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ゲルマンの音とはワーグナーが広めた如何にも意味有り気で奥深く感じさせる演奏様式の事
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777
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2025/03/16 (Sun) 05:50:02
FC2掲示板の管理人に一番大事な部分が削除されましたので、 このスレは遠からず阿修羅掲示板 近代史板に移動します。
FC2掲示板の管理人は音楽や芸術が全く理解できない知恵遅れですね。
第二次世界大戦後、ゲルマン的と言われていた音がドイツの楽団から完全に失われてしまいました。
華麗なる芸術都市の光と闇 “魔の都”ウィーンに響く天才歌手グルベローヴァの美声
これがウィーンの音
http://www.asyura2.com/22/reki8/msg/126.html
の続編です。
ゲルマンの音と言われていたのは戦前のブッシュ四重奏団やフルトヴェングラー - ベルリン・フィルハーモニーの様な、如何にも意味有り気で奥深く感じさせる演奏様式の事の事です。フランス、イタリアやロシアの巨匠とは違って、音楽だけでなく、音楽 プラス アルファで勝負していたのです。
戦後のドイツからは一流の指揮者、ヴァイオリニストやピアニストが一人も出なくなり、ドイツのすべての楽団からゲルマンの音が完全に失われました。
まあ戦前のドイツでも、有名な演奏家の殆どはユダヤ系か東欧系で、ゲルマン人はオーケストラの楽員にしかなれなかったのですが。
19世紀後半から20世紀前半までのドイツ人が好んでいた、如何にも意味深で奥深く感じさせる演奏様式は戦前のドイツ製オーディオの音として聴く事ができます:
クラングフィルム
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/612.html
シーメンス
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/613.html
テレフンケン
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/616.html
ドイツのスピーカーは田舎臭く鈍重、いかにもドイツ臭く、リズム音痴
https://a777777.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=14004083
ドイツの音楽はドイツの真空管アンプで聴こうよ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/698.html
ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html
ドイツの音とは何か?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/447.html
ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html
▲△▽▼
ゲルマンの音というのはワーグナーが19世紀の楽団に広めた大袈裟な演奏法によって人工的に作られた音だった:
演奏法の点から言えば、ワーグナー以前とワーグナー以後、さらに、第二次世界大戦以降から現代の3つの大きな流れがある。
現代のオーケストラの演奏は、ニュース原稿を読むアナウンサーのようなもので、標準的ではあるが、非常に特徴に乏しいものである。
この他、今世紀前半の録音には、十九世紀後半以降に出現した、「ロマンティックなスタイル」を聴くことができる。
アムステルダム・コンセルトヘボー管弦楽団の指揮者であったヴィレム・メンゲルベルクや、マーラーの作品を数多く指揮したオスカー・フリートなどはその典型的な例といえるだろう。 ここでいう「ロマンティック」は、後期ロマン派の音楽家たちが好んで用いたという意味で、現代の通常の意味とはニュアンスが違うのでご注意いただきたい。 フレーズに応じたテンポの変化や強弱記号の強調、弦楽器のポルタメントや激しいヴィヴラートなどがその代表的な特徴である。
また、ベートーベンなどの音楽に文学的な解釈をあてはめて、表現を加えていくという手法が好んで用いられたのもこうしたロマンティック・スタイルとの関連性が高い。 これらの表現法の確立は、ワーグナーの存在なしでは考えられなかっただろう。 ワーグナーは、その作品で文学と音楽の融合を試みたのみならず、指揮者としても、ベートーベン解釈などにおいて当時の音楽界に大きな影響を及ぼした。 ワーグナーは近代演奏史の大きな分岐点である。
第3のスタイルは、ワーグナー出現以前のスタイルで、最近のオリジナル楽器オーケストラやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などに代表されるような古いスタイルである。
ノン・ヴィヴラート奏法、音符の音価の強調、すなわち、長い音符は本来よりわずかに長く、短い音符は本来よりやや短く演奏する処理や、長い音符の後ろの方で音量が強くなる後置型アクセントなどはその代表的な特徴である。
おそらく十九世紀中頃までは、世界中のすべての指揮者とオーケストラが多かれ少なかれこのスタイルに従っていたのではないかと思われる。 シャルク、ワインガルトナーに認められる意味不明なアクセントなどは、その名残りではないかと考えられるが、現代の我々が聴くと、音楽の文脈とまったく関係のない、形式的で余計な表現として受け止められるのだ。
本来、こうした古い演奏体系には、音楽の構造と結びついた明確な規則があった。
しかし、ロマンティック・スタイルの出現、その反動のノイエ・ザッハリヒカイト、さらに、現代のより洗練された演奏スタイルが普及していく過程で、古い演奏スタイルの必然性は失われ、現代の我々にはまったく理解不可能な単に形式的なものへと変化していったのではないかと思われる。
つまり、ブラームスやブルックナーが初演された状況などにおける古い演奏体系と現代の演奏体系の間には、missing link(失われた関連性)があり、シャルクやワインガルトナーの録音は、途切れてしまった鎖をつなぎあわせる重要な手がかりといえるのではないだろうか?
