だ。

 このことについては、過去のblogで書いてきた。
 宗教的な見方(霊的な感性)を教育や政治で避けてきた時代の弊害だろう。

 各楽曲の気になる部分を抜き出してみよう。

 『時代』の・・・ 人は生まれ変って歩き出すよ
 生まれ変わりは『メタ認知』から逸脱する。


 『地上の星』の・・・ 氷ばかり掴む
 ・・・やり遂げるというより虚しさを感じる。


 『ヘッドライト・テールライト』の・・・足跡は 降る雨と 降る時の中へ消えて
 最後までやり遂げる力・・・こんな単純な話ではない。

 『ファイト』の・・・闘わない奴等・・・誰のことか?

 脳科学者の茂木健一郎氏、世間の事件にblogでコメントをしている。

https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_12.html


 過去blog ⇒ 今度は「広島の中3自殺」だそうです。

 彼には次の詞が良いかもしれない。


 『世情』
 包帯のような嘘を 見破ることで
 学者は世間を 見たような気になる

https://s.webry.info/sp/hikino-effect.at.webry.info/201609/article_22.html
31:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:13:52



中島みゆきが追っかけをしていた吉田拓郎の場合

アジアの片隅で-吉田拓郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%8B%93%E9%83%8E+%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%A7

団塊の世代 吉田拓郎 今も狂い酒のまま ひきのエフェクトのブログ : 2016/03/03
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html



 私が中学校の時、フォークソングの一大ブームがありました。

 70年安保闘争があり、ベトナム戦争が終わったのが75年、その当時も、今の様な混乱があったと思います。

 反戦平和を訴えて、当時の若者、いわゆる団塊の世代が、世相をリードしていました。

 わたしは、中学生だったのでそんな世相のことなど分からなかったのですが、フォークソングブームの波にはさらされていました。その中でギターのうまい友達が、吉田拓郎を弾いて聞かしてくれました。中学生の当時はカッコいいなー、程度で友達と一緒によく歌っていました。思春期の憧れですね。

 しばらくして、吉田拓郎のLP「アジアの片隅で」を買ったのですが、しっくりこなくて数回聞いて聞かなくなりました。


 吉田拓郎氏は 1946年生まれ、団塊の世代です。

 「アジアの片隅で」を詞で読んで見ましょう。

 ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり
 子分共は慌てふためくだろう
 闇で動いた金を 新聞は書きたてるだろう
 ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし
 子供達を飢えが襲うだろう
 むき出しのあばら骨は 戦争を憎みつづけるだろう

 ※アジアの片隅で 狂い酒飲みほせば
 アジアの片隅で このままずっと
 生きていくのかと思うのだか※

 ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう
 車は人を轢き続けるだろう
 退屈な仕事は 野性の魂を老けさせるだろう
 ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり
 セールスマンは道路に坐りこむだろう
 年寄りと放浪者は 乾杯の朝を迎えないだろう

 ※-※ 繰り返し

 以下つづく ⇒ 歌詞リンク
http://j-lyric.net/artist/a001cc0/l0187af.html

 皆さんどう思われるでしょう?

 三番には
 ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう

 ベッキーのことでしょうか?


 凄い内容です。今にも通じる歌詞です。予言の様ですね。

 でも、ちょっと待ってください。これはこの当時(1980年)の歌です。今の世相にも通じるなんて甘い見方を私はしません。

 私は、ここで団塊の世代の特徴を見ます。

 ・・・・・問題を何も解決しない。
 ・・・・・で解決していない事実が分からない。
 ・・・・・その状態に酔いしれている。(こんなもんだと思っている)

 
 ― アジアの片隅で 狂い酒飲みほして このままずっと 生きていく ―

 ・・・だから、何も変わらないままなのです。

 吉田拓郎氏の思いは現実になっているんですね。今も、これからもずっーと。


 戦争反対だ、政治腐敗だ、と言っておきながら、一番人数が多いのに何も改善せずに、そのまま年老いていく。

 本田宗一郎の世代は一人一人が日本を変えたのに、です。

 この現象は、教育の世界でも

 神戸大学名誉教授の 広木克行 氏 1945生まれ

 このかたも ” 子どもは「育ちなおし」の名人―見えますか、子どものシグナル ”などの著書があり、講演会に行ったことがありますが、講演会は盛況になるのに、子供に関わる事件は一向になくならない。

 尾木ママもですね。

 政治の世界でも・・・・・・


 常に団塊の世代は、人数で日本を動かしてきました。人数が多すぎますが戦後民主主義の主役です。今後も日本は民主主義のままでしょう。とすれば、これから日本がどうなるかも彼らにかかっているのですが、私は老人たちを冷たい視線で見ています。
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html


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天理教の信者をやめた中島みゆきの運命は?

天理教の信者をやめた 時 どうなるか:ひきのエフェクトのブログ 2016/01/27
 130年祭の最中に不謹慎だが・・・天理教をやめたはなし。

 天理教の信者をやめた時、親やら、系列の教会長に、信心を続けるように説得された。

 わたしは、中山ミキに対する信心はするが、天理教組織には関わらないとはっきり告げた。

 いまでも、実母や小母さんや婆さんたちに戻って来いと言われる。
 天理教では「親」から離れることが御法度である。

 「親」とは教祖と同じ意味で、私は親の言うことを聞かない、すなわち ”教祖の言うことを聞かない” と同義語になってしまう。

 天理教の「親」とは、「親神」や教祖と書いて”おやさま”と呼んだり大変重要な言葉である。

その「親」に対するのが「子」で、「子」にあたるものは何でも「親」の言うことを聞かないといけない。絶対服従と言っても良い。

組織上もどんなにさびれても、どんなに遠くにあっても「親」に当たる教会を「子」教会が助けないといけない。私の属していた教会は北海道に「子」教会があり、所属の会長たちは大変な旅費を使って通っている。

 金もこの「子」から「親」に向かって集められ、「子」は大変な思いをする。見かけ上は「喜んで」することになってはいるが。

 そんな、組織を私は、言わば裏切った。


 すると、こんなことを言われる。
 「親」を裏切ったから、命が無い。・・・罰が当たって病気や事故で死ぬと言う。

 天理教用語で「出直し」と言う。人生を失敗したから、もう一回という意味だ。


 わたしは、中山ミキを裏切ったつもりはない、天理教と言う組織に嫌気がさしただけだ。

 自分は「罰が当たって病気や事故で死ぬ」とは思っていない。今まで健康で暮らしている。

 しかし、実母は本気で心配していて、天理教の教会に御供えをして息子を助けてくださいと祈っている。

 信心深いと言うか、なんと言うか。
 実母は80歳を超えるので、今更どうしようもない、好きにさせておこうと思う。
https://s.webry.info/sp/hikino-effect.at.webry.info/201601/article_16.html


ひふみ神示と天理教 : 2015/11/20 22:57 >>


 わたしは天理教に育てられました。
 わたしは婿養子で、実家が天理教だったからです。

子育てが終わったら、私一人家族から別れ(信仰上の話で離婚とか別居の意味では無い)天理教に奉仕しようと思っていました。そのために準備をしたのですが、結局ある分教会との意見の食い違いがきっかけになって、天理教を辞めてしまいました。いまでも、天理教教祖 中山ミキ の教えは素晴らしいと思っていますので、このブログにも ミキ婆さんの話や、資料を載せています。現在は、一般的な日本人、阿太加夜神社の氏子で、檀那寺が浄土真宗の浄円寺です。そして、氏子活動に奉仕しています。

 なぜ、天理教に奉仕しようと思ったか。
 なんと! それは、ひふみ神示にあるからです。

 ひふみ神示 第05巻  地つ巻 / (九二つまき) 全卅六帖 第十二帖 (一四九)
 この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ

 天理教は生き返る!!

 天理教が生き返るなら、天理教を応援してやろう! と考えたのです。

 また、ひふみ神示 第23巻 海の巻  第十一帖 に 面白い記述があります。
 タンバはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ、世界の事ぞ、タンバとはタンバイチとは世界の中心と云ふ事ぞ、日の本と云ふ事ぞ、キ・ミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。地場を固めなならんぞ、五十鈴の川はムツの川、和合の川ぞ。

 「タンバイチ」とは「丹波市」 天理市の古地名でいまでも町名に残っています。そして天理教では本部の中心を「ぢば(地場)」と呼び「甘露台」という石柱を立てることになっています。もともとは中山ミキが住んでいた屋敷があったところで、ここで親神が人間を宿し込みになられた場所、イザナギとイザナミが人類を産んだ人類発祥の場所とされています。

 タンバイチ 興味深い神示ですね。

 しかし、天理教のいろいろ深い所に関わってみると次の神示のとおり。

 ひふみ神示 第08巻 磐戸の巻 / (イ八トノまキ) 全廿一帖 第7帖 (243)
 今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ。

 今の天理教は、完全親族経営で超閉鎖的なことが分かりました。新しい取り組みなんてできません。教祖の教えは素晴らしいのに、金ばっかりかかって教勢は下がるばかり、残念で残念でなりません。これでは、「地場」が人手に渡るのを守る役でしかありません。

 しかし、この残念があるからこそ、ひふみ神示が天明さんにおろされ、今の時代があると思います。

 頑張ろうとはおもいますが、まあ、中山ミキ婆さんの教えと、ひふみ神示がしっかり対応していることが分かってもらえればうれしいです。
 
 次、中山ミキ婆さんの教えと、天照皇大神宮
https://hikino-effect.at.webry.info/201511/article_9.html


天理教と天照大神 : 2015/11/21


 天理教には、三原典「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」が存在します。
 (私は天理教の信者ではありません)

 「おふでさき」:教祖中山ミキが自動書記で残した和歌形式の文書
 「みかぐらうた」:つとめ(祭典で踊る)の地歌(楽曲)として教えられた詩
 「おさしづ」:中山ミキならびに本席(飯降伊蔵)による口述の教えを筆録したもの。

 その「おふでさき」の中に面白い記述があります。
 明治7年12月 第6号52
 いざなぎといざなみいとが一の神 これてしよこの大じんくゝなり

 訳
 A イザナギとイザナミとが一番の神 これは天照皇の大神宮である。
 B イザナギとイザナミとが一番の神 これで証拠の大神宮なり。
 A・B 二通りの解釈があります。いずれにしても、大神宮とは伊勢神宮のこと。

 伊勢神宮=古事記=神社神道

 これは、いろんな意味にとることができて、矛盾するような、しないような、天理教サイドも、神道サイドも困った話です。

 一番大きな違いは、天理教は一神教の体裁をしている。神社神道は多神教・・・・・・なのに、一番の神これは伊勢神宮である。・・・?

 一番困るのは、中山ミキが神の意志を自動書記した動かしようのない事実です。

 天理教は神社神道との違いを強調したいが、この一文のために大きな顔ができません。

 この一文は様々な憶測が成り立ちますが、ただ言えることは、金光教、黒住教、大本教、天理教、ひふみ神示・・・日本の神は天照(伊勢神宮)を通じてむすばれているということではなかろうかとおもいます。
 (この辺は、面白いけど、またの機会に取り上げましょう。)

 私も、この一文のおかげで、天理教に奉仕しながら、神社の氏子活動を平気な顔をしてやっていました。

 中山ミキ婆さん と 天照大神(あまてらすおおみかみ) が無関係ではないことが分かってもらえればうれしいです。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#cbtm

▲△▽▼

中島みゆきが知らなかった天理教の正体

天理教について質問です。


ID非公開さん 2016/3/12 18:26:48

天理教について質問です。


1) 教祖は精神を病んでいたのか。
親様=教祖=中山みき は精神を病んでいたんでしょうか。
精神を病んでいたなら、それはいつ頃からですか。

狐憑き=親神様が憑依した時からでしょうか。


2) 中山家は貧乏人に施しをして凋落したのか。
中山家が貧乏人に施しをして、自分たちが貧乏になったのか。
投機相場に手を出して大損したんでしょうか。
元から貧乏だったんでしょうか。

3) 座りづとめ、12下りなどは誰が、天理教神話はだれが考えたのですか。
中山みきが考え出したとは思えない。憑依中(精神錯乱中)に何か口走ったかもしれないが誰かがそれをまとめて整理しないと御手振りや座りつとめの形式にならない。楽譜や振付、歌詞は誰が考えたのか。

天理教神話は誰が考えたのか。
全て中山みきが考えたのか。そんなはずはない。だれか参謀的な人がいたのですか。
ベストアンサーに選ばれた回答

blu********さん 2016/3/12 23:53:30
.

1: 中山みきは、1798年 (寛政10年)4月に、大和国山辺郡三昧田村で生れた。現在の奈良県天理市に属する。父は、当時34歳の前川半七(正信)で、母はきぬ(当時26歳)であった。

前川家は、豊かな家柄で、20戸(2百石)の庄屋であった。藩から一代限りの無足人という、武士に準ずる身分をあたえられ、近所の村を含めての目付役をつとめていた。名字帯刀を許され、具足、鎗、鉄砲各一と下人数人を持っていたといわれる。また、大和神社の総代でもあった。要するに、農家というより武家に近く、郷士層に属する地方の有力者であった。

彼女は7歳頃には、父から文字を習った。9歳から11歳までは、近所の寺子屋に通っていたといわれる。また、10歳の時には、母が唱える和讃を聞き、暗唱したこともあった。後の彼女の話によれば、幼い時に、彼女は人の前にはあまり出ようとしない、陰気な少女であった。また生来身体もあまり丈夫ではなかったという。


中山家は、耕作地主で、藤堂藩領三十余戸(300石)の庄屋をつとめ、十数町歩の田畑山林を所有していた。綿屋とよばれて綿の仲買もしていて、使用人も多いときには20人ほどであって、かなりの収入のある豪農であった。

夫の善兵衛は、怠惰て不身持ちな生活をしていた。彼女は、夫とのあいだに何の心の触れあいも感じない毎日を送るようになった。みきが、嫁いでしばらくしたころ、夫は妾をかこい、下女にまで手を出していた。

江戸時代、大和地方の農村は浄土宗の地盤で、村ごとに念仏講があり、念仏踊りや和讃の集まりが盛んであった。みきの実家である前川も浄土宗の熱心な壇家で、その菩薩寺は丹波市の迎承寺であった。両親は朝夕、仏前に回向頂礼を欠かさず、この寺への参詣もおこたらなかった。幼いみきも両親と一緒に念仏を唱え、「浄土和讃」を聞き覚えていた。たとえば、その内容は、「沙婆世界は厭ふべし、厭はば苦海を渡りなん、安養界をば願うべし、願はば浄土に生るべし、草の奄は静かにて、八功徳池に心すみ、夕べの嵐音なくて、七重宝樹にわたるなり」というようなものであった。

彼女は、19歳の時には、中山家の菩提寺であり壇家であった善福寺で「五重相伝」を受けた。五重相伝とは浄土宗の奥義をきわめた篤信者に授ける儀式で、7日間5回にわたって勧請聴聞をし、その上で剃度式(おかみそり)を受け、秘密の伝法を口伝で頂くものである。彼女は、1816年春、勾田村の浄土宗・善福寺に入り、そこの住職、報誉上人からその秘密の伝法を貰った。当時みきの戒名は「連誉勝岸智宝禅定尼」であったという。仏教とりわけ浄土宗からの深い影響が窺われる。


しかし、浄土宗の彼岸主義に中山みきは次第に失望していき、現世での幸福を求めて、仏道から離脱する。

夫の善兵衛との冷え切った生活、仏道に絶望し仏道から離脱してから精神的支柱を失い、徐々に精神が蝕まれていった。

そして、長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまい、ホームレスとなり、全てを失った中山みきは、絶望に陥った。その後は1と2の説を自分的にはあげる。


1:現在で言う統合失調症になり、幻聴により、加持祈祷の際、加持役となった中山みきの頭の中に神の声を聞き、祈祷者の問答に答えた。

2:中山みきは浄土宗の教義の全て(全てのお経を記憶し暗唱できる能力も含めて)を記憶し問答で正確に回答できなければ授与されない五重奏伝を授与できたほどの高度な知力を有していた。その知力は子孫に遺伝された。その知力を持って民衆をだまし、金儲けをした江戸時代の金儲けの天才であった。


2代真柱の中山正善(1905年-1967年)は東京帝国大学卒業。

3代真柱の中山善衞(1932年 - 2014年)は慶應義塾大学卒業。

のいずれも超知的エリートである。

特に中山正善の時代に東京帝国大学を卒業するのは努力だけでは無理。知力が相当に高かった事になる。中山善衛もしかり。

さらに言えば、天理教では”阿呆になりなさい”と信者に教えてるが、
それは、信者に考える時間を与えないためである。

その高度な知力を持って、中山みきは現状のホームレスの状況を有利にする策をとった。まず、産婆としての職人的能力のあった中山みきは「おびや許し」と安産請負をうたい文句に高々と宣伝していった。しかし、現代でも産婆での自然な分娩をする妊婦はいて、医療事故は聞いた事がない。天理教の主張する江戸時代の出産は致死率が非常に高かったは嘘である。現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。江戸時代前期の外様大藩の領民人口変遷をみてもどの藩も人口は増えてる。

