777投稿集 7223206
| 世界の旅 _ エジプト | ■↑▼ |
2023/12/16 (Sat) 04:29:58
777投稿集
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世界の旅関係投稿集
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世界の旅 _ エジプト
【エジプト】周辺国がすべて内戦・戦争中!国内物価上昇に貧困と問題だらけ!それでも安定しているエジプトの奇跡!
世界史解体新書 2024/09/23
https://www.youtube.com/watch?v=MKu4d7maErg
【アフリカ縦断】1話〜40話
ジョーブログ【CRAZY CHALLENGER】
https://www.youtube.com/playlist?list=PLdfjtOZHSuVu9xBV9ONJUfy4e_qhZ_QHy
2024/01/05 (Fri) 05:34:06
世界の名画・彫刻
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エジプト美術
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2024/05/18 (Sat) 01:35:08
THEエジプト人です ! - YouTube
https://www.youtube.com/@ejiputojin/playlists
https://www.youtube.com/@ejiputojin/videos
日本に慣れすぎて無理❗️エジプトで逆カルチャーショック恐ろしかった 【外国人の反応】
THEエジプト人です ! 2023/10/08
https://www.youtube.com/watch?v=bZDKhfkmgU4
エジプト人妻が“逆ホームシック”に…「日本に帰りたい」母国帰国後の本音に70万再生「世界一女性には安全な国」
2024-05-17
https://beauty.oricon.co.jp/special/102428/
訪日外国人旅行客が増える中、その様子が度々話題になる。現在は日本人と結婚し、日本で暮らすエジプト人YouTuberの八十恵さんは、『THEエジプト人です !』チャンネルで日々の様子を発信している。訪日外国人旅行客が来日し、想像とは違った文化に触れ歓喜する一方、日本人が外国に対していまだ間違った認識を持っていることがある。エジプト帰国時には、逆カルチャーショックを受けるほど日本に馴染んでいる彼女に、現在のエジプトについて聞いた。
いまのエジプトは危険な国ではないが、夜の1人歩きはしたくない
――動画「日本に慣れすぎて無理!エジプトで逆カルチャーショック恐ろしかった」は70万再生を超える人気を得ました。「日本に帰りたい」と逆ホームシックになっていましたが、日本での生活の良さを教えてください。
恵さん 日本で暮らして驚いたことの1つですけど、日本人はすごく“個”を大事にしていると感じます。例えばスーパーに行くと、野菜の産地がすべてわかります。中東では皆ひとつのグループにする文化があって、エジプト料理で検索すると中東の他の国の料理として同じものが出てきます。アラビア語の文化圏はアラブにしましょうという考え方になりました。逆に日本は、東京、京都、沖縄などそれぞれの地域の違いを大切にしています。中東から見ると珍しい文化です。
――両方の生活を経験している恵さんは、どちらが住みやすいとか、自分に合っていると感じることはありますか?
恵さん 難しいですね。もちろんエジプトの良いところはたくさんありますし、嫌いではありません。でも、私は日本の方が暮らしやすいと思います。エジプトで暮らしていたからこそ日本の良いところがわかるので、日本で生活する機会が私の人生にあったことをとても感謝しています。春夏秋冬の四季があるのは素敵です。
――「日本は世界一女性には安全な国だと思う」と言っていました。
恵さん 私が感じるのは、日本はどこでも女性が来やすいようにしているということ。例えばデパートの1階は、女性向けのコスメなどのフロアになっていたり。女性用トイレには小さい子どもを座らせる椅子があります。エジプトではカフェやレストランが1階にあり、とにかく人を集めようという作りで、日本はそれとは対照的です。
――女性が安心を感じるという治安の面でのエジプトとの違いはいかがですか?
恵さん いまはエジプトも特別危ない国ではないのですが、夜は基本的に1人では歩きたくないかな。夜帰る時は車で送ってもらったりします。日本は夜道を1人で歩いていても、まるで空気みたいに誰も気にせず、声をかけられることもありません。それは嬉しいですね。
ヒジャブや水着、タトゥー…日本に伝わるエジプトの間違った認識も
――エジプトでは1人で歩いているとよく声をかけられますか?
恵さん そうですね。フランスに似ていますが、知らない人とでもあいさつやスモールトークが普通にある文化です。
――そこで誘われたり、危険を感じたりすることもありますか?
恵さん いまはそれはありません。シーシー大統領になってからは、女性へのセクハラや暴力は厳しく罰せられるようになりました。それは言葉だけでもそうです。なので、声をかけてくるのはあいさつや1人で歩いていることに心配して、ということがほとんどです。それでも私はあまり声をかけてほしくないと思っています。
――「ヒジャブをつけなくても良く、服装は昔ほど厳しくないので、肌の露出もOK」とのことですが、エジプトへの古い間違った認識を持っている人も多いと思います。近年は、水着を着たり、タトゥーをする若者もいるとのことですが、服装の変化を教えてください。
恵さん エジプトはもともと女性がヒジャブをつけるルールは歴史的にありませんでした。伝統的なスタイルとしてつける女性もいますが、逆に顔をすべて隠すようなヒジャブは使えない場合があります。水着に関しては、エジプトはむしろ宗教的な水着は禁止される場合があり、日本でいうラッシュガードの太陽光を遮る長袖にショートパンツのような水着はOKです。身体をほとんど隠さないやりすぎの水着は禁止されています。
――シーシー大統領になってからの女性の服装の変化はありますか?
恵さん エジプトでは「アラブの春(2011年初頭から中東・北アフリカ地域の各国で本格化した民主化運動)」から変わったと言われています。ヒジャブは16歳からつける人が多いのですが、それを大学生になってやめる。いまは始めからつけない人もたくさんいます。
自国の良さを知らないのは残念なこと…日本の歴史に誇りを持つべき
――訪日外国人旅行客が増える中、日本食や100円ショップに至るまで、感動する人も少なくありません。一方、私たち日本人はそれが当たり前のように生活しています。そうした環境に有り難みを感じにくく、そこに対しての感情が希薄になっています。
恵さん 日本の良いところを、文化や歴史と一緒に学校で学べたら良いと思います。私は日本のことを勉強して、実際に日本に来て文化を素晴らしいと感じています。それは建前で褒めているわけではなく、本気でそう感じているからです。でも日本人がその文化の良さに気づいていない。それをちょっと悲しいと感じています。国にはそれぞれの良さがあって、自国の良さを知らないのは残念なこと。もっと教育の場で教えるようにしたら良いのではと思います。
――安全面や丁寧さ、清潔さ、マインド、インフラ、食など、私たち日本人はどこに誇りを持つべきだと考えますか?
恵さん 日本の歴史自体に誇りを持つべきではないかと思います。その歴史から成り立つ興味深い文化を持っています。父と浅草に行ったときに雷門の話になり、私がエジプトのカイロにある門と比べていたら、父は「日本の門の方が古い」と話していました。すると動画のコメントには「エジプトには世界一古い歴史がある」と書き込みされ、日本の方が古いことを知りませんでした。もしかしたら教えられていないのかもしれませんが、私は日本の歴史にもっと誇りを持ってほしいです。
――最近のエジプトの良いところを教えてください。
恵さん エジプトはワインを作っていますが、私の地元のワインが昨年フランスで賞を受賞して、いま日本でも売っています。ずっと昔からエジプトワインはあったのですが、最近フランスやベルギーで評価されて、新しい楽しみ方としてお酒の文化をもっと発信していこうという流れがあります。近年のエジプトは、食生活などの文化も変わってきています。今年、ピラミッドの周辺がリニューアルされて、夜にはライトアップやサウンドの演出もあります。おしゃれなラウンジやミシュランで星を取ったレストランができ、街が新しく変わりつつあります。
https://beauty.oricon.co.jp/special/102428/
2024/09/24 (Tue) 05:25:38
【エジプト】周辺国がすべて内戦・戦争中!国内物価上昇に貧困と問題だらけ!それでも安定しているエジプトの奇跡!
世界史解体新書 2024/09/23
https://www.youtube.com/watch?v=MKu4d7maErg
2025/01/25 (Sat) 06:24:58
【ピラミッドの謎】作り方は? 内部は何がある?古代の秘密を現地からわかりやすく解説
大人の教養TV 2025/01/24
https://www.youtube.com/watch?v=7xWZk0sU4_E
ピラミッドが作られた真の目的とは…
00:00 オープニング
01:16 エジプト概要
02:14 ピラミッド
03:19 ギザの大ピラミッド
05:10 歴史
06:04 クフ王
08:29 王のお墓説
10:49 ピラミッド内部
13:03 地下室
15:17 上昇通路
16:21 大回廊
17:35 未知の空間
19:12 王の間
20:41 盗掘
22:14 石の棺
25:01 外側
29:00 横幅
29:31 方角
31:19 石
35:11 人海戦術
37:11 エンディング
【ピラミッド】エジプトの空港がヤバすぎた…
大人の教養TV 2nd 2025/01/24
https://www.youtube.com/watch?v=5OdcefR4_Ig
2025/02/01 (Sat) 05:25:23
4000年前の古代エジプトの暮らしが驚愕すぎた…現地からわかりやすく解説
大人の教養TV 2025/01/31
https://www.youtube.com/watch?v=J9xoQvZBEBg
00:00オープニング
00:57 エジプト概要
02:10 エジプト歴史
03:20 ナイル川
06:05 農業
07:07 恵みの洪水
08:44 太陽暦
11:17 カレンダー
12:55 食事
14:54 人口
15:28 ナルメル
16:55 法律
17:42 税金
18:37 公共事業
19:45 国防
21:23 エジプト国王
21:58 エジプト神話
23:39 宗教儀式
25:10 太陽神「ラー」
26:45 天空神「バステト」
27:47 知恵の神「トト」
29:02 ヒエログリフ
32:12 パピルス
33:41 エロパピルス
34:37 エンディング
【古代エジプト文明】4000年前のエジプトと現代を比べると…
大人の教養TV 2nd 2025/01/31
https://www.youtube.com/watch?v=Aebh70K8z80
2025/11/09 (Sun) 10:28:35
【移民の出入口】エジプトに難民が殺到する理由と東京都エジプト合意
YUTABI TV 2025/10/29
https://www.youtube.com/watch?v=EloqPsqQSpE&t=17s
中東・アフリカ旅が始まりました。
1カ国目のエジプトは首都カイロ。
エジプトの貧困街から都会のエリアまで
網羅的に行ってきたのでエジプトの「今」を見て参考にしてください。
【完全否定】エジプトには宗教対立なんて存在しない理由
YUTABI TV 2025/11/01
https://www.youtube.com/watch?v=z-TRhR3pdG4&t=28s
歴史的には迫害を受けたりジズヤを支払うことを強制されたり
宗教対立があったことは事実。
でもこの撮影の時にどちらかがどちらかを罵ったり
宗教が理由で対立をしている様子は一切なかった。
【もう無理】エジプトのピラミッド来たけど我慢の限界!!!
YUTABI TV 2025/11/05
https://www.youtube.com/watch?v=qaPHj4anvno
死ぬまでに一回は見たいでお馴染みのピラミッド感動した!
アテネのアクロポリスやトルコのギョベクリ・テペにも
足を運んでいるので良かったらみてね!
【エグい】日本が840億円融資した大エジプト博物館が豪華すぎる!
YUTABI TV 2025/11/08
https://www.youtube.com/watch?v=dC4_xCgfNL0
エジプト博物館すごいよかった!!!
ギザに行ったら、いや、エジプトに行ったら
ぜひ足を運んでみてね!
クフ王のスカイボートは圧巻!
| 完新世における人類の拡散 _ 農耕と言語はどのように拡大したのか | ■↑▼ |
2023/03/12 (Sun) 07:37:32
雑記帳
2023年03月12日
古代ゲノム研究に基づく完新世における人類の拡散
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_12.html
古代ゲノム研究に基づく完新世における人類の拡散に関する概説(Stoneking et al., 2023)が公表されました。本論文は、『米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America、略してPNAS)』120巻4号の過去12000年間(ほぼ完新世に相当します)の人類の進化に関する特集(関連記事)に掲載されました。本論文は、完新世における人類拡散の歴史を把握するのにたいへん有益だと思います。以下、敬称は省略します。
◎要約
20年近く前、ジャレド・ダイアモンド(Jared Mason Diamond)とピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)は、農耕民の人口拡大による農耕と大語族の関連する拡大についての証拠を再検討しました。それ以来、現代および古代の人口集団からのゲノムデータの取得と分析における進歩は、完新世におけるヒト拡散の知識を一変させました。本論文は、ゲノムの証拠に照らして完新世の拡散の概観を提供し、それが複雑な歴史だった、と結論づけます。人々の人口拡大と農耕の普及と特定の語族の普及の間のつながりが論証される場合でさえ、拡大集団と居住集団との間の接触結果はひじょうに多様です。この差異と複雑な歴史に影響を及ぼした要因と社会的環境の特定には、さらなる研究が必要です。
◎前書き
植物の栽培化と動物の家畜化はヒトの進化における重要な発展で、それは、前例のない水準での人口増加と拡大や、感染症の負担を大きく増加させたからです。さまざまな動植物がいくつかの場所で個別に家畜化・栽培化され、それは完新世の開始となる11000~9000年前頃にはじまりました。狩猟採集から農耕への生活様式の移行は新石器時代として知られており、考古学的調査は農耕の起源と拡大を記録してきました。同様に、言語学者はこうだいな地理的領域にわたって拡大した語族を記録してきており、たとえば、バントゥー諸語【これまで当ブログでは「バンツー語族」と表記してきましたが、ピーター・ベルウッド『農耕起源の人類史』(京都大学学術出版会、2008年、原書の刊行は2005年)など日本語の専門書に倣って、今後は「バントゥー諸語」と表記します】やオーストロネシア語族やインド・ヨーロッパ(IE)語族です。これらの考古学的および言語学的調査は、これら大語族の拡大は農耕の拡大により促進された、との提案につながりました。
重要な問題は、農耕と言語がどのように拡大したのか、ということです。それは自身の生活と言語をもたらした農耕民の移住によるものだったか(つまり、人口拡散)、あるいは近隣の農耕民から農耕と言語を採用した在来の狩猟採集民集団経由(つまり、文化拡散)でしたか?その答えが人口拡散の場合、在来の狩猟採集民集団の運命はどうなりましたか?在来の狩猟採集民集団は完全に置換されたのか、あるいは、少なくとも部分的には拡大する農耕民集団に同化したのでしょうか?考古学と骨格形態学と言語学に基づくさまざまな主張がこの問題に取り組んできましたが、最終的には、これは遺伝学の問題です。
元々の農耕集団の故地を特定でき、これらの人々が拡大した領域の集団とは遺伝的に異なっていた、と仮定すると、次に遺伝学的調査が、現代人集団が農耕民に由来する祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と先住民(農耕前)の祖先系統をどの程度有しているのか、明らかにできます。本論文では、「祖先系統」という用語が、人口集団への遺伝的寄与を一般的に指すために用いられ、「祖先系統」という用語に関する議論と誤用の問題は先行研究(関連記事1および関連記事2)で検討されています。ヨーロッパ全域における農耕とIE語族の拡大における文化拡大対人口拡大の役割に関する、カヴァッリ=スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)とその同僚の独創性に富んだ研究に始まり、遺伝学的調査は、農耕および/もしくは語族の拡大についての同じ問題への取り組みに用いられてきました。
しかし、遺伝学的調査には複雑さが伴いまするダイアモンドとベルウッドによってより詳細に議論されたように、これらは拡大する農耕民と狩猟採集民との間の連続変異的な混合を含んでおり、拡大の周辺に向かって農耕民の遺伝的寄与の減少をもたらします。一部の狩猟採集民集団は、文化的拡散により農耕を採用しました。農耕民が狩猟および採集に戻ることもあり、たとえば、農耕民が持ち込んだ家畜や栽培植物に適さない地域に入った場合です。拡大する人口集団からの遺伝子の取り込みが殆どないか全くなしの、居住集団による言語変化もあります。拡大後に、故地において農耕民により話されていた元々の言語の置換もあり、遺伝子と言語との間の不一致につながります。狩猟採集民の拡大もありました。追加の複雑化要因は、植民、および在来集団への関連する遺伝学と人口統計学と領域の影響です。そうした複雑さを考慮に入れられないと、農耕および/もしくは言語の拡大において、人口拡散と文化拡散の過程の役割に関して誤った結論につながります。
本論文は、世界のさまざまな地理的地域の完新世におけるヒトの拡散についてゲノムの証拠を調べ、農耕と関連する提案された拡大に焦点を当てます。ダイアモンドとベルウッドの調査以降の20年近くのゲノム規模データの取得と分析の発展、とくに古代DNA解析の進歩は、そうした拡散と上述のさまざまな複雑化要因への新たな洞察を提供しつつあります。この展望の空間的制約を考えると、全ての拡散もしくは関連する文献を含められません。代わりに、本論文が主張したい点について最も重要な/興味深い拡散事象と考えられるものに焦点が当てられます。これらの拡散の地図は補足データで提供されますが、地図上の矢印は一般的に、データが実際に裏づけるよりも、拡大の経路について遥かに確実だと示唆していることに要注意です。
◎アフリカ
化石と遺伝学と考古学の証拠は全て、現生人類(Homo sapiens)のアフリカ起源を強く支持します。ひじょうに深い人口集団の関係を、依然として現在のアフリカの狩猟採集民で見ることができますが、食料生産集団の拡大を反映する、広範な地域にわたる高水準の遺伝的均質性もあります(関連記事)。アジア南西部(中東)からの家畜化された動物は、まずアフリカ北部へと8000年前頃に広がり、じょじょに南進し、アフリカ東部に5000年前頃、アフリカ南部には2000年前頃に拡散しました(関連記事)。アフリカ西部とスーダン東部とエチオピア高地では、4000年前頃に始まる作物栽培のいくつかの中心地があったようです。以下は、完新世のアフリカにおける人類の拡散を示した補足図1です。
画像
●アフリカ北部および東部への牧畜/農耕の拡大
アフリカ北部および東部における食料生産の拡大と関連する人口統計学的変化の可能性は、これらの地域から得られた古代DNAの利用可能性により大きく明らかになりました。サハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統に加えて、15000年前頃までに、アフリカ北部の人々は近東祖先系統も有しており、アフリカへの逆遺伝子流動は牧畜もしくは農耕の導入に先行する、と示唆されます(関連記事)。新石器時代の前の祖先系統は前期新石器時代集団(7000年前頃)において継続していますが、後期新石器時代のアフリカ北部の人々(5000年前頃)は、イベリア半島から追加の遺伝子流動を受け取りました(関連記事)。したがって、新石器時代への移行は文化拡散と人口拡散の両方を含んでいたようですが、この広大な地域からのさらなる古代ゲノムが必要です。
アフリカ東部では、得られた最初の古代ゲノム(4500年前頃)はユーラシア祖先系統の痕跡を明らかにしませんでしたが、中東の前期新石器時代農耕民と密接に関連する人口集団からアフリカ東部へのその後のユーラシアからの遺伝子流動の存在が確証され(関連記事)、これは以前には、現在の人口集団に基づいて特定され、3000年前頃と年代測定されました。後期石器時代と牧畜新石器時代と鉄器時代のアフリカ東部人41個体の最近の研究(関連記事)は、さらに2段階の混合を推測しました。それは、非アフリカ人遺伝的祖先系統(レヴァントもしくはアフリカ北部の集団と関連しています)と、在来のアフリカ北東部集団との間でアフリカ北東部において6000~5000年前頃に起きた混合と、この混合集団とアフリカ東部の狩猟採集民との間で4000年前頃に起きた混合です。したがって、この研究は食料生産者の数回の移動を裏づけ、採食民との混合が一般的だったことも示します。
●バントゥー諸語の拡大
バントゥー諸語はニジェール・コンゴ語族内で比較的均質な枝を形成しますが、アフリカの人口の約30%によりサハラ砂漠以南のアフリカの大半で話されています。これらの言語の起源(最高の言語学的多様性と初期の分岐枝が見られるナイジェリア東部とカメルーン西部の境界周辺のグラスフィールド地域において)は、いくつかの農耕家畜化が起きた場所に大まかには位置していますが、バントゥー諸語拡大の最初の契機(5000~4000年前頃)は、農耕自体ではなく、アフリカ西部中央部における熱帯雨林の気候により起きた縮小だったかもしれません。バントゥー諸語拡大の初期段階は、土器および混合生計経済と関連しており、いくつかの動植物の家畜化と栽培化および鉄がその後の段階で組み込まれました。この拡大は比較的急速で、アフリカ南部に1800年前頃までに到達しました。
遺伝学的研究は、アフリカ大陸の遠く離れた地域のバントゥー諸語話者集団が、人口拡大について予測されるように、類似の遺伝的特性と顕著な遺伝的均質性を示すものの、他の言語を話すその近い地理的隣人はより高水準の分化を示す、と論証してきました。バントゥー諸語話者集団の祖先系統はほぼアフリカ西部に由来しますが、バントゥー諸語話者がナイル・サハラ語族やアフロ・アジア語族話者集団と接触したアフリカ中央部熱帯雨林やカラハリ砂漠やアフリカ東部など、狩猟採集民が依然として居住する地域では例外があります。
遺伝学的証拠は、バントゥー諸語話者集団の拡大経路にも情報をもたらし、バントゥー諸語が熱帯雨林を通った後にアフリカの東部と南部に向かって2つの移住経路に分岐する、「後期分岐」モデルが現在利用可能なデータを最良に説明する、と示します(関連記事)。そしてインド洋沿岸では、遺伝学的結果は、モザンビークやマラウイ(関連記事)の居住人口集団との最小限の混合を含むか混合を全く含まない、南北の拡散を裏づけます。
対照的にアフリカ南部では、バントゥー諸語話者集団はかなりの量の在来の(コイサン関連)祖先系統を示し(カラハリ砂漠の採食および牧畜集団で特定されました)、コイサン諸語話者集団はかなりの量のバントゥー関連祖先系統を示しており、これらの集団間のかなりの相互作用が示唆されます。これらの相互作用は強く性別で偏っており、バントゥー諸語話者集団ではおもにコイサン関連の母系が、コイサン諸語話者集団ではおもにバントゥー関連の父系が見られます。さらに、性別の偏りの強度はアフリカ南部において北方から南方にかけて増加し、集団間の接触に影響を及ぼす変化する社会的状況が示唆されます。
アフリカ西部では、考古学的および遺伝学的証拠から、バントゥー諸語の拡大は単一の人口拡大ではなく、むしろ複数の拡大段階により特徴づけられ、コンゴの熱帯雨林における1600~1400年前頃と推測されている人口崩壊を伴っていた、と示唆されます。西方バントゥー諸語集団はアフリカ中央部熱帯雨林の狩猟採集民と広範に混合してきており、アフリカ南部のように性別の偏りの同様の兆候を示します。対照的に、熱帯雨林の南側のサバンナと草原の生息地に現在居住している集団は、おもにバントゥー関連祖先系統を有しています。
●アフリカ東部からアフリカ南部への牧畜の拡大
考古学的証拠から、牧畜(ヒツジの飼育)はアフリカの東部から南部へと農耕到来前となる2000年前頃にもたらされた、と示唆されます。先行研究ではさらに、牧畜はアフリカ東部のサンダウェ語と関連しているかもしれないコエ・クワディ語族とともに拡大した、と提案されました。しかし、ナマ人(Nama)は現在牧畜を行なっている唯一のコエ・クワディ語族集団で、コエ・クワディ語族話者集団の生活様式におけるかなりの変化が示唆されます。
複数の遺伝学的研究は、アフリカ南部集団において、通常は牧畜の拡大に起因するアフリカ東部関連祖先系統の痕跡を見つけてきました。しかし、コエ・クワディ語族話者集団は、せいぜい少量のアフリカ東部祖先系統を有しているにすぎず、このアフリカ東部祖先系統は他のアフリカ南部集団でも見られ、牧畜移民が在来の狩猟採集民と広範に混合し、両方向で遺伝子流動があったことを示唆します。
古代ゲノムは以前として不足していますが、利用可能なデータは、アフリカ東部祖先系統がアフリカ南部に達し、バントゥー諸語話者集団の到来前にコイサン関連祖先系統と混合した、と示唆する現代の人口集団からの推測を確証します(関連記事)。とくに、アフリカ東部祖先系統は、2000年前頃の南アフリカ共和国で発見された狩猟採集民では欠けているものの、アフリカ西部関連祖先系統を欠いている南アフリカ共和国西ケープ州の牧畜民の状況では1200年前頃の1個体において明らかです(関連記事)。
◎ヨーロッパ
ヨーロッパには現生人類が少なくとも45000年前頃(関連記事)には居住しており【ただ、複数の先行研究から、45000年以上前となるヨーロッパの最初期現生人類は現代ヨーロッパ人とは遺伝的に直接的つながりがほとんどない(関連記事)、と示唆されます】、ヨーロッパ全域にわたる現代人および古代人両方のDNAの広範な調査が、新石器時代への移行と草原地帯牧畜民の青銅器時代移住の影響への洞察を明らかしてきました。以下は、完新世のヨーロッパとアジア中央部および南部における人類の拡散を示した補足図2です。
画像
●新石器時代への移行
ヨーロッパの新石器時代の遺跡は土器とさまざまな栽培化された植物と家畜化された動物により特徴づけられ、それは恐らく全て、アナトリア半島から近東へと広がる地域で11000年前頃に始まりました。ヨーロッパの新石器時代の起源がこの地域にあることは明らかですが、全ての側面が完全な「新石器時代一括」として到来したのか、むしろさまざまな時期および/もしくはさまざまな場所からヨーロッパを通じて拡大したのかは、議論になっています。
新石器時代はヨーロッパでは、まず10000~9000年前頃にキプロス島とギリシアとバルカン半島に出現します。放射性炭素年代の広範な標本に基づくと、農耕は2つの主要な経路を通じて拡大した可能性が高そうです。それは、アルプス山脈の南側の地中海沿いと、アルプス山脈の北側のドナウ川回廊です。地中海に沿って、農耕の拡大はカルディウム土器(Cardial Ware)と関連しており、これは7500年前頃までにイベリア半島に到達しました。
アルプス山脈の北側では、線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化がトランスダニュービア(Transdanubian)地域からヨーロッパ中央部と西部を通って、海岸に到達する前に停止しました。約1000年後、新石器時代はブリテン諸島(恐らくは異なる侵入経路で)とスカンジナビア半島南部に到達し、スカンジナビア半島南部では新石器時代は漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRB)土器と関連していたものの、ブリテン諸島の新石器時代にはLBKおよびTRB両要素があります。
4800年前頃、TRB文化はスウェーデン南部および西部の考古学的記録からほぼ消え、農耕の顕著な衰退と、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPCW)のより海洋的な狩猟経済に置換された証拠があります。小規模な農耕の証拠の痕跡はありますが、完全に農耕的な社会はその1000年後まで復活せず、1000年前頃までフィンランドを完全に占めることはありませんでした。バルト海地域とウクライナとヨーロッパ東部平原では、新石器時代の祭祀よの拡大は農耕ではなく土器と関連しており、農耕はこれらの地域では7000~5000年前頃に現れ、その起源についてはヨーロッパ南東部とアナトリア半島および/もしくはポントス・カスピ海地域(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)が提案されています。
ヨーロッパには多くの古代DNAデータがあり(関連記事)、これらは農耕技術の拡大と一致するヨーロッパにおけるアナトリア関連祖先系統の出現を確実に裏づけ、農耕拡大が文化拡散ではなくおもに人口拡散だったことを確証します。エーゲ海地域はアナトリア半島北西部とギリシア北部を含み、ほとんどのヨーロッパ人口集団の農耕民祖先系統の供給源ですが、ギリシア南部はコーカサスからのより大きな寄与を示し、これは青銅器時代のミノアおよびミケーネ文化でも明らかです(関連記事)。
初期の研究は、この地域の最初の農耕民における狩猟採集民祖先系統を殆ど若しくは全く見つけませんでしたが、最近では、古代ゲノムの人口統計学的モデル化で、ヨーロッパに侵入してきたアナトリア半島農耕民はそれ以前の遺伝子流動によりヨーロッパ狩猟採集民からの祖先系統を有していた、と明らかになりました(関連記事)。ヨーロッパへの農耕民の西方への拡散は、在来人口集団との経時的にさらなる漸進的な混合を伴っており、その後の世代では狩猟採集民祖先系統量が増加しました。
しかし、混合の兆候は広がっているものの、時空間的に異なります。一部の遺跡は何百年もの相互作用なしに農耕民と共存した狩猟採集民の飛び地の証拠を示し、たとえばドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡やスウェーデンの遺跡やポーランドの遺跡(関連記事)ですが、他の遺跡は最初期農耕民共同体においてさえ混合の証拠を示します(関連記事)。ブリテン諸島では、居住人口集団は、イベリア半島新石器時代集団と関連する混合した農耕民と狩猟採集民の祖先系統を有する人口集団により、完全に置換されました(関連記事)。イベリア半島の初期新石器時代は、経時的にじょじょに増加した、他地域よりも狩猟採集民の遺伝的寄与が大きかったことにより特徴づけられます(関連記事1および関連記事2)。
スカンジナビア半島では、新石器時代農耕民は狩猟採集民からのかなりの遺伝的寄与を示しますが、狩猟採集民における農耕関連祖先系統は低水準でしかなく、狩猟採集民が拡大する農耕集団にほぼ組み込まれたことを示唆します(関連記事)。バルト海東部地域とウクライナとロシア西部では、新石器時代は5000年前頃までヨーロッパ中央部農耕民からの実質的な遺伝子流動なしに進み、狩猟採集民は他地域よりも長く存続しました。したがって、ヨーロッパにおける侵入してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用には、かなりの地域差があります。
●草原地帯からの青銅器時代の移住
古代DNA研究の出現九会には、現代の人口集団に基づく多くの研究が、ヨーロッパの人口集団における農耕民対狩猟採集民の祖先系統の相対的寄与を推測しようと試みました。そのさいに、さまざまなデータセット、手法、農耕民対狩猟採集民の祖先系統の代理を用いて、農耕民祖先系統の推定値は15%未満から70%以上の範囲でした。古代DNA研究はこの議論を解決しただけではなく、さらに、楚家財が一般的には以前には想像されていなかった、祖先系統の第三の供給源が現代ヨーロッパの人口集団において10~50%の頻度で存在する、と示しました(関連記事)。この祖先系統はポントス・カスピ海草原のヤムナヤ(Yamnaya)牧畜民で最大化され、まずヨーロッパではバルト海地域に5000年前頃に出現し(関連記事)、ヨーロッパ西部への拡大にはさらに1000年を要しました(関連記事)。
この大規模な移住はヨーロッパ中央部および東部では縄目文土器複合(Corded Ware Complex、略してCWC)の拡大と関連しているかもしれず、その年代は4900~4400年前頃で、CWC遺跡個体はヤムナヤ的祖先系統を最大で75%有しています(関連記事)。しかし、最近の研究では、バルト海地域東部における最初の出現後、ヨーロッパ全域にわたる草原地帯祖先系統の大規模な拡大は、農耕民祖先系統をかなりの割合で有する人口集団により媒介された、と示されてきました。この祖先系統は後期新石器時代の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)にさかのぼり、GACはその中心的地域ではCWCに先行します。
鐘状ビーカー文化(Bell Beaker culture、略してBBC)はイベリア半島において4800年前頃(CWCと同じ頃)以降に出現し、その後はヨーロッパ西部全域で見られ、東方ではポーランドへと伸び(したがって、CWC遺跡群と重なります)、シチリア島とサルデーニャ島とアフリカ北部を含みます。BBC遺跡群と関連する個体群は、その祖先系統に顕著な地域差があります(関連記事)。ヨーロッパ中央部では、BBC個体群はその祖先系統の50%が草原地帯にたどれます。ブリテン諸島のBBC個体群は、おもにヨーロッパ中央部祖先系統で構成され、それは既存の新石器時代祖先系統を最大90%まで置換しました。
イベリア半島のBBC個体群はほぼ完全に草原地帯祖先系統を欠いており、その後の標本は草原地帯関連祖先系統を控えめな量でしか示しません。これらの結果から、BBCの拡大は単一の移住人口集団により媒介されたのではなく、文化拡散による在来集団の採用もあった、と示唆されます。さらに、草原地帯からの移住の影響はヨーロッパ南部、つまりはバルカン半島とミケーネ期ギリシア(関連記事)においてかなり小さいものでした。
表面的には、ヨーロッパへのおよびヨーロッパ全域にわたる新石器時代アナトリア関連および青銅器時代草原地帯関連の移住は、人口拡大の古典的モデルと一致しているようです。両者はヨーロッパの祖先系統に大きな影響を及ぼしたので、かなりの数の人々を含んでおり、比較的短期間(草原地帯関連の移住では約1000年、新石器時代の拡大では約3000年)に起きました。しかし、両者は時期と寄与した祖先系統の量において地域的な差異のパターンと追加の複雑さ(農耕民の最初の拡大後の狩猟採集民祖先系統の復活や、農耕民関連祖先系統をともに有する草原地帯関連祖先系統の可能性の拡大など)を示し、これらの移住には人口拡散の単純なモデルが示唆する以上のものがある、と示唆されます。
●インド・ヨーロッパ語族
ヨーロッパ全域のインド・ヨーロッパ(IE)語族の起源と拡大はひじょうに興味深く、2つの主要な仮説が提案されてきました。アナトリア半島仮説では、IE語族はアナトリア半島に起源があり、その後に9500~8000年前頃に始まって農耕とともにヨーロッパへと拡大した、とされます。草原地帯仮説では、IE語族は黒海とカスピ海の北側の草原に起源があり、その後に、6500~5500年前頃に始まり、ウマの家畜化と車輪つき荷車と荷馬車の開発の結果としてヨーロッパへと拡大した、とされます。
ユーラシアの青銅器時代の古代DNA解析は草原地帯仮説を支持しているようですが(関連記事1および関連記事2)、いくつかの問題が残っています。草原地帯祖先系統の最高の割合はヨーロッパ北東部において、ウラル語族言語を話す人口集団において見られますが、ヨーロッパ南部の多くのIE語族言語を話す地域は草原地帯祖先系統がかなり少なく、おそらくはその後の移住を反映しています。さらに、家畜化されたウマから得られた古代DNAは、ヨーロッパへの草原地帯祖先系統の拡大がウマにより促進されたのではない(関連記事)、と示唆するものの、ヤムナヤ文化によるウマの搾乳の証拠があります(関連記事)。したがって、IE語族には単純なモデルにより説明できるよりも複雑な歴史があったようです。おそらく、一部のIE語族言語は農耕民により、その他のIE語族言語は牧畜民により広がったか、或いは、恐らく一部のIE語族言語は人口拡散により、その他のIE語族言語は文化拡散により広がったのでしょう。
◎アジア中央部および南部
●新石器時代と農耕の拡大
イランが農耕発展にとっと重要地域だったことを示唆する豊富な考古植物学的遺骸にも関わらず、東方のアジア中央部と南方のアジア南部への農耕拡大は、ヨーロッパへの農耕拡大よりも調査がずっと少なかったです。古代DNA研究からは、新石器時代イランは遺伝的に新石器時代アナトリア半島と分岐しているものの、6000年前頃以降、かなりの割合のアナトリア半島農耕民関連祖先系統がイランに現れ、アナトリア関連祖先系統の減少のアジア中央部へと伸びる遺伝的勾配がある、と示唆されており、これはイラン高原とアジア中央部へのアナトリア半島農耕民の東方への移住を示唆します(関連記事1および関連記事2)。この移住は、家畜化されたヤギの拡散と一致しますが、キルギスタンにおける8000年前頃の家畜化されたヒツジの存在を説明できず、複数および/もしくはそれ以前の拡大を示唆します。
アジア南部の農耕は、まずインダス渓谷の西側の現代のパキスタンのメヘルガル(Mehrgarh)新石器時代遺跡で現れ、年代は8500年前頃です。パキスタンの他の新石器時代集落から、7000~6000年前頃の農耕民は北方および東方へと移動し始め、4600~3900年前頃に栄えたインダス渓谷文明(Indus Valley Civilization、略してIVC)に特徴的な農耕に基づく恒久的集落が出現し始めた【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「Civilization」を「文明」と訳します】、と示されます。インド全域の何千もま遺跡の発見は、IVCの考古学的境界を越えての農耕の拡散を記録します。
アジア南部で見られるような高温多湿の環境に由来する標本からDNAを回収することは困難なので、これまで、古代DNAはIVCの単一個体のゲノム(関連記事)に限定されています。この個体は間接的に4800~4300年前頃と年代測定され、アジア南部の現代人およびイランとアジア中央部の一部の新石器時代前の個体と祖先系統を共有していますが、アナトリア半島農耕民関連祖先系統を欠いています。ヨーロッパとは対照的に、農耕は明らかにアナトリア半島からの人々の移住を経由してアジア南部へと拡大しませんでしたが、単一個体から得られた結果に過度に重点を置くことには要注意です。
●アジア中央部および南部への草原地帯からの移住
ヨーロッパのように、アジア中央部および南部への草原地帯からの移住は複雑な歴史を示します。草原地帯からの最初の東方への拡大は、アファナシェヴォ(Afanasievo)文化のアルタイ・サヤン地域における出現で、その年代は5300~4500年前頃です。アファナシェヴォ文化の人々は、遺伝的にヤムナヤ文化の人々と密接です。アジア中央部では、草原地帯祖先系統の最初の証拠は4000年前頃に始まるバクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactrio Margian Archaeological Complex、略してBMAC)に由来し、拡大する草原地帯祖先系統は、トランス・ウラル地域のシンタシュタ(Sintashta)考古学複合と関連しているようです(関連記事)。したがって、古代DNAは(少なくとも)2回の異なる東方への移住を示唆します。
さらに、4000~3500年前頃には、アジア中央部からの移住がアジア南部へと草原地帯祖先系統をもたらし、IVCの人々と混合し、アジア南部現代人の祖先構成要素に最大30%ほど寄与しました(関連記事)。そして、ヨーロッパとは異なり、家畜化されたウマから得られた古代DNAにより、家畜化されたウマは草原地帯から東方への拡大に関係しており、と、IE語族の拡大(IE語族の主要な枝の一つで、アジア中央部と南部の一部で見られます)にも関係しているかもしれません。
◎アジア東部および南東部本土
アジア東部にはヒト居住の長い歴史があり、少なくとも45000年前頃にさかのぼります(関連記事)。完新世には、中国の黄河と淮河と長江の周辺のさまざまな地域が、9000~8000年前頃にはじまるイネやキビやアワの栽培化の重要な中心地でした。考古学的証拠は農耕の南部宇への2つの主要な流れを示唆しており、一方はアジア南東部本土(Mainland Southeast Asia、略してMSEA)で、もう一方は台湾となり、こちらは最終的にはオーストロネシア語族の拡大として継続しました。
MSEAでは、言語学的状況はより複雑で、それは、MSEA全体に拡大して多様化した5つの主要な語族があるからで、その課題はこの拡大に影響を及ぼした力と過程を理解することです。以下は、完新世のアジア東部および南東部本土における人類の拡散を示した補足図3です【ただ、この図では示されていませんが、古代ゲノム研究(関連記事1および関連記事2)から、新石器時代以降に長江流域から黄河流域への一定以上の人口移動があった、と推測されます】。
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●農耕の拡大
考古学者は、アジア東部における農耕が、在来の狩猟採集民と混合および/もしくは同化した農耕民の移動による拡大(「二層」仮説)と、それに対する、文化拡散および/もしくは内在的発展(「地域的連続性」仮説)の程度について議論してきており、前者(二層仮説)を支持する合意が高まりつつあります。古代DNAは二層仮説を強く裏づけます。ラオス(8000~7800年前頃)とマレーシア(4400~4200年前頃)のホアビン文化(Hoabinhian)狩猟採集民が、最初の植民を反映しているかもしれないアジア南部および南東部の現代の先住民集団と最も密接に関連している一方で、4000年前頃以降のMSEAの新石器時代個体群は、ホアビン文化狩猟採集民と中国からの初期農耕民の混合としてモデル化できます(関連記事1および関連記事2)。
これら新石器時代個体群は、MSEAのオーストロアジア語族話者集団と祖先系統を共有しており、農耕がオーストロアジア語族言語の拡大と関連しているかもしれない、と示唆されます。古代DNA解析は、6000年前頃に始まる黄河流域からの農耕民の西方への移住も示唆しており、この移住はチベット人と漢人の両方に祖先系統をもたらしたので、シナ・チベット語族の拡大と関連しているかもしれない、と提案されています(関連記事)。
刺激的な仮説は、朝鮮語と日本語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族によは全て共通の起源があり(「トランスユーラシア」大語族)、前期新石器時代に【現在の】中国北東部から移住してきた農耕民により拡大した、と主張します(関連記事)。しかし、他の研究は「トランスユーラシア」大語族の存在に疑問を呈しています(関連記事)。いずれにしても、アジア東部においては農耕拡大と関連する人口拡大の強い兆候があります。
●MSEAへのその後の拡散
青銅器時代文化と関連し、鉄器時代および歴史時代へと続くMSEA個体群の2000年前頃以降の古代DNAは、新石器時代個体群には存在しない追加のアジア東部関連祖先系統を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。現在のMSEA人口集団の構造の多くは、これら推測される移住の結果として形成されました。それは、この時点以降の古代の個体群が、同じ地域の現代のMSEA人口集団と遺伝的により密接に類似しているからです。
現在のMSEAは、主要な5語族(オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロネシア語族)を代表とする広範な言語学的多様性により特徴づけられます。上述のように、オーストロネシア語族はイネと雑穀の新石器時代拡大と関連しており、現在の散在的分布はおそらく、他の言語を反す人々のその後の侵入を反映しています。タイ・カダイ語族とオーストロネシア語族との間の言語学的つながりが提案されてきており、古代人および現代人両方の標本に基づく遺伝学的研究は、タイ・カダイ語族祖語とオーストロネシア語族祖語の集団間の祖先のつながりの可能性を確証します(関連記事)。
シナ・チベット語族は中国北部に起源があり、おそらくは3000年前頃にMSEAへの拡大が始まりましたが、ミャオ・ヤオ語族はおそらく中国南部で生じ、タイ・カダイ語族と同じ頃に拡大しました。MSEAには僅かなオーストロネシア語族(、マライック諸語とモーケン語とチャム語)があり、恐らくは、オーストロネシア語族話者のMSEA集団へと遺伝的祖先系統をほとんど寄与しなかった、2500~2000年前頃のボルネオ島からの移住に起源があります。
したがって、単一の語族が広範な地理的地域に拡大し、優占した世界の他地域と比較して(たとえば、バントゥー諸語やIE語族やオーストロネシア語族など)、MSEAは複数の語族全てが数千年以内に由来して拡大した、という点でひじょうに異なります。食料生産が重要な側面だった、と提案されてきましたが、それ以上の何かが、これら異なる語族を多かれ少なかれ同時に拡散させ得たに違いないようです。じっさい、ベトナムとタイの現代の人口集団かに得られたゲノム規模データの包括的な研究は、拡大、さまざまな語族の言語を話す集団間の広範な接触、孤立、言語変化の可能性がある事例を含む、複雑な歴史を記録します。MSEAの古代DNAのより詳細な研究が、この複雑な歴史にさらなる光を当てるはずです。
◎アジア南東部島嶼部とオセアニア
完新世のこの地域における人口移動は、おもに台湾から南方および東方にアジア南東部島嶼部(ISEA)への、およびニューギニア北部海岸沿いの農耕拡大により促進されました。それは、遠オセアニア(リモートオセアニア)への長距離公開のための洗練された航海術の発展、海洋民集団とマダガスカル島の集落の出現をもたらした海上交易網の台頭です。トランス・ニューギニア語族の拡大と関連する、ニューギニア高地における植物の初期の独立した栽培化もあります。以下は、完新世のISEAおよびオセアニアにおける人類の拡散を示した補足図4です。
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●台湾からのオーストロネシア語族の拡大
ISEAの完新世の植民は、台湾から農耕とオーストロネシア語族言語をもたらした人々の拡大と関連しています(関連記事)。オーストロネシア語族は世界で最大かつ最も広がった語族の一つで、地球のほぼ半分を網羅しており、台湾とアジア南東部と近および遠オセアニアとマダガスカル島を含みます。オーストロネシア語族は明らかに台湾から拡大しており、それは、複数の言語の分枝が台湾でのみ見られる一方で、全ての非台湾諸語のオーストロネシア語族言語がマレー・ポリネシア語派という単一の分枝に属するからです。
台湾から5000~4000年前頃以降にフィリピンを通って南方にインドネシアへと人々が拡散し、西方にMSEAへと、東方にニューギニアおよびその近隣の諸島へと拡散し続けた、言語学と考古学と遺伝学(関連記事1および関連記事2)における強い兆候があります。この人口拡散は、混合した現代人および古代人のゲノムにより証明されているように(関連記事)、先住民集団を完全には置換しませんでした。これは人口拡散によるのうこうと言語の拡散の古典的ちょうこうですが、話はもっと複雑です。古代DNAは、オーストロネシア語族の拡大に先行する可能性が高いものの、それについて考古学的もしくは言語学的証拠がない、ワラセア(インドネシア東部の島々)におけるMSEA関連祖先系統をの存在を示唆します。
●オセアニアへの長距離航海