今世紀前半の指揮者たちの演奏を聴くためには、この3つのスタイルをきちんと聴き分ける知識と能力が必要とされるのではないだろうか。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7792/weingartner.html
ワーグナーの影響と慣例的な改変
ドイツ近代指揮者の系譜を辿っていくと、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督だったメンデルスゾーンと、地方の重要なオペラハウスを渡り歩いていたワーグナーという二人の全く異なった個性の音楽家に辿りつきます。
メンデルスゾーンの指揮は、拍子をきっちりと示して早めの一定したテンポを保ち、
ニュアンスの変化も必要最小限にとどめた、作品に忠実な客観的な指揮振りだったといわれています。
一方のワーグナーの指揮は、音楽の流れに応じてテンポの緩急を大胆につけ、過剰なまでに抑揚をつけたロマンティックなものだったそうです。作品を再創造する芸術家であることがワーグナーの理想とする指揮者像でした。この流れは後にマーラーやビューロー、ニキシュ、フルトヴェングラーといった指揮者たちに受け継がれました。
第9の作曲された時代は、管楽器が急速な発展を遂げつつある時期でした。
そのためワーグナーは、ベートーヴェンがもし改良された現代の楽器を使用することができるならば、必ずやこのように演奏させたであろうという前提に立って、オーケストレーションの変更を行いました。その影響は絶大なものがあり、それを受けて20世紀前半の名指揮者ワインガルトナーがテンポやデユナーミクも含めた具体的な提言を行い、著書「ベートーヴェンの交響曲の演奏への助言」の中で理論化しています。
以後ベートーヴェンのスコアを近代の大編成オーケストラ向けに手を加えて演奏するのが、つい最近までごく普通のごとく行われてきました。
代表的なものとして、
・ 第4楽章冒頭のファンファーレ部分のトランペットをクラリネットと
同じ旋律を吹かせる。
・ 第4楽章の二重フーガで、自然倍音の記譜のみのトランペットパートに
旋律の欠落部分を加えたり、アルトトロンボーンに最初の2音(D音)を加える。
・ 第2楽章の第二主題に木管だけでなくホルンを重ねる。
・ 当時の楽器の制約のため、不自然な跳躍を強いられていた、木管楽器の
セカンドパートの 低音部分を加える。(第1楽章の第2ファゴットの扱いなど)
などですが、
スコア片手に真剣に聞き直すと、トスカニーニのようにやたらとティンパニを加えたり、セルのようにホルンに数多くの旋律を吹かせたりなどと、現実には指揮者によって千差万別、定評のある名盤の多くが独自の改竄の手が入り、同じものは全くないという状況です。
http://www.numakyo.org/c_daiku/2.html
古典の磁場の中で:番外 ワーグナーがもたらしたもの(MUSE2018年12月号)
ここまで「スコットランド」の演奏の変遷について書き連ねてきたわけですが、前回に触れた2000年代の最初の10年間に出た録音が一つの解釈に収斂していく傾向が強かったのに対し、今日に至る次の10年間についてはそれがばらけ始めているように感じています。現時点で手元にあるのは我が国初のメンデルスゾーンの交響曲全集となった沼尻盤をはじめとするガーディナーおよびネゼ=セガンによる3つの全集に、単発のものでは村中と古楽のレパートリーでの活躍が長かった有田、つい先ごろ来日が伝えられた現代作曲家ヴィトマンなどですが、この範囲で見れば海外勢が最初の10年に打ち立てられた解釈をベースにしているのに対し、日本勢にはむしろそれらに背を向けるかのような後期ロマン派的な解釈への回帰が多かれ少なかれ見て取れるようにも映るのです。とはいえ全集録音だけでもまだファイ/ハイデルベルク響やマナコルダ/ポツダムチェンバーアカデミー、マンゼ/ハノーファー北ドイツ放送フィルなどが未聴ですので、できればそれらも聴いて確かめたいと考えています。
ともあれバロック音楽から古典派やロマン派初期の音楽が後期ロマン派の時代に従来よりぐんと遅いテンポで演奏されるようになったということは、どうやらヨーロッパにおいては定説と化しつつあるようです。少なくともベートーヴェンにおいて、それを始めたのはおそらくワーグナーだったのではと僕は思うのです。なぜなら彼は古き音楽に忠誠を捧げていたメンデルスゾーンの演奏をテンポが速すぎると罵る一方、自らの楽劇をベートーヴェンの「合唱」の発展型であると主張していたのですから、実生活でも他人を利用することを全くためらわなかった彼なら十分ありえたことだと思われます。なにしろ人格面はともかく、こと音楽においてワーグナーは本物の天才であり、彼は他人が書いた音楽をとことん自分の色に染め上げたばかりか、それに新たな説得力を持たせるだけの力を持っていました。もしワーグナーにそこまでの力量がなかったら百年後の20世紀後半に我々が耳にしていたベートーヴェン演奏はあれほど重厚壮大なものではなかったのではとさえ思います。ともあれワーグナーの才能のありかたが既存のものを全て呑み込み自分の意図に合わせて変容させるものだったからこそ、彼は音楽で物語を語るあらゆる技法を体系化させることができ、それが今の我々が知る映画音楽の分野における洗練された語法の直接の母胎になったのだと思うのです。
そしてワーグナーがその反ユダヤ主義的な考えゆえメンデルスゾーンを悪し様に罵った際、メンデルスゾーンのベートーヴェンについてテンポが速すぎると書き残していることは重要です。それは録音の形で残されなかったワーグナー以前のベートーヴェン演奏がそれ以後よりもテンポが速かったことを示す状況証拠にはなりえるものですし、それがワーグナーにとっては不都合だったからこそメンデルスゾーンを貶めることで自分のベートーヴェンこそが正しいのだと強弁する必要を感じていたことを滲ませてもいる資料でもあるのですから。だからこそワーグナーはそれまでラテン系の作曲家の後塵を拝していた歌劇の分野で成功するためにも、自らをドイツ音楽の分野における最初の歌劇の巨匠に祭り上げる必要があり、そのためには歌劇の分野においてはそれほど成功をおさめていなかったベートーヴェンを無理やりにでも接ぎ木しなければならなかった。だからベートーヴェンの音楽をより忠実な形で受け継ごうとしていたメンデルスゾーンが正当性を獲得しきらないうちに彼がユダヤ人であったことを理由に引きずり落とし、ベートーヴェンの音楽を自分の音楽により近い形になるようにして演奏した。それがワーグナーの時代に蔓延しつつあった空気に合致するものであったからこそより重厚さを増したそのベートーヴェン演奏は多くの支持者や模倣者を生み、古い音楽は新たな時代に合わせてスタイルを変えてこそその命が保たれるという考え方ともども後に巨匠時代と呼ばれる一大ムーブメントの礎になったのでしょう。