安永3年(1774年)の段階で杉田 玄白はオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を和訳し「解体新書」を刊行してる。

また、天理教で朝夕に「あしきを払い助けたまえ~」と唱えて手を振る儀式を「おつとめ」と呼んでるが、元々「おつとめ」とは仏教の勤行(仏前で読経する)の事をさしてる。中山みきが信仰していた浄土宗のHPにも「おつとめ」と書いてある。
http://jodo.or.jp/jodoshu/okyou/index.html

中山みきは本来は浄土宗善福寺の熱心な信者だったが、自身が神道の教組になってからは、仏教から用語や思想を盗んで教理に取り入れた。

「撒いた種は刈らねばいけない」は天理教のオリジナルではない。

英語圏のことわざに

As you sow, so shall you reap.《蒔いたように刈り取るべし》[聖書:ガラテヤ人への手紙6-7]= Whatsoever a man soweth, that shall he also reap.《蒔いたものは刈らねばならない》というのがある。また、「因果応報」「自業自得」は仏教用語である。

2:天理教中山家は実際は、長男・秀司が米と綿の相場に手を出して大損をして滅んだ。この事実を隠蔽して歪曲し、貧しき者に土地屋敷家財を全て売り払い貧に落ちきったと天理教は嘘をついてる。

「日本の10大新宗教」(幻冬舎)という本の中に、書かれている。

特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を湾曲化して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。

宗教学者の島田裕巳
元天理教本嬬原分教会会長の八島秀雄
早川 和廣(新興宗教問題も手がけるライター)

3:2の質問で2の説をとると泥海古記などは中山みきが書いた。

最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。

その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。

奈良県天理市が人類発生の地である。

神秘性で呪縛する目的で意図的に書いたのだろう。

また、週刊文春は過去に「天理教本部賽銭箱は地下室のベルトコンベアーに直結してる」という記事を書いたが、天理教側は訴訟を起こさなかった。事実だから起こせなかった。豊文分教会が分離独立したときには、”天理教”という”商号”を使ったとして天理教本部は訴訟を起こしたが敗訴した。

4補足

天理教は悪名高い真光とつながっている。

まず、大本教の出口王仁三朗が、大本教が本来祭り上げてる神の隣に中山みきを神として祭り上げた。

大本教信者の岡田茂吉が分離独立し世界救世教を創設。
同時に大本教信者の谷口雅春が生長の家を創設。(数年前に約8千億円の資産をブラジルの銀行にレアル建てで移管)

世界救世教秀明教会が分離独立して神慈秀明会を創設。

世界救世教幹部だった岡田光玉が世界真光文明教団を創設。

岡田光玉死後、後継者争いで、岡田恵珠が崇教真光を創設。

生長の家は書籍販売で儲けてるが、後は悪名高い、浄霊や手かざしの金巻上げ集団。

●明主様御講話(岡田茂吉が天理王の命を地獄に落ちたものと言っている)

ここに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供で五人としてあるがもう一人ある。

もう一人というのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。

息子に国武彦尊(くにたけひこのみこと)と言うのがありそれが一番長男になる。

当時大将軍と言い勇猛でかなり勝手なことをやっていたその罪によって、言わば地獄に行かれたようなことになる。

一番末が初稚姫尊(はつわかひめのみこと)と言い、これが天理教祖の中山みきとなる。

そういうようにいくども生まれ変わっている。大将軍の妹になる。

そこで霊界で地獄と言ってもふつうの人間と違います。

修行するんです。修行した結果、大いに世の中のためになろうと言うので天理教祖の中山みきに憑った。

それで中山みきに最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。

そういう因縁なんです。

そこで最初のうちは力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。

それで最初は病気治しで世の中に出たんです。

天理教の本体を書くことは天理教に悪いですからそこで書かなかった。

http://www.geocities.jp/shumeic3/oomoto2.html

天理王の命という弱い者いじめ専門の神も、「神の社にならなけれ

ば、屋敷もろとも(お前らを)木っ端微塵にする」と恫喝し暴力と力でねじ

伏せ中山家を支配したが、本当に清き正しき神ならば、自分よりはるか

に弱い者を暴力で力でねじふせ支配するような事をするだろうか?

世界一列助けたいなら、徳川将軍を暴力で力でねじふせれば一番の

近道のはずであるが、徳川将軍には勝てないからできなかった。

質問者 ID非公開さん 2016/3/13 01:20:58.

中山(前川)みき は幼少のころから秀才で頭脳明晰であった。親神様の憑依現象も芝居であって、詐欺師であった可能性も否定できない。
もっとも、家庭の不幸で統合失調症になった可能性は否定できない。

中山家は投機で破産したが、それを美談に仕上げた。

天理教の教えは中山みきなど中山家住人の頭脳から発した。もっとも、浄土宗からの引用ではあるが。


bluekeyakiさん 纏めるとこんなとこでしょうか。
けど、よくご存じですね。貴方は天理教の教会長やその関係者ですか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14156926349


▲△▽▼

uta********さん 2018/7/10 20:29:21

中島みゆきさんは天理教を脱会されてますか?

今でも天理時報に載っているらしいので、本当に脱会されているのか分かりません。
知っている方、よろしくお願いいたします。
天理教の方だと

なお嬉しいです。


ベストアンサーに選ばれた回答

msk********さん 2018/7/11 18:02:50

脱会していません。

洲本大教会という教会の系統の信者さんです。
自宅には神様も祀られています。

定期的か不定期的かは分かりませんが、今も所属の会長さんがおつとめに行かれています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11192966206

▲△▽▼

かれこれ2ヶ月ばかりかけて、中島みゆきのデビュー以来の曲を殆ど聴いてみて、彼女の訴えたい事の芯にあるものは、首尾一貫していることがよく判る。

<全ての生命とその連鎖(血の繋がりではなくて想いの継承とか、極端には輪廻)への徹底した畏敬>である。

これは殆ど宗教的なものだと思う。そういう意味で幼い頃から家庭で馴染んだと思われる天理教の思想が影響しているのかもしれない。

調べてみると天理教は江戸時代に中山みきという女性が始めたものらしい。神道に分類されているが、一応教義を持っているらしい。神の摂理を信じて楽しく生きる、というのがその心髄らしいがよく判らない。

また基本的に金銭に捉われる事を嫌い、信者はしばしば財産を教会に差し出すようである。

中島みゆきの家は天理教の教会長だったし、父の墓も天理にある。本人も天理教の勉強会に参加していたらしい。

歌の中で宗教的なものに何となくその気配があるということらしいが、むしろ個人の主体性を鼓舞するような歌が多いように思う。

これらの事については、本人の意思を憚って誰も語らない。

バッハがキリスト教の神に仕える職業音楽家として徹底していたのと同じように中島みゆきは天理教の神に仕えているのだろうか?

多分そうではなくて、天理教の神も含めて、もっと大きなものに仕えているように思われる。だとすればそれは何か?

*)「命の別名」については、文句のつけようのない解説があった。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/sigeru/books/nakajima/nakajima_06.html


中島みゆきの夜会「2/2」は 1995年、1997年、2011年と作り直されてきた。そんなに拘るにはそれなりの深い理由があるはずである。

そこで、1996年に小説となった「2/2」(幻冬舎)を借りてきて読んだ。
なるほどこういう話だったのか。。。

双子として産まれて来る時に、姉の方が死んでしまった。姉が茉莉、主人公が梨花。2つあわせると茉莉花(ジャスミン)。

子供の頃ふと聞いてしまった親戚の人の言葉、<この子は姉を殺して生れてきたのよ>というのがトラウマとなって、<それ>がもうひとつの人格として梨花の幸せを邪魔する。

そして、恋人の圭に危害を加えることを恐れて、梨花はベトナム旅行に旅立つ。直ぐに帰って圭とは二度と会わないつもりだったが、手違いで帰れなくなる。結局圭がトラウマの真相を調べて助けに来る。

最後に梨花が本当の茉莉を幻覚して真相を知る。
真相とは、<茉莉が臍の緒を首に絡ませていたので、梨花が助けようとした>ということであった。

トラウマとなった梨花の中の<それ>、つまり偽者の茉莉、と本当の茉莉との闘いが最後にあって、梨花はついに胎内での出来事を思い出して<それ>が消える。

茉莉が

<梨花は几帳面で正義感に溢れているのは良いけれとも、人の証言なんていうものはその人の勝手な解釈に過ぎない。そんなことを信じて自分を責めてはいけない。そんなところに人が従っていい「正しさ」は無い。>

という。

茉莉はこれまで<それ>を消すために、圭を利用しようとして、梨花の2重人格障害を圭に見せようとしたのだが、圭がなかなか気づかず、梨花があまりにも真面目だったために、こういう大きな騒動になってしまった。けれども、結局は圭が出産の秘密を探り出して助けたのである。

確かにドラマチックで面白い物語なのだが、それだけではないだろう。何からの意味でこの物語は中島みゆき本人の<歌でしか言えない>人生、つまり<自分の中の他者との永遠の緊張関係>を語っているように思える。
http://www.asahi-net.or.jp/~aw7k-mk/books/miyuki5.htm
32:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:14:36


中島みゆき 砂の船

 「寂しい、一人だ」と思ってしまったとき、この温泉があります。思い出してください。


温泉津温泉 泉薬湯 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%A9%E6%B3%89%E6%B4%A5%E6%B8%A9%E6%B3%89+++%E6%B3%89%E8%96%AC%E6%B9%AF

温泉津温泉 元湯 (泉薬湯)
http://www.yunotsu.jp/oyu/index.htm

望むものは何一つない 
探す人は誰一人ない 
望むほどに消える夢です 
探すほどに逃げる愛です 
月は波に揺れて幾百幾千 
古い熱い夢の数だけ 
いま誰もいない夜の海を砂の船がゆく


中島みゆき 砂の船 動画
https://pv755.com/sand-boat


 これは、中島みゆきの「砂の船」の一節である。

 若い頃、この歌を聴いて、恐ろしくも何かに引かれるような魅力を感じた。当時はこのような”古い熱い夢が波に砕け散って浮ている海”のがどこにあるのか分からなかった。

 ここ温泉津温泉の共同湯は、温泉街の中に2つ(住宅地にはもう一つ小浜温泉がある)あり、そのうちひときわ古い概容を示しているのが元湯泉薬湯である。はっきり言って、きれいではない(早く言うと朽ちかけている)脱衣所を抜けると、カルシウムと鉄分の湯の花が析出してこびりつき、元のコンクリートが見えなくなった2つの浴槽と洗い場が見える。

 2つの浴槽のうち、熱い方はとびきり熱い。46℃もあり、常人には耐えられない。また、”ぬるい”と書いてある方も42℃あり、これまたけっこう熱い。湯は、源泉口から”熱い湯”の方に注ぎ込まれ、浴槽の下を通って”ぬるい湯”の方に流れ、排水溝から消えていく仕組みだ。

 湯は、緑と茶と白が混ざった濁り湯で、塩分を多く含んでいる。”ぬるい湯”に浸かり、目を閉じてゆっくり鼻から息を吸い込むと、ここが探していた”夜の海”であることに気がついた。やっとそれがわかる年齢になったし、そういう人生経験を経たのだなと、過去を振り返ることが出来た。


 個人的願望だが、年齢に関係なく、アビルマンはもとより、今だ気を滾らせた温泉マニアや温泉通、もちろんただの冷やかしにはここ温泉津への入湯は自重してほしいと思う。ここは、古い熱い夢を捨てた枯れた心が似合う。

目を閉じると、幾百幾千の月が熱い湯気の向こうに輝いているのが見えるではないか。

 もし、貴女が、「一人だ」と思ったら、決して綺麗ではないこの湯に来て欲しい。眉間にしわを寄せ、一人で試練に耐えているつもりなら、ここの湯が効きます。

 古き熱き夢を湯の波間に砕いて流し、全てを捨て去って欲しい。あなたは、、捨てきれずに貯めていた欲望という澱を、いままで分厚いロングスカートにため込んでいたはずです。ゆがんだ顔をして。

 でも、この熱き湯で、隠していた欲望を全て洗い流したら、きっと、ミニスカートをはいた貴女にかわっているはずです。明るい薄手のシャツに、淡い色のミニスカート、笑顔のあなた。あなたの課せられた重い荷物は、もう、放り投げましょう。さあ、そんな荷物は誰に持ってもらいますか? ここはそういう湯です。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~umayu/page086.html
33:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:15:12

kaz********さん 2012/11/4 10:43:21

よく中島みゆきさんの【御乱心時代】という言葉をききますが…

この【御乱心時代】とはどういう時代(曲?)何でしょうか?


アンサー


mot********さん 2012/11/5 10:37:54

【御乱心時代】というのは、後にみゆきさん自身がこの頃を振り返って、そう表現した言葉のようです。

みゆきさんがデビューした頃から1980年代に入り、世のミュージックシーンは変革の潮流が顕著でした。

具体的に何かというと、それはサウンド面でした。

それまでのギターやドラム、パーカッションというものに加え、シンセサイザーやコンピューターでプログラミングされたリズム編成などが台頭してきたんです。
この流れは世界的なもので、ローリングストーンズやポールマッカートニーですら当時唖然とするような作品を残しています。

みゆきさんも、この潮流に抗うことはできなかったのかもしれないし、それまでの自らの暗く重厚な作風を変えようという試行錯誤もこの頃からしています。

そしてこの時代を超えて、瀬尾一三という名プロデューサーとタッグ組み現在に至ります。

該当するアルバムでいうと、

.はじめまして
.中島みゆき
.miss M
.36℃

などが、それにあたるようです。

曲でいうと、シングルカットされた

.御機嫌如何
.あたいの夏休み


を聞くと分かると思います。
どれもかなり大胆なサウンドですが、今聞いても良い曲ですよ。
sou********さん 2012/11/4 23:21:15

みゆきさんが新しい音楽の模索を始めた時期のことです。

一般的には1984年の11thアルバム「はじめまして」から1988年の15thアルバム「中島みゆき」までと言われています。

定義についてはもうこれ以上書くことを思いつきませんので、あとは徒然に僕が思ったことを…

8thアルバム「臨月」9thアルバム「寒水魚」が初期のサウンドの完成形だったのだと思います。まあこのアルバムの悪女のアレンジは既にちょっと似つかわしくないものがあったのですが…

10th「予感」で曲の雰囲気が相当変わります。僕がよく使う言葉なのですが「無機質」な感じなんです。個人的には1st「私の声が聞こえますか」,2nd「みんな去ってしまった」の歌い方も無機質に思えるのですが、

予感の歌い方はより温かみがあって無機質の中にどこか可愛らしさを内包しており、逆に最初の二枚のアルバムはツンとすましたような感じで微妙に違うわけです。全部僕の主観ですが。

更に予感は全体を通じてドラムスの音を強調しているのも無機質に感じる理由だと思います。
まあとにかくこのアルバムから何か新境地を開拓しようとしている感はします。

で次に「はじめまして」がリリースされるわけですが、これは、従来の良い意味での「古っぽさ」を意図的に取っ払ったような編曲なんですね。

例えば「ひとり」という曲はシングルカットされていますが、これはいわば今までのみゆきさん風アレンジなんです。でもアルバムになると歌い方も編曲もちょっとカッコ良くなった?と思える…何というか歌の主人公が少女から女性に成長したようなイメージです。

ほか「幸福論」「不良」などは今までにないロック調で、「はじめまして」も明るくPOPであり暗いイメージを完全に払拭せんとする意気込みを感じます。

16th「グッバイガール」が御乱心の時代の終焉を告げるアルバムと呼ばれるのは、このアルバムから現在のプロデューサーである瀬尾一三さんになったからです。
まあご乱心の時代が終わっても初期のみゆきさんの雰囲気に戻ることはもうありませんでしたが、それはサウンドもそうですが歌い方が変わったのが大きいでしょうね。

ファンなので勿論全時代好きなのですが、御乱心の世代の時期の曲は相当お気に入りですよ。

逆に36thアルバム「DRAMA!」から今に至るまでが二度目の御乱心の時代の気がしますが…ファンの中でも賛否両論あるこのアルバム、僕は結構好きなんですけど。

アルバムに関しては一枚一枚それぞれ語りたいことが沢山ありすぎまして。

ナイス 5


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. . .