ISEAを通って近オセアニア(ニューギニアとその近隣の島々)へのオーストロネシア語族の移動は、洗練された漕艇技術を必要としないだろう、島伝いの公開と相互に見える渡航により達成された可能性が高そうですが、マラリア諸島から得られた古代DNAの証拠は、3500年前頃にさかのぼるフィリピンからの2000km以上の概要を横断する直接的移住を裏づけます(関連記事1および関連記事2)。オーストロネシア人はおそらく、ニューギニアの海岸に沿ってインドネシア東部から航海を続け、ビスマルク諸島に3400年前頃に到達しました。ニューギニアにおけるオーストロネシア関連祖先系統は沿岸部と沖合の島々に限られており、ニューギニア高地にオーストロネシア人が侵入した証拠はありません(関連記事)。
遠オセアニア(長距離航海でのみ到達可能なミクロネシアとポリネシアを含むニューギニアの北方と東方の島々)へのオーストロネシア人のさらなる拡大は、確実に洗練された漕艇技術が必要でした。オーストロネシア人は遠オセアニアの島々を通って急速に移動し、トンガとサモアに2900年前頃に到達し、最も遠い島々(ハワイとニュージーランド)には過去1000年以内に到達しました。現代の人口集団の初期の諸研究では、ポリネシア人は80%程度のオーストロネシア人関連祖先系統と20%程度のパプア人関連祖先系統を有している、と示唆されました。さらに、この混合はひじょうに性別の偏りがあり、おもにオーストロネシア人は母系の祖先系統ですが、パプア人はほぼ父系の祖先系統でした。
しかし、最初の古代DNA研究は驚くべきことに、2900~2500年前頃のバヌアツとトンガの個体群はパプア人関連祖先系統を殆ど若しくは全く有していない、と明らかにしました(関連記事)。その後の諸研究では、パプア人関連祖先系統がその後におもに男性を媒介した継続的な移住により拡大した、と示されました(関連記事)。他の研究はポリネシア(関連記事)およびヨーロッパ人との接触前に到来したアメリカ大陸先住民(関連記事)祖先系統からの逆移住を示唆しますが、後者は現代人の標本にのみ依拠しており、これまで古代DNAからの裏づけは得られていません。全体的に、遠オセアニアの植民は1回の、失敗の中の「宝籤」的成功という固定観念の代わりに、遺伝学的データは、近オセアニアとの繰り返しの接触を含む、遠オセアニア全域にわたる複数回の拡散と大規模な交易網考古学的証拠を裏づけます。
●マダガスカル島と海洋民
オーストロネシア人は太平洋の広大な場所に植民しただけではなく、1300~1100年前頃にマダガスカル島に到達した最初の人々でもありました【持続的な居住ではなかったかもしれませんが、マダガスカル島では1万年前頃と6000年前頃の人類の痕跡(関連記事)が報告されています】。さらに、マダガスカル語はボルネオ島南東部のボルネオ諸語とまとまり、ゲノム規模集団も、マダガスカル語祖語話者の起源はボルネオ島南東部の可能性が高く、アフリカ大陸から到来したバントゥー諸語話者と混合した、と示します(関連記事)。
興味深いことに、フィリピンとマレーシアとインドネシアの特定の集団により話されているサマ・バジャウ諸語は、同様にボルネオ諸語に属します。これらは、その舟に暮らしていた歴史と強い海洋志向のため海洋民と呼ばれる人口集団を含みます。サマ・バジャウ諸語とマダガスカル語の分布はそれぞれ、マレー・インド海上国家だったシュリーヴィジャヤ王国の1000年前頃の拡大が契機となった、ボルネオ島のバリト地域の人々の東方と西方への移動を反映しているかもしれません。対照的に、インドネシアの海洋民のゲノム規模研究はスラウェシ島起源を示唆しており、この地域における近隣集団間の相互作用と文化的変化の複雑な歴史に起因する、言語と遺伝的祖先系統の異なる起源があったかもしれない、と示唆されます。海洋民およびマダガスカル人との接触の可能性についていさらなる研究が必要ですが、これらは農耕とは関連していない長距離拡散だったようです。
●ニューギニア高地における農耕の拡大
ニューギニア高地は植物の栽培化の独立した初期の場所で、7000~6700年前頃までさかのぼるタロイモとバナナの栽培の明確な証拠と、早くも1万年前頃までさかのぼるタロイモの耕作の兆候があります。ニューギニアにおける農耕の拡大は、ニューギニア島で話される約850の言語のほぼ半分を構成するトランス・ニューギニア(TNG)語族の拡大が伴っていたかもしれません。パプアニューギニア(PNG)全域にわたるゲノム規模の差異の包括的研究は、農耕の影響とTNG諸語の拡大を反映しているかもしれない、高地の人口構造の形成と1万年前頃の拡大の証拠を見つけました。
しかし、PNG高地人は農耕関連拡散の強い証拠を伴う地域(たとえば、オーストロアジア語族話者もしくはバントゥー諸語話者人口集団を含みます)で典型的なものよりもずっと高水準の人口分化を示し、推定される農耕関連拡大が極端な孤立とボトルネック(瓶首効果)と浮動に続いたか、高地において顕著な拡大がなかった、と示唆されます。古代DNAデータは、現代のPNG人口集団(とくに、TNG集団に対する非TNG集団)の追加の比較と同様に、ニューギニアの遺伝的構造に対する農耕の影響のさらなる解明に役立つでしょう。
◎アメリカ大陸
南北のアメリカ大陸から構成されるアメリカ大陸は、現生人類により植民された最後の大陸で、最初の植民が18000~16000年前頃に収束する考古学的および遺伝学的証拠があります。現在の証拠は、数千年における太平洋海岸沿いのアラスカからチリ南部までの急速な緯度の拡大を示します(関連記事)。しかし、アメリカ大陸全域にわたる広範なヒト居住の考古学的証拠は、完新世にやっと始まります。植物はメソアメリカやアンデス地域やアマゾン地域(関連記事)のさまざまな場所で栽培化されましたが、主要な拡散事象は農耕もしくは他の技術的あるいは行動的革新とのみ関連していたわけではないようです。以下は、完新世のアメリカ大陸における人類の拡散を示した補足図5です。
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●北アメリカ大陸
考古学的証拠は、農耕が明らかに役割を果たさなかった、2つの主要な北極圏全体のヒトの拡散の存在を裏づけます。最初の拡散は5000年前頃に起きた古イヌイットの人々を含んでおり、先ドーセット(Pre-Dorset)やサカク(Saqqaq)やインデペンデンス1(Independence I)のようないくつかの文化と関連しています。4000年前頃に暮らしていた古イヌイットから得られたゲノムデータは、この個体がそれ以前の拡散とは無関係にシベリアからの人口拡散に由来し、現在のどのアメリカ大陸先住民人口集団とも関連していない、と示します(関連記事)。
古イヌイットは1500年前頃に考古学的記録から消滅し、現代のイヌイットおよびイヌピアト(Iñupiat)の遺伝的および文化的祖先であるチューレ(Thule)文化の人々に置換されました(関連記事)。チューレ文化の人々は1000年前頃までにアラスカ沿岸において考古学的記録に初めて現れ、犬ぞりとウミアク(大型の開けた獣皮を張った舟)の助けを得て、急速にグリーンランドに到達しました。チューレ文化個体群から得られたゲノム証拠は、チューレ文化個体群が他の北アメリカ大陸集団と広範に混合したことを示します(関連記事)。
●メソアメリカ
トウモロコシはアメリカ大陸において、ヨーロッパ人が到来した時には多くの社会で主食でした。考古学的証拠から、メキシコ南部から中央部における少なくとも8700年前頃の栽培化の後、トウモロコシは広範に拡大し、アメリカ合衆国南西部に4500年前頃までに、南アメリカ大陸沿岸には早くも7000年前頃に到達した、と示唆されます(関連記事)。しかし、トウモロコシ農耕がおもに文化拡散の過程としてメソアメリカから北方へと拡大したのかどうか、或いは、トウモロコシ農耕がアメリカ合衆国南西部にユト・アステカ語族祖語(Proto-Uto-Aztecan、略してPUA)を話すメソアメリカの農耕民の長距離移住を通じてもたらされたのかどうかについて、見解の相違があります。この見解の相違は、PUAの提案された故地、または、PUAが、南方へ拡散しながらトウモロコシ農耕を作用した北方の採食民なのか、あるいは代わりに北方へ拡大した初期の南方農耕民だったのかどうか、という点をめぐって展開しています。問題を複雑にするのは、一部の農耕集団が、農耕に適さない環境に拡大したため、採食に戻ったかもしれないことです。
遺伝学的研究はこれまで、これらのさまざまな見解を解決できず、それは、古代DNAの保存状態の悪さのため、遺伝学的研究が現代の人口集団にほぼ限定されているからです。現代の人口集団であっても、一部の現在のアメリカ大陸先住民集団のそうした研究に参加することへの尤もな嫌悪のため、顕著な標本抽出の間隙があります。メキシコの人口集団から得られたゲノム規模データのこれまでで最大の研究は、現在の集団の遺伝的構造が、人口統計学と文化と地理の事象により影響を受けてきた、と示します。たとえば、アリドアメリカ(つまり、メキシコ北西部とアメリカ合衆国南西部)とメソアメリカの人口集団間の分岐時間は9900~4000年前頃と推定されており、メソアメリカにおいて定住農耕が始まった頃です。しかし、ゲノム規模の多様性パターンと遺伝的構造は、言語学的帰属よりもむしろ地理の影響を反映しています。さらに、アリドアメリカとメソアメリカ全域にわたるミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の差異の対照的パターンは、男女の異なる人口史を示唆します。したがって、トウモロコシ農耕もしくはPUA語族の広がりと関連する遺伝的拡大の強い兆候はありません。
●南アメリカ大陸
南アメリカ大陸には、大きな文化的および言語学的多様性があり、広大な地理的領域に拡散したいくつかの語族が含まれ、つまりアンデス山脈沿いのケチュア語(Quechua)と、アマゾン低地全域にわたるアラワク(Arawakan)語族やトゥピ語(Tupian)やカリブ語(Cariban)です。しかし、これらの広範な拡散は、小さく局所的な語族の完全な置換につながらず、斑状的な言語学的景観をもたらしました。アンデス山脈とアマゾン地域は、10000~8500年前頃に始まった植物栽培化の重要な中心地と考えられていますが、その拡大と広範な南アメリカ大陸の語族の多様化は、やっと4000~1000年前頃に起きた、と推測されています。
したがって、初期農耕は主要な南アメリカ大陸の語族の大規模な拡散の原因ではありませんでした。植物の栽培化がヒトの食性の重要な割合を占めるまで数世紀を要しましたが、それは恐らく、人口拡大がさらなる技術革新と作物生産性の増加を必要としたからでしょう。気候変化もそうした拡散に影響を及ぼしたかもしれず、中期~後期完新世の移行期(4200年前頃)には、南アメリカ大陸は降雨量の増加を経て、熱帯雨林はサバンナを犠牲にして拡大しました。
遺伝学的研究はこれまで現代の人口集団のみに基づいており、一部の語族の拡散への洞察をいくつか提供し始めています。たとえば、アラワク語族はアメリカ大陸において最も広がった語族で、ヨーロッパ人の到来時には、アラワク語族は、中央アメリカ大陸、カリブ海諸島から南はアルゼンチン北部まで、アンデス山麓から東は南アメリカ大陸東部にまで存在しました。アラワク語族は伝統的に河川沿いの園芸民で、サラドイド・バランコイド(Saladoid-Barrancoid)土器伝統と関連しており、アマゾン地域とアンデス地域とカリブ海地域の広範な領域をつないだ交流網において中心的役割を果たしました。しかし、片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の研究からは、アマゾン地域北西部のアラワク語族集団は、より遠方のアラワク語族集団とよりも、近隣の非アラワク語族集団の方と密接に関連している、と示唆されており、遺伝学と言語学との間の関係の不一致が示唆されます。
同様に、トゥピ語族は南アメリカ大陸において言語学的に最も多様で、アラワク語族とほぼ同じくらい地理的に広がっています。その提案された故地はアマゾン地域南西部で、そこから東方と北方に拡大しました。しかし、アラワク語族と同様に、トゥピ語族集団は、より遠方のトゥピ語族集団とよりも、近隣の非トゥピ語族集団の方と遺伝的に密接です。同じことはアンデス地域の高地および低地のケチュア語話者についても当てはまりますが、この2地域のケチュア語集団間には遺伝的つながりもあります。
全体的に、アマゾン地域におけるアラワク語族とトゥピ語族の拡大と、近隣の東方の低地へのアンデス高地からのケチュア語の拡大は、文化拡散もしくは、元々の人口拡大の遺伝的兆候を消し去った、拡散してきた人々とその近隣集団との間の広範な最近の混合によるものだったようです。じっさい、異なる言語を話す集団間の広範な混合があり、ほとんどの南アメリカ大陸集団の強い父系的社会構造を反映している可能性が高そうです。現在の全体像は、ヨーロッパの植民地化の影響によりさらに複雑になっています。古代DNA研究は、拡大と混合の兆候の解明に多くの情報をもたらすでしょう。
◎まとめ
この簡潔な調査は、完新世のヒト拡散の複雑さを浮き彫りにします。拡大の強い遺伝的兆候は、農耕といくつかの語族の拡大をつなぐ(たとえば、バントゥー諸語やオーストロアジア語族)、と確認できるものの、ここでも、拡大する農耕民と先住の狩猟採集民との間の相互作用の結果には顕著な異質性があり、たとえば、一方には、バントゥー諸語話者集団の拡大によるマラウイとモザンビークにおける農耕前の集団の完全もしくはほぼ完全な置換があり、もう一方には、アフリカ南部におけるバントゥー諸語話者集団とコイサン諸語話者集団との間の広範な混合があります。
世界の他地域では、拡大と農耕との間のつながりはより希薄で(たとえばアメリカ大陸)、それは恐らく、広範な拡大後の混合もしくは他の複雑さのためでしょう。古代DNAの調査は、世界の一部におけるこれら複雑な要因のいくつかや、現代の人口集団の調査では検出されなかった拡大の特定を促進しており、とりわけ、IE語族をヨーロッパおよび/もしくはアジア南部と中央部にもたらしたかもしれない、草原地帯からの青銅器時代の移住の影響です。MSEAはとくに複雑な地域で、過去数千年の間に少なくとも5以上の異なる語族がMSEAへと拡大しました。これらの多様な語族が生き残り、拡散できたのはどのような状況だったのでしょうか?
世界の多くの地域における古代DNA解析はDNAの残存と関連する問題に妨げられていますが、さらなる技術的進歩が完新世の拡散への新たな洞察をもたらすだろう、と期待できます。一方で、現代の人口集団のより包括的な研究と、ゲノムデータの計算解析のさらなる発展が、有益でしょう。さらに、農耕と言語の拡大においてそうした多様な結果がある理由を理解するための、完新世の拡散の歴史の大きな複雑さの背景にある社会文化的状況の調査には、明らかな必要性があります。
参考文献:
Stoneking M. et al.(2023): Genomic perspectives on human dispersals during the Holocene. PNAS, 120, 4, e2209475119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2209475119
https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_12.html
2023/03/12 (Sun) 07:41:46
篠田謙一 古代ゲノム研究のおそるべき技術革新
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14052212
ヨーロッパ人の起源
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007381
インド・イラン語派やバルト・スラブ語派のアーリア人の Y染色体は R1a
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007379
ケルト人、バスク人やゲルマン系アーリア人の Y染色体は R1b
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007380
イエスのY染色体ハプログループは J2
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007464
ヨーロッパY-DNA遺伝子調査報告
3-1. Y-DNA調査によるヨーロッパ民族
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm
3-2. Y-DNA「I」 ノルマン度・バルカン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-2.htm
3-3. Y-DNA「R1b」 ケルト度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-3.htm
3-4. Y-DNA「R1a」 スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm
3-5. Y-DNA「N1c」 ウラル度・シベリア度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
3-6. Y-DNA「E1b1b」 ラテン度(地中海度) 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-6.htm
3-7. Y-DNA「J」 セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm
3-8. Y-DNA「G」 コーカサス度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-8.htm
15-4. アイスマンのY-DNAはスターリンと同じコーカサス遺伝子の「G2a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-4.htm
3-9. Y-DNA「T」 ジェファーソン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-9.htm
3-10. Y-DNA「Q」 異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm
1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm
1-15. コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-15.htm
1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm
1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-13.htm
1-17. 多民族国家 ロシアのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-17.htm
1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm
1-18. 多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm
1-16. 多民族国家 中国のY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm
2023/03/12 (Sun) 07:44:05
氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14008921
コーカソイドは人格障害者集団 中川隆
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/380.html
白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html
この戦闘民族やばすぎる。ゲルマン民族の謎!!
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14046224
アングロサクソンの文化
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007474
2023/03/12 (Sun) 07:46:00
太田博樹 _ 縄文人ゲノムから見た東ユーラシア人類集団の形成史
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14088967
コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14008392
ヨーロッパのフン族の祖先は古代モンゴルの匈奴でアーリア人だった
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007377
世界最初の農耕文明を作った長江人の末裔の現在
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14034569
日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14019324
2023/04/26 (Wed) 09:27:21
雑記帳
2023年04月26日
『イヴの七人の娘たち』の想い出とその後の研究の進展
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
2001年に刊行されたブライアン・サイクス(Bryan Clifford Sykes)氏の著書『イヴの七人の娘たち』は、このような一般向けの科学啓蒙書としては異例なほど世界的に売れたようで、私も購入して読みました(Sykes.,2001)。近年時々、『イヴの七人の娘たち』は日本でも一般向けの科学啓蒙書としてはかなり売れたようではあるものの、今となってはその見解はとてもそのまま通用しない、と考えることがあり、最近になって、そういえば著者のサイクス氏は今どうしているのだろう、と思って調べたところ、ウィキペディアのサイクス氏の記事によると、2020年12月10日に73歳で亡くなったそうです。まだ一般向けの啓蒙書を執筆しても不思議ではない年齢だけに、驚きました。
『イヴの七人の娘たち』などで提示されているサイクス氏の見解が今ではとても通用しないことはウィキペディアのサイクス氏の記事でも指摘されており、イギリス人の起源に関するサイクス氏の理論の多くはほぼ無効になった、とあります。もちろん、同書のミトコンドリアDNA(mtDNA)に関する基本的な解説の多くは今でも有効でしょうし、20世紀の研究史の解説は今でも有益だと思います。本書により、初期のDNA解析による人類進化研究の様相を、研究者間の人間関係とともに知ることができ、この点で読み物としても面白くなっています。
ただ、同書の主張の、現代ヨーロッパ人の遺伝子プールの母体を作り上げたのは旧石器時代の狩人で、新石器時代の農民の現代ヨーロッパ人への遺伝的寄与は1/5程度だった、との見解は今では無効になった、と確かに言えそうで、ヨーロッパのほとんどにおいて、狩猟採集民の遺伝的構成要素は新石器時代の拡大の結果としてヨーロッパ初期農耕民的な遺伝的構成要素にほぼ置換されました(Olalde, and Posth., 2020、関連記事)。ただ、新石器時代のヨーロッパにおいて、アナトリア半島起源の農耕民と在来の狩猟採集民が混合していったことも確かで、またその混合割合については時空間的にかなりの違いがあったようです(Arzelier et al., 2022、関連記事)。
また、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯からヨーロッパへ到来した集団も強い影響を及ぼした、と指摘した2015年の画期的研究(Haak et al., 2015、関連記事)で、現代ヨーロッパ人の核ゲノムに占める旧石器時代狩猟採集民の割合がかなり低い、と示されていました(Haak et al., 2015図3)。以下はHaak et al., 2015の図3です。
画像
もっとも、『イヴの七人の娘たち』が根拠としたのはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、これは時代的制約からも当然であり、サイクス氏の怠慢ではありません。ただ、そのmtHgについても、ヨーロッパ中央部では旧石器時代人のmtHgは現代人に20%程度しか継承されていない、と2013年の時点で推測されていました(Brandt et al., 2013)。以下は、後期中石器時代から現代までのヨーロッパ中央部のmtHg頻度の推移を示したBrandt et al., 2013の図3です。
画像
このように、『イヴの七人の娘たち』の見解が大きく間違っていたのは、当時はまだmtDNAでも解析された古代人の数は少なく、同書がほぼ現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)の分布頻度と推定分岐年代に依拠していたからです。やはり、現代人のmtDNA解析から古代人の分布や遺伝子構成を推測することは危険で、古代DNA研究の裏づけが必要になる、と改めて思います(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。もっとも、古代DNA研究がこれだけ進展した現在では、現代人のmtDNA解析結果だけで古代人の分布や遺伝子構成を推測する研究者はほぼ皆無だとは思いますが。
さらに、ヨーロッパ中央部については、mtDNA解析から、初期農耕民は在来の採集狩猟民の子孫ではなく移住者だった、との見解がすでに2009年の時点で提示されていましたが(Bramanti et al., 2009、関連記事)、私は間抜けなことに、『イヴの七人の娘たち』を根拠に、現代ヨーロッパ人と旧石器時代のヨーロッパ人との遺伝的連続性を指摘する論者との議論が注目される、と述べてしまいました。当時の私の主要な関心は現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などユーラシアの先住の非現生人類ホモ属との相互作用と、現生人類が多少の遺伝的影響を受けつつも非現生人類ホモ属をほぼ完全に置換した理由で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなく(関連記事)、ネアンデルタール人滅亡後のヨーロッパの人類史について最新の研究を追いかけようという意欲が低かったので、この程度の認識でした。
さらにBramanti et al., 2009を取り上げた『ナショナルジオグラフィック』の記事では、移住者と考えられる初期農耕民と先住の採集狩猟民だけでは現代ヨーロッパ人の遺伝的構成は説明できない、とも指摘されています。これは上記の、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯から到来した集団も関わっていたことを報告した2015年の画期的研究とも通ずるたいへん示唆的な指摘で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなかった当時の私でも、一応はブログで言及したくらいですが、その意味するところを深く考えていませんでした。見識と能力と関心が欠如していると、重要な示唆でも見逃したり受け流したりしてしまうものだ、と自戒せねばなりません。
また上記のサイクス氏のウィキペディアの記事によると、サイクス氏は2006年に刊行された著書で、イングランドにおけるアングロ・サクソン人の遺伝的寄与はイングランド南部でさえ20%未満だった、と推測したそうです。ただ、昨年(2022年)の研究(Gretzinger et al., 2022、関連記事)では、確かにイングランド南部ではヨーロッパ大陸部からの外来の遺伝的影響は低めであるものの、中央部および東部では高く、全体的には平均76±2%に達するので、アングロ・サクソン時代にはヨーロッパ大陸部からの人類の移住は多かった、と推測されました。その後イングランドでは、さらなる外来からの遺伝的影響があり、アングロ・サクソン時代の外来の遺伝的影響は低下したものの、イングランドの現代人の遺伝的構成は、イングランド後期鉄器時代集団的構成要素が11~57%、アングロ・サクソン時代の外来集団的構成要素が25~47%、フランス鉄器時代集団的構成要素が14~43%でモデル化できる、と指摘されています。
さらに言えば、イングランドでは、新石器時代の農耕民の遺伝的構成要素はアナトリア半島起源の初期農耕民(80%)と中石器時代ヨーロッパ狩猟採集民(20%)でモデル化でき、銅器時代~青銅器時代にかけて大規模な遺伝的置換があり(約90%が外来要素)、中期~後期青銅器時代にも大規模な移住があり、鉄器時代のイングランドとウェールズではその遺伝的影響が半分程度に達した、と推測されています(Patterson et al., 2022、関連記事)。このように、イングランドの人類集団では中石器時代以降、何度か置換に近いような遺伝的構成の変化があり、とても旧石器時代から現代までの人類集団の遺伝的連続性を主張できません。
ヨーロッパでは旧石器時代の人類のDNA解析も進んでおり、最近の研究(Posth et al., 2023、関連記事)からは、旧石器時代のヨーロッパにおいて人類集団の完全に近いような遺伝的置換がたびたび起きていた、と示唆されます。以前にまとめましたが(関連記事)、現生人類がアフリカから世界中に拡散した後で、絶滅も含めて置換は頻繁に起きていたと考えられるので、特定の地域における1万年以上前にわたる人類集団の遺伝的連続性を安易に前提としてはならない、と思います。そのまとめ記事でも述べましたが、これはネアンデルタール人など非現生人類ホモ属にも当てはまり、絶滅や置換は珍しくなかったようです。
参考文献:
Arzelier A. et al.(2022): Neolithic genomic data from southern France showcase intensified interactions with hunter-gatherer communities. iScience, 25, 11, 105387.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.105387
関連記事
Bramanti B. et al.(2009): Genetic Discontinuity Between Local Hunter-Gatherers and Central Europe’s First Farmers. Science, 326, 5949, 137-140.
https://doi.org/10.1126/science.1176869
関連記事
Brandt G. et al.(2013): Ancient DNA Reveals Key Stages in the Formation of Central European Mitochondrial Genetic Diversity. Science, 342, 6155, 257-261.
https://doi.org/10.1126/science.1241844
Gretzinger J. et al.(2022): The Anglo-Saxon migration and the formation of the early English gene pool. Nature, 610, 7930, 112–119.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05247-2
関連記事
Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021
関連記事
Patterson N. et al.(2022): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04287-4
関連記事
Posth C. et al.(2023): Palaeogenomics of Upper Palaeolithic to Neolithic European hunter-gatherers. Nature, 615, 7950, 117–126.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05726-0
関連記事
Schlebusch CM. et al.(2021) : Human origins in Southern African palaeo-wetlands? Strong claims from weak evidence. Journal of Archaeological Science, 130, 105374.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105374
関連記事
Sykes B.著(2001)、大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』(ソニー・マガジンズ社、原書の刊行は2001年)
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
2023/11/19 (Sun) 07:59:57
雑記帳
2023年11月18日
川幡穂高『気候変動と「日本人」20万年史』
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%97%E5%80%99%E5%A4%89%E5%8B%95%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%80%8D20%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E5%B7%9D%E5%B9%A1-%E7%A9%82%E9%AB%98/dp/4000615300
岩波書店より2022年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は気候変動の視点からの人類進化史で、近年飛躍的に発展した古代DNA研究の成果も多く取り入れられています。本書はまず、現在の有力説にしたがって、現代人の究極の起源地がアフリカにあることを指摘します。本書では、現生人類の起源は化石および分子生物の証拠から20万年前頃とされていますが、この年代はもっと古くなる可能性が高そうです(関連記事)。本書はさらにさかのぼって、霊長類系統の分岐、さらには類人猿(ヒト上科)系統における分岐に、環境変化が関わっていたことを指摘します。類人猿系統における人類系統の分岐の背景には、寒冷化による降雨量減少と、それによる樹木の散在する環境への変化がありました。なお本書では、人類の使用した最古の石器はホモ・ハビリス(Homo habilis)の出現前にさかのぼる、とされていますが、これをオルドワン(Oldowan)石器と同じとしているのは間違いで、330万年前頃となる最古の石器はオルドワンではありません(関連記事)。
現生人類のアフリカからレヴァントへの拡散について、本書は12万年前頃以降を取り上げていますが、それ以前にさかのぼる可能性は高そうです(関連記事)。また本書は、スフール(Skhul)遺跡やカフゼー(Qafzeh)遺跡で発見されたこれらレヴァントの初期現生人類(Homo sapiens)の遺伝子は現代ヨーロッパ人と異なっていた、と指摘しますが、スフールおよびカフゼー遺跡の現生人類遺骸のDNA解析にはまだ成功していないと思います。本書は、現代と比較して、この頃の地球全体の平均気温が1~2度、深層水の温度が0.4度高かった、と指摘します。12万年前頃の間氷期最盛期を過ぎると、気温はじょじょに低下し、8万年前頃には初夏の気温が2度ほど下がります。これにより、レヴァントから現生人類は追い払われ、南下してきたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が占拠した、と本書は推測しますが、レヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の相互作用については、今後の研究の進展を俟つべきかもしれません。74000年前頃となるトバ山大噴火が現生人類の人口を激減させた可能性は以前から指摘されており、本書でもこの見解が採用されていますが、現時点では説得力に欠けるように思います(関連記事)。
本書では、現生人類のほとんどは出現後約14万年間、誕生地周辺で生活していた、と想定されていますが、現在では、現生人類の起源地に関してアフリカの特定地域のみではなく全体を視野に入れねばならない、との見解の方が有力だと思いますし(関連記事)、最近の遺伝学的研究(関連記事)からも、出現後の現生人類集団が14万年間も誕生地周辺で生活していた可能性は低いように思います。本書は、アデン湾のアラビア半島付近の堆積物試料の分析から復元された過去216000年間の気候変動に基づいて、非アフリカ系現代人の共通祖先の出アフリカの頃が湿潤だったことを指摘します。他には、20万年前頃と13万~12万年前頃も湿潤で、それぞれ現生人類の誕生およびレヴァントへの拡散と対応している、と本書は指摘します。ただ、上述のように現生人類の出現はもっとさかのぼる可能性が高そうですし、レヴァントでは18万年前頃の現生人類の存在が確認されています(関連記事)。
現生人類のアフリカから世界各地への拡散については、出アフリカ現生人類の肌の色は当初、黒褐色だった、と本書では指摘されていますが、アフリカの現代人の肌の色は多様で、明るい色の肌と関連している遺伝的多様体の中には100万年前頃に出現したと考えられているものもあるので(関連記事)、出アフリカ時点での現生人類集団の肌の色についてはまだ断定できないように思います。本書では出アフリカの拡散経路として、ユーラシア南岸とヒマラヤ山脈の南北の3通りが提示されており、ユーラシア南岸もしくはヒマラヤ山脈の南側の経路の現生人類の最古級の痕跡は37000年前頃とされていますが、今年になってラオスで発見された現生人類遺骸は6万年以上前にさかのぼる、と報告されています(関連記事)。
本書では、日本列島における人類最古の痕跡は島根県出雲市の砂原遺跡の12万年前頃の石器とされており、4万年以上前の人類の痕跡として岩手県遠野市の金取遺跡も挙げられており、その担い手は非現生人類ホモ属だろう、と指摘されています。ただ、砂原遺跡の石器についてはそもそも石器なのか、考古学者の間で議論になっていますし、金取遺跡の石器群は本物の石器のようですが、9万年前頃までさかのぼるとしても、その担い手が現生人類である可能性も考えられます(関連記事)。本書は、9万年前頃には現生人類はまだ出アフリカを果たしていなかった、と指摘しますが、それはあくまでも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカで、非アフリカ系現代人と遺伝的にほとんど若しくは全くつながっていない現生人類集団が7万年以上前にアフリカからユーラシアに拡散した可能性は、上述のラオスの事例からも否定できないでしょう。
日本列島への現生人類の拡散経路としては、本書では北海道と対馬と沖縄の3通りが挙げられており、主要かつ最古の経路としては、遺跡の年代および場所と海路の距離から対馬と推測されています。縄文時代について本書では、その開始は土器出現(16500年前頃)以降、その終焉は2900年前頃とされています。本書は、調理および保存の点で土器の画期性を強調します。現生人類拡散後の日本列島の気候変動については、北部では一般的な最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりもやや遅く、16500年前頃が最寒期と推定されています。この点も含めて、著者の専門分野と関わってくる気候変動の再構築に関して、本書から有益な知見が多く得られます。この日本列島北部の最寒期の前後において、ナウマンゾウが23000~20000年前頃までに、マンモスが16000年前頃までに絶滅します。本書は、これら大型動物が温暖化により絶滅したわけではないとしても、当時の低人口密度では人類による狩猟が原因の絶滅とも考えにくく、絶滅原因は謎としています。
日本列島はこの最寒期の後に温暖化を迎え、陸上生態系も大きく変わり、日本列島全体を覆っていた亜寒帯針葉樹林から、西日本~関東にかけては温暖帯常緑広葉樹林が、西日本の内陸~中部および東北にかけては温帯落葉広葉樹林が広がります。なお本書では、現代日本人で見られるY染色体ハプログループ(YHg)D1a2aが縄文時代からずっと日本列島に存在した、と想定していますが、その一定の割合が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定すべきである、と私は考えています(関連記事)。縄文時代には8200年前頃となる完新世で最大の寒冷化が起き、これは短期間(150~160年間)だったものの、地球規模と確認されています。本書では縄文時代の遺跡として有名な三内丸山は本書で大きく取り上げられており、その放棄が4200年前頃の2.0度ほどの気温低下をもたらした寒冷化と対応していることも指摘されています。この寒冷化の原因は、夏季アジアモンスーンの変調によりジェット気流の中心軸が南下し、南の温暖で湿潤な大気が日本列島北部まで北上できなかったことにある、と本書は推測します。平均気温2.0度の差は、緯度方向では約230km、標高では300mほどの違いに相当し、三内丸山での食料確保が難しくなったのではないか、と本書は推測します。ただ、遺跡の数に基づく近年の研究では、当時の人々が周辺地域に分散しただけで、人口が急減したわけではない、と指摘されているそうです。
本書は、現代日本人の主要な祖先集団が縄文時代にはユーラシア大陸部に存在したことから、現在の中国を中心にユーラシア大陸部の気候変動も取り上げています。これと関連して、イネの遺伝子解析から日本の水稲が朝鮮半島より中国の系統に近いことや、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と日本列島も含めてアジア東部の現代人で優勢なYHg-Oの人々にデニソワ人の遺伝的痕跡がほとんど見られないことから、YHg-Oの祖先集団はデニソワ人とは別の場所に存在した、と本書では述べられていますが、かなり問題があると思います。日本のイネがどこからもたらされたのかは、紀元前の日本列島と朝鮮半島のイネの遺伝的多様性が現在よりもずっと高かったことから、時空間的に広範囲の古代のイネのDNAを解析する必要がありますし(関連記事)、アジア東部現代人には現代パプア人よりずっと少ないとはいえ明確にデニソワ人との混合が認められ、それはパプア人の祖先と混合したデニソワ人集団とは異なるデニソワ人集団に由来する、と推測されているからです(関連記事)。
縄文時代晩期以降に日本列島にもたらされた稲作文化の究極的な起源地である長江下流域では、4200年前頃に良渚文化が崩壊しますが、これは急激な大寒冷化に起因していたようです。数百年間程度の空白を経て同じ地域に出現した馬橋文化については、稲作農耕技術が良渚文化より劣り、狩猟と漁撈の比重が高まったことから、良渚文化の担い手とは異なる集団が他地域から移住してきて築いた、と本書は推測しますが、これに関しては今後古代ゲノム研究の裏づけが必要になると思いますし、そもそも寒冷化に良渚文化の担い手が対応したことも想定できるでしょう。上述の三内丸山遺跡の放棄とともに、4200年前頃の世界的な気候変動と主要な文化の衰退・崩壊が現在注目されているそうです。この世界的な気候変動とともに、現在の中国では4000年前頃には全土の53%が森林だったのに対して、3000年前頃には森林の被覆度は25%程度に減少し、その後もますます低下していったそうです。なお、本書では夏から殷(商)への「王朝交代」は禅譲と伝えられてきた、とありますが、恐らくこれは夏以前の伝承と混同しており、文献では夏が殷により武力で倒されたとあります。
日本列島への稲作到来の契機として本書が指摘するのは、紀元前1050~紀元前400年頃にかけての寒冷継続期で、温度は約0.7度低下したそうです。ただ、本書が指摘するように、日本列島における水稲栽培やそれと関連した文化の伝播は、時空間的差異が大きいようです。本書では、プラント・オパール分析を根拠に、イネ自体は縄文時代中期から存在した、とされていますが、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が現在では有力だと思います(関連記事)。本書は稲作の到来とともに、長江から北方に逃れた人々が日本列島に到来した可能性を指摘しますが、その根拠はYHgで、確かに長江流域集団が北進して日本列島に到来した可能性はあるものの、そうだとしても、古代ゲノム研究の進展を踏まえると、その遺伝的影響は小さいようです(関連記事)。
古墳時代について本書では、かつての寒冷期説とは異なり、比較的温暖だった、と指摘されています。この古墳時代が終焉する6世紀末~7世紀前半にかけては、小規模な寒冷期だったようです。唐王朝の衰退は乾燥化の進展と関連づけられていますが、これも世界規模での温暖・乾燥化の一環だった、と本書では指摘されています。本書は同時代の文献が残る時代の日本列島も対象としていますが、平城京において前代の飛鳥時代とは異なり鉛や銅による重金属汚染が起きていた、と著者たちの土壌分析により明らかになったそうで、長岡京や平安京への遷都は都市汚染も一因だったのではないか、と本書は推測します。奈良盆地の地形勾配は緩やかで排水が悪く、汚物の処理に人々は苦慮していた、というわけです。日本列島では820~1150年にかけて寒冷化していき、ヨーロッパにおける950~1250年頃の温暖化とは対照的だったようです。ユーラシア大陸部では、13世紀前半の温暖化がモンゴル帝国の勢力拡大をもたらしたようです。日本列島では、14~16世紀に寒冷化の中で農業技術や集落形態の変容などにより農業生産が増加した、と指摘されています。
参考文献:
川幡穂高(2022)『気候変動と「日本人」20万年史』 (岩波書店)
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_18.html
2023/12/11 (Mon) 14:28:59
ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ&t=120s
古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
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交雑する人類 古代DNAが解き明かす 新サピエンス史
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2025/01/25 (Sat) 22:08:36
白人の金髪や青い目、白い肌は古代北ユーラシア人が起源だった
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16888887
ゲノム革命で明らかになる人類の移動と混血の歴史(ヨーロッパ人の起源&アメリカ先住民の起源) - YouTube
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
https://www.youtube.com/playlist?list=PLCFG6UvfbQfmuxgnoEeSvAbii1WEnJh0F
白人はどこからやってきたのか?金髪や青い目、白い肌の起源とは?初期のヨーロッパ人は肌が黒かった!?
History hub 2024/12/07
https://www.youtube.com/watch?v=ivPu9VkYx9I
この動画では、白人(コーカソイド)の起源と特徴について、進化、遺伝、歴史的背景の視点から解説しています。現代人類はアフリカを出発点とし、ヨーロッパや中東などの環境に適応して進化しました。特に寒冷地適応として、通った鼻や堀の深い顔立ち、白い肌が発達しました。また、中央アジアのヤムナ文化の遊牧民がヨーロッパに与えた遺伝的・文化的影響も大きく、現代の「白人」像の形成に寄与しました。一方、「白人」という概念は18世紀に社会的に作られたもので、科学的には人類は99.9%同じ遺伝子を共有しています。この歴史を通じ、人類全体のつながりと多様性を再認識する内容となっています。
▼チャプター
00:00 イントロ
00:42 第一章:人類の出発点-アフリカ
03:37 第二章:ヨーロッパと中東、中央アジアの古代人類
09:19 第三章:金髪や青い目の起源と広まった理由
14:50 第四章:白人という概念の変遷
17:00 まとめ
古代北ユーラシア人はなぜヨーロッパ人やネイティブ・アメリカンの共通の祖先なのか?金髪や青い目の遺伝子を持っていた!?