そしてそのドイツ至上主義や反ユダヤ主義、音楽を宗教的なまでに荘重なものとして民族的な結束の要に置くことなどを受け継いだ第三帝国が絶対悪とみなされたとき、ワーグナーを源とする流れも欧米ではいったん全否定されねばならなくなった。それが巨匠時代が終焉を迎え、入れ替わるように前衛音楽がそれまでの音楽のありかたを一斉に壊しにかかった現象が意味したはずの事態で、ベルリンフィルの演奏スタイルが一貫してワーグナー的な考え方から遠ざかる形で変遷してきたのも当然のことだったとも思えます。なによりロマン派以外のレパートリーへの関心に端を発し21世紀への変わり目において一つの徹底ないし完成へとたどり着いた楽曲への学究的なアプローチもまた、そんな状況とは無縁たりえなかった現象ではないかとも。そして日本の我々がナチスを生み出したドイツ人ほどそれまでの自分たちを強く否定してこなかったとの以前からなされてきた指摘を思えば、この国で巨匠時代の音楽のありかたが未だに根強く信奉されていることの少なくとも説明の一つとみなせることかもしれません。なにしろヨーロッパはたとえそれが世界における政治経済上の力というか発言力を求めてのことであれ多様な民族や文化を持つ国々をEUという共同体に再編する歴史的実験に至った地域であり、ここが最も先端的な前衛音楽の牙城であったことやアメリカなどに比してさらに過激なオペラ演出のメッカでもあることも同じ根を持つことだと思えば、戦後ひたすらコスモポリタンな性格の団体へと変貌してきたベルリンフィルの軌跡も、同じ動きの一例だったと思えてしまうものですから。
それだけに世界が再びナショナリズムにも似た空気へと急速に接近し始めた近年、たとえばメンデルスゾーンの、それも日本における演奏が率先するかのように巨匠様式と似たものへと変貌し始めているのはなにやら不気味でさえある光景です。これが移民問題を前にやおら右傾化し始めたヨーロッパや、限りなく帝国主義へと回帰しつつあるような諸大国における演奏スタイルにまで波及してゆくのか否か、単に興味深いとの言葉では追いつかない心持ちで見守っているところです。
なぜそんなに気にするのかとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、2つある理由の1つは絵画や造形、著作などと異なり音楽は作者が創ったままの形を留めることが難しく、説得力ある演奏であればあるほどそれがいかに元の姿からかけ離れていても受け入れられてしまうのではという危惧を覚えてしまう点。もう1つは巨匠時代のような音楽のありかたは不幸な時代でなければ出てこないのではないかと感じるからです。かつて神経を病んでおられた時にフルトヴェングラーのベートーヴェン演奏に救われた体験から、ベートーヴェンの音楽やフルトヴェングラーの演奏には神を感じると力説するようになられた方を知っていますが、確かにそんなことができる境地は凄いと思います。けれどそれは古い音楽は新たな時代に合わせて仕立て直してこそ価値があるというワーグナーの主張の果てに成り立つものであり、その感動の質が宗教的な法悦の近みにあることを思えば、そういうものに救われねばならぬ人が多数を占めるほど強い危機感に満ちた時代は幸せとは言い難いのではともやはり感じてしまうのです。
https://note.com/mohito_fushijiro/n/n67ab1620c470
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アドルフ・ヒトラーとニーチェはワーグナーの作り出した大袈裟なゲルマンの音の愛好家だった。
ワーグナーの手紙、イスラエルで競売へ ユダヤ人の「腐食的影響」に言及
2018年4月23日 12:13 発信地:エルサレム/中東・アフリカ
反ユダヤ的な内容が記されたドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーの手紙。エルサレムで
(2018年4月16日撮影)。
【4月23日 AFP】ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)がユダヤ人による文化への悪影響を危惧した内容の手紙が24日、イスラエルで競売に掛けられる。反ユダヤ主義者だったワーグナーの作品はイスラエルでは公の場での演奏が実質的に禁じられているが、これを機に国内で議論が再燃しそうだ。
ワーグナーが19世紀に作曲した壮大で国粋主義的な作品は、反ユダヤ主義やミソジニー(女性への嫌悪や蔑視)、民族純化思想に満ちている。
民族純化は後にナチス・ドイツ(Nazi)が大々的に掲げ、その指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった。
出品される1869年4月25日付の手紙は、ワーグナーがフランス人の哲学者エドゥアール・シュレー(Edouard Schure)に宛てたもの。その中では、ユダヤ人がフランス社会に同化すれば「ユダヤ精神による近代社会への腐食的影響」を観察できなくなるとし、フランス人はユダヤ人について「ほとんど何も」知らないなどとも記している。
イスラエルにはワーグナー作品の演奏を禁止した法律はないが、過去に演奏が試みられた際に国民から強い反発が起き、騒ぎになった経緯があることから、オーケストラや会場が演奏や上演を自粛している。
ワーグナーは1850年、偽名で「音楽におけるユダヤ性」と題した論文を発表し、激烈な反ユダヤ批判を展開。1869年にはこの論文を実名で出している。(c)AFP
アドルフ・ヒトラーの世界
アドルフ・ヒトラーが愛したワーグナーのゲルマン神話の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html
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ニーチェとナチス~レニの意志の勝利~
■ワーグナーの信奉者
神は死んだ ・・・ ニーチェは自著「ツァラトゥストラはかく語りき」でかく語った。
この不用意な一言が、キリスト教徒の心情を逆なでにし、反キリストの烙印を押されたことは想像に難くない。大哲学者ニーチェも、熱心なキリスト教徒からみれば、ただの背信者なのだ。つまり、20億人が敵!?
さらに ・・・
ニーチェは「ナチスのシンパ(賛同者)」の嫌疑もかかっている。もし、それが本当なら、全人類が敵!?
歴史的名声をえているニーチェ像も、じつは薄氷の上にあり、いつ水没してもおかしくないわけだ。
では、本当のところはどうなのだろう?