プロフィール画像
qui********さん 2012/11/4 18:49:51

実はこれ、本人が御命名されたのですが、具体的な時期は人によって見解が変わったりします ただ、入った、と言う時期はほぼ一致しており、アルバム『はじめまして』のリリース以降、抜けた時期が『36.5℃』あたりまで、の説と、『グッバイガール』くらいまで(Wikipediaはこちら)、の説があります

それまでのフォーク・アコースティック基調の作風がガラリと変わり、ロック色が強かったり、わざと癖のある歌い方をしたり、海外スタッフを多用したり…アルバムによって出来や作風がガラリと変わるような時期でした

そのため、昔からのファンや、『悪女』あたりからのファンがかなり離れてしまいました

本人もこの時期が、迷走に近い状況であった事を自覚しており、何をしでかすかわからない、と言う感じを自虐的な意味で『御乱心』と呼んだのです

ただ、夜会を始めたのはこの頃ですし、文部省の国語審議官に選ばれたり、歌詞集やエッセイ、小説等を本格的に始めたのもこの頃でした また、ロックっぽい歌い方や夜会への対応から、ボイストレーニングをやり直したのもこの時期で、音楽と向き合うために長年務めたオールナイト・ニッポンを降板したのも、この頃


とにかく、御乱心の時代とは、みゆきさんが変わろうと色々チャレンジしていた時代で、その頃のユーミンは、一番時代の先端で、時代がユーミンに追い付いたような、そんな時期でした

ちなみに私個人は、この頃のアルバム、結構好きです 特に『36.5℃』は傑作だと思ってます!
また、この頃があったから、みゆきさんは未だ現役第一線でやっていけてるんだと思ってますけどね

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1496682869

中島みゆきさんもこの時期に音楽の専門的な勉強をキチンとしておけば、今みたいな有様にはならなかったんですけどね。

せっかくあれだけの才能が有ったのに勿体なかったですね。
34:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:19:38


赤軍派もカンボジアのポル・ポト政権も毛沢東をそっくりそのまま真似しただけのものなのですね:

紅い皇帝毛沢東と狂爛の****【东方红】

東の空より紅い太陽が昇る如く
中華に毛沢東が現れた
彼は人民に勇気と幸福と希望を与える
彼こそが偉大なる救世主、大いなる明星也

東方紅,太陽昇,
中国出了個毛沢東。
他為人民謀幸福,
呼児咳呀
他是人民的大救星。

即ち、中島みゆき「世情」の

「変わらない夢を 流れに求めて時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる者」


というのは毛沢東とその世界中の同志を指しています:


▲△▽▼

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

▲△▽▼

2006年08月10日 革マルの支柱逝く

革マル派の最高指導者死亡 黒田寛一・元議長

 過激派「革マル派」の最高指導者だった黒田寛一元議長(78)が
6月下旬、埼玉県内の病院で死亡していたことが10日、関係者の話で分かった。

 関係者によると、黒田元議長は1963年、日本革命的共産主義者同盟(革共同)
が分裂して、革マル派が結成されて以来、議長を務めていた。

 「クロカン」の通称でも知られ、同派の理論的指導者として執筆活動を続け、
96年に開かれた同派の政治集会で議長を退くことを表明したが、詳しい消息は
長年不明だった。

 議長辞任後も最高幹部として組織を指揮し、絶対的な存在だったとされる。

(2006年08月10日 11時44分)


あれ、まだご存命だったのね。

死に損なった吉本隆明が、長生きしているから不思議。
黒田寛一の葬儀には、中島みゆきは駆けつけたのだろうか。
革マル派の歌姫が、紅白歌合戦に出てきた時には仰天した。


黒田 寛一(くろだ かんいち(「ひろかず」とも)、1927年10月20日 -2006年6月下旬 )
は、日本の反スターリン主義者、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)
最高指導者。通称クロカン。筆名は山本勝彦、牧野勝彦など。

旧制東京高等学校を中退後、出版社を自営。その傍らマルクス主義の研究・著作を重ね、
その研究サークルが発展する形で日本トロツキスト連盟を結成。1957年12月、革命的共産
主義者同盟全国委員会の結成と共に議長に就任。

1962年の参議院選挙全国区に党公認で出馬するが、落選。得票数2万余り。大日本愛国
党総裁の赤尾敏が12万票余りを獲得したのと比べれば、惨敗であった。
https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:ahocN2NIq5wJ:https://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200608100005/+&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja
35:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:20:15


中島みゆき「僕たちの将来」 〜どこまでもつづく荒野と日常
https://microstory.hatenablog.com/entry/20180731/1533039049

中島みゆきの曲は常備薬みたいなものだと思ってるぼくですが、このところの仕事の不条理さから最近ひさしぶりにひっぱりだして聞いてリピートしてしているのが、アルバム「はじめまして」です。このアルバムはそれ自体結構挑戦的なアルバムで、収録曲をひとつひとつ取り出しても長文が書けてしまいそうな名曲揃いなんですが、今日はそのなかにある「僕たちの将来」を起点に、「日常」についての旅に出てみたいと思います。

いまやうちの娘が幼稚園の音楽会で歌うほど有名になったみゆきさんの「糸」ですが、この曲が人口に膾炙するきっかけとなったのは、ミスチルの桜井和寿氏が中心となって結成されたBank Band、その1stアルバム「沿志奏逢」です。このアルバムで、「糸」と一緒にカバーされたのが「僕たちの将来」でした。「糸」が万人受けのする曲であったのに比べ、「僕たちの将来」はみゆきさんのファンでもあえてこれを取り出してカバーするとは誰も思わなかったんじゃないかと思います。このアルバムがきっかけになっていろんなアーティストが「糸」をカバーするようになりましたが、「僕たちの将来」についてはそのあと他のアーティストがカバーしたというのは聞きません(ちなみに、ぼくはいちどだけBankBandバージョンの「僕たちの将来」を路上で若者が歌っているのを聞いたことがありますが)

この曲は、ものすごく近いものを描くことで、ものすごく遠いものを描きだしている傑作です(断定)。

舞台は二十四時間レストラン、一組のカップルが会話をしています。おたがいにままならない日常にもやもやしたものを抱えながら、それを口にすることを恐れ、ごく私的な二人のエピソードを蒸し返すことでその恐れから目をそらします。ここに描かれているのはどこまでも日常であって、その不安は二人の関係性からしか生まれてこない。しかし、その日常の延長には、確かに「将来」があるし、いまなお、世界の何処かでは二人の私的な関係以上に深刻な争いごとが起きています。それでも二人は、もっと身近な過去「さっき抱き合った宿」とか、二人の関係性が始まったもう少し前のこと「君が飛び込んできてくれた夜」のことを蒸し返すことで精一杯です。将来だって互いのアルバイトの予定程度の先のことしかここには見えてきません。それ以外のことは、ただ漠然とした不安となって世界に揺曳している。

でも、それってまさに今も昔も、ぼくたちのこととと変わりないんじゃないでしょうか。少なくともぼくはそうです。ネットニュースで凄惨な事件を見つけて憤慨はするものの、日々の生活の中でそれらは霧散してしまい、この半径数歩の世界の中でじたばたしている。それでもぼくたちは世界とゆるやかに地続きでつながっていて、この生活は決して自分だけで完結していないんです。

中島みゆきという歌手はこの「日常」の近さと、そこからゆるやかに、そして遥かか彼方までひろがっている世界の「遠さ」を、いろんな方法で描いています。まずはじめに思いつくのが「誰のせいでもない雨が」という楽曲です。この曲は、学生運動をテーマにしていると言われています。学生運動の中で打倒されてしまっていた思いとか主義主張なんてものは日常から乖離した「社会的な言説」ですが、その一方で、われわれは日々を生きていく必要がある。雨というのはその日常の象徴です。


誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている

近年のみゆきさんの歌のなかには社会派と(場合によっては批判的な言説としても)言われる楽曲が増えているようにいわれることがあります。しかし、根底を流れているものは昔から変わっておらず、その表出が社会派ともいえるように変容してきただけ、とも思います。

ペルー日本国大使公邸占拠事件をあからさまに下敷きにして、主義主張をもっともストレートに出したと思われる歌「4.2.3」。その出だしはこうです。


食べてゆくための仕事にひとやすみして 私はTVをつけた

「僕たちの将来」で戦争を映し出すのは、さらにそれを遠ざけるかのような「青の濃すぎるテレビ」(青が濃いのは、ただ安物であることを言っていてつまりその機械自体が日常の中の背景にあるただの受信機であることを強く意識させる)です。そう、ぼくたちは「食べていく」必要があるのです。

「月はそこにいる」で遥か上空から月に見透かされているのもまた、日常です。


日々の始末に汲々として また一日を閉じかけて

「空がある限り」では私の暮らす街が空を伝ってゆるやかに「あなたの街」と接続されます。あなたの街とは「銃で砕かれた建物や、鉄条網が視界」を覆っている街です。そこでは銃や鉄条網が日常で、われわれのいる街とは明らかに異なっている。

しかしながら、ぼくたちは日常を恥じる必要もないでしょう。ただ、その日常が、どこかぼくたちとはちがう日常と地続きであることを忘れない限りは。

「僕たちの将来」は「はじめまして」に収録されています。では、また。
https://microstory.hatenablog.com/entry/20180731/1533039049
36:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:23:37

中島みゆき「ローリング」の歌詞について考えた
http://mk7911.blog74.fc2blog.us/blog-entry-4004.html

しょうもないことでイライラして自己嫌悪におちいった。外で急に中島みゆきの「ローリング」を歌い上げたくなって、口ずさんだ。

90年代に中島みゆきのファンで、ファンクラブにも入っていたんですよ。歌詞は全曲覚えていた。
「ローリング」の歌詞を覚えてるか思い出してみたが、三番しか正確に思い出せなかった。三番はつながってるから覚えやすいと思う。

"初音ミクに中島みゆきのローリングを歌ってもらった.wmv"
https://t.co/3ghypvdMm5

中島みゆき ローリング 歌詞
https://t.co/4M4HzS0l4W


工事ランプの凍る路地をたどって
探しあぐねた たむろできる場所を

→考えたことなかったけど、あらためて読んでみる。「工事ランプ」って、工事現場の夜のピカピカ光るやつか。凍るっていうのは、実際に凍っちゃったっていうよりは、ランプの赤も寒々しく見えるよってことと読みたい。

二行目を見ると、このひとは居場所を探しているんだね。「たむろ」ってことは、一時的な居場所だ。夜のゴツゴツした街をあてもなくさまよっていますよという出だしだ。

昨夜騒いだ店は 客を忘れて
一見相手の洒落た挨拶を配る

→「昨夜」とあるけどここは「ゆうべ」と歌う。たしかに飲み屋って客引きのときに気のきいたことを言うね。それを「洒落た挨拶」と表現した。
盛り上がったって、店から出てしまえば他人になる。そのさびしさを言ってるんだね。

Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる

→ここがサビ。「Rollin' Age」って例の「時代は回る」みたいな意味だと思ってきた。
そういう英語表現があるのかと思ってさくっと検索してみたが、上位10件ほとんど中島みゆきのこの歌のことがでてくる。

「淋しさを」「他人に言うな」「軽く軽く傷ついてゆけ」。ここにはなにか、毅然としていながら、うっとりするものがある。

「淋しさを他人に言うな」と歌うこの人だったら、自分の淋しさをわかってくれるんじゃないか、他人に言わずにいられない淋しさを知っているんじゃないか。ちょっとそう思えてくる。
「中島みゆき聞いていると逆に中島みゆきに話を聞いてもらっている気持ちになる」とどこかで読んだことがある。

「軽く軽く傷ついてゆけ」もいいなあ。たくましいよ。なにかで守ろうとか、逃げようとか、ぜんぜんしない。「軽く軽く」からは、たくさん傷ついてきたんだろうなって感じがする。

「笑いながら」「荒野にいる」「僕は僕は荒野にいる」。おもしろくて笑ってる笑いじゃないね、これは。傷ついて傷ついて、その果ての笑いだ。

「一人きり笑うことはできない」と同じくらいの時期のほかの歌「with」で歌っているけど、こっちはどう見ても一人きりで笑っている。「with」よりずっと進んだ心境だろう。

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた

→これが二番。今見てもよくわからないところがある。見ていく。
「白黒」といわずに「黒白(こくびゃく)」と言っている。この歌詞以外で「こくびゃく」なんて聞いたことない。インパクトのある歌いだし。
「黒白フィルムは燃える スクラムの街」だと思ってたけど「黒白フィルムは 燃えるスクラムの街」だったんだ。この差は大きい。

「スクラムの街」っていうのは、なにか敵に対して団結していて、許さないものは絶対許さないってことなのか。「アンテナの街」っていう歌もあったけど、窮屈な街っていうのが中島みゆきの歌には出てくる。

「黒白フィルムは燃える/スクラムの街」だと、街がスクラムをくんでいるから有害な内容と判断されたフィルムは燃やされてしまう、という意味になる。そういう意味だと思った。でもよく見ると別の場所で切れているので、意味がかわってくる。

「黒白フィルムは/燃えるスクラムの街」だと、白黒のフィルムに映っているのが、燃える街なんだということになる。完全に意味が変わる。

その次の「足並揃えた幻たちの場面」というのは、軍隊の行進している映像と考えられる。
「幻たち」っていうのは、彼らは亡くなっていったってことなのか。

戦争で街が燃えているんだとすれば「スクラム」の意味も変わってくる。敵国に対する「スクラム」になる。

「それを宝にするにはあまり遅く生まれて」。たしかに中島みゆきは戦後生まれだけど、そこを言いたいわけじゃないのでしょう。うーん。
それより、早く生まれればそれが宝になるのか。戦争に行ったらその記憶や記録が宝になるってこと??

「夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた」。戦争を知らないくらい遅く生まれたから夢が叶わないよってこと? 意味を追う読み方をすると苦しいなあ。この箇所はいまだによくわからない。

三行目までをあまり考えずにこの部分だけ見ると、挫折と陶酔があるし、ずっとそういうふうにとらえていた。

二番の歌詞をさっきみたいに戦争読みすると、一番で酒をかっくらってさまよっている男と、いまいち脈絡がつかなくなる。サビの部分ともよくつながらない。

一番と同じサビがあって、三番にいきます。

9桁の数字を 組み替えて並べ直す
淋しさの数と同じ イタズラ電話
ボックスを叩く街の風が冷たい
どうしても1つだけ押せない組がある

→三番。このときは電話番号といったら9桁なんだね。
さみしさのあまりイタズラ電話をせずにいられない「僕」なのかと思ったけど、そうじゃない読みもあるね。逆に、イタズラ電話がかかってきて、そこに相手の淋しさを感じたのかもしれない。

三行目を見ると、主人公は電話ボックスにいるみたいだし、イタズラ電話をかける側にいると考えるのも自然だ。

「淋しさを他人に言うな」とかっこいいことを言いながらイタズラ電話してるというのは、どうなのか。いや、こういうかっこわるい自分を踏まえてそれを言ったのか。

「どうしても1つだけ押せない組がある」ではじめて浮かび上がってくる人影がある。
三番の歌詞の、サビ直前ではじめて「僕」と深い関係がありそうな他人がでてくる。電話できなくなってしまった理由があるはずで、ここにドラマが圧縮されている。他人に言わずにいた「僕」の「淋しさ」の輪郭が、最後になって浮き上がる仕組みになっている。


最後のサビは「僕は僕は荒野にいる」がくりかえされて終わる。「荒野」というのは、居場所がない人間、誰にも関わることができない人間のたどり着く場所なんでしょう。飲み屋にも、過去の栄光や挫折にも、大切な誰かにも、すがることのできない「僕」の場所なのでしょう。

以上、中島みゆきの「ローリング」という歌の歌詞について突発的に考えて書いてみました。

"中島みゆき - ローリング(1993年) cover XXkurage"
https://t.co/4HUuZwggU7
カバーなんだけど、本人みたいな声だ。中島みゆき本人の歌う動画はないし、あってもYAMAHAが削除するので、こういう動画がたよりになる。

「スクラムの街~」のところで、大学紛争の画像がでてきた。あー、そういう意味なのか。そうなると、腑に落ちるところがある。

http://mk7911.blog74.fc2blog.us/blog-entry-4004.html
37:777 :

2022/05/19 (Thu) 12:24:38

1994年5月14日、中島みゆき「空と君のあいだに」がオリコン1位を獲得
https://news.1242.com/article/174936

1994年5月14日、中島みゆきの「空と君のあいだに」が発売された。一世を風靡したテレビドラマ『家なき子』の主題歌となったこの曲はシングル・チャート1位を獲得。中島みゆきは、70年代の「わかれうた」(1977年)、80年代の「悪女」(1981年)に続く3作目のチャート1位獲得曲を得ることになった。

80年代の中島みゆきは、それまでの〝中島みゆきらしさ〟という固定的イメージを振り払おうとするように、激しいビートを持つロック色の強い音楽表現への大胆なアプローチを重ねていく。その背景には、メディアがアナログレコードからCDへと変わりつつあるという時代の変化もあった。否応なくやってくるデジタル時代に取り残されずに、新たな時代にふさわしい表現を獲得するための積極的な試行錯誤。いわゆる“中島みゆきご乱心の時代”だった。

“ご乱心の時代”が幕を閉じたのは1988年だった。この年、彼女はアレンジャー瀬尾一三を共同プロデューサーに迎えたアルバム『グッバイ ガール』を発表した。そしてこれ以降、中島みゆきの作品は瀬尾一三との共同作業によってつくられていくことになる。