History hub 2024/12/13
https://www.youtube.com/watch?v=0arTSD7NBsI
この動画では、約2万年以上前の氷河期にシベリアやロシアで生活していた「古代北ユーラシア人」について解説します。彼らはマンモスやトナカイを狩り、石器を使いこなして寒冷な環境を生き抜いた、驚くべき技術と適応力を持つ古代人です。しかし、彼らは氷河期の終わりに姿を消しました。その原因として、気候の変化や食料の減少、他の人類グループとの混血や競争、さらには自然災害などが挙げられます。DNA分析から、彼らの遺伝子が現代のネイティブアメリカンやヨーロッパ人に引き継がれていることも判明。彼らの生き様は、現代人にも多くのヒントを与えてくれます。
▼チャプター
00:00 イントロ
01:06 第一章:古代北ユーラアシア人とは?
03:06 第二章:どこから来た?
06:27 第三章:彼らの移動と遺伝的影響
10:22 第四章:消えた古代人、その謎
13:33 まとめ
2025/11/09 (Sun) 09:34:05
雑記帳 2025年11月09日
人類進化史概略
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
人類進化に関する英語論文を日本語に訳してブログに掲載するだけではなく、これまでに得た知見をまとめ、独自の記事を掲載しよう、と昨年(2024年)後半から考えていますが、最新の研究を追いかけるのが精一杯で、独自の記事をほとんど執筆できておらず、そもそも最新の研究にしてもごく一部しか読めていません。現在の私の知見ではまだ「入力」が足りないことはとても否定できませんが、そう言っていると、一生「入力」だけで終わってしまいますし、時々「出力」というか整理することで、今後の「入力」がより効率的になっていくのではないか、とも思います。そこで、多少なりとも状況を改善しようと考えて思ったのは、ある程度まとまった長い記事を執筆しようとすると、怠惰な性分なので気力が湧かないため、思いつき程度の短い記事でも少しずつ執筆していくことですが、まだわずかしか執筆できておらず、ほとんど状況を改善できていません。この状況から脱するために、今回まず、人類史における画期というか時代区分を意識して、人類進化史の現時点での私見を短く述べることにしました。この記事で提示した各論点について、さらに整理して当ブログに掲載していくつもりですが、怠惰な性分なのでどこまで実行できるのか、自信はまったくありません。
●最初期の人類
当ブログでは「人類」という用語をずっと使ってきましたが、この用語については、チンパンジー属系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統を、漠然と想定してきました。人類進化史について述べていくには、この点をある程度明確に定義する必要があるとは思いますが、現時点の私の知見では漠然と想定した以上の確たる定義はできません。当ブログでは、分類学的にはヒト亜族(Hominina)とほぼ同義のつもりで「人類」を用いてきましたが、これが適切な用法なのか、確信はありません。ただ、現時点の私の知見ではこれ以上の妙案がすぐには思い浮かばないので、少なくとも当面は、ゴリラ属(Gorilla)系統、さらにはその後にチンパンジー属(Pan)系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統として、「人類」を用いることにします。
直立二足歩行の最古級のヒト科(Hominidae、現生のホモ属とチンパンジー属とゴリラ属の系統)候補として、チャドで発見された704万±18万年前頃(Lebatard et al.,2008)のサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)と600万年前頃のオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)が指摘されており、一般的にサヘラントロプス属とオロリン属は最古級の人類系統と考えられているように思います(荻原.,2021)。ただ、移動形態と分子生物学的観点からは、サヘラントロプス属とオロリン属を最古級の人類系統と分類するのに慎重であるべきとは思います。
現生のチンパンジー属とゴリラ属の移動形態はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)ですが、これについては収斂進化の可能性が指摘されています(Morimoto et al., 2018)。つまり、ゴリラ属の祖先とチンパンジー属および現生人類(Homo sapiens)の共通祖先が分岐したならば、人類系統も当初はナックル歩行だった、と考えるのがより節約的ですが、現生のチンパンジー属とゴリラ属のナックル歩行が収斂進化だとすると、最初期人類の移動形態がナックル歩行だったとは限らないわけです。そのため、ヒト科において二足歩行は地上に下りてからではなく樹上で始まり、人類の二足歩行は新たな環境における旧来の移動方法の延長上にあった、とも指摘されています(DeSilva., 2022)。
ヒト科において、比率に系統間で差はあっても、四足歩行と二足歩行の併存が一般的だったとすると、中新世のヒト科でやや二足歩行に傾いた人類以外の系統が存在したとしても不思議ではありません。類人猿の完全なゲノム配列を報告した研究(Yoo et al., 2025)では、チンパンジー属系統と現代人系統の分岐が630万~550万年前頃と推定されています。この推定分岐年代は、サヘラントロプス・チャデンシスの推定年代より新しく、オロリン・トゥゲネンシスの推定年代と重なります。チンパンジー属系統と現代人系統の分岐については、分岐してから一定の期間の交雑も想定すると、年代の推定に難しいところもありますが、700万年前頃以降の形態学的に二足歩行が補足されるヒト科化石でも、人類系統とは限らない可能性を今後も想定しておくべきとは思います。
確実に人類系統と思われる最古級の化石はアルディピテクス属(Ardipithecus)で、多数の化石が見つかっていることから詳細に研究されている440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の移動形態は確実に二足歩行と考えられているものの、樹上生活に適応的な形質も見られ、それはアルディピテクス属以降に出現したアウストラロピテクス属(Australopithecus)でも同様です(荻原.,2021)。人類系統は、四足歩行を基本としつつ、時には二足歩行で移動するような、ヒト科の祖先的移動形態から二足歩行への比重を高めつつ、アルディピテクス属でもその後のアウストラロピテクス属でも、完全に地上での二足歩行に適応していたわけではなく、樹上生活に適応的な形質も保持していた、と考えられます。
●人類の多様化と地理的拡大と石器の使用
440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス以前の人類系統についてはよく分かりませんが、それ以降は次第に解明されつつあります。420万年前頃以降にはアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)が確認され、その後には詳細に形態が研究されてきたアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)が出現します。400万~300万年前頃の人類については、ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)やアウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)やアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus、Granger et al., 2015)やアウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda、Haile-Selassie et al., 2015)などといった種区分が提唱されており、さらにはアウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・アファレンシスが一時的に共存していた可能性も指摘されています(Haile-Selassie et al., 2019)。アルディピテクス・ラミダスと最古級のアウストラロピテクス属との年代の近さからも、アルディピテクス・ラミダスがアウストラロピテクス属の直接的祖先である可能性は低そうですが、アウストラロピテクス属とアルディピテクス・ラミダスの最終共通祖先が500万年前頃に存在した可能性もあるとは思います。
かつて、400万~300万年前頃の人類は(アウストラロピテクス・アナメンシスとそこから進化した)アウストラロピテクス・アファレンシスだけとも言われていましたが(Gibbons., 2024)、現在でも、これらの400万~300万年前頃の人類化石が、同じ種内の形態的多様性を表している可能性は否定できないように思います。その意味では、400万~300万年前頃の人類はアウストラロピテクス属、さらにはその中の1種(アウストラロピテクス・アファレンシス)のみに分類されるにしても、属の水準で複数の系統が存在していたにしても、まだ多様化が進んでいなかった、とも言えるかもしれませんが、アウストラロピテクス・アファレンシスの一部の化石を除いて、ほぼ断片的な証拠とはいえ、アウストラロピテクス・アファレンシスとの違いを指摘される化石がそれなりに発見されてきたわけですし、今後の発見も考えると、現時点では400万~300万年前頃の人類の多様性が過小評価されている可能性は高いように思います。
人類の多様化が化石記録において明確に見られるのは、300万年前頃以降です。大きな傾向としては、400万~300万年前頃にはアウストラロピテクス属のみ若しくは類似した系統しか存在していなかったのに対して、300万年前頃以降の人類には、より頑丈な系統であるパラントロプス属(Paranthropus)と、より華奢で脳容量の増加した系統であるホモ属が出現します。パラントロプス属は、アフリカ東部の270万~230万年前頃となるパラントロプス・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)および230万~140万年前頃となるパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)と、アフリカ南部の180万~100万年前頃となるパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されており(Lewin.,2002,P123)、100万年前頃までには絶滅した、と推測されています(河野.,2021)。
ただ、パラントロプス属がクレード(単系統群)を形成するのか、疑問も呈されており(河野.,2021)、つまりは、アフリカ東部において、先行するアウストラロピテクス属種からパラントロプス・エチオピクスとされる系統が、さらにそこからパラントロプス・ボイセイとされる系統が派生したのに対して、アフリカ南部では、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)からパラントロプス・ロブストスとされる系統が進化したのではないか、というわけです。そうだとすると、パラントロプス属という分類は成立せず、パラントロプス属とされる3種はすべてアウストラロピテクス属に分類するのが妥当と思われます。
こうした300万年前頃以降の人類の多様化の背景には、森林の多い環境から草原の多いより開けた環境への変化(Robinson et al., 2017)というよりも、それ以前と比較しての気候変動の激化が推測されています(Antón et al., 2014、Joannes-Boyau et al., 2019)。気候変動の激化によって環境が不安定になり、さまざまな進化的対応の結果としての多様化だったのではないか、というわけです。ホモ属において脳容量が増加した理由として、個体間競争や集団間競争よりも生態学的課題を重視する見解(González-Forero, and Gardner., 2018)も提示されています。一方で、初期ホモ属の脳容量増加が体格の大型化とある程度は連動していた側面も否定できません(Püschel et al., 2024)。初期ホモ属の体格は多様で、170万年以上前には推定身長152.4cm以上の個体は稀だった、との指摘(Will, and Stock., 2015)もあり、じっさい、推定脳容量の平均について、アウストラロピテクス属が480cm³程度(現生チンパンジー属よりやや大きい程度)、最初期の明確なホモ属である180万~100万年前頃のホモ・エルガスター(Homo ergaster)が760cm³程度、100万年前頃以降の後期ホモ・エレクトス(Homo erectus)が930cm³程度なのに対して(Dunbar.,2016,P135)、200万年前頃の最初期ホモ属の成体時の脳容量は551~668cm³程度と推定されています(Herries et al., 2020)。
ホモ属がどのように出現したのか、まだはっきりとしませんが、現時点では、ホモ属のような派生的特徴を有する最古の化石は、エチオピアで発見された280万~275万年前頃の左側下顎ですが、アウストラロピテクス属のような祖先的特徴も見られます(Villmoare et al., 2015)。おそらくホモ属は、アウストラロピテクス属的な人類から進化したのでしょう。ただ、南アフリカ共和国で発見されたアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)にも、ホモ属のような派生的特徴とウストラロピテクス属のような祖先的特徴が混在しており(河野.,2021)、ホモ属の出現が280万年前頃までさかのぼる、と直ちに断定はできませんが、300万年前頃以降にホモ属的特徴が出現し始めて、異なる人類系統の複雑な混合の過程を経て、200万年前頃までにはホモ属が出現したのではないか、と私は考えています。後述のように、この多様な人類系統の共存状態(とくに人類がアフリカからユーラシアへと広く拡散した後は、異なる系統間の接触機会は少なかったとしても)は、現生人類の世界規模の拡散まで続きます。
石器の製作は人類史において画期とされており、脳容量の増加したホモ属によって石器が製作され始めた、と考えると話がきれいにまとまりますが、実際はもっと複雑だったようです。ホモ属によって広く使用され、その後の石器の起源となった最古の石器は、長くオルドワン(Oldowan)と考えられていました。オルドワン石器の最古級の年代は以前には260万年前頃と考えられており、ホモ属の化石の最古級の記録と近い年代ですが、現在ではアフリカ東部において300万年前頃までさかのぼることが知られています(Plummer et al., 2023)。さらに、オルドワン石器の前となる330万年前頃の石器がケニアで発見され、ロメクウィアン(Lomekwian)と呼ばれていますが、オルドワンとの技術的関係はまだ確認されていません。
300万年以上前となる、ホモ属のような派生的特徴を有する人類化石も、最初期ホモ属並の脳容量の人類もまだ発見されていませんから(今後、見つかる可能性が皆無とは言えませんが)、石器技術の始まりは脳容量の増加と関連していないようです。現生チンパンジー(Pan troglodytes)が野生で道具を使用していることから、人類系統も最初期から道具を使用していた可能性は高そうで、ホモ属よりも前に道具を明確に製作するようになり、石器も製作し始めたのではないか、と私は考えています。パラントロプス属がオルドワン石器を製作していた可能性も指摘されており(Plummer et al., 2023)、アウストラロピテクス属が持続的ではないものの散発的に石器を製作し、そうした試みのなかの一つがオルドワン石器につながり、人類系統で広く定着したのではないか、と私は推測しています。オルドワン石器よりさらに複雑なアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)石器の年代は、エチオピア高地において195万年前頃までさかのぼります(Mussi et al., 2023)。
石器製作の開始と脳容量増加とは関連していませんでしたが、人類の最初の出アフリカも脳容量増加、さらには体格の大型化と関連していなかった可能性が高そうです。現時点で、300万年以上前となる人類系統(とほぼ確実に考えられる)の痕跡(化石や石器や解体痕のある非ヒト動物の骨など)はアフリカでしか発見されておらず、アフリカ外の最古級の人類の痕跡は250万年前頃のレヴァントまでさかのぼり(Scardia et al., 2019)、中国では212万年前頃(Zhu et al., 2018)、ヨーロッパでは195万年前頃(Curran et al., 2025)までさかのぼります。人類は250万年前頃以降、アフリカからユーラシアへと拡散し、200万年前頃までには、どれだけ持続的だったかは分からないものの、ユーラシアの広範な地域に少なくとも一度は定着していた可能性が高そうです。この人類の出アフリカは、脳容量の増大や体格の大型化を前提とはしなかったようですが、石器技術が定着した後にはなります。ただ、人類の出アフリカに石器が必須だったのかどうかは、まだ断定できません。
この人類の最初の出アフリカと強く関連していたかもしれないのは、地上での直立二足歩行(および長距離歩行)により特化したことです。投擲能力を向上させるような形態は、すでにアウストラロピテクス属において一部が見られるものの、現代人のように一括して備わるのはホモ・エレクトス以降で(Roach et al., 2013)、おそらく投擲能力の向上は、直立二足歩行への特化および木登り能力の低下と相殺(トレードオフ、交換)の関係にあったのでしょう(Wong., 2014)。人類は投擲能力の向上によって捕食者を追い払うことができ、それは死肉漁りにも役立った、と思われます。250万~210万年前頃までの、アフリカからユーラシアへと拡散した人類は現代人のような直立二足歩行能力と投擲能力を完全には備えていなかったかもしれませんが、この点でアウストラロピテクス属よりずっと優れており、それが出アフリカを可能にしたのではないか、と私は考えています。投擲能力が人類のユーラシアへの拡散に重要な役割を果たした確実な根拠はありませんが、170万年以上前の初期ホモ属遺骸と石器が発見されているジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡において、峡谷の入口で大量の石が発見されており、この初期ホモ属が非ヒト動物に投石したか、投石によって動物を狩っていた可能性が指摘されていること(Gibbons., 2017)は、人類のユーラシアへの初期拡散における投擲能力の重要性の傍証となるかもしれません。
●60万年前頃:脳容量増加と火の使用と石器技術の複雑化
人類の脳容量はホモ属の出現以後に増加していきますが、100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境に急激に増加しているように見えます(Püschel et al., 2024)。100万年前頃以降のホモ属の平均的な推定脳容量は、分類に問題のあるホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の1170 cm³はさておくとしても、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)では1320cm³、現生人類では1370cm³です(Dunbar.,2016,P174)。ただ最近の研究では、種間の脳容量の差は体重と強く相関しているものの、種内では体重との相関が弱く、経時的に増加しており、つまり脳容量増加は種内では時間と強く相関していて、断続平衡的見解で想定されるような短期間の増加と長期の安定ではなかった、と示されています(Püschel et al., 2024)。
ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間は、複雑な遺伝子流動が推測されており、分岐年代も単純には推定できないでしょうが、最近の遺伝学的研究では60万年前頃とされています(Li et al., 2024)。形態学的研究では、現生人類系統および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統の共通祖先とネアンデルタール人系統の祖先との分岐が138万年前頃と推定されており(Feng et al., 2025)、この推定年代は現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係も含めて分子生物学的知見と大きく異なるので、現時点では有力説とは認めがたいものの、現生人類系統とネアンデルタール人(およびデニソワ人?)系統において、独自に脳容量の増加が起きた可能性は高そうです。
この100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境とする脳容量増加との関連で注目されるのが、石器技術が60万年前頃を境に急速に複雑化していったことです(Paige, and Perreault., 2024)。60万年前頃以降、文化は真に累積的になり(Paige, and Perreault., 2024)、それは現生人類系統やネアンデルタール人系統での脳容量増加と相関していたかもしれません。40万年前頃以降には、火の使用が考古学的に明確に可視化されるようになり、ホモ属集団間の相互作用の活発化が示唆されています(MacDonald et al., 2021)。火の使用の考古学的痕跡がずっと明確になる年代は60万年前頃よりも遅いわけですが、脳容量増加と石器技術の複雑化の相関が、集団間の相互作用の活発化につながったのならば、ホモ属の進化史における一連の重要な変化と言えるかもしれません。ただ、60万年前頃から現生人類の世界規模の拡散までの間は、100万年以上前と比較して、人類がユーラシアのより高緯度に進出した可能性は高そうですが、その拡散範囲が大きく広がったわけではなさそうです。
●現生人類の出現と拡散
現生人類の唯一の起源地がアフリカであること(現生人類アフリカ単一起源説)は、今では広く受け入れられています(Bergström et al., 2021)。現生人類もしくは解剖学的現代人と分類される30万年前頃以降のホモ属化石がアフリカで発見されてきましたが、現生人類の形成過程はネアンデルタール人系統との分岐も含めてかなり複雑だった可能性があり(Ragsdale et al., 2023)、その出現時期を特定するのは今後も困難かもしれません。現生人類の出現が人類史における画期だったことは間違いなく、それは、少なくとも過去300万年間の大半の期間において複数系統の人類が存在していたのに、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属から現生人類への多少の遺伝子流動(Tagore, and Akey., 2025)はあっても、非現生人類ホモ属は今では絶滅しており(非ホモ属人類は、上述のパラントロプス属を最後に、100万年前頃までに絶滅した、と考えられます)、その全てではないとしても、複数の非現生人類ホモ属系統が現生人類の影響によって絶滅した、と考えられるからです。
ヨーロッパの大半においては、ネアンデルタール人の痕跡は4万年前頃までに消滅し、それは現生人類のヨーロッパへの拡散後のことです(Higham et al., 2014)。ユーラシア東部には多様な非現生人類ホモ属が存在しましたが、たとえばホモ・フロレシエンシスの痕跡は5万年前頃以降には見つかっておらず(Sawafuji et al., 2024)、これは現生人類の拡散と関連している可能性が低くないでしょう。チベット高原では、デニソワ人が32000年前頃まで生存していた可能性が指摘されており、これは現生人類のチベット高原の拡散より後だった可能性が高そうです(Xia et al., 2024)。もちろん、現生人類の拡散がネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅要因だったことを直接的に証明するのは困難ですし、現生人類とは関係なく絶滅した非現生人類ホモ属もいるでしょうが、たとえばネアンデルタール人は数十万年もヨーロッパに存在し、もちろん局所的に集団が絶滅することは珍しくなかったとしても、ネアンデルタール人系統としては度々の気候寒冷化にも耐えて生き残ってきたわけで、ネアンデルタール人絶滅の究極的要因は現生人類と断定しても大過ないと考えています。
非現生人類ホモ属や非ヒト動物の絶滅に現生人類の世界規模の拡散が大きな影響を及ぼした可能性は高そうですが、注目すべきは、現生人類が5万年以上前に非現生人類ホモ属に決定的な負の影響を及ぼした痕跡はまだ確認されていないことです。その意味では、現生人類の出現以上に、非アフリカ系現代人全員の主要な祖先集団の5万年前頃以降の世界規模の拡散の方を重視すべきと考えています。上述のように、初期現生人類と分類されている化石はアフリカにおいて発見されており、30万年前頃までさかのぼりますが、そこから5万年前頃までにはかなりの時間差があります。そこで、5万年前頃に現生人類の神経系にかかわる遺伝子に突然変異が起き、現代人と変わらないような知的能力を有した結果、現生人類が発達した文化を開発し、先住の非現生人類ホモ属に対して優位に立って、世界各地に短期間に進出した、といった仮説(Klein, and Edgar.,2004,P21-28,P258-262)も提示されましたが(創造の爆発説)、考古学的にはこの仮説は支持されておらず(Scerri, and Will., 2023)、遺伝学的にも、現代人の各地域集団の分岐は5万年前頃よりずっと古そうなので(Ragsdale et al., 2023)、創造の爆発説は妥当ではないでしょう。
では、現生人類が非現生人類ホモ属を絶滅に追いやった原因は何かというと、現生人類が非現生人類ホモ属に対して認知能力の点で優位に立ち、それが技術面では弓矢などの飛び道具、社会面では他集団との関係強化につながり、ネアンデルタール人が現生人類との競合に敗れて絶滅した、との見解が有力なように思います。ただ、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の絶滅について以前まとめたので(関連記事)、この記事では詳しく繰り返しませんし、参考文献を省略しますが、ヨーロッパの45000年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人がヨーロッパの大半で消滅した4万年前頃以降には、遺伝的影響が大きく低下したかすでに絶滅しており、弓矢を有していたと思われる5万年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人との競合に敗れて絶滅したか撤退したようです。世界中に拡散した非アフリカ系現代人の主要な出アフリカ祖先集団に属しており、ヨーロッパで一時は広く拡散していた可能性のある現生人類集団(少なくとも現在のチェコとドイツに分布していました)でさえ、ネアンデルタール人の痕跡がほぼ消滅した頃にはおそらく絶滅していたことを考えると、現生人類の繁栄とネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅を、飛び道具の有無など単一もしくは少数の要因、さらにはその背景として認知能力の違いに単純に求めるのには、慎重であるべきと考えています。もちろん、非現生人類ホモ属と現生人類との間に認知能力の違いがあった可能性は高いでしょうし、それが非現生人類ホモ属の絶滅に関わっている可能性は低くないと思いますが、その具体的経緯については、まだ不明なところが多分にあると言うべきでしょう。
非現生人類ホモ属の絶滅後には、温暖な完新世において植物の栽培化(農耕)と動物の家畜化が進み(イヌの家畜化は他の非ヒト動物よりもずっと古く、更新世までさかのぼる可能性が高そうですが)、これが人類史において重要な転機となったことは、広く受け入れられているでしょう。その後の、国家につながる社会の組織化や階層化、金属器の使用、文字の開発、産業革命、情報革命など、人類史で重要と思われる事柄は多々ありますが、現時点では多少の意見を述べる準備すらできていないほど勉強不足です。ただ、昔から競馬について関心を抱いていたので、ウマの家畜化について少し述べると、人類史におけるウマの影響は、おそらく家畜化とそれに伴う荷車や戦車(チャリオット)の牽引役としての利用などよりも、ヒトによる騎乗法の開発の方がずっと大きかったのではないか、と考えています。
●まとめ
当初は、もっと簡潔にまとめて、参考文献もできるだけ少なくするつもりでしたが、まとめきることができず、思いつきを述べてしまうだけの結果になってしまいました。一方で、長く述べたのに、中期更新世後半のアフリカ南部に存在したひじょうに興味深いホモ・ナレディ(Homo naledi)や人類の社会構造などについて言及しておらず、今後の課題となります。最後に短くまとめると、人類進化の初期はよく分からず、おそらくその移動形態は現生のチンパンジー属およびゴリラ属のナックル歩行ではなく、四足歩行を基本としつつ、時に二足歩行だったところから、次第に二足歩行への比重が高まり、チンパンジー属系統とも明確に分岐していった、と考えています。最古の確実な人類系統は440万年前頃のアルディピテクス・ラミダスで、その後で420万年前頃までにはアウストラロピテクス属が出現していたようです。
400万~300万年前頃には、まだアウストラロピテクス属(的な)人類しか確認されていませんが、300万年前頃以降に人類系統の多様化が明確になり、ホモ属とパラントロプス属がその両極となります。この多様化をもたらした選択圧は、森林の多い環境からより開けた環境へと長期的に変わっていったことよりも、短期間での環境変動の激しさの方が大きかったかもしれません。人類史においては、300万年前頃以降の多様化が一つの画期になると思います。この多様化の少し前から石器の使用が確認されていますが、現時点では散発的なので、石器使用の定着はこの多様化と連動している可能性が高そうです。この多様化の期間に人類は初めてアフリカから拡散しますが、それには、アウストラロピテクス属と比較しての脳容量増加や体格の大型化よりも、直立二足歩行(長距離移動)と投擲能力の向上の方が重要な役割を果たしたようです。
60万年前頃から、石器技術が複雑化し、これはホモ属の脳容量増加と相関していたかもしれません。さらに、そうした連動的な変化が、他集団とのより密接な関係につながり、考古学的には40万年前頃以降の火の使用の明確化として現れている可能性が考えられます。この脳容量の増加は単系統群で起きたわけではなく、現生人類系統とネアンデルタール人系統などで独立して起きた可能性が高そうです。現時点では、300万~200万年前頃の人類の多様化や、後続の現生人類の世界規模の拡散と比較して地味というか把握しづらい印象も受けますが、人類史において重要な転機だった可能性があります。こうした状況で、アフリカにおいて現生人類が出現しますが、その形成過程については不明なところが多々あります。
次の人類史の重要な転機は5万年以上前以降の現生人類の世界規模の拡散で、 それまで300万年間ほど続いてきた、多様な人類系統の共存状態が消滅し、現生人類系統のみが存在することになりました。もちろん、これはアフリカにおける現生人類集団の生物学的進化および文化的(社会的)蓄積が基盤になっているはずで、その意味ではこの転機をもう少しさかのぼらせるべきかもしれませんが、世界規模での影響拡大という点では、5万年前頃を現生人類の出現以上に重要な転機と考えるべきとは思います。ただ、ヨーロッパの事例からも、5万年前頃以降の現生人類が非現生人類ホモ属に対して常に一方的に優勢に立っていたわけではない可能性も想定しておくべきでしょう。さらに、非現生人類ホモ属と現生人類との間だけではなく、現生人類においても完新世でさえ実質的な完全置換は珍しくなく、局所的な人類集団の遺伝的連続性を安易に前提にしてはならない(関連記事)、と思います。その意味でも、遺伝的混合を認めるにしても、地域的な人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は根本的に間違っている、と私は考えています。
参考文献:
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
| 「石器時代」は「木器時代」だった | ■↑▼ |
2024/05/27 (Mon) 21:59:06
2024.05.24
実は「木器時代」だった可能性も 発掘困難な木材から見えてきた古代人類の知恵と技術
https://globe.asahi.com/article/15274542
デンマークの考古学者クリスチャン・ユルゲンセン・トムセンが、先史時代に初めて時代区分を設けたのは1836年のことだった。欧州にいた原始の人類は、作っていた道具によって三つの段階の技術進化を遂げていたと唱えた。石器時代、青銅器時代、鉄器時代と大別する方法だ。
その区分は、今では「旧世界」(訳注=コロンブスによる米大陸発見前に欧州の人が存在を認識していた地域。欧州、アジア、アフリカ)のほとんどの地域で考古学を支える概念となっている(そればかりか、米アニメ「原始家族フリントストーン」や「クルードさんちのはじめての冒険」の設定にも結び付いている)。
その石器時代をトムセンは「木器時代」と呼ぶこともできただろう、とトーマス・テルベルガーはいう。考古学者で、ドイツ北部ニーダーザクセン州の文化遺産局の調査・研究部門を率いている。
「たぶん、木器は石器と同じぐらい古くからあったと考えられる。つまり、250万年か300万年も前から存在していたことになる」とテルベルガーは語る。「ただし、木は朽ちやすく、現代にまで残ることがほとんどない。この保存をめぐる(訳注=石器との)違いによって錯覚が生じ、私たちの古代への見方をゆがめてしまう」
これまでは、原始的な石器が前期旧石器時代(約270万年前から20万年前)の特徴とされてきており、この時代の遺跡は何千カ所もある。しかし、木器が出たのは10カ所にも満たない。
その一つが、ニーダーザクセン州シェーニンゲンの近くの露天掘り炭鉱にあった。1994年から2008年にかけての発掘で、泥炭層から多くの木器類が出土した。これについての初めての包括的な研究論文が2024年4月、米国科学アカデミー紀要に掲載された。テルベルガーは、その研究陣のまとめ役を務めた。
出土品の中には、二十数本のやりや(訳注=狩猟に使う)投げ棒があった。やりは完全な形を維持したものもあれば、いくつかに折れていたものもあり、長さは米プロバスケットボール(NBA)でセンターのポジションを務める選手の背丈ほどだった(訳注=2023―24シーズンの全選手の平均身長は199センチ強)。
投げ棒は両端がとがっており、ビリヤードの玉を突くキュー(訳注=長さ140センチ程度)の半分ぐらいの長さがあった。ただし、人類の骨は見つからなかった。
比較的温暖だった30万年前の間氷期の終わりに使われていたものと見られる。欧州では初期のネアンデルタール人がホモ・ハイデルベルゲンシスにとって代わる時代にあたる。「Spear Horizon(やりの地平線)」として知られるシェーニンゲンの発掘現場から見つかったこれらの投てき物は、現存する世界最古の狩猟用の武器と見なされている。
1990年代の半ばに、いくつもの石器や野生の馬10頭の解体された死骸とともに、やりのうちの3本が見つかった。
それは、絶滅した人類の祖先の知的能力や活動の社会性、道具を作る技術力についてのそれまでの定説をひっくり返す発見だった。4万年ほど前までの人類は、動物の死骸をあさり、その日暮らしを繰り返していたにすぎないというのが、科学の常識だったからだ。
「この発見で、ホモ・サピエンス(訳注=ここでは狭義の「現生の人類」)より前の原始の人類も、大がかりな狩りをするために道具や武器を作っていたことが判明した」とテルベルガーはその意義を説明する。「獲物を倒すために互いに意思疎通を図っていただけでなく、それを解体したり火であぶったりする高度な食生活もしていた」
今回の研究論文の作成は2021年に始まり、「やりの地平線」から見つかった700点を超える木器類を精査した。その多くは、朽ち果てるのを防いでくれた液状の堆積(たいせき)物を模して、20年以上も冷たい蒸留水をはった容器にひたされていた。
こうした対象物を3D顕微鏡やマイクロCTスキャナーでさらに調べたところ、こすったり、切ったりした痕跡が見つかった。結局、187個の木材について、割ったり、ゴシゴシみがいたり、表皮をはいだりしていたことが突き止められた。
「これまでは、木を割ることは現生の人類だけが行ってきたと考えられていた」とディルク・レーダーはいう。やはりニーダーザクセン州文化遺産局の考古学者で、この論文の主執筆者でもある。
調査した品々の中には、武器類のほかに先がとがっているか、丸みをおびている木工品が計35点あった。穴開けや皮なめしなどの家事に使われたのではないかと考えられている。
素材は、いずれもトウヒやマツ、カラマツだった。「硬さとしなやかさの両方の特性をあわせ持つ木材だ」とこの調査に協力した英レディング大学の人類学者アンネミーケ・ミルクスは指摘する。
その当時は湖のほとりだった発掘現場には、トウヒもマツもなかったはずなので、これらの木材は2、3マイル(1マイル=約1.6キロ)かそれ以上離れた山から切り出されたと研究陣は推測している。
それを加工する手順も浮かんできた。やりをつぶさに調べると、一連の決まった段取りを丁寧に踏んでいたことが分かった。まず、樹皮をはぐ。続いて枝を払い、やりの穂先をとがらせる。さらには、火であぶって材質をより硬くしていた。
「この時代の通常の石器と比べて、こうした木器類には複雑な技術がより高度な形で用いられていた」とレーダーは語る。
「前期旧石器時代はどんな世界だったのか、ほとんど分かっていなかったが、それをのぞく窓をこの研究は開けてくれた」と仏ボルドー大学の考古学者フランチェスコ・デリコはたたえる(この論文にはかかわっていない)。
石器時代の具体的な問題を解決するために、当時の人類が使った素材と方法について洞察されているからだ。「こうした技術がどう進歩したのかについて手がかりが十分ないのにもかかわらず、研究陣は今回の新たな発見に照らして果敢に仮説を示してくれた。その妥当性は、今後の新しい発見によって検証されていくことになるだろう」
今回の調査で判明した恐らく最も驚くべきことは、やりのいくつかが修理されたり、再利用されたりしていたことだろう。穂先が破損するか鈍くなると、再び鋭利にしていたようだ。折れた場合は、長さを削り、磨き直してほかの用途にあてていたと見られる。
「作業で生じた木片として確認されたものからは、木器類が修復されるか、別の用途に使う道具として再生されていたことが浮かび上がる」と先のミルクスは話す。
出土したやりは、1本を除いてすべて成長の遅いトウヒの幹から切り出されていた。形状もバランスも現在の競技用のやりと変わらず、重心は柄の真ん中にきていた。
しかし、それは投げるためにあったのだろうか。それとも、突き刺すためだったのか。この点についてミルクスは、「やりには密度の高い木材が使われ、直径も太い」と説明。「個人的には、少なくとも何本かは、狩猟で投げる武器という意図を持って作られたのではないかという印象を受けた」と続けた。
そこで、やりがどう飛ぶかを試してみた。18歳から34歳の男性のやり投げ選手6人に協力してもらい、干し草の束を目標にさまざまな距離から複製のやりを投げてもらった。
「それまでのテストは……かなり多くの人にやってもらったが、いずれも考古学者ばかりだった。そこで、考古学者よりは『ちょっとだけましな人たち』にどうしても頼んでみたかった」といってミルクスは笑った。「まあ、自分のような人類学者だって、投げるのはあまり得意じゃないし」
この6人の「ネアンデルタール・チーム」の成績は――33フィート(10メートル強)のところからの命中率は25%。50フィート(15メートル強)でも同じで、65フィート(20メートル弱)では少しだけ下回って17%だった。「それでも、科学者が狩猟に役立つと推定していた投てき距離の2倍もあった」
石器時代の祖先が職人だったと考えることは、ミルクスにとってはその人間像をより身近に感じることでもある。「木材の加工には多くの段階があり、たとえ腕がよくても時間がかかる」。そんなことから、ネアンデルタール人たちが夕べのたき火の周りに集まり、木工品を組み立て、砂で研磨し、傷みを直している様子が思い浮かぶとミルクスはいう。
そして、その情景をしのぶかのようにこう語った。「それは遠い、遠い昔のことなのに、ある意味ですべてがとても、とても近いことのように思えてくる」(抄訳、敬称略)
(Franz Lidz)©2024 The New York Times
https://globe.asahi.com/article/15274542
2024/05/27 (Mon) 22:01:45
人類の起源【世界ミステリーch】 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLeBS5noj71yhu4VDWI2FS1kUVbfIqhWCL
人類の進化史 - YouTube
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世界ミステリーch _ ネアンデルタール人の頭蓋骨から『顔』が復元された
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ゲノム革命で明らかになる人類の移動と混血の歴史(ヨーロッパ人の起源&アメリカ先住民の起源) - YouTube
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デニソワ人と現生人類の混血
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人類は1200人まで減少し、自分自身や環境を変える事で生き残った
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篠田謙一 古代ゲノム研究のおそるべき技術革新
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14052212
完新世における人類の拡散 _ 農耕と言語はどのように拡大したのか
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14094213
2025/11/09 (Sun) 09:33:28
雑記帳 2025年11月09日
人類進化史概略
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
人類進化に関する英語論文を日本語に訳してブログに掲載するだけではなく、これまでに得た知見をまとめ、独自の記事を掲載しよう、と昨年(2024年)後半から考えていますが、最新の研究を追いかけるのが精一杯で、独自の記事をほとんど執筆できておらず、そもそも最新の研究にしてもごく一部しか読めていません。現在の私の知見ではまだ「入力」が足りないことはとても否定できませんが、そう言っていると、一生「入力」だけで終わってしまいますし、時々「出力」というか整理することで、今後の「入力」がより効率的になっていくのではないか、とも思います。そこで、多少なりとも状況を改善しようと考えて思ったのは、ある程度まとまった長い記事を執筆しようとすると、怠惰な性分なので気力が湧かないため、思いつき程度の短い記事でも少しずつ執筆していくことですが、まだわずかしか執筆できておらず、ほとんど状況を改善できていません。この状況から脱するために、今回まず、人類史における画期というか時代区分を意識して、人類進化史の現時点での私見を短く述べることにしました。この記事で提示した各論点について、さらに整理して当ブログに掲載していくつもりですが、怠惰な性分なのでどこまで実行できるのか、自信はまったくありません。
●最初期の人類
当ブログでは「人類」という用語をずっと使ってきましたが、この用語については、チンパンジー属系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統を、漠然と想定してきました。人類進化史について述べていくには、この点をある程度明確に定義する必要があるとは思いますが、現時点の私の知見では漠然と想定した以上の確たる定義はできません。当ブログでは、分類学的にはヒト亜族(Hominina)とほぼ同義のつもりで「人類」を用いてきましたが、これが適切な用法なのか、確信はありません。ただ、現時点の私の知見ではこれ以上の妙案がすぐには思い浮かばないので、少なくとも当面は、ゴリラ属(Gorilla)系統、さらにはその後にチンパンジー属(Pan)系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統として、「人類」を用いることにします。
直立二足歩行の最古級のヒト科(Hominidae、現生のホモ属とチンパンジー属とゴリラ属の系統)候補として、チャドで発見された704万±18万年前頃(Lebatard et al.,2008)のサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)と600万年前頃のオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)が指摘されており、一般的にサヘラントロプス属とオロリン属は最古級の人類系統と考えられているように思います(荻原.,2021)。ただ、移動形態と分子生物学的観点からは、サヘラントロプス属とオロリン属を最古級の人類系統と分類するのに慎重であるべきとは思います。
現生のチンパンジー属とゴリラ属の移動形態はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)ですが、これについては収斂進化の可能性が指摘されています(Morimoto et al., 2018)。つまり、ゴリラ属の祖先とチンパンジー属および現生人類(Homo sapiens)の共通祖先が分岐したならば、人類系統も当初はナックル歩行だった、と考えるのがより節約的ですが、現生のチンパンジー属とゴリラ属のナックル歩行が収斂進化だとすると、最初期人類の移動形態がナックル歩行だったとは限らないわけです。そのため、ヒト科において二足歩行は地上に下りてからではなく樹上で始まり、人類の二足歩行は新たな環境における旧来の移動方法の延長上にあった、とも指摘されています(DeSilva., 2022)。
ヒト科において、比率に系統間で差はあっても、四足歩行と二足歩行の併存が一般的だったとすると、中新世のヒト科でやや二足歩行に傾いた人類以外の系統が存在したとしても不思議ではありません。類人猿の完全なゲノム配列を報告した研究(Yoo et al., 2025)では、チンパンジー属系統と現代人系統の分岐が630万~550万年前頃と推定されています。この推定分岐年代は、サヘラントロプス・チャデンシスの推定年代より新しく、オロリン・トゥゲネンシスの推定年代と重なります。チンパンジー属系統と現代人系統の分岐については、分岐してから一定の期間の交雑も想定すると、年代の推定に難しいところもありますが、700万年前頃以降の形態学的に二足歩行が補足されるヒト科化石でも、人類系統とは限らない可能性を今後も想定しておくべきとは思います。
確実に人類系統と思われる最古級の化石はアルディピテクス属(Ardipithecus)で、多数の化石が見つかっていることから詳細に研究されている440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の移動形態は確実に二足歩行と考えられているものの、樹上生活に適応的な形質も見られ、それはアルディピテクス属以降に出現したアウストラロピテクス属(Australopithecus)でも同様です(荻原.,2021)。人類系統は、四足歩行を基本としつつ、時には二足歩行で移動するような、ヒト科の祖先的移動形態から二足歩行への比重を高めつつ、アルディピテクス属でもその後のアウストラロピテクス属でも、完全に地上での二足歩行に適応していたわけではなく、樹上生活に適応的な形質も保持していた、と考えられます。
●人類の多様化と地理的拡大と石器の使用
440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス以前の人類系統についてはよく分かりませんが、それ以降は次第に解明されつつあります。420万年前頃以降にはアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)が確認され、その後には詳細に形態が研究されてきたアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)が出現します。400万~300万年前頃の人類については、ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)やアウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)やアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus、Granger et al., 2015)やアウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda、Haile-Selassie et al., 2015)などといった種区分が提唱されており、さらにはアウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・アファレンシスが一時的に共存していた可能性も指摘されています(Haile-Selassie et al., 2019)。アルディピテクス・ラミダスと最古級のアウストラロピテクス属との年代の近さからも、アルディピテクス・ラミダスがアウストラロピテクス属の直接的祖先である可能性は低そうですが、アウストラロピテクス属とアルディピテクス・ラミダスの最終共通祖先が500万年前頃に存在した可能性もあるとは思います。