第一の疑惑はワーグナーがからんでいる。
ワーグナーは、言わずと知れたドイツの大音楽家である。19世紀ロマン派歌劇の王様で、「ニーベルングの指環」、「トリスタンとイゾルデ」など、荘厳かつ芝居がかった楽曲で名声をえている。
そのワーグナーの熱烈な信奉者がニーチェだったのである。ニーチェは、学生時代にワーグナーの楽曲に感銘をうけ、個人的な交流が始まった。その後、ワーグナーを讃える書を書いて、インテリからひんしゅくを買った。
そして ・・・
ヒトラーも熱心なワーグナー信奉者だった。ヒトラーは、17歳のとき、シュタイアー実科中学校を放校処分になり、ウィーンに旅行したが、そのとき、友人のアウグスト・クビツェクに絵葉書を送っている。そこにはこう書かれていた。
「僕は今、ワーグナーに夢中だ。明日は『トリスタン』を、明後日には『さまよえるオランダ人』を観るつもりだ」
ヒトラーは、その後、ドイツの総統にまで上りつめるが、ワーグナー熱が冷めることはなかった。定期的に劇場に出かけ、ワーグナーの荘厳な歌劇に酔いしれたのである。
ということで、ニーチェはワーグナーをハブに、ヒトラー(ナチス)のお仲間とみられたわけだ。とはいえ、音楽の趣味が同じだからといって、ナチスシンパ呼ばわりされてはたまらない。
ところが ・・・
ワーグナーは偉大な音楽家にみえるが、うさん臭いところもあった。天上天下唯我独尊で傲慢不遜、しかも、金遣いがあらく、年中金欠だったが、問題はそこではない。
彼の代表作「ニーベルングの指環」は、天界と人間界をまたぐ、壮大な戦争叙事詩だが、モチーフは北欧神話。つまり、神々と北欧ゲルマン人を讃える物語なのだ。
北欧ゲルマン?
じつは、ワーグナーは、北欧ゲルマン人至上を信じる偏屈な反ユダヤ主義者だった。しかも、彼の2度目の妻コージマも反ユダヤ主義者で、夫婦そろって人種差別主義者だったのである。
ゲルマン人最高&ユダヤ人最低?
ナチスの教義そのままではないか。
じゃあ、ワーグナー夫婦はナチス信奉者だった?
ノー!
この二人がナチス信奉者であるはずがない。ナチスが創設される前に死んでいるから。
それに、17歳のヒトラーがワーグナーに魅せられたのは音楽であって、偏屈な人種差別ではない。この頃、ヒトラーのユダヤ人に対する差別意識は、ヨーロッパ人としては平均的なものだった。驚くべきことに、21歳の時、ヒトラーには、ヨーゼフ ノイマンというハンガリー系ユダヤ人の親友がいた。彼に自分の描いた絵を売ってもらっていたのである。
ニーチェもしかり。はじめに、ワーグナーの楽曲に感動し、個人的なつき合いが始まり、彼の知性に魅了されたのである。
そもそも、ニーチェは人種差別主義者ではなかった。彼は「ユダヤ教」を嫌っていたが(厳密には一神教)、「ユダヤ人」を差別していたわけではない。
というわけで、ワーグナーをからめて、ニーチェを「ナチスシンパ」呼ばわりするのは正しくない。
ところが ・・・
やっかいなことに、そう思われてもしかたがない事実があるのだ。ニーチェは著書の中でこう書いている。
「ちっぽけな美徳やつまらぬ分別(道徳)、惨めな安らぎ(宗教)を求めることなかれ、強固な意志と不屈の精神で成し遂げるのだ」
つまり、「道徳」と「宗教」を否定し、内なる声に従い、雄々しく生きよと鼓舞したのである。
これがニーチェ哲学の根幹をなす概念「力への意志」である。そして、この勇ましい思想が、ナチスに利用されたのである。
ニーチェが耽溺したワーグナー トリスタンとイゾルデの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/375.html
フリードリヒ・ニーチェ(1844 - 1900) 音楽家としての顔
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.html
フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html
フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html
ワーグナーの名曲
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『オペラ さまよえるオランダ人』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/613.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『タンホイザー序曲とヴェーヌスベルクの音楽』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/382.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『3幕からなるロマン的オペラ タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/619.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ロマンティック・オペラ ローエングリン』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/612.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー 前奏曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/377.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー 楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/611.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『舞台祝典劇 ニーベルングの指輪』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/386.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『楽劇 ラインの黄金』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/618.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ワルキューレ 第1幕』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/371.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ワルキューレの騎行』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/372.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ヴォータンの告別と魔の炎の音楽』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/373.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『楽劇 ワルキューレ』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/617.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『トリスタンとイゾルデ 第1幕への前奏曲とイゾルデの愛の死』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/378.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『楽劇 トリスタンとイゾルデ』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/387.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ヴェーゼンドンク歌曲集』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/614.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『楽劇 ジークフリート』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/616.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『神々の黄昏 夜明けとジークフリートのラインへの旅』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/374.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『神々の黄昏 ジークフリートの死と葬送行進曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/375.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『神々のたそがれ 第3幕 ブリュンヒルデの自己犠牲とフィナーレ』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/376.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『楽劇 神々の黄昏』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/615.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『ジークフリート牧歌』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/194.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『パルジファル 第1幕前奏曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/384.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『パルジファル 聖金曜日の音楽』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/383.html
最美の音楽は何か? _ ワーグナー『舞台神聖祝典劇 パルジファル』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/385.html
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週刊スモールトーク (第280話) 超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
超人エリーザベト~ニーチェを売った妹~
■哲学者ニーチェの妹
哲学者ニーチェの人生は波瀾万丈である ・・・ 皮肉に満ちて。
正気の時代は無名で、気が触れると「狂気の哲学者」で有名になり、死して後、「ナチスの予言者」となった。
天才画家ゴッホを彷彿させる切ない人生だが、ゴッホ同様、ニーチェに責任があるわけではない。じつは、ニーチェの名声は彼が正気を失った後、偽造されたものなのである。しかも、偽造したのがニーチェの妹だというから、皮肉な話だ。
とはいえ、偽造されなければ、ニーチェは無名で終わっていた。
偽りの名声か、ありのままの無名か?
まさに、究極の選択だが、ニーチェが生きていたら、きっと、後者を望んだだろう。プラトンなみに理想論と抽象論を愛した人物だから。
では、「ニーチェ」はいかにして偽造されたのか?