瀬尾一三と音作りをするようになってから、中島みゆきの作品は過剰に時代を意識するのではなく、ジャンルに捉われずに楽曲そのものがもっともフィットするサウンドを自在に身にまとうようになったという印象がある。同時に、この時期から曲そのものにも変化が見られていったという気もする。彼女が書く曲のなかに、いわゆる普通のポップミュージックのパターンを離れて、演劇の挿入曲を思わせるような大胆な構成の曲が増えていくのだ。実際に、中島みゆきは1989年に、演劇と音楽を融合させた『夜会』をスタートさせている。この『夜会』の音楽監督も瀬尾一三だった。

90年代に入って、中島みゆきが実際にドラマや映画に音楽を提供することも増えていった。「誕生」(映画『奇跡の山―さよなら名犬平治―』主題歌・1992年)、「浅い眠り」(ドラマ『親愛なる者へ』主題歌・1992年)はシングル曲としてもリリースされている。そして、これらに続くドラマ主題曲として発表されたのが「空と君のあいだに」(ドラマ『家なき子』主題歌・1994年)だった。

もちろん、当時12歳の安達祐実が演じた主人公すずの名台詞「同情するなら金をくれ!」が流行語になるなど話題性たっぷりのドラマが大きく後押しをしたという要素はあった。しかし、「空と君のあいだに」が凡庸な曲であれば、いくら人気ドラマ『家なき子』の主題歌でもこれほどのヒット曲になったとは考えにくい。「空と君のあいだに」は、単に曲を物語に当てるのではなく、物語に命を宿らせる要素のひとつとして音楽を捉え、向き合ってつくられた曲だ。ドラマにしはっかりと寄り添いながらも、聴いた人の共感を誘う力をもっていたからこそ、多くの人に支持されたのだろう。

ちなみに、中島みゆきはこの曲を書くにあたり、どういう視点の曲にするかを考えた結果、いつも主人公すずに寄り添う物語の重要なバイプレイヤーである愛犬リュウの立場で詞を書いたという。主人公でも、物語を俯瞰する観客の立場でもなく、すずを見守り続ける物言わぬ味方の切実な気持ちが聴いた人の心を揺さぶる力になっているのだと思う。


「空と君のあいだに」以降も、中島みゆきは演劇やドラマに寄り添った楽曲を手がけていった。「旅人のうた」(ドラマ『家なき子2』主題歌・1995年)、「たかが愛」(ドラマ『はみだし刑事―純情系―』主題歌・1996年)、「愛情物語」(ドラマ『はみだし刑事―情熱系―PARTⅡ』主題歌・1997年)、「命の別名」(ドラマ『聖者の行進』主題歌・1998年)などをシングルとして発表する一方で、“言葉の実験劇場”としてスタートした『夜会』でも、画期的なアプローチを見せていく。

初期の『夜会』は、それまでに中島みゆきが発表してきた楽曲を、ひとつのオリジナルストーリーと重ねることで、新たな意味や表情を持つ楽曲として伝えていく、いわば曲を固定されたイメージから解放するという実験舞台だった。しかし、回を重ねるごとに『夜会』の舞台のために書き下ろされる曲も増えていき、1996年の『夜会Vol.7「2/2」』では全曲が描き下ろしの新曲となった。そうして『夜会』は、物語と音楽とがより密接な関係をもってひとつの世界をつくりあげる独自の舞台表現となっていく。さらに1995年には、それまでに『夜会』のために書き下ろした楽曲によって構成されたアルバム『10 WINGS』(1995年)を発表。初期の『夜会』の意図とは逆に、『夜会』のために生まれた楽曲を舞台の制約から解き放っていくという試みも始まっていく。


「空と君のあいだに」によって、中島みゆきは70年代、80年代、90年代の3ディケイドでチャート1位を獲得した稀有なアーテイストとしての評価を得ることになった。しかし、こうした記録もさることながら、映像・演劇とのさまざまなコラボレーションを重ね、音楽表現の新たな可能性を追求していった90年代の彼女の果敢なアプローチこそ、高く評価されていいのではないかと思う。
https://news.1242.com/article/174936

▲△▽▼

ラストツアー中止の中島みゆき 「このまま引退」の懸念
2020/09/11

仕事はセーブしているという。今年8月、買い物に出かける中島みゆき

「新型コロナウイルスの影響で2月からのツアーが中止になり、8月に予定された振替公演もキャンセルされました。それだけでなく、今後の具体的な音楽活動も白紙のようです。みゆきさんは常に明確なビジョンを持って3年先の活動計画をきっちり立てるタイプなので、予定が決まっていないのは異例中の異例。もうすぐ古希を迎えることもあり、何らかの心境の変化があったのかもしれません……」(レコード会社関係者)

 沈黙を守る歌姫の周辺が、にわかに騒がしくなった。今年1月12日にスタートした「中島みゆき ラスト・ツアー『結果オーライ』」が新型コロナのため2月28日より全公演中止となっている中島みゆき(68才)。今後の活動は未定で、彼女の関係者は「ひょっとしたら、このまま引退の可能性も?」と気を揉む毎日だという。前出のレコード会社関係者も心配そうな表情を浮かべながらこう話す。

「そもそもみゆきさんは極端に人見知りなうえ、物音ひとつにも反応するほど神経質。仕事をするのは、音楽について意見が一致する人とでないとコミュニケーションが難しいんです。しかも大御所なので年下の関係者はなかなか近づけないし、年齢を重ねるにつれ、昔からの知り合いや理解者がリタイアしたり、鬼籍に入ることが増え、ますます孤高の存在になっています」


 2014年1月には中島を長年支えたポニー・キャニオンの元常務取締役・渡邉有三さんが64才の若さで他界した。

「人前に出るのを嫌うみゆきさんが通夜に参列したことからも、故人との仲がしのばれます。あのときのみゆきさんは、本当に寂しそうな表情を浮かべていました」(前出・レコード会社関係者)

 同じ年の暮れには、最愛の母も旅立った。プライベートをほとんど明かさない中島はこれまでその事実を公表せず、本誌・女性セブン(9月10日号)が報じるまで、業界内でも母の死を知る人は少なかった。

「お母さんと同居していることは有名だったので、いまも母娘でひとつ屋根の下に暮らしていると思っていました。亡くなったことを6年近くも胸に秘めていたなんて……。

 思い起こせば、2014年の『NHK紅白歌合戦』に12年ぶりに出演したみゆきさんは、NHKの朝ドラ『マッサン』の主題歌『麦の唄』を熱唱しました。みゆきさんの故郷・北海道を思わせるしっとりした歌に感動したのを覚えていますが、その数日前にお母さんが亡くなっていたことを知って、『彼女はお母さんをしのびながら歌っていたのか』と、また別の感慨にとらわれました」(芸能関係者)

 中島はいまも独身だ。年齢を重ねるなかで親しい人が去り、孤独感が強まるなかで始めた「ラスト・ツアー」には、どんな思いを込めたのか。

「ツアー初日には、『閉店セールと書いて3年やっている店と同じで、まだまだやるんですわ』とファンに報告したものの、近年の彼女が活動をセーブしていることは明らかです。親しい人の死や老い、新型コロナが積み重なり、『そろそろ一区切りかも』との感情が生まれてもおかしくない。気の早い関係者のなかには、『あの歌声が聴けなくなるかも』と心配する人もいます」(別の芸能関係者)

※女性セブン2020年9月24日・10月1日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC%E4%B8%AD%E6%AD%A2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D-%E3%81%93%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BE%E5%BC%95%E9%80%80-%E3%81%AE%E6%87%B8%E5%BF%B5/ar-BB18VwtF?ocid=msedgdhp
38:保守や右翼には馬鹿しかいない :

2023/02/14 (Tue) 22:49:49

中島みゆき 時代
https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo&t=4s

中島みゆき 雨が空を捨てる日は
https://www.dailymotion.com/video/x6rphak

中島みゆき ホームにて
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40474169

中島みゆき まつりばやし
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37172468

中島みゆき 女なんてものに
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32647923

中島みゆき 時は流れて
https://www.bilibili.com/video/BV1Zp4y1U7L8/?spm_id_from=333.788.recommend_more_video.8

中島みゆき わかれうた
https://www.dailymotion.com/video/x6wzsb5

中島みゆき – 愛していると云ってくれ
わかれうた 海鳴り 世情
https://www.bilibili.com/video/BV1w84y1h7FJ/?uid=42563177383479316837464A

中島みゆき サヨナラを伝えて
https://www.bilibili.com/video/BV1UP4y1a7Aa/?spm_id_from=autoNext

中島みゆき エレーン
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32317926

中島みゆき 雪
https://www.bilibili.com/video/BV1pt411x7Pe/?spm_id_from=333.788.recommend_more_video.10

中島みゆき 砂の船
https://www.bing.com/videos/search?q=%e4%b8%ad%e5%b3%b6%e3%81%bf%e3%82%86%e3%81%8d++%e7%a0%82%e3%81%ae%e8%88%b9&&view=detail&mid=FAEA38821FBFF3496093FAEA38821FBFF3496093&&FORM=VRDGAR

中島みゆき 忘れな草をもう一度
https://www.bilibili.com/video/BV1u34y1Q7oq/?spm_id_from=333.788.recommend_more_video.4

中島みゆき 黄砂に吹かれて
https://www.bilibili.com/video/BV1m4411w7Fn/?zw

中島みゆき 地上の星
https://www.bilibili.com/video/BV19v411i7M9/

中島みゆき ヘッドライト・テールライト
https://www.youtube.com/watch?v=mBYmBjLcn_4
39:777 :

2024/04/16 (Tue) 17:25:14

2024年04月16日
飯山陽が劣勢な理由 / 左翼の長い影
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html

日本の若者は国家意識を無くした

student riots in Japan 213Japan in 1980s
(左 : 全共闘に精を出す大学生 / 右 : 80年代のバブル景気に浮かれた日本人)

  日本の政治が混迷し、没落の一途を辿っているのは、日本人にデモクラシーが適していないからだ。そもそも、民衆が代議士を選ぶことじたいが間違っている。「政治は武士の役割」というのが日本の國體(constitution)だ。幼い頃から忠君愛国を叩き込まれた武士と、目先の利益だけを追求し、受験勉強が唯一の苦労というのが平民の子供だから、才幹と気概の点で後者は比べものにならない。

  しかも、昭和の教育が劣悪で、敗戦となるや、共産主義者と反日主義者が大繁殖。日本の政治を“左傾化”させ、“鬱血状態”や“没落の悪循環”に導いたのは、何も占領軍だけのせいじゃない。アメリカ軍の“威光”を利用して出世を謀った「敗戦利得者」や学生運動で“有頂天”になった「アンファン・テリブル(enfant terrible)」*にも原因がある。(*「他人に迷惑を掛けても平気なガキども」という意味。) 歐米諸国と同じく、我が国も「高学歴社会」となっているから、政治家や官僚、企業経営者、地方公務員、ホワイトカラーの専門職、研究所や工場の技術者などは、程度の差こそあれ、「大卒者」で占められている。となれば、大学教師は未成年の精神構造に大きな影響を与える立場にあるはず。日本人の精神がどこか異常で、奇妙なくらいに歪曲しているのは、小学校から大学に至るまで、左翼陣営の「非国民化イデオロギー」が浸透しているからだ。

  日本の先を歩く米国では、幼稚園から大学までリベラル派の独擅場となっている。以前、ブルックリン・カレッジのミシェル・ランバート(Mitchell Langbert)准教授と、ヘテロドックス・アカデミー(Heterodox Academy)研究所のショーン・スティーヴンス(Sean Stevens)所長が大学教員に関する調査を行ったことがある。彼らが実施した教員の政治意識調査によれば、民衆党支持者が共和党支持者を大きく上回っており、約「9対1」の割合であることが判った。(Christian Schneider, 'Democratic professors outnumber Republican ones by 9 to 1 ratio, according to new data', The College Fix, January 22, 2020.)ランバート氏とスティーヴンス氏は、政党に登録している1万2千372名をサンプルにして大学教授の政治指向を調査したが、驚くことに、そのうちの48.4%が民衆党員であり、共和党員はたったの5.7%しかなかった。これが一般国民だと違っており、29%が民衆党員で、26%が共和党員となっている。この調査では、政治献金についても質問がなされており、民衆党の候補者に献金した教授と共和党の候補者に献金した教授の比率は、「95対1」であったというから、まさしく目眩がする数字だ。

  たぶん、日本でも状況は似たり寄ったりだろう。国立や私立の区別はなく、ほとんどがプロ左翼かピンク・リベラルとなっている。今では「遠い昔の出来事」となっているが、1960年代から70年代にかけての大学は、左翼分子の特殊部落であった。文学部や法学部、教育学部、史学部などはもちろんのこと、自然科学を専攻する学生でも、全学連や全共闘に加わって暴れ回っていた。明治から昭和の前半くらいまで、教師と学生との私的な交流というものがあったが、フランスの極左学生みたいな連中が増えたことで、日本の伝統はズタズタになってしまった。教授を皆の前で罵倒し、吊し上げることを喜んでやっていたんだから、****の****と同じだ。

Jean-Pierr Duteuil 213343(左 / ジャン・ピエール・デュトゥール)
  1968年5月には悪名高きフランスの左翼暴動が起きたけど、日本でもこれに触発されたのか、左巻きの大学生がキャンパスで猿真似に興じていた。パリの5月暴動で学生の先頭に立っていたのは、札付きの“赤い三人衆”で、ドイツ生まれのアシュケナージ・ユダヤ人たるダニエル・コーン・ベンデット(Daniel Cohn-Bendit)、アルザス出身のユダヤ人であるアラン・ジェスマル(Alain Geismar)、そしてPSUに属していた社会主義者のジャック・ソヴァジョ(Jacques Sauvageot)であった。コーン・ベンデットの親友であったジャン・ピエール・デュトゥール(Jean-Pierr Duteuil)は、アナーキストのマルキスト。父親も筋金入りのマルキストであったから、親子代々の共産主義者だ。

Daniel Cohn Bendit 0324Alain Geismar 21334Jacques Sauvageot 324Oda Makoto 992
( 左 : ダニエル・コーン・ベンデット / アラン・ジェスマル / ジャック・ソヴァジョ / 右 : 小田実)

日本の左翼学生も様々で、ある者はマルクス・レーニン主義の心酔者。また、ある者はスターリンの****政治を批判し、志半ばで斃れたレオン・トロツキーを尊敬するクルクルパー。ユダヤ人の共産主義に馴染めない田舎者は、毛沢東主義者となって「アジアとの共存」を掲げていた。小田実(おだ・まこと)に感化された極左は、ベトナム戦争に反対し、観念論で「アジアとの連帯」を呼びかける始末。

Ooe Kemzaburo 324(左 / 大江健三郎)
  ちなみに、小林秀雄から「気味の小説は小説じゃない」と酷評にされた小説家の大江健三郎は、フランスの左翼やユダヤ人哲学者のサルトル(Jean-Pierr Sartre)に憧れていたのか、ナイト・クラブの酌婦の前では「僕、アルジェ生まれ」と嘯(うそぶ)いていた。一緒に居た阿川弘之は「何言ってやがんだ! お前は愛媛生まれじゃないか!」と腹を立てていたけど、遠藤周作は隣で笑っていたのかも。

  とにかく、呆れてしまうが、当時の左翼学生は“本気”なのか“ファッション”なのか、何が動機で学生運動に参加したのか判らない。だだ、60年安保闘争の世代と同じく、70年代に新左翼にのめり込むような連中は、カルト宗教の信者と変わりがなかった。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持って機動隊に突っ込んだ連中は、まさしく人生を棒に振ってしまったし、逮捕された者は「前科者」となって、まともな就職先が見つからなかった。闘争の末に障碍者となった学生は、「後悔先に立たず」を実感する。しかし、上手く立ち回った連中は、藝能界やマスコミに潜り込んだ。法学部の学生は、仙谷由人のように法曹界を土俵とし、人権派弁護士になっていた。朝鮮人の支援者になる弁護士が多いのも、左翼教育の結果である。

Kan Naoto 8243(左 / 菅直人)
  「ズルカン」と呼ばれた菅直人は、東工大の暴力学生ではなかったが、日本への憎しみを“売り”にする「市民活動家」へと変貌していた。師匠の市川房枝からも「駄目な奴」と思われていたのに、マスコミの支援で我が国の総理大臣になれたんだから、永田町には悪魔と貧乏神が混在しているんだろう。だいたい、民主党の「サポーター」には国籍条件が無かったから、在日朝鮮人が「サポーター」になっていてもおかしくはなかった。

  菅直人はあるインタビューで自分の過去を偽っていた。「暴力では社会は変えられない。私はもともと、社会の矛盾をひとつひとつ解決していくという改革派なんです。そういう意味では、いまに至るまで挫折感はない」*と語っていたが、単に“卑怯者”だから仲間を見捨てただけだろう。 (*註 / 臼井敏男『叛逆の時を生きて』朝日新聞出版、2010年, p.197.)後に、機動隊を率いていた佐々淳行が茶化していたけど、菅直人は武闘派の学生じゃなかった。第五列や第六列といった後方に隠れ、逃げ足だけは早い卑劣漢であったから、障碍者にならず、弁理士になれたのだ。菅は「市民運動」とやらに邁進したが、その根底には松下圭一(法政大学教授)のドス黒い政治思想が流れていた。