かつて、400万~300万年前頃の人類は(アウストラロピテクス・アナメンシスとそこから進化した)アウストラロピテクス・アファレンシスだけとも言われていましたが(Gibbons., 2024)、現在でも、これらの400万~300万年前頃の人類化石が、同じ種内の形態的多様性を表している可能性は否定できないように思います。その意味では、400万~300万年前頃の人類はアウストラロピテクス属、さらにはその中の1種(アウストラロピテクス・アファレンシス)のみに分類されるにしても、属の水準で複数の系統が存在していたにしても、まだ多様化が進んでいなかった、とも言えるかもしれませんが、アウストラロピテクス・アファレンシスの一部の化石を除いて、ほぼ断片的な証拠とはいえ、アウストラロピテクス・アファレンシスとの違いを指摘される化石がそれなりに発見されてきたわけですし、今後の発見も考えると、現時点では400万~300万年前頃の人類の多様性が過小評価されている可能性は高いように思います。
人類の多様化が化石記録において明確に見られるのは、300万年前頃以降です。大きな傾向としては、400万~300万年前頃にはアウストラロピテクス属のみ若しくは類似した系統しか存在していなかったのに対して、300万年前頃以降の人類には、より頑丈な系統であるパラントロプス属(Paranthropus)と、より華奢で脳容量の増加した系統であるホモ属が出現します。パラントロプス属は、アフリカ東部の270万~230万年前頃となるパラントロプス・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)および230万~140万年前頃となるパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)と、アフリカ南部の180万~100万年前頃となるパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されており(Lewin.,2002,P123)、100万年前頃までには絶滅した、と推測されています(河野.,2021)。
ただ、パラントロプス属がクレード(単系統群)を形成するのか、疑問も呈されており(河野.,2021)、つまりは、アフリカ東部において、先行するアウストラロピテクス属種からパラントロプス・エチオピクスとされる系統が、さらにそこからパラントロプス・ボイセイとされる系統が派生したのに対して、アフリカ南部では、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)からパラントロプス・ロブストスとされる系統が進化したのではないか、というわけです。そうだとすると、パラントロプス属という分類は成立せず、パラントロプス属とされる3種はすべてアウストラロピテクス属に分類するのが妥当と思われます。
こうした300万年前頃以降の人類の多様化の背景には、森林の多い環境から草原の多いより開けた環境への変化(Robinson et al., 2017)というよりも、それ以前と比較しての気候変動の激化が推測されています(Antón et al., 2014、Joannes-Boyau et al., 2019)。気候変動の激化によって環境が不安定になり、さまざまな進化的対応の結果としての多様化だったのではないか、というわけです。ホモ属において脳容量が増加した理由として、個体間競争や集団間競争よりも生態学的課題を重視する見解(González-Forero, and Gardner., 2018)も提示されています。一方で、初期ホモ属の脳容量増加が体格の大型化とある程度は連動していた側面も否定できません(Püschel et al., 2024)。初期ホモ属の体格は多様で、170万年以上前には推定身長152.4cm以上の個体は稀だった、との指摘(Will, and Stock., 2015)もあり、じっさい、推定脳容量の平均について、アウストラロピテクス属が480cm³程度(現生チンパンジー属よりやや大きい程度)、最初期の明確なホモ属である180万~100万年前頃のホモ・エルガスター(Homo ergaster)が760cm³程度、100万年前頃以降の後期ホモ・エレクトス(Homo erectus)が930cm³程度なのに対して(Dunbar.,2016,P135)、200万年前頃の最初期ホモ属の成体時の脳容量は551~668cm³程度と推定されています(Herries et al., 2020)。
ホモ属がどのように出現したのか、まだはっきりとしませんが、現時点では、ホモ属のような派生的特徴を有する最古の化石は、エチオピアで発見された280万~275万年前頃の左側下顎ですが、アウストラロピテクス属のような祖先的特徴も見られます(Villmoare et al., 2015)。おそらくホモ属は、アウストラロピテクス属的な人類から進化したのでしょう。ただ、南アフリカ共和国で発見されたアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)にも、ホモ属のような派生的特徴とウストラロピテクス属のような祖先的特徴が混在しており(河野.,2021)、ホモ属の出現が280万年前頃までさかのぼる、と直ちに断定はできませんが、300万年前頃以降にホモ属的特徴が出現し始めて、異なる人類系統の複雑な混合の過程を経て、200万年前頃までにはホモ属が出現したのではないか、と私は考えています。後述のように、この多様な人類系統の共存状態(とくに人類がアフリカからユーラシアへと広く拡散した後は、異なる系統間の接触機会は少なかったとしても)は、現生人類の世界規模の拡散まで続きます。
石器の製作は人類史において画期とされており、脳容量の増加したホモ属によって石器が製作され始めた、と考えると話がきれいにまとまりますが、実際はもっと複雑だったようです。ホモ属によって広く使用され、その後の石器の起源となった最古の石器は、長くオルドワン(Oldowan)と考えられていました。オルドワン石器の最古級の年代は以前には260万年前頃と考えられており、ホモ属の化石の最古級の記録と近い年代ですが、現在ではアフリカ東部において300万年前頃までさかのぼることが知られています(Plummer et al., 2023)。さらに、オルドワン石器の前となる330万年前頃の石器がケニアで発見され、ロメクウィアン(Lomekwian)と呼ばれていますが、オルドワンとの技術的関係はまだ確認されていません。
300万年以上前となる、ホモ属のような派生的特徴を有する人類化石も、最初期ホモ属並の脳容量の人類もまだ発見されていませんから(今後、見つかる可能性が皆無とは言えませんが)、石器技術の始まりは脳容量の増加と関連していないようです。現生チンパンジー(Pan troglodytes)が野生で道具を使用していることから、人類系統も最初期から道具を使用していた可能性は高そうで、ホモ属よりも前に道具を明確に製作するようになり、石器も製作し始めたのではないか、と私は考えています。パラントロプス属がオルドワン石器を製作していた可能性も指摘されており(Plummer et al., 2023)、アウストラロピテクス属が持続的ではないものの散発的に石器を製作し、そうした試みのなかの一つがオルドワン石器につながり、人類系統で広く定着したのではないか、と私は推測しています。オルドワン石器よりさらに複雑なアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)石器の年代は、エチオピア高地において195万年前頃までさかのぼります(Mussi et al., 2023)。
石器製作の開始と脳容量増加とは関連していませんでしたが、人類の最初の出アフリカも脳容量増加、さらには体格の大型化と関連していなかった可能性が高そうです。現時点で、300万年以上前となる人類系統(とほぼ確実に考えられる)の痕跡(化石や石器や解体痕のある非ヒト動物の骨など)はアフリカでしか発見されておらず、アフリカ外の最古級の人類の痕跡は250万年前頃のレヴァントまでさかのぼり(Scardia et al., 2019)、中国では212万年前頃(Zhu et al., 2018)、ヨーロッパでは195万年前頃(Curran et al., 2025)までさかのぼります。人類は250万年前頃以降、アフリカからユーラシアへと拡散し、200万年前頃までには、どれだけ持続的だったかは分からないものの、ユーラシアの広範な地域に少なくとも一度は定着していた可能性が高そうです。この人類の出アフリカは、脳容量の増大や体格の大型化を前提とはしなかったようですが、石器技術が定着した後にはなります。ただ、人類の出アフリカに石器が必須だったのかどうかは、まだ断定できません。
この人類の最初の出アフリカと強く関連していたかもしれないのは、地上での直立二足歩行(および長距離歩行)により特化したことです。投擲能力を向上させるような形態は、すでにアウストラロピテクス属において一部が見られるものの、現代人のように一括して備わるのはホモ・エレクトス以降で(Roach et al., 2013)、おそらく投擲能力の向上は、直立二足歩行への特化および木登り能力の低下と相殺(トレードオフ、交換)の関係にあったのでしょう(Wong., 2014)。人類は投擲能力の向上によって捕食者を追い払うことができ、それは死肉漁りにも役立った、と思われます。250万~210万年前頃までの、アフリカからユーラシアへと拡散した人類は現代人のような直立二足歩行能力と投擲能力を完全には備えていなかったかもしれませんが、この点でアウストラロピテクス属よりずっと優れており、それが出アフリカを可能にしたのではないか、と私は考えています。投擲能力が人類のユーラシアへの拡散に重要な役割を果たした確実な根拠はありませんが、170万年以上前の初期ホモ属遺骸と石器が発見されているジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡において、峡谷の入口で大量の石が発見されており、この初期ホモ属が非ヒト動物に投石したか、投石によって動物を狩っていた可能性が指摘されていること(Gibbons., 2017)は、人類のユーラシアへの初期拡散における投擲能力の重要性の傍証となるかもしれません。
●60万年前頃:脳容量増加と火の使用と石器技術の複雑化
人類の脳容量はホモ属の出現以後に増加していきますが、100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境に急激に増加しているように見えます(Püschel et al., 2024)。100万年前頃以降のホモ属の平均的な推定脳容量は、分類に問題のあるホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の1170 cm³はさておくとしても、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)では1320cm³、現生人類では1370cm³です(Dunbar.,2016,P174)。ただ最近の研究では、種間の脳容量の差は体重と強く相関しているものの、種内では体重との相関が弱く、経時的に増加しており、つまり脳容量増加は種内では時間と強く相関していて、断続平衡的見解で想定されるような短期間の増加と長期の安定ではなかった、と示されています(Püschel et al., 2024)。
ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間は、複雑な遺伝子流動が推測されており、分岐年代も単純には推定できないでしょうが、最近の遺伝学的研究では60万年前頃とされています(Li et al., 2024)。形態学的研究では、現生人類系統および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統の共通祖先とネアンデルタール人系統の祖先との分岐が138万年前頃と推定されており(Feng et al., 2025)、この推定年代は現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係も含めて分子生物学的知見と大きく異なるので、現時点では有力説とは認めがたいものの、現生人類系統とネアンデルタール人(およびデニソワ人?)系統において、独自に脳容量の増加が起きた可能性は高そうです。
この100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境とする脳容量増加との関連で注目されるのが、石器技術が60万年前頃を境に急速に複雑化していったことです(Paige, and Perreault., 2024)。60万年前頃以降、文化は真に累積的になり(Paige, and Perreault., 2024)、それは現生人類系統やネアンデルタール人系統での脳容量増加と相関していたかもしれません。40万年前頃以降には、火の使用が考古学的に明確に可視化されるようになり、ホモ属集団間の相互作用の活発化が示唆されています(MacDonald et al., 2021)。火の使用の考古学的痕跡がずっと明確になる年代は60万年前頃よりも遅いわけですが、脳容量増加と石器技術の複雑化の相関が、集団間の相互作用の活発化につながったのならば、ホモ属の進化史における一連の重要な変化と言えるかもしれません。ただ、60万年前頃から現生人類の世界規模の拡散までの間は、100万年以上前と比較して、人類がユーラシアのより高緯度に進出した可能性は高そうですが、その拡散範囲が大きく広がったわけではなさそうです。
●現生人類の出現と拡散
現生人類の唯一の起源地がアフリカであること(現生人類アフリカ単一起源説)は、今では広く受け入れられています(Bergström et al., 2021)。現生人類もしくは解剖学的現代人と分類される30万年前頃以降のホモ属化石がアフリカで発見されてきましたが、現生人類の形成過程はネアンデルタール人系統との分岐も含めてかなり複雑だった可能性があり(Ragsdale et al., 2023)、その出現時期を特定するのは今後も困難かもしれません。現生人類の出現が人類史における画期だったことは間違いなく、それは、少なくとも過去300万年間の大半の期間において複数系統の人類が存在していたのに、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属から現生人類への多少の遺伝子流動(Tagore, and Akey., 2025)はあっても、非現生人類ホモ属は今では絶滅しており(非ホモ属人類は、上述のパラントロプス属を最後に、100万年前頃までに絶滅した、と考えられます)、その全てではないとしても、複数の非現生人類ホモ属系統が現生人類の影響によって絶滅した、と考えられるからです。
ヨーロッパの大半においては、ネアンデルタール人の痕跡は4万年前頃までに消滅し、それは現生人類のヨーロッパへの拡散後のことです(Higham et al., 2014)。ユーラシア東部には多様な非現生人類ホモ属が存在しましたが、たとえばホモ・フロレシエンシスの痕跡は5万年前頃以降には見つかっておらず(Sawafuji et al., 2024)、これは現生人類の拡散と関連している可能性が低くないでしょう。チベット高原では、デニソワ人が32000年前頃まで生存していた可能性が指摘されており、これは現生人類のチベット高原の拡散より後だった可能性が高そうです(Xia et al., 2024)。もちろん、現生人類の拡散がネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅要因だったことを直接的に証明するのは困難ですし、現生人類とは関係なく絶滅した非現生人類ホモ属もいるでしょうが、たとえばネアンデルタール人は数十万年もヨーロッパに存在し、もちろん局所的に集団が絶滅することは珍しくなかったとしても、ネアンデルタール人系統としては度々の気候寒冷化にも耐えて生き残ってきたわけで、ネアンデルタール人絶滅の究極的要因は現生人類と断定しても大過ないと考えています。
非現生人類ホモ属や非ヒト動物の絶滅に現生人類の世界規模の拡散が大きな影響を及ぼした可能性は高そうですが、注目すべきは、現生人類が5万年以上前に非現生人類ホモ属に決定的な負の影響を及ぼした痕跡はまだ確認されていないことです。その意味では、現生人類の出現以上に、非アフリカ系現代人全員の主要な祖先集団の5万年前頃以降の世界規模の拡散の方を重視すべきと考えています。上述のように、初期現生人類と分類されている化石はアフリカにおいて発見されており、30万年前頃までさかのぼりますが、そこから5万年前頃までにはかなりの時間差があります。そこで、5万年前頃に現生人類の神経系にかかわる遺伝子に突然変異が起き、現代人と変わらないような知的能力を有した結果、現生人類が発達した文化を開発し、先住の非現生人類ホモ属に対して優位に立って、世界各地に短期間に進出した、といった仮説(Klein, and Edgar.,2004,P21-28,P258-262)も提示されましたが(創造の爆発説)、考古学的にはこの仮説は支持されておらず(Scerri, and Will., 2023)、遺伝学的にも、現代人の各地域集団の分岐は5万年前頃よりずっと古そうなので(Ragsdale et al., 2023)、創造の爆発説は妥当ではないでしょう。
では、現生人類が非現生人類ホモ属を絶滅に追いやった原因は何かというと、現生人類が非現生人類ホモ属に対して認知能力の点で優位に立ち、それが技術面では弓矢などの飛び道具、社会面では他集団との関係強化につながり、ネアンデルタール人が現生人類との競合に敗れて絶滅した、との見解が有力なように思います。ただ、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の絶滅について以前まとめたので(関連記事)、この記事では詳しく繰り返しませんし、参考文献を省略しますが、ヨーロッパの45000年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人がヨーロッパの大半で消滅した4万年前頃以降には、遺伝的影響が大きく低下したかすでに絶滅しており、弓矢を有していたと思われる5万年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人との競合に敗れて絶滅したか撤退したようです。世界中に拡散した非アフリカ系現代人の主要な出アフリカ祖先集団に属しており、ヨーロッパで一時は広く拡散していた可能性のある現生人類集団(少なくとも現在のチェコとドイツに分布していました)でさえ、ネアンデルタール人の痕跡がほぼ消滅した頃にはおそらく絶滅していたことを考えると、現生人類の繁栄とネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅を、飛び道具の有無など単一もしくは少数の要因、さらにはその背景として認知能力の違いに単純に求めるのには、慎重であるべきと考えています。もちろん、非現生人類ホモ属と現生人類との間に認知能力の違いがあった可能性は高いでしょうし、それが非現生人類ホモ属の絶滅に関わっている可能性は低くないと思いますが、その具体的経緯については、まだ不明なところが多分にあると言うべきでしょう。
非現生人類ホモ属の絶滅後には、温暖な完新世において植物の栽培化(農耕)と動物の家畜化が進み(イヌの家畜化は他の非ヒト動物よりもずっと古く、更新世までさかのぼる可能性が高そうですが)、これが人類史において重要な転機となったことは、広く受け入れられているでしょう。その後の、国家につながる社会の組織化や階層化、金属器の使用、文字の開発、産業革命、情報革命など、人類史で重要と思われる事柄は多々ありますが、現時点では多少の意見を述べる準備すらできていないほど勉強不足です。ただ、昔から競馬について関心を抱いていたので、ウマの家畜化について少し述べると、人類史におけるウマの影響は、おそらく家畜化とそれに伴う荷車や戦車(チャリオット)の牽引役としての利用などよりも、ヒトによる騎乗法の開発の方がずっと大きかったのではないか、と考えています。
●まとめ
当初は、もっと簡潔にまとめて、参考文献もできるだけ少なくするつもりでしたが、まとめきることができず、思いつきを述べてしまうだけの結果になってしまいました。一方で、長く述べたのに、中期更新世後半のアフリカ南部に存在したひじょうに興味深いホモ・ナレディ(Homo naledi)や人類の社会構造などについて言及しておらず、今後の課題となります。最後に短くまとめると、人類進化の初期はよく分からず、おそらくその移動形態は現生のチンパンジー属およびゴリラ属のナックル歩行ではなく、四足歩行を基本としつつ、時に二足歩行だったところから、次第に二足歩行への比重が高まり、チンパンジー属系統とも明確に分岐していった、と考えています。最古の確実な人類系統は440万年前頃のアルディピテクス・ラミダスで、その後で420万年前頃までにはアウストラロピテクス属が出現していたようです。
400万~300万年前頃には、まだアウストラロピテクス属(的な)人類しか確認されていませんが、300万年前頃以降に人類系統の多様化が明確になり、ホモ属とパラントロプス属がその両極となります。この多様化をもたらした選択圧は、森林の多い環境からより開けた環境へと長期的に変わっていったことよりも、短期間での環境変動の激しさの方が大きかったかもしれません。人類史においては、300万年前頃以降の多様化が一つの画期になると思います。この多様化の少し前から石器の使用が確認されていますが、現時点では散発的なので、石器使用の定着はこの多様化と連動している可能性が高そうです。この多様化の期間に人類は初めてアフリカから拡散しますが、それには、アウストラロピテクス属と比較しての脳容量増加や体格の大型化よりも、直立二足歩行(長距離移動)と投擲能力の向上の方が重要な役割を果たしたようです。
60万年前頃から、石器技術が複雑化し、これはホモ属の脳容量増加と相関していたかもしれません。さらに、そうした連動的な変化が、他集団とのより密接な関係につながり、考古学的には40万年前頃以降の火の使用の明確化として現れている可能性が考えられます。この脳容量の増加は単系統群で起きたわけではなく、現生人類系統とネアンデルタール人系統などで独立して起きた可能性が高そうです。現時点では、300万~200万年前頃の人類の多様化や、後続の現生人類の世界規模の拡散と比較して地味というか把握しづらい印象も受けますが、人類史において重要な転機だった可能性があります。こうした状況で、アフリカにおいて現生人類が出現しますが、その形成過程については不明なところが多々あります。
次の人類史の重要な転機は5万年以上前以降の現生人類の 世界規模の拡散で、それまで300万年間ほど続いてきた、多様な人類系統の共存状態が消滅し、現生人類系統のみが存在することになりました。もちろん、これはアフリカにおける現生人類集団の生物学的進化および文化的(社会的)蓄積が基盤になっているはずで、その意味ではこの転機をもう少しさかのぼらせるべきかもしれませんが、世界規模での影響拡大という点では、5万年前頃を現生人類の出現以上に重要な転機と考えるべきとは思います。ただ、ヨーロッパの事例からも、5万年前頃以降の現生人類が非現生人類ホモ属に対して常に一方的に優勢に立っていたわけではない可能性も想定しておくべきでしょう。さらに、非現生人類ホモ属と現生人類との間だけではなく、現生人類においても完新世でさえ実質的な完全置換は珍しくなく、局所的な人類集団の遺伝的連続性を安易に前提にしてはならない(関連記事)、と思います。その意味でも、遺伝的混合を認めるにしても、地域的な人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は根本的に間違っている、と私は考えています。
参考文献:
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
| 篠田謙一 古代ゲノム研究のおそるべき技術革新 | ■↑▼ |
2022/10/06 (Thu) 10:23:59
2022.05.28 12:00
縄文人のルーツはどのように判明した? 人類学者が語る、古代ゲノム研究のおそるべき技術革新
篠田謙一
https://realsound.jp/book/2022/05/post-1036664.html
『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』
篠田謙一 著
中公新書
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E5%8F%A4%E4%BB%A3DNA%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%A4%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%97%85%E3%80%8D-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-2683-%E7%AF%A0%E7%94%B0-%E8%AC%99%E4%B8%80/dp/4121026837
我々ホモ・サピエンスの祖先は、ネアンデルタール人(旧人)と交雑していた、縄文人は東アジアに最初に到達した人類の子孫であった……など、近年、古代人の骨に残されたゲノム(遺伝情報)の解読・分析が進み、人類学の「常識」が大きく変わった。
そんな最新の研究結果から、人類の起源とその歩みを見直したのが人類学者・篠田謙一氏の新書『人類の起源』(中央公論新社)だ。分子人類学を専門とし、東京・上野にある国立科学博物館の館長でもある篠田氏に、古代人の分析が飛躍的に進んだ背景と、どのようなことがわかってきたのか、そして今後期待される研究について聞いた。(土井大輔)
※メイン写真:イギリス(ブリテン島)でもっとも古い人骨のひとつ「チェダーマン」(約1万年前)のゲノム解析にもとづく復元像。暗褐色の肌、ブルーの目という、アナトリアの農耕民流入以前のヨーロッパ人集団の特徴が表されている(C)The Trustees of the Natural History Museum, London
数千年前は、いま見ている「日本」とはかなり異なる世界だった
ーー数年前にネットで、現代人のDNAにネアンデルタール人の遺伝子が入っていることが判明したというニュースを見て驚いたんですが、『人類の起源』を読んで、なるほど今はこんなことまでわかるのかと納得できました。
篠田:2006年頃に技術革新によって生まれた次世代シークエンサーによって、人間のゲノム(DNAのすべての遺伝情報)の解明が猛烈に進みました。次世代シークエンサーであれば、古代人の骨のかけらからでも現代人と同じように遺伝子を読むことができます。コロナウイルスの検査に使うPCR法は特定の部分のDNA配列を調べる方法で、1980年代後半からずっと続いてきたやり方でした。それが次世代シークエンサー以降は、網羅的に全部を読むことができるようになったんです。人間ひとりのDNAは30億塩基ほどあるのですが、これをすべて読むのに2日間ほど、塩基配列を解読するのに3~4日間ほどかかるので、だいたい1週間くらいで全てを読める。古代人の場合だと、骨からDNAを採取するのが難しいのでもう少しかかりますが、それでも3~4週間である程度読むことができます。
2003年にはヒトゲノムを一人分読むのに成功していますが、13年という歳月と3000億円というお金を使ってやっとできたことだったんです。それが今や、次世代シークエンサーを使って古代人でも3~4週間、100万円ちょっとでできてしまう。これはなかなか怖いことですよ(笑)。これからのサイエンティストは10年程度でやり方がまるっきり変わってしまうような、激しい技術革新のなかを生き抜かなければならない。
ーー本を読むと、「人種」とか「日本人」という言葉になんの意味があるんだろうと思うようになりました。
篠田:「民族」とか「人種」であるというのは全部、後付けでその種につけられたタグですよね。生物学的には、人類はみんなシームレスに(途切れ目なく)つながっています。人間は複雑に絡み合って集団を作っていますから、それを区別することはできませんし、その意味では人類はみんな一緒なんだということが、おそらくDNAが語ることの本質なんだと思います。
ーーそもそも専門とされている「分子人類学」というのは、どういう学問ですか。
篠田:人類学を大きく分けると、人間の文化的な面を研究する文化人類学と、生物学的な面を研究する自然人類学になります。これまで自然人類学はおおかたが骨の研究であったり、軟部組織、つまり皮膚や髪の毛の違いであったりを調べていたわけです。それが1960年代になるとタンパク質や血液型の違いを対象にすることができるようになった。それが1970年代の終わりあたりから短いDNA配列まで読めるようになった。そこから遺伝情報を使った人間の成り立ちとか、他の生物との関係であるとか、そういったことを調べる学問が急速に伸びていきました。私はこの自然人類学を40年以上やっていて、はじめのころは骨の形の調査だったのが、だんだんと遺伝子の研究にシフトしていきました。この遺伝情報を使った人類学が、「分子人類学」になります。
ーーそのなかで、自身が驚いた発見や研究結果はありますか?
篠田:次世代シークエンサーによって古代人骨のDNA分析の実用化がなされた後でいえば、やはりホモ・サピエンスとネアンデルタール人の混血が判明したことですよね。それが一番大きい。
ここ5年間ぐらいですと、ヨーロッパ人に関する研究も驚きでした。それまでは初期の狩猟採集民が、1万年くらい前にアナトリア半島(トルコのあたり)から入ってきた農耕民と混合してヨーロッパ人ができたと考えられていたんですが、実はそう単純ではなかった。5000年前以降の青銅器時代にステップ(シベリア南西部)からやってきた牧畜民が、狩猟採集民の上から乗っかるようにヨーロッパ人の遺伝的特徴を大きく変えていたんです。
アジアですと、私どもの研究で、縄文人の起源が最初にアジアに入ってきた人たちの子孫であろうことがわかりました。縄文人と同じ遺伝子を持っている人は、世界中どこを探してもいなかったんです。それまでは縄文人と同じDNAを持つ人がいれば、そこが私たちの源郷の地、ホームランドであると考えられていたんですが、中国でもベトナムでも出てこないんですね。なんのことはなく、そもそも縄文人は日本にしかいなかったんです。
ーー興味深いのは、強い集団が弱い集団を打ち負かしていなくなったというより、融合していった結果として、その集団がいなくなっているという点です。
篠田:もちろん、中には強い集団が弱い集団を打ち負かして代わっていった場所もあるんですけれども、少なくとも今の日本人の場合は、9割方は弥生時代以降に大陸からやってきた人たちの遺伝子なのですが、私たちの中にまだ縄文人の遺伝子も残っていますから、融合していったと考えるべきですね。
また、稲作農耕によって弥生時代になり、そこで縄文人と大陸の人々との混合が起こったんだろうと単純に考えられていたんですけれども、最近の研究では、その混合がすごく長い時間をかけて行われたということがわかりました。1000年から1500年かかっているんですね。実際に古墳時代だとか中世のいろんな地域のDNAを見てみると、まるっきり縄文人みたいな人もいるんです。
ーー縄文人と渡来した弥生人は文化を共有していた可能性がある。
篠田:そうですね。日本列島では長い間、人びとはある程度の棲み分けをしていたのでしょう。今私たちが見ている「日本」とは相当イメージが違うものだったんだろうと思います。辺境の地には姿かたちがまったく異なる人たちが住んでいるような、そういう世界だったんじゃないでしょうか。
今後は「空白の1万年」が明らかになっていく
ーーアフリカ大陸で誕生した人類が、アフリカを出て、世界に広がっていったのには、どのような欲求があったのでしょう。
篠田:よく聞かれるんですが、なかなか答えにくい質問です(笑)。結局は想像するしかない話になってしまいますので。私は「気がついたら広がっちゃっていた説」を支持しています。 徐々にテリトリーを広げているうちに、最終的に世界に広がっていた、と。本にも書きましたが、未踏の地に行った人たちも、もとにいた場所の人たちとのインタラクション(相互の影響)を持っていたと思います。少人数が「冒険にでよう!」と出かけたわけではなく、親族のネットワークを作りながら先へ先へと進んでいる。だから戻ることもすぐにできたと思うんです。
また、アフリカを出たことは人類のテリトリーが圧倒的に広がるきっかけとなりましたが、当然ながら、アフリカを出ていった人類はごく一部でした。アフリカ人以外のホモ・サピエンスの遺伝的な違いはすごく小さいですから、出て行った人は多くないといわれています。ただ、そのあたりは謎も多いんです。我々の直接の祖先にあたる人たちは7~6万年前にアフリカを出たと考えられていますが、そこからアフリカ以外で化石が見つかるまでに1万年くらい空白の期間があるんです。研究者たちは今、そのあたりを調べています。そこで何が起きたのかと。
少し前まで自然人類学の世界では、古い時代に遡って調べて、どこまでいったらチンパンジーの祖先と一緒になるんだろうと、みんな何百万年も前の古い時代の化石を探していました。けれども最近はむしろ、ホモ・サピエンスがどう成り立ったのかを研究をする人が多くなりました。今後、そうした時代の化石の発見が増えてくるはずです。
ーー大発見が続々と出てくる可能性が高く、いま注目しておくと面白い分野ですね。
篠田:ただ、ひとつ注意しておかなければならないのは、遺伝子それぞれの違いを研究していくと、「我々のほうが優秀だ」という意見とくっついてしまうことがあることです。しかし、遺伝子には違いはあれど優劣があるわけではなく、ある環境において有利な遺伝子が別の環境では不利になることもあります。たとえば最近では、ネアンデルタール人の遺伝子が新型コロナウイルスの重症化リスクを軽減する可能性が指摘されましたが、一方でネアンデルタール人の遺伝子によって別の病気にかかるリスクもあるわけです。だからこそ、人類はお互いに尊重し合って多様性を保持する必要があるのだという視点に立つことが重要です。それを理解していただいた上で、ゲノムが語る人類の起源を知ってもらいたいですね。
ーーほかには、どのような研究結果が出てくることを期待されますか。
篠田:先ほど言ったように、現代日本人の遺伝子の9割は縄文人ではなく、後から入ってきた人たちの遺伝子で、そのホームランドであると言われているのが中国の西遼河流域です。だから日本人の起源を調べるのであれば、そこから始めるべきだと思うんです。
5千年ほど前に西遼河流域で雑穀農耕をしていた人たちがいた。彼らが広まっていき、朝鮮半島に入った。そこに稲作農耕をやっていた人たちが来て合流し、一部の人たちが日本列島に入ってきた。日本列島にも、もともと住んでいた縄文人たちがいて、「それを飲み込む形で今の日本人になりました」と書くのがおそらく一番正しいんですね。西遼河流域から朝鮮半島を越えて日本に至る経路、あるいは誰が来たのか。朝鮮半島で何が起きたのか。そういうことに一番興味があります。
ーー「日本列島に入ってくる」とはいっても、一度にやって来たとは限らない。
篠田:そうですね。何度も行き来をしていて、朝鮮半島と北部九州などの一部の日本列島が同じ文化圏になっていた時期があるはずです。実際、朝鮮半島から日本の土器が出てきているので、考古学的にはすでに行き来していた時期があったことはわかっています。そして、モノが動いていたということは人も動いていたはずなので、その辺りを分子人類学で解き明かせたら面白いです。最近、ようやく考古学者の人たちと話が合うようになってきたんですよ(笑)。考古学はすごく細かいことを調べてきていて、人類学はもっと大まかな話をしてきたんですが、研究が進むことで一致するところが増えてきました。
ーー他の分野の研究者と連携することによって、わかってくることもありそうですね。
篠田:私も参加している「ヤポネシアゲノム」という、国立遺伝研究所の斎藤成也さんが始められたプロジェクトが、まさにいろんな分野の人と一緒に研究するものです。たとえば、人が移動すれば動物も動いたでしょう。積極的に動いたのは犬でしょうし、くっついてくるのはネズミなんかだったでしょう。そうした動物の古代ゲノムを調べながら、人間の動きとどう違っているのかということを調べています。
自分のなかにも多様性を抱えておくことが大事
ーー篠田さんはなぜ、人類学の道に進んだのですか。
篠田:単純に面白いと思ったからです。学生時代は古生物だとか化石の研究をやりたいという思いが漠然とあって、地質学教室の化石部屋を覗いていたら、リンボクという中国の南部に生えていた木の化石があったんですね。それは福岡県の古墳から出てきたと。「なんで中国のものがあるんですか?」と教授に聞いたら「当時の誰かが持ってきたんだろう」と。千数百年前に中国の化石を見て「奇麗だな」と思って持ってきたやつがいたということが面白いなと。それで人類学に進みました。あのときリンボクそのもののほうが面白いと思っていたら、古生物学者になっていたんでしょうね。
私が学生だった1970年代は、あまり役に立たないことを研究したほうが良さそうだという風潮もありました。60年代の「科学は明るい未来を作るんだ」という『鉄腕アトム』的な認識から、科学によって公害が起きたんだという認識に変わっていった時代です。役に立つというのはちょっと危険だという意識は今もあります。
骨というのはちゃんと「読む」のに時間がかかるんです。私は医学部の解剖学教室に20年いましたけれども、10年ぐらいかけて人間を500体くらい解剖してやっと、人間の体とはこういうものなんだとわかってきたというレベルです。昔の研究者は一生それを続けたんです。ここは博物館ですから、「博物館行き」という言葉があるように、古いものが収まっていて、昔からの研究を続けている方もいらっしゃいます。けれど、世の中がなかなかそれを許してくれない時代になりました。
ーー役に立つものを研究しなければならない、と。
篠田:圧としてはそれが強いですね。あまりあからさまには言えませんが、なんとか役に立たないことをやれるフィールドをここに作っておきたいとは思っているんですけれども。実際のところ「役に立とう」と思ってやった研究に、たいしたものはないですよ。役に立たないと思われたものが、実はあとで役に立ったということの方が多いですから。
ーー冒頭で、これからのサイエンティストは技術革新が激しい時代を生き抜かなければならないと仰っていました。技術革新はサイエンティストのみならず、あらゆる職業の人々にとって大きな影響があると思います。そのような時代を生き抜くのに、どのような力が求められると思われますか。
篠田:生物が同じ遺伝子でも集団として内部にさまざまなタイプを抱えているのと同じように、自分の中にも多様性を抱えておくことですよね。何かひとつのことをやっていれば効率はいいけれど、環境が変化してそれが行き詰まったときに何もできなくなってしまいます。理科系の科学者だったら、文科系の素養を身につけておくとか、一見すると役に立たないようなことをしておくことが大切です。いろんなことに興味を持って、自分のなかに多様性を抱えこめば、きっとどこかにはたどり着けます。ホモ・サピエンスだって先が見えなかったからこそ、いろんなものを社会の中に抱え込んで、その時代に合わせて適応してきたわけですから。個人でも同じだと私は思います。
2022/10/06 (Thu) 10:25:17
雑記帳
2022年10月05日
今年のノーベル生理学・医学賞はスヴァンテ・ペーボ氏
https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_5.html
今年(2022年)のノーベル生理学・医学賞はスヴァンテ・ペーボ(Svante Pääbo)氏に授与される、と発表されました。ペーボ氏は、現在すでに大きな成果を挙げている古代DNA研究を、その技術面も含めて確立した功績者なので、この受賞を歓迎する人は多そうですし、古代DNA研究に強い関心を抱いている私にとっても、たいへん嬉しい受賞です。ペーボ氏の古代DNA研究における業績は、日本語訳もある著書(Pääbo., 2015、関連記事)に詳しく、同書は、ペーボ氏が自身の生活・信条にもそれなりに分量を割いているので、伝記とも言えるでしょう。
ペーボ氏は沖縄科学技術大学院大学(OIST)で客員教授を務めており、NHKスペシャルでも取り上げられたこともあって(関連記事)、外国人研究者としては日本での知名度が高いようで、今年のノーベル生理学・医学賞は、日本人以外の受賞にしてはかなり大きく報道されているように思います。朝日新聞は社説で取り上げているくらいです。これでペーボ氏の著書への関心も高まり、古代DNA研究へもさらに注目が集まるのではないか、と期待されます。
ペーボ氏の業績は著書でも知ることができますが、原書の刊行は2014年で、ペーボ氏それ以降も多くの研究成果を挙げており、当ブログでもそのうちごく一部を取り上げてきました。しかし、改めて確認してみると、当ブログで取り上げただけでもかなりの数となり、ペーボ氏が今でも第一線の研究者として古代DNA研究に貢献している、と改めて了解されます。古代DNA研究は、当初は解析が核DNAよりずっと容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、現在では核ゲノム解析も珍しくなくなり、古代ゲノム研究と言う方が適切かもしれません。ペーボ氏はこの点でも多大な貢献をしてきました。
当ブログで取り上げた、ペーボ氏が関わった著書刊行以降のおもな研究を、以下にいくつか挙げます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属)では、43万年前頃となる中期更新世人類のDNA解析結果を報告した研究(Meyer et al., 2016、関連記事)があります。これは現時点で、DNAが解析された最古の人類となり、核DNAではデニソワ人よりもネアンデルタール人に近い、と推測されています。クロアチア(Prüfer et al., 2017、関連記事)とシベリア南部のアルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)では(Mafessoni et al., 2020、関連記事)、高品質なネアンデルタール人女性個体のゲノムデータが得られています。アルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親との間の交雑第一世代の娘が確認されています(Slon et al., 2018、関連記事)。人類遺骸だけではなく、堆積物からも古代DNAが解析されており(Slon et al., 2017、関連記事)、チベット高原(Zhang et al., 2020、関連記事)の洞窟堆積物からデニソワ人のmtDNAが確認されています。
古代の現生人類(Homo sapiens)では、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる男性個体(Fu et al., 2014、関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された男性個体(Fu et al., 2015、関連記事)や、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)や、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された複数個体(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)があります。近年では、ネアンデルタール人に由来する、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の重症化(Zeberg, and Pääbo., 2020、関連記事)と保護(Zeberg, and Pääbo., 2021、関連記事)に関する遺伝子の研究も注目されました。
参考文献:
Fu Q. et al.(2014): Genome sequence of a 45,000-year-old modern human from western Siberia. Nature, 514, 7523, 445–449.
https://doi.org/10.1038/nature13810
関連記事
Fu Q. et al.(2015): An early modern human from Romania with a recent Neanderthal ancestor. Nature, 524, 7564, 216–219.
https://doi.org/10.1038/nature14558
関連記事
Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3
関連記事
Mafessoni F. et al.(2020): A high-coverage Neandertal genome from Chagyrskaya Cave. PNAS, 117, 26, 15132–15136.
https://doi.org/10.1073/pnas.2004944117
関連記事
Meyer M. et al.(2016): Nuclear DNA sequences from the Middle Pleistocene Sima de los Huesos hominins. Nature, 531, 7595, 504–507.
https://doi.org/10.1038/nature17405
関連記事
Pääbo S.著(2015)、野中香方子訳、更科功解説『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(文藝春秋社、原書の刊行は2014年)
関連記事
Prüfer K. et al.(2017): A high-coverage Neandertal genome from Vindija Cave in Croatia. Science, 358, 6363, 655–658.
https://doi.org/10.1126/science.aao1887
関連記事
Slon V. et al.(2017): Neandertal and Denisovan DNA from Pleistocene sediments. Science, 356, 6338, 605-608.
https://doi.org/10.1126/science.aam9695
関連記事
Slon V. et al.(2018): The genome of the offspring of a Neanderthal mother and a Denisovan father. Nature, 561, 7721, 113–116.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0455-x
関連記事
Yang MA. et al.(2017): 40,000-Year-Old Individual from Asia Provides Insight into Early Population Structure in Eurasia. Current Biology, 27, 20, 3202–3208.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.030
関連記事
Zeberg H, and Pääbo S.(2020): The major genetic risk factor for severe COVID-19 is inherited from Neanderthals. Nature, 587, 7835, 610–612.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2818-3
関連記事
Zeberg H, and Pääbo S.(2021): A genomic region associated with protection against severe COVID-19 is inherited from Neandertals. PNAS, 118, 9, e2026309118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2026309118
関連記事
Zhang D. et al.(2020): Denisovan DNA in Late Pleistocene sediments from Baishiya Karst Cave on the Tibetan Plateau. Science, 370, 6516, 584–587.
https://doi.org/10.1126/science.abb6320
関連記事
2022/10/12 (Wed) 06:42:04
篠田謙一の学説の変化
篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」
篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」
弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)
篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png
シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png
2023/02/20 (Mon) 05:17:41
【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる人類史!謎のデニソワ人の発見、『絶滅と生存』分けた理由、『縄文人と弥生人』の新説、 最新ゲノム解析が明かす現代人への“遺言”とは?