ニーチェは、発狂した時点で、哲学者としての寿命は尽きていた。しかも、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェが世に出る術はない。
ところが、その術を提供した人物がいた。ニーチェの実の妹、エリザーベト・ニーチェである。彼女は、兄ニーチェの価値を見抜き、一山当てようともくろんだのである。
エリザーベトは、兄ニーチェの2歳年下で、目がクリっとした愛くるしい女性だった。だが、問題はそこではない。彼女は羊の皮をかぶった怪物だったのである。
■天才プロデューサー
エリザーベトは、商売の天才、まれにみる辣腕プロデューサーだった。しかも、その小さな身体の中には、「鉄の心臓」と「小型原子炉」が秘められていた。それが、揺るぎない信念と無尽蔵のエネルギーを発生し、とてつもない大業を成し遂げたのである。
彼女がプロデュースしたプロジェクトは3つ。
1.哲学の至宝「ニーチェ・ブランド」を確立したこと。
2.南米パラグアイにドイツ人植民地「新ゲルマニア」を建設したこと。
3.ニーチェをナチスのプロパガンダに利用し、ナチスを正当化し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたこと。
一目して、AKB48、テーマパーク、村おこしとは一線を画すことがわかる。すべて、歴史を変えた大プロジェクトなのだから。そのすべてが、愛くるしい一人の女性によって成し遂げられたことに驚かされる。
エリーザベト恐るべし ・・・
そもそも、エリーザベトには、尋常ではない信念があった。人の道にはずれ、利にさとく、日和見的ではあったが、その時々で迷いがみじんもないのだ。
それは信念ではなく、思い込みでは?
ノー!
単純な思い込みではない。
エリーザベトの「望み」は、たいてい、「真実」や「正義」に反するものだったが、彼女の中では完全に一体化していた。つまり、「望み=真実=神の摂理」だから、みんな私に従って当然、と本気で信じていたのである。彼女の「望み」が「真実」なら、変わるはずがないのだが、目先の利益にしたがってコロコロ変わった。ところが、彼女がそれに気付いた形跡はない。自己実現への熱い思いが、真っ当な論理を溶解したのである。
だから、エリーザベトの信念は思い込みではない。本人も気付かないほど巧みに偽装された「真実=信念」なのである。これほどタチの悪い”信念”はないだろう。
とはいえ、「鉄の心臓」が生んだ信念と、「小型原子炉」が発生する無限のエネルギーは、とてつもないものを生み出した。発狂した無名の学者から、哲学史に残る「ニーチェ・ブランド」を創造し、ナチスのプロパガンダに利用し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたのだから。
なるほど ・・・
ニーチェ・ブランドとナチスの予言者はつながった。では、南米パラグアイのドイツ人植民地は?
じつは、この3つには共通項がある。
エリーザベトには3つの信念があった。人の道にはずれた「人種差別(反ユダヤ主義)」と「国粋主義」と「全体主義」である。この3つは、言わずと知れたナチスのテーゼ、だから、エリーザベトがナチスに加担したのも無理はない。
でも、それと、ドイツ人植民地とどんな関係が?
じつは、最初にこの植民地計画を立案したのは、エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターだった。彼は、狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、南米パラグアイに新天地を求めたのである。それに、心から賛同し、率先して計画を推進したのが妻エリーザベトだった。
というわけで、ニーチェ・ブランド、ドイツ人植民地、ナチスの予言者は、すべて、エリーザベトの信念にもとづいている。
話をナチスとニーチェにもどそう。
エリーザベトが、ニーチェ・ブランドをナチスのプロパガンダに利用したのは、ナチスに心酔したからだが、理由はそれだけではない。彼女は利にさとく、商売上手だった。つまり、ソロバンをはじいたのである。
具体的には ・・・
ナチス政権に加担し、その見返りとして、国から資金を引き出し、ニーチェ・ブランドの諸経費にあてる。あっと驚く厚かましいソロバンだが、それが現実に成功したのだから、仰天ものである。
ということで、エリーザベトは、ナチスのイデオロギーをニーチェ哲学で理論武装しようとした。
ところが、一つ問題があった。
ニーチェは、人種差別、国粋主義、全体主義を嫌悪していたのである。つまり、ナチスのイデオロギーとは真逆。
■ニーチェとナチス
ニーチェは人種差別主義者ではなかった。
当時、ドイツのみならず、ヨーロッパ中が反ユダヤ主義に染まっていたが(デンマークは除く)、ニーチェはそれを嫌っていた。
一方、ニーチェがユダヤ教を批判したことは事実である。ただし、彼が批判したのはユダヤ教の教義であって、信者のユダヤ人ではない。実際、ニーチェはユダヤ教だけではなく、キリスト教も同じ論理で批判している。つまり、人種とは何の関係もないのだ。
では、ニーチェはなぜそれほどユダヤ教・キリスト教を嫌ったのか?
ユダヤ教もキリスト教も、現実世界で国家権力に敗北したが、その恨みを晴らすために、精神世界をでっちあげたと考えたのだ。
具体的には ・・・
われわれは国家権力に迫害され、虐殺されたけど、本当に負けたわけじゃない。精神世界、つまり、道徳の観点でみれば、暴力をふるった方が負け。つまり、われわれは本当は勝者なのだ。
負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか?
そこで、ニーチェはこれを「奴隷道徳」とよんで、さげすんだ。弱者を救済するための方便と考えたのである。詭弁を弄して、正当化しようが、根本はひがみとねたみではないか。ニーチェは、このような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。
つまり、ニーチェは、ユダヤ教とキリスト教の道徳的価値観を否定したのであって、ユダヤ人を差別したわけではない。
さらに、ニーチェは、国粋主義も全体主義も嫌悪していた。
国粋主義は民族主義のお仲間である。自分の国や民族は最高で、自分たちさえ良ければ、他はどうなってもいい。たとえ、我々に滅ぼされようとも(いますよね、こんな国や民族)。
一方、全体主義は、個人より国家の利益を優先する。国が戦争が勝つためには国民が何十万、何百万人死のうが関係ない!
ヒドイ ・・・ やっぱり、全体主義は「悪」?