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(左 / 坂本龍一)
  「元左翼」というのは藝能界 にも潜んでいる。例えば、都立新宿高校で左翼運動に熱心だった故・坂本龍一は、東京芸大に進んでYMOを結成したが、高校時代は左翼生徒であった。1980年代、シンセサイザーを演奏する坂本氏は、大量の電気を浪費するが、一向に気にする様子はなかった。「エコロジー」なんて頭の片隅にも無かったはずだ。当時は一風堂の土屋昌巳と同じで、「JAPAN」のデイヴィッド・シルヴィアンに憧れたのか、お化粧の方に夢中だった。

  ちなみに、同校で運動に加わっていたのは、坂本氏の先輩で、後に安倍内閣で官房長官となる塩崎恭久だ。塩崎と坂本の二人は、機動隊が入る前の安田講堂に足を運んだそうで、中にいた全共闘の学生らと話すことが出来たという。なるほど、生徒会長になった不良生徒(塩崎氏)が、荒れ狂う東大に赴いて、「自由」や「個性」を学んだというわけだ。さすが、二年生を率いて校長室を占拠する生徒会長は、ひと味もふた味も違っている。

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(左 / 塩崎恭久 )
 大臣を経験した塩崎氏は、議員を引退すると地元の愛媛で里親の支援をしているそうだが、自身の「転向」をどう思っているのか? だいたい、高校生の時からバリケード封鎖をしていた不良生徒が、政界に入って厚労大臣となり、不憫な子供に“温かい家庭”を斡旋するんだから、機敏なカメレオンだってビックリだ。息子の塩崎彰久はオヤジの地盤を引き継ぎ、今では自民党の代議士で、厚生労働政務官となっている。ホント、岸田文雄に林芳正、河野太郎、小渕優子、小泉進次郎といい、永田町にはボンクラの世襲議員がゾロゾロいる。一般国民というのは、自分の投票で子や孫の将来を台無しにしているが、その自覚が無いところに真の悲哀がある。

  演出家のテリー伊藤も、日本大学で学生運動に勤しんだ一人である。ただ、機動隊との衝突で一生涯の障碍を背負ったから悲惨だ。彼が機動隊から逃れる時、後ろに居た誰かが石を投げたという。不幸にも、その石が偶然、彼の左目に当たってしまい、伊藤氏は斜視になってしまった。藤竜也みたいに、同大学の芸術学部に入って映画界にスカウトされる方が、よっぽどマシである。下らない大学をさっさと辞めて、大好きなスポーツ・カーを買った方が遙かに健全だ。真田広之も日大の学生だったが、左翼分子にはならず、役者の世界に入った。二枚目俳優だから当然だけど、デビューして直ぐに『忍者武芸帖 百地三太夫』の主役なんだから凄い。(筆者も劇場で観たけど、真田氏の出演作品の中では一番いい。現在、彼はハリウッドの『Mortal Kombat』や『Shogun将軍』に抜擢され、ステレオタイプの「日本人」を演じているが、昔の方が良かった。)

  NHKの贔屓を得た小説家の高橋源一郎も、横浜国大で暴れ回ったうちの一人だ。彼は学生運動で逮捕されたり拘留されたりと、散々な青春時代を送っていたが、後に小説を書いて有名人となった。拘置所では“沈黙”を貫いたそうで、朝八時から夜の八時まで、12時間もずっと下を向いて黙っていたというから、ある意味“真面目な奴”だ。でも、取り調べの後に独房入りだから、正常な精神状態ではなかったはずだ。実際、一種の失語症に罹ったみたいで、喋るときの発音が難しくなったそうである。大学を除籍になり、筋肉労働者になっても、小説家になれたんだから良かったじゃないか。しかも、明治学院大学で教授になれたし、無事退職したことで“オマケ”として附いてくる「名誉教授」にみなれた。しかし、国際学部の学生はどんな気持ちで彼の授業を受けていたのか?

ポルシェに乗っていた左翼学生

  大学で暴れていた一般の左翼学生というのは、一種の“お遊び”に興じていた不真面目な人々で、内心では政府転覆など考えてもいなかった。要するに、みんなでワッショイ、ワッショイ、と騒いでいると、何となく自分が日本全体を動かしているように思えたのである。令和の大学生が聞けばシラけてしまうが、全共闘に共鳴するアホな学生は、「チェ・ゲバラに倣え、我らも社会主義革命を!」とか、「差別の元兇たる天皇制を打倒せよ!」、「ベトナムを侵掠する米帝國に反対!」「在日米軍基地を許すな!」と本気(?)で叫んでいた。

  筆者が高校生の時、御茶ノ水駅附近にある楽器店でギターを買ったことがある。そのついでに神田の三省堂に立ち寄ろうとしたが、途中で目にした明治大学の風景のせいで気分が悪くなった。入り口や塀には汚い看板がズラリと並んでおり、殴り書きの文字(日本や米国を呪う罵倒のスローガン)が踊っているように見えた。当時、筆者は看板を眺めながら、「アルフォンス・ミーシャ(Alfons Maria Mucha)のようなアール・ヌーヴォー風じゃなくてもいいから、もっと美しい文字で綺麗なイラストを附ければいいのに・・・。」と思ったものである。しかし、怨念に凝り固まった学生には、美術的センスは皆無だ。どいつもこいつも紅衛兵みたいな奴らばかり。「安保反対」を掲げながら「国防軍の創設」を主張しない学生は、一体どんな頭をしているのか? 左翼学生というのも呑気なもので、フォーク・ギターを片手に、ボブ・ディランやジョン・レノンの歌を奏でて喜んでいる。一方、ノンポリの学生達は酒を飲みながら、共産主義の幻想に酔いしれていた。

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(左 : 学園闘争に熱中する日本の大学生 / 右 : パリで抗議行動に没頭するフランスの大学生)

  ゲバ棒を振るう学生達も甘えん坊だ。自分たちは思いっきり火焔瓶を投げつけているくせに、いざ機動隊が反撃すると「暴力反対!」と叫ぶ。彼らは警察官が決して発砲しないことを確信していたから、安心して角材を振り回していた。国家に刃向かっても、“国家権力(暴力装置)”は決して民衆を射殺しない、と信じ切っている。****大陸で北京政府に反抗したら、即座に“皆殺し”か戦車で轢き殺されるのがオチだ。北朝鮮なら学生全員が逮捕され、どこかの広場で公開処刑だろう。もしかすると、あっさりとした銃殺じゃなく、「てるてる坊主」みたいに軒先で縛り首だったりして。場合によっては、牢獄で餓死とか。

  まぁ、みんなと一緒に「武力闘争」をしているうちは、危険なようで気楽である。ところが、いざ卒業が目の前にチラつくと大変だ。おちゃらけ学生は急に“現実”が怖くなる。長髪でジーンズ姿の青年も、就職面談となれば、長い髪を切って清潔感を出すしかない。彼らは親に買ってもらった背広を着込み、真剣な面持ちで会社に赴く。面接で過去を詮索されないか、とヒヤヒヤする青年は、慎重に言葉を選びながら答える。でも、過去がバレて不合格になれば意気銷沈だ。もし、晴れて合格となれば「ああ良かった!」と胸をなで下ろす。

  在学中に勉強しなかった学生は、どうしたものかと思い悩んだ。でも、「体育会系」を前面に出してアピールすれば何とかなった。「一生懸命頑張ります!」と言えば鉄鋼メーカーに入れることもあったし、営業部では忍耐と体力が重要だ。理系の学生ならもっと有利で、金属プレス加工や化学製品のメーカー、あるいは精密部品の製造企業に受け容れられたりする。ちょっとコネがあれば総合商社に入れたし、テレビ局や新聞社、出版社は「ゴキブリ・ホイホイ」みたいな受け容れ先だった。元々労働組合やリベラル知識人が強いから、“学生運動の落ちこぼれ”でもOK。上司にも「左翼シンパ」や「左翼崩れ」がウヨウヨ居るから大丈夫。読売のナベツネだって元左翼(共産主義者)じゃないか。

  東京大学や早稲田大学、日本大学、法政大学などで左翼運動に係わっていた連中は、どこから“資金”を得ていたのか判らないが、上層部の学生には“とんでもない奴”が紛れていた。例えば、早稲田大学の荒岱介(あら・たいすけ)は飛び抜けている。彼は1965年に法学部に入るが、1968年に除籍となっていた。荒氏は「社学(社会主義学生同盟)」の委員長や「全国学生対策部長」に就任した人物で、東大安田講堂の闘争では兇器準備結集罪で指名手配を受けていた。彼は1969年4月に逮捕され、裁判に掛けられて有罪判決を受ける。刑務所には三年間服役し、1977年に出所したそうだ。塀の中に入る人間というのは“懲りない面名”なのか、荒氏は人生で七回も逮捕されたという。ちなみに、府中刑務所では民族派右翼の野村秋介(のむら・しゅうすけ)と一緒だった。

  学生運動を知らない世代は、マスコミのプロパガンダ記事に騙され、純粋で真剣な学生が腐敗した政府に反抗したと思っている。だが、教室を占領した連中なんて、ほとんどが“チンピラ左翼”か“俗物”でしかない。令和の大学生が驚いてしまうのは、荒氏が「ポルシェ」に乗っていたことだ。彼は世間の倫理道徳や組織上層部の説教が嫌いで、自らの欲望を満たすことに何の躊躇(ためら)いも無かった。荒氏は言う。

 ・・・そういうこと(道徳主義)に若者を縛り、革命的規律という名の下に、好きなことをさせない、何を買っちゃいけないとか言って、市民社会からかけ離れていくということを、俺は突破したくてね。当然、若者がBMWに乗りたいというのもいいわけじゃない。・・・俺は文化に出あいたかったんだよ。自動車はドイツ生まれで、ポルシェで言えばフェルナンド・ポルシェが作った文化である。そういう文化を知りたい、乗って味わいたいと思った。そんなの当たり前だと思う。(宮崎学『叛乱者グラフィティ』朝日新聞社、2002年、pp.84-85.)

  平成の緊縮財政で貧しい生活を“当然”と考えるようになった学生からすれば、「いった、どんな奴なんだ?」と思ってしまうだろう。しかし、1950年代から70年代までの日本だと、意外にも高額所得者の子供で左翼になる者が少なくなかった。(「元左翼財界人」に関しては別の機会で紹介したい。) チェ・ゲバラに憧れ、ベトナム戦争に反対し、人民解放のために革命を目指す荒氏であったが、段々とレーニン主義者や新左翼に懐疑的となったそうだ。彼は1990年代になると従来の思想を棄ててしまい、今度は「エコ左翼」というか、世田谷か吉祥寺に棲息する「環境革命家」へと転向する。荒氏によれば、左翼闘争はゲバ棒から火炎瓶、さらに重火器から爆弾へとエスカレートするので、世間との隔たりが大きくなってしまうという。彼は次のように述べた。

  まぁ、現実との関係においては、現実に理論が接近するんじゃなくて、現実に理論が接近できなくなってしまって、あるべき姿の方向に現実を接近させろというふうにますますなっていったんだよ。(上掲書、p.88)

  つまり、左翼学生がどんな理想を語りかけようが、世間の人々は振り向かず、むしろ軽蔑の眼差しで“距離を取る”という訳だ。確かに、1970年代の新左翼運動の頃から、一般の大学生には、ある種の“変化”が訪れていた。安保闘争の世代は、Tシャツにジーンズといった薄汚い格好であったが、新世代の学生は、米国のアイビィー・ルックを真似て、紺色のブレザーにネクタイを締めていた。街を歩くと、身綺麗な若者が、「VAN」のロゴが印刷された紙袋を手に提げ、友人や恋人と楽しそうに話している。こんな光景を目にした若者からすれば、新宿や代々木でマルクス理論を語るなんて野暮天だろう。恋人と一緒に銀座へ赴き、ウィンドー・ショッピングを堪能する方がいい。ウッドストックでのヒッピー姿なら分かるけど、麻布や目黒、あるいは新橋や神楽坂で、日本人がヒッピー・スタイルを真似ても、それは滑稽でしかない。

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(左 : 東部の有名大学に通うエリート学生 / 右 : アイヴィー・スタイルのアメリカ人 )

  高級ブランドのVANで身を包んだお坊ちゃん達は、早稲田や法政の田舎者とは違っていた。美形の女子学生と一緒に喫茶店に入り、ジャズでも聴いている方が“格好良く”思えたのだ。一世を風靡したVAN-JAC社は、1978年(昭和53年)に営業不振で潰れてしまうが、1980年代の大学生は、もう学生運動には戻らなくなっていた。好景気は青年の精神を変えてしまうものだ。この世代は小難しい哲学議論より、ショット・バーに通って仲間と談笑したり、人気のディスコで踊り明かす方をキャンパスライフと考える。デートになればスポーツカーを用意し、女の子を乗せて軽井沢に直行だ。苗場のスキー場に赴けば、ロマンティックな夜で意中の女性を口説こうとする。「ブハーリン」と聞いても、「それ、ロシアのウィスキー?」と尋ねる世代に、共産主義革命なんて無理だろう。

  それでも、学生運動が忘れられない世代は、財界やマスコミ界で息を潜め、嘗ての仲間や後輩の左翼学生を支援する。朝日新聞と連携するテレビ朝日などは、『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を得た猪瀬直樹を持て囃し、「朝まで生テレビ」や「ビートたけしのTVタックル」に招いていた。当時の一般視聴者は猪瀬氏の過去や素性を知らず、『昭和16年夏の敗戦』を書いた著者とか、道路公団を批判する反骨の知識人、と思っていた。(『国民新聞』の読者は違うけど。)

Inose Naoki 823(左 / 猪瀬直樹)
  東京都の副知事から都知事に登り詰めた猪瀬氏は、作家になる前に、信州大学の全共闘議長を務めていた。闘争は1969年6月、文学部のバリケード封鎖から始まったというが、猪瀬氏は全共闘の主力部隊を率いていたそうである。しかし、学生運動には国家を根本的に変える中身が無かった。口先だけの学生達は、単なる観念論じゃだ。動物園で飼われているナマケモノが、「百獣の王」を気取っているようなものだ。職員から餌をもらっているシマシウマに、弱肉強食のジャングルなど解らない。学生運動にのめり込んでいた猪瀬氏も、何となく「世間の風」という“壁”に気づいていたのだろう。

  ある時、彼は国際反戦デーや佐藤栄作首相の訪米阻止のために上京するが、そこで目にした光景は彼の人生を変えるものであった。東京にやって来た猪瀬氏は、新宿の裏通りでコーラを買おうとしたそうだ。そこで、猪瀬氏は表通りから裏通りに足を運んだわけだが、迷い込んだ場所にはパチンコ屋があって、軍艦マーチが流れていたという。突然、猪瀬は通りを一つ隔てただけで“別の世界”があることに気づく。彼は当時を回想し、次のように述べていた。

 そこには日常性があるわけですよ。そのころから、学生運動はこんなものだな、という自覚はあった。学生運動で世界が変わるなんて思っていなかった。日常性の連続がふつうの生活なんです。そして日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえなおさないといけにないと思った。(臼井敏男『叛逆の時を生きて』、p.145.)