2023/02/16
https://www.youtube.com/watch?v=86BT7_aggag
唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。
今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
2023/02/20 (Mon) 16:26:20
ピロリ菌のゲノム解析から見たアジアにおける人類集団の近縁関係 l 斎藤成也 敎授(東京大, 国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室 )l HONGIK FOUNDATION
2022/09/30
https://www.youtube.com/watch?v=IdiyRJbQfZw
日本列島人(ヤポネシア人)の起源と成立については、これまでヒトのミトコンドリアDNA、Y染色体DNA、そして常染色体ゲノム全体が調べられてきた。一方で、ヒトに随伴して移動するマウスのDNA研究も進められている。胃の中に生息するピロリ菌は外界では増殖できず、宿主特異性があるため媒介生物もいない。母から子に垂直感染するピロリ菌ゲノムの系統樹はヒトの移動を反映している。従来ピロリ菌は、ゲノム中のいくつかの遺伝子塩基配 列の情報を用いて、7系統に分類されてきた。日本本州の菌は中国・韓国と同じhspEAsia系統であり、この系統が持つ毒性の高い病原遺伝子(東アジア型CagA)が胃がんの発症率を高めていると言われてきた。ところが大分大学と琉球大学による研究で、沖縄には系統も病原性も異なる2つの系統(hspOkinawaとhpRyukyu)があることがわかった。前者は西~中央アジア株と近縁性があり、後者は東アジアと北アジアの中間的な性質を持ってい た。これらの研究は私の研究室の鈴木留美子特任准教授が中心になっておこなわれた。
2023/02/21 (Tue) 20:26:34
ゲノム進化と形態進化をどうつなげるか?:斎藤 成也 教授【遺伝研公開講演会2021】
2021/11/24
https://www.youtube.com/watch?v=FNVnnURGrpE
真核生物のなかでも、動物と植物はすべて多細胞性であり、多様な形態を持っています。これらの形態は種特異的なので、それぞれの種のゲノム中に形態を決定する塩基配列があると考えられています。その鍵となる可能性があるCNS (進化的に保存された配列)の進化について、特に哺乳類のゲノム解析結果をお話しします。
2023/02/22 (Wed) 15:46:50
ヤポネシア人ゲノム研究のご紹介 斎藤成也 教授
2020/10/15
https://www.youtube.com/watch?v=ktoRnH6bu3k
2023/03/03 (Fri) 18:17:49
【落合陽一】人類最後のフロンティアは「イースター島」だった!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは「お互いをどう見ていた?」絶滅した意外な理由、現生人類の起源の鍵“空白の30万年”とは?[再編ver]
2023/03/02
https://www.youtube.com/watch?v=bCmlfyQ0aj0
唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
2023/04/26 (Wed) 09:26:53
雑記帳
2023年04月26日
『イヴの七人の娘たち』の想い出とその後の研究の進展
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
2001年に刊行されたブライアン・サイクス(Bryan Clifford Sykes)氏の著書『イヴの七人の娘たち』は、このような一般向けの科学啓蒙書としては異例なほど世界的に売れたようで、私も購入して読みました(Sykes.,2001)。近年時々、『イヴの七人の娘たち』は日本でも一般向けの科学啓蒙書としてはかなり売れたようではあるものの、今となってはその見解はとてもそのまま通用しない、と考えることがあり、最近になって、そういえば著者のサイクス氏は今どうしているのだろう、と思って調べたところ、ウィキペディアのサイクス氏の記事によると、2020年12月10日に73歳で亡くなったそうです。まだ一般向けの啓蒙書を執筆しても不思議ではない年齢だけに、驚きました。
『イヴの七人の娘たち』などで提示されているサイクス氏の見解が今ではとても通用しないことはウィキペディアのサイクス氏の記事でも指摘されており、イギリス人の起源に関するサイクス氏の理論の多くはほぼ無効になった、とあります。もちろん、同書のミトコンドリアDNA(mtDNA)に関する基本的な解説の多くは今でも有効でしょうし、20世紀の研究史の解説は今でも有益だと思います。本書により、初期のDNA解析による人類進化研究の様相を、研究者間の人間関係とともに知ることができ、この点で読み物としても面白くなっています。
ただ、同書の主張の、現代ヨーロッパ人の遺伝子プールの母体を作り上げたのは旧石器時代の狩人で、新石器時代の農民の現代ヨーロッパ人への遺伝的寄与は1/5程度だった、との見解は今では無効になった、と確かに言えそうで、ヨーロッパのほとんどにおいて、狩猟採集民の遺伝的構成要素は新石器時代の拡大の結果としてヨーロッパ初期農耕民的な遺伝的構成要素にほぼ置換されました(Olalde, and Posth., 2020、関連記事)。ただ、新石器時代のヨーロッパにおいて、アナトリア半島起源の農耕民と在来の狩猟採集民が混合していったことも確かで、またその混合割合については時空間的にかなりの違いがあったようです(Arzelier et al., 2022、関連記事)。
また、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯からヨーロッパへ到来した集団も強い影響を及ぼした、と指摘した2015年の画期的研究(Haak et al., 2015、関連記事)で、現代ヨーロッパ人の核ゲノムに占める旧石器時代狩猟採集民の割合がかなり低い、と示されていました(Haak et al., 2015図3)。以下はHaak et al., 2015の図3です。
画像
もっとも、『イヴの七人の娘たち』が根拠としたのはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)で、これは時代的制約からも当然であり、サイクス氏の怠慢ではありません。ただ、そのmtHgについても、ヨーロッパ中央部では旧石器時代人のmtHgは現代人に20%程度しか継承されていない、と2013年の時点で推測されていました(Brandt et al., 2013)。以下は、後期中石器時代から現代までのヨーロッパ中央部のmtHg頻度の推移を示したBrandt et al., 2013の図3です。
画像
このように、『イヴの七人の娘たち』の見解が大きく間違っていたのは、当時はまだmtDNAでも解析された古代人の数は少なく、同書がほぼ現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)の分布頻度と推定分岐年代に依拠していたからです。やはり、現代人のmtDNA解析から古代人の分布や遺伝子構成を推測することは危険で、古代DNA研究の裏づけが必要になる、と改めて思います(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。もっとも、古代DNA研究がこれだけ進展した現在では、現代人のmtDNA解析結果だけで古代人の分布や遺伝子構成を推測する研究者はほぼ皆無だとは思いますが。
さらに、ヨーロッパ中央部については、mtDNA解析から、初期農耕民は在来の採集狩猟民の子孫ではなく移住者だった、との見解がすでに2009年の時点で提示されていましたが(Bramanti et al., 2009、関連記事)、私は間抜けなことに、『イヴの七人の娘たち』を根拠に、現代ヨーロッパ人と旧石器時代のヨーロッパ人との遺伝的連続性を指摘する論者との議論が注目される、と述べてしまいました。当時の私の主要な関心は現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などユーラシアの先住の非現生人類ホモ属との相互作用と、現生人類が多少の遺伝的影響を受けつつも非現生人類ホモ属をほぼ完全に置換した理由で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなく(関連記事)、ネアンデルタール人滅亡後のヨーロッパの人類史について最新の研究を追いかけようという意欲が低かったので、この程度の認識でした。
さらにBramanti et al., 2009を取り上げた『ナショナルジオグラフィック』の記事では、移住者と考えられる初期農耕民と先住の採集狩猟民だけでは現代ヨーロッパ人の遺伝的構成は説明できない、とも指摘されています。これは上記の、現代ヨーロッパ人の形成に、旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民と新石器時代にヨーロッパへ到来した農耕民だけではなく、後期新石器時代~青銅器時代にかけてユーラシア草原地帯から到来した集団も関わっていたことを報告した2015年の画期的研究とも通ずるたいへん示唆的な指摘で、アフリカから世界各地に拡散した後の現生人類の動向にはさほど関心はなかった当時の私でも、一応はブログで言及したくらいですが、その意味するところを深く考えていませんでした。見識と能力と関心が欠如していると、重要な示唆でも見逃したり受け流したりしてしまうものだ、と自戒せねばなりません。
また上記のサイクス氏のウィキペディアの記事によると、サイクス氏は2006年に刊行された著書で、イングランドにおけるアングロ・サクソン人の遺伝的寄与はイングランド南部でさえ20%未満だった、と推測したそうです。ただ、昨年(2022年)の研究(Gretzinger et al., 2022、関連記事)では、確かにイングランド南部ではヨーロッパ大陸部からの外来の遺伝的影響は低めであるものの、中央部および東部では高く、全体的には平均76±2%に達するので、アングロ・サクソン時代にはヨーロッパ大陸部からの人類の移住は多かった、と推測されました。その後イングランドでは、さらなる外来からの遺伝的影響があり、アングロ・サクソン時代の外来の遺伝的影響は低下したものの、イングランドの現代人の遺伝的構成は、イングランド後期鉄器時代集団的構成要素が11~57%、アングロ・サクソン時代の外来集団的構成要素が25~47%、フランス鉄器時代集団的構成要素が14~43%でモデル化できる、と指摘されています。
さらに言えば、イングランドでは、新石器時代の農耕民の遺伝的構成要素はアナトリア半島起源の初期農耕民(80%)と中石器時代ヨーロッパ狩猟採集民(20%)でモデル化でき、銅器時代~青銅器時代にかけて大規模な遺伝的置換があり(約90%が外来要素)、中期~後期青銅器時代にも大規模な移住があり、鉄器時代のイングランドとウェールズではその遺伝的影響が半分程度に達した、と推測されています(Patterson et al., 2022、関連記事)。このように、イングランドの人類集団では中石器時代以降、何度か置換に近いような遺伝的構成の変化があり、とても旧石器時代から現代までの人類集団の遺伝的連続性を主張できません。
ヨーロッパでは旧石器時代の人類のDNA解析も進んでおり、最近の研究(Posth et al., 2023、関連記事)からは、旧石器時代のヨーロッパにおいて人類集団の完全に近いような遺伝的置換がたびたび起きていた、と示唆されます。以前にまとめましたが(関連記事)、現生人類がアフリカから世界中に拡散した後で、絶滅も含めて置換は頻繁に起きていたと考えられるので、特定の地域における1万年以上前にわたる人類集団の遺伝的連続性を安易に前提としてはならない、と思います。そのまとめ記事でも述べましたが、これはネアンデルタール人など非現生人類ホモ属にも当てはまり、絶滅や置換は珍しくなかったようです。
参考文献:
Arzelier A. et al.(2022): Neolithic genomic data from southern France showcase intensified interactions with hunter-gatherer communities. iScience, 25, 11, 105387.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2022.105387
関連記事
Bramanti B. et al.(2009): Genetic Discontinuity Between Local Hunter-Gatherers and Central Europe’s First Farmers. Science, 326, 5949, 137-140.
https://doi.org/10.1126/science.1176869
関連記事
Brandt G. et al.(2013): Ancient DNA Reveals Key Stages in the Formation of Central European Mitochondrial Genetic Diversity. Science, 342, 6155, 257-261.
https://doi.org/10.1126/science.1241844
Gretzinger J. et al.(2022): The Anglo-Saxon migration and the formation of the early English gene pool. Nature, 610, 7930, 112–119.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05247-2
関連記事
Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021
関連記事
Patterson N. et al.(2022): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04287-4
関連記事
Posth C. et al.(2023): Palaeogenomics of Upper Palaeolithic to Neolithic European hunter-gatherers. Nature, 615, 7950, 117–126.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-05726-0
関連記事
Schlebusch CM. et al.(2021): Human origins in Southern African palaeo-wetlands? Strong claims from weak evidence. Journal of Archaeological Science, 130, 105374.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2021.105374
関連記事
Sykes B.著(2001)、大野晶子訳『イヴの七人の娘たち』 (ソニー・マガジンズ社、原書の刊行は2001年)
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
2023/06/16 (Fri) 23:08:41
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767
2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)
日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。
篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。
大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。
私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。
橘 中国も唐の時代(618年~907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。
篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。
橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。
篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。
弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。
篠田 そう思います。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2
橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?
篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。
橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。
篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。
さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。
朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。
橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。
篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。
両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。
橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。
篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184~280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。
橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。
篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。
橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。
篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。
ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。
橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。
篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。
当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。
橘 すごくロマンがありますね。
篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。
弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。
古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。
篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。
古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。
橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。
篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。
政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。
篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。
橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。
篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。
篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。
弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。
橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。
篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。
橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。
篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。
次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。
朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。
橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。
2023/06/16 (Fri) 23:19:30
ホモ・サピエンスが繁栄し、ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(前編)
https://diamond.jp/articles/-/306758
2022.7.25
ホモ・サピエンスが繁栄し、ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」
人類の祖先(ホモ・サピエンス)は、なぜ世界を席巻できたのか。ネアンデルタール人などの旧人や、いまだ謎の多いデニソワ人を圧倒した理由はどこにあったのか。ゲノム(遺伝情報)の解析によって解明を進め、『人類の起源』(中央公論新社)などの著書がある人類学者・篠田謙一氏に、自然科学、社会科学にも詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、ユニークな観点からその謎に迫る。(構成/土井大輔)
人類の祖先は水の中で暮らしていた!?
「水生人類説」の可能性は?
橘玲氏(以下、橘) 以前から遺伝人類学にはとても興味がありました。遠い過去のことは、これまでは化石や土器でしかわからなかった。ところが、篠田さんが『人類の起源』で詳しく描かれたように、古代の骨のゲノム解析ができるようになったことで、人類の歴史を大きく書き換える「パラダイム転換」が起きています。せっかくの機会なので、これまで疑問に思っていたことを全部お聞きしたいと思います。
私を含む多くの読者の興味として、人類の誕生と日本人の誕生があると思います。人類とパン属(チンパンジーとボノボ)が共通の祖先から分岐したのは、約700万年前のアフリカということでよいのでしょうか?
篠田謙一氏(以下、篠田) そうですね。化石が示しているのがそれくらいで、ヒトとチンパンジーのゲノムの比較でもだいたい700万年前ということがわかっています。ただ、その後も交雑を繰り返したと考える人もいて、最終的な分岐は500万年前ぐらいではないかという説もありますね。
この700万年前から500万年前の間は化石がほとんど見つかっていないので、なかなか確たることが言えないというのが現状です。
橘 人類の祖先が分岐したのは、環境の変化で森からサバンナに移り住み、二足歩行を始めたからだというのがこれまでの定説でした。しかし今、この常識も疑問視されていますよね。
篠田 地球環境がうんと変わって森がサバンナになってしまったので、地面に降りざるを得なかったんだというのが、一般的に考えられている学説です。ただ、よく調べると数百万年もの間、化石に木のぼりに適応できる形態が残っているので、実はそんなに劇的に環境が変わったわけじゃないじゃないかと。
地面に降りた説が一般に信じられている背景には、「環境が物事を決める」という現代の思想があると思います。テクノロジーに左右されるように、私たちは環境によってどんどん変わっていくんだと。社会が受け入れやすいものが、その時代の定説となっていくんです。逆に言うと、まだそれほど確実なことはわかってないということです。
橘 人類の祖先が樹上生活に適応していたとするならば、なぜ木から降りたのかという話になりますよね。
人類学では異端の考え方だと思うんですが、水生類人猿説(アクア説)に興味があるんです。人類の祖先は森の近くの河畔や湖畔などで長時間過ごすようになったという説で、これだと直立したことがシンプルに説明できます。四足歩行だと水の中に沈んでしまいますから。
体毛が喪失したのに頭髪だけが残ったことや、皮下脂肪を付けるようになったこともアクア説なら説明可能です。より面白いのは鼻の形で、においをかぐのが目的なら鼻腔は正面を向くはずなのに、人間は下向きになっている。なぜなら、鼻の穴が前を向いていると潜ったときに水が入ってきてしまうから。
さらに、今でも水中出産が行われているように、新生児は泳ぐことができる。という具合に、この水生類人猿説は、素人からするとかなり説得力があると思うんですが。
篠田 いただいた質問リストにその質問があったので、「困ったな」と思ったんです(笑)。1970年代、私が学生だったころ提唱された説ですね。当時、本で読んで面白いなと思ったのを覚えています。しかし人類学の仲間とも話をしたんですけども、みんな「これは追わないほうがいい」って言ってましたね。
というのも、この説は「なるほど」と思わせますが、化石の証拠が何もないんです。もちろん可能性としてはあるんですが、証拠のほうから追求することができない。だから研究者はみんなここに手を出さないんです。
橘 わかりました。ではこれ以上、先生を困らせないようにします(笑)。
700万年前に人類の祖先が分岐した後、250万年ほど前から石器が使われるようになり、200万年ほど前に原人が登場する。これも共通理解となっているのでしょうか。
篠田 今ある化石証拠によれば、そういう話になっています。基本的には、脳が大きくなって、直立二足歩行も現在の人間に近い状態になっていくわけですけれども、その理由はまだよくわかっていないんです。最近は、「火を使うようになったからだ」という説もあります。食生活が大きく変わったからだという話ですね。250万年前から200万年前の間は本当に重要な時代なんですけども、いろんな人類のグループがいて、なかなか整理がついていないんです。
橘 となると、そのさまざまなグループの中からどういう経路でヒトの祖先が出てきたのかというのは推測でしかない。
篠田 そうです。完全にスペキュレーション(推測、考察)です。
橘 原人が1回目の出アフリカを敢行してユーラシア大陸に進出した後、西(ヨーロッパ)の寒冷地帯に住むネアンデルタール人だけでなく、中央アジアや東アジアにデニソワ人という別の旧人が存在していたというのは衝撃的な発見です。彼らはどこで、どういうふうに生まれてきたのでしょうか。
篠田 そこは現在、最も混沌(こんとん)としているところでもあるんです。人類進化の研究は、基本的に化石を調べることでした。何十年もの間、古い時代、古い時代へとさかのぼっていたんです。ですから、ほとんどの努力がアフリカ大陸で行われていました。旧人類についてはアフリカ大陸以外のところ、特にユーラシア大陸で骨を探すという努力になるんですが、これまでそれほど注目されていませんでした。最近になってDNA人類学がこの時代の進化のストーリーを提唱したばかりなんです。
橘 ホモ・サピエンスはこれまでアフリカで誕生したというのが定説でした。しかし、近年の遺伝人類学では、ネアンデルタール人やデニソワ人と同様、ユーラシア大陸で共通祖先から分岐した可能性が出てきたんですね。これこそまさに、最大のパラダイム転換です。
篠田 ホモ・サピエンスとネアンデルタール、デニソワ人が共通祖先から分かれたのがおよそ60万年前、最も古いホモ・サピエンスと認識できる化石が出てくるのが30万年ほど前になります。ですから私たちの進化の過程の最初の30万年間は謎に包まれているんです。祖先がどこにいたのか、今後より古いホモ・サピエンスの化石の探求は、アフリカだけでなく、ユーラシア大陸まで視野に入れたものになるでしょう。
ホモ・サピエンスは
なぜ、生き残れたのか
橘 6万年ほど前にホモ・サピエンスによる出アフリカが起こり、アフリカ(サブサハラ)以外のヒトはみなその子孫というのが定説ですが、最新の研究ではどうなっているんでしょうか?
篠田 それはある程度従来の予想通りといえそうです。7万年から5万年前、だいたい6万年前にアフリカ大陸を出た数千人のホモ・サピエンスのグループが、今のアフリカ人以外の人類の先祖であるという考え方、そこは揺らいでいないと思います。
ユーラシア大陸における初期拡散の様子(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306758?page=4
橘 しかし、遺伝人類学の近年の知見では、その先祖より前に、ユーラシア大陸にはホモ・サピエンスがいたとされているわけですよね。
篠田 そうです。ある程度は出ていたのでしょう。それも難しいところでして。中国では10万年くらい前にサピエンスがいたという説があったんですが、それは化石の年代が間違っていたんだという話もあって。出たんだ、いや違うっていうところでせめぎ合っていますが、6万年前より前に出ていたという証拠が多くなってきています。ただし、彼らは現在の私たちにつながらなかったということになりますが。
橘 それ以前から中近東や北アフリカで細々と暮らしていたサピエンスは、かなり脆弱(ぜいじゃく)な種で、ほぼ絶滅してしまったということですか。
篠田 そういうふうに考えています。
橘 だとすると、6万年前に出アフリカしたサピエンスが、なぜ短期間で南極を除く地球上に繁殖したのか、という疑問が出てきますよね。それまでネアンデルタール人やデニソワ人に圧倒されていたのに、いきなり立場が大逆転してしまう。旧サピエンスに対して、ミュータント・サピエンスというか、「ニュータイプ」が現れたんじゃないかと思ってしまいます。
東アフリカのサピエンスの一部が突然変異で大きな前頭葉を持ち、知能が上がって複雑な言語を使うようになって、大きな社会を作るようになったからだという説もありますね。
篠田 『5万年前――このとき人類の壮大な旅が始まった』(ニコラス・ウェイド著、安田喜憲監修、沼尻由起子訳、イースト・プレス)という有名な本がありまして、まさにその発想で書かれているんです。ホモ・サピエンスには言葉や集団を束ねる力があったといった話をされているんですけれども。
ただ、文化の視点で見ていくと、例えばビーズを作ることは10万年以上前からやっているんですね。アフリカ大陸全体で。そういうことから考えると、サピエンスは徐々に変化していったんだろうと私は考えているんです。そのころ、サピエンスに知識革命が起こったんだっていう説は、今では信じていない人のほうが多くなっていると思います。
じゃあ、なんで6万年前に出たのかと言われると、ちょっと答えが見つからなくて。まさにそこ、サピエンスがアフリカを出たということ、世界を席巻したということがキーになっているんです。
橘 それまで東アフリカと中近東の一部に押し込められていたサピエンスが、わずか2万年ほどでユーラシア大陸の東端まで到達し、ネアンデルタール人やデノソワ人などの先住民が絶滅していく。そこでいったい何があったのかは誰もが知りたいところです。
篠田 ネアンデルタール人のゲノムと、ホモ・サピエンスのゲノムとを比べていったとき、私たちに伝わらなかった部分があります。X染色体のある部分もそのひとつです。
そこは何に関係しているかというと、生殖能力だという話があるんです。つまり結局、サピエンスが世界を席巻できたのは、ネアンデルタール人より生殖能力が高かったからだと。繁殖能力が高かったという、そういう考え方です。
一方で、ご指摘のように彼らとは文化が違うんだと。それが席巻する理由になったんだという考え方ももちろんあります。ただ、今はそちらの旗色はあまりよくないんです。
というのは、ヨーロッパでネアンデルタール人が作った文化は、ホモ・サピエンスに近いレベルのものであったという証拠が出始めているんです。
ネアンデルタール人の位置づけは歴史的にすごく変遷していて、時代によって野蛮人だったり、我々に近かったりと捉え方もさまざまです。今は我々に近いところだと考えられているんですけども、だから彼らは滅んだというより、私たちサピエンスが吸収してしまったとみるほうが正しいんじゃないかという人もいます。
橘 単に生殖能力が違っていたということですか。
篠田 ヨーロッパのネアンデルタール人は人口比でサピエンスの10分の1くらいしかいなかっただろうといわれています。
彼らも進化の袋小路に入りかけていて、なかなか数が増やせなかったところに、とにかく多産なホモ・サピエンスが登場したので、吸収されたんだと。ネアンデルタール人との交雑によって、最初はホモ・サピエンスのゲノムに10%くらいネアンデルタール人のゲノムが入っていったと考えられていて、それはまさに両者の人口比そのものだったのではという説もあります。
橘 なるほど。
篠田 ネアンデルタール人とサピエンスは融合してゆくんですけれども、サピエンスのほうが結果的に人を増やすことができた。そこが一番大きいんじゃないかと私は思いますけどね。
橘 その一方で、サピエンスによるジェノサイド説がありますよね。チンパンジーは、自分たちと異なる群れと遭遇すると、オスと乳児を皆殺しにして、妊娠できるようになったメスを群れに加えます。
現在のロシアとウクライナの紛争を見ても、人間の本性だって同じようなものじゃないか。6万年前のホモ・サピエンスが、容姿の大きく異なるネアンデルタール人やデニソワ人と初めて遭遇したとき、「友達になりましょう」なんてことになるわけがないというのは、かなり説得力があると思うんですが。
篠田 今の社会状況を見れば、直感的に受け入れやすい学説かもしれません。
ホモ・サピエンスが繁栄し、ネアンデルタール人が絶滅した「意外な理由」
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 サピエンスは言語や文化(祭祀や音楽、服や入れ墨)などを印(シンボル)として、1000人規模の巨大な社会を構成できるようになった。それに対してネアンデルタール人の集団はせいぜい数十人なので、抗争になればひとたまりもなかった。
生物学的に、男はできるだけ多くの女と****して遺伝子を後世に残すように設計されているから、チンパンジーと同様に、先住民の女を自集団に取り込んで交雑が進んだ。リベラルの人たちには受け入れがたいでしょうが、納得してしまいますよね。
篠田 人類がなぜ進化したのかについて、第2次世界大戦が終わったころはそういう説が多かったんです。「キラーエイプ」という考え方です。今はそれがある意味、復権しているところもありますね。
ただ、もしそれが起きていたとしたら、ネアンデルタール人の(母親から受け継がれる)ミトコンドリアDNA系統が私たちの中に残っているはずなんです。それがないですから、やはりそんなふうには交雑していなかったんだろうと私は思いますね。
橘 少なくとも大規模な交雑はなかったと。
篠田 交雑の際、メスだけが選抜的に取り込まれたという証拠はないはずです。エビデンスがない領域の議論は結局、先ほど申し上げたようにスペキュレーションの世界なので、イデオロギーが入ってきてしまうのです。
社会状況によって、解釈しやすいものがみんなの頭の中にスッと入ってきちゃうんですよね。その中で真実を探すのは、とても難しいんです。
2023/08/11 (Fri) 20:06:47
【落合陽一】「今までの“常識”って何だったんだ」 定説が覆りまくる人類史!謎のデニソワ人の発見、『絶滅と生存』分けた理由、『縄文人と弥生人』の新説、 最新ゲノム解析が明かす現代人への“遺言”とは?
2023/02/16
https://www.youtube.com/watch?v=86BT7_aggag
唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
11:56 / 15:42
【落合陽一】人類最後のフロンティアは「イースター島」だった!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは「お互いをどう見ていた?」絶滅した意外な理由、現生人類の起源の鍵“空白の30万年”とは?[再編ver]
2023/03/02
https://www.youtube.com/watch?v=bCmlfyQ0aj0&t=19s
唯一生き残った人類。それが1属1種の存在として今、地球上に生息する我々、ホモ・サピエンスだ。しかし近年、大量の情報を持つ核DNAの解析が可能となったことから、遥か昔に絶滅したはずの別の人類「ネアンデルタール人」の遺伝子を現代人も受け継いでいると判明し、その進化の過程はより複雑で多様である事がわかってきた。今、飛躍的に進歩する古代DNA研究が、人類史の定説やこれまでの常識を大きく覆そうとしている。人類はどこからきたのか?私たちは一体何者なのか?10万部を突破した『人類の起源』の著者、国立科学博物館の篠田謙一館長を迎え、古代DNA研究の最前線と新たな「人類像」、そして日本人のルーツに、落合陽一が迫る。
2023/08/11 (Fri) 20:34:28
もっと!かはくVR ~解説付き動画でかはくVRの楽しみ方を紹介~
2021/05/19
https://www.youtube.com/watch?v=6GPb2orIHjA
国立科学博物館 篠田謙一館長が、地球館B2Fに展示されている人類展示(マンモスの骨を利用した住居、スンギール遺跡の墓)をご紹介します。
2023/08/11 (Fri) 21:02:52
ノーベル生理学医学賞 ペーボ教授の「進化人類学」とは…日本の第一人者が解説(2022年10月4日)
2022/10/05
https://www.youtube.com/watch?v=Z9SvJ3CjRfM&t=89s
ノーベル生理学医学賞にネアンデルタール人など古代人のゲノム解析と人類の進化に関する発見をしたとして、スウェーデンのスバンテ・ペーボ教授(67)が選ばれました。受賞した研究について、日本の人類学の第一人者に話を聞きました。
国立科学博物館・篠田謙一館長:「人類学っていうと一般に骨を研究したりとか、そこから人類の起源を調べるんですが、(ペーボさんは)そういう教育を受けた人ではない。むしろお医者さんで、医学の方から考古学にも興味があって、古い人はどういう人だったのか知りたいと思ってDNAの研究を始めたっていう人なんです」
人類学の第一人者・国立科学博物館の篠田謙一館長は、ペーボ教授と同じく古代人のDNAを研究しています。
ノーベル生理学医学賞では人間の健康の役に立ったり、病気を克服したりといった応用的な部分が評価されやすく、「進化人類学」のような基礎的な学問が評価されるのは珍しいということです。
国立科学博物館・篠田謙一館長:「恐らく評価されているのは、ネアンデルタール人という今から何万年も前の私たちの親戚筋にあたる人類の骨からDNAを取って、その彼らがDNAからどんな人たちだったのかを調べる、ネアンデルタール人のDNAが私たちにも入っているとのことを2010年以降に発表する、その部分が直接の受賞の理由だと思いますが、単純に古い骨のDNAが取れたということだけではなくて、私たちは何者だということに関するゲノムからの答えが出せるということを示したことであるとか、考古学とか、歴史学とか色んな学問に大きな影響を与える、人間とは何だということを分かるような、そういう研究方法を生み出したというところが一番評価されているのだと思います。彼(ペーボさん)の場合は恐らく、古代の人のことを知りたいっていうモチベーションが非常に強くあるわけです。昔の人と私たちの関係を調べるっていったらDNAを調べるのが一番そういう意味では確かですよね。そのDNAはどうやって調べたらいいんだろうというところから話を始めて、技術開発をうまく自分のモチベーション、自分の知りたいことにつなげていったということを延々ときっとやってきた人なんです。それで誰しもが思わなかったような古代のDNAを現代人と同じレベルで解析するっていうことは彼をして可能になったということになります」
2023/12/11 (Mon) 14:28:35
ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ&t=120s
古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
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交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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Kindle版
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2024/06/06 (Thu) 07:27:30
埋もれた古代人骨が解明する!空白の1万年の謎...!! 【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】2024/06/05
https://www.youtube.com/watch?v=ERzBu0tom6A
2024/12/26 (Thu) 08:40:54
【まだ教科書にない人類のルーツ】ノーベル賞「ゲノム研究」でわかった人類史/ネアンデルタール人とホモサピエンスは「子供」を作っていた/謎の人類デニソワ人/国立科学博物館館長・分子人類学者篠田謙一氏に聞く
プレジデント 公式チャンネル 2024/12/24
https://www.youtube.com/watch?v=yxFnu9-KcP0&t=0s
0:00 そもそも人類学とは何か
5:07 ゲノム解析で生物学に変化が
8:10 人類史が書き換えられた!?
12:59 ネアンデルタール人のDNA
17:48 謎の人類「デニソワ人」
20:22 6万年前にアフリカを出発
23:52アメリカへはいつ行ったか
27:05ホモサピエンスは虚構を作る?
【9割は「外来種」日本人のDNA】縄文人と弥生人は違う種だった?/人類は1万年前よりバカになっている?/沖縄3割・アイヌ7割「日本人の二重構造モデル」/国立科学博物館館長・分子人類学者篠田謙一氏に聞く
https://www.youtube.com/watch?v=E1j7w3eBrBs&t=0s
0:00 日本人は大陸からやってきた
5:27 弥生時代は混血の時代?
9:21 縄文人と弥生人は何が違うか
13:09 人類の脳容積は減っている?
17:09 我々はどっちの方向へ行くのか
21:13 日本人の「二重構造モデル」
24:30 邪馬台国はどこにあったか
29:44 日本人とは何なのか?
▼出演者
篠田謙一|国立科学博物館館長 1955年生まれ。京都大学理学部卒業。79年産業医科大学解剖学講座助手。86年佐賀医科大学解剖学講座助手。94年講師。96年助教授。2003年国立科学博物館人類第一研究室室長。09年同人類史研究グループ長。21年より現職。医学博士。専門は分子人類学。著書 に『人類の起源』『日本人になった祖先たち』 等。
2025/04/09 (Wed) 17:02:19
【日本人の源流】倭人は揚子江下流域からやってきた!?【長江文明】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】 2024/02/27
https://www.youtube.com/watch?v=e0S3Bg50OHo&t=17s
【動画目次】
00:00 オープニング
00:53 倭人が周王朝に献じたものとは?
06:06 金石文の中の倭人
11:01 山海経と漢書王莽伝の中の倭人
14:12 倭人は揚子江下流域からやってきた!
今回の動画では、中国の古代史書に出てくる倭人とは誰か?
中国の南方に住む民族と日本人の関係とは?
倭人の源流について解説しています!
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【まだ教科書にない人類のルーツ】ノーベル賞「ゲノム研究」でわかった人類史/ネアンデルタール人とホモサピエンスは「子供」を作っていた/謎の人類デニソワ人/国立科学博物館館長・分子人類学者篠田謙一氏に聞く
プレジデント 公式チャンネル 2024/12/24
https://www.youtube.com/watch?v=yxFnu9-KcP0&t=18s
0:00 そもそも人類学とは何か
5:07 ゲノム解析で生物学に変化が
8:10 人類史が書き換えられた!?
12:59 ネアンデルタール人のDNA
17:48 謎の人類「デニソワ人」
20:22 6万年前にアフリカを出発
23:52アメリカへはいつ行ったか
27:05ホモサピエンスは虚構を作る?
【9割は「外来種」日本人のDNA】縄文人と弥生人は違う種だった?/人類は1万年前よりバカになっている?/沖縄3割・アイヌ7割「日本人の二重構造モデル」/国立科学博物館館長・分子人類学者篠田謙一氏に聞く
https://www.youtube.com/watch?v=E1j7w3eBrBs
0:00 日本人は大陸からやってきた
5:27 弥生時代は混血の時代?
9:21 縄文人と弥生人は何が違うか
13:09 人類の脳容積は減っている?
17:09 我々はどっちの方向へ行くのか
21:13 日本人の「二重構造モデル」
24:30 邪馬台国はどこにあったか
29:44 日本人とは何なのか?