じつはそうでもない。現実は複雑なのだ。
たとえば、戦争は勝ってなんぼ。負けたら「個人」の不幸度は極大化するから。第二次世界大戦で、原爆を落とされ、領土を割譲され、戦後70年経っても悪者呼ばわりされる哀れな日本をみれば、明々白々。
つまり、戦争をやるからには絶対に勝たねばならない。そのためには、全体主義が必要なのである。君どうしたの?体調悪いんなら敵前逃亡してもいいよ、など、個人の都合を優先して、戦争に勝てるわけがないではないか。
しかし、プラトン主義的な理想と抽象の世界にハマったニーチェは、現実世界で有効な全体主義を理解できなかった。というか、国家や組織のような「集合」の力を考えようともしなかった。「個」の力の偉大さを神話のように語り続けたのである。
ニーチェは、民主主義、社会主義、全体主義、国粋主義、民族主義 ・・・ イデオロギーと名のつくものは、すべて否定した。イデオロギーは「大衆=マス=集合」を支配する概念で、「個」の力を削ぐと考えたのだろう。
ニーチェは、人間はかくあるべしと考えた ・・・
健全な欲望、たとえば、権力欲、金銭欲、名誉欲、欲望を押し殺してはならない。それは自然の摂理に反するから。ニーチェは、このような純粋な欲望を「力への意志」とよび、それを秘めた人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。
さらに、ニーチェは「超人」と「ルサンチマン」がせめぎ合う未来も予言した。
ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。
その結果 ・・・
誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。
その瞬間、道徳も崩壊する。
なぜか?
一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるから。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。
神が死んで、道徳が崩壊すれば、よりどころを失ったルサンチマンは滅ぶ。しかし、超人は生きのびる。何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」で、新しい価値観を生み出せるから。
これが、ニーチェの「超人思想」である。
こんな粗野で、暴力的で、背神的な思想をぶち上げ、大胆にも「アルコールとユダヤ教・キリスト教を二大麻薬」と言い切ったのである。
一方、ヒトラーは、第9回ナチス全国党大会で、「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)とキリスト教は二大麻薬」と宣言した。
なんか似ている?
似ているどころではない。
ニーチェの教義は、「力への意志」、「超人」、「背神」 ・・・
「力への意志」は、女流映画監督レニ リーフェンシュタールが撮ったナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」を彷彿させる。さらに、「超人」も「背神」も、ナチスの理念そのもの。力強く、斬新で、カッコイイ、でも、暴力的で危険だ。根っこにあるのは「力への賛美」、「反宗教」 ・・・ ナチスまんまではないか!
エリーザベトはココを突いた。
ニーチェの原稿から、文脈を無視して、大衆を惹きつける威勢のいい語句をピックアップし、断片的に散りばめて、ナチスのイデオロギーを正当化したのである。
つまり、エリーザベトにとって、ニーチェの創作物は便利な宣伝の道具にすぎなかった。もちろん、ナチスにとっても。
とはいえ、エリーザベトに悪意はない。彼女の名誉のために一言付け加えなければならない。
エリーザベトは、自己実現のために兄とナチスを利用したが、それに負い目も引け目も感じていなかった。神経が太いのではない。考えがおよばなかったのだ。エリーザベトは、兄ニーチェの哲理を心から崇拝し、それが、ナチスのイデオロギーと一致していると信じ、それを融合させようと真剣にプロデュースしたのである。ニーチェと違い信心深かったエリーザベトは、それが神の摂理だと、信じて疑わなかった。
この世で、もっとも恐ろしいのはこの手の錯覚である。
私利私欲ではなく、立派な大義があり、神の助けがあると信じているから、一切の迷いがなく、無敵なのだ。歴史に残る大業は、この手の錯覚から生まれたものが多い。そもそも、ふつうの信念、ふつうの努力、ふつうのやり方で、大業がなせるわけがないではないか。
というわけで、ニーチェは死して後、ナチスのシンパにされてしまった。それどころか、ナチスのイデオロギーの理論付けに加担させられたのである。ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という、決定的かつ相容れない矛盾があるにもかかわらず。
だからこそ、エリーザベトは偉大なのである(皮肉ではなく)。誰も成し遂げられない難事業を一人でやってのけたのだから。たとえ、それが人の道に反していたとしても。
プロデューサーとは無から有を生み出す魔術師である。場末のステージで歌っていたパッとしないユニットも、名プロデューサーにかかれば、国民的大スターにのしあがる。捏造(ねつぞう)だろうが、でっち上げだろうが、成功して価値を生むようになれば、ホンモノである。これが、プロデューサーの醍醐味だろう。
では、エリーザベトは、いかにして大業を成し遂げたのか?
まずは、原点「ニーチェ・ブランドの確立」から。
■ニーチェ・ブランド
大哲学者フリードリヒ・ニーチェは、勇ましい「超人思想」をぶちあげ、自ら「超人(オーヴァーマン)」たらんとしたが、行き着いたのは狂気の世界だった。
1889年1月3日、トリノの街を散歩中に、老馬が御者に鞭打たれるのをみて、泣き崩れ、そのまま気が触れたのである。
ところが、このとき、ニーチェはまだ無名で、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェは歴史年表から消える。
さて、ここで、名プロデューサー、エリーザベトの登場である。
ニーチェは、発狂後、精神病院に入れられたが、たった半年で医者に見放された。その後、ナウムブルクの実家にもどって自宅療養したが、その頃から名が知られるようになった。新聞が、「ナウムブルクの狂気の哲学者」として書き立てたからである。
ナウムブルクに巣くう精神異常の天才哲学者 ・・・ 大衆の野卑な好奇心を惹き付けるにはうってつけのネタである。次に何が起こるか?
エリーザベトはこのチャンスを見逃さなかった。
まず、彼女が目をつけたのがニーチェの未発表の原稿である。
ナウムブルクの狂気の哲学者、未発表の原稿が発見される!
ブレイク間違いなし ・・・
事実、ニーチェは、発狂した時、膨大な未発表の原稿を残していた。ところが、それは原稿というより、思いつきやアイデアのたぐいで、メモ用紙に殴り書きされていた。何の脈絡もない、断片的な語句 ・・・ これでは出版はおぼつかない。
では、エリーザベトはどうしたのか?