  猪瀬氏によれば、1960年代の学生運動は、69年の佐藤訪米阻止闘争で終わったそうである。(上掲書、p.144.) 「あの時点で九割の人は学生運動を止めた」というから、岩波書店の『世界』や『朝日ジャーナル』で活躍していた左翼知識人は、闘争時代の「残滓」なのかも知れない。猪瀬氏は信州大学を卒業後、東京の出版社に勤め、そこの給料で大学院への資金を貯めるにしたそうだ。

  まぁ、左翼組織が強い明治大の大学院だから、心からの“転向”は無かったと思うが、『週刊ポスト』に連載を持ったり、実際の政治に係われば、イヤでも“現実の世界”が判ってくる。学生時代には“綺麗事”を並べていればそれで良かったが、実際の仕事になれば汚いことだって進んでやるしかない。代表作の『ミカドの肖像』だって、“ネタ本隠し”があったそうで、元ネタは早川和廣の『堤義明 悪の帝王学』や草野洋の『西武商法 悪の構図』であったという。たぶん、“パクリ本”とバレるのが恥ずかしかったのか、猪瀬氏は引用先の出典を挙げていなかった。でも、佐野眞一がそれを暴露したから万事休す。『ミカドの肖像』を作成するに当たって、ノンフィクション作家の池田房雄とジャーナリストの岩瀬達哉が協力したそうだ。この二人がネタになりそうな題材とデータ集めに奮闘したそうで、猪瀬氏は触れられたくない過去の暴露に怒っていた。

  最近、国会議員の裏金問題化や悪徳知事の横暴が話題となっているが、そもそも日本人にはデモクラシーなんて“体質”に合わない。選んでいる国民が、選んだ政治家を嫌っているんだから本末転倒である。例えば、愛知県の大村秀章知事は、衆議院で出世の見込みがないと分かった鞍替え組で、津田大介に理解を示すなんちゃって左翼。静岡県の川勝平太知事は、****人と昵懇で国益の売却者だ。しかも、大学教授の時からパワーハラスメントの常習者ときている。徳島県知事に鞍替えした後藤田正純は、“下半身検査”で不合格となった不適格議員。2000年から2022年まで、ずっと再選を果たしてきたのに、なぜか一度も大臣になれず、衆議院に見切りをつけての知事選だった。

  赤く染まった北海道は、反日や共産主義者の産地となっている。知事の鈴木直道は北海道出身じゃないけど、****人に国土を明け渡す売国奴。有名な「夕張リゾート」は2017年、****企業の「元大(げんだい)リアルエステート」に“たった2億円”で売却されてしまい、2019年になると、この****企業が香港系のファンドに15億円で転売だ。本当に酷いけど、これが現実の北海道である。二階俊博に可愛がられるくらいだから、鈴木知事がどんな人物なのか、誰にでも分かるだろう。

  今、東京15区の補欠選挙が 世間の注目を集めているが、世論調査で首位に立っているのは、共産党の支援を受けた立憲民主党の酒井菜摘(さかい・なつみ)である。二番手は日本維新の金澤結衣(かなざわ・ゆい)で、日本保守党の飯山陽(いいやま・あかり)は、地元民からの知名度を得るだけで精一杯。もし江東区民が正常なら、飯山氏がトップに立っているはずだけど、地元民は「この人誰?」といった反応だ。

飯山あかり00213(左 / 飯山陽)
  飯山氏は移民流入の深刻さを解っているので、平穏な暮らしを望む庶民からすれば、彼女が最も相応しい国会議員となるはず。だが、一般国民は左翼教育のせいで健全な判断能力を持たない。普段は常識的な人でも、政治となれば、ちょっと左寄りとなってしまい、無意識のリベラル派で候補者を選ぶ。左翼教育の影は長く、薄くなったように思えても、人々の脊髄に残っている。我が子や地元の将来を大切にする庶民が、知名度だけで左翼分子に投票し、自ら「故郷の破壊者」となってしまうんだから、本当に憐れだ。せめて自民党支持者の七割くらいが飯山氏に投票するのであれば、まだ救いがある。しかし、左巻きにされた国民が正常な判断を下すとは思えない。乙武候補がコケたことくらいが救いである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html
40:777 :

2024/08/11 (Sun) 15:28:11

72)緊急告知 その3です。モガミ2534で、ベルデン9497を実験した結果です。(これぞ真打ち登場!)
2024年06月17日
https://procable.seesaa.net/article/503678884.html

■ モガミ2534とベルデン9497の組み合わせの音とは??

中島みゆきさんは、1970年代のミュージシャンです。したがって、モガミ2534で、スタジオ録音されている事は分かり切っています。

その、日本の音楽の必需品、モガミ2534で、実験してきました。

⭕日本の音楽の検証には、モガミ2534を使わないと本当の意味では、分からないのです。

■ なんと!!、9497の印象が、ガラリと変わりました。音とは、どこまでも、怖ろしいものすね。

まず、モガミ2534の2mで、あえて、ミキサーに入れます。そこからは、88760で、アンプに入れます(モガミ2534は、一箇所だけ使えば十二分です)。

⭕なぜ「あえて」などと書いているか?、成り行きを説明します。

このブログの18番投稿の中に(2024年版・CDプレーヤーの最終回答の、最初の告知の投稿がそれです)、友人のエンジニアさんと私とのやりとりを公表しております。その事が、こんなところで生きてくるとは、思ってもみませんでした。

⭕その内容はと言いますと・・・

ココからは18番からの引用です。
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彼がエンジニアの駆け出しだった頃に、私に良く電話してきていたのです。

技術的な問題を、彼は、全部尋ねていました。私のほうも、全部答えていました。それが縁でした(縁で友人になったという意味)。
時には、ユニークな事も起きていました。モガミ2534は、1.0mだとハイ上がりになる。1.5mだと完璧なフラットだ。2.0mでもハイ上がりになるから、1.5mの倍数で、スタジオでは使え!と、言いましたら、彼が実際に周波数特性を計測したのです。

何をどうやって計測したかは知りません。プロツールス関係のもので計測したと言っていました。それで、「たったの0.1dBの差でしたが、その通りハイ上がりでした。」と、驚いて電話してきました。

「こんな事が人間の耳に分かるものですか?」

と言ってきました。

「結果がその通りなら人間の耳に分かるということだ。」

という会話でした。

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引用終わり。

⭕ここは誤解するかたもおられるでしょう。私の耳が良いわけではありません。セッティングさえきちんとしていて、完璧フラットな音であれば、誰にでも、0.1dBの差は、分かるということです。人間の耳は、生まれた時から両親の日本語の地声を聞いていますから、地声からわずかズレた声でもすぐ感知できるということです。
0歳から訓練しているのです。どなたもが、オリンピック選手以上の耳の能力を持っておられます。その事は、当店への、多くのコメントの中にも現れていますね。


■ というわけで、わざと、周波数特性が、少々ズレている、2mのモガミ2534から実験しました。

3mの9497、5mの9797、10mの9497、15mの9497、4種類の長さを実験してきました。

モガミ2534を入れただけで、全部OKです。全部聞けます。長さによる違いも、極小になっていました。しいて、9497は、3mよりは、10mのほうが柔らかい、10mよりは、15mのほうが少しだけ柔らかいという結果でした。フラットさにおいては、どれも変わりありませんでした。

88760だけで、9497を実験した時に感じたような違和感は、一切ありませんでした。すべてが腑に落ちる音だったと証言します。


⭕次に、周波数特性が乱れていない、3mのモガミ2534で実験しました。

何もかもが、グレードアップしています。9497の長さによる音の違いも、さらに少なくなっています。わずかづつ、長くなると柔らかくなっていきます。

結論:)これは、凄い結果でした。88760で聞く中島みゆきさんの音より、モガミ2534で聞く中島みゆきさんは、遥かに(雲泥の差で)上でした。

このレベルになると、9497を、15mで使うのも、いや、場合によっては、20mで使う事さえ、ありでしょう。

⭕音の焦点の微調整に使っていただけます。

ただし、音楽の国籍に合わせたラインケーブルを使うのが必須になります。ジャズは8412でなければなりません。オーケストラは、バイタルかノイマンでなければなりません。

でないと、9497は、思い通りには、働いてくれないでしょう。


⭕とにかく米国本場の9497は、素晴らしい9497でした。


⭕最後に、念のために、中国製の9497の10mだけ、実験しました。

ダメです。モガミをラインに使うと、不思議に、本場の10mと音の焦点は同じようなものでしたが、致命的欠陥が見えてきました。他が全部フラットだ。だからこそ、欠陥が明瞭に見えてくる。

一般的には、オーディオというものは、レベルが上がっていくと、中島みゆきさんの頭が、口が、映像として、目前に見えてきます。これを体感したかたは、当店のお客様がたには、非常に多い筈です。特に結界音響を組まれたかたは、のけぞって驚かれた事でしょう。

そして、さらにレベルが上がっていきますと、口の動き、のけぞりかた、口の中の舌の動き、頭と体の位置関係すら分かります。

⭕中国製の9497の10mでは、位相特性がメチャメチャなのでしょう。まるでピカソの絵画のように、目、鼻、口、頭、胴体が、ちゃらんぽらんの位置にある中島みゆきさんが、そこに現れました。まったく、使い物になりません。位相特性がメチャメチャです。こんなケーブルで、皆さんは、オーディオ屋で、試聴させられていたのです。


⭕モガミ2534による、超フラットの中島みゆきさんと、9497の解析は、以上で十二分でしょう。


■ すべてのケーブルを、88760だけにして実験した時より、さらに明解に、中国製の9497の欠陥が見えてきましたでしょう?


⭕あ!、重要な事を書き忘れました。4カ国鳴らし訳の時には、モガミは、1mで使って下さい。この理由を論理的に書いた事はありません。ここまで書いた今なら、誰にも分かるように説明できますので、明解に、真相を、公開しておきます。

非メッキのケーブルとメッキのケーブルの関係が関与しています。

例えば、1mのモガミで、中島みゆきさんを鳴らすとします。ドンピシャだったとします。そのまま1mの8412に入れ替えて、マイルス・デイビスを鳴らすとします。これは必ずドンピシャになります。
バイタルも同じ事です。モガミ2534の1mの中島みゆきさんは、とても生々しい音です。そのまま、バイタルの1mに入れ替えれば、ビートルズは、そのまま生々しくなります。

⭕ところが、6mのモガミ2534で、中島みゆきさんを合わせておきますと、モガミのケーブルは非メッキですから、スピーカーから出てくる、中島みゆきさんの声が硬めの時にこそ、6mのモガミ2534で合う事になります。モガミ2534が、音を柔らかくしてくれるからです。

■ そのセッティングのまま、マイルス・デイビスを、6mの8412で聞くとします。そもそも硬めのセッティングだったところに、メッキ線材の8412を6mも引いたらどうなるか??

⭕キンキンの音になって聞いておれません。つまり、鳴らし分けの「大失敗」です!!

四カ国とも、見事に音の焦点まで、自動的に合ってくれる長さこそが、1mだったというわけです。

⭕それであえて、四種ケーブルなり、三種ケーブルなりでは、1mものしか扱っていなかったというわけです。

これを説明するのは、以前ですと、ややこしくなるばかりで、理解するかたは少なかったでしょう。音の焦点を理解されているかたが多い今こそ、きちんと説明できる時が来たのだと感謝しております。

どこか別の箇所に説明していたところもひょっとしたらあるかもしれませんが、一箇所だけではダメです。


■ 実は、このブログの49番に、鳴らし分けについて言及しております。

当時はノイマンが手に入りませんでしたので、3カ国の鳴らし訳です。長い私自身の長い長い「悲惨な格闘」の実話を酔っ払った勢いで書いてしまいましたが、その49番の続きの60場の中にその、地上で一番の、オーディオの贅沢三昧について、書いてあります。

https://procable.seesaa.net/article/502615408.html

https://procable.seesaa.net/article/502722927.html
↑ こちらの60番が鳴らし訳のコーナーでした! この60番の最後には、衝撃の事件も掲載しております。
   この上のリンク、49番は、もっと楽しんでいただける内容です。



もう一箇所あります。

66番です。49番の酔っ払いが書いたものの、続きのような形で、66番を書いております。

https://procable.seesaa.net/article/502753450.html


⭕しかし、鳴らし分けについては、そのテーマ、タイトルで、重点的に、辻褄が合うように、全部、書かないといけません。49番も66番も説明不足でしょう??

⭕ついに、その全貌を書きました!!


なあに、そんなに難しい事ではありません。誰にでも理解できる事に過ぎないのです。


■ これで、謎は解けたと思います。世にも稀な、良い音を出してやって下さい!!

■ 贅沢三昧の4カ国鳴らし訳をしてやって下さい。この世における音楽鑑賞の(オーディオの)、最もぜいたくな聞き方こそら、これだと思います。

■ 英国クラシックも、ドイツクラシックも、米国のモダン・ジャズも、ロックも、邦楽も、セッティングの変更なしで、完璧に鳴ります。

ミキサーさえあれば、簡単に出来ます。

■ そして、オーディオ地獄から、どなたも、1人残らず、這い出てきてください!!


以上です。
https://procable.seesaa.net/article/503678884.html



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41:777 :

2024/10/18 (Fri) 00:47:34

的場昭弘氏出演! 『恐慌・パンデミック・戦争…21世紀読み解きと世界の行方』(2024年10月3日(金)20:00~生配信)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=TI1ivRzF1SA

■参考テキスト:的場昭弘著『21世紀世界史講義 恐慌・パンデミック・戦争』(日本実業出版社)
https://www.njg.co.jp/post-40474/

●ゲスト:的場昭弘(マルクス研究者)
●出演:島田雅彦(作家) 白井聡(政治学者)
●司会:ジョー横溝



的場昭弘氏出演!『資本主義の世紀=20世紀の読み解き+ウクライナ戦争の世界への影響』(2023年10月19日放送)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=Tr3cqVUobSg&t=46s


マルクス研究の第一人者・的場昭弘氏がゲスト出演。
番組前半は、的場氏の近著『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』を紹介しながら、 資本主義の世紀=20世紀の歴史を解説&紐解きします。

後半は前半の内容を踏まえて、ウクライナ戦争の世界への影響を検証します。
アフリカでの反仏運動、戦争の飛び火の問題などすべて関連付けて見取り図を描き出したいと思っています。

また、 急遽、パレスチナ問題、中東情勢についても的場氏に話を伺います。


■参考テキスト:的場昭弘著『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』(日本実業出版社)
https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%80%8C%EF%BC%92%EF%BC%90%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%80%8D%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E7%9A%84%E5%A0%B4-%E6%98%AD%E5%BC%98/dp/4534060408




ゲスト:内田樹氏 テーマ:マルクス!(2023年7月6 日放送)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=5qLSVIjYIgw&t=29s

ゲストに哲学者・内田樹氏を迎え、テーマ『マルクス』でお送りします。
そもそも、なぜ今でもマルクスを学ぶべきなのか?マルクスって何がそんなにすごいのか?そんな素朴な疑問からスタートし、マルクスに関して(思想背景、共産党宣言、資本論など)の初歩的な解説から、最終テーマは…<資本主義の行方>まで。

内田樹×島田雅彦×白井聡で徹底的に語ります。

近年の “マルクス読み替えブーム”の中、これぞマルクス論、資本論、資本主義論の決定版!?
是非ご覧ください。

参考文献:白井聡『マルクス 生を呑み込む資本主義』(講談社現代新書)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%80%9D%E6%83%B3-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%94%9F%E3%82%92%E5%91%91%E3%81%BF%E8%BE%BC%E3%82%80%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%99%BD%E4%BA%95/dp/4065311969
42:777 :

2024/10/18 (Fri) 06:00:57

鴻上尚史氏出演!『学生運動とはなんだったのか?』(2024年5月23日生放送)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=OFmrzuDm-Xo&t=322s

学生運動末期の1972年に早稲田大学で起きた学生のリンチ殺害事件を題材にしたドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』を紹介しながら、学生運動とはなんだったのか?を、その功罪両面から考えます。

また、映画の中で問題提起されている“正しい暴力はあるのか?”についても語り合いと思っています。

ゲストはこの映画の劇パートの脚本・演出を担当した鴻上尚史さん。
本作の 監督・代島治彦さんも出演の予定です。

■参考テキスト:映画『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』http://gewalt-no-mori.com/



【山崎行太郎チャンネル】何故、左翼系の政治学者や政治評論家はバカばっかりなのか?
森哲子事務所 2024/02/11
https://www.youtube.com/watch?v=_jWr1JyN_YA&t=23s

【山崎行太郎チャンネル】内ゲバの哲学が日本を救う。
森哲子事務所 2024/07/07
https://www.youtube.com/watch?v=G3AiqGLy-iI



的場昭弘氏出演!『資本主義の世紀=20世紀の読み解き+ウクライナ戦争の世界への影響』(2023年10月19日放送)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=Tr3cqVUobSg&t=46s


マルクス研究の第一人者・的場昭弘氏がゲスト出演。
番組前半は、的場氏の近著『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』を紹介しながら、 資本主義の世紀=20世紀の歴史を解説&紐解きします。

後半は前半の内容を踏まえて、ウクライナ戦争の世界への影響を検証します。
アフリカでの反仏運動、戦争の飛び火の問題などすべて関連付けて見取り図を描き出したいと思っています。

また、 急遽、パレスチナ問題、中東情勢についても的場氏に話を伺います。


■参考テキスト:的場昭弘著『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』(日本実業出版社)
https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%80%8C%EF%BC%92%EF%BC%90%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%80%8D%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E7%9A%84%E5%A0%B4-%E6%98%AD%E5%BC%98/dp/4534060408




的場昭弘氏出演! 『恐慌・パンデミック・戦争…21世紀読み解きと世界の行方』(2024年10月3日(金)20:00~生配信)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=TI1ivRzF1SA

■参考テキスト:的場昭弘著『21世紀世界史講義 恐慌・パンデミック・戦争』(日本実業出版社)
https://www.njg.co.jp/post-40474/

●ゲスト:的場昭弘(マルクス研究者)
●出演:島田雅彦(作家) 白井聡(政治学者)
●司会:ジョー横溝



ゲスト:内田樹氏 テーマ:マルクス!(2023年7月6 日放送)
エアレボリューション
https://www.youtube.com/watch?v=5qLSVIjYIgw&t=29s

ゲストに哲学者・内田樹氏を迎え、テーマ『マルクス』でお送りします。
そもそも、なぜ今でもマルクスを学ぶべきなのか?マルクスって何がそんなにすごいのか?そんな素朴な疑問からスタートし、マルクスに関して(思想背景、共産党宣言、資本論など)の初歩的な解説から、最終テーマは…<資本主義の行方>まで。