【古代ゲノム研究から学ぶ人類の過去と未来:我々はどこから来てどこへ進むのか?】太田 博樹_第138回東京大学公開講座「制約と創造」
東大TV / UTokyo TV 2025/03/07
https://www.youtube.com/watch?v=JQAHNRM4Lj0
ネアンデルタール人などの全ゲノム解読をおこなった功績で、スヴァンテ・ペーボ博士は2022年ノーベル生理学医学賞を受賞しました。絶滅人類の遺伝情報がいま生きている私たちの何に役立つのでしょうか?本講演では、この新しい学問分野「古代ゲノム学」について解説します。
講師:太田博樹(東京大学 理学系研究科 / 教授)
06:53 古代DNAの制約
11:16 私たちはいつから"人間"なのか
36:53 新しい分野の創造
165:777 : 2025/04/09 (Wed) 15:04:10
【人類はどこから来て、どこに向かうのか】国立科学博物館館長・篠田謙一/ノーベル賞受賞研究が明らかにした人類の起源/「日本人」の起源とは/「科博クラファン」の裏側と目的【EXTREME SCIENCE】
PIVOT 公式チャンネル 2024/07/25
https://www.youtube.com/watch?v=bw2pLH7v8Rw&t=10s
篠田謙一『人類の起源』中央公論新社
https://amzn.to/3YhR91B
篠田謙一『新版 日本人になった祖先たち』NHK出版
https://amzn.to/3WB90PL
篠田謙一『科博と科学』早川書房
https://amzn.to/3WzzjWt
<目次>
0:00 ダイジェスト
2:49 人類学に起きた革命
11:29 人類の起源
23:31 ビッグサイエンス化する人類学
28:24 なぜホモサピエンスが生き残ったのか
36:54 人類史と気候の変化
48:33 クラウドファンディングの裏側
56:22 国立科学博物館の役割
1:09:20 国立科学博物館のこれから
2025/11/09 (Sun) 09:33:12
雑記帳 2025年11月09日
人類進化史概略
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
人類進化に関する英語論文を日本語に訳してブログに掲載するだけではなく、これまでに得た知見をまとめ、独自の記事を掲載しよう、と昨年(2024年)後半から考えていますが、最新の研究を追いかけるのが精一杯で、独自の記事をほとんど執筆できておらず、そもそも最新の研究にしてもごく一部しか読めていません。現在の私の知見ではまだ「入力」が足りないことはとても否定できませんが、そう言っていると、一生「入力」だけで終わってしまいますし、時々「出力」というか整理することで、今後の「入力」がより効率的になっていくのではないか、とも思います。そこで、多少なりとも状況を改善しようと考えて思ったのは、ある程度まとまった長い記事を執筆しようとすると、怠惰な性分なので気力が湧かないため、思いつき程度の短い記事でも少しずつ執筆していくことですが、まだわずかしか執筆できておらず、ほとんど状況を改善できていません。この状況から脱するために、今回まず、人類史における画期というか時代区分を意識して、人類進化史の現時点での私見を短く述べることにしました。この記事で提示した各論点について、さらに整理して当ブログに掲載していくつもりですが、怠惰な性分なのでどこまで実行できるのか、自信はまったくありません。
●最初期の人類
当ブログでは「人類」という用語をずっと使ってきましたが、この用語については、チンパンジー属系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統を、漠然と想定してきました。人類進化史について述べていくには、この点をある程度明確に定義する必要があるとは思いますが、現時点の私の知見では漠然と想定した以上の確たる定義はできません。当ブログでは、分類学的にはヒト亜族(Hominina)とほぼ同義のつもりで「人類」を用いてきましたが、これが適切な用法なのか、確信はありません。ただ、現時点の私の知見ではこれ以上の妙案がすぐには思い浮かばないので、少なくとも当面は、ゴリラ属(Gorilla)系統、さらにはその後にチンパンジー属(Pan)系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統として、「人類」を用いることにします。
直立二足歩行の最古級のヒト科(Hominidae、現生のホモ属とチンパンジー属とゴリラ属の系統)候補として、チャドで発見された704万±18万年前頃(Lebatard et al.,2008)のサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)と600万年前頃のオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)が指摘されており、一般的にサヘラントロプス属とオロリン属は最古級の人類系統と考えられているように思います(荻原.,2021)。ただ、移動形態と分子生物学的観点からは、サヘラントロプス属とオロリン属を最古級の人類系統と分類するのに慎重であるべきとは思います。
現生のチンパンジー属とゴリラ属の移動形態はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)ですが、これについては収斂進化の可能性が指摘されています(Morimoto et al., 2018)。つまり、ゴリラ属の祖先とチンパンジー属および現生人類(Homo sapiens)の共通祖先が分岐したならば、人類系統も当初はナックル歩行だった、と考えるのがより節約的ですが、現生のチンパンジー属とゴリラ属のナックル歩行が収斂進化だとすると、最初期人類の移動形態がナックル歩行だったとは限らないわけです。そのため、ヒト科において二足歩行は地上に下りてからではなく樹上で始まり、人類の二足歩行は新たな環境における旧来の移動方法の延長上にあった、とも指摘されています(DeSilva., 2022)。
ヒト科において、比率に系統間で差はあっても、四足歩行と二足歩行の併存が一般的だったとすると、中新世のヒト科でやや二足歩行に傾いた人類以外の系統が存在したとしても不思議ではありません。類人猿の完全なゲノム配列を報告した研究(Yoo et al., 2025)では、チンパンジー属系統と現代人系統の分岐が630万~550万年前頃と推定されています。この推定分岐年代は、サヘラントロプス・チャデンシスの推定年代より新しく、オロリン・トゥゲネンシスの推定年代と重なります。チンパンジー属系統と現代人系統の分岐については、分岐してから一定の期間の交雑も想定すると、年代の推定に難しいところもありますが、700万年前頃以降の形態学的に二足歩行が補足されるヒト科化石でも、人類系統とは限らない可能性を今後も想定しておくべきとは思います。
確実に人類系統と思われる最古級の化石はアルディピテクス属(Ardipithecus)で、多数の化石が見つかっていることから詳細に研究されている440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の移動形態は確実に二足歩行と考えられているものの、樹上生活に適応的な形質も見られ、それはアルディピテクス属以降に出現したアウストラロピテクス属(Australopithecus)でも同様です(荻原.,2021)。人類系統は、四足歩行を基本としつつ、時には二足歩行で移動するような、ヒト科の祖先的移動形態から二足歩行への比重を高めつつ、アルディピテクス属でもその後のアウストラロピテクス属でも、完全に地上での二足歩行に適応していたわけではなく、樹上生活に適応的な形質も保持していた、と考えられます。
●人類の多様化と地理的拡大と石器の使用
440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス以前の人類系統についてはよく分かりませんが、それ以降は次第に解明されつつあります。420万年前頃以降にはアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)が確認され、その後には詳細に形態が研究されてきたアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)が出現します。400万~300万年前頃の人類については、ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)やアウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)やアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus、Granger et al., 2015)やアウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda、Haile-Selassie et al., 2015)などといった種区分が提唱されており、さらにはアウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・アファレンシスが一時的に共存していた可能性も指摘されています(Haile-Selassie et al., 2019)。アルディピテクス・ラミダスと最古級のアウストラロピテクス属との年代の近さからも、アルディピテクス・ラミダスがアウストラロピテクス属の直接的祖先である可能性は低そうですが、アウストラロピテクス属とアルディピテクス・ラミダスの最終共通祖先が500万年前頃に存在した可能性もあるとは思います。
かつて、400万~300万年前頃の人類は(アウストラロピテクス・アナメンシスとそこから進化した)アウストラロピテクス・アファレンシスだけとも言われていましたが(Gibbons., 2024)、現在でも、これらの400万~300万年前頃の人類化石が、同じ種内の形態的多様性を表している可能性は否定できないように思います。その意味では、400万~300万年前頃の人類はアウストラロピテクス属、さらにはその中の1種(アウストラロピテクス・アファレンシス)のみに分類されるにしても、属の水準で複数の系統が存在していたにしても、まだ多様化が進んでいなかった、とも言えるかもしれませんが、アウストラロピテクス・アファレンシスの一部の化石を除いて、ほぼ断片的な証拠とはいえ、アウストラロピテクス・アファレンシスとの違いを指摘される化石がそれなりに発見されてきたわけですし、今後の発見も考えると、現時点では400万~300万年前頃の人類の多様性が過小評価されている可能性は高いように思います。
人類の多様化が化石記録において明確に見られるのは、300万年前頃以降です。大きな傾向としては、400万~300万年前頃にはアウストラロピテクス属のみ若しくは類似した系統しか存在していなかったのに対して、300万年前頃以降の人類には、より頑丈な系統であるパラントロプス属(Paranthropus)と、より華奢で脳容量の増加した系統であるホモ属が出現します。パラントロプス属は、アフリカ東部の270万~230万年前頃となるパラントロプス・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)および230万~140万年前頃となるパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)と、アフリカ南部の180万~100万年前頃となるパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されており(Lewin.,2002,P123)、100万年前頃までには絶滅した、と推測されています(河野.,2021)。
ただ、パラントロプス属がクレード(単系統群)を形成するのか、疑問も呈されており(河野.,2021)、つまりは、アフリカ東部において、先行するアウストラロピテクス属種からパラントロプス・エチオピクスとされる系統が、さらにそこからパラントロプス・ボイセイとされる系統が派生したのに対して、アフリカ南部では、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)からパラントロプス・ロブストスとされる系統が進化したのではないか、というわけです。そうだとすると、パラントロプス属という分類は成立せず、パラントロプス属とされる3種はすべてアウストラロピテクス属に分類するのが妥当と思われます。
こうした300万年前頃以降の人類の多様化の背景には、森林の多い環境から草原の多いより開けた環境への変化(Robinson et al., 2017)というよりも、それ以前と比較しての気候変動の激化が推測されています(Antón et al., 2014、Joannes-Boyau et al., 2019)。気候変動の激化によって環境が不安定になり、さまざまな進化的対応の結果としての多様化だったのではないか、というわけです。ホモ属において脳容量が増加した理由として、個体間競争や集団間競争よりも生態学的課題を重視する見解(González-Forero, and Gardner., 2018)も提示されています。一方で、初期ホモ属の脳容量増加が体格の大型化とある程度は連動していた側面も否定できません(Püschel et al., 2024)。初期ホモ属の体格は多様で、170万年以上前には推定身長152.4cm以上の個体は稀だった、との指摘(Will, and Stock., 2015)もあり、じっさい、推定脳容量の平均について、アウストラロピテクス属が480cm³程度(現生チンパンジー属よりやや大きい程度)、最初期の明確なホモ属である180万~100万年前頃のホモ・エルガスター(Homo ergaster)が760cm³程度、100万年前頃以降の後期ホモ・エレクトス(Homo erectus)が930cm³程度なのに対して(Dunbar.,2016,P135)、200万年前頃の最初期ホモ属の成体時の脳容量は551~668cm³程度と推定されています(Herries et al., 2020)。
ホモ属がどのように出現したのか、まだはっきりとしませんが、現時点では、ホモ属のような派生的特徴を有する最古の化石は、エチオピアで発見された280万~275万年前頃の左側下顎ですが、アウストラロピテクス属のような祖先的特徴も見られます(Villmoare et al., 2015)。おそらくホモ属は、アウストラロピテクス属的な人類から進化したのでしょう。ただ、南アフリカ共和国で発見されたアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)にも、ホモ属のような派生的特徴とウストラロピテクス属のような祖先的特徴が混在しており(河野.,2021)、ホモ属の出現が280万年前頃までさかのぼる、と直ちに断定はできませんが、300万年前頃以降にホモ属的特徴が出現し始めて、異なる人類系統の複雑な混合の過程を経て、200万年前頃までにはホモ属が出現したのではないか、と私は考えています。後述のように、この多様な人類系統の共存状態(とくに人類がアフリカからユーラシアへと広く拡散した後は、異なる系統間の接触機会は少なかったとしても)は、現生人類の世界規模の拡散まで続きます。
石器の製作は人類史において画期とされており、脳容量の増加したホモ属によって石器が製作され始めた、と考えると話がきれいにまとまりますが、実際はもっと複雑だったようです。ホモ属によって広く使用され、その後の石器の起源となった最古の石器は、長くオルドワン(Oldowan)と考えられていました。オルドワン石器の最古級の年代は以前には260万年前頃と考えられており、ホモ属の化石の最古級の記録と近い年代ですが、現在ではアフリカ東部において300万年前頃までさかのぼることが知られています(Plummer et al., 2023)。さらに、オルドワン石器の前となる330万年前頃の石器がケニアで発見され、ロメクウィアン(Lomekwian)と呼ばれていますが、オルドワンとの技術的関係はまだ確認されていません。
300万年以上前となる、ホモ属のような派生的特徴を有する人類化石も、最初期ホモ属並の脳容量の人類もまだ発見されていませんから(今後、見つかる可能性が皆無とは言えませんが)、石器技術の始まりは脳容量の増加と関連していないようです。現生チンパンジー(Pan troglodytes)が野生で道具を使用していることから、人類系統も最初期から道具を使用していた可能性は高そうで、ホモ属よりも前に道具を明確に製作するようになり、石器も製作し始めたのではないか、と私は考えています。パラントロプス属がオルドワン石器を製作していた可能性も指摘されており(Plummer et al., 2023)、アウストラロピテクス属が持続的ではないものの散発的に石器を製作し、そうした試みのなかの一つがオルドワン石器につながり、人類系統で広く定着したのではないか、と私は推測しています。オルドワン石器よりさらに複雑なアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)石器の年代は、エチオピア高地において195万年前頃までさかのぼります(Mussi et al., 2023)。
石器製作の開始と脳容量増加とは関連していませんでしたが、人類の最初の出アフリカも脳容量増加、さらには体格の大型化と関連していなかった可能性が高そうです。現時点で、300万年以上前となる人類系統(とほぼ確実に考えられる)の痕跡(化石や石器や解体痕のある非ヒト動物の骨など)はアフリカでしか発見されておらず、アフリカ外の最古級の人類の痕跡は250万年前頃のレヴァントまでさかのぼり(Scardia et al., 2019)、中国では212万年前頃(Zhu et al., 2018)、ヨーロッパでは195万年前頃(Curran et al., 2025)までさかのぼります。人類は250万年前頃以降、アフリカからユーラシアへと拡散し、200万年前頃までには、どれだけ持続的だったかは分からないものの、ユーラシアの広範な地域に少なくとも一度は定着していた可能性が高そうです。この人類の出アフリカは、脳容量の増大や体格の大型化を前提とはしなかったようですが、石器技術が定着した後にはなります。ただ、人類の出アフリカに石器が必須だったのかどうかは、まだ断定できません。
この人類の最初の出アフリカと強く関連していたかもしれないのは、地上での直立二足歩行(および長距離歩行)により特化したことです。投擲能力を向上させるような形態は、すでにアウストラロピテクス属において一部が見られるものの、現代人のように一括して備わるのはホモ・エレクトス以降で(Roach et al., 2013)、おそらく投擲能力の向上は、直立二足歩行への特化および木登り能力の低下と相殺(トレードオフ、交換)の関係にあったのでしょう(Wong., 2014)。人類は投擲能力の向上によって捕食者を追い払うことができ、それは死肉漁りにも役立った、と思われます。250万~210万年前頃までの、アフリカからユーラシアへと拡散した人類は現代人のような直立二足歩行能力と投擲能力を完全には備えていなかったかもしれませんが、この点でアウストラロピテクス属よりずっと優れており、それが出アフリカを可能にしたのではないか、と私は考えています。投擲能力が人類のユーラシアへの拡散に重要な役割を果たした確実な根拠はありませんが、170万年以上前の初期ホモ属遺骸と石器が発見されているジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡において、峡谷の入口で大量の石が発見されており、この初期ホモ属が非ヒト動物に投石したか、投石によって動物を狩っていた可能性が指摘されていること(Gibbons., 2017)は、人類のユーラシアへの初期拡散における投擲能力の重要性の傍証となるかもしれません。
●60万年前頃:脳容量増加と火の使用と石器技術の複雑化
人類の脳容量はホモ属の出現以後に増加していきますが、100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境に急激に増加しているように見えます(Püschel et al., 2024)。100万年前頃以降のホモ属の平均的な推定脳容量は、分類に問題のあるホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の1170 cm³はさておくとしても、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)では1320cm³、現生人類では1370cm³です(Dunbar.,2016,P174)。ただ最近の研究では、種間の脳容量の差は体重と強く相関しているものの、種内では体重との相関が弱く、経時的に増加しており、つまり脳容量増加は種内では時間と強く相関していて、断続平衡的見解で想定されるような短期間の増加と長期の安定ではなかった、と示されています(Püschel et al., 2024)。
ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間は、複雑な遺伝子流動が推測されており、分岐年代も単純には推定できないでしょうが、最近の遺伝学的研究では60万年前頃とされています(Li et al., 2024)。形態学的研究では、現生人類系統および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統の共通祖先とネアンデルタール人系統の祖先との分岐が138万年前頃と推定されており(Feng et al., 2025)、この推定年代は現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係も含めて分子生物学的知見と大きく異なるので、現時点では有力説とは認めがたいものの、現生人類系統とネアンデルタール人(およびデニソワ人?)系統において、独自に脳容量の増加が起きた可能性は高そうです。
この100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境とする脳容量増加との関連で注目されるのが、石器技術が60万年前頃を境に急速に複雑化していったことです(Paige, and Perreault., 2024)。60万年前頃以降、文化は真に累積的になり(Paige, and Perreault., 2024)、それは現生人類系統やネアンデルタール人系統での脳容量増加と相関していたかもしれません。40万年前頃以降には、火の使用が考古学的に明確に可視化されるようになり、ホモ属集団間の相互作用の活発化が示唆されています(MacDonald et al., 2021)。火の使用の考古学的痕跡がずっと明確になる年代は60万年前頃よりも遅いわけですが、脳容量増加と石器技術の複雑化の相関が、集団間の相互作用の活発化につながったのならば、ホモ属の進化史における一連の重要な変化と言えるかもしれません。ただ、60万年前頃から現生人類の世界規模の拡散までの間は、100万年以上前と比較して、人類がユーラシアのより高緯度に進出した可能性は高そうですが、その拡散範囲が大きく広がったわけではなさそうです。
●現生人類の出現と拡散
現生人類の唯一の起源地がアフリカであること(現生人類アフリカ単一起源説)は、今では広く受け入れられています(Bergström et al., 2021)。現生人類もしくは解剖学的現代人と分類される30万年前頃以降のホモ属化石がアフリカで発見されてきましたが、現生人類の形成過程はネアンデルタール人系統との分岐も含めてかなり複雑だった可能性があり(Ragsdale et al., 2023)、その出現時期を特定するのは今後も困難かもしれません。現生人類の出現が人類史における画期だったことは間違いなく、それは、少なくとも過去300万年間の大半の期間において複数系統の人類が存在していたのに、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属から現生人類への多少の遺伝子流動(Tagore, and Akey., 2025)はあっても、非現生人類ホモ属は今では絶滅しており(非ホモ属人類は、上述のパラントロプス属を最後に、100万年前頃までに絶滅した、と考えられます)、その全てではないとしても、複数の非現生人類ホモ属系統が現生人類の影響によって絶滅した、と考えられるからです。
ヨーロッパの大半においては、ネアンデルタール人の痕跡は4万年前頃までに消滅し、それは現生人類のヨーロッパへの拡散後のことです(Higham et al., 2014)。ユーラシア東部には多様な非現生人類ホモ属が存在しましたが、たとえばホモ・フロレシエンシスの痕跡は5万年前頃以降には見つかっておらず(Sawafuji et al., 2024)、これは現生人類の拡散と関連している可能性が低くないでしょう。チベット高原では、デニソワ人が32000年前頃まで生存していた可能性が指摘されており、これは現生人類のチベット高原の拡散より後だった可能性が高そうです(Xia et al., 2024)。もちろん、現生人類の拡散がネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅要因だったことを直接的に証明するのは困難ですし、現生人類とは関係なく絶滅した非現生人類ホモ属もいるでしょうが、たとえばネアンデルタール人は数十万年もヨーロッパに存在し、もちろん局所的に集団が絶滅することは珍しくなかったとしても、ネアンデルタール人系統としては度々の気候寒冷化にも耐えて生き残ってきたわけで、ネアンデルタール人絶滅の究極的要因は現生人類と断定しても大過ないと考えています。
非現生人類ホモ属や非ヒト動物の絶滅に現生人類の世界規模の拡散が大きな影響を及ぼした可能性は高そうですが、注目すべきは、現生人類が5万年以上前に非現生人類ホモ属に決定的な負の影響を及ぼした痕跡はまだ確認されていないことです。その意味では、現生人類の出現以上に、非アフリカ系現代人全員の主要な祖先集団の5万年前頃以降の世界規模の拡散の方を重視すべきと考えています。上述のように、初期現生人類と分類されている化石はアフリカにおいて発見されており、30万年前頃までさかのぼりますが、そこから5万年前頃までにはかなりの時間差があります。そこで、5万年前頃に現生人類の神経系にかかわる遺伝子に突然変異が起き、現代人と変わらないような知的能力を有した結果、現生人類が発達した文化を開発し、先住の非現生人類ホモ属に対して優位に立って、世界各地に短期間に進出した、といった仮説(Klein, and Edgar.,2004,P21-28,P258-262)も提示されましたが(創造の爆発説)、考古学的にはこの仮説は支持されておらず(Scerri, and Will., 2023)、遺伝学的にも、現代人の各地域集団の分岐は5万年前頃よりずっと古そうなので(Ragsdale et al., 2023)、創造の爆発説は妥当ではないでしょう。
では、現生人類が非現生人類ホモ属を絶滅に追いやった原因は何かというと、現生人類が非現生人類ホモ属に対して認知能力の点で優位に立ち、それが技術面では弓矢などの飛び道具、社会面では他集団との関係強化につながり、ネアンデルタール人が現生人類との競合に敗れて絶滅した、との見解が有力なように思います。ただ、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の絶滅について以前まとめたので(関連記事)、この記事では詳しく繰り返しませんし、参考文献を省略しますが、ヨーロッパの45000年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人がヨーロッパの大半で消滅した4万年前頃以降には、遺伝的影響が大きく低下したかすでに絶滅しており、弓矢を有していたと思われる5万年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人との競合に敗れて絶滅したか撤退したようです。世界中に拡散した非アフリカ系現代人の主要な出アフリカ祖先集団に属しており、ヨーロッパで一時は広く拡散していた可能性のある現生人類集団(少なくとも現在のチェコとドイツに分布していました)でさえ、ネアンデルタール人の痕跡がほぼ消滅した頃にはおそらく絶滅していたことを考えると、現生人類の繁栄とネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅を、飛び道具の有無など単一もしくは少数の要因、さらにはその背景として認知能力の違いに単純に求めるのには、慎重であるべきと考えています。もちろん、非現生人類ホモ属と現生人類との間に認知能力の違いがあった可能性は高いでしょうし、それが非現生人類ホモ属の絶滅に関わっている可能性は低くないと思いますが、その具体的経緯については、まだ不明なところが多分にあると言うべきでしょう。
非現生人類ホモ属の絶滅後には、温暖な完新世において植物の栽培化(農耕)と動物の家畜化が進み(イヌの家畜化は他の非ヒト動物よりもずっと古く、更新世までさかのぼる可能性が高そうですが)、これが人類史において重要な転機となったことは、広く受け入れられているでしょう。その後の、国家につながる社会の組織化や階層化、金属器の使用、文字の開発、産業革命、情報革命など、人類史で重要と思われる事柄は多々ありますが、現時点では多少の意見を述べる準備すらできていないほど勉強不足です。ただ、昔から競馬について関心を抱いていたので、ウマの家畜化について少し述べると、人類史におけるウマの影響は、おそらく家畜化とそれに伴う荷車や戦車(チャリオット)の牽引役としての利用などよりも、ヒトによる騎乗法の開発の方がずっと大きかったのではないか、と考えています。
●まとめ
当初は、もっと簡潔にまとめて、参考文献もできるだけ少なくするつもりでしたが、まとめきることができず、思いつきを述べてしまうだけの結果になってしまいました。一方で、長く述べたのに、中期更新世後半のアフリカ南部に存在したひじょうに興味深いホモ・ナレディ(Homo naledi)や人類の社会構造などについて言及しておらず、今後の課題となります。最後に短くまとめると、人類進化の初期はよく分からず、おそらくその移動形態は現生のチンパンジー属およびゴリラ属のナックル歩行ではなく、四足歩行を基本としつつ、時に二足歩行だったところから、次第に二足歩行への比重が高まり、チンパンジー属系統とも明確に分岐していった、と考えています。最古の確実な人類系統は440万年前頃のアルディピテクス・ラミダスで、その後で420万年前頃までにはアウストラロピテクス属が出現していたようです。
400万~300万年前頃には、まだアウストラロピテクス属(的な)人類しか確認されていませんが、300万年前頃以降に人類系統の多様化が明確になり、ホモ属とパラントロプス属がその両極となります。この多様化をもたらした選択圧は、森林の多い環境からより開けた環境へと長期的に変わっていったことよりも、短期間での環境変動の激しさの方が大きかったかもしれません。人類史においては、300万年前頃以降の多様化が一つの画期になると思います。この多様化の少し前から石器の使用が確認されていますが、現時点では散発的なので、石器使用の定着はこの多様化と連動している可能性が高そうです。この多様化の期間に人類は初めてアフリカから拡散しますが、それには、アウストラロピテクス属と比較しての脳容量増加や体格の大型化よりも、直立二足歩行(長距離移動)と投擲能力の向上の方が重要な役割を果たしたようです。
60万年前頃から、石器技術が複雑化し、これはホモ属の脳容量増加と相関していたかもしれません。さらに、そうした連動的な変化が、他集団とのより密接な関係につながり、考古学的には40万年前頃以降の火の使用の明確化として現れている可能性が考えられます。この脳容量の増加は単系統群で起きたわけではなく、現生人類系統とネアンデルタール人系統などで独立して起きた可能性が高そうです。現時点では、300万~200万年前頃の人類の多様化や、後続の現生人類の世界規模の拡散と比較して地味というか把握しづらい印象も受けますが、人類史において重要な転機だった可能性があります。こうした状況で、アフリカにおいて現生人類が出現しますが、その形成過程については不明なところが多々あります。
次の人類史の 重要な転機は5万年以上前以降の現生人類の世界規模の拡散で、それまで300万年間ほど続いてきた、多様な人類系統の共存状態が消滅し、現生人類系統のみが存在することになりました。もちろん、これはアフリカにおける現生人類集団の生物学的進化および文化的(社会的)蓄積が基盤になっているはずで、その意味ではこの転機をもう少しさかのぼらせるべきかもしれませんが、世界規模での影響拡大という点では、5万年前頃を現生人類の出現以上に重要な転機と考えるべきとは思います。ただ、ヨーロッパの事例からも、5万年前頃以降の現生人類が非現生人類ホモ属に対して常に一方的に優勢に立っていたわけではない可能性も想定しておくべきでしょう。さらに、非現生人類ホモ属と現生人類との間だけではなく、現生人類においても完新世でさえ実質的な完全置換は珍しくなく、局所的な人類集団の遺伝的連続性を安易に前提にしてはならない(関連記事)、と思います。その意味でも、遺伝的混合を認めるにしても、地域的な人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は根本的に間違っている、と私は考えています。
参考文献:
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
| 人類は1200人まで減少し、自分自身や環境を変える事で生き残った | ■↑▼ |
2023/10/28 (Sat) 06:13:57
人類は1200人まで減少し、自分自身や環境を変える事で生き残った
2023.10.27
https://www.thutmosev.com/archives/304435gt.html
絶滅の危機に陥った最初の人類は火を使う事で生き延びた
人類の繁栄はただの偶然
科学番組では”人類はなぜ繁栄したのか”というテーマで人類がいかに優秀で特別な存在かを分析し、結局のところ「猿より優秀だったからだ」という結論が出るのが定番になっています
だが人間が他の人類より優れた道具を使い始めたのはせいぜい1万年前で、その前の700万年間は猿と同じ暮らしをしていました
最初に道具を使った人類は我々ではなく300万年以上前のアウストラロピテクスで、骨から道具を使う人類だけに見られる特有の網目パターンが発見されている
石を振り下ろして叩くような行動をした場合だけ手の骨の内部の海綿質に網目パターンができ、300万年前のアウストラロピテクスにはそれがあった
ある種の猿やチンパンジーやオラウータンは木の枝で虫を捕まえたり、石で叩くことができるので道具を使うのは猿の仲間にはそれほど珍しくない
約40万年前から4万年前まで存在したネアンデルタール人は多くの道具を使い「道具を加工する道具」という高度な産業まで発展させていました
約5万年前のフランス南西部の遺跡からは皮革加工用の精巧なシカの肋骨骨角器が見つかり、骨を前後に動かして皮をなめし、しなやかさや光沢、耐水性などを与えていたと思われる
単に落ちている動物を利用するのではなく集団で組織的に狩りをし、鹿を解体して皮をきれいに剥がして加工し、品質を向上させて付加価値をつけることまでやっていたのを意味する
5万年前の人類はそこまで進歩しておらず旧石器時代で、骨の加工は石より難しいので鋭い石などを利用して皮をはがしていました
ネアンデルタールは人類と約1万年共存して絶滅したが、その間で欧州で人類と交配し誕生したのが「碧眼、金髪、色白、長身」のヨーロッパ人種とも言われています
現在の人類は人口70億人を超え最終的に120億人に達した後で減少すると予想されていますが、700万年のほとんどの期間数万人以下の人口でした
1万年前の世界人口は500万~1千万人で日本列島の縄文人はこのうち約2万人、それが1万年後に70億人と1.2億人まで増えました
90万年前の絶滅危機が人類を変えた
縄文以前の日本列島は食糧を得るのが困難で長期間定住した人種はおらず、人口数千人の時代が長く続いたとも言われています
列島の食糧事情を劇的に改善したのは縄文土器で、生では毒性がある木の実を煮て食べたり、動物や魚や植物を無害化して栄養を摂取できるようになった
縄文人は2万人から25万人まで増えたが末期には8万人まで減少し、稲作を導入して弥生化し古墳時代に100万人を突破しています
世界では90万年前に人類はアフリカだけで生活し人口は数万人から10万人だったが、ある時1000人程度まで人口減少が起きた
この時代の人類の完全な化石は発見されていないが、イェール大学の研究チームは遺伝子の家系図から人類が1280人まで減少したと分析した
地球寒冷化が原因とみられるが極端に多様性が失われた結果、大絶滅の後の人類は脳のサイズが巨大化し現生人類と同じ方向性への変化が始まっていた
本当なら脳が小さい人類との交配で調整される筈なのに98%の人類が消えたため、脳が大きい特徴を持つ人類だけが生き残り70億人まで増えた
90万年前に生き残った1280人の半数が男性だとすると女性は640人だけ、子どもを産めない人も居ただろうから年間の出生数は数十人だったと想像できる
子どもを産むかどうか、生まれた子供を安全に育てられるかは人類の存続問題になり、人類は環境をつくり替えたり家に住んだり集団生活をするなどして存続を図った
野生動物は生まれた子供の半数が1年以内になくなるのが常識だが、それでは人類は滅んでしまうのでどうすれば子供が生き延びるか真剣に考えたでしょう
火を使って食べ物を焼いたり蒸すようになったのもこの頃で、いきなり生肉や生の植物を食べさせるのではなく衛生的で柔らかいものを食べさせるようになったでしょう
人類の自然破壊が始まったのもこの頃からで今のアフリカや中東が砂漠や荒野なのは、人類が100万年近くも放火し続けたからだとも言われています
森に火を放てば「土地」が生れ住めるようになり、肉食動物に襲われなくなり食べられる植物が育つなど良い事づくめだったからでした
https://www.thutmosev.com/archives/304435gt.html
2023/10/28 (Sat) 06:21:14
現生人類の起源
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/735.html
人類進化史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html
雑記帳 古人類学の記事のまとめ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/592.html
ネット上でよく見かける人類進化に関する誤解
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/774.html
『イヴの七人の娘たち』の想い出とその後の研究の進展
https://sicambre.seesaa.net/article/202304article_26.html
(人類史年表)過去1000万年の気候変動の概要
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/603.html
パナマのサルが石器時代に突入したことが最新研究で判明!
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/899.html
チンパンジーよりもヒトに近いボノボ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/673.html
人間とチンパンジーのDNAが99%一致するという定説はウソだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/376.html
チンパンジーが好きな肉は脳? 初期人類も同様か
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/843.html
性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/741.html
人類の寿命
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/759.html
類人猿ギガントピテクス、大きすぎて絶滅していた
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/678.html
アウストラロピテクス属と初期ヒト属の進化過程のギャップを埋める化石発見
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/589.html
北京原人、火の利用を裏付ける新証拠が発見
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/627.html
原人:台湾で新たな化石発見 北京やジャワと別系統
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/575.html
デニソワ人 知られざる祖先の物語
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/675.html
チベット人の高地適応能力、絶滅人類デニソワ人から獲得か
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/497.html
4代前にネアンデルタール人の親、初期人類で判明
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/620.html
日本人はネアンデルタール人の生き残り?
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/105.html
人類の「脱アフリカ」は定説より早かった!? 現代人は13万年前にヨーロッパに到着していた
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/471.html
洞窟壁画の発見は4万年前のアジアでも具象芸術が存在していた事を証明する
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/536.html
なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/707.html
中国の黄河で4000年前に大洪水が起きた _ 中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/714.html
レベッカ・ウラグ・サイクス著『ネアンデルタール』
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14056986
ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の関係
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14095189
古代DNAに基づくアフリカの人類史
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14092942
現代アフリカ人の起源
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14100876
人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html
インド アンダマン諸島先住民、米国人宣教師を矢で殺害
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/929.html
アジア東部集団の形成過程
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/739.html
更新世におけるユーラシア東方から西方への大規模な移動
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/756.html
ヨーロッパ人の起源
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14007381
白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html
先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/590.html
氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14008921
2023/10/29 (Sun) 05:29:23
雑記帳
2023年10月27日
サハラ砂漠以南のアフリカ現代人のゲノムから推測される現生人類とネアンデルタール人との間の遺伝子移入
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_27.html
サハラ砂漠以南のアフリカの現代人のゲノムから現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との間の遺伝子移入を推測した研究(Harris et al., 2023)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、サハラ砂漠以南のアフリカの現代人のゲノムから、解剖学的現代人(anatomically modern human、略してAMH、現生人類)とネアンデルタール人との間の遺伝子移入が双方向で複数回起きたことを示します。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類との間の遺伝子移入における遺伝的不適合が、これまで指摘されていたネアンデルタール人から現生人類への方向だけではなく、その逆方向でも起きたことを示しています。これまで、現代人の特定のゲノム領域にネアンデルタール人由来領域がないことは、現生人類よりも人口規模の小さいネアンデルタール人には弱い有害なアレル(対立遺伝子)が蓄積される傾向にあったから、とも説明されていましたが(関連記事)、ネアンデルタール人のゲノムにも現生人類由来の領域の見られない領域があることから、本論文はこうしたゲノム領域の存在が現生人類現生人類とネアンデルタール人との間の種分化に起因する可能性を示しています。
●要約
ネアンデルタール人のゲノムとAMHのゲノムの比較は、アフリカからユーラシアへのAMHの移住後の交雑に由来する、ネアンデルタール人からAMHへの遺伝子移入の歴史を示しています。サハラ砂漠以南のアフリカ人ではない全てのAMHには、この遺伝子移入に由来するネアンデルタール人と遺伝的に類似したゲノム領域があります。ネアンデルタール人との類似性のあるゲノム領域はサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団でも確認されてきましたが、その起源は不明でした。これらの領域がサハラ砂漠以南のアフリカ全体でどのように分布しているのか、その起源の供給源、ゲノム内の分布が初期AMHとネアンデルタール人の進化について語ることをより深く理解するため、サハラ砂漠以南のアフリカの12の多様な人口集団の18個体から得られた高網羅率の全ゲノム配列のデータセットが分析されました。
非サハラ砂漠以南アフリカ人の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有するサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団では、そのゲノムの1%ほどが、レヴァントおよびアフリカ北部起源のAMH人口集団の、最近の移住とその後の混合によりもたらされたネアンデルタール人配列に起因しているかもしれません。しかし、サハラ砂漠以南のアフリカ人におけるほとんどのネアンデルタール人と相同な領域は、アフリカからユーラシアへの25万年前頃となるAMH人口集団の移住と、ネアンデルタール人において6%ほどのAMH祖先系統をもたらしたその後のネアンデルタール人との混合に起因します。
これらの結果から、アフリカからのAMHの移住事象は複数回あり、ネアンデルタール人とAMHの遺伝子流動は双方向だった、と示唆されます。AMHがネアンデルタール人からの遺伝子移入の枯渇を示すゲノム領域が、ネアンデルタール人がAMHからの遺伝子移入の枯渇を示すゲノム領域でもある、との観察は、両集団【AMHとネアンデルタール人】における遺伝子移入された多様体と背景のゲノムとの間の有害な相互作用を示しており、これは最初の種分化の特徴です。
●研究史
AMHの起源は30万年前頃のサハラ砂漠以南のアフリカにあります(関連記事)。遺伝学と考古学のデータから、AMHは過去75000年間以内の現生人類のアフリカからの拡大まで、おもにサハラ砂漠以南のアフリカに留まっていた、と示唆されます(関連記事1および関連記事2)。アフリカからの拡大中に、AMHの小集団がサハラ砂漠以南のアフリカから移住し、世界の他地域に居住しました。ユーラシアでは、AMHが765000~550000年前頃にAMHと分岐した(関連記事)古代型のヒトであるネアンデルタール人と遭遇しました。AMHとネアンデルタール人との交雑は54000~40000年前頃に起きました(関連記事)。この交雑の結果として、非アフリカ系AMHのゲノムの2~3%程度はネアンデルタール人に由来します(関連記事)。ネアンデルタール人から遺伝子移入された領域はAMHのゲノム全体で不均一に分布しているわけではなく、自然選択が遺伝子移入されたネアンデルタール人祖先系統を特定の遺伝子座から除去しましたが(関連記事1および関連記事2)、選択が作用した機序は不明です。
ネアンデルタール人とAMHの交雑はアフリカからの拡大に続いてアフリカ外で起きたので、完全にサハラ砂漠以南のアフリカ人系統を通じて祖先系統がたどれる人口集団は、ネアンデルタール人からの遺伝子移入に由来するゲノムの相当量を有していない、と予測されます。しかし、非サハラ砂漠以南アフリカ人の祖先系統の量はサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団では大きく日となります。とくにアフリカ東部では、ユーラシア人祖先系統の推定値は過去数年年間以内の移住と混合のため50%にも達します。ユーラシアAMH人口集団からサハラ砂漠以南のアフリカへのこの最近の遺伝子流動の歴史は、ネアンデルタール人からの遺伝子移入に由来する一部のサハラ砂漠以南のアフリカ人のゲノム領域をもたらしたかもしれません(関連記事)。
過去75000年間以内のアフリカからのAMHの主要な移住に加えて、それ以前のAMHのアフリカからの移住の証拠もあり(関連記事1および関連記事2)、この移住はアフリカ外のAMH人口集団のゲノムに実質的には寄与しませんでした(関連記事)。アフリカからのAMHのこれら初期の移住は、遺伝子移入を通じてネアンデルタール人のゲノムにAMH祖先系統をもたらしたかもしれません(関連記事)。ネアンデルタール人がAMHからのいくらかの多様体を有しているかもしれない、との見解は、後期更新世のネアンデルタール人のミトコンドリアが413000~268000年前頃にネアンデルタール人へと遺伝子移入されたアフリカの供給源に由来していた、との観察により示唆されてきました(関連記事)。さらに、ネアンデルタール人とAMHの核ゲノムの比較から、122000年前頃に暮らしていたアルタイ地域ネアンデルタール人(関連記事)は、30万~20万年前頃に起きたAMHとネアンデルタール人との間の交雑から3%程度のAMH祖先系統を有している、と示唆されました(関連記事)。ミトコンドリアと核のゲノムに基づくAMHからネアンデルタール人への遺伝子移入の推定値は両方とも、現存AMHの多様化に先行します(関連記事)。
最近の分析(関連記事)は、ネアンデルタール人とAMHのゲノム間の相同領域を特定し、ネアンデルタール人相同領域(Neanderthal homologous region、略してNHR)と命名しました。その研究では、1000人ゲノム計画に含まれ、全員ニジェール・コンゴ語族を話し、アフリカ中央部および西部において比較的最近の共通祖先系統を有しているサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団において、NHRが特定されました。NHRは2種類の可能性があります。一方は、アフリカからの拡大後に起きたネアンデルタール人からAMHへの遺伝子移入の結果で、本論文ではネアンデルタール人からの遺伝子移入領域(Neanderthal introgressed regions、略してNIR)と呼ばれ、もう一方はアフリカからの拡大前に起きたAMHからネアンデルタール人への遺伝子移入事象の結果で、本論文ではAMHからの遺伝子移入領域(AMH introgressed regions、AMHIR)と呼ばれます。
先行研究(関連記事)では、ヨーロッパ人系統と関連する人口集団からの逆移住とその後の混合、およびAMHからネアンデルタール人への古代の移住とその後の混合の両方が、サハラ砂漠以南のアフリカ人におけるネアンデルタール人祖先系統の兆候に寄与している、と示唆されました。サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団の分析はほぼニジェール・コンゴ語族話者関連祖先系統を有する人口集団に限定されていたので、他のサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団が類似のパターンを示すのかどうか、不明でした。さらに、先行研究(関連記事)はNIRとAMHIRとNHRを直接的に区別できず、サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団においてNHRをもたらした人口統計学的過程に関する問題が残りました。本論文は、カメルーンとボツワナとタンザニアとエチオピアの180個体で構成される12のサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団の遺伝的に多様な一式の分析と、NHRのネアンデルタール人もしくはAMH起源を区別する統計的手法の導入により、サハラ砂漠以南のアフリカ人のNHRの起源、アフリカからの初期のヒト【現生人類】の移住、アフリカへの最近のAMHの帰還、AMHとネアンデルタール人のゲノム分岐と関わる自然選択の力のより複雑な全体像を提示します。
●サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団における現生人類祖先系統の推定
12の遺伝的に多様なサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団の180個体で構成される、高網羅率(30倍超)の全ゲノム配列決定データセット(関連記事)が分析され、以後このデータセットは「180個体SSA(sub-Saharan African)」データセットと呼ばれます。このデータセットに含まれる人口集団は、全てサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団により話されている4言語系統に属す言語を話し、その生計慣行は多様です。つまり、エチオピアのアムハラ人(Amhara)農耕民の話すアフロ・アジア語族、ボツワナのクー人(!Xoo)およびジュホアン人(Ju|’hoansi)の採食民と、タンザニアの現在もしくは最近まで採食民だったハッザ人(Hadza)とサンダウェ人(Sandawe)の話すコイサン諸語、カメルーンのティカール人(Tikari)農耕民とボツワナのヘレロ人(Herero)牧畜民の話すニジェール・コンゴ語族、エチオピアのムルシ人(Mursi)の話すナイル・サハラ語族です。チャブ人(Chabu)はエチオピア南西部の採食民の小集団で、ナイル・サハラ語族と密接に関連するものの未分類の言語を話します。カメルーンのアフリカ中央部熱帯雨林狩猟採集民(rainforest hunter-gatherers、略してRHG)であるバカ人(Baka)およびバジェリ人(Bagyeli)とフラニ人(Fulani)牧畜民は、ニジェール・コンゴ語族言語を採用してきました(図1B)。以下は本論文の図1です。
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ADMIXTUREを用いて、ヒトゲノム多様性計画(Human Genome Diversity Project、略してHGDP)から得られた高網羅率の全ゲノム配列決定データセットに由来する遺伝子型で構成される世界のデータセット(関連記事)、およびアフリカ北部とレヴァントの人口集団の遺伝子型配列データセットとの統合により、180個体SSAデータセットの個体に世界の遺伝的な祖先の寄与が近似させられました。具体的には、以前のADMIXTURE分析(関連記事)に基づいて、ヨーロッパ人の遺伝的祖先系統の代理的な代表としてのフランスとオークニー島の人口集団、レヴァント人の遺伝的祖先系統の代理的代表としてのベドウィンとドゥルーズ派とパレスチナとシリアの人口集団、アフリカ北部のアラブ人祖先系統の代理的代理としてのアルジェリアとエチオピアとリビアとモロッコ北部および南部とサハラ砂漠の人口集団、アフリカ北部ベルベル人祖先系統の代理的代表としての、アルジェリアのティミムン(Timimoun)およびムザブ(Mozabite)のベルベル人と、モロッコのエラッチディア(Errachidia)およびティズニット(Tiznit)のベルベル人と、チュニジアのシェニニ(Chenini)およびセネド(Sened)のベルベル人、ニジェール・コンゴ語族言語を話すナイジェリアのヨルバ人(Yoruba)集団が含められました(人口集団の分類表示は元の研究での使用に基づいています)。
K(系統構成要素数)=2~11を用いてのADMIXTURE分析は、多様な祖先系統群を区別しました(図1A)。祖先系統群1は、コイサン諸語話者人口集団(クー人とジュホアン人)において最高頻度です。祖先系統群2は、RHG人口集団において最高頻度です。祖先系統群3は、チャブ人やムルシ人やディズィー人(Dizi)やアムハラ人やサンダウェ人の集団において最高頻度です(サンダウェ人は他の祖先系統と高度に混合しています)。祖先系統群4は、ハッザ人集団において最高頻度です。祖先系統群5は、ヘレロ人やティカール人やヨルバ人において最高頻度です。祖先系統群6はヨーロッパの人口集団において最高頻度で、レヴァントとアフリカ北部のアラブ人集団のほとんどにおいて中程度の頻度です。祖先系統群7はベルベルのレヴァント人口集団において最高頻度で、祖先系統群8はドゥルーズ派のレヴァントの人口集団において最高頻度です。祖先系統群9はアフリカ北部のアラブ語話者およびベルベル人の集団において最高頻度です。K=10では、シリアとパレスチナの人口集団において高頻度である、追加のレヴァント人的祖先系統クラスタ(まとまり)が加えられました。K=11では、チュニジアのシェニニのベルベル人集団でおもに見られるクラスタが識別されました。ADMIXTUREモデル化祖先系統を用いた全ての下流分析はK=9のADMIXTURE分析を最小しており、これが、非サハラアフリカ人祖先系統からサハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統最も明確に示しながら、サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団内の差異を最適に説明します。