エリーザベトにとって、兄の原稿はチンプンカンプンだった。哲学の素養以前に、思考力に問題があったのだ。のちに、エリーザベトが創設したニーチェ館のメンバーのルドルフ・シュタイナーは、こう言っている。
「(エリーザベトは)兄上の学説に関してはまったく門外漢だ ・・・ 細かな差異を、いや、大ざっぱであれ、論理的であれ、差異というものを把握する感覚が一切欠けているのだ。あの人の考え方には論理的一貫性がこれっぽちもない。そして、客観性というものについての感覚も持ち合わせていない ・・・ どんなことでも、自分の言ったことが完全に正しいと思っている。昨日は間違いなく赤かったものが、今日は青かったと確信しているのだ」(※1)
見込みなし ・・・
ところが、エリーザベトは典型的な問題解決型人間だった。問題の難しさなどどこ吹く風、問題解決にまっしぐら、解決のためなら手段を選ばず。自分ができなければ、できる人間にやらせればいいのだ。
ニーチェの落書き原稿は、手に負えないものだったが、それを解読できる者が一人だけいた。ニーチェの友人ペーター・ガストである。エリーザベトは、ガストを雇い、ただちに、原稿の編集を命じた。
一方、ナウムブルクの実家に移されたニーチェは、母フランツィスカが面倒を見ることになった。
エリーザベトの凄いのは、この二つを完全に自分の管理下においたことである。
原稿の編集をガストに、ニーチェの身の回りの世話を母フランツィスカに任せ、注意深く管理したのである。
エリーザベトは、
1.未発表の原稿を出版する。
2.ナウムブルクの狂気の哲学者の”悲劇ぶり”を継続的にアピールする。
この二つが、「ニーチェ・ブランド」の両輪であることを見抜いていたのである。
ところが、このような多忙な時期に、エリーザベトはもう一つのプロジェクトをスタートさせる。
南米パラグアイのドイツ人植民地である。
しかも、このプロジェクトは、プロデュースしただけではない。あろうことか、夫と連れだって、自ら辺境の地パラグアイに旅立ったのである。
歴史的大プロジェクトを3つ同時進行させる?
このようなパワーは一体どこから生まれるのか?
「鉄の心臓」と「小型原子炉」 ・・・
兄ニーチェは「超人」を目指して破綻したが、妹のエリーザベトは正真正銘の「超人・オーヴァーマン」だったのである。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-280/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第281話) アーリア人植民地計画Ⅰ~人種の純化~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-281/
▲△▽▼
週刊スモールトーク (第282話) アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/
アーリア人植民地計画Ⅱ~ヴァーグナー神話~
■優生学の時代
アーリア人の神話は強力である。
最強の人種にして、文明を担う者、そして、地球の支配者、それがアーリア人 ・・・ だったはずなのに、今では、カスピ海周辺からイランやインドに流れ着いた集団、で落ち着いている。
ではなぜ、それが神話にまで登り詰めたのか?
ことの発端は、19世紀、フランスで出版された書「人種の不平等論」までさかのぼる。この中で、著者アルテュール・ゴビノーは、白人が最も優秀で、とりわけアーリア人が一番で、「支配人種」とまで持ち上げたのである。
さらに、ゴビノーは恐るべき警告を発している。
「黒、黄、白の肌の色の違いは、自然が設定した人種の『壁』、だから温血は禁じるべきである。混血で人種の『壁』が崩壊し、文明が退化するから」
混血で、なぜ文明が退化するかわからないが、「黒、黄」側にしてみれば、心穏やかではない。ところが、これを正当化したのが「優生学」だった。
「優生学」は、19世紀、フランシス・ゴルトンを起源とする気味の悪い学問である。一言でいうと「人間の品種改良」。
本来なら、倫理的な非難をあびてしかるべきなのだが、当時、世を騒がせていた「ダーウィンの進化論」に後押しされた。結果、20世紀初頭に大きな成功をおさめるのである。
というのも ・・・
ダーウィンの進化論のキモは「自然淘汰と適者生存」 ・・・ 弱者が滅び、強者が生き残る、つまり、自然による生物改良。
一方、優生学のキモは「生殖による人間改良」 ・・・ 優秀な人間同士が結婚し、優秀な子孫を残す。つまり、人為的な人間改良。
というわけで、優生学の「人間改良」は進化論の「生物改良」によって理論付けされたのである。こうして、優生学はヨーロッパで広く認知されていく。ところが、その結末は恐ろしいものだった。ナチスドイツが、優生学を盾に、ゲルマン人至上主義、ジェノサイド(民族絶滅)を正当化し、歴史上最大のユダヤ人迫害を引き起こしたのである。
ところが、それも長く続くかなかった。
第二次世界大戦後、アウシュヴィッツをはじめナチスの強制収容所の蛮行が明らかになると、世界は震撼した。結果、優生学はナチスのお仲間にされ、「疑似科学」の烙印までおされたのである。
しかし ・・・
遺伝子とDNAが解明された今、優生学は疑似科学とは言えない。そもそも、優生学のキモ「生殖による人間の品種改良」は古くから行われてきた。支配者や成功者が、自分の娘に頭の良い婿を迎え、優秀な子孫をのこそうとしたのは、その一例である。
実際、IQの高い両親からは、80%の確率で、IQの高い子供が生まれるというデータもある。身長はもっとわかりやすい。突出して背の高い両親からは、ほぼ間違いなく背の高い子供がうまれる。この相関関係は統計学で、因果関係は遺伝学で説明できるので、真実といっていいだろう。
というわけで、人間も生物なのだから、「農作物の品種改良」がアリなら、「人間の品種改良」もアリ ・・・ 倫理的な問題はさておいて。
ただし、優生学が成立したからといって、「ユダヤ人が劣等で、アーリア人が優等」とは限らない。この二つは別の話だから。それどころか、ノーベル賞受賞者とお金持ちにユダヤ人が多いのだから、「ユダヤ人が優等」かもですよ。
ところが、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。
■ヴァーグナーの世界
そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。
では、ヴァーグナーは?
夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。
リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。
さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。
そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。
「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」
さらに、ニーチェは著書「悲劇の誕生」の中で、公然とヴァーグナーと賛美した。その卑屈な論調に、大きな批判が巻き起こった。一方、ヴァーグナーは大喜びで、「こんな美しい書物は読んだことがない」と絶賛した(あたりまえですね)。
そんなこんなで、ニーチェのヴァーグナーへの入れ込みようはハンパではなかった。1870年7月には、妹のエリーザベトまでトリプシェンの邸宅に引き入れている。しかも、ヴァーグナー家の子供達のベビーシッターとして。なんと、卑屈な!
ところが、エリーザベトは、たちまち、ヴァーグナー・ワールドのとりこになった。
一方、ニーチェのヴァーグナー熱はだんだん冷めていく。その時期、ニーチェは不眠症、頭痛、嘔吐感に悩まされたが、それが原因だったかはわからない。
ではなぜ、ニーチェはヴァーグナーに失望したのか?
エリザーベトは、トリプシェンの邸宅の様子をこう書いている。
「大広間をのぞいてみると、そこには少なくとも40人ほどの楽長、若い音楽家、文筆家たちがヴァーグナーとの面会を待っていた。年配の人たちは低く抑えたような声で語り、若い人々は美しい畏敬の表情で耳を傾けていた」(※1)
卑屈な追従者に囲まれ、それにご満悦のヴァーグナー ・・・ そんな世界が、ニーチェには安っぽく見えたのである。彼はこう書いている。
「まさに身の毛もよだつ人間たちの集まりだ。出来そこないは一人とて欠けてはいない。反ユダヤ主義者さえもだ。哀れなヴァーグナー、なんという境遇に陥ってしまったことか!豚に囲まれている方がまだましだ!」
一方、エリザーベトはこの安っぽい世界がお気に入りだった。
それにしても、ヴァーグナーのカリスマには驚くばかりだ。音楽を解さない者まで虜にするのだから。じつは、そんな門外漢の取り巻きがもう一人いた。のちにエリザーベトと結婚するベルンハルト・フェルスターである。
■フェルスターの企て
フェルスターは、この頃、ベルリンの学校教師をしていたが、トリプシェンのヴァーグナー・ワールドに入り浸りだった。
ヴァーグナーに取り入って、反ユダヤの援助をとりつけようとしていたのである。ところが、ゼンゼン相手にされない。そこで、ヴァーグナーお気に入りのニーチェ兄妹の妹エリーザベトに近づいたのである。
フェルスターはエリーザベトに「反ユダヤ主義とドイツ人の魂の復活」を熱く語った。彼女はすぐに賛同した。似た者夫婦だったのだろう。ところが、兄ニーチェはそれが気に入らなかった。フェルスターが信奉する人種差別と国粋主義を嫌悪していたから。
ニーチェは、人種と国家を超えた個人主義を尊んだ。なかでも、健全な欲望を実現しようとする人間を「超人(オーヴァーマン)」とよんで讃えた。これがニーチェの超人思想である。
フェルスターはエリーザベトという同志を得て、ますます自信を深めた。そして、反ユダヤ主義を加速させていく。
1880年11月8日、フェルスターは、ベルリンで事件を起こした。仲間たちと「反ユダヤ」で盛り上がったあと、ユダヤ人と乱闘騒ぎをおこしたのである。フェルスターは逮捕され、90マルクの罰金を払ったが、人種差別主義者たちの間で、大いに株を上げた。
フェルスターの主張は単純だった。
「ユダヤ人はあこぎな商売をして、ドイツ文化を破壊しようとしている」
そして、東ゴート族の法典の一節を付けくわえるのだった。
「祖国を裏切った者は、みな裸の木に吊されるのだ」
フェルスターは、ユダヤ人をおとしめるのに労を惜しまなかった。学校教師をしながら、時間をどうやりくりしたのかわからないが、「反ユダヤ」署名を26万7000もかき集め、嘆願書を添えて首相官邸に持ち込んだのである。
ところが、反応はゼロ。というのも、このとき、ドイツ帝国の首相は名宰相ビスマルク。彼のような合理主義者・現実主義者が、浮ついたイデオロギーに賛同するはずがない。というわけで、フェルスターの努力はムダに終わった。
一方、ニーチェの方は、病状が悪化し、バーゼル大学を辞職せざるをえなくなった。その後、ヨーロッパを放浪しながら、在野の哲学者として活動を続けた。
しかし、ニーチェの哲学は自らを破滅に追い込んだ。彼の哲理は、粗野で暴力的で、神をも怖れない、しかも、水も漏らさぬ論理で、一寸のスキもなくたたみ込んでいく。一瞬の安らぎも許さないのだ。
このような救いのない哲理は、ニーチェの女性観にも反映されている。37歳のとき、彼はこう書いている。
「真の男が求めるものは2つある。危険と遊びだ。それで真の男は女性を求めるのだ、もっとも危険な遊びとして」
ニーチェは街の女と遊んで****に感染したが、もちろん、それを言っているのではない。とすれば、皮肉な話ではないか。
また、このような女性観はニーチェの感情的未熟さをあらわしている。万華鏡のような女性の多様性、多面性を見ようともしないのだから。
話をフェルスターにもどそう。
乱闘騒ぎを起こした2年後の1882年、フェルスターは度を超した人種差別主義が祟って学校を追放される。一方、エリーザベトとの関係は良好だった。人の道に外れた反ユダヤ主義で盛り上がったのだろう。
そして、1880年、フェルスター夫妻にとって決定的な出来事が起こる。二人が信奉するヴァーグナーが「宗教と芸術」のなかで、もってまわった言い方で、こう主張したのである。
「高貴な人種と高貴ならざる人種との混合が、人類最高の特質を損ないつつある。アーリア人種の純粋さを保つことによってのみ、人種の復活は成し遂げられる ・・・ 食糧を供給するのに十分肥沃な『南アメリカ大陸』に人々を移住させることを阻むものは一つもない」
フェルスターはこれに飛びついた。
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/
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