内田樹×島田雅彦×白井聡で徹底的に語ります。

近年の“マルクス読み替えブーム”の中、これぞマルクス論、資本論、資本主義論の決定版!?
是非ご覧ください。

参考文献:白井聡『マルクス 生を呑み込む資本主義』(講談社現代新書)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%80%9D%E6%83%B3-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%94%9F%E3%82%92%E5%91%91%E3%81%BF%E8%BE%BC%E3%82%80%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%99%BD%E4%BA%95/dp/4065311969
93:77
43:777 :

2024/10/18 (Fri) 12:57:58

2024年04月16日
飯山陽が劣勢な理由 / 左翼の長い影
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html
日本の若者は国家意識を無くした

student riots in Japan 213Japan in 1980s
(左 : 全共闘に精を出す大学生 / 右 : 80年代のバブル景気に浮かれた日本人)

  日本の政治が混迷し、没落の一途を辿っているのは、日本人にデモクラシーが適していないからだ。そもそも、民衆が代議士を選ぶことじたいが間違っている。「政治は武士の役割」というのが日本の國體(constitution)だ。幼い頃から忠君愛国を叩き込まれた武士と、目先の利益だけを追求し、受験勉強が唯一の苦労というのが平民の子供だから、才幹と気概の点で後者は比べものにならない。

  しかも、昭和の教育が劣悪で、敗戦となるや、共産主義者と反日主義者が大繁殖。日本の政治を“左傾化”させ、“鬱血状態”や“没落の悪循環”に導いたのは、何も占領軍だけのせいじゃない。アメリカ軍の“威光”を利用して出世を謀った「敗戦利得者」や学生運動で“有頂天”になった「アンファン・テリブル(enfant terrible)」*にも原因がある。(*「他人に迷惑を掛けても平気なガキども」という意味。) 歐米諸国と同じく、我が国も「高学歴社会」となっているから、政治家や官僚、企業経営者、地方公務員、ホワイトカラーの専門職、研究所や工場の技術者などは、程度の差こそあれ、「大卒者」で占められている。となれば、大学教師は未成年の精神構造に大きな影響を与える立場にあるはず。日本人の精神がどこか異常で、奇妙なくらいに歪曲しているのは、小学校から大学に至るまで、左翼陣営の「非国民化イデオロギー」が浸透しているからだ。

  日本の先を歩く米国では、幼稚園から大学までリベラル派の独擅場となっている。以前、ブルックリン・カレッジのミシェル・ランバート(Mitchell Langbert)准教授と、ヘテロドックス・アカデミー(Heterodox Academy)研究所のショーン・スティーヴンス(Sean Stevens)所長が大学教員に関する調査を行ったことがある。彼らが実施した教員の政治意識調査によれば、民衆党支持者が共和党支持者を大きく上回っており、約「9対1」の割合であることが判った。(Christian Schneider, 'Democratic professors outnumber Republican ones by 9 to 1 ratio, according to new data', The College Fix, January 22, 2020.)ランバート氏とスティーヴンス氏は、政党に登録している1万2千372名をサンプルにして大学教授の政治指向を調査したが、驚くことに、そのうちの48.4%が民衆党員であり、共和党員はたったの5.7%しかなかった。これが一般国民だと違っており、29%が民衆党員で、26%が共和党員となっている。この調査では、政治献金についても質問がなされており、民衆党の候補者に献金した教授と共和党の候補者に献金した教授の比率は、「95対1」であったというから、まさしく目眩がする数字だ。

  たぶん、日本でも状況は似たり寄ったりだろう。国立や私立の区別はなく、ほとんどがプロ左翼かピンク・リベラルとなっている。今では「遠い昔の出来事」となっているが、1960年代から70年代にかけての大学は、左翼分子の特殊部落であった。文学部や法学部、教育学部、史学部などはもちろんのこと、自然科学を専攻する学生でも、全学連や全共闘に加わって暴れ回っていた。明治から昭和の前半くらいまで、教師と学生との私的な交流というものがあったが、フランスの極左学生みたいな連中が増えたことで、日本の伝統はズタズタになってしまった。教授を皆の前で罵倒し、吊し上げることを喜んでやっていたんだから、****の****と同じだ。

Jean-Pierr Duteuil 213343(左 / ジャン・ピエール・デュトゥール)
  1968年5月には悪名高きフランスの左翼暴動が起きたけど、日本でもこれに触発されたのか、左巻きの大学生がキャンパスで猿真似に興じていた。パリの5月暴動で学生の先頭に立っていたのは、札付きの“赤い三人衆”で、ドイツ生まれのアシュケナージ・ユダヤ人たるダニエル・コーン・ベンデット(Daniel Cohn-Bendit)、アルザス出身のユダヤ人であるアラン・ジェスマル(Alain Geismar)、そしてPSUに属していた社会主義者のジャック・ソヴァジョ(Jacques Sauvageot)であった。コーン・ベンデットの親友であったジャン・ピエール・デュトゥール(Jean-Pierr Duteuil)は、アナーキストのマルキスト。父親も筋金入りのマルキストであったから、親子代々の共産主義者だ。

Daniel Cohn Bendit 0324Alain Geismar 21334Jacques Sauvageot 324Oda Makoto 992
( 左 : ダニエル・コーン・ベンデット / アラン・ジェスマル / ジャック・ソヴァジョ / 右 : 小田実)

日本の左翼学生も様々で、ある者はマルクス・レーニン主義の心酔者。また、ある者はスターリンの****政治を批判し、志半ばで斃れたレオン・トロツキーを尊敬するクルクルパー。ユダヤ人の共産主義に馴染めない田舎者は、毛沢東主義者となって「アジアとの共存」を掲げていた。小田実(おだ・まこと)に感化された極左は、ベトナム戦争に反対し、観念論で「アジアとの連帯」を呼びかける始末。

Ooe Kemzaburo 324(左 / 大江健三郎)
  ちなみに、小林秀雄から「気味の小説は小説じゃない」と酷評にされた小説家の大江健三郎は、フランスの左翼やユダヤ人哲学者のサルトル(Jean-Pierr Sartre)に憧れていたのか、ナイト・クラブの酌婦の前では「僕、アルジェ生まれ」と嘯(うそぶ)いていた。一緒に居た阿川弘之は「何言ってやがんだ! お前は愛媛生まれじゃないか!」と腹を立てていたけど、遠藤周作は隣で笑っていたのかも。

  とにかく、呆れてしまうが、当時の左翼学生は“本気”なのか“ファッション”なのか、何が動機で学生運動に参加したのか判らない。だだ、60年安保闘争の世代と同じく、70年代に新左翼にのめり込むような連中は、カルト宗教の信者と変わりがなかった。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持って機動隊に突っ込んだ連中は、まさしく人生を棒に振ってしまったし、逮捕された者は「前科者」となって、まともな就職先が見つからなかった。闘争の末に障碍者となった学生は、「後悔先に立たず」を実感する。しかし、上手く立ち回った連中は、藝能界やマスコミに潜り込んだ。法学部の学生は、仙谷由人のように法曹界を土俵とし、人権派弁護士になっていた。朝鮮人の支援者になる弁護士が多いのも、左翼教育の結果である。

Kan Naoto 8243(左 / 菅直人)
  「ズルカン」と呼ばれた菅直人は、東工大の暴力学生ではなかったが、日本への憎しみを“売り”にする「市民活動家」へと変貌していた。師匠の市川房枝からも「駄目な奴」と思われていたのに、マスコミの支援で我が国の総理大臣になれたんだから、永田町には悪魔と貧乏神が混在しているんだろう。だいたい、民主党の「サポーター」には国籍条件が無かったから、在日朝鮮人が「サポーター」になっていてもおかしくはなかった。

  菅直人はあるインタビューで自分の過去を偽っていた。「暴力では社会は変えられない。私はもともと、社会の矛盾をひとつひとつ解決していくという改革派なんです。そういう意味では、いまに至るまで挫折感はない」*と語っていたが、単に“卑怯者”だから仲間を見捨てただけだろう。 (*註 / 臼井敏男『叛逆の時を生きて』朝日新聞出版、2010年, p.197.)後に、機動隊を率いていた佐々淳行が茶化していたけど、菅直人は武闘派の学生じゃなかった。第五列や第六列といった後方に隠れ、逃げ足だけは早い卑劣漢であったから、障碍者にならず、弁理士になれたのだ。菅は「市民運動」とやらに邁進したが、その根底には松下圭一(法政大学教授)のドス黒い政治思想が流れていた。

Sakamoto 943
(左 / 坂本龍一)
  「元左翼」というのは藝能界 にも潜んでいる。例えば、都立新宿高校で左翼運動に熱心だった故・坂本龍一は、東京芸大に進んでYMOを結成したが、高校時代は左翼生徒であった。1980年代、シンセサイザーを演奏する坂本氏は、大量の電気を浪費するが、一向に気にする様子はなかった。「エコロジー」なんて頭の片隅にも無かったはずだ。当時は一風堂の土屋昌巳と同じで、「JAPAN」のデイヴィッド・シルヴィアンに憧れたのか、お化粧の方に夢中だった。

  ちなみに、同校で運動に加わっていたのは、坂本氏の先輩で、後に安倍内閣で官房長官となる塩崎恭久だ。塩崎と坂本の二人は、機動隊が入る前の安田講堂に足を運んだそうで、中にいた全共闘の学生らと話すことが出来たという。なるほど、生徒会長になった不良生徒(塩崎氏)が、荒れ狂う東大に赴いて、「自由」や「個性」を学んだというわけだ。さすが、二年生を率いて校長室を占拠する生徒会長は、ひと味もふた味も違っている。

Shiozaki 001
(左 / 塩崎恭久 )
 大臣を経験した塩崎氏は、議員を引退すると地元の愛媛で里親の支援をしているそうだが、自身の「転向」をどう思っているのか? だいたい、高校生の時からバリケード封鎖をしていた不良生徒が、政界に入って厚労大臣となり、不憫な子供に“温かい家庭”を斡旋するんだから、機敏なカメレオンだってビックリだ。息子の塩崎彰久はオヤジの地盤を引き継ぎ、今では自民党の代議士で、厚生労働政務官となっている。ホント、岸田文雄に林芳正、河野太郎、小渕優子、小泉進次郎といい、永田町にはボンクラの世襲議員がゾロゾロいる。一般国民というのは、自分の投票で子や孫の将来を台無しにしているが、その自覚が無いところに真の悲哀がある。

  演出家のテリー伊藤も、日本大学で学生運動に勤しんだ一人である。ただ、機動隊との衝突で一生涯の障碍を背負ったから悲惨だ。彼が機動隊から逃れる時、後ろに居た誰かが石を投げたという。不幸にも、その石が偶然、彼の左目に当たってしまい、伊藤氏は斜視になってしまった。藤竜也みたいに、同大学の芸術学部に入って映画界にスカウトされる方が、よっぽどマシである。下らない大学をさっさと辞めて、大好きなスポーツ・カーを買った方が遙かに健全だ。真田広之も日大の学生だったが、左翼分子にはならず、役者の世界に入った。二枚目俳優だから当然だけど、デビューして直ぐに『忍者武芸帖 百地三太夫』の主役なんだから凄い。(筆者も劇場で観たけど、真田氏の出演作品の中では一番いい。現在、彼はハリウッドの『Mortal Kombat』や『Shogun将軍』に抜擢され、ステレオタイプの「日本人」を演じているが、昔の方が良かった。)

  NHKの贔屓を得た小説家の高橋源一郎も、横浜国大で暴れ回ったうちの一人だ。彼は学生運動で逮捕されたり拘留されたりと、散々な青春時代を送っていたが、後に小説を書いて有名人となった。拘置所では“沈黙”を貫いたそうで、朝八時から夜の八時まで、12時間もずっと下を向いて黙っていたというから、ある意味“真面目な奴”だ。でも、取り調べの後に独房入りだから、正常な精神状態ではなかったはずだ。実際、一種の失語症に罹ったみたいで、喋るときの発音が難しくなったそうである。大学を除籍になり、筋肉労働者になっても、小説家になれたんだから良かったじゃないか。しかも、明治学院大学で教授になれたし、無事退職したことで“オマケ”として附いてくる「名誉教授」にみなれた。しかし、国際学部の学生はどんな気持ちで彼の授業を受けていたのか?

ポルシェに乗っていた左翼学生

  大学で暴れていた一般の左翼学生というのは、一種の“お遊び”に興じていた不真面目な人々で、内心では政府転覆など考えてもいなかった。要するに、みんなでワッショイ、ワッショイ、と騒いでいると、何となく自分が日本全体を動かしているように思えたのである。令和の大学生が聞けばシラけてしまうが、全共闘に共鳴するアホな学生は、「チェ・ゲバラに倣え、我らも社会主義革命を!」とか、「差別の元兇たる天皇制を打倒せよ!」、「ベトナムを侵掠する米帝國に反対!」「在日米軍基地を許すな!」と本気(?)で叫んでいた。

  筆者が高校生の時、御茶ノ水駅附近にある楽器店でギターを買ったことがある。そのついでに神田の三省堂に立ち寄ろうとしたが、途中で目にした明治大学の風景のせいで気分が悪くなった。入り口や塀には汚い看板がズラリと並んでおり、殴り書きの文字(日本や米国を呪う罵倒のスローガン)が踊っているように見えた。当時、筆者は看板を眺めながら、「アルフォンス・ミーシャ(Alfons Maria Mucha)のようなアール・ヌーヴォー風じゃなくてもいいから、もっと美しい文字で綺麗なイラストを附ければいいのに・・・。」と思ったものである。しかし、怨念に凝り固まった学生には、美術的センスは皆無だ。どいつもこいつも紅衛兵みたいな奴らばかり。「安保反対」を掲げながら「国防軍の創設」を主張しない学生は、一体どんな頭をしているのか? 左翼学生というのも呑気なもので、フォーク・ギターを片手に、ボブ・ディランやジョン・レノンの歌を奏でて喜んでいる。一方、ノンポリの学生達は酒を飲みながら、共産主義の幻想に酔いしれていた。

student riots 1970sStudent riots in Paris 2134
(左 : 学園闘争に熱中する日本の大学生 / 右 : パリで抗議行動に没頭するフランスの大学生)

  ゲバ棒を振るう学生達も甘えん坊だ。自分たちは思いっきり火焔瓶を投げつけているくせに、いざ機動隊が反撃すると「暴力反対!」と叫ぶ。彼らは警察官が決して発砲しないことを確信していたから、安心して角材を振り回していた。国家に刃向かっても、“国家権力(暴力装置)”は決して民衆を射殺しない、と信じ切っている。****大陸で北京政府に反抗したら、即座に“皆殺し”か戦車で轢き殺されるのがオチだ。北朝鮮なら学生全員が逮捕され、どこかの広場で公開処刑だろう。もしかすると、あっさりとした銃殺じゃなく、「てるてる坊主」みたいに軒先で縛り首だったりして。場合によっては、牢獄で餓死とか。

  まぁ、みんなと一緒に「武力闘争」をしているうちは、危険なようで気楽である。ところが、いざ卒業が目の前にチラつくと大変だ。おちゃらけ学生は急に“現実”が怖くなる。長髪でジーンズ姿の青年も、就職面談となれば、長い髪を切って清潔感を出すしかない。彼らは親に買ってもらった背広を着込み、真剣な面持ちで会社に赴く。面接で過去を詮索されないか、とヒヤヒヤする青年は、慎重に言葉を選びながら答える。でも、過去がバレて不合格になれば意気銷沈だ。もし、晴れて合格となれば「ああ良かった!」と胸をなで下ろす。

  在学中に勉強しなかった学生は、どうしたものかと思い悩んだ。でも、「体育会系」を前面に出してアピールすれば何とかなった。「一生懸命頑張ります!」と言えば鉄鋼メーカーに入れることもあったし、営業部では忍耐と体力が重要だ。理系の学生ならもっと有利で、金属プレス加工や化学製品のメーカー、あるいは精密部品の製造企業に受け容れられたりする。ちょっとコネがあれば総合商社に入れたし、テレビ局や新聞社、出版社は「ゴキブリ・ホイホイ」みたいな受け容れ先だった。元々労働組合やリベラル知識人が強いから、“学生運動の落ちこぼれ”でもOK。上司にも「左翼シンパ」や「左翼崩れ」がウヨウヨ居るから大丈夫。読売のナベツネだって元左翼(共産主義者)じゃないか。

  東京大学や早稲田大学、日本大学、法政大学などで左翼運動に係わっていた連中は、どこから“資金”を得ていたのか判らないが、上層部の学生には“とんでもない奴”が紛れていた。例えば、早稲田大学の荒岱介(あら・たいすけ)は飛び抜けている。彼は1965年に法学部に入るが、1968年に除籍となっていた。荒氏は「社学(社会主義学生同盟)」の委員長や「全国学生対策部長」に就任した人物で、東大安田講堂の闘争では兇器準備結集罪で指名手配を受けていた。彼は1969年4月に逮捕され、裁判に掛けられて有罪判決を受ける。刑務所には三年間服役し、1977年に出所したそうだ。塀の中に入る人間というのは“懲りない面名”なのか、荒氏は人生で七回も逮捕されたという。ちなみに、府中刑務所では民族派右翼の野村秋介(のむら・しゅうすけ)と一緒だった。

  学生運動を知らない世代は、マスコミのプロパガンダ記事に騙され、純粋で真剣な学生が腐敗した政府に反抗したと思っている。だが、教室を占領した連中なんて、ほとんどが“チンピラ左翼”か“俗物”でしかない。令和の大学生が驚いてしまうのは、荒氏が「ポルシェ」に乗っていたことだ。彼は世間の倫理道徳や組織上層部の説教が嫌いで、自らの欲望を満たすことに何の躊躇(ためら)いも無かった。荒氏は言う。

 ・・・そういうこと(道徳主義)に若者を縛り、革命的規律という名の下に、好きなことをさせない、何を買っちゃいけないとか言って、市民社会からかけ離れていくということを、俺は突破したくてね。当然、若者がBMWに乗りたいというのもいいわけじゃない。・・・俺は文化に出あいたかったんだよ。自動車はドイツ生まれで、ポルシェで言えばフェルナンド・ポルシェが作った文化である。そういう文化を知りたい、乗って味わいたいと思った。そんなの当たり前だと思う。(宮崎学『叛乱者グラフィティ』朝日新聞社、2002年、pp.84-85.)