各個体の非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統4群から推測される祖先系統の割合の合計により、非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統の個体の割合がモデル化されます。非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統の割合は180個体SSAデータセットではひじょうに違いが大きく、RHGとジュホアン人とヘレロ人とティカール人の0%から、フラニ人の44%とアムハラ人の62%までの範囲になる、と観察されます。さらに、180個体SSAデータセットにおける非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統の供給源は人口集団間で異なっており、アフリカ東部人口集団(アムハラ人とディズィー人とムルシ人とサンダウェ人)における非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統が、レヴァントの人口集団で観察される推定遺伝的祖先系統と最も類似しているのに対して、カメルーンのフラニ人集団では、アフリカ北部人口集団で観察される推定遺伝的祖先系統と最も類似しています。非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統の供給源におけるこの観察された違いは、アフリカ東部とフラニ人の集団に関する先行研究と一致します。
●ネアンデルタール人の相同領域は全てのサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団で確認されます
アルタイ地域のネアンデルタール人、つまりシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見されたデニソワ5号を参照ゲノムとして、IBDmix(関連記事)を用いて本論文のデータセットの180個体SSAデータセットの12集団においてNHRが特定されました。サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団すべてでNHRが観察されますが、NHRの累積量、各NHRの平均規模、NHRの総数は、人口集団により大きく異なります(図2A)。以下は本論文の図2です。
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NHRの合計長とNHRの総数と平均的なNHR規模はすべて、個々のADMIXTUREモデル化の非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統と正に相関します(図2B)。クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija)洞窟(関連記事)もしくはアルタイ地域のチャギルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟(関連記事)のネアンデルタール人を参照ゲノムとして用いても、NHRが特定されました。累積NHR長における個体差は、NHR呼び出しに用いられた参照ネアンデルタール人ゲノム(デニソワ5号かヴィンディヤ洞窟かチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人個体)に関係なく、類似しています。分析の残りは、参照ゲノムとしてアルタイ地域ネアンデルタール人を用いた場合に特定されたNHRのみが検討されます。
●各ネアンデルタール人相同領域の遺伝子移入の方向性確認
(1)各人口集団に寄与しているかもしれない人口集団のNHR(もしあるならば)の割合を推定し(図3)、(2)AMHIRもしくはNIRとして人口集団における各NHRを分類するために、AMHIRとNIRの混合としての各サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団のNHRを扱う統計的モデルが開発されました。このモデルは、それら遺伝子座における他の現生人類のハプロタイプからのさまざまな予測される遺伝的距離により、NIRをAMHIRから区別します。NHRがAMHのゲノムに存在しない遺伝子座では、ネアンデルタール人とAMHのハプロタイプ間の遺伝的距離は、ネアンデルタール人とAMHとの間の分岐時間を反映するでしょう(図3A)。
NIRが存在する遺伝子座では、ネアンデルタール人のハプロタイプとNIRの存在しないAMHのハプロタイプとの間の遺伝的距離も、AMHとネアンデルタール人が分岐して以来の時間を反映するでしょう(NIRハプロタイプはネアンデルタール人の配列に由来しますが、AMH人口集団で分離する非NIRハプロタイプは、非NHR遺伝子座におけるAMHハプロタイプと同様に、ネアンデルタール人のハプロタイプから分岐します。(図3A)。対照的に、AMHIRが存在する遺伝子座では、ネアンデルタール人のハプロタイプとAMHIRなしのAMHのハプロタイプとの間の遺伝的距離は、AMHとネアンデルタール人の分岐よりも新しい分岐を反映しているでしょう(ネアンデルタール人のハプロタイプが、AMHIRおよび非AMHIRのAMHハプロタイプの両方を生み出した祖先的AMH人口集団内に由来するため。図3C)。この非対称性により、NIRとAMHIRとの間を区別できるようになります。以下は本論文の図3です。
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遺伝的距離の基準としてF₂統計の不偏版が用いられ、各AMH人口集団について別々の統計モデルが当てはめられました。各人口集団についてまず、NHRなしのゲノム領域におけるF₂(アルタイ地域ネアンデルタール人、AMH)の実証分布の的に観察された分布が当てはめられ、F₂(アルタイ地域ネアンデルタール人、X)の予測される分布が媒介変数で表記されます。ここでのXは、NIRが人口集団において分離していない遺伝子座でNHRを有さないAMH個体です。AMHIRを含む遺伝子座では、F₂(アルタイ地域ネアンデルタール人、X)はNIRが分離する遺伝子座とは異なる分布(より小さな平均)を有するでしょう。
媒介変数混合モデルから生成されたものとして、各対象AMH人口集団におけるNHRを含む全ての遺伝子座についてF₂(アルタイ地域ネアンデルタール人、X)の値の完全な分布が扱われ、観察の一部(NIRであるNHRの割合に相当します)はNHRなしの領域における実証的分布のF₂(アルタイ地域ネアンデルタール人、AMH)から抽出され、残りの割合(AMHIRであるNHRに相当します)は未知の代替的分布に由来します。代替的分布はほぼガンマ形状と仮定されますが、それ以外は、代替的分布が生成された特定の過程はモデル化されず、特定の人口史に基づいて本論文の分析は根拠づけられません。この分布は、柔軟な形態と少ない媒介変数と範囲(正の実数全体の集合)の裏づけのある数学的に都合のよい分布として選択されます。アプリケーションでは、小さなF₂値の推定の不正確さにより起こされる誤差を回避するため、ガンマへの離散近似値として負の二項分布が用いられます。
同時に、3つの媒介変数についてモデルが最適化されます。一つは各分布に由来するNHRの割合を表しており、二つはAMHIRの分布の形状を記載します。次に、各NHRは各分布からの抽出の尤度比に従って、NIRもしくはAMHIRと分類されます。個々のNHRの分類で生じる曖昧さを回避するため、混合モデルから直接的にNIRもしくはAMHIRの合計割合の推定値が抽出されます。多くの場合、とくにADMIXTUREモデル化された非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統をほとんど有さない人口集団では、個々のAMHIRを高い信頼性で特定することが可能です。おもにNIR全体の相対的希少性のため、個々のNIRの割り当てはかなり曖昧になります。しかし、全てのNHRに尤度が直接的に割り当てられるので、累積統計の編集のさいにこの不確実性を正確に考慮できます。
さまざまな人口集団間のNHRの長さにおける有意な違いが観察され、AMHIRは同じ人口集団のNIRよりも一貫して低くなりました。NIRとAMHIRの長さの分布から正確な生物学的解釈を導き出すためには、IBDmixにより課された人為的境界条件を補正しなければなりません。IBDmixは5万塩基対より短いNHRを識別せず、より短いNHRを省いた省略された長さの分布が生じます。省略された指数分布を各人口集団から得られた観察されたAMHIRおよびNIRの規模に適合させ、観察されていない根底にある省略されていない指数分布の平均NHR規模として最尤率媒介変数を使用することにより、この条件を補正する完全な長さの分布が推定されます。さらに、NIRとNHRの完全な長さの分布をより近似させるため、0.63 cM(センチモルガン)/Mb(百万塩基対)と1.52 cM/Mbの間の組換え率のゲノムの領域内に存在するNHRに焦点が当てられます。極端な値の領域の除外により、下限で5万塩基対を下回るさまざまな確立を有するさまざまな遺伝的長さの区域に起因する乱れが、最小限に抑えられます。各人口集団における省略されていない分布の割合の媒介変数(省略されていない長さの分布の平均の推定値に相当)の範囲は、AMHIRでは28520~38060塩基対、NIRでは45350~52360塩基対です。AMHIRと比較してNIRについて、人口集団数の違いも観察されます。単一のNIRはほぼわずか1~3の人口集団間で共有されていますが、単一のAMHIRは全ての人口集団で共有されていることが多くあります。
●サハラ砂漠以南のアフリカ人におけるネアンデルタール人祖先系統の定量化
NIRである1集団のNHRの割合は全人口集団では0.0~0.707で(図3)、一部の人口集団はNIRをまったく有していない、したがってネアンデルタール人を通じてたどれる祖先系統を有していない、と示唆されます。ネアンデルタール人からAMHへの遺伝子移入の大半はアフリカではなくユーラシアで起きた、と考えられています。したがって、サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団におけるネアンデルタール人祖先系統は、とくにアフリカ東部で高い割合となる、非サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団からの遺伝子流動の証拠のある人口集団のみで予測されます(図1A)。実際、本論文のモデルでは、非サハラ砂漠以南のアフリカ人のADMIXTURE混合モデル化祖先系統を有する人口集団(たとえば、アムハラ人)は、NIRと分類されるNHRの割合が高い(図3D)のに対して、ほぼサハラ砂漠以南のアフリカ人のADMIXTURE混合モデル化祖先系統を有する人口集団(たとえば、RHG)は、NIRをほぼ有していないか、全く有していない(図3E)、と示唆されます。サハラ砂漠以南のアフリカ人のADMIXTURE混合モデル化祖先系統とNIRに分類されるNHRの割合との間の相関は、統計的には高度に優位です。
NIRで構成されるゲノム個体のゲノムの合計割合は、その個体の非サハラ砂漠以南のアフリカ人のモデル化混合の割合とさらにより強く正に相関しています。信頼区間の下限を使用し、サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団におけるNIRの上限推定値としてNIRの省略された分布について調整すると、おもに砂漠以南のアフリカ人祖先系統を有するアフリカ人個体(チャブ人やジュホアン人やヘレロ人やティカール人)はNIRの累積で最大約519万塩基対を有している、と示唆されます。非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統を有するアフリカの人口集団(アムハラ人やディズィー人やフラニ人やサンダウェ人)では、全ての常染色体にわたる累積NIR配列長の推定値の範囲は1585万~4437万塩基対です。個体のゲノムにおけるNIRの累積量は、ネアンデルタール人起源(ネアンデルタール人祖先系統)であるゲノムの量として解釈されるべきです。したがって、ゲノムの割合として、180個体SSAデータセットにおけるネアンデルタール人祖先系統の範囲は0~1.5%で、アムハラ人とフラニ人において最高水準で観察されます(図4)。以下は本論文の図4です。
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●サハラ砂漠以南のアフリカ人におけるネアンデルタール人のハプロタイプには複数の非サハラ砂漠以南のアフリカ起源があります
ネアンデルタール人の地理的分布はサハラ砂漠以南のアフリカにまで広がっていなかった可能性が高いので、アムハラ人とフラニ人とディズィー人とサンダウェ人の集団で見つかったNIRは、世界の他地域からりAMHの移住と遺伝子流動によりサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団にもたらされたに違いありません。NIRを含むサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団(アムハラ人やフラニ人やディズィー人やサンダウェ人)におけるNIRの人口集団供給源を特定するため、Chromopainterを用いて、これら人口集団のそれぞれからの祖先系統を有する個体のゲノムの割合が、サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団(チャブ人やティカール人やRHGやジュホアン人)と非サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団(オークニー島人やベドウィンやドゥルーズ派やチュニジアのシェニニのベルベル人)両方の参照一式を使用して表されます。
NIR周辺領域(に加えて両端の10万塩基対の隣接配列)とNIRを含まない領域の制御一式との間の、各Chromopainterモデル化祖先系統の頻度における違い(ΔNIR)が計算されました。この方法では、ΔNIRは、NIRを有する領域がゲノムの残りよりも特定の参照人口集団とどれだけ密接に類似しているのか、定量化します。アムハラ人とフラニ人とディズィー人とサンダウェ人は全員、IR含有領域が非サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団にたどれる祖先系統の過剰を有しているならば予測されるように、そのNIR含有領域において非サハラ砂漠以南のアフリカ人のChromopainterモデル化祖先系統の過剰を有しています。フラニ人では、ヨーロッパ人とアフリカ北部のベルベル人の集団に割り当てられた局所的な祖先系統の痕跡が、最大のΔNIR値を示します。対照的に、アフリカ東部の人口集団では、レヴァント参照人口集団に割り当てられた局所的な祖先系統の痕跡が最大のΔNIR値を示します。これらの観察から、フラニ人のNIRは、アムハラ人やディズィー人やサンダウェ人にNIRをもたらした供給源とは異なる非サハラ砂漠以南のアフリカ人供給源に由来する、と示唆されます。この観察は、フラニ人はアフリカ北部のベルベル人集団と遺伝的祖先系統を共有し、アフリカ東部集団はおもにレヴァントの人口集団からの最近の混合を有している、と示唆した、これらの人口集団のADMIXTURE分析および以前の遺伝学的研究と一致します。
●ネアンデルタール人におけるAMH祖先系統の定量化
全サハラ砂漠以南のアフリカ人口集団で特定された全AMHIR配列と平均AMHIR規模の相対的に一貫した量から、全AMHはネアンデルタール人と交雑したAMHと同じ共通祖先を有している、と示唆されます。アルタイ地域ネアンデルタール人内で特定されたAMHIRの累積長は、AMH起源であるゲノムの量として解釈されます。NHRの特定のさいにIBDmixによりもたらされたハプロタイプ長の省略を補正し、NIRを殆どもしくは全く有さない(図3E)人口集団(RHG、ティカール人、ヘレロ人、ジュホアン人、クー人)で特定されたAMHIRに焦点を当てた後に、アルタイ地域ネアンデルタール人のゲノムの5.56~6.83%はAMH起源と推定されます。本論文の推定値は、約3~7%(関連記事)や約1~7%といった以前の推定値を洗練し、0.1~2.1%という以前の推定値(関連記事)よりもかなり高くなります。本論文の模擬実験から、AMHIRの量に関する本論文の推定法は、非サハラ砂漠以南のアフリカ人祖先系統を有さない人口集団で評価され、組換えの極端な値を除外するために選別されたゲノム領域から確認されたさいには正確である、と示唆されます。
●ネアンデルタール人のゲノム内におけるAMHからの遺伝子移入の分布に作用する自然選択
自然選択は、現生人類のゲノム全体でネアンデルタール人から遺伝子移入された多様体の分布形成に役割を果たす、と予測され、選択のさまざまな形態はさまざまなパターンを生み出すでしょう。ネアンデルタール人「砂漠」、つまりネアンデルタール人祖先系統の枯渇が観察されたAMHのゲノム領域が、以前に提案されたように小さな有効人口規模のためネアンデルタール人集団内で蓄積された有害なアレル(対立遺伝子)に対する選択によりおもに引き起こされたならば(関連記事)、これらの遺伝子座においてAMHのアレルを得たネアンデルタール人はこれらの【ネアンデルタール人に蓄積された有害な】変異から逃れる利益を得る、と予測され、これらの領域はAMHIRで濃縮されるでしょう。
あるいは、ネアンデルタール人の砂漠が遺伝子移入されたアレルと【現生人類の】元々のゲノム背景との間の有害な上位性相互作用によりおもに引き起こされているのならば、これらの遺伝子座においてAMHアレルを有するネアンデルタール人は、これらの遺伝子座においてネアンデルタール人のアレルを有するAMHのように、同様の悪影響を被ることになるでしょう。ネアンデルタール人の進化は、AMHにおけるネアンデルタール人砂漠として特定されているAMHIRの重複領域の枯渇を引き起こす、これらの遺伝子座におけるAMHからの遺伝子移入に対して選択的と予測されます(図5)。以下は本論文の図5です。
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AMHのゲノムで特定されたネアンデルタール人砂漠に相当するネアンデルタール人ゲノムの領域内において、RHGとティカール人とチャブ人とヘレロ人とジュホアン人とクー人(NIRが最低水準の人口集団)で特定された894ヶ所のAMHIRの濃縮もしくは枯渇の検証により、これらのモデルが区別されます。27000個体以上のアイスランド人のゲノム(関連記事)から確認された261ヶ所の古代型(ネアンデルタール人およびデニソワ人からの遺伝子移入)砂漠高解像度の地図と比較すると、わずか155ヶ所のAMHIRがネアンデルタール人ゲノムの相同的な(orthologous)領域内に位置し、これは偶然に予測される数の約半分です。
1000人ゲノムデータから確認されたネアンデルタール人砂漠8ヶ所のより低解像度の地図と比較すると、わずか37ヶ所のAMHIRがネアンデルタール人のゲノムの相同領域内に位置し、これは偶然に予測される数より約25%少なくなります。95%超の信頼度で詫びだされたAMHIR757ヶ所の部分集合のみを考慮すると、ネアンデルタール人砂漠と重複するAMHIRの同様の枯渇が見られますが、1000人ゲノム計画由来の砂漠一覧は、検出力減少のためもはや統計的に有意ではありません。これの結果は、異種特異的なアレルの組み合わせを嫌う上位性効果の蓄積を通じて始まる種分化のモデルと一致し、現生人類集団で見られる古代型の砂漠が普遍的な有害なネアンデルタール人のアレルに対する直接的選択により引き起こされる、との仮説と一致しません。
AMHIRの枯渇は、AMHのゲノムにおけるネアンデルタール人砂漠と相同な領域に限りません。すべての注釈付けされた常染色体遺伝子を検討すると、偶然に予測されるより65%少ない領域がAMHIRと重複します。この観察から、交雑個体への自然選択は広範に基づいており、ネアンデルタール人のゲノムの多くの機能的領域からAMH祖先系統を活発に除去したかもしれない、と示唆されます。
AMHIR領域内における残りの遺伝子も、完全に無作為な組み合わせではありません。遺伝子存在濃縮分析から、特定されたAMHIRには、細胞膜接着分子を介した細胞間接着と関連する遺伝子の統計的に有意な過剰、および数点の密接に関連する分類が含まれる、と示されます。これらの濃縮は適応的遺伝子移入の事例を表しているかもしれませんが、これらの結果は遺伝子移入された遺伝子に対する選択強度の不均一性とも一致します。
●AMHからネアンデルタール人への遺伝子移入の年代
単一の遺伝子移入事象を除いてネアンデルタール人とAMHとの間の孤立を仮定すると、その遺伝子移入事象の年代が、AMHIRの長さは遺伝子移入以降に経過した時間の関数である速度の媒介変数と組換え率と遺伝子移入の割合で指数関数的に分布する、との予測から推測できます。RHGとティカール人とチャブ人とヘレロ人とジュホアン人とクー人(NIRが最低水準、したがって誤って分類されたNHRに起因する予測誤差が最小の人口集団)から特定されたAMHIRから計算されたこの割合の媒介変数の長さを補正した最尤推定値を用いて、AMHからネアンデルタール人への遺伝子移入の年代が推定されました。
RHG(RHGについて、このモデルはNIRの存在の可能性が最小と示唆します)に焦点を当てると、補正された平均AMHIRの長さは33287塩基対で、これはAMHからネアンデルタール人への遺伝子移入とアルタイ地域ネアンデルタール人との間に4796世代(95%信頼区間では4046~5598世代)が経過したことを示唆します。アルタイ地域ネアンデルタール人化石の年代は122000年前頃で(関連記事)、ヒトの世代時間が29年と仮定すると、AMHからネアンデルタール人への遺伝子移入は261075年前頃(95%信頼区間で284331~239325年前)に起きました。NIRの割合が低い他の人口集団からの推定値の範囲は、アルタイ地域ネアンデルタール人の4235世代前(244817年前頃)から5250世代前(274238年前頃)です。
模擬実験から、IBDmixは、長さの範囲の下端に向かって偽陰性がより一般的になるため小さな偏りをもたらす、と示唆されます。したがって、得られるNHRはより長い区域ではわずかに濃縮されており、これらの年代推定値は多ければ10%も新しくなります。これを考慮すると、先行研究(関連記事)における全ての現代人の間の最も深い人口集団の分岐のほとんどの推定値(285000~150000年前頃)の前に、AMHからネアンデルタール人への遺伝子移入が起きたことになります。
●考察
先行研究(関連記事)と一致して、NHRは全ての標本抽出されたサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団に存在します(図2)。しかし、NHRはハプロタイプの均質な一群ではありません。AMHIRとして分類されるNHR、つまりAMHに起源があり、ネアンデルタール人に遺伝子移入された領域は、全てのサハラ砂漠以南のアフリカ人口集団全体で類似の量で見られます。ネアンデルタール人に起源があり、低水準のこんごうを通じてAMHにもたらされたNIRは、かなりの非サハラ砂漠以南のアフリカ人ADMIXTUREモデル化祖先系統を有する人口集団でほぼ排他的に見られます。さらに、NIRは通常AMHIRより長く、そのより新しい起源と一致します(図3)。NIRとAMHIRのさまざまな地理および長さの分布は、AMHとネアンデルタール人の遺伝子流動の3回事象モデルを裏づけます(図6)。以下は本論文の図6です。
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第一に、アフリカからのAMHの初期の移住は25万年前頃となるAMHからネアンデルタール人への遺伝子移入事象につながり、現代の人口集団に存在するAMHIRとして特定される相同な領域が形成されました。これらの遺伝子移入は、初期の種分化の過程を通じて形成された可能性が高い交雑個体に対する選択により、ネアンデルタール人のゲノムの多くの部分で枯渇しました。これにより、アルタイ地域ネアンデルタール人には約6%のAMH祖先系統が残りましたが、アルタイ地域ネアンデルタール人のそれ以前の祖先は、AMH祖先系統をより大きな割合で有していたでしょう。先行研究(関連記事)は、おそらくネアンデルタール人砂漠のより高解像度の地図の欠如、および選択圧とその手法における遺伝子移入された断片を呼び出す能力とり間の混乱のため、この選択過程の証拠を見つけられませんでした。本論文の分析は、サハラ砂漠以南のアフリカ人のゲノムのより大きな標本(180個体)と、非サハラ砂漠以南のアフリカ人との混合がほとんど若しくはまったくない個体を含んでおり、より高い解像度でネアンデルタール人のゲノムにおけるAMH祖先系統の選択の痕跡の分析が可能になりました。
第二に、54000~40000年前頃となるネアンデルタール人からAMHへの遺伝子移入事象は、NIRとして識別可能なネアンデルタール人のハプロタイプを非アフリカ系AMH集団へともたらしました。ネアンデルタール人のゲノム内のAMHIRと同様に、NIRは類似の有害な遺伝子相互作用のためAMHのゲノムの同じ領域で枯渇していました。
第三に、非サハラ砂漠以南のアフリカ人であるAMHの少なくとも2回のその後のサハラ砂漠以南のアフリカへの最近の移住は、遺伝子移入されたネアンデルタール人ハプロタイプ(NIR)を、非サハラ砂漠以南のアフリカ人であるAMHと混合したサハラ砂漠以南のアフリカ人集団にもたらしました。レヴァント地域に現在居住する人々と関連する人々が、アフリカ東部牧畜民にネアンデルタール人由来のハプロタイプをもたらし、フラニ人はアフリカ北部のベルベル人集団と共有される遺伝的祖先系統のため、ネアンデルタール人由来のハプロタイプを有しています。これらの観察は、ゲノム全体の遺伝標識に基づく、アフリカ東部人とフラニ人の集団に関する以前の人口統計学的再構築と一致します。以前に可能性として提起された(関連記事)ような、ネアンデルタール人に由来するハプロタイプもしくはネアンデルタール人祖先系統がサハラ砂漠以南のアフリカ全体に広がっていた、との証拠は見つかりませんでした。ネアンデルタール人祖先系統がAMH内のどこに存在し、どこに存在していないのか理解することは、ネアンデルタール人とAMH両方の古代の移住の理解と、人口史のより複雑なモデルの構築および解釈に重要です。
AMHIRを生じさせた、25万年前頃と推定されたAMHからネアンデルタール人への遺伝子移入事象は、ネアンデルタール人と、全ての現代人系統の多様化の前に現代人の祖先から分岐したAMHの初期集団のユーラシアにおける共存を必要とします。この事象は現代人集団間の最も深い分岐のほとんどの推定値(285000~150000年前頃に起きた、コイサン人およびアフリカ中央部狩猟採集民集団と他の全ての現代人系統の分岐)の前に起き、AMHのアフリカからの拡大に10万年以上先行します(関連記事)。
AMHのこの初期に分岐した集団の存在は、21万~17万年前頃となる現代のイスラエル(関連記事)およびギリシア(関連記事)の考古学的証拠と一致します。それは、後期更新世のネアンデルタール人のミトコンドリアにおけるアフリカ人祖先系統(413000~268000年前頃)に関する以前の推測(関連記事)や、30万~20万年前頃となるネアンデルタール人へのAMHからの遺伝子移入を含む人口統計学的モデルと合致するネアンデルタール人のゲノムから再構築された遺伝子系統樹の深さの分布(関連記事)とも一致します。これらのAMHIRを生み出したAMHは、ヒトの系統発生史内で独特な空間を占めています。現存するAMHの外群としてではあるものの、ネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような古代型のヒトよりもずっと現代人の方と密接に関連しているこの系統は、現生人類における自然選択のより最近の標的を特定と、現生人類史における初期の人口集団分岐解明の強力な情報源であることを証明するかもしれません。
参考文献:
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雑記帳
2023年10月24日
現生人類の拡大に伴うネアンデルタール人からの遺伝的影響の時空間的差異
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_24.html
現生人類のアフリカからの拡大に伴うネアンデルタール人からの遺伝的影響の時空間的差異を推定した研究(Quilodrán et al., 2023)が公表されました。ネアンデルタール人と現生人類との遺伝的混合は今では広く認められており、ネアンデルタール人からの遺伝的影響度について、非アフリカ系現代人集団では大きくはないものの有意な地域差があり、具体的にはヨーロッパよりもアジア東部の方でネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が高い、と示されています(関連記事)。この問題についてはさまざまな仮説が提示されてきましたが、本論文は古代ゲノムデータの分析により、その要因を推定しています。
●要約
現生人類(Homo sapiens)の世界規模の拡大は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の消滅前に始まりました。両種は共存して交雑し、ヨーロッパ人よりもアジア東部人の方でわずかに高い遺伝子移入につながりました。この異なる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)水準は選択の結果と主張されてきましたが、現生人類の範囲拡大は別の説明を提供するかもしれません。この仮説は、拡大源からの距離が遠くなるにつれて増加する、空間的な遺伝子移入勾配につながるでしょう。
本論文は、ユーラシア人の古ゲノムの分析により、過去のヒト【現生人類】拡大後のネアンデルタール人からの遺伝子移入の勾配の存在を調べます。出アフリカ拡大は経時的に持続したネアンデルタール人祖先系統の空間的勾配をもたらした、と本論文では示されます。同じ勾配の方向性を維持しながら、初期新石器時代農耕民の拡大は、アジアの人口集団と比較してのヨーロッパの人口集団におけるネアンデルタール人からの遺伝子移入減少に決定的に寄与しました。これは、ネアンデルタール人に由来するDNAの保有量では、新石器時代農耕民の方がそれ以前の旧石器時代狩猟採集民よりも少なかったからです。本論文では、過去のヒトの人口動態についての推測は古代の遺伝子移入における時空間的差異から可能である、と示されます。
●研究史
ネアンデルタール人のゲノムの配列決定により、アフリカ外の現生人類のDNAの約2%は、サハラ砂漠以南のアフリカの人口集団のDNAとよりもネアンデルタール人のDNAの方と類似している、と明らかにされてきました。このパターンを説明するため、二つの主要で排他的ではない仮説が提案されてきました。それは、(1)現生人類へのネアンデルタール人のDNA断片の遺伝子移入につながる、出アフリカにおけるネアンデルタール人と現生人類との間の交雑と、(2)サハラ砂漠以南のアフリカ人とよりもネアンデルタール人の方と密接に関連する非アフリカ人の祖先を伴う、アフリカにおける祖先の人口構造から生じる不完全な系統分類です。交雑を支持する証拠は過去10年間で蓄積されてきました(関連記事)。しかし、現生人類とネアンデルタール人との間の交雑事象の回数と年代と場所は、不明確なままです。初期の研究では、中東にける単一の交雑の波動が示唆されましたが、複数の交雑事象との仮説を裏づける研究が増えつつあります(関連記事)。とくに、ユーラシア西部における時空間を超えた複数の交雑事象は、現代の人口集団で観察されるネアンデルタール人祖先系統の水準と一致する、と示されてきました。
ネアンデルタール人祖先系統は現代のユーラシア人口集団では比較的均一ですが、アジア東部ではヨーロッパよりも約8~24%高い、と示されています(関連記事)。この観察は予想外で、それは、現時点で知られているネアンデルタール人の地理的分布が、ほぼ排他的にユーラシアの西部にあるからです。ユーラシアの東西の人口集団間のネアンデルタール人祖先系統におけるこの違いを説明するため、三つの主要な仮説が提案されてきました。それは、(1)アジア人と比較してヨーロッパ人では有効人口規模がより高く、ヨーロッパ人においては有害なネアンデルタール人のアレル(対立遺伝子)に作用する浄化選択の影響がより強かった、という仮説と、(2)ネアンデルタール人祖先系統をほとんど若しくはまったく有していない仮定的な「基底部(もしくは亡霊)」人口集団からの遺伝子移入に起因する、ヨーロッパ人におけるネアンデルタール人祖先系統の希釈との仮説(関連記事)と、(3)元々のユーラシアの遺伝子移入の波動が、ヨーロッパとアジアの人口集団間の分岐後に追加の波動により補足され、異なるネアンデルタール人祖先系統水準を生じるに至った、ネアンデルタール人からの遺伝子移入の複数回の波動との仮説(関連記事)です。
最近、ヨーロッパ西部とアジア東部との間のネアンデルタール人祖先系統の異なる水準は出アフリカ事象後の現生人類の拡大範囲の結果である、とする追加の仮説が提案されました。人口集団の範囲拡大は重要な進化的結果で、それに含まれるのは、(1)アレル頻度の勾配の生成、(2)中立的か自然選択下にあるかに関わらず、特定のアレルの頻度増加、(3)拡大の軸に沿った遺伝的多様性の減少、(4)有害なアレルの維持による人口集団における変異負荷の増加です。さらに、在来の人口集団との混合が起きると、交雑が限定的だとしても、人口集団は侵入遺伝子プールに対する在来の人口集団の遺伝的寄与を不釣り合いに増加させる傾向にあります。この後者の影響は、生物学的侵入の軸に沿った遺伝子移入の空間的勾配の形成をもたらす、と予測されます(図1A)。この仮定下では、在来の遺伝子(つまり、ネアンデルタール人)の遺伝子移入は侵入してきた人口集団(つまり、現生人類)において拡大源(つまり、アフリカ)からの距離とともに増加します。
これは、以下の影響の組み合わせに起因します。それは、(1)起源地から離れていくと、より高い交雑可能性をもたらす、範囲拡大の前線における継続的な交雑事象と、(2)連続創始者効果および人口増加から生じる遺伝的波乗りと、(3)増加し拡大する人口集団と人口統計学的均衡にある在来の人口集団との間の人口統計学的不均衡です。この仮説は、アフリカにおける現生人類拡大の起源地からの地理的距離によるヨーロッパとアジア東部におけるネアンデルタール人祖先系統の異なる水準との説明を提案します。時空間にわたって継続的に起きるこの複数交雑事象との仮定は、先行研究により定義されているように、単一の交雑の波動と区別できないかもしれません。以下は本論文の図1です。
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コンピュータ模擬実験では、範囲拡大の過程は、ユーラシアの両端側からの現在のゲノム情報に基づいて、ヨーロッパアジア東部との間のネアンデルタール人祖先系統における違いを説明できるかもしれない、と示されました。しかし、地理的な遺伝子移入パターン(つまり、勾配の存在)の詳細な調査も、経時的な変化もその研究には含まれていませんでした。さらに、範囲拡大は出アフリカ拡大期だけではなく、他の先史時代の期間にも起きました。これには、ヨーロッパ南東部とアナトリア半島から到来した農耕民が部分的に狩猟採集民を置換したヨーロッパの新石器時代への移行や、ユーラシア草原地帯からの牧畜人口集団の拡大を伴う青銅器時代が含まれます(関連記事)。したがって、最近のヒトの歴史における複数の人口移動は時空間にわたるネアンデルタール人祖先系統の形成に寄与した可能性があり、それは、異なる拡大していく人口集団がさまざまな水準のネアンデルタール人祖先系統を有していたかもしれないからです。
本論文は、範囲拡大仮説と一致する遺伝子移入の空間的勾配がユーラシアで起きたのかどうか、時空間を超えて分布する人口集団におけるネアンデルタール人祖先系統の水準の調査により研究します。遺伝子移入の時空間的水準は、過去の人口動態に関する貴重な情報を提供する、と本論文では論証され、ヒトの進化史における古代の遺伝子移入水準の形成について、主因として範囲拡大の複数回の事象が示唆されます。
●ユーラシアにおけるネアンデルタール人祖先系統の空間的勾配
アレン(Allen)古代DNAデータベースから取得された、4464個体の刊行された古代人および現代人(4万年前頃~現在)の拡張データセットが分析されました。以下の人口集団の1つと各ゲノムが関連づけられました。それは、旧石器時代/中石器時代狩猟採集民(HG)、新石器時代/銅器時代農耕民(FA)、他の古代人標本(OT)、現代人標本(MD)です。全てのゲノムについてのF4比を用いてネアンデルタール人からの遺伝子移入が推定され、同じ地理的位置と期間と人口集団のゲノムの値が平気化され、1もしくは複数のゲノムで構成される2625点の標本が得られました(図1B)。
次に、応答変数として対数変換されたネアンデルタール人祖先系統での線形混合モデル(linear mixed model、略してLMM)の使用により、緯度と経度と年代(現在からさかのぼった年数)と大陸地域(ヨーロッパもしくはアジア)とその相互作用の固定効果が調べられました、LMMは、データセットの階層構造や非独立性の処理にとくに有用です。人口集団の無作為効果、これらの集団内で重なる期間(500年間のクラスタ)、データの時空間的自己相関が調べられました。このモデルは全データセットを使用するので、「完全なユーラシア」と呼ばれました。最低の赤池情報量基準(Akaike information criterion、略してAIC)値に基づいて、最適なLMMが保持されました。
時間参照として全標本の平均年代の考慮により(4200年前頃)、ヨーロッパとアジアの両方において緯度と経度でネアンデルタール人祖先系統の線形関係が観察されました(図2)。これらの地理的パターンは、交雑を伴う人口拡大後の、空間的遺伝子移入勾配の仮説を裏づけます。これは図1Aで図式的に表されており、在来の遺伝子(つまり、ネアンデルタール人)の遺伝子移入が、侵入人口集団(つまり、現生人類)においてその拡大源(つまり、アフリカ)からの距離とともに増加する、と予測されます。ヨーロッパとアジアでは緯度との正の関係が観察されますが(図2A)、経度では対照的な関係が観察され、アジアでは正、ヨーロッパでは負となります(図2B)。
緯度とともに増加するネアンデルタール人からの遺伝子移入は、ネアンデルタール人と交雑しながらのユーラシア南部地域から北部地域への現生人類の出アフリカ拡大と一致します。経度のパターンは中東における拡大の起源地と一致し、ネアンデルタール人祖先系統は中東からの経度とともに、アジアでは増加が予測されますが、ヨーロッパでは減少します。別の進化圧もこの遺伝子移入勾配に関わっているかもしれませんが(たとえば、空間的に異なる選択圧)、中東における全ての空間的勾配の源で観察された特定のパターンでは、人口集団の範囲拡大が最節約的な説明となります。以下は本論文の図2です。
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あるいは、現生人類におけるネアンデルタール人祖先系統の空間的差異はユーラシアにおけるネアンデルタール人の不均等な分布に起因するかもしれず、ネアンデルタール人がより多い地域では種間相互作用もより多く起き、局所的交雑の異なるパターンが生じます。出アフリカ後に、アジアよりもヨーロッパの方でより高いネアンデルタール人祖先系統水準が見つかり(図3)、ユーラシアにおけるネアンデルタール人の現在の化石記録と一致し、ヨーロッパではより多くの証拠が蓄積されています。さらに、ユーラシアの南部よりも北部の方でより多くのネアンデルタール人祖先系統を示す本論文の結果は、ヒマラヤ山脈の南方におけるネアンデルタール人の予期せぬ存在を除外できないとしても、ヒマラヤ山脈の北方におけるネアンデルタール人存在の証拠と一致します。それにも関わらず、在来種の不均等な分布の事例でさえ、範囲拡大から生じる侵入人口集団(つまり、現生人類)における遺伝子移入の増加する勾配は、依然として有効な説明かもしれません。たとえば、これは、ユーラシアのネアンデルタール人について当てはまっていたかもしれないように、在来人口集団が地域の一部にしか居住していなかった、とする模擬実験された範囲拡大後に予測されます。以下は本論文の図3です。
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空間的遺伝子移入の類似の勾配は、アフリカ東部における出アフリカ拡大の推定起源地からの地形的距離で緯度と経度を置換した場合や、おそらくは背景選択の影響が少ないデータセットからF4比を計算した場合に観察されます。しかし、本論文の分析は、現在ヨーロッパ西部よりもアジア東部の方でわずかに高水準のネアンデルタール人祖先系統が、ヨーロッパよりもアジアの方での現生人類拡大の起源地からのより長い距離によって説明できるかもしれない、との仮説を裏づけません。この仮説は現代人のDNAデータのみで提起されましたが、本論文の結果は古代DNA標本も検討しました。古ゲノムデータを用いると、2万年以上前の標本では逆のパターンが示され、アジアよりもヨーロッパの方で多くのネアンデルタール人祖先系統が観察されます(図3)。したがって、ヨーロッパよりもアジアの方でネアンデルタール人祖先系統の割合が高いという現在のパターンは、その後の段階で進展したに違いありません。
●ネアンデルタール人祖先系統における時間的差異
本論文の結果から、ネアンデルタール人祖先系統の、経度勾配の傾きは過去4万年間で類似したままなのに対して、緯度勾配は経時的に有意に変化した、と示唆されます。緯度パターンはヨーロッパにおいて初期ではより顕著で、3万年前頃には目立たなくなり、ネアンデルタール人祖先系統は全体的に減少します(図3)。これは、ユーラシアにおけるネアンデルタール人祖先系統の水準が現在観察されているように空間全体で均一に分布していたわけではなかった可能性を示唆しますが、この予測はより多くの古ゲノムで確認される必要があり、それは、緯度と時間の相互作用が、最適モデルのみの代わりに全候補モデルの平均を考慮した場合、もはや有意ではないからです。
経時的なネアンデルタール人祖先系統における差異は、現在議論されています。ヨーロッパ古代人のゲノムはヨーロッパ現代人と比較してネアンデルタール人祖先系統をより多く有している、と提案されてきましたが(関連記事)、この結果は祖先系統推定手順における方法論的価値よりのため、疑問が呈されました(関連記事)。それにも関わらず、ネアンデルタール人祖先系統は現在の2%へと急速に減少する前には、混合時に10%もあったかもしれない、と推定されてきました。本論文では、ネアンデルタール人祖先系統における時間的減少は緯度と関連している、と示されます。
ヨーロッパ南部の標本は経時的にほぼ一定のネアンデルタール人祖先系統を示しますが、ヨーロッパ北部の標本は4万~2万年前頃に減少を経ました。緯度勾配は大きな変化を経た可能性があり、それは恐らく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)もしくは他の限定的な氷期において現生人類の経てきた人口の拡大および縮小に起因します。本論文の結果から、この勾配は現代人のデータではさほど明らかになっていない、と示されます(図3)。経度パターンは、過去4万年間でさほど影響を受けてこなかったので、6万~45000年前頃の現生人類の進化において起きた出アフリカ範囲拡大の残存痕跡を表しているかもしれません。
自然選択は、経時的なネアンデルタール人祖先系統の減少の説明に持ち出されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、異なる歴史的過程も重要な役割を果たしたかもしれません。これには、人口の拡大および縮小や、さまざまな水準のネアンデルタール人祖先系統を有する遺伝的に分化した人口集団間の相互作用が含まれます(関連記事1および関連記事2)。ヨーロッパでは、顕著な遺伝的移行が初期新石器時代農耕民の拡大中に起き、そのさいに旧石器時代/中石器時代の狩猟採集民が部分的に置換されました(いわゆる新石器時代移行)。少なくともアナトリア半島からヨーロッパ中央部へのドナウ川経路沿いでは、古遺伝学的分析から、新石器時代への移行の最初の段階は農耕民の移住を通じて起き、続いて第二段階で在来の狩猟採集民との混合が起きた、と明らかにされてきました(関連記事)。この移行は肥沃な三日月地帯では11000年前頃に始まり、ネアンデルタール人祖先系統の分布に対するその結果は、これまでさほど調査されてきませんでした。
●ヨーロッパにおける狩猟採集民よりも初期農耕民の方で少ないネアンデルタール人祖先系統
したがって、年代と人口集団全体にわたるネアンデルタール人祖先系統の水準の差異が、より具体的に調べられました(合計2534個体)。OT(他の古代人標本)集団には、FA(新石器時代/銅器時代農耕民)でもHG(旧石器時代/中石器時代狩猟採集民)でもない全ての古代人標本が含まれ、たとえば、青銅器時代やもっと新しい期間です。MD(現代人)集団の標本はこの分析から除外され、それは、ネアンデルタール人祖先系統の時間的差異を調べられないからです(現代のデータは同じ年代に関連づけられています)。人口集団と大陸地域(ヨーロッパもしくはアジア)と年代と相互作用が固定変数として含められ、データセットの空間的自己相関も補正されました。このモデルは「古代ユーラシア」と呼ばれ、それは、古代人標本のみ検討しているからで、その最適なLMM(線形混合モデル)は表S1に示されています。
ヨーロッパとアジアと人口集団の間の違いに関して年代の影響が観察され、ヨーロッパではとくに明らかですが、FAよりもHGの方で全体的なネアンデルタール人祖先系統の水準は高くなっています(図4)。最初のFAが近東に出現した1万年前頃には、FAとHGとの間の違いはヨーロッパ(HGは0.024±0.001、FAは0.019±0.001)とアジア(HGは0.022±0.001、FAは0.018±0.001)において有意でした。農耕が充分に確立したものの、HG人口集団が存続していた6000年前頃には、ネアンデルタール人祖先系統はヨーロッパにおいてHG人口集団(0.023±0.001)とFA人口集団(0.020±0.0002)との間で、またHG人口集団とOT人口集団(0.020±0.0003)の間で有意でしたが、FA人口集団とOT人口集団との間では有意ではありませんでした。同様の状況はこの時点でのアジアでも観察されました。
全体的にこれが意味するのは、初期のFAは同じ地域のそれ以前のHGよりもネアンデルタール人祖先系統が少ない、ということです。この違いは経時的に消滅し、それは、FAにおけるネアンデルタール人祖先系統の水準が両地理的地域【ヨーロッパとアジア】においてHGとの共存期間中に増加したからです(図4)。後期のHGとFAとの間の混合は、おそらく経時的なHGにおけるネアンデルタール人祖先系統の減少の一部を説明できますが、この現象は1万年前頃となる農耕出現の前に始まっているようなので(図4)、HGとFAとの間の混合は多分、唯一の要因ではありません。しかし、3万~2万年前頃には古代人の標本が稀で、存在しない場合さえあるので、この結果は慎重に解釈すべきです。さらなるデータと研究が、この特定の時点の解明に役立つかもしれません。アジアのFAはHGの平均水準に達しましたが、ヨーロッパのFAはそうした高水準に達しませんでした(図4)。したがってFAは、以前に提案されたように(関連記事1および関連記事2)、ユーラシア西部でネアンデルタール人祖先系統を希釈した人口集団として機能したかもしれません。以下は本論文の図4です。
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ネアンデルタール人祖先系統の水準が異なっていた人口集団の範囲拡大の複数事象は、ネアンデルタール人祖先系統における時空間的変化への説明を提供できるかもしれません。本論文の結果は、過去のヒトの範囲拡大(つまり、HG、次にFA)がネアンデルタール人祖先系統の空間的勾配の形成に寄与し、その水準はアジア南西部におけるその起源地から増加していく、という上述の仮説を裏づけます(図2および図3)。出アフリカの期間に、HGは拡大につれてネアンデルタール人からの遺伝子移入を蓄積していき、これは範囲拡大仮説と一致します。ユーラシア西部への第二、つまり初期FAの範囲拡大は、この地域におけるネアンデルタール人祖先系統の全体的な希釈の説明に重要です。最初期のFAはアナトリア半島とレヴァントのHG人口集団に由来し、出アフリカ拡大の起源地への地理的近さから予測されるように、ヨーロッパの他地域のHG人口集団よりもネアンデルタール人祖先系統は低水準です。FAとOTの人口集団間で顕著な違いがないので、草原地帯牧畜民のその後の拡大はさほど大きな影響を及ぼさなかったようですが、本論文のOT集団にはさまざまな文化期の人口集団が含まれているので、これにはより詳細な説明が必要でしょう。
●ヨーロッパの農耕民と狩猟採集民における空間的勾配
本論文は次に、アジアよりも古ゲノムが密で均一に分布しているため、ヨーロッパに分析を集中させることにしました。アジアでは、旧石器時代と新石器時代はより大きな地域にまたがる少数の標本(標本が、ヨーロッパでは1517点に対してヨーロッパの4倍の広さのアジアでは1108点です)で表されています(図1B)。さらに、アジアの複数の場所で栽培化された植物と家畜化された動物が出現しており、過去のFAの人口動態の説明がヨーロッパよりも困難になっています。
ヨーロッパに限定された部分標本(1517点)の使用により、時間の固定効果を制御しながら、ネアンデルタール人祖先系統に対する緯度と経度と人口集団(HGとFAとOTとMD)の影響が調べられました。MD標本における時間的差異の欠如のため、時間と人口集団との間の交差水準相互作用が除外されました。LMMは「ヨーロッパ」と呼ばれ、その最良版が表S1に示されています。経度と人口集団との間の相互作用は有意ではなく、緯度と人口集団との間の相互作用とともに、モデル選択時に除外されました。人口集団間の違いの欠如が検出力の欠如に起因する可能性を排除できませんが、これが示唆するのは、図2で示されている負の経度および正の緯度の傾向が、他の文化集団と比較してのHGにおけるより高いネアンデルタール人祖先系統にも関わらず、ヨーロッパでは全ての人口集団でそのまま留まっている、ということです(図5)。緯度と経度との間の相互作用は有意で、その遺伝子移入の傾斜が全ての人口集団で相互依存だったことを意味します(図5)。
全ての固定変数相互作用を含む完全なモデルが検討されると、変化した唯一の空間的勾配はFAと比較してのHGでの緯度の傾斜です。HGについての結果は旧石器時代の標本の少なさに影響を受けているかもしれませんが、この分析から、この期間には緯度の差異が経度の差異よりも大きく変化したかもしれない、と示唆されます(図3および図5)。LGMと関連する旧石器時代における人口の拡大および縮小のさまざまな事象は、経度で見られる勾配よりも緯度の勾配の方に影響を及ぼしたかもしれません。全体的に、空間の傾向はさまざまな期間にわたって類似したままで、MD標本では顕著ではなくなり、HGではネアンデルタール人祖先系統がより多くなります(図5)。以下は本論文の図5です。
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ヨーロッパでは、旧石器時代における初期のヒトの拡大と新石器時代における農耕拡大がアジア南西部にさかのぼり、アジア南西部ではネアンデルタール人祖先系統が最低水準と推定されました。ヨーロッパ(図5の赤色)とFAの起源地であるアナトリア半島(図5の青色)のHG間のネアンデルタール人祖先系統の違いは、初期FAがヨーロッパ中に拡大したさいにネアンデルタール人祖先系統の全体的な低下に寄与した理由を説明しています。最近になって、レヴァントとアラビア半島南部の現代の人口集団は、ユーラシア北部の人口集団よりも依然としてネアンデルタール人祖先系統が少ない、と分かったことに要注意です。
拡大仮説によると、HGがヨーロッパ中に広がるにつれて、そのネアンデルタール人からの遺伝子移入の水準は、遺伝子の希釈および波乗りと関連する確率論的人口統計学的および移住の過程のため増加し、これはHGで観察されるネアンデルタール人祖先系統の空間的勾配を説明します(図5)。その後、HGの拡大とほぼ同じ方向に沿って、新石器時代に第二の拡大が起きました。その結果、HGにすでに存在していた空間的勾配は、HGとFAの両人口集団が混合したため、FAで維持されました(図5)。さらに、10200~3800年前頃の古ゲノムを分析すると、FA祖先系統はヨーロッパにおいてネアンデルタール人祖先系統と負に関連している、と示されました。この負の関係は、FA拡大の開始以来、時間の経過とともに強まりました。
以前に指摘されたように、ヨーロッパにおいて南東部から北西部への遺伝的勾配の唯一の観察は、FAの拡大に関して情報をもたらさず、それは、この勾配がそれ以前のHG拡大期に形成されたかもしれないからです。本論文の結果から、ネアンデルタール人祖先系統の勾配はHGの範囲拡大中に形成され、同じ一般的方向性を維持しながら、新石器時代移行においてFAのその後の拡大により影響を受けた、と示唆されます。FAは当初HGよりネアンデルタール人祖先系統が少なかったので、混合したヨーロッパの人口集団ではネアンデルタール人祖先系統の平均量が低下しました。これは、新石器時代の古ゲノム研究により裏づけられる部分的な置換を伴う人口拡大のモデルに相当します。
●ネアンデルタール人祖先系統の分布に対するヒトの範囲拡大の影響
本論文の調査結果は、現生人類のネアンデルタール人祖先系統の空間的勾配の形成における過去の範囲拡大の影響を浮き彫りにします。これらの祖先系統水準は過去においてより空間的に不均一で、人口移動と移住から生じた遺伝子流動の影響下で完新世にはより均一になった、と観察されました。さまざまな地域とさまざまな文化的背景(HGとFA)の人口集団におけるネアンデルタール人祖先系統の水準を分析すると、複雑な人口移動と遺伝的相互作用が反映されています。HGにおけるネアンデルタール人祖先系統の空間的勾配は、出アフリカ拡大における現生人類の範囲拡大のモデルと一致します。
この最初の拡大の後に、ネアンデルタール人祖先系統の水準はユーラシアの東部よりも西部の方でわずかに高くなります。その後、新石器時代移行期にヨーロッパでは、南東部から北西部への、より少ないネアンデルタール人祖先系統を有する初期FAの第二の範囲拡大が起きました。この第二の範囲拡大は、現在観察されるアジア東部よりもヨーロッパ西部の方で少ないネアンデルタール人祖先系統というパターンの説明に不可欠です。したがって、本論文の結果は、ユーラシアの西部と比較して東部の方でわずかに多いネアンデルタール人祖先系統が、4万年前頃に起きた現生人類の出アフリカ拡大中の人口動態に起因する、との仮説を裏づけません。
代わりに本論文の結果から、ネアンデルタール人祖先系統の現在の地理的不均一は、より新しい1万年前頃となる新石器時代拡大中に起きた動態に起因する、と明らかになります。初期FA人口集団はHGと混合し、HG祖先系統の漸進的増加と、その結果としての、FA人口集団におけるネアンデルタール人祖先系統の増加につながりました。初期FAは以前特定された「基底部ユーラシア人」系統に遺伝的には部分的に由来する、と提案されてきました(関連記事)。この系統は、他のユーラシアHG人口集団がネアンデルタール人と混合する前に他のユーラシアHG人口集団と分岐したので、ネアンデルタール人祖先系統が少ない、と考えられています。「基底部ユーラシア人」の元々の場所はアラビア半島だったかもしれない、と示唆されており(関連記事)、アラビア半島は出アフリカ拡大の起源地に近いので、範囲拡大仮説と一致します。したがって、FAによるHGの部分的置換は、ユーラシアの東部よりも西部の方でネアンデルタール人祖先系統の水準低下に寄与しました。
選択がヨーロッパとアアジアとの間の違いの説明に持ち出されましたが(関連記事)、歴史的な範囲拡大との中立的仮説は、ヒトにおけるネアンデルタール人祖先系統の過去と現在のパターンの説明に充分です。このモデルは、アジアの東西間の人口規模もしくは世代時間の違いもネアンデルタール人祖先系統のパターン形成に役割を果たした、という可能性を排除しませんが、空間的文脈における遺伝的多様性人口動態と生活史の特徴の影響は評価が簡単ではないので、これらの側面に焦点を当てたモデル化研究が必要でしょう。さらに、範囲拡大モデルと混合の波動数との間の関係は、波動の定義に依拠します。
本論文の結果は、出アフリカ拡大中に時空間的に分散した一連の連続的な交雑事象と一致し、これは1回の主要な混合の波動と考えることができます。現生人類における古代型ホモ属の遺伝物質の移入はおそらく、最初の段階で対抗選択されましたが、ネアンデルタール人からの遺伝子移入量が約2%と経時的に安定している事実から、遺伝子移入されたDNAのこの残りの小さな割合が、一般的には中立もしくはほぼ中立で進化したと考えることができる、と示唆されます。この仮定は、古代型ホモ属からの遺伝子移入が遺伝子の豊富な領域においてより稀である傾向にある、という観察(関連記事)によっても裏づけられます。
しかし、この一般的パターンには例外があり、免疫系(関連記事)や肌の色素沈着(関連記事)や高度(関連記事)と関連する適応的な遺伝子移入が示されており、局所的な環境条件と病原体へのより優れた適応を提供します。さらに、現在の人口集団では、古代型人類から遺伝子移入された幾つかの遺伝子座が、神経学や精神医学や免疫学や皮膚科学や食事障害などの疾患危険性(関連記事)に、正もしくは負の影響を及ぼしているようです。したがって、ヒトの人口動態と移住から生じた遺伝子移入の中立的パターンの記載は、中立的背景の外れ値として選択下にある遺伝子座(正もしくは負)のより適切な検出を可能にするのに重要です。それは、ヒト免疫系の進化に対する過去の感染症の影響の再構築に役立てるでしょう。
別のモデル化手法と組み合わせた最古の期間の追加の古ゲノムデータは、類似の多様性パターンにつながる進化過程のより詳細な理解を可能とするはずです。これらの発展は、現生人類内の人口動態、およびネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など他の絶滅した古代型種との相互作用、この両方のより深い理解を提供するでしょう。
参考文献:
Quilodrán C. et al.(2023): Past human expansions shaped the spatial pattern of Neanderthal ancestry. Science Advances, 9, 42, eadg9817.
https://doi.org/10.1126/sciadv.adg9817
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_24.html
2023/11/25 (Sat) 10:54:49
雑記帳
2023年11月25日
伊谷原一、三砂ちづる『ヒトはどこからきたのか サバンナと森の類人猿から』
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_25.html
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%94%80%E2%94%80%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%A8%E6%A3%AE%E3%81%AE%E9%A1%9E%E4%BA%BA%E7%8C%BF%E3%81%8B%E3%82%89-%E4%BC%8A%E8%B0%B7-%E5%8E%9F%E4%B8%80/dp/4750517860
亜紀書房より2023年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は著者2人の対談形式になっており、おもに三砂ちづる氏が伊谷原一氏に質問し、対談が進行しています。まず指摘されているのが、人類は森林から開けたサバンナに進出して誕生した、との見解には確たる証拠がないことです。ヒト上科の化石は、人類でも非人類でも、まだ熱帯多雨林から発見されておらず、乾燥帯から発見されている、というわけです。もちろん、熱帯多雨林では土壌の湿度の高さによる微生物の活発な活動のため、骨はすぐに分解される、とは以前から指摘されています。ただ本書は、現時点での化石証拠から、ヒトと非ヒト類人猿の共通祖先が乾燥帯もしくは森と乾燥帯の境界で生息しており、ヒトの祖先が乾燥帯に残った一方で、非ヒト類人猿は森に入り込んだのかもしれない、と指摘します。
ヒトの祖先が乾燥帯に留まれた理由としては肉食が挙げられており、現生チンパンジー(Pan troglodytes)にも見られる肉食は、共通祖先に由来する行動だったかもしれない、と本書は推測します。アフリカの非ヒト現生類人猿(チンパンジー属とゴリラ属)の移動形態は、四足歩行時にはナックル歩行(ナックルウォーク)で、それは祖先が二足歩行していたからではないか、と本書は指摘します。その傍証として本書は、チンパンジー属のボノボ(Pan paniscus)が上手に二足歩行することを挙げています。現生チンパンジー属やゴリラ属の祖先はかつて二足歩行で、その後で森に戻ったさいにナックル歩行になったのではないか、というわけです。
本書は京都大学の霊長類学を中心とした日本の霊長類研究史にもなっており、行動学や生態学を基本とする欧米の動物学に対して、日本の動物学は動物に社会があるとの前提から始まっていて、日本の霊長類研究もそれを継承し、「社会学」になっている、と違いを指摘します。霊長類には安定した集団構造があり、「社会」も存在する、との日本人研究者の主張はやがて世界的に認められるようになっていきますが、チンパンジーの集団を「単位集団(unit group)」と命名したのは西田利貞氏です。本書によると、欧米の研究者が同じ意味で「community」を用いるのは、「黄色いサル」である日本人による名称は使いたくないからとのことですが、この指摘はとりあえず参考情報に留めておきます。
家族については、今西錦司氏はその条件として、(1)****の禁忌、(2)外婚制、(3)分業、(4)近隣関係を挙げ、伊谷純一郎氏はそれに、(5)配偶関係の独占の確立、(6)どちらの性によってその集団が継承されていくこと、を追加しました。非ヒト霊長類でこれら全ての条件を満たす分類群は存在しません。本書は今西錦司氏について、悪く言えば「広く浅い」人で、その学説は現在では否定されているものの、直感は素晴らしく、若い研究者に大きな刺激と示唆を与えた、と評価しています。
チンパンジーの繁殖について興味深いのは、集団にいないか、雄と雌で分けられて育てられると、集団に入れられても繁殖を行なわない、ということです。ただ、雄の場合は****を床に落とし、雌の場合は性皮が腫れることもあるので、性的欲求自体はあるようです。しかし、適切な時期に周囲の繁殖行動を見て学習しいないと、繁殖行動のやり方が分からないのではないか、と本書は推測します。これはゴリラも同様で、大型霊長類以外の動物では、飼育下で放置していても繁殖行動を示すそうです。
参考文献:
伊谷原一、三砂ちづる(2023) 『ヒトはどこからきたのか サバンナと森の類人猿から』(亜紀書房)
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_25.html
2023/12/11 (Mon) 14:28:16
ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル
2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ&t=120s
古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK
交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
https://amzn.to/3WLzvie
Kindle版
https://amzn.to/3RcJyvD
2024/11/21 (Thu) 17:08:47
ヨーロッパ人と東アジア人は同一集団の子孫~2022年の研究で明らかになったアフリカ人、東西ユーラシア人の分岐と人種の成立過程/日本人の起源/アフリカ単一起源説~
LEMURIA CH/レムリア・チャンネル 2023/02/18
https://www.youtube.com/watch?v=pzLQVY-xOmQ
古代の化石に残るDNAを解析する技術の進展により、化石の形態では分からなかったホモ・サピエンスの進化の過程が明らかになってきました。
アウストラロピテクス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・アンテセソール(ホモ・アンテセッサー)、ネアンデルタール人、デニソワ人などの絶滅人類とホモ・サピエンスとの関係についても従来の説が次々と塗り替えられています。
今回はホモ・サピエンスの進化と人種の形成過程について最新の研究を交え解説していきます。
人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」
https://amzn.to/416LMkx
Kindle版
https://amzn.to/3S7C2CK
交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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人類誕生の謎を徹底解説します【ホモ・サピエンス総集編】
世界ミステリーch 2024/09/07
https://www.youtube.com/watch?v=OmvKtwjiA28
この動画は、これまでお送りしたホモ・サピエンスについての総集編となっております。
最新研究も含め、人類の謎でもあるホモ・サピエンス誕生や当時の背景などを知ってください!
■チャプター■
00:00 スタート
0:13 アフリカ単一起源説が崩壊するかもしれない!?最新の研究で分かった人類の起源は〇〇だった?
8:51 出アフリカルートの謎が明らかに!ホモ・サピエンスはどう旅をしたのか?
17:50 出アフリカが大きな分岐点!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの運命が決まった分かれ道とは?
28:27 定説が覆る?ホモ・サピエンスは異種族との交雑で生まれた!
38:38 ホモ・サピエンス誕生の最新考察!ホモ・サピエンスの誕生の定説が大きく変わる!?
47:01 人類最大の謎!ホモ・サピエンスはどこからきたのか?人類誕生と進化の謎に迫ります!
59:55 ホモ・サピエンスは最強の人類として生き残った!ホモ・サピエンスが手に入れたものとはなんだったのか?
1:10:49 農業が人類を狂わせてしまったのか?農耕生活が始まり何が起こったのかを徹底解説!
1:22:36 ホモ・サピエンスはなぜアフリカで生まれ、いつネアンデルタール人に出会ったのか?
ネアンデルタール人の最新研究で新事実も分かってきています【総集編】
世界ミステリーch 2024/09/12
https://www.youtube.com/watch?v=eVF1HCXDDR4&t=16s
この動画は、これまでお送りしたネアンデルタール人についての総集編となっております。
ネアンデルタール人についての研究はどんどんアップデートされ、新事実も分かってきています。
最新研究も含め、ネアンデルタール人の誕生や当時の背景などを知ってください!
■チャプター■
00:00 スタート
0:11 ネアンデルタール人と現生人類のつながりを解明!大きい鼻の謎に迫る!
9:02 出アフリカが大きな分岐点!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの運命が決まった分かれ道とは?
19:40 ネアンデルタール人の狩り能力が凄すぎた!狩りから分かるネアンデルタール人の新事実!
29:01 ネアンデルタール人の頭の良さが最新の研究で判明!人間並か?それ以上か?
35:53 【最新の科学】ネアンデルタール人研究の新展開が見えてきた!
44:45 人ホモ・サピエンスはなぜアフリカで生まれ、いつネアンデルタール人に出会ったのか?
世界ミステリーch _ ネアンデルタール人の頭蓋骨から『顔』が復元された
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=16854610
レベッカ・ウラグ・サイクス著『ネアンデルタール』
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14056986
ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の関係
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14095189
4代前にネアンデルタール人の親、初期人類で判明
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/620.html
日本人はネアンデルタール人の生き残り?
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/105.html
2024年4月18日 理化学研究所
全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴
-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-
https://www.riken.jp/press/2024/20240418_2/index.html
2024/11/23 (Sat) 08:28:44
人類誕生の謎を徹底解説します【ホモ・サピエンス総集編】
世界ミステリーch 2024/09/07
https://www.youtube.com/watch?v=OmvKtwjiA28&t=182s
この動画は、これまでお送りしたホモ・サピエンスについての総集編となっております。
最新研究も含め、人類の謎でもあるホモ・サピエンス誕生や当時の背景などを知ってください!
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0:13 アフリカ単一起源説が崩壊するかもしれない!?最新の研究で分かった人類の起源は〇〇だった?
8:51 出アフリカルートの謎が明らかに!ホモ・サピエンスはどう旅をしたのか?
17:50 出アフリカが大きな分岐点!ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの運命が決まった分かれ道とは?
28:27 定説が覆る?ホモ・サピエンスは異種族との交雑で生まれた!
38:38 ホモ・サピエンス誕生の最新考察!ホモ・サピエンスの誕生の定説が大きく変わる!?
47:01 人類最大の謎!ホモ・サピエンスはどこからきたのか?人類誕生と進化の謎に迫ります!
59:55 ホモ・サピエンスは最強の人類として生き残った!ホモ・サピエンスが手に入れたものとはなんだったのか?
1:10:49 農業が人類を狂わせてしまったのか?農耕生活が始まり何が起こったのかを徹底解説!
1:22:36 ホモ・サピエンスはなぜアフリカで生まれ、いつネアンデルタール人に出会ったのか?
2025/11/09 (Sun) 09:32:51
雑記帳 2025年11月09日
人類進化史概略
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html
人類進化に関する英語論文を日本語に訳してブログに掲載するだけではなく、これまでに得た知見をまとめ、独自の記事を掲載しよう、と昨年(2024年)後半から考えていますが、最新の研究を追いかけるのが精一杯で、独自の記事をほとんど執筆できておらず、そもそも最新の研究にしてもごく一部しか読めていません。現在の私の知見ではまだ「入力」が足りないことはとても否定できませんが、そう言っていると、一生「入力」だけで終わってしまいますし、時々「出力」というか整理することで、今後の「入力」がより効率的になっていくのではないか、とも思います。そこで、多少なりとも状況を改善しようと考えて思ったのは、ある程度まとまった長い記事を執筆しようとすると、怠惰な性分なので気力が湧かないため、思いつき程度の短い記事でも少しずつ執筆していくことですが、まだわずかしか執筆できておらず、ほとんど状況を改善できていません。この状況から脱するために、今回まず、人類史における画期というか時代区分を意識して、人類進化史の現時点での私見を短く述べることにしました。この記事で提示した各論点について、さらに整理して当ブログに掲載していくつもりですが、怠惰な性分なのでどこまで実行できるのか、自信はまったくありません。
●最初期の人類
当ブログでは「人類」という用語をずっと使ってきましたが、この用語については、チンパンジー属系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統を、漠然と想定してきました。人類進化史について述べていくには、この点をある程度明確に定義する必要があるとは思いますが、現時点の私の知見では漠然と想定した以上の確たる定義はできません。当ブログでは、分類学的にはヒト亜族(Hominina)とほぼ同義のつもりで「人類」を用いてきましたが、これが適切な用法なのか、確信はありません。ただ、現時点の私の知見ではこれ以上の妙案がすぐには思い浮かばないので、少なくとも当面は、ゴリラ属(Gorilla)系統、さらにはその後にチンパンジー属(Pan)系統と分岐して以降の、直立二足歩行の現代人の直接的祖先およびその近縁な系統として、「人類」を用いることにします。
直立二足歩行の最古級のヒト科(Hominidae、現生のホモ属とチンパンジー属とゴリラ属の系統)候補として、チャドで発見された704万±18万年前頃(Lebatard et al.,2008)のサヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)と600万年前頃のオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)が指摘されており、一般的にサヘラントロプス属とオロリン属は最古級の人類系統と考えられているように思います(荻原.,2021)。ただ、移動形態と分子生物学的観点からは、サヘラントロプス属とオロリン属を最古級の人類系統と分類するのに慎重であるべきとは思います。
現生のチンパンジー属とゴリラ属の移動形態はナックル歩行(手を丸めて手の甲の側を地面に当てつつ移動する歩き方)ですが、これについては収斂進化の可能性が指摘されています(Morimoto et al., 2018)。つまり、ゴリラ属の祖先とチンパンジー属および現生人類(Homo sapiens)の共通祖先が分岐したならば、人類系統も当初はナックル歩行だった、と考えるのがより節約的ですが、現生のチンパンジー属とゴリラ属のナックル歩行が収斂進化だとすると、最初期人類の移動形態がナックル歩行だったとは限らないわけです。そのため、ヒト科において二足歩行は地上に下りてからではなく樹上で始まり、人類の二足歩行は新たな環境における旧来の移動方法の延長上にあった、とも指摘されています(DeSilva., 2022)。
ヒト科において、比率に系統間で差はあっても、四足歩行と二足歩行の併存が一般的だったとすると、中新世のヒト科でやや二足歩行に傾いた人類以外の系統が存在したとしても不思議ではありません。類人猿の完全なゲノム配列を報告した研究(Yoo et al., 2025)では、チンパンジー属系統と現代人系統の分岐が630万~550万年前頃と推定されています。この推定分岐年代は、サヘラントロプス・チャデンシスの推定年代より新しく、オロリン・トゥゲネンシスの推定年代と重なります。チンパンジー属系統と現代人系統の分岐については、分岐してから一定の期間の交雑も想定すると、年代の推定に難しいところもありますが、700万年前頃以降の形態学的に二足歩行が補足されるヒト科化石でも、人類系統とは限らない可能性を今後も想定しておくべきとは思います。
確実に人類系統と思われる最古級の化石はアルディピテクス属(Ardipithecus)で、多数の化石が見つかっていることから詳細に研究されている440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の移動形態は確実に二足歩行と考えられているものの、樹上生活に適応的な形質も見られ、それはアルディピテクス属以降に出現したアウストラロピテクス属(Australopithecus)でも同様です(荻原.,2021)。人類系統は、四足歩行を基本としつつ、時には二足歩行で移動するような、ヒト科の祖先的移動形態から二足歩行への比重を高めつつ、アルディピテクス属でもその後のアウストラロピテクス属でも、完全に地上での二足歩行に適応していたわけではなく、樹上生活に適応的な形質も保持していた、と考えられます。
●人類の多様化と地理的拡大と石器の使用
440万年前頃のアルディピテクス・ラミダス以前の人類系統についてはよく分かりませんが、それ以降は次第に解明されつつあります。420万年前頃以降にはアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)が確認され、その後には詳細に形態が研究されてきたアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)が出現します。400万~300万年前頃の人類については、ケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)やアウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)やアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus、Granger et al., 2015)やアウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda、Haile-Selassie et al., 2015)などといった種区分が提唱されており、さらにはアウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・アファレンシスが一時的に共存していた可能性も指摘されています(Haile-Selassie et al., 2019)。アルディピテクス・ラミダスと最古級のアウストラロピテクス属との年代の近さからも、アルディピテクス・ラミダスがアウストラロピテクス属の直接的祖先である可能性は低そうですが、アウストラロピテクス属とアルディピテクス・ラミダスの最終共通祖先が500万年前頃に存在した可能性もあるとは思います。
かつて、400万~300万年前頃の人類は(アウストラロピテクス・アナメンシスとそこから進化した)アウストラロピテクス・アファレンシスだけとも言われていましたが(Gibbons., 2024)、現在でも、これらの400万~300万年前頃の人類化石が、同じ種内の形態的多様性を表している可能性は否定できないように思います。その意味では、400万~300万年前頃の人類はアウストラロピテクス属、さらにはその中の1種(アウストラロピテクス・アファレンシス)のみに分類されるにしても、属の水準で複数の系統が存在していたにしても、まだ多様化が進んでいなかった、とも言えるかもしれませんが、アウストラロピテクス・アファレンシスの一部の化石を除いて、ほぼ断片的な証拠とはいえ、アウストラロピテクス・アファレンシスとの違いを指摘される化石がそれなりに発見されてきたわけですし、今後の発見も考えると、現時点では400万~300万年前頃の人類の多様性が過小評価されている可能性は高いように思います。
人類の多様化が化石記録において明確に見られるのは、300万年前頃以降です。大きな傾向としては、400万~300万年前頃にはアウストラロピテクス属のみ若しくは類似した系統しか存在していなかったのに対して、300万年前頃以降の人類には、より頑丈な系統であるパラントロプス属(Paranthropus)と、より華奢で脳容量の増加した系統であるホモ属が出現します。パラントロプス属は、アフリカ東部の270万~230万年前頃となるパラントロプス・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)および230万~140万年前頃となるパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)と、アフリカ南部の180万~100万年前頃となるパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されており(Lewin.,2002,P123)、100万年前頃までには絶滅した、と推測されています(河野.,2021)。
ただ、パラントロプス属がクレード(単系統群)を形成するのか、疑問も呈されており(河野.,2021)、つまりは、アフリカ東部において、先行するアウストラロピテクス属種からパラントロプス・エチオピクスとされる系統が、さらにそこからパラントロプス・ボイセイとされる系統が派生したのに対して、アフリカ南部では、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)からパラントロプス・ロブストスとされる系統が進化したのではないか、というわけです。そうだとすると、パラントロプス属という分類は成立せず、パラントロプス属とされる3種はすべてアウストラロピテクス属に分類するのが妥当と思われます。
こうした300万年前頃以降の人類の多様化の背景には、森林の多い環境から草原の多いより開けた環境への変化(Robinson et al., 2017)というよりも、それ以前と比較しての気候変動の激化が推測されています(Antón et al., 2014、Joannes-Boyau et al., 2019)。気候変動の激化によって環境が不安定になり、さまざまな進化的対応の結果としての多様化だったのではないか、というわけです。ホモ属において脳容量が増加した理由として、個体間競争や集団間競争よりも生態学的課題を重視する見解(González-Forero, and Gardner., 2018)も提示されています。一方で、初期ホモ属の脳容量増加が体格の大型化とある程度は連動していた側面も否定できません(Püschel et al., 2024)。初期ホモ属の体格は多様で、170万年以上前には推定身長152.4cm以上の個体は稀だった、との指摘(Will, and Stock., 2015)もあり、じっさい、推定脳容量の平均について、アウストラロピテクス属が480cm³程度(現生チンパンジー属よりやや大きい程度)、最初期の明確なホモ属である180万~100万年前頃のホモ・エルガスター(Homo ergaster)が760cm³程度、100万年前頃以降の後期ホモ・エレクトス(Homo erectus)が930cm³程度なのに対して(Dunbar.,2016,P135)、200万年前頃の最初期ホモ属の成体時の脳容量は551~668cm³程度と推定されています(Herries et al., 2020)。
ホモ属がどのように出現したのか、まだはっきりとしませんが、現時点では、ホモ属のような派生的特徴を有する最古の化石は、エチオピアで発見された280万~275万年前頃の左側下顎ですが、アウストラロピテクス属のような祖先的特徴も見られます(Villmoare et al., 2015)。おそらくホモ属は、アウストラロピテクス属的な人類から進化したのでしょう。ただ、南アフリカ共和国で発見されたアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)にも、ホモ属のような派生的特徴とウストラロピテクス属のような祖先的特徴が混在しており(河野.,2021)、ホモ属の出現が280万年前頃までさかのぼる、と直ちに断定はできませんが、300万年前頃以降にホモ属的特徴が出現し始めて、異なる人類系統の複雑な混合の過程を経て、200万年前頃までにはホモ属が出現したのではないか、と私は考えています。後述のように、この多様な人類系統の共存状態(とくに人類がアフリカからユーラシアへと広く拡散した後は、異なる系統間の接触機会は少なかったとしても)は、現生人類の世界規模の拡散まで続きます。
石器の製作は人類史において画期とされており、脳容量の増加したホモ属によって石器が製作され始めた、と考えると話がきれいにまとまりますが、実際はもっと複雑だったようです。ホモ属によって広く使用され、その後の石器の起源となった最古の石器は、長くオルドワン(Oldowan)と考えられていました。オルドワン石器の最古級の年代は以前には260万年前頃と考えられており、ホモ属の化石の最古級の記録と近い年代ですが、現在ではアフリカ東部において300万年前頃までさかのぼることが知られています(Plummer et al., 2023)。さらに、オルドワン石器の前となる330万年前頃の石器がケニアで発見され、ロメクウィアン(Lomekwian)と呼ばれていますが、オルドワンとの技術的関係はまだ確認されていません。
300万年以上前となる、ホモ属のような派生的特徴を有する人類化石も、最初期ホモ属並の脳容量の人類もまだ発見されていませんから(今後、見つかる可能性が皆無とは言えませんが)、石器技術の始まりは脳容量の増加と関連していないようです。現生チンパンジー(Pan troglodytes)が野生で道具を使用していることから、人類系統も最初期から道具を使用していた可能性は高そうで、ホモ属よりも前に道具を明確に製作するようになり、石器も製作し始めたのではないか、と私は考えています。パラントロプス属がオルドワン石器を製作していた可能性も指摘されており(Plummer et al., 2023)、アウストラロピテクス属が持続的ではないものの散発的に石器を製作し、そうした試みのなかの一つがオルドワン石器につながり、人類系統で広く定着したのではないか、と私は推測しています。オルドワン石器よりさらに複雑なアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)石器の年代は、エチオピア高地において195万年前頃までさかのぼります(Mussi et al., 2023)。
石器製作の開始と脳容量増加とは関連していませんでしたが、人類の最初の出アフリカも脳容量増加、さらには体格の大型化と関連していなかった可能性が高そうです。現時点で、300万年以上前となる人類系統(とほぼ確実に考えられる)の痕跡(化石や石器や解体痕のある非ヒト動物の骨など)はアフリカでしか発見されておらず、アフリカ外の最古級の人類の痕跡は250万年前頃のレヴァントまでさかのぼり(Scardia et al., 2019)、中国では212万年前頃(Zhu et al., 2018)、ヨーロッパでは195万年前頃(Curran et al., 2025)までさかのぼります。人類は250万年前頃以降、アフリカからユーラシアへと拡散し、200万年前頃までには、どれだけ持続的だったかは分からないものの、ユーラシアの広範な地域に少なくとも一度は定着していた可能性が高そうです。この人類の出アフリカは、脳容量の増大や体格の大型化を前提とはしなかったようですが、石器技術が定着した後にはなります。ただ、人類の出アフリカに石器が必須だったのかどうかは、まだ断定できません。
この人類の最初の出アフリカと強く関連していたかもしれないのは、地上での直立二足歩行(および長距離歩行)により特化したことです。投擲能力を向上させるような形態は、すでにアウストラロピテクス属において一部が見られるものの、現代人のように一括して備わるのはホモ・エレクトス以降で(Roach et al., 2013)、おそらく投擲能力の向上は、直立二足歩行への特化および木登り能力の低下と相殺(トレードオフ、交換)の関係にあったのでしょう(Wong., 2014)。人類は投擲能力の向上によって捕食者を追い払うことができ、それは死肉漁りにも役立った、と思われます。250万~210万年前頃までの、アフリカからユーラシアへと拡散した人類は現代人のような直立二足歩行能力と投擲能力を完全には備えていなかったかもしれませんが、この点でアウストラロピテクス属よりずっと優れており、それが出アフリカを可能にしたのではないか、と私は考えています。投擲能力が人類のユーラシアへの拡散に重要な役割を果たした確実な根拠はありませんが、170万年以上前の初期ホモ属遺骸と石器が発見されているジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡において、峡谷の入口で大量の石が発見されており、この初期ホモ属が非ヒト動物に投石したか、投石によって動物を狩っていた可能性が指摘されていること(Gibbons., 2017)は、人類のユーラシアへの初期拡散における投擲能力の重要性の傍証となるかもしれません。
●60万年前頃:脳容量増加と火の使用と石器技術の複雑化
人類の脳容量はホモ属の出現以後に増加していきますが、100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境に急激に増加しているように見えます(Püschel et al., 2024)。100万年前頃以降のホモ属の平均的な推定脳容量は、分類に問題のあるホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の1170 cm³はさておくとしても、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)では1320cm³、現生人類では1370cm³です(Dunbar.,2016,P174)。ただ最近の研究では、種間の脳容量の差は体重と強く相関しているものの、種内では体重との相関が弱く、経時的に増加しており、つまり脳容量増加は種内では時間と強く相関していて、断続平衡的見解で想定されるような短期間の増加と長期の安定ではなかった、と示されています(Püschel et al., 2024)。
ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間は、複雑な遺伝子流動が推測されており、分岐年代も単純には推定できないでしょうが、最近の遺伝学的研究では60万年前頃とされています(Li et al., 2024)。形態学的研究では、現生人類系統および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統の共通祖先とネアンデルタール人系統の祖先との分岐が138万年前頃と推定されており(Feng et al., 2025)、この推定年代は現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係も含めて分子生物学的知見と大きく異なるので、現時点では有力説とは認めがたいものの、現生人類系統とネアンデルタール人(およびデニソワ人?)系統において、独自に脳容量の増加が起きた可能性は高そうです。
この100万年前頃以降、とくに60万年前頃を境とする脳容量増加との関連で注目されるのが、石器技術が60万年前頃を境に急速に複雑化していったことです(Paige, and Perreault., 2024)。60万年前頃以降、文化は真に累積的になり(Paige, and Perreault., 2024)、それは現生人類系統やネアンデルタール人系統での脳容量増加と相関していたかもしれません。40万年前頃以降には、火の使用が考古学的に明確に可視化されるようになり、ホモ属集団間の相互作用の活発化が示唆されています(MacDonald et al., 2021)。火の使用の考古学的痕跡がずっと明確になる年代は60万年前頃よりも遅いわけですが、脳容量増加と石器技術の複雑化の相関が、集団間の相互作用の活発化につながったのならば、ホモ属の進化史における一連の重要な変化と言えるかもしれません。ただ、60万年前頃から現生人類の世界規模の拡散までの間は、100万年以上前と比較して、人類がユーラシアのより高緯度に進出した可能性は高そうですが、その拡散範囲が大きく広がったわけではなさそうです。
●現生人類の出現と拡散
現生人類の唯一の起源地がアフリカであること(現生人類アフリカ単一起源説)は、今では広く受け入れられています(Bergström et al., 2021)。現生人類もしくは解剖学的現代人と分類される30万年前頃以降のホモ属化石がアフリカで発見されてきましたが、現生人類の形成過程はネアンデルタール人系統との分岐も含めてかなり複雑だった可能性があり(Ragsdale et al., 2023)、その出現時期を特定するのは今後も困難かもしれません。現生人類の出現が人類史における画期だったことは間違いなく、それは、少なくとも過去300万年間の大半の期間において複数系統の人類が存在していたのに、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属から現生人類への多少の遺伝子流動(Tagore, and Akey., 2025)はあっても、非現生人類ホモ属は今では絶滅しており(非ホモ属人類は、上述のパラントロプス属を最後に、100万年前頃までに絶滅した、と考えられます)、その全てではないとしても、複数の非現生人類ホモ属系統が現生人類の影響によって絶滅した、と考えられるからです。
ヨーロッパの大半においては、ネアンデルタール人の痕跡は4万年前頃までに消滅し、それは現生人類のヨーロッパへの拡散後のことです(Higham et al., 2014)。ユーラシア東部には多様な非現生人類ホモ属が存在しましたが、たとえばホモ・フロレシエンシスの痕跡は5万年前頃以降には見つかっておらず(Sawafuji et al., 2024)、これは現生人類の拡散と関連している可能性が低くないでしょう。チベット高原では、デニソワ人が32000年前頃まで生存していた可能性が指摘されており、これは現生人類のチベット高原の拡散より後だった可能性が高そうです(Xia et al., 2024)。もちろん、現生人類の拡散がネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅要因だったことを直接的に証明するのは困難ですし、現生人類とは関係なく絶滅した非現生人類ホモ属もいるでしょうが、たとえばネアンデルタール人は数十万年もヨーロッパに存在し、もちろん局所的に集団が絶滅することは珍しくなかったとしても、ネアンデルタール人系統としては度々の気候寒冷化にも耐えて生き残ってきたわけで、ネアンデルタール人絶滅の究極的要因は現生人類と断定しても大過ないと考えています。
非現生人類ホモ属や非ヒト動物の絶滅に現生人類の世界規模の拡散が大きな影響を及ぼした可能性は高そうですが、注目すべきは、現生人類が5万年以上前に非現生人類ホモ属に決定的な負の影響を及ぼした痕跡はまだ確認されていないことです。その意味では、現生人類の出現以上に、非アフリカ系現代人全員の主要な祖先集団の5万年前頃以降の世界規模の拡散の方を重視すべきと考えています。上述のように、初期現生人類と分類されている化石はアフリカにおいて発見されており、30万年前頃までさかのぼりますが、そこから5万年前頃までにはかなりの時間差があります。そこで、5万年前頃に現生人類の神経系にかかわる遺伝子に突然変異が起き、現代人と変わらないような知的能力を有した結果、現生人類が発達した文化を開発し、先住の非現生人類ホモ属に対して優位に立って、世界各地に短期間に進出した、といった仮説(Klein, and Edgar.,2004,P21-28,P258-262)も提示されましたが(創造の爆発説)、考古学的にはこの仮説は支持されておらず(Scerri, and Will., 2023)、遺伝学的にも、現代人の各地域集団の分岐は5万年前頃よりずっと古そうなので(Ragsdale et al., 2023)、創造の爆発説は妥当ではないでしょう。
では、現生人類が非現生人類ホモ属を絶滅に追いやった原因は何かというと、現生人類が非現生人類ホモ属に対して認知能力の点で優位に立ち、それが技術面では弓矢などの飛び道具、社会面では他集団との関係強化につながり、ネアンデルタール人が現生人類との競合に敗れて絶滅した、との見解が有力なように思います。ただ、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の絶滅について以前まとめたので(関連記事)、この記事では詳しく繰り返しませんし、参考文献を省略しますが、ヨーロッパの45000年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人がヨーロッパの大半で消滅した4万年前頃以降には、遺伝的影響が大きく低下したかすでに絶滅しており、弓矢を有していたと思われる5万年以上前の現生人類集団は、ネアンデルタール人との競合に敗れて絶滅したか撤退したようです。世界中に拡散した非アフリカ系現代人の主要な出アフリカ祖先集団に属しており、ヨーロッパで一時は広く拡散していた可能性のある現生人類集団(少なくとも現在のチェコとドイツに分布していました)でさえ、ネアンデルタール人の痕跡がほぼ消滅した頃にはおそらく絶滅していたことを考えると、現生人類の繁栄とネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅を、飛び道具の有無など単一もしくは少数の要因、さらにはその背景として認知能力の違いに単純に求めるのには、慎重であるべきと考えています。もちろん、非現生人類ホモ属と現生人類との間に認知能力の違いがあった可能性は高いでしょうし、それが非現生人類ホモ属の絶滅に関わっている可能性は低くないと思いますが、その具体的経緯については、まだ不明なところが多分にあると言うべきでしょう。
非現生人類ホモ属の絶滅後には、温暖な完新世において植物の栽培化(農耕)と動物の家畜化が進み(イヌの家畜化は他の非ヒト動物よりもずっと古く、更新世までさかのぼる可能性が高そうですが)、これが人類史において重要な転機となったことは、広く受け入れられているでしょう。その後の、国家につながる社会の組織化や階層化、金属器の使用、文字の開発、産業革命、情報革命など、人類史で重要と思われる事柄は多々ありますが、現時点では多少の意見を述べる準備すらできていないほど勉強不足です。ただ、昔から競馬について関心を抱いていたので、ウマの家畜化について少し述べると、人類史におけるウマの影響は、おそらく家畜化とそれに伴う荷車や戦車(チャリオット)の牽引役としての利用などよりも、ヒトによる騎乗法の開発の方がずっと大きかったのではないか、と考えています。
●まとめ
当初は、もっと簡潔にまとめて、参考文献もできるだけ少なくするつもりでしたが、まとめきることができず、思いつきを述べてしまうだけの結果になってしまいました。一方で、長く述べたのに、中期更新世後半のアフリカ南部に存在したひじょうに興味深いホモ・ナレディ(Homo naledi)や人類の社会構造などについて言及しておらず、今後の課題となります。最後に短くまとめると、人類進化の初期はよく分からず、おそらくその移動形態は現生のチンパンジー属およびゴリラ属のナックル歩行ではなく、四足歩行を基本としつつ、時に二足歩行だったところから、次第に二足歩行への比重が高まり、チンパンジー属系統とも明確に分岐していった、と考えています。最古の確実な人類系統は440万年前頃のアルディピテクス・ラミダスで、その後で420万年前頃までにはアウストラロピテクス属が出現していたようです。
400万~300万年前頃には、まだアウストラロピテクス属(的な)人類しか確認されていませんが、300万年前頃以降に人類系統の多様化が明確になり、ホモ属とパラントロプス属がその両極となります。この多様化をもたらした選択圧は、森林の多い環境からより開けた環境へと長期的に変わっていったことよりも、短期間での環境変動の激しさの方が大きかったかもしれません。人類史においては、300万年前頃以降の多様化が一つの画期になると思います。この多様化の少し前から石器の使用が確認されていますが、現時点では散発的なので、石器使用の定着はこの多様化と連動している可能性が高そうです。この多様化の期間に人類は初めてアフリカから拡散しますが、それには、アウストラロピテクス属と比較しての脳容量増加や体格の大型化よりも、直立二足歩行(長距離移動)と投擲能力の向上の方が重要な役割を果たしたようです。
60万年前頃から、石器技術が複雑化し、これはホモ属の脳容量増加と相関していたかもしれません。さらに、そうした連動的な変化が、他集団とのより密接な関係につながり、考古学的には40万年前頃以降の火の使用の明確化として現れている可能性が考えられます。この脳容量の増加は単系統群で起きたわけではなく、現生人類系統とネアンデルタール人系統などで独立して起きた可能性が高そうです。現時点では、300万~200万年前頃の人類の多様化や、後続の現生人類の世界規模の拡散と比較して地味というか把握しづらい印象も受けますが、人類史において重要な転機だった可能性があります。こうした状況で、アフリカにおいて現生人類が出現しますが、その形成過程については不明なところが多々あります。
次の人類史の重要な転機は5万年以上前以降の現生人類の世界規模の拡散で、それまで300万年間ほど続いてきた、多様な人類系統の共存状態が消滅し、現生人類系統のみが存在することになりました。もちろん、これはアフリカにおける現生人類集団の生物学的進化および文化的(社会的)蓄積が基盤になっているはずで、その意味ではこの転機をもう少しさかのぼらせるべきかもしれませんが、世界規模での影響拡大という点では、5万年前頃を現生人類の出現以上に重要な転機と考えるべきとは思います。ただ、ヨーロッパの事例からも、5万年前頃以降の現生人類が非現生人類ホモ属に対して常に一方的に優勢に立っていたわけではない可能性も想定しておくべきでしょう。さらに、非現生人類ホモ属と現生人類との間だけではなく、現生人類においても完新世でさえ実質的な完全置換は珍しくなく、局所的な人類集団の遺伝的連続性を安易に前提にしてはならない(関連記事)、と思います。その意味でも、遺伝的混合を認めるにしても、地域的な人類集団の連続性を前提とする現生人類多地域進化説は根本的に間違っている、と私は考えています。
参考文献:
https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_9.html