  平成の緊縮財政で貧しい生活を“当然”と考えるようになった学生からすれば、「いった、どんな奴なんだ?」と思ってしまうだろう。しかし、1950年代から70年代までの日本だと、意外にも高額所得者の子供で左翼になる者が少なくなかった。(「元左翼財界人」に関しては別の機会で紹介したい。) チェ・ゲバラに憧れ、ベトナム戦争に反対し、人民解放のために革命を目指す荒氏であったが、段々とレーニン主義者や新左翼に懐疑的となったそうだ。彼は1990年代になると従来の思想を棄ててしまい、今度は「エコ左翼」というか、世田谷か吉祥寺に棲息する「環境革命家」へと転向する。荒氏によれば、左翼闘争はゲバ棒から火炎瓶、さらに重火器から爆弾へとエスカレートするので、世間との隔たりが大きくなってしまうという。彼は次のように述べた。

  まぁ、現実との関係においては、現実に理論が接近するんじゃなくて、現実に理論が接近できなくなってしまって、あるべき姿の方向に現実を接近させろというふうにますますなっていったんだよ。(上掲書、p.88)

  つまり、左翼学生がどんな理想を語りかけようが、世間の人々は振り向かず、むしろ軽蔑の眼差しで“距離を取る”という訳だ。確かに、1970年代の新左翼運動の頃から、一般の大学生には、ある種の“変化”が訪れていた。安保闘争の世代は、Tシャツにジーンズといった薄汚い格好であったが、新世代の学生は、米国のアイビィー・ルックを真似て、紺色のブレザーにネクタイを締めていた。街を歩くと、身綺麗な若者が、「VAN」のロゴが印刷された紙袋を手に提げ、友人や恋人と楽しそうに話している。こんな光景を目にした若者からすれば、新宿や代々木でマルクス理論を語るなんて野暮天だろう。恋人と一緒に銀座へ赴き、ウィンドー・ショッピングを堪能する方がいい。ウッドストックでのヒッピー姿なら分かるけど、麻布や目黒、あるいは新橋や神楽坂で、日本人がヒッピー・スタイルを真似ても、それは滑稽でしかない。

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(左 : 東部の有名大学に通うエリート学生 / 右 : アイヴィー・スタイルのアメリカ人 )

  高級ブランドのVANで身を包んだお坊ちゃん達は、早稲田や法政の田舎者とは違っていた。美形の女子学生と一緒に喫茶店に入り、ジャズでも聴いている方が“格好良く”思えたのだ。一世を風靡したVAN-JAC社は、1978年(昭和53年)に営業不振で潰れてしまうが、1980年代の大学生は、もう学生運動には戻らなくなっていた。好景気は青年の精神を変えてしまうものだ。この世代は小難しい哲学議論より、ショット・バーに通って仲間と談笑したり、人気のディスコで踊り明かす方をキャンパスライフと考える。デートになればスポーツカーを用意し、女の子を乗せて軽井沢に直行だ。苗場のスキー場に赴けば、ロマンティックな夜で意中の女性を口説こうとする。「ブハーリン」と聞いても、「それ、ロシアのウィスキー?」と尋ねる世代に、共産主義革命なんて無理だろう。

  それでも、学生運動が忘れられない世代は、財界やマスコミ界で息を潜め、嘗ての仲間や後輩の左翼学生を支援する。朝日新聞と連携するテレビ朝日などは、『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を得た猪瀬直樹を持て囃し、「朝まで生テレビ」や「ビートたけしのTVタックル」に招いていた。当時の一般視聴者は猪瀬氏の過去や素性を知らず、『昭和16年夏の敗戦』を書いた著者とか、道路公団を批判する反骨の知識人、と思っていた。(『国民新聞』の読者は違うけど。)

Inose Naoki 823(左 / 猪瀬直樹)
  東京都の副知事から都知事に登り詰めた猪瀬氏は、作家になる前に、信州大学の全共闘議長を務めていた。闘争は1969年6月、文学部のバリケード封鎖から始まったというが、猪瀬氏は全共闘の主力部隊を率いていたそうである。しかし、学生運動には国家を根本的に変える中身が無かった。口先だけの学生達は、単なる観念論じゃだ。動物園で飼われているナマケモノが、「百獣の王」を気取っているようなものだ。職員から餌をもらっているシマシウマに、弱肉強食のジャングルなど解らない。学生運動にのめり込んでいた猪瀬氏も、何となく「世間の風」という“壁”に気づいていたのだろう。

  ある時、彼は国際反戦デーや佐藤栄作首相の訪米阻止のために上京するが、そこで目にした光景は彼の人生を変えるものであった。東京にやって来た猪瀬氏は、新宿の裏通りでコーラを買おうとしたそうだ。そこで、猪瀬氏は表通りから裏通りに足を運んだわけだが、迷い込んだ場所にはパチンコ屋があって、軍艦マーチが流れていたという。突然、猪瀬は通りを一つ隔てただけで“別の世界”があることに気づく。彼は当時を回想し、次のように述べていた。

 そこには日常性があるわけですよ。そのころから、学生運動はこんなものだな、という自覚はあった。学生運動で世界が変わるなんて思っていなかった。日常性の連続がふつうの生活なんです。そして日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえなおさないといけにないと思った。(臼井敏男『叛逆の時を生きて』、p.145.)

  猪瀬氏によれば、1960年代の学生運動は、69年の佐藤訪米阻止闘争で終わったそうである。(上掲書、p.144.) 「あの時点で九割の人は学生運動を止めた」というから、岩波書店の『世界』や『朝日ジャーナル』で活躍していた左翼知識人は、闘争時代の「残滓」なのかも知れない。猪瀬氏は信州大学を卒業後、東京の出版社に勤め、そこの給料で大学院への資金を貯めるにしたそうだ。

  まぁ、左翼組織が強い明治大の大学院だから、心からの“転向”は無かったと思うが、『週刊ポスト』に連載を持ったり、実際の政治に係われば、イヤでも“現実の世界”が判ってくる。学生時代には“綺麗事”を並べていればそれで良かったが、実際の仕事になれば汚いことだって進んでやるしかない。代表作の『ミカドの肖像』だって、“ネタ本隠し”があったそうで、元ネタは早川和廣の『堤義明 悪の帝王学』や草野洋の『西武商法 悪の構図』であったという。たぶん、“パクリ本”とバレるのが恥ずかしかったのか、猪瀬氏は引用先の出典を挙げていなかった。でも、佐野眞一がそれを暴露したから万事休す。『ミカドの肖像』を作成するに当たって、ノンフィクション作家の池田房雄とジャーナリストの岩瀬達哉が協力したそうだ。この二人がネタになりそうな題材とデータ集めに奮闘したそうで、猪瀬氏は触れられたくない過去の暴露に怒っていた。

  最近、国会議員の裏金問題化や悪徳知事の横暴が話題となっているが、そもそも日本人にはデモクラシーなんて“体質”に合わない。選んでいる国民が、選んだ政治家を嫌っているんだから本末転倒である。例えば、愛知県の大村秀章知事は、衆議院で出世の見込みがないと分かった鞍替え組で、津田大介に理解を示すなんちゃって左翼。静岡県の川勝平太知事は、****人と昵懇で国益の売却者だ。しかも、大学教授の時からパワーハラスメントの常習者ときている。徳島県知事に鞍替えした後藤田正純は、“下半身検査”で不合格となった不適格議員。2000年から2022年まで、ずっと再選を果たしてきたのに、なぜか一度も大臣になれず、衆議院に見切りをつけての知事選だった。

  赤く染まった北海道は、反日や共産主義者の産地となっている。知事の鈴木直道は北海道出身じゃないけど、****人に国土を明け渡す売国奴。有名な「夕張リゾート」は2017年、****企業の「元大(げんだい)リアルエステート」に“たった2億円”で売却されてしまい、2019年になると、この****企業が香港系のファンドに15億円で転売だ。本当に酷いけど、これが現実の北海道である。二階俊博に可愛がられるくらいだから、鈴木知事がどんな人物なのか、誰にでも分かるだろう。

  今、 東京15区の補欠選挙が世間の注目を集めているが、世論調査で首位に立っているのは、共産党の支援を受けた立憲民主党の酒井菜摘(さかい・なつみ)である。二番手は日本維新の金澤結衣(かなざわ・ゆい)で、日本保守党の飯山陽(いいやま・あかり)は、地元民からの知名度を得るだけで精一杯。もし江東区民が正常なら、飯山氏がトップに立っているはずだけど、地元民は「この人誰?」といった反応だ。

飯山あかり00213(左 / 飯山陽)
  飯山氏は移民流入の深刻さを解っているので、平穏な暮らしを望む庶民からすれば、彼女が最も相応しい国会議員となるはず。だが、一般国民は左翼教育のせいで健全な判断能力を持たない。普段は常識的な人でも、政治となれば、ちょっと左寄りとなってしまい、無意識のリベラル派で候補者を選ぶ。左翼教育の影は長く、薄くなったように思えても、人々の脊髄に残っている。我が子や地元の将来を大切にする庶民が、知名度だけで左翼分子に投票し、自ら「故郷の破壊者」となってしまうんだから、本当に憐れだ。せめて自民党支持者の七割くらいが飯山氏に投票するのであれば、まだ救いがある。しかし、左巻きにされた国民が正常な判断を下すとは思えない。乙武候補がコケたことくらいが救いである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956522.html
44:777 :

2024/11/06 (Wed) 04:42:12

大学教授が左翼ばかりである理由
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16877301



共産主義はゾンビの如く蘇る / 呪縛される日本人
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14104241

日本の学生運動は体制側の分割統治政策によって滅ぼされた


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/297.html

共産主義者とはどういう人間なのか?
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14037916

若い人は何故そんなに簡単にアホ理論に洗脳されるのか? _ 精神病の感染 フォリ・ア・ドゥ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/810.html

不破哲三の正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/650.html

日本共産党の(かなり危ない)アレな裏話…(おや?後ろに誰か来たようだ…(震…|
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/687.html

左翼の本質は思想ではなく「タカリ」という生き方
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/671.html

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

重信房子が ばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14006452

かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/284.html

中島みゆき「世情」_ 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14003324

学生運動に挫折して自殺した恋人を歌った森田童子の名歌『僕たちの失敗』
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14003211

日本の歌曲はシューベルトやモーツァルトより名曲が多いが、名曲は1970年代に集中している
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14003099

【山崎行太郎ch】『ネット右翼にもわかるマルクス主義入門』
https://www.youtube.com/watch?v=dR1z0AI1-Ms

【山崎行太郎ch】マルクスの『ドイツ・イデオロギー』について。ネット右翼にもわかるマルクス主義入門。(2)
https://www.youtube.com/watch?v=dM8irDjOaqc

【山崎行太郎ch】《疎外論》から《物象化論》へ。…ネット右翼にもわかるマルクス主義入門(3)。
https://www.youtube.com/watch?v=OoVmmL_t1i8

【山崎行太郎ch】宇野弘蔵の《労働力の商品化 》について・・・《 ネット右翼 にもわかるマルクス主義入門(4)》
https://www.youtube.com/watch?v=SSEoN6S29_s

【山崎行太郎ch】柄谷行人の『価値形態論』について・・・《 ネット右翼にもわかるマルクス主義入門(5)》
https://www.youtube.com/watch?v=SCEA6xkhYEc

【山崎行太郎チャンネル】都知事選と共産党とマルクス主義。
https://www.youtube.com/watch?v=OxSp62E9FjM

【山崎行太郎チャンネル】マルクス主義の二大潮流ー講座派と労農派について。
https://www.youtube.com/watch?v=dfrVyf5B1mE

【山崎行太郎チャンネル】内ゲバの哲学が日本を救う。
https://www.youtube.com/watch?v=G3AiqGLy-iI

【山崎行太郎チャンネル】《宇野弘蔵とマルクス主義》
https://www.youtube.com/watch?v=zS1T7iSrFlI

【山崎行太郎チャンネル】 何故、左翼系の政治学者や政治評論家はバカばっかりなのか?
森哲子事務所 2024/02/11
https://www.youtube.com/watch?v=_jWr1JyN_YA&t=23s
45:777 :

2024/11/14 (Thu) 06:25:36

サマーズ氏、大学教授が左翼ばかりである理由を語る
2024年11月5日 globalmacroresearch
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/56013

アメリカの元財務長官で経済学者のラリー・サマーズ氏がダートマス大学で、政治問題で揺れるアメリカの大学について話している。

大学と政治問題

アメリカでは大学が政治問題で揺れている。イスラエルとパレスチナの戦争に関してガザへの支持を表明した学生が罰せられたり、内定を取り消されたりしている。

サマーズ氏はアメリカの財務長官だったが、ハーバード大学の学長でもあった。そして大学における言論の自由に大いに関係する人物でもある。何故ならば、彼はハーバードで、理系分野での能力の最上位と最下位には女性よりも男性の方が多いという発言をして学長の座を追われているからである。

サマーズ氏のこの発言は能力のばらつき方における男女差に言及しただけのものだったが、最上位に女性が少ないという部分だけが切り取られて問題化され、不信任に追い込まれた。

能力のばらつきに性差があるかないかという問題を客観的に議論することは、むしろ大学の使命であるはずである。だがそれはフェミニストたちの感情によってサマーズ氏もろとも排除された。

それがアメリカの大学である。大学におけるそのような政治的偏りの問題は、今でも変わらずパレスチナ問題などに尾を引いているように見える。

クリントン政権の財務長官も務めた民主党員のサマーズ氏が、珍しくもリベラル的な価値観に異を唱えて次のように言っている。

大学は社会において何が正しいかばかり話しており、学問において何が正しいかがなおざりになっている。

大学は人の出自や人種ばかりを話しており、人間全般に普遍的な価値観について話していない。

大学教授の政治的偏り

何故そうなるのか。サマーズ氏によれば、それは大学教授という集団が政治的に偏っているからだと言う。

サマーズ氏は次のように述べている。

わたしは財務長官だったが、ワシントンではわたしは左派の中で右側の部分に位置していた。わたしは民主党員だから左側だが、その中では保守的な側だった。

だが大学のコミュニティではわたしは余裕で右派の中の右側扱いだった。わかるだろうか? それが問題なのだ。

そもそも左派の多い大学の中では、左派の中で右派であるサマーズ氏は右派だと見なされた。

何故大学教授という集団は左側に偏っているのか? サマーズ氏は以下のように分析している。

単純な事実だ。資本主義が好きな人、少なくとも悪くはないと思っている人には、色々な選択肢がある。会社で働くことも出来れば、他のところで働くこともできる。

だが資本主義が嫌いで、企業利益が嫌いなら、選択肢はかなり限られる。

NGOで働くか、新聞記事を書くか、大学で働くかだ。

だから大学で働くことになった人々には、平均的に資本主義に対して一定の見方や態度を持ってしまっていると考えるべき確かな根拠があるのだ。

それは同時に、NGO職員や新聞記者が偏っている理由でもある。

結論

サマーズ氏は、ポリティカル・コレクトネスばかり気にしているアメリカの大学に次のように苦言を呈している。

大学は、自分の人生を大学で過ごすと決めた人によって政治化されてしまっている。

大学はもっとも重要な種類の多様性、すなわち考え方の多様性を保証するようにもっと努力しなければならない。

多様性を声高に主張する人々が考え方の多様性を誰よりも受け入れないのは、皮肉な事実である。

大学教授 になると決めたこと自体が1つのバイアスであるという事実は、経済学においても大きい。例えば、スタンレー・ドラッケンミラー氏が大学教授になる道を捨ててファドマネージャーになった理由は興味深いかもしれない。

ドラッケンミラー氏: 経済学者が経済を予想できない理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/44730

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/56013

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